『海原』No.57(2024/4/1発行)

◆No.57 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

「熊のあります」賛否あります 石橋いろり
寒紅やたまにショートする感情 大池美木
椋鳥むく去って電線弛みきったまま 大沢輝一
綿虫の湿気孕んで女子校生 大西政司
指先に小さなクレバス雪催 奥山和子
長き夜の糸巻きからんと奥秩父 桂凜火
戦争は積木崩しの藪枯らし 川崎千鶴子
空風の足袋蔵の街花手水 神田一美
爪も髪も声もでしたね式部の実 黒岡洋子
そらみみの音のふえゆくふゆすみれ こしのゆみこ
髪梳くにえんぴつ使ふ一葉忌 小西瞬夏
譜読み始めるわたしの星空はここ 三枝みずほ
凍雲に人が吠えたき日本海 志田すずめ
よわい百はゴールじゃないよ銀木犀 鱸久子
着ぶくれて着ぶくれて難民の波しづか すずき穂波
過去よりの空耳やさし小鳥くる 芹沢愛子
鍵穴の中の残照憂国忌 ダークシー美紀
水仙や銀のピッコロ吹く少年 髙井元一
雪ぎちぎちメタセコイアは武者震い たけなか華那
寒紅の老妓の凜とめがね橋 立川弘子
大出水乾かぬ泥を蟻歩む 竪阿彌放心
色になる前の感情冬桜 月野ぽぽな
サーカス来放牧のよう凪の町 遠山郁好
秩父晩秋何もかも何もかもなつかしく 野﨑憲子
小さな呪文凩のなかで言う 松井麻容子
晩秋のコキアのような恋でした 松本千花
霜晴れや枯れたふりする犬と俺 松本勇二
狐火のゆれる瓦礫のカトラリー 三好つや子
雪のあね雪のいもうと雪うさぎ 望月士郎
吊し柿いまも裏山背負う生家いえ 横地かをる

遠山郁好●抄出

椋鳥の群涙の形で落下する 石田せ江子
銀河濃し指の先まで倦怠感 井上俊一
川に石ぽつんと隕ちた冬の音 大沢輝一
それにしてはよく喋る猫冬至粥 大西健司
錯覚の消えぬ枯薗ありにけり 小野裕三
答えではなく釣瓶落としを探してる 岡田奈々
冬日向プラットホームという疎林 尾形ゆきお
秋の蝶毀れしものの影を吸う 川田由美子
情ありてむらさきいろの鶴浮腫む 木下ようこ
野襤褸菊ちょっと火花が散ったよう 黒岡洋子
オリオンやさざ波纏う吾の母性 近藤亜沙美
朝日の阿釣瓶落しの吽のうた 鈴木孝信
すずき穂波芒にまぎれ楽になる すずき穂波
個室にて時計が回る冬の棟 鈴木康之
初蝶の白の真実透き通り 田井淑江
音楽堂発スカイトレイン霧の国へ 高木一惠
冬林檎きのうはすでに傍観者 竹田昭江
ゆずジャムをつくる絵本の明るさに 竹本仰
靴音の止んではつゆき降り出しぬ 田中亜美
色になる前の感情冬桜 月野ぽぽな
晨鶏の諾否を問わぬ夜の長き 董振華
突如濃霧PTSDのように 新野祐子
頑是ない老人でありすゝ払い愛 長谷川阿以
ホットミルクの被膜よきっと今日も不在 藤野武
長い影と同じ冷たい靴で立つ 堀真知子
初冠雪夫をたたいてしまいけり 本田ひとみ
てのひらのうすき水脈にも雪降りぬ 水野真由美
鬚を剃り頭を洗い忘年会 森鈴
雪原のくぼみ大好き御来光 森田高司
綿虫飛ぶ亡母にとどく手の高さ 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

椋鳥むく去って電線弛みきったまま 大沢輝一
小さな呪文凩のなかで言う 松井麻容子

 能登大地震の被災地石川県にあって、間近に被災の惨状に直面したお二人の句をまず挙げたい。
 大沢句は、被災の現実をありのままに訴えている。いつも群れをなしてやってくる椋鳥は、すっかり姿を消した。被災地では建物の倒壊、道路の寸断に伴い、電柱も倒れ、電線は弛みきったままという。とりわけ被害の大きかった北部、中部圏域は高齢化率の高い地域であり、ネットやSNSの利用もままならぬ状況の中、被害の全容の詳細がなかなか届かず、分断され孤立した地域に救援の手も十分に行き渡らなかったようだ。
 松井句は、そんな現実の最中におかれた人々の、孤独感、絶望感を訴える。凩吹きすさぶ中で、八百万の神々に小さな呪文を唱えて、ひたすら救いを求めている。こんな人たちがいるんです。お助け下さいと祈る呪文に、せめてすがるしかない己の小ささを噛みしめながら。

寒紅やたまにショートする感情 大池美木
色になる前の感情冬桜 月野ぽぽな

 俳句で感情を直接表現するのは難しく、やってみたとしてもあまり成功作は少ないとされているが、そこをあえて挑戦した句である。
 寒紅は寒中に作られる口紅で、その時期はことのほか品質のよいものになるという。「感情」は物事に感じて起こる心の動きだから、日頃の成り行きの中で「たまにショートする」こともあり得よう。それが「寒紅」のように鮮やかな火花を散らすとなれば、一種の情動の高ぶりに達するのではないか。
 「色になる前の感情」とは、ものに応じて起こる感情だから、冬桜のように、小ぶりで薄紅か白の一重咲きの、これから何かの色に染められる前の無垢な桜をイメージしている。やがて人間関係や季節の流れの中で、さまざまな色合いに染めだされるのだろう。作者は、その前の純なる状態のままにありたいと願っているのだろうか。

爪も髪も声もでしたね式部の実 黒岡洋子
竜胆や母似の魔女の情深し 中内亮玄

 今年亡くなった同人らふ亜沙弥さんへの追悼句。らふさんは、衣装も髪も口紅もすべて紫で統一するという凝ったコスチュームでいつも登場する人だったから、句会ではまさに異彩を放っていた。近づき難いようなエキゾチックな風貌にも関わらず、意外にざっくばらんな親しみ安い人柄から、接した人々に愛されていたようで、多くの追悼句があった。この二句をその代表として挙げる。
 黒岡句は、そのむらさきのコスチュームを、むらさき式部の実と喩えて、その全身像に憧れの賛歌を贈る。語りかけるような情感をこめて。
 秀句にはあげなかったが、中内句も、らふさんを竜胆の花に喩えて、母にも似た魔女のような情深き人という。まさに生前のらふ亜沙弥像を活写した一句。

着ぶくれて着ぶくれて難民の波しづか すずき穂波
 この句の難民は、ウクライナの戦争避難民と解した。能登地震の場合は、ほとんど着の身着のままで逃げざるを得なかったと思われるからだ。難民の波は、侵攻してくる残虐なロシア兵に声も上げられず、ひたすら逃げ惑うばかりの人波だったのではないか。北国の早く訪れる冬に備え、出来る限りの防寒着を身に着け、転がるように逃げ続ける。「着ぶくれ」の言葉を重ね、その人波はロシア兵の眼を逃れるように物音「しづか」としたあたり、重苦しい逃避行の旅のあり様が見えてくる。

鍵穴の中の残照憂国忌 ダークシー美紀
 「憂国忌」は言うまでもなく、昭和四十五年十一月二十五日に、市ヶ谷の自衛隊司令部で割腹自殺した三島由紀夫の忌日。小林秀雄は「この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけの責任を背負いこんだ個性的な歴史経験の創り出したものだ」という。それ故に、三島文学の凝縮された光芒 が、今もなお歴史の小さな鍵穴から、強烈に放たれる。作者はそのことを忘れまいとしている。

秩父晩秋何もかも何もかもなつかしく 野﨑憲子
 この句も兜太師を偲び、秩父で吟行した思い出を詠んでいる。具体的な景は書かれていなくとも、その吟行体験を共有した海原の読者なら、ああとうなずくことだろう。幾たびか訪れて兜太師を中心とする連衆と過ごした思い出の数々が、そのまま立ち上がってくる。「何もかも何もかも」というリフレインの呼び掛けが、言い尽くせない思い出の数々を油然と甦えらせる。作者は、その体感を、堪らない程のなつかしさとして書いている。

狐火のゆれる瓦礫のカトラリー 三好つや子
 カトラリーとは、洋食に用いられるナイフ、フォーク、スプーン等の食器の総称。この句もあるいは被災地の現実を想望して書いたものかも知れない。瓦礫の広がる被災地の中に、亡くなった人々の狐火が燃えているのだろう。そのあたりに、カトラリーが散乱していて、そこに燐光が光っているようだ。妖しげな光の渦がカトラリーに照り映えているようだ。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

椋鳥の群涙の形で落下する 石田せ江子
 光りながら鳥たちが上枝から下枝へと舞い下りるとき、ツイーンとまるで涙のようにキラキラ美しい。そんな光景を何度も見た。このような感じ方は特別ではないかもしれないが、同じ想いで見ている人がいたことが嬉しい。晩秋から初冬へのひかりの推移の中での椋鳥の生態、またそれを見ている人の日常が鮮やかに浮かぶ。光がなかったなら、落下する鳥は涙には見えないはず。そう思うと、この冬の日差しが一層いとおしい。

頑是ない老人でありすゝ払い 長谷川阿以
 普段あまり耳にしない頑是ないという言葉。中原中也の詩に「頑是ない歌」というのがあったが、無邪気とか聞き分けのないとか言わずに、頑是ない老人という作者に惹かれる。もちろん上五中七と煤払いとの因果関係はない。年末の寺社仏閣での懇ろな煤払いとは違って、ぱっぱっと盛大に埃を撒き散らしながら、子供のまま老人になった人の煤払いが妙におかしい。頑是ない老人の煤払いは無事に終わったのだろうか。

突如濃霧PTSDのように 新野祐子
 心的外傷後のストレス障害、PTSD。経験のない者には想像の域を出ないが、突如濃霧のようにと言われれば、かつて車で山中を走っていた時、突然の濃霧に襲われたことがあった。その時の不安と恐怖は今も覚えている。しかしその濃霧は刻が経てば晴れ、不安も取り除かれる。幾度も繰り返すPTSDのフラッシュバックは、そんなに簡単なものではない。さらなるメンタルケアが必要となることを思うと、この複雑な現代社会の生きづらさが思われる。

初冠雪夫をたたいてしまいけり 本田ひとみ
 この句を読んでまっ先に思ったことは、しばらくお目にかかっていない作者に会いたいと思った。長い間病後の夫と共に暮らす作者。気丈で優しく、真っ直ぐで清潔な人。かつての作者の句に「うそつきの母の嚏に従いてゆく」があった。一瞬どきっとするが、もちろん大好きな母についてゆくと読める。そして今回の句、軽い悔いも滲ませながら、たたいてしまいけり。しかしそれらの全ての想いを包み込む〈初冠雪〉の気高さが素晴らしい。作者は、季語の使い方の名手で、それは今も変わらない。

錯覚の消えぬ枯薗ありにけり 小野裕三
 もの皆色を失い、人影もまばらな閑寂とした枯園。その枯園に立った時、全ての拘束から解放された安堵感で一瞬方向感覚を失い、知覚が自由に飛び回るような自在さを感じないだろうか。それは錯覚が錯覚を呼ぶような陶然とした世界であり、そんな世界が心地よくて、しばらくそこに浸っていたい気分になる。

色になる前の感情冬桜 月野ぽぽな
 一読難解な句。しかし惹かれる句。冬桜はあの切れるように透明な冬の空気の中で、まるでその色を奪われてしまったかのように幽かに儚げにしかし凜と咲いている。それでは色になる前の感情とは何か。上五中七が全て冬桜に係るのか、あるいは作者自身が色になる前の感情を抱いていて、その感情は冬桜から生まれてくるものと読むのか。やはり感情・・が難しい。

朝日の阿釣瓶落しの吽のうた 鈴木孝信
 字音の初めの阿は〈朝日の阿〉そう言われて実際に、口を開けて阿の音を出してみて、作者の言う〈朝日の阿〉に感心する。それから〈釣瓶落しの吽のうた〉のうた・・に感動する。そしてこのうたは大地に響き渡り、たましいに届く。大自然に溶け込むようにすくっと立ち、土と親しみ、土と暮らす大らかで健康的な、原初日本人の匂いがするこの句。この作品に出会って、今夜はぐっすり寝ることができそうだ。

ホットミルクの被膜よきっと今日も不在 藤野武
 いるべき人がいない、いて欲しい人がいない、不在。ぞくっとするような淋しさ。今日だから昨日もそうだった。そしていつかずうーと不在。明日のことはもう考えない。時間の経過と共に現れ、口にすると舌に残り、こころをシワシワさせるミルクの被膜のようなやっかいなもの不在感。こんな微妙で複雑なこころの内をホットミルクの被膜という具体的な物で提示されて、改めて不在という言葉にぞくっとする。

てのひらのうすき水脈にも雪降りぬ 水野真由美
 感覚本位で句作すると、つい言葉を酷使することがままありがちだが、この句は感覚的でありながらそれがない。てのひらのうすき・・・水脈にも・・表わされているように句の隅々まで行き届いた肌理細やかな言葉選びと表現。そしてそれらの言葉を柔らかく、滑らかな韻律に乗せて心地よく響かせる。完成度の高い作品。この句でさらに注目したのは〈雪降りぬ〉の季語の働き。まるで夢とうつつを行きつ戻りつしながら、しだいに雪の景に同化し、いつしかてのひらの水脈を通じて、作者の歳月をも感じさせる。

◆金子兜太 私の一句

烈女の手のつばなのやわさ鯉癸癸はつはつ 兜太

何年も前のNHK全国俳句大会で、兜太先生と稲畑汀子さんの選が重なった折、稲畑さんの「近頃は金子先生も大分俳句のことが解ってらしたようで……」の発言、それをガハハ笑いで受け流す、兜太先生の大写しの貌が正に癸癸、稲畑さんを烈女と名指すことに少しの遠慮はありますが、この句の核である。「つばなの柔さ」で許して頂きましょう。句集『詩經國風』(昭和60年)より。”癸癸は「盛んなる貌」。”の注釈あり。中村道子

走らない絶対に走らない蓮咲けど 兜太

兜太先生は常々「私はね走ったりはしないんですよ」とおっしゃっていました。私も同感でしたので、次の句を作りました。〈秋高し走れるけれど走らない〉。しばらくして「海程」誌上で掲句を拝見。正直驚きました。何もおっしゃらないけれど、先生は気にしていらした。初めてお会いした時は豪放磊落な方と思いましたが、実はとても繊細な方であるとしみじみ思いました。句集『日常』(平成21年)より。松本悦子

◆共鳴20句〈1・2月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

田中信克 選
稲光まとめて削除します「はい」 石川青狼
八月や忘れぬ為に石を置く 石川義倫
フライパン選んだりして妻みたい 大池桜子
海貸します車貸せますさるすべり 河西志帆
海の端に鱗を拾ふ星月夜 小西瞬夏
無いものを見せまいとして秋の繭 小松敦
赤とんぼ交わるどの空も愉快 三枝みずほ
他界へと捻る両の手阿波踊り 高木水志
鳩を吹く人は順路を生きられず 立川弘子
小鳥来る宙より現るる周波数 立川瑠璃
詩の土器のわたしの破片つづれさせ 鳥山由貴子
秋灯にインテリア店と畳屋 野口佐稔
認知症つくせつくせとつくつくし 松田英子
太宰治と自転車が好き青みかん 松本千花
○リンゴ赫む根っこに縄文人骨 マブソン青眼
○月光の匂ふ上衣を折りたたむ 水野真由美
鉛筆画の母がぽつんと敗戦忌 宮崎斗士
萩の花いつもメガネを拭いている 室田洋子
牛膝とおく歩いてきた後ろ 望月士郎
海色の秋蝶なれば栞とす 茂里美絵

藤田敦子 選
はらわたの機嫌に疲れ早稲の粥 石川和子
百日紅おやは海よりあがりきて 稲葉千尋
岩木残照あなたの好きなむらさきに 植田郁一
素っ気なき男と見てる秋の曳航 榎本祐子
鵙過るプラットホームという疎林 尾形ゆきお
○金木犀寂しい時は手を離す 奥山和子
荷崩れのごと家に居て漸く秋 篠田悦子
「のぼさん」と呼ばれし頃よ素手素足 新宅美佐子
きっかけは風の三叉路この愁思 竹田昭江
白菊や名刺の切れた人ばかり 中内亮玄
○遠雷は私を探しているのだろう ナカムラ薫
露の世の露よ等しく円周率 中村晋
銀漢の尾を踏み外し猫と居る 新田幸子
半睡の冷えたあしたを引き寄せる 平田恒子
十月の夏雲紙で切った傷 北條貢司
雁渡る傷の深さを確かめに 松本勇二
○リンゴ赫む根っこに縄文人骨 マブソン青眼
○月光の匂ふ上衣を折りたたむ 水野真由美
妹よ無邪気なふりの白玉よ 室田洋子
○たぶん後から作った記憶アキアカネ 望月士郎

松本千花 選
少女等はコスモス畑に永住す 大池美木
○金木犀寂しい時は手を離す 奥山和子
先生と虹とを声で区別する 小野裕三
廃校の笑い袋を拾ったよ 葛城広光
かでなふてんまもずく天ぷらは此処 河西志帆
恋びととぬすびと萩が枯れてゐる 木下ようこ
すすきみみずく琴線に触れるさび 黒岡洋子
涅槃図の真白き象を鳴かせをり 小西瞬夏
花すすき催眠術師の髪のいろ 小林ろば
火恋し夜のふくらみ人のふくらみ 小松敦
ゆという季節や国境また湧いて 佐孝石画
切り裂きてスローな昼やバッタ飛ぶ 白石修章
栗をひろう青空に不都合な過去 たけなか華那
それぞれの海抱え来て秋病棟 竹本仰
○遠雷は私を探しているのだろう ナカムラ薫
風よりも先にうまれた白式部 平田薫
風は柚子からやっぱり正直者なんだ 三世川浩司
○告白に椎の実ふたつ混ざってる 室田洋子
○たぶん後から作った記憶アキアカネ 望月士郎
やきいもを分ける姉弟の不公平 若林卓宣

山本まさゆき 選
入口を無くした空き家小鳥来る 伊藤歩
ギンナン踏むたび靴が小さくなる 井上俊子
女子学生鶴折り夏をとんがらす 大沢輝一
困学の果ての生き方終戦忌 河田光江
言の葉の根の澄みてゆく草雲雀 川田由美子
サイダーの泡の向こうが燃えていた 河西志帆
山鳩と隣りあう席秋の雨 河原珠美
合歓の花全部余白の人に会ふ 小松敦
栗実る山を案じてパトカー来 佐々木香代子
もう一匹黒猫が居る木下闇 篠田悦子
眼底を覗く秋風のようなドクター 十河宣洋
晩夏光ルビふるごとくひとの影 舘林史蝶
鳥渡るなり人みな配置図のなかへ 田中信克
木木睡り小鳥は考えてばかり ナカムラ薫
鶏頭のぶ厚さで立つ老いなりし 丹生千賀
鶺鴒と徒侍は休むかな 松本勇二
金木犀の金をいまさらさびしむか 水野真由美
帰国猫クローゼットの秋気が好き 村上友子
○告白に椎の実ふたつ混ざってる 室田洋子
銀漢や妻につむじが二つある 望月士郎

◆三句鑑賞

稲光まとめて削除します「はい」 石川青狼
 ユーモラスな表現の内に重大な真実が潜んでいる。ネットアカウント削除のことだと思うが、ここ数年の世界を見れば、「まとめて削除されるもの」がいかに多いことか。ウクライナやガザへの侵攻。災害で失われた多くの命。「はい」と言う従順な返事の裏に強い抵抗とやるせなさが滲む。俳諧としても警鐘としても貴重な一句だ。

八月や忘れぬ為に石を置く 石川義倫
 「石を置く」というフレーズに深い意味を感じる。この「石」には墓や碑のような重量感を感じない。指で摘まめるくらいのサイズ。動かすことも転がすことも自在である。だがそれゆえに「それを護り抜くこと」が難しい。時は八月。歴史と現在への省察と、「忘れぬ為」の決意と努力が試されている。静かな教えがここにある。

小鳥来る宙より現るる周波数 立川瑠璃
 周波数を視覚として捉えたのが面白い。地球上の空間に溢れる電波や音波。通信機器などを通じて様々なメッセージが送られ、我々は常に一喜一憂させられる。今、宇宙から新しい周波数がやってきた。それがやがて、群鳥の飛影の中に妖しい姿を現し始める。預言なのか福音か。どうか幸せをもたらすものでありますことを。
(鑑賞・田中信克)

遠雷は私を探しているのだろう ナカムラ薫
 激しい雷鳴と稲光が遠ざかっていく、遠くで雲が微かに光り、基調低音が繰り返し伝わってくる。すでにもう、長く穏やかな日々なのに、時折、過ぎ去った時が私を探しに来る。変わらず私はここにいる。また遠くが光った。もう音は聴こえない。「私を探しているのだろう」という断定が、しづかな諦観と共につぶやかれる。

十月の夏雲紙で切った傷 北條貢司
 このところの気温上昇で、一年は四月から十月までが夏だと思っている。そこで十月の夏雲である。常ならば、鰯雲や羊雲が空を埋めている頃だ。この夏雲はさすがに力強い積乱雲ではないだろう。それはまるで、知らぬ間についた小さな指の傷のように、時折ひりりと痛む。そんな夏の名残の光のようである。

たぶん後から作った記憶アキアカネ 望月士郎
 明確な証拠が残されぬ限り、記憶などはそういうものだろう。つらい記憶は薄れゆき、流した涙さえも美化される。「後から作った」といえば、作為的となるが、ほとんどの場合は無意識の上書きなのだ。「十五で嫁に行ったねえや」は幸せだったのか?なんて誰も考えない。しかし、それを良しとしない人もいて、だから控えめに言う「たぶん」なのだ。
(鑑賞・藤田敦子)

花すすき催眠術師の髪のいろ 小林ろば
 催眠術師に会ったことはないが、怪しげな笑顔、信用させようと取り繕う滑稽さを思い浮かべてしまう。作者は催眠術師の髪の色に注目した。たしかに髪の色はその人の印象に大きく影響する。花すすきのように白くふわりとした髪であったら、眠たくならなくても催眠術にかかったふりをしそうだ。風になびく綺麗なすすきの穂に招かれるように。

火恋し夜のふくらみ人のふくらみ 小松敦
 肌寒くなると火を焚いて温まりたくなる。寒さを逃れ暖を取るときの幸せ。昼間の仕事が終わり家族や親しい人と火の近くで過ごす夜のぬくもりを思う。部屋が暖まってくると夜がふくらみ、人もふくらむ。「夜のふくらみ人のふくらみ」「夜のふくらみ人のふくらみ」呪文のように唱えて、私も少しふくらみたい。

やきいもを分ける姉弟の不公平 若林卓宣
やきいもを仲良く分ける姉弟の映像が「不公平」で一変する。年齢差、体格差…。どう分ければ公平になるのか。姉弟は兄弟、姉妹に比べて競争心も少なく仲の良いものとは思うが、性差による不公平を感じることもあるだろう。やきいもを分け合う頃から、何度も不公平を感じ、それぞれ成長していくのだろう。
(鑑賞・松本千花)

困学の果ての生き方終戦忌 河田光江
 私の亡父は、昭和二十年代、代用教員を辞め、学者を志して上京、バラックの大学寮に住み、庭で野菜を育て、寮費の免除を受けるために炊事係をしながら学問を続けたというが、結局断念して帰郷し、教職につき一生を終えた。しかし、父の苦学があったからこそ、今の私がある。そしてそれは私の子に引き継がれる。

サイダーの泡の向こうが燃えていた 河西志帆
 何気なく頼んだサイダー。観光客で活気に溢れたカフェの片隅で、夏の眩しい日を透かし、泡がつぎつぎと上ってゆく。作者は沖縄に在住。背景はかつての戦場なのだろう。七十八年前、泡の向こうの正しくこの場所で、火炎放射器の炎にサトウキビ畑が、人々が燃えていた。私もかつて焼夷弾が降り注いだ現場を日々歩いている。そしてサイダーの泡は黙々と上り続ける。

晩夏光ルビふるごとくひとの影 舘林史蝶
 晩夏の光を浴びる真っ白なケント紙に、細い直線で大きな交差点が描かれ、ルビのような影が散らばって蠢いている。ルビの対象である人そのものは、もうそこにはいない。人の実体はもう要らない。ルビだけで十分なのだから。ルビたちは、とりあえず決定されたそれぞれの目的地へ向かい、散ってゆく。
(鑑賞・山本まさゆき)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

愛の日の誰にも逢はぬまま日暮れ あずお玲子
曾祖母はるか婦志ふじと呼ぶ美しき白息 飯塚真弓
与那国島から台湾が見え雁渡し 石口光子
陸軍歩兵新倉八五郎碑冬うらら 石鎚優
亡き弟の名だけ頷く父へ小春日 伊藤治美
裸木や最後の無頼派作家逝く 植松まめ
鬼なのか人間なのか海鼠食なまこはむ 大渕久幸
たわわなる青柿の家ひと絶えし 小野地香
柚子届く柚湯柚子みそ柚子ぽん酢 かさいともこ
師の腕を抱へ山頂冬桜 神谷邦男
客の来てずらずら柿の旨いずら 北川コト
喪中です石蕗の葉十枚投函す 小林育子
半世紀の手帖を今はとじて冬 近藤真由美
薄皮に黒餡透いて山眠る 佐竹佐介
ユニセフのミルクで生きてセーター 重松俊一
大皿を出して始める年用意 高坂久子
人生にわが居る不思議梅の花 立川真理
雪蛍タカラジェンヌを夢見た日 藤玲人
りんご箱開ければ少年少女たち 中尾よしこ
ポツダム宣言読む十二月八日明け 平井利恵
はつゆきの誰が弾いてもいいピアノ 福岡日向子
カフェに席確保できたる師走かな 福田博之
裏年の柿を鳥等と分け合ひぬ 藤井久代
狐火や生き先知らぬ舟に乗る 保子進
着ぶくれて身の内にある不発弾 向田久美子
サクサクと食ぶ戦艦の名の林檎 村上紀子
蕨餅机上に生活の余白 村上舞香
天井を突き破りたい風船 路志田美子
短日の雲に朝日子のっかって わだようこ
数へ日やはだしの一歩踏みしむる 渡邉照香

狐鳴く 佐々木宏

『海原』No.57(2024/4/1発行)誌面より

第5回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

狐鳴く 佐々木宏

吹雪聞く玉音放送聞くように
流氷や農耕民族おうと言う
耳こゆび記憶凍傷になる順序
働いて働いて畏まる姉冬苺
氷橋いずれ切腹するつもり
落雪の音ありつくづく安部公房
雪うさぎ早産という情緒かな
古里はストリッパーのよう樹氷
狐鳴くまた鳴く人格変わりそう
二行ほどアンダーライン春の水

古里のその古里 立川瑠璃

『海原』No.57(2024/4/1発行)誌面より

第5回海原新人賞受賞 特別作品20句

古里のその古里 立川瑠璃

古里のその古里は蜃気楼
記憶の扉明ける朧に祖母がいる
春三日月地平のわが身浸しつつ
非人称の町角はみな花の匂い
方言も人も吹雪いて地方都市
春宵の大正町に寿三郎
静謐を乱して霧の古墳群
祝橋元に還れぬ半仙戯
春野から時の旅する吾が見える
空中ブランコ命綱なき燕
見世物の懈怠が笑う草迷宮
三次東座春燈太く弛みけり
習俗や一夜明ければ形代となり
絵のような陽炎のような寂しき者ら
メメントモリ柔らかに桜時はなどきは過ぐ
深遠に既視感ありて鵜飼船
記憶痕跡めくられて無月の頁
初蝶来て詩想の暗示の如く消ゆ
霧の海鮫食む人が棲むといふ
断章や鏡の中の梅ふふむ

ルイージの懊悩 中内亮玄

『海原』No.57(2024/4/1発行)誌面より

第5回海原賞受賞 特別作品20句

ルイージの懊悩 中内亮玄

帰り花ポケットの中に握り拳
雪風巻ポケットの中に握り拳
冬北斗ポケットの中に握り拳
春浅きポケットの中に握り拳
卒業すポケットの中に握り拳
猫の恋ポケットの中に握り拳
山笑うポケットの中に握り拳
花吹雪ポケットの中に握り拳
泳ぐ蛇ポケットの中に握り拳
青胡桃ポケットの中に握り拳
夏の雷ポケットの中に握り拳
大花火ポケットの中に握り拳
晩夏かなポケットの中に握り拳
身に沁むやポケットの中に握り拳
おけら鳴くポケットの中に握り拳
世阿弥忌のポケットの中に握り拳
きりもなやポケットの中に握り拳
馬鹿馬鹿しポケットの中に握り拳
類似かなポケットの中に握り拳
ルイージかなポケットの中にマリオ握り

ペンのあと 佐々木宏

『海原』No.56(2024/3/1発行)誌面より

第5回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

ペンのあと 佐々木宏

弟と木の実漂白剤のにおい
山に雪私に母さんふりました
冬服やオウム出してはまた入れる
セーターの裏もセーター境涯派
直滑降転べば鎌倉時代かな
スケートリンク小熊秀雄のペンのあと
雪重し結晶なのに白いのに
雪搔いて私はモアイ空を見る
冬かもめ彼女のなぐり書きのメモ
近況はポインセチアとワインとか

『海原』No.56(2024/3/1発行)

◆No.56 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

カラフルな呼吸たそがれどきもみじ 石川青狼
突き刺さるガザの子の「なぜ」秋夕焼 伊藤巌
寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
鵙日和蕎麦打つ男佳かりけり 大池美木
夜気みちて言葉の林ざわざわす 尾形ゆきお
小春日に背中預けて「サザエさん」 加藤昭子
熊出そう兜太先生出て来そう 川崎益太郎
古楽器の響きのごとく水澄めり 川嶋安起夫
夕顔や人追うように灯りたい 黒岡洋子
ビルとビルの隙間に落暉神の旅 黒済泰子
聞き取れぬ愛があります月に蜘蛛 佐孝石画
百日草自傷のように書く日記 佐々木宏
長生きの有耶無耶にあり茸汁 篠田悦子
指ぐるぐる麦藁蜻蛉よお久しゅう 鱸久子
月天心地上散らかっています 芹沢愛子
竜胆やすらりと立てる祖父の墓 高木水志
冬夕焼だれも知らない死後の景 董振華
銀杏ゆれ光の子らのかくれんぼ 友枝裕子
秩父急行豚草が柿が飛んで行くよ 中内亮玄
星流る地球のどこか今もゲルニカ 新野祐子
ほんと言い過ぎたよな実石榴ほじる 西美惠子
老犬が瞬きをする金木犀 平田薫
おおきにな「アレ」してもろて温め酒 藤好良
移住者の温顔集い落葉搔き 船越みよ
雪暗や母のにほひの桐箪笥 前田典子
簡単ごはん秋茄子焼いて肉焼いて 松本千花
なつかしい栞たとえば綿虫のむこう 三世川浩司
霧の街地図をひらけば人体図 望月士郎
懐かしの駄菓子のエッセイ夜長かな 梁瀬道子
取れかけのボタン嵌めけり今朝の冬岡 山本まさゆき

遠山郁好●抄出

一日中歩いた自傷冬夕焼 伊藤清雄
寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
階段の一段づつの猛暑かな 内野修
虫しぐれうしろの闇に喪服脱ぐ 榎本愛子
真っ直ぐに歩き疲れて寒の入り 大西政司
古酒新酒どちらで酔うも二日酔い 川崎益太郎
神の旅入日さしたるゴリラの背 河田清峰
午後は雨の予感秋蝶肩に来て 楠井収
うつむくと地面が見える石蕗の花 小松敦
万華鏡回す小鳥の鼓動です 三枝みずほ
秋天に今日を捧げるそして溶かす 佐孝石画
おじの名は熊蔵秋の黄泉しずか 佐々木昇一
秋の水ポーと汽笛になることも 佐々木宏
掌に宿る月光友快癒 佐藤君子
熱燗を蝶の羽根のようにつかむ 十河宣洋
極月やスタントマンの掠り傷 髙井元一
秋の日に去るもの追わずハシビロコウ 滝澤泰斗
冬曙全く白い父の姿 豊原清明
古里は兎も追えぬ基地フェンス 仲村トヨ子
ほんと言い過ぎたよな実石榴ほじる 西美惠子
父と夫同じ芋科で違うイモ 野口思づゑ
ホームランコキア紅葉に消えにけり 長谷川順子
蛍火や言葉の上からさわる悲しみ 北條貢司
指より砂シルクロードに咳ひとつ 松岡良子
蚯蚓鳴く字余り吃逆くせになる 松本千花
蜩やたとえばガラス切る呼吸 宮崎斗士
うさぎ林檎この町月の肌ざわり 望月士郎
こおろぎのよく鳴く眠剤はブルー 茂里美絵
さうですか不知火ですか僕達は 矢野二十四
青柿に敬意ありけり九十歳 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

突き刺さるガザの子の「なぜ」秋夕焼 伊藤巌
月天心地上散らかっています 芹沢愛子
星流る地球のどこか今もゲルニカ 新野祐子

 今日只今の時代の危機感を詠んだ句の一連である。いわゆる時事俳句だが、社会性俳句の現在を示す句群といえよう。
 伊藤句は、イスラエルとハマスの戦争から、一躍その焦点として浮かび上がったガザ地区で、食料やエネルギー源の不足に苦しむ人々の切実な声を、子供の素直な叫びとして捉えた。「なぜ」の後に、「私たちはこんな目に遭わなければならないの」と続く声は、秋夕焼の中に燃え続けている。
 芹沢句。今の地球での事態を巨視的に捉え、「散らかっています」と少し皮肉っぽく喩えた。子細に見れば、どうしょうもないひどさなのだが、皆でなんとかしようという動きは、まだ見えそうもない。むしろ一層ひどくなる様相を呈しつつある。月はその有様を、煌々とあからさまに照らし出しているようだ。
 新野句。ゲルニカは、ピカソの絵で有名な戦争の惨禍図。あのゲルニカのような悲劇は、今も地球のどこかで、おなじように繰り返されているに違いない。そんな過ちが、性懲りもなく繰り返されていいのかという声が、星の流れに明滅する思いを呼んでいる。

寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
百日草自傷のように書く日記 佐々木宏

 加齢に伴う孤独感と、そこに生きさらばえている人間像の句。
 稲葉句。寒昴の夜空の下、自分は流れに浮かぶ一本の藁しべのごとくはかないものだという。作者は最近、癌の宣告を受けたらしい。しかしどこか自若と受け止めている感じもする。〈ええそうよ癌だと言って柿を剥く〉とも書いているから、もはや居直っているのかもしれないし、一つの諦念に達しているのかもしれない。
 佐々木句。「百日草」というからには、まだまだ生きる気でいることはたしか。稲葉氏とはほぼ同世代ながら、状況が違う。日記を「自傷のように書く」となれば、毎日反省や繰り言ばかりを書いているわけで、なんとなく無為に過ごした日々への悔いにさいなまれていると見れなくはない。よくわかる実感で、そうして老いてゆく淋しさが噛みしめられている。そこには老いへの道筋を模索している姿が見える。

長生きの有耶無耶にあり茸汁 篠田悦子
冬夕焼だれも知らない死後の景 董振華

 九十歳台の篠田さんと五十歳台の董さんの、それぞれの世代の対照的な死生観。
 意外にも、九十歳台の方が余生に対して腹をくくっているのに対し、五十歳台は死の不安におののいている感じがある。九十五歳の時の兜太先生は、「なにも怖がることはない」と『他界』で書かれた。死が間近にあるとすれば、前述の稲葉句のように、かえって居直ることが出来るのかもしれない。
 さて篠田句。長生きの有耶無耶とは、何事も有耶無耶にする老蒙状態にあることだろうか。それでも茸汁のような滋養のあるものを頂いて生きてますという。生きることへの執念は、まだしたたかに健在しているようだ。また〈およよんと目眩橡の実落ちて跳ね〉の句では、よろめきながらも、橡の実が落ちて跳ねていくように、どこまでも生ききろうとする姿勢を隠さない。
 対する董句。死は生者にとって、誰も経験したことがないものだから、死後の景など誰も知らない。だが冬夕焼を眺めていると、死後の景とは、こういうものだろうかと想像をかきたてるものがある。自分もやがてあんな風に他界へ行くのだろうか。ふと身に染みるような思いに駆られて、身震いをする。それは、まだ中年ながら、もう一つの時間としての老いへの道筋を眺めているかのように、どこか予感のようなものにおののいているのかもしれない。

