自由作品18句「カカオの女(祝詞橋)」大西健司

『海原』No.51(2023/9/1発行)誌面より

自由作品18句

カカオの女(祝詞橋) 大西健司

〈カカオ句会の奥伊勢吟行会は先達奥山甲子男氏の蛇淵庵をお借りしての句会からスタートした〉

甲子男忌や人影の濃き祝詞橋
対岸のカラーの花も祝詞川
沙羅双樹は蛇淵のほとり祝詞川
蛇淵庵の句座へとうすみ蜻蛉かな
祝詞橋渡る長男は茶を摘みに
麦茶冷やしにいつもの池へ嫁女かな
クレソンの池へ浸せる大薬缶
蛇淵庵の窓から捨てた枇杷の種
巳の年の家系燕は来ぬという
あまご池増水崖を這う女
はずみて候蛍吊橋金平糖
山法師のコテージ女は手酌にて
少し堅めの干柿そしてハイボール            
山法師に濡れ讃岐のひとはしんにつく
鮎の頭も喰うたと讃岐の良き男
大ぶりな鮎を天啓のごと喰らう
やさしげな梅雨茸瀬音激しかり
甲子男似の男鮎釣竿を振る

『海原』No.51(2023/9/1発行)

◆No.51 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ブランコ天辺街のさみしき岬 伊藤道郎
竹皮を脱ぐや刺客の潜みいる 大池美木
くずおれる戦後の形はや暮春 大髙宏允
春日遅々ゴリラのように坐つている 大西宣子
芍薬や男ひとりになりたる日 河田清峰
花冷えやパソコンの音癌病棟 河田光江
健康のために歩いてゆく海市 こしのゆみこ
早苗取り年子の上はヤギの乳 小松よしはる
古希の友みな無冠なり啄木忌 齊藤しじみ
憲法記念日いつものご飯と味噌汁 佐藤博己
遠雷の近づいてくる駅ピアノ 重松敬子
私を改行している日永かな 白石司子
九十路ここのそじの栞よ出羽の橅芽吹く 鱸久子
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子
果て知れぬ野戦に咲いてモルフォ蝶 高木一惠
花菖蒲聞きわけのない吾といる 竹田昭江
ともだちは五月の風でまるい石 たけなか華那
青葉騒石の光と陽の光 田中亜美
あの世にはあの世の噂桜騒 田中信克
銃弾に向日葵欠けて白き闇 中内亮玄
あやとりの人差し指にある徂春 ナカムラ薫
AIに恋文書かせかげろえる 長谷川順子
風が木になる木が風になる大手毬 平田薫
草矢打つ百年先の真昼間へ 水野真由美
ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
蝶の昼モザイクかかる動画かな 三好つや子
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎
たんぽぽや余命おかしく樹木希林 森鈴
二人居てひとりの時間えごの花 茂里美絵
山に日が当たる芽吹きの樹の木霊 横地かをる

白石司子●抄出

深淵の青い鳥探す半夏かな広島サミット 石橋いろり
銀河に深く影を沈めて夜の新樹 伊藤巌
さなぎより出でてはつなつの風になる 伊藤幸
死ぬ数に入れず牡丹ゆたかなり 稲葉千尋
少年が少年いたわる花の昼 榎本祐子
鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝
白靴の写らぬ記念写真かな 小野裕三
夏蝶が来たので少し休みます 川嶋安起夫
本棚を逍遥すれば緑夜かな 河原珠美
あと何回会えるのだろうカーネーション 日下若名
果てしなく夕日が遊ぶキャベツ畑 こしのゆみこ
春雷や護憲派老いてまたも逝く 篠田悦子
春風邪にとどまっている前頭葉 清水茉紀
清明の朝の光の中に居る 関田誓炎
さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
人間を忘れた者ら野火を追う 立川由紀
雲雀の巣窮屈な靴脱ぎ捨てる 鳥山由貴子
ひばり灯って天地の回路つながったね 中村晋
残心の木遣唄沸く雪解川 並木邑人
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子
たけのこと棟梁ノコノコやってきた 長谷川順子
茅花流し軸なき僕らのおしゃべり 日高玲
みかんの花ほろほろ宮沢賢治の修羅 平田薫
白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
底なしの放心へひなあられポイポイ 堀真知子
くちなわも翁も螺旋五月来る 三好つや子
鳥巣立つ雲梯の揺れ明るく 村上友子
歯を磨くやう人戦さ鳥は恋 柳生正名
玉葱がぶらさがる軒戦はず 若林卓宣
籐椅子に父の骨格ありありと 渡辺厳太郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

くずおれる戦後の形はや暮春 大髙宏允
憲法記念日いつものご飯と味噌汁 佐藤博己
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子

 現在の日本への社会時評ともいうべき作品群。
 まず大髙句。戦後も七十五年を経て、かつて戦後復興とその後の高度成長、さらには低成長への屈折という時代の変化に伴い、今後どのような成長の姿があり得るのか、また物ばかりでなく精神の満足が得られるのかという様々な課題が生まれている。作者はこのような時代相を踏まえて、「くずおれる戦後の形」というフレーズを提出した。「はや暮春」は、その時代相の黄昏を憂えているように見える。こういう問題意識は、多くの人々に共有できるものだろうが、その答えは容易には見いだせていない。作者とてその一人であろう。今はその暮春の中に立ちすくむのみだが、「どうするのだ」という心の叫びだけは聞こえてくる。
 佐藤句。日本の憲法は、戦後GHQから有無を言わさず押し付けられたものだが、史上稀にみる理想的な平和憲法ともいわれた。すでに一世紀近い歴史の中で、その実践的意義について様々な議論が出てきているのも事実。しかし一般庶民にとっては、平和な日々に、いつものご飯と味噌汁さえあればそれで足りるのですという。どのような時代の中にあっても、ささやかな庶民の願いは変わらない。憲法記念日にも、ひたすら願うのはそのことのみですという。
 芹沢句。小池龍之介という僧侶が書いた『考えない練習』という本がベストセラーになった。いらいらや不安は練習で治せる、もっと五感を大切にする生活をしようというもの。この句は、その本の題名を逆説的にもじって、何事も先送りして考えない練習を積んでいる今の日本への、警世的な一句である。「春泥」は、そんな泥沼のような世相への批判となっている。

私を改行している日永かな 白石司子
AIに恋文書かせかげろえる 長谷川順子

 デジタル時代ならではの表現方法を使った作品。
 アナログ時代の文章なら、「私を改行」は、とても通じなかったに違いない。春の日永の一日。ふと、気分を変えて別の事に取り組もうとする。それを一日の時の流れの中での「改行」と捉えた。改行して新たなワードフレーズが始まるように、時の流れが変わる。パソコン上で、一日の日記を下書きするかのよう。
 「AIに恋文書かせる」は、確かに沢山の恋文を検索させて気の利いた一文を選べば、手軽に量産できよう。だがそれで、心情が本当に伝わるのだろうか。貰った相手も逆検索できるわけだ(陰に声あり「そうかあの手で来たか」)。下五の「かげろえる」は、その恋の行方を暗示しているようだ。

ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎

 海原の新感覚派の句。「ゆうがお」が、「電話いきなり切られた顔」とは、いわれてみてあっと驚く。夕暮れに花開き、翌朝にはしぼんでしまう夕顔。電話を一方的にいきなり切られてしまったショックは、しばらくは収まるまい。それは朝のゆうがおの表情。切られたのは電話だが、その表情には傷跡が残っている。
 みみたぶの句。大きな出目金が、みみたぶのような尾鰭をひらめかせて泳いでいる。ちょうど雨の午後、家の中は皆出払っていて、金魚がひとり留守番然と控えている。よくある景ながら、その空間に澱む倦怠感アンニュイがなんともやり切れない。金魚としては知ったことではなく、雨の午後の中に、ひっそりと浮かんでいるばかり。

青葉騒石の光と陽の光 田中亜美
ともだちは五月の風でまるい石 たけなか華那

 石を素材にして夏の季節感を詠む、異色の知的感性。
 田中句には、光の射影構造がある。今現に与えられている光の、青葉の一群を照らし出す仕組み。それは「石の光」と「陽の光」として捉えられた。「陽の光」は自然の陽光。「石の光」はその自然光を受けた反射光。それによって、「青葉騒」は青葉の渦となった。
 たけなか句。この「ともだち」は、おそらく幼馴染の同性の友だろう。「ともだち」の平仮名表記がそのことを暗示する。久しぶりに出会った印象だ。「五月の風」の爽やかさと、「まるい石」の懐かしさ。石蹴りをしたり、川の水切りをした「まるい石」が、二人の絆のように思い返される。「ともだちは」は、「おっ、ともだち」の感じ。

あやとりの人差し指にある徂春 ナカムラ薫
 ハワイ在住の作者だが、時々珍しい季語でチャレンジしてくる。「徂春」は、「行く春」のこと。歳時記によると、行く春は、過ぎ去る春をめぐり流れる時間として捉えるもので「春の暮」の過ぎ去る時を空間的に捉える季語や、「春惜しむ」の人の心を捉える季語とは風合いが異なるという。「あやとりの人差し指にある」という風情は、異国から指し示す郷愁を孕んでいるともいえよう。その郷愁は、「あやとり」によって幼き日へ帰っていく。

風が木になる木が風になる大手毬 平田薫
 花つきのいい大手毬が風にゆれている様は、盛り上がるような美しさに揺れる。その揺れざまを、「風が木になる木が風になる」と繰り返す。その繰り返しは擬人化をともなうようで、どこかなまめかしい。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

銀河に深く影を沈めて夜の新樹 伊藤巌
 音感を伝える音節からすれば七・七・五、意味を伝える文節からすれば十四・五の破調であるが、兜太師の言われる「音節と文節がどこかに軋みを残しつつも、それがかえって魅力となっている」句。例えば、「夜の新樹銀河に深く影沈め」と倒置法を活用すれば定型に落ち着くが、上五に遡行するため「銀河に深く影を沈め」は「夜の新樹」の説明っぽくなってしまう。「沈めて」と「て」で軽く切ることで間が生まれ、深く影を沈めているのは夜の新樹のみでなく他にも、と想像が広がってくる。

さなぎより出でてはつなつの風になる 伊藤幸
 幼虫から成虫に移る途中の休眠状態の「さなぎ」が地上に出て風になるという、実から虚へと想像力を羽ばたかせた句であるが、静から動、暗から明への解放感がまさに清々しい「はつなつの風」なのである。また、意図的な「となる」ではなく、自然推移的な変化の結果を示す「になる」としたことで、目に見えぬ風と一体化した姿もうかがえる。それは作者の願望なのかもしれない。

鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝一
 呼びかけのような「鴎かもめ」のリフレインが、海原を自由に飛翔する姿を印象づける役割を果たし、中七・下五へと続くことで、鴎に触発された作者が、人間も物もまわりにあるもの全てをやさしい春の言葉として受け止めていることが伝わってくる。「みんな」「です」の口語調も一句を明るいものとさせている。

夏蝶が来たので少し休みます 川嶋安起夫
 原因・理由を示す接続助詞「ので」であるが、説明的にさせていないのは季語「夏蝶」の斡旋にある。気力や体力を養うための休みはもちろん必要だけれども、そうはいかない場合もある。でも、大型で美しくインパクトのある夏蝶がやって来たので、少しくらいなら許されるかなと思わせるような句だ。

あと何回会えるのだろうカーネーション 日下若名
 導入部「あと何回」が、作者との関わり合いを想像させ、最後にカーネーションにたどりつくので、その会いたい人は母と考えていいだろうか。上六であるが、「何度」ではなく、「何回」としたことで、今後も規則的に継続、反復することが予測されるのである。会える時間を大切にして欲しいと思う。

果てしなく夕日が遊ぶキャベツ畑 こしのゆみこ
 上五「果てしなく」が、時間的、空間的な広がりをまずイメージさせる。そんな広大なキャベツ畑の中を夕日がゆったりと遊んでいるような景が見えてくるのであるが、日常から離れ、解放感に浸っているのは作者自身なのかもしれない。

さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
 「回想」を「乗り物」と言い換えたのがこの句のすばらしさである。明るくなごやかなはずの囀りの声に触発されて作者は過去を回想し、時空を超えて行き来する乗り物のようだと感じたのである。「ゆれ」は作者の心象と考えたい。

人間を忘れた者ら野火を追う 立川由紀
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子

 害虫を駆除するための「野火」を「戦火」となぞらえ「人間を忘れた者ら」が追うとし、眼前を舞う花吹雪に対し「なべて戦場埋め尽くせ」と命令調で叫ぶ、それは兜太師の言われる「自分を社会的関連のなかで考え、解決しよう」とする「態度」であって、「社会性は俳句性と少しもぶつからない」のである。

雲雀の巣窮屈な靴脱ぎ捨てる 鳥山由貴子
 地表に巣をつくり、飛び立つときは鳴きながら真っ直ぐに空に舞い上がる雲雀、いや、作者、あるいは誰かの巣立ちと考えていいだろうか。地上を歩くには必要であるが、ときには窮屈でもある靴。そんなもの全てを脱ぎ捨てて自由な大空へ!

ひばり灯って天地の回路つながったね 中村晋
 「ひばり灯って」という明るい切り口であるが、一句全体からは大切な人との別れなど重いものを想像させる。「天地の回路つながっ」て充足感が得られただろうか。

茅花流し軸なき僕らのおしゃべり 日高玲
 高校生と接する機会も多く「軸なき僕らのおしゃべり」に共感。個で行動することもできず楽しそうに群れているが、何かトラブルがあると「軸なき」なのだ。それが茅花の花穂を吹き渡る熱を孕む南風「茅花流し」と合う。

白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
 兜太師の「人体冷えて東北白い花盛り」を思わせるが、物理的ともいえる師の句に対し、どちらかといえば心理的。「白花黄花」が一句を印象明瞭なものとさせ、「豊かな胸である」の断定が津軽の包容力を感じさせる。

◆金子兜太 私の一句

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太

 この句から希望と元気をもらっている。曼珠沙華の真っ赤な色と秩父の大地を駆け回る腹出し子らの逞しい生命力。激動の昭和、子供達の未来に師の温かい眼差しが注がれている。あるがままの運命を背負い「戦よあるな」と師の怒髪が天を衝く。禅僧のようにゆったりと茶を全身に沁みわたらせ、眼鏡の奥の細い目から童心をちらり、ユーモアたっぷりの兜太節、そこにはよく生きた証の顔がある。句集『少年』(昭和30年)より。樽谷宗寬

わが世のあと百の月照る憂世かな 兜太

 「花唱風弦かしょうふうげん 俳句をうたう」この兜太句を作曲して、歌った衝撃は忘れられない。それまでも自作の句をメゾソプラノの私が歌い、作曲家でギタリストと演奏をかさねていた。が、兜太俳句の凄まじい、その言葉の腕力﹅﹅﹅﹅﹅は、歌い手の心身に膨大なエネルギーを迫る、と体感。「百の月はだな、三日月や満月、月の形のいろいろだ」と兜太先生。上野奏楽堂で聴いていただけたのもうれしい。『金子兜太全句集』収録の未刊句集『狡童』より(サブタイトルは「詩経国風によせて」)。山本掌

◆共鳴20句〈6月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

木下ようこ 選
熱下がるまではこべらを摘みにけり 石川和子
雨音や撫でてから切る韮の束 伊藤歩
大枯野ヒトは部品を取り替える 大沢輝一
煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
○還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
中途からずるい音する冬林檎 小野裕三
桜蘂降るしっかり残る和紙の皺 北上正枝
春菊に花愛妻が夢に立つ 瀧春樹
あっほらいまたんぽぽの絮彼女だろ 竹本仰
五、六人雀隠れのお弔い 遠山郁好
○夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
ヒールを這い上る絨緞の記憶 日高玲
柚子の黄いろが内がわにいっぱい 平田薫
兜太忌やみかんの種から芽が出てきた 藤野武
○白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
恋はいいから春をください普通の春 松本千花
流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
文机はわたしの港ヒヤシンス 宮崎斗士
胸びれに尾ひれのふれて春の宵 望月士郎
まだ知らない筋肉もありお雛さま 茂里美絵

十河宣洋 選
山国の父の座標の切株です 有村王志
黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
○ステージ4妻の言葉はシクラメン 稲葉千尋
春愁い消される「ゲン」の記憶かな 川崎益太郎
雪の樅集中力として幹は 北村美都子
看りて帰り雪のひとひらは私 黒岡洋子
雪解けやアイヌ史語る女子高生 黒済泰子
黒板は緑イタチがいなくなったから 佐々木宏
春はやて武士の顔した犬がゆく 佐藤詠子
空飛ぶ車「おーいおーい」とつくしん坊 鈴木千鶴子
子猫抱きわたしふわっと浮く感じ 高橋明江
○夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
菜の花やむくむく御洒落始める気 中野佑海
水になれただ早春の水になれ 野﨑憲子
たらの芽を落とすブーメランのような枝 疋田恵美子
条件反射的反論寒いなぁ 松本千花 
わたくしの瞳に棲んでる犬ふぐり 三浦二三子
早蕨がグーを出すからパーを出す 望月士郎
大根干す北斗七星の右隣 森岡佳子
日捲り晦日あっあっあっあああ 森田高司

滝澤泰斗 選
ブチャは雪焦げた戦車と痩せた犬 綾田節子
二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
その昔戦犯と言われし父のさくら咲く 泉尚子
梅咲けばそこに師が居る兜太の忌 伊藤巌
中村哲てつさんは野の白梅の白だった 伊藤道郎
○ステージ4妻の言葉はシクラメン 稲葉千尋
菜の花忌きな臭くなる日本海 上野昭子
水を引く朝の光を鴨は引く 内野修
春耕や地球に爪立て揺り起こす 漆原義典
○還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
今すでに「戦前」なりしか多喜二の忌 岡崎万寿
皮手袋情死のように重ねられ 桂凜火
梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
異次元の少子対策山笑う 佐藤二千六
白ナイル青ナイル春光老身を射ぬく すずき穂波
大腿骨ごつんごつんと雪を割る 十河宣洋
ちちははを天に並べて梅真白 月野ぽぽな
山笑う埋めては掘って埋める除染 中村晋
二番手を誇る北岳雪の晴 梨本洋子
野は冬の水照りウクライナ耐えてあり 野田信章

三浦静佳 選
夜遊びを胎教と言う朧かな 石川和子
ふるさとの山に横顔ある遅日 伊藤歩
能代は雪降らず吹雪かずぶっかける 植田郁一
実朝忌石段ふいにこわくなる 尾形ゆきお
大江氏逝く隣りで妻は寝ています 今野修三
日脚伸ぶ帰り道です寄り道です 佐藤博己
耕して湯船ひつぎと思ひけり 髙井元一
雪降るや故郷の時刻表をもつ 高木水志
愛嬌とは服の皺々と春の風 董振華
老人と春風溜まるイートイン 根本菜穂子
顔認証して湯豆腐に口を焼く 日高玲
○白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
刺の無きこともさみしき薔薇の束 前田典子
梟の鳴く夜暗号を読み解く 前田恵
春の昼掃除ロボット座礁中 嶺岸さとし
大根干す同級生の曲る腰 森鈴
仁王像その臍あたり冬ざるる 梁瀬道子
つぎはぎの土器らささやくやうな東風 山谷草庵
葬後の明るい家具と亡き母の食器 夜基津吐虫
日脚伸ぶ新製品の耳搔き器 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

熱下がるまではこべらを摘みにけり 石川和子
 幼い頃、小鳥の擂り餌用に、祖母とはこべを摘んだ。昨今、人は発熱に敏感となり自分の身体と気持ちをゆらゆら見つめ不安をつのらせる。けれどどんな時であっても作者ははこべらを摘めばきちんと本来の自分に戻れるのだ。大丈夫、はこべらを摘めば。その安心感。はこべらという植物のゆかしさが句に奥行きを与えている。
 
ヒールを這い上る絨緞の記憶 日高玲
 その絨緞はオペラの演奏会場のそれのようだったのか、それとも倒れた椅子や結束バンド(!)が散らばる薄い擦り切れた絨緞だったのか。ともあれ、その時ハイヒールをはいていたのだ。這い上る、という言葉が素晴らしい。美しいふくらはぎを感じさせる。その記憶は永く永く女性の人生を楽しませ、苦しませ、強く生きさせる。

胸びれに尾ひれのふれて春の宵 望月士郎
 むっちりとした春の宵。豊かな尾びれが胸びれに触れる。何となまめかしいその曲線。と楽しみつつも、え、尾ひれ? 尾ひれってつきがちですよね、この頃。ポーッとしていれば自分の大切な胸びれに無断で尾ひれが触れちゃったりもする今の時代だけど、それでも変わらずに美しく、哀しい大人の春の宵であるなぁ、とか大妄想。惹かれます。
(鑑賞・木下ようこ)

山国の父の座標の切株です 有村王志
 切株がいくつもある光景。造材の現場の風景である。切株を見ながら父が育てた樹木を思っている。その切株から父の顔や背中が見える。
 父は頑固な山の人だった。木を愛し木を育て、木と過ごした人である。切株の座標は原点でもあった。

夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
 心に沁みる夕焼けである。一生忘れたくない、そんな印象を持つ夕焼け。花束を幾つも貰ったような夕焼けが自分とあたりを包んでいる。そんな気持ちのような約束。
 どんな約束と聞くだけ野暮。大切な自分の行く末を決める大切な約束である。大きな約束がでんと胸に響いてきた。そんな印象を受けた。

菜の花やむくむく御洒落始める気 中野佑海
 御洒落始める気がいい。この「気」が菜の花と作者に掛かって気持ちよく読める。
 春である。菜の花が咲き始めている。いちめん黄色の染まる気配。まさにむくむくである。それを見ている自分もむくむくと湧いて来たのである。御洒落をして出かけたい。出かけなくてもいい。御洒落して皆を驚かそうという悪戯心が楽しい。
(鑑賞・十河宣洋)

今すでに「戦前」なりしか多喜二の忌 岡崎万寿
 昨年末のテレビ番組「徹子の部屋」のゲストだったタモリ氏が語っていた……2023年は『新しい「戦前」がくるんじゃないか』と思う……を踏まえてかどうかともかく、作者同様「戦前」の雲行きを疑わない。時事俳句は詩情から離れるが、こういう句は貴重だと思う。

山笑う埋めては掘って埋める除染 中村晋
 東北新幹線、あるいは、東北道を北上して福島に入ると、黒っぽいフレコンバックが所狭しと並ぶ光景が目に入る。前の句同様に、国は、行政は何をやっているのか。原発の安全性が担保していないのに、新たな原発再稼働を決める政府を山も笑っている。

二番手を誇る北岳雪の晴 梨本洋子
 山好きにとって霧ヶ峰高原から見る360度の大パノラマ程わくわくする場所はない。特に、そこから見る富士山から手前の北岳、甲斐駒の南アルプスラインは見飽きることがない。小説「マークスの山」と共に永遠なれ。信州出身の一人としてこの句の出会いに感謝します。
(鑑賞・滝澤泰斗)

夜遊びを胎教と言う朧かな 石川和子
 友人に誘われて夕食に出たり、お仲間でカラオケだったり、妊婦でも出掛けることはあるだろう。世代の違いもあって身体を案じる母に、「胎教だってば〜」と躱すあたり「心配しなくていいよ」との気持ちがちゃんと伝わっているのだ。季語が母の気持ちをよく表している。筆者、妊婦だった頃を思い出してしまった。

白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
 ふむふむに惹かれた。四分の一とか半分とかにカットされてない一個の白菜を剥いでいる作者。白菜の葉は美しいし観察している姿が想像できて愉しい。また、ふむふむは調理の具材ともとれる。読み手が自在に想像できて優しく柔らかな句になっている。

仁王像その臍あたり冬ざるる 梁瀬道子
 山門の両脇にしかめっ面をして歓迎してくれる仁王様。夏は風通しよくて涼しげなのだが、冬は気の毒だ。仁王像全体が冬ざれているのだろうが、臍あたりと焦点化している上手さ。もしかして作者の心を反映していないだろうか。彼岸でもお盆でもない冬ざれの時期に山門をくぐる。大切な人との訣れが作者に冬ざれの感を強く抱かせたのかも知れない、などと読みを広げてしまう。
(鑑賞・三浦静佳)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

また君が踏んでしまいぬ落椿 あずお玲子
花筵をみなのあうら酔ふてをり 有馬育代
辛くともくゆる夜の日本酒おぼろ 飯塚真弓
骨董市でピエロに会釈され青葉 石鎚優
魚捌く手の匂い嗅ぐ春うらら 井手ひとみ
遅き日や悲憤の切れ目どこにも無い 伊藤治美
大杉の影を透かして植田かな 扇谷千恵子
マスクとれば口といふもの喋り出す 岡村伃志子
蟬待たな栴檀緑深めたる 押勇次
艶話芥川にも有る夏野 かさいともこ
椎の花裏参道は畑の中 古賀侑子
狐面はずせば狐宵宮かな 小林育子
草笛を吹き鳴らしつつ逝くもよし 佐竹佐介
惜春の坩堝人間に死はありや 清水滋生
わたくしの内なる異国ほうほたる 宙のふう
「父の日」の父に賜る海苔弁当 立川真理
春驟雨過ぎ我が道の天に向く 藤玲人
薔薇愛でるために使わぬ指のあり 福岡日向子
悪玉は伝説となり立版古 福田博之
春宵の画家の来し方風の径 藤井久代
山繭の糸つむぐ安曇野日和 増田天志
あのベンチが見えるここに勿忘草 松﨑あきら
新涼や空と身体の境なし 村上舞香
花茨猫の嫉妬は本に尿 横田和子
蔓草の赤黒きさね淀に浮き 吉田貢(吉は土に口)
新緑に肌色明るく親族集合 吉田もろび
パンドラの胸に不死身の蛇タトゥー 路志田美子
薫風を高僧の列木霊すだまの讃 渡邉照香
ずぶ濡れの森ずぶぬれの足桜桃忌 渡辺のり子
柿若葉ひかりと影がくすくすと わだようこ

『海原』No.50(2023/7/1発行)

◆No.50 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

柿の木に梯子の架かったまま空き家 有村王志
舐めてみたよ春耕あとの黒き土 伊藤幸
鉄線花背凭れのない椅子の暮し 井上俊子
ムツゴロウ少し居眠りしたそうだ 大髙宏允
樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
水底に遺棄の自転車花筏 尾形ゆきお
花筏歪みガラスに舞妓笑む 荻谷修
椿落つ口を噤んでいた者へ 片岡秀樹
さえずりの聞き倣し祖父の車椅子 狩野康子
文末は笑顔の絵文字春うらら 川嶋安起夫
春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
春日傘閉じ落丁のよう真昼 三枝みずほ
放浪を終えて野菜のみずみずし 佐々木昇一
洗濯を取り込むように春終わる 佐藤詠子
マスクとり言葉をえらぶ日永かな 鈴木栄司
夕富士の天衣素なりし花祭 高木一惠
つるばみの花美し遠く縄文期 鳥山由貴子
柚子ほどの夜神楽明かり上流に 野田信章
天も地も菜の花盛り野辺送り 疋田恵美子
花の雨忘れぬための探し物 平田恒子
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
月おぼろだんだん木綿豆腐かな 増田暁子
微熱もすこし春愁ってくすぐったい 三世川浩司
兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
パレットに油彩のもがき養花天 三好つや子
秩父銘仙母に春の手紙を書こう 室田洋子
人ひとひら桜ひとひら小さな駅 望月士郎
ずっぽりと昭和を生きて陽炎える 森由美子
九十歳天道虫の一光線 横山隆

白石司子●抄出

再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
著莪一面不安分子の潜む星 奥山和子
青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
紙のひかり初うぐいすが捲ります 川田由美子
産声のようにバラの芽ふと加齢 金並れい子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
言葉のように灯る紫陽花カフェテラス 小林まさる
防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
師へ抛る桜白鷺わが川音 高木一惠
塩・兵士・凍土・泥濘春逝けり 田中亜美
獅子頭重ねる花弁の平和積むごと 谷口道子
春暁の浅き眠りを野といえり 遠山郁好
さくら狩だんだん父母の透けてゆく 永田タヱ子
前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
マスク外してみんな木の芽になっている 丹生千賀
春どかと来て去る秩父師の墓前 野田信章
野焼きから人は黒衣のように出る 長谷川阿以
龍一逝く全春星を聴き取りたし 北條貢司
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
木の芽張る山はひたすら水を生み 前田典子
春月のぐらり脚から眠くなる 三浦静佳
微熱もすこし春愁ってくすぐったい 三世川浩司
春の霧晴れて武甲山ぶこうはきれいな返事 室田洋子
こめかみに残り火めいて蜃気楼 茂里美絵
忘れ物して遅刻して桜 山下一夫
桜月夜ぞわりと地球傾いた 山本掌
花の夜のビル一面の室外機 山本まさゆき
自己愛のうっすら点る朧の夜 横地かをる
死んだことないから平気チューリップ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

柿の木に梯子の架かったまま空き家 有村王志
 地方の過疎化の実態を、リアルな風景として提示しながら、その現実を沈黙の抗議の形で指し示している。つい昨日まで、柿の木に登って実をとっていたのに、今日はその仕掛かり状態のまま、空き家になっていた。かつては「逃散」といわれたような突然の変貌にもなりかねない危機感である。作者はその一つの兆しを直視して、地域消滅への警鐘としたのではないか。同時発表の作に、「限界村落殺意のはしる薄氷田」がある。この問題意識の延長上に、掲句があると見てよかろう。

樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
 二〇〇七年に最愛の奥様を亡くされた作者は、ほとんど毎年のように妻を偲ぶ句を作っておられ、哀悼の思いは年とともに深まるばかりのようだ。奥様は樹木葬にされたらしく、すでに十五年の歳月を経ているが、墓碑が樹木だけに身近に手入れをされ、生きている対象として日々呼びかけられている。花粉の飛び交う時期には、ひとこと花粉症で迷惑しているよと小言を言ったりする。それをしも亡妻との生々しい命の交感として、今なお心の中に生き続けているのではないだろうか。

春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
 竜胆は多年草で、晩秋に花が咲く。掲句は「春竜胆」だから、まだ芽吹いたばかりの草花なのだろう。「ひとりひとり」は、竜胆を擬人化したものとも、あるいは竜胆の草原を人々が三々五々歩いている景とも読める。句の味わいとしては、その双方を重層的に読み込んでいると見てもよいだろう。「気流」はその二つの命の混然とした意識の流れのようにも見える。川田さんの句には、時々こんな直感的な映像が立ち上がってくる。

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 具体的な景は見えず、ただ三月の陽射しの光を浴びて立っている。身体は空間との相互作用によって動かされ、そのことによって精神のはたらきが生まれる。それは内と外を区別する感応なのだが、今の作者は、光まみれになることで区別の意識が働かず、自分自身外界の光の中に溶け込んでいる。それゆえに自身の存在を意識し得ないような、光まみれの交感に身を委ねているのだろう。

マスクとり言葉をえらぶ日永かな 鈴木栄司
 長いコロナ禍からようやく解放の兆しが見えてきたので、久しぶりにマスクをとって話をしようとする。マスク無しに話をするのも久しぶりのせいか、なにやら改まった場に引き出されたような感じで、ついつい言葉を選びながら発言してしまう。折しも時は春の日永。身辺の物の動きからも、日永の暮らしに入ったことを、自分自身にも言い聞かせながら、言葉を選んでいるのだろう。

柚子ほどの夜神楽明かり上流に 野田信章
 昨年十二月二十八日に、七十四歳で亡くなられた宇田蓋男氏追悼の五句のうちの一句。宇田氏在住の宮崎県延岡では、毎晩のように夜神楽が演じられている。作者は宇田氏とともにその高千穂神楽を見に行ったのだろう。その時の体験から、柚子ほどの夜神楽明かりを川の上流に目指しながら歩いた思い出を句にした。「柚子ほど」という喩が、ほのぼのとした宇田氏の印象と重なって、夜神楽の明かりに映えていると見たのだ。

花の雨忘れぬための探し物 平田恒子
 花の雨は、桜の花に降る雨で、花の風情を深めるとも言われている。一方、年とともに物忘れは多くなり、日がな一日物探しに費やすことが増えてくる。そんな時、探し物になりそうな大切なものをあらかじめ確かめておく。それは「起き伏しの不確かな日々風信子」への備えとしておくことにもつながる。作者は日々のよろこびを味わい尽くすために、先々忘れぬための大切な物を花の雨降る日にも探しておこうとしている。

兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
 今年三月、秩父で行われた兜太祭での一句かもしれない。先生が亡くなられて五年になるが、今も秩父へ行けば、あの山河に先生が臨在する息吹を感じるに違いない。やがて春になり、山河には金縷梅や山茱萸の花が咲く。春は先生に大きな椅子を用意してくれているようにも見えてくるという。そういわれれば、たしかに先生の魂は、秩父の山河に満ち満ちて、その大きな胡坐の中に、私たちをすっぽりと包んで下さっているような気がしてくる。兜太先生を偲ぶに相応しい大きな句だ。

九十歳天道虫の一光線 横山隆
 九十歳は、卒寿である。その年に達しての感慨の一句であろう。「天道虫の一光線」とは、その生涯を振り返って過ぎ越し方を一望しているのではないか。「天道虫」は自分自身のこと。はるけくも来つるものかなとは思っても、本人にしてみればいつの間にやらやって来ましたということではないか。先のことは「死んだことないから平気チューリップ」というから、まったく気にもしていない。人生百年時代を楽しみながら生きている人。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
 春といえば出会いと別れの時節であるが、この句の「再開」をそんなありきたりなものとさせていないのは、季語「春の濃霧の」の斡旋にあると思う。春の夜のぼうっとした朧ではなく、奥行があり何となく冷たい感じの「霧」、しかも「濃霧」であるから、その再開はもう会うことの叶わぬ人、つまり、いまは亡き父か母と考えていいだろうか。言葉を必要としない「抱擁」は作者の内部の現実、超現実であったのかもしれない。

著莪一面不安分子の潜む星 奥山和子
 一日で枯れてしまうが、新しい花を次々と咲かせる一面の著莪の花。「胡蝶花」の別名通り胡蝶の舞うような美しい眼前の景から中七・下五への飛躍は兜太師の言われる「創る自分」の想像力によるもので、種を作らないにもかかわらず根茎を伸ばして広がる「著莪」から、「不安分子」の潜む星、地球を連想したのである。

青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
 「青き踏む」、「青き環流」の「青」のリフレインが青色の持つ爽快感、解放感、安息などを強く印象づけているが、地球全体にわたるような大気や海流の循環を意味する「環流」をもってきたところがこの句の眼目である。青々と萌え出た草を踏むことでそのパワーは作者の足裏より全身へ、いや、地球規模の大きな流れへとイメージを広げていけば、まだまだ大丈夫!というような元気が湧いてくる。

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 終わりと始まりの時期である「三月」の中でふと作者は「不在感」を抱いたのだと思うが、中七「光まみれの」をどのように解釈すればいいだろう。希望、栄誉、美などの象徴でありながらも「影」を連想させる「光」、また、「汚いと感じられる物が一面にくっついている状態」を表す「まみれ」から考えれば、明と暗が表裏一体である、永遠ではないものに対する作者の空虚感みたいなものを一句全体から味わえばいいだろうか。

水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
 洗うという行為からすれば清めるものとしての「水」であるが、洗われる方からすれば「汚さるるものとして」の「水」であり、単なる発想の転換のようであるけれども、透明感のある「水」、「水」の繰り返しがその汚れを余計に際立たせ、もしかしたら此の世にあるもの全てが汚されるために存在しているのかもしれないと思わせるような句だ。また「水汚さるるものとして水菜洗う」ではなく、「水菜洗う水汚さるるものとして」の倒置法の活用が説明的でなく詩的な表現にさせている。

言葉のように灯る紫陽花カフェテラス 小林まさる
 梅雨を代表する花で何となく淋しげな雰囲気の漂う紫陽花であるが、そんな月並な表現ではなく「言葉のように灯る」としたところがこの句の発見、また、開放的なカフェテラスという場の設定も斬新。時として刃ともなる言葉であるが、我々を優しく照らしてくれるようなものもたくさんある。

防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
 この句から社会性は「俳句性を抹殺するかたちでは行なわれ得ない。即物﹅﹅は重大なテーマである」という兜太師の言葉を思った。ロシアのウクライナ侵攻により浮上してきた社会的事象「防衛論」を「湿気る」と捉え、不快な虫の代表ともいえる「蠅」を即物的に「生れる」とし、そのふたつの事柄を助詞「し」で並列することで作者の「社会的な姿勢」が窺われるのである。また「し」の脚韻も効果的で強調効果のみでなく他を予想させる。

春暁の浅き眠りを野といえり 遠山郁好
 「春暁の浅き眠り」は「春眠暁を覚えず」、「春はあけぼの」に通じる春の朝の心地よさを想像させるが「野といえり」の場面の転換が野趣的で広くのびやかな感じを抱かせる。また「という」ではなく「といえり」の完了存続の助動詞「り」がそういえば春の明け方の浅い眠りを「野」と言っていたなと我々を妙に納得させてしまう。

前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
 「前線」といえば美しい桜の開花を待ち望む人達は「桜前線」を先ず想像するかもしれない。しかし作者は戦闘の第一線を思ったのである。また、「桜は母だろう!前線と呼ぶな」と倒置法を活用した句だと考えれば、「母から生まれた者たちがお互いに闘い合ってどうするのだ」という悲痛な叫びさえもこの句から聞こえてくるのである。

死んだことないから平気チューリップ 横山隆
 年齢と共にまわりの人がいなくなり淋しくなるが、確かに我々は「死んだことない」のである。しかし素直に「平気」とはなかなか言えない。この作品の次に「九十歳天道虫の一光線」があり、俳句と共にある人生も悪くないなと思う。色とりどりの明るいチューリップとの取り合せも効果的だ。

◆金子兜太 私の一句

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太

 団塊世代の学生運動の、何にでも「ナンセンス ナンセンス」連呼の中で、兜太俳句との出会いは目から鱗とはまさに言い得た感動で、それは当時出していた個人誌を「無神」と改題。先生に認知頂いたくらいである。その五○号では、巻頭に先生から「ムシン応援歌」を、活字ではなく推敲の跡のあるままの、率意の書を戴いている。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。市原正直

粉屋がく山を駈けおりてきた俺に 兜太

 ”皇太子妃に民間の女性”その父上の煩悶。この句は戦後の一大ニュースに想を得られたのか御尋ねすると、師は煙に巻いて仕舞われるのでしたが……。男性が慟哭するほどの事態、それを受けとめる俺、俺の胸は疼く、内なる痛みを伴って。五七五にピタリと嵌った言葉は読み手の想像力をかきたてる余裕を持ち、大胆な作品だと感嘆いたします。指針としたい一句です。句集『金子兜太句集』(昭和36年)より。東海林光代

◆共鳴20句〈5月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
人間ヒトに生まれ人間ヒトの途中屠蘇を酌む 伊藤幸
柩車停め霧の琵琶湖を見せている 植田郁一
まっさらのままでもいいね初暦 江良修
柚子ふたつ近づくこれも晩年か 大髙洋子
繰り返す昭和の戦前雑煮食う 岡崎万寿
灯台の冬月トウシューズの鈍色 川田由美子
減量のボクサーみたい臘梅かぐ 木下ようこ
No・warジャーッと鍋にゴーヤーチャンプルー 黒岡洋子
○かかはるとめんだうになる暖炉のやう すずき穂波
初日記月との出会いいつもシャイ 遠山郁好
ウクライナフクシマ雪を積む切株 中村晋
黒手袋はめて原爆資料館 長尾向季
焼き芋が卓上にある齢かな 疋田恵美子
初しぐれピアノを棄てた森の奥 日高玲
でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
外交の握手墓碑の群は凍り 前田典子
一葉忌いちばんいい顔が泣き顔 宮崎斗士
日捲りの最後の一枚レクイエム 森田高司
黄を宿すマザーテレサの冬薔薇 森武晴美
美辞麗句きっぱりやめて寝正月 渡辺厳太郎

大髙宏允 選
そのほかをたいせつにして雪つもる こしのゆみこ
雪霙十七音の鐘を打て (スズタリ・修道院) 小松よしはる
声だれにとどくのですか雪虫 三枝みずほ
父と雪山いつも何気なく座る 佐々木宏
乱読の如き夜景や東京冬 篠田悦子
○白わびすけぽっと点りて少年性 芹沢愛子
たましひのえにしの雑煮一家族 ダークシー美紀
梟の眼の全景未来の吾 立川由紀
存在のないようで在る冬青空 田中裕子
枯野ゆく風の呪文を聴きながら 月野ぽぽな
愚かさの濃度を加え今年酒 董振華
懐しはかなしいに似て兎に 遠山郁好
○夜爪切るとき寒鯉のくらき淵 鳥山由貴子
抱き損ねた形に桜寒々し 中内亮玄
火の鳥やおかしな谷間から狼 野﨑憲子
イエスの心よりきよらかか大氷柱 マブソン青眼
充分に大根じゅうぶんに巨塔 茂里美絵
○昏睡をチューブにつなぎ霜のこゑ 柳生正名
履歴書を枯野明りに書いている 山下一夫
吾が死後は宇宙の深山に遊ぶべし 夜基津吐虫

野口思づゑ 選
素因数分解とは鮟鱇吊られけり 綾田節子
七分は待てないナマコがきてしまう 泉陽太郎
室咲きや粛粛と夫婦を努める 井上俊子
「のろのろ元気」九十歳の年賀状 大西宣子
黙食やわざとぶりこを鳴らす父 加藤昭子
サクマドロップ白きミントの氷点下 佐藤千枝子
水澄むや楷書のごとしわが生活くらし 佐藤稚鬼
着ぶくれて今日何も彼も大雑把 篠田悦子
海光をはるかに大根漬けにけり 菅原春み
○かかはるとめんだうになる暖炉のやう すずき穂波
いま書ける言葉を探し新小豆 菫振華
笹鳴きや母ゆっくりと回れ右 根本菜穂子
弾を抜いた言葉でおおでまりと言えり 北條貢司
綿虫に好かれるタイプ心配性 松本千花
戸籍謄本われにはあらず鰯雲 マブソン青眼
一瞬にして遺品よ母の羽根布団 三浦静佳
1月は影がかしこいこの部屋でさえ 三世川浩司
芋虫のそれは淋しい太り方 三好つや子
キーウに凍月続くお笑い番組 森武晴美
亡き人に無性に腹の立つ夜長 森由美子

三好つや子 選
こがらしに顔を預けてきたところ 石川まゆみ
道行に落葉を降らす役目かな 榎本祐子
取箸が親鳥のやう薬喰 河田清峰
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子
消えゆく機影あれは冬こだま 佐々木宏
前頭葉に居すわっている冬の霧 佐藤君子
野遊びのつゞきのようにちらし寿し 重松敬子
○白わびすけぽっと点りて少年性 芹沢愛子
裸木を編み込むように復興す 舘林史蝶
○夜爪切るとき寒鯉のくらき淵 鳥山由貴子
産土へ冬銀河渋滞してる 西美惠子
雪ばんば未生以前に別れたきり 野﨑憲子
あれは蓋男氏十二月のキリギリス 服部修一
命日の卵買ひ足す寒さかな 前田典子
ぱっかんと割れて新年髭を剃る 松本勇二
腹式呼吸ゆっくりロウバイから明ける 三世川浩司
梟に顔のない日がときどきある 茂里美絵
○昏睡をチューブにつなぎ霜のこゑ 柳生正名
レコードのB面が好き雪女 梁瀬道子
時雨るるや燃えさしの身を終電車 矢野二十四

◆三句鑑賞

柚子ふたつ近づくこれも晩年か 大髙洋子
 この句、拝見して直ぐに柚子湯が浮かんだ。そして濃厚なエロスを感じた。乳房に近づく柚子ふたつ、男には書けないこの句。中七の「近づくこれも」が晩年を否定しているようにも思える。作者を知らずに批評するのは恐いが、柚子ふたつ近づく嬉しさとも採れる。

繰り返す昭和の戦前雑煮食う 岡崎万寿
 人間て何て馬鹿なんだろうとつくづく思う。また同じ過ちを繰り返そうとしている、そしてそれを美化する人の多いこと。中七の「昭和の戦前」が作者を読者を悲しくさせることよ。季語の雑煮食う作者の現実、繰り返す戦前の現実味を肌に感じている。

灯台の冬月トウシューズの鈍色 川田由美子
 灯台と冬月、いつもよく見ている白い灯台に冬の月トウシューズとの取り合わせ、この感覚は作者の普段はバレリーナかもしれないと思ったり、またバレーを教える人かもと思ったりしている。トウシューズの鈍色は冬の月でもある。見事な感覚である。
(鑑賞・稲葉千尋)

そのほかをたいせつにして雪つもる こしのゆみこ
 壊しては建てる都会の人工物はダークトーンで、音もなく降り続ける雪の白さの美しさ、神秘さとはほど遠い。その風景こそ、人類の知恵の結晶のはずなのに。美の追究者には穢れた精神の産物に映っているのであろう。

愚かさの濃度を加え今年酒 董振華
 作者は最近、「兜太を語る」を上梓し、兜太から大きな影響を受けた十五名の方々に取材し、師と弟子たちが人間的に深い絆を持っていたかを明らかにされた。その董さんの句として味わうと、たいへん共感が湧いてくる。死の直前まで平和を訴えつづけ、生き物感覚の俳句を作り続けてきた兜太先生は、人間の愚かさを直視し、自分に接する者をとことん心を開いて対応した。作者は昨年来の世界の混乱とその愚かさを深く憂慮している。

吾が死後は宇宙の深山に遊ぶべし 夜基津吐虫
 重い病気をかかえる作者は、日々死を意識して暮らしている。死に直面したとき、人は初めて死後の世界を思いやる。フロリダ州の精神科医ブライアン・ワイス博士のトラウマの催眠治療によれば、人は何度も生まれ変わり、自分の課題を繰り返すという。宇宙の深山に遊ぶことを想う人は、既に課題をクリアーしているだろう。
(鑑賞・大髙宏允)

室咲きや粛粛と夫婦を努める 井上俊子
 大切に丹精込めて育てる室咲の花。長年生活を共にしてきた夫婦も努力無しではお互いに心地よい関係ではいられない。政治家には使用禁止用語にしたい「粛粛」の言葉が本来の意味で生きている。努めておられるのはお二人共に、というより作者の方、かもしれないが平穏な暮らしが感じられる。

戸籍謄本われにはあらず鰯雲 マブソン青眼
 日本国籍戸籍を持つある事情を抱えていた知人は「日本人以上に日本人」と言われ褒められた気がしたが、実は日本人ではないのに、の意味だったと気づいた。青い眼をお持ちの作者も、日本語や俳句など日本人以上に日本人と何度も言われたに違いない。けれど戸籍はお持ちでない。それ故どんな経験をされてきたのだろうか。

キーウに凍月続くお笑い番組 森武晴美
 報道番組でキーウの惨状を見る。心が痛み惨憺たる気持ちになる。なのにその後のお笑い番組では、さっきの侵略への怒りはケロッと忘れ、笑っている自分がいる。一年以上続くウクライナの悲劇なのに、いつしか人ごととなり、傍観者の目になっている。そんな普通の人間の良心の呵責がちくりと表現されている。
(鑑賞・野口思づゑ)

裸木を編み込むように復興す 舘林史蝶
 葉がすっかり落ち、寒々と枯れた木から、地震や台風などにずたずたにされた家、橋、道路が浮かび、心に迫ってくる。復興までの道程は長くてつらいが、死んだような裸木にいつしか芽が出て伸びるように、前を向いて歩んでいけば、きっと元通りになるはず。そんな作者の強い思いが句にあふれ、しみじみと魅せられた。

あれは蓋男氏十二月のキリギリス 服部修一
 イソップ物語のアリとキリギリス、どっちが幸せ?と聞かれ、無邪気にアリと答えていた子が、社会人になりさまざまな経験を重ねるうちに、キリギリスのほうが幸せかも、と思うときがあるのではないだろうか。生前の蓋男氏にお会いしたことはないが、この句を通して、俳句をこよなく愛した豊かな人生を追想でき、感慨深い。

梟に顔のない日がときどきある 茂里美絵
 神話では知恵を授ける鳥として、また福を呼ぶ縁起のよい鳥として親しまれている梟。首が270度も回るので、からだを正面に向けたまま、背後を見渡すことができる。四方八方に不穏な空気が漂う現代、聡明なこの鳥はあらゆる方向に目を向けねばならず、正面に顔がないのだ。油断できない世相をみごとに捉え、共鳴した。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

花吹雪く真中に息を置いてきし あずお玲子
春深しこれから生まれる好きなひと 有栖川蘭子
病魔よ和め春暁に居座るな 飯塚真弓
飢ゑ行かば野鯉の奔る春野かな 石鎚優
友達ではいられませんと春の文 井手ひとみ
雪柳母にひとつも返してない 伊藤治美
春の鳥ことんと手紙いま行きます 遠藤路子
譜面台小さくたたみ卒業す 大浦朋子
宮益坂中村書店前穀雨 大渕久幸
犀星忌異郷に母を死なしめし 勇次つま
供へれば亡夫喋り出すか黄水仙 小田嶋美和子
古時計ちくたくボンボン海明ける かさいともこ
花吹雪これなら前へ進めるわ 梶原敏子
荒れ野めくちちははの家額の花 小林育子
じゃが芋に乳歯のような芽がピッピッ 小林ろば
戦士たち初夏の水辺に映る夢 近藤真由美
かげろえば人であること忘れます 宙のふう
誠実な獏が苺の山盛りを 立川真理
手鏡に他人のような十九の春 立川瑠璃
恋はランダムな雨びしょ濡れの桜 谷川かつゑ
全小説講演いのちはここに大江去る 平井利恵
夜桜の不可侵領域まで少し 福岡日向子
老羸に新しき服蝦夷四月 松﨑あきら
六連の戦車に似たる田植機よ 村上紀子
向日葵の正面に立つという勇気 村上舞香
初桜プチ整形に迷いおり 横田和子
鷄さばく戰さ歸りの父のもだ 吉田貢(吉は土に口)
鼓笛隊水仙を吹く子につづく 路志田美子
春の波中学生の一人称 渡邉照香
蜃気楼のしずく君のあおいシャツ 渡辺のり子

哀悼 中村ヨシオ 植田郁一

『海原』No.49(2023/6/1発行)誌面より

◆特別作品15句

哀悼 中村ヨシオ 植田郁一

味噌麹まるで月面つぶらな瞳
生まれ育った紀州の海よ背は竜神
麹に育てられし慈顔温顔九代目
紀伊水道霧の三叉路灯の五叉路
出船入船天田屋文ヱ門の前通る
君との出会い緑樹木洩れ日掌の温もり
建長・円覚肩抱き合っている萬緑
甲子男・さかえ・完市・君まで逝く極月
どれほど辛かったか食べさせられなかった桜餅
忌中と知って汽笛噎せつつ毀すなり
山菜採りにも焼きおにぎりに味噌塗って
金山寺味噌袖に包んで若き僧
忌中整然赤味噌白味噌合わせ味噌
弔問か吉野桜の花ひとひら
竜神の竜に攫われ逝きしかな

『海原』No.49(2023/6/1発行)

◆No.49 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ブチャは雪焦げた戦車と痩せた犬 綾田節子
二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
掌の皺を深めて母が手毬巻く 石田せ江子
百歳は八合目なり富士初日 伊藤巌
杜中がシンセサイザー百千鳥 江良修
春一番猫ってそんなんとちゃう 大池桜子
還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
革手袋情死のように重ねられ 桂凜火
手仕事のふっくりとして冬菫 川田由美子
桜蘂降るしっかり残る和紙の皺 北上正枝
紅梅白梅天狗の匂ひも混ざる 木下ようこ
「ご自愛を」とはどうしろと藪柑子 楠井収
労働終はる手のひらの陽炎へり 小西瞬夏
春の木離れどの追憶も流砂 三枝みずほ
春の闇鉄路の揺れのように純 佐孝石画
いぶりがつこ抓めば横に山頭火 佐藤二千六
母遺す御殿手ン毬絹かがり 鱸久子
あたたかや雅彦さんという空席 芹沢愛子
あっほらいまたんぽぽの絮彼女だろ 竹本仰
白梅や兜太の揮毫脈を打つ 月野ぽぽな
夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
寝たきりの窓からの景鳥雲に 中川邦雄
老化とはあの白梅が遠いこと 野口佐稔
連弾のよう花かたくりは風を呼ぶ 船越みよ
除染後の生家よ郁子は咲いたのか 本田ひとみ
記憶喪失のよう更地となって春 三木冬子
百済ほど欠伸さてさて彼岸明け 三世川浩司
囮鴨追い込まれては追い込んで 深山未遊
冬の葬みんな小さな兎憑き 望月士郎
凍雲に端あり産土まで歩く 茂里美絵

白石司子●抄出

山国の父の座標の切株です 有村王志
黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
一老ありひねもす無口の寒卵 岡崎万寿
決戦のように並んで冬薔薇 小野裕三
革手袋情死のように重ねられ 桂凜火
大股の父の熱量根開きす 加藤昭子
細雪写経一文字一字一字 北村美都子
曲線を君の日永のように描く 近藤亜沙美
ハミングのほどけ二月のうさぎかな 三枝みずほ
梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
黒板は緑イタチがいなくなったから 佐々木宏浅
春のビル街墓碑のよう露わ 佐藤詠子
鉛筆を噛んだ感触兜太の忌 重松敬子
節分の鬼に引かれて逝くなかれ 志田すずめ
春夕焼け母が海へとかえる色 竹本仰
柚子いびつ明日は笑顔を売る仕事 田中信克
蝶追って時間から遅れてばかり 月野ぽぽな
忘却曲線急旋回の冬の鳥鳥 山由貴子
夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
手話は苦手ですが春のペンギンです ナカムラ薫
エッセーの着地に迷う春炬燵 長本洋子
くちびるにマスク記憶にございません 服部修一
ほうれん草包む戦禍の紙面かな 藤田敦子
流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
地球を覆う人類という湿疹 マブソン青眼
三月の小石を拾ふ水の底 水野真由美
文机はわたしの港ヒヤシンス 宮崎斗士
冬の葬みんな小さな兎憑き 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
 二月二十日は兜太先生のご命日。亡くなられて早や五年の歳月を経た今、夜空を仰いで先生を偲ぶとき、先生の叱咤の檄文を遠い星屑から受けているような気がするという。おそらくこんな感想は、先生の謦咳に接したものなら等しく感じることではあるまいか。これをしも檄文として受けとめるところが、作者らしい一途さであり、あやかるべき姿勢といえよう。

百歳は八合目なり富士初日 伊藤巌
 人生を富士登山に喩えて、人生百年時代と言われる今日、その百年の八合目あたりに今達したところで、まだ先があるとも、もうここまで来たかとも回想している。「初日」は百年の先に輝くものと解した。もちろん文脈から、百歳自体が八合目で、その先の百二十歳あたりが初日の場所と解してもいい。案外こちらの方が筋が通るのかもしれないが、いずれにせよ、まだまだ頑張る余地ありと言い聞かせている。その心意気を詠んだ。下五の体言止めがきっぱりしていい。

還らざるものへ流木立てておく 大西健司
 「還らざるもの」とは、「失われしもの」さらには「いのち失われしもの」と解していいだろう。そこに3・11を重ねてもいいが、それは評者の自由度にまかせたい。表現は漠とした抽象性を帯びていても、生死を予感することは出来よう。「流木」によって、かなり具体的なドラマを予想することもできる。大西の住む伊勢地方は、多くの津波に洗われた地域でもあるからだ。数知れぬ犠牲者は無名のまま、せめて流木によってその菩提に手向ける墓標としておくというのだろう。

労働終はる手のひらの陽炎へり 小西瞬夏
 「労働」とわざわざ社会的表現を持ち出したのは、「仕事終はる」では済まされない、どこか被搾取的現実をそこに滲ませたかったような気がする。そう考えるのは深読みで、作者自身は、もっと現在的な日常感に即して、老親の介護そのものを「労働」と捉えたという。ところが「手のひらの陽炎」となれば作者の現在を再生したもので、「労働」のような規範化された言葉とは質が違ってくる。そこに、作者世代の新しいふくらみのある言語表現を重ねようとしているのかも知れない。言葉の時代感覚に世代間格差が生まれているのだろうか。

春の闇鉄路の揺れのように純 佐孝石画
 月のない春の夜の潤んだようなやわらかさをもつ闇。どこかいのちの息吹の匂いさえまじるなまめかしさがある。その夜気の情感を断ち切るように、「鉄路の揺れのように純」と捉えたのは、この作者の青春性というべきものかもしれない。やわらかな肉体の奥にひそむ鉄路のような意志。しかもその鉄路は、かすかな揺れを宿しつつ、その純なるものを貫き通しているのである。

あっほらいまたんぽぽの絮彼女たち 竹本仰
 口語調の臨場感で、口ずさむように書いた句。自分の実感のまま、俳句の固有性のこだわりを離れて書くとこうなる、典型的な一句だ。「あっほら」と誘いこむような感嘆詞に始まり、「いまたんぽぽの絮」と受け、「彼女たち」と踊り子のしなやかな輪舞へ広げていく。「いま」は、「あっほらいま」と「いまたんぽぽ」に両掛かりして、躍動の瞬間を捉えている。

寝たきりの窓からの景鳥雲に 中川邦雄
老化とはあの白梅が遠いこと 野口佐稔

 共に加齢による老化現象を背負いながら、懸命に生きていく姿を率直に捉えた句なのだろう。できるだけ他人に迷惑をかけず、一瞬一瞬をおのれのやり方で過ごそうとしているような、そんな生涯の送り方を遠望しているような境涯感とも見られなくはない。お二人の生き方を承知しているわけではないから、作品から受ける評者の感想にすぎないが、そこには近しい世代の老いざまが見えてくるようで、ほのぼのとした共感を覚える。

除染後の生家よ郁子は咲いたのか 本田ひとみ
郁子の花は、アケビの仲間で、晩春、白がかった紫の雄花と雌花が房のようななりに咲く。作者は生家の福島の被災地から今は埼玉に避難しておられ、早や十二年の歳月を経ている。その生家も、どうやら放射能の除染が済んだと聞いているが、かつてあの生垣に咲いていた郁子の花は、今年も咲いたのだろうか、と回想する。郁子の花に寄せる失われた故郷への郷愁。

記憶喪失のよう更地となって春 三木冬子
 本田句は、被災地の生家を偲んでの句に対して、三木句は、その生家跡もすっかり記憶喪失したかのように更地となってしまったという。この句には二つの問題意識がある。一つは、災後十年を越す歳月によって、風化されてしまった被災地、それもかつての賑わいに復活することなく、しらじらしい更地となってしまったという現実。今一つは、その被災の現実も人々の記憶から失われようとしている危機感ではないか。あのフクシマを忘れるなという警鐘に繋げようとしているかのようだ。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
 戦争や災害、また様々な理由で逝去された方に捧げる黙祷。上五「の」で軽く切れるが、その「どこを断ちても白さざんか」とは何を意味するのだろうか。濃紅や淡紅ではなく「白」から広がってゆく清潔、潔白、無垢などのイメージ、そして花全体が落ちる椿と違って、花弁がさらさらと散って眩しいほどに地上を彩る「さざんか」、それは亡くなられた方の人となりでもあり、作者の祈りの敬虔さでもあると考えていいだろうか。中七「どこを断ちても」に別離の悲痛さがある。もしかしたら掲句は個人的な追悼句なのかもしれないが、黙祷すべき場面の多い人間社会において普遍性を獲得した作品となっていると思う。

煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
 煮凝りを凝視することによる視覚を生かした句であるが、「独裁者」と取り合わせたことで感覚的な句となっている。「妙」にプルプルと震えている煮凝りが独裁者の孤独感のようでもあり、また、「煮凝りって」の導入部も読者を作者独自の世界へいざなうのに効果的だ。

一老ありひねもす無口の寒卵 岡崎万寿
 上句の「一老あり」が伊勢物語の「昔、男(ありけり)」の冒頭を思わせ、作者の一代記を語りかけるような句となっている。勿論「ひねもす無口」は寒卵に係るのであるが、それは作者のようでもあり、無口だが「寒卵」のように存在感のある一代・一生とも考えられる。

還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
 無季句。一句全体からは季語「雁供養」の世界を想像させるが、抒情に流されない断定感が俳句なのだと改めて思わせる作品である。また、「還らざるもの」の単数ではなく、「ら」の複数形が個人性、時代性を超えたものとさせている。全く句柄は異なるが、富澤赤黄男の「流木よせめて南をむいて流れよ」を思い出した。

大股の父の熱量根開きす 加藤昭子
 雪国の春を告げる現象で、木の根元だけ雪がとけることを「根開き」というのであるが、それは「大股の父の熱量」によるものだとしたのがこの句の眼目である。また、「大股の」としたことが、いつもより足早にやってくる春、そして元気な父を彷彿させる。

曲線を君の日永のように描く 近藤亜沙美
 長かった冬も終わり、夜よりも昼の時間が長くなって何となく気持ちも伸びやかになる日永。そんなゆったりとした春に対する実感が「直線」ではなく「曲線」なのである。そして「君の日永のような」という「君」への眼差しも初々しくあたたかい。

梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
 この句から「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の金子兜太師を思った。「春告草」の別名「梅」が咲いて青鮫も人間も喜ぶべき春なのにただならぬ今の状況はどうだろう、戦争体験者である兜太師ならどう考えるだろうかという作者の思いが中七・下五の「憤怒のように火のように」なのである。花鳥に遊ぶのもいい、でも「社会性は作者の態度の問題」、「俳句性よりも根本の事柄」なのである。佐孝氏の句に「梅咲いてひとつひとつの目玉かな」もあるが、創作において「絶えず自分の生き方に対決している」兜太師、また、作者の目玉を掲句から感じる。

蝶追って時間から遅れてばかり 月野ぽぽな
 「時間から遅れてばかり」の何となく取り残されたような感覚は、日本を遠く離れたニューヨークだからこそなおさら。でも、その原因は「蝶追って」だから、何となく自分自身でも許せそうな気分なのかもしれない。

手話は苦手ですが春のペンギンです ナカムラ薫
 手や体の動き、視線や表情などを使って意味を伝達する手話が苦手なのは作者、いや、もしかしたらペンギンだろうか。でも、時節は「春」、「ですが」、「です」の意味不明とも取れるようなやりとりが楽しい。これも俳句、兜太師が言われたように口語は俳句の可能性を広げるのである。

くちびるにマスク記憶にございません 服部修一
 「顔にマスク」ではなく、「くちびるにマスク」としたところが意味深。そして「記憶にございません」は、どこかの国のある人物がよく口にする言葉。十七字、季題趣味という約束を守るという「客観写生」とは異なる諧謔味あふれる句だ。

流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
 シベリア東部から南下して海を漂う「流氷」と中七・下五との二物衝撃句。「流氷」は風または海流によって海を漂流する氷の塊であるが、「置いてきたもの」との響き合いから作者の分身という捉え方も可能だ。漂流する為、いや漂流せざるを得ないが為に置いてきたもの、それらはみな光っているのである。郷愁を誘うような句だ。

◆金子兜太 私の一句

質実の窓若き日の夏木立 兜太

 兜太は、少年時代、皆野町から片道一時間余り秩父鉄道を利用し、降りてから二十分ほど歩き、旧制熊谷中学に通った。秩父で育まれた豊かな「感性」へ、熊谷で「質実剛健」が加わったと考える。熊谷での葬儀の場には、「好好爺」の写真とともに、若き日の写真も飾られていた。それは、「精悍」を感じさせるものであった。埼玉県立熊谷高校の校門近くの句碑より(句集未収録)。神田一美

夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く 兜太

 以前、母は、自分のことを詠った私の句が、兜太先生に褒められたことを涙して喜んだ。先生と母は同い年で、母のほうが一週間お姉さん。ある時、仏間に入ったきり、うんともすんともない。ちょっと覗くと、掲句の書かれたうちわの毛筆の一字一字を指でなぞっているのです。私の声に驚き、ちょっと恥ずかしそうにした表情が、いつもの表情より素敵だった。96歳の他界。句集『日常』(平成21年)より。西美惠子

◆共鳴20句〈4月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
秋刀魚握る板さんの指って秋刀魚かな 綾田節子
大皿のブロッコリー仁徳陵のごと 石橋いろり
「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
風花や兵器すらすら少年語 狩野康子
霜柱すこし斜視なんです私 北上正枝
ラフランス生きた証が顔に出て 佐藤君子
寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
歯を磨く小石の感触木葉舞う 豊原清明
月食やゼレンスキーの赤銅色 永田和子
十二月八日鈴懸に空師いる 並木邑人
○ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
秋めくやひとりの音す広い家 疋田恵美子
とんぼみな交尾んで水のひかりかな 平田薫
ありがとうの「あ」のかたちなる朝日かな マブソン青眼
国葬とか往ったり来たり稲刈機 三浦静佳
紙を漉く皺一つなき水の音 三好つや子
冬ぬくしCM軽き紙パンツ 村本なずな
日記とは嘘書くものです実紫 室田洋子
○開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
紙風船バンバンバシンうつ楽しさ 森田高司

大髙宏允 選
冬近しオール電化の音で病む 阿木よう子
冬日受け木の根は先で考える 石川和子
むかご飯君と暮らすもあと十年か 石川義倫
気持ちよく死んでいるのね枯芒 伊藤歩
ベートーベンに変わる幻聴雪しまき 故・伊藤雅彦
良き生き方は迷わずに逝く仏法僧 植田郁一
辞世の句障子明りの如くあり 江井芳朗
あの音は冬まっ直ぐに来るらしい 大沢輝一
裸木や斜光四十五度の無垢 北村美都子
月ある涼しさ深深と獣道 小池弘子
ひとりづつ棘捨てにゆく十二月 こしのゆみこ
みな寒くゐてもの食うてをりにけり 小西瞬夏
弟よ瓶に入れたい朝霧よ 佐々木宏
まぼろしは何の入り口小白鳥 芹沢愛子
焼き芋や風通しよき仲間たち 高橋明江
幸不幸孝不孝雪雪雪雪 中村晋
「北風がビューンって言ったね」「行ったね」 中村道子
この星の食欲冬の月を食う 三浦二三子
笑うから笑ってしまう小六月 横地かをる
夕景や熟柿の熱烈なる死形 横山隆

野口思づゑ 選
廃業を決断したり月今宵 石川義倫
色のない光を染める柿あかり 泉尚子
先祖みなわれより若し除夜の鐘 岡崎万寿
着ぶくれて平和公園清掃す 奥村久美子
小春日やどこかのピアノが音外す 奥山和子
障子貼る曲り形にも世帯主 加藤昭子
戦中戦後そして戦前冬北斗 鎌田喜代子
極月や棺の和尚の絆創膏 河田清峰
人参臭きにんじん失せ日本このザマ すずき穂波
海の色に縦横たてよこがあるね冬だね たけなか華那
自由とは広場手すりに小鳥二羽 竹本仰
熱燗や今日はどの鬱と遊ぼうか 立川由紀
○綿菓子のようにちちはは冬日向 月野ぽぽな
賀状書くいつも目だけで会う人に 中川邦雄
冬の雲離郷とは母棄てること 中村晋
○ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
姿勢よき人の襟元赤い羽根 平山圭子
熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
紅葉かつ散るタイムマシン現れよ 室田洋子
小鳥来る隣りばかりが賑やかに 森鈴

三好つや子 選
咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
大銀杏よる辺なきものへと霏霏 石橋いろり
中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
折紙の動物園秋の保健室 植竹利江
鱗雲ほんとは怖い童唄 榎本愛子
ボルシチに匂いの移る火薬かな 大髙宏允
大根引き生家すとんと胸の穴 狩野康子
水平線の向うの戦さ肩車 小山やす子
断定は断念なのだろう時雨 佐孝石画
生命線ありのままです枯野原 佐藤詠子
身中の分水嶺を月渡る すずき穂波
甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
冬青そよごの実どこかでだるまさん転んだ 田中信克
浜菊や海女の径へとよじれ咲く 樽谷宗寬
○綿菓子のようにちちはは冬日向 月野ぽぽな
寒林の空かなしみの擬態する 藤田敦子
降り立った烏もしや冬の心臓 堀真知子
冬木立フォークの神様がいない 本田ひとみ
○開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
せっかちな風が九月を蒼くする 森由美子

◆三句鑑賞

寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
 なんと勇ましい句、死んでしまったら書くことができない、訃報を「俺が書く」と言い切っている。きっと前もって書いておくということだと思います。戒名は先に書いてある人もいる。季語の寒雀は何の関係もないようで、やはり寒雀の季語が切れて効いていると思います。

国葬とか往ったり来たり稲刈機 三浦静佳
 この句はもちろん安倍元総理のことである。国葬が良いとか悪いとか言っていないが、何故なんだという思いが作者にあると思います。稲刈機即ちコンバインが行ったり来たりします。国葬の日、稲刈りする作者の姿が見えてきて、評者こんな句を作りたいと思っていて、作者の心に共感しました。

開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
 脱帽!開戦日十二月八日をこれほどに人の心をえぐる句に出くわすのは初めてである。日本にも軍靴の音がヒシヒシと聴こえる昨今、わざと危機を煽っている政府にこの句を見せてあげたい。日本の歴史と事実を忘れたのかと。もっともっと平和外交をやらなければならないのに戦前と同じことをやっている。赤き穴が強烈。
(鑑賞・稲葉千尋)

みな寒くゐてもの食うてをりにけり 小西瞬夏
 一読、深沢七郎を思い浮かべた。いささかアウトローであった彼は、現実を現実離れした視点で見ていたように思う。この句も、どこかそんなところがある。名前を持ち、何かに属して適応している常識人の風景ではない。どんなに文明化・都市化しても遺伝子や生理現象などに支配されている。この句はまさにそれを描写している。

幸不幸孝不孝雪雪雪雪 中村晋
 ヒトに生まれての幸不幸、親不孝かどうかなどは、自分の意図だけで決まるわけではなく、関係性によって決まる。関係性は自分の意図を超える。だから、どうなるかは、「向こうから来る」という要素が大きい。それは相手にとっても同じで、従って自分が招いているようで、向こうから来るという不思議と遭遇する。この句は大胆な措辞によって、我々の日常の不思議さを切り取った。