なつかしい栞たとえば綿虫のむこう 三世川浩司
懐かしの駄菓子のエッセイ夜長かな 梁瀬道子

 ふるさとの幼い頃の思い出は、当人ならではのものがあり、さりげない中に色濃い情感が漂う。
 三世川句。ある日ふと、日頃なにげなく手にしていた栞から、妙ななつかしさを感じたのだろう。おそらく作者にとって退屈な無為の時間に、ふと訪れたなつかしさが、思いがけなく栞から触発されたのではないか。それは、初冬の頃、青白い綿のように浮遊する綿虫の空間のむこうに浮かんでいるような、ただ今の時間の知覚でもあった。どうやら幼い頃、ふるさとでみたような原郷感覚に通い合うものだったのかもしれない。
 梁瀬句。こちらはもっと具体的な思い出に直結する。幼い頃、ふるさとの駄菓子屋で買った駄菓子に関わる思い出のあれこれは、今もあざやかに思い出すことが出来、それをエッセイにして書き残しておこうと思い立つ。おそらく仲間内の同人誌に、何か書いてくれと依頼されたからだろうが、いざ書くとなればさまざまな人間模様にも連なってきて、なかなかまとまらない。そのまとまらなさに沈湎している時、今は遠のいているふるさとの景につながって、懐かしさを誘うのだろう。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

うさぎ林檎この町月の肌ざわり 望月士郎
 うさぎ林檎は、お弁当などに添えられている兎の型の林檎。何故いきなりうさぎ林檎。作者は〈この町月の肌ざわり〉へのスムーズな導入を意図した。しかし兎では月に近すぎる。そこでどこか懐かしいうさぎ林檎。そして手触りでなく、肌ざわりと言った時、そのひやっとして粒だつような、それでいて艶やかな月の質感が皮膚を通して感受される。この句、海原大会の満月の秩父での作と知れば、さらに味わい深くなる。

一日中歩いた自傷冬夕焼 伊藤清雄
 何か思うことがあり、唯々自らを傷つけるように歩きまわった。そして一日が終わろうとしている。眼前に広がる冬夕焼。その冬夕焼もまた、まるで自傷のようにまっ赤に空を染めている。そんな冬夕焼と心を通わせながら佇っている。身心のバランスを保つため、ひたすら歩くこと、そしてこうして表現することは、困難を和らげる術であることを知っている。

真っ直ぐに歩き疲れて寒の入り 大西政司
 寄り道もせず、脇目も振らず、真っ直ぐに歩いて来てすっかり疲れてしまったが、嗚呼もう寒の入りかと感慨に耽る。真っ直ぐに歩くとは真っ直ぐに生きること。これまでの人生への充足感と肯定感が心地よく響く。そして結局、人間とは二足歩行の生きものであり、歩けば疲れるし、生きていれば寒の入りにも出会う。他の生きものから見れば、こんな人間の生真面目な行為は、ユーモラスに映っているかも知れない。

冬曙全く白い父の姿 豊原清明
 まだほの暗さの残る曙の中では、人は白さに対してより鋭敏になる。偶然のように冬曙に現われた父は、神々しいまでに全く白い姿だった。なぜ全く・・と言い、字余りで少しぎこちない姿と言ったのだろう。そんなことを考えながら、全くといい、姿といいその言葉が照らし出す作者の内側の声に訳もなく引き付けられた。この〈全く白い姿〉からは作者の父への思いの深さ、かなしみをも感じさせる父との歳月へのいとおしさが思われる。

秋の日に去るもの追わずハシビロコウ 滝澤泰斗
 上野動物園で、初めてハシビロコウに会った時、噂に違わず、周りの騒音にも惑わされず、瞑想の僧か哲学者のようにビクともしない。それでもハシビロコウの周章てる姿を見たいと暫く対峙してみたが無駄だった。結局、ハシビロコウにとって人間なんて眼中にないらしい。そんなハシビロコウの生態と作者の去るものを追わずの生き方との重なり具合が妙に面白い。それに秋の日も微妙な働きをしている。

さうですか不知火ですか僕達は 矢野二十四
 有明海か、八代海か漁火が明滅して、かの不知火が見える。ところでご出身はどちらですか、そうですか、同郷ですね。一見さりげない会話とも読めるが、この句にはどこの出身とも同郷とも書かれていない。実は僕達は不知火湾のあの謎めいた不知火そのものなんです。道理でお互い少し屈折していますね。そして妙に気が合いますね。なにしろ僕達は不知火ですから。一期一会の人とこんな不思議な言葉遊びをしてみたい。

父と夫同じ芋科で違うイモ 野口思づゑ
 俳諧では、芋は里芋を言い、秋の季語となっている。その里芋科で思い浮かぶのは、蒟蒻芋、タロー芋、蝦芋くらい。そう言えば不喰芋もあった。ところで結婚相手は、意識していなくても結果的にどこか父に似ていることはよくある。しかし、似ていると言っても他人。やっぱり父とはどこか違うなと思うが、そこがまた興味深いところ。イモのイメージとしては温かみ、親しみ易さ、安心感等だが、ここで言う作者のイモは、夫や父への最大限の讃辞と読める。こんな句をさらりと書く作者が羨ましい。

蛍火や言葉の上からさわる悲しみ 北條貢司
 悲しみは驚きに似ていて突然現われ、もう手に負えない。言葉でいくら宥めても、そんな時の言葉は乾いていて触れるだけで刺さるようだ。ずっと深い処にある悲しみは、言葉では到底表現できない。息を潜めて悲しみが溶けてゆくのを待つしかない。悲しみは悲しみで薄める。蛍火がまた、悲しみに触れてゆく。

寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
 凍てつく空に輝く昴に対して、人は確かに一本の藁のような微小な存在に思える。しかし人一人のいのちは地球より重い。以前、子規に関する本の中で、子規の「平気で生きる」という言葉に出会って強く心に残った。子規が病を得てからも病床で旺盛な食欲と句作や著作を続けられたのは、この「平気で生きる」という信念に支えられていたのではないか。さらにはものを書くことによる精神の浄化作用も生きる力に繋がった。この「平気で生きる」という言葉、そうありたいという願望と共に大切に温めている。

◆金子兜太 私の一句

蝶のように綿入れの手振り吾子育つ 兜太

 私は昭和23年、南房総の山里に生まれ、自然の中で自由に育ちました。「綿入れ」は私にとっても懐かしい言葉で、幼い頃着ていました。成人して東京で生活し、母となり娘を育てました。50歳の頃、年老いた母に会うため館山へ帰ることが多くなりました。田畑に白い八つ手の花が咲いていました。〈花八つ手自己満足の親孝行〉と作りました。兜太先生はその句を誉めて下さいました。「海程」に入会し学んだことは”宝物”です。句集『少年』(昭和30年)より。小野正子

津波のあとに老女生きてあり死なぬ 兜太

 東日本大震災の一句、下の「死なぬ」が気になり繰り返し読んでいるうちに、これは兜太先生の魂の叫びだと気づきました。先生の命に対する特別な思いと、九日も漂流し助かった老婆の命が響き合って出た「死なぬ」だったに違いない。句の型が崩れても詠みたかったこの感動がずしんと伝わりました。私が被災地を訪ねた時、荒寥の地に赤い風車が音をたてて回っていたことが忘れられない。句集『百年』(2019年)より。鎌田喜代子

◆共鳴20句〈12月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

川嶋安起夫 選
少々の事背負いて立ちぬ晩夏光 上野昭子
独身のしづかに食みし茸飯 鵜飼春蕙
書くことも祈りのかたち八月来 榎本愛子
晩夏の農夫半分はすでに虫 大沢輝一
よく眠る駱駝のこぶに揺れる月 奥山和子
樹齢三百年黙読と涼風の私語 刈田光児
海の子の背中にきこゆ波しぶき 北原恵子
忘れ掛けの思い出の鎖は朝顔 日下若名
がに股のまま乾くジーンズ敗戦忌 黒済泰子
宵闇の都バスは廻り道せぬか こしのゆみこ
炎昼や処刑のように干す軍手 鈴木栄司
あるようでない持ち時間桐一葉 高橋明江
○あれも秋燈沖ゆく舟に一つづつ 立川由紀
秋立つやパン一切れが置き去りに 谷口道子
敬老日マニキュア紅を赤に変へ 友枝裕子
日焼して畑舞台の大往生 梨本洋子
○銀やんま空のひろさを言いにくる 平田薫
砂利道の素足の痛み敗戦忌 深山未遊
母を叱り自責する日のこぼれ萩 村松喜代
シャッター街盆提灯の点々と 矢野二十四

小池弘子 選
きょーと夜汽車は青春の声兜太の忌 有村王志
子は母の誉め言葉待つ蝉時雨 石田せ江子
かまきりの生まれてこぼる右左 内野修
雨垂れの跡を辿れば道おしえ 大西政司
あの星は叔父たち四人終戦日 大谷菫
夜濯ぎや人に小さな舞台裏 桂凜火
老ゆるとはぼんやり暮す茄子の花 北上正枝
秋祭り神馬うとうと出番待つ 日下若名
真っ直ぐに生きた恋した曼珠沙華 倉田玲子
箱庭を一またぎして女房かな 黒岡洋子
兵役の果てぬ今生蟻の列 齊藤しじみ
○トマト噛むその混沌を得るために 佐孝石画
○あれも秋燈沖ゆく舟に一つづつ 立川由紀
老いたとは思わぬことに秋青空 中村孝史
老いる事それも楽しみ万年青の実 中村道子
チワワ似の積雲西へタヱ子ゆく 服部修一
虹の根を探していまも帰らぬ子 平田恒子
山の端に迎火父母ちちはは猫きんぎょ 藤野武
今朝の秋マニキュアの赤塗ってみる 松田英子
天曇るしづけさ紫蘇の実のこぼれ 水野真由美

小松敦 選
夕焼の缶入りスープを贈ります 安藤久美子
鉛筆に月の光の重さかな 榎本愛子
癒ゆる夏水底に火を焚くように 川田由美子
舟虫が動くと変わる世界地図 河西志帆
鈴虫の想いを綴る硝子ペン 北村美都子
輪転機かうもりの空剥がれゆく 三枝みずほ
○生き方の目次のように夏木立 佐藤詠子
小言は続くエンゼルトランペット たけなか華那
黒揚羽湖にさざなみよみがへる 田中亜美
海群青二百十日を沈めたか ナカムラ薫
可惜夜の夏蚕しぐれと流離いぬ 並木邑人
山葡萄色の家族を追熟す 根本菜穂子
自生とは意志道端のフリージア 野口思づゑ
吊革の片腕西日の野を這って 日高玲
○銀やんま空のひろさを言いにくる 平田薫
星月夜背に真新し蔵書印 藤田敦子
浮塵子と目があうことごとく乱視 三世川浩司
手話荒々プールサイドの少女かな 村上友子
にんげんの流れるプール昼の月 望月士郎
かたつむり体を太くしてのぼる 横地かをる

近藤亜沙美 選
人であることに行きつき落葉踏む 有村王志
万緑の奥へ白馬を隠しおき 刈田光児
花はちす祈りをうすべにと思う 北村美都子
父さんは真水ときどき霧になる 小林ろば
○トマト噛むその混沌を得るために 佐孝石画
○生き方の目次のように夏木立 佐藤詠子
八月の悲しい入り日かなかなかな 重松敬子
私にも影一つだけヒロシマ忌 竹本仰
白樺の林立灰白色の脳 田中亜美
手花火は少しかなしい隠し事 ナカムラ薫
産土に還る空蝉にもなれず 藤田敦子
独り居の素手満月に濡らしゐる 前田典子
足元から暮れゆく軋み蕺草どくだみ 三木冬子
黒き羽根落とし晩夏の一樹なり 水野真由美
逡巡はその空蝉に置いてきた 三好つや子
人恋し真夏が白く光るから 森武晴美
木槿はさざなみ水を買う日常 茂里美絵
竹落葉さらさら齢を重ねたい 森由美子
風媒の風甘きとき稲の花 柳生正名
みみず鳴くざりざりとため息錆びて 山本掌

◆三句鑑賞

書くことも祈りのかたち八月来 榎本愛子
 八月といえばまずは終戦のこと。またお盆の時期でもあります。悲惨な戦災で亡くなった方々への追悼、父母・祖父母、先祖への報恩感謝、そして平和への願い。それらの「祈り」は合掌のかたちだけでなく、私たちにおいては「書く」ことによってでもあり得る、否、あらなければならないということに気づかせてくれる一句。

あれも秋燈沖ゆく舟に一つづつ 立川由紀
 「あれも」……その前景にはどんな秋燈が目に映っていたのでしょうか、私たちにいろいろと想像させてくれます。それも「秋」の燈火ですから、これも人それぞれに様々な感慨をもたらすことでしょう。そうした豊かな含み、詩的情緒をはらんだ美しい句だと感じました。
 「一つづつ」の表記は、沖の小舟の形まで浮かぶよう。

シャッター街盆提灯の点々と 矢野二十四
 今や人影なく寂しいばかりのシャッター街ですが、灯されている盆提灯からは、それを灯している方々や、かつてはその街でいきいきと活躍していた方々の面影まで想像されます。
 しかし、それらも「点々と」……時の流れとともに次第に消え去っていくのでしょうか。
(鑑賞・川嶋安起夫)

子は母の誉め言葉待つ蝉時雨 石田せ江子
 歴史にもしも?はないが、あの時どうして叱ってしまったのか、誉めてやるべきだったと後悔の念にかられる一句に出会った。親も子も懸命な筈に違いなく、つい暴言を吐いて子供を傷つけている。
 蝉時雨の樹の下でベソをかいている子供が、かつての我が子とオーバー・ラップして悩ましいことだ。

トマト噛むその混沌を得るために 佐孝石画
 トマト噛むその行為の裏に、混沌から逃げるのではなく果敢に立ち向かう作者がいる。下五が反転して更にトマトを強く噛むのだ。水面に映る己に恋して死に、水仙の花に化したというナルキッソスのように……。自虐の中から答えを掴もうとする、およそ花鳥風詠とは程遠い俳句詩なのではと思いたい。

老いたとは思わぬことに秋青空 中村孝史
 鑑賞子も八十を迎えた時(三年前)、寂しくなったことを覚えている。耳が遠くなり耳鼻科で診てもらい「年相応の老化です」と笑いながら宣告。揚句の上五中七に続く「に」に何とも勇気づけられる。歳月と共に老化した肉体は戻りはしない。ならば作者のように開き直り、青空を見上げながら生きようではないか。
(鑑賞・小池弘子)

夕焼の缶入りスープを贈ります 安藤久美子
 川上未映子さんの小説『黄色い家』の最終段落〈それは胸にちょくせつ流れこんでくるような夕焼けで、それはもう思いだせなかったはずの、思いだすこともなかったはずの懐かしい色になり、かたちになり、声になっていった。〉が甦る。身体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生され、繋がり合い、動き出す、そのざわめきに驚く。

黒揚羽湖にさざなみよみがへる 田中亜美
 黒揚羽は「使者」だと思う。黒揚羽はいつも自然を装ってとても大切なことを伝えにくる。そして必ず、無意識に伝わる。湖のさざなみはその証だ。黒揚羽のメッセージを受け取った人の心のふるえが湖面を揺らす。頭がおかしいと思われるかもしれないが本当だ。嘘だと思う人は、他の「黒揚羽」の句を読んでみればきっと分かる。

星月夜背に真新し蔵書印 藤田敦子
 宇宙の闇を光の粒が埋めつくしている。満天の星の下に私の気持ちも厚く煌めき静かに覚醒している。そんな夜分だからこそ、この蔵書印は図書館の分類用背ラベルではなくて、やはり「蔵書印」なのだ。最近新たに誰かの所有物になったことを真新しく誇るその背は、星月夜のフォースの力で人の背中にメタモルフォーズする。
(鑑賞・小松敦)

人であることに行きつき落葉踏む 有村王志
 私も五十を過ぎてから思うのだが、これまで生きてきたこの様々な経験値と、身につけたあらゆる処世術を持って、もう一度若返り人生をやり直せないものかと。人はその未完ゆえ中々人であることに行きつけない。人は人であると自覚した時、人生の晩秋に散り落ちたその落葉を、確信を持って踏むのであろう。存在確認のように。

万緑の奥へ白馬を隠しおき 刈田光児
 この句を読んだ瞬間、私の脳裏に東山魁夷の「緑響く」の絵画が浮かんだ。濃密な緑色の針葉樹の鋭角的なシルエットが、シンメトリーに広がる心象風景の中に一頭の白馬が存在するこの絵、〈万緑の奥へ白馬を隠しおき〉という表現と重なった。作者にとってこの白馬は、内側に脈々と培われた美しき詩魂であるに違いない。

竹落葉さらさら齢を重ねたい 森由美子
 私の母も去年の十二月で九十三歳になった。母と再び暮らし始めてもう九年、母も年老いたが私も同じく年を取った。竹の葉は稀に稲穂状の花をつけるが開花後多くは枯死する。枯れてなお風に吹かれさらさらと音を立て揺れ散る竹落葉のように、時の流れに身を委せさらさら齢を重ねたい、作者の願望が私にも身につまされる。
(鑑賞・近藤亜沙美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

眠さうな金魚へ零す冬のパン あずお玲子
納豆搔いて病める時もまた夫婦かな 有栖川蘭子
思春期といふ裸像ありすすきの穂 石鎚優
底知れぬ悪を語りて秋の夜 井手ひとみ
父怯み母向かいあひ冬の水 伊藤治美
ビートルズの最後の新曲小鳥来る 植松まめ
秋天や惚れなくなって惚けてきた 鵜川伸二
ポインセチア滅びゆくものを詠う 大渕久幸
哲の忌や死の谷に麦青むべし 押勇次
極月の頼まれて出る家族葬 かさいともこ
心配はかけてなんぼよ天高し 梶原敏子
行き暮れて露の野の一人の人を 北川コト
決心はその場しのぎの片時雨 木村寛伸
火薬筒むくろじ一つしのばせて 小林育子
夜長して人生訓の栞挟む 齊藤邦彦
さびしくば風船葛解いてみよ 佐々木妙子
福岡に大丸のある刈田かな 佐竹佐介
ボール一つ取り合う本能天高し 塩野正春
わたくしを許さぬわたし菜の花黄 宙のふう
数え日や老若男女旅人われら 立川真理
想い出を噛むと森永キャラメル冬 谷川かつゑ
露の道けさの命のたふとしや 平井利恵
真面目にならいつでもなれる吾亦紅 福岡日向子
ジプシーのリズムに乗れず秋扇 福田博之
身に入むや縄張追はるる猫の背 藤井久代
熟柿吸う甦る母の叱責 保子進
小鳥来る広げたままの新聞紙 松岡早苗
指導者が祟り神になってゆく厳冬 松﨑あきら
虫すだく一匹ぐらいあらわれよ 路志田美子
若き日の思い違いよ水澄めり わだようこ

『海原』No.55(2024/1/1発行)

◆No.55 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

十六夜をぺったんぺったん歩く夫 綾田節子
八月や忘れぬ為に石を置く 石川義倫
少年老いて面の遊びの朴落葉 遠藤秀子
わたくしに鰭生え雨の木下闇 大沢輝一
秋風ばかり詰めし鞄やうたと旅 岡田奈々
蝸牛に一切合切という雨 小野裕三
秋蚕手に乗せたるここち発熱す 片町節子
言の葉の根の澄みてゆく草雲雀 川田由美子
思惟仏に会いたく紫薇の雨をゆく 黒岡洋子
嗣治の猫ふり返る夜の秋 黒済泰子
烏瓜答へてくれと瞬けり 小松敦
小春日の「荻窪風土記」堰の音 小松よしはる
月白やひとに水面のありにけり 佐孝石画
余生とは何から省く秋桜 佐藤紀生子
予後の友空き壜に挿す草の花 佐藤君子
晩稲田刈る父と息子の空一つ 佐藤二千六
荷崩れのごと家に居て漸く秋 篠田悦子
告別は栴檀の実の青々 鱸久子
鳥渡るなり人みな配置図のなかへ 田中信克
詩の土器のわたしの破片つづれさせ 鳥山由貴子
指切りは嘘の始まり思草 中村道子
コスモスを一輪挿して家計事 梨本洋子
曼珠沙華土葬の村のクロニクル 日高玲
縷紅草ちいさい一日でありぬ 平田薫
色葉散る同調圧力微笑みぬ 藤野武
月光の匂ふ上衣を折りたたむ 水野真由美
暗黙の了解三つ四つ庭たたき 深山未遊
ところてん昭和ゆるりと突き出さる 森由美子
自虐的なハンドルネームいのこづち 山本まさゆき
銀の匙かほうつしあふ十三夜 渡辺のり子

遠山郁好●抄出

自然薯掘る血管の根を辿るよう 赤崎冬生
秋思かな二人の秋は窓の空 伊藤巌
もっと酸素もっと音楽曼珠沙華 大髙宏允
赤い羽根ラッキーカラーとして胸に 大野美代子
笑窪あり最晩年の良夜かな 岡崎万寿
荢環草病児保育室雨上がる 桂凜火
廃校の笑い袋を拾ったよ 葛城広光
かでなふてんまもずく天ぷらは此処 河西志帆
カフェ「梵」木の実の落ちる席が好き 河原珠美
セプテンバー雨の匂いを連れて来る 小林ろば
難聴や纏わりつく蚊手で払う 佐藤二千六
もう一匹黒猫が居る木下闇 篠田悦子
ざっくばらんおみな二人と滴りと 鱸久子
かなかなや女流の反対語探す 芹沢愛子
蜩を纏えば響く僕の骨達 高木水志
童顔の胸に銀河の数珠を置く 立川弘子
ゴッホだって芒を見たら団子食う 千葉芳醇
ちっち蝉とは何となく不機嫌 鳥山由貴子
林檎かがやくフクシマに神話はいらぬ 中村晋
零れない空のさざなみ白鳥来る 丹生千賀
白驟雨止めば荷風の傘杖に 野口佐稔
横しぐれ黙契のように鬱王来 日高玲
風よりも先にうまれた白式部 平田薫
竹落葉命を乗せてあゝ愉快 本田日出登
秋蝶の消えしあたりの雨しづく 前田典子
紫の一閃夜をキンモクセイらふ亜沙弥さん逝く 松本勇二
帰国猫クローゼットの秋気が好き 村上友子
告白に椎の実ふたつ混ざってる 室田洋子
水で水薄め蓑虫の鳴く国福島沖 柳生正名
虫の声弁当箱をまづ洗ふ 山本まさゆき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

八月や忘れぬ為に石を置く 石川義倫
 八月といえば、今なら終戦の日や原爆の日にすぐ結びつく。作者自身の個人的思い出につながらなくとも、歴史の悲しみはまざとあって忘れることはない。しかし戦後も八〇年近い歳月を経れば、その思いも風化されないとはいえまい。作者は、その歴史の悲しみを忘れぬ為に、何か記憶に残る石のようなものを置くという。それは、戦争をどう伝えるかだけではなく、どう受け取るかという作者自身の姿勢を示すものでもある。

少年老いて面の遊びの朴落葉 遠藤秀子
 永田耕衣に「少年や六十年後の春の如し」がある。これは一種の境地の句だが、掲句はいわば童心に帰った老境を詠んでいる。「面の遊び」とは、面子遊びのことだろう。朴落葉のゴワッとした大きな乾いた葉を、特大面子のように見立てたのかもしれない。それは老いたるかつての少年の相貌そのものなのだ。

蝸牛に一切合切という雨 小野裕三
 蝸牛は、巻貝のうちの殻をもつものだから、移動するときも殻を背負って行く。雨が降ればその中にひきこもる。所帯道具は一切合切大風呂敷代わりの殻の中。なんだか夜逃げのスタイルだが、人はなんとも言わば言え、それが蝸牛の紛れもない生きざまさ。そこには、次第に人生を仮託したような、もう一つの映像がすぐ浮かび上がってくる。

小春日の「荻窪風土記」堰の音 小松よしはる
 井伏鱒二の『荻窪風土記』を思わせる小春日の一日。小春日と堰の音の照応は、ゆったりと広がる井伏ワールドそのもの。井伏の自作朗読を聞いたことがあるが、まったく井伏の文体そのもののように、淡々とした中に、飄々とした持ち味が滲み出て、思わず引き込まれてしまった。あの時の朗読のような単調な堰音が、たどたどしくとも老いて何も背負わない生き方にも響き合う。

余生とは何から省く秋桜 佐藤紀生子
 「余生」とは、老後に残された人生だから、体力、脳力の面からも出来る限りシンプルな方がいい。そのためには、身辺を整理しておくことが大事とはよく言われる。結局、自分の存在意義のような未練からも解放されないと、何から省くという優先順位は決まらない。そういうお前はどうなのだといわれると、言葉に窮するが、秋桜の風に揺れる軽やかさのようにはありたいもの。

荷崩れのごと家に居て漸く秋 篠田悦子
 荷崩れのように家に居るとは、ひとり暮らしのわび住まいが予想される。しばらく家を空けていたか、病に臥せていて、家の中の整理整頓がままならぬ状態が続いたせいで、あたかも家中が荷崩れを起こしたような有様になっていたのだろう。なんとか日数を経て整理をつけた頃、漸く秋の気配に気づく。内緒ごとながら、そんなひと時を経た後のわびしさが、あらためて身に染みる。

縷紅草ちいさい一日でありぬ 平田薫
 縷紅草はヒルガオ科の蔓草で、六〜八月頃、約二センチほどの星型の花を咲かせる。そんな縷紅草のようなちいさい一日を過ごしたという。その心の内は、ささやかな幸せを覚える一日だったのかもしれない。「ちいさい一日でありぬ」と、呟くような言葉の裡に、さりげないある日の幸せを反芻する作者の思いが覗いている。

月光の匂ふ上衣を折りたたむ 水野真由美
 「月光の匂ふ上衣」とあるからには、長い時間月光の中に立ち尽くしていたおのれの上衣なのだろう。そのひと時がどういうものだったのか定かでないが、おそらくもの思うひと時だったに違いない。それはおのれ自身を見つめ、ひたすら黙想する時間だったのだろう。一句一章で断ずるように書かれた句柄に、作者の内籠る想念の立ち姿が見えてくる。

ところてん昭和ゆるりと突き出さる 森由美子
 ところてんは、暑い夏に涼味の得られるおやつで、江戸時代から庶民に好まれ、透明でつるっとした食感が珍重されてきた。ことに戦争によって物資の不足した昭和時代は、代表的なおやつとして人気があった。天草を煮溶かして型に入れ、固めたものを突き出すとき、昭和時代が突き出されたように感じたという。事ほど左様に作者にとっての昭和は、ところてんに化体していたともいえ、時代相を浮かび上がらせるに格好のものだった。それはまた、古き良き時代への郷愁でもあったのだろう。

銀の匙かほうつしあふ十三夜 渡辺のり子
 十三夜は陰暦九月十三日の夜。秋の深まりを感じつつ、十五夜の華やかさを失った十三夜月の夜。久しぶりの逢瀬で、コーヒーを飲み、そのお互いの銀の匙に顔を映し合っている。その繊細な銀器への照り映えを、なぜか後の月の淋しさと感じるのは、満たされない思いか、そぞろ別れの予感か。「かほ」と平仮名表記したのは、そんな情感のしらじらしさによるものかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

赤い羽根ラッキーカラーとして胸に 大野美代子
 秋の風物詩だった駅頭の赤い羽根の共同募金もあまり目にしなくなった。かと言って社会福祉が充実しているかと言えば、格差は広がるばかり。作者は募金に応じ、胸に付けてもらった赤い羽根に少し心が満たされてゆくような弾んだ気持ちになった。そしてその赤を私のラッキーカラーだと決めた。日常のさりげないことにも心動かされ、生き生きと生活している作者に惹かれた。

告白に椎の実ふたつ混ざってる 室田洋子
 何の告白なんだろう。告白というからには単なる報告ではないはず。告白に椎の実ふたつ混じるとはユニークな着想だ。椎の実は木の実の中でも小粒で、特別美味しいわけでなく、存在感は薄い。しかしそんな椎の実だから告白の時の一寸したとまどいや違和感を表現するのに効果的なのかも知れない。所在なげに椎の実に触れたり、緊張を紛らすように握りしめたりと様々な場面が想像される。それにしてもどんな告白なのか益々気になる。

もう一匹黒猫が居る木下闇 篠田悦子
 一匹の黒猫がいる。あれっ木下闇にも、もう一匹黒猫がいる。確かに木下闇に菱田春草の絵から抜け出たような黒猫がいる。しかし、実際にはもう一匹の黒猫はいない。木下闇そのものが黒猫なのだ。作者は木下闇そのものと鋭く交感し、それに溶け込ませるように木下闇に黒猫を出現させた。まるでトリックアートを見ているように洒脱で楽しい作品。

蜩を纏えば響く僕の骨達 高木水志
 人懐かしい蜩の声。しかしその声は、言葉では癒すことのできない痛みのように澄み渡り、あたり一面青白い空気となって身体を被い、骨達を響かせる。蜩の鳴く風景と一体化した作者の肉体は、いのちそのものをじっと見つめている。生きることが一つの創造であるとすれば、この生は限りなく愛おしく、懐かしい。この句に流れる若さと痛い程の静かな感性の響きに満たされている。

ゴッホだって芒を見たら団子食う 千葉芳醇
 作者が青森の人と知り、ゴッホになりたいと言っていた棟方志功のことが頭をよぎったが、やはりここでは書かれているとおり、ゴッホのこと。実際ゴッホも浮世絵など日本画に興味があり、作品にもしているから、芒を見たらゴッホが団子を食べるのは素直に納得する。書かれて初めてわかるこんな自由な発想を一句にする作者が限りなく羨ましい。

横しぐれ黙契のように鬱王来 日高玲
 多くの先人達に詠まれ、その無常感や美意識はすでに完成されている。そんな時雨をどのように詠むか。作者は時雨を自身にぐっと引き寄せ、その内面を覗き込むように〈黙契のように鬱王来〉と言っている。つまり、こんなしぐれの日には来るべくして鬱が来ているよと、特に周章てるでもなく、ゆったりと構えて、その鬱王を迎え入れている。それはいかにも俳諧に通じる。また、時雨ではなく横しぐれ、鬱ではなく鬱王と戯けていることも時雨の概念をさらりと躱していて巧みだ。

難聴や纏わりつく蚊手で払う 佐藤二千六
 纏わりつく蚊を手で払うという日常のさりげない行為と難聴という言葉が出会った時、訳もなく人間という生きものはかなしいと思った。難聴なら蚊の鳴き声は届いていないはず。しかしそのことがかなしい訳ではない。人が生きている証しの、日常のほんの些細な行為がこんなに飾らなく普通に書かれていることがかなしい。しかし考えて見れば、年を重ねれば老眼にも難聴にもなる。それは特に不思議なことではない。難聴で周りの雑音に惑わされず、動じず、木鶏のようにとは言わないまでも、淡々と自然体で生きていられることは、素晴らしいことかも知れないと思えてきた。かなしいはかなしいとも読める。

風よりも先にうまれた白式部 平田薫
 等圧線をなぞりながら、風の生まれる様子やその姿は、揺れる木々や光、物のゆらめきで想像はできるが、風そのものは見えない。その見えない風よりも先にうまれたという白式部。作者には風はどのように見えているのだろうか。見えないもののさらにその先に存在するもの、あの白くて小さな粒つぶの白式部。それに偶然出会った作者は風よりも先にうまれたものと直感した。そして後からやって来る漂泊感や喪失感を纏った風と一つに溶け合って、やがて透明になるのかも知れない。

セプテンバー雨の匂いを連れて来る 小林ろば
 九月ではなく、セプテンバーという語感に惹かれる。無造作に投げ出すように、ぽつんと置かれたセプテンバー。北の方から初秋の匂いのするセプテンバー。まだ雪になる前の短い夏の名残りを滲ませながら、少し切なげに、雨の匂いを連れて、まるで旅人のように北の町にやって来るセプテンバー。やっぱりメロディーに乗せて口遊みたくなる。雨の匂いのセプテンバー。

◆金子兜太 私の一句

彎曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

 海程全国大会を長崎で開催した時、運営責任者だった私は、師から個人的にお話をお伺いする機会に恵まれました。長崎で過ごした頃のお話など楽しく傾聴した貴重な時間でした。また、運営を手伝った私の家族とも親しく言葉を交わしていただきました。掲句は爆心地公園の句碑に刻まれています。長崎人として常に心に置いておきたい句です。句集『金子兜太句集』(昭和36年)より。江良修

「大いなる俗物」富士よ霧の奥 兜太

 『野ざらし紀行』の〈霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き〉の見立ては芭蕉の独創で、「滑稽」を意識した句であり、〈野ざらしを心に風のしむ身哉〉の不退転の緊迫感から離れて余裕が感じられる。その二重性に留意したいと講座で語られた。大震災、癌手術、「海程」創刊50周年を経た2014年の作品……俗物富士にご自身を重ねられたと思う。第3回「海原全国大会」は伊豆開催予定。先生の富士が待っています。句集『百年』(2019年)より。高木一惠

◆共鳴20句〈11月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

川嶋安起夫 選
青黴の私語ぼそぼそとパンの耳 石川まゆみ
神がいまころぶ瞬間稲光り 市原正直
万物流転夜は金魚になっている 伊藤道郎
窓硝子拭けば両手に夏の空 大沢輝一
考えるふりしただけの夏柳 太田順子
短夜やビル風はいつも不穏 日下若名
母少しおこらせたままラムネ玉 三枝みずほ
奔放にことば降れ降れさくらんぼ 佐々木香代子
教室に野を引き入れよ夏の蝶 鈴木修一
「夏」の字の妙に長くての手紙 高橋明江
嘘つきの口に茗荷の子がしゃきしゃき 田中信克
子をいだく一房一房ふくろ掛け 友枝裕子
天井の守宮空気を読んだ顔 根本菜穂子
牛蛙止み牛蛙鳴きにけり 平田薫
日傘という括弧の中の平和かな 北條貢司
太ももが太鼓打ち出す夏祭り 前田恵
○八月や彷徨わぬよう泣かぬよう 松本勇二
人類は欲望ごろごろどて南瓜 嶺岸さとし
だまし絵から何か逃げ出す夏至の夜 村本なずな
蛍袋きれいな声紋預ります 茂里美絵

小池弘子 選
六色のクレヨンから鶏頭生まる 井上俊子
山法師呼びかけられて白き声 鵜飼春蕙
青大将逆光という全長感 大沢輝一
存分に溺れて下さい夕かなかな 加藤昭子
蛍火にマイナカードの事なんか 刈田光児
再会や千切りキャベツのよう心 佐藤詠子
登山靴軽し最後の尾瀬と決め 新宅美佐子
前立腺笑うほかなし麦熟れ星 十河宣洋
戦争放棄骸の下の終戦日 滝澤泰斗
東北の山は地味なり栗の花 竪阿彌放心
灼熱もハイビスカスの花に負け 友枝裕子
ががんぼを歩かせてをく淋しくない 丹生千賀
俺はここ恋だ飯だと行々子 藤好良
○補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
クリームソーダごぼごぼ悩み事相談 堀真知子
ひと息にミントティー朝から蝉しぐれ 三世川浩司
梔子の香よいつも聞き役だった姉 室田洋子
○夕端居わたしの暮らしてきた躰 望月士郎
扇風機そしらぬ顔をしてをりぬ 矢野二十四
灯心蜻蛉ふっと言霊点します 横地かをる

小松敦 選
夏至の朝跨ぐところを潜りけり 安藤久美子
鉄屑を積み出す埠頭油照り 石川義倫
朴の花雨を弾いて咲きにけり 内野修
梔子やエックス線室使用中 奥山和子
あいまいなままに漕ぎ出すボートかな 小野裕三
砂時計倒されプール開きかな 片岡秀樹
香水をつかひきつたる體かな 小西瞬夏
根釧原野素顔の星がとぶとぶ 小林ろば
抱擁のような困惑夏日来る 佐々木宏
夏空や一人一人にある向こう 佐藤詠子
白服揃う午後は真夏になる朝 鈴木修一
いもうとが波打際にいる五月 芹沢愛子
マーガレット面倒みますどんな風でも たけなか華那
この夏の細部に宿る美肉かな 豊原清明
鬼灯に息を吹きかけ飼いならし ナカムラ薫
短さは無口に非ず敗戦忌 長谷川阿以
声美し打水蒸発するあいだ 藤野武
○ゆうがおや訃報のだんだんと水音 宮崎斗士
○夕端居わたしの暮らしてきた躰 望月士郎
日盛りに確り結ぶ靴の紐 矢野二十四