笑うから笑ってしまう小六月 横地かをる
こうした体験は、誰にでもあるだろう。だから通り過ぎてしまいそうな句でもある。二読三読して、自分の無意識がまたこの句に戻ってきた。この句もまた、関係性によって生じた不思議を、至ってシンプルに表現している。このシンプルさに詠み手の無意識が反応するのだと思う。
(鑑賞・大髙宏允)

小春日やどこかのピアノが音外す 奥山和子
 暖かな冬の午後だろうか。どこからかピアノの音。何気なく聞いていたら間違った鍵盤を触ったようだ。上達した奏者の練習だったら、音が外れてもそれほど目立たないが、初心者の稽古だったらしくはっきりとミスが聞き取れた。小春日の気持ちの良さに弾き手は練習に集中できなくなったのか。微笑ましい句。

人参臭きにんじん失せ日本このザマ すずき穂波
 人参は以前、その独特の味から多くの子供に嫌われていた。それがいつの頃からか食べやすい野菜へと変わっていた。同様に気がつけば日本社会は豊かな個性素性を消した無難な大人を求めている。出る杭は打たれ続けその結果としての今。このザマはなんなのかと令和の日本に明治の親が喝を入れているようで面白い。

ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
 ドニエプル川はロシア侵攻の舞台であるウクライナを流れ現在も、歴史上も戦禍に巻き込まれている。川沿いにロシア、ベラルーシもある。とても美しい川だという。四国の仁淀川も青の美しさで知られる。作者には特別の意味があるに違いない二つの川の固有名詞と自然讃歌が強い平和メッセージとなっている。
(鑑賞・野口思づゑ)

中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
 冬の畑で逞しく育った大根や人参を眺めながら、作者は故中村哲氏を偲び、座右の銘だった最澄の言葉「一隅を照らす」に思いを巡らせているのかも知れない。一人ひとりが今居る場所で最善を尽くす。まさにそれは土の声を聞き、土と歩む生産者の心意気だといえる。大地に根ざして生きる人ならではの、滋養あふれる句だ。

水平線の向うの戦さ肩車 小山やす子
 手の届かない所に止まった蟬。見物客が多くて見えない花火。子どもにとって父の肩は、世界をぱっと広げてくれる頼もしくて、幸せを実感できる存在だ。しかしウクライナ侵攻をはじめ、肩車の先に不穏な動きが見え隠れし、誰もが戦争に無関心ではいられない時代、この句に込められた安寧の祈りに、共感が止まらない。

甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
 蟹漁がさかんな冬の港の、活気に満ちた朝が目に浮かび、白い息を吐きつつ、怒鳴るように喋る男たちの声までも聞こえる句だ。潮焼けした赤銅色の顔と腕にちらばる沁みは、手強い海を相手にしてきた漁師の勲章。甲殻類の男という骨太の表現に、荒々しくて朴訥な漁師への愛しさが感じられ、心を鷲掴みにされた。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

不自由のなかに小さな自由福寿草 有栖川蘭子
老犬の里親二十歳春隣 有馬育代
ジャンピングキス春塵に照れもせず 飯塚真弓
従容として春落日に歩み寄る 石鎚優
むちむちよ呆けたる母のよもぎ餅 押勇次
アネモネを添えて修司への手紙 かさいともこ
春の闇ぼろが出るから喋らない 木村寛伸
果てしなきあなたへの道冬銀河 香月清子
如月や重機で壊す家一軒 近藤真由美
剣道着干したる庭にクロッカス 齊藤邦彦
無錫ムシャクなる湖を広げて春の雁 齊藤建春
ポトフ煮て雪籠りとは気散じな 佐々木妙子
マスク取るコロナの憎愛すでに無く 重松俊一
春深しハコと呼ばれし場所に行く 清水滋生
春の泥削除できない疵あまた 宙のふう
理科室に春は戯むる人体図 立川真理
十代が後ろ姿になりゆく春 立川瑠璃
廃屋に散らばる積木梅盛る 藤玲人
夢にても逢ひたき人よ花やがて 平井利恵
くちびるは一つしかないシクラメン 福岡日向子
金網に自転車括る木槿かな 福田博之
講義室机上にひとつ冬林檎 藤井久代
呼吸静かにふふむ光陰残り雪 松﨑あきら
沢山のきのふのやうに石鹸玉 丸山由理子
入道雲私が持っている余白 村上舞香
ポケツトにこぶし突つ込み海を蹴る 吉田貢(吉は土に口)
恐竜に乗り象に乗りふらここへ よねやま麦
八月や記録写真の中に吾 路志田美子
壁の穴しずかに塞ぐ春の闇 渡邉照香
菜の花の地下茎蒸気機関車へ 渡辺のり子

路地灯り 大西健司

『海原』No.48(2023/5/1発行)誌面より

◆自由作品20句

路地灯り 大西健司

熟柿啜るは真人間なるエセ詩人
流木焼べ浜の男の新ばしり
開戦日湯呑みに酒を注いでおり
真珠塩と看板寒の道戻る
お国訛りの潮風ここは牡蠣の海
この先の入江へ続く蜜柑山
鳥羽一郎を歌う路地奥の煮豆屋
鷗探せば短き指の濡れており
バス停にマネキン石蓴の海が見ゆ
真珠塩の親父菜の花摘んでおり
「舟唄」がおはこ浅春の鋳掛屋
無番地で無慈悲隣のしおまねき
玉子焼は春の恋文かもめ町
喫茶ファイブに寄り道鰆漁師かな
風見鶏はジャズを歌うよ風光る
ラジオからジャズ鰆の糶進む
店主偏屈恋猫の名はサヨリ
春ショールのマネキン今日も店番す
深海魚のたぐい男は布団干す
喪服吊され春にかすかな火の匂い

『海原』No.48(2023/5/1発行)

◆No.48 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

横丁の昭和は剥がれ霙鍋 石橋いろり
言葉とう感情の波野水仙 故・伊藤雅彦
ベンチにひとり極月の忘れもの 伊藤道郎
「おいでるかい」三河弁の初客 井上俊一
芽出づる亡き妻育む福寿草 江井芳朗
待春は彼にもあると信じたい 太田順子
空港に狐火混ざる帰国便 小野裕三
ダイヤモンドダストあなたへ追伸 北上正枝
枯野原少年白き函として 小西瞬夏
末黒野の石の鼓動や口伝とは 三枝みずほ
母の忌の掃き拭き後の桜炭 白井重之
水琴窟の音のひとつぶ秋蛍 芹沢愛子
水鳥や夕日背負って帰ろうか 高木水志
白猫のふにゅっと抱かれ冬の霧 竹田昭江
展翅された蝶廃港をわたる風 竹本仰
春眠のごと倒木のごと母の故郷 立川由紀
絵双六国が盗られてゆく自由 田中信克
青鮫の青だ硝子のビル群だ 月野ぽぽな
花吹雪鉄鎖ザラリと垂れにけり 中内亮玄
風の日は手帳を落とす白さざんか 平田薫
コロナは何の序章か微かに冬の雷 藤野武
駱駝毛布父の人生匂い立つ 増田暁子
ドカ雪や父の墓標のなで肩で 松本勇二
白障子空気が正座しておりぬ 三好つや子
昼月や強霜解けぬ猫の墓 村本なずな
雨は雪に小さな骨はピッコロに 望月士郎
さざんか散る瘋癲なれば身構える 茂里美絵
亡き人に無性に腹の立つ夜 長森由美子
一月に生まれ初凪ういなといふ名前 柳生正名
「これ最後です」とふ老友の賀状かな 吉澤祥匡

中村晋●抄出

電飾に「さくら隊の碑」浮く聖夜 石川まゆみ
臘梅咲いた泪の水音聞こえます 泉尚子
陽気なバラッド石垣島にも冬の雨 伊藤幸
大根抜くどの穴も空である 井上俊一
冬夕焼乾涙をもて立ち尽くす 江井芳朗
淡々と賀状仕舞いと書いてある 大西政司
どっさりと思い出を積む蒲団かな 小野裕三
雪降るとおち見る癖よはにかみよ 刈田光児
ベランダにまだ干したまま冬の月 川嶋安起夫
自粛自粛三年連用日記果つ 黒済泰子
遠吠えの津軽が無色雪煙り 後藤岑生
母の匂いの風の育てるせりなずな 小林まさる
無辜の民雪の瓦礫と混じりける 小松よしはる
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子
「涙なんて嫌い」呟いたら雪 清水恵子
冬のクローバー在宅酸素の母へ 清水茉紀
雪雲の青い切れ目へ海と書く 鱸久子
展翅された蝶廃港をわたる風竹本仰
麦踏んでデリカシーを語る父 舘林史蝶
牧舎出で牛が背こする冬木かな 永田和子
ジュゴン待つ辺野古岬や虎落笛 仲村トヨ子
吹雪かれているよう愚痴を聞いてい 丹生千賀
でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
遺影みな正面を向く初明り 藤田敦子
枯葉踏む枯葉の下の風を踏む 堀真知子
平飼いの鶏の膨るる寒さかな 本田日出登
軒氷柱だまこ餅だまこ頬張る遺族たち 三浦静佳
白障子空気が正座しておりぬ 三好つや子
囲む人無き休耕田の落葉焚き 山本弥生
ひとりずつ出てゆく家族せりなずな 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

言葉とう感情の波野水仙 故・伊藤雅彦
 本年二月十四日、八十六歳で急逝された作者の絶吟だろうか。一見穏やかな早春の景を比喩した句ではあるが、底には容易ならざる感情の波が渦巻いているといえよう。それが言葉の断片として噴出しているのではないか。波のように寄せては返すのは、早春の岸辺に吹く春なお寒いそよ風によるものだろう。温厚篤実な風貌の底に、現役時代経営者として厳しい試練を乗り越えて来られた方の、感情の波が渦巻いているとも見られよう。野水仙には、そこに毅然と立つ作者の姿が投影されている。

横丁の昭和は剥がれ霙鍋 石橋いろり
 霙鍋は、豚の薄切り肉ときのこに大根おろしを添えて煮込んだ料理で、昭和時代から馴染みの深い下町の小料理だった。今は寂びれた横丁の路地に貼られた定番の料理名が半ば剥がれたままにある。これは単なる回想の景として書かれているだけではない。いつまたあの頃の戦争や自然災害に襲われないとも限らない。そんな予感さえ覚える霙鍋の、時代への危機感に通ずるものとしても受けとめられるものではなかろうか。

「おいでるかい」三河弁の初客 井上俊一
 「おいでるかい」とは、作者の故郷愛知県三河地区の方言で、「いらっしゃいますか」という訪いの言葉だろう。地方の方言を句にするには、一定の伝達性が保証されていなければならないが、この場合はギリギリ保証されているとみてよかろう。テレビの「どうする家康」の影響があるかもしれないが、この保証が成り立つ限り、地方の生活感の滲む好句に変身する。まして初客とあらば、なおのこと。

芽出づる亡き妻育む福寿草 江井芳朗
 今回の五句は、昨年十二月に永眠された光子夫人への追悼句となっている。「臨終の妻に添へずに永別す」「冬夕焼乾涙をもて立ち尽くす」は、その痛哭の想いを物語ってはいるが、最後に置かれた掲句には、亡き妻とともに新しい生を生きようとする。いや、むしろ死者としての妻の臨在を、今も実感している作者の姿そのものを書いているのではないだろうか。

母の忌の掃き拭き後の桜炭 白井重之
 母の忌日に、母がいつもしていたように、屋内を掃き、拭き掃除をした後で、ゆっくりと桜炭で茶の湯を点てて頂く。その時間は生前の母と共に過ごした至福のひと時だったのだろう。幼い頃は、その堅苦しさに辟易したものだが、今は母を偲ぶ貴重なひと時となっているのかもしれない。季節感は必ずしも明らかではないが、桜炭の香りが冬の季感を漂わせている。

白猫のふにゅっと抱かれ冬の霧 竹田昭江
 「ふにゅっと」のオノマトペが独特。一般に「ふにゃっと」は物の触感のやわらかな瞬間の印象で、「ふにゅっと」で、急に飛び込んできたような、やや鋭い感じになる。白猫は冬の霧の中から不意に現れ、作者の腕の中へすっぽりと収まったのだ。「冬の霧」の中からの意外性が、「ふにゃっと」ではなく、「ふにゅっと」の鋭角性をよびこんだといえよう。

絵双六国が盗られてゆく自由 田中信克
 絵双六は、日本の伝統的な正月の遊びだが、江戸時代に庶民に普及し、やがて道中双六や出世双六なども生み出された。この句は、今世界で問題になっているウクライナ問題や中東地域での紛争の火種をも暗示しているのかもしれない。世界に起こる火種は我が国に波及しかねない危機感でもある。今や絵双六のように「国が盗られてゆく自由」が横行しつつあるのではないかという政治への警鐘ともいえよう。

青鮫の青だ硝子のビル群だ 月野ぽぽな
 作者は、今ニューヨークのマンハッタンに住んでいる。いわば世界で最も稠密な高層ビル群の真っ只中にいるわけだが、その多くがガラス張りの超高層ビルだという。そのビル群の最上層階から見下ろせば、兜太師のいたトラック島の珊瑚礁海域に青鮫が遊弋しているイメージと重なり合う映像が見えてくる。そこには幾分の危うさを宿しながらも、意識の重層する新しい映像感覚が生まれるからだ。映像のダブルイメージと捉えてもいい。

亡き人に無性に腹の立つ夜長 森由美子
 この句の「亡き人」とは、作者にとってかけがえのない存在だったに違いない。何も言わずに突然先立ってしまって、そんな無責任な、とばかり、かき口説くように言わずにいられない。それは人には言えぬ、また言っても詮無いことながら、秋の夜長ともなれば、腹立たしくも口をついて出る。いうなれば煩悩の権化そのもの。

 取り上げたかった句を可能な限り列挙しておきたい。
待春は彼にもあると信じたい 太田順子
花吹雪鉄鎖ザラリと垂れにけり 中内亮玄
白障子空気が正座しておりぬ 三好つや子
さざんか散る瘋癲なれば身構える 茂里美絵

◆海原秀句鑑賞 中村晋

母の匂いの風の育てるせりなずな 小林まさる
ひとりずつ出てゆく家族せりなずな 横地かをる

 まずは「せりなずな」の句を二句鑑賞するところから。一句目の「せりなずな」は郷愁を誘う響きがある。「母の匂いの風」に作者は自身の産土の記憶を確かめているに違いない。同時作に「父の忌やゴツンと我にからす瓜」の句もあり、父母への追憶の句とも読める。しみじみ温かい気持ちにさせられる句だ。一方、二句目の「せりなずな」からは寂しさを突きつけられる。それまでは正月をともに過ごしてきた家族であったが、子どもたちは成長し家を出て、なかなか戻らない。正月に帰省したとしても、家族は数日でそれぞれの生活へ戻っていくことになる。七草粥をともに食べることもない。そんな現代の生活を描き、しんとさせられる。そして何気ない正月風景の中に、私たちの生活意識や様式の変化が俳句に記録されていることに気付かされる。時代を記憶する装置としての俳句の存在を思う。

遠吠えの津軽が無色雪煙り 後藤岑生
 最近、風土を濃厚に感じさせてくれる作品に惹かれている。その土地でなければ感じられない自然の姿が一句に息づいていると無意識に身体が反応してしまう。この句からも理屈抜きに「津軽」の地吹雪を実感させられた。「遠吠えの津軽」とはその土地に住む者でなければ決して出てくることのない言葉だろう。しかもそれが「無色」とは。かつて私も五所川原から金木へ地吹雪体験の旅をしたことがあるが、その時本当の地吹雪に遭遇し、列車がストップしてしまった。言葉だけで知っている地吹雪とは違う本当の「地吹雪」の恐ろしさ。この句は、本当の風土と誠実に向き合う作品だと思う。

軒氷柱だまこ餅だまこ頬張る遺族たち 三浦静佳
 葬儀の後の食事風景だろうか。「だまこ餅」は秋田の風土の食事である。それを頬張る遺族たち。昨今は多くの場合、葬儀社に葬儀の全般をお任せしてしまうところだろうが、この句からは昔ながらの自宅での葬儀のように読み取れる。また「軒氷柱」から東北の深い雪や家の造りなども感じられる。さらに「だまこ餅」を食べながら会話をする秋田の人たちの訛りも聴こえてきそうだ。これもまた風土を色濃くにじませた一句と思う。

ジュゴン待つ辺野古岬や虎落笛 仲村トヨ子
 風土を詠むということは、実は深いところで社会を詠むということに通じているのではないか。最近そんなことを考える。この一句もまた風土への愛情を土台にしながら社会への憤りをにじませている作品だ。「ジュゴン待つ辺野古岬」というアニミズムに満ちた措辞に、海を平気で埋め立て、命あるものを疎かにする政治体制への深い不信と厳しい批判精神がにじむ。そして「虎落笛」を聴く作者の悲しみ、風土への愛惜。風土俳句は社会性俳句の母胎なのかもしれない。

でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
枯葉踏む枯葉の下の風を踏む 堀真知子

 この二句に共通するのは生き生きとした「生きもの感覚」ではないだろうか。一句目はきっと先生と幼い児童との対話を捉えたものだろう。落葉の姿に魅せられている児童。子どもたちにこんな素敵な言葉を聞かされたら、教師としてこれほどの喜びはないかもしれない。とはいえ先生も忙しい毎日だ。子どもたちとともに落葉をつかまえる時間を少しでも持てるようにしたいものである。二句目、「枯葉の下の風」という表現にはっとさせられる。枯葉を踏んだときに感じるあの一瞬のふわっとした空気感。それを「風」と捉えることができたのは作者の感性の賜だろう。何気ない日常の中に潜んでいる宝石を発見したような気分になる。

自粛自粛三年連用日記果つ 黒済泰子
無辜の民雪の瓦礫と混じりける 小松よしはる
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子

 現代をどう詠むか。その問いに答える三句。一句目、自粛の日々が続いた長い三年間を実に端的に表現した作品と思う。定型の韻律の力がさまざまな感情を呼び起こすのだろう。何やら呪術めく「自粛自粛」のリフレイン。韻律と映像の融合が見事な一句だ。二句目、ウクライナの戦争を詠んだものだろうか。人間が瓦礫と混じる、と即物的に描くところに作者の鋭い批評精神が宿っている。俳句における「即物」という表現方法の有効性を改めて教えられる一句。三句目、ピカソの「ゲルニカ」に描かれた女性を詠んだ句か。「しばれる」が実に独創的だ。「しばれる」とは東北・北海道において寒さの厳しい様子を言う。ナチスによるゲルニカへの空爆。逃げ惑う女性の姿を「しばれる」と捉える身体的な感性は風土に根付くものだ。きっとこの作者はウクライナで苦しむ人々に対しても「しばれる」思いで見ているに違いない。

冬夕焼乾涙をもて立ち尽くす 江井芳朗
 「コロナ禍病院にて妻・光子永眠す」と前書きにある。「乾涙」という言葉は辞書にはないが、作者には必要な語であったのだろう。涙が枯れ果てたあとの冬の夕焼け。震災の記憶も去来していたに違いない作者渾身の一句。

◆金子兜太 私の一句

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 初めてこの句に会った時「青鮫は俺たちのことだ」と思った。兜太先生の話から、それは私の幻想だと分かったが、思いは今も続いている。先生宅に泊めていただいた翌朝、帰り際に、酔いの残る頬に心地よい風に、梅の花の香りがしたのを忘れられない。同じ思いの人がたくさんいると思う。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大久保正義

抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴 兜太

 まだ青さの残るかたい桃を抱けば、ふっと感じる成熟の始まり。愛する少女の初々しい、瑞々しい、痛々しい清らかなエロティシズム。肩越しに見る昴の何億光年の光の中で感じる一瞬の恍惚が胸を打つ。時空の無限の中で、抱かなければ感じ取れないこの一瞬のきらめきに、心を吸い込まれた一句です。兜太先生にそれを申し上げたら「そうか」とニヤリとされたのを思い出します。句集『詩經國風』(昭和60年)より。森由美子

◆共鳴20句〈3月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
皇帝ダリア一刷毛はけ分の愁いあり 石橋いろり
締めて快適褌外して尚快適 植田郁一
地球はやわが方程式はご破算に 岡崎万寿
濁り酒ぐるぐる回る山手線 奥村久美子
高齢に前期と後期障子貼る 片岡秀樹
秋の水おまえを産んだいい記憶 桂凜火
○戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
ラ・フランス無口で熟れて昭和人 鈴木栄司
連弾です大草原の草紅葉 鱸久子
十三夜靴がぱくりと僕見上げ すずき穂波
秩父産土寒九の水を飲み干して 関田誓炎
日の沈むくにの国葬まんじゅしゃげ 芹沢愛子
民主主義怠けているから蚯蚓鳴く 峠谷清広
白コップに牛乳注ぐ十一月 豊原清明
除染ごみ去ってそのまま赤のまま 中村晋
国葬って何だったのか蕎麦を刈る 平田恒子
黄落や手話はしづかににぎやかに 藤田敦子
○綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
ラ・フランス自傷の匂い微かなる 茂里美絵
○息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫

大髙宏允 選
九月です少女かたまり甘酸っぱい 大沢輝一
バンザイの老人の袖の草の実 木下ようこ
第三章第二十五条なのに凍死する 笹岡素子
芒飾れば家霊のように笑いけり 佐々木宏
麦の芽や少年兵といふ兵器 清水茉紀
秋意ふと地磁気逆転願ふかな 高木一惠
大まかに云えば健康衣被 高橋明江
体内に育てし骨と冬に入る 月野ぽぽな
朝寒や起きてぐらぐら老いる首 峠谷清広
除染して除染し除染あきらめ冬 中村晋
せんそうの学校へいわの学校星月夜 野﨑憲子
○綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
不意の句を薬ぶくろに書く夜長 前田典子
布団干す太平洋に向けて干す 松本悦子
たましいは淵に集まり暮早し 松本勇二
草一本一本が人類滅亡を待つ マブソン青眼
燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
皆既月蝕われ泥海でいかいのうろくず 山本掌
たばこ屋の昔小町や小鳥来る 山本弥生
自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫

野口思づゑ 選
○不登校小鳥は水場さがしてる 伊藤道郎
移住者干すどのタオルにもトンボかな 大久保正義
ゼレンスキーの縦じわ深しキーウ寒月 岡崎万寿
生成り色の天六商店街冬ぬくし 桂凜火
白菜を背骨あるごと裁きけり 齊藤しじみ
○戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
秋の蝶えんぴつ使う気弱な日 芹沢愛子
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
雪虫のあなたたちの一匹はあなた たけなか華那
公園の子らも散りたる秋夕焼 友枝裕子
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
鉦叩同時通訳意味不明 長谷川阿以
茗荷咲く複雑な仲であります 日高玲
酉の市熊手で集めたき平和 平田恒子
マスクしてクレオパトラのアイシャドウ 前田典子
林檎半分ゴリラは友達社会だな 増田暁子
感情を失くした父は冬木立 松井麻容子
泥葱をむけば地軸のひかりかな 嶺岸さとし
振りむけどもともと独り冬桜 村本なずな
○息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫

三好つや子 選
鶏頭にまだこびりつく自尊心 泉陽太郎
携帯が人の匂いをさがし鳴く 市原正直
秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
ホスピスの壁に優しき蔦紅葉 故・伊藤雅彦
○不登校小鳥は水場さがしてる 伊藤道郎
字余り字足らずぶらぶらと晩秋 井上俊一
瞬きでたぐり寄せてる冬銀河 大池桜子
黒色火薬つまめば冬の蝶翳る 大西健司
地面より手がでる予感曼珠沙華 尾形ゆきお
ホッチキスで止めて安心秋の虹 奥山和子
小春日をたんと心の筋肉量 加藤昭子
葉書いまどこで道草秋の夕 川崎益太郎
どの紙面もさびしい鳥の羽音 三枝みずほ
潮騒の母語となりゆく小春かな 長尾向季
天地創造蟻いっせいに走る 前田恵
海鳴りがくっついてくる冬の街 松井麻容子
退屈な水くらげから耳になる 松本千花
冬蝶の動線開けおく老農夫 嶺岸さとし
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士
ゆっくりと落葉語で話してくれ 横山隆

◆三句鑑賞

締めて快適褌外して尚快適 植田郁一
 何とも快活快適な句。小生も褌にしたいと思っている。兜太先生と風呂が一緒のときの褌姿を思い出している。作者植田郁一氏そのものの一句であろう。りズム良き七七五に乗せられてしまったのである。日常生活を見事に俳句にしていただいた。兜太先生も喜んでいるだろう。ありがとう。

秩父産土寒九の水を飲み干して 関田誓炎
 作者は秩父在住、勿論産土である。関田さんの温かさは秩父での俳句道場、全国大会等でお目にかかり、何時も秩父産土の句を創っていた。中七、下五のたたみ掛ける力強さに惹かれると共に、産土を愛する心が関田さんに句を創らせているのであろう。寒九の水がよく効いている。

除染ごみ去ってそのまま赤のまま 中村晋
 作者は福島の被曝の句を作り続けている。その一貫性に脱帽であり尊敬する。なかなか同じテーマを書き続けることは大変なことである。除染されても元には戻らない。人々は帰れない、「そのまま赤のまま」が見事に現状を言い得ている。そして、赤のままが人々の哀しさ、口惜しさ、苦しさを表している。
(鑑賞・稲葉千尋)

不意の句を薬ぶくろに書く夜長 前田典子
 稀に天からでも降りてきたように一句が生まれることがある。急いでメモしなければ二度と思い出せない。兜太先生の「おおかみに螢が一つ付いていた」も、そうして生まれた句に違いない。天から降りてきた句は、不思議と韻律がいい。韻律に酔い解釈などする気になれない。生活が俳句になるとたまに天の贈りものがある。

草一本一本が人類滅亡を待つ マブソン青眼
 草たちの呪詛であろう。男たちの欲望無限肥大により、植物も動物たちも多くの種が地上から姿を消し、その勢いは加速している。環境汚染が自然破壊とその絶滅を招くことを知りながら、我々は相変わらず膨大なエネルギーを使い続ける。印度のある聖者は「あなたの居る場所を聖なる場所にしなさい」と言った。それしかない。

燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
 素粒子の信じられない動き、人体のメッセージ物質同士の不思議な連携などを知れば、神の存在も信じたくなる。一方、凄まじい自然災害や無辜の子ども達や女性を無残な死に追いやる戦争を黙っている神なんて信じられない。だが、量子脳理論と量子生物学が神の存在について明らかにする日が近づいている。その日まで生きよう!
(鑑賞・大髙宏允)

渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
 渡り鳥が集団で飛ぶのは合理的理由からとはいえ単独行動したい鳥もいる。私の母は難病でケアの領域に入る繋がりを受けざるを得なかった。その時ある方から「お母様は今、人を教えています」と言われた。繋がりたくないと本人は切望しても周りの人は何か学ぶ。揚句から繋がりについて多く考える機会を頂いた。

帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
 退職や子育て終了後気落ちしていたのに今は、趣味、ボランティア、パート、体操などと忙しい。何世代か前、主役を終えた後は静かで穏やかな、余生と呼ぶにふさわしい毎日であった。一方現代の引退後世代は、体力気力充実し、やること盛り沢山。帰り花の季語をきかせ今のこの年代をユーモラスに代弁している。

息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫
 戦地での兵士の究極の仕事は相手の命を堕とす、もしくは自分の命を失くすこと。帰結のように、兵士の名のもと、有史以前よりどれだけの命が奪われていったか。その上、現在進行形で日々その数は増えていく。星月夜に輝くあまたの星が、敵であれ味方であれ、息途絶えた全ての兵士の悲しみに重なる。
(鑑賞・野口思づゑ)

不登校小鳥は水場さがしてる 伊藤道郎
 未知のことを知る喜びや友達ができる嬉しさで、多くの子どもにとって楽しいはずの学校生活。しかし、学校に居づらさを感じる子どもは年々増えているという。小鳥が水場を探すように、心の翼を休める場所を求めている彼らのSOSを、何故こうも教育の現場は見逃してしまうのだろう。そんな声が聞こえてきそうで心に刺さる。

天地創造蟻いっせいに走る 前田恵
 一読して、スペクタクルファンタジー映画で知られる「天地創造」のシーンが目の前に広がった。庭木の樹皮の間を登る蟻の行列、プランターを退かしたとき四方八方に散らばる蟻を眺めていると、映画の中のバベルの塔をはじめ、崩壊してゆくソドムやゴモラの街で右往左往する群衆に見えてきて、とても惹かれた。

ゆっくりと落葉語で話してくれ 横山隆
 春の若葉が夏になって輝きを増し、いつしか紅や黄に色づくように、話し方もまた様々な経験を重ねることで、いっそう魅力的になる。落葉語にはこうした作者の思いが深々と込められ、心に響く。近頃の、アップテンポで略語まじりの若者言葉を、やんわりと皮肉ったユーモアセンスも光り、興味が尽きない。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

錆に血の滲みて重し兎罠 あずお玲子
詰まる胸にこころあるらし寒の月 有栖川蘭子
脳幹の日溜りにほら冬の草 飯塚真弓
象の貌のやうな流木に初日 石鎚優
二時間を雪降るだけを見つめいる 井手ひとみ
初日なまぬくし戦前なのかいま 岡田ミツヒロ
うしろ影しぐれて吾妻ゆきゆけり 押勇次
癌潜む暗がりからの冬の蝶 小野地香
手袋の草用水用北風用 梶原敏子
返り花母へ恩給の兵の墓 後藤雅文
ストーブや母の絵筆に黄の灯る 小林育子
武器を擱くそれも戦争冬銀河 近藤真由美
松飾りせで雪国を出でにけり 佐々木妙子
思ひ人とうにはかなし雪明り 佐竹佐介
雨雪あめゆじゅの味遥かなり喜寿過ぎて 塩野正春
いいえ世間に負けたということ冬至 清水滋生
体内にブラックホール大焚火 宙のふう
我が輩は仔猫の主で父母の子で 立川真理
我が生は太古よりくる半仙戯 立川瑠璃
流氷を打てばふるさと後退る 谷川かつゑ
狐火のコサックダンス渺々と 藤玲人
北塞ぐよく似た顔のいる棺 中村きみどり
男とも女ともなく雪の匂い 福岡日向子
裸木や癌を抱くも先を見る 保子進
思い出になるまでを雪の下で生きる 松﨑あきら
自畫像に瞳描けぬ日溜まりや 吉田貢(吉は土に口)
初詣せーので始まる二礼かな 吉田もろび
文鎮を母の押さえて「ゆめ」吉書 路志田美子
反戦の血潮まじへる寒椿 渡邉照香
寒紅や母親の胸にある曠野 渡辺のり子

春の色 望月士郎

『海原』No.47(2023/4/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

春の色 望月士郎

みずいろの今から春を描く絵具
啓蟄の赤い「家庭の医学」かな
キューピーにももいろの影告知祭
青しとは白木蓮のうわの空
夕桜うすむらさきの声で呼ぶ
鳥雲に灯台という白えんぴつ
春の野にひとりのみんな出て黄色
黒猫と白猫の恋ジャズピアノ
目玉だけ残してアネモネの紫
風船にみどりの時のふくらみつつ

『海原』No.47(2023/4/1発行)

◆No.47 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
母さんは百合鴎そう新種です 大沢輝一
ジェラシーの薄くなるまで葱刻む 奥村久美子
余命という白き鳥浮く冬の水 桂凜火
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
雪蟲や埋れしままの異土の骨 河田清峰
赤心にかざありとせば冬林檎 北村美都子
とろろ汁頭上どこかをドローンかな 木下ようこ
冬の蠅こんな身近に孤独死が 黒済泰子
葛飾や小春日を掃く寺男 小松よしはる
小寒や手押し車の母の息 齊藤しじみ
十二月八日余白に父の海 白石司子
鮫肌の梅の古木に父宿る 鈴木康之
寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
綿虫飛ぶわたしから遠いわたし 竹田昭江
冬の月言いたいことはそれだけか 田中信克
楽譜ひらけば流れだす冬銀河 月野ぽぽな
泥醉や渾身どこも散紅葉 董振華
飴色に焼けた鍛冶屋の鼻に雪 中内亮玄
冬晴れや番い鳥めき生協に 中村孝史
自由ですシベリアからの白鳥群 野口思づゑ
遠い戦禍ドミノ倒しに末枯るる 疋田恵美子
餅ふくれだす昼のふしぎなじかん 平田薫
何に震えてスマホあかりよ白鳥しらとりよ 藤野武
晩年のネコ科の二人小六月 船越みよ
銀杏舞う逆光なれば亡兄が立つ 松本勇二
開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
老いゆくや抽斗いっぱいの空蝉 森鈴
物忘れ叱られているポインセチア 渡辺厳太郎

中村晋●抄出

中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
出棺待ち遠し綿虫が騒ぎ出す 植田郁一
歩くほど遠くが見える草紅葉 上野昭子
湯上りの母ほめる父鳳仙花 柏原喜久恵
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
はたはた食いこめかみ辺り日本海 狩野康子
弟の名多き亡母ははの日記雪 木下ようこ
大根煮る女で母で祖母であり 楠井収
夕やみだか雪虫だかどっと来る 佐々木宏
霜柱踏む確かさや骨密度 佐藤紀生子
アレッポの児らに乳無きクリスマス 高木一惠
みみずくや閉じゆく今を見つめてる 高木水志
甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
着ぶくれてサッカーどうでもいいです 峠谷清広
小鳥来る寂しい日差しを連れてくる 董振華
栴檀の青い実主語のない話 鳥山由貴子
白鯨の座礁しており冬銀河 中内亮玄
「北風がビューンって言ったね」「行ったね」 中村道子
雑巾を投げて冬蝿落ちにけり 梨本洋子
冬鷺の滑空おのれ生かすごと 根本菜穂子
船長は山茶花宇宙船地球号 野﨑憲子
淡々と流されてあり秋のベンチ 日高玲
山茶花溢る確かにあつく兜太の手 藤野武
裸婦像を見あげる仔犬冬ぬくし 本田ひとみ
山眠る小さな村の木の図書館 松岡良子
花枇杷ほのと福耳ともるをちこち 三世川浩司
熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
えびせんに残る海老の眼秋の風 深山未遊
固太りの子どすんと膝に冬夕焼け 村松喜代
PKのキーパー逆に跳ぶ霜夜 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
 昨年十一月、中国政府の強硬なゼロコロナ対策に、たまらず白紙を掲げて抗議するデモが起こった。この抗議に対する応援の声は、台湾、東京、ニューヨークにも広がったという。白紙の意味は、何を書いても消されてしまうというものだったらしい。掲句は、その運動への声なき声援を送ったもの。時は「冬の日」だが、厳しい現実をも含意しているとみてよかろう。「咆哮の君ら」に、その切迫感が覗える。

赤心にかざありとせば冬林檎 北村美都子
 「赤心」とは、いつわりのない真心のこと。「香」を「かざ」と呼ぶのは、京ことばで、関西や北陸地方でも使われているという。「赤心にかざ」と配した作者の言語感覚に驚く。「せき」「かざ」の音韻の響き合いが、いかにも冬の季節感に通う。しかも「赤」「香」の意味的な照応が、「冬林檎」の質感を浮かび上がらせる。音と色合いが、「赤心」と「冬林檎」に具象感を与えたのではないか。

とろろ汁頭上どこかをドローンかな 木下ようこ
 とろろ汁を食べている頭上に、ドローンの飛んでいる音が聞こえてくるという景。取り立ててどうということのない句ながら、その音韻効果と相俟って、なんとなく冬の日の鬱屈感とどこか不安感を混ぜたような、妙な陽だまりを感じられないだろうか。それは長引くコロナ禍につながる不思議な実感を呼ぶような気がしてならない。その敏感さが作者の詩的感覚なのだ。

十二月八日余白に父の海 白石司子
 開戦の日の余白に父の海があるという。おそらく父にとっては大きな出来事であって、それを機に、その生涯に大きな転機が訪れたのだ。歴史を画する時なら、誰しも訪れる転機だろうが、作者自身の人生にとっても父の転機が、大きく影響したのかも知れない。「父の海」は、作者にも続く海だったのだろう。

寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
 寒雀が地表を盛んに啄んでいる。その様子を、電信で訃報を打っている様子と見た。近頃盛んに舞い込んでくる訃報と見立てたのだ。そのとき、やがては自分自身の訃報も、このようにして打たれるのではないかと感じている。だが待てよ、俺の訃報ぐらい俺が書くから、余計なことはするなという。それは身近に感じている耐えがたい死の恐怖への、裏返しの衝迫だったのかも知れない。

自由ですシベリアからの白鳥群 野口思づゑ
 シベリアは多くの虜囚の流刑の地。そのシベリアから多くの白鳥が帰ってきた。白鳥は口々に、今、私たちは自由ですと呼び交わしているかのようだと見ている。作者の思いの中には、ロシアのウクライナ侵攻で捕らえられた人々の思いを込めているに違いない。上五に「自由です」と置いて、解放感の大きさを訴えた。

晩年のネコ科の二人小六月 船越みよ
 「晩年のネコ科の二人」とは、老いたる夫婦を想像する。二人して小春日の陽だまりの中に座って、日がな一日うつらうつらと日を過ごす。それは従順で愛らしい老い猫のようにも見える。この句はそれ以上のことは書いていないが、何もしない、出来ない二人ながら、そこにいるだけで、二人にとっての平和な温もりがある。

開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
 太平洋戦争開戦日十二月八日は、無謀な戦争を仕掛けた日本の大きな錯誤の日という他はない。もちろんそこに追い込まれる国際情勢があったとしても、長期的な展望を欠いたイチかバチかの賭けだった。またマスコミに煽られた世論があった。さらに「日の丸の下、為せば成る」という盲信がまかり通っていた。「日の丸という赤き穴」は、そんな歴史時評を見事に、感覚的に言い留めている。

老いゆくや抽斗いっぱいの空蝉 森鈴
 老いの意識は、不意に訪れるものだが、「老いゆく」とは、その重なりをいう。空蝉は、気づいたときに拾い集めたもので、それは時間の断続的な流れの中で堆積してゆく。ふとみると抽斗いっぱいに貯まっていたという。そこには人生の虚しさが詰まっていて、こんな形で老いてゆくのかという感慨を誘うのではないか。それを見て、老いへの向かい合い方をあらためて確かめなおしているのかも知れない。

 他に取り上げるべきだった句を列挙しておきたい。

「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
母さんは百合鴎そう新種です 大沢輝一
ジェラシーの薄くなるまで葱刻む 奥村久美子
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
冬の蠅こんな身近に孤独死が 黒済泰子
綿虫飛ぶわたしから遠いわたし 竹田昭江
楽譜ひらけば流れだす冬銀河 月野ぽぽな
冬晴れや番い鳥めき生協に 中村孝史
何に震えてスマホあかりよ白鳥しらとりよ 藤野武
銀杏舞う逆光なれば亡兄が立つ 松本勇二

◆海原秀句鑑賞 中村晋

淡々と流されてあり秋のベンチ 日高玲
 一読不思議な世界に迷い込ませるような句。目の前に存在しているベンチが、淡々と流されてやってきたとはどういうことなんだろう。流浪のベンチ。どこか砂浜にでも作者はいるのだろうか…。そこではたと気づく。この句を「秋のベンチ」の前で一旦切って読み直してみるとどうなるだろう。すると「淡々と流されて」あるのは作者であり、作者はある種の漂泊感を抱いてベンチに腰掛けている、とも読めてくる。読者をひとつの世界に誘い出し、しかしそこでまた別の世界に連れ出す絶妙な間合いのある一句。しみじみと自身の生の意味を噛み締める作者の姿がありありと見えるようだ。

花枇杷ほのと福耳ともるをちこち 三世川浩司
 作者の作品世界はつねに独特だ。まずは韻律のオフビート感が他の作者にはない持ち味である。そして言葉の選択。「花枇杷ほのと」のあとの「福耳」への転換。しかも「福耳」が「ともる」とはどういうことか、つい立ち止まり考えさせられてしまう。しかし何度も味わううちに初冬の明るい光景がじわじわと目の前に広がってくるから不思議だ。そしてなんともいえない幸福感も。「考えるんじゃない。感じるんだ。」という言葉を思い出してしまうほどの感覚の世界。こういう句を作る作家を擁する「海原」の懐の広さがとてもうれしい

山茶花溢る確かにあつく兜太の手 藤野武
 「温く」を「あつく」と読ませるところが実に心憎い。「厚く」もあり「熱く」もあった兜太先生の手を、私も思い出さずにはいられなかった。「山茶花」との取り合わせが、身体が覚えている「温い」記憶を呼び起こすようだ。身体に訴える句の力強さを改めて思う。

熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
 この句も身体感覚を呼び覚ます一句。「喪中葉書」に驚き、喪失感を覚えるときの心の痛みを、「殴られて」と言い止めながら、作者はその痛みに耐えているに違いない。また「熱燗」を飲む作者の心は少々荒れているかもしれない。だが、その痛みや荒れの奥から、作者の優しさが熱く滲み出してくる。痛いほど優しい一句。

夕やみだか雪虫だかどっと来る 佐々木宏
 俳句を作り俳句を読みながらいつも不思議に思うのは、この短い詩型が、どうしてこれほど風土を色濃く盛り込めるのかということである。おそらく意識して盛り込めるものではないだろう。作者の潜在意識が句に表出されるということなのだろう。俳句の面白さ奥深さという他はない。そしてこの句もその例に漏れない。「夕やみだか雪虫だか」と少しおどけながら「どっと来る」とぶっきらぼうに言い放つ。闇の大きさを感じつつ、これから訪れる厳しい冬の予兆に作者は畏れを抱いているに違いない。北の大地の風土が韻律に刻印されている句だ。

枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
 現在の地方、とくに僻村の状況を活写した一句である。子がいないだけではなく、もはや働き盛りの青年壮年がいないのだ。皮肉なことに残っているのは「屈強」の枯葦ばかり。「屈強」ということばを反転して使った作者の言葉を選ぶセンスが光る。と同時に、風土を徹底して描くことで、句がおのずから社会性を帯びてくることにも気づかされる。俳句にどのように社会性を盛り込むか、地方の俳句作者にとって示唆に富む一句である。

みみずくや閉じゆく今を見つめてる 高木水志
 作者は二十代の青年。私も二十代の後半から俳句を作り始めたが、この年代でこのような時代の感覚を映し出した句を作ることなど到底できなかった。「閉じゆく今」という表現に時代の閉塞感が見事に映し出されていると思う。そして言葉にできない憤りなども。「閉じゆく今」という時代に我々はどう抗うか。これは決して青年だけの課題ではない。多くの人たちと分かち合いたい一句。

アレッポの児らに乳無きクリスマス 高木一惠
 今はウクライナの戦争のことが話題の中心だが、ほんの数年前はシリアの内戦、とくにアレッポの惨状のことがニュースでしばしば報道された。今ここに作者が「アレッポ」を持ち出す理由はどのようなものだろうか。シリア内戦のことを忘れかけている我々を問い質しているのだろうか。ウクライナではなく、あえて「アレッポ」を題材にし、ストレートに句にした作者に共鳴する。

船長は山茶花宇宙船地球号 野﨑憲子
 「宇宙船地球号」という言葉を提唱したのはアメリカの建築家バックミンスター・フラー。1972年ストックホルムで開催された国連人間環境会議においてこの言葉がスローガンになった。私は社会の教科書でこの言葉を学習した記憶がある。しかし今この言葉をどれほどの人が衒いなく使えるだろう。作者の大胆さに感銘する。「宇宙船地球号」という言葉の重さよ。しかも船長は山茶花という。このファンタジーのあつさよ。

◆金子兜太 私の一句

死にし骨は海に捨つべし沢庵嚙む 兜太

 この句を目にした時、胸をガツンと打たれた気がしました。一凡人である私は、世に名を残すこともなく、命が尽きれば、この世から消え忘れられてゆくのだと達観している。だからこそ生を全うしたいと思っている。たとえ沢庵を食ってでも、である。私の人生訓にしたい句です。『少年』(昭和30年)より。佐藤君子

涙なし蝶かんかんと触れ合いて 兜太

 「出会いは、人生の香り」と聞かされてきた。兜太先生と出会わせてもらい、半世紀が過ぎた。ふらふらとずるさもしながら、やっとなんとかここにいる。万謝である。掲句は、「海程」最後の熊谷大会で出句した句が佳作に入選。頂戴したサイン入り『いま兜太は』(平成27年・岩波書店)の中にある。万象の命への感受、天からの声が聞こえてくる。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。森田高司

◆共鳴20句〈1・2月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
蟋蟀の声脳幹の碧色 石塚しをり
良心に勝る杖なし大花野 鵜飼惠子
雨上がり昔を映す水溜まり 大西政司
曼珠沙華言葉に毒を乗せて吐く 奥山和子
○邪な愛をプチトマト転がる 桂凜火
古稀以後の遊び足りない烏瓜 加藤昭子
人は渦をつくりては解き天の川 鎌田喜代子
花野道兵士は前を見るばかり 楠井収
吊皮に見覚えのない右手かな 小松敦
なんでもないそう言いながら雪の道 小山やす子
十六夜や聖域という揺らぐもの 近藤亜沙美
坂道も人の命も秋色で 佐藤詠子
冬の虹自転車の青年が追う 佐藤博己
晩夏光鍵の匂いを深く嗅ぐ 重松敬子
木の葉髪生きた証しが湯に遊ぶ 立川弘子
はつしぐれ海にも海があればいい 平田薫
○萩白く母はことばの向こう側 藤田敦子
待たされてもいい満月なんだから 船越みよ
自虐とう手近な安堵蝉の穴 森由美子
秋思とはナースコールの一歩前 渡辺厳太郎

刈田光児 選
吹く風に吹かない風に秋の艶 泉陽太郎
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
鰯雲対策本部事務会議 片岡秀樹
酔芙蓉モデルはすっと笑う面 川崎千鶴子
雁渡し逝ってしまえば反故ですね 河原珠美
秋霖を胸の林へふりそそぐ 後藤岑生
薔薇の門に青き棘あり潜りけり 小西瞬夏
新潟米一年分を取りよせて 小林花代
青春の18きっぷ青みかん 齊藤しじみ
曼珠沙華身のうちそとの水揺れて 佐孝石画
在りし日の母の携帯金木犀 志田すずめ
峡住みの男へぼろんと木の実降る 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
十五夜の靴が揃って跡目論 すずき穂波
糸とんぼこんな湧水ある平和 芹沢愛子
虫鳴くや点滴流れゆくからだ 高木水志
指物師ナンバンギセルなど吹かす 鳥山由貴子
毒舌はきみの優しさ曼珠沙華 室田洋子
月そっと心療内科をひらきます 望月士郎
嘘つきの狐になって早五年 らふ亜沙弥

すずき穂波 選
院展や首にあご埋めなおし観る 石川まゆみ
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
いのこずち私の邪魔をしない蛇 奥山和子
○邪な愛をプチトマト転がる 桂凜火
聞き返し聞き返し紅葉かつ散る 川崎千鶴子
秋日影近未来的水飲み場 川田由美子
梨噛んで夫が遠い目をしたる こしのゆみこ
裸電球背中は一本の廊下 三枝みずほ
秩父産土寒凪の水を恋すなり 関田誓炎
蜩や引き延ばされた僕がいる 高木水志
蝉の山は飢餓かな俺の樹が揺れる 竹本仰
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
霍乱の母に冷凍野菜貼る 新野祐子
たましひのはなるるけはひ霧の杖 野﨑憲子
○茗荷咲く痛みはもぐり込んでゆく 日高玲
○萩白く母はことばの向こう側 藤田敦子
蓮の実飛ぶ水輪のように帰心あり 船越みよ
大花野旅の一座のホバリング 松本勇二
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子

横地かをる 選
場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
冬瓜転がす時々人間が淋しい 井上俊一
あめんぼうこんなに軽い静寂感 榎本愛子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
山法師流れのままに今をゆく 黒岡洋子
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
つま先から未来へ入る秋の山 すずき穂波
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
○茗荷咲く痛みはもぐり込んでゆく 日高玲
国境の切り取り線に秋夕焼 増田暁子
やわらかい気持ちの余白おでん喰う 松井麻容子
紫蘇の実を摘みし指先水を編む 松岡良子
いつはりなきかたちとなりて枯木星 水野真由美
草雲雀ふっと鉄道唱歌かな 三好つや子
自然薯に山の記憶の容かな 矢野二十四
夕顔の凜と咲く家老世帯 吉村伊紅美
障子切り貼り動物の白過ぎる 若林卓宣

◆三句鑑賞

良心に勝る杖なし大花野 鵜飼惠子
 転ばぬ先の杖、という。何事も前もって準備しておけば失敗しない、といった意味だろうか。でも、と最近思う。杖を作るにもつくにも労力が要る。安全のため、権利のためなどといって日々たくさんの杖が作られる。作っていなければ非難もされる。でも、これって、きりがないのではないか。大花野を見渡す。答えを探して。

雨上がり昔を映す水溜まり 大西政司
 いつのことだったか。よく思い出せない。そもそもそんなことは、どうだろう、でも何かが、どこかに、引っかかっている。聞こえる。これはなんだ。雨、雨か、いや雨の音か。そう、雨だ。わかっている、もう過ぎたこと。もうどこにもない。どこにも。

晩夏光鍵の匂いを深く嗅ぐ 重松敬子
 すべてが気に入っていた。夏の朝日、冬の西日。台所から見える公園、子供たちの声。くしゃみばかりする給湯器、追い焚き機能のないお風呂。妙に縦長の靴箱、持ち上げてから閉める扉。地図の染みがある天井、壁を埋め尽くす本棚。そして、あなたの机。それが、前触れもなく、こんなにあっけなく。それが。でも、これでよかった。きっと、これでよかった。
(鑑賞・泉陽太郎)

峡住みの男へぼろんと木の実降る 白井重之
 一句は、春の季節を裏返ししたような晩秋の峡の美しい景が想像される。青天と紅葉した夥しい木の葉のコントラストの対比に、季節のクライマックスを見る。時折り木の実の落下の響きが周りの静寂を破り、余韻の後に静寂を深くする。〈ぼろん〉というオノマトペが何とも効果的。生活を愛し、俳句を生き甲斐とする作者。

糸とんぼこんな湧水ある平和 芹沢愛子
 この句を試みに数式で読んでみる。〈糸とんぼ+こんな湧水ある=平和〉、動詞〈ある〉は、上下に掛かるあるあるの両掛かりと読みたい。一句は、稚い糸とんぼと湧水の清らかな美の中に自然の真の平和を感受した。ちなみに新潟市郊外に在る「佐潟さかた」に生息している糸とんぼは、ラムサール条約の庇護のもとに平和に生きている。

指物師ナンバンギセルなど吹かす 鳥山由貴子
 指物師という名前に、指の文字が使われており、精巧な細工を施す器用な技能が窺える。細工物を見たくて興味津津。ナンバンギセルは夏の野草。ネーミングが面白く、両者の取合せが実にユニーク。導入の副助詞の〈など〉は、他の物を暗示する含みのある言葉で、戯けぶりが軽妙。読み手に想像の余白を預けた一句。
(鑑賞・刈田光児)

聞き返し聞き返し紅葉かつ散る 川崎千鶴子
 「耳遠くなり、目薄くなり……それが老い、いたしかたなく、かたじけなく、それが老夫婦の両想い?まだまだ人生紅葉、けれど、はらはら散り初めたのよ、ちゃんとわかってあげたいから、ちゃんと解り合えたいから、何度も聞くよ、何度でも応えるよ」こんな慈愛の一行詩。

秋日影近未来的水飲み場 川田由美子
 「近未来的」は「前近代的」の陰画ネガ。不透明で不穏な現代、この二極は同一性を帯びてもいるのだ。秋日影に存在するノスタルジックな一隅、そこに機能美を備えるものの無機質な水飲み場を見つけたのだろう。人間不在の感も漂う。地球砂漠化が言われているが、水の惑星の、水の未来を一瞬想い描いた作者の空疎感、そして倒錯感。

たましひのはなるるけはひ霧の杖 野﨑憲子
 ビデオゲームに「霧の杖」という奇妙なソフト名があるが、掲句は霧中に置かれている杖だろう。人影は見えず、亡き人の魂だけが未だ杖に残っている。その魂もそろそろ杖から離れようとしている。霧が晴れやがて杖そのものだけが遺品と化し、故人の存在が比類なき確固たるものとなる。この句の映像は、幻視に終わっていない。「いのち」が深く捉えられているからだ。
(鑑賞・すずき穂波)

水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
 不登校を比喩に用い一句を成立させている。さまざまな原因や理由で学校への行きづらさを感じていること子どもの現実がある。「水場」にいる「小鳥」は不登校の子のすがたとも重なり胸が痛くなる。しかし、「翼」にはその子の心を落ち着かせる確かな力量を感じる。広い世界へ飛び立とうとするプラス思考への昇華でもある。

山法師流れのままに今をゆく 黒岡洋子
 三年におよぶコロナ禍の規制。以前の生活とは余りにもかけ離れた日常を余儀なくされ、家の中に籠る作者。「流れのままに今をゆく」思い描いていたコロナ前の暮らしとは甚だ違う生き方を強いられてきた作者の偽りのない心の在り様は尊いもののように感じる。流れに抗えぬ人の暮らしの余情がにじむ佳句。

やわらかい気持ちの余白おでん喰う 松井麻容子
 緊張がほぐれた時、ほっと気持ちが軽くなることを覚える。「やわらかい気持ちの余白」はそのような状況なのかと思う。精神的にゆとりが出てくると何か食べたくなるということも心情的に理解できる。折も折、じっくり味の沁み込んだおでんを口にされたのだ。心も体も温かくやわらかい。作者の真心がしずかに伝わってくる。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

いい人と呼ばれたくない冬夕焼 有栖川蘭子
尾を持たぬ巨大な影と日向ぼこ 有馬育代
冬椿人の重さの撓みかな 安藤久美子
胆勇を備へ旦暮のマスクかな 飯塚真弓
水初めて氷る山羊を飼う保育園 石口光子
冬の蝿冬の踊の真青なる 石鎚優
うさぎ抱く少女のピアスしゃれこうべ 上田輝子
ひとり身に横殴りかよ初こがらし 遠藤路子
A型かB型かといえば時雨る 大渕久幸
氷の眼いま恍惚の核ボタン 岡田ミツヒロ
哲の日の降りみ降らずみ雨絶えず 押勇次
帰る家なし押し競らに弾かれて 小野地香
妣命日はこの店のこのシクラメン 樫本昌博
皹を隠しいくばく親不孝 木村寛伸
吊し柿夫婦の糖度高めあう 後藤雅文
聖樹高々人はみな誰かの子 小林育子
銀杏降るこの名画には武器はない 近藤真由美
平和呆け少ししていて開戦忌 重松俊一
ワシントン靴店俺たちの墓標とあり 清水滋生
高一や浮かんで消ゆる春を抱き 立川真理
冬かげろう吾の眼にいない吾を探す 立川瑠璃
絞首台のあった辺りや雪蛍 藤玲人
敵味方の鍵こじあけよ初景色 福井明子
想像の及ばぬ日々を時雨かな 福岡日向子
青春は戦争さなか日向ぼこ 増田天志
雪の道ひしと玉子を買って帰る 松﨑あきら
春の闇六畳一間は脈をうつ 村上舞香
頬かぶり似合える君と手をつなぐ 吉田もろび
机下に垂れるエゴイズムしゃこばさぼてん 渡辺のり子
雪女郎手首にナイフ軽く当て 渡邉照香

『海原』No.46(2023/3/1発行)

◆No.46 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

榠樝の実落ちて居場所のなかりけり 伊藤幸
よう来たか秩父木枯吹き合う笛 植田郁一
フェイスシールド色鳥は純な球 大沢輝一
よう咲いたと白山茶花に一献 大谷菫
神送りアンサンブルのような雨 小野裕三
穭田の光唄えば自由律 加藤昭子
覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
好きな曲だけを集めて小鳥来る 小松敦
戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
やわらかい握手のごとし荻に月 佐孝石画
連弾です大草原の草紅葉 鱸久子
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
ざくろの実その感情のつとはぜる 竹田昭江
かりんの実青く重たく中学生 田中亜美
雨戸重たし無縁社会はしぐれたり 長尾向季
更地にもなれず被曝の田にすすき 中村晋
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
誘うような手首の静脈秋の蝶 仁田脇一石
肉親との話し炭火のあたたかさ 野口思づゑ
人類に国境のあり鰯雲 野﨑憲子
綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
言い訳の色づく秋の山帰来 松本千花
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士
時雨忌やラーメン店の列に従く 村本なずな
血の色の実の生っている寒さかな 望月士郎
ラ・フランス自傷の匂い微かなる 茂里美絵
飛魚は星座になってみたいんだ 森由美子
燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫
老老の庭灯すごと石蕗の花 吉澤祥匡

中村晋●抄出

秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
今夜読む本ありホットミルクティー 大池美木
弔辞優し屋根に燕の列長し 大久保正義
模造銃構え少女の微笑む冬 大西健司
桜もみじ巣箱はさびしいオブジェです 河原珠美
立て掛けし画架イーゼルに跳ね櫟の実 北村美都子
月夜です田んぼに忘れし茣蓙一枚 小池弘子
覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
友の名呼ぶ冷たい月を撫でるように 佐孝石画
はつ雪をまず掌になみだほど 佐々木香代子
差羽来て野はひりひりと透き通る 篠田悦子
日の沈むくにの国葬まんじゅしゃげ 芹沢愛子
冬野やや遠くに孤礁のよう老人 十河宣洋
紅葉かつ散る停戦の落しどころ ダークシー美紀
窓越しに看取る日もあり朴落葉 立川由紀
白コップに牛乳注ぐ十一月 豊原清明
返さるる介護寝台暮の秋 長尾向季
半月は子規の横顔粥すする 船越みよ
眼の合ひし野菊を摘んで誕生日 前田典子
秋ばらの棘のしづけさ出さない手紙 松本千花
よく凍てて星を集める生家かな 松本勇二
葬儀屋のロレックス光る朝霧に マブソン青眼
北風や執事のような猫と住む 三浦二三子
君の絵に丸ごとの秋 君がいない 村上友子
充電完了まで鰯雲で待機 室田洋子
野ぶどう熟れる片思いってなんと一途 森武晴美
天瓜粉すっぽんぽんが逃げまわる 森由美子
自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫
コスモスに風コスモスの風になった 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

よう来たか秩父木枯吹き合う笛 植田郁一
 言うまでもなく、兜太師を偲ぶ句。「よう来たか」に、師のこわぶりが乗り移っている。作者自身、その声、その言葉の体験者であり、それは今もなお秩父の木枯らしの笛の中から聞こえてくるものなのだ。師亡きあと五年の歳月を経てなお、師の声がまざまざと聞こえてくるというのは、それだけ師を惜しみ、その臨在を待望する多くの人々の思いを、伝えようとする作者の願いでもあろう。

穭田の光唄えば自由律 加藤昭子
 穭田に萌え出る若い稲が、懸命に新しい茎を伸ばそうとしている。それは晩秋の光の中に輝いて、あたかもてんでに唄を唄っているかのよう。唄は斉唱でも合唱でもなく、それぞれ勝手にソロで唄い、中にはラップ調でしゃべくるものもいる。そんな混然とした演奏前の音合わせのような光の束を、「自由律」と言ってみたのではないか。この音と光の合奏の着眼は、穭田の風土感を新しい視角から言い当てている。

覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
 昔風の箱作りの鏡台で、親しい間柄の人がお化粧をしている。その「おつくり」の途中の鏡面に、ふっと覗き込むようにわが顔を差し入れて、あやかりたいとでもいうかのように、化粧する人の顔に重ねて鏡像を見ている。その瞬間を、「秋の鏡に入れてもらふ」としたのは、美しく仕上がってゆく人への羨望に近い憧憬ではないか。

戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
 おそらく、ここで隅々を拭いているのは、敬老日にお祝いされる当の老人であろう。別に誰に頼まれたわけでもなく、むしろ今日は何もせずゆっくりしていて下さいと言われていながら、自ら進んで隅々まで拭き掃除をする。後に残る世代に、せめて戦争のない今の平和な暮らしが続きますようにとの願いを込めて、丹念に。

やわらかい握手のごとし荻に月 佐孝石画
 荻は、蘆に似た水辺に生える高さ一〜二メートルの大型の多年草。中国では蘆荻という言葉もある。人目を忍ぶ逢瀬なら、恰好の隠れ処かもしれない。月は中天に登って、川辺のデートもそろそろ別れの時が迫っている。そよそよと揺れる荻のさやぎが、やわらかい別れの握手の触感をつたえるかのようだ。二人の胸には、同じ思いが兆しながら、なかなか切り出せない。作者の青春性がよく出ている一句。

肉親との話し炭火のあたたかさ 野口思づゑ
 オーストラリア在住の作者が、古き良き日本の風土感に根ざす句をものした。海外在住の作者には、こんな憧れがあるのかも知れない。たしかハワイ在住のナカムラ薫さんも、「野遊びの素直になるための順路」(令和三年九月)と作っていた。掲句は、久しぶりに帰国した時、炭火の火鉢を囲んで肉親と話をした。その温かかったことを、心も体もひとしなみに受け止めている。

人類に国境のあり鰯雲 野﨑憲子
 ウクライナ戦争をモチーフにしている句。この戦争は長期化の様相を呈し始め、出口の見えないまま対立と緊張度を高めつつ、世界を大きく巻き込む可能性が出てきている。二〇二三年、日本の国境周辺での緊張感は一層高まるかも知れない。世界のグローバリゼーションは、ウクライナ戦争によって機能不全に陥った。あらためて人類に国境があることを思い知らされたという危機感を、作者はひしひしと感じている。この場合の鰯雲は、降雨の前兆としての不安感であろう。

綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
 晩秋から初冬にかけて、青白い光を放って浮遊する綿虫は、雪蛍、雪婆の別名もあるように、幻想的なイメージがある。初雪の降る前に、交尾して産卵するから雌は大方妊婦だろう。綿虫の群は空中に浮遊するので、かすかな気流に乗っているようにも見える。こういう綿虫の生態をそのまま描きながら、「妊婦なり」の抑えで、その空間に漂う生臭いいのちの気配を表出した。

時雨忌やラーメン店の列に従く 村本なずな
 時雨忌は陰暦十月十二日、芭蕉の忌日。そんな由緒ある日に、人気のラーメン店では長蛇の列が続く。「色気」ならぬ「俳気」より「食い気」だ。列の一人に聞いてみた。「時雨忌ってご存じですか」「時雨の季節ってことでしょう。ラーメンも旨い時期ですしね」「いや全く…」。

 他に割愛した評釈に手を焼きそうな注目句を挙げておきたい。

フェイスシールド色鳥は純な球 大沢輝一
神送りアンサンブルのような雨 小野裕三
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
ざくろの実その感情のつとはぜる 竹田昭江
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
誘うような手首の静脈秋の蝶 仁田脇一石
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士

◆海原秀句鑑賞 中村晋

返さるる介護寝台暮の秋 長尾向季
 しばらく貸し出していた介護用のベッド。それが返却された。句意としてはただそれだけのことを叙述しているようにも見える。しかし、この作者には、介護用ベッドが返却される前には、たしかにこのベッドで人が生きていたという事実が見えている。そして返却されたということは、ベッドが必要なくなったということ、すなわちその人が亡くなったということ。そこまで鮮明に見えている。ベッドが貸し出され、返却される。その日常の中に「いのち」の在り処を見つめている作者の詩心が冴える一句。「暮の秋」の斡旋も見事だ。

窓越しに看取る日もあり朴落葉 立川由紀
 「窓越しに看取る」という表現が尋常ではない。臨終を迎える人と窓ガラスを隔てなければならない状況は、現在のコロナ禍がもたらしたものと想像される。また「日もあり」とあるから、作者は看取ることを日常にしている方なのだろうか。いずれにせよこの句にも、「いのち」の重みが感じられる。「朴落葉」が作者のやるせなさを代弁しているようだ。物に即して心を述べる「即物」の技法。この技術がこの句にしっかりとした骨格を与え、美しい佇まいをもたらしているように思う。

葬儀屋のロレックス光る朝霧に マブソン青眼
 この句も「いのち」に関わる句。とはいえ、捉え方は反語的。死を取り扱う葬儀屋の世俗性、俗物性を告発する作品である。光る「ロレックス」を描き出すところに、死者から金を吸い取り、肥え太る葬儀屋の金満ぶりを見逃さない鋭い批評精神が宿る。「朝霧に」紛れようとしても決して許すまいとする作者一流の反骨の一句だ。

紅葉かつ散る停戦の落しどころ ダークシー美紀
 「いのち」を犠牲にする最たるものは何か。それはおそらく戦争に他ならないだろう。しかもこの度のウクライナ戦争に関しては、核兵器の使用も示唆された。あるいは原子力発電所への攻撃もあった。世界が、そして地球が危機にさらされている。一刻も早く「停戦の落しどころ」を探りたい。その切なる願いが「紅葉かつ散る」にひしひしと伝わってくる。紅葉が散り尽くしてしまう前になんとかしたいとは誰もが願うことだろう。しかし、その方向に向かわないもどかしさ。

戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
 この作者も戦争に対する怒りを覚えつつも、そのために何をしたら良いのか、何ができるのか、困惑しているようである。「戦あるな」を単に掛け声だけで終わらせないためにはいったい何ができるのか。簡単には答えは見つからない。そしてふと我に返り、「隅々を拭く」ことになる。自分自身の日々の暮らしを全うすること、遠回りかもしれないがそれしか道はないという諦念だろうか。「敬老日」の措辞にしみじみさせられる。

自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫
 沖縄に住む作者による作品であることを踏まえると、「自死」の語が重い。太平洋戦争末期沖縄地上戦における自決行為を指すのだろうか。今なお多くの課題を担わされる沖縄。「君に青空はみえたか」の問いは、本土の我々にも「君は青空がみえるか」の問いになって響く。いや、戦争と関わりがなくとも、多くの人々に自死を強いる昨今の日本社会である。鋭く刺さる一句である。

秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
弔辞優し屋根に燕の列長し 大久保正義

 「いのち」の存在は人間に限ったものではない。すべての生きとし生けるものに宿っている。そのすべての生きものと心を通わせる感覚を「生きもの感覚」と兜太師は呼んだ。それを強く感じるのがこの二句。「秋の蟻」が「影の重さ」に立ち止まっているのか、それとも作者自身が自分の影の重さに立ち止まっているのか、読みに揺れを感じながら、いつしか読む側も「秋の蟻」と心を通わせている。作者と蟻との距離はかなり近い。この近さが「生きもの感覚」を呼び覚ます。これは「弔辞優し」の句においても同様。葬儀の際の一光景だと思われるが、屋根にずらりと並ぶ燕たちを見て、作者は、まるで燕たちが死を悼んでいるかのようだと見ている。いや、作者はまさに燕たちが死を悼んでいると断定する。この句に通う人間と燕との間の濃厚な「生きもの感覚」。齋藤茂吉の名歌「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」を思い起こさせる一句でもある。

天瓜粉すっぽんぽんが逃げまわる 森由美子
 子どもたちが子ども時代を十分に過ごせなくなっているのが今の日本社会。しかし、この句の「すっぽんぽん」は十分に子ども時代を過ごしているようで安心させられる。「生きもの感覚」が横溢する愛らしい一句。

差羽来て野はひりひりと透き通る 篠田悦子
 差羽が渡る頃の空気感。それを「ひりひりと」と体全体で捉えた表現の深さ。野、山、空すべてに「生きもの感覚」「いのち」を感じさせる、これぞ海原の一句。

◆金子兜太 私の一句

海を失い楽器のように散らばる拒否 兜太

 海を失う不条理に抗し、拒絶の意志は個々の反抗を通して連帯する。それを兜太は楽器が奏でる音楽に喩えた。失われた海は作句の地長崎に拘れば、鎖国政策によって失われた自由の謂か。だが、読者はそうした文脈を離れて、例えば水俣の海で、沖縄の海で、奏でられたノーを、慟哭と希求の旋律として受け止めることができる。『金子兜太句集』(昭和36年)より。片岡秀樹

起きて生きて冬の朝日の横なぐり 兜太

 「気持ち良く目覚めると、オットット陽光のパンチを顔にくらったよ!」と、いかにも兜太師らしいウイットに富んだ御句で充実感に満ちています。「文化功労賞」をはじめ数々の受賞に輝いて居られた最晩年、2014年の95歳の時の句。この頃私は、師のお言葉は一言ももらすまいと講演会やカルチャーセンター、「海程」の例会や秩父俳句道場と、あらゆる行事を必死に追いかけていたのをなつかしく思い出します。句集『百年』(2019年)より。深山未遊

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
熱帯夜ああ魂が浮いている 阿木よう子
コトリとも音せぬ炎昼ぬっーと兄 綾田節子
悦楽はまだ先のこと片陰り 泉尚子
美しき誤解でありぬ秋の蝶 大池美木
秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
観念的な夏空戦車通り過ぐ 大西健司
性という螺旋階段林檎剝く 片岡秀樹
ハンカチを上手に落とせない女 河西志帆
遠雷やショートホープの箱は空 小松敦
○会えぬままに友は蛍まみれらし 芹沢愛子
核の秋手品はそっと人を消す 田中信克
「あと一年できたらいいね」日々草 永田和子
しらたまや和解のこだわりを捨てて 日高玲
独り居の硯を洗ふ水の音 前田典子
なぜ空がこんなに青い 死ぬ日にも マブソン青眼
不眠ひたひた拍動ふかくケイトウへ 三世川浩司
哲学的限界集落鰯雲 嶺岸さとし
古書店ごと昼寝していて入れない 宮崎斗士
生きものたちに霧の中心の音叉 望月士郎
酒焼けの声が祭りの山車を出す 若林卓宣

刈田光児 選
秋の雲まだ地に足が着いている 石川青狼
百物語一斉に携帯アラーム 石橋いろり
夜を音読する鈴虫よ旅に出る 伊藤清雄
赤蜻蛉すぐに届いた返信封書 故・宇田蓋男
口中のほおずき鳴らし返事する 榎本祐子
黄金虫今朝は異界につながれて 桂凜火
虫すだく闇のみずみずしく生れて 北村美都子
瘡蓋のような新宿そろり秋 こしのゆみこ
数学が苦手で蛍追いかける 佐々木宏
咲ききったカサブランカの孤独感 清水茉紀
ハマヒルガオ越後の国の駅無人 鱸久子
原爆忌水音だけを聴いている 竹本仰
肖像の人みな故人白露の日 田中亜美
疣蛙いぼがえる悠悠自適の貌上げて 樽谷宗寬
青僧の撞く梵鐘や水の紋 中内亮玄
○星涼しわれら明るき草である ナカムラ薫
太陽吸い死地覆い葛光りまくる 中村晋
八月を山折り谷折りしまいをり 藤田敦子
萩こぼる本をさがしていて兜太 松本勇二
夏帽子おやつのような風が来る 宮崎斗士

すずき穂波 選
かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
かなしみを逃水のように持て余す 榎本愛子
○怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
君という巡る流星静かなり 近藤亜沙美
よく噛んで顔の輪郭に追いつく 三枝みずほ
ゆるやかな喪失であり蝉時雨 佐孝石画
野菊の前で接吻していい村だ 白井重之
○会えぬままに友は蛍まみれらし 芹沢愛子
引力に乳房は任せ登高す 高木一惠
体液が流れるように夏越かな 高木水志
幼子や西瓜に食べられているよう 谷川瞳
○星涼しわれら明るき草である ナカムラ薫
蟬しぐれ水のようです溺れます 丹生千賀
古稀すぎて裏が表につくつくし 増田暁子
ぼんやりの反対は鬼秋彼岸 松本勇二
過疎村をばりばりと食み鬼やんま 嶺岸さとし
この星を捨て子のように天の川 望月士郎
虹ときに暗帯となり国滅ぶ 茂里美絵
地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名
文化の日巻き取られない人だつた 山下一夫

横地かをる 選
百日紅黙はこころの瘤である 伊藤道郎
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
○怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
抽斗に初秋ことんと音を出す 大沢輝一
霧食べて育つ霧の子霧の家 奧山和子
秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
行き先をまだサンダルに告げてない 河西志帆
言霊の優しさ結び星祭 高木一惠
骨格標本ひとつはきっと蚊帳吊草 鳥山由貴子
被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
ひょんなことから風に好かれて露の玉 野﨑憲子
十三夜車窓に知らぬ私いて 藤田敦子
月光に溶けゆく私というさざなみ 藤野武
はらはらと消えた日常鳥渡る 本田ひとみ
庖丁を研ぎゆく無心十三夜 前田典子
秋の蜂木の家ふっと木に還る 三浦二三子
敗戦忌母には母の水たまり 宮崎斗士
アキアカネつと世紀末横切りぬ 茂里美絵
折り合ひの自在かなしき秋茜 山下一夫
病室の白い天井 白い出口 横山隆

◆三句鑑賞

秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
 繋がっている。世界中と。いつでもどこでも、繋がれる。今日も明日も明後日も、今日も昨日も一昨日も、誰かが語りかけている、語りかけられている。ワタシは今、ひとつの死を悼んでいる。かけがえのない死を。でもそれは誰にも伝わらない。伝えたくもない。繋がっていても、繋がれていても。

遠雷やショートホープの箱は空 小松敦
 肋骨骨折、足関節捻挫、顎関節脱臼。口が塩辛い、背中が冷たい。腕は動く。少しずつ、少しずつ、手首をねじる。すっと引いて、抜けた。腕で這う、壁まで。ずり上がり、座る。誰もいない。胸ポケットをさぐる。潰れた箱、引き出す。そっと広げる。空っぽ。今日はツイているのか、いないのか。ずっと耳鳴りがしている。いや、神の声かもしれない。

古書店ごと昼寝していて入れない 宮崎斗士
 古本っていったって最近はネットでさ、何しろ手軽だよな。でもさ、ほら、運命的な出会いってやつ、あれはさ、なかなかネットじゃね。なんかこう背表紙が輝いててさ、手が震えるんだよな。で、オヤジは?え、奥で昼寝?なんだよ、また閉まってんじゃねえか。ウンメイ返しやがれ。
(鑑賞・泉陽太郎)

秋の雲まだ地に足が着いている 石川青狼
 掲句の表記は実にシンプル。しかし、天地にひとり佇む宇宙感。そして、流れゆく雲と、足裏から伝わる大地の柔らかい感触に、秋を感受する風土の匂いが生まれる。上句と下句をつなぐ副詞〈まだ〉は、時間を表し、やがてやって来る冬を予見しつつ、今が在るという良い意味の味を出している。読後から余白が見えてくる。

瘡蓋のような新宿そろり秋 こしのゆみこ
 〈瘡蓋〉とは、「はれもの、きずなどのなおるに従って、その上に生ずる皮」という。日本一の大都市新宿が今瘡蓋状態とは何なのか。この謎を解く鍵は、〈そろり秋〉に在ると思われる。夏から秋の変り目は更衣の時であり、古着から新調に替えるそろり秋なのだ。ファッションの流行は、大都市の女性から発信される。

太陽吸い死地覆い葛光りまくる 中村晋
 福島県と新潟県はお隣りさんであり、昔から人的交流が盛んに行われてきた。自分の伯父は喜多方の人と結婚したので縁戚関係になる。福島は史跡と文化遺産が多く小学校の旅行は福島と決まっていた。そんな行事も止まってしまった。作者のいちずに被曝を詠う俳句精神に共感し、一日も早い放射線の恐怖が消え去る時を祈る。
(鑑賞・刈田光児)

怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
 怖いという感情は、失うかもしれないという妄想から生まれる。妄想と混同されるものに空想がある。人間の社会は、常にネガの妄想とポジの空想が入り混じるが、この母君は、ネガの究極を突破し、ポジの上昇気流へ、乗り換えた。その先の「銀河」だ。進むべき道を見つけた母君のコペルニクス的転回。母のその転回点に呪術・宗教の原初的形態であるアニミズムの存在を感じた作者。

虹ときに暗帯となり国滅ぶ 茂里美絵
二重の虹の主虹と副虹に挟まれ透けている部分を「アレキサンダーの暗帯」というらしい。その部分は二つの虹の背景であり、即ち雨雲の部分。その暗さが「滅ぶ」に繋がる。虹に吉兆を見るというが、現代社会の暗渠を、敢えて剥がし、凶の予兆と見てとった。作者には「薄紙をはがすたび虹近くなる」(句集『月の呟き』)の句があり「虹」への想念は深い。そして上質なのだ。

文化の日巻き取られない人だつた 山下一夫
 兜太師の匂いがする句だ。国からのご褒美の、文化功労者でありながら、断固あの「アベ政治を許さない」をやり通した。が、今冬、突如政府は反撃能力の保有を決定、防衛3文書を改定。我々国民としては「巻き取られ」感が、ひどく強く在るのでは…。
(鑑賞・すずき穂波)

秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
 母上は、作者とは異なる世界に旅立たれたのでしょうか。「秋茄子の色濃きところ」美しく、つややかに実った秋茄子を目にしたとき自然がつくる不思議な力を覚える。この深い色合いに母の姿を重ね合わせ、穏やかに過ごしたであろう母上との関係を見事に昇華させている。感慨をこめて一句に掬いあげた佳句。

庖丁を研ぎゆく無心十三夜 前田典子
 どんなに切れる庖丁でも使っているうちに切れ味が悪くなる。今夜は研ぎ直そうと心に決め厨に立つ。庖丁を研ぐ技量はすでに心得ているのかも知れない。注意深く、丁寧にていねいに、無心になって研ぐ。硝子窓から差し込む十三夜のひかりが美しく作者を照らし出す。十三夜がファンタスティックな世界を醸し出している。

病室の白い天井 白い出口 横山隆
 作者は、体調を崩されて入院生活を送っておられるようだ。コロナ禍の入院生活は健康な人には想像も及ばない日々なのでしょう。「白い天井白い出口」と白を際立たせ、病室を無機質なものと捉えている。家族との面会もままならない現実。不自由さと虚しさ。中七下五の空白が作者の心理を表している。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

あなただけが愛してる狂い花咲く 有栖川蘭子
すすき原すすき一本づつ二人 淡路放生
竜胆に慎しい自由あります 安藤久美子
鯛焼の背に風が欲しいよ君を欲しいの 飯塚真弓
秋薔薇みにくき足をさらしけり 石鎚優
弱者とうカテゴリーあり蛇穴に 遠藤路子
月光や父のカオスに母ひとり 大浦ともこ
月夜茸征かない人ら笛吹いて 岡田ミツヒロ
ババ抜きのババ持ちしまま冬の過ぐ 小野地香
嘘ついてどの口で吹く夜の葛湯 かさいともこ
無花果を食べてふふふの夫婦です 後藤雅文
臨終の金魚みつめる聖夜かな 小林育子
冬めくや小窓に嵌まる鉄格子 佐竹佐介
騙しきることの重さや青瓢 宙のふう
落ち椿触れるを拒む導火線 立川真理
雪女郎人恋うる時紅くなる 立川瑠璃
夫逝きてうつし身しぐるるばかりかな 服部紀子
あかまんまあえてでこぼこあるきたい 福井明子
銀杏落葉別れ話を気の済むまで 福岡日向子
カオナシが居るかも知れぬ虫の夜 藤井久代
金木犀画家の名前が浮かばない 藤川宏樹
枯蓮や老兵重い口開く 保子進
銀幕は黄泉人ばかり秋しぐれ 増田天志
霜降や消え去ることの意味を問う 松﨑あきら
神将の憤怒に釣瓶落しかな 村上紀子
うっとりとは水温むこと午後のこと 村上舞香
鶏頭花其処にモンローがいるのです 横田和子
ペチコート馬鈴薯抱へ居眠れり 吉田貢(吉は土に口)
耕して親父の子なり小六月 吉村豊
柿撫でる子規の痛みをさするかな 渡辺のり子

ヨロコブコロヨ 望月士郎

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

ヨロコブコロヨ 望月士郎

吾が妹を摘み草組みつ思い川
詫び景へ椿は奇抜平家琵琶
水張りて春田の垂は照り弾み
涅槃西風釈迦の手の火車死人跳ね
半ば摘み野に措く鬼の三葉かな
今もなお花影の家か妻も舞い
老いの名は大観描いた花の庵
策なきを悦ぶ頃よ翁草
遠の田は霞の御簾か機の音
蹴上がるは辞世の伊勢路春が明け

野の指とまれ 川田由美子

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原賞受賞 特別作品20句

野の指とまれ 川田由美子

ちちははの形代として朝の虫
きざはしが好きで穂草に生まれけり
押印のよう帰燕気流と擦れちがう
古代的近未来的樗の実
枯芙蓉からから風に産毛あり
なつかしい庭こがらしの櫂すべる
夕こがらし生家に母の被膜かな
冬野道スクリーンにかげおさな
根のようなり胸静もりて冬の梢
寒の水絵本の底にあるひかり
白猫と冬野ふうっと浮力
ロゼットに海流のあお目深なり
冬日影炙り出しのように家族
ひかりも声も澪曳き剥がる冬の石
野の指とまれ蠟梅は今ひとりかな
葉は櫂とふ旅人木たびびとのきと春隣
白梅や生まれたばかりの風探す
春の切株鴉の声の雨垂るる
椋実色母の春愁おっとりと
礫の字に春野の小人混じるかな

ウルトラマン商店街 大池桜子

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原新人賞受賞 特別作品20句

ウルトラマン商店街 大池桜子

ウルトラマン商店街や冬ざるる
わたくしのそっくりさんがいる二月
とんかつ屋いつもの席が春隣
ドーナツに並んでいれば余寒かな
毎朝通るぶらんこだけの公園
春ってかなしいピアノの音がする
大好きなご夫婦に会うかすみ草
桃の花やさしい男に慣れてない
卒業式全然詩なんてないんだ
モジリアニみたいなマスター春暖か
リラの花ひとりでスマホで乗り切れる
住民が後輩ばかり春うらら
啓蟄ややたら垢抜け都会っ子
蝶の昼写真立てがたおれてる
夢で見る風船今日も切ない赤
君が子どもみたいで小手毬の花
やっぱりデザートも頼む猫の恋
風光る憶えてる数忘れた数
蜃気楼あなたの駅を今過ぎる
ふるさとがまた遠い雛祭

モナリザの姉 望月士郎

『海原』No.45(2023/1/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

モナリザの姉 望月士郎

風光りピカソの青とすれちがう
モネの絵に絵具を見てる春愁
海市にてビーナスの腕ニケの首
ルノアールの裸婦むくむくと雲の峰
霧深く抜けてキリコの街角に
シャガールの魚を買いに月の駅
蜻蛉が案山子にとまるときピエタ
蓑虫にムンクと名付ける叫ばない
兄さんへテオより贈る耳袋
モナリザは妹なんです雪女

『海原』No.45(2023/1/1発行)

◆No.45 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
禁断のアラート穴に這入る蛇 石川青狼
うすもみじ花屋のオジサンに嫁がきた 伊藤幸
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
今行きます曼珠沙華からコールです 大髙洋子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
遠太鼓スクワットする黄落期 河田清峰
田水落す月面に降り立つかな 川田由美子
人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
人間の着ぐるみを着て秋の空 小松敦
はんこたんな嫁も姑も稲架掛ける 佐藤千枝子
コスモスのをさな顔なる土性骨 ダークシー美紀
残響は霧にまみれて渓流よ 田中亜美
オオアレチノギク泣くこと黙ること 田中信克
横顔が雲だったころの青レモン 遠山郁好
ただ抱いてくれる背なから小望月 中野佑海
秋暁の後ろ歩きを見守りぬ 野口佐稔
君のおしゃべり僕のだんまり釣瓶落し 日高玲
コロッケの掌に温かき十三夜 藤野武
認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
小鳥来る誤字いっぱいの母でいい 宮崎斗士
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
虹消えてゆく硝煙のその最中さなか 茂里美絵
身ぬちにも荒野のありて蕎麦の花 矢野二十四
薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
耳朶に風シラタマホシクサの心地 横地かをる

前田典子●抄出
雲垂れ込め秋刀魚漁船の黙溜もだだまり 石川青狼
水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
細身の秋刀魚こうもミサイルに脅されては 植田郁一
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
切り岸の光の中を落ちる蝉 榎本祐子
秋の風頭があって手足あり 大沢輝一
残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
月光の匂う交換日記かな 片岡秀樹
稲架解いて厚き耳たぶ持つ子かな 加藤昭子
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
銀河濃しわが掌になにもなし 北上正枝
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
強情が秋に追い越されてしまう 佐々木昇一
青首大根両手に下げて妊婦来る 佐藤二千六
南あかるしかぐわしき稲の里 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
川とんぼ舳先にやわらかい会話 本田ひとみ
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
冷製スープコスモスの遠い揺らぎ 茂里美絵
眼鏡拭く雨月の失言消えるまで 山田哲夫

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
 「御託」とは、自分勝手な言い分をくどくど言い立てること。そんな厄介なものを聞いてやろうというのも、一つの市井の知恵で、向こう三軒両隣の世話役ならではのもの。「君」という呼びかけがその立ち位置を示す。作者には、そんな下町っ子の心意気がある。「まあまあ、いいからいいから」という声が聞こえて来そうだ。

風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
 「風鳴りの丘」に立つのは作者自身で、そこで自らの「秋思の捌き方」を習得しているという。秋はことのほか、事に寄せ物を見ては、秋の淋しさを感じ、物思いにふけることが多い。そこから故知らぬ悲しみに沈湎してしまうこともある。そんな秋思をきりよく捌いていかないと、落ち込みからは抜けられそうにない。風鳴りの丘に立って、そんな秋思の捌き方が自然と体感出来そうな気がしてくるのも、自然に教わる暮らしの知恵というものかもしれない。

秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
 今年の海原新人賞作家。日常身辺の題材を、素直に自分の感性で受けとめ、同世代同士で使っている普通の言葉で呟いている書き方だ。この素直さが、この人の新鮮さとなっている。秋の日ってクリスタルだよね、だから私の新しい靴も輝いているんだね。そうなんだ、嬉しい!、とばかり靴を抱きしめる姿まざまざ。

敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
 「敗戦忌」と「働く虫」との取り合わせによって、まず浮かび上がるものは、戦争によって多くの無辜の民に強いられた犠牲や不幸のことだろう。平穏な日々の暮らしと働く日常さえあれば、それだけで十分幸せだった人々。作者のまなざしは、今働いている虫たちにその人々の姿を重ねて、彼らの日々寧かれと願う祈りをこめているのだ。

柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
 遺体の埋葬を、野菊咲く草原の一角で行っている景。柩をおろし、最後のお別れに故人の名を呼んでいるところだろう。おそらく「御覧なさい。こんなに野菊が咲いて見送っていますよ。どうぞ、やすらかにお眠りください」と呼びかけているのではないか。心を込めた野辺送りの、素朴な華やぎすら見えてくる。地方ではまだ土葬も残っているので、こういう場面がみられよう。

人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
 この句でいう人生の余白とは、年を経て仕事の第一線から退き、余生を何事にも煩わされず、気ままに過ごそうとする時期を指しているのではないか。ところがその時を迎えてみると、そんな余白といえるようなゆとりのあるものではなく、なにやら追い込まれたような、穴まどいにも似た不安な日々を送る破目になりがち。そんな老いの有態を、「穴まどい」と詠んだのかも知れない。

認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
 晩年に認知症を患った母は、野菊のような童女の印象のまま逝去したという。これは痴呆からくる幼児返りによるものだろうが、時には愛らしく思えることもあるらしい。介護する娘の立場からすれば、すべての時がそうだったとはいえないにせよ、老いた母へのあわれみとも重なって、野菊の印象を思い出の中に、強く刻印したのだろう。母ももって瞑すべしとはいえまいか。

鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
 幼馴染の久しぶりの手紙のやりとりを予想する。「鬼灯二つ」とあるからには、女性同士の親友関係で、昭和時代に女学生の間で流行した友情以上恋愛未満の「エス」という関係なのかも知れない。そんな情感を匂わせているのが、「鬼灯」の質感だ。若き日には、もう少し隠微だった情感も、熟年の今は、懐かしい青春の思い出として、明るい口調の返事の中に蘇ってきたのだ。勿論こちらもそんな調子の手紙を出したはず。

霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
 今年の金子兜太賞を受賞し、今最も乗っている人の一人といえよう。その取材領域は広いが、題材の斬新さばかりでなく、この句のような人間存在の本質的在りようを風景の中に見出すこともある。霧の駅から降りてきた「みんな」は、皆一人ひとりなのに、「霧」という空間に「みんな」とともにゾーニングされていく。それは印象的な風景に囲い込まれたコンセプト的風景にも見えてくる。

薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
 回想の中の今は亡き兄ではなかろうか。今回の作品はすべて戦争回想句である。それも沖縄戦への回想のように思える。作品は亡き兄から聞いた生なましい見聞や記録から取材したものだろう。戦後を生きた兄が、沖縄戦に関わる何らかの顕彰を受け、記念の薔薇の花束を提灯のように高く掲げている景とみた。それは作者自身の誇りでもあったに違いない。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
 立秋も過ぎて、涼しさを感じ始めたものの、真夏に戻ったような暑さは耐え難い。若ければ存分に汗をかきつつやり過ごせる。作者は九十二歳の方。この作品を秀句とした決めては、「素直にくたびれる」という理屈抜きの、内発的な表出にあった。年齢を知った上での迷いはあったが、このお齢でなければ生まれないものであることを、大切にしたいと思った。一人称の句だが、わざわざ「私」を入れたのも、むしろ自然な効果があった。

我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
 下五の「式部の実」に、源氏物語を匂わせるところが憎いところである。読者をその物語に預けて、その恋のさまざまを想像させておくのだから。そして、「我が恋は」と、とぼけた位置から言ってのける。しかし、自身の言いたい的は外さない、ユーモラスな姿勢に魅かれた。

曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
 空の色と曼珠沙華といえば、〈つきぬけて天上の紺曼珠沙華〉(山口誓子)が思い浮かぶが、紺と赤の取り合わせた句柄が硬質的である。この自然の描写と、掲出の句の画との枠の違いということはあるが、趣が全く異なる。「空は端から塗りはじめよ」と言われた途端、画は自然の空になって、生々しく何かの気配が生まれ始まる。曼珠沙華は抽象的な不可思議な存在感を生み出し、「よ」の命令形が更に謎を深めてゆく。

弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
 もっとも表したいことがあるときは、ピアニッシモにするのだ、と聞いたことがある。「そっと弾く」も、初雪にはない趣の「秋雪」も、ピアニッシモの気配だ。繊細な弦の音色の余韻のなかに、一瞬の緊迫感のひびきがある。書かれているのは、弦とそれを弾く指であるが、読者は、弾かれたひとひらの雪を、無意識のうちに眼前にして、その感触や表情に誘い込まれている。喩の力の強みや、方法論を持つという姿勢への思いを深く持った。

つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
 ひらがな書きが、スローモーションのように「今」へと集約させてゆく。あのつくつくしの鳴き様には、限られた時間への命の切実さや、何かを急き立てるような感じを受ける。その響きの厳しさに触発されて、作者自身の「今」という時間への思いが喚起されたように思う。「ひりひりと」をどう捉えるか。こころの奥底から自然に沸き上がって得た、言葉を超える、真実の心情を表して動かしがたい。

歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
 日々、見慣れている「歯磨きの母」の日常の姿を、ふと眼にして切り取ったところに新鮮味を感じた。「背」ではなく、「背骨」、とした描写に、豊かだった母の老いゆく姿に抱く寂寥感が出ている。しかし、さびしいとは言わず、「寒露なり」と詠嘆する。思慕とも甘美とも思える母への視線が、たじろぐほどに純である。

馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
 世情に敏感になり、「国境線」をつい戦争に引きつけて見てしまいがちだったが、読み返して「海の上」や「国境線」に心が及ぶとき、人類の壮大な歴史が思われた。「馬肥ゆる」の馬も、約五千年前の小さな動物から大型化へと進化し、旧石器時代に人類とかかわり出したという。その馬が肥える季節。国境線の下の海は、ゆたかな潮流が繰り広げられている。戦争のことを意識下におきながらも、それを超えた、自然と人類との、いのちの営為の普遍性を得ていて感銘を受けた。

過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
 規制が少し緩んできたとはいえ、まだまだマスクをしてないと不安である。その不安は日本の隅々にまで浸透していて、過疎の村までその心理状況がゆきわたっている。しかも、見渡す限り新鮮な大気につつまれた田んぼ。水を落とすのは多分一人ではないだろうか。深刻な社会詠だが、諧謔性の帯びた作品として印象的である。

迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
 普通、葉っぱを見るときは、自然の風景のなかの種類、色彩などの形態であったり、季節の移り変わりに応じた変化など、ゆたかな美しさに魅かれる。この句の場合は、見る側の脳裏に記憶していた葉っぱへのイメージがふっと湧き出てきたようだ。この日は釈迢空の忌日。民族学的視線が、葉を憑代のような面として見た。一枚の葉への畏れに襲われた一瞬をとらえた感覚が鋭い。

風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
 さしずめ、そのシンフォニーの楽章は第四楽章のクライマックスだろうか。収穫を終えた安堵と歓喜にあふれた交響曲の響きが聴こえてくる。おのずと、刈田になるまでをさかのぼっての、壮大なスパンの、自然と共にした、人の営みの織り成すシンフォニー想像される。ゆたかな気分で立つ森田さんが宮沢賢治に見えたりもする。

◆金子兜太 私の一句

白椿老僧みずみずしく遊ぶ 兜太

 大日如来像で有名な、奈良の円成寺に遊んだときの作とあります(「金子兜太自選自解99句」)。参詣された日、円成寺の守番の老僧の話に「おうおう、うんうん」と耳を傾けていらっしゃる先生のお声が聞こえてくるようです。やがて純朴なお人柄の老僧と、青年期の運慶作の大日如来像を前にしての会話は、「みずみずしく」の言葉から、愉快に、聡明に、若々しく、お堂を満たして……。句集『詩經國風』(昭和60年)より。柏原喜久恵

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ 兜太

 ダケカンバは、薪ストーブを使用していた頃、母がその樹皮を利用して火をつけていた。鮭は食卓をよく賑わす。北海道に住む私にとってはいずれも身近なもの。しかし、「骨の鮭」などと思いを巡らすことはまったくなかった。そのような中、この句に出合う。参ってしまった。対象をわしづかみする力、そして直截な表現に圧倒される。句集『早春展墓』(昭和49年)より。佐々木宏

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
躓いた石が声出す暑さかな 大西宣子
麻服を着て見殺しにしていたり 小野裕三
太陽はふくらみ止まず水羊羹 狩野康子
ゆうれいの痛がる足にまだ軍靴 河西志帆
黴の花抱き人形の捨ててある 小西瞬夏
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
生い立ちに嘘一つまみレモン水 佐藤千枝子
ありばい崩し宇治金時にスプーン入れ 白石修章
水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
夢に愛妻寝首に汗の目覚めかな 瀧春樹
太ってぬくい茄子に諸事情 たけなか華那
梅雨冷や胸元に置く黒真珠 月野ぽぽな
十字切る兵士に天使来ぬ夏野 長谷川阿以
いつまでも嘘つく玉ねぎ剥いている 藤田敦子
錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
いいぞちょこまか人さし指を天道虫 三世川浩司
夫と厨にタバスコちょっと冷奴 村松喜代
手紙を書くときおり蛍狩りにゆく 望月士郎
涼しさはマチスの横向きの女体 山谷草庵
ウロコ雲猫の欠伸に負ける夫 らふ亜沙弥

刈田光児 選
紫蘇を揉む言の葉訪ねゆきて香 石塚しをり
犬に寄り人に寄る犬春の道 内野修
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
近江上布のおくるみ蓮の花開く 大西健司
口実をひとつ選んで水澄まし 奥山和子
少年のきれいな喉元蛍の夜 加藤昭子
みずすまし水の表裏を黙食す 狩野康子
夏風邪や義理人情のすたれた世 佐々木昇一
真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
老生のわれと遊びて源五郎 関田誓炎
わが生の各駅停車梅を干す 竹田昭江
旅に折る鶴のほどけし原爆忌 立川由紀
八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
鉄線花私語の鎮もるジャズ喫茶 平田恒子
白あじさい淋しい時はパンを焼く 本田ひとみ
目礼の距離美しく梅雨あがる 嶺岸さとし
花馬酔木やっぱり暗くなる序章 茂里美絵
ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
ウクライナ国花は向日葵潜む兵 山田哲夫
ががんぼや書き損じたる撥ね払い 横地かをる

すずき穂波 選
銀河に合図水洗いのワイシャツ 有村王志
飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
戦争が饒舌になる交差点 大西政司
七夕や人生の橋かけたるか 河田光江
源五郎静かに途方に暮れたり 木下ようこ
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
しばらくは白い靴を磨く 笹岡素子
送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
東北の雨より白し神隠し 遠山郁好
ごった煮の老人ホーム昼寝覚 中川邦雄
たっぷりと墨摩るように六月来 中野佑海
この村の青い蛙とよき湿り 服部修一
螢狩わたしの無口は軽い罠 深山未遊
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
心太突けば戦がしゃしゃり出る 渡辺厳太郎

横地かをる 選
青葉騒たわいないこと復唱す 石川青狼
庭の木に交信の水撒きにけり 鵜飼惠子
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
青芝に雨降りやすき椅子を置く こしのゆみこ
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
白樺はおとうさん優しい夏の雨 たけなか華那
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
野の薔薇の満開になる逢いに来い 仁田脇一石
空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
豊かなる時間に触れる茅花流し 平山圭子
アガパンサス夫は身体を空にして 松田英子
姫女苑群生独りぼっちかな 松本勇二
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
妻の背の日ごと胡瓜の曲り癖 山田哲夫

◆三句鑑賞

夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
 なぜか、かなり急峻な崖が浮かぶ。下に海、上に空。真夏の日差しが照りつける。崖の中ほどの出っ張りに鳶がいる。あたりを見渡している。しばらくすると、ふわっと飛び上がり、瞬く間に空の点となる。その鳶の足である。足が離れるその瞬間。離れるのは果たして鳶の足なのだろうか。夏の海へと。

水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
 真夏の公園。子供たちは汗だくになって元気に飛び回っている。その手には水鉄砲。最近の水鉄砲は高性能だ。滑り台の影に身を隠し、あるいはまたジャングルジムの上から全景を眺める。そして、命中。自分も思い出す。あれは快感であった。間違いなく。でも模造銃、その通りだ。紛れもなく模造銃であった。

錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
 交通の要所、戦略的要所である橋。破壊しなければならない。そのための爆弾を仕掛ける。間違いは許されない。その設置のためであろう、まずは丁寧に橋の錆を払う。実害はなにもない。だから、今まで放置されていた錆。橋は久しぶりに錆を払われる。そしてつるりと綺麗になった鉄骨に、爆弾はしっかりと固定される。
(鑑賞・泉陽太郎)

真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
 今日から夏という空から、ロックの王様、エルヴィス・プレスリーが太陽に乗ってやって来た。強烈な心象の一句。一九五〇年後半から世界的に流行したロックンロールは、日本へも上陸し、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス等の歌手が活躍した。令和の今でも夏に入ると、苗場山麓に於てロックの祭典が開催される。

八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
 アカネ科八重葎は、原野に自生し蔓をからめながら一面に生い茂る雑草。草類の茂る原野は小さな生き物の住処であり天国である。一句を読むと自ずとウクライナの戦争地へ思いが及ぶ。原野を戦車が縦横に走り回り、草を薙ぎ倒し、虫を踏み殺す。戦車の通った跡はゴシック体の文字の様。生き残る草に明日への希望の光が射る。

ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
 絶滅危惧種に指定されているハシビロコウは、ちょっとやそっとで動かない鳥として知られる。一句は、この珍鳥を比較対象にして墓を洗っている情景。墓を洗うという行為は、日常と少し離れた位置に在り、この時はご先祖様とかそけき会話を可能にする。一方のハシビロコウはひとり瞑想の世界に耽っている。俳諧味の句。
(鑑賞・刈田光児)

飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
 「飯饐える」の喩が独創的。「饐えた飯は水で洗って食べる」というから子育てを顧み、過去を丁寧に洗い出し、気持ちを立て直す。いじめ、フリースクール等、複雑怪奇な現代にあって、子を躾け一人前にするのは、並大抵のことではない。酸っぱくほろ苦い自責の念が伝わるが、決して捨てずに有難く全てを頂くのだ、ご飯も我が子も。

送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
 「送り人」とは納棺師のこと。採ってきて、くたっとなったワラビに人間、それも沢山の人の遺体を想った。一つ一つ労わりながらその(蕨)首を洗う行為に、戦争の悲惨な翳が過り、銃後の人々の心情に寄り添っている作者。昨年、二〇二二年の春の重苦しい空気が漂う。

ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
 外国人にとって日本語は他国語に比べ難易度の高い言語という。若者言葉なんぞは、この国の我々ですら理解不能なときもある。目まぐるしく変化する現代の言語社会を言語学者金田一春彦氏は「歓迎すべき変化」と肯定する。一方、日本の国家は、相も変わらず鈍。民衆の変化にもはや国家は対応しきれておらず、ズレが生じている。滑稽・諧謔味の「ところてん」に情致が加わり、一句の余韻は哀愁のジャパンの感。
(鑑賞・すずき穂波)

サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
 サルビアの花は赤、白、紫などがあり、作中のサルビアは目の醒めるような赤い花ではないかと感じる。「確かな火」具体的には表記されていないが、作者のゆるぎない思いを推し量ることも出来る。今の世界の殺伐とした時代を生きているわたしたち、平和への願いをつよくされたのかも知れない。読者の想像を誘う余白がある。

葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
 子どもは成人になるまで二度の反抗期を迎えるという。「いやというほど」イヤの連続は第一反抗期の特徴といえる。イヤイヤをいっぱい言って駄々をこねるのは成長期の大切な課程。親も長い目でみてあげることが出来ればいいのでしょうが、いい加減にしてという気持ちになってしまう。子どもとの緊張感がみえるよう。

空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
 旅に出ることの楽しさ、よろこびは日常とは違い高揚感が伴う。コロナ禍の旅行が戻ってきたとは言うものの海外旅行はいうまでもなく国内の旅も気が引けるというもの。そんな折、机に拡げた地図の上での旅を心の渇きにも似た思いでひとり試みている。虚しさがただよう。いつの日か必ずとの思いを空梅雨が静かに支えている。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
「アイタシ」と打電ひたすら啄木鳥 有馬育代
青檸檬アリバイのごと文字を置く 安藤久美子
秋澄むや足音はいつしか羽音 飯塚真弓
昔の事ばかり自慢す羽抜鶏 石口光子
しじみ蝶心臓の朱は見せざりき 石鎚優
十月やパンの匂いの腕を抱く 井手ひとみ
墓標みな木の十字架や草の花 植松まめ
ぎんなんの音きこえたようなめざめ 遠藤路子
生身魂朴念仁と笑ひ合ひ 岡田ミツヒロ
吊るされて鮟鱇の目の潤む かさいともこ
人間の証明写真八月尽 川森基次
黄落やピザ窯乗せ来るキッチンカー 清本幸子
かなかなや母の手は小さき日溜り 小林育子
秋夕陽黒雲押しのけ見事に落つ 小林翕
複眼の乾坤を鬼やんまかな 佐竹佐介
雁渡し晩年は子に頼らざる 髙橋橙子
霧は善を戻らぬ日日へ連れていく 立川真理
顔見知りの菊人形に誘わるる 立川瑠璃
意地を張る相手もいなくおでん酒 谷川かつゑ
水切り石翔んでとんでいわし雲 中尾よしこ
萩の雨あては股旅唄などを 深澤格子
秀でたるものなき日々を馬肥ゆる 福岡日向子
草の花夫と吾とに学生時代 藤井久代
クイーンにキングならべる良夜かな 藤川宏樹
花野裂くアウシュヴッツの線路ゆく 三嶋裕女
祭神の縁起さまざま新走り 村上紀子
日向ぼこ水平線の揺ぎかな 村上舞香
家がいいと言いし母と十三夜 吉田もろび
凍土も縁者も彼方骨拾ふ 渡邉照香
大花野わたしの棺の窓かしら 渡辺のり子

『海原』No.44(2022/12/1発行)

◆No.44 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

白絣今のわたしに出会った日 綾田節子
かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
民喜・三吉・あれはあつゆき雲の峰 伊藤巌
終活の写真に埋もれ夜の秋 伊藤雅彦
草の花なら屈葬の真似ごとをせん 伊藤道郎
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
小悪魔系が子育て系に檸檬かな 大池桜子
秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
祈るたび半透明に花貝母 小野裕三
沈みくる枯葉筆跡は自由体 桂凜火
秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
ミサイル落下どうりで海がぬるかった 河西志帆
生きて死ぬウィルスからすうりの花 木下ようこ
投句てふ生存証明すべりひゆ 黒済泰子
白き帆へなりゆく少年の抜糸 三枝みずほ
金柑や性善説も疲れます 重松敬子
老いるとは窓辺に茂る灸花 篠田悦子
静脈の混みあっている夜のあじさい 芹沢愛子
弾痕のごとき陰影蟻地獄 鳥山由貴子
見晴るかす天地の狭間田の青し 中内亮玄
被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
安心し不安になれる露の庭 藤田敦子
空蟬の中黙契の師の鼓動 船越みよ
ねじり花黙ってみている愛し方 増田暁子
芒原さすらい別の顔になる 松井麻容子
立秋や傭兵のごと歯を磨く 松本勇二
凌霄花ほたほた予告なき銃弾 三木冬子
国葬あり落蝉天を仰ぐのみ 村上友子
生きものたちに霧の中心の音叉 望月士郎

前田典子●抄出

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
相談したくなる涼しき目の赤子 石川和子
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
山中にすみれすみれに人一人 内野修
かなしみを逃水のように持て余す 榎本愛子
何ごともちょっと歪んで良夜かな 岡崎万寿
霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
さびさびの老い始めです初紅葉 川崎千鶴子
行き先をまだサンダルに告げてない 河西志帆
蝉時雨あなたはいつも窓を背に 河原珠美
吊り革がわりだった君の白シャツ 黍野恵
母やいつも秋の蛍を連れてゐる 小西瞬夏
隙をつくさよならに似て夕月夜 近藤亜沙美
みんなみに呆然と月熱帯夜 篠田悦子
麦の秋農あり能に通ふなり 鈴木孝信
鳥海山ちょうかいの藍見晴るかす展墓かな 鈴木修一
こっぱみじん寸前の星金魚玉 芹沢愛子
始まりは詩集の余韻白雨来る 高木水志
日常は重しひたすら草を引く 東海林光代
悲しむな狐が泉覗くだけ 遠山郁好
葭切しきり何かがちがう戦況報道 中村晋
ひとり言たてよこななめ熱帯夜 丹生千賀
空爆無き空の下なり麦踏める 野口思づゑ
シンバルが打つ番ざあっと来る夕立 北條貢司
白さるすべり胸に小さなやじろべえ 本田ひとみ
ミサ曲のような沈黙空爆後 マブソン青眼
摺り足で来た七回忌秋夜つ 村上豪
隣り合わせの影は恍惚さるすべり 村上友子
アスパラの青色という折れやすさ 森由美子
地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
 高齢化時代の今日、老々介護はもはやごく日常的な現象となりつつある。そうなれば傍迷惑にならないよう夫婦二人の支え合いを第一に考えざるを得ない。それは、日々の暮らしの中で、同じものを分かち合うようにして生きていくことにつながる。たまたま住まいの近くに、鶴がやってくることがあって、二人はその様子を、一緒に黙したまま、飽きることなく眺めている。その様子は外目にはあわれともみえようが、二人にとっての時間は、眩しいまでに満たされたものではなかったろうか。

民喜・三吉・あれはあつゆき雲の峰 伊藤巌
 原爆詩人として有名な三人の名を挙げ、あらためて原爆許すまじの思いを雲の峰に祈る句。「民喜」は原爆詩集「夏の花」の原民喜。三吉は「にんげんをかえせ」の詩碑を残した峠三吉。あつゆきは、妻子四人を原爆で失い、「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」の句を記した松尾あつゆき。掲句は、三人の原爆詩人の名を称名のように唱えて、眼前の入道雲を原爆雲とも見なしながら一句をものしたに違いない。

小悪魔系が子育て系に檸檬かな 大池桜子
 小悪魔系とは、あざと可愛いメイクやファッションで、男心をくすぐる女の子。子育て系とは、育児に悩みながらも懸命に取り組む世話女房志向型。小悪魔系は、子育て系をいまいまし気にみながら、ちょっぴりうらやましい気分もあって、ふと黙って檸檬を一個渡していく。どこか「頑張って」と声をかけたい感じだろうか。その微妙な気配は、作者の世代でなければ判らないものかも知れない。そんな世代間のエールではないだろうか。

沈みくる枯葉筆跡は自由体 桂凜火
池のほとりの枯葉が、風に舞いながら水面に落ちてゆく。やがて水中に没していく間、さらにゆっくりと揺曳しながら水底へと向かう。あたかも草書で書く筆跡のようになめらかな曲線を描いている。その筆跡模様を「自由体」と喩えた。実は基礎となる書体の中に、「自由体」なる書体はないのだが、ここは作者の想像力によって、枯葉の舞い落ちるさまを「自由体」と比喩したのである。そこに作者独自の創見があるとみた。

投句てふ生存証明すべりひゆ 黒済泰子
 月々の俳誌への投句は、なによりも自分の生存証明になっているとは、句作するものの実感だろう。このところ二年越しのコロナ禍に加えて、世界的な社会不安や戦争の脅威が高まりつつあり、句会もままならぬ日々が続く。そんな中、投句だけは私の生存証明ですと宣言する。「すべりひゆ」は夏から秋にかけて咲く五弁の黄色の小花。葉や茎は、栄養豊富なスーパーフードと言われている。「すべりひゆ」を季語にしたのは、私だって生きてるよというしたたかなアリバイでもあるのだ。

老いるとは窓辺に茂る灸花 篠田悦子
 灸花は、夏から初秋にかけて咲く可憐な花で、色がもぐさ灸の痕のかさぶたに見えるところからこの名がある。最近とみに老いの兆しを感じ、両親たちが加齢とともに愛用していたお灸を据えてみようかと考えている。とはいえあの肌に残るかさぶたのことを思うと、つい迷ってしまうのだが、待ったなしの年齢を思えば、もはや見栄や体裁にこだわるまでないか。窓辺に灸花が生い茂って、決断を迫るようだ。

被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
 原発事故で被災した福島の現実を、作者は執念深く追及している。福島は、全国でも二位の桃の名産地だが、今なお被曝の現実から逃れられないでいる。その生産者も同様。「被曝した手」が「被曝した桃」を洗っているとぶっきら棒に書いたのは、あのときのありのままの現実を忘れるなという呼びかけに違いない。

ねじり花黙ってみている愛し方 増田暁子
 この句の本意は、ねじり花に仮託した反抗期の子供を象徴しているのではないか。そのねじれを無理に矯めなおそうとするのでなく、ゆっくり時間をかけて、本人の気づきを黙って見守ろうとしている。それが作者の愛し方ですという。勿論、子供の環境や資質にもよるだろうが、おそらくそれが、もっとも正解に近い育て方であり、愛し方だと作者はみているのだ。

立秋や傭兵のごと歯を磨く 松本勇二
 傭兵という制度は、世界的にも古い歴史をもつものだが、今回のウクライナ戦争であらためて認識させられた。立秋の朝、いつものように定時に起きて歯を磨く。それはあたかも傭兵のような律義さだという。いつもの生活習慣の中で、不意に「傭兵のごと」という言葉が浮かんだのは、身近な戦争への危機意識によるものではないか。立秋という季節の変わり目に、そんな危機意識が訪れるのも、差し迫った戦争の現実感を季節の冷気とともに、あらためて肌に感じた作者の感性によるものであろう。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
 作者は大分の方だから、鶴という存在に馴染んだ暮らしをされてきたのかと思う。そしていま、「老々介護」に「かなしいほど鶴見る」日々をおくっておられるらしい。鶴の営みと、介護が必要となった姿とを、自ずと重ねて見ている。時により、場合により、凄絶さを味わう場合のある「老々介護」。その切実さが、「かなしいほど鶴見る」のフレーズによって、美しく昇華されている。お二人が重ねてきた歳月を想うと、「かなしいほど」が、「かなしいほど」と読めてくる。

露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
 作者の実家は、広大な畑地を持ち、竹林や梨畑もあったと聞いたことがある。かつては地下足袋を履いて畑仕事を手伝ったに違いない。そのふるさとに帰り、久々に履いたのだろうか。地下足袋で踏む地面の感触は、他の靴とは全く違うのだと「露けしや」から想像がつく。
 よく旅をしているらしい作者は、帰郷をも旅として、新鮮な刺激を受けているようだ。

霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
 この句で思い出すのは、今は亡き作者の義父、奥山甲子男氏の第一句集に見る、「山霧」と題した兜太先生の序文である。〈山山のあいだを埋めつつ動いてゆく霧。それの朝、昼、夕の変化、その乳灰色、ときに真ッ白…〉という出だしで始まり、霧の印象が切々と綴られている。「霧食べて育つ」のは「霧の子」そのものであり、絶えず包まれている「家」自体なのだろう。「霧食べて」という直接的な表現に、実態といえる気持ちよさがある。勿論、「育つ」のは作物やそれを食べる者たちでもあろう。

吊り革がわりだった君の白シャツ 黍野恵
 「吊り革がわりだった」と過去形で書かれている。いまはその「君」はいないのであろう。ともに暮らしていたときは気付いてなかったことが、居なくなってから何かにつけて気付くことがある。「君の白シャツ」という普段、身につけていた具体をさらりと示して、距離感の近さ、濃さが思われる。その表現のさりげなさに、逆に、支えられていた体感の多くのことが、深々と伝わってくる。

母やいつも秋の蛍を連れてゐる 小西瞬夏
 かつては、ゆたかな活力に満ちていた母。老いとともに体力や気力がすこし弱まってきたのかもしれない。加えて、何かにつけて判断力も薄れてきたのだろうか。「秋の蛍を連れてゐる」と捉えた、母への視線が優しい。そのやさしさは「母や」の「や」も物語っている。この「や」という助詞の様々なはたらきに、作者の繊細な感性が重なっていて、助詞の効用の力が絶妙である。「いつも」、やや悲愁を帯びつつも、美しさを失っていない母としての存在感が味わい深い。

こっぱみじん寸前の星金魚玉 芹沢愛子
空爆無き空の下なり麦踏める 野口思づゑ

 前句、後句、対照的な作品であるが、両句に込められた思いは共通している。狂気的な判断ひとつで、宇宙に浮かぶ美しい緑の星がこっぱみじんになりかねない。生き生きと金魚が泳いでいる金魚玉が間違って落ちたら、という危機感が、その星と重なる。また、かつて、J・ケネディが危機的状況下でつかったという、「ダモクレスの剣」という故事が込められているのかもしれない。後句の作者は、オーストラリア在住の方。今更ながら、空爆のないことと、麦を育てることの出来る幸せを抱いている。あらためて、危機感は、世界的規模でひろがっているのだという認識が深まる。

シンバルが打つ番ざあっと来る夕立 北條貢司
 「打つ番」と言ったところが巧みだなあと感じ入った。オーケストラのシンバル奏者の出番は、他の楽器と比べてごく少ない。けれどもそれを鳴らすときがきたら、圧巻の音を奏でる。そんな瞬間を夕立に例えた、独自の喩の効果が発揮されている。

白さるすべり胸に小さなやじろべえ 本田ひとみ
 極々小さな一点で、長い棒の両端の重い荷を支えて立つ「やじろべえ」。胸にそれがあるというのだから、心の複雑な荷の均衡を、小さな小さな一点で担っている。「白さるすべり」の持つ清潔な表情と響き合い、内面の均衡を保とうとする、清らかな必死さが伝わってくる。

地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名
 日々、ウクライナの戦況が報道されて久しい。最も心痛むことは兵士はもちろんのこと、一般市民の死者が出ることである。おおよその数字で示される、情報のされ方に慣れてしまっていた。だが、死者は数ではなく一個人個人である、とこの句に気づかされた。一独裁者の命も、一市民の命も同等の重さがある。にんげんの手によって、ひとつの弾丸が落とされるたびに、一人ひとりの尊い命が失われる。
 群生の曼珠沙華も、一輪一輪ずつが開き、輝いている。

◆金子兜太 私の一句

夏の山国母いてわれを与太よたと言う 兜太

 この句に出会った時、一字一句間違いなく覚えられたほどのインパクトがあった。金子兜太先生の母に対する思いが心の奥底にあるからだ。その与太といわれたことに深い愛情を実感したのだろう。今、この時に豊かな母のような山容を誇っている夏の山国に、その声は谺して力強く聞こえているのである。私も与太と呼ばれたい気持ち。句集『皆之』(昭和61年)より。北原恵子

狂とは言えぬ諦めの捨てきれぬ冬森 兜太

 この句に続けて〈まず勢いを持てそのまま貫けと冬の花〉〈冬ばら一と束夕なぎに一本となれど〉の連作。一読、私を詠んでいただいたな、とそう思いました。大変光栄なことと思っています。師は私の投じた一石の波紋の拡がりを懸念されたのだと思います。師にとって私は変な弟子でした。ノーベル賞の季節がまためぐって来ています。句集『百年』(2019年)より。今野修三

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
茅花流しときに傾く右側に 稲葉千尋
○爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
○からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
春愁も巻き貝の身も螺旋状 黍野恵
机上いつも乱雑遠くに戦火 小池弘子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
○橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
六月や畦にはほっそりした夕暮 白井重之
昼の暗がり魂も風船玉も売られ 白石司子
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
仮想現実大統領の水遊び 立川弘子
月涼し他人のような影を踏む 立川由紀
指すべて灯して水無月の宴 月野ぽぽな
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
○晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
まなぶたの閉ぢ方知らず菊人形 松本悦子
泥道の花柄毛布に在る遺体 マブソン青眼
夏が来たので背表紙のように並ぶ 宮崎斗士
○濡れているてるてる坊主太宰の忌 望月士郎

高木水志 選
緑蔭に入り緑蔭の鬼となる 上野昭子
つくしんぼ今日はてんでんばらばらに 内野修
芽吹くスピード黒髪が恐ろしい 榎本祐子
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
○爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
囀りや離れ離れにショベルカー 小野裕三
アカシアの白き風舞う津波の地 金澤洋子
○からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
あなたの為よだって羊蹄噛みしめる 黍野恵
絵葉書を何遍も読み海霧の町 小松敦
逆上がり一回増やして夏至に入る 齊藤しじみ
かさぶたが取れそう熊ん蜂飛びそう 佐々木宏
徘徊は自由心太自由 鱸久子
さみだれの芭蕉とバッハよく歩く 田中亜美
棘の世の出来心なる山帰来 並木邑人
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
みぞれ降るや嘆願のまま硬直 マブソン青眼
カモミール摘むやみどりの蜘蛛走る 村本なずな
草抜くように目高数えては母 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

竹田昭江 選
戦争がはじまっている素足かな 石川青狼
春の暮父の入江が見つからない 伊藤歩
百まで十年九十までは早過ぎた 植田郁一
先端恐怖症の君は黒揚羽の黒 大西健司
一番星入れて代田の落ち着きぬ 加藤昭子
水匂う日めくりの風薄暑かな 川田由美子
夜の新樹話し足りない友ばかり 河原珠美
戦争が行く青草にぶつかつて 小西瞬夏
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
○橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
チェンバロや矢車草の鳴るごとし 田中亜美
手に風船夢は被曝をして消えた 中村晋
六月の壁につばさが描いてある 平田薫
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
風船に不戦託して放ちけり 三浦静佳
紙ふうせん母の老後という現場 宮崎斗士
白紫陽花しあわせの断面図 室田洋子
○濡れているてるてる坊主太宰の忌 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
水になりたい少女風鈴鳴っており 茂里美絵

若林卓宣 選
ひとつずつ駅に停まりて麦の秋 石田せ江子
青蜥蜴逃走は一本のひかり 伊藤道郎
一日中カレー番かな梅雨に入る 大池桜子
本棚の父の面差し椎の花 大髙洋子
山歩く日常があり葱坊主 大野美代子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
雨蛙雨の嫌いな奴もいる 川崎益太郎
戦闘機ゆく真うしろが現住所 河西志帆
母の背に軟膏塗り込む麦の秋 清水恵子
残世のこりよに蔵書一万ほどの黴の家 白井重之
生きているつもりもなくて大昼寝 白石司子
西の味覚持ち東西のちまき食ぶ 立川由紀
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
風船握る未来も被曝していた手 中村晋
ほうほたる便器も略奪した戦 日高玲
○晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
高原発キャベツに残る雨の傷 三浦二三子
豆御飯ふはっと炊けて独りかな 矢野二十四
蒲公英の地上絶え間なき戦火 山田哲夫

◆三句鑑賞

爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
 この軽さを、愛しさととってもいい。小さいころは大きな存在であった母。その言動に守られたり、振り回されたり。そんな母も、母との関係もだんだん軽くなっていくと感じることに、作者の人生の充実を思う。

からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
 夜になると美しく怪しい花をさかせるからすうりの花と家族写真との配合。しかもそれが白濁している。家族という絆のなかにうまれる染みのようなものか。もともと家族とは、写真のような虚構であるのかもしれない。

夏が来たので背表紙のように並ぶ 宮崎斗士
 口語で散文的、言いっぱなすような着地。内容を詩的に昇華させることは簡単ではない。どうしても理屈や説明になったり、感傷的になりすぎたり。だがこのかたちに作者はこだわり、きちんと俳句にしていく。「夏が来たので」という因果関係をもってきながら、「背表紙のように並ぶ」とのつながりは理屈では説明できない。脳のもっと内側に降りてくる必要がある。背表紙には題名が書かれてあり、そのことで内面を主張し、手にとられることを待つ。しかし、それはただ無個性に並んでいるようにも見える。選んでもらえるかどうかは他者にゆだねるしかない、そんな現実を思う。
(鑑賞・小西瞬夏)

囀りや離れ離れにショベルカー 小野裕三
 「囀り」は鳥が繁殖期に出す美しい複雑な鳴き声で、いかにも春が来たという感じがして、「囀り」という季語を聞くと僕は気持ちが昂ぶる。「離れ離れ」とあり、愛する人と会えなくなるのかと思ったら「ショベルカー」がきたのでびっくり。金属製の重機が人間のように愛おしく思えてくる。

さみだれの芭蕉とバッハよく歩く 田中亜美
 「さみだれの芭蕉」と言えば、『奥の細道』の有名な二句を思い浮かべるが、他にも「さみだれ」の句を旅先で詠んでいる。バッハは、二十歳の時に当時有名だったオルガニストの演奏を聴くために四〇〇キロ以上離れた都市まで徒歩で行き、それが彼の音楽の転機となったと伝記にある。歩くことでいろんな出会いが生まれる。

棘の世の出来心なる山帰来 並木邑人
 山帰来は別名さるとりいばら。棘のある蔓性の落葉低木で、黄緑色の小花を球状にたくさんつける。名前の由来に「山で病気になった者がこの実を毒消しにして元気に山から帰った」という説があり、僕は「棘の世」にコロナ禍を思った。山帰来自身が棘を負った日々を送って、そんな中で咲かせる花は「出来心」みたいだと、作者は感じたのかも知れない。
(鑑賞・高木水志)

夜の新樹話し足りない友ばかり 河原珠美
 コロナの世になって三年余が過ぎ、自粛を余儀なくされ、いつしか馴らされていきました。友に会って思いっきり話をしたい思いにかられるこの頃ですが、ふと「話し足りない」まま亡くなってしまった友たちへの思いが胸に溢れて潤みます。それは夜の新樹のように瑞々しいひと時と豊かな会話の中にいました。

紙ふうせん母の老後という現場 宮崎斗士
 急に自分の現実を突き付けられたような気がしました。老後という厄介な諸々の確かな事実を「現場」と捉えたリアルな表現にびっくりしましたが、それが的確な表現であると受け入れて向き合っていきます。母の老いを受け入れる象徴として思い出として、色とりどりの紙ふうせんはやさしいです。

白紫陽花しあわせの断面図 室田洋子
 断面図といっても縦も横もありますし、よってその内部の面は大分違うのではないかと思います。「しあわせ」となると、切り口によってはどの様な面が見えてくるのかちょっとどきどきしてしまいます。白紫陽花は一色ですが、何しろ込み入った花ですから断面図は複雑ではないでしょうか。
(鑑賞・竹田昭江)

ひとつずつ駅に停まりて麦の秋 石田せ江子
 私は乗り鉄でも撮り鉄でもない。各駅停車等に乗っていて、手を振っている子を車窓から見つけた時には手を大きく振り返すようにしている。小さい頃自分がされてうれしかったことを今も覚えている。黄金色の麦畑のつづく風景を見ながら作者がどう思っているかはわからないが「ひとつずつ駅に停まり」の表現は私に心地いい。

戦闘機ゆく真うしろが現住所 河西志帆
 俳句には季語があって欲しいと思っている。せめて季節を感じさせてくれるものがあって欲しいと思っている。作者の住む沖縄には基地に起因するデリケートな問題もある。「現住所」のある場所。この一句を素直に読み取る。硬質なのに幾度と声に出して読んでいると季節にこだわることも無いように思えてくる。

晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
 与謝野晶子と聞けば、「君死にたまふことなかれ」の弟の身を案じる反戦詩を思う。たった一人の狂気な男のために、大変な世の中になっている。大切な人は勿論のこと、知らない人の生命も思考も大事。誰も殺して欲しくない。誰も死んで欲しくない。そんな気持ちを持って「どの兵士にも母がある」が、句を引き締めている。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

巻爪でつかまれた腕真葛原 有栖川蘭子
ダリの髭はいつもポジティブ八月尽 有馬育代
子を産めぬ娘と猫とねこじゃらし 淡路放生
秋茜わたしもいつか西に行く 井手ひとみ
一つずつ遠くに飛んで草の絮 上田輝子
誰にでも振る尻っぽと夕涼み 鵜川伸二
蝉時雨ふと無音ですわれの死も 遠藤路子
海も嫌い山も嫌いな案山子かな 大渕久幸
忘れめや焼夷弾直下の母の夏 小田嶋美和子
家系図に浪花の匂い男郎花 木村寛伸
黄泉の児の降りて来てるらし庭花火 清本幸子
カナカナカナとっても長い後一周 後藤雅文
喉仏には小さき骨壺雲の峰 小林育子
戦など破片だらけの夏の跡 近藤真由美
夕焼を痛いたしいと思はぬか 佐々木妙子
亡き母の来て踊る手の影法師 重松俊一
秋思いまもマスカラの黒浮き上がる 清水滋生
秋蛍ふかいふかい谷川あり 宙のふう
祖父の東京どこも銀座でお祭りで 立川真理
おおむらさき誰かの背に結ばれて 立川瑠璃
捨案山子ああ青空が眼にしみる 谷川かつゑ
蛇の衣永田町では見当たらず 藤玲人
セーラーの衿にカレーの跳ね星河 中村きみどり
八月は舌の厚さを超えてゆく 福岡日向子
チャンネルを決める番台獺祭忌 福田博之
低く低くなぞる人道秋の蝶 松﨑あきら
凩がゆさぶっているのは私 村上舞香
埋れたる生家の沼の紅き鰭 吉田貢(吉は土に口)
夏果てて自由てふ恐怖ひたりひたり 渡邉照香
夜の桃奈落の水の甘さかな 渡辺のり子

『海原』No.43(2022/11/1発行)

◆No.43 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

結界とは問われて默す餘花の雨 阿木よう子
蔓手毬記憶の向こうはいつも雨 伊藤幸
父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
帰るさのタトゥーのサーファー海に礼 榎本愛子
胸襟を開いて笑う大花火 江良修
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
八月や影という影はすかいに 大髙洋子
オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
里帰り父どっかりと夏座敷 金澤洋子
羊水の子のようにふわふわ早苗 川崎千鶴子
息継ぎのように点描のしらさぎ 川田由美子
喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
鬼灯点しあわあわと今生 小池弘子
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
十薬や小さな鈴が鳴りやまぬ 中内亮玄
夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
壊れた戦車ひまわりとコキア 平田薫
セラピー犬の眼差しに似て合歓の花 船越みよ
核兵器はいらない日々草が好き 本田ひとみ
決めかねるこの世の始末古代蓮 松本千花
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
少年の脱け殻あまた青葉闇 望月士郎
無所属やベランダに長茄子らし 横山隆

前田典子●抄出

冷蔵庫に入り切れぬ泪いっぱい 伊藤幸
平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
父の教えいまだに解けぬ星月夜 奥山津々子
黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
束ね損ねし漠なりからすうりの花 川田由美子
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
絹さやの浅緑自分に恥じており 黒岡洋子
わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
車椅子の深き溝あり浜防風 佐藤美紀江
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
家郷遠し父母という草いきれ 白石司子
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
田水張る粗き下絵を描きつつ 中野佑海
吾子ふいに朝日に卵透かし夏 中村晋
妻の眼の涼しく走る大活字 野口佐稔
レコードに傷あり野茨の実の苦し 日高玲
我が鬱を切る夏蝶の極彩や 藤野武
山椒の実卒寿の父のいやいや病 増田暁子
耳鳴りも木の芽張るのも君のせい千 松本千花
茄子の馬ぐにゃりとなりて父還る 松本勇二
友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
先生のかるいユーモア日雷 横地かをる
賢治乗る電信棒に春の月 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
 父の日は、母の日に比べて影が薄いものだが、一応六月の第三日曜ということになっている。さて、その当日、家族の一人が「そういえば今日は父の日なんだけど、どうしたものか」と呟く。なにやら触れたくないものに触れたような気もして、少し後ろめたい思いで、まあこんなことは母さんにお任せしてとばかり、母(妻か)に一任する。母の裁量なら父も否やはあるまい。

八月や影という影はすかいに 大髙洋子
 八月は、六日、九日の原爆忌、十五日の敗戦日等、戦争の悲しみに関わる日が多い。そこには、歴史的に多くの死の影が漂っているはずで、それらの影は互いにひしめき、重なり、絡み合い、影同士はすかいにもつれあって倒れこもうとしている。爆心地に近い石階では、影だけ残して蒸発してしまった遺影もある。影はいずれも柱状に直立したまま斜めに倒れようとしている。すでにして死というモノと化している一瞬だ。「はすかいに」に、凝縮された映像が浮かぶ。

オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
 ウクライナ戦争の現実を想望した一句。朝食のオムレツを作って、さあ食べようかとしている時、不意に戦車の通過する音が聞こえてきた。敵か味方かはわからないが、まさに日常の中に戦争が紛れ込んでいる場面。或いは、戦争の日々が日常化しているともいえよう。「オムレツのしずけさ」に、息を潜めている庶民の暮らしがある。

喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
 大切なご主人を亡くされ、四十九日も過ぎ、喪明けして三日目の朝、ふと赤とんぼが飛んでいることに気づく。服喪中は、悲しみと雑務の中で日々過ぎてゆき、なにも目に入らなかったのだが、ようやく我に返った朝だったのかもしれない。気丈な作者だから、諸事万端に遺漏なく対応することに抜かりはなかっただろうが、その張りつめた気持ちも、一通りやり終え一息ついた朝。一匹の赤とんぼがふっと宙に浮いているのを、見るともなしに見ているうち、あらためて静かに悲しみが滲み出てきた。おそらく、その時心から泣きたかったに違いない。

職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
 職安に求職依頼に出かけ、求職用紙を貰う。生活がかかっているから、うまくいくかどうかは死活問題でもあり、緊張することこの上ない。その白い紙に、過呼吸する程の緊張感を感じたという。今の求職難と、そこに生きることの厳しさが、ありありと浮かび上がる。無季の句ながら、季を通じてのリアリティを感じさせる。

メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
 メロンは果物の中でも高級な食材とされているから、一般庶民が気楽に口にするようなものではない。しかし独り暮しをしていると、たまには気晴らしにパアーッとやるかという気になるのも無理はない。それにつけても不時の出費だから、思い切りが必要になる。そこは度胸一本で行こうかとばかり、自分に気合を入れていくわけだ。たかがメロンでも、独り暮しなりの度胸が必要なのも暮しの現実感。

夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
 語調と語感の楽しさと、一句全体のユーモラスな映像が軽やかに伝わってきて、いかにも夏向きの一句となった。こういう句は、意味的な解釈を拒否する。「夏目漱石」の語感から来る爽やかさと、作品そのものの軽みが相俟って、「メロン」の質感に通い合う。下五を三音の短律で切るのも、「○○メロン」と無音拍二音の停音効果との合わせ技で、中句の切れを響かせるとも言える。文脈的に読めば、漱石がメロンの中に入ってますだが、映像的には、漱石がトイレに入っていて、子規が厠から糸瓜を眺めたように、庭にメロンが転がっていると想像してみるのも面白い。すこし無理筋の評釈だが。

夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
 夫を亡くして初めてのお盆を迎えた朝のこと。まだ存命中の夫を夢に見て、ついついいつもの癖で叱り飛ばしてしまったが、目覚めてみると魂迎えの朝だった。いやもうその気まずさと悔いったらありゃしないと思いつつ、念入りに魂迎えの用意に取りかかる。それは亡き夫への最後の甘えだったのかもしれない。どうか許して下さいとの思いしきり。

無所属やベランダに長茄子らし 横山隆
 長いコロナ禍で、屈託の多い日々を過ごしているうちに、なんとなく自分自身が一体何に所属して、どう動こうとしているのか、自分自身の存在根拠がどこにあるのか分からなくなっているような気がしてくる。そんな寄る辺なさを「無所属や」とし、さてその挙句は、マンションのベランダでささやかな菜園に長茄子を生らしているようと捉えた。これは悠々自適の境地と異なり、どこか意味化されないままの生のありようにも見える。時節柄、妙に親近感を覚える句だ。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
 時世柄、ウクライナとひまわりにかかわる作品をよく目にする。作者の脳裏にもその光景はあるに違いないが、掲出句はそこからは距離を置いている。「平和」という言葉が、いま、どれほど虚しいことか。それだけに、身近な場所に咲いたひまわりの光景が、理屈抜きに新鮮だ。群生でもなく、一本でもない。「二本」の平衡感覚の静けさに、素朴な平和の実感がある。
 この句を味わいながら、本誌「海原」の柳生さんの連載論考〈全舷半舷〉で言及されている、「テレビ俳句」、「戦場想望俳句」などについて考え併せていた。かつて私は、テレビで見た作品に後ろめたさを感じて、その後、現地に確かめに行ったことも、想い出したりした。

黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
 一句を読み下しつつ、この上ない「花蜜柑」の配合に魅かれた。「黙読」「聖書」「愛」という、ある意味、スケールの大きくて深い世界を、繊細で清やかな精神世界へと馴染ませてくれる、無垢な気配の「花蜜柑」である。様々に深まる「黙読」の姿が、清々しく表出された。
 「詩人たるもの、聖書一冊ぐらい読み込んでいることが常識」との塚本邦雄の講演での強い口調を想い出す。作者は、既に身についた聖書を、折々、愛読しているようだ。

侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
 ほんとうに歯がゆい思いが募る二句に全く共感です。「侵攻NO!」と叫びたい程の気持。「春野」という自然に愛しさをも感じない殺伐とした境地が耐えられない。人間として当たり前のことを取り戻して欲しいとの訴えが通じる語彙力が欲しい。恃みの牛蛙もはっきりしない。このもどかしさを、こうして「語彙力」を超えた、「俳句力」を発揮されていることで救われる気がする。

わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
 日傘をさして歩いているとき、ふっとクロード・モネの絵のなかの、モネ夫人が思い出されたのだろうか。夫人がさしている日傘を、「わたくしの日傘」と言いつつも、絵の中のモネ夫人になりきっているように想えて楽しい。絵から閃いたインスピレーションが、何の違和感もなく作品化されて伝わってくる。ずらす表現力がセンスよく発揮されている。そんな作者像が魅力的だ。

原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
 アナログの時計は、時間の前後などを少し考える余裕があったり情緒も動く。デジタルは音もなく時間の数字だけが表示される。その不気味さが、突然の原爆投下にどこかで通じるような気がする。すべて人間が生み出した所産だということに、危機感や怖さを感じさせられる。

水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
 「水さげて」「小昼」「夏つばめ」の響きあいが快い。母を亡くした寂しさなどは、既に克服して久しい様子がうかがえる。しかし母を恋う気持ちは齢をとっても変わらない。下げている水も軽く、いそいそと墓参を楽しんでいるようだ。

首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
 茂吉の歌集『赤光』は、十七歌集あるうちの、三十二歳の頃の第一歌集で、強烈な印象をもつ連作を巻頭にした構成で、八三四首収められている。茂吉自身は、「写生のままの表現だ」と主張はしているものの、読者には難解なところがある。それ故の魅力も捨てられない。
 掲出句の作者田中さんは何度も味読していて、諳じられる程らしい。集中、何かにつけ「赤」の色彩を帯びた何首かが出てくるが、「首灼けて」と『赤光』とを色彩で結びつけているのではないと思う。「首灼け」るほどの炎天下を、ひたすら目的地へ向かいつつ迫ってくる、心理的なものが、諳じさせているような気迫を感じる。「首灼けて」の斡旋が「茂吉『赤光』」に適っている。

友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
 不意の訃に接したその日の夜、故人を偲ぶ思いで、その人にかかわる著書を開いたとき、不意に紙魚が出てきて「しろがねに走」った。ひょっとしたら久しく会ってなかったのかもしれないし、著書も長く閉じたままだったようだ。それだけに鮮烈に現れた生命感と、作者にとっての故人の存在感がこころに沁みる。

なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
 平仮名書きの「なつやすみ」はまだ低学年のお子さんの夏休みであろう。「白紙に水平線一本」は、そのお子さんにとっての夏休みの「喩」かもしれない。でも、まず、白紙をひろげ、緊張と期待感の「水平線一本」をひく親子の様子も見えてくる。この一本をどう配分して過ごすか。「線一本」ではなく、「水平線一本」と見立てたところに、空や海を味方に夢や解放感がひろがる。

◆金子兜太 私の一句

炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太

 この句には「朝日賞を受く」の前書きがある。幸運にも、私はその受賞式(平成28年1月)に参加し、兜太一代の名スピーチを聴くことが出来た。感動のあまり一同思わず聴き入っていた。感動の背景にはトラック島戦場体験に裏打ちされた兜太の人間観があった。その記憶と重なり、この俳句は生きている。「これでよかったんだ」という感慨がある。句集『百年』(2019年)より。岡崎万寿

麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人 兜太

 丈高い麒麟の脚の細さに美しい恵みよと、兜太先生の健康的で純粋な純心を感じ感銘いたしました。夏の人の解釈は読む方の解釈でよいと思いますが、素敵な方を想像したり、麒麟のように理知的な群を抜く殿上人かもしれません。佐藤鬼房全国大会で、兜太先生の賞状を胸に兜太先生との写真が瀟洒な此の句とともに座右の銘として大切な宝になりました。句集『詩經國風』(昭和60年)より。蔦とく子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
柳絮飛ぶ打たれるための左頬 榎本祐子
韮の花まだまだ伸びる影法師 川田由美子
行間に仏法僧のいる真昼 久保智恵
聖五月落っこちていた靴底は 小松敦
鉛筆の書き味に似て春目覚め 佐孝石画
曖昧なきりとり線や風光る 清水恵子
ひろしま忌人形の眼のガラス玉 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
止息して海鼠のかたち梅雨来る 瀧春樹
黒き函並ぶ都心や春の暮 田中亜美
母の亡き最初の母の日の日差し 月野ぽぽな
ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
豆飯の豆の多すぎ老後なり 前田典子
傍線のような一日髪洗う 三浦静佳
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
たんぽぽや少女狙撃手絮吹いて 柳生正名

高木水志 選
瓦礫に立つ陽炎は死者たちの未来 石川青狼
他人事だった自由なからだ夏の潮 桂凜火
うりずんや基地と墓群を夜が吹く 河西志帆
緑陰や仕掛け絵本のように風 河原珠美
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
同類の匂いはなちて夏の潮 こしのゆみこ
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
苦瓜は憤怒のかたち太き雨 重松敬子
まなこ澄み君は梟だったのか 篠田悦子
白桃すするジェノサイドの幻聴 清水茉紀
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
毛たんぽぽ吹けば生国消えていく 十河宣洋
クロッカスから地球の呻き声 たけなか華那
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虹色の五月と言い孤独死のはなし ナカムラ薫
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
カワセミの青き閃光必ずもどる 松本勇二
音もなく常世へと散りえごの花 水野真由美
日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
春ゆうやけ原風景の犬ふりむく 望月士郎

竹田昭江 選
戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
虫喰いのような記憶や亀の鳴く 榎本祐子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
憲法記念日一輪車は難しい 佐藤博己
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虚弱体質烏柄杓をはびこらす 鳥山由貴子
君の心に走り書きして春落葉 中野佑海
宥すとは窓あけること花は葉に 中村晋
サザエさんち今日も揺れてる昭和の日 中村道子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
何の荷を下したのだろ柳絮飛ぶ 藤田敦子
満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司