近藤亜沙美 選
八月の記憶ハトロン紙の星砂 榎本愛子
ガラスペンで描く毀れやすい夏 榎本祐子
水撒いてだんだん人に戻りけり 大池美木
白雨ですぼくをかたどる僕のシャツ 大沢輝一
紫陽花のくらやみにある神の椅子 北原恵子
無精卵透く初夏の籠の中 小西瞬夏
薄明は美しき解半夏生 遠山郁好
腕時計を置く音父に父の日果つ 中村晋
句作など砂漠のような夏の風邪 丹生千賀
かたつむり影法師より水になる 野﨑憲子
思い出の途中を端折る瑠璃蜥蜴 平田薫
一人称ふわりと戻る大夏野 藤田敦子
螢火手に少年は混線したラジオ 藤野武
○補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
沈黙は大事な言葉梅雨夕焼 松岡良子
○八月や彷徨わぬよう泣かぬよう 松本勇二
鈍感でいいコッペパン食う夏野 三浦静佳
言の葉を水に研ぎゐて夕薄暑 水野真由美
○ゆうがおや訃報のだんだんと水音 宮崎斗士
生き急ぐ音のもつれる誘蛾灯 三好つや子

◆三句鑑賞

短夜やビル風はいつも不穏 日下若名
 真夏の明け方まで蠢く都会の人々に吹きつけるビル風を想像することもできますが、「不穏」という語からは単に現代都市の描写だけでなく、局所的で予測不能な危機に吹きさらされる現代文明の「危うさ」をも感じとることができます。さらには、もはや戦後ではなく「新たな戦前」に生きる私たち現代人の深層の不安までも映し出しているように思われました。

日傘という括弧の中の平和かな 北條貢司
 私達は日傘によって強い日差しから守られ安らぎ得ることができますが、それは「その場しのぎ」のもの。同様に私たちの享受している「平和」、絶えることなき世界各地の悲惨な戦災から一応は守られている「平和」も所詮は括弧つきの、かりそめのものにすぎぬという洞察に共感しました。

太ももが太鼓打ち出す夏祭り 前田恵
 演奏者の力が、その下半身から上半身へ、バチへと漲り太鼓を鳴らしていく瞬間が活写されています。そこから生み出されるリズムは、祭りに集った人々の踊りへと伝播していきます。肉感的でエネルギッシュな描写が素晴らしい。
(鑑賞・川嶋安起夫)

存分に溺れて下さい夕かなかな 加藤昭子
 この耽美な感覚、誰が誰に言っているのだろうと疑問が湧いた。繰り返し読むうち、夕暮れの蜩がそう言っているのだと思えてきた。思い出したように急に甲高く鳴きはじめる蜩。ひとつが鳴き出すと誘われるかのように別の蜩が鳴きはじめる。短い命をひたすら主張している蜩は健気で、それだけにいとおしいのだ。

補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
 補聴器はつけたことがなく想像の域ではあるが、様々の音を拾って耳に入るのか……。それが水芭蕉が咲いている清清しいせせらぎのようだと感じている作者は、優しい人なのだろう。鑑賞子にも耳鳴りの持病があるが、蜩しぐれのようで、時にはうるさいと思ってしまう。里山の静かなせせらぎが耳元にそよいできた。

クリームソーダごぼごぼ悩み事相談 堀真知子
 一読、くすっと笑った。これが恋の悩みの相談ならば艶消しな話だ。ストローの中の空気が災いして物理的に下品な音がした。何の相談かわからないが、話の腰を折ってしまった。一瞬の羞恥心におそわれる……。ユーモアとペーソスを感じて思わず微笑んだ一句である。その後、悩み事は解決したのか。恋の行方は如何に。
(鑑賞・小池弘子)

白服揃う午後は真夏になる朝 鈴木修一
 先ず「揃う」の切れがかっこいい。決まっている。白服のメンバーがずらりと出揃った光景をイメージした。「朝」は「あした」と読み「夜明け」を思う。ためらいなく「真夏になる」と断言するところがまたかっこいい。いつもの朝か特別な朝か、いずれにせよこれから終日、事に当たろうと準備を始める白服の者達の静かな覚悟。

マーガレット面倒みますどんな風でも たけなか華那
 どんな風にもしなやかにそよがれるマーガレットをイメージした。面倒をみますよ、とすべてを受け入れてくれるマーガレットの包容力。見たり聞いたり知覚したイメージと心に浮かび上がる心象が、混ざり合って一筆書きされる。たけなかさんの句はいつも、身体を通り抜けた光が文字になって紙の上に落っこちて並んだみたいだ。

この夏の細部に宿る美肉かな 豊原清明
 通常、細部に宿るのは神だが、ここでは「美肉」。そしてインターネット上で神は「ネ申」とも表記され「ネ申○○」というと極主観的に「凄い○○」のことを意味する。バーチャル・ユーチューバーが美少女のアバターを纏うことを「バーチャル美少女受肉」略して「バ美肉(バびにく)」という。以上、鑑賞のための予備知識。
(鑑賞・小松敦)

八月の記憶ハトロン紙の星砂 榎本愛子
 私は八月は恋人達が別れる最も多い季節だと勝手に解釈している。八月にはとにかく魔物が住んでいる。春に出逢い夏に燃えた恋が、秋の訪れる八月頃に醒めるのだ。作者はこの八月の記憶が、光沢を持った薄いハトロン紙の星砂だという。もし恋の記憶であるなら、何と儚く美しい記憶であるだろう。願望も込めてこう解釈した。

沈黙は大事な言葉梅雨夕焼 松岡良子
 よく雄弁は銀、沈黙は金であるという。人に感銘を与える巧みな言葉より、沈黙が与える言葉の黙の方がより人の心を動かすことがある。沈黙も大事な言葉で、意志の疎通の大きな手段であるのだ。そして降り続く長雨の合間に薄らと、だからこそより鮮明に空を染める夕焼の赤も、また沈黙の言葉の重さを物語っている。

八月や彷徨わぬよう泣かぬよう 松本勇二
日本人にとって八月は特別な月である。原爆慰霊祭・終戦記念日・お盆と死者の魂を弔う行事が目白押しである。暦の上でも秋を迎え、何か物悲しく大きな暗い陰を落とした月でもある。八月は多くの死者の霊が泣きながら彷徨っているのかもしれない。そんな霊に引っ張り込まれぬよう、作者は彷徨わぬよう泣かぬようと詠んだのだ。
(鑑賞・近藤亜沙美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

十六夜や生きたくないとは言いながら 有栖川蘭子
なぜ父よ銀河へ逝かせてはくれぬ 飯塚真弓
師弟のごと風ととんぼの向きあへる 石鎚優
茸狩これより先は黄泉の国 井手ひとみ
あっちの戦こっちのシャインマスカット 上田輝子
家出猫の虎徹こてつ戻りて天高し 植松まめ
老犬と老女のあうん秋夕焼 遠藤路子
赤い羽根つけて油断のならぬもの 大渕久幸
ふるさとは腰下ろす石秋の風 岡田ミツヒロ
巨星墜ちて雨名月となりにけり 押勇次
父祖たちの未練遺しぬ木守柿 小野地香
SLの汽笛に鹿の大暴走 かさいともこ
まだ痛そうな稲の花の俯く 北川コト
夕紅葉溺れ死にたい君の愛 工藤篁子
花野にて言葉紡げど行く背中 上月さやこ
豊年や鎌一丁を買い替える 古賀侑子
秋冷や納骨袋に粗い土 小林育子
相馬馬追節最終章に不死とあり 清水滋生
混沌の大花野にをりひとり 宙のふう
人の世を離れて軽きあきつかな 高橋靖史
一日の裏側は夜梟の帝国 立川真理
夜光虫見えないものを照らしけり 平井利恵
突き落とすつもりで来たの大花野 福岡日向子
供物桃「海軍二等軍楽兵」 藤川宏樹
秋霖や筆音聞こゆ無言館 保子進
泥濘の道は柿なる古里よ 故・増田天志
体操仲間放屁虫一匹を囲む 吉田もろび
鏡台に不憫が写る無月かな よねやま麦
紫蘇植わる戦火のがれし教会に 路志田美子
あめんぼう今日はあめんぼうとして 渡邉照香

カーンと秋 佐々木宏

『海原』No.55(2024/1/1発行)誌面より

第5回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

カーンと秋 佐々木宏

鮭帰るいつもの場所に広辞苑
過去帳は蛇の穴かも続きかも
サフランはタバコ覚えたときの花
カーンと秋さらにカーンと訃報あり
初霜がおりそう不整脈きそう
木の実落つおもいおもいの母性愛
耳を搔くササラ電車の準備見て
晩秋のいいわけ剥がれぬガムテープ
雪囲いどれも不時着さわがしい
みぞれ降る伝言それともひとりごと

『海原』No.54(2023/12/1発行)

◆No.54 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

高足蟹『地球の歩き方』にっぽん 綾田節子
百万のヒマワリ洗脳されている 石川青狼
「うつしみは罪」とまで詠む爆心地 石川まゆみ
羽根枕のような自由苔の花 遠藤秀子
夜濯ぎや人に小さな舞台裏 桂凜火
花はちす祈りをうすべにと思う 北村美都子
快眠のあと白南風と頬合わす 楠井収
涼気いま絹糸ほどやガラス切る 黒岡洋子
平和ってきれいな夕陽を着た案山子 小林まさる
人形の家のしきたり黴の花 小松敦
麦茶飲みほす全方位の青空 三枝みずほ
生き方の目次のように夏木立 佐藤詠子
月光処理水放出も産土 清水茉紀
初嵐出会ひし人のタヱ子抄 鈴木康之
記憶ときどき無声映画の春かもめ 芹沢愛子
百日紅征きし征かれし共に亡し 高木一惠
鳳仙花見守って見失う たけなか華那
私にも影一つだけヒロシマ忌 竹本仰
あかるい雨のいちにち無花果断面図 鳥山由貴子
父の日は父帰らざる敗戦日 野口佐稔
句集『百年』の黙読処暑の雲うごく 野田信章
チワワ似の積雲西へタヱ子ゆく 服部修一
産土に還る空蝉にもなれず 藤田敦子
独り居の素手満月に濡らしゐる 前田典子
盂蘭盆会父という字のもたれ合う 松本勇二
父母ちちははのゆるい溺愛夜の蝉 三好つや子
黙祷のあとの空白八月尽 武藤幹
爆心に臍集ひ来て蟬時雨 柳生正名
終活の諸事滞り糸瓜咲く 渡辺厳太郎
こはすほどうつくしくなる蜘蛛の糸 渡辺のり子

水野真由美●抄出

きしむ花野姉妹五人が三人に 阿木よう子
人であることに行きつき落葉踏む 有村王志
大根を引きし穴より父の声 石川和子
君がいて風景だった遠花火 市原正直
新宿晩夏ビル風に家路なし 伊藤道郎
満腹という力あり夏の霧 江井芳朗
息つぎをあわせています遠花火 河田清峰
団栗ぽとり此岸もてあましおり 小池弘子
アロハシャツ晩年は忙しいんだ 後藤雅文
とんぼうをかぞえてかぞえてねむくなる 小林ろば
月光処理水放出も産土 清水茉紀
眠りの粒小さくなりて火取虫 芹沢愛子
良夜かな禿びた鉛筆集まり来 髙井元一
私にも影一つだけヒロシマ忌 竹本仰
八月の椅子置けば八月の影 月野ぽぽな
麦熟星パキスタンから曲芸団 鳥山由貴子
蛇穴に入るどうしよう不発弾がある 仲村トヨ子
煙茸踏んで拍手を賜りぬ 中村道子
露涼しころがりながら生きている 西美惠子
穂芒の半島いまに翔びたつよ 丹生千賀
七夕竹引き摺る童子あり羨し 野田信章
捩花に左巻あり雲にのる 長谷川順子
山の端に迎火父母ちちはは猫きんぎょ 藤野武
独り居の素手満月に濡らしゐる 前田典子
最終章のお花畑よ誰も撃つな 松岡良子
色鳥や意外にB面がいいね 松本千花
弟が晩夏の椅子で泣いている 室田洋子
にんげんの流れるプール昼の月 望月士郎
居るはずのない人といて春の昼 森由美子
グラマンの機銃掃射やラヂオ体操 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

夜濯ぎや人に小さな舞台裏 桂凜火
 夜、人々が寝静まった頃、一人裏庭で濯ぎものをしている。なにか人には見られたくないもの、見せたくないものをひそかに洗っているようだ。おそらく外目には、別に隠し立てするようなことではなくとも、自分自身の中の罪の意識がそういう行動を取らせたのだろう。そこには、小さな舞台裏のドラマが潜んでいるようで、自分で始末しておきたいことがあるに違いない。その謎めいた行動に、言いおおせない過去があるのかも知れない。

花はちす祈りをうすべにと思う 北村美都子
 蓮の花は、夏に丸く大きな花柄を伸ばし、珠の形をした蕾をつけ、夜明けに花弁を重ねた美しい大型のうすべに色の花を開く。その芳香にも軽く酔わされながら、その姿を祈りの姿のようにも感じている。祈りをうすべにと感じたとき、軽いめまいのようなものを覚えたのではないだろうか。そこに作者の言葉の肌ざわりがあったのかも知れない。

平和ってきれいな夕陽を着た案山子 小林まさる
 山田の案山子が、見事な夕陽の中に立ちすくんでいる。その所在なげな立ち姿に、ああこれこそが平和っていうものだなあと、感に堪えたように眺め入る。どこか危うさを抱えながら、その危ういまでの輝きを、危うさゆえに美しいと思わずにはいられない。それは、自分自身の境涯感としても響き合う、滅びの姿なのかも知れないのだが。

生き方の目次のように夏木立 佐藤詠子
 夏木立には丈高い木の立ち並びがあって、緑濃い樹間の隙間からのぞく青空は、生気ある白雲をはさんでどこまでも深い。そのとき、人間の生きがいとは何か、生き方とは何か、という問いかけが目次のように立ち並んだという。夏木立の一つ一つにその意味を感じ取っている。これは日頃から、このような精神性ある生き方をしている人ならではのものだろう。またそういう思いは、自らの挫折感や障害から触発されるものなのかも知れない。

初嵐出会ひし人のタヱ子抄 鈴木康之
チワワ似の積雲西へタヱ子ゆく 服部修一
 亡き永田タヱ子さんを偲ぶ二句。永田さんは単なる地域俳壇のお世話役ばかりでなく、刑務所の囚人に対する俳句指導もなさるなど、幅広い社会活動家でもあった。地域俳壇の重鎮のお二人が揃って偲ぶ句を詠んでいるのも、さこそとうなずける。
 鈴木句。初嵐が立ち、秋の到来を感じる頃。出会う人ごとにタヱ子さんの思い出を語り合う。それもこれも、彼女の死を惜しむ思いのたけばかりである。初嵐が身に沁む思いをかきたてる。
 服部句。小犬のチワワによく似た積雲が西へ向かって動いている。それは、機動性のある小柄な行動家でもあったタヱ子さんの面影に重なる。愛らしさが懐かしさを誘いながら、もう遠い西国に行ってしまったのだなとあらためて、しみじみ思うばかり。

あかるい雨のいちにち無花果断面図 鳥山由貴子
 無花果の実のなる雨のいちにち。実を切ってその断面図に見入っている。細かい粒子がびっしりと詰まったその断面から、いのちの照り映えを感じながら、雨のいちにちが妙に明るんでいくようにも思われる。なにやら、いのちのふだん見たことのない相貌に出会ったような、すっぴんの雨のいちにちの明るさ。

独り居の素手満月に濡らしゐる 前田典子
 独り暮らしのやる瀬なさを覚えながら、それに負けまいとする己への励ましの思いも込めて、素手で満月を濡らしているという。それはおそらく、意味を超えた映像表現として、やや赤味を帯びた満月を濡らし洗おうとしているのだろう。それを満月の方から促されたもののように感じているのかも知れない。

終活の諸事滞り糸瓜咲く 渡辺厳太郎
 そろそろ終活を考えなければと思いつつ、型通りの準備に入ってはみたものの、そのどれもが思うように運ばない。もともとあまり気乗りのしない作業だったばかりでなく、やれることも知れたものという気がしていたのかも知れない。だからといって放置しておくわけにもいかないのに、作業の進まないことを如何せん。糸瓜咲く庭を眺めつつ、子規はいのちの限界を早くに知りながら、どうしていたのだろうと思うことしきり。

父母ちちははのゆるい溺愛夜の蝉 三好つや子
 作意に即した見方かどうかわからないが、「父母のゆるい溺愛」とは、老いた父母が互いに相手を思いやりつつ、ことさらな言挙げも行動もせず、ひたすら身近に起居を共にしているだけ。それでも思いは通じ合っているのだろう。夜の蝉の鳴き声にじっと耳を傾けながら、静かに無為の時を過ごしている。それをしも小さな幸せというべきものかも知れない。
 今回はどうやら、日常の中に覗く死生感のようなものが、風景の中に見え隠れしていたような気がする。

◆海原秀句鑑賞 水野真由美

人であることに行きつき落葉踏む 有村王志
 「人でなし」は悪口雑言である。ならば「人であること」は正しくて善であるはずだ。だが「行きつき」という。正しいかどうか、善人か悪人か、強者か弱者かではなく、ただ「人」だということだ。それをどう受け止めているかを冬の季語「落葉踏む」が伝える。「落葉」は、それぞれの人、その時々により様々な感覚をもたらす。さびしさもあるが山の匂いのうれしさもある。「踏む」で体と音が現れる。地面と落葉と自分の体が直にこすれ合う感覚だ。落葉だなとしみじみ踏む。あるいは音や感触を面白がって踏む。「行きつき」「踏む」は、それらのすべてをひっくるめて「人であること」を見つめる。そのやりきれなさが剥き出しになるのが戦争かもしれない。

君がいて風景だった遠花火 市原正直
 「だった」が痛い。音のない小さな「遠花火」を大人数でにぎやかに見ることはない。親しい人と二人か、ごく少数の友人で美しさとさびしさをゆっくり静かに味わうはずだ。「風景」は自分の内面を託すことで成立するという説がある。「だった」は「君」も不在で託すべき内面を喪失したまま世界を生きる言葉なのかもしれない。

月光処理水放出も産土 清水茉紀
 やはり「月光」「処理水」ではなく「月光処理水」と読みたい。原発事故で発生した汚染水を処理するのは「ALPS(アルプス)」と呼ばれる専用の設備だ。それでもトリチウムの除去はできない。人の作り出した核汚染だが人は処理しきれずに薄めるのだ。それが「月光」にできるなら、どんなにいいだろう。「放出」の完了には三〇年程度が見込まれている。「も」が抱え込む時間の長さと深さには人という存在のやりきれなさがある。

眠りの粒小さくなりて火取虫 芹沢愛子
 「小さくなり」で「眠りの粒」が睡眠に関わる錠剤ではなく眠りのあり方だと気づく。充分な深い眠りを「粒」とは感受しない。さらに「小さくなり」で不安感が深まる。「昏々とねむりて火蛾の夜を知らず」(三橋鷹女)の逆である。「火取虫」「火蛾」は灯火に集まる蛾だ。「ぬ」と切れば不安を託す季語となる。だがそれを曖昧にするのが「て」だ。とはいえ「て」の深読みが季語「火取虫」に新面目をもたらすことはない。ここでは「眠りの粒」を感受する不安のあり方こそが句の世界観なのだ。

良夜かな禿びた鉛筆集まり来 髙井元一
 「良夜」の月の明るさを「かな」と確かめた上で「集ま」って来るのが「禿びた鉛筆」だというのが嬉しい。お尻には、それぞれキャップが付いているのだろうか。よく働いた鉛筆たちは相棒たちである。彼らを、そして自身をねぎらう言葉としての「かな」の再読を「来」が促す。

煙茸踏んで拍手を賜りぬ 中村道子
 辞書によれば「煙茸」はホコリタケ、オニフスベの異称、別称。内部が白い幼菌は食用となる。成熟すると丸い袋状の姿で真上の穴から胞子が煙のように飛び出すらしい。それをエイッと踏んだゆえの「拍手」だ。この茸を踏んだり蹴ったりする句はあるが「拍手」はない。せっかくの「拍手」を「賜れり」などと気取らずに、「賜りぬ」とゆっくり真面目におかしみを醸し出すのがいい。

七夕竹引き摺る童子あり羨し 野田信章
 まだ幼くて七夕竹を肩に担げないが大人の手助けも嫌なのだ。「引き摺る」には意地がある。それは一人でもやるという意地であり、そこには「七夕」という行事や短冊の言葉への思いがあるかもしれない。その懸命な奮闘振りを「羨し」という。「童子」という言葉の多層的な歴史性と「羨し」が響き合う。「あり」と存在を深く確かめて「羨し」の三音を強める韻律に金子兜太の「津波のあとに老女生きてあり死なぬ」を思う。自分は何を引き摺る童子でありたいかと自問したくなる。

山の端に迎火父母ちちはは猫きんぎょ 藤野武
 「山の端」は山を遠くから眺めたときに空に接している部分、稜線だ。奇妙な場所に見える「迎火」の色を「に」の限定が際立たせ、さらに句跨りの韻律が火の色を深めて彼らを浮かび上がらせる。猫は父母の足元だろうか。どちらかが抱いているのだろうか。平仮名の「きんぎょ」は金魚玉のようなガラスの器に入れて提げているのだろう。いや与謝野晶子の「きんぎょのおつかい」のように歩いているのかもしれない。ともあれ遠くの「迎火」により思いがけない近さに彼らは現れた。それが切ない。

弟が晩夏の椅子で泣いている 室田洋子
 ただこれだけなのに何故か気になる。「は」ならば弟について述べているのみだが弟を主体とする「が」は、「弟」への視線と「晩夏の椅子」を浮き上がらせる。疲労感ともの寂しさがありつつ独特の強い日射しと切り離せないのが「晩夏」だ。室内であっても「椅子」は日射しの入る場所にあり、泣く弟にも椅子にも深い影が宿っているだろう。それをただ見ているだけではいられない切迫感を「が」という格助詞がもたらしているのだ。

◆金子兜太 私の一句

たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし 兜太

 兜太先生は熊猫荘(熊谷市)を拠点に、秩父東京全国への俳句人生でした。感性の鋭さ、人を包みこむ大らかさで、地元での句会は楽しみでした。句碑のある常光院(天台宗別格本山)は、深い森、池や堀土塁に囲まれた茅葺きの古刹です。日暮になるとカナカナカナと競い合う風情は、ふっと幼き日に戻ります。句碑の前に立つと、先生の笑顔と「がんばれよ。」との声が聞こえてきます。句集『皆之』(昭和61年)より。大谷菫

つばな抱く娘に朗朗と馬が来る 兜太

 しなやかで強く美しいつばなを抱く娘に元気にいななく馬が近づいて来る。爽快で透明感を感じます。この句の色紙が故三井絹枝さんのお部屋に飾ってあり、見た瞬間に「絹枝さんにぴったり」と言ってしまいました。絹枝さんも「大好きな句なの」とのこと。兜太先生の力強い直筆の色紙で、平成23年に海程賞を受賞された時に頂かれたそうです。句を読んだ時の印象は、絹枝さんの思い出と共に忘れられません。句集『詩經國風』(昭和60年)より。森岡佳子

◆共鳴20句〈10月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

川嶋安起夫 選
草いきれ車をよける痩せたしし 阿木よう子
遺骨まだ舌の求むる砂糖黍 石川まゆみ
よごれたら捨ててゆく西日のかげに 泉陽太郎
わが翳が五月の空に漂流す 伊藤道郎
緑陰のこだまのような巣箱かな 井上俊子
立葵来る筈のなき友を待つ 宇川啓子
足病んで木洩れ陽の夫おとなしい 柏原喜久恵
桜桃忌ぞっとしたくて水鏡 河西志帆
濃紫陽花寡黙な人の自負一つ 佐藤紀生子
青き踏む子の名のノート句帳とし 佐藤君子
少女らのシンクロジャンプ青大将 佐藤千枝子
山桃の実踏んでも踏まれても黙 新宅美佐子
魂を一つぶら下げ桜狩 すずき穂波
尺取の尺の半端を往生す 高橋明江
重装備兵本日家を焼く仕事 田中信克
夕焼の時間ながくてもの忘れ 丹生千賀
サーカスのあとかたもなし夏の月 根本菜穂子
六月のみなぞこ覗き妻も魚 本田日出登
子はピアノドレミファそら豆茹で上がる 嶺岸さとし
芽起しの雨稜線を膨らます 森由美子

小池弘子 選
春楡の影も大きな孤独かな 石川青狼
○青水無月ぽわんと月の落ちる音 大髙洋子
夏シャツをテント張るよう乳房来る 川崎千鶴子
紙とペンありて知足の春ともし 北村美都子
ひる暗き杉の林を著莪灯す 佐々木香代子
髭のびて草のびて七月の老人 白井重之
清貧に持病三つほど目に青葉 鈴木栄司
ぶら下がる夏蝶雲梯は空の色 高木水志
○草いきれ我らの匂いでもあった 竹本仰
蝉しぐれ今日は一匹ずる休み 千葉芳醇
施設に母入れて茶の間は夕焼けて 峠谷清広
○百合束ね真白の命孕むごと 中内亮玄
フクシマ夏草土に喰われている自転車 中村晋
なみなみと時間をはこぶ夏の蝶 平田薫
桃ひとつ食み終へる迄やや難儀 前田典子
月涼しだんだん木綿になるわたし 増田暁子
ふんわりと人のご縁やおおでまり 松本勇二
虚心とは吾を見つめる青蛙 嶺岸さとし
白玉浮いたり沈んだりして復縁は 宮崎斗士
胸の内ひとつに悪女百日紅 森鈴

小松敦 選
ガチャポンの係員呼ぶ薄暑かな 安藤久美子
あたまからおちてゆくソフトクリーム 泉陽太郎
桜桃忌新宿の朝うす濁り 榎本愛子
不眠とか編み込み朝の女郎蜘蛛 奥山和子
蟻の列その先頭に用がある 河西志帆
北方から馬喰が来る麦秋 日下若名
シャワー強みるみる手足消えてゆく こしのゆみこ
スイミー暗唱さざなみはじまりぬ 三枝みずほ
リラ冷えや幸福そうに襟立てる 佐々木宏
完了の夢を這いけり蝸牛 佐藤詠子
原爆忌クリアファイルに人の貌 清水茉紀
菩薩像の指先に傷ヒヤシンス 白石司子
月見草昼から咲いて知り合える 鈴木栄司
○草いきれ我らの匂いでもあった 竹本仰
蝿しずかあなたときどきメタリック ナカムラ薫
茅花流し時計はすこし遅れている 平田薫
避難用リュックの中の蝉の殻 松本千花
港湾の丘にスクリュー蚯蚓干る 矢野二十四
塵積もる天狗の目玉五月闇 山本まさゆき
撮影を終へ早乙女の引き上げる 若林卓宣

近藤亜沙美 選
目に青葉ほんとは恐い記号です 大沢輝一
○青水無月ぽわんと月の落ちる音 大髙洋子
ヒルガオのつまづきながら鳴るピアノ 奥山和子
夕薄暑肌理とは遅遅としたひかり 川田由美子
清明やかざせば透ける指の骨 小西瞬夏
春の土掬う青年になりし子よ 佐孝石画
永き日の折り目のつきしままの我 白石司子
僕の瞬き数えるように花の雨 高木水志
老鶯や纏うてもまとうても気配 立川瑠璃
純白の四葩咲く森ふと他界 谷川瞳
短夜は心臓を泳がせておく 月野ぽぽな
○百合束ね真白の命孕むごと 中内亮玄
背徳の色かも知れぬ紫木蓮 長尾向季
伸びてゆく虹の動悸を聴いている ナカムラ薫
原発棄民米研ぎ米研ぎこの白濁 中村晋
夜が過ぎ又よるがきて麦秋 野﨑憲子
夏ひとり喧騒は胃にこびりつく 藤野武
蝉しぐれというヒグマの隠れ場所 北條貢司
恍惚は恋でも死でもなく水母 茂里美絵
言葉にも生傷のあり茄子の花 山本まさゆき

◆三句鑑賞

遺骨まだ舌の求むる砂糖黍 石川まゆみ
 高橋睦郎に「髑髏みな舌うしなへり秋の風」があり、言葉を失った死者の無念が現代絵画のように浮かびあがってきます。石川句では、亡くなった方がまだ甘いものを欲しがっているという情景、それは亡き方への遺された者の優しい思いの表出であろうと感じられました。両句とも私は戦没者への哀悼句と受け止めます。

よごれたら捨ててゆく西日のかげに 泉陽太郎
 「捨ててゆく」ものは何でしょうか。自身の内面の汚れか、人間社会全体の廃棄物か。西日は落日。日は傾くほどに影を長く伸ばします。捨て場所は長く大きくなるかもしれませんが、それに甘んじてよごれたものを捨てれば捨てるほど私たちは滅びの闇に向かっていると言えるでしょう。

重装備兵本日家を焼く仕事 田中信克
 重装備兵は戦時下に生まれ合わせ召集された私。戦地では軍規に服しなければなりません。私には焼くべき家の家族の悲しみを想像する余地はありません。それが嫌なら自身に銃口を向けるか、上官に射殺されるしかないでしょう。世界中で私は正義のために無心に働いています。戦争は廊下の奥ではなく私の中にいつも立っています。
(鑑賞・川嶋安起夫)

蝉しぐれ今日は一匹ずる休み 千葉芳醇
 一読、ずる休みという人間っぽい言い方に笑ってしまった。二度三度読み返すうちジワーっとしてきた。夏の盛り鳴き続ける蝉、まるで仕事のように……そんな中一匹がずる休みしていると思う作者は、自分を投影したのだろうか。今日は休みたいと。重い俳句が多い中、おかしみと哀感溢れる一句に楽しい気分をいただいた。

ふんわりと人のご縁やおおでまり 松本勇二
 おおでまりは、アジサイに似た白色小形の花を毬状に開き、低い木に寄り添うように咲き誇る。ふんわりと人のご縁のようだと細い糸で繫げたのだ。作者の精悍な風貌を思い出し驚いた。初めてお目にかかった平成五年の海程富山大会での強い印象。こんな優しい温もりのある句をお作りになるとは……。失礼いたしました。

胸の内ひとつに悪女百日紅 森鈴
 女心は鬼ともじゃとも、と世に言われるが、数多ある胸の内のひとつに悪女が棲んでいると作者はいう。昔からお芝居や小説に登場する悪女の深情け。身も心も尽くしてしまう悪女の献身は、散って咲いてを百日繰り返すさるすべりの花のように燃えるのだ。季語の選択は秘めている心のうちに呼応して抜群だ。森鈴さんにお会いしたい。
(鑑賞・小池弘子)

蟻の列その先頭に用がある 河西志帆
 隊列全体の目的に向かっているのではなく、先頭の者の用件に後ろ全員が付き合っているという。集団行動は参加者全員の共通目的達成のために皆が協力し合うもの、といった勝手な思い込みで世界を眺めていたことに気づかされる。これで世界が少し拡がった。さて、先頭の御方にはどんな御用がおありかと、ここから物語が始まる。

リラ冷えや幸福そうに襟立てる 佐々木宏
 この句にも奥行と物語を感じる。札幌でリラが咲くのは、5月半ば桜が散った頃からで、まだまだ寒い。でも恰好は季節先取りでもうマフラーはない。襟を立てる。その仕種や顔付きが軽やかなのだろう。きっと嬉しいことがあったのだ。リラ冷えだからこそ「幸福そうに」の措辞が活きる。珍しく明るい様子の高倉健を思い浮かべた。

茅花流し時計はすこし遅れている 平田薫
 上五だけで、ゆったりとした時間の流れと、明るい空間の広がりを感じる。「茅花流し」が私の中に作り出す心象風景だ。そんな心象風景に「遅れ」を伴う現実的な事象が差し込まれるのだが、既に時の前後などどうでもよい気分に満たされた心象風景では、「遅れ」ていることさえも曖昧になって「時計」の物象感だけが浮遊する。
(鑑賞・小松敦)

清明やかざせば透ける指の骨 小西瞬夏
 季語である清明は、二十四節気のひとつであることは周知であるが、万物が清く陽気になるこの季節の陽のひかりに、手をかざせば指の骨が透けるという、私はこの句に恍惚とした何ともいえない色気を感じる。白魚のように美しい女性の指、透けるほどか弱いその指の骨は、明るさ故になお儚い確かな春のひかりと化す。

春の土掬う青年になりし子よ 佐孝石画
 春の土からまず私が感じることは、温かく穏やかで広大な土地、多くの生物の命を育み多くの植物を芽吹かせる、すべての命を生み出す母なる大地。人間も最期は土へと還っていく。作者は自らの子供がいつの間にか、生命の原点である春の土を掬いあげる青年になりしことに感嘆している。呼掛けの型に父親の大きな愛情を感じる。

恍惚は恋でも死でもなく水母 茂里美絵
 恋は甘美で切なく時には一輪の花のようで、また時には森の淋しらのようで、その妖艶な戯れの恋に対し死とは人間の誰しもが逃れられない運命である。作者は恍惚の様が恋だけでなく死でもないと説く。そしてその様はゆらゆらと透けて海にたゆたう水母であるのだと。生と死そして希望と静寂、水母の存在に作者は何を思うのか。
(鑑賞・近藤亜沙美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

鬼灯や唐十郎があふれ出す 有栖川蘭子
黒星の土しょっぱくて草田男忌 有馬育代
きちきちが我のへこみに現るる 飯塚真弓
くらきふかき沼のように秋満ちて 井手ひとみ
はだしのゲンは欠席でした広島忌 上田輝子
不知火の闇タナトスをやり過ごす 大渕久幸
敬老日ただにこにこと光りをり 岡田ミツヒロ
ジェット機の轟音バケツの蕃茄喰ふ 小野地香
在ることの薄れて秋の金魚かな かさいともこ
未明の厠すずむしの音に吾燃ゆる 樫本昌博
シスターの懺悔むにゃむにゃ冷奴 北川コト
実南天認知テストの判定A 清本幸子
木犀の子を宿すやに匂ひけり 工藤篁子
父が逝き母が逝きつつじらんまん 小林育子
月光や簡易宿泊所に位牌 佐竹佐介
秋彼岸モノクロームの世を生きて来た 清水滋生
秋の蝶捨てたことばのレクイエム 宙のふう
手庇の丘に昏れたる花野かな 高橋靖史
AIや昔トンボ釣りの仲間 立川真理
三日月や人込みに飲まれる背中 藤玲人
玉子焼き固めに仕上げ被爆の地 中尾よしこ
スーパームーン盲いても心眼有りて感嘆 服部紀子
八月は終わらせなければならぬ章 福岡日向子
ニンゲンガイキスギナンダ蝉骸 藤川宏樹
檸檬食む後期高齢軽く生き 保子進
うかつにもぷかり息吐く水中花 増田天志
支払いが済んでない八月十五日 松﨑あきら
老いという見知らぬ路地やいわし雲 向田久美子
夏座敷疲れたような蠅たたく 吉田もろび
鞦韆立ち漕げばたましひ吾にしがみつく 路志田美子

『海原』No.53(2023/11/1発行)

◆No.53 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

微光して老いた馬立つ薯の花 石川青狼
故山夕焼けきちんと叱り叱られて 伊藤巌
拓かれし村 牲として古代蓮 伊藤幸
水撒いてだんだん人に戻りけり 大池美木
白雨ですぼくをかたどる僕のシャツ 大沢輝一
デイゴ咲く空は還って来ないまま 片岡秀樹
真葛原二人いること気球のこと 川田由美子
逃水や自分の影に色がない 河西志帆
紫陽花のくらやみにある神の椅子 北原恵子
途中下車旅程表には無き白雨 北村美都子
自分ひとりのための冷房と哲学 木下ようこ
夏草に分け入る水牛の眼して 黒済泰子
蕺草や木立モノクロ無言館 小松よしはる
廃校のへのへのもへじ鳥渡る 白石司子
雨だれの聖なる固さ茅舎の忌 遠山郁好
虫時雨空気を運ぶローカル線 故・永田タヱ子
相思樹の歌ごえ消えず沖縄忌 野口佐稔
花片栗の南面「おー」と師の声す 野田信章
じゅんさいつまむ文字化けの原稿 日高玲
帰還する人らの老いて茄子の花 平田恒子
並びたる膝の明るさ作り滝 藤田敦子
補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
和箪笥の母の来し方雪柳 三浦静佳
言の葉を水に研ぎゐて夕薄暑 水野真由美
ほおずき市歩幅と歩幅まだ恋人 宮崎斗士
だまし絵から何か逃げ出す夏至の夜 村本なずな
ポピー畑なんでも笑っちゃう家系 森由美子
こじらせてはしびろこうでゐる薄暑 柳生正名
蘭鋳に一部始終を無視さるる 矢野二十四
崖っぷちのぼりきったる蛇の衣 渡辺のり子