若林卓宣 選
鼻眼鏡の妻と眼の合う春の昼 綾田節子
変体仮名の古書店閉づや藤の雨 石川和子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
桜苗植えて余生を青空に 金並れい子
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
花散れば散ったで酒がまたうまい 佐々木昇一
新樹光這い這いの子が立ち上がる 高橋明江
「麦畑」世を黄に染めしゴッホかな 永田和子
海に母苺に母ゐるランチかな 西美惠子
青芝を傷つけラジコンの戦車 根本菜穂子
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青麦の空が破れる音がする 藤田敦子
夏落葉ひっくり返してみる手紙 堀真知子
交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
桐の花母の呼ぶ声から逃げる 森鈴
さみしくて雨になりたいかたつむり 輿儀つとむ
夜桜や亡母の古羽織ちょいと借り 吉村伊紅美

◆三句鑑賞

ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
 実際に聞こえる音、手にとって見ることができるものと、そうではない幻との境はどこにあるのだろう。この作者にとってそれは極めてあいまいであり、幻のほうがリアルであったりするのかもしれない。ハンカチのような白いがく片がざわめく音が聞こえるということ、なくなった身体の一部が痛むということ。それらが言葉にされることで、言葉にしか表現し得ない世界が見えてくる。

六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
 人間の体の細胞分裂と遠花火の出会い。なぜか奇妙な実感がある。たしかにそれは、自分の体で起こっていることでありながら、まるで遠花火のように遠くで美しく弾けては消えていくものである。「の」以外は漢字で生物の教科書に出てくるような書きぶりも、味わい深い。

朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
 ポストに投げ込まれた手紙がカサリと立てる音が聞こえてくるようだ。それ以外は何の音も聞こえない夜である。手紙は黙っているが、さまざまな思いが何層にも重なって届けられるのを待っている。「重なり合う」という描写は当たり前のようでいて、その思いの厚みと重さを客観的に表現し得ている。朧夜のポストだからこその実景であり心象風景でもある。
(鑑賞・小西瞬夏)

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 胡瓜揉みは、胡瓜を薄くスライスして塩を振り、手で揉んで、出てきた水分を絞り、甘酢や三杯酢等で和えて食べる料理だ。僕も揉んでみた。胡瓜から、たくさんの水分が出てきて、だんだん柔らかくなって気持ちが良かった。胡瓜を揉む、優しい力。日々の暮らしの中に、平和への深い祈りが籠められていると思う。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 「初蝶の産土」に惹かれた。作者は秩父にお住まいだとのこと。この句の産土は、兜太先生と同じ山国秩父のことだろう。秩父谷にひらひらと蝶が舞い、川の水は春の光に照らされて眩しく見える。山国の厳しい冬が終わり、春の訪れを実感する作者のふるさとを想う気持ちが感じられる。

日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
 春の温かな光の中で、年老いた母がのんびりと椅子に座っている。そんな情景を思い浮かべた。更に「ぽつんと椅子がある」の「ぽつんと」について考えていると、今は椅子に座れなくなった母を詠んでいるのではないかと思えてきた。作者の、母との時間を大切にする思いや、母に対する敬愛の念が伝わってきて、胸がいっぱいになる。
(鑑賞・高木水志)

戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
 テレビをつければウクライナの悲惨で非人道的な映像が流れる。地球で起こっている戦争である。観ているという表現で、心の痛みを無力感を表している。「昭和の日」の制定された意味や由来はいろいろあるが、昭和は太平洋戦争という大きな犠牲を出した時代でありその傷痕は今も残っている。

青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
 飯島晴子の「恋ともちがふ紅葉の岸をともにして」の「恋ともちがふ」は正真正銘恋の句と思う。掲句は「青鬼灯」のあの未熟感と、文という情緒を以て紛れもなく初々しい表情の恋の句である。夏から秋にかけての季節の移ろい、心の移ろいの微妙な心情が詠まれている。

満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
 なんじゃもんじゃの木を初めて見た時の印象は正に「なんじゃ」という感じで、後に「ヒトツバタゴ」と知る。満場一致のあやうさを声高でなくさっと掬い上げて納得させるには、威圧感の不思議なこの木しかないとすんなり思わせる。そして、柔らかな表現に高揚感と終末を漂わせる力量が満ちている。
(鑑賞・竹田昭江)

兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
 素足でいるのは、寛いでいるからだろう。しかも兄弟だけでなく従兄弟もまざっている。近いところの人であっても、話し上手がいたり、聞き上手がいたり。お盆で帰省して久し振りに会ったのだろう。飲みながらの話は楽しい。畳の上ならなおさら寛げるだろうし。「素足」が色々と句を広げてくれているのはうれしいことだ。

交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
 警察署、消防署、自衛隊というところは、元来、暇であれば暇であるほどいいと思っている。有事の際には必要となるので、訓練だけは一生懸命やってもらって欲しいが、あとはゆっくりと休んで欲しいと思っている。見ている人は少ないけれど、月見草はけなげに咲いている。「交番に人気のなしや」は、通常の仕事の範疇。

桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
 お父さまをでしょうかお母さまをでしょうか病人をお世話されていることは大変なこと。あるいは看護とか介護とかお仕事をされているのかも知れない。さりげない物言いがいい。冬が厳しければ厳しい程、春の訪れの喜びは大きい。「桜咲きましたよ」と聞くだけで、明るい気持ちになる。「ベッドの向き変える」が、秀逸です。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

わかった私が悪かった大夕立 有栖川蘭子
ビルの谷ペルソナ吐いて炎暑かな 有馬育代
蝮谷白い帽子が落ちている 淡路放生
しろがねの南風に青鈍の鳩たちよ 飯塚真弓
雀隠れもう先生の一周忌 石口光子
卯の花腐し落ちるところまで落ちる 大渕久幸
夢ひと夜邪馬台国へ螢狩 岡田ミツヒロ
手の影をスプンで運ぶ半夏雨 川森基次
町の名は白南風基地の街佐世保 古賀侑子
老人は歯磨きをしてサクランボ 後藤雅文
青水無月メメント・モリと呟けり 小林育子
マンゴーを切って太陽取り出した 小林ろば
蕃茄トマトにはハーブ妬けさす青さあり 齊藤邦彦
星涼し烏の骸晒しある 佐竹佐介
口先の民主主義夏の火縄銃 島﨑道子
シクラメン舌やはらかに嘘を言ひ 宙のふう
青野を食む獣と草を分けあふて 立川真理
天体は遠い過去形流れ星 立川瑠璃
舌打ちは生きてるあかし青大将 千葉芳醇
暑き日やヴァットの上の母の乳房ちち 藤玲人
権現の楠からどさと大暑かな 深澤格子
死にたいと思わなくなる噴井かな 福岡日向子
冷房は無い必要だったのは空だ 松﨑あきら
お咎めの墓に吹かれて蛇の衣 村上紀子
青年の傾斜凩は緩まず 村上舞香
土手あざみ莊子譜を編み去りにけり 吉田貢(吉は土に口)
白南風やそのまま行けそうな昼寝 吉村豊
白鳥の背のやはらかき誘ひかな 路志田美子
安眠と危篤の狭間木下闇 渡邉照香
髪洗う背なに原罪やどるかな 渡辺のり子

『海原』No.42(2022/10/1発行)

◆No.42 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母の日をモナリザのよう手を組んで 綾田節子
戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
山桜桃記憶の外の負の記憶 奥山和子
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
麦秋や噛めば噛むほどごはん粒 北上正枝
やわらぎは保健室のよう金魚玉 楠井収
今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
極太の赤ペン添削梅雨夕焼け 黒済泰子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
どしゃぶりの電柱まるごと師の言葉 佐孝石画
徘徊は自由心太自由 鱸久子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
津波跡の明日葉明日に壁なくて 竹本仰
聖農の墓蕺菜の香のきつく 竪阿彌放心
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
ぞわわぞわわと大百足虫疑念も少し 藤野武
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
人混みに独りを創る日傘かな 武藤幹
青葉渦から戦闘ドローンがまた一機 村上友子
噴水にどしゃぶりのきて笑い合う 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

大西健司●抄出

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
海峡を渡る蝶なり無国籍 石川青狼
百合の香や弦音高く矢を放つ 泉尚子
そうしてさ無人駅の虹の手話 伊藤清雄
切岸に孤高の野山羊聖五月 榎本愛子
ひとやとも茅花あかりの仮住まい 榎本祐子
尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
東京を蝕む夜の巣箱かな 小野裕三
カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
天道虫飼つて時々寂しがる 小西瞬夏
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
君というこころの余韻夕立くる 近藤亜沙美
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
海をゆく蹄の音の霞みおり 白石司子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
産土の神の水辺に茗荷の子 関田誓炎
踏青やママはタトゥーが嫌いです 芹沢愛子
強情や鹿一頭が野に残る 十河宣洋
とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
静けさや手長蝦釣る雨の池 髙井元一
石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
本ひらく若葉へ船を出すように 遠山郁好
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
短夜や8ビートな喧嘩して 中野佑海
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
Tシャツをはみ出て誰の腕ですか 堀真知子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
 蛍狩りに来て、蛍を捉えようと悪戦苦闘している内に、気が付くと足下に蛍のむくろが落ちていた。自分が叩き落としたものかどうかは定かでないが、おそらくこの蛍狩りの最中に、人間どもの手によって犠牲になったのだろう。いわば人間のエゴイズムの犠牲となった蛍に違いない。にわかに気づくと、妙に粛然たる気持ちになって、やや高い土の上に蛍のむくろを置き、蛍狩り戦記の犠牲者として弔いたい気分になったのではないか。束の間の蛍の命への心の通い合いを詠んでいる。

沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
 沖縄海域におけるジュゴンの生息環境は、きわめて厳しい状況にあるという。戦争や戦後の基地建設、埋め立てによる再開発等によって、ジュゴンの生息環境はますます窮迫し、絶滅の危機に瀕しているらしい。沖縄忌は、昭和二十年六月二十三日、日本軍が摩文仁岬において壊滅した日に当たる。この戦いで多くの民間人が犠牲になったが、戦後約八十年の歴史の中で、ジュゴンもまたあの時の沖縄の人々同様絶滅の危機に直面していることを、戦争の悲劇とともに告発しているのではないか。

老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
 人間も生き物である以上、生まれ、育ち、盛りの時期を過ぎて、いのちの消滅を迎えるのは、自然の成り行きと言わざるを得ない。不老不死は望むべくもないが、老後の時間が長期化していることも事実である。老いの行程は、必ずしも楽なものではなく、むしろどう耐えていくかの重荷を背負うもの。しかも老いは、紙魚のように忍び寄り、刺客のように不意を襲うのだ。そうなると正面から戦えるものではなく、いかにうまく付き合っていくかの問題となる。この比喩が個性的だ。ここでは、その入り口に立った人の、途方に暮れた立ち姿と見たい。

今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
 この句の本意は、残された時間は多くなくやるとすれば今しかないのに、うたたねをしていたずらに時を空費している己への自省の念を詠んでいるように思える。やや筆者自身の身に引き付けた読みかも知れないが、これも一つの境涯感の風景と読めなくはない。すでに田水は張って、田植えに取り掛かる用意が出来ているというのに、一向に腰が上がらないのも、老い故だろうか。その刻々の時間意識自体、一つの生命現象には違いない。

徘徊は自由心太自由 鱸久子
 すでに九十代半ばに達している作者の、自由闊達な生きざまを書いた一句。「徘徊は自由」とは、兜太先生の「俳諧自由」をもじったもの。年を取ると眠りが浅くなり、夜中に目覚めて徘徊することもある。作者は、それなら起きて自由に徘徊してやろうという。兜太先生もそうしていたらしい。「心太自由」は、ちょっと難しいが、イメージからすると排便のことか。兜太先生は晩年、土スカトロジーに親しい糞尿譚をやたら句にしていた。さすがに作者は、そこは慎ましく「心太」とぼかしたが、なんとも奥ゆかしい(?)自由さではないか。

黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
 五月の黄金週間、コロナ禍の最中ながら、二年越しのコロナ疲れに、ウクライナ疲れも重なって来たので、久しぶりの連休は家族連れの短い旅行に繰り出したのではないか。さりとて、感染対策に気を抜くわけにもいかず、全員黒マスクで物々しくバスに乗り込む。そんな一家のささやかな癒しのひと時を、かけがえのないものとして愛おしんでいる。黄金と黒の対照に緊張感を宿しながら。

母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
 この場合の「顔」は、母の日の主役の母の顔ではないだろうか。日頃一家のために献身している母は、自分がお祝いの当事者であることなど、ころりと忘れているから、子供たちは示し合わせてひそかに母の喜びそうなものを用意し、当日、何食わぬ顔で集まって、食事時に出し抜けに母にプレゼントする。「忘れものした時の顔」とは、その時の母の、あっと驚く表情ではないか。

鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴

 この三句では、日常のさりげない暮らしの断片から、なにやらショートエッセイ風の物語的世界が広がる。
 「鳥ぐもり」の句。震災による瓦礫の下に、ぬいぐるみの人形が落ちていて、被災の爪痕を生々しく残している。被災地の復興未だしの中、鳥ぐもりの空は一向に晴れそうにない。
 「蘭鋳」の句。小さな金魚鉢に一匹の蘭鋳がいて、いつも独り口を動かしている。どうやらその淋しい言葉は食べ尽くしたようと見立てた。自画像の投影だろうか。
 「水仙花」の句。夜の水槽で、水仙が花を開き、根茎は節々から不定根を水中に広げている。その姿は、寒さの中、花の矜持を保つかのように、密かにスクワットを試みているかのようにも見える。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
 「尽くし過ぎですか」と言われても困るんですがってこたえたくなる。桜子さんの同人としてのスタートを飾る一句は私の思う彼女らしい句だ。薔薇は薔薇、私は私そんなところだろう。私らしく生きる、これからのありようを語っているように思える。やはり薔薇を持ってくるあたり素晴らしい。華やかに活躍してほしい。

カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
 やはり新同人の清峰さんの味のある句に注目。
 なんと言ってもカメノテが秀逸。地方都市に住む者の強み、こんな題材なかなか無いだろう。カメノテ穿るなんて書けない。何ともいえないリアリティが愛おしい。
 縁側だろうか、屋外だろうか。一杯やりながらほじほじやっているのだろう。梅雨の晴れ間のひととき、少しべたつく潮風を感じながらの至福の時間。そういえば海辺の小さいスナックで、突出しに出された磯物に困惑した記憶が甦ってくる。それは小さな巻き貝。カメノテよりも小さいやつをちまちまと穿ったことを思い出す。
 素敵な一句に乾杯。

ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
 何とも楽しい句だ。最初読んだときわざわざ上野なんて書かなくてもと思ったが、やはり余計なことは書かず楽しいリズムで「上野のシャンシャンみたいにさ」と書ききった良さだろう。「みたいにさ」が実に愛らしい。
 上五のハンモックへと戻っていくのだろうが、いそいそとハンモックを吊しながら呪文のように呟くのだろう。
 何ともいいなあ、シャンシャンみたいにおもいっきりごろごろするんだろうな。羨ましいことです。

馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
 こちらもおなじく「黄昏れやうかしら」が何とも良い。
 軽やかに響いてくるのが実に愛らしい。実際のところ広辞苑などには物思いにふけるというふうには出ていないが、いつしか一般的にはこのように使われているのでそのように読みたい。たぶん一人で馬糞海胆を堪能しながら、ちょっと黄昏れてみようかしらなんて呟いて飲んでいるんだろうな。節子さんの「みたいにさ」と同じく「やうかしら」が実に素敵。でも馬糞海胆とこう書かれると優雅さよりユーモアと感じてしまうのは何故。

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
 なにこの不気味な導入部。木下闇にポツンと人形が置かれていたら怖いだろうな。そのうえ目が無いとなると勘弁して欲しい。そしてその目を探しているのだ。何だこれは、ここから何が始まるのだろうか。しかしやはりこれは作者の内面に潜む何かなのだろう。不思議な世界観に心引かれる。

とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
 一転こちらは明るい世界が広がる。広がるがやはりこちらも不思議な世界。何なのこの梅雨鯰って、しかも二階のベッドにとなると例によって妄想癖が動き出す。
 私の詮索だとある日の旦那さんの姿態。どたっと寝転がっているのだろう。口髭でもあるのかな。ベッドと一体になっているのだろうなどなど何とも失礼しました。
 読み手を楽しくさせてくれる仕掛けに溢れた句。

橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
 昼のポーって何なのから始まって、いつしかとりこになっている。エドガー・アラン・ポーとかいろいろと考えていると、ふっと浮かんできたのが少女漫画のポーの一族。内容はよく知らないが壮大な物語が動き出す。
 でも何なんだろうこの不思議なポーは。ポーがこの句のすべて。秀逸。

用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
 一昔前だと家猫も気儘に外を歩いていた。そこには縄張りがあり、ボス猫の存在があった。この句の用心棒みたいな猫の存在ももちろんあった。凄みのある風体に幾多の戦いを経てのあまたの傷痕。猫好きにはたまらない一句。そんな猫が青葉の中に眼光鋭く蹲っているのだ。
 青嵐がよく似合う。

石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
 地震で怖いのは火事に津波。あとかたもなく想い出を奪い去ってしまう。あとに残るのは残骸のみ。作者は、日々の暮らしの痕跡である石塊や木っ端も遺品という。
 建物の破片かも知れない木っ端や、庭先にあったのかも知れない石塊に思いを寄せている。遠くにあって映像で見るのみだが、その残酷さを痛切に思う。この夏も酷暑に豪雨、各地で頻繁におこる地震。常に災害は身近なところにあり、他人事ではないだけにこの句が身に染みる。

 ところで、いろいろと訳のわからないことを好き勝手に書かせていただきましたが最終回です。ありがとうございました。

◆金子兜太 私の一句

霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ 兜太

 戦後の組合活動の関係で、先生が何度か広島を訪れた時の句である。広島駅前に、数人の女性が佇んでおり、その中に顔半分がケロイド状で、それを隠すようにするきれいな女性がいた。先生はその姿を忘れられなかった。汽車が走り出す後まで「きゃー」という声が上がるという幻覚。先生はその女性の夢を何度も見たという。かつて夫と降り立った広島駅での出来事と思うと、同じ女性としてひしひしと悲しみが迫ってくる。句集『少年』(昭和30年)より。〈著書『あの夏、兵士だった私』(平成28年)の中に自句自解あり)石川和子

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 この句が難解と思う人も多いようだが、兜太先生の句で好きな句ベストスリーの一つだ。俳句をする前から、ダリなどシュールレアリスム的作風の絵が好きだったが、この句はそのような絵になる句だと思った。この句を絵にしたら、タイトルは「早春」だ。早春になった喜びの気分を表現する俳句として、この句は私には大変新鮮な句である。句集『遊牧集』(昭和56
年)より。峠谷清広

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
春水の言葉に両手差し入れる 榎本祐子
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
しっかり呼吸巣箱に粗漉しのひかり 川田由美子
未草こころは足からは遠い 河西志帆
晩春のこだまを入れる鞄かな こしのゆみこ
蓋閉まらないほど入れて春の夢 小松敦
花見上げ奥へ奥へと僕等つながれ 佐孝石画
清明や戦地の夢は冷たい顔 豊原清明
揺れること立つこと鳥の巣を抱く樹 中村晋
どこかで又ちひさな渦巻きたねをの忌 野﨑憲子
四郎四郎と呼ばう島あり睦月かな 野田信章
天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
チューリップ画をかくように戦をして 平田薫
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
戦火また四月の橋に足をかけ 水野真由美
ブランコ最下点またふるい魚群くる 三世川浩司
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
鳥雲に君は前しか見ていない 室田洋子
消印は 三月十一日海市 望月士郎
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

高木水志 選
人類の未来世紀へ届けよ薔薇 石川青狼
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
春雨は古典よ魚になる途中 大沢輝一
蝙蝠のスープ静謐な春のこと 大西健司
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
やや無口とか人間の種袋 小松敦
雨の輪のかさなりあひて死生観 三枝みずほ
まっさらな今日を燃やして夜の桜 佐孝石画
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
喪失という繰りかえし春の雪 芹沢愛子
みづいろは大地テラの頬笑みしやぼん玉 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
内なる死干潟に満ちて遊女塚 並木邑人
崩壊の土来年も咲くよ菫 野口思づゑ
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
桜もう風の軽さに漂いぬ 茂里美絵
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

竹田昭江 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
清明の縞馬フォンタナの切れ目 石川まゆみ
げんげげんげどこを曲がりてわれに今 伊藤道郎
畳まれて国旗の色の紙風船 小野裕三
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雲雀落つ父と永眠との間 木下ようこ
いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
土筆野に朝日清浄なりしかな 関田誓炎
めつぶるは睡魔のなごり白山吹 田口満代子
友情は黄泉につづけり花きぶし 田中亜美
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
山道の菫見るまでのリハビリ 谷川瞳
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
苧環の咲いて出雲の雲遊び 遠山郁好
たんぽぽの絮毛吹こうと誘われる 中村道子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
ひとり花見つぶやくことも我が浮力 村上友子
地球儀は地球にいくつシャボン玉 望月士郎
山椒の実遠回りには訳があり らふ亜沙弥

若林卓宣 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
うしろの正面にいます春の蝶 市原正直
蕗の煮物のとりとめのない日常 宇田蓋男
ヒヤシンスきょうはさみしい音を買う 大髙洋子
もうよせよあの八月がやって来る 奥村久美子
豆ごはん並べてやさしき時間かな 柏原喜久恵
順繰りの人生と母日向ぼこ 金澤洋子
お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
目刺焼く格好付けるなと言ったでしょ 楠井収
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
初夏の少女ブランコをゆらしている 笹岡素子
夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
戦争を観ているビール注いでいる 瀧春樹
ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
騙されるふりの優しき万愚節 長尾向季
食べることねること桜さくらかな 平田薫
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
落ちて割れた氷柱を蹴って難民か マブソン青眼
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
親に物言わぬ子となる木の芽時 梁瀬道子

◆三句鑑賞

天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
 天皇を句に詠むときに感じるちょっとした抵抗感。天皇という存在を畏れ多いものとしてしまう無意識の何かと、それと同時にその何かを否定しようとする意識。「きれいに」でまずは天皇誕生日を言祝ぎながらも「鯛の骨」という、ひっかかりや違和感を持ち出し、もしかしたら最上級の風刺なのではないか、と思わせる。

消印は 三月十一日海市 望月士郎
 胸が苦しくなるような悲しみを、美しく表現された。一時空けを含めての句の姿がビジュアルとして、句の意味を超えたものを醸し出している。「消印は」と始まり空間がある。ここにあの津波からのあらゆる出来事が省略されていながらも、たしかに見えてくる。「は」という助詞を使いながらそのあとは散文としては続かない。韻文の律を持ちつつ、ぼんやりとした映像を見せる。「海市」という季語が十分に働いているからだろう。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 「木のやうな人」とあり、なんとなくそれっぽい人を想像する。「と」のあとにくるのは何だろうという期待を裏切られるよろこびとして「木の人」がやってきた。「木の人」とは?にイメージを遊ばせる朝のアンニュイな時間がたっぷりとやってくる。
(鑑賞・小西瞬夏)

変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
 ルールは本来、人々が安全で平和に暮らしていくためにあるもので、小学生の時、みんなで試行錯誤しながら遊びのルールを変えていったことを思い出す。作者が思っている「変えていいルール」はわからないが、僕は、まだ寒さが残る時期に、ここから春ですよと白線を引き、宣言する作者の未来に向けた気持ちや清々しさを感じた。

不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
 家族の様子を「不燃性家族」、一人「たんぽぽ化」と表現したところが面白い。たんぽぽと言えば、僕は先ずその絮を思い浮かべる。閉塞感が漂っている家族の中で、一人明るく逞しく育ち、希望を抱いて飛び立とうとする姿が「たんぽぽ化」なのではないか。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 不思議で魅力的な句。人の暮らしは、昔から木と共にあった。僕にとって、木とは、大地に根をはり、太陽に向かって枝・葉を広げ、風雪に耐えながら、たくさんの生き物を育んで生きているものだ。「木のやうな人」は、そうした木のように歳月を重ねた人だと思う。「木の人」は、木の精霊のことだろうか。日常生活の中で、こんな朝寝ができるなんて素敵だ。
(鑑賞・高木水志)

いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
 「つ」の連鎖の韻律が奏でる心地良さ、表記の端正さ、うつくしくの趣がすっと見えてきた。「いつかつかう」の言の葉が胸に響いて、きめ細かく生きるおりふしのやさしさに触れる感触、それは春の家。箱に千代紙を貼って大切にしたのはいつのことだったのか、今も何入れるでもない箱を大事にしている。

全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
 三月十日の東京大空襲で被災した私は、毎日報道されているウクライナの惨状が痛くて震える。国花のひまわりを「全面的に」こそ世界平和を希求する大きな声であり「咲かそう」と停戦への積極的な行為を示している。麦が青々と風にたなびき、ひまわりが太陽の下で大きく咲く日が一日も早くと願うばかりである。

追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
 まったくと言いながら待っている気持ちは可笑しくも分かる。きっと日本猫で黒猫に違いないと確信すらして。我が家にも猫が居て実に気儘であるが、その気儘が気に入っている。「追い返すつもり」と待っていると、ふと寂寥を感じるのは日永のせいか。犬より猫の句が圧倒的に多いのは、気配の生きものだから、と思う。
(鑑賞・竹田昭江)

お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
 歩き遍路をしていると、お接待を受けることがよくあり、いただいた気持ちとして納札をお渡しする。「よくお参りくださいました」と言われると、頭が深くさがる。「遍路は歩いてこそ」と言う寂聴さんのポスターを見かけると、そうとも思うが、都合もある。「お達者で」と言われると、益々元気になれるような気がする。

夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
 公園なんかでよく見かける風景。子であろうか、孫であろうか、まさかの本人であろうか。鉄棒の出来ない年齢になってから知ったのだが、鉄棒に腹をくっつけたまま太紐で縛れば逆上りは出来る。やがて夕虹のなか、その少女は(勝手に決めつけているが)何の助けも、誰の助けもなく、逆上りが出来ていると思う。

ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
 春には桜、夏にはひまわり、秋には紅葉を撮っている写真の好きな人が私の近くにいる。中でも桜には贔屓の木があり、毎年撮っている桜の写真を見せてくれる。「満開の桜を浴びる」のだから桜を好き過ぎてどころではない。環境なのか、日本人の血なのか。「墓石に映りながら散る」桜も気になってしょうがないようだ。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

食卓に色違いの箸茗荷筍 有栖川蘭子
青梅や母のゐぬ間に紅して 有馬育代
石屋から出て来る白い羽抜鶏 淡路放生
企画書と寝ぬべき頃かな明易し 飯塚真弓
蟻ころす部室のかたすみ資本論 遠藤路子
殺めたる豚の血の色端居して 大渕久幸
れんぎょうの花よおとなの反抗期よ かさいともこ
夏蜜柑力を入れて産みました 後藤雅文
こんなにもたんぽぽ咲いていて痛い 小林ろば
夕焼けや余生青でもよかろうか 近藤真由美
丸裸謀反役なるチャップリン 齊藤邦彦
蜘蛛の囲にぶらさがってみるゆれてみる 宙のふう
ミロ愛す花と女とかたつむり 髙橋京子
父の日やひと日娘になりにけり 立川真理
人は生く泰山木の花咲かせ 立川瑠璃
蕨狩り上飛ぶブルーインパルス 土谷敏雄
古火鉢に目高飼い初む七十なり 原美智子
鯨幕の外で踊るよ顔なき人 樋口純郎
跨線橋のつしのつしと積乱雲 深澤格子
さみどりやかの道裸眼でゆくことに 福井明子
揚羽蝶前頭葉にフラグが立つ 福岡日向子
レコードを脇に抱へる夕立かな 福田博之
新緑や夫を病いを悪自慢 藤川宏樹
限界団地内公園文字摺草ほっ 松﨑あきら
海難を悼む島の灯走り梅雨 村上紀子
低速で檸檬つぶしていく指よ 村上舞香
虹立つも國家を主語とするなかれ 吉田貢(吉は土に口)
みちのくにそろりそろりと祭りあり 吉田もろび
剃髪の母大海のごと笑ひをり 渡邉照香
白薔薇や獅子座のおとこ所望する 渡辺のり子

『海原』No.41(2022/9/1発行)

◆No.41 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

今生の別れはライン 薄翅蜉蝣 石橋いろり
遠く住む姉 障子明りが救いです 泉尚子
麦秋や爪弾く禁じられた遊び 大髙洋子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
肖像画遺す人生麦青む 小野裕三
籐椅子の窪みかすかや姉の逝く 片町節子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
陽だまりは祈りの白さみどりの日 小松敦
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
王冠忘れた女王様です白木蓮 鱸久子
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
羊歯若葉少年いつも老い易く ダークシー美紀
腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
花は葉に数える影のくいちがう 竹田昭江
無辜の眼の底に昏れゆく麦の秋 田中信克
新茶汲むこの一椀の天地かな 寺町志津子
行く春の愁緒一懐しゅうしょいっかい抱きて寝る 董振華
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
暗がりの樹々かをりたつ藍浴衣 前田典子
嘆きのように祈りのように熊谷草 松本千花
今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
朧なる人道回廊けものみち 深山未遊
何も無い日々に丸して花水木 室田洋子
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司
父の背がここ籐椅子のふくらみに 森武晴美

大西健司●抄出

少年の髯剃る最中遠郭公 石川和子
パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
草城にダニの句多し夏の雨 大西恵美子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
怒りにも賞味期限や春の虹 加藤昭子
病む父へ猫は寄り添い余花の雨 鎌田喜代子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
薬草のような女になる五月 佐藤詠子
火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江
空蝉やへその緒三つ手の中に 志田すずめ
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
閉ざされし母校の艇庫冴え返る 新宅美佐子
さびしさに正面ありぬ金魚玉 竹田昭江
生意気なナースの二の腕風薫る 長尾向季
兜太の忌古き鞄を陽に晒す 日高玲
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
桜蘂降るカーナビは遠回りが好き 深山未遊
マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
幣辛夷田の神様は大股で 横地かをる
円墳に歌舞く役者か黒揚羽 吉村伊紅美
孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣

◆海原秀句鑑賞 安西篤

卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
 作者の実家は三重県南部の山深い地に住む旧家。「爪の小さな家系」とは、ささやかな矜持を謙遜の意を込めて書いたものだろう。「卯の花腐し」は、陰暦四月卯の花月に降る雨で、春雨と梅雨の中間の霖雨。せっかくの卯の花が腐るのではないかという先人の思いからきたものという。おそらくこの季語の湿り気を帯びた滅びの美しさと、その地に耐え忍んで生きる旧家の宿命を、さらりと書いているのではないか。義父甲子男に通ずる反骨をも感じさせる一句。

卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
 作者は、今年、定住の地であった長野県から沖縄へ転居した。その一報を電話で受けたとき一瞬驚いたが、彼女なら迷いなくやりぬくだろうとすぐに思った。この句はその第一報だろうが、まったく物怖じしない気合が入っている。沖縄の海に向かい両手を広げ、ずかずかと靴のまま海に入っていき、どうぞよろしくと叫んでいる姿が目に見えるようだ。海もまた「いいぞ助っ人」と答えているに違いない。

桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
 「桜蘂降る」は、花が散った後の、静かな晩春の風情で、地面をうっすらと赤紫に染めるように散り敷く。掲句は、今の時期ウクライナ戦争を意識しているのだろうから、その惨状を正視に耐えがたい思いで見聞きしているはずだ。「戦禍見ぬふり聞かぬふり」は、それにもかかわらず、見、聞かざるを得ない気持ちを詠んでいるとみたい。その辛さやりきれなさを、逆説的な表現で捉えた一句といっていい。桜蘂は戦禍の血痕のようにも見える。

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 やはり日常の暮らしの中で、戦争の現実をひしひしと感じつつある一句だ。この世界に戦争しない力を、その念力を私にも、という願いを込めて、胡瓜を揉んでいる。もちろんそれだけで、直接戦争抑止力につながるわけではないが、その願いの集積が、大きな波動となって歴史を動かしていくことはあり得よう。ささやかな日常に平和への願いと祈りを込めた一句。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 兜太先生の身辺にあって、同じ風土と空気の中で生きてきた人ならではの、身体的韻律を感じさせるものがある。一句全体が兜太節といっていいのではないか。初蝶は、春の訪れを告げるかのように舞い出て、山河の水はその光に照り映える。あらためてわが産土の地を寿ぐかのように。兜太先生の晩年は、この句のような原郷回帰の思いが濃かったのではないだろうか。

腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
 作者は今年二十七歳、大阪在住の青年だが重度の障碍者で、脳機能はなんとか保全されてはいるものの、肢体の動きはままならず、辛うじて言葉を発することは出来ても、健常者のように会話を自由に操ることは出来ないという。外部とのコミュニケーションや俳句の創作は、もっぱらお母さんが本人の言葉をパソコンに打ち込んで発信する。お父さんは脳科学者でもあり、本人の健康管理は両親の専門的対応によって万全を期しておられる。重いハンディキャップを両親の献身的介護のもとで乗り越え、俳句は大叔母の本誌同人高木一惠さんが受信して適切なアドバイスもしながら、編集部に取り次いでいる。いわば一家一族あげての手厚い支援体制の下で俳句活動が成り立っているわけだ。このような背景を踏まえて掲句を読み直せば、「腹這いの自由繋いで」に作者の懸命な野遊びの映像と、土筆のささやかながら精一杯生きようとする景が重なって、いのちのシンクロニシティの空間を現出しているような感動を覚える。

爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
 ウクライナの現実を想望した句の中では、戦争の初期の衝撃を映像化したものではないか。爆風で風見鶏がくるくる回っている景。ひまわりの国というウクライナを擬した表現にも、風見鶏の回転に連脈する語感の軽快なリズム感があって、戦争の衝撃に耐える弾力性を思わせるものがある。だがその「ひまわりの国」も、今は略奪と暴行で泥まみれに打ちひしがれている。その現実を我々は想望するだけだが、それでも戦争の悲劇を我々の日常の断片の中に見出して、ささやかな体感を表現していくことは出来よう。

今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
 働いている人々の今日のアレコレ。誰にも言えず、ひたすら時間とともに塵芥のように堆積してゆく。その多くは対人関係のものだけに、おのれ自身で背負うしかない。そんなアレコレをかっさらっていけるのは、今頬をなでていく若葉風ぐらいのものだろう。いわば束の間のカタルシスだが、それでもそのひと時あればこそ、明日への生きる力をよみがえらせることが出来る。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
 今月号は「風の衆」の俳句がおもしろい。中でも木下ようこさんの句にはショートショートのようなおもしろさがつまっており妄想癖を刺激する。
 「こなごなの過去」「記憶の下の下の詳細」などとどこか意味深。そして最後に「離婚後も同居」という現実が述べられ、突然の青葉木菟の出現にびっくり。
 元亭主があたかも青葉木菟であると取りたい。
 冷え冷えとした家の中の片隅に存在している元亭主のどこか達観した姿とはうがち過ぎだろうか。でも青葉木菟でよかった、たとえばごきぶりじゃいやだもの。
 かと思えば「灰吹屋薬局」が出てくる。何とも灰吹屋が気にかかる。調べればごく普通のドラッグストアとか。
 ただやはり江戸から続く老舗のようだ。ツバメに好かれる江戸店からいろいろと妄想が膨らむ。諧謔味に溢れた五句が秀逸。

薬草のような女になる五月 佐藤詠子
 何とも悩ましい薬草のような女。さてどんな女性なのだろうとまたまた妄想が膨らむ。なかなか渋い味わい深い人だろうか。ノバラ、イチヤクソウ、それともドクダミのミステリアスな白。五月になるとそんな女になるという。みちのくの五月は全てが躍動的になる美しい季節。
 そんな季節にどう生まれ変わるのだろうか興味はつきない。

火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
 後家とは何とも意味深。いまも普通に使える言葉なのだろうか。日常の中に存在する火薬庫の不気味さ、そして何気に佇む女性の存在が何ともいえず秀逸。ここから何か物語が始まるのだろう。

はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
 言葉遊びの楽しさを堪能。
 他にも紫木蓮をティラノサウルスの舌と捉えた感性。
 青葉径を横切る狐の尾の愛らしさ。のびのびと書かれていてすべてがたのしい。

パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
 ひゆーいと伸びるパンタグラフは路面電車のもの。
 やはり普通の電車のパンタグラフはこんなにのどかではない。とりどりの路面電車のなかでもとりわけ古い車輌のものだろう。広島の街を縦横に走る路面電車の愛らしさが「ひゆーい」から伝わってくる。そんな広島にまたあの時と同じ暑い夏が来るのだ。

五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
 水墨画の味わいだろう。五月雨に煙る野にぽつんと一頭の山羊がいる。その山羊の姿が全景なのだ。何もかも雨にかき消されている。一頭の山羊に焦点をあてて秀逸。

はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江

 二句とも何でも無いさりげない句だが、このさりげなさが好ましい。黒岡には「春泥に」という重いテーマの句もあるが最終的にこの句をいただいた。
 佐藤句はただ帽子を二つ買ったというだけ。しかしそれが病院帰りだということで、ストーリーがそこから動き出す。能動的な夏の始まりがうれしい。

星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士

 やはり光の衆の句は除けては通れない。なるべく無視しようなどと余計なことを考えるのだが、やはり実力作家の句はあなどれない。さて松本句だが最近とみに身辺詠に冴えをみせるのだが、この句のような壮大なロマン溢れる絵画的な句もいい。むしろこのような句が松本勇二の世界だろうと思う。どこか神話を思わせる。
 そして宮崎句だが、君という存在の重さをまず思う。
 そしてそこには君の死を受け入れられない現実が横たわる。そのやるせない思いの重さ深さにひたすら摘草を続けるのだ。それは胸の奥深くひっそりと永劫続くのだろう。あまりに切ない。

マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
 マトリョーシカはロシアの代表的な木製人形。その愛らしい人形が呟く。「春は終わった」と。やはりこのぶっきらぼうな言い方のその中に、今度の戦争の虚しさが隠れている。すべては終わってしまった。もう元には戻れない、そんな切なさに溢れている。

孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣
 孑孑の湧いた水を盛大に舗装路へぶちまけているのだ。
 その行為のおもしろさ。孑孑を水ごと捨てるという、その捉え方の手柄だろう。一見ぶっきらぼうな言い方に諧謔味があり、この行為を正当化する人の姿の様子まで見えてくる。

◆金子兜太 私の一句

葱坊主わらべの持ちし土光り 兜太

 私の故郷は愛知県の奥三河の山村で、山が迫り空は帯の様に細長い。平地は少なく段々の田畑が細々とあり農業と林業の暮らしである。山と土に育った私には、兜太先生の土に親しみ土に生きるという考え方と、その諸句に強い共鳴と印象を感じ今日まで学んでいる。この句の土が光るというのは、正に土を大事にし、土が全てであると表現されている。秩父の腹出し童と土、先生の俳句の原点と強く惹かれる。句集『少年』(昭和30年)より。伊藤雅彦

海流ついに見えねど海流と暮らす 兜太

 入会して間もなく秩父俳句道場で拙句を特選に採って下さり、〈谷底にめしつぶ怒号して百軒〉の色紙をいただきました。色紙の入った額の裏には〈昭和五十七年七月道場兜太書〉と墨で書いて下さった私の宝物です。海流と暮らす五十代から六十代の血気盛んな先生の姿が偲ばれます。後の〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉はオホーツク海を離れ、人間界に戻って流れてゆく「定住漂泊」を詠っておられます。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。若森京子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
天国だ地獄だろうと団子虫 阿木よう子
雛人形美は断崖に立っている 片岡秀樹
水喰らい風喰らい阿吽の形の凍瀑よ 刈田光児
越後平野慕わし雲居より白鳥 北村美都子
お日さまにくちびる見せよ春の子よ 三枝みずほ
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
世の中のどこまで信じ地虫出づ 佐藤詠子
能面の男の囲む焚火かな 白石司子
春の霧老いの深さに追いつかぬ 髙橋一枝
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
流氷接岸夜は一羽の迷鳥に 鳥山由貴子
夜のきわが街を呑み込む兜太忌や 藤野武
湯冷めして返しそびれた本のよう 船越みよ
小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
谷の芽木いま兄呼べば振り向かむ 水野真由美
雪割り草意外と「遺憾です」の顔 宮崎斗士
素心臘梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
心音はこれくらいかと臘梅咲く 横地かをる
泪をながさうまた生まれやう繁藪や 横山隆

川崎益太郎 選
落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
春の土耕すように脳軟化 大西政司
梅匂う人間鬱になる途中 尾形ゆきお
桜舞うフェイクニュースに踊らされ 奥村久美子
春の闇骨肉の戦車並ぶなり 桂凜火
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
必死とて死ぬわけでなし亀の鳴く 高橋明江
かじかんだ手を置く頰はあったんだ 竹本仰
黄砂降るそのまた向こう戦あり 竪阿彌放心
デモのない国のかたすみ鳥帰る 田中信克
裏側は決して見せない月の意地 東海林光代
啓蟄やごみの捨て場に遍路杖 長尾向季
秋思など戦禍思へば言い出せず 野口思づゑ
同窓名簿遠い遠いスタートの日 間瀬ひろ子
私に正面くださいチューリップ 三好つや子
フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
天井の闇のひとみや雹の音 森田高司
酔いどれにマスクが月にぶらさがり 輿儀つとむ

村本なずな 選
自分史の過去が氷解雪解川 赤崎裕太
雪吊や知恵とはなべて美しき 石田せ江子
三月十一日と書くもくやしきかな 稲葉千尋
蝶々や無数の仮説あおぞらに 上原祥子
捜し物もともとあらず朧月 片町節子
どこに仕舞おう零れる時の種袋 桂凜火
花あしび野辺に光の荷を降ろす 川田由美子
光りつつ消える俤竹の秋 北上正枝
いぬびわの実なにもおしつけない流れ 黒岡洋子
うさぎまっすぐわたしを抜けて雲 三枝みずほ
椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
卒業式の後のふんわり鬼ごっこ たけなか華那
花ミモザ仔馬は耳で考える 遠山郁好
しどみ咲く段々畑の日の笑窪 平田恒子
麦青む胸のファスナー空へ開き 藤野武
若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
この木から言葉始まる榛の花 三浦二三子
語尾また♯してぼくらも春の一部 三世川浩司

山田哲夫 選
千枚田水が張られてきれいな歯 稲葉千尋
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
自粛とやまたしばらくは冬の蜂 尾形ゆきお
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
菜の花盛り艶の山気に仮睡して 関田誓炎
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
故郷や笑い上戸の山ばかり 峠谷清広
駅蕎麦の生真面目な艶春出雲 中内亮玄
春一番こける子のゐる地曳網 長尾向季
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
観念をしまう抽斗猫柳 松本勇二
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
私書箱に置き去りにする春愁い 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
 山独活は収穫時に根を残すと、ほぼ毎年同じ場所で収穫出来る山の恵み。えぐ味が強いが皮を剥いだ真白な茎を切り水にさらすと透き通り、仄かな苦みと歯ざわりがある。山独活を知り尽くした作者が山独活と民話とに共通する本質的なものを感じとり、それを言い切ることで、読む側への説得力がより強くなったと思った。

白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
 前書きには「母他界」とある。人の死で最後まで残るのは聴覚と聞いたことがある。作者の母を呼ぶ声も、多分白梅が散りゆくように今際の母上の耳から遠く静かに消えていく。身近な人の死の悲しみをこんなにも美しく表現し、結句に鼓膜という厳然とある器官を据えることで現実に引き戻す作者の句力に脱帽。

小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
 五月の良く晴れた日に友と二人近くの山へ。途中日当りの良い斜面から五〜六羽の子連れ鳥。胸のオレンジ色が印象的。小綬鶏だ。聞き做しは「チョットコイ」二羽が鳴き交わせばまさに夫婦喧嘩。作者がそう思い付いた瞬間の茶目っ気ある笑顔が見えるよう。世界中が小綬鶏の声の聞こえる自然豊かな土地で平和に暮らせたらどんなに良いことでしょうか。
(鑑賞・狩野康子)

落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
 落椿という季語について、前触れなく、落ちることを詠んだ句は多いが、「他界」と結び付けたことから、兜太師のことが思い出されて、心に響いた。確かに、遠くて近い、他界は、落椿という季語の本意かも知れない。

マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
 ロシアを代表する民芸品であるマトリョーシカの腹に一物と言わせる哀しさ。数々の美しいロシア民謡も何か胸につかえて、昔のように素直には歌えない。ただ一人の男のために…。先の見えない戦に冴返るどころでなく、凍りついてしまう。

フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
 「フラスコ」と「ふらここ」をリフレイン的に使った俳味あふれる句である。確かに、フラスコは胎児を守る子宮のような感じを受ける。そこで、子どもが無心にふらここで遊んでる。毎日のように、ウクライナの子どもたちの悲惨な状況等を目にさせられるだけに、幸多かれと祈るのみである。
(鑑賞・川崎益太郎)

椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
 高濱虛子の「流れゆく大根の葉の早さかな」の流れは野趣を感じさせる流れである。一方掲句は椿の花の優雅さのため、庭園の遣り水を思わせる。それまでは流れの速さを特に意識していなかったが、一輪の椿が落ちたとたん、流れは生命を吹き込まれ生き生きと流れだしたのだ。私は思わず黒澤明の「椿三十郎」のワンシーンを思い浮かべてしまった。鋭い観察眼と感覚の一句。

真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
 意表を突かれる句。新玉の陽を有り難くおろがむのではなく、挑戦するように真向かう作者。しかも食ってしまおうかと思う胆力と気概。小賢しいレトリックなどこの方には不要だ。確かな矜持をもって生きてこられたに違いない。ずばり踏み込んだ表現に圧倒される。

若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
 いささか厚手のダッフルコートは学生時代のものだろうか。これを見ると若き日の思い出とともにあの頃の情熱や志が甦ってくる。そのコートが「日和るなよ。あの頃の思いを貫けよ。」と作者を叱咤激励している。作者はその思いを確認するため、このコートを見つめているのだ。
(鑑賞・村本なずな)

冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
 冬の火葬場で少年が見送るのは、肉親であろうか。それとも兄弟だろうか。悲しみの極にある少年の心を察して、肩をそっと抱き寄せた火夫。その行為の中に日々人の死に向き合っている人の心根の優しさと、それを見た作者の温かなまなざしを美しいと思う。死と向き合うと、人の心は不思議と素直になる。

遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
 日々戦争や災害や疫病の蔓延にやるせない思いを抱きつつ生活している身には、こうした句に出会うと急にほっとさせられる。土偶の昔とて、人間の日常の営みにたいした違いもないかも知れぬが、眼前の土偶は、黙して語らぬ。だが、土偶という存在そのものが、既に昔を思わせずにはおかない。「三月尽」が効いている。

木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
 二十数年連続し出生率が低下し続ける日本。都市部も地方も人口減少に歯止めが掛からない。「木五倍子垂る」山国の開拓村とて同様で、一人また一人と村を去り、やがて学校は廃校、切り拓いた農地は荒れ、限界集落となり、自然に還る。過疎を嘆く作者の思いが春を迎えて生き生きと垂れる木五倍子とは対象的に哀しく伝わってくる。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

父母のありてさびしさ袋掛 有栖川蘭子
卯波立つうかつにも乳はじかれて 有馬育代
ふじだなの藤の驕りを離れけり 淡路放生
路地奥の波音湿る立夏かな 安藤久美子
蔵座敷の奥へ永久とわへと青嵐 飯塚真弓
墓石には父の好かない青蜥蜴 井手ひとみ
戦場の轍の跡にすみれ咲く 植松まめ
春野っぱらつきささってる線量計 遠藤路子
アイスティーの氷溶けてく退屈 大池桜子
メガホンの小さい方の穴梅雨入 大渕久幸
芒野に入りし古老の行方かな 押勇次
団欒の声が朧の空き家から 後藤雅文
天網も無力かシェルターからの叫び 塩野正春
雪明り心の闇のバンクシー 重松俊一
臍らしき模様を抱きて蝌蚪の腹 高橋靖史
祖父といふ静けさ囀りの中へ 立川真理
水中花最後の晩餐は点滴 谷川かつゑ
少々の漁獲に五月蝿さばえたかりけり 土谷敏雄
緑陰で誰の捨てたる嘘を踏む 服部紀子
麦秋のがっしとつかむ発煙筒 深澤格子
死にたいとき死ねるといいね茄子の花 福岡日向子
道に売るトカゲのおもちゃ薄暑光 福田博之
鷹鳩に化し父さんはなんか変 藤川宏樹
にんげんとは何 ひまわりに砲弾 増田天志
野良仔猫大きな好意は怖いのです 松﨑あきら
夕の虹欄干に居る猿五、六 村上紀子
囀りやうつばりの塵こぼれ浮き 吉田貢(吉は土に口)
スコップに予期せぬ肉感初蛙 吉田もろび
此の身脱ぎたしセーター脱ぐやうに 渡邉照香
夜桜の発火点まで来てしまう 渡辺のり子

『海原』No.40(2022/7/1発行)

◆No.40 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

斑雪老婆焦土に国旗挿し 綾田節子
キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
リハビリの綾取り縺れ日脚伸ぶ 榎本愛子
麦秋と青空の旗 土がたわれは 岡崎万寿
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雪割草ひさかたという一隅を 川田由美子
葉桜や暗号交はす弟たち 木下ようこ
根開きやあっけらかんと艶話 佐藤君子
春あらしみな素顔にてウクライナ 鈴木栄司
土を縫う種漬花たねつけばなよ返し針 鱸久子
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
子を逃がし護国に戻るミモザの日 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
夜桜やロシアにロシアンルーレット 竹本仰
春装や癒えて久しき針もつ手 立川弘子
爆音の街の蘖として生きる 田中信克
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
反戦歌初蝶のまだ匂わない 遠山郁好
幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
白木蓮ここから私の海がはじまる 平田薫
椿落つ猫とじゃれ合う鍼灸師 松田英子
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
春の木や戦場に名をなくしつつ 水野真由美
母を看るさくら貝この散らばりよう 宮崎斗士
茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
欣求穢土ぼうたんのひらききる 山本掌

大西健司●抄出

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
もう抱かれぬ躰水仙咲きにけり 榎本祐子
笹鳴や屋根を開いてごらんなさい 大髙洋子
火球とぶ夜勤の道の盆やぐら 荻谷修
弟に駆け落ちの過去目張り剥ぐ 加藤昭子
ふらここを横に引っぱってはだめ 河西志帆
息せぬ子まるごとくるむ毛布かな 鈴木修一
万愚節食べられさうな草ばかり ダークシー美紀
溜息は泡立つ時計蕗の薹 高木水志
まぎれなく戦ありしよ黄砂降る 田口満代子
自分で髪切ってちゃんと寂しく四月 たけなか華那
泣くほどのことかよ冷やし中華だぜ 竹本仰
夜桜のどこかおどけた喉仏 舘林史蝶
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
悼むときムスカリは色濃くゆれる 月野ぽぽな
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
花冷えのような地名ね「リビウ」 遠山郁好
春雷や母さん今日なぜ優しいの 遠山恵子
春の夜のわたしの身体にわたずみ 鳥山由貴子
服従を拒みて紋黄蝶となる 中條啓子
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
冬ぎしぎしの点在殉教史のはじめ 野田信章
春鰊とても上手に食べました 前田恵
すべて嘘だったと言ってくれドニエプル川 マブソン青眼
朧夜を歩く魚を踏まぬよう 望月士郞
茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
蝶々来てゾルゲの墓の露西亜文字 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

子を逃がし護国に戻るミモザの日 高木一惠
 ロシアのウクライナ侵攻によって国を追われた人々が、 国境で家族と別れ、祖国を守る戦いに戻ってゆく姿が放映されていた。三月八日は、国連が定めた「国際女性デー」。イタリアでは「ミモザの日」と呼ばれる。ちょうどミモザの花咲く頃、小さな黄金色の花々が、懸命に父や夫に呼びかけるようで、別れの哀感に胸を衝かれるものがあった。こんな悲劇を戦後八十年近い歳月を経て、繰り返されなければならないとは。兜太先生が幾たびも十五年戦争前夜といい、「戦あるな」と呼び掛けられたこと、今にして身に染みる思い。

反戦歌初蝶のまだ匂わない 遠山郁好
 反戦歌が湧き上がっている野に、「初蝶のまだ匂わない」とは、どう解釈すればよいのだろう。二月に始まった戦争に、まだ息をひそめるようにして成り行きを見守っているということか。舞い出た初蝶は、まだ体臭を伴うほどの実感には達していないとみたのか。いずれにせよ、なんらかの危機感を覚えながら、反戦歌を聞きつつ平和を守る願いを、どう実現できるかとのためらいやせめぎ合いがあって、身につかない思いへのいら立ちなのかも。

春の木や戦場に名をなくしつつ 水野真由美
 ウクライナ侵攻の戦場の跡は、建物はおろか街路樹や公園までも、破壊し尽くし焼き尽くさずにはおかなかった。そこにあった春の木々は名もわからない。その惨状を、「戦場に名をなくしつつ」と詠んだ。あたかも先の大戦で、多くの無名戦士の墓標が立てられたことに連脈する景だろう。作者は、心情に触れると全身で慟哭することをためらわない人だ。ウクライナの映像に揺さぶられるものを感じたに違いない。

切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
 やはり戦争の現実を詠んだもの。あるいは戦争の現実を想望したものともいえよう。根こそぎ切り倒された切株の上に、戦死者の遺品となった靴が置かれている。靴は天へ向かうかのように、靴先を天空へ向けている。それは声なき声として、発せられているものだろう。同時に、不条理な戦争への告発を叫んでいるかのようでもある。「俳句弾圧不忘の碑」の建立に尽力した作者ならではの一句ともいえる。

春あらしみな素顔にてウクライナ 鈴木栄司
 ロシアの侵攻に苦しむウクライナの人々の素顔が、刻々とSNSで報じられている。その映像はまさに、春のあらしそのものと見たのだ。「春の嵐」といえば、気象条件が浮かび上がる。作者は「春のあらし」と平仮名表記することによって、歴史的事件へと転じた。みな素顔で泣きじゃくり、苦悶の表情を隠さない。その裏に多くの悲劇の現実が隠されていることを暗示している。

幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
 アトリは、晩秋北方から飛来する渡り鳥で、幾千もの鳥の群れが鳴きたてながらやってくる。その壮観から、今ウクライナで始まっている戦争に思いをいたし、アトリの鳴き声に異様な訴えのようなものを感じつつ、戦争よどうぞ収まってくれとの願いを込めて祈る句。アトリの群れに、ウクライナの人々の叫びを感じているようだ。アトリの輪舞は続いている。

出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
 クロッカスは、早春に花をつけ暖かくなると休眠してしまう。老いれば誰しも覚えがあろうが、昨日まで出来ていたことが、次々と出来なくなることも増えてくる。そんな時、クロッカスの地を這うように咲く花々の終わる姿を見て、身につまされる淋しさを味わっている。

茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
 暖かくなると、野菜の花茎の中に抜きんでて伸びてくるものがある。そうなってしまうともう調理のしようもなくなる。子供のおませな口ぶりをみていて、あなたにはあなたの動詞があるのね、もうついていけないわとばかり、言語感覚の世代間ギャップを感じているのだろう。それが特に現れるのが動詞の表現だ。具体的な例示は、家族の身辺に覗えよう。

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
 今どきの若者言葉を使って、初恋の衝撃を咲き始めたつるバラの花に喩えた句。「キュンです」が面白い。いわゆる「胸キュン」の意だが、小ぶりのつるバラのように可憐で、「キュンキュン」と続くようなショックとも受け取れ、若い世代の言語感覚のふるまいが、端的に体に突き刺さるように感じられる。

春装や癒えて久しき針もつ手 立川弘子
 しばらく病んでいて、久しぶりに病衣から春装へとよそおいも新たに、縫物を始めたのだろう。縫っているのは春装そのもの、すこし華やいだ感じの衣装に、心も晴れやかに針を運んでいる。「久しき針もつ手」も軽やかに、喜びが溢れている。家事裁縫を女のたしなみとして育った世代ならではの生活感覚なのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
 まさにキュンとする一句。メジャーリーグの実況放送で大谷翔平のホームランに「翔平キュンです」と実況席のアナウンサーが絶叫。その時のキュンが忘れられない。この句は咲きはじめたつるバラの愛らしさに思わず呟いたのだ。旬の言葉を使って好句となった。早い者勝ちだ。

もう抱かれぬ躰水仙咲きにけり 榎本祐子
 初老の美しい女性が佇む日本海の海辺に凜と咲く水仙の健気さを想う。ドラマの一場面か重厚な小説の一章が切なく想われる。着物の衿をあわせる女性は水仙の化身だろうか。男はただ虚しくこのような妄想を抱くのである。何とも悩ましい一句。

息せぬ子まるごとくるむ毛布かな 鈴木修一
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
 生と死の対比があまりに哀しい。鈴木氏の句からは理不尽に生をたたれた子への絶望があまりに重い。その哀しみを、その現実を押し隠すようにまるごと毛布でくるむのである。まるごとという措辞が上手い。
 一方、田中氏の句からは生の喜びが伝わってくる。ただそこはシェルターの中。今にも砲声とともに禍々しいものがやって来るかも知れない。理不尽な侵攻、破壊が続くなかも懸命に生きる人々にとって新しい命の誕生は希望の象徴だろう。何とか生き抜いてほしいと願うことしか出来ない現実が辛い。

自分で髪切ってちゃんと寂しく四月 たけなか華那
 たまらないほどの孤独感。最初このように読んでいたのだが、しばらくたって思うことは意外とあっけらかんとしているのではないかとのこと。「ちゃんと寂しく」ここからうかがえるのは想定内の寂しさだろう。長い一人暮らしだろうか、ちゃっちゃと自分で髪を切って、四月は想定内の寂しさだとたくましくいう。そんな都会の一人暮らしの女性のたくましさにリアリティーを感じる。

泣くほどのことかよ冷やし中華だぜ 竹本仰
 俳句というより一行詩に近いのかもと思いつつ、この一句から離れられないでいる。なんともいえない哀愁漂う情景に引かれる。ある食堂でのこと、冷やし中華始めましたの頃だろうか。テーブルの冷やし中華をはさんで座る二人の男、一人が泣きながら何かを訴えているのだろう。
 それに対しもう一人の男が何気なく話を逸らす。今年最初とはいえたかが冷やし中華だぜと明るく言うのだ。
 そんな男二人の関係性、手厚い友情を思うときどっぷりとこの世界観にはまっている。剛速球ではないがこの何ともいえないくせ球が気にかかる。

蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
 こちらは何ともストレートな句だ。どこか風刺画のような味わいを感じる。日本人も首をすくめていると、いつかこのような状況に出くわすかも知れない。そんな警告とも取れる。あまりにも理不尽な行いへのストレートな怒りが伝わってくる味わいある一句。

花冷えのような地名ね「リビウ」 遠山郁好
 この溜息のような「リビウ」という地名が心に響く。私は溜息のようなと感じた。作者は花冷えのような地名と捉えた。ウクライナ西部の歴史の古い美しい街リビウ。
 その美しい街を哀しいと感じるいまの状況が切ない。避難民の溢れる街に打ち込まれたロケット弾。こうなるとただ地名から感じる想いを口にするだけではすまない。作者の言う花冷えのようなという想いがあまりにも切なく響く。花冷えという季語は桜の頃の突然の寒さをいうが、リビウの街も突然に凍りつくような出来事に見舞われた。
 リビウの街を、人々を案じつつ美しく一句に仕上げた手腕を讃えたい。

春の夜のわたしの身体にわたずみ 鳥山由貴子
朧夜を歩く魚を踏まぬよう 望月士郎
 何と幻想的な光景だろう。繊細な感性が捉えたものは似ている。鳥山氏は春夜に溶け込む身体を水だという。
 そしてそれはあたかも潦だという。美しい断定。
 一方望月氏は朧夜に揺蕩う水を幻視しながら、そこに魚の存在を捉えている。朧月夜の薄絹に包まれたような道を歩けば、そこはあたかも青く揺蕩う水の中。作者は魚を踏まぬようとやさしさを表出する。
 兜太先生の〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉を彷彿とさせる、生きもの感覚の美しさを想う。

キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
 映像で見るキエフの街の惨状にこう書くしかないのだ。
 なにを書いても傍観者であることの虚しさ。
 誰かが言っていたが、先の戦争のときに子供だった親がテレビを見ては怯えるのだと。この戦渦の街をみんながさまざまに書いているがこんな句はもう書きたくない。
 一日も早く平和をと願うばかり。

◆金子兜太 私の一句

漓江どこまでも春の細路ほそみちを連れて 兜太

 昭和60年。金子先生が朝日俳壇の選者になられた年の3月。先生を団長に中国漓江下りの旅が催された。桂林に前泊。漓江は小雨に煙って峨々たる山容は南画そのもの。その間を船は進んでいった。両岸に点在する小さな村落。河に沿って細い道が続いていた。先生は後の自句自解に「漓江が夫、細路は妻のやさしさ」と書かれた。ご一緒だった皆子先生の面影と共にありありと思い出される。句集『皆之』(昭和61年)より。伊藤淳子

日の夕べ天空を去る一狐かな 兜太

 昭和42年に熊谷に転居して、しばしば読んでいた『詩経国風』(吉川幸次郎注)の「王風」の中の夫の留守をまもる妻の歌〈君子于役〉(せのきみはたびに)を俳句にしたものである。自句自解には「夕暮れどき狐が一匹、空をさあーと翔けてどこかへ消えていきます」「この狐は自分の夫かもしれない。あるいは夫のところへ飛んでいく自分かもしれない」とあるが、皆子夫人への労りの気分をさりげなく書いた愛妻句であって、狐は兜太師自身だと思う。『金子兜太全句集』収録の『狡童』(昭和50年)より。小松よしはる

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
数の子を噛み無性に響く頭蓋 石川青狼
鵙の贄釦ひとつひとつ外す 榎本祐子
古本屋電気に群れていし冬が 大沢輝一
ものの芽や季節背負って快快 太田順子
句会後の水割り焼酎死者生者 岡崎万寿
水仙をまんなかとする都市計画 小野裕三
街に風花脚注を付すように 片岡秀樹
野火迫る冷たい耳を揃えている 桂凜火
手にとれば位牌は狐火ほど軽い 佐々木宏
過ぎ去った愛を並べてホットレモン 佐藤千枝子
やまとことのはとりとめもなき夜の雪田 口満代子
十指空に冬芽のように愛してみよ 竹本仰
転倒の一瞬長し冬光る 田中裕子
ミルキーな牡蠣大きくてフリル付き 蔦とく子
身籠るや人肌ほどに春の山 中内亮玄
レノン忌のあまたの石が脈を打つ ナカムラ薫
○山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
しきみとう踏み固めし雪詩を食べて 並木邑人
野を冷まし猟師が帰る言霊も 松本勇二
曼陀羅のどこかが欠けて綿虫とぶ 吉田朝子

川崎益太郎 選
高齢を何故祝うのか黄水仙 阿木よう子
賑わいの虚空のかたち案山子展 有村王志
開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
オミクロン株を尻目に蛇穴へ 江井芳朗
寒月光穴を掘る人埋める人 片岡秀樹
春の窓ことばさがしの二歳かな 河田光江
人訪わぬを疲れというよ龍の玉 川田由美子
冬ざれて百鬼夜行を見たようだ 清水恵子
半分は母半分はしゃぼん玉 清水茉紀
冬の月墓標のごときビルの群れ 白石司子
○棄てられたマスクのやうにちぎれ雲 高木一惠
仁義なき闘い春のオミクロン 立川弘子
冬の水無季の俳句は許せない 遠山恵子
乏しきをエコと言ひ換へ年あらた 長尾向季
花は好き名が嫌いなの木瓜の花 仲村トヨ子
雪激し「うちかて夜叉になりますえ」 中村道子
どんどの火桜冬芽のまま焼かれ 藤田敦子
寝正月夢の言葉に付箋する 松田英子
花八手思春期という殴り書き 三浦二三子
訃報というキリトリ線や冬鴎 望月士郎

村本なずな 選
○胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
鼻歌の気付けば軍歌十二月 伊藤巌
悴む手が月とはぐれて帰れない 榎本愛子
一角はすずなすずしろ古墳浴 大高俊一
木枯しの奥へ奥へと通院す 大野美代子
毛細血管図崖一面の蔦枯るる 鎌田喜代子
雪が降る會津八一の仮名文字の 北村美都子
終電車解体さるる聖樹あり 小松敦
○えくぼなら母にも窓にも雪野にも 佐々木宏
飼犬の鎖冷たし震災忌 重松敬子
一葉忌えみから涙になる途中 清水茉紀
加齢による反抗期です八ツ頭 芹沢愛子
○冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
冬蒲公英青空固くなるばかり 瀧春樹
雪知らぬ雪予報士の騒がしき 東海林光代
ノートにはぎゅうぎゅう詰めの春の風 中内亮玄
出直せる余生いつでもちゃんちゃんこ 嶺岸さとし
紙の音して小説の駅に雪ふりそむ 望月士郎
冬ざれの耳のうしろの小さな凪 茂里美絵
冬銀河に行ったよ尻尾のあった頃 森由美子

山田哲夫 選
断捨離の断で躓く年の暮 石川青狼
○胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
いっそかろやか元日という空白は 狩野康子
「冬眠です」と言ひて母逝く星月夜 北原恵子
着膨れて富士に憑かれて箱根まで 小泉敬紀
めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
○えくぼなら母にも窓にも雪野にも 佐々木宏
欠けるとこありても睦み寒卵 佐藤詠子
雪雲が寝そべっていて過呼吸 清水恵子
○冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
○棄てられたマスクのやうにちぎれ雲 高木一惠
無口といえば海鼠といえば父の酒 竹田昭江
○山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
死ぬ気などなくて死にゆく薄氷 船越みよ
嘘すこし閉じこめ洗面器の薄氷 松岡良子
石蕗の花老いてゆく日を軽やかに 松田英子
理科室のよう一人暮らしの元朝は 宮崎斗士
やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子
感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる

◆三句鑑賞

古本屋電気に群れていし冬が 大沢輝一
 古本屋と冬の取り合わせ。ふうっと作者の世界に迷い込んでしまう。覆いかぶさるばかりに積まれた古本。ときおり背表紙の金色が鈍い光を放つ。上から釣り下げられた電気に冬が群れる。決して蛍光色ではない赤みを帯びた電球。古本屋を愛する作者の思いがかすかな危うさを伴い漂う。

水仙をまんなかとする都市計画 小野裕三
 すべては水仙のイメージから始まる。冬に開花し花の姿から清楚な感じ。球根に毒を持つ。今号伊藤雅彦氏の句は水仙から母の項を連想しておりこの句も心に沁みた。揚句は水仙のイメージを真ん中に都市計画という発想の飛躍が素晴らしく、俳句の持つ多様性と伝達力に気付かされた。

やまとことのはとりとめもなき夜の雪 田口満代子
 やまとことのは、辞書に「大和言の葉」源氏物語(桐壺)「伊勢、貫之に詠ませ給へる」とあり、王朝の和歌と思える。この語は序詞のように「とりとめもなき夜」を導き、相聞歌を想像させる。ただ降り続く雪ではなく、雅びに人のうつつも夢ものせてとりとめもなく降る夜の雪である。
(鑑賞・狩野康子)

開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
 十二月八日は、太平洋戦争の開戦日である。日本の敗戦により戦争は終わり、戦争は歴史の一頁として塩漬けにされた。以後、日本では戦争は封印されて来た。しかし、世界では以後も戦争が各地で起こっている。特にこの度のロシアのウクライナ侵攻は、戦争を知らない世代にまで、リアル戦争を提示している。まるで漬物石が外れ、どこかを捜しても見当たらない状態である。

冬ざれて百鬼夜行を見たようだ 清水恵子
 ロシアのウクライナ侵攻は、日々激しさを増し、全く終息の気配が見えない。その様子は、百鬼夜行のごとくである。この句の投句された頃は、まだ、その正体が見えないので、「見たようだ」と、やや、緊張感なく詠まれているが、その後、その正体が暴かれる序章のような句である。

冬の水無季の俳句は許せない 遠山恵子
 俳諧自由を標榜している「海原」誌に、このようにはっきり詠う勇気に驚いた。季語を超える言葉がないと無季の俳句は成立しないと言われている。季語の「冬の水」が、断定の力強さを表わしているように思う。「嫌い」でなく、「許せない」という言い方に、どのような意見等が出されるか。
(鑑賞・川崎益太郎)

一角はすずなすずしろ古墳浴 大高俊一
 近年、古代史に様々な発見があり、各地の古墳も注目を集めるようになったが、ここはそれ程有名な古墳ではないのだろう。なにしろ一角は畑になっており、蕪や大根が植えられているのだから。しかし、なだらかな丸みを帯びた古墳は見ているだけで穏やかな心地になる。天気も良し。これを「古墳浴」と言わずして何と言おう。

一葉忌えみから涙になる途中 清水茉紀
 赤貧洗うがごとき生活の中、数々の名作を残し、わずか二十四歳で夭折した樋口一葉。貧しくとも、誇り高く微笑んでいたに違いない。しかしふとした拍子に一気にそれが崩れることもある。作者も何かに耐え、微笑んでいたが、今、こらえていた涙が溢れそうになっている。そうさせたものが温かい優しい言葉であってほしい。

加齢による反抗期です八ツ頭 芹沢愛子
 反抗期と言えば自我が芽生える四歳児あるいは独立を求める思春期だが、作者はその原因を加齢によるものだと強弁する。我々が医師の診察を受けた際、最もがっくりくるのは、「加齢ですね」のひとこと。もうなすすべもない。加齢ならどうしようもないのだ。そこへもってきてごろんと八ツ頭。これは手強い反抗期ですよ。
(鑑賞・村本なずな)

胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
 「小声の福は内」が何とも素晴らしい。日常生活の中の出産という一大行事。やがて生まれ出てくる新しい命を、密かに期待する親や家族の気持ちが、じんわり滲み出てくる気がして、思わず祝福の言葉をかけたくなる。少子化傾向が一向に止まらないどこかの国の若い親たちの心にこの幸せをお裾分けしたい一句である。

山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
 山や河で代表された「も」は、他にも自然に存在する多くを物が合む「も」だ。被曝は自分たち人間のみでなく、全てだという認識からの詠出が、ずしりと心に響く。やはり、大震災の被曝地福島の作者だからこその認識だと思う。新しい年を迎えて、被曝を乗り越え、更に力強く生きたいとする希望の『初日の出』が美しい。

感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる
 冬の翡翠を見たことは無いが、作者は、感情は冬の翡翠だという。この喩の見事さにまず脱帽。ホバリングは、鳥がはばたきながら空中にとどまっている状態だから、これもまた冬に堪えている作者の感情の停滞状況の喩でもある。日常の自らの心を篤と見つめる醒めたまなざしの持ち主だからこそこうした喩も生まれてくるのだろう。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春の川投網の円周率ひかる 有馬育代
俳号に蝶の思いもなくもなし 淡路放生
励ましはスローモーション蘖ゆる 飯塚真弓
桜散る娼婦と呼ばれたひとの居て 井手ひとみ
クールぶってやってきたのに亀鳴くよ 大池桜子
鞦韆を揺らして五臓六腑かな 大渕久幸
疫禍余波辺地に及び冴え返る 押勇次
トゲクリ蟹わたしは負けた訳じゃない かさいともこ
ややこしく出来た人間鳥交る 葛城広光
蛇穴をいでて地雷のなき方へ 木村寛伸
難民のザックの犬よ春遠し 後藤雅文
樹幹いま春の小川の音がする 小林ろば
運命とは花鳥風月そして僕 近藤真由美
ふるさとの高さ競はぬ山笑ふ 鈴木弘子
貝寄風や想ひ出といふ持病 立川真理
マニュアルを歩む旅人かげろうや 立川瑠璃
カド※来たるいざ出番なり谷空木 土谷敏雄 ※秋田の方言 
りんりんと春動かしてゆく奥羽 福井明子
葉桜になる前はまだ他意はない 福岡日向子
多喜二忌やロボットの背に乾電池 福田博之
蝶を殺す食ふだけ殺す野原かな 藤好良
花ミモザ老身を寄せ風分かつ 保子進
つばくらめ廃墟の街に子どもたち 増田天志
なんでそんな人がいるの菫には解らない 松﨑あきら
三階の市長室あけ花惜しむ 村上紀子
春宵や文庫に付きしチョコレート 山本まさゆき
牡丹の芽初湯のように雨を浴ぶ 吉田和恵
桑の實やむかし少年驢馬の旅 吉田貢(吉は土に口)
木の葉髪濡れ手を離れがたきかな 路志田美子
菜の花やふかい地下から反戦歌 渡辺のり子

『海原』No.39(2022/6/1発行)

◆No.39 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
冬帽子ムーミンパパのお古だな 綾田節子
曽祖母の夜咄締めは「生き過ぎた」 石川まゆみ
ムンクの叫び凍滝と言えないか 伊藤道郎
生き切ったいや生き切れず金魚玉 宇田蓋男
サイバー空間千頭の蝶放たるる 榎本祐子
国境の楤の芽の一心 大上恒子
つくし煮る生きてるかぎり母の味 大野美代子
花りんごマトリョーシカは無口です 岡崎万寿
冬菜みな手傷を負っていたりけり 小野裕三
君の部屋やさしい獣の巣のように 河原珠美
独り居に闇尖りくる久女の忌 黒済泰子
海市までプロパンガスを配達す こしのゆみこ
ストリートピアノ一小節を燕かな 三枝みずほ
ダイヤモンドダスト弦楽四重奏響く 佐藤博己
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
ざらめ雪断捨離はせず生きんかな 鈴木康之
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
感情のもつれほぐれし風花や 田口満代子
春の日の屈折率を恋という 竹田昭江
国跨ぐ黒煙それが春なのか 田中信克
透明な樹木の残る春の鹿 豊原清明
ハスキーボイス少女の中を砕氷船 鳥山由貴子
雛飾り雛仕舞いウクライナ遠し 中村晋
遠雷を空爆ときく国もあり 野口思づゑ
ふきのとう薹立ち東北震災忌 服部修一
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
言えなかったやさしい言葉花ミモザ 松井麻容子
素心蠟梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡

野﨑憲子●抄出
戦況からCMへ桜前線へ 石橋いろり
兜太の忌しゃぶりたらず叱られる 稲葉千尋
侵攻止められず緋木瓜白木瓜更紗木瓜 植田郁一
渾身の膝立ち上る初燕 上野昭子
獏も食わぬ独裁者の春の夢 江良修
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
啓蟄や耳かき一本の愉悦 川崎千鶴子
戦争嫌やたゞ寒沢川さぶさがわは不器用や 久保智恵
切通し春雲一気に湧きあがる 佐藤稚鬼
花咲爺風花売りとすれちがふ 鈴木孝信
シマフクロウの神の座高し雪解風 鈴木修一
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
立春や空っぽの僕らの青さ 高木水志
山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
波打つ薄氷あつかましい平和 谷口道子
雪月夜われのみが知るパスワード 董振華
遠く白魚火リュウグウの砂こぼる 鳥山由貴子
大らかな出雲の坂に春の虹 中内亮玄
朧夜に触れたら流砂なのでした ナカムラ薫
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
猫の恋地球に誰もいないのか 丹生千賀
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
猪神や爆音で目覚めた少女 日高玲
はしき星に生きもの在りき戦争す 藤野武
白鳥帰る白い絶望をかかえ 本田ひとみ
ちりめん雑魚人体淡く海になる 松井麻容子
追伸は風の椿の樹下にあり 水野真由美
三月のひかり水切りりりりりり 望月士郎
桜貝なみだは遠い昔のこと 茂里美絵
シャワー越し青葉のひとみあふれをり 輿儀つとむ

◆海原秀句鑑賞 安西篤

曽祖母の夜咄締めは「生き過ぎた」 石川まゆみ
 曽祖母というからには曽孫もいて、核家族化のすすんだ大都市とは異なり、地方ではまだかなりの大家族の暮らしがあるのだろう。それでも昔の夜咄を聞いてくれる曽孫がいる限り、まだしも自分の居場所はある。触れ合いを保ちうる者がいるからだが、いつまで続くものやらと思えば、やがて来る〈そのとき〉への不安は喩えようもない。作者はまだ余力を保っているはずだが、「生き過ぎた」という感慨を、他人事ならず受け止めているに違いない。

生き切ったいや生き切れず金魚玉 宇田蓋男
 前句に続く境涯感の句。ほぼ同世代の作者ならではのものだろう。老いてからの人生の送り方は難しい。高齢化社会の今日、己の人生を振り返って「生き切った」と言い切れる人はどれだけいるだろうか。自らに問い直して、「いや生き切れず」と省みる。「金魚玉」は、ある日ふと何気なく目にとめたとき、ちいさな空間にうごめく生きものの姿に、胸を衝かれるように〈いのち〉を感じ、それがそのまま己の境涯感へ突き刺さっていったのだ。

サイバー空間千頭の蝶放たるる 榎本祐子
 サイバー空間とは、コンピューターやネットワーク上に構築された仮想空間で、今や国際間の戦争も先ずサイバー攻撃から始まるとされている。ウクライナ戦争などまさにそうだった。目に見えないものだけに、その怖ろしさは測り知れない。そんな仮想空間へ、千頭の蝶を放つ。いわばメカニカルな空無の空間へ生きものの蝶を放って、生の空間として捉え返そうとする。そこに生きてこその思いも込めながら。

君の部屋やさしい獣の巣のように 河原珠美
 亡き人への追慕の句とみてよい。これは作者の境涯に照らしての感慨なのだが、大切な人への思いは時間とともに薄れていくものではなく、むしろ純粋な形で結晶化されていく。愛する人を失ったとき、その部屋は獣の巣のような乱雑さで、生々しい温もりを残していたに違いない。作者は今も忘れ得ぬその印象を「やさしい獣の巣」と捉えた。その思いは夫との愛の思い出にもつながる。

ざらめ雪断捨離はせず生きんかな 鈴木康之
 「ざらめ雪」とは、春、日中に溶けた雪が夜再び凍結し、それを繰り返してできるざらめ糖状の積雪。「断捨離」は、不要なものを減らし生活に調和をもたらそうとするヨガの思想。作者は、今世に流行する「断捨離」の思想には同調せず、あえて「ざらめ雪」のように繰り返し活用する道を選ぼうとする。有限な資源の地球を、「もったいない」で生きようとしているのだ。「ざらめ雪」こそ我が生き方と居直っている。

鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
 「鳥獣戯画」は、京都高山寺にある国宝の紙本墨画四巻。動物の生態を擬人的に描いたもので、そこにはさまざまな人間への諷刺が込められている。「そろりと参ろう春の闇」には、作者自身、戯画の端くれにひそかに紛れ込み、動物の一つとして人間をからかってやれば、さぞ面白かろうにという。中七の狂言風の言い回しで、どこか異次元の世界を目指すかのようなおどけ振りをもって、自己劇化を試みた句。

感情のもつれほぐれし風花や 田口満代子
 感情のもつれは、身近な者同士であればあるほど、複雑でさまざまな根深い絡み合いを伴うもの。そんなしがらみを抱えながら生きて行かなければならない。風花の舞う空間は、そのしがらみが一気にほどけて、多くの断片を撒き散らしたように見ている。それは作者の無意識のうちのカタルシスだったのかも知れない。

雛飾り雛仕舞いウクライナ遠し 中村晋
 ウクライナに起こった戦争は、数々の悲劇とともに大国のエゴをまざまざと見せつけた。ゼレンスキー大統領の国連演説は追い詰められた民の悲痛な叫びのように聞こえる。今日本では、桃の節句で雛人形を飾り、大事に仕舞う平和な時を過ごしているが、遠いウクライナの悲劇は、日本においてもいつまた身に迫る現実となりかねないという危機感を逆説的に暗示している。兜太師の言われていた「十五年戦争前夜」にも通ずる危機感がこの句のモチーフにはある。

麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
 三月の東京例会通信句会で圧倒的な支持を得た句。いうまでもなく今度の戦争で、ウクライナの市民が戦車の前に身を挺して反転させた映像に基づく。物生り豊かな祖国を守るために、自らすすんで一身を捧げる姿に感動させられたのである。ところが今やロシア軍は、容赦なく民間人を虐殺することをためらわない。戦争の深刻化にともなって、緒戦における一片の勇気や良識すら、もはや通用しないような、あからさまな戦争の残虐性が露呈しつつある。戦争俳句は、事態の長期化、深刻化とともに様相を変えつつあることを、忘れてはなるまい。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

戦況からCMへ桜前線へ 石橋いろり
 桜前線の香川通過は半月前だった。ウクライナ情勢はますます緊迫し混迷を極めている。リズミカルなテレビ画面の作品化に世相が映る。省略の妙。句群中、「瓦礫の下の『てぶくろ』絵本残寒に」にも惹かれた。『てぶくろ』は、エウゲーニー・M・ラチョフの表紙絵が素晴しく世界の子供達の愛読書だ。だいたい人間の落とした手袋に、一匹の動物が入るのも無理に決まっているのに、次々に森の動物たちが入ってくる。夢のいっぱい詰まった絵本。戦争は、夢も、希望も、棲家そのものも奪ってしまう。

兜太の忌しゃぶりたらず叱られる 稲葉千尋
 俳句道場で師はよく「俳句をしゃぶれ」と話された。私も師の言葉を受け「しやぶり尽くせと冬霧の眼かな」と詠んだことがある。それは、何度も読み味わうことによりその句の心が観えてくるということだ。「俳句は理屈じゃないよ、心だ」「人間が面白くなきゃ、句もつまんねぇ」とも言われた。頓馬で内気な私は、師の言葉に、不器用な自分のままで良いと気付き、どんなに勇気をいただいたことか知れない。私は、句をしゃぶり尽くしていると言えるだろうか、稲葉さんの句に思わず襟を正した。

侵攻止められず緋木瓜白木瓜更紗木瓜 植田郁一
 美しい木瓜ぼけの花には申し訳ないが、ロシアのウクライナ侵攻を止められない人類への忸怩たる思いを畳みかけるように色ごとに呼びかけ木瓜の花に託した植田さんの力作である。「春の雲戦火見詰めていて崩れず」「椿落つ重なり落ちて傭兵死す」等の句にも注目。卒寿の植田さんの平和への願い、漲る熱い俳句愛に感動した。

シマフクロウの神の座高し雪解風 鈴木修一
 シマフクロウは『アイヌ神謡集』の最初に登場するアイヌの守り神である。縄文人の末裔であるアイヌは、七世紀ごろからの大和朝廷の侵攻により辺境へ追いやられた。人類はまた同じ過ちを繰り返している。芭蕉は、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言った。今の私達にとっては「地球の事は、地球に習へ」即ち、森羅万象の声を聞け!ではないのだろうか。そこには、縄張りも、国境も無い。邪論と言われても、ここに立つことだけが、人類の生き残れる道ではないのかと思う。

波打つ薄氷あつかましい平和 谷口道子
 「波打つ薄氷」が見事に決まっている。谷口さんの第3回「海原金子兜太賞」応募作のタイトルも「あつかましい平和」だった。これは、誌上選考座談会で一位推挙の柳生正名さんの言にもあるように、師のドキュメンタリー映画「天地悠々」の中の最後のインタビューで師が強調していた言葉だ。私も、「平和への願いも、自身の表現も貪婪なまでの図々しさと熱情で新しい世界を切開けよ!」との師の言と捉えている。我がジャイロである。

こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
 真青なる美しい地球に、人類の宿痾のような戦争が、いつもどこかで起こっている。辛夷は、日本原産の花木。春の訪れを感じさせてくれる白いシャンデリアのような辛夷の花。その花のような、心温まる愛語を言霊の幸ふ国から発信してゆくことの大切さを強く感じる。師のごゲダンゲン・リリク著書にあった思想的抒情詩という言葉が頭から離れない。

猫の恋地球に誰もいないのか 丹生千賀
 加藤楸邨の「蟇誰かものいへ声かぎり」が、永田耕衣の「恋猫の恋する猫で押し通す」が浮かんでくる。この地球を壊滅してしまえる原子爆弾を発明したのが人類なら、この悪魔のような侵攻を収束させるのも人類でなければならないのである。生きとし生けるものの「いのち」の声を代弁できるのも人類だけなのだから。九十一歳の丹生さんの「地球に誰もいないのか」は、私達、うら若き人類に向けられているのだ。

反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
 マブソン青眼さんが俳句道場にゲスト参加された時の師との対談「昭和俳句弾圧事件について」が発端になり、師が他界された五日後に長野県上田市の無言館近くの小高い丘に建立された「俳句弾圧不忘の碑」。戦時下に弾圧され亡くなった俳人追悼のこの碑文は師の揮毫による。「平和」と「俳諧自由」。師の悲願は、人類存続の要だ。

猪神や爆音で目覚めた少女 日高玲
 アニメ『もののけ姫』のシシ神や少女サンを想起させる。猪ではなくて鹿の形の神だったとおもうのだが、森の奥に棲む精霊の王シシ神はこの人類の愚行をどう見ているのか。爆音で目覚めたサンはこれからどうするのか、日常では忘れられがちの、隠れた大切な世界が姿を現す。

三月のひかり水切りりりりりり 望月士郎
 「りりりりりり」の調べのそして字面の美しさに圧倒された。三月がいい。そして、三月の光が水を切ってゆく。そこから立ち上がってくる目くるめく光の世界に酔いしれた。「海原」誌の表紙絵も、毎号、輝いている。

◆金子兜太 私の一句

旅を来て魯迅墓に泰山木数華 兜太

 我が家の階段を上がった二階の廊下の突き当たりに掲句が掛かっている。初めて手に入れた先生独特の字体の色紙だ。中国旅吟句で格調の高い抒情溢れた一句で「数華」が目に鮮明で魅力的だ。縁の上海は先生にとって感慨深いものがあったろう。その頃に、御父上の伊昔紅氏と魯迅との接触もあったのではと想像も膨らむ。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大西政司

よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太

 我が家は、今年の干支の寅の置物と一対になる形でこの色紙を飾っています。皆子先生が腎臓癌治療のため、千葉県旭市の旭中央病院に移られてからのお供をさせていただいた当時に、兜太先生から贈られてきた色紙です。「よく眠る」の「ゆっくり生きてゆこうの心意」をいただくうれしさ。おおらかな野生にあやかる年年歳歳の感謝です。句集『東国抄』(平成13年)より。山中葛子

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
羽後残照見開きひと言夜の灯 有村王志
川鵜またひとりぼっちか冬青空 宇川啓子
冬夕焼母のさざなみガラス質 榎本愛子
解除ボタンかすかに湿る十二月 大西健司
火種にはまだ程遠い綿虫飛ぶ 奥山和子
山茶花の薄く住まうとこのあたり 川田由美子
○狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
人格者のようで祖父はけむり茸 佐々木宏
咎は無し百の吐息に山眠る 佐藤詠子
村灯るあの家この家に雪女郎 白井重之
綿虫に顔入れ誰よりもやさしく 十河宣洋
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
白息を使徒と思えば海荒れて 遠山郁好
毛糸着て雑念少し増やしけり 中村孝史
霜に日が差して誰かの生れたる 松本勇二
清貧にかたちあるなら冬菜畑 嶺岸さとし
綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
ポインセチア遠くに居ればいいひとよ 室田洋子
大根炊ける透き通っていられない 森鈴
てつぺんでキューピー尖る師走八日 柳生正名

川崎益太郎 選
本音吐く炭火ときどきナルシスト 市原正直
雪国や「核」捨てるのにいい遠さ 伊藤歩
冬銀河ヒトに臍の緒という水脈 伊藤道郎
子宮で考え中です枇杷の花 井上俊子
再びを夢見るごとき落椿 宇川啓子
○細胞のひとつ分裂くしゃみ出る 奥山和子
家系図は差し歯入れ歯に時雨けり 川崎千鶴子
綿虫の帰化する原野歩みゆく 後藤岑生
葉牡丹はアンモナイトになる途中 佐々木宏
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
水脈凍てて夢の果てなる引揚船 立川弘子
まゆみの実老いらくの恋やせ我慢 舘林史蝶
天国に原発はないクリスマス 中村晋
冬ざれのタンポポ「私変わりもの」 西美惠子
寒たまご地球に寄生する我等 本田ひとみ
神無月マンモス復活計画 松本千花
四番目に生まれ跡取り千歳飴 深山未遊
桑の実ってこれだったのねお母さん 森由美子
ポインセチア唇いくつ生け捕りに 山下一夫
柊の花より淡く母居たり 横地かをる

村本なずな 選
白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
芽麦一列戦禍なき一日あるように 伊藤道郎
道草や雪は子供に降ってくる 荻谷修
○細胞のひとつ分裂くしゃみ出る 奥山和子
杜鵑活ければ母の居るごとし 北原恵子
どんぐりころころ音楽になる途中 北村美都子
綿虫やここ地球とう仮住まい 楠井収
審議会長須鯨が揃いけり 今野修三
「雪来る」と火災報知機鳴ってみたい 佐々木昇一
木の家を木枯し叩く武州真夜 篠田悦子
中身のないポケットのよう冬の空 高橋明江
水刻むごとく大根千六本 鳥山由貴子
冬の斜面あの光るのが除染ごみ 中村晋
青空をがんがん冬のプラタナス 平田薫
寒落暉告白は大声ですべき 前田恵
木の葉髪自由と孤独と腰痛と 増田暁子
禁猟区母のアルバムずっしりと 松本千花
無添加の煮干のひかりクリスマス 三浦静佳
布団の奥アンモナイトの息をする 柳生正名
龍の玉良く笑う児がよく転ぶ 梁瀬道子

山田哲夫 選
野仏の膝は日溜り冬の蜂 伊藤巌
少年の微熱のように冬木の芽 伊藤道郎
釘打って十一月を掛けておく 大沢輝一
骸かと掃けば仄かな冬の蜂 川崎千鶴子
ネックレスざらりと外し大根炊く 黍野恵
○狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
家族という淡い繭玉冬の雷 佐孝石画
霧に消ゆ歩荷かぽかぽ音残し 篠田悦子
魚を糶る岬や石蕗の茎太し 髙井元一
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
コンクリート打ちっ放し冬の足音す 鳥山由貴子
切り口はいつも血まみれ大枯野 野﨑憲子
姿なきひとと分け入る花野かな 日高玲
踊るように人の死はあり枯野原 平田薫
着ぶくれて服にこころに裏表 前田典子
久女の忌からだにふっと火打石 三好つや子
私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
月蝕やどこかで冬のサーカス団 茂里美絵
良縁をまとめどさっと深谷葱 森由美子
軸足はきっとふるさと冬の虹 横地かをる

◆三句鑑賞

人格者のようで祖父はけむり茸 佐々木宏
 人間誰も沢山の顔をもつ。句の鍵けむり茸は踏むと灰色の煙を吐く。子供の頃祖母に「煙が目に入ると目が見えなくなる」と聞かされたが、それは俗信で食用と知った。周りから人格者として尊敬された祖父。けれど作者はひょうひょうと時に怖れられ親しまれた祖父を知る。句に漂う俳諧味が愛すべき祖父のイメージを強くする。

白息を使徒と思えば海荒れて 遠山郁好
 白息、使徒とシ音で静かに始まる。しかし結句は海荒れて。白息は自分の嘆息。助けを求めれば使徒が現れるかもしれない。しかし鎮まるどころか海は荒れている。ふと使徒の語で白息は多数の人間の嘆息に変わり、現実として神に祈るしかない戦争の不条理。神の力も及ばない悲惨な現状を詠っているのではと思った。

てつぺんでキューピー尖る師走八日 柳生正名
 師走八日は日本真珠湾攻撃に始まる開戦日。語り継ぐべき昭和史の大事件。戦争の犠牲になったのは武器をもたない庶民とキューピーの号令下に従った幾万の兵士。立場は異なるが現在のロシアとウクライナ。戦争は今も昔も一見無害な人の心を持たぬキューピーのような存在によって引き起こされる。暗喩のキューピーが抜群。
(鑑賞・狩野康子)

あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
 いま世界中を震撼させているロシアのウクライナ侵攻。ウクライナは民主主義に対する挑戦と言っているが、ロシアの言い分も民主主義を守るというのが言い分で、このように民主主義に対する考えはいろいろあり、それはおでんの仕切り板のように曖昧なものであるという句。捉え方がユニークで上手い。

天国に原発はないクリスマス 中村晋
 天国に原発があるかないかは、行ったことがないから分からないが、作者は、ないと言い切っている。言い切っているが、本心は、ないことを願うという願望の句であろう。その思いをクリスマスという季語を採り合わせて祈るような気持ちであろう。作者が福島の方であるので、よりリアルに読者の胸を打つ句である。

四番目に生まれ跡取り千歳飴 深山未遊
 日本では古くから、家の跡取りは、生まれた順でなく、男子の一番目と決められていた。それは今も根強く受け継がれている。特に、やんごとなき方に関しては、法律で決められている。これが平民にまで受け継がれて、慣習化されている。この句は、そのことに対する不合理さを訴えた句である。それを直接言わないところが上手い。
(鑑賞・川崎益太郎)

白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
 後ろ手に歩いているのはボランティアの方なのだろうか。越冬のために湖を訪れる白鳥たちを長年にわたり世話してきた。後ろ手に歩くその様子からかなりの年輩者であることがうかがわれるが、冬の寒さも厭わず見回りをする。白鳥たちもこの人物を統率者のように思い慕っている。美しい水辺、豊かな自然に囲まれて白鳥を見守る実直な人物の姿が目に浮かぶ。

審議会長須鯨が揃いけり 今野修三
 ○○審議会などという大層な所にはその方面の都合の良いお歴々が呼び集められる。いつどこでそんな話が?などと訝しがる庶民を余所に物事は進む。根回しは済んでいるから、余裕綽々、長須鯨は席に着くだけだ。一茶が大喜びしそうな皮肉たっぷりの一句。

「雪来る」と火災報知機鳴ってみたい 佐々木昇一
 火災報知機は実に目立つ。赤くて丸くて真ん中には押してごらんと誘うような薄いカバーが嵌まっている。ひとたびカバーを押そうものなら、とんでもない音が鳴り響く。作者は雪国の人。雪は時には危険な相手でもある。長い間火災もなく、静かに待機している報知機も「雪が来る」と自分の存在を主張したくなる時があるのだ。
(鑑賞・村本なずな)

骸かと掃けば仄かな冬の蜂 川崎千鶴子
 掃くという行為の中で、ふと目に止まった蜂の骸。否、骸かと思ったら、微かに動きだしたではないか。生きてるぞ。仄かな命の蠢きよ。この一句には、そんな命の蠢きを、細やかな情愛を込め眺めやる作者のまなざしがある。日常生活の一コマ一コマを大切に生きる姿勢の中からこそこういう句は生まれてくるのだろう。

家族という淡い繭玉冬の雷 佐孝石画
 作者は、家族は淡い繭玉だという。この比喩の確かな認識に心惹かれる。家族は無数の淡い糸で繋がれ、押し合い、引き合いながら日常を送っている。晴れの日もあれば、寒い冬の雷の鳴る日もあってこそ家族という淡い糸で繋がれた存在も強い絆で結ばれた玉になっていくのだと思う。「淡い」という形容が心憎い。

私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
 私という存在。確かにあるようで、自分でもなかなか捉え憎いこころとからだ。それを冷徹に見極めようとする作者自身のまなざしが意識される。「私」と「わたし」と意識的に書き分けたところが、その存在の有り様を示している様で、工夫が見える。「雪明り」の中に佇む私という設定も印象的で、捨てがたい。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春昼の寺に一礼して歩く 淡路放生
疼痛と嘔吐はせめて菫ほど 飯塚真弓
億ションに巻きついてゐる春の蛇 石鎚優
原罪を問う君の頰に桜散る 井手ひとみ
ヒヤシンス後悔って一人芝居だ 大池桜子
リラ冷えや玉子しつかり焼く昭和 大渕久幸
高齢者は非国民だべ落椿 押勇次
モヒカンに滝が当たっておお寒い 葛城広光
干鱈焙る母亡き昼の野弁当 河田清峰
青き踏む生を満喫するために 日下若名
太刀魚のごとく白髪水俣よ 小林育子
教室に彼だけいない春の椅子 近藤真由美
手の平の蝌蚪ぷにぷにと児等囃す 佐々木妙子
半仙戯円周率のかなたまで 鈴木弘子
春泥や削除できない疵あまた 宙のふう
祖父の胸の静謐に置くライラック 立川真理
凜々と祖父は花野を作っていた 立川瑠璃
カモの首伸びて水面の桜かな 塚原久紅
蔓引くやあらぬ方より冬瓜来 土谷敏雄
春の風邪コンビニの一人鍋を買う 原美智子
傷付きやすき男が零る遅日かな 福岡日向子
恋猫をまね舐めてみる右の足 藤川宏樹
すてぜりふ残した背なに冬の月 丸山初美
餡蜜から向こう側は未知である 村上舞香
砲弾にパパ残りをり苜蓿 矢野二十四
恋猫や駅の正面墓地の山 山本まさゆき
厩戸の空蟬つまむ背後かな 吉田貢(吉は土に口)
家と家間をビュッと東風が行く 吉田もろび
啓蟄のひかりの渦に這い出せり わだようこ
ぼたん雪天使の耳のかたちして 渡辺のり子

『海原』No.38(2022/5/1発行)

◆No.38 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
ガスタンク球体の羽化寒の月 市原正直
開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
未来図ノ谺ノヨウニ冬木影 伊藤道郎
着ぶくれてマスクのなかの独り言 稲葉千尋
解体の原発鳩の群れ旋回 江井芳朗
介護です冬着に冬日遊ばせる 大髙洋子
駅ピアノ猫ふんじゃったは春の歌 奥山和子
街に風花脚注を付すように 片岡秀樹
親睦の真ん中に雪集めるよ 木下ようこ
葱みじんこだわりって何だったのか 楠井収
比喩で説く人生論や温め酒 齊藤しじみ
鬼遊び冬木は息を継ぐところ 三枝みずほ
雪が降る嗚咽のように啞のように 佐孝石画
画用紙に太き直線年始め 重松敬子
密集や風の窪みの仏の座 篠田悦子
産土を訪えば枯蘆無尽蔵 鈴木栄司
冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
あまりにもプライベートな冬薔薇 竹田昭江
立禅や二月二十日の開聞岳 立川弘子
ルルルッと鳴るよふたご座流星群 遠山郁好
除雪車の忘れる過疎地でも好きで 新野祐子
父の声谺とならず雪男体山なんたい 根本菜穂子
穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
小春日のぼけとつっこみ百寿かな 本田ひとみ
ランボオ忌の道路を歩く大白鳥 マブソン青眼
理科室のよう一人暮らしの元朝は 宮崎斗士
人生のゆるくくぼんで寒卵 室田洋子
感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる
べんじょ紙しみじみ白し十二月 横山隆

野﨑憲子●抄出

砲弾の白煙止むや雪ばんば 赤崎裕太
喪乱帖の王羲之唸る虎落笛 漆原義典
冬の海荒淫の日輪渺渺と 榎本祐子
虎の巻春の宇宙の歩き方 奥山和子
カブールの心火にあらず冬の星 桂凜火
野の心さらさら掬う春隣 川田由美子
先住の熊を起こさぬように行け 河西志帆
雪いつか本降り樅の立ちつくし 北村美都子
手にアララギの実楽しいは正義です 黒岡洋子
めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
お別れは朝の湯たんぽみたいにさ 小松敦
日脚伸ぶ氷点下二十度の太陽 佐藤博己
冬麗へ踏み出す一歩よっこらしょ 鱸久子
棄民のまなざし元朝の神経痛人 すずき穂波
自画像に寒紅すっと引きにけり 竹田昭江
雪片顔にひかり死はみんなのもの 竹本仰
母に会う七種粥の明るさの 月野ぽぽな
国栖人は鹿の尾をもつ藪椿 長尾向季
ラヴェルのボレロ銀杏黄落腑に満ちて 中野佑海
異端もない破綻もない俳句じゃない 並木邑人
人は人をつくらず地球がら空き 服部修一
水鳥や昨日は今日にもぐりこむ 平田薫
土くれも祈りのかたち遠冬嶺愛 藤田敦子
草餅を押して地球のぼんのくぼ 藤原美恵子
死ぬ気などなくて死にゆく薄氷 船越みよ
どんどんゆく冬木立どんどん 堀真知子
アフガンの子らの瞳や寒満月 前田典子
神は鷹を視ている鷹は私を視ている マブソン青眼
梅咲きぬどの小枝にも師の筆先 村上友子
やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
 「開戦日」はいうまでもなく、十二月八日対米開戦に踏み切った日。「漬物石」は漬物を作る際に、重石として用いる石のこと。歴史の転換点の日にも、ごく日常的な暮らしの営みで右往左往している庶民の姿がある。しかしもう一方では、日本が国際政治の渦中を戦争へと追い込まれていく流れがあり、その流れをせき止める重石のような存在が見当たらなかったことをも含意しているのかもしれない。これはやや穿ちすぎの時評的見方なのだが、開戦日をキーワードにして、二つの時間の流れを比喩的に重ねて詠んでいるとみたい。

介護です冬着に冬日遊ばせる 大髙洋子
 介護施設での老人たちの小春日の日向ぼこ。普段の暮らしの中で、冬着を日に干している景ともみられる。それを「冬着に冬日遊ばせる」と喩えた。有態は冬着を日光消毒しているのだろうが、冬着自体の介護のようにも見立てたのではないか。それは冬着を着ている老人たちの介護の姿そのものと重なる。上五には、冒頭「これは介護なんです」と宣言する作者の心意気が覗われる。

親睦の真ん中に雪集めるよ 木下ようこ
 雪の降る日。団地の広場のような場所で、久しぶりの井戸端会議風のおしゃべりを楽しんでいるグループなのかもしれない。その集いの真ん中に雪が降り積もっていく。親睦の輪の真ん中には、雪と共に言葉の輪がどんどん積み重なっていく感じを捉えている。下五「集めるよ」は「集まるよ」ではない。皆で「それいけ」とばかり、力をあわせて積み上げていく親睦の輪なのだ。「よ」の切字の働きが動きのノリになっている。

比喩で説く人生論や温め酒 齊藤しじみ
 戦前から戦後にかけての地方では、囲炉裏を囲んで、古老が若者たちに自分の体験談を語りながら、人生論にもつながる喩え話を披露していた。まさに滋味掬すべき体験談で、ほどよい燗の温め酒同様に、聴く者の肺腑に沁み込んでいく。今はそういう語部自体少なくなっているが、それこそ聴く者の胸のうちで発酵させ、ブレンドできる地酒のような得がたい語りではなかったか。

密集や風の窪みの仏の座 篠田悦子
 「密集や」で切っているから、いわゆる感染対策の標語となった三密の一つで、句の主格となっている。仏の座は春の七種で、新年の景物。ちょうど野を渡る風の吹き溜まりのような窪んだ場所に、蓮座のような可憐な花を開く。小さい花同士が身を潜め肩を寄せ合うようにして咲いているのを、これも一つの密集ですよ、気をつけて下さいと呼びかける。それはコロナ禍を生きる生きものへのいたわり。

ルルルッと鳴るよふたご座流星群 遠山郁好
 「ルルルッ」は、電話の呼び出し音のようなオノマトペだから、「ふたご座流星群」から発せられた電子音のようにも受け取れる。ふたご座は、北天ならカストルとポルックスの兄弟星、南天ならばケンタウルス座のα星とβ星という。一対の星同士が送受信の音を鳴らしながら、流星群の中で互いの安否を交信し合って流れていく。「ルルルッ」の擬音は、そんな天空のロマンをリアルに秋の夜空に描き出す。五七六の十八音で中七で句またがりとなる流麗な韻律だ。

除雪車の忘れる過疎地でも好きで 新野祐子
 作者の在地は山形だから、今年の豪雪はさぞご苦労されたことだろう。数メートルにもおよぶ積雪は、除雪車の出動なしにはとても除雪できるものではない。過疎の進んだ東北の農山村では、ほんの一握りの人口の村落も珍しくない。しかも高齢者ばかりとあっては声も届きにくいから、勢い公共の除雪車もつい忘れがち。そんな過疎地でも、私はこの田舎が好きという。「好きで」と言う思い切りのいい言い方に、「タマラナイ」の情感。

穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
 正月を迎えるに当たり、日頃離れて暮らす子や孫たちが実家に集まって、注連飾りを手伝っている。一見平和な家族の団欒の景だが、内面では世代や居住環境の隔たりとともに、次第に疎隔や断絶感を覚えるようになってきている。例年の正月準備の表情の内に、徐々に変わりつつある家族のかたちを嗅ぎ取って、「穏やかな断絶もあり」と冷静なまなざしで捉え返す。これも今日的社会性俳句の一つとはいえまいか。

小春日のぼけとつっこみ百寿かな 本田ひとみ
 小春日の日向で老人同士が日向ぼこをしている。年寄りの集いの多くは寡黙なものだが、なかには結構独演振りを発揮する人もいて、いつも話の相方を見つけてはしゃべりまくる。いわゆる漫才でいう「ぼけとつっこみ」だが、茫然と聞いている大方の年寄りは、ほとんど無反応。それでも反応のなさなどまったくおかまいなしに、ぼけとつっこみの独演会は続く。そんな元気な年寄りは、百寿まで長生きしそう、いやもう百寿なのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

砲弾の白煙止むや雪ばんば 赤崎裕太
 「雪ばんば」は綿虫のこと。雪蛍ともいう。初冬の頃、青白い光を放って飛ぶ小さな虫たちの乱舞。雪ばんばはウクライナにも居るのだろうか?この号の出る五月には平和が戻ってきていることを願ってやまない。

喪乱帖の王羲之唸る虎落笛 漆原義典
 喪乱帖は、中国東晋の書家で政治家の王羲之の手紙の断片を集めたもの。羲之も北方民族に悩まされていた。縄張りも、報復も、まっぴらだと感じていたに違いない。二十一世紀の虎落笛に王羲之の呻きを聞くとは、斬新。

先住の熊を起こさぬように行け 河西志帆
 地球誕生から現在までを一年としたら、人類が登場したのは大晦日だという。その人類の歴史は征服の歴史でもある。この「先住の」生きものを慈しみ共生の道をひらくことが、その思いを伝える俳句が、今まさに崖っぷちに居る人類を救う最後の切り札のように痛感する。

雪いつか本降り樅の立ちつくし 北村美都子
 雪国に住む北村さんには雪の名句がたくさんある。樅の凜とした美しい立ち姿が作者のイメージと重なる。楸邨の「落葉松はいつめざめても雪降りをり」も浮かんで来る。どちらも沈黙の世界の見事な映像化である。

手にアララギの実楽しいは正義です 黒岡洋子
 アララギの実は真っ赤。種に毒があるという。掌のアララギの実が語っているのだ「楽しいは正義です」と。そう!生かされているのだから〈どんな時も楽しめ〉が人生の醍醐味。破調ゆえの、溢れんばかりの自由がある。

めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
 十二月八日は太平洋戦争開戦日である。と共に、ジョン・レノンが凶弾に倒れた日でもある。『ジョンの魂』の中で、「今まで読んだ詩の形態の中で俳句は一番美しいものだ。だから、これから書く作品は、より短く、より簡潔に、俳句的になっていくだろう」と語ってる。ジョンも、〈五七五の力〉に注目したのだ。「めくられて……千切らるる」と日めくりに焦点を合わせた瞬夏さんの鋭い感覚。「十二月八日」が、鮮やかに立ち上っている。

棄民のまなざし元朝の神経痛人 すずき穂波
 「神経痛人」の連作五句「神経痛人ちりちりひらく蝉氷」「鶴唳や衣擦れに泣く神経痛人」……どの作品からも刺すような痛みが伝わってくる。多分だが、神経細胞にも及んだ重度の帯状疱疹のように思われる。ご自身の症状を直視し、表現した圧巻の作家魂に深く感動した。

雪片顔にひかり死はみんなのもの 竹本仰
 作者は、淡路島に住む真言宗の古刹のご住職。色んな死に立ち会ってこられた。「雪片顔にひかり」から、霊柩車を参列者が取り囲み見送るシーンのように見えてくる。「死はみんなのもの」は、いのちは一つの思いに繋がる。

母に会う七種粥の明るさの 月野ぽぽ
 コロナ流行前のぽぽなさんは、毎年、母の日に合わせてニューヨークから長野に住むお母様の元に帰国していた。その度に吟行や句会をご一緒するのが楽しみだった。夢の中でのことかも知れないが再会されたのだ。「七種粥の明るさの」に、優しくて気丈な母上の面影が浮かぶ。

異端もない破綻もない俳句じゃない 並木邑人
 大ベテランの一句に重みがある。異端も破綻も丸ごと取り込み熱く渦巻く最短定型詩、それが俳句。多様性がいのちともいえる。師も、芭蕉も、その当時の前衛の最先端だった。前衛とは始原を見つめる眼でもある。その中から「俳諧自由」の世界観が生まれてきたのだ。

人は人をつくらず地球がら空き 服部修一
 あらゆる〈いのち〉は海から生まれて来たという。海のような心で人が人を育む原点に立ち返らねば「地球がら空き」になるという警句。近未来の世界の天辺に立つ人よ、海のような人であれ!その君よ、疾く現れよ!

神は鷹を視ている鷹は私を視ている マブソン青眼
 大いなるいのちを通しての視座。南洋の島へ単身乗り込み暮らした青眼さんならではの断定が心地よい。神は青眼さんを視ている、ということ。大いなるいのちの世界こそ「いのちの空間」であり、生きとし生けるものの根源である。そして世界最短定型詩の源でもあるのだ。

梅咲きぬどの小枝にも師の筆先 村上友子
 村上さんは、梅の花の一輪一輪を師の筆先と捉えたのだ。この一歩踏み込んだ新鮮な把握に、梅の香が、より濃く匂い立つ。そして花の奥から師の眼が光り、ウクライナ侵攻を怒る師の声が「俳句にして世界へ示せ!」と大音声で聞こえてくる。

やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子
 挨拶で始まり挨拶で終わる日々の幸い。やわらかな心に争いは無い。冬木の芽は春には爛漫の花を咲かせる。

◆金子兜太 私の一句

気力確かにわれ死に得るや橅若葉 兜太
 地球上最大規模の橅原生林を有する朝日連峰の麓に私は暮らしている。橅の芽吹きと新緑は、数多の広葉樹の中で際立って美しい。先生の産土である秩父の山々にも橅の林があるだろう。先生は橅若葉を眺めてとっさに死について考えたと。当時七十代の先生、気力も体力も人一倍あったのに、なぜ?橅若葉の中を行けば、いのちは永遠であるように思えてくる私には、大きな衝撃だった。句集『両神』(平成7年)より。新野祐子

どれも口美し晩夏のジャズ一団 兜太
 昭和37年3月。私は兜太先生と四谷駅で「海程」創刊号の原稿を持って来る初代編集者の酒井弘司さんを待って印刷所へ行き食事をして新宿の劇場に行った。電飾下の華やかなジャズ演奏など聴いていると、先生はポケットからメモの紙切れを出して「この句はどうだ」と言った。それが掲句であった。この句を見るたびに、海程創刊の先生の心意気と美意識をあの夜の字句のそれぞれに重ねて思う。句集『蜿蜒』(昭和43年)より。前川弘明

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選
樹の洞に小さき蛙春燈 大山賢太
冬の虫とんでもないと思われて 奥野ちあき
○細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
ハロウィーン改札通る魔女その他 片岡秀樹
駆け出せば木の実降るよう追われるよう 河原珠美
○人間であること寂し冬木の芽 北上正枝
大根の穴の数ほどある戦禍 木村和彦
○毛糸編みつづける友よ逃げなくちゃ こしのゆみこ
草虱生きる術など足りている 佐藤詠子
霜柱踏む今生の大切さ 佐藤紀生子
老人の靴大きくて冬の旅 篠田悦子
巻耳おなもみよ誰が居たっけこの更地 鱸久子
たましいの天秤冬の水平線 たけなか華那
寝ころんでおまえは冬の銀河だな 竹本仰
水琴窟静かに秋とすれ違う 董振華
水たまりに秋風の貌主役だろ 野﨑憲子
十三夜妻のハンカチぶかたち 本田日出登
鍵穴を失くした鍵のよう暮秋 宮崎斗士
蕎麦の花われもだれかの遠い景 望月士郎
ヒヤシンス死んだ理由は残さない らふ亜沙弥

中内亮玄 選
漂着の陽のしわしわの案山子展 有村王志
赤子が笑う満月笑う笑う 伊藤道郎
読まないで印鑑を捺す鳥雲に 植竹利江
銀水引微熱くらいの不平等 奥山和子
○羽後しぐれ人も野面も口籠る 加藤昭子
約束の言葉寂しき秋なすび 狩野康子
気の弱い鶏から先に風邪をひく 河西志帆
○星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
○冬ざれや積み木のような虚栄心 佐藤詠子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
ため息を折り込む小指秋深し 高木水志
いつしかのロマンポルノと豆の花 田中信克
霜晴れをせり合う羽根の眩しさよ 董振華
心臓を無理なく生かせ冬来る 服部修一
雪見だいふく食べて火星に住むつもり 藤田敦子
地球との距離を律儀に初日の出 前田典子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
小鳥来るひたすら旅を言葉にす 横地かをる

望月士郎 選
木の洞のかなかなかなとふるへけり 内野修
亡夫の椅子名残の月と息合わす 狩野康子
○星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
水族館に魚の行進十二月 北上正枝
○毛糸編みつづける友よ逃げなくちゃ こしのゆみこ
我と吾林檎をひとつ齧りけり 小西瞬夏
敗者らに透く秋虹の脚太し 鈴木修一
○白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
陽炎も首など絞めてみる午後も 田中信克
こぼれ落つ乳歯石榴の酸っぱさに 東海林光代
不仕合せまじる仕合せ煙茸 鳥山由貴子
ちからしばひとりのときは力芝 平田薫
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
骨揚げを見ている遺影雁の声 船越みよ
このいのちかるしおもしと草の絮 前田典子
子供らと落葉を音に変えてゆく 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
「はいどうじょ」ドングリ一個たまわりぬ 森武晴美
合わせ鏡の軽い幽閉さよなら夏 茂里美絵
夭折といふ綾取のまだ途中 柳生正名

森武晴美 選
掃き残す枯葉のような記憶かな 伊藤歩
山盛りの気骨崩るる後の月 太田順子
次郎柿甘やかされて取りそこね 奥山和子
台風の色蹴散らして進みけり 小野裕三
○細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
○羽後しぐれ人も野面も口籠る 加藤昭子
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
○人間であること寂し冬木の芽 北上正枝
吐息のような風の霜月涙腺がゆるむ 小林まさる
○冬ざれや積み木のような虚栄心 佐藤詠子
○白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
日向ぼこ何処かが痛い人が寄り 中村道子
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
霧晴れて手足やさしくして歩く 横地かをる
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
老兵はしゃしゃり出るもの曼殊沙華 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

駆け出せば木の実降るよう追われるよう 河原珠美
 時間に遅れそうと小走りになったところ、体の動きに心が釣られてよけいに焦った経験を思い出しました。森の中で突然前触れもなく木の実が落ちてきた時のドキドキ感と、鬼ごっこをした時のようなワクワク感。ちょっとした心の変化を、丁寧にしかも意外な二つの喩えで表現していて楽しい句でした。

大根の穴の数ほどある戦禍 木村和彦
 丹精して育てた大根を収穫した充実感。でも作者は、畑に残った夥しい穴に戦禍を連想しました。大根の穴のように身近にある戦争。この文を書いている今、テレビではロシアのウクライナ侵攻の映像が次々映しだされています。非日常がいつの間にか日常になる怖さを感じます。

霜柱踏む今生の大切さ 佐藤紀生子
 土を被ってるため気づかずに、大きな霜柱をごりっと踏むことがあります。そんな時「あっ」と思います。霜柱を踏んだことで強く意識される「今」。人には「今」しかないといいます。過去は取り返しがつかず、いくら心配しても未来はなるようにしかならない。だから今現在をしっかり生きろというのが、釈迦の忠告です。
(鑑賞・伊藤歩)

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 一読して、目の前にゴッホの絵画があった。具体的に何と言うのではない、例えば「星月夜」あるいは「星降る夜」、いや「糸杉と星の見える道」だろうか。動くはずのない星が軽やかに動き、現実世界ではモミの木が店に入荷されてくる。いや、私の目の前にモミの木があるのは、世界の隙間から星が入り込んだからかもしれない。

霜晴れをせり合う羽根の眩しさよ 董振華
 頬を切るような冴えた冬の朝、霜の白い結晶が光っている。きらきらと朝日に輝く繊細な光だ。しかし、次の瞬間にカメラは頭上に向けられる。映像は真っ青な空にむつみ合う小鳥たち。羽ばたきも、子どもたちが競い合うようで微笑ましく、その向こうには朝日が眩しい。地上も天空も光あふれる、今日はきっといい日だ。

ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
 男子の変声期前にしか出ない高音域は「天使の歌声」などとも呼ばれ古来より愛されてきた。作者は、この美しい歌声を、レモンを一絞りしたようだと例えて見せる。言葉では伝えることの難しい「声」が、きゅっというオノマトペとも相まって生き生きと伝わってくる。破調ながら、俳句ならではの「言葉の結晶」と思う。
(鑑賞・中内亮玄)

陽炎も首など絞めてみる午後も 田中信克
 二つの「も」によって並列された事柄が、隠れたあるものを指し示しています。それは「今日ママンが死んだ」数日後に犯した殺人事件のようなものなのか、それとも退屈な午後の白日夢なのか。意識的に芝居がかったと思われるこの句は、しかし、そのどちらでもあり、どちらでもなく、多分どうでもよいのでしょう。

骨揚げを見ている遺影雁の声 船越みよ
 静かに微笑んでいる遺影のその頬や顎の骨、頭骨や脛骨が目の前にあります。その遺影の視線、この生前と死後が互いを内包するような空間。そして箸を持てば鳥葬の鳥になった気分なのです。「ホラホラ、これが僕の骨」の中也に似て、読者のその時を既視に変えてゆきます。しばらくして、遺骨の後ろを遺影が歩いてゆきました。

「はいどうじょ」ドングリ一個たまわりぬ 森武晴美
 意味を追うと見えないのですが、隠れて読みに影響する声があるのです。この句では「はいどうじょ」の中に童女と泥鰌が見つかりました。すると童謡「どんぐりころころ」をBGMにして、不思議な童女にもらったドングリから始まる物語を、知らぬ間に読者それぞれが語り始めます。こんなこと俳句ならではの技法でしょう。
(鑑賞・望月士郎)

次郎柿甘やかされて取りそこね 奥山和子
 甘やかされてが次郎柿に合っていて、取りそこねで決まりましたね。得てして、長男は家督を継ぐので大切に、しかし厳しく育てられた。それに比べ次男は、比較的のんびりと甘やかされた。友人、知人の兄弟や姉妹にもその傾向が見られる。取りそこなったのはいったい何。取り残された次郎柿はどうなった。気になるところだ。

細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
 年齢を重ねていくと、今まで出来ていたことが、ふっと出来なくなる。その時の心細さ、このまま年老いて何も出来なくなるのではと、不安が心を過る。その思いを断ち切るように、梨の芯を深く切り取る。梨のザラッとした果肉の感触が、包丁を通して伝わってくる。細りゆくこころの表記が、凜として清々しい。

着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
 着ぶくれてが、なかなか効いていると思う。記憶力の低下は年々ひどくなり、悲しいと言うよりおかしくなってくる。昨日の逃げ足が一番早く、五十年前は逃げずにずっと居てくれる。身体的な老化も、精神面の老化も、仕方のないことだが、受け入れるのはむずかしい。着ぶくれて、昔の記憶と遊ぶことにしよう。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

今生の右側には君蒲団干す 有栖川蘭子
寂しさの手が大根を摺り下ろす 淡路放生
愛されし記憶まるむる浮寝鳥 飯塚真弓
牡蠣鍋のまだ生臭き命かな 井手ひとみ
ゲルニカを鸚哥と観ている炬燵かな 上田輝子
発熱の君を包んで霜夜です 遠藤路子
大寒にして我が恋の決戦日 大池桜子
ぬかづくとはこのこと母の初参り 梶原敏子
公園に誰もいなくて脳死かな 葛城広光
日の本に生まれ睦月の握り飯 木村寛伸
水仙は少し物申したげ我のよう 日下若名
蜜柑むく一人芝居の気まずさに 小林育子
木枯しが母の話の邪魔をする 近藤真由美
弥勒像日向ぼこして坐しけり 佐竹佐介
囃されて赤ちゃん三歩春うらら 重松俊一
成人の日の振袖とコロナかな 鈴木弘子
綾取りのれては消える多角形 立川真理
人に尾の跡鯨に骨盤の跡 谷川かつゑ
「ご健脚ね」薄笑いする雪女 藤玲人
初鏡遠い母いて私です 中尾よしこ
不在の冬の菫のその向こう 服部紀子
去年今年昨日のケーキ持て余す 福田博之
スギハラの命のビザや冬銀河 藤井久代
年惜しむやがて校歌の消える村 丸山初美
冬紅葉残照にあり友の墓 武藤幹
用もなき背広かけ置く冬座敷 矢野二十四
水仙や抱かれて青き駿河湾 山本まさゆき
道まがれば橋遠ざかる暮の春 吉田貢(吉は土に口)
受刑服雪より白き過去包み 渡邉照香
寒満月浮かぶ地球のふかい闇 渡辺のり子

『海原』No.37(2022/4/1発行)

◆No.37 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

長命の虎の巻其の二猫じゃらし 綾田節子
羽後残照見開き悼武藤鉦二兄ひと言夜の灯 有村王志
冤罪は小さな箱の中粉雪 泉陽太郎
欠礼のはがきガラスに点る顔 市原正直
野仏の膝は日溜り冬の蝶 伊藤巌
冬薔薇を植え片思い日常に 大池美木
立冬の椅子の周りに椅子のあり 小野裕三
ブースター接種告知板から冬の蜂 桂凜火
ぞくぞくと冬芽哀しみは未だ半端 加藤昭子
沖縄にない狐火を表記せよ 河西志帆
しゃらしゃらと狐狸の目をして着脹れて 北上正枝
新資本主義群集の白長須鯨しろながす 今野修三
木の実ふるふる整理整頓苦手組 芹沢愛子
黄落や祈る形で佇めり 髙井元一
鳥風か追憶のページさざなみす 田口満代子
十二月選ぶ感情的な花 たけなか華那
冬蝶や誰も気づかぬ風がある 竹本仰
淡く濃く人はみな泣く桜かな 田中信克
つぎはぎの重い空から雪の花 中内亮玄
死なぬならまだのんびりと根深汁 中川邦雄
「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
早世の墓誌銘に触れ風花 根本菜穂子
若き白息伐られ大地に身を打つ木 藤野武
去年から開かぬシャッター冬銀河 藤原美恵子
枯菊を焚くや感情かをりたつ 前田典子
綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
月蝕やどこかで冬のサーカス団 茂里美絵
良縁をまとめどさっと深谷葱 森由美子
着膨れてアナログ気取る老教師 渡辺厳太郎

野﨑憲子●抄出

兜太かなおいと貌出す春の山 有村王志
白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
爪のびた〜港公園冬うらら 石川まゆみ
野仏の膝は日溜り冬の蜂 伊藤巌
その魚いずれやってくる冬至かな 上原祥子
富士薊ごつつい刺に雨滴溜め 内野修
仮面の赤アラビア文字の立ち上がる 大西健司
ゲルニカの馬のいななき人類よ 岡崎万寿
小春日が大好きなんだ鳶の笛 河原珠美
正義は直感すぐ折れる水仙 黍野恵
狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
つぶやきをAIききとってうさぎ 三枝みずほ
もみじ葉のはぐれて光となる遊び 佐孝石画
降り切って冬空太古の紺流す 十河宣洋
流感処分の鶏に隊列十二月八日 高木一惠
定住漂泊うつつごころに初しぐれ 田口満代子
蹉跌あり桜紅葉の黒き染み 田中亜美
吉野源流秋螢よろぼうて 樽谷宗寬
冬晴れの原爆ドーム命美し 寺町志津子
月冴ゆるぞっとするほど痛き街 豊原清明
「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
ゆつくりと昔をほどく大焚火 故・丹羽美智子
球音響く軍神二十歳の冬森に熊 野田信章
血管を見せにくる馬雪催 松本勇二
つくづくラクダおもいきり嚔して 三世川浩司
シナリオを捨てていよいよ冬の蝶 宮崎斗士
山眠る霊長類の笑い皺 三好つや子
どどん「どん底」客席にマスク百 柳生正名
ひとつたましい月光浴に焦げる焦げる 山本掌
柊の花より淡く母居たり 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

羽後残照見開きひと言夜の灯 有村王志
 「悼武藤鉦二兄」の前書きがある。「見開きひと言」は、秋田の武藤氏の在地とその句集への、親しみと敬意を込めた挨拶句であろう。昼間の仕事を終えた夜、机上に『羽後残照』を開いてひと言、「読ませて頂きます」と故人に挨拶して読み始めたのではないか。その開巻第一句を読んだとき、「羽後残照」を真浴びしたように体感したに違いない。「見開きひと言」に、作者の追悼の姿勢が深く刻み付けられている。

冬薔薇を植え片思い日常に 大池美木
 作者の本意がどういうものかよくはわからないが、冬薔薇を植えて、片思いを日常的に思い返したいと書いている。冬薔薇に、片思いにつながるものを感じているのだろうか。おそらくは遠い思い出で、思い返すたびに、ちょっと切なく、甘く、若やいだ気持ちに帰ることができる。冬薔薇の花の質感に呼び覚まされ、しばしその陶酔感に浸る気分を味わっている。冬薔薇のひめやかな気配にも合う。

しゃらしゃらと狐狸の目をして着脹れて 北上正枝
 「しゃらしゃら」は、薄い布などが軽く摩擦する様子を表す擬音語。ややマイナスよりのイメージで、軽薄さを暗示するという。「狐狸の目をして」とあるから、和服を幾重にも着込み着膨れている様は、狐や狸が化けたようにも見える。このような風俗風刺の句は、よほど自分がしっかりと立っていなければ悪ふざけになりかねない。ご主人を亡くされてなお、このように冷静な批評眼を失わない作者に脱帽する。

新資本主義群集の白長須鯨しろながす 今野修三
 今日の時事的課題を端的に取り上げ、生まの時事用語と比喩によって表現した野心作。俳句というより川柳に近い散文的批評性を持つ。「新資本主義」はいうまでもなく岸田首相が提唱した政治思想または姿勢で、中身はひと言で言って、所得格差を縮小して経済を安定させ成長と分配の好循環を図ること。「群集の白長須鯨」とは、いわゆるポピュリズムを指す。その口当たりの良さを読者に問題提起して、さあどうすると迫って来る一句。

十二月選ぶ感情的な花 たけなか華那
 十二月は一年の総決算の月だけに、日常はあわただしく、一年を振り返ればさまざまな思いも行き交う。その中で作者のいう「感情的な花」とは何で、「選ぶ」とはどういうことなのか。おそらく、一人ひとり違う花で、他人の花を賛美するというより、否定的に見たり、ねたましく思ったりしているに違いない。作者はそんな感情的な花をどう選ぶのか、まだ迷っているのかもしれないし、誰かに勧められたとしても、決して納得することはないだろう。そんな際どい心理を句にしたようにも見える。

淡く濃く人はみな泣く桜かな 田中信克
 桜は、日本人独特の無常観と結びついた詩歌の世界の代表的な花で、単に花といえば桜を指すとさえ言われている。だからこの句は、桜に寄せる日本人の通念的心情を、ごく庶民感覚的に書き留めたものともいえる。桜を見ては、「人はみな泣」いてきた。それは必ずしも悲しみばかりでなく、喜びに於いてさえ泣いた。その感情の圧力もさまざまで、時に応じて「淡く濃く」なった。上五に据えたニュアンスが桜の歴史的質感だった。

若き白息伐られ大地に身を打つ木 藤野武
 「若き白息」で切り、山深い森林で、伐採に勤しんでいる若者像が浮かぶ。中下では、伐られてどうと大地に倒れ伏す巨樹を描く。昔からある林業の実景だが、最近は我が国の林業も長引く不況と人手不足から存続の危機に立たされているようだ。その中で掲句のような大自然の原風景に立つ木の力感と若者の立ち姿には、生まの生きもの感覚が息づいていて、にわかに力づけられるような気がしてくる。

枯菊を焚くや感情かをりたつ 前田典子
 前掲たけなか句の〈十二月選ぶ感情的な花〉とは好対照の一句。たけなか句の方が心象映像的なのに対し、前田句は即物的な生きもの感覚ともいえよう。筆者は枯菊を焚くかおりを経験したことはないが、おそらくのこんのいのちを感じさせるような、老いの情念にも似た、かぐわしい「感情のかをり」があるのではないだろうか。枯菊の焼ける物音にも、激しく感情を揺さぶられながら。

綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
 日常心理の襞を軽妙な比喩で新鮮に捉え返す感性において、作者の右に出るものは、わが「海原」においてもそうはいないだろう。冬のどんよりした日に、綿虫が白い灰のように二三そして四五と舞い上がってくる。その気配に二度寝のような倦怠感を覚えながら、「あなたと逢う」という。どうやら二人の間に漣が立ち始めたのかもしれない。こういう負の心理感覚は、この作者には珍しいものだが、これも作品世界の新しい局面として拓かれたものだろう。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

兜太かなおいと貌出す春の山 有村王志
 二月二十日の金子兜太師の忌日を前に稿を書き始めた。他界の師は、高松での句会へも来てくださっている気配がある。〈おいと貌出す〉がいかにも先生らしい。「海原」の将来を見守ってくださっていると確信している。

その魚いずれやってくる冬至かな 上原祥子
 一読、飯島晴子の言葉が蘇った。「……そのなかには、俳句という特殊な釣針でなければ上げることの出来ないものが、必ずあるという強い畏れを感じる。小さい魚だから小さい針とは限らない。大きい魚だから小さい針ということも成立つ」。そんな幻の魚を待っている人がここにも居た。奇跡は信じる人のところにきっとやってくる。

ゲルニカの馬のいななき人類よ 岡崎万寿
 ピカソが、母国スペインのバスク地方ゲルニカへの無差別空爆を描いた傑作「ゲルニカ」。絵の中の馬の嘶きは、ますます大きな叫びとなっている。今まさに崖っぷちにいる人類へ、掲句の問いかけが、さらなる珠玉の句を生み渦となり全世界へ広がるよう願わずにいられない。

正義は直感すぐ折れる水仙 黍野恵
 直感はほとんどが当たっている。正義は直感であると断言する作者。〈すぐ折れる水仙〉の切り返しが見事。でも束にしたら折れない。「花八手愛敬じゃなくくそ度胸」の句も、実に小気味よい。限りなく前向きな黍野さんの真骨頂の作品である。

狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
 風や雲が従ってゆく、この狩人はマタギ。天地に祈り感謝し、必要なだけ狩をさせてもらっているのだ。自然と共に生きることの大切さを教えてくれる作品である。こしのさんの作品には、愛が溢れている。

つぶやきをAIききとってうさぎ 三枝みずほ
 このAIは、兎の形をしているのだろうか、平仮名の真ん中にアルファベットの二字。なんだか風のリボンのように見えてくる。五句の中には「石仏を打つ雨わたし濃くなりぬ」「世界中の時計を合わすつめたい手」。鋭敏な生きもの感覚と宇宙をも俯瞰した俳句眼。金子先生にお会いしたかったと熱く語る彼女に、師は他界で頷きながら眼を細めていらっしゃることだろう。

流感処分の鶏に隊列十二月八日 高木一惠
 鳥インフルエンザに罹った鶏の殺処分報道の度、他に方法が無いのかと胸が痛む。〈鶏に隊列〉に続く、太平洋戦争開戦日。その通底するものに愕然とする。掲句は、人類の足元を見直す大切な警句であるとおもう。

「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
 「照一隅」は、長年、アフガニスタンに赴き、医師としての活動の枠を超え用水路の建設など現地の人たちに寄り添い続け銃弾に倒れた中村哲さんが愛した言葉。その仏教用語とクリスマスとの絶妙の対比。仏教もキリスト教もイスラム教も包含した他界、即ち「いのちの空間」へと向かう深い愛を見事に表現している。

ゆつくりと昔をほどく大焚火 故・丹羽美智子
 丹羽さんは百歳。齢を重ねるからこそ見えてくる世界がある。大焚火の炎の中に、色んな時間が浮かんでは消えてゆく。

球音響く軍神二十歳の冬森に 野田信章
 二十歳で英霊となったこの青年は野球が好きだったのだろう。〈冬森に〉に万感の思いが籠る。他に、「洗われて入れ歯カッカッ笑う冬」。野田さんの、傘寿を超えた今も健在の少年の眼差しと、深い俳句愛、そして真摯な生き様に限りなく憧れる。

シナリオを捨てていよいよ冬の蝶 宮崎斗士
 最後の「俳句道場」での閉会の辞を述べた宮崎さんの、バナナの化身のようなコスチューム姿が今も忘れられない。バナナが大好きだった師は、よく道場の机の上のバナナを眼を閉じて美味しそうに召し上がっていらした。この粋な芝居っ気に「海原」の僥倖を感じた。そう!シナリオを捨てて表舞台へ、冬蝶さんよ。これからが、いよいよ人生の本番。「海原」から新しい神話が始まる。

どどん「どん底」客席にマスク百 柳生正名
 猛烈なビートで、どん底を蹴飛ばしてコロナ後に新しい時代がやって来る。「布団の奥アンモナイトの息をする」「てつぺんでキューピー尖る師走八日」も柳生さん。始原から現代へ、様々な時代を詠み込み進化してゆく。これぞ『俳諧自由』の「海原」発、俳句新時代!