水野真由美●抄出

水臘樹の花父の手帳の小さき旅 安藤久美子
初夏の薄暮にうかぶ膝の裏 泉陽太郎
風蘭や老人ばかり愛でており 稲葉千尋
白雨ですぼくをかたどる僕のシャツ 大沢輝一
老象は伽藍のかたち夏の月 尾形ゆきお
射的して妻まつ朝顔市のなか 荻谷修
真葛原二人いること気球のこと 川田由美子
星涼しやはり誤差ある山の地図 北上正枝
紫陽花のくらやみにある神の椅子 北原恵子
万緑やただ直立の別れあり 近藤亜沙美
母少しおこらせたままラムネ玉 三枝みずほ
青時雨手と手つないでいた記憶 佐孝石画
祝卒寿素手で掴めるなめくじら 篠田悦子
他人とは思へぬ犬や夏至の夜 菅原春み
いもうとが波打際にいる五月 芹沢愛子
遠蛙闇におさまる弟よ 十河宣洋
泣きたかったまだ柳絮が飛んでいる たけなか華那
マンホールの漫画見ながら風薫る 峠谷清広
腕時計置く音父に父の日果つ 中村晋
白くやさしく聳えて泌尿器科五月 野田信章
短さは無口に非ず敗戦忌 長谷川阿以
うちわ祭りにぼんやり鯰のような人 長谷川順子
蓮巻葉ゆるびて今しか出来ぬこと 平田恒子
舟虫のやたら子分になりたがる 松本千花
白湯のごと祖父の正調ゆすらうめ 松本勇二
ゆうがおや訃報のだんだんと水音 宮崎斗士
夕端居わたしの暮らしてきた躰 望月士郎
蛍袋きれいな声紋預ります 茂里美絵
向日葵の正しく生きて棒暗記 山谷草庵
水力発電所 ほーたる発電所 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

故山夕焼けきちんと叱り叱られて 伊藤巌
 故山とはふるさとの山だが、ふるさとそのものを指す場合もある。作者の故郷は信州だから、ふるさと即故郷の山として浮かび上がるのだろう。夕焼けは、幼き日の愛唱歌「夕焼け小焼け」の呟くようなメロディーがBGМとなる。そのあとに、帰りが遅いという母のお小言が続く。「きちんと叱り叱られて」とは、いつものように決まって繰り返されるお小言への懐かしさとともにある。

デイゴ咲く空は還って来ないまま 片岡秀樹
 「デイゴ」は、沖縄、奄美大島を北限とするマメ科の花で花期は三月から五月。この句は、沖縄の歴史の悲しみを詠んでいる。戦争とその後の祖国防衛拠点としての基地負担等さまざまな負い目を負わされ続けてきた沖縄。「空は還って来ないまま」とは、その悲しみへの告発の句と見てよいだろう。

自分ひとりのための冷房と哲学 木下ようこ
 現代は情報の氾濫時代ともいわれるが、自分にとって本当に必要な情報を見分けることは難しい。それには自分に何が必要なのかを知ることが大事だろう。ここでいう「哲学」とは、自分の生き方に資するものの考え方とみてよいのではないか。暑い夏の一日、冷房を利かせた部屋で、そのための読書をひとり楽しんでいる。

廃校のへのへのもへじ鳥渡る 白石司子
 山奥の小学校が、また一つ廃校になった。誰もいなくなった運動場には、去っていった生徒たちによる大きなへのへのもへじが書かれている。さよならとはいわない。精一杯のおどけとも、抗議とも見えるへのへのもへじを、渡り鳥たちが眺めていく。あたかも「あかんべい」をしてみせたように、かえってユーモラスに深いかなしみを窺わせる。地域の心情を逆説的に表現した一句。

虫時雨空気を運ぶローカル線 故・永田タヱ子
 今年の八月九日に、九十歳の齢を閉じられた永田さんは、生前宮崎俳壇の指導的役割を担って活躍しておられた。掲句は、海原投句の絶吟となったものであろう。地方のローカル線は、秋の虫時雨の中を通る。その虫時雨の空気そのものをローカル線は運んでゆく。それは作者にとってのお国自慢でもあった。永田さん自身、その空気に運ばれて、いつのまにやら他界へと去って行かれた。

相思樹の歌ごえ消えず沖縄忌 野口佐稔
 戦争末期の沖縄戦で、女子学生による「姫ゆり部隊」が組織され、負傷兵看護に当たりつつ、多くの若い命を散らした。女学生たちの卒業歌「別れの曲」(相思樹の歌)は、教師の太田博作詞、東風平惠位作曲によるもの。女学生たちは卒業式を迎えられず、その歌も歌われることはなかったが、元学生や遺族の間で歌い継がれている。その故事を語り継ぐための一句。兜太師の句集『百年』の中にも「相思樹空に地にしみてひめゆりの声は」がある。反戦への意志と歴史感覚の一句といえよう。

補聴器の奥はせせらぎ水芭蕉 船越みよ
 加齢にともなう難聴の傾向はいや増すばかりで、そのための補聴器も、なかなかぴったりとこないものが多い。とくに着装したときの雑音には悩まされる。さりとて使わないわけにもいかず、かけはずしたりしながら使いつつあるのが現実。掲句は、その雑音の中にも、時にせせらぎのような清らかな物音を感じる時がある、そこから尾瀬の水芭蕉の幻覚が立ち上ることもあるという。日常を愛しみながら送る人ならではの感性に共感。

言の葉を水に研ぎゐて夕薄暑 水野真由美
 「言の葉を水に研」ぐとは、言葉の意外性と表現の不確定性を推敲する過程を比喩したものではないだろうか。川本皓嗣『俳諧の詩学』によれば、「俳句とは、ことばが本来もっている意味の不確定性そのものを表面化し、強調し、読者に痛感させることを、いちばん付け目とする遊び」という。夕薄暑の厳しさの中、言葉を研ぎ澄ます作業とはそのような意味合いを含むものではないか。

ほおずき市歩幅と歩幅まだ恋人 宮崎斗士
 ほおずき市に久しぶりにやってきた二人。今は夫婦なのだろう。おそらく恋人時代に、二人してよく通ったほおずき市をなつかしんで立ち寄ったのではないか。あの頃、二人の歩幅は、相手を思いやってか、狭く、ぎごちないものだった。今も、ほおずき市に来ると、その頃の気分に戻って、歩調のリズムが変わってくる。こういう日常のナイーブな心理感覚は、この作者のもっとも得意とするところで、他の追髄を許さない。

こじらせてはしびろこうでゐる薄暑 柳生正名
 「はしびろこう」は、コウノトリ目ハシビロコウ科の鳥で、嘴が幅広く大きい。体長一・二メートル。水辺に棲息し、魚を捕食する。長時間動かず、獲物を待ち伏せる。上五の「こじらせて」は、何か人事の出来事で問題を拗らせたのだろう。そんな時は、はしびろこうを決め込んで、泰然と落着の時を待つ。急いては事を仕損ずる。「薄暑」が、そのじりじりした時間を耐え抜けといわんばかり。

◆海原秀句鑑賞 水野真由美

水臘樹の花父の手帳の小さき旅 安藤久美子
 いつも手元に置く「手帳」には持ち主の暮しやひそやかな内面が記される。そこには家族も知らない事柄があるかもしれない。もし「手帳に」ならば「小さな旅」は、そこに記された現実の小旅行に留まるが、「手帳の」はどう読めばいいだろう。「旅」とも言えない事柄を旅のように記しているのだろうか。あるいは「父の手帳」をたどることが自分自身の「旅」なのだろうか。手がかりは「水臘樹いぼたの花」だ。モクセイ科の落葉低木で日本各地に自生し初夏、枝先に白い小花を房のように咲かせるという。また、その香りは銀木犀に似ているらしい。この控えめな香りに「小さき旅」は呼応しているのかもしれない。父なりの大切な物や事を記した言葉を「小さき旅」と受け取る感覚だ。とはいえ父が健在であるならば、その手帳を子供が開くことはない。やはり父への旅とも感じさせる所以である。

初夏の薄暮にうかぶ膝の裏 泉陽太郎
 「初夏」ならではの草木の色や空気の光が「薄暮」に沈んだ時に「膝の裏」が見えてくる。それは人も自分もじっくり見ることがほとんどない部位だ。また膝小僧のようなしっかりした手応えはなく、皮膚もなめらかで柔らかい。「はつなつ」「はくぼ」「ひざのうら」のゆったりした韻律と共に寄る辺ない後ろ姿が見えてくる。半ズボンの少年だろうか。「膝の裏」を見る人物もまた寄る辺なさをこらえて「薄暮」に佇んでいるかのようだ。

射的して妻まつ朝顔市のなか 荻谷修
 銃口に詰めたコルクの弾を当てて景品を棚から落とすのが「射的」だ。一人でヨーヨー釣りをする大人をお祭りで見たことはないが「射的」ならば私も意地になって飲み代をつぎ込んだことがある。掲句の「射的」は時間つぶしのようだ。その理由は「妻」である。張り切って歩き回るのが子供や孫ではなく妻というのがいい。実利や実用だけではない暮しぶりが伝わる。句跨りが後半を「朝顔市の/なか」と読ませて「朝顔市」ならではの賑わい、なつかしさが作品空間を充たしてゆく。

万緑やただ直立の別れあり 近藤亜沙美
 「万緑」と「直立」ならば樹木との「別れ」を思うが「ただ直立」とは何だろう。腰や膝を曲げることがない「ただ直立」するだけの「別れ」には非日常性がある。それは万緑の生命力と共に茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を思い出させる。「男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」。潔い別れには、かなしみが宿る。

他人とは思へぬ犬や夏至の夜 菅原春み
 誰かの風貌や言動などから「他人とは思へぬ」気分になることはある。だが掲句の場合、相手は何よりも人ではない。犬である。「他人とは思へぬ犬」は何とも奇妙な感覚だ。それでも犬の表情や佇まいに自分と通い合う何かを感じているらしい。西洋では「夏至の夜」にキリスト教以前からの古い言い伝えやおまじないが残っているという。その不思議な力が掲句にも宿っているようだ。

白湯のごと祖父の正調ゆすらうめ 松本勇二
 水を一度沸騰させ、ある程度まで冷ました「白湯」には体に良くて飲み飽きないというイメージがある。また「正調」は「歌の正しい調子」「古くから歌われてきた調子」だという。民謡などの「正調○○節」である。そんな「祖父の正調」なのだ。ことさらに目立つことをせず物足りない気さえする「祖父の正調」かもしれないが、そこには風潮や他者の評価におもねることのない人としての清潔感がある。この不器用とも飄々とも感じられる世界に「ゆすらうめ」が点る。つやつやした小さな赤い実は「白湯」「祖父」に対する視覚的な効果だけではなく、その果肉の柔らかさ、薄味のさくらんぼのような風味も含めて「祖父の正調」に軽い驚きをもたらす。

向日葵の正しく生きて棒暗記 山谷草庵
 まっすぐ明るく元気に立つ「向日葵」の姿を「て」が屈折させる。丸ごと全部「暗記」する丸暗記に比べて「棒暗記」には文章の意味を考えないという感覚が含まれている。「正しく」と信じるゆえの危うさを示唆しているようだ。
 かつて詩人の金子光晴は「健康で正しいほど/人間を無情にするものはない。」(「反対」)と記した。

水力発電所 ほーたる発電所 横山隆
 利根川の源流がある内陸部の群馬県には山間地帯から平地までダム式、水路式あるいは両方を使った大小の「水力発電所」がある。とはいえ、それらの水辺に「ほーたる発電所」は存在しない。空白の一字は実から虚へと作品世界を転換させる。虚の発電所のあえかなる光は、それと相容れることのない現実の「発電所」―私たちが制御しえない「原子力発電所」を浮かび上がらせる。「ほーたる発電所」の電力は私たちに思考と想像をうながすエネルギーなのかもしれない。

◆金子兜太 私の一句

富士を去る日焼けし腕の時計澄み 兜太

 俳句初学の頃、所属誌連載「俳句の中の青春」で採り上げた印象鮮明な句。土地への挨拶の心も籠もり、繊細さを持ち合わせた豊かさは、若き先生の人間の魅力そのものでもある。未来へと「今」を刻む「時計」の、八時一五分・広島、一四時四六分・東日本大震災で歪んだ「顔」に打ちのめされても、健やかな時間へと遡る再生の力をこの句から頂く。句集『少年』(昭和30年)より。鈴木修一

わが猪の猛進をして野につまづく 兜太

 太陽神のように光り輝いていた師は、句ごころを交信し続ける天狼になった。ありのままを作句し、何人の句も、ありのままに受け止める。そして、よく笑う。師の虎のような忍耐力、猪のような無邪気さ、狼のような野性、犀のような愛ある目力、そして、羊毛のような髪を持つ人間臭さなどの全てを励みに俳句への探求心を深めていけたら幸いです。句集『百年』(2019年)より。三浦二三子

◆共鳴20句〈9月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

木下ようこ 選
老人の座り切れない白詰草 上野昭子
藤棚の下にひっそり赤ん坊 榎本祐子
業という八十八夜のオルゴール 奥山和子
判子屋のチャイム感度がすかんぽ 加藤昭子
触れるもの何かのかけら磯遊  川崎益太郎
家族葬にしないでと父柳絮飛ぶ 楠井収
○キャベツまだはがしたりない誕生日 こしのゆみこ
目がうすい?耳がとおい?けっこう郭公 小林ろば
○ひまわりの中で一人で大笑い 重松敬子
さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
枕の中の星が溢れて明易し 髙井元一
目隠しのほどける僕と春の鹿 高木水志
家族三人夏三日月がひとつだけ 田中信克
憲法の青さよ桐の花咲いたよ 中村晋
白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
底なしの放心へひなあられポイポイ 堀真知子
塩ふってトマト信じるは難し 三浦静佳
ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
歯を磨くやう人戦さ鳥は恋 柳生正名
いまは深い自然薯やまいものことのみ思へ 横山隆

十河宣洋 選
踊るようくちなわ森番のハモニカ 綾田節子
宵待草人生にかなを振って明日 伊藤清雄
自分の中の他人が寝ている緑蔭 井上俊一
鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝一
照準の中に三人たんぽぽ黄 奥山和子
田水張る頃床下に潜水艦 刈田光児
○怒らない兄が炬燵になっていた 河西志帆
○キャベツまだはがしたりない誕生日 こしのゆみこ
連翹満開ごしゃまんとピカチュウ 小林ろば
晩春は月面に似てぽこぽこす 近藤亜沙美
群衆というたいらな背中春の雨 佐孝石画
マスク外す開かずの間でも開けてみる 佐藤博己
カレンダー思いっきり剥がすと夏 重松敬子
手のひらに日差しの重さ蝦夷五月 たけなか華那
海月浮く薄い下着を脱ぐ途中 月野ぽぽな
適当な相槌ばかりねカッコウ 中村道子
走り梅雨家に染み着く五体かな 仁田脇一石
大の字に犬のふぐりと宙見つめ 藤好良
薄目して春はマネキンになりきる 村上友子
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎

滝澤泰斗 選
黄砂襲来今朝はJアラートの嵐 石川青狼
人類に核とふ踏み絵諸葛菜 伊藤巌
G7ヒマだしタダだし土産つき 植田郁一
知らず知らず戦前の風母子草 大髙宏允
大統領 禎子の声が聞こえますか 岡崎万寿
○怒らない兄が炬燵になっていた 河西志帆
古希の友みな無冠なり啄木忌 齊藤しじみ
九条が風の野を行く遊ぼうか 三枝みずほ
憲法記念日防人歌を読み返す 佐藤博己
○ひまわりの中で一人で大笑い 重松敬子
平和とは見渡す限り麦の秋 篠田悦子
昨日の嘘責めたてるごと蛙鳴く 清水恵子
あいねくらいね那覇とムジーク霞む すずき穂波
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子
地の塩の青むや春の悲しみに 高木一惠
新樹光聖アッシジに鳥や栗鼠 田中亜美
原子炉に風炉と清濁呑みし国 野口思づゑ
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子
桜桃忌くよくよする父しない母 三好つや子
聖五月本流は言の葉の光り 村上友子

三浦静佳 選
花アカシア涙壺売る骨董店 石川義倫
彼岸かな今や平穏が奇跡のよう 植竹利江
藤の下うはさ話はできぬなり 鵜飼春蕙
つい隠す自分の生真面目夏燕 大池桜子
同席の目礼たたむ春ショール 加藤昭子
訳ありと聞けば飼いたくなる金魚 河西志帆
過去形のお喋りが飛ぶ花筵 志田すずめ
腕が出て駐車券とる青葉若葉 菅原春み
口笛で始まる曲や夏隣 ダークシー美紀
日に何度バラの蕾を見に行くの 髙尾久子
蜘蛛の手足ドラマーのようフル使い 高橋明江
植田行く車窓忽ち季語の国 田中裕子
戦まだ止まず噴水うずくまる 月野ぽぽな
慰霊の夏坂本九よ御巣鷹よ 鳥井國臣
音の無い鉄橋緑夜の紙芝居 中野佑海
失語症のわれを癒せよ鶯よ 新野祐子
孫とおそろいイージパンツの夏が来た 野田信章
まだねむい窓ならそら豆スープなど 三世川浩司
花かたくり筆談のまず「ありがとう」 宮崎斗士
遍路仕度外反拇趾の爪を切る 山本弥生

◆三句鑑賞

キャベツまだはがしたりない誕生日 こしのゆみこ
 春の柔らかいキャベツだろうか。まだはがしたりない、なんてなかなかやんちゃな感じで明るい。まだまだこれからですッ、と前向きである。そこへ、誕生日。おや?オトナは誕生日に過去を思う。作者は今まで纏ってきたものを、少しずつ少しずつはがし始めたのかもしれない。まだはがしたりないな、目指すは軽やかな素の自分。

家族三人夏三日月がひとつだけ 田中信克
 淡々とした景ながら、夏の、それも三日月であるところが美しい。家族三人が今一緒にいるのか、あるいはばらばらなのか。どのような組み合わせの家族なのか。様々な物語が浮かぶ。言えることは、誰でも必ず三日月をひとつ持っていることだ。寂しさも少し感じさせながら、同じひとつの月を見るその連帯が嬉しい。

ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
 茉莉花・夕顔・烏瓜の花、夕方から咲く花は静かに人の心を騒がせる。咲く姿をいったい誰に見せたいのか。……ま、人間ごときが余計なお世話である。
 ゆうがおは電話をいきなり切られた顔をしております。僕の大事なゆうがおは今しょんぼりしていますが大丈夫。秋の夕顔の実ってけっこう大きいし。取り合わせの新鮮さにウットリしました。
(鑑賞・木下ようこ)

田水張る頃床下に潜水艦 刈田光児
 初夏の爽やかな頃の仕事。田植えを控えての田水を張る。いい気分で仕事をしている。
 この頃になると毎年、家の床下に潜水艦が浮上してくる。今年の豊作を予言するように潜水艦が潜望鏡を蟹の目のように上げて、静かに姿を見せる。楽しい予言をしてくれる。これくらい心の余裕があっていい。

群衆というたいらな背中春の雨 佐孝石画
 春の雨の中を黙々と歩く群衆が見える。傘をさして黙々と会社へ急ぐ群衆の背中は平らだという。少し小高いところから見ている。ビルの窓から見ていてもいい。
 群衆の目は少しうつむき加減で、歩くスピードは少し早い。信号で止まってはまた一斉に歩きだす。無秩序のように見えて秩序がある。鋭い作者の眼を感じる。

適当な相槌ばかりねカッコウ 中村道子
 こういう楽しい作品がもっとあっていい。構えた作品の中で私の琴線にとまった。と言っては大袈裟だが。
 郭公が鳴くと豆を蒔いていい。私の地方の一つの農作業の目安である。初夏の空気を明るくしてくれる郭公である。適当な相槌のように聞こえるがそうでもない。大切な声である。相棒も大切な相槌を打っている。
(鑑賞・十河宣洋)

G7ヒマだしタダだし土産つき 植田郁一
大統領 禎子の声が聞こえますか 岡崎万寿
 G7広島サミットを詠んだ句が並んだ。岸田内閣のお家芸「やってるふり」の際たるNATO連合の茶番を見事に活写した植田さん。そして、岡崎さんは静かに問う、「大統領、佐々木禎子さんはあなたの国が落とした原子爆弾で亡くなりました」。みんな頭を垂れて祈っているふりを冷徹に見ている。

平和とは見渡す限り麦の秋 篠田悦子
 1977年夏、飛行機でキエフに入った。その時の上空から見た大地いっぱいの麦畑が忘れられない。ウクライナの麦はワルシャワ条約機構の要だった。飢えない平和の要諦だった。しかし、自然は残酷だ。ここに高温と乾燥が襲い、ワルシャワの結束は緩んでいった。そして、今度は人間が爆弾を落として荒らしている。

あいねくらいね那覇とムジーク霞む すずき穂波
 我が高校時代は英語で精いっぱい。とてもドイツ語までの余裕なく、掲句のごとく遊んだ……「愛ねぇ暗いねナハっと無慈っ非」などと……言葉遊びに理屈を言う気はないが、那覇と来て、霞むで鑑賞を書く気になったことは間違いない。言葉遊びは楽しい。
(鑑賞・滝澤泰斗)

腕が出て駐車券とる青葉若葉 菅原春み
 駐車場に入る時駐車券が出てくる。何台か後ろで待っていると前の車から人の腕が出て駐車券を取って進む。また、次の車から腕が出る。いつもの駐車場の景のようであるが、でも面白い。このような切り取り方を作句のお手本にしたい。買物かな、コンサートかな、と、うきうきするのは青葉若葉の効果と思う。

植田行く車窓忽ち季語の国 田中裕子
 作者は宮城県の方。電車だろうか、車窓からはいちめんの植田。田んぼには棒立ちの白鷺がいて植田に対峙して大空がある。次々と移り変わる車窓の風景。雲、風、そして太陽。お友達との吟行ならことさら愉しいことだろう。植田を中心に据え、車窓が季語の国だと断定した表現に共感を覚えた。

花かたくり筆談のまず「ありがとう」 宮崎斗士
 人は意思を伝えるための手段として筆談を使うことがある。身の不自由に寄り添ってくれる筆談。「ありがとう」の取り持つ両者の良好な関係が窺われる。花かたくりは、可憐な中に強さを持っている。踏まれても雨に打たれても次の年また仲間を増やして観る人を癒やしてくれる花。一句に、季語がとてもいい働きをしている。
(鑑賞・三浦静佳)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

弟かも知れぬほうたる私す あずお玲子
バベルの塔一瞥もせぬ蟻の列 有馬育代
生き死に言わず夏の星座を引っ裂くよ 飯塚真弓
脊梁山脈さみしいと言へ月見草 石鎚優
純情な触角引き合ふ草いきれ 伊藤治美
スマホを探す自分に舌打ちそんな夏 遠藤路子
卯の花腐し形有るものに惑ふ 大渕久幸
空蝉や我が身の内にゐる他人 小野地香
万緑の森立ち枯れの木の誇り かさいともこ
ビートルズ終戦記念日に落とす針 齊藤邦彦
年寄りに旗日は不用深昼寝 佐々木妙子
坪庭に京の美の壺夏座敷 島﨑道子
蝉の殻血を吐くように言葉吐く 清水滋生
さびしらやからだの奥に秋夕焼 宙のふう
原爆ドーム茜射す時なほ燃える 立川真理
辺野古へと浅黄斑は行くだろう 藤玲人
青柿落つ他界とはどこだろう 中尾よしこ
死ななくても良い七月の風を得て 福岡日向子
まず音符こぼれ睡蓮ひらくかな 増田天志
夏来る大阿蘇に雲一万トン 松岡早苗
なんじゃもんじゃの花墓だって発掘 松﨑あきら
校長と出くはす熱帯夜のスーパー 丸山由理子
凍星はきっと透明な舌触り 村上舞香
何もかも空っぽにして浮いて来い 横田和子
ニッポンがしづかに消える夏ある日 吉田貢(吉は土に口)
朴の花心に薄い傷ありて 吉田もろび
ローム層にメトロポリス天に旱星 よねやま麦
水入れて直ぐに鳥来る夏来る 路志田美子
さがしものをいつも探して母薄暑 わだようこ
頂上に心の臓炎ゆピラミッド 渡邉照香

『海原』No.52(2023/10/1発行)


◆No.52 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

夫婦という漸近線ぜんきんせんや半夏生 石橋いろり
葱坊主不登校児の片ピアス 榎本愛子
草城子の忌よ伏目の犀とは言い得て妙 大西健司
ヒルガオのつまづきながら鳴るピアノ 奥山和子
来し方のガラクタ大事余花の雨 加藤昭子
桐の花ちぎれて光る人語も花 川田由美子
桜桃忌ぞっとしたくて水鏡 河西志帆
あいの風机下と記さる男文字 北村美都子
母の日や父ふわふわとタバコ吸い 楠井収
羅やをみな累代刃物持ち 小西瞬夏
春の土掬う青年になりし子よ 佐孝石画
原爆忌クリアファイルに人の貌 清水茉紀
菩薩像の指先に傷ヒヤシンス 白石司子
AIの軽やかに曳く蜘蛛の糸 高木一惠
僕の瞬き数えるように花の雨 高木水志
人間を休みたい午後ダリア剪る 竹田昭江
草いきれ我らの匂いでもあった 竹本仰
掘る土に乳歯の遺骨沖縄忌 田中信克
独り言増え十薬の花点点 寺町志津子
月食の夜はんざきの癒えぬ傷 鳥山由貴子
ダケカンバ骨にも痣の見える夏 中内亮玄
昭和とは浴衣の似合う人ばかり 長谷川阿以
瑠璃蝶の身体熱し君よ死ぬな 藤野武
茄子好きの嫁御ふっくらよく笑う 船越みよ
母はまた蛍袋より顔を出し 増田暁子
春や妣の簞笥の小抽斗ひけば鳴る 三木冬子
火取虫あの世の片端にこの世 望月士郎
あじさいと太白明滅して遠忌 茂里美絵
あるかいつくにあめんぼう水笑窪 柳生正名
言葉にも生傷のあり茄子の花 山本まさゆき

水野真由美●抄出

干草の温み蛇行する人生 阿木よう子
春楡の影も大きな孤独かな 石川青狼
白鳥座友見送りし無人駅 伊藤巌
戦争の図鑑一本の蛍の木 伊藤清雄
農鳥があらわに父よ生きめやも 榎本愛子
むさしのに赤いポストと妻の木と 岡崎万寿
「ゲン」今や梅雨の中ゆく山頭火 川崎益太郎
ついと押す闇は舟なり沙羅の花 川田由美子
百年を走る夏野や少年兵 三枝みずほ
把手のない空がありますつばくらめ 佐孝石画
梅雨晴れやメトロノームのよう一人 佐藤詠子
天の川山国住いに酒のみ多し 白井重之
静かさに包丁を研ぐ花曇り 鈴木栄司
透明な光の檻の行々子 鈴木修一
チューリップ百本鉛筆がころがる 鈴木千鶴子
葉桜や米研ぐ水の白さかな 髙井元一
蒲公英の影を拾ってこぼれそう 高木水志
次々と羽化す無月の三姉妹 舘林史蝶
薄雪草しづか火星への旅も 田中亜美
施設に母入れて茶の間は夕焼けて 峠谷清広
モノクロの母の遺影に夏の月 董振華
軍靴脱ぐときポプラの絮の行方 遠山郁好
原発棄民米研ぎ米研ぎこの白濁福 中村晋
擦過してばかりハコネウツギの雨の旅本 野田信章
八十八夜いもうとの髪の匂いして 長谷川順子
予習より復習が好き青葉木菟 松本勇二
郷愁とはピアノに映る青葉 マブソン青眼
介護と別居と離婚と日傘くるくると 宮崎斗士
火取虫あの世の片端にこの世 望月士郎
言葉にも生傷のあり茄子の花 山本まさゆき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

夫婦という漸近線ぜんきんせんや半夏生 石橋いろり
母の日や父ふわふわとタバコ吸い 楠井収

 加齢にともなう夫婦のあり様を、それぞれに描いた句。
 石橋句。「夫婦という漸近線」とは、これまでどこか突っ張り合って過ごしてきた夫婦も、どうやら年を経て、あきらめとも慣れともつかぬ空気感の中で、いつの間にか互いに気持ちが寄り添ってきている感じ。まあそんなもんだよな夫婦ってと言われてしまうと、ちょっと癪だが、半夏生の時を迎えてそろそろ潮時かとも思う。「漸近線」がやや硬い印象だが、そんな意地もそこそこに生きている。
 楠井句。父母の夫婦関係という設定だが、案外身に引き付けた感じになるのは、「タバコ吸い」の効果かもしれない。「母の日」ということで、子供たちがこぞって母たる妻に群がっている。父たる我の居場所もあらばこそとばかり、なんとなく喫煙所へ逃避し、しばらく前に禁煙したにもかかわらず、つい「ふわふわとタバコ吸」う羽目になった。やんぬるかなとの思いも、奴らが悪いからと責任転嫁しつつ。

独り言増え十薬の花点点 寺町志津子
母はまた蛍袋より顔を出し 増田暁子
春や妣の簞笥の小抽斗ひけば鳴る 三木冬子

 この三句は、高齢の母たる立場と亡き母の生前の思い出を詠んでいる。
 寺町句。加齢とともになんとなく独り言が増え、にわかにそれに気づくと、少し慌て気味に庭隅の十薬の花に目を走らせ、点点と続く花の並びに沿って、その独り言が続けざまに湧き出てくるような気がしている。いや、そうじゃなくてと否定しようにも、老いの繰り言は止めようもない。十薬がそのシラケ感を滲ませる。
 増田句。この句の母は亡き母のような気がする。蛍袋から顔を出す母は、作者の想念の中の母ではないか。蛍袋には、さまざまな思い出が次々と宿っているようで、走馬燈のように母の面影が浮かび上がる。蛍袋は、花が釣鐘状に俯き加減に開くので、どこか在りし日の老いた母の屈背の姿のようにも思えてあわれを誘う。
 三木句。亡母の遺品となった箪笥の小抽斗を引いたとき、あたかも亡母が返事をしたかのような、かすれた音を立てた。作者はその物音を亡母からの反応のように受け取って、思わずぎくりとしながらも、妙な懐かしさすら感じていたのではないか。

草城子の忌よ伏目の犀とは言い得て妙 大西健司
 かつて中京地区俳壇の重鎮でもあった森下草城子を偲ぶ一句。「伏目の犀」とは、草城子の人柄を比喩したもの。一見温厚誠実な紳士風ながら、一たび言い出した主張は決して妥協せず、頑固なまでに貫き通す人だった。それが彼の指導力の基にあったと思う。長く身近に居て補佐した作者ならではの句だが、「言い得て妙」とは、大西ならずとも共感できよう。「伏目の犀」の発案者は案外大西自身のような気さえするほど。

桐の花ちぎれて光る人語も花 川田由美子
 桐の花は初夏の頃、巫女の振る鈴のような紫色の筒形の花をつけ、落花すると花の形のまま広がって芳香を放つ。「ちぎれて光る」は、その模様を詠んだものだが、同時にその花を愛でている人々の、語り合う言葉の美しさを讃えているのではないか。つまり中句は、上句、下句に両がかりしている。花の形は唇形で斜め下に俯いて開くのも雅な艶を含む風情。「桐の花」と「人語も花」の照応がその風情を引き締めている。

あいの風机下と記さる男文字 北村美都子
 「机下」とは、手紙の宛名の脇に添える敬意を表す語。語感からして発信者は男性が予想される。「あいの風」は、日本海沿岸に四月から八月頃にかけて吹く北東のそよ風。上方へ向かう穏やかな風のせいか、船路にも漁にも喜ばれるという。嬉しい便りとみてよかろう。「男文字」とある相手方は、おそらく作者の遥かな後輩で、日頃、目をかけていた若者のような気がする。男文字から匂い立つ逞しさ、爽やかさが、「あいの風」に響き合う。

春の土掬う青年になりし子よ 佐孝石画
 「春の土を掬う」というしぐさは、春の到来を身をもって感じているパフォーマンスではないか。雪国で春を待つ人の体感はこういうものだろう。わが子が、土を掬って「ああ、春ですね」と呼びかけた時、この子もこの地育ちの一人前の青年になったものよと、嬉しさを抑え切れなかったに違いない。下句の「よ」の詠嘆の切れが、その喜びの感動を伝える。

AIの軽やかに曳く蜘蛛の糸 高木一惠
 ここでいうAIとは、従来のAIのような決められた行為の自動化ではなく、生成AIという創造することを目的に構造化されたシステムなのではないか。そうでなければ蜘蛛の糸のような自然のものの動きに即して、新しいコンテンツを生成することはできまい。「軽やかに引く蜘蛛の糸」という芥川龍之介原作の世界が、現代のAIシステムで生成されるという作品の現代性。古い題材の新しい感覚による再生というべきかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 水野真由美

春楡の影も大きな孤独かな 石川青狼
 「春楡」が「春の楡」ではなく木の名前だと知ったのは文字の無い写真だけの絵本『はるにれ』(姉崎一馬・福音館書店)を開いた時だった。雪景色の中に一本の春楡が立っていた。生育に向いた北海道には大きな木が多いという。そんな木の「影も」の「も」は何だろう。全ての場所が「大きな孤独」だと受け取れる。さらに「も」は自分と木をつないでいるのかもしれない。「春楡」もまた「大きな孤独」を生きているような感覚だ。「かな」へと向かうゆるやかな韻律が「孤独」の否定でも「孤独」への耽溺でもない生の時間を育んでゆく。

戦争の図鑑一本の蛍の木 伊藤清雄
 季語「蛍」は具体的な昆虫であると同時に文芸史におけるイメージの集積でもある。命のはかなさや恋に身を焦がす比喩とされ、また戦争体験を題材とした野坂昭如の『火垂るの墓』では幼い命を照らす。だが「一本の」「木」という質量の変容と「戦争の図鑑」は季語「蛍」に今までとは別のイメージをもたらす。兵器図鑑ではない「戦争の図鑑」には古代から現代までの戦争が詰まっているはずだ。「蛍の木」は戦争をくり返し続ける人間の度し難さを照らす。木となった一匹一匹の蛍の光に、幼子を含める無数の戦没者、一人一人の命を改めて思う。

農鳥があらわに父よ生きめやも 榎本愛子
 「農鳥」は鳥の形をした山肌の残雪で田植えの時期を知らせるという。それを名前の由来とする山もある。金子兜太は『遠い句近い句』(富士見書房)で石橋辰之助の「繭干すや農鳥岳のうとりだけにとはの雪」について「農鳥岳」の「語感」を「耕作者の姿が点々と見えてきて、鳥たちが空をゆき、耕地に散開する」「農と鳥の生活まで匂って」と評した。掲句の「農鳥」もまた「あらわに」で切り替わる視線の先の父に土の手触りをもたらす。死を意識する「生きめやも」は堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭、「風立ちぬ、いざ生きめやも」で知られる。父だけでなく自身への呼びかけでもあるような「父よ」の響きが切ない。

「ゲン」今や梅雨の中ゆく山頭火 川崎益太郎
 「ゲン」は中沢啓治が広島における自身の被爆体験を素材にした漫画『はだしのゲン』の主人公だ。今年、広島市の平和教育副教材から経緯が不透明なまま削除されたことが報道された。それゆえの「今や」であり、「梅雨の中」に仄暗さがある。山頭火のイメージは放浪だ。作者は日本の社会、歴史を放浪するゲンを案じている。原爆の惨状を描く漫画にはつらい場面がある。また画風への好悪もあるだろう。それでもゲンが遠ざかることは戦争の記憶が遠ざかることだ。石垣りんに「弔詞」という職場の戦没者名簿に呼びかける詩がある。「戦争の記憶が遠ざかるとき、/戦争がまた/私たちに近づく。」

ついと押す闇は舟なり沙羅の花 川田由美子
 「ついと」を辞書で引くと擬音でもなく、「つい、うっかり」の「つい」でもなく、動作をいきなり、あるいは素早く行う様子だとある。その緊張感が「闇は舟なり」を支える。押されて軋む音や水音が舟だとわからせたのかもしれない。あるいは闇そのものが舟に変容したとも思う。だが闇の中で「沙羅の花」が見えるのはなぜだろう。赤城山の小沼で対岸から流れ着いた沙羅の花が水際に並んで揺れていたのを思い出す。木の上ではなく水の上の花の寂しさは闇を生きてゆく小さな明りになるかもしれない。くきやかで素早い「ついと押す」がわずかでも移動を可能にする「舟」を呼び出し、その「舟」が慰藉のように仄白い「沙羅の花」の明りを生み出してゆく。

天の川山国住いに酒のみ多し 白井重之
 ふと「酒のみ」に「酒飲み」が重なる。「天の川」が見えるほど空が澄んだ山国のどこにでも酒飲みがいて時には宴会をしているようで嬉しくなる。だが、これは「のみ」なのだ。山国の暮しの中で酒だけは幾らでもあるという。これはこれで嬉しくなるが「のみ」は酒以外は乏しい暮しなのかもしれない。苦笑の気配が滲んでくる。

薄雪草しづか火星への旅も 田中亜美
 「薄雪草」は星の形の花をうっすらと白い毛が覆う高山植物。「火星への旅」はすでに、そのための「宇宙冬眠ワークショップ」や予約と訓練の広告がネット上に並んでいる。地上の小さな白い星と宇宙の大きな赤い星が「しづか」の一語で切れた後に「も」でつながる。「薄雪草/しづか/火星への/旅も」と読みたくなる韻律には「しづか」な悲しみがある。冬眠の旅をも厭わずに宇宙を目指す科学の力とその意味を問うべき思想の力の釣り合いの取れなさへの悲しみのようだ。

施設に母入れて茶の間は夕焼けて 峠谷清広
 母の居場所を決めた自分の選択が正しいと保証してくれる人はいない。自分の奥底の思いも一つとは限らないだろう。だが「茶の間の」では不充分なのだ。はっきり「茶の間は」と母の不在を受け止めようとする。「入れて」「夕焼けて」と言いかけをくり返す宙吊りのような感覚からもまた安易な着地を拒む心情が伝わってくる。

◆金子兜太 私の一句

相思樹空に地にしみてひめゆりの声は 兜太

 「平和以上に尊いものはない」との兜太先生の言葉をかみしめています。両親の故郷沖縄。『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』の中に別れの曲(相思樹の歌)がのせられています。戦争体験を風化させてはならないとも。地球が悲鳴をあげているというのに。どうして、どうして、軍備が進むのでしょうか。共に生きる喜びを分かちあいたい。句集『百年』(2019年)より。太田順子

ブツシユ君威嚇ではさくらは咲かぬ 兜太

 優れた社会性俳句は何年経っても生き続ける。兜太師がGWブッシュによるイラク戦争開始の際に掲句を詠んだのは今から二十年前。権力者はいつも傲慢と利権のためにでっちあげの事件を以て開戦を決める。一方、自然界では生き物全てが協力し合わないと春が訪れない。先日上梓した句集に本句取り〈プーチン君威嚇ではさくらは咲かぬ〉を入れた。今こそ、先生の”姿勢”が生きている。句集『日常』(平成21年)より。マブソン青眼

◆共鳴20句〈7・8月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

木下ようこ 選
満作や朝陽の遅い橋渡る 伊藤巌
淋しい葱にリボンを春の恋心 大西健司
樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
旅人の軸の傾き花は葉に 奥山和子
花の雨誰も見ていない明滅 川田由美子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
瀞に集う扉の手触りのいろいろ 佐孝石画
○蛇苺犬小屋に喪中の小札 竹田昭江
紙回しながら切る春の色 たけなか華那
つるばみの花美し遠く縄文期 鳥山由貴子
合鍵がある筈なのに蝌蚪の紐 中村道子
前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
桜には桜の言葉忘れない 平田恒子
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
○シンカーの握りで父へ新玉ねぎ 松本勇二
アイヌ語し雪解雫もラ行 マブソン青眼
ふと色にみえ鈍痛またはアネモネ 三世川浩司
来る人が来ないと笹鳴きも来ない 村上友子
うれしくてスイートピーのぐるぐる巻き 望月士郎
忘れ物して遅刻して桜 山下一夫

十河宣洋 選
再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
子を産めば樹は満身の若葉かな 石田せ江子
青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
天の川まわりで騒ぐから逢えぬ 河西志帆
巣穴出て闇を吐き出すように熊 黒岡洋子
水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
春雷や君は昨日の置き手紙 近藤亜沙美
雪解風キリンの舌に舐められる 佐々木宏
山と生きし祖父母の自然花きぶし 篠田悦子
うかうかと獏と朝寝をしてゐたる 白石司子
少しだけ卑猥が足りぬ蝸牛 白石修章
野辺は春振り向けば見知らぬわたし 竹田昭江
脱ぐたびに体のどこかから花びら 月野ぽぽな
枯葉掃く心の垢まで捨てっちまえ 仲村トヨ子
朝寝して水になる夢秩父なり 野﨑憲子
「兜太祭」脊梁山脈の桜かな 疋田恵美子
苺つぶすフォークの先にある殺気 前田恵
干し若布カリカリタイヤの硬さだな 山田哲夫
フルートのかるい息つぎ草青む 横地かをる

滝澤泰斗 選
戦好きの青き地球の霾曇よなぐもり 石橋いろり
雪しろは山の脈拍風は息 伊藤歩
シェルター無きミサイルの島鳥雲に 伊藤巌
鳥はる軍靴の音や花万朶 稲葉千尋
ヒロシマノート我がたましいの悲歌よ 大髙宏允
エイプリルフール独裁者と数の横暴 佐藤博己
さみだれが一等水兵の碑を洗っている 白井重之
空っ風スマホに溜まる駄っ句駄句 鱸久子
防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
石蹴れば亀が痛いと鳴きにけり 十河宣洋
塩・兵士・凍土・泥濘春逝けり 田中亜美
顔の傷手の傷夜学子卒業す 中村晋
インティファーダ何処に向けよう桜咲く 新野祐子
「サカモト」の音符のひとつ春の星 根本菜穂子
ロシアより生れよ弥生のシュプレヒコール 野﨑憲子
四万十川しまんとの青より生れ木の芽風 松岡良子
○シンカーの握りで父へ新玉ねぎ 松本勇二
兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
この春も推移眺めるだけなのか 村上友子
慰霊祭戦争を知らぬ人らに杖の母 夜基津吐虫

三浦静佳 選
皆富士に向かいて足湯花の下 石田せ江子
山吹や空のひっかき傷こぼす 市原正直
円満の秘訣は無言桜散る 宇川啓子
年老いし象のごとくに山眠る 榎本愛子
赤ちゃんの「あ〜」は母国語花杏 江良修
風船を放し空く手の自由かな 大西恵美子
この新茶「団十郎」も飲んでるとう 片町節子
横糸にフィクション織りこむ春ショール 芹沢愛子
霾や母の遺産はずぼらな俺 瀧春樹
○蛇苺犬小屋に喪中の小札 竹田昭江
永日や父が愛したステレオ直し 中村晋
ほら春のきのこのような石灯籠 平田薫
花ミモザ私は私の機嫌とる 藤田敦子
春あらし鶏を弔う防護服 船越みよ
花だより日本中が胡椒ひく 松本千花
無傷でいたい人が大勢花筏 村上友子
ピアノ閉ぢ君影草が咲きおしまひ 柳生正名
花ミモザ昭和男はナポリタン 矢野二十四
葉桜に切り替わる時沸騰す 頼奈保子
さくらの下スマホ落としてゐませんか 若林卓宣

◆三句鑑賞

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 ここに私のからだはあるが、今、精神の生気は弱く無への近さを感じている。そして共に居るはずの人もいない、ことも思わせる。光まみれの「まみれ」が作者の途方に暮れた感を感じさせつつ、しかしそうした生死をも超えた三月の光の、圧倒的な美しさ優しさ。作者がみつめる虚無の深い寂しさと、大きな癒しに感動しました。

蛇苺犬小屋に喪中の小札 竹田昭江
 うちの柴犬、蛇苺の匂いが苦手で、と話に聞いたことがあるが、いや、案外作者の大切な子は蛇苺が遊び友達、ちょっかい出していたりして? 喪った深い哀しみを喪中の小札と洒落て表現。共に暮らした長く楽しい年月への感謝をも表した。作者の若々しい知性を感じる。蛇苺の斡旋が句をいきいきさせ、思いを具体的に伝える。

シンカーの握りで父へ新玉ねぎ 松本勇二
 ネットでダルビッシュのシンカーの握り、を見ただけなのに、上半身が攣りそうでした。父親へのあらゆる複雑な思いが、沈む変化球シンカーの「握り」で表現され、そこに新玉ねぎの新鮮な香り、色、形。最高です。父はどんな気持ちで球?を受けたのか。っていうか、シンカーを投げる先に父はいるのか? 興趣は尽きません。兄の句も佳きかな。
(鑑賞・木下ようこ)

天の川まわりで騒ぐから逢えぬ 河西志帆
 七夕の喧騒が聞こえてくる。年に一度の逢瀬などと言うがそれが煩くて織姫も彦星もデイトもままならぬという。句意は明瞭だが、我々の身近な生活に当てはめて考えよと作者は言う。
 他人のことにお節介を焼くな、自分のことは自分でやる。自意識の目覚めた二人である。

朝寝して水になる夢秩父なり 野﨑憲子
 水は容器の形に納まる。兜太祭に参加した作者の「水になる夢」は兜太の生まれ育った秩父を愛してやまない作者の心情である。
 前日の行事の疲れだけでなく、懐かしくゆっくりと熟睡した清々しさが心を満たしている。水のように静かな目覚めであった。

「兜太祭」脊梁山脈の桜かな 疋田恵美子
 秩父の壁のような山脈。「鳥も渡るかあの山越えて」秩父音頭に歌われる山脈である。
 兜太祭に参加した作者が兜太師との思いを込めて周りの山脈を眺めている。遠くに桜が見えた。桜にはまだ早い時期であるが、作者には遠くの山肌に桜を見たのである。誰がなんと言おうと桜なのである。
(鑑賞・十河宣洋)

ヒロシマノート我がたましいの悲歌よ 大髙宏允
 「ヒロシマノート」は高校時代に手に取った書のひとつで、我が反核運動の原点になった書でもある。筆者の言う通りそれは、当時の政党間の対立ではなく、目の前にある事実をルポした文字通り私の志向を促した。それはまた表現しきれない悲しみに満ちていた。

ロシアより生れよ弥生のシュプレヒコール 野﨑憲子
 プーチンとその一派によるウクライナ侵攻から一年が経過した春、筆者の思いと同様に、かつて、レーニンが指導したロシア革命のように、ロシア内における反戦、反侵略、反核のエネルギーの存在を信じている。線香花火のような小さな火が、スターマインのようになることを。

この春も推移眺めるだけなのか 村上友子
 プーチンのウクライナ侵攻から一年経った感慨の中に推移を眺めるだけの自分がいるが、掲句が暗示しているものには、統一協会のこと、モリ、カケ、サクラのこと、弾道弾が日本海に飛び、それを迎撃する大量の軍事費の拡大などがあり、漠とした「この春も」推移を眺めている。
(鑑賞・滝澤泰斗)

花ミモザ私は私の機嫌とる 藤田敦子
 心配事があったり、不本意なことに出くわした時、つい表情に出てしまう。何かの集まりに出なくてはならなくても、愉しい会合ならなおのことスマイルがいい。「私は私の機嫌とる」のフレーズが上手いと思った。満開のミモザの香りが作者の気持ちの葛藤を癒やしてくれるのだろう。

ピアノ閉ぢ君影草が咲きおしまひ 柳生正名
 一読、炎暑の街からクーラーの効いた喫茶店に入ったような気分になった。俳句は意味を考えるのではなく、感覚で捉えよと教えられた。掲句から涼やかな柔らかさが伝わる。目を瞑れば恋人同士か、父と子が浮かぶ。すずらんと言わず君影草とした季語が素敵で、句全体が夜の雰囲気を醸し出している。

花ミモザ昭和男はナポリタン 矢野二十四
 昭和女の筆者も、ファミレスではナポリタン派である。ナポリタンはスパゲッティにトマトソースを用いた料理で、フォークにぐるぐる巻き付けて食べる。平成、令和と年月を経てもナポリタンが好きな作者。ミモザの花の明るさのような作者の満足感が伝わってくる。掲句のナポリタン、昭和にぴったり合っている。
(鑑賞・三浦静佳)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

もたついてぶつぶつ言って羽抜鳥 有栖川蘭子
薫風に崩るるドミノ墓じまひ 有馬育代
ここに来て和め鬼神よ春の暁 飯塚真弓
脊梁山脈石畳の蟻多忙 石鎚優
六月や守る術なく家壊す 井手ひとみ
ひとり暮らしは初ごきぶりを赦さない 遠藤路子
山国や母が種蒔き鳥ついばむ 扇谷千恵子
朝帰りっぽいシャンプーの香り土用 大渕久幸
夕蝉や弑逆はみな謎のまま 小野地香
何という空何という雲夏盛る かさいともこ
老鶯やコミュニティカフェ少し悲し 梶原敏子
わるいやつら桜蕊降る夜のカフェ 北川コト
三度目のアバンゲールか五月雨 木村寛伸
自由なり枇杷の種窓から飛ばす 香月清子
山桜桃古民家喫茶ちまちまと 古賀侑子
長生きは時々へくそかずらかな 小林育子
補聴器涼し昭和の味の喫茶店 佐々木妙子
アイス珈琲も托鉢僧も夏への入口 佐々木雅章
億年の昼寝の如く死に化粧 佐竹佐介
廃線の枕木を刺し流れ星 宙のふう
人群れて中の一人となる祭 立川真里
良い目をしている晩夏に語り出す君は 福岡日向子
一輪のどくだみ表紙に『黒い雨』 藤井久代
指先の緑雨わたしの透きとおる 松岡早苗
最後の審判をその子が決める油照り 松﨑あきら
やつと立つてゐるだけ陽炎の中 丸山由理子
螢臭きもて漕ぎゆくゆくへかな 吉田貢(吉は土に口)
躓いて土柔らかき五月闇 吉田もろび
油照り水欲る人へ向く銃口 路志田美子
新緑の右手を胸にピアニスト わだようこ

自由作品18句「カカオの女(祝詞橋)」大西健司

『海原』No.51(2023/9/1発行)誌面より

自由作品18句

カカオの女(祝詞橋) 大西健司

〈カカオ句会の奥伊勢吟行会は先達奥山甲子男氏の蛇淵庵をお借りしての句会からスタートした〉

甲子男忌や人影の濃き祝詞橋
対岸のカラーの花も祝詞川
沙羅双樹は蛇淵のほとり祝詞川
蛇淵庵の句座へとうすみ蜻蛉かな
祝詞橋渡る長男は茶を摘みに
麦茶冷やしにいつもの池へ嫁女かな
クレソンの池へ浸せる大薬缶
蛇淵庵の窓から捨てた枇杷の種
巳の年の家系燕は来ぬという
あまご池増水崖を這う女
はずみて候蛍吊橋金平糖
山法師のコテージ女は手酌にて
少し堅めの干柿そしてハイボール            
山法師に濡れ讃岐のひとはしんにつく
鮎の頭も喰うたと讃岐の良き男
大ぶりな鮎を天啓のごと喰らう
やさしげな梅雨茸瀬音激しかり
甲子男似の男鮎釣竿を振る

『海原』No.51(2023/9/1発行)

◆No.51 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ブランコ天辺街のさみしき岬 伊藤道郎
竹皮を脱ぐや刺客の潜みいる 大池美木
くずおれる戦後の形はや暮春 大髙宏允
春日遅々ゴリラのように坐つている 大西宣子
芍薬や男ひとりになりたる日 河田清峰
花冷えやパソコンの音癌病棟 河田光江
健康のために歩いてゆく海市 こしのゆみこ
早苗取り年子の上はヤギの乳 小松よしはる
古希の友みな無冠なり啄木忌 齊藤しじみ
憲法記念日いつものご飯と味噌汁 佐藤博己
遠雷の近づいてくる駅ピアノ 重松敬子
私を改行している日永かな 白石司子
九十路ここのそじの栞よ出羽の橅芽吹く 鱸久子
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子
果て知れぬ野戦に咲いてモルフォ蝶 高木一惠
花菖蒲聞きわけのない吾といる 竹田昭江
ともだちは五月の風でまるい石 たけなか華那
青葉騒石の光と陽の光 田中亜美
あの世にはあの世の噂桜騒 田中信克
銃弾に向日葵欠けて白き闇 中内亮玄
あやとりの人差し指にある徂春 ナカムラ薫
AIに恋文書かせかげろえる 長谷川順子
風が木になる木が風になる大手毬 平田薫
草矢打つ百年先の真昼間へ 水野真由美
ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
蝶の昼モザイクかかる動画かな 三好つや子
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎
たんぽぽや余命おかしく樹木希林 森鈴
二人居てひとりの時間えごの花 茂里美絵
山に日が当たる芽吹きの樹の木霊 横地かをる

白石司子●抄出

深淵の青い鳥探す半夏かな広島サミット 石橋いろり
銀河に深く影を沈めて夜の新樹 伊藤巌
さなぎより出でてはつなつの風になる 伊藤幸
死ぬ数に入れず牡丹ゆたかなり 稲葉千尋
少年が少年いたわる花の昼 榎本祐子
鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝
白靴の写らぬ記念写真かな 小野裕三
夏蝶が来たので少し休みます 川嶋安起夫
本棚を逍遥すれば緑夜かな 河原珠美
あと何回会えるのだろうカーネーション 日下若名
果てしなく夕日が遊ぶキャベツ畑 こしのゆみこ
春雷や護憲派老いてまたも逝く 篠田悦子
春風邪にとどまっている前頭葉 清水茉紀
清明の朝の光の中に居る 関田誓炎
さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
人間を忘れた者ら野火を追う 立川由紀
雲雀の巣窮屈な靴脱ぎ捨てる 鳥山由貴子
ひばり灯って天地の回路つながったね 中村晋
残心の木遣唄沸く雪解川 並木邑人
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子
たけのこと棟梁ノコノコやってきた 長谷川順子
茅花流し軸なき僕らのおしゃべり 日高玲
みかんの花ほろほろ宮沢賢治の修羅 平田薫
白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
底なしの放心へひなあられポイポイ 堀真知子
くちなわも翁も螺旋五月来る 三好つや子
鳥巣立つ雲梯の揺れ明るく 村上友子
歯を磨くやう人戦さ鳥は恋 柳生正名
玉葱がぶらさがる軒戦はず 若林卓宣
籐椅子に父の骨格ありありと 渡辺厳太郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

くずおれる戦後の形はや暮春 大髙宏允
憲法記念日いつものご飯と味噌汁 佐藤博己
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子

 現在の日本への社会時評ともいうべき作品群。
 まず大髙句。戦後も七十五年を経て、かつて戦後復興とその後の高度成長、さらには低成長への屈折という時代の変化に伴い、今後どのような成長の姿があり得るのか、また物ばかりでなく精神の満足が得られるのかという様々な課題が生まれている。作者はこのような時代相を踏まえて、「くずおれる戦後の形」というフレーズを提出した。「はや暮春」は、その時代相の黄昏を憂えているように見える。こういう問題意識は、多くの人々に共有できるものだろうが、その答えは容易には見いだせていない。作者とてその一人であろう。今はその暮春の中に立ちすくむのみだが、「どうするのだ」という心の叫びだけは聞こえてくる。
 佐藤句。日本の憲法は、戦後GHQから有無を言わさず押し付けられたものだが、史上稀にみる理想的な平和憲法ともいわれた。すでに一世紀近い歴史の中で、その実践的意義について様々な議論が出てきているのも事実。しかし一般庶民にとっては、平和な日々に、いつものご飯と味噌汁さえあればそれで足りるのですという。どのような時代の中にあっても、ささやかな庶民の願いは変わらない。憲法記念日にも、ひたすら願うのはそのことのみですという。
 芹沢句。小池龍之介という僧侶が書いた『考えない練習』という本がベストセラーになった。いらいらや不安は練習で治せる、もっと五感を大切にする生活をしようというもの。この句は、その本の題名を逆説的にもじって、何事も先送りして考えない練習を積んでいる今の日本への、警世的な一句である。「春泥」は、そんな泥沼のような世相への批判となっている。

私を改行している日永かな 白石司子
AIに恋文書かせかげろえる 長谷川順子

 デジタル時代ならではの表現方法を使った作品。
 アナログ時代の文章なら、「私を改行」は、とても通じなかったに違いない。春の日永の一日。ふと、気分を変えて別の事に取り組もうとする。それを一日の時の流れの中での「改行」と捉えた。改行して新たなワードフレーズが始まるように、時の流れが変わる。パソコン上で、一日の日記を下書きするかのよう。
 「AIに恋文書かせる」は、確かに沢山の恋文を検索させて気の利いた一文を選べば、手軽に量産できよう。だがそれで、心情が本当に伝わるのだろうか。貰った相手も逆検索できるわけだ(陰に声あり「そうかあの手で来たか」)。下五の「かげろえる」は、その恋の行方を暗示しているようだ。

ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎

 海原の新感覚派の句。「ゆうがお」が、「電話いきなり切られた顔」とは、いわれてみてあっと驚く。夕暮れに花開き、翌朝にはしぼんでしまう夕顔。電話を一方的にいきなり切られてしまったショックは、しばらくは収まるまい。それは朝のゆうがおの表情。切られたのは電話だが、その表情には傷跡が残っている。
 みみたぶの句。大きな出目金が、みみたぶのような尾鰭をひらめかせて泳いでいる。ちょうど雨の午後、家の中は皆出払っていて、金魚がひとり留守番然と控えている。よくある景ながら、その空間に澱む倦怠感アンニュイがなんともやり切れない。金魚としては知ったことではなく、雨の午後の中に、ひっそりと浮かんでいるばかり。

青葉騒石の光と陽の光 田中亜美
ともだちは五月の風でまるい石 たけなか華那

 石を素材にして夏の季節感を詠む、異色の知的感性。
 田中句には、光の射影構造がある。今現に与えられている光の、青葉の一群を照らし出す仕組み。それは「石の光」と「陽の光」として捉えられた。「陽の光」は自然の陽光。「石の光」はその自然光を受けた反射光。それによって、「青葉騒」は青葉の渦となった。
 たけなか句。この「ともだち」は、おそらく幼馴染の同性の友だろう。「ともだち」の平仮名表記がそのことを暗示する。久しぶりに出会った印象だ。「五月の風」の爽やかさと、「まるい石」の懐かしさ。石蹴りをしたり、川の水切りをした「まるい石」が、二人の絆のように思い返される。「ともだちは」は、「おっ、ともだち」の感じ。

あやとりの人差し指にある徂春 ナカムラ薫
 ハワイ在住の作者だが、時々珍しい季語でチャレンジしてくる。「徂春」は、「行く春」のこと。歳時記によると、行く春は、過ぎ去る春をめぐり流れる時間として捉えるもので「春の暮」の過ぎ去る時を空間的に捉える季語や、「春惜しむ」の人の心を捉える季語とは風合いが異なるという。「あやとりの人差し指にある」という風情は、異国から指し示す郷愁を孕んでいるともいえよう。その郷愁は、「あやとり」によって幼き日へ帰っていく。

風が木になる木が風になる大手毬 平田薫
 花つきのいい大手毬が風にゆれている様は、盛り上がるような美しさに揺れる。その揺れざまを、「風が木になる木が風になる」と繰り返す。その繰り返しは擬人化をともなうようで、どこかなまめかしい。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

銀河に深く影を沈めて夜の新樹 伊藤巌
 音感を伝える音節からすれば七・七・五、意味を伝える文節からすれば十四・五の破調であるが、兜太師の言われる「音節と文節がどこかに軋みを残しつつも、それがかえって魅力となっている」句。例えば、「夜の新樹銀河に深く影沈め」と倒置法を活用すれば定型に落ち着くが、上五に遡行するため「銀河に深く影を沈め」は「夜の新樹」の説明っぽくなってしまう。「沈めて」と「て」で軽く切ることで間が生まれ、深く影を沈めているのは夜の新樹のみでなく他にも、と想像が広がってくる。

さなぎより出でてはつなつの風になる 伊藤幸
 幼虫から成虫に移る途中の休眠状態の「さなぎ」が地上に出て風になるという、実から虚へと想像力を羽ばたかせた句であるが、静から動、暗から明への解放感がまさに清々しい「はつなつの風」なのである。また、意図的な「となる」ではなく、自然推移的な変化の結果を示す「になる」としたことで、目に見えぬ風と一体化した姿もうかがえる。それは作者の願望なのかもしれない。

鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝一
 呼びかけのような「鴎かもめ」のリフレインが、海原を自由に飛翔する姿を印象づける役割を果たし、中七・下五へと続くことで、鴎に触発された作者が、人間も物もまわりにあるもの全てをやさしい春の言葉として受け止めていることが伝わってくる。「みんな」「です」の口語調も一句を明るいものとさせている。

夏蝶が来たので少し休みます 川嶋安起夫
 原因・理由を示す接続助詞「ので」であるが、説明的にさせていないのは季語「夏蝶」の斡旋にある。気力や体力を養うための休みはもちろん必要だけれども、そうはいかない場合もある。でも、大型で美しくインパクトのある夏蝶がやって来たので、少しくらいなら許されるかなと思わせるような句だ。

あと何回会えるのだろうカーネーション 日下若名
 導入部「あと何回」が、作者との関わり合いを想像させ、最後にカーネーションにたどりつくので、その会いたい人は母と考えていいだろうか。上六であるが、「何度」ではなく、「何回」としたことで、今後も規則的に継続、反復することが予測されるのである。会える時間を大切にして欲しいと思う。

果てしなく夕日が遊ぶキャベツ畑 こしのゆみこ
 上五「果てしなく」が、時間的、空間的な広がりをまずイメージさせる。そんな広大なキャベツ畑の中を夕日がゆったりと遊んでいるような景が見えてくるのであるが、日常から離れ、解放感に浸っているのは作者自身なのかもしれない。

さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
 「回想」を「乗り物」と言い換えたのがこの句のすばらしさである。明るくなごやかなはずの囀りの声に触発されて作者は過去を回想し、時空を超えて行き来する乗り物のようだと感じたのである。「ゆれ」は作者の心象と考えたい。

人間を忘れた者ら野火を追う 立川由紀
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子

 害虫を駆除するための「野火」を「戦火」となぞらえ「人間を忘れた者ら」が追うとし、眼前を舞う花吹雪に対し「なべて戦場埋め尽くせ」と命令調で叫ぶ、それは兜太師の言われる「自分を社会的関連のなかで考え、解決しよう」とする「態度」であって、「社会性は俳句性と少しもぶつからない」のである。

雲雀の巣窮屈な靴脱ぎ捨てる 鳥山由貴子
 地表に巣をつくり、飛び立つときは鳴きながら真っ直ぐに空に舞い上がる雲雀、いや、作者、あるいは誰かの巣立ちと考えていいだろうか。地上を歩くには必要であるが、ときには窮屈でもある靴。そんなもの全てを脱ぎ捨てて自由な大空へ!

ひばり灯って天地の回路つながったね 中村晋
 「ひばり灯って」という明るい切り口であるが、一句全体からは大切な人との別れなど重いものを想像させる。「天地の回路つながっ」て充足感が得られただろうか。

茅花流し軸なき僕らのおしゃべり 日高玲
 高校生と接する機会も多く「軸なき僕らのおしゃべり」に共感。個で行動することもできず楽しそうに群れているが、何かトラブルがあると「軸なき」なのだ。それが茅花の花穂を吹き渡る熱を孕む南風「茅花流し」と合う。

白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
 兜太師の「人体冷えて東北白い花盛り」を思わせるが、物理的ともいえる師の句に対し、どちらかといえば心理的。「白花黄花」が一句を印象明瞭なものとさせ、「豊かな胸である」の断定が津軽の包容力を感じさせる。

◆金子兜太 私の一句

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太

 この句から希望と元気をもらっている。曼珠沙華の真っ赤な色と秩父の大地を駆け回る腹出し子らの逞しい生命力。激動の昭和、子供達の未来に師の温かい眼差しが注がれている。あるがままの運命を背負い「戦よあるな」と師の怒髪が天を衝く。禅僧のようにゆったりと茶を全身に沁みわたらせ、眼鏡の奥の細い目から童心をちらり、ユーモアたっぷりの兜太節、そこにはよく生きた証の顔がある。句集『少年』(昭和30年)より。樽谷宗寬

わが世のあと百の月照る憂世かな 兜太

 「花唱風弦かしょうふうげん 俳句をうたう」この兜太句を作曲して、歌った衝撃は忘れられない。それまでも自作の句をメゾソプラノの私が歌い、作曲家でギタリストと演奏をかさねていた。が、兜太俳句の凄まじい、その言葉の腕力﹅﹅﹅﹅﹅は、歌い手の心身に膨大なエネルギーを迫る、と体感。「百の月はだな、三日月や満月、月の形のいろいろだ」と兜太先生。上野奏楽堂で聴いていただけたのもうれしい。『金子兜太全句集』収録の未刊句集『狡童』より(サブタイトルは「詩経国風によせて」)。山本掌

◆共鳴20句〈6月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

木下ようこ 選
熱下がるまではこべらを摘みにけり 石川和子
雨音や撫でてから切る韮の束 伊藤歩
大枯野ヒトは部品を取り替える 大沢輝一
煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
○還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
中途からずるい音する冬林檎 小野裕三
桜蘂降るしっかり残る和紙の皺 北上正枝
春菊に花愛妻が夢に立つ 瀧春樹
あっほらいまたんぽぽの絮彼女だろ 竹本仰
五、六人雀隠れのお弔い 遠山郁好
○夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
ヒールを這い上る絨緞の記憶 日高玲
柚子の黄いろが内がわにいっぱい 平田薫
兜太忌やみかんの種から芽が出てきた 藤野武
○白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
恋はいいから春をください普通の春 松本千花
流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
文机はわたしの港ヒヤシンス 宮崎斗士
胸びれに尾ひれのふれて春の宵 望月士郎
まだ知らない筋肉もありお雛さま 茂里美絵

十河宣洋 選
山国の父の座標の切株です 有村王志
黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
○ステージ4妻の言葉はシクラメン 稲葉千尋
春愁い消される「ゲン」の記憶かな 川崎益太郎
雪の樅集中力として幹は 北村美都子
看りて帰り雪のひとひらは私 黒岡洋子
雪解けやアイヌ史語る女子高生 黒済泰子
黒板は緑イタチがいなくなったから 佐々木宏
春はやて武士の顔した犬がゆく 佐藤詠子
空飛ぶ車「おーいおーい」とつくしん坊 鈴木千鶴子
子猫抱きわたしふわっと浮く感じ 高橋明江
○夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
菜の花やむくむく御洒落始める気 中野佑海
水になれただ早春の水になれ 野﨑憲子
たらの芽を落とすブーメランのような枝 疋田恵美子
条件反射的反論寒いなぁ 松本千花 
わたくしの瞳に棲んでる犬ふぐり 三浦二三子
早蕨がグーを出すからパーを出す 望月士郎
大根干す北斗七星の右隣 森岡佳子
日捲り晦日あっあっあっあああ 森田高司

滝澤泰斗 選
ブチャは雪焦げた戦車と痩せた犬 綾田節子
二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
その昔戦犯と言われし父のさくら咲く 泉尚子
梅咲けばそこに師が居る兜太の忌 伊藤巌
中村哲てつさんは野の白梅の白だった 伊藤道郎
○ステージ4妻の言葉はシクラメン 稲葉千尋
菜の花忌きな臭くなる日本海 上野昭子
水を引く朝の光を鴨は引く 内野修
春耕や地球に爪立て揺り起こす 漆原義典
○還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
今すでに「戦前」なりしか多喜二の忌 岡崎万寿
皮手袋情死のように重ねられ 桂凜火
梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
異次元の少子対策山笑う 佐藤二千六
白ナイル青ナイル春光老身を射ぬく すずき穂波
大腿骨ごつんごつんと雪を割る 十河宣洋
ちちははを天に並べて梅真白 月野ぽぽな
山笑う埋めては掘って埋める除染 中村晋
二番手を誇る北岳雪の晴 梨本洋子
野は冬の水照りウクライナ耐えてあり 野田信章

三浦静佳 選
夜遊びを胎教と言う朧かな 石川和子
ふるさとの山に横顔ある遅日 伊藤歩
能代は雪降らず吹雪かずぶっかける 植田郁一
実朝忌石段ふいにこわくなる 尾形ゆきお
大江氏逝く隣りで妻は寝ています 今野修三
日脚伸ぶ帰り道です寄り道です 佐藤博己
耕して湯船ひつぎと思ひけり 髙井元一
雪降るや故郷の時刻表をもつ 高木水志
愛嬌とは服の皺々と春の風 董振華
老人と春風溜まるイートイン 根本菜穂子
顔認証して湯豆腐に口を焼く 日高玲
○白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
刺の無きこともさみしき薔薇の束 前田典子
梟の鳴く夜暗号を読み解く 前田恵
春の昼掃除ロボット座礁中 嶺岸さとし
大根干す同級生の曲る腰 森鈴
仁王像その臍あたり冬ざるる 梁瀬道子
つぎはぎの土器らささやくやうな東風 山谷草庵
葬後の明るい家具と亡き母の食器 夜基津吐虫
日脚伸ぶ新製品の耳搔き器 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

熱下がるまではこべらを摘みにけり 石川和子
 幼い頃、小鳥の擂り餌用に、祖母とはこべを摘んだ。昨今、人は発熱に敏感となり自分の身体と気持ちをゆらゆら見つめ不安をつのらせる。けれどどんな時であっても作者ははこべらを摘めばきちんと本来の自分に戻れるのだ。大丈夫、はこべらを摘めば。その安心感。はこべらという植物のゆかしさが句に奥行きを与えている。
 
ヒールを這い上る絨緞の記憶 日高玲
 その絨緞はオペラの演奏会場のそれのようだったのか、それとも倒れた椅子や結束バンド(!)が散らばる薄い擦り切れた絨緞だったのか。ともあれ、その時ハイヒールをはいていたのだ。這い上る、という言葉が素晴らしい。美しいふくらはぎを感じさせる。その記憶は永く永く女性の人生を楽しませ、苦しませ、強く生きさせる。

胸びれに尾ひれのふれて春の宵 望月士郎
 むっちりとした春の宵。豊かな尾びれが胸びれに触れる。何となまめかしいその曲線。と楽しみつつも、え、尾ひれ? 尾ひれってつきがちですよね、この頃。ポーッとしていれば自分の大切な胸びれに無断で尾ひれが触れちゃったりもする今の時代だけど、それでも変わらずに美しく、哀しい大人の春の宵であるなぁ、とか大妄想。惹かれます。
(鑑賞・木下ようこ)

山国の父の座標の切株です 有村王志
 切株がいくつもある光景。造材の現場の風景である。切株を見ながら父が育てた樹木を思っている。その切株から父の顔や背中が見える。
 父は頑固な山の人だった。木を愛し木を育て、木と過ごした人である。切株の座標は原点でもあった。

夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
 心に沁みる夕焼けである。一生忘れたくない、そんな印象を持つ夕焼け。花束を幾つも貰ったような夕焼けが自分とあたりを包んでいる。そんな気持ちのような約束。
 どんな約束と聞くだけ野暮。大切な自分の行く末を決める大切な約束である。大きな約束がでんと胸に響いてきた。そんな印象を受けた。

菜の花やむくむく御洒落始める気 中野佑海
 御洒落始める気がいい。この「気」が菜の花と作者に掛かって気持ちよく読める。
 春である。菜の花が咲き始めている。いちめん黄色の染まる気配。まさにむくむくである。それを見ている自分もむくむくと湧いて来たのである。御洒落をして出かけたい。出かけなくてもいい。御洒落して皆を驚かそうという悪戯心が楽しい。
(鑑賞・十河宣洋)

今すでに「戦前」なりしか多喜二の忌 岡崎万寿
 昨年末のテレビ番組「徹子の部屋」のゲストだったタモリ氏が語っていた……2023年は『新しい「戦前」がくるんじゃないか』と思う……を踏まえてかどうかともかく、作者同様「戦前」の雲行きを疑わない。時事俳句は詩情から離れるが、こういう句は貴重だと思う。

山笑う埋めては掘って埋める除染 中村晋
 東北新幹線、あるいは、東北道を北上して福島に入ると、黒っぽいフレコンバックが所狭しと並ぶ光景が目に入る。前の句同様に、国は、行政は何をやっているのか。原発の安全性が担保していないのに、新たな原発再稼働を決める政府を山も笑っている。