ひとつたましい月光浴に焦げる焦げる 山本掌
 この美しい調べに魅了された。〈ひとつたましひ〉の倒置の妙。月光浴に焦げるという感性の豊かさ、全身全霊で月光浴をしているのだ。まさに魂の歓喜の詩。

◆金子兜太 私の一句

三日月がめそめそといる米の飯 兜太

 飯粒の一つ一つの擬人化であろう。日本人なら毎日、口にしているそれこそ糊口である。作者の意図から離れて、改めて字句を追うと“ぞ”と読める。ネガティブな思いが浮かび上がってくるが完円ならぬ月に古来から米に纏る物語がここにある。米を作る人、それを食べる人が見えて来よう。狩猟生活から定住農業以後の道程という先人の営みの泥土と苦汁が見えて来るのではないか。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。佃悦夫

木曾のなあ木曾の炭馬並びる 兜太

 俳句道場でのことでした。私が句稿を書く当番になり、あと一句兜太先生の欄が空いていました。鈴木孝信氏が優しく厳しく先生を見守っておられる。先生は「うーん、うーん」とうなっておられる。道場出席者全員のため誠実に考えぬかれる姿でした。とても懐かしい思い出です。この句の「糞る」は信州北信地方では日常使ってましたが、句に会った時は驚きました。句集『少年』(昭和30年)より。梨本洋子

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選
舌足らずの鬼灯一灯いかがです 石川青狼
訃は岬白い夜長のはじまれる 伊藤道郎
濁世美し解体現場の藪枯らし 尾形ゆきお
榧の実や受け入れること笑うこと 奥山津々子
大根や一粒の種みごとなり 尾野久子
捨田から始まる花野父点る 加藤昭子
北塞ぐ窓から夜の川流す 河西志帆
木の実落つ独りよがりの子煩悩 楠井収
群衆の眼に忘却の泡立草 佐々木義雄
鉦叩にんげんが急にあふれたよ 長谷川順子
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
蓑虫や笑顔をしまいかねている 藤田敦子
故郷遠し枝豆の湯気青臭く 藤野武
小鳥来る少しづつあきらめも来る 前田典子
能面の右目左目雪虫飛ぶ 前田恵
○犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
もう隠せない秋バラそれぞれの深傷ふかで 村上友子
淋しらを洗濯する娘十三夜 森鈴
○夕かなかなちちはは水になる途中 茂里美絵
酒に泡浮き十三夜月咲いた 柳生正名

中内亮玄 選
新米の湯気にしばらく顔を寄せ 伊藤雅彦
骨上げのコトコト鳴りぬ今年酒 上野昭子
色即是空問題は秋の雨 大西健司
退屈は罠だ秋の蚊が匂う 尾形ゆきお
秋冷や我に「訓練」という輩 川嶋安起夫
既読既読玻璃の底なる十三夜 川田由美子
蟷螂のよそ見する間に駆落ちす 河原珠美
西鶴忌外科医の朱いスニーカー 黒済泰子
秋風の孕み楕円の路地に入る 佐々木義雄
まじめに泣く赤ん坊です天高し 竹田昭江
落花生パッキパッキの個性です 田中裕子
連雀や星ぼし速さ競い合う 豊原清明
色変へぬ松や多感な米寿なり 中川邦雄
寒月よ花挿すように絶句せよ ナカムラ薫
さりげなく墓仕舞のことちちろ鳴く 平山圭子
○腹やら腰やらずしりと笑う柿熟す 藤原美恵子
秋の蚊の離れたがらぬわが臀部 三浦静佳
猫の耳つまみ尽くして冬野なり 水野真由美
ふってきたどんぐりピカピカ児の歌も 三世川浩司
露草に雨腐れ縁のような雨 梁瀬道子

望月士郎 選
魂に宿る肉体白鬼灯 泉陽太郎
木耳のふくよか夕日の耳打ち 伊藤清雄
わたくしの内の雌雄や菊人形 榎本祐子
赤ちゃんも地球も丸い林檎剥く 大池美木
辞書の上空蝉ふたつ組み合はせ 木下ようこ
蝉時雨われを遠くにしていたる 黒岡洋子
老眼のツルとマスクの絡みかな 佐藤稚鬼
白曼珠沙華母の晴れ着の端切れです 鱸久子
漢字すべてにルビふる鏡花星月夜 芹沢愛子
切り取ってぺたっと貼った満満月 たけなか華那
すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
実石榴の軋んで少女たちの黙 月野ぽぽな
いぼむしり泳ぎ疲れたように街 遠山郁好
実紫ネパール人の密語洩れ 日高玲
紫苑とても遠い日があったむらさき 平田薫
花芒揺れて私という彼方 藤原美恵子
○犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
まんじゅしゃげ白まんじゅしゃげ長い宿題 室田洋子
○夕かなかなちちはは水になる途中 茂里美絵
あかのままあだちがはらのあやとり 山本掌

森武晴美 選
台風接近真っ先に飛ぶ口約束 石川青狼
十六夜やコロナ以外のあまたの死 江良修
我が儘と自由の間濁り酒 大西恵美子
薄原遠くで呼ぶから答えない 奥山和子
手話の指秋の光を掬いあげ 狩野康子
やぶからし一行目からまちがえる 河西志帆
蔓ばらは身に曲線の支柱得て 北村美都子
感情だって夏痩せします自粛自粛 黒済泰子
握手してハグして青春マスカット 小林花代
雷のとどろき余生裏返す 佐々木昇一
コスモスに空は空色用意して 篠田悦子
独り身っぽい男が夫しゃくとり虫 芹沢愛子
被曝の葛被曝の柿の木を縛る 中村晋
水澄むやうらもおもてもなくひとり 丹生千賀
寝違えのこむら返りのからすうり 平田恒子
大胆に水溜りの月跨ぎくる 平山圭子
○腹やら腰やらずしりと笑う柿熟す 藤原美恵子
出不精でも引き籠りでもなし鶏頭咲く 深山未遊
落葉とマスク掃き寄せていて祈る 村上友子
目汁鼻汁干からびゆくよ赤のまま 村松喜代

◆三句鑑賞

訃は岬白い夜長のはじまれる 伊藤道郎
 比喩を使って、きっぱり言いきった書き出しに意表を突かれました。岬は、海に迫り出した陸の孤島。絶え間なく聞こえる波音と風音は、突然の訃報に、襲ってきた孤独感と、動揺する心の内を表しているようです。色の使い方も巧みで、これから始まるであろう眠れない長い夜を思い、暗澹とするのです。

小鳥来る少しづつあきらめも来る 前田典子
 「あきらめ」の内容によっては深刻になりがちなことも、擬人法を使ってさらりとうたっています。小鳥を見かけることが増え、嫌でも夏の終わりと秋の訪れを意識するようになった頃、季節の移り変わりと共に失っていく人や物。自身の老いと共に縁遠くなった行動などもあるかもしれない。三つに切れるリズムも句の内容を伝えてくれています。

犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
 犬は興奮するとよく震えることがあって、そんな時抱きしめると、その震えが伝わってきて、その命に感じ入ります。言葉を使っての意思疎通はできなくても触れることで伝えたり共有したりできるものもある。一人と一匹が共有できた楽しい時間や感情を思い出しました。
(鑑賞・伊藤歩)

秋風の孕み楕円の路地に入る 佐々木義雄
 商店街の路地を歩けば、突き当りが楕円の広場にでもなっているのか、あるいは路地へ入っていく私の視界が丸く歪むのか、「楕円」のイメージが虚実を膨らませる作品。楕円の路地に楕円の私がさまよえば、くるり落葉を舞い上げて、たっぷりとぶつかってくる秋の風。療養中の作者には、新しい命をも感じさせるその風の重さ。

猫の耳つまみ尽くして冬野なり 水野真由美
 飼い猫を撫でながら、耳をマッサージしてやる。皆さんはご自分の耳をつまんでみて欲しい。さて、それは物思いにふけっているのか作句に悩んでいるのか、いずれにせよ何か考え事をしている時の姿ではないだろうか。本当につまんでいるのは猫の耳か私の耳か。生ぬるい被膜をつまんでいれば、枯れた冬野に行き当たった。

ふってきたどんぐりピカピカ児の歌も 三世川浩司
 どんぐりが降っている。子どもたちが歌を歌うなら、もちろん「どんぐりコロコロ♪」だろう。掲句は一読、コロコロをピカピカと替えた、動きの擬態語を形態の擬態語に替えた、つまらぬ工夫がされている。ところが、何度も読み返すうち、「どんぐりピカピカ」が実にいいことに気づく。子どもたちの目が、輝いている。
(鑑賞・中内亮玄)

辞書の上空蝉ふたつ組み合はせ 木下ようこ
 蝉殻のあの形態からすると、この「ふたつ」は相撲の蹲踞の姿勢から立ち上がり、組み合おうとする瞬間に似ています。土俵は辞書、できれば『大辞林』がよいでしょう。言葉という幼虫がこの林の地中にうようよです。完全主義を目指す辞書の上に置かれた空蝉=現し身。辞書と空蝉の軽重いの対比も妙です。

白曼珠沙華母の晴れ着の端切れです 鱸久子
 「晴れ着」と「端切れ」がアナグラムの関係にあります。このささやかな発見は、人の一生を鮮やかに象徴するものとなっていて、秘密を解く鍵のような効果をしています。赤ではなく白い曼珠沙華の斡旋も静かな毒を感じさせ、「ハハ」「ハレギ」「ハギレ」の頭韻も、なにやらの呪文のように秘密めいて響いてくるのでした。

あかのままあだちがはらのあやとり 山本掌
 全ひらがな表記、「あ」の頭韻、それに十六音中十一音を数える「A」の母音。「あかのまま」「あだちがはら」「あやとり」の三題噺を仕上げるのは読者それぞれに任されます。しかし、意味で繋ごうとすると途方に暮れるのです。抽象絵画における色、形、配置のように、言葉の戯れを愉しめば良いのでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

十六夜やコロナ以外のあまたの死 江良修
 デルタ株が収束しつつあった昨年末、オミクロン株がこれほど蔓延するとは思っていなかった。毎日感染者は急増し、ワクチン接種は進まない。一方、コロナ以外の死も当然あるのだが、報道はされていない。作者は医療従事者として、その死に深く向きあっている。十六夜の月がやさしいのか、冷たいのか、胸中やいかに。

コスモスに空は空色用意して 篠田悦子
 空に空色は当たり前のようだが、案外少ない。冬は曇天だし、春には霞がかかり、梅雨空となる。コスモスが一番映えるバックは何か、やっぱり青空。濃い青色よりも薄い空色。空が空色を用意したと詠んだ作者の気持ちがやさしい。空色の空の下、それぞれの色を風に揺らして咲くコスモス。この風景をいつまでもと思えた一句。

寝違えのこむら返りのからすうり 平田恒子
 一読して思わず笑ってしまった。上五中七を「の」で繫いだことでリズムが生まれ、その流れがからすうりにうまく乗ったと思う。笑い事ではない、寝違えもこむら返りも、からすうりの色や形で救われたような気になる。からすうりも、よく詠まれる季語ではあるが、なかなか手強い相手。うまく処理した句と思う。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

冬銀河柩にはふる十七音 有馬育代
冬蝶のステンドグラスとなり了る 淡路放生
折り目から地図破れゆく冬の雨 井手ひとみ
後輩の息子いっぱし阪神忌 植朋子
冬休み少女は安吾を読むと言ふ 上田輝子
すぐみかんとか出してくる母が好き 大池桜子
事始めとうカレンダー誰も来ぬ かさいともこ
入学の二日前から風呂にこもる 葛城広光
犬小屋に居らぬ次郎に冬桜 河田清峰
茶の花の明るい家の明るいひと 日下若名
スマホの手覚束無くて寅彦忌 古賀侑子
アフガンの飢えの紙面へ薯の皮 後藤雅文
十二月八日補聴器に雑音 小林ろば
どの人も師走になってゆく風か 重松俊一
我が生のここまで来たる木の葉髪 鈴木弘子
泣きそうに恍惚の中枯蟷螂 宙のふう
「ニーッ」といふは笑いの形受験生 立川真理
冬薔薇四季咲きといふ疲れかな 立川由紀
人といふ病ひのありてちちろ鳴く 立川瑠璃
キュビスムの句詠みたき夕焼ピカソ展 平井利恵
新しい資本主義とか枯空木 深澤格子
冬兆す出羽や荒ぶる神を抱く 福井明子
大根煮て醤油懐柔されにけり 福田博之
にぎはひの中心なからに老母春近し 松岡早苗
短日や地を打って竹籠を編む 村上紀子
盂蘭盆會戰に死にし碑は高し 吉田貢(吉は土に口)
水仙のピエロにみへてひきかへす 路志田美子
冬の雨言葉を探す医師の手美し わだようこ
大寒の虹骨壺に納めけり 渡邉照香
枯芒まだ返り血は乾かない 渡辺のり子

雪 大沢輝一

『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

雪 大沢輝一

切切と雪に雪降り潟泊り
霏霏と雪鴉よ白くなりなさい
雪のメモ解読しない潟の人

冬の潟ごっつんこする硬い風
寒い潟僕のそびらを僕が押す
潟の鳥毀れて雪になったきり
冬の潟老婆ぽつんと吹き曝し
冬眠の爺婆すでに虫だった
おっ母よ潟の夜も雪が匍う
潟風の聲雪雪と聞え来る

沸騰 大沢輝一

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

沸騰 大沢輝一

冬の鳥作業衣のごと雨の中
冬鳥に生まれてそして潟は潟
冬の鳶なんども空にぶつかって

鴉からす雪風咥え啼けぬなり
雪の日の鷺閉じきって石器です
蘇るためまた潜るかいつぶり
水鳥の快感水を嚙み砕く
もうもうと白鳥生理急ぐなり
眠る白鳥柔らかな卵です
白鳥群啼くというより沸騰す

ピロピロ笛 鳥山由貴子

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

第3回海原賞受賞 特別作品20句

ピロピロ笛 鳥山由貴子

永遠の花野に軋む観覧車
左手が生む詩つぎのページに冬青の実
落し穴少し欠けてる冬の月
やさしさと赤いセーターちくちくす
雪降り積むかすかに蜂鳥の羽音
鳰を待つ夕暮色の椅子ひとつ
ハレの日ケの日鼠黐の実食べ尽くす
龍の玉まだあたらしき死者の声
水時計水の一滴ずつ凍る
冬銀河ガラスの階段踏み外す
一月のサイコロキャラメル展開図
誕生石は美しき血の色雪兎
手のひらに文鳥文庫二月果つ
フラスコの中で生まれてゆく海市
妄想の旅どの街も黄砂降る
わがままな私ときどきヒヤシンス
春泥を愛しどこまでも少女
街はきさらぎスパンコールを散らかして
春の蠅ガラクタの中にあるひかり
野遊びのようピロピロ笛を吹鳴らす

『海原』No.36(2022/3/1発行)

No.36 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
銀杏大樹兄サが降りてきそうな日 大沢輝一
冬の雷不穏不穏と救急車 大西政司
ちひろ好きの亡妻つまの小机柿落葉 岡崎万寿
キスをする男と男鬼胡桃 小野裕三
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
枯すすき名もなき咎を負うがごと 黒済泰子
おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
返り花「何とかなる」をエールとす 篠田悦子
山眠るもののけ微かな息そろう 十河宣洋
白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
愛みたいな初雪の日の深呼吸 たけなか華那
考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
ハミングハミング空に白い曼珠沙華 遠山郁好
蟻君ありんこ忌夫婦漫才またトチる 遠山恵子(藤本義一の忌)
フクシマに冬蝿といるふたりごころ 中村晋
夕花野みんな忘れてしまふのか 野﨑憲子
木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの愁思かな 村本なずな
霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
夭逝といふ綾取のまだ途中 柳生正名

藤野武●抄出

結び目にぴたりはまった今日の月 阿木よう子
初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
鍵盤に慣れる指から冬に入る 奥山和子
けはひ皆落とし物かな秋日向 川田由美子
星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
立冬の杉鋭角を貫きぬ 佐藤君子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
やわらかきひき算の果て秋ほたる 芹沢愛子
時という分別箱へ木の葉かな 高木水志
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
感情のだんだん欠けて泡立草 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
生牡蠣のかおりや末期癌のはなし マブソン青眼
仲直りのように仕上がる障子貼り 三浦静佳
セーターゆるく昼月がくすぐったい 三世川浩司
敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
よそ見しているみたいなベンチに木の実降る 村上友子
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの秋思かな 村本なずな
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
白鳥がくるそらいろの方眼紙 望月士郎
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
 冬山は、草木も枯れ寂とした景観。この句の「お父さん」は、定年も過ぎ、なにやらしこしこと趣味の庭仕事や俳句などにいそしんでいる人。口数は少ないが自分の世界を持っていて、結構亭主関白を張っているタイプ。現役時代の颯爽さはないが、なんとなく隠然たる権威を感じさせる。その父の風采を、「冬山のようななり」とみた。作者はそんな父に親しみとたのもしさを込めて見つめている。「お父さん」の呼びかけに心情を込めて。

綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
 綿虫は秋から冬にかけて出現し、時に燐光を発しながら大量に降るように舞う。「静かに降るよ」で切れているので、「名を呼ばれ」たのは作者。呼んだのは綿虫舞う空間の奥からの声なき声ではないか。だが文脈通りに読めば、綿虫が名を呼ばれたように出現して静かに降っているとも読める。その主体の転換は、中七の切れによるものではあるまいか。

おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
 「おびただしきにんげんの穴」とは、どんな穴をいうのだろう。人間がすっぽり入る墓穴のような大きさの穴なのか、人間があちこちに掘り尽くした大小さまざまの穴なのか。前者なら死者を意味し、後者なら人間の手による戦争や乱開発の穴となる。上中の平仮名表記で、その双方を含む世紀末的世界が滲むとみた。となると「末枯るゝ」がにわかに重い意味を持つ。それは平仮名表記がかえって具象を超えた心象に接近したからであろう。

十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
 十二月に入って、テレビでにわかに開戦時の歴史を回顧する特集番組が組まれた。対米戦争に成算のなきまま突入せざるを得なかったのは、当時の国民感情や陸軍中堅層の意向に抗えず、徒らに引き返すべき時を失った政治の責任であることを痛感させられる。それは今日にも通ずる教訓だ。「火の芯となる折鶴」に、その象徴的映像をみた。火達磨となった平和の象徴としての折鶴だろうか。歴史の転換点に燃えるもの。

石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
 「石積み」は、古城や長堤の石積みで、その力学的構成はまさに見事なオブジェとも見られる。そのオブジェの上を鷹が渡って行く。「美しき」はその景観への賛歌に違いないが、やや決まり文句と見られなくはない。だが「力学美しき」としたことで、型通りの形容句を脱した。月並みの景に生命力の重い矢を射込んだとはいえまいか。

考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
 考は亡父、妣は亡母。亡き両親を偲びつつ、池面を低く飛ぶ二匹のおはぐろ蜻蛉を目で追っている。やがて蜻蛉は空高く舞い上がって見失われるのだが、作者は亡き父母の行方のように、その飛び去った軌跡を追い求めている。ある日、ふと訪れた亡き父母への慕情。

木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
 木犀は仲秋の頃、細かい十字の花からやや甘い感じの芳香を放つ。久しく会わない人、それは想い人に限らず、懐かしき師や友、あるいは亡き人であってもいい。そんな会いたい人に、木犀の香りの気流に乗れば会えますかと呼びかける。そのおずおずとした語感に、抑制された情感、思いの丈が籠っている。

すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
 すすき原を抜けたら、人間の顔になったという。ならば、すすき原では何の顔だったのだろう。そこはすすき原にふさわしい生きものの顔。例えば狐とか山犬、あるいは鹿だったかもしれない。そして全力で疾走、やっと抜けて息弾ませながら、人間の顔に戻ったという。人心地ついたところだろう。その表情が、すすき原での心細さや怖ろしさを物語る。

人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
 老人施設に母を預けている。程度の差こそあれ認知症を抱えているが故の措置で、高齢化社会の直面している現実に他ならない。その母の姿を、「人質のよう」でもあり、「コスモスのよう」でもあると見ている。やがては自分自身にも及ぶことと知りながら、その現実をあわれとも、さびしいとも受け止めているのだろう。「コスモス」の揺れが、心のざわめきのかなしさを伝えている。

霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
 この句も一つの境涯感と見られよう。「運命線」は手相の中の運勢を表す線。それを「霧の駅から」としたのは、茫漠とした生涯の先行きを、もはや運勢にまかせるほかはないと見たのだ。一種の諦念であって、意志的な選択ではあるまい。今やこういう句が多くなってきたのは、大きくいえば、日本社会の先行きに不透明感が覆いつつあるからともいえる。その現実にどう対処すればよいのか、おそらく誰にも正解はあるまいが、一人ひとりの生き方の中で問われている課題ではあろう。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
 軽やかな表現の中に、突き上げるような思いが伝わってくる句。予想どおりに淡々と過ぎてゆく今という情況に、作者はどこか認めがたい(あるいは妥協しがたい)ものを感じているのだろう。そんな現状を打ち破り、乗り越えてゆくために、(「初霜」という季節の節目で)何か納得がいかない音、胸に落ちない(尋常でない)音がして欲しい(聴きたい)、と(すら)思うのだ。それは喪失感と表裏?「聴きたい」という口語表現が切実。

実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
 「通学路」というのは、おそらく小学生の通学路。もちろん作者が幼いときに通った路。その傍には柘榴の木があって、たわわに実をつけている。「酸つぱいまま」が上手いと思う。幼いということは、未熟ではあるが純で、愛おしいもの。そして通学路での出来事一つ一つが、(もはや二度と手にできない)何ものにも代えがたいものに思えるのだ。作者はそれを「酸つぱい」と感受する。今でも胸の中の通学路は「酸つぱいまま」にある。「実柘榴」が美しい。

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 絵本や童話のひとこまを見るような楽しさ。とにかく「シュルン」という擬態語が素敵。星が「シュルン」と流れ(あるいは輝き)、それが何かの合図でもあったかのように「モミの木」が、どさりと入荷した。あふれる樅の香り。華やぐ店先。もうすぐクリスマス。

糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
 ごくごくありふれた日常を、詩に昇華した。「糸屑」が服についているよ、とか「パン屑」が床に落ちましたよ、とかいった、日常のきわめて些細なことどもが、秋の透明な「木洩日」のもとに置かれて、とても大切な、珠玉のように感じられるのだ。ゆったりとした時間の中で、豊かに暮らす人間の姿が見えてくる。やわらかな感性。

だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
 「枯野」を表現するに、「だぶつくものなんにもなく」とは、とても個性的。この措辞によって、無駄なものがすっきり削ぎ落とされた枯野が、鮮明に浮かんでくる。そんなシンプルなあり様は、作者にとって一つのあるべき姿なのかもしれない。そう考えるとこの句、作者の自画像にも見えてくるのだが。

神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
 やおよろずの神がいるという日本には、様々な神がいて、なかにはかなり人間くさい、決して立派とは言えないような方もいるのだ。陰暦十月、出雲に集うために旅をするという「神の旅」でも、そのついでに「実家に寄りたい」と思う神がいてもおかしくない。このぎすぎすした世の中で(とりわけ身動き取れないコロナ禍で)こんな(ゆったりした)心の余裕に、私達は、ほっと和み、なぜか喝采したくなるのだ。上質なウイット。「実家に寄りたい」に、妙なリアリティーがある。

冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
 日が暮れるまで夢中になって遊んで、服に牛膝をいっぱいつけた少年(一人ぐらいは少女が混ざっている)一群の姿が目に浮かぶ。作者の少年時代の一光景にちがいない。「日暮れ」によって「冒険」の質が明瞭になる。でも子供たちは今、コンピューターゲームなどに夢中になっていて、この句の世界とはやや趣を異にする、というのが一般的な見方かもしれない。しかし注意深く辺りを見回してみれば、自転車でわざわざ遠くの公園まで出かけて行って遊んでいる一団や、キックスクーターの二人組が歩道を漕いでいる姿を見かけることもあるのだ。人間の本質はそう変わっていないのかもしれない。子供は(ときに大人も)自分の限界を超えたい、限界を広げたいという欲求に駆られる時がある。きっと「冒険」とはホモサピエンスの本質なのだ。そして今でも「冒険」は色あせない。この句の世界は単なるノスタルジーにあらず。私がこの句に魅かれる所以。

敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
 「その名」とは、「敗戦忌」という名称そのものであり、同時に戦争で亡くなられたり傷つかれたりした方々の、具体的な名前でもあるのだろう。まことに頼りなげな「笹舟」は、戦争に翻弄されたそうした人々を象徴し、また、誰も脅かさず傷つけぬ、のどかなる平和の喩でもあると受けとれる。

ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
 「死なめやも」について、「め」は意志を表し、「やも」は反語と私は解釈した(文法が不得手なので自信はない)。(キリシタンの弾圧や原爆など)様々な苦難を乗り越えてきた「ながさき」の空に今、悲しみを癒すように「鰯雲」が美しい。ああもう死んでもいいと、ふと思う。『死のうか…』『いやいやまだ死なぬ。生きよう』と自問する。平仮名表記の「ながさき」が立体感を生む。こういう句を見ると、つくづく俳句という詩形の底力を感じる。

◆金子兜太 私の一句

とび翔つは俺の背広か潟ひとひら 兜太

 金子先生は昭和39年6月、秋田県男鹿半島の旅をした。二日目「寒風山かんぷうざん」の頂上近くの緑地を歩いた。日本海と日本第二の八郎潟の干拓を眺望。先生は完成間近い広大な干拓地を見て背広を脱ぎ、青い空に放り飛ばした。前掲の句を声高く唱え、まさに一瞬のドラマであった。先生は四十代半ば。俳句一生の大志を抱いた作品と思う。傍らには皆子夫人と武田伸一、武藤鉦二らが居た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。舘岡誠二

堀之内長一たんぽぽまみれかな 兜太

 「海程全国大会in熊谷」の開催が決まり、下見のため先生と関係者四人で荻野吟子記念館へ。車を止めてから堀之内さん篠田さんが威勢よく土手を登って行きました。菜の花やたんぽぽが一面に咲き乱れていました。先生は足腰が弱って休憩所で待つことに。二人が降りて来ず、先生はそのうち怒ってしまい、「あの二人の仲はできている」とカンカンでした。降りてきたら先生は何もなかったようにケロッとしていました。程なくして〈老いらくの恋などといま昼寝かな〉を発表。先生は天才です。天晴でした。句集『百年』(二〇一九年)より。長谷川順子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選

大切なものに距離置く水引草 石川和子
黒牛の全重量に虻まわる 稲葉千尋
肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
寝落つとき沼の匂ひす二日月 木下ようこ
日常という渚くるぶしに白露 小池弘子
シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
蟬時雨震える身体溶かしてよ 高木水志
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
夜の迷路ヒマワリと人間ひと入れ替わる 鳥山由貴子
穴惑いフクシマを問い嫌われる 中村晋
ごめんねの一語野に萩満ちており 藤原美恵子
ふたりしずか触れることばの衣かな 北條貢司
八月の水を飲むとき石拾うとき 本田ひとみ
梨喰らう充電している前頭葉 松井麻容子
刈り入れや黄泉の家族が二三人 松本勇二
白木槿散り敷く未完の私小説 村上友子
蜉蝣にされて誰かの記憶の川 望月士郎
コロナ禍や机上は我の浮巣のよう 森鈴
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

中内亮玄 選

書きとめる仏の言葉秋薔薇 伊藤歩
缶ビールせめてコップや皿並べて 植田郁一
元気な人ランニングシャツ着て朝死なむ 宇田蓋男
刻刻としずかにくるう虫の声 大髙宏允
月光を濯ぎ静かなる窪地 北上正枝
初月夜童貞すてた村に棲む 白井重之
宅配の箱の行き交ふ星月夜 菅原春み
日傘のまま返す御辞儀や影もまた 田中裕子
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
とんぼうの次々そこに座りなさい ナカムラ薫
オンライン授業そびらに林檎むく 根本菜穂子
秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
浜のシャワー女人達ヴェヒネゆるりと泡分け合う マブソン青眼
塩素臭いよカゲロウは昼へただよう 三世川浩司
韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
トルソーの一体月の踊り場に 望月士郎
炊立ての淋しらに白曼珠沙華 柳生正名
老母歩めば秋の川音ついてくる 輿儀つとむ
烏賊を干す島に青空みな集め 若林卓宣

望月士郎 選

祖母の家へ祖父夜這ひせし涼夜かな 石川まゆみ
麩のようなひと日風船蔓かな 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
夕立のはじまりを聞くもう一人 小松敦
ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
回転落下たちまちに蘭鋳となり 中井千鶴
ムヒカさんと同じクボタで春耕す 新野祐子
こころなどみえないけれど心太 丹生千賀
人体を拡げるように白シーツ 藤田敦子
ぽっくりを失くした記憶敗戦忌 松田英子
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
キリストのふっと微笑む飛込台 松本勇二
鳥だった頃の名残に胡瓜曲がる 三浦二三子
ずいぶん芒ずいぶん物理がきらい 三世川浩司
夫婦という一足す一足す柚子ひとつ 宮崎斗士
蛍袋に遠吠えの二、三匹 三好つや子
子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
空耳は耳鳴よりも星流る 柳生正名
で。百年後わたしはまた白壁の前に立つ 横山隆

森武晴美 選

新盆の骨箱にのるハンチング 石川青狼
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
驟雨美し父母亡き家の息遣い 河原珠美
祭果て一人ひとりの橋渡る 黒岡洋子
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
鬼百合の花のいつまで火を追はむ 仁田脇一石
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ポケットにねじ込む秋思ハローワーク 三好つや子
杖置いて母よ花野へ出掛けましょう 村松喜代
プールより人いっせいに消え四角 望月士郎
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
がちやがちやと暫く僕でなくて俺 柳生正名
彷徨の母空を舞う赤とんぼ 輿儀つとむ
どこまでも母手を振りぬかなかなかな 横地かをる

◆三句鑑賞

肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
 二つの事柄のみを提示した句の形が、簡潔で力強いです。人にはそれぞれ固有の体質があり、誰しもそれに制限されて生きていると思っているので、「肉体の檻」という措辞に共感しました。近くの森から聞こえてくる青鳩の低くけだるい獣めいた声が、不自由な身のやるせなさを一層際立たせていると思います。

日常という渚くるぶしに白露 小池弘
 軽装で庭に出たら、素足に草の露がかかったのでしょうか。その時詩想が浮かんだのかもしれません。「渚」とは、波が打ち寄せてくる所、五感に波のような刺激を受けて、それを言語化する日常。句作に励む充実した毎日が思われます。畳み掛けるような破調のリズムのループが、句の内容によく合っています。

シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
 風にひるがえる白いシーツとその爽やかな香り、バイオリンのしなやかな調べ。視覚、嗅覚、聴覚を刺激する気持ちの良い句でした。シーツは撓み、バイオリンの音色も、「バイオリン」という言葉も撓んで響き合います。北海道の長い冬の訪れを前にした、貴重で穏やかな秋のひとときを味わう心地です。
(鑑賞・伊藤歩)

マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
 世の中の風景は、こんなに劇的に変わるものかと驚いている。マスクをしていない者とすれ違う時の、人々の群れのあの非難がましい目つき。そこには理性的な、あるいは知性的な判断というものはなく、ただ感情的嫌悪が何よりも優先されるようだ。人間の有り様に寒々とする今日、マスクを顔の「国境」とは見事な風刺。

秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
 全国大会の折、振り返ると武藤鉦二さんがいた。何度もお会いしているが、忘れていたら申し訳ない。「お久しぶりです、福井の中内亮玄です」と、改めて挨拶すると「何よ?知ってるよお、有名人だもん」と、いたずらっぽく笑った、あの笑顔。原生林広がる白神山地を、悠々と飛び越えてゆく武藤鉦二が見える。

韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
 映像鮮やか、状況鮮やか、叙情鮮やか、全て鮮明。掲句に登場する人物の台詞まで聞こえてきそうだ。斗士俳句を追う者は常に二番煎じ、全て画竜点睛を欠く作品となろう。「海程流」とか「海原流」というのではない、工場長くらいの軽い表現では、彼の力を十分に表現できない。ゆえに、海原「関東四天王」の一角と呼ぶ。
(鑑賞・中内亮玄)

ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
 ポリキポリキという奇妙な音がします。外は騒がしい蝉しぐれですから、これは身体の中から聞こえてくるのでしょう、歩くと鳴る老人音です。ポキという骨の折れちからるような音と、それに対抗するようにリキ=力を思わせる音がしのぎを削りつつ一つになっています。自虐と諦観と力強い呑気が感じられます。

炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
 系統樹の一番上にぶらさがるヒトという奇妙な果実。ちかごろこのヒトは「地球にやさしい」というキャッチコピーの下に延命活動を始めました。地球にやさしくするというヒトの立ち位置の尊大さに気付くこともなく。「地球に嫌われないように」でしょう。どうやら地球内生命であることを忘れているようです。

子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
 シャボン玉とおならという、口から出るものと尻から出るものの球体空気つながりを導線に、子の未来に想いを馳せます。漢字、ひらがな、カタカナの表記の仕方が通常とずれていて、特に「みらい」によって希望的歴史軸から逸脱したアンニュイが漂います。この薄さ、儚さ、柔らかさはどうしたものでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
 そうそうと手を叩いた句。爪先を前にきれいに並んだ形は、出航を待つ船にそっくり。子供靴やブーツもあって何とも賑やか。玄関はまるで風待ち港。梅雨晴れの外出を、今か今かと待っている。風待ち港であった牛深の、ハイヤ節が聞こえてきそうな、明るさが感じられる。

夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
 話し上手は聞き上手とか。会話を持続するには、話し手よりも聞き手が大事。「そうそう」と頷いてくれたら、うれしくなって次へと繋がります。命の電話の相談員の方は、ずっと聞き続けられるのだそうです。否定せず、励まさず、頷きひたすら聞く。命の接続詞でもある頷き。夏の月がやさしい。

フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
 東日本大震災から十年、熊本地震から五年。その復興には温度差があり、更地で残っている所がまだまだあります。白く広がるこの地にも、笑顔の語らいがあったはずです。元の楽しい生活が、一日も早く戻ることを、願ってやみません。繁殖力の強い韮の白い花を思いながら、熊本の地から「負けんばい」のエールを送ります。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

うっせーわ母を教育芋煮会 荒巻熱子
少しずつ朽ちれば怯えず霜の夜 有栖川蘭子
小三治の並べし枕都鳥 有馬育代
前期高齢枝豆をてんこ盛 石口光子
まだわたし綿虫のように生きている 井手ひとみ
甲殻に神去月の吾子隠す 植朋子
綿虫や信じきれないのが病 大池桜子
十人兄弟の九番目小鳥来る 大渕久幸
老人に巻耳なもみがいつぱい付いていた 押勇次
荒縄に縛られて咲く冬の薔薇 かさいともこ
ワカメ干す真ん中辺りで寝てみるか 葛城広光
神無月誘われたので行くソワレ 川森基次
竹の春ロボットと歌うイマジン 日下若名
バンクシーの枯れたひまわり地球の日 重松俊一
風呂吹の面取りは母ゆずりかな 五月女文子
秋深しダリの時計の二十五時 宙のふう
老画家に柚子を貰いて別れたり 田口浩
名山の眠り給ふや麓の葬 立川真理
泣く時は白鳥のよう後向く 立川瑠璃
枝豆の一さや三粒褒めらるる 土谷敏雄
銀漢やマクラの小三治さっと立つ 野口佐稔
奥羽なり降りて軸足陰を持つ 福井明子
身に余る恋木犀が匂いはじめる 福岡日向子
食卓にジェンガ崩れて林檎在り 福田博之
熟柿吸うコロナ死の記事斜めに見て 保子進
夜干しのシャツに朝日文化の日だよー 松﨑あきら
秋の日の原発見ゆる乗馬かな 山本まさゆき
深山舞茸一子相伝のごと孫へ 吉田もろび
銃のくに菊は刀をあきらめし 路志田美子
葱きざむほどのなみだでひと想う 渡辺のり子

『海原』No.35(2022/1/1発行)

◆No.35 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
榠樝の実だけを並べて無聊です 伊藤雅彦
鶏頭の紅蓮私にも黙秘権 榎本愛子
十月の水動かずにひとの影 大池美木
鶴来るカタカナで鳴く父連れて 奥野ちあき
木霊かなフォークソングにかなかな 奥山富江
手話の指秋の光を掬いあげ 狩野康子
秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
リモートが大胆にする熱帯魚 黒岡洋子
羊雲図画工作室へなだれるよ こしのゆみこ
乾燥機百円分の秋思かな 小松敦
晩夏光嬰抱くように拾う骨 清水茉紀
夜の秋アクリル越しのきつねそば 菅原春み
わが徘徊刈田コンビニ土の道 鱸久子
夏暁の桟橋にして旅の全景 すずき穂波
峰湿る産土に蔦紅葉して 関田誓炎
資本論復活大豆ミートの噛み応へ ダークシー美紀
若狭の旅秋思というは顔見知り 竹田昭江
投げ遣りで気鬱で身軽侘助は 立川弘子
月の出や野武士のごとくピアニスト 田中亜美
まほろばや驟雨が木々を歌うとき 遠山郁好
被曝の葛被曝の柿の木を縛る 中村晋
秋興や傘寿の右腕が太い 梨本洋子
水澄むやうらもおもてもなくひとり 丹生千賀
ババ抜きのババに座のあり芒原 丹羽美智子
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
ぶらさがる凍蝶として思考中 前田典子
出不精でも引き籠りでもなし鶏頭咲く 深山未遊
落葉とマスク掃き寄せていて祈る 村上友子
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵
曼珠沙華ハィハィハィと手を挙げて 森鈴

藤野武●抄出
実石榴の赤透きとおる吾が老いも 石田せ江子
鹿鳴けりまるで一筋の香り 大池美木
消雪の水吹く街に赴任する 荻谷修
のど自慢すぐに退場野分晴れ 小野裕三
文書くは桜紅葉の甘さかな 河原珠美
曲がるたび人いなくなる秋の風 北上正枝
辞書の上空蟬ふたつ組み合はせ 木下ようこ
秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
川えびのの透きとほる秋の昼 久保智恵
蕎麦の花夕冷えは村の端へと 小池弘子
悲しいほど実のなるリンゴ 笹岡素子
十六豇豆じゅうろくや何でも良くて倚りかかる 篠田悦子
独り身っぽい男が夫しゃくとり虫 芹沢愛子
まじめに泣く赤ん坊です天高し 竹田昭江
すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
失せし物また北風に辿りつく 立川弘子
月の出や野武士のごとくピアニスト 田中亜美
知ってて待つ線香花火の展開 田中裕子
角笛を抱かせてもらう霧の夜 月野ぽぽな
硫酸紙の感触九月の少年に 鳥山由貴子
鳩吹いて餡パンふいに欲しくなる 並木邑人
焚火臭一すじわれに添寝かな 野田信章
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
ライオンの奇麗な舌に雪ばんば 前田恵
秋深し乳酸菌が騒がしい 松井麻容子
浅間からポリネシアまで鰯雲 マブソン青眼
唐辛子鎖骨のきゅっと固まって 室田洋子
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵
砂糖菓子崩れるような疲労感 輿儀つとむ
純粋になりシラタマホシクサに並ぶ 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鶏頭の紅蓮私にも黙秘権榎本愛子

 鶏頭の花は、たしかに紅蓮の炎のような鶏冠をなしてほむら直立する。しかも一叢の群落をなして、まさに炎だつ立ち姿だ。それを作者は己の内面に兆した抗議の意思のかたちと捉えた。それはあたかも「黙秘権」の行使のようにも見える。それは、東京オリンピックの表彰台で一言も発せず、母国の軍事政権への抗議の意思を三本の指を上げて表したミャンマーの選手像にも連脈している。

秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
 この原稿を書いている時に、作者の訃報を知った。作者の句は偶然十月号十二月号にも秀句に取り上げていたから、大いに注目していた。まだ二十代の若さで、新人賞もとって注目されていたのに、あたら春秋に富む未来を自ら擲ったのは何故か、惜しまれてならない。掲句の「剥製の爪」には、思いなしか冷たい死の翳を見るような気もする。「秋思」は、季語以上の重いものが込められていたのだろう。これが本誌への絶吟となった。

リモートが大胆にする熱帯魚 黒岡洋子
 コロナ禍によってリモートワークが定着し、自宅で仕事をするケースが増えている。そうなると金魚鉢のある家では、普段は出勤のためあまり見られることもない金魚鉢でも、しばしば視線があつまることが多くなりそうだ。金魚の方も、なにやら大胆なポーズで泳ぎまくっているような気がしてくるという。ささやかな日常の変化に着目した時事俳句といっていい。

羊雲図画工作室へなだれるよ こしのゆみこ
 いつもはぽっかりと浮かんでいる羊雲が、珍しく群れをなして秋空を動き始めた。それが小学校の図画工作室へなだれこむようと見たのだ。ちょうど生徒たちは図画工作の製作に夢中になっている最中。羊雲は頑張れと声援を送るかのように集まってきている。兜太師はこしの句を、書き方がゆっくりしていてリズム運びがいいといっていたが、まさにこの句もそう感じさせるものがある。

夜の秋アクリル越しのきつねそば 菅原春み
 「夜の秋」はいうまでもなく、夜になると秋の気配が漂う頃のこと。コロナ禍対策として、近頃飲食店では座席をアクリル板で仕切っている。そうなると、久しぶりに食事をしながらおしゃべりでも、というわけにもいかず、一人黙々とアクリル囲いの中できつねそばをすする破目になる。コロナ禍の夜の秋とは、こういうものかという思いも噛み締めながら。

峰湿る産土に蔦紅葉して 関田誓炎
 この句の「峰」とは、作者の故郷秩父の脊梁山脈であろう。それは作者にとって産土の地でもある。「湿る」とは、一雨来た後、急に秋が深まり蔦も紅葉する景をいうのだろう。蔦紅葉は文字通り真紅の見事さで、落葉性の夏蔦とされている。作者はそんな産土の峰々を遠望しながら、望郷の思いを募らせているのではないか。「峰湿る」は、作者の望郷の思いの湿り気も滲んでいよう。

資本論復活大豆ミートの噛み応へ ダークシー美紀
 「資本論復活」とは、少壮の経済学者斉藤幸平による『人新世の「資本論」』がベストセラーになったあたりから火が点いたといってもよいだろう。それは「豊潤な脱経済成長」の道を示すものとして世に迎えられた。その風潮自体を「大豆ミートの噛み応へ」と、象徴的に風刺している。この時事感覚を、大陸的な「大豆ミート」という具体的なモノで捉えた素晴らしさだ。

投げ遣りで気鬱で身軽侘助は 立川弘子
 侘助は、閑寂を楽しむ「侘」と、芸事を意味する「数奇」とが合体した言葉ともいわれている。中国原産の唐椿の一種で、茶人たちが好んで茶席の花として活けたという。そんな本意をもつ侘助が「投げ遣りで気鬱」とは、どこか加齢に伴う後悔や自己嫌悪の投影ではないだろうか。それは老年という本来の意味での生成のために、潜り抜けねばならぬ過程でもある。そして「身軽」という成熟に達して素朴に帰る。侘助の花樹にその姿を見ているのだろう。

ババ抜きのババに座のあり芒原 丹羽美智子
 作者はすでに百歳に達しておられる方だが、今なお矍鑠として俳句を作っておられることに驚く。孫たちのトランプのババ抜きの座に招かれて、一緒に楽しんでいる。さて「芒原」の喩だが、荒涼としたものではなく、むしろ高原に広がる広闊たる芒原、子供たちが歓声をあげて突っ込んでいくような原っぱではないか。そんな仲間に入れる嬉しさのようなものに違いない。

 今回も取り上げるべくして、すでに幾度か取り上げた作者ゆえに、申訳ないが遠慮して頂いた作品はある。

十月の水動かずにひとの影 大池美木
夏暁の桟橋にして旅の全景 すずき穂波
まほろばや驟雨が木々を歌うとき 遠山郁好
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵

等がその例である。記してお詫びしておきたい。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

硫酸紙の感触九月の少年に 鳥山由貴子
 この句の魅力は「硫酸紙の感触」という喩にある。「硫酸紙」というのは「硫酸で処理して作った半透明の紙。耐水・耐油性があるのでバターなどの食品や薬品の包装用に使われる。」(明鏡国語辞典)もの。なるほど少年を喩えるに硫酸紙はぴったり。さらに「感触」とまで念を押して「九月の少年」の輪郭を明瞭にした。
 俳句にとって喩は極めて重要だと思う(そもそも俳句自体が一つの喩と言いたいほど)。そして私がすぐれた喩だと感じるものは、感覚的であり、加えて個性的なものだ。一方でそれが客観性をもっていることも勿論重要。掲句の、「硫酸紙の感触」という喩は、まさに優れて感覚的でとりわけ個性的である。

鹿鳴けりまるで一筋の香り 大池美木
 この句もまた「一筋の香り」という喩の魅力。遠く聞こえくる鹿の声は、冬へと向かう私たちの心に染みとおるもの。もちろん「鹿の声」は、牡鹿の繁殖の鳴き声。命のいとなみの声である。そう考えると「一筋の香り」という喩には、単なる美しさを超えた、あえかな生きものへの愛おしさまで感じられてくるのだ。

文書くは桜紅葉の甘さかな 河原珠美
 「桜紅葉の甘さ」も、心情をどんぴしゃりと表出した喩。「文書く」という営為は、おそらく日常からほんの少し非日常に足を踏み入れたところにある。そしてその「文書く」非日常はまた、ほんの少し華やいだ気分をもたらすものでもあるのだろう。そんな微妙な心情を繊細に掬いとった。「桜紅葉の甘さ」の品の良さ。

悲しいほど実のなるリンゴ 笹岡素子
 字足らずの句である。しかし字足らずの寡黙な表現が、この句の場合、くどくど饒舌に喋られるよりは、ぐさりと胸に刺さる。「リンゴ」が的確で動かない。華やかな真っ赤なリンゴが、(溢れる生命力で)たわわに実れば実るほど逆に、人間の置かれている孤独感が際立ち、心の底を吹き抜ける悲しさはいや増すのだ。「俳句は省略の文学」というけれど、それはあながち間違いではない。

蕎麦の花夕冷えは村の端へと 小池弘子
 繊細な感性。深まる秋の山里の、言いようのない静かさ、さびしさが、透明感をもって描かれている。白い蕎麦の花の視覚的感受。「夕冷え」という心象に傾いた皮膚感覚。純な手触りの染み透るイメージ。

十六豇豆じゅうろくや何でも良くて倚りかかる 篠田悦子
 この句の背景にあるのは「老い」だろうと、私は受け取った。『十六豇豆が支柱に倚りかかっている姿のように、「私」もまた、もはや倚りかかれるものなら何でも良くて、選り好みせずに倚りかかっております』。
 「老い」というものを表現するに(これは自戒を込めて言うのだが)とかくネガティブに書いてしまう。しかしこの句の場合は、老いや衰えをある意味肯定し面白がっているようにさえ見える。「倚りかかる」と言いながら、どうしてどうして逞しく、したたかである。
十六豇豆じゅうろく」が効果的。

すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
 人は、全てを明らけくする光輝く場所に、常にとどまって居られるものではないのかもしれない。明るさという、明快さや高揚から離れて、ときに少しの曖昧さ静かさ、ある種の後退を良しとしよう、と思うようだ。そしてそんな自分の気持ちに正直に、身の内のあかりをすこし落としてみる。心の内奥を見つめる目は鋭い。

知ってて待つ線香花火の展開 田中裕子
 線香花火の火花は、松葉になり柳になりやがてちりちり火の玉となって、ほとりと落ちる。その「展開」は皆知っている。知ってはいるがその展開を息をつめて待つ。じっと待つことこそが、線香花火の愉しみとさえ言えるのかもしれない。そんな様子をアイロニーを含んだもの言いで書いた。と同時に、この乾いた表現が、線香花火の移ろう様子に、私たち生きもののあり様を二重写しする。結末が分かっている生きものの展開だが、その一瞬一瞬にこそ意味があるのではないか、と。

葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
 中句「だったような」という言い回しが面白い。「だった」と断定的に言っておいて、「ような」と少々曖昧にオブラートにくるむ。その脱力感。さらに加えて、ずるずるっと続く韻律。それらによって現れた、いかにも現代の空気感の、けだるい雨の秋の一日、その気分。

ライオンの奇麗な舌に雪ばんば 前田恵
 生態系の頂点に立つ圧倒的な力のライオンと、誠に頼りなげな綿虫という、対照的な二つの生きものの出会いの一瞬が、とても美しい。「奇麗な」「舌」と言って、命を食らわなければ生きられないライオンの宿命を、優しく肯定する。一方小さな綿虫もまた、確かな命を輝かす。

◆金子兜太 私の一句

廃墟という空き地に出ればみな和らぐ 兜太

 「寒雷」「海程」と投句。その時、兜太先生より、太字にて「健吟をいのる」との励ましの文あり、感激。現在まで続けられた由縁かな。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。佐藤稚鬼

ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ 兜太

 掲句は、平成15年に開催された九州地区現代俳句大会に隣席された折りの金子先生の作品。昭和30年代中頃からの宮崎・日南が新婚旅行のメッカとしてブームを巻き起こし、若き日の上皇ご夫妻も新婚旅行でお泊まりになられたホテルも解体されてしまったが、そこに隣接する亜熱帯植物園にこの句碑が建っている。この青島の地に立つと、沖で鯨が吹く潮が自分にまで及ぶという。兜太先生らしいなんとも豪快な作品に、身も心も震える思いがしてならないのだ。句集『日常』(平成21年)より。疋田恵美子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
ファソラシは螢の軌跡恋だなぁ 狩野康子
蝋燭灯し亡友と詩で遊ぶ晩夏 川嶋安起夫
夏ツバメ父の机上は端正で 河原珠美
○前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
夏館静かな文字のような人 小松敦
見上げること信じ直すこと帰燕 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
交響曲六番蟷螂のごとコンダクター 佐藤稚鬼
寝て起きて食べて寝て生く樫落葉 篠田悦子
○父の日の正しき位置に父の椅子 白石司子
積乱雲に愛伐り出している静か 竹本仰
○ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
一粒の言の葉浅黄斑ひらり 樽谷寬子
蟇出でてスコップの先いててって 中井千鶴
端居から静かに外れ逝きにけり 中村晋
月若く月見るときは若くなる 長谷川阿以
皿に盛るパセリの森よ巣ごもりよ 長谷川順子
梅雨空は桃紅さんのエピローグ 三浦二三子
○母眠る眉間に繭をひとつ置き 望月士郎

竹本仰 選
○ふるさとは蚊帳に落ちたる青大将 上野昭子
空蟬を集めた指の匂い嗅ぐ 榎本祐子
不如帰あいたさ募る今朝の空 柏原喜久恵
○嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
母のうしろ追うて蛍火の斑ら 小西瞬夏
夏至の日の白き鯨を追いかける 三枝みずほ
原爆忌わたしの手鏡わたしがいない 清水茉紀
○父の日の正しき位置に父の椅子 白石司子
衰夏なり無観客てふおもてなし 白石修章
対岸は対岸を見て螢の夜 田中亜美
湧き起こる妬心もあろう雲の峰 中内亮玄
みんなでそよぐ平行感覚青もみじ 中野佑海
蟻の列死骸を担ぐ二匹かな 仲村トヨ子
夏草にポイ捨てマスクいかがわし 疋田恵美子
はんなりと諭されている水羊羹 三好つや子
村を出る虹の根っこを踏み外し 故・武藤鉦二
○母眠る眉間に繭をひとつ置き 望月士郎
つんつんと胸高くして更衣 森由美子
戰爭は負けたッちゅうばな大カボチャ 横山隆
ちちろむしあたしのためにだけ生きろ らふ亜沙弥

ナカムラ薫 選
片陰や潮引くような物忘れ 伊藤歩
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
きれいな言葉の浮輪溺れている 桂凜火
父呼べば枇杷色の明りが灯る 河原珠美
悩みにはまず肯いてところてん 故・木村リュウジ
○前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
惜別や葡萄の種を噛みこぼし 佐藤美紀江
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
どこの水滴かしたたっている教室 竹本仰
○ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
街の灯にことごとく濡れ夜のプール 月野ぽぽな
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
道過る蛇やわらかき断定なり 藤野武
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
まただれか自画像ぬりつぶして白夜 三世川浩司
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌

並木邑人 選
夫婦に季語があるならば梅雨きのこ 井上俊子
○ふるさとは蚊帳に落ちたる青大将 上野昭子
夫といて淋しいときは郭公になる 榎本愛子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
○嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
運命の人だと思うほど短夜 近藤亜沙美
飛べそうな気がする夜を緑夜という 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
決心はいつも厨で夏大根 佐藤詠子
水中花人さし指でノンと言ふ すずき穂波
人はみな回路図にある小春かな 田中信克
ひしゃげたパイン缶まだ友達だよね 遠山恵子
金亀虫手中最後の弾丸として 中内亮玄
ノンセクトラジカルの旗梅雨続く 仁田脇一石
じんじんと夕焼ふたりのようでひとり 丹生千賀
黒塗り開示蜥蜴の巣ある限り 平田恒子
家畜みたいにワクチン打って夏の星 藤野武
オオウバユリ酋長はもういない 前田恵
陸上部夏を音読する少年 宮崎斗士
湖にひらく掌篇オオミズアオ 望月士郎

◆三句鑑賞

蝋燭灯し亡友と詩で遊ぶ晩夏 川嶋安起夫
 字余りに、亡友への思いの強さ、悲しみの深さが窺える。蝋燭を灯して遺影の前に座り、思い出を語る作者の後ろ姿が目に浮かぶ。遺句集を手に、酒をちびちび飲みながら、連句のごとく付合をして遊んでいるのだろうか。亡友のいろんな表情や声が思い出される「遊び」を続けながら、晩夏の夜が更けてゆく。

寝て起きて食べて寝て生く樫落葉 篠田悦子
 緊急事態宣言の最中に、こういう毎日を送った人が多いのでは。通院日でない日の私は、まさにこの句のとおり。「何のために生きてるんだろう」と自問自答していたので、深く共感した。自殺者が増えるのも頷ける。だが、樫落葉が腐葉土となって役に立つように、自分もいつか役立つ日が来ると信じて、生きるしかない。

端居から静かに外れ逝きにけり 中村晋
 祖父が、三十一年間ほぼ寝たきりの末、九十八歳で亡くなり、八年が経った。内実を知らない人からは、「大往生だったね」と、よく言われたものだ。先日、その祖父の弟の妻(父の叔母)が九十九歳で亡くなった。九十六歳まで畑仕事をしていたのだが、老衰だったようだ。この句は終末の理想型。人の最期とは、かくありたい。
(鑑賞・清水恵子)

嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
 我々の悩みの大半は人間関係による。特にもし嫌われたらという強迫観念は無意識に血肉化している。社会はそんな各人の自縄自縛で成り立っているのだが、ふいに解き放れた時、茨木のり子が詩の一節で敗戦を語った「禁煙を破ったときのようにくらくら」するナマの自由が来る。自由の原点は、そんな所からしか見えないようだ。

衰夏なり無観客てふおもてなし 白石修章
 トウキョー五輪。たしかに「おもてなし」はあったのだ。それを感じられたかどうかは別として。空っぽのスタンドと実況アナの絶叫、この不思議な空気感。『徒然草』の中で祭りのあとの人去りし寂しさに美を見出した兼好法師の慧眼、それに匹敵するほどに「無観客」の「おもてなし」というこの着眼点は秀逸であるように思った。

戰爭は負けたッちゅうばな大カボチャ 横山隆
 昔、四コマ漫画の「サザエさん」に、「戦争」と聞き日露戦争と勘違いした老人が勇み立つ、そんな笑えない一コマがあった。戦争は数珠つなぎのようにやって来る。そしてこの句には出来そこないの大かぼちゃを叱り飛ばすような言っても仕方がない怒りとも笑いとも何ともやりきれない気持ちに敗戦への問いかけが直に出ている。
(鑑賞・竹本仰)

きれいな言葉の浮輪溺れている 桂凜火
 鬼平の「無口な船頭」は仕事柄無口でいられる。が、心の中で辛辣なお喋りをしている。作者は仕事を効率的に進めるため、人間関係を良好に保つため、怒り心頭な相手であれ心とは違う「きれいな言葉」で喋る。そして疲弊する。されば綺麗はこの場にてお縄を掛け、共に本当の自分の浮輪で一気に浮上しようではないか。

前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
 強い意志を持つ瞳がある。しかも「焦げている」。最高だ! 何故って向日葵の種もカラメルソースのほろ苦い甘みもゆっくり焦がしてこそ得られるのだから。表面は「ギリギリ」で切れて見えるが「ああ汝、吾をゆめゆめ二物衝撃と呼ぶことなかれ」なのだ。「前髪」という私から「向日葵」という私へシームレスに移行し二つのリアルは豊かに焦げてゆく。

夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
 この作品を単に「擬人法が成功している」と回収したら誠につまらなく、何より人間中心の視点で「生きもの」を捉えた傲慢な態度となる。作者は一瞬にして対象と同化したのだ。「測り終え」と尺蠖の営みの微かな息に私は無防備な小さな命へ思いを致し、再び遥かなる夜空に何をするともなく放たれてしまった。
(鑑賞・ナカムラ薫)

嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
 映画でも漫画でも、主人公より奔放に振舞っているのはいつも敵役、つまり嫌われ役。主役はストーリーを牽引しなければならないので、箍が嵌められてしまうのだ。水澄は自由の象徴として登場しているものと思うが、感情の水面を素知らぬ顔で泳ぎ切るバイキンマンのような存在でもあるのかもしれない。

人はみな回路図にある小春かな 田中信克
 田中もアイロニーたっぷりに人間を描いている。小春を堪能するささやかな幸福、それもこれも設計図に詳細に指示された回路図の小径をただ辿っているに過ぎないのだ。次に待っているのは日本沈没か、地球温暖化の果ての火星移住計画か? 一方では、AIを駆使して棋界を席捲する天才少年が居るのも事実なのだが―。

オオウバユリ酋長はもういない 前田恵
湖にひらく掌篇オオミズアオ 望月士郎
 この世のものとは思えない緑白色の長身の百合と青白色の大型の蛾。その名前があるだけで一句成立してしまう呪力を秘めている。前田句の「酋長」は、ユリから採れる澱粉が保存食として重要な役割を担ったアイヌ文化との関わりを示している。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

間引菜を洗う百十円の老眼鏡 有栖川蘭子
秋刀魚喰う組閣のテロップが邪魔 植朋子
指組まず指切りげんまん寒露かな 梅本真規子
ポケットの多いジャケット君にあげる 大池桜子
膝の上のキャパの戦場冬日さす かさいともこ
しゃりしゃりと炭が崩れる原爆忌 葛城広光
アレルギーは孫にあるらし秋刀魚焼く 木村寛伸
暮の秋一頭騸馬せんばになりました 日下若名
開運の本を頂く老人日 後藤雅文
白曼殊沙華さよならに似た言葉 小林育子
落し水棚田の芥押してきた 坂本勝子
紫陽花の色よく乾ぶ銀河かな 佐竹佐介
赤とんぼまるで昭和がとんでいる 重松俊一
月白く音叉の波動のやうに日々 宙のふう
祖父在るはも一つの故郷小鳥くる 立川真理
あすを裁く晩秋の風に恋もして 立川瑠璃
冬落暉むこうに昭和が揺れている 谷川かつゑ
母の手を子は払い行く良夜かな 野口佐稔
水連れて父母の井戸から月上る 服部紀子
ケーキ屋の呪文滑らか小鳥来る 福田博之
母の忌の読経の僧に日傘差す 藤井久代
秋の衣更えビバルディを独り分 松﨑あきら
まんじゅしゃげ一つの旗は燃えやすい 武藤幹
修験道巨石の上に木の実落つ 村上紀子
毎日が小さな被曝彼岸花 山本まさゆき
つつがなく首を載せては菊人形 吉田和恵
コンビニで犢鼻褌たふさぎを購ふ雨女 吉田貢(吉は土に口)
利根川と空までの距離尺取 わだようこ
コンポスト開けて無数のいのちかな 渡邉照香
抽斗に溜めし秋思のしろい骨 渡辺のり子

『海原』No.34(2021/12/1発行)

◆No.34 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
今朝の秋シャインマスカットの水光 石橋いろり
顔のないマネキン運ぶ敗戦忌 大沢輝一
八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
一人居の箸置替えて涼新た 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
白い少年どの旅立ちも素足 小西瞬夏
菊の酒下戸はそこそこ艶ばなし 小松よしはる
鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
鬼灯の如しフクシマにおす母 清水茉紀
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
不器用な二人だったな盂蘭盆会 白石修章
秋茄子捥ぐ刀自に夕星滴りし 関田誓炎
海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
とうすみの身体を抜けて風になる 高木水志
メールするためらい荻を見ている たけなか華那
秋祭古いお旅所飾られて 竪阿彌放心
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ひとり綾取り川の向こうをこぼれ萩 松本千花
黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
秋風の音になりきる駅ピアノ 三浦二三子
ちょれ北斎画樗檪となりてグレートウェーブ 深山未遊
言い訳を聞きおり天使魚眺めおり 村本なずな
秋黴雨逆流の川のよう日常 森鈴
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

藤野武●抄出

産声という名月のありにけり 伊藤道郎
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
玉葱一個今日一日を生き延びた 大髙宏允
美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
鳴き移りし木の淋しくて秋の蟬 北村美都子
頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
洗い髪記憶の端を踏む亡夫 黍野恵
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
鰯雲あふれ出て来るスピーカー こしのゆみこ
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
芋虫が蛹になってまた思う 小松敦
君の背の醒めゆくままに月光 近藤亜沙美
三日月や言葉仕舞えば帆となりて 佐藤詠子
鬼灯の如しフクシマにおす母 清水茉紀
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
首筋を鈍く打ちたる蝉時雨 中内亮玄
マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来たハワイ ナカムラ薫
朝日赤しトマトとトマト触れ合って 中村晋
一竿は野良着ばかりや天高し 西美惠子
蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
笑ってばかり流し素麺速すぎる 平山圭子
返し針のような八月の日記 北條貢司
桃剥けて背より抜けゆくちからかな 前田典子
がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
 八月は上旬に立秋を迎えるが、なお残暑きびしく、花火や盆踊りなどの行事もある一方、原爆忌や敗戦日など歴史的記念日も続く。作者は表立った言上げをしていないものの、「にんげんとして」とあえて平仮名表記することで、乾いたモノとしての人間像を浮かび上がらせる。それは、かつて戦争によって多くの非業の死者をもたらした悲劇の歴史を踏まえているからだ。死に近い人間は必ず水を求める。末期の水は、人間としての最後の欲求だ。「喉鳴らす」は、その限界状況を捉えている。

訃報あり金魚のひれは夜を知らず 木村リュウジ
 夜、訃報の電報が届いた。作者にとってかけがえのない大切な人の訃報に違いない。事のあまりに思いがけない知らせに、しばし茫然としている。傍らに金魚鉢か水槽があって、金魚がそんな夜の出来事も知らず、無心にひれを動かしている。劇的なシーンをモンタージュした静止画像で、悲しみの瞬間を捉えた一句。

鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
 「鉦二」とは、いうまでもなく今年の八月十九日に亡くなられた秋田の重鎮武藤鉦二氏のことである。中下は、故人の死出の旅路とみた。「駘蕩たり」は武藤氏のお人柄同様に、のどかな他界への旅を楽しんでおられることでしょう、というもの。それは、安らかなご冥福を祈る思いにつながる。武藤氏は人望の人だった。

原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
 広島原爆被害の惨状は、広島平和記念館や丸木俊子夫妻の絵画展等によって広く知られているが、その現実は目を覆うばかりで、如何に過酷なものであったかと思い知らされる。「原色を塗り重ねゆく」とは、生々しい現実をあるがままに描き出そうとする作者の句意によるものではないか。戦後七十六年の時の隔たりによって、決して風化させてはならないという思いを込めているのだ。

海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
 海ほおずきは江戸時代から始まった口に含んで鳴らす玩具だが、今では作者の母の世代までの名残りとなっていよう。「人魚座り」とは、しなだれるように両足を横になげだした座り方。女性のリラックスした時の座り方だ。母にとっては、幼き日に返った気分で、ふるさとの懐かしさや幼馴染の誰彼を思いだしながら、一人海ほおずきを鳴らしている。その母の一人きりのゆったりした沈黙の時間を、そっとしておきたい気分で詠んでいる。

風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
 仙人草は、雄しべの先に白いひげを長くのばしているところからその名があるという。風を曲がるとは、風の向きに添って曲がって行く、風の中を曲がるととった。そのときふと仙人草の白いひげが風に揺れて、なにやら久米の仙人が風を切って飛んでゆくような気配を感じたのかもしれない。そのあるかなきかの風音を立てたのは、仙人草だった。その音は、たしかどこかで聞いたような気がした。仙人草にその名通りの不思議さを感じている。

老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
 むらさきしきぶの花は、六月から八月にかけて淡い紫色の小花が葉の付け根ごとに群がり咲く。十月から十一月にかけては落葉して、やはり紫色の小さな丸い実がおびただしく実を結ぶ。源氏物語の作者紫式部になぞらえた名が付けられたのは、紫そのものとも見える気品のある色合いによるもの。老老介護は、家庭の事情により身近な高齢者同士で介護せざるを得ない状況で、夫婦や親子、兄弟間で行われることが多い。介護疲れで共倒れになることも大きな社会問題になりつつある。花に雨とは、哀しみを堪忍んでいる表情そのものなのだろう。

黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
 黒揚羽が地を這うような低さで飛んでいる。それは何かを伝えたいと思わせるような低さだという。作者自身のもどかしげな心情を投影したもので、黒揚羽の仕草に重ねて見ているのだ。何かを伝えたい、だがその心情はまだ言葉の形を成さない。もやもやとした深層意識として、澱のようによどんでいる状態なのだろう。そんな言葉を捜している作者の思いのようにも見られる。

カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
 カンカン帽は、大正時代に流行った男性用の麦藁帽だが、現在ではお洒落な女性のファッションの一つともなっている。この句の場合、別れを告げるのは、男女どちらとも取れる。まあ今は女性であってもおかしくない。「ひょいと浮かせて」には、ドライな別れの挨拶のニュアンスが滲む。この作者は最近めきめきと腕を上げてきているように思える。若々しい乾いた心情表現に巧みが
ある。

 一つお願いしたいこと。投句欄には年齢の記入欄があり、もちろん個人情報なので公にされることはないが、作品の生活感をうかがうには大事な情報源でもあるので、できるだけご記入願えると有難い。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
 船医が乗船する船とは、概ね外洋を航行する大型船。青い海と青い空を背景に、(おそらく真白い)夏帽を抱く船医。眩しくも鮮明な映像。「抱く」が船医の人となりを想像せしめる。大きな波のうねりのような眩い時間。そして青春性。

夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
 ちぎれ雲というのは、(積雲などの)高層の雲の下層を、ちぎれ飛ぶように流れる雲のことを言うらしい。そのちぎれ雲が空一面に流れゆく。それを見ている作者は、ふっと「夏」そのもの(あるいは「夏」というものに抱いている作者の「思い」そのもの)も、ちぎれてゆくように感じたのだ。日本の、広島の、特別な夏。

てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
 「私」の寸法を、「てのひら」「肩幅」と具体的に述べて、「秋草」の可憐さが際立つ。だが一方で、「私の寸法」とは、必ずしも物理的な寸法のことのみを言っているのではないだろう。私という「存在」の寸法。そう受け取ると、秋草に向いていた視線は、翻って秋草のような「私」というふうに逆転する。等身大の「私」。

頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
 秋は、突然やってくる。昨日までさんざめいていた夏も突然、醒めた顔をした秋になっている。ああ秋だと得心すると、ここにいるのは、ちょっと澄ました秋の金魚。軽やかな日常。秋に背を押された作者の心の一歩も。

遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
 二物配合の妙。一瞬輝いては消えてゆく「遠花火」と、「デジャビュのごとくハグ」をされたときに生まれた、時をまさぐるような「違和感」とが配合され、日常の狭間に、新鮮な異なる世界が顔を覗かせる。

口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
 舌は、あらためて言うまでもなく、喋り、味わい、飲み込むといった、人間にとってきわめて重要な役割を持つ器官。だがそんな舌も、時に何となくしっくりこず、少々持て余しぎみになることもあるのだ(心と肉体の落差?あるいは心と言葉の落差?)。それを「だぶつく」と表現した。桃の重みや甘い香りが、その落差をさらに増幅する。

過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
 「肉色」という措辞が心に刺さる。人も疎らでさびれた村に、取り残され、取り捨てられたように在ると、鬱々とした気持ちは、ときにふつふつと沸き立つのだ。冷たいはずの月の光は、この沸き立つ心が投影され、「ただ肉色に」に見える。肌色ではない「肉色」に。

スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
 スケートボードの競技をテレビで視て、宙を飛び手すりを滑る姿が、まさにこの「ガリガリと炎天へ」という表現にぴったりだと思う。そしてこの「ガリガリ」感は、既成の概念や秩序に挑戦し、ガリガリと大いなる壁に挑んでいる、若者の思いのようにも見えて来るのだ。「影」がいかにも現代の若者の情況を象徴していて、鋭い。

マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来た ナカムラ薫
 「隣の蔦が伸びて来た」というフレーズは、実景に由来するのかもしれないが同時に、作者の心の「喩」でもあると思う。マンモグラフィの検診を受けているときに感じる、(そっと侵入しはびこって来る蔦のような)なにか制御しにくいものに対する、不安感。

蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
 話し相手がだらだら喋りっぱなしで、相槌を打つ暇がないのか、相手の話の内容が相槌を打ち肯定する内容ではないのか、いずれにしても半分呆れ半分諦めながら、「蟬しぐれ」の時間は過ぎてゆく。こうしてずっと、どうということなく日常は過ぎてゆくのか。だが一方で、「これでいいのだ」とも思う。軽妙にして洒脱な句。

返し針のような八月の日記 北條貢司
 「返し針」とは、裁縫で一針ごとにあとへ返して縫う縫い方。つまり行ったり来たりを繰り返しながら前へ進んでゆく。それだけ丈夫にしっかりと縫うことが出来ると言う。「八月」の日記(思い)はそんなふうに行きつ戻りつ。

がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美
 「がまずみの実」を指差すという何気ない行為によって、家族ではない人たちが、まるで家族のような感じになった。温かい「家族めく」心の動きが生まれた、と言う。一人一人がばらばらに(たとえ家族でも)孤立させられてしまっている現代においては、ひと時でも、また仮のものであっても、家族のように心を通わせ合うことが、得難いことなのだろう。寄り集まって実る赤い「がまずみの実」が、ぽっと灯った家族のようで愛おしい。

◆金子兜太 私の一句

レモン握る掌時には開き確信得る 兜太

 変動する世界にあって、変転する社会との関係、その度に掌を開いて問われ
たのであろう。啄木の見る嘆く手の平ではなく、後悔の無い清爽なものを捕ら
えたことに間違いは無かったと確信する掌である。この句を知った時、私はこ
のレモンのようなものを握ることが出来るだろうかと羨望した。先生が詠まれ
た御歳の倍を過ぎた今、未だ「確信」を得るものは不明。句集『少年』(昭和
30年)より。柳ヒ文

縄とびの純潔のぬかを組織すべし 兜太

 無邪気に縄跳びに興じている子供たち、その純朴な子らに「子供たちよ平和を希求する大人になって欲しい」と言う、これは作者自身への願求でもあろう。『暗緑地誌』収載句には「校庭が飛んでくしんしんと怒れば」がある。怒りが沸点に達した時、周りは静かにそして風景は歪み校庭も飛んでゆく。戦争への怒りと憎しみを金子先生は後記で述べている。両句には通底するものがあろう。そして金子先生の晩年の平和運動へと続く。句集『少年』(昭和30年)より。輿儀つとむ

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
睡蓮や正しく開く初版本 江良修
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
青大将の青があまりに過呼吸で 大西健司
地獄の黙示録蝦蟇の眼玉浮く 川崎千鶴子
円周率3より後は熱帯魚 木村リュウジ
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
火葬場や光が砂になる晩夏 佐藤詠子
叱られた日の次の日の蓮の花 高木水志
茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
第三の眼はひたい鑑真忌 梨本洋子
ネモフィラは風を鏡と思うかな 平田薫
逆縁の母を抱きし祖母立夏 藤田敦子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
葉桜の影を測れば父佇てり 水野真由美
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
梅雨晴れや亡母が遊びにぴょんと来る 森武晴美
若葉なす山は語り部三河弁 山田哲夫

竹本仰 選
不意にでる涙が怖い夏帽子 伊藤歩
神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
蝶つかめばロマンポルノ見たような 井上俊子
六月や心の一部屋空けておく 宇田蓋男
うつろうや百足愛しき封鎖都市 大西健司
草引くや草の神経ぞっとでる 尾形ゆきお
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
揚羽蝶あなたに借りた夢がある 竹田昭江
夥しき味蕾わたしに蛇苺 鳥山由貴子
春や春じつに大きなおっぱい来 ナカムラ薫
うつつとは如何なる咎か蟬丸忌 並木邑人
コロナ禍や虹はLINEをはみ出して 根本菜穂子
胞衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
こんなにも五月の緑出棺す 藤田敦子
卯の花腐しシンバル早めに振りかぶる 堀真知子
もてあます黄泉の万緑奈良夫無し 松本勇二
腹へるよ噴水むやみにたかくさみしく 三世川浩司
なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士

ナカムラ薫 選
人通るたびにしんぷる柚子の花 伊藤淳子
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
生きることけものくさくて夏マスク こしのゆみこ
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
ひまわりは満開全力で君に刺され 中内亮玄
卯の花腐し息継ぎ長き離職の子 中村晋
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
母逝きて二年夏蝶と友達 松本勇二
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
老人が点滅している緑の夜 三好つや子
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
母親を脱いで涼しきもの啜る 柳生正名
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

並木邑人 選
宇宙儀ってどんな色だろう干瓢剥く 綾田節子
月光の刺さった手斧と眠る岳父 有村王志
幻月や蝦夷のサンショウウオ浮かぶ 石川青狼
接尾語か小さく翔ちて梅雨の蝶 市原光子
春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇 桂凜火
脳は唐草記憶はぷにぷに春愁い 黍野恵
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
「人流」どこかプラスチック臭い 今野修三
老鶯や繕いて繕いて今 佐藤千枝子
通潤橋田植えてお神札ふだ二三言ふたみこと 下城正臣
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
托卵のごと女子水球のパスワーク 董振華
家蠅の清々しさを持つ夕日 豊原清明
国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
身体の中の綾取り待ち時間 北條貢司
ポンポンダリア昼を出られぬ数え歌 三好つや子
ダダイストです生脚の春の夜 若森京子

◆三句鑑賞

連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
 女性同士で連れ立ってトイレに行くことはあるが、「連れション」には、男性同士ならではの近しさがある。「聖五月」との取り合わせが、面白いことこの上ない。兜太先生が、親しみの持てる、あのようなお人柄だったがゆえに、こういう句が生まれるのだ。心がほっこりして、嬉しくなった。皆の隣には、今も、先生が居る。

睡蓮や正しく開く初版本 江良修
 貴重な初版本への敬意が感じられる。睡蓮が正しく開くのに呼応して、初版本も正しく開かれるのを待っているのだ。長らく古書店に眠っていた本に、目覚めの時が訪れた。静寂の中、耳を澄ますと、睡蓮の開く音、作者が正しくそっとページを開く音が聞こえてくる。

茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
 野菜の花は、意外と美しい。茄子の花も、紫色の素朴で可憐な花。俯いて咲く。若き日の恋人は、素朴で可愛らしく控え目で、意外性もあったのだろう。畑仕事を一緒にしたのかもしれない。「若き日の恋」を引きずっている私からすると、「もう神話」とまで昇華して考えられる作者が羨ましい。
(鑑賞・清水恵子)

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
 おかしな話になるが、昔犯罪関係の本で、誘拐犯が子供を誘う時に一番効くのは、昆虫の生死にかかわるものだと読んだことがある。「○○の産まれる所、見たくない?」とか。それでいくとこの句にはこの種の誘いが隠されているように感じた。この世の一番の秘密がすぐそこにある。そんな逆説こそ真実経験してきたものだ。

夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
 感動というもの。実は保存ができない。ほんの一瞬である。フィルムであろうがディスクであろうが、百%は残せない。とりあえず、もう一度とページ端を折る。だが、作者はそんなことはよく知っている。だから、折るという行為に、もう戻れないものだからというメッセージがひそかにこめられているように思えるのだ。

なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士
 なめくじに哲学?生きた人間それぞれに哲学はあるのだろうから、まだ人間のよりはいいものかも。だが接近の仕方が難しい。塩を振るくらい?では消えてしまう。悲しき接近である。そして我々はこういう接近の例を山ほど知っている。例えば原発。そして塩を振りつつこの関係は何なのだろうかと問う、そんな余韻が味わえる。
(鑑賞・竹本仰)