二番手を誇る北岳雪の晴 梨本洋子
 山好きにとって霧ヶ峰高原から見る360度の大パノラマ程わくわくする場所はない。特に、そこから見る富士山から手前の北岳、甲斐駒の南アルプスラインは見飽きることがない。小説「マークスの山」と共に永遠なれ。信州出身の一人としてこの句の出会いに感謝します。
(鑑賞・滝澤泰斗)

夜遊びを胎教と言う朧かな 石川和子
 友人に誘われて夕食に出たり、お仲間でカラオケだったり、妊婦でも出掛けることはあるだろう。世代の違いもあって身体を案じる母に、「胎教だってば〜」と躱すあたり「心配しなくていいよ」との気持ちがちゃんと伝わっているのだ。季語が母の気持ちをよく表している。筆者、妊婦だった頃を思い出してしまった。

白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
 ふむふむに惹かれた。四分の一とか半分とかにカットされてない一個の白菜を剥いでいる作者。白菜の葉は美しいし観察している姿が想像できて愉しい。また、ふむふむは調理の具材ともとれる。読み手が自在に想像できて優しく柔らかな句になっている。

仁王像その臍あたり冬ざるる 梁瀬道子
 山門の両脇にしかめっ面をして歓迎してくれる仁王様。夏は風通しよくて涼しげなのだが、冬は気の毒だ。仁王像全体が冬ざれているのだろうが、臍あたりと焦点化している上手さ。もしかして作者の心を反映していないだろうか。彼岸でもお盆でもない冬ざれの時期に山門をくぐる。大切な人との訣れが作者に冬ざれの感を強く抱かせたのかも知れない、などと読みを広げてしまう。
(鑑賞・三浦静佳)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

また君が踏んでしまいぬ落椿 あずお玲子
花筵をみなのあうら酔ふてをり 有馬育代
辛くともくゆる夜の日本酒おぼろ 飯塚真弓
骨董市でピエロに会釈され青葉 石鎚優
魚捌く手の匂い嗅ぐ春うらら 井手ひとみ
遅き日や悲憤の切れ目どこにも無い 伊藤治美
大杉の影を透かして植田かな 扇谷千恵子
マスクとれば口といふもの喋り出す 岡村伃志子
蟬待たな栴檀緑深めたる 押勇次
艶話芥川にも有る夏野 かさいともこ
椎の花裏参道は畑の中 古賀侑子
狐面はずせば狐宵宮かな 小林育子
草笛を吹き鳴らしつつ逝くもよし 佐竹佐介
惜春の坩堝人間に死はありや 清水滋生
わたくしの内なる異国ほうほたる 宙のふう
「父の日」の父に賜る海苔弁当 立川真理
春驟雨過ぎ我が道の天に向く 藤玲人
薔薇愛でるために使わぬ指のあり 福岡日向子
悪玉は伝説となり立版古 福田博之
春宵の画家の来し方風の径 藤井久代
山繭の糸つむぐ安曇野日和 増田天志
あのベンチが見えるここに勿忘草 松﨑あきら
新涼や空と身体の境なし 村上舞香
花茨猫の嫉妬は本に尿 横田和子
蔓草の赤黒きさね淀に浮き 吉田貢(吉は土に口)
新緑に肌色明るく親族集合 吉田もろび
パンドラの胸に不死身の蛇タトゥー 路志田美子
薫風を高僧の列木霊すだまの讃 渡邉照香
ずぶ濡れの森ずぶぬれの足桜桃忌 渡辺のり子
柿若葉ひかりと影がくすくすと わだようこ

『海原』No.50(2023/7/1発行)

◆No.50 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

柿の木に梯子の架かったまま空き家 有村王志
舐めてみたよ春耕あとの黒き土 伊藤幸
鉄線花背凭れのない椅子の暮し 井上俊子
ムツゴロウ少し居眠りしたそうだ 大髙宏允
樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
水底に遺棄の自転車花筏 尾形ゆきお
花筏歪みガラスに舞妓笑む 荻谷修
椿落つ口を噤んでいた者へ 片岡秀樹
さえずりの聞き倣し祖父の車椅子 狩野康子
文末は笑顔の絵文字春うらら 川嶋安起夫
春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
春日傘閉じ落丁のよう真昼 三枝みずほ
放浪を終えて野菜のみずみずし 佐々木昇一
洗濯を取り込むように春終わる 佐藤詠子
マスクとり言葉をえらぶ日永かな 鈴木栄司
夕富士の天衣素なりし花祭 高木一惠
つるばみの花美し遠く縄文期 鳥山由貴子
柚子ほどの夜神楽明かり上流に 野田信章
天も地も菜の花盛り野辺送り 疋田恵美子
花の雨忘れぬための探し物 平田恒子
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
月おぼろだんだん木綿豆腐かな 増田暁子
微熱もすこし春愁ってくすぐったい 三世川浩司
兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
パレットに油彩のもがき養花天 三好つや子
秩父銘仙母に春の手紙を書こう 室田洋子
人ひとひら桜ひとひら小さな駅 望月士郎
ずっぽりと昭和を生きて陽炎える 森由美子
九十歳天道虫の一光線 横山隆

白石司子●抄出

再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
著莪一面不安分子の潜む星 奥山和子
青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
紙のひかり初うぐいすが捲ります 川田由美子
産声のようにバラの芽ふと加齢 金並れい子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
言葉のように灯る紫陽花カフェテラス 小林まさる
防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
師へ抛る桜白鷺わが川音 高木一惠
塩・兵士・凍土・泥濘春逝けり 田中亜美
獅子頭重ねる花弁の平和積むごと 谷口道子
春暁の浅き眠りを野といえり 遠山郁好
さくら狩だんだん父母の透けてゆく 永田タヱ子
前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
マスク外してみんな木の芽になっている 丹生千賀
春どかと来て去る秩父師の墓前 野田信章
野焼きから人は黒衣のように出る 長谷川阿以
龍一逝く全春星を聴き取りたし 北條貢司
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
木の芽張る山はひたすら水を生み 前田典子
春月のぐらり脚から眠くなる 三浦静佳
微熱もすこし春愁ってくすぐったい 三世川浩司
春の霧晴れて武甲山ぶこうはきれいな返事 室田洋子
こめかみに残り火めいて蜃気楼 茂里美絵
忘れ物して遅刻して桜 山下一夫
桜月夜ぞわりと地球傾いた 山本掌
花の夜のビル一面の室外機 山本まさゆき
自己愛のうっすら点る朧の夜 横地かをる
死んだことないから平気チューリップ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

柿の木に梯子の架かったまま空き家 有村王志
 地方の過疎化の実態を、リアルな風景として提示しながら、その現実を沈黙の抗議の形で指し示している。つい昨日まで、柿の木に登って実をとっていたのに、今日はその仕掛かり状態のまま、空き家になっていた。かつては「逃散」といわれたような突然の変貌にもなりかねない危機感である。作者はその一つの兆しを直視して、地域消滅への警鐘としたのではないか。同時発表の作に、「限界村落殺意のはしる薄氷田」がある。この問題意識の延長上に、掲句があると見てよかろう。

樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
 二〇〇七年に最愛の奥様を亡くされた作者は、ほとんど毎年のように妻を偲ぶ句を作っておられ、哀悼の思いは年とともに深まるばかりのようだ。奥様は樹木葬にされたらしく、すでに十五年の歳月を経ているが、墓碑が樹木だけに身近に手入れをされ、生きている対象として日々呼びかけられている。花粉の飛び交う時期には、ひとこと花粉症で迷惑しているよと小言を言ったりする。それをしも亡妻との生々しい命の交感として、今なお心の中に生き続けているのではないだろうか。

春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
 竜胆は多年草で、晩秋に花が咲く。掲句は「春竜胆」だから、まだ芽吹いたばかりの草花なのだろう。「ひとりひとり」は、竜胆を擬人化したものとも、あるいは竜胆の草原を人々が三々五々歩いている景とも読める。句の味わいとしては、その双方を重層的に読み込んでいると見てもよいだろう。「気流」はその二つの命の混然とした意識の流れのようにも見える。川田さんの句には、時々こんな直感的な映像が立ち上がってくる。

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 具体的な景は見えず、ただ三月の陽射しの光を浴びて立っている。身体は空間との相互作用によって動かされ、そのことによって精神のはたらきが生まれる。それは内と外を区別する感応なのだが、今の作者は、光まみれになることで区別の意識が働かず、自分自身外界の光の中に溶け込んでいる。それゆえに自身の存在を意識し得ないような、光まみれの交感に身を委ねているのだろう。

マスクとり言葉をえらぶ日永かな 鈴木栄司
 長いコロナ禍からようやく解放の兆しが見えてきたので、久しぶりにマスクをとって話をしようとする。マスク無しに話をするのも久しぶりのせいか、なにやら改まった場に引き出されたような感じで、ついつい言葉を選びながら発言してしまう。折しも時は春の日永。身辺の物の動きからも、日永の暮らしに入ったことを、自分自身にも言い聞かせながら、言葉を選んでいるのだろう。

柚子ほどの夜神楽明かり上流に 野田信章
 昨年十二月二十八日に、七十四歳で亡くなられた宇田蓋男氏追悼の五句のうちの一句。宇田氏在住の宮崎県延岡では、毎晩のように夜神楽が演じられている。作者は宇田氏とともにその高千穂神楽を見に行ったのだろう。その時の体験から、柚子ほどの夜神楽明かりを川の上流に目指しながら歩いた思い出を句にした。「柚子ほど」という喩が、ほのぼのとした宇田氏の印象と重なって、夜神楽の明かりに映えていると見たのだ。

花の雨忘れぬための探し物 平田恒子
 花の雨は、桜の花に降る雨で、花の風情を深めるとも言われている。一方、年とともに物忘れは多くなり、日がな一日物探しに費やすことが増えてくる。そんな時、探し物になりそうな大切なものをあらかじめ確かめておく。それは「起き伏しの不確かな日々風信子」への備えとしておくことにもつながる。作者は日々のよろこびを味わい尽くすために、先々忘れぬための大切な物を花の雨降る日にも探しておこうとしている。

兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
 今年三月、秩父で行われた兜太祭での一句かもしれない。先生が亡くなられて五年になるが、今も秩父へ行けば、あの山河に先生が臨在する息吹を感じるに違いない。やがて春になり、山河には金縷梅や山茱萸の花が咲く。春は先生に大きな椅子を用意してくれているようにも見えてくるという。そういわれれば、たしかに先生の魂は、秩父の山河に満ち満ちて、その大きな胡坐の中に、私たちをすっぽりと包んで下さっているような気がしてくる。兜太先生を偲ぶに相応しい大きな句だ。

九十歳天道虫の一光線 横山隆
 九十歳は、卒寿である。その年に達しての感慨の一句であろう。「天道虫の一光線」とは、その生涯を振り返って過ぎ越し方を一望しているのではないか。「天道虫」は自分自身のこと。はるけくも来つるものかなとは思っても、本人にしてみればいつの間にやらやって来ましたということではないか。先のことは「死んだことないから平気チューリップ」というから、まったく気にもしていない。人生百年時代を楽しみながら生きている人。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
 春といえば出会いと別れの時節であるが、この句の「再開」をそんなありきたりなものとさせていないのは、季語「春の濃霧の」の斡旋にあると思う。春の夜のぼうっとした朧ではなく、奥行があり何となく冷たい感じの「霧」、しかも「濃霧」であるから、その再開はもう会うことの叶わぬ人、つまり、いまは亡き父か母と考えていいだろうか。言葉を必要としない「抱擁」は作者の内部の現実、超現実であったのかもしれない。

著莪一面不安分子の潜む星 奥山和子
 一日で枯れてしまうが、新しい花を次々と咲かせる一面の著莪の花。「胡蝶花」の別名通り胡蝶の舞うような美しい眼前の景から中七・下五への飛躍は兜太師の言われる「創る自分」の想像力によるもので、種を作らないにもかかわらず根茎を伸ばして広がる「著莪」から、「不安分子」の潜む星、地球を連想したのである。

青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
 「青き踏む」、「青き環流」の「青」のリフレインが青色の持つ爽快感、解放感、安息などを強く印象づけているが、地球全体にわたるような大気や海流の循環を意味する「環流」をもってきたところがこの句の眼目である。青々と萌え出た草を踏むことでそのパワーは作者の足裏より全身へ、いや、地球規模の大きな流れへとイメージを広げていけば、まだまだ大丈夫!というような元気が湧いてくる。

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 終わりと始まりの時期である「三月」の中でふと作者は「不在感」を抱いたのだと思うが、中七「光まみれの」をどのように解釈すればいいだろう。希望、栄誉、美などの象徴でありながらも「影」を連想させる「光」、また、「汚いと感じられる物が一面にくっついている状態」を表す「まみれ」から考えれば、明と暗が表裏一体である、永遠ではないものに対する作者の空虚感みたいなものを一句全体から味わえばいいだろうか。

水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
 洗うという行為からすれば清めるものとしての「水」であるが、洗われる方からすれば「汚さるるものとして」の「水」であり、単なる発想の転換のようであるけれども、透明感のある「水」、「水」の繰り返しがその汚れを余計に際立たせ、もしかしたら此の世にあるもの全てが汚されるために存在しているのかもしれないと思わせるような句だ。また「水汚さるるものとして水菜洗う」ではなく、「水菜洗う水汚さるるものとして」の倒置法の活用が説明的でなく詩的な表現にさせている。

言葉のように灯る紫陽花カフェテラス 小林まさる
 梅雨を代表する花で何となく淋しげな雰囲気の漂う紫陽花であるが、そんな月並な表現ではなく「言葉のように灯る」としたところがこの句の発見、また、開放的なカフェテラスという場の設定も斬新。時として刃ともなる言葉であるが、我々を優しく照らしてくれるようなものもたくさんある。

防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
 この句から社会性は「俳句性を抹殺するかたちでは行なわれ得ない。即物﹅﹅は重大なテーマである」という兜太師の言葉を思った。ロシアのウクライナ侵攻により浮上してきた社会的事象「防衛論」を「湿気る」と捉え、不快な虫の代表ともいえる「蠅」を即物的に「生れる」とし、そのふたつの事柄を助詞「し」で並列することで作者の「社会的な姿勢」が窺われるのである。また「し」の脚韻も効果的で強調効果のみでなく他を予想させる。

春暁の浅き眠りを野といえり 遠山郁好
 「春暁の浅き眠り」は「春眠暁を覚えず」、「春はあけぼの」に通じる春の朝の心地よさを想像させるが「野といえり」の場面の転換が野趣的で広くのびやかな感じを抱かせる。また「という」ではなく「といえり」の完了存続の助動詞「り」がそういえば春の明け方の浅い眠りを「野」と言っていたなと我々を妙に納得させてしまう。

前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
 「前線」といえば美しい桜の開花を待ち望む人達は「桜前線」を先ず想像するかもしれない。しかし作者は戦闘の第一線を思ったのである。また、「桜は母だろう!前線と呼ぶな」と倒置法を活用した句だと考えれば、「母から生まれた者たちがお互いに闘い合ってどうするのだ」という悲痛な叫びさえもこの句から聞こえてくるのである。

死んだことないから平気チューリップ 横山隆
 年齢と共にまわりの人がいなくなり淋しくなるが、確かに我々は「死んだことない」のである。しかし素直に「平気」とはなかなか言えない。この作品の次に「九十歳天道虫の一光線」があり、俳句と共にある人生も悪くないなと思う。色とりどりの明るいチューリップとの取り合せも効果的だ。

◆金子兜太 私の一句

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太

 団塊世代の学生運動の、何にでも「ナンセンス ナンセンス」連呼の中で、兜太俳句との出会いは目から鱗とはまさに言い得た感動で、それは当時出していた個人誌を「無神」と改題。先生に認知頂いたくらいである。その五○号では、巻頭に先生から「ムシン応援歌」を、活字ではなく推敲の跡のあるままの、率意の書を戴いている。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。市原正直

粉屋がく山を駈けおりてきた俺に 兜太

 ”皇太子妃に民間の女性”その父上の煩悶。この句は戦後の一大ニュースに想を得られたのか御尋ねすると、師は煙に巻いて仕舞われるのでしたが……。男性が慟哭するほどの事態、それを受けとめる俺、俺の胸は疼く、内なる痛みを伴って。五七五にピタリと嵌った言葉は読み手の想像力をかきたてる余裕を持ち、大胆な作品だと感嘆いたします。指針としたい一句です。句集『金子兜太句集』(昭和36年)より。東海林光代

◆共鳴20句〈5月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
人間ヒトに生まれ人間ヒトの途中屠蘇を酌む 伊藤幸
柩車停め霧の琵琶湖を見せている 植田郁一
まっさらのままでもいいね初暦 江良修
柚子ふたつ近づくこれも晩年か 大髙洋子
繰り返す昭和の戦前雑煮食う 岡崎万寿
灯台の冬月トウシューズの鈍色 川田由美子
減量のボクサーみたい臘梅かぐ 木下ようこ
No・warジャーッと鍋にゴーヤーチャンプルー 黒岡洋子
○かかはるとめんだうになる暖炉のやう すずき穂波
初日記月との出会いいつもシャイ 遠山郁好
ウクライナフクシマ雪を積む切株 中村晋
黒手袋はめて原爆資料館 長尾向季
焼き芋が卓上にある齢かな 疋田恵美子
初しぐれピアノを棄てた森の奥 日高玲
でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
外交の握手墓碑の群は凍り 前田典子
一葉忌いちばんいい顔が泣き顔 宮崎斗士
日捲りの最後の一枚レクイエム 森田高司
黄を宿すマザーテレサの冬薔薇 森武晴美
美辞麗句きっぱりやめて寝正月 渡辺厳太郎

大髙宏允 選
そのほかをたいせつにして雪つもる こしのゆみこ
雪霙十七音の鐘を打て (スズタリ・修道院) 小松よしはる
声だれにとどくのですか雪虫 三枝みずほ
父と雪山いつも何気なく座る 佐々木宏
乱読の如き夜景や東京冬 篠田悦子
○白わびすけぽっと点りて少年性 芹沢愛子
たましひのえにしの雑煮一家族 ダークシー美紀
梟の眼の全景未来の吾 立川由紀
存在のないようで在る冬青空 田中裕子
枯野ゆく風の呪文を聴きながら 月野ぽぽな
愚かさの濃度を加え今年酒 董振華
懐しはかなしいに似て兎に 遠山郁好
○夜爪切るとき寒鯉のくらき淵 鳥山由貴子
抱き損ねた形に桜寒々し 中内亮玄
火の鳥やおかしな谷間から狼 野﨑憲子
イエスの心よりきよらかか大氷柱 マブソン青眼
充分に大根じゅうぶんに巨塔 茂里美絵
○昏睡をチューブにつなぎ霜のこゑ 柳生正名
履歴書を枯野明りに書いている 山下一夫
吾が死後は宇宙の深山に遊ぶべし 夜基津吐虫

野口思づゑ 選
素因数分解とは鮟鱇吊られけり 綾田節子
七分は待てないナマコがきてしまう 泉陽太郎
室咲きや粛粛と夫婦を努める 井上俊子
「のろのろ元気」九十歳の年賀状 大西宣子
黙食やわざとぶりこを鳴らす父 加藤昭子
サクマドロップ白きミントの氷点下 佐藤千枝子
水澄むや楷書のごとしわが生活くらし 佐藤稚鬼
着ぶくれて今日何も彼も大雑把 篠田悦子
海光をはるかに大根漬けにけり 菅原春み
○かかはるとめんだうになる暖炉のやう すずき穂波
いま書ける言葉を探し新小豆 菫振華
笹鳴きや母ゆっくりと回れ右 根本菜穂子
弾を抜いた言葉でおおでまりと言えり 北條貢司
綿虫に好かれるタイプ心配性 松本千花
戸籍謄本われにはあらず鰯雲 マブソン青眼
一瞬にして遺品よ母の羽根布団 三浦静佳
1月は影がかしこいこの部屋でさえ 三世川浩司
芋虫のそれは淋しい太り方 三好つや子
キーウに凍月続くお笑い番組 森武晴美
亡き人に無性に腹の立つ夜長 森由美子

三好つや子 選
こがらしに顔を預けてきたところ 石川まゆみ
道行に落葉を降らす役目かな 榎本祐子
取箸が親鳥のやう薬喰 河田清峰
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子
消えゆく機影あれは冬こだま 佐々木宏
前頭葉に居すわっている冬の霧 佐藤君子
野遊びのつゞきのようにちらし寿し 重松敬子
○白わびすけぽっと点りて少年性 芹沢愛子
裸木を編み込むように復興す 舘林史蝶
○夜爪切るとき寒鯉のくらき淵 鳥山由貴子
産土へ冬銀河渋滞してる 西美惠子
雪ばんば未生以前に別れたきり 野﨑憲子
あれは蓋男氏十二月のキリギリス 服部修一
命日の卵買ひ足す寒さかな 前田典子
ぱっかんと割れて新年髭を剃る 松本勇二
腹式呼吸ゆっくりロウバイから明ける 三世川浩司
梟に顔のない日がときどきある 茂里美絵
○昏睡をチューブにつなぎ霜のこゑ 柳生正名
レコードのB面が好き雪女 梁瀬道子
時雨るるや燃えさしの身を終電車 矢野二十四

◆三句鑑賞

柚子ふたつ近づくこれも晩年か 大髙洋子
 この句、拝見して直ぐに柚子湯が浮かんだ。そして濃厚なエロスを感じた。乳房に近づく柚子ふたつ、男には書けないこの句。中七の「近づくこれも」が晩年を否定しているようにも思える。作者を知らずに批評するのは恐いが、柚子ふたつ近づく嬉しさとも採れる。

繰り返す昭和の戦前雑煮食う 岡崎万寿
 人間て何て馬鹿なんだろうとつくづく思う。また同じ過ちを繰り返そうとしている、そしてそれを美化する人の多いこと。中七の「昭和の戦前」が作者を読者を悲しくさせることよ。季語の雑煮食う作者の現実、繰り返す戦前の現実味を肌に感じている。

灯台の冬月トウシューズの鈍色 川田由美子
 灯台と冬月、いつもよく見ている白い灯台に冬の月トウシューズとの取り合わせ、この感覚は作者の普段はバレリーナかもしれないと思ったり、またバレーを教える人かもと思ったりしている。トウシューズの鈍色は冬の月でもある。見事な感覚である。
(鑑賞・稲葉千尋)

そのほかをたいせつにして雪つもる こしのゆみこ
 壊しては建てる都会の人工物はダークトーンで、音もなく降り続ける雪の白さの美しさ、神秘さとはほど遠い。その風景こそ、人類の知恵の結晶のはずなのに。美の追究者には穢れた精神の産物に映っているのであろう。

愚かさの濃度を加え今年酒 董振華
 作者は最近、「兜太を語る」を上梓し、兜太から大きな影響を受けた十五名の方々に取材し、師と弟子たちが人間的に深い絆を持っていたかを明らかにされた。その董さんの句として味わうと、たいへん共感が湧いてくる。死の直前まで平和を訴えつづけ、生き物感覚の俳句を作り続けてきた兜太先生は、人間の愚かさを直視し、自分に接する者をとことん心を開いて対応した。作者は昨年来の世界の混乱とその愚かさを深く憂慮している。

吾が死後は宇宙の深山に遊ぶべし 夜基津吐虫
 重い病気をかかえる作者は、日々死を意識して暮らしている。死に直面したとき、人は初めて死後の世界を思いやる。フロリダ州の精神科医ブライアン・ワイス博士のトラウマの催眠治療によれば、人は何度も生まれ変わり、自分の課題を繰り返すという。宇宙の深山に遊ぶことを想う人は、既に課題をクリアーしているだろう。
(鑑賞・大髙宏允)

室咲きや粛粛と夫婦を努める 井上俊子
 大切に丹精込めて育てる室咲の花。長年生活を共にしてきた夫婦も努力無しではお互いに心地よい関係ではいられない。政治家には使用禁止用語にしたい「粛粛」の言葉が本来の意味で生きている。努めておられるのはお二人共に、というより作者の方、かもしれないが平穏な暮らしが感じられる。

戸籍謄本われにはあらず鰯雲 マブソン青眼
 日本国籍戸籍を持つある事情を抱えていた知人は「日本人以上に日本人」と言われ褒められた気がしたが、実は日本人ではないのに、の意味だったと気づいた。青い眼をお持ちの作者も、日本語や俳句など日本人以上に日本人と何度も言われたに違いない。けれど戸籍はお持ちでない。それ故どんな経験をされてきたのだろうか。

キーウに凍月続くお笑い番組 森武晴美
 報道番組でキーウの惨状を見る。心が痛み惨憺たる気持ちになる。なのにその後のお笑い番組では、さっきの侵略への怒りはケロッと忘れ、笑っている自分がいる。一年以上続くウクライナの悲劇なのに、いつしか人ごととなり、傍観者の目になっている。そんな普通の人間の良心の呵責がちくりと表現されている。
(鑑賞・野口思づゑ)

裸木を編み込むように復興す 舘林史蝶
 葉がすっかり落ち、寒々と枯れた木から、地震や台風などにずたずたにされた家、橋、道路が浮かび、心に迫ってくる。復興までの道程は長くてつらいが、死んだような裸木にいつしか芽が出て伸びるように、前を向いて歩んでいけば、きっと元通りになるはず。そんな作者の強い思いが句にあふれ、しみじみと魅せられた。

あれは蓋男氏十二月のキリギリス 服部修一
 イソップ物語のアリとキリギリス、どっちが幸せ?と聞かれ、無邪気にアリと答えていた子が、社会人になりさまざまな経験を重ねるうちに、キリギリスのほうが幸せかも、と思うときがあるのではないだろうか。生前の蓋男氏にお会いしたことはないが、この句を通して、俳句をこよなく愛した豊かな人生を追想でき、感慨深い。

梟に顔のない日がときどきある 茂里美絵
 神話では知恵を授ける鳥として、また福を呼ぶ縁起のよい鳥として親しまれている梟。首が270度も回るので、からだを正面に向けたまま、背後を見渡すことができる。四方八方に不穏な空気が漂う現代、聡明なこの鳥はあらゆる方向に目を向けねばならず、正面に顔がないのだ。油断できない世相をみごとに捉え、共鳴した。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

花吹雪く真中に息を置いてきし あずお玲子
春深しこれから生まれる好きなひと 有栖川蘭子
病魔よ和め春暁に居座るな 飯塚真弓
飢ゑ行かば野鯉の奔る春野かな 石鎚優
友達ではいられませんと春の文 井手ひとみ
雪柳母にひとつも返してない 伊藤治美
春の鳥ことんと手紙いま行きます 遠藤路子
譜面台小さくたたみ卒業す 大浦朋子
宮益坂中村書店前穀雨 大渕久幸
犀星忌異郷に母を死なしめし 勇次つま
供へれば亡夫喋り出すか黄水仙 小田嶋美和子
古時計ちくたくボンボン海明ける かさいともこ
花吹雪これなら前へ進めるわ 梶原敏子
荒れ野めくちちははの家額の花 小林育子
じゃが芋に乳歯のような芽がピッピッ 小林ろば
戦士たち初夏の水辺に映る夢 近藤真由美
かげろえば人であること忘れます 宙のふう
誠実な獏が苺の山盛りを 立川真理
手鏡に他人のような十九の春 立川瑠璃
恋はランダムな雨びしょ濡れの桜 谷川かつゑ
全小説講演いのちはここに大江去る 平井利恵
夜桜の不可侵領域まで少し 福岡日向子
老羸に新しき服蝦夷四月 松﨑あきら
六連の戦車に似たる田植機よ 村上紀子
向日葵の正面に立つという勇気 村上舞香
初桜プチ整形に迷いおり 横田和子
鷄さばく戰さ歸りの父のもだ 吉田貢(吉は土に口)
鼓笛隊水仙を吹く子につづく 路志田美子
春の波中学生の一人称 渡邉照香
蜃気楼のしずく君のあおいシャツ 渡辺のり子

哀悼 中村ヨシオ 植田郁一

『海原』No.49(2023/6/1発行)誌面より

◆特別作品15句

哀悼 中村ヨシオ 植田郁一

味噌麹まるで月面つぶらな瞳
生まれ育った紀州の海よ背は竜神
麹に育てられし慈顔温顔九代目
紀伊水道霧の三叉路灯の五叉路
出船入船天田屋文ヱ門の前通る
君との出会い緑樹木洩れ日掌の温もり
建長・円覚肩抱き合っている萬緑
甲子男・さかえ・完市・君まで逝く極月
どれほど辛かったか食べさせられなかった桜餅
忌中と知って汽笛噎せつつ毀すなり
山菜採りにも焼きおにぎりに味噌塗って
金山寺味噌袖に包んで若き僧
忌中整然赤味噌白味噌合わせ味噌
弔問か吉野桜の花ひとひら
竜神の竜に攫われ逝きしかな

『海原』No.49(2023/6/1発行)

◆No.49 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ブチャは雪焦げた戦車と痩せた犬 綾田節子
二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
掌の皺を深めて母が手毬巻く 石田せ江子
百歳は八合目なり富士初日 伊藤巌
杜中がシンセサイザー百千鳥 江良修
春一番猫ってそんなんとちゃう 大池桜子
還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
革手袋情死のように重ねられ 桂凜火
手仕事のふっくりとして冬菫 川田由美子
桜蘂降るしっかり残る和紙の皺 北上正枝
紅梅白梅天狗の匂ひも混ざる 木下ようこ
「ご自愛を」とはどうしろと藪柑子 楠井収
労働終はる手のひらの陽炎へり 小西瞬夏
春の木離れどの追憶も流砂 三枝みずほ
春の闇鉄路の揺れのように純 佐孝石画
いぶりがつこ抓めば横に山頭火 佐藤二千六
母遺す御殿手ン毬絹かがり 鱸久子
あたたかや雅彦さんという空席 芹沢愛子
あっほらいまたんぽぽの絮彼女だろ 竹本仰
白梅や兜太の揮毫脈を打つ 月野ぽぽな
夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
寝たきりの窓からの景鳥雲に 中川邦雄
老化とはあの白梅が遠いこと 野口佐稔
連弾のよう花かたくりは風を呼ぶ 船越みよ
除染後の生家よ郁子は咲いたのか 本田ひとみ
記憶喪失のよう更地となって春 三木冬子
百済ほど欠伸さてさて彼岸明け 三世川浩司
囮鴨追い込まれては追い込んで 深山未遊
冬の葬みんな小さな兎憑き 望月士郎
凍雲に端あり産土まで歩く 茂里美絵

白石司子●抄出

山国の父の座標の切株です 有村王志
黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
一老ありひねもす無口の寒卵 岡崎万寿
決戦のように並んで冬薔薇 小野裕三
革手袋情死のように重ねられ 桂凜火
大股の父の熱量根開きす 加藤昭子
細雪写経一文字一字一字 北村美都子
曲線を君の日永のように描く 近藤亜沙美
ハミングのほどけ二月のうさぎかな 三枝みずほ
梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
黒板は緑イタチがいなくなったから 佐々木宏浅
春のビル街墓碑のよう露わ 佐藤詠子
鉛筆を噛んだ感触兜太の忌 重松敬子
節分の鬼に引かれて逝くなかれ 志田すずめ
春夕焼け母が海へとかえる色 竹本仰
柚子いびつ明日は笑顔を売る仕事 田中信克
蝶追って時間から遅れてばかり 月野ぽぽな
忘却曲線急旋回の冬の鳥鳥 山由貴子
夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
手話は苦手ですが春のペンギンです ナカムラ薫
エッセーの着地に迷う春炬燵 長本洋子
くちびるにマスク記憶にございません 服部修一
ほうれん草包む戦禍の紙面かな 藤田敦子
流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
地球を覆う人類という湿疹 マブソン青眼
三月の小石を拾ふ水の底 水野真由美
文机はわたしの港ヒヤシンス 宮崎斗士
冬の葬みんな小さな兎憑き 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
 二月二十日は兜太先生のご命日。亡くなられて早や五年の歳月を経た今、夜空を仰いで先生を偲ぶとき、先生の叱咤の檄文を遠い星屑から受けているような気がするという。おそらくこんな感想は、先生の謦咳に接したものなら等しく感じることではあるまいか。これをしも檄文として受けとめるところが、作者らしい一途さであり、あやかるべき姿勢といえよう。

百歳は八合目なり富士初日 伊藤巌
 人生を富士登山に喩えて、人生百年時代と言われる今日、その百年の八合目あたりに今達したところで、まだ先があるとも、もうここまで来たかとも回想している。「初日」は百年の先に輝くものと解した。もちろん文脈から、百歳自体が八合目で、その先の百二十歳あたりが初日の場所と解してもいい。案外こちらの方が筋が通るのかもしれないが、いずれにせよ、まだまだ頑張る余地ありと言い聞かせている。その心意気を詠んだ。下五の体言止めがきっぱりしていい。

還らざるものへ流木立てておく 大西健司
 「還らざるもの」とは、「失われしもの」さらには「いのち失われしもの」と解していいだろう。そこに3・11を重ねてもいいが、それは評者の自由度にまかせたい。表現は漠とした抽象性を帯びていても、生死を予感することは出来よう。「流木」によって、かなり具体的なドラマを予想することもできる。大西の住む伊勢地方は、多くの津波に洗われた地域でもあるからだ。数知れぬ犠牲者は無名のまま、せめて流木によってその菩提に手向ける墓標としておくというのだろう。

労働終はる手のひらの陽炎へり 小西瞬夏
 「労働」とわざわざ社会的表現を持ち出したのは、「仕事終はる」では済まされない、どこか被搾取的現実をそこに滲ませたかったような気がする。そう考えるのは深読みで、作者自身は、もっと現在的な日常感に即して、老親の介護そのものを「労働」と捉えたという。ところが「手のひらの陽炎」となれば作者の現在を再生したもので、「労働」のような規範化された言葉とは質が違ってくる。そこに、作者世代の新しいふくらみのある言語表現を重ねようとしているのかも知れない。言葉の時代感覚に世代間格差が生まれているのだろうか。

春の闇鉄路の揺れのように純 佐孝石画
 月のない春の夜の潤んだようなやわらかさをもつ闇。どこかいのちの息吹の匂いさえまじるなまめかしさがある。その夜気の情感を断ち切るように、「鉄路の揺れのように純」と捉えたのは、この作者の青春性というべきものかもしれない。やわらかな肉体の奥にひそむ鉄路のような意志。しかもその鉄路は、かすかな揺れを宿しつつ、その純なるものを貫き通しているのである。

あっほらいまたんぽぽの絮彼女たち 竹本仰
 口語調の臨場感で、口ずさむように書いた句。自分の実感のまま、俳句の固有性のこだわりを離れて書くとこうなる、典型的な一句だ。「あっほら」と誘いこむような感嘆詞に始まり、「いまたんぽぽの絮」と受け、「彼女たち」と踊り子のしなやかな輪舞へ広げていく。「いま」は、「あっほらいま」と「いまたんぽぽ」に両掛かりして、躍動の瞬間を捉えている。

寝たきりの窓からの景鳥雲に 中川邦雄
老化とはあの白梅が遠いこと 野口佐稔

 共に加齢による老化現象を背負いながら、懸命に生きていく姿を率直に捉えた句なのだろう。できるだけ他人に迷惑をかけず、一瞬一瞬をおのれのやり方で過ごそうとしているような、そんな生涯の送り方を遠望しているような境涯感とも見られなくはない。お二人の生き方を承知しているわけではないから、作品から受ける評者の感想にすぎないが、そこには近しい世代の老いざまが見えてくるようで、ほのぼのとした共感を覚える。

除染後の生家よ郁子は咲いたのか 本田ひとみ
郁子の花は、アケビの仲間で、晩春、白がかった紫の雄花と雌花が房のようななりに咲く。作者は生家の福島の被災地から今は埼玉に避難しておられ、早や十二年の歳月を経ている。その生家も、どうやら放射能の除染が済んだと聞いているが、かつてあの生垣に咲いていた郁子の花は、今年も咲いたのだろうか、と回想する。郁子の花に寄せる失われた故郷への郷愁。

記憶喪失のよう更地となって春 三木冬子
 本田句は、被災地の生家を偲んでの句に対して、三木句は、その生家跡もすっかり記憶喪失したかのように更地となってしまったという。この句には二つの問題意識がある。一つは、災後十年を越す歳月によって、風化されてしまった被災地、それもかつての賑わいに復活することなく、しらじらしい更地となってしまったという現実。今一つは、その被災の現実も人々の記憶から失われようとしている危機感ではないか。あのフクシマを忘れるなという警鐘に繋げようとしているかのようだ。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
 戦争や災害、また様々な理由で逝去された方に捧げる黙祷。上五「の」で軽く切れるが、その「どこを断ちても白さざんか」とは何を意味するのだろうか。濃紅や淡紅ではなく「白」から広がってゆく清潔、潔白、無垢などのイメージ、そして花全体が落ちる椿と違って、花弁がさらさらと散って眩しいほどに地上を彩る「さざんか」、それは亡くなられた方の人となりでもあり、作者の祈りの敬虔さでもあると考えていいだろうか。中七「どこを断ちても」に別離の悲痛さがある。もしかしたら掲句は個人的な追悼句なのかもしれないが、黙祷すべき場面の多い人間社会において普遍性を獲得した作品となっていると思う。

煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
 煮凝りを凝視することによる視覚を生かした句であるが、「独裁者」と取り合わせたことで感覚的な句となっている。「妙」にプルプルと震えている煮凝りが独裁者の孤独感のようでもあり、また、「煮凝りって」の導入部も読者を作者独自の世界へいざなうのに効果的だ。

一老ありひねもす無口の寒卵 岡崎万寿
 上句の「一老あり」が伊勢物語の「昔、男(ありけり)」の冒頭を思わせ、作者の一代記を語りかけるような句となっている。勿論「ひねもす無口」は寒卵に係るのであるが、それは作者のようでもあり、無口だが「寒卵」のように存在感のある一代・一生とも考えられる。

還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
 無季句。一句全体からは季語「雁供養」の世界を想像させるが、抒情に流されない断定感が俳句なのだと改めて思わせる作品である。また、「還らざるもの」の単数ではなく、「ら」の複数形が個人性、時代性を超えたものとさせている。全く句柄は異なるが、富澤赤黄男の「流木よせめて南をむいて流れよ」を思い出した。

大股の父の熱量根開きす 加藤昭子
 雪国の春を告げる現象で、木の根元だけ雪がとけることを「根開き」というのであるが、それは「大股の父の熱量」によるものだとしたのがこの句の眼目である。また、「大股の」としたことが、いつもより足早にやってくる春、そして元気な父を彷彿させる。

曲線を君の日永のように描く 近藤亜沙美
 長かった冬も終わり、夜よりも昼の時間が長くなって何となく気持ちも伸びやかになる日永。そんなゆったりとした春に対する実感が「直線」ではなく「曲線」なのである。そして「君の日永のような」という「君」への眼差しも初々しくあたたかい。

梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
 この句から「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の金子兜太師を思った。「春告草」の別名「梅」が咲いて青鮫も人間も喜ぶべき春なのにただならぬ今の状況はどうだろう、戦争体験者である兜太師ならどう考えるだろうかという作者の思いが中七・下五の「憤怒のように火のように」なのである。花鳥に遊ぶのもいい、でも「社会性は作者の態度の問題」、「俳句性よりも根本の事柄」なのである。佐孝氏の句に「梅咲いてひとつひとつの目玉かな」もあるが、創作において「絶えず自分の生き方に対決している」兜太師、また、作者の目玉を掲句から感じる。

蝶追って時間から遅れてばかり 月野ぽぽな
 「時間から遅れてばかり」の何となく取り残されたような感覚は、日本を遠く離れたニューヨークだからこそなおさら。でも、その原因は「蝶追って」だから、何となく自分自身でも許せそうな気分なのかもしれない。

手話は苦手ですが春のペンギンです ナカムラ薫
 手や体の動き、視線や表情などを使って意味を伝達する手話が苦手なのは作者、いや、もしかしたらペンギンだろうか。でも、時節は「春」、「ですが」、「です」の意味不明とも取れるようなやりとりが楽しい。これも俳句、兜太師が言われたように口語は俳句の可能性を広げるのである。

くちびるにマスク記憶にございません 服部修一
 「顔にマスク」ではなく、「くちびるにマスク」としたところが意味深。そして「記憶にございません」は、どこかの国のある人物がよく口にする言葉。十七字、季題趣味という約束を守るという「客観写生」とは異なる諧謔味あふれる句だ。

流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
 シベリア東部から南下して海を漂う「流氷」と中七・下五との二物衝撃句。「流氷」は風または海流によって海を漂流する氷の塊であるが、「置いてきたもの」との響き合いから作者の分身という捉え方も可能だ。漂流する為、いや漂流せざるを得ないが為に置いてきたもの、それらはみな光っているのである。郷愁を誘うような句だ。

◆金子兜太 私の一句

質実の窓若き日の夏木立 兜太

 兜太は、少年時代、皆野町から片道一時間余り秩父鉄道を利用し、降りてから二十分ほど歩き、旧制熊谷中学に通った。秩父で育まれた豊かな「感性」へ、熊谷で「質実剛健」が加わったと考える。熊谷での葬儀の場には、「好好爺」の写真とともに、若き日の写真も飾られていた。それは、「精悍」を感じさせるものであった。埼玉県立熊谷高校の校門近くの句碑より(句集未収録)。神田一美

夏の猫ごぼろごぼろと鳴き歩く 兜太

 以前、母は、自分のことを詠った私の句が、兜太先生に褒められたことを涙して喜んだ。先生と母は同い年で、母のほうが一週間お姉さん。ある時、仏間に入ったきり、うんともすんともない。ちょっと覗くと、掲句の書かれたうちわの毛筆の一字一字を指でなぞっているのです。私の声に驚き、ちょっと恥ずかしそうにした表情が、いつもの表情より素敵だった。96歳の他界。句集『日常』(平成21年)より。西美惠子

◆共鳴20句〈4月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
秋刀魚握る板さんの指って秋刀魚かな 綾田節子
大皿のブロッコリー仁徳陵のごと 石橋いろり
「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
風花や兵器すらすら少年語 狩野康子
霜柱すこし斜視なんです私 北上正枝
ラフランス生きた証が顔に出て 佐藤君子
寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
歯を磨く小石の感触木葉舞う 豊原清明
月食やゼレンスキーの赤銅色 永田和子
十二月八日鈴懸に空師いる 並木邑人
○ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
秋めくやひとりの音す広い家 疋田恵美子
とんぼみな交尾んで水のひかりかな 平田薫
ありがとうの「あ」のかたちなる朝日かな マブソン青眼
国葬とか往ったり来たり稲刈機 三浦静佳
紙を漉く皺一つなき水の音 三好つや子
冬ぬくしCM軽き紙パンツ 村本なずな
日記とは嘘書くものです実紫 室田洋子
○開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
紙風船バンバンバシンうつ楽しさ 森田高司

大髙宏允 選
冬近しオール電化の音で病む 阿木よう子
冬日受け木の根は先で考える 石川和子
むかご飯君と暮らすもあと十年か 石川義倫
気持ちよく死んでいるのね枯芒 伊藤歩
ベートーベンに変わる幻聴雪しまき 故・伊藤雅彦
良き生き方は迷わずに逝く仏法僧 植田郁一
辞世の句障子明りの如くあり 江井芳朗
あの音は冬まっ直ぐに来るらしい 大沢輝一
裸木や斜光四十五度の無垢 北村美都子
月ある涼しさ深深と獣道 小池弘子
ひとりづつ棘捨てにゆく十二月 こしのゆみこ
みな寒くゐてもの食うてをりにけり 小西瞬夏
弟よ瓶に入れたい朝霧よ 佐々木宏
まぼろしは何の入り口小白鳥 芹沢愛子
焼き芋や風通しよき仲間たち 高橋明江
幸不幸孝不孝雪雪雪雪 中村晋
「北風がビューンって言ったね」「行ったね」 中村道子
この星の食欲冬の月を食う 三浦二三子
笑うから笑ってしまう小六月 横地かをる
夕景や熟柿の熱烈なる死形 横山隆

野口思づゑ 選
廃業を決断したり月今宵 石川義倫
色のない光を染める柿あかり 泉尚子
先祖みなわれより若し除夜の鐘 岡崎万寿
着ぶくれて平和公園清掃す 奥村久美子
小春日やどこかのピアノが音外す 奥山和子
障子貼る曲り形にも世帯主 加藤昭子
戦中戦後そして戦前冬北斗 鎌田喜代子
極月や棺の和尚の絆創膏 河田清峰
人参臭きにんじん失せ日本このザマ すずき穂波
海の色に縦横たてよこがあるね冬だね たけなか華那
自由とは広場手すりに小鳥二羽 竹本仰
熱燗や今日はどの鬱と遊ぼうか 立川由紀
○綿菓子のようにちちはは冬日向 月野ぽぽな
賀状書くいつも目だけで会う人に 中川邦雄
冬の雲離郷とは母棄てること 中村晋
○ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
姿勢よき人の襟元赤い羽根 平山圭子
熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
紅葉かつ散るタイムマシン現れよ 室田洋子
小鳥来る隣りばかりが賑やかに 森鈴

三好つや子 選
咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
大銀杏よる辺なきものへと霏霏 石橋いろり
中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
折紙の動物園秋の保健室 植竹利江
鱗雲ほんとは怖い童唄 榎本愛子
ボルシチに匂いの移る火薬かな 大髙宏允
大根引き生家すとんと胸の穴 狩野康子
水平線の向うの戦さ肩車 小山やす子
断定は断念なのだろう時雨 佐孝石画
生命線ありのままです枯野原 佐藤詠子
身中の分水嶺を月渡る すずき穂波
甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
冬青そよごの実どこかでだるまさん転んだ 田中信克
浜菊や海女の径へとよじれ咲く 樽谷宗寬
○綿菓子のようにちちはは冬日向 月野ぽぽな
寒林の空かなしみの擬態する 藤田敦子
降り立った烏もしや冬の心臓 堀真知子
冬木立フォークの神様がいない 本田ひとみ
○開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
せっかちな風が九月を蒼くする 森由美子

◆三句鑑賞

寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
 なんと勇ましい句、死んでしまったら書くことができない、訃報を「俺が書く」と言い切っている。きっと前もって書いておくということだと思います。戒名は先に書いてある人もいる。季語の寒雀は何の関係もないようで、やはり寒雀の季語が切れて効いていると思います。

国葬とか往ったり来たり稲刈機 三浦静佳
 この句はもちろん安倍元総理のことである。国葬が良いとか悪いとか言っていないが、何故なんだという思いが作者にあると思います。稲刈機即ちコンバインが行ったり来たりします。国葬の日、稲刈りする作者の姿が見えてきて、評者こんな句を作りたいと思っていて、作者の心に共感しました。

開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
 脱帽!開戦日十二月八日をこれほどに人の心をえぐる句に出くわすのは初めてである。日本にも軍靴の音がヒシヒシと聴こえる昨今、わざと危機を煽っている政府にこの句を見せてあげたい。日本の歴史と事実を忘れたのかと。もっともっと平和外交をやらなければならないのに戦前と同じことをやっている。赤き穴が強烈。
(鑑賞・稲葉千尋)

みな寒くゐてもの食うてをりにけり 小西瞬夏
 一読、深沢七郎を思い浮かべた。いささかアウトローであった彼は、現実を現実離れした視点で見ていたように思う。この句も、どこかそんなところがある。名前を持ち、何かに属して適応している常識人の風景ではない。どんなに文明化・都市化しても遺伝子や生理現象などに支配されている。この句はまさにそれを描写している。

幸不幸孝不孝雪雪雪雪 中村晋
 ヒトに生まれての幸不幸、親不孝かどうかなどは、自分の意図だけで決まるわけではなく、関係性によって決まる。関係性は自分の意図を超える。だから、どうなるかは、「向こうから来る」という要素が大きい。それは相手にとっても同じで、従って自分が招いているようで、向こうから来るという不思議と遭遇する。この句は大胆な措辞によって、我々の日常の不思議さを切り取った。

笑うから笑ってしまう小六月 横地かをる
こうした体験は、誰にでもあるだろう。だから通り過ぎてしまいそうな句でもある。二読三読して、自分の無意識がまたこの句に戻ってきた。この句もまた、関係性によって生じた不思議を、至ってシンプルに表現している。このシンプルさに詠み手の無意識が反応するのだと思う。
(鑑賞・大髙宏允)

小春日やどこかのピアノが音外す 奥山和子
 暖かな冬の午後だろうか。どこからかピアノの音。何気なく聞いていたら間違った鍵盤を触ったようだ。上達した奏者の練習だったら、音が外れてもそれほど目立たないが、初心者の稽古だったらしくはっきりとミスが聞き取れた。小春日の気持ちの良さに弾き手は練習に集中できなくなったのか。微笑ましい句。

人参臭きにんじん失せ日本このザマ すずき穂波
 人参は以前、その独特の味から多くの子供に嫌われていた。それがいつの頃からか食べやすい野菜へと変わっていた。同様に気がつけば日本社会は豊かな個性素性を消した無難な大人を求めている。出る杭は打たれ続けその結果としての今。このザマはなんなのかと令和の日本に明治の親が喝を入れているようで面白い。

ドニエプルも仁淀も青し冬の川 野﨑憲子
 ドニエプル川はロシア侵攻の舞台であるウクライナを流れ現在も、歴史上も戦禍に巻き込まれている。川沿いにロシア、ベラルーシもある。とても美しい川だという。四国の仁淀川も青の美しさで知られる。作者には特別の意味があるに違いない二つの川の固有名詞と自然讃歌が強い平和メッセージとなっている。
(鑑賞・野口思づゑ)

中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
 冬の畑で逞しく育った大根や人参を眺めながら、作者は故中村哲氏を偲び、座右の銘だった最澄の言葉「一隅を照らす」に思いを巡らせているのかも知れない。一人ひとりが今居る場所で最善を尽くす。まさにそれは土の声を聞き、土と歩む生産者の心意気だといえる。大地に根ざして生きる人ならではの、滋養あふれる句だ。

水平線の向うの戦さ肩車 小山やす子
 手の届かない所に止まった蟬。見物客が多くて見えない花火。子どもにとって父の肩は、世界をぱっと広げてくれる頼もしくて、幸せを実感できる存在だ。しかしウクライナ侵攻をはじめ、肩車の先に不穏な動きが見え隠れし、誰もが戦争に無関心ではいられない時代、この句に込められた安寧の祈りに、共感が止まらない。

甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
 蟹漁がさかんな冬の港の、活気に満ちた朝が目に浮かび、白い息を吐きつつ、怒鳴るように喋る男たちの声までも聞こえる句だ。潮焼けした赤銅色の顔と腕にちらばる沁みは、手強い海を相手にしてきた漁師の勲章。甲殻類の男という骨太の表現に、荒々しくて朴訥な漁師への愛しさが感じられ、心を鷲掴みにされた。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

不自由のなかに小さな自由福寿草 有栖川蘭子
老犬の里親二十歳春隣 有馬育代
ジャンピングキス春塵に照れもせず 飯塚真弓
従容として春落日に歩み寄る 石鎚優
むちむちよ呆けたる母のよもぎ餅 押勇次
アネモネを添えて修司への手紙 かさいともこ
春の闇ぼろが出るから喋らない 木村寛伸
果てしなきあなたへの道冬銀河 香月清子
如月や重機で壊す家一軒 近藤真由美
剣道着干したる庭にクロッカス 齊藤邦彦
無錫ムシャクなる湖を広げて春の雁 齊藤建春
ポトフ煮て雪籠りとは気散じな 佐々木妙子
マスク取るコロナの憎愛すでに無く 重松俊一
春深しハコと呼ばれし場所に行く 清水滋生
春の泥削除できない疵あまた 宙のふう
理科室に春は戯むる人体図 立川真理
十代が後ろ姿になりゆく春 立川瑠璃
廃屋に散らばる積木梅盛る 藤玲人
夢にても逢ひたき人よ花やがて 平井利恵
くちびるは一つしかないシクラメン 福岡日向子
金網に自転車括る木槿かな 福田博之
講義室机上にひとつ冬林檎 藤井久代
呼吸静かにふふむ光陰残り雪 松﨑あきら
沢山のきのふのやうに石鹸玉 丸山由理子
入道雲私が持っている余白 村上舞香
ポケツトにこぶし突つ込み海を蹴る 吉田貢(吉は土に口)
恐竜に乗り象に乗りふらここへ よねやま麦
八月や記録写真の中に吾 路志田美子
壁の穴しずかに塞ぐ春の闇 渡邉照香
菜の花の地下茎蒸気機関車へ 渡辺のり子

路地灯り 大西健司

『海原』No.48(2023/5/1発行)誌面より

◆自由作品20句

路地灯り 大西健司

熟柿啜るは真人間なるエセ詩人
流木焼べ浜の男の新ばしり
開戦日湯呑みに酒を注いでおり
真珠塩と看板寒の道戻る
お国訛りの潮風ここは牡蠣の海
この先の入江へ続く蜜柑山
鳥羽一郎を歌う路地奥の煮豆屋
鷗探せば短き指の濡れており
バス停にマネキン石蓴の海が見ゆ
真珠塩の親父菜の花摘んでおり
「舟唄」がおはこ浅春の鋳掛屋
無番地で無慈悲隣のしおまねき
玉子焼は春の恋文かもめ町
喫茶ファイブに寄り道鰆漁師かな
風見鶏はジャズを歌うよ風光る
ラジオからジャズ鰆の糶進む
店主偏屈恋猫の名はサヨリ
春ショールのマネキン今日も店番す
深海魚のたぐい男は布団干す
喪服吊され春にかすかな火の匂い

『海原』No.48(2023/5/1発行)

◆No.48 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

横丁の昭和は剥がれ霙鍋 石橋いろり
言葉とう感情の波野水仙 故・伊藤雅彦
ベンチにひとり極月の忘れもの 伊藤道郎
「おいでるかい」三河弁の初客 井上俊一
芽出づる亡き妻育む福寿草 江井芳朗
待春は彼にもあると信じたい 太田順子
空港に狐火混ざる帰国便 小野裕三
ダイヤモンドダストあなたへ追伸 北上正枝
枯野原少年白き函として 小西瞬夏
末黒野の石の鼓動や口伝とは 三枝みずほ
母の忌の掃き拭き後の桜炭 白井重之
水琴窟の音のひとつぶ秋蛍 芹沢愛子
水鳥や夕日背負って帰ろうか 高木水志
白猫のふにゅっと抱かれ冬の霧 竹田昭江
展翅された蝶廃港をわたる風 竹本仰
春眠のごと倒木のごと母の故郷 立川由紀
絵双六国が盗られてゆく自由 田中信克
青鮫の青だ硝子のビル群だ 月野ぽぽな
花吹雪鉄鎖ザラリと垂れにけり 中内亮玄
風の日は手帳を落とす白さざんか 平田薫
コロナは何の序章か微かに冬の雷 藤野武
駱駝毛布父の人生匂い立つ 増田暁子
ドカ雪や父の墓標のなで肩で 松本勇二
白障子空気が正座しておりぬ 三好つや子
昼月や強霜解けぬ猫の墓 村本なずな
雨は雪に小さな骨はピッコロに 望月士郎
さざんか散る瘋癲なれば身構える 茂里美絵
亡き人に無性に腹の立つ夜 長森由美子
一月に生まれ初凪ういなといふ名前 柳生正名
「これ最後です」とふ老友の賀状かな 吉澤祥匡

中村晋●抄出

電飾に「さくら隊の碑」浮く聖夜 石川まゆみ
臘梅咲いた泪の水音聞こえます 泉尚子
陽気なバラッド石垣島にも冬の雨 伊藤幸
大根抜くどの穴も空である 井上俊一
冬夕焼乾涙をもて立ち尽くす 江井芳朗
淡々と賀状仕舞いと書いてある 大西政司
どっさりと思い出を積む蒲団かな 小野裕三
雪降るとおち見る癖よはにかみよ 刈田光児
ベランダにまだ干したまま冬の月 川嶋安起夫
自粛自粛三年連用日記果つ 黒済泰子
遠吠えの津軽が無色雪煙り 後藤岑生
母の匂いの風の育てるせりなずな 小林まさる
無辜の民雪の瓦礫と混じりける 小松よしはる
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子
「涙なんて嫌い」呟いたら雪 清水恵子
冬のクローバー在宅酸素の母へ 清水茉紀
雪雲の青い切れ目へ海と書く 鱸久子
展翅された蝶廃港をわたる風竹本仰
麦踏んでデリカシーを語る父 舘林史蝶
牧舎出で牛が背こする冬木かな 永田和子
ジュゴン待つ辺野古岬や虎落笛 仲村トヨ子
吹雪かれているよう愚痴を聞いてい 丹生千賀
でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
遺影みな正面を向く初明り 藤田敦子
枯葉踏む枯葉の下の風を踏む 堀真知子
平飼いの鶏の膨るる寒さかな 本田日出登
軒氷柱だまこ餅だまこ頬張る遺族たち 三浦静佳
白障子空気が正座しておりぬ 三好つや子
囲む人無き休耕田の落葉焚き 山本弥生
ひとりずつ出てゆく家族せりなずな 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

言葉とう感情の波野水仙 故・伊藤雅彦
 本年二月十四日、八十六歳で急逝された作者の絶吟だろうか。一見穏やかな早春の景を比喩した句ではあるが、底には容易ならざる感情の波が渦巻いているといえよう。それが言葉の断片として噴出しているのではないか。波のように寄せては返すのは、早春の岸辺に吹く春なお寒いそよ風によるものだろう。温厚篤実な風貌の底に、現役時代経営者として厳しい試練を乗り越えて来られた方の、感情の波が渦巻いているとも見られよう。野水仙には、そこに毅然と立つ作者の姿が投影されている。

横丁の昭和は剥がれ霙鍋 石橋いろり
 霙鍋は、豚の薄切り肉ときのこに大根おろしを添えて煮込んだ料理で、昭和時代から馴染みの深い下町の小料理だった。今は寂びれた横丁の路地に貼られた定番の料理名が半ば剥がれたままにある。これは単なる回想の景として書かれているだけではない。いつまたあの頃の戦争や自然災害に襲われないとも限らない。そんな予感さえ覚える霙鍋の、時代への危機感に通ずるものとしても受けとめられるものではなかろうか。

「おいでるかい」三河弁の初客 井上俊一
 「おいでるかい」とは、作者の故郷愛知県三河地区の方言で、「いらっしゃいますか」という訪いの言葉だろう。地方の方言を句にするには、一定の伝達性が保証されていなければならないが、この場合はギリギリ保証されているとみてよかろう。テレビの「どうする家康」の影響があるかもしれないが、この保証が成り立つ限り、地方の生活感の滲む好句に変身する。まして初客とあらば、なおのこと。

芽出づる亡き妻育む福寿草 江井芳朗
 今回の五句は、昨年十二月に永眠された光子夫人への追悼句となっている。「臨終の妻に添へずに永別す」「冬夕焼乾涙をもて立ち尽くす」は、その痛哭の想いを物語ってはいるが、最後に置かれた掲句には、亡き妻とともに新しい生を生きようとする。いや、むしろ死者としての妻の臨在を、今も実感している作者の姿そのものを書いているのではないだろうか。

母の忌の掃き拭き後の桜炭 白井重之
 母の忌日に、母がいつもしていたように、屋内を掃き、拭き掃除をした後で、ゆっくりと桜炭で茶の湯を点てて頂く。その時間は生前の母と共に過ごした至福のひと時だったのだろう。幼い頃は、その堅苦しさに辟易したものだが、今は母を偲ぶ貴重なひと時となっているのかもしれない。季節感は必ずしも明らかではないが、桜炭の香りが冬の季感を漂わせている。

白猫のふにゅっと抱かれ冬の霧 竹田昭江
 「ふにゅっと」のオノマトペが独特。一般に「ふにゃっと」は物の触感のやわらかな瞬間の印象で、「ふにゅっと」で、急に飛び込んできたような、やや鋭い感じになる。白猫は冬の霧の中から不意に現れ、作者の腕の中へすっぽりと収まったのだ。「冬の霧」の中からの意外性が、「ふにゃっと」ではなく、「ふにゅっと」の鋭角性をよびこんだといえよう。

絵双六国が盗られてゆく自由 田中信克
 絵双六は、日本の伝統的な正月の遊びだが、江戸時代に庶民に普及し、やがて道中双六や出世双六なども生み出された。この句は、今世界で問題になっているウクライナ問題や中東地域での紛争の火種をも暗示しているのかもしれない。世界に起こる火種は我が国に波及しかねない危機感でもある。今や絵双六のように「国が盗られてゆく自由」が横行しつつあるのではないかという政治への警鐘ともいえよう。

青鮫の青だ硝子のビル群だ 月野ぽぽな
 作者は、今ニューヨークのマンハッタンに住んでいる。いわば世界で最も稠密な高層ビル群の真っ只中にいるわけだが、その多くがガラス張りの超高層ビルだという。そのビル群の最上層階から見下ろせば、兜太師のいたトラック島の珊瑚礁海域に青鮫が遊弋しているイメージと重なり合う映像が見えてくる。そこには幾分の危うさを宿しながらも、意識の重層する新しい映像感覚が生まれるからだ。映像のダブルイメージと捉えてもいい。

亡き人に無性に腹の立つ夜長 森由美子
 この句の「亡き人」とは、作者にとってかけがえのない存在だったに違いない。何も言わずに突然先立ってしまって、そんな無責任な、とばかり、かき口説くように言わずにいられない。それは人には言えぬ、また言っても詮無いことながら、秋の夜長ともなれば、腹立たしくも口をついて出る。いうなれば煩悩の権化そのもの。

 取り上げたかった句を可能な限り列挙しておきたい。
待春は彼にもあると信じたい 太田順子
花吹雪鉄鎖ザラリと垂れにけり 中内亮玄
白障子空気が正座しておりぬ 三好つや子
さざんか散る瘋癲なれば身構える 茂里美絵

◆海原秀句鑑賞 中村晋

母の匂いの風の育てるせりなずな 小林まさる
ひとりずつ出てゆく家族せりなずな 横地かをる

 まずは「せりなずな」の句を二句鑑賞するところから。一句目の「せりなずな」は郷愁を誘う響きがある。「母の匂いの風」に作者は自身の産土の記憶を確かめているに違いない。同時作に「父の忌やゴツンと我にからす瓜」の句もあり、父母への追憶の句とも読める。しみじみ温かい気持ちにさせられる句だ。一方、二句目の「せりなずな」からは寂しさを突きつけられる。それまでは正月をともに過ごしてきた家族であったが、子どもたちは成長し家を出て、なかなか戻らない。正月に帰省したとしても、家族は数日でそれぞれの生活へ戻っていくことになる。七草粥をともに食べることもない。そんな現代の生活を描き、しんとさせられる。そして何気ない正月風景の中に、私たちの生活意識や様式の変化が俳句に記録されていることに気付かされる。時代を記憶する装置としての俳句の存在を思う。

遠吠えの津軽が無色雪煙り 後藤岑生
 最近、風土を濃厚に感じさせてくれる作品に惹かれている。その土地でなければ感じられない自然の姿が一句に息づいていると無意識に身体が反応してしまう。この句からも理屈抜きに「津軽」の地吹雪を実感させられた。「遠吠えの津軽」とはその土地に住む者でなければ決して出てくることのない言葉だろう。しかもそれが「無色」とは。かつて私も五所川原から金木へ地吹雪体験の旅をしたことがあるが、その時本当の地吹雪に遭遇し、列車がストップしてしまった。言葉だけで知っている地吹雪とは違う本当の「地吹雪」の恐ろしさ。この句は、本当の風土と誠実に向き合う作品だと思う。

軒氷柱だまこ餅だまこ頬張る遺族たち 三浦静佳
 葬儀の後の食事風景だろうか。「だまこ餅」は秋田の風土の食事である。それを頬張る遺族たち。昨今は多くの場合、葬儀社に葬儀の全般をお任せしてしまうところだろうが、この句からは昔ながらの自宅での葬儀のように読み取れる。また「軒氷柱」から東北の深い雪や家の造りなども感じられる。さらに「だまこ餅」を食べながら会話をする秋田の人たちの訛りも聴こえてきそうだ。これもまた風土を色濃くにじませた一句と思う。

ジュゴン待つ辺野古岬や虎落笛 仲村トヨ子
 風土を詠むということは、実は深いところで社会を詠むということに通じているのではないか。最近そんなことを考える。この一句もまた風土への愛情を土台にしながら社会への憤りをにじませている作品だ。「ジュゴン待つ辺野古岬」というアニミズムに満ちた措辞に、海を平気で埋め立て、命あるものを疎かにする政治体制への深い不信と厳しい批判精神がにじむ。そして「虎落笛」を聴く作者の悲しみ、風土への愛惜。風土俳句は社会性俳句の母胎なのかもしれない。

でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
枯葉踏む枯葉の下の風を踏む 堀真知子

 この二句に共通するのは生き生きとした「生きもの感覚」ではないだろうか。一句目はきっと先生と幼い児童との対話を捉えたものだろう。落葉の姿に魅せられている児童。子どもたちにこんな素敵な言葉を聞かされたら、教師としてこれほどの喜びはないかもしれない。とはいえ先生も忙しい毎日だ。子どもたちとともに落葉をつかまえる時間を少しでも持てるようにしたいものである。二句目、「枯葉の下の風」という表現にはっとさせられる。枯葉を踏んだときに感じるあの一瞬のふわっとした空気感。それを「風」と捉えることができたのは作者の感性の賜だろう。何気ない日常の中に潜んでいる宝石を発見したような気分になる。

自粛自粛三年連用日記果つ 黒済泰子
無辜の民雪の瓦礫と混じりける 小松よしはる
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子

 現代をどう詠むか。その問いに答える三句。一句目、自粛の日々が続いた長い三年間を実に端的に表現した作品と思う。定型の韻律の力がさまざまな感情を呼び起こすのだろう。何やら呪術めく「自粛自粛」のリフレイン。韻律と映像の融合が見事な一句だ。二句目、ウクライナの戦争を詠んだものだろうか。人間が瓦礫と混じる、と即物的に描くところに作者の鋭い批評精神が宿っている。俳句における「即物」という表現方法の有効性を改めて教えられる一句。三句目、ピカソの「ゲルニカ」に描かれた女性を詠んだ句か。「しばれる」が実に独創的だ。「しばれる」とは東北・北海道において寒さの厳しい様子を言う。ナチスによるゲルニカへの空爆。逃げ惑う女性の姿を「しばれる」と捉える身体的な感性は風土に根付くものだ。きっとこの作者はウクライナで苦しむ人々に対しても「しばれる」思いで見ているに違いない。

冬夕焼乾涙をもて立ち尽くす 江井芳朗
 「コロナ禍病院にて妻・光子永眠す」と前書きにある。「乾涙」という言葉は辞書にはないが、作者には必要な語であったのだろう。涙が枯れ果てたあとの冬の夕焼け。震災の記憶も去来していたに違いない作者渾身の一句。

◆金子兜太 私の一句

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 初めてこの句に会った時「青鮫は俺たちのことだ」と思った。兜太先生の話から、それは私の幻想だと分かったが、思いは今も続いている。先生宅に泊めていただいた翌朝、帰り際に、酔いの残る頬に心地よい風に、梅の花の香りがしたのを忘れられない。同じ思いの人がたくさんいると思う。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大久保正義

抱けば熟れいて夭夭の桃肩に昴 兜太

 まだ青さの残るかたい桃を抱けば、ふっと感じる成熟の始まり。愛する少女の初々しい、瑞々しい、痛々しい清らかなエロティシズム。肩越しに見る昴の何億光年の光の中で感じる一瞬の恍惚が胸を打つ。時空の無限の中で、抱かなければ感じ取れないこの一瞬のきらめきに、心を吸い込まれた一句です。兜太先生にそれを申し上げたら「そうか」とニヤリとされたのを思い出します。句集『詩經國風』(昭和60年)より。森由美子

◆共鳴20句〈3月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
皇帝ダリア一刷毛はけ分の愁いあり 石橋いろり
締めて快適褌外して尚快適 植田郁一
地球はやわが方程式はご破算に 岡崎万寿
濁り酒ぐるぐる回る山手線 奥村久美子
高齢に前期と後期障子貼る 片岡秀樹
秋の水おまえを産んだいい記憶 桂凜火
○戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
ラ・フランス無口で熟れて昭和人 鈴木栄司
連弾です大草原の草紅葉 鱸久子
十三夜靴がぱくりと僕見上げ すずき穂波
秩父産土寒九の水を飲み干して 関田誓炎
日の沈むくにの国葬まんじゅしゃげ 芹沢愛子
民主主義怠けているから蚯蚓鳴く 峠谷清広
白コップに牛乳注ぐ十一月 豊原清明
除染ごみ去ってそのまま赤のまま 中村晋
国葬って何だったのか蕎麦を刈る 平田恒子
黄落や手話はしづかににぎやかに 藤田敦子
○綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
ラ・フランス自傷の匂い微かなる 茂里美絵
○息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫

大髙宏允 選
九月です少女かたまり甘酸っぱい 大沢輝一
バンザイの老人の袖の草の実 木下ようこ
第三章第二十五条なのに凍死する 笹岡素子
芒飾れば家霊のように笑いけり 佐々木宏
麦の芽や少年兵といふ兵器 清水茉紀
秋意ふと地磁気逆転願ふかな 高木一惠
大まかに云えば健康衣被 高橋明江
体内に育てし骨と冬に入る 月野ぽぽな
朝寒や起きてぐらぐら老いる首 峠谷清広
除染して除染し除染あきらめ冬 中村晋
せんそうの学校へいわの学校星月夜 野﨑憲子
○綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
不意の句を薬ぶくろに書く夜長 前田典子
布団干す太平洋に向けて干す 松本悦子
たましいは淵に集まり暮早し 松本勇二
草一本一本が人類滅亡を待つ マブソン青眼
燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
皆既月蝕われ泥海でいかいのうろくず 山本掌
たばこ屋の昔小町や小鳥来る 山本弥生
自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫

野口思づゑ 選
○不登校小鳥は水場さがしてる 伊藤道郎
移住者干すどのタオルにもトンボかな 大久保正義
ゼレンスキーの縦じわ深しキーウ寒月 岡崎万寿
生成り色の天六商店街冬ぬくし 桂凜火
白菜を背骨あるごと裁きけり 齊藤しじみ
○戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
秋の蝶えんぴつ使う気弱な日 芹沢愛子
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
雪虫のあなたたちの一匹はあなた たけなか華那
公園の子らも散りたる秋夕焼 友枝裕子
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
鉦叩同時通訳意味不明 長谷川阿以
茗荷咲く複雑な仲であります 日高玲
酉の市熊手で集めたき平和 平田恒子
マスクしてクレオパトラのアイシャドウ 前田典子
林檎半分ゴリラは友達社会だな 増田暁子
感情を失くした父は冬木立 松井麻容子
泥葱をむけば地軸のひかりかな 嶺岸さとし
振りむけどもともと独り冬桜 村本なずな
○息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫

三好つや子 選
鶏頭にまだこびりつく自尊心 泉陽太郎
携帯が人の匂いをさがし鳴く 市原正直
秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
ホスピスの壁に優しき蔦紅葉 故・伊藤雅彦
○不登校小鳥は水場さがしてる 伊藤道郎
字余り字足らずぶらぶらと晩秋 井上俊一
瞬きでたぐり寄せてる冬銀河 大池桜子
黒色火薬つまめば冬の蝶翳る 大西健司
地面より手がでる予感曼珠沙華 尾形ゆきお
ホッチキスで止めて安心秋の虹 奥山和子
小春日をたんと心の筋肉量 加藤昭子
葉書いまどこで道草秋の夕 川崎益太郎
どの紙面もさびしい鳥の羽音 三枝みずほ
潮騒の母語となりゆく小春かな 長尾向季
天地創造蟻いっせいに走る 前田恵
海鳴りがくっついてくる冬の街 松井麻容子
退屈な水くらげから耳になる 松本千花
冬蝶の動線開けおく老農夫 嶺岸さとし
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士
ゆっくりと落葉語で話してくれ 横山隆

◆三句鑑賞

締めて快適褌外して尚快適 植田郁一
 何とも快活快適な句。小生も褌にしたいと思っている。兜太先生と風呂が一緒のときの褌姿を思い出している。作者植田郁一氏そのものの一句であろう。りズム良き七七五に乗せられてしまったのである。日常生活を見事に俳句にしていただいた。兜太先生も喜んでいるだろう。ありがとう。

秩父産土寒九の水を飲み干して 関田誓炎
 作者は秩父在住、勿論産土である。関田さんの温かさは秩父での俳句道場、全国大会等でお目にかかり、何時も秩父産土の句を創っていた。中七、下五のたたみ掛ける力強さに惹かれると共に、産土を愛する心が関田さんに句を創らせているのであろう。寒九の水がよく効いている。

除染ごみ去ってそのまま赤のまま 中村晋
 作者は福島の被曝の句を作り続けている。その一貫性に脱帽であり尊敬する。なかなか同じテーマを書き続けることは大変なことである。除染されても元には戻らない。人々は帰れない、「そのまま赤のまま」が見事に現状を言い得ている。そして、赤のままが人々の哀しさ、口惜しさ、苦しさを表している。
(鑑賞・稲葉千尋)