双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
 ワーグナー〈タンホイザー〉序曲が流れる。「双極」というメロディは、アポロ的分別からもはや秩序など立ち入ることを拒否したディオニソス的嶺へゆっくり確実に昇る。どこにも属さぬ快楽は、どこにも属せぬ混沌。その混沌が響き合う時、例えようもない美の世界が生まれる。咲ききることを選んだ芍薬の耽溺の刹那は、その刹那は狂おしく美しい。

わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
 しばらく幻想に浸りたい作品だ。「わが胸へ飛ぶ夏かもめ」が格別にカッコいいからだ。ただのカッコ良さに囲い込まれないのは、「引き潮や」と現実を差し出して上五中七を語り損なうという装いで語っているからである。夏の日差しは命と魂の臨界点を浄化する。夏かもめが咥えて来た昇る太陽の光は明日へのわが胸へと導く。

誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
 体温を持つ明快なフレーズからヒトへの愛おしさ切なさが溢れる。WHOは「人類はこの惑星の個体」と定義する。進化するcovid-19と共存し始めた個体は丸裸で目を瞑り髪を洗う。作者が風呂場から発信したSOSは「髪洗う」の本意に与することなく愉快痛快。マッパにこそ新・真がもたらされるのだ。
(鑑賞・ナカムラ薫)

春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
 なくとも解釈に支障はない強調の「をば」を敢て挿入したところに、宇田の農事への意地と執着を感じる。中下句もあっぱれ。トリセツには書いてない土への限りない愛情が溢れている。同様に綾田、有村、大沢、下城たちの作品にも、農林業と人間の生き様が密接に息づいていることを物語る。

アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
 皮肉たっぷりの導入部は、黒沢清監督の映画の題名。そのエッセンスを575に組み替えたものだ。私も創作に行き詰まった折に、俳句以外のジャンルから素材を拝借することがある。旧来のメソッドに固執するか、進んで越境して行くのかは、俳句観の根幹に関わるものであり、その当否は各人の判断によるべきものであろう。

国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
 江戸末期の歌川国芳は、現代でも行列ができる人気の浮世絵師。天保の改革の風俗取締りに反発した町民同様、コロナ禍に鬱屈した精神を解放するには格好のアイテムでもある。武者絵や妖怪図、裸の人間を組み合わせた顔や猫の擬人画が著名だが、金魚が煙草をふかしたり、纏を振るう図もなかなか太々しい。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

紫蘇摘んであしたの天を新しく 有栖川蘭子
叩く蚊にわが血の証し老人ホーム 伊藤優子
歌読めば声裏返る秋ひとり 梅本真規子
簾揺れてわたし振り向いて永 遠遠藤路子
テンションが高いと言われる秋思かな 大池桜子
揮発する言葉八月十五日 大渕久幸
花の枝骨折ごとに舟に落ち 葛城広光
鈴虫や姿見一つ形見なり 神谷邦男
朝月夜カフカのプラハうら思ふ 川森基次
嘘よりも深くなりけり居待月 木村寛伸
ジェラシーは母の愛から燕の子 後藤雅文
秋の田刈る稗田阿礼と人のいう 齊藤邦彦
万有引力あり盛土の霙るるあり 佐久間晟
風天忌今夜あたりは人が降るかも 重松俊一
野分くるぽっかり空地の胸の中 宙のふう
猫の待つ月夜の家へ帰りけり髙橋橙子
神々に異端の交じる鉦叩き 田口浩
メリーウィドーそれとも薄羽蜉蝣 立川真理
現し世の桃啜る時生きている 立川瑠璃
律と母にもっと光を獺祭忌 野口佐稔
不服従彗星の尾として光らん 服部紀子
夕ひぐらしな鳴きそ鳴きそ退院す 原美智子
霧深く君にさらはれて堕落 平井利恵
積乱雲精一杯の「バカヤロー」 深沢格子
木漏れ日は八月に思い当たる感情 福岡日向子
頻尿のしだる日常白日傘 藤好良
健忘症の達人超人枯蟷螂 松﨑あきら
集落の今に限界彼岸花 村上紀子
白鳥や重きロシアのパンに慣れ 路志田美子
四畳半サルトリニーチェ迷い蜂 渡辺のり子

にこっと秋 大沢輝一

『海原』No.35(2022/1/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

にこっと秋 大沢輝一

蔵の壁とんぼが寄って旗つくる
川端のひとなつっこい赤蜻蛉
原子炉の構造的な曼珠沙華
蕎麦の花残り湖底で咲いている

雨続く秋の日つらっと感電す
青北風や乗り放題の切符買う
婆さまをじっくり吸って赤蜻蛉
蜻蛉邨途中下車する駅がある
秋の路地匂いにひだり右があり
にこっと秋充電終えた赤ん坊

『海原』No.33(2021/11/1発行)

◆No.33 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
花氷含み笑いをYESという 綾田節子
手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
木洩れ日にひとり影踏み自粛の子 伊藤巌
枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
今更のハザードマップ水中花 河西志帆
竹節虫のつかむ熊野の木下闇 黍野恵
紀音夫忌や鞄の本が濡れている 木村リュウジ
逃水は原発ママチャリが過る 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過ぎる梅雨の蝶 黒済泰子
夏館静かな文字のような人 小松敦
やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
さみだるる唄いつくした子守唄 鱸久子
うりずんや過去はかけらにシーグラス 芹沢愛子
蚕豆の莢のふわふわ家族って何 高木水志
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
みんみんのこだまも埋む土石流 董振華
田の神の化粧直しや半夏生 永田タヱ子
冬ざれのベンチの老人ストレッチ 野口思づゑ
ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
訪ね来し児に校長が新茶汲む 前田典子
金雀枝と次男傾き易きかな 松本勇二
大夕焼野生馬ただいま勃起中 マブソン青眼
壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
ほたるぶくろ黙読のふと独り言 望月士郎
紋白蝶止まっていいよ信じていいよ 森由美子

茂里美絵●抄出
みみずの伸縮さよならを急ぐ 泉陽太郎
頬杖の行方決まらずさくらんぼ 伊藤雅彦
夫といて淋しいときは郭公になる榎本愛子
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
空き缶がひらき直っている酷暑 大西宣子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
崖のぞく刹那や夜濯ぎの渦 川田由美子
悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
昼すぎのアールグレイとさびたの花 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
遠野へと言ってきかない白桔梗 小西瞬夏
影踏んで来て夕暮れの花氷 三枝みずほ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
柔らかな虹の向こうのシーソーよ 高木水志
風と来て風に置き去り青葉木菟 竹田昭江
ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
たくらみの匂って来るよ栗の花 東海林光代
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
噴水やここは泣いてもいい所 仲村トヨ子
あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
アジサイは考えぬいて海の青 服部修一
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
夢のままよこしまなまま顔洗う 森田高司
晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

花氷含み笑いをYESという 綾田節子
 「花氷」は、夏の涼をとるために美しい草花や金魚などを閉じ込めた氷柱。この句の花氷は、一句自体の象徴的題材であるが、具体的な思い人の立ち姿のようにも見える。花氷の次第に溶けていくにつれ、少しずつ歪んでくる様は、含み笑いのようでもある。それはまさに、告白へのYESの回答のよう。そう思いたい。

手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
 昭和の戦争の時代、出征する人々は、皆家族手製の心を込めた衣類を身につけて戦地へ赴いた。今に残る遺品の数々は、手編み物ばかりで、あの時代の家族の絆をあらためて思い知らされる。昭和の日に当たり、作者の世代なればこその痛切な反応といえようか。

枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
 東日本大震災から十年を経て、放射能汚染の地にも移植葱が植えられるようになったのだが、やはり食用に供するには、土地の除染や枯草を敷いての養生は欠かせない。梅雨籠りの季節にも、その準備は怠れないのだ。かつて物生り豊かな地であった福島の、今なお過酷な現実をひそやかに詠んだ一句。

苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
 苔むした庭園に、久しぶりにたっぷりと雨が降り、苔の花がにわかに息づいた。だがそのたたずまいには、すこしばかり鬱っぽい気配が漂う。それは満ちたるがゆえの、故しれぬ不安かかなしみか。その鬱がどこから来るものかもわからない。どこか不条理ともみられるような不安につながるものかも知れない。それは苔の花の質感を言い当ててもいるのだ。

草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
 暑い盛りの草刈は、大変な辛抱の要る作業だが、最近は電動式の草刈機で随分楽になっている。その作業をしなければならない人にとっては、草刈機のうなり声が読経のように有難い物音に聞こえているに違いない。「享く心地」にその実感がうかがえる。これは農作業をした人ならではのものかも知れない。

ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
 この句は、今年亡くなった会津の田中雅秀さんへの悼句だろう。彼女が亡くなってから、各地の句会で多くの追悼句が寄せられたのは記憶に新しい。それだけ彼女の人気は全国的なもので、多くの人々に爽やかな印象を残したのだ。この句は、蛍狩の夜、雅秀のまぼろしのような蛍を追ってゆくと、闇の中に彼女の明るい笑みの面影が、ぽっと浮かんできたという。それは作者の体感そのものだったに違いない。「ぽっと笑む」に、温かい灯を灯すような雅秀の出現ぶりが見えて来る。

梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
 梔子は、大きく純白の六弁花で、ジャスミンのような芳香を放つ。実は熟しても裂けないところから、「くちなし」の名があるという。二〇〇三年に俳優の渡哲也が、同名の曲を歌って彼の生涯最大のヒット歌謡となった。渡の歌(水木かおる作詞)の一節に「くちなしの花の/花のかおりが/旅路のはてまでついてくる」とある。
 掲句の「昼を大きくして咲」くとは、梔子の花の存在感が、真昼の時空にゆるぎなく立ち上がっていることを意味していよう。もちろん渡の唄とは比較にならぬ乾いた存在感だ。

驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
 おそらく吟行の途次に、驟雨に見舞われ、近くのお屋敷に駆け込んだのだろう。時ならぬ大勢の客にもかかわらず、そのお屋敷では温かく迎え入れてくれて、茶菓のもてなしに加え、句会までやらせてくれたのかも知れない。玄関先には、靴の大群が並ぶ。やがて驟雨は去ったが、句会はまだ続いていて、靴の群れは、避難のため寄港した多くの漁船のように、腰を据えて居並んでいる。「寄港のごとく」の直喩が、その時の臨場感をよく捉えている。とまあ、見てきたように想像したのである。

壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
 廃校の校舎や古民家の壁に、青蔦が這っているのだろう。年代ものの建物の故に、その壁もいつまでもつのか、いつ途中で取り壊されるのかはわからない。壁に残された時間は、青蔦の残り時間でもある。掲句はそこに、おのれの境涯感を重ねている。
 この句を読んだとき、虚子の次男で、音楽教育家にして俳人の次の句を思い出した。
 蔦茂り壁の時計の恐ろしや 池内友次郎
 武藤句は、まったくこの句とは関係なく作られたものと思うが、池内句と期せずして同じようなモチーフで書かれているのに驚いた。人間の死生観には、古来共通のものがあるからだ。
 それは『徒然草』一五五段の次の一節にも通ずる。「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。」

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
 生きていく上で、悩みから逃れることが出来ないのが人間。それも真面目な人程その感が強い。作者もそのひとり。この句はとても前向きで明るい涼感がただよう。
 心を悩ませる事柄に対し、まず肯定してひたむきに向き合う姿勢。「ところてん」の、少しとぼけた季語に何故か読者はほっとする。作者はさまざまな悩みを、これからも克服していくに違いない。

聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
 まず、「ゆわーん」のオノマトペの効果。中原中也の詩「サーカス」の中に〈ゆあーんゆよーん〉があるがそれに匹敵する素晴らしさ。聴力の曖昧さを調べるこの検査は誠にうっとうしい。その感覚を、ゆわーんと。そして湿り気のある「梅雨の蝶」も言われてみれば、確かに「ゆわーん」とした存在。

怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
 人はさまざまな感情に翻弄されて生きている。そして負の想いの中でも怒りには暗い影がつきまとう。しかしこの作者は「怒りとは光りなり」と断言しているが、それなりの理由があるはず。怒りの概念として「個」であるとは限らない。たとえば、海を見ていて波のうねりの美しい光が、突如悪魔に変貌することへの連想。
 私情を超越したところに怒りの想念が湧き上がる。夏燕の鋭い、しかし飛翔の純粋なひかりが、この作者の心情を象徴しているのかもしれない。

天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
 すっきりと、しかも堂々とした言い切りがいい。諧謔性があり、ドラマチックな童話のようにも。雲が「天才」は分かる。そして思いがけない行動や言葉を発する老人も天才と。きっと食卓に並べられた夏野菜に向けて語りかける「老人」の言葉がとても愉快だったのかも。

眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
 大げさに言えば、詩歌は不条理を承知の上で成立している部分もある。この句の場合、理屈を考えず強いて説明をせず、素直に共感すればいい。すると静謐で、すこし弱くなった光の混沌や、晩夏の風景が見えてくるのではあるまいか。自然の中に佇む作者の、すこし哀しげなシルエットも。

あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
 遠近法の成功した作品。「風の祭」なら風の中の行事としての祭だが「り」があるため祭の動詞化、つまり初秋の風の動きとも思える。橋の向こうの芒やコスモスが光りながらそよぐ。それを「風の祭り」と見立てたところが鋭い。加えて時の移ろいの淋しさも。

短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
 暗くなりがちな現在の巣ごもり生活を、明るく表現したところがいい。多分リモートで仕事をする女性。さまざまな電機器具のコードが、部屋を占拠している。〈もうすこしオシャレに置こうかな〉との呟きも聞こえてきそうで、思わず頬がゆるむ。

思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
 軽いようで重い句。誰しも順風満帆な生活を送っているとは限らない。いや、そんな生活は現在では稀有にひとしい。自宅で仕事をする機会も増えた。必要な書類の置き場も不足しがち。ついイライラして自分を罵りたくなる。〈分かってはいるんだけど〉と。しかし、かなぶんぶんの出現で、この小煩い昆虫の声に吹き出している自分。〈コイツも文句言ってる〉と。読者もほっとする。

晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
 いろいろに想像ができて面白い。「朽ちたフレーズ」とは、いま世間を騒がせている有名人(多分政治家?)の空疎なことば。厳粛語の対極にあるのが朽ち果てたフレーズ。その語句(フレーズ)に群がるマスコミという魔物に「晒されて」ますます混迷が広がる。半ばやけくそになる国民。あぁもう夏も終わりか、とつぶやく。

月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
 幻想的な作品で、思わず立ち止まる。月球儀。永久に滅びない薄白い荒廃を想像する。そしてのうぜんかずらの、太陽の光のような色彩の花を司る蔓の存在。まるで生き物のように少しずつ伸びる。突如として現れた花への驚きと共に、そのゆくえには月を照らす惑星群の微光がうっすらと流れているのかも。

川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美
 陶芸家の創作の過程を、テレビ番組で見たことがある。まずいい陶土を見つけることから始まる。陶芸家にしか分からない劇的な存在を川の底に認めた時のときめきは読者にも伝わってくる。丁度七夕の頃の澄んだ水底を想像すると「鎮まり」と「星祭」が響き合い、呼応し合っているようにも思えてくる。俳句は不思議な文芸。こんなに短い言葉の中に無限を感じたりもする。

◆金子兜太 私の一句

殉教の島薄明に錆びゆく斧 兜太

 掲句は、「海程」創刊以前に、「小田原桜まつり俳句大会」の講師として来られたときの特撰として戴いた句である。あれから六十年以上の歳月が過ぎたが、その短冊は家宝として飾られており、日々不肖な弟子を鞭打つのである。掲句は、言うまでもなく長崎時代の句であり、キリスト教の弾圧によって死んでいった信徒と、トラック島で飢え死にした部下への鎮魂の想いが込められているのだろう。『金子兜太句集』(昭和36年)より。木村和彦

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな 兜太

 金子兜太先生、皆子様の眠っておられる総持寺の境内にある句です。墓所までの細い登り坂の途中、沙羅(夏椿)の木陰に、二メートルはあろうかと思われる大きな自然石に先生のどっしりとした文字で彫られています。先生の最初の句碑であり、句は皆子様が推されたとか、お二人の思いのこもった句碑であると思います。いつか先生の墓所をお訪ねしたいと願っています。句集『狡童』(未完句集・昭和50年)より。金並れい子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
花は葉に日紡ぐ手編みの遺品かな 有村王志
夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
深爪の夕べぼうたんゆらめきぬ 狩野康子
水中花お尻が貧弱で困る 河西志帆
水を抱く少女玉繭冷えゆけり 小西瞬夏
ソプラノに光る薄暑の空き地かな 小松敦
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
てんと虫君の点せし言の葉よ 中條啓子
花は葉に恋の綻び縫いますよ 中村道子
父さんは母さんが好き柿若葉 服部修一
風でした樹でした遠くまではつ夏 藤原美恵子
身罷るを身籠ると読み夕朧 船越みよ
鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
心音ぽぽぽぽ老猫に眠き春 村本なずな

竹本仰 選
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
テッペンカケタカ他愛ない話しよう 柏原喜久恵
追慕かな娘へ一吹きのシャボン玉 小林まさる
雨匂うよく似た人のワンピース 小松敦
家族という青い落書き新樹光 佐孝石画
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
臍の緒のゆるり絡まる桜かな 高木水志
コロナ禍を真直に立ちて夜の新樹 竪阿彌放心
フィボナッチ数列として秋茜 田中信克
更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
春の雪ときにあやまちの疾走 ナカムラ薫
みどりの耳ひしめくばかり晩霞かな 野﨑憲子
土人形の危うき重心梅雨晴間 藤野武
わたくしのいびつ眺める夏の滝 藤原美恵子
銀河の尾まがりくねって港かな マブソン青眼
夕べに蝶わが過ちのように過る 望月士郎
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

ナカムラ薫 選
樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春の園児母の手縫いの翼です 大沢輝一
白藤や家系図という不燃物 奥山和子
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
ふろしきに不要不急の水を詰め 河西志帆
サイダーの思い続けている世界 小松敦
懐しい紙片を拾うごと緑雨 佐孝石画
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
春の渚へ蹠はひらききる感情 野﨑憲子
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
しゃべるだけしゃべって帰るねぎ坊主 藤田敦子
また水の景色に座り桐の花 水野真由美
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

並木邑人 選
鳧の擬傷は見ていないことにする 稲葉千尋
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
黄砂降るコロナに混る機関銃 大西宣子
断層ですかえごの花降る街明かり 川田由美子
遊女の声洛中洛外図の垂桜しだれ 黒岡洋子
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
連翹に撃たれイマジン唄う姉 鈴木千鶴子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
春陰の子午線という古本屋 竹田昭江
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
五月雨を降ろし足早のプリウス 服部修一
B案は防疫体勢かひやぐら 松本千花
梅雨えやみ家々偽卵抱くごとし 松本勇二
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
桜餅つねる戦艦大和の忌 柳生正名
大工道具なくし蛇として生きる 山下一夫
火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
海面のような長髪雨期始まる 輿儀つとむ

◆三句鑑賞

夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
 回覧板が、プリント一枚ということが、時折ある。コロナ渦の現在、祭りや会合の中止を知らせるものばかりだが。その、ヒラヒラとした「一枚だけの回覧板」を見て、今年も寂しい夏になりそうだと感じたのだろう。「来年こそは、夏祭りができますように」という作者の願いも込められているのではないだろうか。

ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
 「もし…ならば」と机上で悩んでいるうちに、いつしか夏の兆しが…。こういう人は、世の中にたくさんいるだろう。だが、「ifばかり零れて」という、しゃれたことは、なかなか言えるものではない。英語が、これほど見事に、ピタッとはまった俳句は、珍しいのではないだろうか。作者の詩的センスに脱帽。

鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
 鱗粉のついた少女が、繊細な指を、蝶のようにヒラヒラと振っているのだろう。「少女も蝶」のようにしがちだが、「少女の指も蝶」と「指」にクローズアップしたことで、少女の瑞々しさが、より際立った。願わくは、この少女に、蝶のごとく未来へと羽ばたいていってほしいものだ。
(鑑賞・清水恵子)

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 詩「くらげの唄」で金子光晴はくらげの弱々しい存在の中にもその生活臭を「毛の禿びた歯刷子が一本」と表していた。この句にも歯ブラシ特有の本人にしかわからない生活感情が鋭く出てくる。もはやそこに何があったかどうかも定かならぬ更地だからこそ、歯ブラシ一本に大切な暮らしがあったことを語らせているのだ。

更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
 『不思議の国のアリス』の、あのアリスが成長してふと我が姿に立ち止まった時、こんな句になるのではと思った。少女でも大人でもないあのとりとめもない境地を衣更えの瞬間に見出して、「風でいる」と確かに言い切ったところにこの句の醍醐味があると思った。と、そういう物語的鑑賞に誘う魅力のある句である。

男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
 男が「男運」を云々することはまずないのだが、それがとある酒場での女同士のうちとけた呟きの中にふと聞こえ、聞き耳を立てた、そんな句かと想像した。「男運」というリアルな語感の世界から、男女という社会のある意味深い背景が見える仕組みになって面白い。そして仕上げはモズクのぬるっとしたオチ。取り合せの妙である。
(鑑賞・竹本仰)

樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
 言葉と音の戯れがとてもイカしている。「き」イ音の冷ややかさと「ま」ア音の晴れやかさの連打は、濃緑の雨粒、湿った大地、樹を照りつける白い日差しに命を吹き込む。樹の真下に何があるのだろう、と思ったら樹下で何度もこの詩を呟いてみることだ。「解かない謎解き」を、その異界をただ全身で享受したい。

血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
 木下闇の匂いに懐かしさと興奮を覚えるのは、そうか、あれは血の味だから。「うっすらとして」の後、小さな息継ぎがあり、そして木下闇に着地させられる。そこにはきっと、すとんとしたワンピースを着た清楚な女性が佇んでいるに違いない。「血の味」を得た作者の静かな感動が伝わる。

また水の景色に座り桐の花 水野真由美
 「水の景色」が桐の花そのものを感じさせてくれる。大いなる水は、自分を自分たらしめる過去を引いてくる。自分を果てしなく遡行させる水に座れば、その流れは清く穏やかで、日常の憂さを、誠につまらないものへと変え、ついにはその傷跡さえ覆い尽くして広がる。そんな清麗な水を纏う桐の花に今日もまた会いにいく。
(鑑賞・ナカムラ薫)

ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
 今月もコロナ禍の俳句が山盛りだったが、ワクチンを巡る騒動が今なお続いている。「まるで蚕室」が言い得て妙。その場を経験した人の正直な感懐で、待つ人の気持ちの有りようや不満の声、噎せ返る汗や薬品臭、終わった後の小さな安堵感などがスクランブルエッグのように凝縮している。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 生き抜くことが常に駆け引きの時代にあって、この純粋な繊細さには舌を巻いた。この句の裏返しのような句だが、蕉門十哲の一人内藤丈草に「春雨や抜け出たままの夜着の穴」がある。重苦しい搔巻が人間の形態をそのまま留めているというユーモアのある句だが、どちらも春雨の句の絶品として残るべき作品であろう。

火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
 山本が何をイメージして火蛇と表象したのか不明だが、イザナミの産んだカグツチ、亡骸を奪う妖怪火車の類であろうと推察。直ぐ連想したのは現在のアフガニスタンやミャンマー、そして香港の清純な少女たち。彼女たちが遭遇している艱難辛苦を思うと、困窮もなく俳句に遊んでいる自分が申し訳ない気持ちになる。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

母を叩く夕立や腹に穿刺針 飯塚真弓
逝きし揚羽焼く母その匂い忘れず 伊藤優子
大好きな百合がぎゅうぎゅう柩窓 植朋子
辻褄は合わなくていい夏の母 梅本真規子
俯瞰して自分みている守宮のように 遠藤路子
今日は話せたガーベラを抱いてゆく 大池桜子
咬み傷のいつまで夏は惜しげなく 川森基次
形よく西瓜も赤ん坊も転がっているよ 日下若名
頷けば楽になれるか虎落笛 近藤真由美
憂き夜や動かざる灯蛾見てをりぬ 佐々木妙子
言ひ遺すこと何もなく涼しさよ 佐竹佐介
大海のかくもしづもりサングラス 澤木隆子
ひまわりや原爆の朝も咲いていた 宙のふう
はるがゐて与太ゐて我の合歓の盆 高橋靖史
虹消えてひとまず老いに戻りけり 田口浩
汝は花野拡大鏡に消えて行く 立川真理
運命線いつから流れ星の順路 立川瑠璃
わしゃわしゃと納豆の泡文化の日 谷川かつゑ
螢袋とっても柔らかい個室 中尾よしこ
小雀にも蟻にも今朝の梅雨晴間 野口佐稔
指先に駄菓子べたつく雲の峰 福田博之
清昭一ひさし昭如泥鰌鍋 藤好良
三男坊ちょっぴりぐれる凌霄花 増田天志
手鏡に水の匂ひの緑夜かな 松岡早苗
エコバッグに文庫とニッカ夏の雲 松﨑あきら
借金を倍返しする男梅雨 村上紀子
どうしても横向く向日葵七十路は 吉田和恵
死にたればこの裏山のかなかなや 吉田貢(吉は土に口)
蜘蛛の囲の端正と真面目ただそこに 吉田もろび
白薔薇と燃へて発光父の体 渡邉照香

『海原』No.32(2021/10/1発行)

◆No.32 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ラベンダー不意打ちの別れのことば 石橋いろり
かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
花盛り本日人間休みます 大沢輝一
青嵐肺のすみずみ波の音 大髙洋子
奔放に薔薇を咲かせて介護の日 奥山和子
陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
遺書に追伸おくやみ欄不要 河西志帆
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
補陀落へパラボラアンテナ浜昼顔 黍野恵
花あしび崩るるように母の文字 黒済泰子
滴りのの艶生命惜しまねば 関田誓炎
向日葵やヒロシマの日もぬっと咲き 竹田昭江
百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
麦の秋過疎地の景色大らかで 竪阿彌放心
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
柳絮舞うひかりライブの只中へ 遠山郁好
プラタナスの青き実わたしの垂直跳び 鳥山由貴子
アイリスはつれなく人は縺れ合う 中野佑海
夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
胎衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
夕立来るふと焦げ臭き父の背な 藤原美恵子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
引鳥のごちゃごちゃ先生のホイッスル 三浦静佳
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
幻聴のようにオオミズアオを見る 望月士郎
一つ家に孤食のテレビ半夏雨 森鈴
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

茂里美絵●抄出

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
許すこと許されること寒卵 植竹利江
初蝶へ顔が横向き歩け歩け 内野修
一脚の椅子と一人の芝居夏至 大池美木
六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
鎌倉の画廊閉じらる蟇 鎌田喜代子
星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
いち枚の戸籍をめくる朴の花 木下ようこ
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
戒名は「雅秀」と田中雅秀さん追悼なりし春の星 志田すずめ
足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
紅葉燃えて明日は遺伝子組み換えて 田中信克
冷蔵庫勝手に開けていいよって仲 遠山恵子
金星に坐す地面がある青蛙 豊原清明
揺れるのが好きで蛍袋かな 中條啓子
私を脱ぎたくて居る夏の霧 中村道子
紅糸蜻蛉心ときどき擦過音 根本菜穂子
皆既月食の風よわたしは蛇の衣野﨑憲子
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
白壁は鬼籍の余白走り梅雨 故・武藤鉦二
青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
 繊細な抒情感覚で、すでに一家をなしている作者だが、最近はその心情を知的に乾かして表現する傾向が出ている。同時発表の句に「人通るたびにしんぷる柚子の花」がある。この句などは従来の持ち味に近い。それでも「…たびにしんぷる」とまでは言わなかったような気がする。掲句にもどれば、「昼を白しと記すとき」の真昼の倦怠感が、「かき氷」という日常のオブジェによって、生の時間に目覚めさせられる。乾いたカ行音が真夏の空間に響き合う。「昼を白しと記すとき」のシ行、ラ行音の共振の韻もまた。

缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
 作者は、現在一人暮らし。折からのコロナ禍で、他出もままならず、さりとて気ぶっせいな引き籠りも耐え難い。ままよとばかり、湯上りの缶ビールでひと時をごまかしても、毎日のことともなれば「生きた気もせず」、ましてや「死ぬ気もせず」。まことに宙ぶらりんな一日一日のうっちゃり方を繰り返す。この句には、まさにコロナ禍の蟻地獄のような現実が、リアルに詠まれているではないか。

花盛り本日人間休みます 大沢輝一
 花盛りの本日。人間を臨時休業いたしますという。そのこころは、人間としての矜持やプライドは一旦棚上げにして、一日楽しもうというものか。これは単に休養を取るということではない。人間を一時的にやめて、生きものとして生きようということではないか。それだけに、事々しく「人間休みます」と宣言したのである。それは兜太師の言われた〈生きもの感覚〉に近い。

陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
 「やさしい語尾選ぶ」とは、必ずしも相聞句とは限らないが、この句の前に「逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇」があるので、やはり相聞の一連とみてもよかろう。それにしても、その心情のドライな軽快さは、とても一昔前の湿り気のある慕情とは似ても似つかぬものだ。「やさしい語尾選ぶ」に、この人らしい肌理の細やかさがあって感性の新鮮さを感じる。

とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
 水系の発達した我が国では、蜻蛉は古い時代から馴染みの題材であって、詩歌によく詠まれて来た。「とうすみ蜻蛉」の語感が田園風景の懐かしさを誘い、「ちちははふふむ草の風」で、産土を体感している。特に中七の平仮名表記とその語感が、その体感を匂わせてくれる。

百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
 低成長化の管理社会に入って久しいが、その中で生まれた分断や格差は、多くの生きづらさを招いている。これは男女を問わず、働くものに負わされた宿命かもしれない。そのどうしょうもない鬱屈感を、「をとこは人を斬る仕草」で晴らそうとしているという。もちろんそれは、つかの間の憂さ晴らしにすぎないが、それでも男にはその手があっただけましだとの思いを込めて、「をとこは」と少し僻みっぽく言う。「百日紅」にシラケた思いもこめながら。

紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
 紫陽花は梅雨時に最盛期を迎える。産道は、分娩の時に胎児が通過する母体内の通路。共に湿り気の多い隠微ないのちの息遣いを感じさせる場所にある。句の狙いは「産道の湿り」にあって、あの修羅場を美しいいのちの花ひらく道のりと捉えている。やはり女性ならではの感覚といえよう。

夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
 「夏シャツの鉤裂き」とは、夏の海辺でロックを楽しむ若者たちの一団を予想する。兜太師の「どれも口美し晩夏のジャズ一団」にもつながる。ただ兜太句はもっと感覚的映像なのに対し、新野句はやや観念的映像表現の匂いがする。「自由からの逃走」は、戦後ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの著書の題名でもある。掲句は、そこまで思想的なものではなくて、「夏シャツの鉤裂き」を、「自由からの逃走」と知的に見立てた感覚表現といえよう。その連想を呼ぶところが洒落ている。

花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
 花冷えの季節感を、「古書の薄埃」に喩えたのは、意外性がありながら、言い得て妙だ。花冷えで薄く散り敷いた落花は、あたかも古書に降り積もった薄埃のように、どこか馴染み深く、しっとりと落ち着いている。その感覚は、古本屋の薄暗いどこか冷え冷えとしてうず高く積み重ねられた古本棚の、狭い通路を思わせる。

螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子
 おそらく幼馴染で、お互い意識しながら結ばれることもなく時を過ごし、同窓会あたりで毎年顔を合わせながら、いたずらに歳を重ねている。そのような清い間柄のまま、静かに時は過ぎて行く。それも一つの人生。

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
 読む者の心を、しんとさせ無口にさせる。六月は生命が本格的に動き出す、いわば活発な月でもある。しかし反対に自然に圧倒されて、ひるんでしまうのも人間。「生木の哀しみ」。鬱蒼とした森の中で、ふと見つけた傷ついている木。まだ若い木がまるで内臓を剥き出しにしているような姿に一瞬どきっとして立ち止まる。そっと撫でてみる。じかに伝わる若木の哀しみ。作者の、青春の傷を思い出したようにそっと撫でる。

星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
 多分昭和生まれのこの男性(夫)は家族を愛し仕事も順調の、威風堂々の人生を送って来られたと推察する。そして「折鶴飛ぶ構え」と。静かに老いる心境は更にない。で、老人扱いをする周囲に腹を立てているのだ。傍で見ている作者は、夫の人間欲をユーモアとペーソスのまなざしで眺めている。この句の芯は「飛ぶ構え」。

足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
 高原で、さまざまな草花の研究をしていた頃の、風景がふと脳裏をよぎる。急な坂道を登ったり、長い間歩いても疲れを知らなかったあの頃。加齢と共に足腰が弱るのは自然の定め。せめて精神は若々しくありたいと思うのは万人の願いでもあろう。字面とはイメージが違う蛇苺の可愛い赤い実。足元がふっと明るくなるような。

蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
 その昔、自然と共に人々は素朴で正直で大らかに生きていた。春秋の豊作を祝う歌垣(宴)で、男も女も艶めいたひとときを過ごす。「蓮ひらく」の季語はそのように生きてゆく人間の本能をもさりげなく示唆している。

ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
 楽しかった人間関係を妨害する、悪魔のような疫病。この作品には露骨な表現はどこにもないが、しみじみとした哀しみが、読む者の心を鷲掴みにする。時には輝くように現れる、まぼろしの都。二年前のごく当たり前と思っていた普通の生活が「海市」ではなく、現実に戻ってくることを祈るのみ。

夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
 季節の感じ方の内容は独りずつ違って当然。夏至は昼がもっとも長く、人によってはその明るさに倦怠感を憶えるのかも知れない。夕暮れ近く最後の光の束が、蜂蜜の入った壜を照らすときの一瞬の光線が、黄金色のとろりとした液体の暗さを返って際立たせるのだ。甘美ですこし切ない雰囲気を具象化させ、読者を感動させる。

昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
 俳句は短いので、言葉の決定の選択次第で、優劣が決まってしまう。この作品の場合は「難問」の鋭さ。ある年齢に達すると人はこのような想いに悩むことになる。壮年期の社会的に認められた立場では、なおさらであろう。智に働けば角が立つ、の心境。人間関係の微妙な空気に敏感になってしまう。しかし案ずるなかれ。温かい応援の視線もあるはず。あえて申すならば、世間の雑音に拘わらず堂々と歩むしかないのでは。時にはゆったりと、昼寝をすることも必要なのです。

青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
 自分の言葉を見つけるのは、たやすいようで、実はとても難しい。言葉は空気の中の微塵の光のようで、それらを掴むことの出来るのは、ある意味で無心で素直な感性のなせる技なのかも知れない。「青水無月」の季語がパッと目に飛び込む。そして「地球」。大きな自然の中で、瞳にかぶせる薄いレンズの存在。すんなりとした言葉たちではあるが、大胆さも感じさせる一句。

半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
 シュールな詩の一節のようで独りで楽しみたいと思える句。「半裂」「水槽」「端」の裏側にある想いとは。息苦しさや閉塞感は、今や世界中の現代人が、みな持っている心の状態。厖大なあるいは狭い世の片隅で、人々はさまざまな制約を受けながら生きている。大勢の中のひとり。世の中の端っこで。ある者は病院の中で。

蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
 俳人の想像力の逞しさを感じる。例えば蒲公英の咲くさまを、可愛い、と思うのがフツーの感覚。この作者はたぶん物の外見に騙されないすこし立ち止まる冷静さの持ち主。そして植物にも意志があると思っているのだ。蒲公英の根は意外に頑固で見えない所で意地を張っていると。あぁこういう種類の花も、あるいは人間も嫌いなんだと改めて納得している作者のユニークさが面白い。

兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名
 「ワハハ。ばかに暑いじゃねぇか。晩夏なんぞと気取りやがって。くたばってしまえ夏さんよ」兜太先生のナマの声が聞こえそう。一見気難しそうなこの作者。「兜太ありき」に万感の想いがこもる。ジーンとしました

◆金子兜太 私の一句

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 俳句を習い始めた頃、この句に出合い衝撃を受けました。春の訪れを全身で感覚し、しかも自由にうたい切ったところが凄いと思う。白梅が引き金となって青鮫が現れる想念はとても新鮮でした。嘗て朝日俳壇の兜太選にひかれ、その選評に頷き多くの共感を覚えました。また朝日カルチャーや読売カルチャーの教室にも参加させて頂けた金子先生のご縁に感謝いたします。句集『遊牧集』(昭和56年)より。髙井元一

黒ずみしとろろを啜る初夏兼山 兜太

 平成10年、岐阜県兼山町(現・可児市兼山)の蘭丸ふる里の森に於て、春の吟行会が催された。当時の町長は俳句に理解があり、兜太先生を招待され、海程の会員十数名も参加。掲句は素朴で郷土色豊かな土地柄に対する気持ちの良い挨拶句であると思った。句集『東国抄』(平成13年)より。【平成17年、同公園内に合併を記念して先生の句碑が建立された。〈城山に人の暮しに青あらし〉】平山圭子

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
白椿穢れなき刃の我に向く 大池美木
しんかんと老いゆく地球花の闇 北村美都子
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
満開に足のつかなくなる深さ 小松敦
春がくる骨の一挙手一投足 佐々木昇一
冬の虹古本の如母の手のひら 清水茉紀
晩節は春泥のごとひかりおり 白石司子
朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
呟きは鏡の国へ雛あられ 高木水志
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
風船売遠軽までは風に乗り 遠山郁好
蝶ボルト春愁の指遊ばせる 鳥山由貴子
カラスノヱンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
華鬘草老いて早口早足よ 野田信章
歯につきし飴のようなり春の悩み 村上豪
ひとひらのどこからかきて春愁 望月士郎
海市昏し弁当箱の隅に骨 茂里美絵
春の川この世は呼吸いきをするところ 横山隆

服部修一 選
のどかさの真ん中市電のふと悲し 石川まゆみ
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
鍵穴はなんの饒舌春疾風 大髙宏允
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
旅という終わりあるもの春夕焼 奥野ちあき
悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
野火走る男の背の四角かな 加藤昭子
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
花筏どれも船頭がいない 河西志帆
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
春眠の時の潮目の午後三時 齊藤しじみ
朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
悲しみはさざ波のごとヒヤシンス 清水恵子
物種の臍かな裏は大宇宙 すずき穂波
残された時間山椒の芽の天ぷら 髙尾久子
陽炎や君と並んで薄い僕 高木水志
桜ちりゆくひとしずくひとしずく 月野ぽぽな
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
逃散史めくれば村の陽炎えり 故・武藤鉦二
引き抜いてほいと大根渡される 森由美子

平田恒子 選
行く春の遥か先ゆくわれの影 伊藤道郎
灯台の螺旋は祈り野水仙 榎本愛子
戦さあるな餓死の島より兜太は今も 岡崎万寿
型紙の幅を継ぎ足す薄暑かな 荻谷修
カラスのエンドウ段々縺れゆく会話 奥山和子
蝌蚪の水少年の日の真顔を映し 小林まさる
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
双眸に朝のきていて真菰の芽 関田誓炎
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
長城暫し万里にかかる春の虹 董振華
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
朴の花憲法のこの声の若さ 中村晋
臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
淋しさは空腹に似て色なき風 野口思づゑ
まれびとのほとほと叩く蓴舟 日高玲
言いそびれ聞きそびれ鳥雲に入る 藤田敦子
感情が濾過されてゆく花吹雪 松井麻容子
検温の額差し出し青野めく 松本勇二
魔女狩りもかくやアネモネがすれすれ 三世川浩司

嶺岸さとし 選
海明ける笊蕎麦一枚の気分 石川青狼
原発は国家の柩鶴帰る 稲葉千尋
福寿草キリマンジャロの地図広げる 植竹利江
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
外来語辞典かかえたかたつむり 久保智恵
野焼きの匂いくすぶる恋のありやなしや 小池弘子
日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
少年の項かなしき袋掛 白石司子
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
時空越え八分音符は花の窓 蔦とく子
花は葉に処理とは棄てることでした 中村晋
長閑だな腕をついはずしたくなる 北條貢司
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
村を出る父よ真鱈を厚く切る 武藤暁美
畦塗りの黄泉へと続く鍬づかい 故・武藤鉦二
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子

◆三句鑑賞

朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
 春の月は、他の季節の月とは異なり、柔らかく滲んだ風情が特徴だ。その極みである〈朧月〉を前にした体感を〈目鼻口耳もくびこうじの交歓す〉と個性的に言い得て見事。〈朧月〉だからこそ、目と鼻と口と耳の機能の輪郭が曖昧になりすべてが溶け合い喜び合うのだ。やがて〈朧月〉とも渾然一体に。なんという恍惚感だろう。

藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
 藤棚の蔓が〈オンライン〉の画面に向かう者同士の繋がりを、藤の房の姿や匂いが〈深夜〉ゆえの心身の悦楽と倦怠を彷彿させる。〈藤棚のごとく〉の比喩が冴えると共に、現代の景を詩的に掬い取った〈深夜のオンライン〉の措辞が光る。兜太師の唱えた「古き良きものに現代を生かす」精神が掲句に確かに息づいている。

うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
 〈うまれつきぼんやりで〉ね、と優しく微笑む雅秀さんの姿と、美しい〈雪と花〉の映像とが、柔らかく重なり合う。今年四月、若くして他界された雅秀さんを、兜太師は驚きながらも温かく迎えられたことだろう。この場をお借りして、俳句のご縁で雅秀さんと出会えたことに感謝し、雅秀さんのご冥福を心からお祈りする。
(鑑賞・月野ぽぽな)

悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
 「アメリカヤマボウシ」の文字数が十七字の過半を占める贅沢な構成だがとても惹かれる。アメリカヤマボウシは日本のヤマボウシに似て、花がピンク色の実に美しい花木。作者はこの花を悲しみに結びつけた。日本の街路樹の中でも華やかに見えるこの花、もらわれて来て遠い異国を飾りたてる姿に悲しみが見えたのだろうか。

花筏どれも船頭がいない 河西志帆
 「どれも船頭がいない」という短い言葉から、花筏の「されるがまま」の様々な光景が目に浮かぶ。吹雪のごとく舞う桜、水面に浮く無数の花びら、花びらは三々五々寄り合い重なり、流されていく。作者はさらにこの句に、どこに行き着くかわからない今の社会情勢や生活に感じる、何とはなしの不安を含ませているようだ。

朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
 トランプの「ババ抜き」が下地なのだろうか。しかし私にはこの「遊び」が、どこか異界で行われる不思議な行為に思えてくる。大いなる者が、とある空間からジョーカーを取り出している。この作業は暗く孤独で、永遠に続けられているようだ。なんの目的でこの作業が行われているのか、またジョーカーが何を意味し、大いなる者が何者かは定かではない。
(鑑賞・服部修一)

古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
 夕焼は翌日の晴天の予兆である。西の空を真赤に染める豪快な夏の夕焼に比べて、春の夕焼は、はんなりと西空を染める。「古本の賑わい」とは言い得て妙である。小さな町の古本屋。時代と人の慈しみの手を経て、巡り合う一冊の本と人。時の鎮もりと、重なる「ご縁」がある。少々くすんだ本の色合いや手触りも懐かしい。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 タカの一種である差羽。秋に大群で南方へ渡る。数万の差羽の大群が岬の上昇気流に乗って舞い上がる様は、鷹柱と呼ばれる。季節の変化を人もまた、肌感覚で感じ取る。雄大な鷹の渡りの景から、新しいパジャマの用意へ、一気に日常の一齣へと視点が移る。取り合わせの意外性、ダイナミックで爽やかな世界である。

臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
 春分から少しずつ日が伸び始めると、日中の時間や気持ちにもゆとりが出来て、のびやかになる。丁寧に『千字文』を書き写してゆく。さぞ満ち足りた三日間であったことと拝察する。古代の百済系帰化人、王仁が『論語』と共に日本へ伝えた楷、行、草の『三体千字文』。習字、書道の手本として、今も書き継がれている。
(鑑賞・平田恒子)

日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
 作者の句はほぼ平易な日常語しか用いない。しかし、つい見過ごし、忘れ去りそうな、小さな掛け替えのない世界を提示してくれる。掲句は、コロナ禍の中で日々の小さな楽しみや生き甲斐が奪われてゆく危機感、喪失感を、身近なタンポポに託して表現したものだろうが、シンプルながら真に迫る危機意識の深さに驚かされる。

少年の項かなしき袋掛 白石司子
 作者はしばしば、若者・少年賛歌を詠んでおられる。この句もそうだ。果樹(葡萄?)の袋掛けはなかなかの重労働と聞く。長身で色白の少年が身を屈めるようにして懸命に作業を進めている。すっと伸びたうなじを窮屈そうに曲げながら。作者は、その様子を愛しく見守っているのだろう。「項」に焦点を当てたのがとてもよい。

蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
 「父の墓」に「蹴り上げたキャベツ」が出てくる意外性に、先ず心を掴まれた。しかも、キャベツが「戻る」などあり得ない。結局、こういうことかと考えた。父の墓に参ると、生前、父が怒りにまかせてキャベツを蹴り上げた記憶が、決まって戻ってくる、なんとも豪快な父だった―と。読ませる壺を心得た手練の句。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

気に入らない愛する君よほととぎす 有栖川蘭子
緑陰に擬態してゐるカフェテラス 有馬育代
父の日の摩る手と手のきりも無や 飯塚真弓
マカロンの列のしんがり五月蠅なす 石口光子
ジオラマにパセリ千円分の森 植朋子
薫風や市電は頭振って来る 上田輝子
緑まばゆし死にゆく母とふたり 遠藤路子
羅を着てこころ澱ませないマナー 大渕久幸
古書店のどこまでが棚花曇 かさいともこ
蟻の足凄い速さで乱れるよ 葛城広光
彫り物の青き眼の龍明易し 神谷邦男
少年茜に焼け母とゐる土手 川森基次
どくだみの匂いのぐるり黒沢家 黒沢遊公
ほうたるの川へ傾ぎぬ千枚田 坂本勝子
小便小僧をあの子と呼ぶ子青葉風 佐々木妙子
紫陽花の叢よりヒッチコックかな 鈴木弘子
主治医逝く新病棟に冴ゆる月 宙のふう
鯰憮然千のマスクにさらに憮然 田口浩
水母の傷夜の素顔に似てはずかし 谷川かつゑ
母の日の付録のように父の日来 野口佐稔
花見酒末期の水を斯くの如 平井利恵
梅雨晴間おのれの頭撫でる僧 増田天志
木蓮が好きだった津波が来るまで 松﨑あきら
毒殺す正義正論晩夏光 武藤幹
瓜漬の底に弐日ありにけり 矢野二十四
水馬に押され水馬前に出る 山本まさゆき
梅雨寒や在宅勤務に妻の影 横林一石
こども図書館ももんがスーッと飛んだよう 吉田和恵
蜃気楼彼岸のきわの迫り来る 渡邉照香
左遷さる鬼薊の群れの中 渡辺のり子

『海原』No.31(2021/9/1発行)

◆No.31 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

寂しさとう頑固のひとつ冬の岩 有村王志
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
空気からからだ引き上げ春の蠅 伊藤歩
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
眠るも沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
お喋りの続きは来世で花は葉に 宇川啓子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
空耳のシュプレヒコール久女の忌 奥山富江
野の空席わが春愁の個室です 金子斐子
コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
若松のさかる風帰天いま 北村美都子
甘野老あまどころほろほろ嘆き唄う母 黒岡洋子
蕗味噌や黒ずむ爪の母います 佐藤美紀江
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
木の芽山石棺の夜の湿りかな 白石司子
走り梅雨お悔み欄の歳を見る 鈴木康之
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
へそくりを隠し金魚と目の合いぬ 寺町志津子
川上に孔子の嘆き花は葉に 董振華
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
泣き上戸アサギマダラの島に老い 本田ひとみ
暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
師は遠く縄文土器と麦の秋 森鈴
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

茂里美絵●抄出

バードウイーク蛍光ペンで目印を 石川青狼
白薔薇のブラックホールに嵌りこみ 石橋いろり
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
陽炎の中に冷たき火種ある 榎本祐子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
秋の空遠くにきっと笑顔あり 奥村久美子
星影を雫に変えてふところへ 奥山津々子
こいのぼり方向音痴でも愉快 小野裕三
人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
みんな帰った夕焼のスイッチ押す 狩野康子
再会は春の星座の燃ゆる刻 刈田光児
使わない香水がまた減っている 河西志帆
父母に会うために生まれて山笑う 楠井収
サイダーの思い続けている世界 小松敦
ラフマニノフに逃れ緑陰に溺れ すずき穂波
紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
蛍狩あすはナポリへ飛ぶと言ふ 長尾向季
花に重さ鼻くすぐってゆくうつつ 中野佑海
つちふるや一糸まとわぬ走り書き ナカムラ薫
マスク外して陽炎になっている 丹生千賀
かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
臥竜梅夕くれないの海の微熱 平田恒子
遠桜人はいつから淋しがる 松岡良子
視力なきひとの草笛ローレライ 松本節子
パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

海原秀句鑑賞 安西篤

三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
 三密とは、令和二年に厚労省が掲げたコロナ対策の標語「密閉、密集、密接」のこと。葉桜の始まる頃。三密で抑圧されていた生活感は、ほとんど限界に達しようとしている。それを三密の表面張力と捉え、目一杯の臨界点のまま、花は葉に移ろうとしているというのだ。一字空けの効果が臨界点の緊張感を伝える。

コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
 コロナ禍のステイホームも長引くと、身だしなみや肌のお手入れもおろそかになりがちで、勢い雀斑もふえてしまう。初夏、一面に梨の花咲く里に来て、その白花の群落に身を浸し、しばし命の洗濯を試みる。さてその効果のほどは―。梨の実の雀斑模様が答えを暗示する。

若松のさかる風帰天いま 北村美都子

 本年四月二十八日に五十七歳で亡くなった田中雅秀さんへの悼句である。会津若松に在住、ご主人とともにホテルを経営しておられ、傍ら東北新潟を駆け巡って俳句行脚にいそしんだ女丈夫でもあった。遺句集となった『再来年の約束』に、北村さんが心を籠めた解説を書いている。しかし誰もが予想しなかったように、約束の再来年は果たせなかった。故人の所在地と名前を折込み、痛惜の思いで書かれた一句。

暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
 たね爺とは、亡くなった関西の俳人高橋たねをさんのこと。おそらく、海程香川句会の屋島吟行ではないか。そこはたねをさんがしばしば訪れては、句会に活を入れていた場所でもある。「たね爺さんよ、いつもの屋島に夏が来ましたよ。」と呼びかける。いや呼びかけたい思い。

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 災後十年を経たフクシマの、遅々たる復興の有り様の一端を覗かせる一句。被災地には一部更地化した土地は、除染されたとはいえ本当に安全基準に達しているのか疑念は晴れない。更地化された土地は再利用されそうもなく、しらじらと空けたままかげろふが立ち、誰が落としたのか一本の歯ぶらしがあるばかり。

脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
 かつてロボットといえば、人体模型化したものがイメージされ、その典型が鉄腕アトムだった。ところが今やロボットの導入が進んで、工場内の単純作業はロボットが処理するようになり、人間の肉体労働はほとんど代替されてしまった。加えて、その機能分化により、脚は脚だけ、手は手だけのロボットが、それぞれ流れ作業の一端を担っている。「昭和の日」は、その時代の変化への回想であろう。

原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
 原爆忌も、ここまで日常化したイメージで書けるのかと思わせる一句。俳句の場合、普通は前書きが主で、後書きは稀に長々と散文的事情説明となる場合が多い。原爆忌俳句で有名なのは、松尾あつゆきの「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」に付けた前書き「十五日妻を焼く終戦の詔下る」がある。掲句はそういう前書きも後書きも一切省略して、一句勝負で書かれた原爆忌俳句を指す。それこそが原爆忌俳句としてもっとも潔い態度だという。

手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
 格調高い美意識で映像化した一句。墨流蝶すみながしとは、翅が墨を流したように見える美しいタテハ科の蝶。上句・中句の映像表現は、「墨流蝶すみながし」の具象性よりも、言葉から来る映像感覚に誘われるように「手足濡れゆく」とし、蝶のかすかな羽ばたきがしばし収まりゆく様子を「浅き眠り」と喩えた。それが 「墨流蝶すみながし」 という題材に現実感をもたらしたといえる。作者の文学的感性を感じさせられる。

野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
 「野遊び」という季語は、夏井いつきの『絶滅寸前季語辞典』に収録されているように、今ではあまり使われていない季語。戦前から戦後にかけて、中流以上の家庭ではよく行われていたピクニックのことである。そんな季語をハワイ在住の作者に蘇らせてもらった。「素直になるための順路」とは、その世界に戻るには、一定の心理的な場を、順序よく踏んでいかなければなるまいということ。

 他に触れるべき句として惜しまれるものを挙げておく。

眠るも沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵

海原秀句鑑賞 茂里美絵

廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
 ツルゲーネフの小説『父と子』を想起するのは、穿ちすぎだろうか。父と娘の甘やかな関係、母親に対する、息子の永遠の思慕とは隔絶した意識。追い越すことが出来なくて反発した青年期。だがやがて父を追い越していく自分。その象徴として「西日」「廃屋」がある。しかし「純化せり」には、哀切的な父へのオマージュが、込められているのではあるまいか。

神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
 蠟梅の実を知らなかったので図鑑で調べた。五月頃には、あの透き通るような花からは思いも及ばない、長さ四センチの立派な実がなるという。上五の、神棚からはモノ。そしていきなり、マチスである。全体に微妙に、ずれた感じではあるが、どうしても立ち止まらなければいられない俳句もある。仄暗い神棚にささげる蠟梅の実。神棚とは掛け離れた艶やかな黄色の実。命そのもの。純粋的色彩の世界を創りあげたマチスを、其処に見出した作者の、イマジネーションに感服するばかり。

サイダーの思い続けている世界 小松敦
 長いスツールに腰かけてサイダーを注文する。都会の一隅の小さな店。軽い閉塞感のある雰囲気の中で飲むサイダー。プツプツと無数の気泡が喉を過ぎる。次第に、自分自身もその気泡と同化していく。見知らぬ人々の流れを、窓越しに眺めている内に、想いが広がっていく。不安、悲しみの溢れた現代の世界。サイダーと一体化して無意識にぶつぶつと呟く作者。

紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
 人生の三分の二は悲しみに包まれている、とはある作家の言葉である。人間は勝手なもので、嬉しいことにはすぐ満足して時間を引き延ばしたりはしない。悲しみも色々段階はあるが、他のことに集中して悲しみを忘れる努力をするのは、かなり重い事柄と思う。その様な時には、先程の作家の〈人が生きるということは、その三分の二は悲哀なのです〉を思い出して欲しい。あなたには、輝くような早春と紅梅が寄り添っているのだから。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 もともと春雨は静かに降る。白雨のような激しさはないが、じんわり体にまとわりつく。そして「切り裂く」ではなく「切り抜く」には微妙な違いがある。春雨の透明なカーテン。折紙を丸く切り抜くように、かすかな音を立てて前へ進む作者。若い感性の捉えた、自然現象の一瞬を、するどく表現して見事。

バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
 腰掛け部分が蝶の翅のように広がった、背もたれのない椅子。この場合、木製品と勝手に想像してしまう。いろいろに空想の広がる俳句は楽しい。つまり省略が小気味よく利いているということ。更に言えば、具象と抽象を備えた主旨が、俳句の真髄だと思う。蝶の形をした椅子から、青葉へと移行していく、こころ。春から夏へ加速していく森のざわめき。
 評論集『蝶の系譜』(高岡修著)から見つけた短歌を次に。〈丘の上を白いちょうちょが何かしら手渡すために越えてゆきたり山崎方代〉
 蝶は美しいばかりでなく、幸せも運ぶ使者なのかも。

かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
 静かにゆっくりと歩を進める。まひるの空気がゆらゆらと動く。かげろうも寄り添うように動く。老尼僧と言えども、厳しい戒律とさまざまな日課のなかの日常。「かげろうと棲み分ける」の意味するもの。迷いを謝絶した柔和な表情。しかし凜とした想いが、辺りを鎮める。対極的な位置に在るかげろう。しかしその儚い自然の現象を認めた上で、この老いた尼僧はゆったりと陽炎とも共存するのだ。

パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
 俳句の世界にもコンピューター時代が来ているらしいというより、現在のコロナ禍の中、パソコンでの通信句会をせざるを得ない。便利になったが、其処に風や花の匂いはない。この作者は、それを逆手にとってゆったり暮らして居られる。街へ出ても人と人は表情や手ぶりで会話を交わす。まるでパントマイムのように。同じような日々が過ぎていく。桜が散り美しい葉桜になっても、さまざまな国ではパンデミックと戦うしかない。静かに半ば諦めのまなざしで、それらを眺める作者。

青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子
 〈酔ふばかりであったふらんす物語荷風〉こんな断片をどこかで読んだ。永井荷風。作品に『ふらんす物語』など。若森氏の俳句には不思議な復元力がある。勇気づけられる。日本はいま正に「幽愁のくに」。このフレーズには参りましたね。まぁでも私たちはどんな時でも、前を向いて歩くしかない。さぁ歩こうよ、と。親しい仲間とひっそり個室で飲んで、酩酊の口にはマスク。そして青葉冷えの夜風に吹かれるのも、たまにはいい、か。

◆金子兜太 私の一句

酒止めようかどの本能と遊ぼうか 兜太

 金子先生が朝日俳壇の選者になる前、担当記者が掲句を私に示し、「これ、誰の句か知ってる?」と。正直に首を傾げると、今度選者になる金子兜太さんの句と教えてくれた。その担当者は酒好きうまいもの好きで「全く身に染みる句だよなぁ」と言いながら、透析しつつ先生と旅をした。先生の選者入りに反対する空気と断固闘った人。そして、私にとっての邂逅の一句となった。句集『両神』(平成7年)より。滝澤泰斗

自動車の眼玉が二つ不思議な冬 兜太

 車の前照灯を眼玉が二つと直截にとらえたインパクトある表現が気を惹く。かっと見開いたその眼玉がみている事象は何か、あるいは心のあり様だろうか。「不思議な冬」のフレーズが韻律のよさと共に忘れ難い句の存在を示している。郊外に住む私にとって車は分身の如くあり、運転あるいは同乗の機会に嘱目した自句を思い返すとき、掲句は高みにある。句集『皆之』(昭和61年)より。三木冬子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
睦むとき冬の金魚が翻る 榎本祐子
耕すや孫と花びらついてくる 大久保正義
鉄路にも桜の余熱逢いに行く 片岡秀樹
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
話したいこといっぱいあった窓に雪 佐孝石画
頭あり早春の遺失物のよう 佐々木宏
母の忌の木に寄りかかる冬日向 管原春み
ぶらんこを乗り継ぎいつか星になろう 竹田昭江
はんの花死にたいなぁと生きたいなぁ たけなか華那
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
恋猫の無明ムミョウと哭きにけり 中内亮玄
水に声火に声三月十一日 中村晋
兜太の忌血脈のごと野草の根 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
しぐれたる葦原老いのまなこは駅 北條貢司
幼子の匂い春の虹の匂い 村松喜代
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
新雪の遠嶺くっきり喪明けかな 森由美子
春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子

服部修一 選

春は曙追いかけることばっかり 大池美木
春を想う橋から帽子飛んでゆく 大髙宏允
ぬたになる分葱再婚する分葱 こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
冬眠をしたい人間しない熊 篠田悦子
おでん鍋戦争が匂いはじめる 白石司子
サンタ来るパーテーションの向こうから 芹沢愛子
パンジーの寝言はきっとありがとう 高木水志
税務署は本屋の隣二月尽 寺町志津子
春の風蠢くものの応援歌 東海林光代
人はみなひとり春の海キラキラ 西坂洋子
春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
夢を売ります風花の窓辺にて 船越みよ
蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
風呂に浮く柚子の愛され上手かな 三浦静佳
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
草餅を食べて死などは考えず 村本なずな
セーターを着て人間がうしろまえ 望月士郎
地球儀回せば難民零れ落ち 輿儀つとむ
木履ぽっくりをはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子

平田恒子 選

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
冴え返る羽音のごとき人の流れ 伊藤淳子
明暗の境目あたり遍路かな 大髙宏允
軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
佐渡よりの流木砂洲の天の川 黒岡洋子
ゆく春の輪ゴム見えなくなるまで飛ぶ こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
白鳥や言葉深追いせず眠る 芹沢愛子
末黒野にキリンの義足鳴る夜かな 竹本仰
鳥雲に入る記憶こそ鮮やか 故・田中雅秀
春の致死言葉の先に人がいる 中内亮玄
枕辺に枯露柿三個遺書はなし 野田信章
寒月下ジャングルジムという折り鶴 堀真知子
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
白鳥の千のつどへば千の鈴 松本千花
惜春の石に壊れし椅子一つ 村上豪
寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
光年やいまさらさらと春のからだ 若森京子

嶺岸さとし 選

水色のスープが刺さる浅い春 泉陽太郎
諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
はくれんへ逃れて少女拒む羽化 伊藤道郎
春の雨インド象ゆっくり通る 大池美木
ふっと声目線上げれば梅二輪 狩野康子
白さるすべり夜を散らかすのが仕事 河西志帆
深雪晴宙いっぱいに嘘をつく 後藤岑生
温かなタオルでぬぐう春の夢 小松敦
能面の嗤いが駈ける芒原 清水茉紀
何度でも握り返して春手袋 故・田中雅秀
分身として朧夜の声ひとつ 月野ぽぽな
剪定夫はるかな山も抱え居り 中村孝史
薪ストーブ爺の訛のよく燃える 前田恵
アクリルの向こう遙かを徒遍路 松本勇二
言い訳の言葉ちぐはぐ落椿 武藤暁美
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
永遠の紙ヒコーキを冬青空 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
木履ぽっくり をはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子

三句鑑賞

おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
 手鏡を開けて自分を映すと、鏡の自分がいろいろ話してきて、ちょっとうるさいので、黙ってもらった。実は喋っているのは自分の心なのだけれど、その様子を〈おしゃべりな鏡を閉じる〉としたユーモアのセンスが光る。どんな心の声だったのだろう。ふふっと微笑むような余韻が〈春の宵〉にやわらかく広がってゆく。

しぐれたる葦原老いのまなこは駅 北條貢司
 駅は動かず、来るものを受け入れ、去るものを見送る。列車や人々、ひいては時間さえも。〈老いのまなこは駅〉からは、何もかもを忙しく追いかけた日々は過ぎ去り、それを経験したからこそ到達し得た、全てをあるがままに受け入れて執着しない、達観の眼差しが見えた。一面の枯葦は来し方。時雨は全てを慈しむように降る。

春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子
 〈春寒〉の体感を〈四肢ゆるく絞め〉と掴んだ、「肉体感」とも呼びたいうぶな感性が独特で魅力的。冬の寒さとは違う春の寒さがここにある。そして〈さすらいの四肢〉から、春寒の頃、〈さすらい〉の句を此岸に置き他界された兜太師の姿が私たちの前に現れる。「定住漂泊」を生き抜いた師への渾身のオマージュである。
(鑑賞・月野ぽぽな)

春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
 「ごろごろ」という語感が、十分に成熟した上蔟まぎわの蚕を思わせる。日本経済発展の一端を担ってきた蚕糸業界は、化学繊維や生活様式の変化により急速に衰退した。かつてこのような豊かな春蚕に多くの人たちが携わり、喜びの歌も生まれた。馥郁とした春蚕を前にして、作者も大いに心を動かされたのではないだろうか。

蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
 路傍の蒲公英は大変だ。行き交う人々から踏みつけられては頭をもたげて立ち上がり、また踏まれる、のくりかえし。しかし作者には蒲公英に意思があるかのように、うまい立ち上がり方や、ダメージの少ない踏まれ方があるように見えた。人間にしても同じ。しかも人間には知恵も足もあり蒲公英よりはうまく対処できるはずだと。

夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
 夫婦は幾何学だ、と言っている。夫婦問題の暗喩。そこで幾何学側から夫婦問題を見ると何か分かるかもしれない。たしかに幾何学は複雑のようでも必ず解があり、規則的な幾何学模様は見方によっては美しい。深淵なる夫婦問題も案外そんなものか、と納得しそうになる。いろいろ考えているうちに、下五「しゃぼん玉ふわり」で作者本人に寄り切られた感じだ。
(鑑賞・服部修一)

軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
 本来「軋轢」は人間の不和、葛藤などを意味するネガティブな言葉である。この作品の面白いところは、「軋轢」を詩を育む母胎のように捉えて、柔らかい芽吹きの中に置き合わせた味わいである。時を得て良い詩が醸し出されることを信じて、軋轢をも抱きとる包容力と懐の深さが感じられる。

寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
 寒卵がつるりと剥けて、見るからに美味しそう。滋養にもなりそう。書き物をしていると、覚えていた筈の文字が不確かで辞書を探す。一本横線が足りないかな?ならばちょこっとそれらしく足しておく。筆順は当然つるんと誤魔化しちゃった。茶目っ気たっぷりのユーモラスな描写が好もしい。

アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
 昭和三十年代、デパートなどの商業ビルの屋上には大売出しの宣伝のアドバルーンが揺れていた。ただ、強風には弱い。どこかへ飛んで行ってしまわないようにと、見張りのバイト要員が控えていたのだろう。近年では、世間の反響をうかがうために意図的に情報をリークするアドバルーン揚げもあるので要注意!
(鑑賞・平田恒子)

諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
 一読、「諦めの美学」は「おぼろに」語るのが相応しい、と読めた。が、平凡だ。作者は「おぼろに語」るのが大好きなのではないか。「諦めの美学」だとしても朧に語らずにはいられない。「諦めの美学?だとしても、朧に語りたくて仕方ない私です。一緒に朧に語りましょう!」こんな解釈の方が魅力的ではないか。いかが?

てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
 何かを思わず握りしめようとしたか、包もうとした瞬間だったのか、掌に意志を見たのは。自分の中の無意識、本能的なものが表出した一瞬をみごとに形象化している。「指」でなく「てのひら」、「小さき」でなく「軽き」の措辞の斡旋が、詩を生んでいるのではないだろうか。作者の柔らかな感性に拍手を贈りたい。

木履ぽっくりをはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子
 「木履」は女児用の下駄のようだ。幼時の記憶から、翻って老いた我が身に思い至るのだが、さり気なく、洒落で死に方願望を語ってしまうおおらかさと諧謔味に、心を鷲掴みにされた。こういう心境は俄仕込みでは生まれてこないように思う。作者の辿りきた人生の豊かさと深さを想う。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

過ぎ去りし若さ照らして更衣 有栖川蘭子
蜘蛛下がる御用学者の眉尻へ 植朋子
こころの迷彩は何を隠すの夏 大池桜子
一言も発することのない泉 大渕久幸
陽炎のことなど話し蕎麦啜る かさいともこ
雨粒のたった五粒に山沈む 葛城広光
藤の房屈伸の手は地につかず 河田清峰
告白の腹にいちもつ罌粟の花 木村寛伸
梅雨寒や缶振れば鳴るドロップス 清本幸子
ポン菓子屋ポンポン春を引いてくる 後藤雅文
父の手の昏がりにほうほたる 小林育子
毛たんぽぽ言葉の襞からひらひら 小林ろば
海ばかり見てながらえてはまなす野 榊田澄子
熊野路の雨は球体雨月かな 宙のふう
春蝉鳴く今日の顔して一日かな 高坂久子
黒薔薇の蔓が寝棺の窓を這う 田口浩
夏館母は吾を吾はデグーを叱る*ペット、ネズミの仲間 立川真理
白というまばゆき坩堝更衣 立川瑠璃
青田波蝦夷百年の風の記憶 谷川かつゑ
生きてあれアカシアの花共に見む 平井利恵
花冷えのショパンすこしく前のめり 深澤格子
らいてうとふ女性ありけり青き踏む 藤井久代
こころざしこんな処に蕗の薹 藤好良
来し方の変えぬ不器用豆の飯 保子進
春惜しむ集ひに一人リアリスト 武藤幹
少しだけ親切になれる薔薇咲く 村上紀子
鳥曇海に帰れぬ水のあり 矢野二十四
花びらを着けデイケアから母帰る 吉田和恵
素っ裸おむつ一つの父の体 渡邉照香
もののけのはしゃぐ声する春嵐 渡辺のり子

『海原』No.30(2021/7/1発行)

◆No.30 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

晩年とは風を聴くこと西行忌 赤崎ゆういち
諸葛菜土鈴ですか山鳩ですか 石橋いろり
籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお
この話長くなります龍の玉 奥山富江
アンテナの多き下町クロッカス 小野祐三
気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
目借り時尖ることばをどうしよう 桂凜火
散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
笑むことも自傷のひとつマスク美人 久保智恵
背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
溺愛でなく風は摺り足してカタクリ 小林まさる
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
点滴がつづいています夢十夜 白井重之
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
耳朶柔し百態の春に惚ける 竹田昭江
三日月がさくらを静かに分けている 竹本仰
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
春雷や古き文読む母の眉間 遠山恵子
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
カラスのエンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
野卑にして優し焚火に筍焼く 藤野武
春浮雲少し動いた有精卵 村上友子
点滴と心音シンクロして透蚕 望月士郎
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子
生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名

松本勇二●抄出

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
神の留守マルクスのごと前かがみ 奥山富江
鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
春キャベツ拗ねてひとりになりたがる 河西志帆
連弾のよう夜更かしの仔猫たち 河原珠美
亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
ゆっくりと母来るように春の雪 佐藤君子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
たんぽぽを真っ直ぐに来る装蹄師 鳥山由貴子
土いじる二人のえやみ長閑なり 中村ひかり
田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
偏頭痛きざす紋白蝶までとおい 三世川浩司
白木蓮デモクラシーは錆びやすく 嶺岸さとし
畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
菜種梅雨ジャンボ滑り台の憂鬱 吉澤祥匡

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子

 時代背景は異なるが、ともにミャンマーに関わる現実を基に作ったもの。岡崎句は、竹山道雄原作市川昆監督により映画化された名作をモチーフにして、かつてのビルマの英霊に対する供養に生涯を捧げた一日本兵士の故事を思い、ミャンマーの平和の回復と歴史への鎮魂を祈る。「忘れまじビルマにさ迷うわだつみの骨」の句もある。
 佐々木句は、現在のミャンマー国軍と民主勢力との対立状況を踏まえ、軟禁状態にあるスーチー女史に草の根からの声援を送る一句。ともに時代状況に即した問題意識が熱く反映された作。

籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお

 ステイホームを余儀なくされている日常を詠んだ二句。泉句。巣籠りの日々にも、紅白入り混じった木瓜の花が日毎に彩色するように色をつけ、鬱陶しい気分を慰めてくれる。ささやかな日々の移ろいに見出した彩りが、柔らかな息遣いのように感じられる。
 尾形句は、少し当たり散らしている感じ。同時発表の「歯ぎしりやじりじり動く洗面器」の句などをみると、大丈夫かと言いたくなる。それだけ若さからくる鬱屈感が強いのかもしれない。花をみてもその優しさに癒されず、ゾンビ映画の刺激によっても発散することはない。あげくの果ては「ふて寝」と決め込んだが、それで一件落着とはいくまい。そのありのままの屈託感をぶっつけているところが面白い。

気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
 通条花は、三~四月頃、黄色の房状の花序を長く垂らして枝一面に咲く。地味な花で、いかにも気取りなく生きている感じがする。句の中で明示されているわけではないが、「風の中」には、コロナ禍の危機感に揺れる現在が暗示されているとみてもいい。作者はすでに熊本の台風禍で、抗い難い災禍を経験している。そんな時、平常心をもって柔軟に生きることを、通条花の立ち姿に見ていたのかもしれない。

散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
 池や川面に大きく枝を差し伸べた桜は、落花の頃は水面にさまざまな模様を描く。その模様の一つを仮面のようなイメージと見立てた。落花が描く仮面には、作者の潜在意識が投影されている。そこには、幼い頃の童話の世界や、身近に感じたさまざまな人の風貌のデフォルメされた映像が描き出されてくる。どちらかといえば、好ましいものというより、怖いもの、不思議なものの映像のような気もする。それは作者の潜在意識にひそむ多彩な原風景の一つに違いない。

背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
 「枝垂桜の中にいる」とは、枝垂桜を浴びるような立ち位置で見上げているのだろう。そのとき「背を青くして」立っていたという。こういう感覚的体感の捉え方は、作者の得意とするものかもしれない。あらかじめ背を青くして枝垂桜の下に入っていったのではなく、枝垂桜の中で、背が青くなった状態が続いているとみたのだ。それは枝垂桜とともにある存在感そのものではないか。

反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
 兜太師追悼の一句とみたい。ご夫妻とも反核の人であり、黒文字の花を愛しておられた。黒文字は三〜四月頃、半透明の繊細な花を開く。たしか熊谷のお庭にも咲いていたような気がする。どちらかといえば皆子夫人のイメージに近いが、兜太師にもそんな感性があった。作者は、黒文字の花のイメージに、兜太の反原爆の書の筆太な黒文字をも重ねていたのではないだろうか。

自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
 「残った人」とは、東日本大震災で生き残った人と受け取った。「海市」のイメージから、あの時の津波に生き残った人という映像が誘い出されるからだ。今年は震災後十年という節目を迎えている時でもあり、作者にその時事性が意識されたのだろう。十年を経ても「フクシマ」は終わっていない。原発禍は収まらず、廃炉は遅々として進んでいない。生き残った吾は、幸せなのかどうか。海市の中の幻のような存在なのかも。

生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名
 終活の一環として、生前墓を用意しておく。出来上がってみると、なんとなく愛着が湧いてきて、なでさすったり、亀を鳴かしてみたりするという。周知のように「亀鳴く」は虚構としての季語だが、この句のポイントはまさに「亀鳴かしたり」の仕掛けにある。この空想上のイメージを取り合わせることによって、やや大げさに言えば、日常のことばと古典的ことばとを〈異階層言語〉として組み合わせ、その相互作用によってことばを両義化しつつ、俳諧の詩的達成を目指したともいえる。こういう試みは今にはじまったことではないが、現代俳句の一つの沃野として広がっていることは確かだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
 過去に経験した自身の三月への思いか、あるいは東日本大震災への思いか。鉈の重さという比喩が作者の暗くて重い記憶を思わせる。明るく晴れやかな句が好まれがちだがこういうぐさりと来る重い句も大切にしたい。

玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
 帰宅したときいつもはあちこち向いている靴が、今日は揃えられていた。どきりとする。誰か来るのかくらいでは止まらず、誰かの死を思ってしまう作者の心配性気質が垣間見える。死は案外近いところにある。

春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
 収穫が遅れて割れてしまったキャベツ。それを契機に相続を放棄すると書く。相続放棄には様々なややこしい事情があろうが、それらをあっさりと凌駕し固執しない作者。さっぱりとした生き様が鮮やかに尾を引く。

鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
 時代劇が面白かったのは昭和の終わりの頃か。花篝の奥には鬼平犯科帳や必殺仕掛人の主人公が鋭い目つきでこちら側を見ている。虚構であるのに実感があるのは、ためらいなく言い切ったことの効果であろう。

亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
 筆者の祖母が遺してくれたジューサーが先日破壊した。作者は圧力鍋のようだ。いささか迷惑気味の口ぶりが諧謔味を呼ぶ。亀鳴く、という季語もとぼけた感じでこの句に合っている。

晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
 椿のところで切って二句一章として読んだ。晴れた日の椿は照葉樹である緑の葉の照りもあり、光り輝いていることだろう。そんな明るい日にふと子離れを決意した作者。カチンという擬音がべとつかない子離れを思わせ好感を呼ぶ。

延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
 誰と競っているのか考えた。俳句仲間か近所の奥様か。萎まないように自分を叱咤している作者である。元気で居ようとする心意気が嬉しい。延齢草の白い花弁と競っているのかも知れないが。

紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
 昔の田は紫雲英が紫の花をびっしりと咲かせていた。それを鋤き込み稲作の堆肥としていた。花冠や首飾りを女子は作っていた。大人になっても紫雲英田に来ると素直になる作者。そおっと連れて帰ればしばらく安寧の日々を過ごすことができる。

水枕母在るときの波まくら 白井重之
 母在るとき、は何時までたっても突然眼前に脳裏に蘇る。解熱のために水枕を使った作者に、波の音が聞こえて来た。母上と過ごした海辺の光景が現れたか。リズム感に支えられてどこか懐かしい一句となった。

春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
 ぎりぎりの肥後守世代だ。細い竹や木を削ったりした。買ってもらった日には何回も刃を出し入れしてワクワクしていた。作者には何十年も前の肥後守がまだ身辺にあり錆びてしまっている。春愁の重厚さが半端ない。

昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
 十代の記憶が突然現れるようになったのは六十を過ぎた頃からか。特に夢の中では顕著だ。みんな若くて目を輝かせて走り回っている。現実はどうだ。昨日何をしたか夕食は何だったか思い出せない。少し年を取った人たちの同一の思いをさっと掬い上げて見事。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 「差羽群れ舞う」は鷹柱のことか。それを見て、パジャマを新しくする契機にした。サシバからパジャマへの大きな展開は感覚優先で書いている証左であろう。

田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
 山里では上流部で川を堰き止め井手を作りそこに水を流して田に水を引いている。息急き切って流れ来る水が山の風も連れて来ると書き爽やか。農事のあれこれの中で感じた自然現象をきちんと吸い上げ一句に仕上げた。

蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
 出掛ける時玄関でぴょんぴょん跳ねる蠅捕蜘蛛。それは「私を感じている」からだ。人間の近くで生きるこの蜘蛛は人の感情を感知できるのであろう。生命力の横溢する万緑では、蜘蛛もヒトも鋭敏になってくる。

花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
 飛花落花のさなか、地上の花びらの動きに神様の一歩を感じた作者。これくらいなら他に見たことがあるだろうが「ふと」にやられた。神様は、うやうやしくでなく、何気なく足を降ろされたのだ。気取らなさが上手い。

置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
 農業従事の方が春に逝去された。筋肉を置き去りにして、と書く作者の視点に瞠目。よくぞ書いていただいた。さぞ惜しまれながらのご逝去であったことであろう。

畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
 鍬を使うのは本当にしんどい。長時間使っていると腰がこわれたと思うほど痛くなる。畝をたててジャガイモでも植えるつもりであろうか。一畝たてるごとに老いてゆく鍬は自身の老いにも繋がる。農業者は老いても限界が来るまで鍬を振り続けなければならない。農を繋いでゆく覚悟を、鍬を通じて象徴的に表した。

故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
 迷路は来し方の心象映像か。季語が後で効いてくる。

◆金子兜太 私の一句

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太

 誌上には大胆な句で、今まで「うんこ」と誰が表現しただろうか。私事だが、出産時に「うんこ」を漏らしても良いからいきみなさいと看護婦に言われた。ただし終日これを繰り返し、やっと出産できた。これは太古よりの命の始まりで、先生の母上への深い感謝と愛の迸る感銘の一句である。句集『日常』(平成21年)より。川崎千鶴子

山峡に沢蟹の華微かなり 兜太

 小生も幼少から山の沢に行き、よく蟹を取ってきたものだ。沢蟹は人里離れた奥深い辺鄙な所でひっそりと生きている。この句の沢蟹(実は兜太師ではないか)は今華やかさが僅かであり、全く地味な生き方であるが、後に世に知られ脚光を浴びて名をなすであろうことを如実に暗示している句に他ならない。私の大好きな一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。山谷草庵

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
陽のしずくを酌み交わすなり福寿草 伊藤巌
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
夢多きカプセルホテル冬霞 小野裕三
小春日を縢るよう母の数え唄 加藤昭子
パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
雪搔けば我の中にも竜が在り 佐藤詠子
白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
壮快なギブアップ風の葦野原 篠田悦子
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
母のそれからミシン奏でる冬銀河 中野佑海
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
寒灯は真昼のごとくコロナ棟 藤田敦子
おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
前の波の鎮魂歌なり 波の音 マブソン青眼
葛湯吹く母には母という順路 宮崎斗士
籠り居の耳の渚に冬青そよごの実 柳生正名
初しぐれ禿びた箒のにぎやかに 矢野千代子

服部修一 選

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
外出はポスト迄です春隣 伊藤雅彦
着信に優しい嘘と冬夕焼 榎本愛子
極月やカマボコ板が飛んでいる 榎本祐子
ともだちの少ない犬や小六月 奥山富江
小六月鏡に映らないところ 小松敦
あなたは杖をステッキと言う春野 三枝みずほ
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大旦ちょっぴり縮む車椅子 高木水志
あかんぼと目が合っているおでん 竹本仰
薔薇に雪ふとマッチ売りの少女かな 田中裕子
寒鴉あつまる街の余白かな 董振華
陽のかけら初日へ色を足しており 永田タヱ子
御慶かな隣家のポルシェ唸り出す 長谷川順子
万両の木陰お前も小心者 間瀬ひろ子
父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
人日の植木等の重さかな 村井隆行
雪は膝下尉鶲ピュッと飛ぶ 村松喜代
筍やざっくりと切る八年目 らふ亜沙弥

平田恒子 選

朽ちし生家は雪を被ったまま傾ぐ 植田郁一
小鳥来て大岩壁に身を投ず 内野修
棒読みのような書き初め飾るかな 小野裕三
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
身のほどを問われる始末酔芙蓉 黍野恵
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
句縁とは星座のごとし兜太の忌 齊藤しじみ
句の中で何度も死んで今朝の雪 佐々木昇一
君らの言葉氷柱太るがごとく純 白石司子
冬ざくら山嶺は蒼き煙 田中亜美
風船葛枯れるに触るればほろと言う 谷口道子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
歩いても歩いてもなかなか死ねない マブソン青眼
ブザー鳴る介護たとえば冬青草 宮崎斗士
なまはげ来る山のかたちの闇を負い 武藤鉦二
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
すずなすずしろ透明な箱を買いにゆく 横地かをる

嶺岸さとし 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
楤の芽や小言を増やし黄昏れる 宇川啓子
約束の帯はむらさき雪の花 北村美都子
晩年の冬耕終え一番星に触れる 白井重之
臘梅や玉砕という言葉ふと 白石司子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
ビル群に産み落とされし冬満月 藤野武
論点の違う話のように雪 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
欠餅の膨れる力恋心 松本豪
藤垂れて睡い眼の少年とをり 水野真由美
風花す二人のこころまだ下書き 宮崎斗士
枯木星みんな出口を探してる 三好つや子
手をつなぐことのためらい冬夕焼 武藤鉦二
ポインセチア谷間の深きドレスかな 室田洋子
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

◆三句鑑賞

パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
 〈パソコン〉に向かい作業をしているのだろうか。〈パソコン〉は便利な道具であるが、不具合が生ずると、たちまち悩みの種になりがち。〈遊ばれている〉には、そんな状況に一喜一憂せず、むしろそれを楽しむかのような達観の境地が見える。上質で軽やかな諧謔精神は〈寒い夜〉でさえも、命を謳歌する時に変えるのだ。

白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
 確かに白梅の白には、静かにかつ強く内面に語りかけてくる力があると思う。自分の奥底の忘れていた場所に通じる扉を開け、もしくは眠りから覚めて、ありのままの自分に近付いていけそうだ。そこではどんな自分と出会うのだろう。ふと「白梅や老子無心の旅に住む」にて俳句人生の一歩を踏み出した兜太師を思った。

おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
 まるで呟きそのままのようにうぶな質感のある掲句からは〈おでん〉のように素朴であたたかく〈海〉のように包容力のある〈妻〉の人となりが見える。また、〈おでんはさらに/つまそのもので/うみで〉と、七・七・三の句跨りが生み出す、〈海〉の波のように畳みかける抑揚が〈妻〉への思いの深さを伝えている。
(鑑賞・月野ぽぽな)

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
 言ってしまっている俳句はたいしておもしろくない、と思ってはいけない。女房子供を働かせるのは父親が甲斐性なしだからとは限らない。では、例えば昨今のコロナ禍による解雇、雇い止めにまで言い及んでいるのか。そうではなく、やはりここは、「燗」をつけるときつい口をついて出た男の慣用句、男の甲斐性なのである。

小六月鏡に映らないところ 小松敦
 鏡には大きさや遠近の具合で当然映らない「ところ」があり、これを承知のうえで作者は何か言いたかったのだろう。此の世のものでひょっとしたら鏡には映らないところがあるのではないか、と思うとなんとなく不気味。自分の心の深淵も同様。晴れ晴れとして暖かく、快適な季節感である小六月が逆にうまくマッチしている。

父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
 ほのぼのとして温かい雰囲気に惹き付けられた。「父さん」の語感が、初老の優しげなお父さんを思わせる。そんな父さんが、どうしてだか師走の風をはらんでいるのだ。この句は、寒風吹きすさぶ都会の喧噪を背景に、父さんの心象を描いたものと思える。父さんはいま充足した境地にあって、心地よい師走の風に身を任せているのである。
(鑑賞・服部修一)

冬うらら不要不急の長電話 片町節子
 コロナ禍のご時世。人と話すことも、会うことも自粛を促されている。「重症化しやすい」と言われる高齢者たちにとっては不要不急の判断は難しい。基本を守り、外出は食料の買い出しと、通院だけ。高齢者たちは健気である。生の声を交わして少し笑って、互いの消息を確かめる。電話はついつい長くなる。外は良い天気!

行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
 「行きがかり上」独身と言う。そのからりとした語り口が魅力的。親が独身の娘について、気がかりとか、先行きを心配する句は散見するが、その逆の当人の「特に理由はない。『行きがかり上』なんだから。」とさらりと書かれた作品は、珍しいと思う。しかもその手には大きな朱欒がある。何だか良いことがありそうな……。

さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
 老母に対する子の思い。会うたびに母の老いを感じて、母との残された時間を想う。一年半に及ぼうとするコロナ禍の日々なればなおさらである。「風花」にはかすかな不安と、母を思うしみじみとした優しさと情感がある。「母少し逝く」の「逝く」が独特の空気感を醸し出している。緩やかな、止めようのない時の流れがある。
(鑑賞・平田恒子)

苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
 確かに現代人のもつエネルギー量は、生活の便利さに反比例して、小さくなっているだろう。この句の面白さと手柄は、その現象を「苺ミルク」で直感した点だ。苺はそれ自体十分に甘い果物だが、それにコンデンスミルクをかけ、コテコテにして食すとは! これこそ繊細な甘さを味わう味覚エネルギーの退化に他ならない。

正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
 今や、正論で生産的な議論を成立させることはとても難しい。ところが掲句では、正論がぶつかり合っている。とても健全と思いきや、下五は「海鼠」である。正論のまっとうな議論のはずが、やはり互いに「海鼠」のように変われない、空疎な議論を展開しただけという結果に終わる。日本社会への風刺の効いた、俳味十分の句だ。

湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
 湯たんぽは、その昔には愛用していた。満タン近くまでの熱湯が揺れた時の「たぷん」という印象的な音は、今でも耳元に残っている。この句は、その懐かしさを刺激してくると同時に、「不審船がくる」という意表を突く飛躍のみごとさを持つ。湯たんぽから、夜陰に乗じて密入国する船の波音を連想するとは!
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

水晶体もさがも温むや水のなか 飯塚真弓
しゃぼんだま丸し中也の朝の歌 植朋子
ひとり卵焼き裏返す春って 大池桜子
八十八夜飽きられる前に飽きる 大渕久幸
永遠にボクでゐる君修司の忌 かさいともこ
絵手紙にありしコウノトリの地酒買う 樫本昌博
石庭に夕焼け紅鯨上陸す 葛城広光
かぶりつく金時豆パン昭和の日 小林ろば
ため息と思ふ重さや落椿 坂川花蓮
懐かしきダットサンかよ春うらら 重松俊一
たましいは歌う春満月のオブリガード 宙のふう
街ひとつ幽体離脱蜃気楼 ダークシー美紀
春の野に肩を並べる遊芸なり 田口浩
書き溜めた蝶の俳句のひらひらと 立川真理
李香蘭語る祖母居て桃の花 立川瑠璃
敵味方嗅ぎわける鼻あたたかし 谷川かつゑ
阿弖流為アテルイの一統かもな蕗を食む 土谷敏雄
わが反骨腰骨にあり青き踏む 野口佐稔
筍ややっと裸のおつきあい 平井利恵
英字新聞すっと小脇に風光る 深澤格子
蜜蜂を労るように女体かな 福岡日向子
雑踏に癒されに行く桜かな 藤好良
夫の遺産は競売物件はなごろも 松﨑あきら
紋白蝶吾の書斎を覗き去る 武藤幹
襟ぐりのタトーがのぞく竹の秋 村上紀子
残花かな風に吹かれて昼の酒 山本まさゆき
ひとひらは一つのことば花吹雪 吉田和恵
納涼の酒酌み交はす危ふさや 吉田貢(吉は土に口)
清明の気を吸ひ込めよ父の体 渡邉照香
渡り廊下の断崖ウスバカゲロウ 渡辺のり子

『海原』No.29(2021/6/1発行)

◆No.29 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
節目なき痛哭を負う三月十一日 宇川啓子
狐火の麓より湧く被曝村 江井芳朗
三月の孤独汽船の影となり 大池美木
酢のごとき日日にも微光クロッカス 尾形ゆきお
海峡を蝶飛ぶことも有事かな 片岡秀樹
涅槃図の只ならぬ密マスクせよ 加藤昭子
春の月やはりパスワードが違う 河西志帆
雪うさぎもう誰彼のなき母よ 黍野恵
春の闇少しかためにふくらんで 小松敦
ステイホームグラスに夕日を一気かな 重松敬子
石蕗咲いて気さくな刀自とおしゃべりす 関田誓炎
鉄橋の鉄うすみどり春の川 田中亜美
啓蟄を昏くぬかるむ脇の下 月野ぽぽな
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
木木の芽のその韻律に触れんとす 遠山郁好
水に声火に声三月十一日 中村晋
春風や別れは駅の肘タッチ 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
飛花落花マスクをずらす食事法 前田典子
手鞠唄指の先まで鞠にして 松本豪
家系図を読み上げるように波の輪唱カノン マブソン青眼
ドアノブしっとりと春愁のゆくえ 三世川浩司
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
鼓草みようみまねのヒップホップ 深山未遊
透明な輪投げをひとつ冬三日月 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
何もない日常が好き鳥総松 森由美子
初蝶や忘れることもお弔ひ 柳生正名

松本勇二●抄出

嘘のあと柚子湯で伸ばす背骨かな 泉陽太郎
二人暮しの指の冷たさ赤蕪 伊藤淳子
春は曙追いかけることばっかり 大池美木
プレッシャーに強き青年悴めり 小野裕三
鍵盤のよう白く透く街背美鯨 桂凜火
余生という広き入口緑立つ 北上正枝
閃きの瞬間眩し寒雀 金並れい子
筋書きを言いたがる妻彼岸寒 楠井収
花菜の風を二つに割って納骨す 小林まさる
本当に眠ると春の森に出る 小松敦
目くばせはこころの瀬音海市たつ 近藤亜沙美
子をぎゅっとして春の日の終わらない 三枝みずほ
春のあらし鍋の把手のネジ締める 佐藤君子
少年の鳩尾あたり吹雪くかな 白石司子
水仙のまはり透明死にとうなか すずき穂波
氏子総代酔ふて候寒紅梅 髙井元一
菰巻きの菰焼く春の裏おもて 高木一惠
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
小綬鶏の声の高さに励まされ 友枝裕子
春立つや昨夜の私が見つからぬ 中村ひかり
茹で過ぎと男チマチマほうれん草 中村道子
山眠る里にふかぶか錠と鍵 本田日出登
青空の奥にあをぞら初蝶来 前田典子
牛乳をなみなみおおよそ遅日ほど 三世川浩司
風光る草食系のふくらはぎ 三好つや子
冬虹の脚の届かぬ生家跡 武藤鉦二
アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
フルートの音色のひとつ諸葛菜 横地かをる
春寒やさすらいの四肢ゆるく締め 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

節目なき痛哭を負う三月十一日 宇川啓子
狐火の麓より湧く被曝村 江井芳朗
水に声火に声三月十一日 中村晋
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ

 この作者四人は、被曝当時福島に在住していた。この内、三人は、今なお福島にとどまっているが、本田氏は今も埼玉に移住している。とどまるも去るも、相当に辛いこの十年だったろう。東北の人々は口が重く、誠実なだけに、自分の苦労を他者に安易に分かち合ってもらおうとはしない。国や地方公共団体に期待していても、到底復興のビジョンはみえて来なかった中、ひたすら自助、共助によって耐え抜いて来たのである。
 宇川句の「節目なき痛哭」とは、この十年の間、復興とその過程という節目が一向に見えず、ただただ痛哭の思いだけが積み重なっていった。その現実を三月十一日が来るたびに噛み締めさせられている。江井句。被曝して無人化した山村では、冬には狐が口から火を吐くといわれる鬼火が麓より湧いてくるという。それは死者の魂の訪れのようにも見えて、怖れと懐かしさの入り混じった思いで迎えている。兜太師もいうように、他界は此の世に隣り合っているような体感であったに違いない。中村句は、三月十一日の地獄絵のような阿鼻叫喚の現実を象徴的に表現したもの。「水に声」も「火に声」も断末魔の叫びそのもの。しかし十年を経た今、「水」や「火」を復興の象徴として、或いは未来へ向けての方向感として捉え返してもよくはないかとも思うがどうだろう。「まだそこまでは」という声も聞こえそうな気もするが。本田句では、被曝十年の長期にわたる避難生活が、高齢化の進展とそれに伴う心身の健康リスクをもたらしている現実を直視している。「骨盤の歪み」が「かすか」なうちはいいが、早晩取り返しのつかぬレベルに達するのは目に見えている。それを警告ではなく、現実の相の予兆と暗示している。

酢のごとき日日にも微光クロッカス 尾形ゆきお
涅槃図の只ならぬ密マスクせよ 加藤昭子
ステイホームグラスに夕日を一気かな 重松敬子
春風や別れは駅の肘タッチ 梨本洋子
飛花落花マスクをずらす食事法 前田典子

 緊急事態宣言下の日常のあれこれを詠んだ一連。尾形句。「酢のごとき日日」とは、閉塞感の中で日常が酸化し、酢のような臭気を発している状態と見立てたのではないか。そんな日日にも、清冽な水に漂うクロッカスのような、微光の差し込む瞬間もあるという。加藤句。釈迦の涅槃図をみると、まさに只ならぬほど数多の
人間や生きもの達が、過密なまでに集い寄って嘆き悲しんでいる。これではマスクをしてもらはないといけません、と訴える。涅槃図に託した三密への警告。重松句。ステイホームの日日の過ごし方。見事な夕日をグラスに取りためておき、日の暮れとともに一気飲みする。太陽から気の流れを頂く呼吸法。梨本句。感染防止対策として、親しい者同士の別れの挨拶は、接吻はもちろんハグや握手もご法度となり、もっぱら肘タッチや拳タッチが多用されるようになって来ている。春風の吹く駅頭には、就職や転勤、新入学の見送り場面があって、友人同士の肘タッチがそこここにみられる。肘タッチの着眼に、今の世相が見えて来よう。前田句。花も終わりの飛花落花の時期を迎えたが、今年は花見の宴も慎まねばならず、屋内での会食の際にもマスクして、時々マスクをずらす食事法がとられる。なんとも味気なく、会話が弾む余地もない。どの句も、リアルな実感そのものではないか。

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
 昭和生まれでも、昭和史を生きて来たといえるのは、戦前・戦後を通じて生きて来た人々であろう。それも作者のように五十年を越す昭和のキャリアを積んだ人に限られよう。この句の「龍の玉」は、単に植物としての存在感ばかりでなく、歴史を見てきた目玉をも象徴している。句意に素材の語感がうまく適合した好例ではないか。

春の月やはりパスワードが違う 河西志帆
 デジタル化の浸透で、キャッシュレス決済が普及している。日本などは先進国の中で周回遅れといわれているほどだが、高齢者ほど適応力が乏しいから、しばしばパスワードを失念したり、入力ミスしたりすることはある。決済不能となれば一大事。春の月におぼろに照らされながら、パスワードの相違に茫然とする老い一人の姿。まさか作者が当事者というわけでもあるまいが。

家系図を読み上げるように波の輪唱カノン マブソン青眼
 作者は、二〇一九年七月から一年間、ポリネシア・マルキーズ諸島ヒバオア島で、一人暮らしをした。そこでコロナに感染し、死線をさまよう経験をしながらなんとか無事に帰国できたらしい。おそらくこの句も、その時の経験をもとに作られたものだろう。かつてポリネシア古代文明の中心地であったその島には、大規模な先祖像が残っているというから、ひねもす繰り返される波の輪唱は、その先祖像の家系図を読み上げているように聞こえたのだ。そこで彼は、無季句五百句と長編小説一篇を書いたという。凄まじい体験の所産というほかはない。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

二人暮しの指の冷たさ赤蕪 伊藤淳子
 生活の中のどんなものに焦点を当てるかが作者のセンスである。作者は「指の冷たさ」に気持ちが届いた。流石だ。頷かざるを得ない。座五の赤蕪も冷たさを増長している。筆者も二人暮しになって久しいが、これほどの詩のある生活が出来ていないことに茫然としている。

鍵盤のよう白く透く街背美鯨 桂凜火
 街の様子が鍵盤のように白く透いていると感得するには相当な気分の昂揚が必要であろう。そういう境地に至った時には、言葉が書き留められないほどどんどん溢れて出てくる。その境地から口を突いた「背美鯨」もかなり冴えている。俳句は詩であるとつくづく思う。金子先生がよく言われた「感の昂揚」を作者が体現してくれた。

閃きの瞬間眩し寒雀 金並れい子
 感性とは閃きである、などとよく喋っている。作者は豊かな感性をして、よく閃いているようだ。脳の浅い部分で閃くのでその言葉はすぐに消えてしまう、とも思っている。閃くときは脳内スパークが発生する。それゆえ十分に眩しいのであろう。寒雀も光の中にいる。

花菜の風を二つに割って納骨す 小林まさる
 納骨は誰にも辛い経験だ。正面から吹く花菜風に骨壺を抱いた作者が歩いていくのが見える。その柔らかな風は骨壺にあたり二つに分かれていく。「花菜の風を」とゆっくりと書き出すことで落ち着いた納骨風景となった。

本当に眠ると春の森に出る 小松敦
 本当に眠れていますか、と聞かれたようでドキリとする。夜中に覚め昨日今日のあれこれを一つ一つ考えてしまっている。朝日が差すまでは悪い方へしか考えが向かない。もう一度眠ろうとするが実に浅い眠りになってしまう。これは偽りの眠りなのであろう。春の森にでるような本当の眠りを経験したいものだ。掲句は言い切ることで信憑性が高まった。断定は重要な一手だ。

目くばせはこころの瀬音海市たつ 近藤亜沙美
 誰かに意志を伝えるため目配せをしたようだ。それが心中の瀬音であると書いている。自分を覗き込み、自分を分析している作者。今にも折れてしまいそうな細い細い心であるが、海市を配置して少し明るくなった。俳句で均衡を保つと心も均衡を保てるようになる。

子をぎゅっとして春の日の終わらない 三枝みずほ
 まだ小さい頃であるが「ぎゅうっとして」と母親にせがむ孫がいた。抱きしめられた孫は安堵の表情であった。子育て真っ最中の作者の日常なのであろう。具体的な動きを書くことで詩になったし明るさも増した。

水仙のまはり透明死にとうなか すずき穂波
 亡母が毎年楽しみにしていた水仙が今年も黄色く咲いている。水仙で何か言ってやろうと思っていたがやられた。そのまわりは透明なのだ。閃きや凄し。それだけで十分なのに下五の直情が句にドラマ性を持たせた。展開させるとはこういうことなのであろう。

小綬鶏の声の高さに励まされ 友枝裕子
 小綬鶏は「ちょっとこい」を連呼する。もういいでしょ、と思うくらい鳴き続ける。その声の高さに励まされる作者は幸せだ。こういう人は生きる力を何からでも貰える。元気が出る俳句を読ませていただいた。

牛乳をなみなみおおよそ遅日ほど 三世川浩司
 牛乳を注ぐ分量を「おおよそ遅日ほど」と書き新鮮。なみなみ、なのでかなりの分量と思われる。誰かにそう言って注いで貰ったのであろうが、そういうジョークをすっと受け止めてくれる相方こそ素晴らしい感性だ。

アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
 こういうアルバイトがあるのだろう。コロナ禍に翻弄される人々を尻目にこののどかさはどうだ。浮世離れした作者であるが最後に春の愁いを置いて少し世の中への配慮を見せている。

薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
 一昨年母を亡くした。出来ていたことが出来ないので失敗ばかりする母をよく叱った。叱ったあと、胸の奥の薄い氷がパリンと割れたような気がした。何回も何回も薄氷を割った。作者は追憶でなく現在只今薄氷を割り続けている。介護の心中を具現化して見事。

春寒やさすらいの四肢ゆるく締め 若森京子
 さすらいの四肢がじつにかっこいい。あてもなく彷徨ってしまう手足ということか。それをきつくではなくゆるく締めるのである。春が来たがまだ寒い。出て行きたい思いと自重する気持ちのせめぎ合いを楽しんでいる作者か。兜太先生の「日常に居ながら漂泊せよ」をこういうベテラン作家がひょいと思い出させてくれる。層の厚い集団で俳句をしているとこういう恩恵もある。

◆金子兜太 私の一句

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

 グアムに行ったとき、トラック島から来たというホテルの掃除婦から、「ナツヱもう一人はフミコ。ニッポンアメリカバンバン」と話しかけられました。兜太師がトラック島を去るときの「人の為に生きよう」との掲句の決意と遺骨収集の動きの鈍さ、二千万人を殺害した大東亜戦争の反省の無さが対照的に思わされます。句集『少年』(昭和30年)より。長尾向季

冬眠の蝮のほかは寝息なし 兜太

 〈海程賞〉を受賞した折に、「風土に浸透するように育つ詩情」という御評と共に頂いたご染筆のお句である。幼少の頃に過ごした山裾での自然をよく思い出すのだが蝮もよく見かけた。木洩れ日に照る沼を泳いでゆく、無気味でもあり神秘的でもある光景など忘れがたい。先生ご自身の愛着深い句を頂いたことに加えて、私の体験もお話して感謝したかった。句集『皆之』(昭和61年)より。前田典子

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選

十二月残る軟膏絞り出す 石川青狼
皺くちゃの幸せと浮く冬至の湯 伊藤巌
○ゲレンデで待てよとおとと納棺す 稲葉千尋
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
○返り花昔よかったなんて嘘 鎌田喜代子
宗谷本線鮭のふ化する駅がなくなる 佐々木宏
○いい人でいい空であれ山眠る 佐藤詠子
山の和尚きょうは銀杏洗って居り 篠田悦子
木枯が石室の夜を叩きはじめ 白石司子
鉦叩ここら地雷のあるところ ナカムラ薫
アウシュビッツ忌スープの鍋をパンでぬぐう 中村晋
白黒黄みんな肌色冬木の芽 中村道子
冬晴や国に穏やかなる死相 藤田敦子
日に月に向く枯菊をまだ刈らず 前田典子
友よ癒えよ歳晩を来てがらんどう 松本勇二
今朝もまあ平熱雪女と暮らす 宮崎斗士
羽後がごろりと母の座の大南瓜 武藤鉦二
昭和とは畳の上のカーペット 望月士郎
防波堤闇に人間灯りだす 山内崇弘
心臓のバイパス五本吊る聖夜 山谷草庵

楠井収 選

○ゲレンデで待てよとおとと納棺す 稲葉千尋
冬紅葉拾った嘘をもてあます 奥山和子
二番目の母となる日やゐのこづち 奥山富江
肩書の過去をよすがや冬夕焼 片町節子
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
膳に付くマスクホルダー年忘れ 加藤昭子
○返り花昔よかったなんて嘘 鎌田喜代子
○獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
白鳥が来ている眼鏡はずすたび こしのゆみこ
人も街も切り抜きのよう十二月 三枝みずほ
○いい人でいい空であれ山眠る 佐藤詠子
○人間を呼び捨てにする枯野かな 峠谷清広
初夢や誰も隣に座らない 遠山恵子
秋の陽やマスク忘れてめだちおり 畑中イツ子
空席あり死んだふりする冬の蝿 増田暁子
○残る鴨切手を貼ってあげようか 三浦静佳
○かなかなや私のどこか切り取り線 宮崎斗士
帰り花行ったり来たりの旅だった 村上友子
来たか元気か杖並ぶ冬日向 森田高司
新蕎麦や別れた男の食べっぷり 梁瀬道子

佐藤詠子 選

青いミューズ空想の空域の翼 阿久沢長道
寒昴呪文のようにありがとう 大髙洋子
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
綿虫やアナログ的に主知的に 金子斐子
自惚れも恋のひとつや吊るし柿 河西志帆
ダイヤモンドダストいけない子どもだつた 小西瞬夏
しずかなるあなたの左脳寒の入り 近藤亜沙美
慌しく九十歳が来たり花柊 篠田悦子
我という一つの記号落葉期 白石司子
冬帝の空踏み鳴らし襲い来し 竪阿彌放心
月の舟オンライン句会してますよ 谷口道子
熊よけの鈴を子猫にあげました 田村蒲公英
鶴凜と現在未来見据えて可 蔦とく子
○人間を呼び捨てにする枯野かな 峠谷清広
豊満な角の張り方新豆腐 中内亮玄
くるっと梟うしろの正面も闇 中村晋
寒たまご君の見た夢たべている 服部修一
○残る鴨切手を貼ってあげようか 三浦静佳
存在の自由に耐えて一裸木 嶺岸さとし
○かなかなや私のどこか切り取り線 宮崎斗士

山下一夫 選

孫は腹の中で眠り牡丹鍋 井上俊子
狐火の血筋集めるコンクール 小野裕三
マンモスの影踏むあそび枯野中 刈田光児
正誤表探す旅です海鼠です 川崎益太郎
○獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
嚔や人間少しほどけたり 佐藤詠子
遠き日の友は矢車草の瞳 重松敬子
弦として吹かれるからだ芒原 芹沢愛子
雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
しぐるるや勾玉の闇始まりぬ 寺町志津子
そっと息吹けば兎になる落葉 鳥山由貴子
母の手は寒冷前線聖夜降る 中野佑海
風花や手紙抜けだす連綿体 西美惠子
高齢者という洞穴雪降りだす 丹生千賀
五体投地のライダーありし花野かな 野田信章
無患子拾ふ秘めごと洩れないよう拾ふ 長谷川順子
しきりに笑う白息二重硝子の向こう 藤野武
奥歯抜くふと荒野に佇つ狐 増田暁子
白鳥来どこかで弦の切れる音 茂里美絵
鮟鱇鍋たえず昭和という分母 若森京子

◆三句鑑賞

鉦叩ここら地雷のあるところ ナカムラ薫
 危いぞとか、悲しいねとか、一言も書いてない怖さです。戦場という名の土地など何処にもなく、みんな人の住む場所。一体どれほど埋めたのかさえ覚えてない人達と、同じ空の下で、笑顔のままの子供の手や足や命が、どれほど飛び散ったかを、その目で見て欲しい。悲しみの善良な土に紛れているその武器を、心底憎いと思う。

白黒黄みんな肌色冬木の芽 中村道子
 大坂なおみさんのPRアニメを見た。白い肌、明るい髪の色、細い腕、正直誰なのか分からなかった。配慮が足りなかったと企業側は謝罪したというが、反対にその配慮・・が起こした騒ぎだと私は思う。白に白を混ぜると白になり、白に白以外を混ぜると白にならない。これは変わらないことだから、みんな肌色‼それでいいじゃないか。

昭和とは畳の上のカーペット 望月士郎
 思わず膝を叩いた。そうだった。畳を隠すと、卓袱台の室が洋間みたいになった。女房と畳は新しい方がいいなどという男達もいなくなった。あの頃からか、使い捨てが文化的暮らしだと思い込みひた走ったのだ。海外で買ってきた土産の裏にメイドインジャパン‼、今の何処ぞの国と少し似ているが、あの畳たちは元気だろうか。
(鑑賞・河西志帆)

二番目の母となる日やゐのこづち 奥山富江
 人生の節目に際し、その決意を感じさせる一句。この方は今回継母となり、ある家庭の子供に接していくこととなった。実母は死亡したのか、離婚したのか。いずれにしても子供には罪はないのだ。今後色々困難なこともあろうが、ゐのこづちのようにしっかりとその家庭とくっつきあって過ごしていきたいとの決意なのだ。

獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
 この青年は悪事を働き、親には迷惑をかけ、結局牢獄に入る。しかしその後罪を悔い、模範的な囚人となった。刑期を終え獄舎を出る際、世話になった人々に心を込めて一礼をした。安堵とともに故郷の父母への思いが心をよぎる。リンゴの甘酸っぱい匂いのような思いなのだ。リンゴの香が句のイメージを一層膨らませている。

帰り花行ったり来たりの旅だった 村上友子
 この方の人生色々あったわけですね。この句は実際旅に出て回り道などしたことを言っているが、あと人生についても紆余曲折あったことも示唆している。だがまあ総じて幸せな人生だったなあと実感しているのだ。それは末期の床の中かもしれぬ。そうなのだ自分は晩年予期せぬ花を咲かせることが出来たのだ。帰り花が秀逸。
(鑑賞・楠井収)

我という一つの記号落葉期 白石司子
 一つの記号とは、一つの人生を表している気がした。年月を経て今の作者が伝えたいことは、口では言い尽くせない「形」なのだろう。どんな意味の記号か知りたくなる。落葉後の裸木の姿もまた生命の標の記号のようで心惹かれる。俳句も人の生き様の記号かもしれない。

寒たまご君の見た夢たべている 服部修一
 悪夢を食べるという伝説の獏を思い浮かべた。とは言え、君の見た夢がどんなのだったのか。何かに追いかけられる夢、終わらない仕事の夢……。夢は目覚めてすぐ口に出さないと忘れてしまう。慌てて話す君の素直な表情が愉しくて、滋養豊かな寒たまごごと君の夢を笑って食べた。寒中のほっこりする一片だ。

存在の自由に耐えて一裸木 嶺岸さとし
 裸木は無防備な神だと思う。何も纏わず真実のまま立ち、存在の重さを見せつけている。寒風の日、その枝は呆けたふりで踊ってるようにも見える。作者の言う存在の自由は生きる価値への自由かもしれない。この時世は自己の存在にさえ迷う自由。だが、己の立ち位置で今を生きゆく力を一裸木に重ねたのだろう。
(鑑賞・佐藤詠子)

獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
 刑務施設に収容されていた青年が出所する。十分に悔い改めたことが挙動に表れていて清々しい。巧みな情景描写である。実見は考えにくいので映像等を目にしてのことか。収容の背景には犯罪の重大、悪質、反復等があるはずで、青年期の間での矯正は容易ではなかろう。かくあれかしとの切望かなどと様々に味わうことができた。

五体投地のライダーありし花野かな 野田信章
 交通事故が起こった辺りの花野である。衝突事故もあり得るが、恐らくは急カーブをオートバイが曲がり切れなかった自損事故。大怪我や死亡であれば悲惨である。しかしなぜかほのぼのした気配がある。仏教用語「五体投地」の効果であろう。花野もまた極楽に見えてくる。その中空を舞ったライダーの幸いとか、想念が湧いた。

しきりに笑う白息二重硝子の向こう 藤野武
 「白息」までを上句として、箸が転げてもおかしい年頃の女子の寒中でのおしゃべりと見る。下句には、暖かい室内にいる作者の視点がある。「二重硝子」は、寒冷地仕様または防音であろうが、上句が象徴するものとの隔絶という二重の意味も潜んでいよう。七七七の緩いリズムが硝子の曇りまで描出しているかのようで素晴らしい。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

否定からはじまるおんな黄砂降る 有栖川蘭子
心根に龍と入れ墨涅槃西風 飯塚真弓
朧夜の起きたら虫になる話 植朋子
ニッポンを語る少女や麦青む 上田輝子
春一番くしゃくしゃのビニールが私 大池桜子
哺乳瓶の乳首が前世とや朧 大渕久幸
がまんとは人を見ること椿落つ 梶原敏子
正月や蜘蛛が真っ直ぐ下降する 葛城広光
風花に舟という舟やせていく 木村リュウジ
馬糞ボロ採りの合間にかき込む菜飯かな 日下若名
北風や尻が狡いと鼻がいう 後藤雅文
タトゥーとは哀しい曲線鳥雲に 小林育子
好物は金時豆パン多喜二の忌 小林ろば
山里の子子孫孫ししそんそんや山笑う 坂本勝子
囀や媼三人背に刺青 佐竹佐介
優しさにすこしおびえる春の雷 宙のふう
雪平に遅春の粥をまた噴かせ ダークシー美紀
酔覚めて黙りこくりし春の月 高橋靖史
鳥帰る未完のままに自画像 立川真理
妙齢の教師につぶて雪合戦 土谷敏雄
隣人は朝日浴びをり残る雪 福田博之
恋文を丁寧に折る二月かな 藤川宏樹
春は夢、夢でのみ逢ふ人もゐる 宮本より子
春灯のどれにも我を待つ灯なし 武藤幹
商いのさくらまつりに自衛隊 村上紀子
ばあちゃんの甘露煮じいちゃんの目刺 矢野二十四
アーモンドを冬の涙として噛る 山本まさゆき
家系図に嬰児を加え下萌ゆる 渡辺厳太郎
春の雷ゴッホの自画像髭もそり 渡邉照香
ねむれない吐息いつしか雪女郎 渡辺のり子

『海原』No.28(2021/5/1発行)

◆No.28 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

元朝をパンチで交わす吾家かな 綾田節子
編み方の緩き八十路の冬帽子 石川和子
ひとりという人の気配や藪柑子 伊藤淳子
人の声波紋となれり紅葉狩り 内野修
掌に新米転げ復興す 江井芳朗
裸木は歩いているよ夜と霧 大髙宏允
デリカシーとは綿虫縫って歩くこと 奥山和子
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
姫始アラビアンナイトの木馬 川崎千鶴子
初鏡おとこにはなき身八つ口 河西志帆
生け花の七種組み終え年惜しむ 金並れい子
冬銀河君との多元方程式 黒済泰子
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
兄逝きてきっぱり軒昂老椿 小松よしはる
許すとは守ることです雪明かり 佐孝石画
大気凍つ鉈目のごとく残る月 佐藤稚鬼
石蕗咲いて気さくな刀自とおしゃべりす 関田誓炎
実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大樹雪に聳え百年の孤独 十河宣洋
籠もり居を抜け出して行く風船 髙井元一
モノクロのくしゃみ三丁目に消えた 高木水志
白黒のマスクはらませ反駁す 竹内一犀
冬の沼言葉愛しく粒立つよ たけなか華那
初日記真砂女愛でたり嫌ったり 立川弘子
麦踏んでマスクの奥の二枚舌 館林史蝶
冬木に陽愛よりありふれた親切 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
前の波の鎮魂歌なり波の音 マブソン青眼
信じたし今は寒燈程の距離 山田哲夫
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

松本勇二●抄出

かしんかしん空家と老人眠る山 有村王志
大晦日の出棺母よ雪です 石川青狼
ぴんと張る歯朶黎明期の家族 石川まゆみ
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
少し硬いが噛むと十一月の味 大沢輝一
夫さする枯蟷螂の強き眼よ 大野美代子
春を待つ栞ばかりを溜め込んで 奥野ちあき
冬ぬくし柴犬三匹分の距離 奥山和子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
初御空ひよどりの木を借り助走 狩野康子
薄明や寒卵はた感嘆符 北村美都子
晩節はぎんなん踏みし所より 黍野恵
冬茜古書店にいる十五の私 小池弘子
龍の玉ひとつを空へ戻しけり こしのゆみこ
そろそろ家族が透けて来る頃です雪 佐孝石画
下手な字に落ち込む女山眠る 清水恵子
数え日の貨物列車や米研ぐよう 高木水志
故郷ふるさとや枯野を出たらまた枯野 峠谷清広
冬木立伐られ氏神あらわるる 鳥井國臣
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
大枯野老いては群れず群の中 長谷川阿以
看る人の手の甲にメモ寒昴 藤田敦子
山眠る母より父がなつかしく秋 藤盛和子
マヤ暦辿るあんかに赤きコードかな 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
しゅんしゅんと気化する歳月師走くる 増田暁子
焚火から泣き声がするわずかだが 松本豪
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
父だけが配達牛乳飲んでた冬 三木冬子
地蔵彫る夫の背中の十二月 村松喜代

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ひとりという人の気配や藪柑子 伊藤淳子
 藪柑子は、冬場の庭の片隅あたりに、真っ赤な小豆大の珠のような実をつけ、楕円形のつややかな葉の蔭から二、三粒ずつ輪になって顔をのぞかせる。そんな藪柑子が、ある時ふと身じろぎのように揺らいだのは、かすかな人の気配を感じたからであった。それは藪柑子の実のゆらぎが招いたかのようなひとりの人、「ひとりという人」とあえてくどくいうことで、たゆたうような人生の時間の流れに浮かぶ。どこか漂泊感を湛えているような気配。

裸木は歩いているよ夜と霧 大髙宏允
 「夜と霧」は、単なる霧の夜ではなく、フランクルの名著『夜と霧』を意識していよう。そこでは、人生はどんな過酷な情況にあっても生きてゆく意味があることを教えてくれる。「裸木は歩いているよ」には、すべてを失った限界状況下にある人生においてなお、生きる目的をもって進む人間像をイメージしているのではないか。そしてどんな状況にあっても、人生は生きてゆく意味があることを暗示する。それは「夜と霧」の映像から広がるものだ。

デリカシーとは綿虫縫って歩くこと 奥山和子
 デリカシーは、いうまでもなく繊細さや感覚感情のこまやかさ。そのこころは、「綿虫縫って歩くこと」と喩えている。なるほどとうなずかされてしまう。「繊細」「優雅」という定義的言葉でなく、どこか照り映えるような外来語の語感によって、景が生動してくる。縫うように歩くのを、縫って歩くと言い切って景に身をもみこんでいく。デリカシーを体感している感覚だ。

冬銀河君との多元方程式 黒済泰子
 冬は夜空が冴え渡るから、寒空に一段と星が大きく輝く。星冴ゆる空だ。「君との多元方程式」とは、そんな夜空の下で、彼との成り行きのあれこれをとつおいつ思い悩んでいる。多元方程式は二つ以上の未知数をもつものだから、彼の気持ちのよくわからない部分を推し測っているうちに、ますます難解の度が加わる。すっきりした解に届くのはいつの日のことだろう。ああとふり仰ぐ冬銀河。そこには未知の解があるに違いない。最近こういう数学用語を使った情感の句を見かけるが、この句は数少ない成功作の一つと思う。

兄逝きてきっぱり軒昂老椿 小松よしはる
 作者の実体験の一句。おそらく亡くなった兄は、作者にとってかけがえのない存在だったに違いない。周囲の人々はこもごもお悔やみや励ましの気遣いをしてくれる。その配慮に対し、「きっぱり軒昂」とは、毅然たる姿勢を示す。内心の悲しみはたとえようのないものでありながら、ぎりぎりまでの心情の溢れをせきとめている。それが悲しみの深みに耐える唯一の姿勢であり、老いたる吾の意地でもある。健気な老椿一輪の姿。

大樹雪に聳え百年の孤独 十河宣洋
 雪原に立つ一本の大樹。百年を超える風雪に耐えて、亭々と聳え立つ。あたりに他の樹木はなく、ひとり孤高を保つように立ち上がっている。作者は北海道の人だから、大雪原に立つ春楡の巨樹とみた。もっとも「百年の孤独」は、南米のノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスの代表作でもあり、宮崎県の麦焼酎にも同名の銘酒があるが、この場合は、北海道の風土とみてよかろう。しかしその名にちなんだ数々の名品があることから、一句に風格を与えていることも間違いはない。

冬木に陽愛よりありふれた親切 中村晋
 この句は、東日本大震災被災地の生活感から生まれたものとみた。災後十年を経て、ようやく冬の木に陽射しが訪れ始めた被災地。とはいえまだまだ昔の姿にはほど遠い。多くの応援メッセージを頂き、その方々の愛を有難いとは思っているものの、本当に必要だったのは、ごくありふれた小さな親切な行動だった。その積み重ねが、復興の歴史を作っている。

信じたし今は寒燈ほどの距離 山田哲夫
 信じたいものが何か明示されていないが、おそらくは懐かしさをともなう肉親や幼馴染の消息であろう。「寒燈ほどの距離」とは、まさにその心情の声がきこえてくるような距離感なのだ。寒燈は厳しい寒さの中にあるがゆえに、いのちの温かみを感じさせるものでもある。しかも「今は」という時間の設定が、作者の境涯感の中の一場面として語りかけてくるのである。

自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子
 我が国のコロナ禍への対応は、これまでのところ強権的規制ではなく、もっぱら自粛要請によってそれなりの効果をあげている。そこには日本特有の社会的同調圧力もさることながら、内在する文化の力、共同体の力が息づいているからだ。寒鯉は薄氷の張った池底にじっとしている。その姿はあたかも、自粛を守っているかのよう。「鰓呼吸」は、その寒鯉の固唾を呑むような姿を、今の人間の端的な自粛振りに重ねてみているのだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

かしんかしん空家と老人眠る山 有村王志
 丁度今朝のニュースで空家に施錠を呼びかけていた。空家窃盗が多くなっているらしい。大分県も同様に空家が増えてきているのであろう。そして老人も。かしんかしん、をオノマトペとして読んだ。山中に眠る空家と老人を思ううちに思わず口を突いたのが、かしんかしん。冬木を叩く音のようでもあり淋しく冷たい擬音であった。

大晦日の出棺母よ雪です 石川青狼
 本家の爺様の葬儀が大晦日にあり、牡丹雪が降る中を両親に連れられて行った記憶がある。釧路の雪はもっと厳しい雪だ。お棺の中の母上に「母さん雪だよ」と話しかけている作者。句にすることでその時の切なさがずっと残ることになる。

少し硬いが噛むと十一月の味 大沢輝一
 少し硬い、しかヒントがない。沢庵かスルメイカか見当がつかない。しかし作者にとっては大切な十一月の味なのである。奇妙な句であるがどこか味がある。

冬ぬくし柴犬三匹分の距離 奥山和子
 ソーシャルディスタンスという語はコロナ禍以後通常語になった。柴犬三匹分が作者のセンスで諧謔味があった。柴犬を連れて散歩中、他者との距離に気を遣う作者が見える。現在只今の日常を上手く掬い上げた。

初御空ひよどりの木を借り助走 狩野康子
 鵯は群れて楠の大木などで休んでいたりする。何かの拍子で一斉に飛び立つとその多さに驚く。まさにひよどりの木、である。そこにはエネルギーが満ちている。そのエネルギーを分けてもらい今年も元気に生きて行こうとする作者。自然の中にある、気のようなものに興味を持つ作者なのであろう。

龍の玉ひとつを空へ戻しけり こしのゆみこ
 龍の玉を見つけた時は何か嬉しい。その光沢に引き付けられ手に取った記憶は誰にでもある。一個だけ空に戻すとはどういう行為なのか。実際には空にかざしただけかも知れないが、戻すと書き詩になった。虚構であるが腑に落ちた。こういう明るい句に出会えると嬉しくなってくる。下五で句を展開させる、とはこういうことだ。

そろそろ家族が透けて来る頃です雪 佐孝石画
 雪の降る夜は静かだ。しんしんと降る雪の中いろいろなことに思いを巡らせていると頭の中が次第に澄んでくる。そういう状態で家族を思うと透けて来るように感じたのかもしれない。作者は「感が昂揚」してくる過程を書こうとしたのではないだろうか。

数え日の貨物列車や米研ぐよう 高木水志
 年の瀬の貨物列車が平常時とどう違うのか分からない。米研ぐよう、の形容でシャッシャとかシュッシュという音が聞こえはする。せわしない年末の貨物列車走行時の喩えとして、米研ぐは合っているのではなかろうか。

故郷ふるさとや枯野を出たらまた枯野 峠谷清広
 枯野を歩き切りやっと出たと思ったらまた枯野があると書いている。上五の大きな書き出しと相俟って雄大な景色が見えてくる。自虐的な句が多い作者であるが、当該句は故郷賛歌とも取れる大きく構えた一句であった。

目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
 突然目隠しをされたときにはときめく。異性間ではことさらであろう。こういう時代もあったような気がする。そのときめきに似ているのが時雨と書く。日本の時雨のイメージとはかなり遠い異国の地の時雨感が書けた。

大枯野老いては群れず群の中 長谷川阿以
 自身は群れないと思って生きているが、実際には群の中に居る。生活者として群は避けられない。大枯野をどんと据えたことで作者の矜持の堅牢さがうかがえる。それにしても、老いては群れず、はかっこいいフレーズだ。

看る人の手の甲にメモ寒昴 藤田敦子
 看護師さんの手にはよくメモが書かれている。ここでは看護師ではなく、家庭内における看る人かもしれない。寒昴の斡旋により冷たく白い手の甲が眼前に現れる。

マヤ暦辿るあんかに赤きコードかな 藤原美恵子
 マヤ文明に興味を持ちそれを辿っているという上五から、あんかへ急降下する落差に鮮度があった。四国山中で育った筆者は炭火を入れた行火の記憶がある。その後電気行火に変わって行った。そんな落差激しい二物、電気行火の赤いコードとマヤ暦は郷愁感という領域で微かにつながっている。

焚火から泣き声がするわずかだが 松本豪
 生木を焚火に入れると水分が出てくる。その時に何かしら音がする。それを泣き声と感得した。下五に、わずかだが、と書き足すユーモア溢れる表現力を称えたい。

◆金子兜太 私の一句

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫 兜太

 今から五、六年前、「今月のこの人」というある雑誌の対談に掲載されていたこの句は、心に原郷を持ちながら、本能のまま、荒々しく、自由に、平凡に、愚を自覚しながら心の糧を俳句に求めて生きようと決心した先生が日銀時代に詠まれたものという。まさに先生!と思った一瞬の句でした。熊谷名産の「五家宝」を美味しそうに召し上がっていた写真の先生の横顔と共に土着の匂い、土の手触りを含みつつ先生のお人柄そのものとして洗練されて大好きな一句。句集『遊牧集』(昭和56年)より。北上正枝

眼鏡ばかりの電車降りれば火まみれに 兜太

 高校生の時に手に入れた『今日の俳句』と共に、手許に『暗緑地誌』が二冊あり、一冊は金子兜太と署名がある。この句集には昭和42年からの句が収録されているが、その頃に私は作句を始めた。また、昭和46年11月の伊良湖勉強会で森下草城子さんに紹介されて初めて金子先生とお話をしたが、巻末のこの句が発表された時期と重なる。こじつけが過ぎたかも知れない。だれもが忙しくしていた時代でもあった。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。若林卓宣

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選
秋惜しむ逆さに置きしマヨネーズ 大沢輝一
バラバラに手足意志持つ十三夜 大西政司
秋暑し幼ななじみという他人 奥山富江
室の花夕日は赤いとは限らぬ北村美都子
足裏にいろいろくっついて良夜小松敦
○端っこに良い子がいます冬菫佐藤詠子
十六夜の仮設派出所影動く清水茉紀
小春日の㾱車四角に畳まるる鱸久子
埋め立地を秋触われる水はなくてたけなか華那
萩の風少女はつめたいやわらかいナカムラ薫
死がこわくなって大人や秋のくれ中村晋
里芋のぬめりのように母と娘は根本菜穂子
コスモスの戦げば戦ぐほど夜明け野﨑憲子
サングサや辺野古のジュゴンうろつくよ疋田恵美子
林檎むく不安があばれだす前に藤田敦子
満月の街少年の暗い脛前田恵
○霜の夜を兜太の残党として潜む松本勇二
髪乾く途中熟柿になる途中三浦静佳
○何もない部屋に転がる月があり山内崇弘
ごうごうとわれに釘打つ夜長かな山本掌

楠井収 選
コロナ来るゆるり首折る曼珠沙華泉尚子
秋冷や風の2キロの学校道がっこみち 伊藤巌
幼児の問いは難し冬銀河 伊藤雅彦
竹の春むだ話したかったのに 大髙洋子
俺いずれどんぐりころころ待っててね 岡崎万寿
めぐみちゃんと呼ぶ声嗄れ星流る 鎌田喜代子
○軽トラだけど乗つてゆきなよ野菊 木下ようこ
酔芙蓉晩成なんぞコケコッコ 黍野恵
落蝉のふいっと飛立ち焦燥感 黒岡洋子
○端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
名月へ夫の作業着干しました 高木一惠
長き夜や亡き父を待つような母 峠谷清広
白魚や無声映画の女給B 遠山恵子
病む人が看る人を抱き小鳥来る 中村晋
吊し柿とキャラメルほどの距離である 松本千花
ぎょっとする妻の落書き白桔梗 宮崎斗士
手話の子へ茶の花ひとつずつ咲くよ 村上友子
新米と母の体重同じとは 山内崇弘
マスクした顔で別れてそれっきり 山田哲夫
○はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子

佐藤詠子 選
裏窓に来ている火星と守宮かな 石川義倫
桃吹くや言葉が軽くずれてゆく 伊藤淳子
冬蝶にもてあそばれている傘寿 伊藤雅彦
石蕗の花斜め斜めに再起する 上野昭子
冬たんぽぽ迷子のように踞る 宇川啓子
ノイズばかりを拾って秋の躰 榎本祐子
点滴に預けし利き手雁わたる 北村美都子
○軽トラだけど乗つてゆきなよ野菊 木下ようこ
優しすぎる雲にうつむく鴉かな 佐孝石画
したたかにみな古びしや冬囲い 鈴木栄司
待つことに少しもたれて秋袷 田中雅秀
朝寒や呼び捨てされるように起き 峠谷清広
落葉掃く消せぬ傷口なぞるごと 藤野武
俳句にも骨格のあり冬けやき 船越みよ
二人の耳がひとつになって夜長かな 宮崎斗士
木菟啼いて当てずっぽうの余生かな 武藤鉦二
三日月や滲んだままに投函す 村上友子
○何もない部屋に転がる月があり 山内崇弘
託老所のバス左折して時雨くる 吉田朝子
○はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子

山下一夫 選
うどん啜るみたいな会話星流る 榎本祐子
決断の途次に轢かれし秋の蛇 川崎千鶴子
うそ泣きをしてひぐらしを黙らせる 川西志帆
恋人よ落葉を紅い順に置く 木下ようこ
そこにある太陽林檎齧るなり 小西瞬夏
鴉去る私が鴉になったあと 佐孝石画
燕帰る拾い読みで終わる日々 芹沢愛子
秋を吹かれる静かに千切れながら 遠山郁好
除染とは改竄である冬の更地 中村晋
骨拾う約束の友大根引く 仁田脇一石
露の玉の中に玉ありヒツヒツフー 野﨑憲子
泡立草美しと老身立ちつくす 野田信章
レモンの時代甲高の足を憎みて 日高玲
しろい風しろい知らせがこんと来る 平田薫
○霜の夜を兜太の残党として潜む 松本勇二
バレリーナの正しき呼吸九月来る 宮崎斗士
すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
長き夜の次のページに象歩む 望月士郎
マスク越しに言ふし浮寝鳥眠いし 柳生正名
文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子

◆三句鑑賞

秋暑し幼ななじみという他人 奥山富江
 同級会の後「死ぬなよ〜」と言って手を振った。私も「死なないよ」と返した。保育園からずっと一緒だった。暗くなるまで境内で遊び、何年たってもその景色はすぐに思い出せた。戦後数年で生まれた子供達は、何処に行っても子供だらけで、上手に喧嘩して上手に仲直りをした。親戚よりも近かった。だってこんなにも悲しい。

サングサや辺野古のジュゴンうろつくよ 疋田恵美子
 絶滅危惧種のジュゴン、遠目にはちょっと太めのマーメードが、今途方に暮れています。海に住む草食のほ乳類の、そのテリトリーの海が埋め立てされるという噂を聞いたと言うんです。象と遠い親戚とはいえ、今さら陸に上ることもできません。食う道を阻み、いつも絶滅に力を貸すのが人間です。先生の「君と別れてうろつくよ」の句が心の中をかけ巡ります。懐かしいあの声と一緒に。

満月の街少年の暗い脛 前田恵
 ぶつけてこんなに痛いから、齧られたらそりゃあ痛いと思うけど、世間の親はそんなに痛くないらしい。そうそう最近誰ぞが満月に勝手に横文字の名を付けた。年寄りは無邪気にスマホで追い続け、若者はその反対側に行こうとしている。星がみんな帰っても、また此処に、痩せた月が太りにやってくる。
(鑑賞・河西志帆)

端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
 幸せになる心洗われる句。世の中集合写真等を撮る時は子に真中に居るよう言う親もいるわけだが、この親はそうではない。子に謙譲の心、犠牲の心を教えたのだ。負けるが勝ちということもあっただろう。冬菫のように小さな愛とか幸せを感じる家庭だったのでしょう。素敵な両親と子に乾杯。自戒を込めて鑑賞。

病む人が看る人を抱き小鳥来る 中村晋
 何とも哀切を感じる一句。病人はもう末期の夫。夫婦の生活はこれまで紆余曲折あった。しかしこの夫は何事も一徹の男。会社生活は勿論、家庭生活でも、また自らの闘病生活も。残していく妻を思う心も一徹。それが男のロマンなのだ。思わず妻を抱きしめる。夫婦別々のこれからの世も夫々小鳥が来るような生活が送れそう。

ぎょっとする妻の落書き白桔梗 宮崎斗士
 上中と季語の落差。白桔梗のような清楚な妻。過日夫は使い古しの子の教材に書いた妻の文字を見つけた。好きなものに異性の名。嫌いなものは夫の寝顔。いやそんな深刻なことではないかも。何と嫌いなものに納豆。好きだと共に食していたのに。夫は絶句。実は関西出身の妻は納豆が苦手。まあこの位の落ちなら救われますね。
(鑑賞・楠井収)

優しすぎる雲にうつむく鴉かな 佐孝石画
 心の美しい人の前では、自分の雑な思考や行動が恥ずかしくなる。優しすぎる雲に鴉がうつむくのは、我らと似ているかも。善悪に惑いながら皆、現実を生きている。若い頃、爽やかに語っていた夢とは違う空の下に今がある。けれど、俗世もまた良かれ。人も鴉も凜とした生き方を持つ。絹のような雲は生き物全ての憧憬だ。

待つことに少しもたれて秋袷 田中雅秀
 待つという「時間」に寄り掛かると読んだ。待つ時間は、想定外の自由でもある。時間に心を委ね、素の自分を思い出せるのだろう。秋袷には、初秋のやわらかな女性の潤いを感じる。単衣ではなく裏地のある袷の着物を用意し、移りゆく季節を静かに待つことも作者にとっての少し凭れた愉しみなのかもしれない。

はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子
 原稿を書き終えた後の開放感を目指して、筆を握る。言葉が溢れてくる。結局、省略しながら字数を整えるいつものパターン。せっかくの想いを削るのは、淋しい。ともあれ、自分の分身ができあがった。「はしょって」が、お茶目だ。そして、自分だけの言葉を最後に添える。夕暮れの部屋に草の実をそっと置くように。
(鑑賞・佐藤詠子)

レモンの時代甲高の足を憎みて 日高玲
 俗に日本人の足は幅広甲高と言われるが、欧米人との比較では幅広甲薄らしい。掲句の主体は甲高な自身の足を憎んだのか、日本人らしく甲薄なので欧米人様の甲高の足を憎んだのか。身体の目立たない箇所への拘りが少女を思わせるので前者と思う。「レモンの時代」との措辞が余すところなくその多感と輝き、香しさを伝えている。

長き夜の次のページに象歩む 望月士郎
 一読、深更まで読書にふける場面が思い浮かぶ。静まり返った書斎でふとページの向こうに象の気配を感じるのである。それほどにリアルな物語なのか、過度の集中が幻想を招いたか、あるいは入眠時幻覚か。およそ似つかわしくないシチュエーションに生身の巨体を喚起させる下五の措辞が登場して断層が生じ、そこに想念が湧く。

マスク越しに言ふし浮寝鳥眠いし 柳生正名
 「し」の韻が目を引く。二番目と三番目は若い人の口吻でよく耳にするが俳句では珍しい。接続助詞で並列とすると後には結句が続くはずである。季語「浮寝鳥」は和泉式部が「憂き寝」を掛けて涙に暮れて寝る身に例えて詠んだという。マスクも外さぬままに別れを告げられ悲嘆に暮れたが眠気には勝てないという自嘲か。深い。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

冬ぬくし大楠の産む光かな 安藤久美子
冬蝶や逸る気持ちの透けてゐし 飯塚真弓
神といっしょに野良犬の背を哄笑す 伊藤優子
下の子を肩車して火事の跡 植朋子
ポケットの除菌スプレー探梅です 上田輝子
風花って出してない手紙みたいだ 大池桜子
棚を開け隠した黒子をまた付ける 葛城広光
自画像に足され白鳥は不機嫌 木村リュウジ
人間ら日向ぼこして檻の中 黒沢遊公
校庭も風呂焚く家も冴え返る 古賀侑子
木枯をリヤカーに乗せ弟よ 後藤雅文
神様が微笑む病葉風に消えた 近藤真由美
凍て空に薬師如来のうずくまる 坂本勝子
海に出るまでの大河や春あした 重松俊一
荷をあけるや林檎の貫録祖のけむり 鈴木千鶴子
胡桃割るマザーグースの小さき部屋 宙のふう
切り絵師の鋏はなるる寒夕焼 ダークシー美紀
コロナ禍は地球の言葉お正月 立川真理
遠き友身長のびてマスクして 立川瑠璃
早梅や秩父音頭が聞こえてくる 中尾よしこ
てんてまり戦がみんな持ってった 仲村トヨ子
糸底のか細く強き雑煮盛る 平井利恵
蜜柑M新日常の軋む音 藤好良
万葉の冬月ふるさとつつがなき 増田天志
針金のハンガー撓む革コート 宮田京子
小寒や大往生の斬られ役 山本美惠子
冬木立じっとする只じっとする 横田和子
鍵のない家。柊に目礼す 吉田和恵
敗戰忌骨片くすぶる岩のくぼ 吉田貢(吉は土に口)
わが骨のもろさのかたち冬の蝶 渡辺のり子

九十九王子 大西健司

『海原』No.28(2021/5/1発行)誌面より

◆自由作品20句

九十九王子 大西健司

讃岐の人狐火の杜目指しけり
憂国や熊野中辺路木守柿
草の罠冷たく滝尻王子かな
野長瀬一族の山茶花は赤奥熊野
萍紅葉に心寄せつつ木橋過ぐ
木橋渡る庚申さんへ櫨紅葉
小広王子や狐の罠の覚めており
鹿の声聞きに水呑王子かな
狐火の杜よ伏拝王子へと
多富気王子や熊楠の宿霧晴れて
がまずみの赤が寂しい奥熊野
目箒の匂い霧降る宿小さし
つぶやきのパプリカ薪をなお焼べぬ
スペイン家具の丸み愛しき霧の宿
バジル芳し森のパン屋は冬支度
茶屋跡の山茶花那智に赤が映ゆ
慈母観音とやかの人冬の滝拝す
非日常の鯨山彦笑わない
石蕗の黄や人影しるき狼煙台
鹿の糞まだ新しき狼煙台

春愁ふふっと 桂凜火

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆自由作品20句

春愁ふふっと 桂凜火

気仙沼牡蠣語を話す牡蠣漁師
孕鹿暮れる東国うす青し
たましいの在りどころ探す鹿の舌
なすび蒔く土を優しく膨らます
輪郭なき春 靴紐堅結び
逸れてゆく日常生活水草生う
マスク越し小さく唄う隅田川
ハリネズミ抱く東京の春の闇
深海のいのち犇めく春の真夜
聞きたいことたくさんあります萱鼠
はにかみ顔喜劇役者の逝く朧
トルソーめく君と直立す花月夜
継ぎはぎの春愁ふふっと河馬のキス
みだれ髪雄ライオンのあたたかし
麝香猫の糞から旨きカフェ春愁
君は陽炎生みたての卵を洗う
切りぎしやゲルニカの木に若葉風
人相の悪い毛虫に会ってしまう
青葉風逆さまのシャツ泳ぎだす
赤い砂の惑星に棲む蜥蜴の名

眼差し 三枝みずほ

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

眼差し 三枝みずほ

どのこゑも遠し青き空ひとつ
石ころがほろほろ零れ春の川
さてもまたあなたの春野さまよへり
蛇穴を出て飴色にひかるもの
葉脈の透けて弥生の朝かな
髪結師咥えし紐の真白なり
山間の歌もて春の宮参り
手のひらの椿のほかは揺れてをり
白く濡れてゆくさくらの参道を
おおかみの眼差しがあり囀れり