不意の句を薬ぶくろに書く夜長 前田典子
 稀に天からでも降りてきたように一句が生まれることがある。急いでメモしなければ二度と思い出せない。兜太先生の「おおかみに螢が一つ付いていた」も、そうして生まれた句に違いない。天から降りてきた句は、不思議と韻律がいい。韻律に酔い解釈などする気になれない。生活が俳句になるとたまに天の贈りものがある。

草一本一本が人類滅亡を待つ マブソン青眼
 草たちの呪詛であろう。男たちの欲望無限肥大により、植物も動物たちも多くの種が地上から姿を消し、その勢いは加速している。環境汚染が自然破壊とその絶滅を招くことを知りながら、我々は相変わらず膨大なエネルギーを使い続ける。印度のある聖者は「あなたの居る場所を聖なる場所にしなさい」と言った。それしかない。

燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
 素粒子の信じられない動き、人体のメッセージ物質同士の不思議な連携などを知れば、神の存在も信じたくなる。一方、凄まじい自然災害や無辜の子ども達や女性を無残な死に追いやる戦争を黙っている神なんて信じられない。だが、量子脳理論と量子生物学が神の存在について明らかにする日が近づいている。その日まで生きよう!
(鑑賞・大髙宏允)

渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
 渡り鳥が集団で飛ぶのは合理的理由からとはいえ単独行動したい鳥もいる。私の母は難病でケアの領域に入る繋がりを受けざるを得なかった。その時ある方から「お母様は今、人を教えています」と言われた。繋がりたくないと本人は切望しても周りの人は何か学ぶ。揚句から繋がりについて多く考える機会を頂いた。

帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
 退職や子育て終了後気落ちしていたのに今は、趣味、ボランティア、パート、体操などと忙しい。何世代か前、主役を終えた後は静かで穏やかな、余生と呼ぶにふさわしい毎日であった。一方現代の引退後世代は、体力気力充実し、やること盛り沢山。帰り花の季語をきかせ今のこの年代をユーモラスに代弁している。

息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫
 戦地での兵士の究極の仕事は相手の命を堕とす、もしくは自分の命を失くすこと。帰結のように、兵士の名のもと、有史以前よりどれだけの命が奪われていったか。その上、現在進行形で日々その数は増えていく。星月夜に輝くあまたの星が、敵であれ味方であれ、息途絶えた全ての兵士の悲しみに重なる。
(鑑賞・野口思づゑ)

不登校小鳥は水場さがしてる 伊藤道郎
 未知のことを知る喜びや友達ができる嬉しさで、多くの子どもにとって楽しいはずの学校生活。しかし、学校に居づらさを感じる子どもは年々増えているという。小鳥が水場を探すように、心の翼を休める場所を求めている彼らのSOSを、何故こうも教育の現場は見逃してしまうのだろう。そんな声が聞こえてきそうで心に刺さる。

天地創造蟻いっせいに走る 前田恵
 一読して、スペクタクルファンタジー映画で知られる「天地創造」のシーンが目の前に広がった。庭木の樹皮の間を登る蟻の行列、プランターを退かしたとき四方八方に散らばる蟻を眺めていると、映画の中のバベルの塔をはじめ、崩壊してゆくソドムやゴモラの街で右往左往する群衆に見えてきて、とても惹かれた。

ゆっくりと落葉語で話してくれ 横山隆
 春の若葉が夏になって輝きを増し、いつしか紅や黄に色づくように、話し方もまた様々な経験を重ねることで、いっそう魅力的になる。落葉語にはこうした作者の思いが深々と込められ、心に響く。近頃の、アップテンポで略語まじりの若者言葉を、やんわりと皮肉ったユーモアセンスも光り、興味が尽きない。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

錆に血の滲みて重し兎罠 あずお玲子
詰まる胸にこころあるらし寒の月 有栖川蘭子
脳幹の日溜りにほら冬の草 飯塚真弓
象の貌のやうな流木に初日 石鎚優
二時間を雪降るだけを見つめいる 井手ひとみ
初日なまぬくし戦前なのかいま 岡田ミツヒロ
うしろ影しぐれて吾妻ゆきゆけり 押勇次
癌潜む暗がりからの冬の蝶 小野地香
手袋の草用水用北風用 梶原敏子
返り花母へ恩給の兵の墓 後藤雅文
ストーブや母の絵筆に黄の灯る 小林育子
武器を擱くそれも戦争冬銀河 近藤真由美
松飾りせで雪国を出でにけり 佐々木妙子
思ひ人とうにはかなし雪明り 佐竹佐介
雨雪あめゆじゅの味遥かなり喜寿過ぎて 塩野正春
いいえ世間に負けたということ冬至 清水滋生
体内にブラックホール大焚火 宙のふう
我が輩は仔猫の主で父母の子で 立川真理
我が生は太古よりくる半仙戯 立川瑠璃
流氷を打てばふるさと後退る 谷川かつゑ
狐火のコサックダンス渺々と 藤玲人
北塞ぐよく似た顔のいる棺 中村きみどり
男とも女ともなく雪の匂い 福岡日向子
裸木や癌を抱くも先を見る 保子進
思い出になるまでを雪の下で生きる 松﨑あきら
自畫像に瞳描けぬ日溜まりや 吉田貢(吉は土に口)
初詣せーので始まる二礼かな 吉田もろび
文鎮を母の押さえて「ゆめ」吉書 路志田美子
反戦の血潮まじへる寒椿 渡邉照香
寒紅や母親の胸にある曠野 渡辺のり子

春の色 望月士郎

『海原』No.47(2023/4/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

春の色 望月士郎

みずいろの今から春を描く絵具
啓蟄の赤い「家庭の医学」かな
キューピーにももいろの影告知祭
青しとは白木蓮のうわの空
夕桜うすむらさきの声で呼ぶ
鳥雲に灯台という白えんぴつ
春の野にひとりのみんな出て黄色
黒猫と白猫の恋ジャズピアノ
目玉だけ残してアネモネの紫
風船にみどりの時のふくらみつつ

『海原』No.47(2023/4/1発行)

◆No.47 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
母さんは百合鴎そう新種です 大沢輝一
ジェラシーの薄くなるまで葱刻む 奥村久美子
余命という白き鳥浮く冬の水 桂凜火
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
雪蟲や埋れしままの異土の骨 河田清峰
赤心にかざありとせば冬林檎 北村美都子
とろろ汁頭上どこかをドローンかな 木下ようこ
冬の蠅こんな身近に孤独死が 黒済泰子
葛飾や小春日を掃く寺男 小松よしはる
小寒や手押し車の母の息 齊藤しじみ
十二月八日余白に父の海 白石司子
鮫肌の梅の古木に父宿る 鈴木康之
寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
綿虫飛ぶわたしから遠いわたし 竹田昭江
冬の月言いたいことはそれだけか 田中信克
楽譜ひらけば流れだす冬銀河 月野ぽぽな
泥醉や渾身どこも散紅葉 董振華
飴色に焼けた鍛冶屋の鼻に雪 中内亮玄
冬晴れや番い鳥めき生協に 中村孝史
自由ですシベリアからの白鳥群 野口思づゑ
遠い戦禍ドミノ倒しに末枯るる 疋田恵美子
餅ふくれだす昼のふしぎなじかん 平田薫
何に震えてスマホあかりよ白鳥しらとりよ 藤野武
晩年のネコ科の二人小六月 船越みよ
銀杏舞う逆光なれば亡兄が立つ 松本勇二
開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
老いゆくや抽斗いっぱいの空蝉 森鈴
物忘れ叱られているポインセチア 渡辺厳太郎

中村晋●抄出

中村哲さん大根人参太かりし 稲葉千尋
出棺待ち遠し綿虫が騒ぎ出す 植田郁一
歩くほど遠くが見える草紅葉 上野昭子
湯上りの母ほめる父鳳仙花 柏原喜久恵
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
はたはた食いこめかみ辺り日本海 狩野康子
弟の名多き亡母ははの日記雪 木下ようこ
大根煮る女で母で祖母であり 楠井収
夕やみだか雪虫だかどっと来る 佐々木宏
霜柱踏む確かさや骨密度 佐藤紀生子
アレッポの児らに乳無きクリスマス 高木一惠
みみずくや閉じゆく今を見つめてる 高木水志
甲殻類の男が集う冬埠頭 たけなか華那
着ぶくれてサッカーどうでもいいです 峠谷清広
小鳥来る寂しい日差しを連れてくる 董振華
栴檀の青い実主語のない話 鳥山由貴子
白鯨の座礁しており冬銀河 中内亮玄
「北風がビューンって言ったね」「行ったね」 中村道子
雑巾を投げて冬蝿落ちにけり 梨本洋子
冬鷺の滑空おのれ生かすごと 根本菜穂子
船長は山茶花宇宙船地球号 野﨑憲子
淡々と流されてあり秋のベンチ 日高玲
山茶花溢る確かにあつく兜太の手 藤野武
裸婦像を見あげる仔犬冬ぬくし 本田ひとみ
山眠る小さな村の木の図書館 松岡良子
花枇杷ほのと福耳ともるをちこち 三世川浩司
熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
えびせんに残る海老の眼秋の風 深山未遊
固太りの子どすんと膝に冬夕焼け 村松喜代
PKのキーパー逆に跳ぶ霜夜 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

咆哮の君ら白紙を冬の日に 石川青狼
 昨年十一月、中国政府の強硬なゼロコロナ対策に、たまらず白紙を掲げて抗議するデモが起こった。この抗議に対する応援の声は、台湾、東京、ニューヨークにも広がったという。白紙の意味は、何を書いても消されてしまうというものだったらしい。掲句は、その運動への声なき声援を送ったもの。時は「冬の日」だが、厳しい現実をも含意しているとみてよかろう。「咆哮の君ら」に、その切迫感が覗える。

赤心にかざありとせば冬林檎 北村美都子
 「赤心」とは、いつわりのない真心のこと。「香」を「かざ」と呼ぶのは、京ことばで、関西や北陸地方でも使われているという。「赤心にかざ」と配した作者の言語感覚に驚く。「せき」「かざ」の音韻の響き合いが、いかにも冬の季節感に通う。しかも「赤」「香」の意味的な照応が、「冬林檎」の質感を浮かび上がらせる。音と色合いが、「赤心」と「冬林檎」に具象感を与えたのではないか。

とろろ汁頭上どこかをドローンかな 木下ようこ
 とろろ汁を食べている頭上に、ドローンの飛んでいる音が聞こえてくるという景。取り立ててどうということのない句ながら、その音韻効果と相俟って、なんとなく冬の日の鬱屈感とどこか不安感を混ぜたような、妙な陽だまりを感じられないだろうか。それは長引くコロナ禍につながる不思議な実感を呼ぶような気がしてならない。その敏感さが作者の詩的感覚なのだ。

十二月八日余白に父の海 白石司子
 開戦の日の余白に父の海があるという。おそらく父にとっては大きな出来事であって、それを機に、その生涯に大きな転機が訪れたのだ。歴史を画する時なら、誰しも訪れる転機だろうが、作者自身の人生にとっても父の転機が、大きく影響したのかも知れない。「父の海」は、作者にも続く海だったのだろう。

寒雀俺の訃報は俺が書く 瀧春樹
 寒雀が地表を盛んに啄んでいる。その様子を、電信で訃報を打っている様子と見た。近頃盛んに舞い込んでくる訃報と見立てたのだ。そのとき、やがては自分自身の訃報も、このようにして打たれるのではないかと感じている。だが待てよ、俺の訃報ぐらい俺が書くから、余計なことはするなという。それは身近に感じている耐えがたい死の恐怖への、裏返しの衝迫だったのかも知れない。

自由ですシベリアからの白鳥群 野口思づゑ
 シベリアは多くの虜囚の流刑の地。そのシベリアから多くの白鳥が帰ってきた。白鳥は口々に、今、私たちは自由ですと呼び交わしているかのようだと見ている。作者の思いの中には、ロシアのウクライナ侵攻で捕らえられた人々の思いを込めているに違いない。上五に「自由です」と置いて、解放感の大きさを訴えた。

晩年のネコ科の二人小六月 船越みよ
 「晩年のネコ科の二人」とは、老いたる夫婦を想像する。二人して小春日の陽だまりの中に座って、日がな一日うつらうつらと日を過ごす。それは従順で愛らしい老い猫のようにも見える。この句はそれ以上のことは書いていないが、何もしない、出来ない二人ながら、そこにいるだけで、二人にとっての平和な温もりがある。

開戦日日の丸という赤き穴 望月士郎
 太平洋戦争開戦日十二月八日は、無謀な戦争を仕掛けた日本の大きな錯誤の日という他はない。もちろんそこに追い込まれる国際情勢があったとしても、長期的な展望を欠いたイチかバチかの賭けだった。またマスコミに煽られた世論があった。さらに「日の丸の下、為せば成る」という盲信がまかり通っていた。「日の丸という赤き穴」は、そんな歴史時評を見事に、感覚的に言い留めている。

老いゆくや抽斗いっぱいの空蝉 森鈴
 老いの意識は、不意に訪れるものだが、「老いゆく」とは、その重なりをいう。空蝉は、気づいたときに拾い集めたもので、それは時間の断続的な流れの中で堆積してゆく。ふとみると抽斗いっぱいに貯まっていたという。そこには人生の虚しさが詰まっていて、こんな形で老いてゆくのかという感慨を誘うのではないか。それを見て、老いへの向かい合い方をあらためて確かめなおしているのかも知れない。

 他に取り上げるべきだった句を列挙しておきたい。

「もういい」と点滴の兄冬紅葉 榎本愛子
母さんは百合鴎そう新種です 大沢輝一
ジェラシーの薄くなるまで葱刻む 奥村久美子
枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
冬の蠅こんな身近に孤独死が 黒済泰子
綿虫飛ぶわたしから遠いわたし 竹田昭江
楽譜ひらけば流れだす冬銀河 月野ぽぽな
冬晴れや番い鳥めき生協に 中村孝史
何に震えてスマホあかりよ白鳥しらとりよ 藤野武
銀杏舞う逆光なれば亡兄が立つ 松本勇二

◆海原秀句鑑賞 中村晋

淡々と流されてあり秋のベンチ 日高玲
 一読不思議な世界に迷い込ませるような句。目の前に存在しているベンチが、淡々と流されてやってきたとはどういうことなんだろう。流浪のベンチ。どこか砂浜にでも作者はいるのだろうか…。そこではたと気づく。この句を「秋のベンチ」の前で一旦切って読み直してみるとどうなるだろう。すると「淡々と流されて」あるのは作者であり、作者はある種の漂泊感を抱いてベンチに腰掛けている、とも読めてくる。読者をひとつの世界に誘い出し、しかしそこでまた別の世界に連れ出す絶妙な間合いのある一句。しみじみと自身の生の意味を噛み締める作者の姿がありありと見えるようだ。

花枇杷ほのと福耳ともるをちこち 三世川浩司
 作者の作品世界はつねに独特だ。まずは韻律のオフビート感が他の作者にはない持ち味である。そして言葉の選択。「花枇杷ほのと」のあとの「福耳」への転換。しかも「福耳」が「ともる」とはどういうことか、つい立ち止まり考えさせられてしまう。しかし何度も味わううちに初冬の明るい光景がじわじわと目の前に広がってくるから不思議だ。そしてなんともいえない幸福感も。「考えるんじゃない。感じるんだ。」という言葉を思い出してしまうほどの感覚の世界。こういう句を作る作家を擁する「海原」の懐の広さがとてもうれしい

山茶花溢る確かにあつく兜太の手 藤野武
 「温く」を「あつく」と読ませるところが実に心憎い。「厚く」もあり「熱く」もあった兜太先生の手を、私も思い出さずにはいられなかった。「山茶花」との取り合わせが、身体が覚えている「温い」記憶を呼び起こすようだ。身体に訴える句の力強さを改めて思う。

熱燗や喪中葉書に殴られて 宮崎斗士
 この句も身体感覚を呼び覚ます一句。「喪中葉書」に驚き、喪失感を覚えるときの心の痛みを、「殴られて」と言い止めながら、作者はその痛みに耐えているに違いない。また「熱燗」を飲む作者の心は少々荒れているかもしれない。だが、その痛みや荒れの奥から、作者の優しさが熱く滲み出してくる。痛いほど優しい一句。

夕やみだか雪虫だかどっと来る 佐々木宏
 俳句を作り俳句を読みながらいつも不思議に思うのは、この短い詩型が、どうしてこれほど風土を色濃く盛り込めるのかということである。おそらく意識して盛り込めるものではないだろう。作者の潜在意識が句に表出されるということなのだろう。俳句の面白さ奥深さという他はない。そしてこの句もその例に漏れない。「夕やみだか雪虫だか」と少しおどけながら「どっと来る」とぶっきらぼうに言い放つ。闇の大きさを感じつつ、これから訪れる厳しい冬の予兆に作者は畏れを抱いているに違いない。北の大地の風土が韻律に刻印されている句だ。

枯葦の屈強村に子がいない 加藤昭子
 現在の地方、とくに僻村の状況を活写した一句である。子がいないだけではなく、もはや働き盛りの青年壮年がいないのだ。皮肉なことに残っているのは「屈強」の枯葦ばかり。「屈強」ということばを反転して使った作者の言葉を選ぶセンスが光る。と同時に、風土を徹底して描くことで、句がおのずから社会性を帯びてくることにも気づかされる。俳句にどのように社会性を盛り込むか、地方の俳句作者にとって示唆に富む一句である。

みみずくや閉じゆく今を見つめてる 高木水志
 作者は二十代の青年。私も二十代の後半から俳句を作り始めたが、この年代でこのような時代の感覚を映し出した句を作ることなど到底できなかった。「閉じゆく今」という表現に時代の閉塞感が見事に映し出されていると思う。そして言葉にできない憤りなども。「閉じゆく今」という時代に我々はどう抗うか。これは決して青年だけの課題ではない。多くの人たちと分かち合いたい一句。

アレッポの児らに乳無きクリスマス 高木一惠
 今はウクライナの戦争のことが話題の中心だが、ほんの数年前はシリアの内戦、とくにアレッポの惨状のことがニュースでしばしば報道された。今ここに作者が「アレッポ」を持ち出す理由はどのようなものだろうか。シリア内戦のことを忘れかけている我々を問い質しているのだろうか。ウクライナではなく、あえて「アレッポ」を題材にし、ストレートに句にした作者に共鳴する。

船長は山茶花宇宙船地球号 野﨑憲子
 「宇宙船地球号」という言葉を提唱したのはアメリカの建築家バックミンスター・フラー。1972年ストックホルムで開催された国連人間環境会議においてこの言葉がスローガンになった。私は社会の教科書でこの言葉を学習した記憶がある。しかし今この言葉をどれほどの人が衒いなく使えるだろう。作者の大胆さに感銘する。「宇宙船地球号」という言葉の重さよ。しかも船長は山茶花という。このファンタジーのあつさよ。

◆金子兜太 私の一句

死にし骨は海に捨つべし沢庵嚙む 兜太

 この句を目にした時、胸をガツンと打たれた気がしました。一凡人である私は、世に名を残すこともなく、命が尽きれば、この世から消え忘れられてゆくのだと達観している。だからこそ生を全うしたいと思っている。たとえ沢庵を食ってでも、である。私の人生訓にしたい句です。『少年』(昭和30年)より。佐藤君子

涙なし蝶かんかんと触れ合いて 兜太

 「出会いは、人生の香り」と聞かされてきた。兜太先生と出会わせてもらい、半世紀が過ぎた。ふらふらとずるさもしながら、やっとなんとかここにいる。万謝である。掲句は、「海程」最後の熊谷大会で出句した句が佳作に入選。頂戴したサイン入り『いま兜太は』(平成27年・岩波書店)の中にある。万象の命への感受、天からの声が聞こえてくる。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。森田高司

◆共鳴20句〈1・2月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
蟋蟀の声脳幹の碧色 石塚しをり
良心に勝る杖なし大花野 鵜飼惠子
雨上がり昔を映す水溜まり 大西政司
曼珠沙華言葉に毒を乗せて吐く 奥山和子
○邪な愛をプチトマト転がる 桂凜火
古稀以後の遊び足りない烏瓜 加藤昭子
人は渦をつくりては解き天の川 鎌田喜代子
花野道兵士は前を見るばかり 楠井収
吊皮に見覚えのない右手かな 小松敦
なんでもないそう言いながら雪の道 小山やす子
十六夜や聖域という揺らぐもの 近藤亜沙美
坂道も人の命も秋色で 佐藤詠子
冬の虹自転車の青年が追う 佐藤博己
晩夏光鍵の匂いを深く嗅ぐ 重松敬子
木の葉髪生きた証しが湯に遊ぶ 立川弘子
はつしぐれ海にも海があればいい 平田薫
○萩白く母はことばの向こう側 藤田敦子
待たされてもいい満月なんだから 船越みよ
自虐とう手近な安堵蝉の穴 森由美子
秋思とはナースコールの一歩前 渡辺厳太郎

刈田光児 選
吹く風に吹かない風に秋の艶 泉陽太郎
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
鰯雲対策本部事務会議 片岡秀樹
酔芙蓉モデルはすっと笑う面 川崎千鶴子
雁渡し逝ってしまえば反故ですね 河原珠美
秋霖を胸の林へふりそそぐ 後藤岑生
薔薇の門に青き棘あり潜りけり 小西瞬夏
新潟米一年分を取りよせて 小林花代
青春の18きっぷ青みかん 齊藤しじみ
曼珠沙華身のうちそとの水揺れて 佐孝石画
在りし日の母の携帯金木犀 志田すずめ
峡住みの男へぼろんと木の実降る 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
十五夜の靴が揃って跡目論 すずき穂波
糸とんぼこんな湧水ある平和 芹沢愛子
虫鳴くや点滴流れゆくからだ 高木水志
指物師ナンバンギセルなど吹かす 鳥山由貴子
毒舌はきみの優しさ曼珠沙華 室田洋子
月そっと心療内科をひらきます 望月士郎
嘘つきの狐になって早五年 らふ亜沙弥

すずき穂波 選
院展や首にあご埋めなおし観る 石川まゆみ
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
いのこずち私の邪魔をしない蛇 奥山和子
○邪な愛をプチトマト転がる 桂凜火
聞き返し聞き返し紅葉かつ散る 川崎千鶴子
秋日影近未来的水飲み場 川田由美子
梨噛んで夫が遠い目をしたる こしのゆみこ
裸電球背中は一本の廊下 三枝みずほ
秩父産土寒凪の水を恋すなり 関田誓炎
蜩や引き延ばされた僕がいる 高木水志
蝉の山は飢餓かな俺の樹が揺れる 竹本仰
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
霍乱の母に冷凍野菜貼る 新野祐子
たましひのはなるるけはひ霧の杖 野﨑憲子
○茗荷咲く痛みはもぐり込んでゆく 日高玲
○萩白く母はことばの向こう側 藤田敦子
蓮の実飛ぶ水輪のように帰心あり 船越みよ
大花野旅の一座のホバリング 松本勇二
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子

横地かをる 選
場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
冬瓜転がす時々人間が淋しい 井上俊一
あめんぼうこんなに軽い静寂感 榎本愛子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
山法師流れのままに今をゆく 黒岡洋子
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
つま先から未来へ入る秋の山 すずき穂波
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
○茗荷咲く痛みはもぐり込んでゆく 日高玲
国境の切り取り線に秋夕焼 増田暁子
やわらかい気持ちの余白おでん喰う 松井麻容子
紫蘇の実を摘みし指先水を編む 松岡良子
いつはりなきかたちとなりて枯木星 水野真由美
草雲雀ふっと鉄道唱歌かな 三好つや子
自然薯に山の記憶の容かな 矢野二十四
夕顔の凜と咲く家老世帯 吉村伊紅美
障子切り貼り動物の白過ぎる 若林卓宣

◆三句鑑賞

良心に勝る杖なし大花野 鵜飼惠子
 転ばぬ先の杖、という。何事も前もって準備しておけば失敗しない、といった意味だろうか。でも、と最近思う。杖を作るにもつくにも労力が要る。安全のため、権利のためなどといって日々たくさんの杖が作られる。作っていなければ非難もされる。でも、これって、きりがないのではないか。大花野を見渡す。答えを探して。

雨上がり昔を映す水溜まり 大西政司
 いつのことだったか。よく思い出せない。そもそもそんなことは、どうだろう、でも何かが、どこかに、引っかかっている。聞こえる。これはなんだ。雨、雨か、いや雨の音か。そう、雨だ。わかっている、もう過ぎたこと。もうどこにもない。どこにも。

晩夏光鍵の匂いを深く嗅ぐ 重松敬子
 すべてが気に入っていた。夏の朝日、冬の西日。台所から見える公園、子供たちの声。くしゃみばかりする給湯器、追い焚き機能のないお風呂。妙に縦長の靴箱、持ち上げてから閉める扉。地図の染みがある天井、壁を埋め尽くす本棚。そして、あなたの机。それが、前触れもなく、こんなにあっけなく。それが。でも、これでよかった。きっと、これでよかった。
(鑑賞・泉陽太郎)

峡住みの男へぼろんと木の実降る 白井重之
 一句は、春の季節を裏返ししたような晩秋の峡の美しい景が想像される。青天と紅葉した夥しい木の葉のコントラストの対比に、季節のクライマックスを見る。時折り木の実の落下の響きが周りの静寂を破り、余韻の後に静寂を深くする。〈ぼろん〉というオノマトペが何とも効果的。生活を愛し、俳句を生き甲斐とする作者。

糸とんぼこんな湧水ある平和 芹沢愛子
 この句を試みに数式で読んでみる。〈糸とんぼ+こんな湧水ある=平和〉、動詞〈ある〉は、上下に掛かるあるあるの両掛かりと読みたい。一句は、稚い糸とんぼと湧水の清らかな美の中に自然の真の平和を感受した。ちなみに新潟市郊外に在る「佐潟さかた」に生息している糸とんぼは、ラムサール条約の庇護のもとに平和に生きている。

指物師ナンバンギセルなど吹かす 鳥山由貴子
 指物師という名前に、指の文字が使われており、精巧な細工を施す器用な技能が窺える。細工物を見たくて興味津津。ナンバンギセルは夏の野草。ネーミングが面白く、両者の取合せが実にユニーク。導入の副助詞の〈など〉は、他の物を暗示する含みのある言葉で、戯けぶりが軽妙。読み手に想像の余白を預けた一句。
(鑑賞・刈田光児)

聞き返し聞き返し紅葉かつ散る 川崎千鶴子
 「耳遠くなり、目薄くなり……それが老い、いたしかたなく、かたじけなく、それが老夫婦の両想い?まだまだ人生紅葉、けれど、はらはら散り初めたのよ、ちゃんとわかってあげたいから、ちゃんと解り合えたいから、何度も聞くよ、何度でも応えるよ」こんな慈愛の一行詩。

秋日影近未来的水飲み場 川田由美子
 「近未来的」は「前近代的」の陰画ネガ。不透明で不穏な現代、この二極は同一性を帯びてもいるのだ。秋日影に存在するノスタルジックな一隅、そこに機能美を備えるものの無機質な水飲み場を見つけたのだろう。人間不在の感も漂う。地球砂漠化が言われているが、水の惑星の、水の未来を一瞬想い描いた作者の空疎感、そして倒錯感。

たましひのはなるるけはひ霧の杖 野﨑憲子
 ビデオゲームに「霧の杖」という奇妙なソフト名があるが、掲句は霧中に置かれている杖だろう。人影は見えず、亡き人の魂だけが未だ杖に残っている。その魂もそろそろ杖から離れようとしている。霧が晴れやがて杖そのものだけが遺品と化し、故人の存在が比類なき確固たるものとなる。この句の映像は、幻視に終わっていない。「いのち」が深く捉えられているからだ。
(鑑賞・すずき穂波)

水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
 不登校を比喩に用い一句を成立させている。さまざまな原因や理由で学校への行きづらさを感じていること子どもの現実がある。「水場」にいる「小鳥」は不登校の子のすがたとも重なり胸が痛くなる。しかし、「翼」にはその子の心を落ち着かせる確かな力量を感じる。広い世界へ飛び立とうとするプラス思考への昇華でもある。

山法師流れのままに今をゆく 黒岡洋子
 三年におよぶコロナ禍の規制。以前の生活とは余りにもかけ離れた日常を余儀なくされ、家の中に籠る作者。「流れのままに今をゆく」思い描いていたコロナ前の暮らしとは甚だ違う生き方を強いられてきた作者の偽りのない心の在り様は尊いもののように感じる。流れに抗えぬ人の暮らしの余情がにじむ佳句。

やわらかい気持ちの余白おでん喰う 松井麻容子
 緊張がほぐれた時、ほっと気持ちが軽くなることを覚える。「やわらかい気持ちの余白」はそのような状況なのかと思う。精神的にゆとりが出てくると何か食べたくなるということも心情的に理解できる。折も折、じっくり味の沁み込んだおでんを口にされたのだ。心も体も温かくやわらかい。作者の真心がしずかに伝わってくる。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

いい人と呼ばれたくない冬夕焼 有栖川蘭子
尾を持たぬ巨大な影と日向ぼこ 有馬育代
冬椿人の重さの撓みかな 安藤久美子
胆勇を備へ旦暮のマスクかな 飯塚真弓
水初めて氷る山羊を飼う保育園 石口光子
冬の蝿冬の踊の真青なる 石鎚優
うさぎ抱く少女のピアスしゃれこうべ 上田輝子
ひとり身に横殴りかよ初こがらし 遠藤路子
A型かB型かといえば時雨る 大渕久幸
氷の眼いま恍惚の核ボタン 岡田ミツヒロ
哲の日の降りみ降らずみ雨絶えず 押勇次
帰る家なし押し競らに弾かれて 小野地香
妣命日はこの店のこのシクラメン 樫本昌博
皹を隠しいくばく親不孝 木村寛伸
吊し柿夫婦の糖度高めあう 後藤雅文
聖樹高々人はみな誰かの子 小林育子
銀杏降るこの名画には武器はない 近藤真由美
平和呆け少ししていて開戦忌 重松俊一
ワシントン靴店俺たちの墓標とあり 清水滋生
高一や浮かんで消ゆる春を抱き 立川真理
冬かげろう吾の眼にいない吾を探す 立川瑠璃
絞首台のあった辺りや雪蛍 藤玲人
敵味方の鍵こじあけよ初景色 福井明子
想像の及ばぬ日々を時雨かな 福岡日向子
青春は戦争さなか日向ぼこ 増田天志
雪の道ひしと玉子を買って帰る 松﨑あきら
春の闇六畳一間は脈をうつ 村上舞香
頬かぶり似合える君と手をつなぐ 吉田もろび
机下に垂れるエゴイズムしゃこばさぼてん 渡辺のり子
雪女郎手首にナイフ軽く当て 渡邉照香

『海原』No.46(2023/3/1発行)

◆No.46 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

榠樝の実落ちて居場所のなかりけり 伊藤幸
よう来たか秩父木枯吹き合う笛 植田郁一
フェイスシールド色鳥は純な球 大沢輝一
よう咲いたと白山茶花に一献 大谷菫
神送りアンサンブルのような雨 小野裕三
穭田の光唄えば自由律 加藤昭子
覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
好きな曲だけを集めて小鳥来る 小松敦
戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
やわらかい握手のごとし荻に月 佐孝石画
連弾です大草原の草紅葉 鱸久子
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
ざくろの実その感情のつとはぜる 竹田昭江
かりんの実青く重たく中学生 田中亜美
雨戸重たし無縁社会はしぐれたり 長尾向季
更地にもなれず被曝の田にすすき 中村晋
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
誘うような手首の静脈秋の蝶 仁田脇一石
肉親との話し炭火のあたたかさ 野口思づゑ
人類に国境のあり鰯雲 野﨑憲子
綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
言い訳の色づく秋の山帰来 松本千花
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士
時雨忌やラーメン店の列に従く 村本なずな
血の色の実の生っている寒さかな 望月士郎
ラ・フランス自傷の匂い微かなる 茂里美絵
飛魚は星座になってみたいんだ 森由美子
燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫
老老の庭灯すごと石蕗の花 吉澤祥匡

中村晋●抄出

秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
今夜読む本ありホットミルクティー 大池美木
弔辞優し屋根に燕の列長し 大久保正義
模造銃構え少女の微笑む冬 大西健司
桜もみじ巣箱はさびしいオブジェです 河原珠美
立て掛けし画架イーゼルに跳ね櫟の実 北村美都子
月夜です田んぼに忘れし茣蓙一枚 小池弘子
覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
友の名呼ぶ冷たい月を撫でるように 佐孝石画
はつ雪をまず掌になみだほど 佐々木香代子
差羽来て野はひりひりと透き通る 篠田悦子
日の沈むくにの国葬まんじゅしゃげ 芹沢愛子
冬野やや遠くに孤礁のよう老人 十河宣洋
紅葉かつ散る停戦の落しどころ ダークシー美紀
窓越しに看取る日もあり朴落葉 立川由紀
白コップに牛乳注ぐ十一月 豊原清明
返さるる介護寝台暮の秋 長尾向季
半月は子規の横顔粥すする 船越みよ
眼の合ひし野菊を摘んで誕生日 前田典子
秋ばらの棘のしづけさ出さない手紙 松本千花
よく凍てて星を集める生家かな 松本勇二
葬儀屋のロレックス光る朝霧に マブソン青眼
北風や執事のような猫と住む 三浦二三子
君の絵に丸ごとの秋 君がいない 村上友子
充電完了まで鰯雲で待機 室田洋子
野ぶどう熟れる片思いってなんと一途 森武晴美
天瓜粉すっぽんぽんが逃げまわる 森由美子
自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫
コスモスに風コスモスの風になった 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

よう来たか秩父木枯吹き合う笛 植田郁一
 言うまでもなく、兜太師を偲ぶ句。「よう来たか」に、師のこわぶりが乗り移っている。作者自身、その声、その言葉の体験者であり、それは今もなお秩父の木枯らしの笛の中から聞こえてくるものなのだ。師亡きあと五年の歳月を経てなお、師の声がまざまざと聞こえてくるというのは、それだけ師を惜しみ、その臨在を待望する多くの人々の思いを、伝えようとする作者の願いでもあろう。

穭田の光唄えば自由律 加藤昭子
 穭田に萌え出る若い稲が、懸命に新しい茎を伸ばそうとしている。それは晩秋の光の中に輝いて、あたかもてんでに唄を唄っているかのよう。唄は斉唱でも合唱でもなく、それぞれ勝手にソロで唄い、中にはラップ調でしゃべくるものもいる。そんな混然とした演奏前の音合わせのような光の束を、「自由律」と言ってみたのではないか。この音と光の合奏の着眼は、穭田の風土感を新しい視角から言い当てている。

覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
 昔風の箱作りの鏡台で、親しい間柄の人がお化粧をしている。その「おつくり」の途中の鏡面に、ふっと覗き込むようにわが顔を差し入れて、あやかりたいとでもいうかのように、化粧する人の顔に重ねて鏡像を見ている。その瞬間を、「秋の鏡に入れてもらふ」としたのは、美しく仕上がってゆく人への羨望に近い憧憬ではないか。

戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
 おそらく、ここで隅々を拭いているのは、敬老日にお祝いされる当の老人であろう。別に誰に頼まれたわけでもなく、むしろ今日は何もせずゆっくりしていて下さいと言われていながら、自ら進んで隅々まで拭き掃除をする。後に残る世代に、せめて戦争のない今の平和な暮らしが続きますようにとの願いを込めて、丹念に。

やわらかい握手のごとし荻に月 佐孝石画
 荻は、蘆に似た水辺に生える高さ一〜二メートルの大型の多年草。中国では蘆荻という言葉もある。人目を忍ぶ逢瀬なら、恰好の隠れ処かもしれない。月は中天に登って、川辺のデートもそろそろ別れの時が迫っている。そよそよと揺れる荻のさやぎが、やわらかい別れの握手の触感をつたえるかのようだ。二人の胸には、同じ思いが兆しながら、なかなか切り出せない。作者の青春性がよく出ている一句。

肉親との話し炭火のあたたかさ 野口思づゑ
 オーストラリア在住の作者が、古き良き日本の風土感に根ざす句をものした。海外在住の作者には、こんな憧れがあるのかも知れない。たしかハワイ在住のナカムラ薫さんも、「野遊びの素直になるための順路」(令和三年九月)と作っていた。掲句は、久しぶりに帰国した時、炭火の火鉢を囲んで肉親と話をした。その温かかったことを、心も体もひとしなみに受け止めている。

人類に国境のあり鰯雲 野﨑憲子
 ウクライナ戦争をモチーフにしている句。この戦争は長期化の様相を呈し始め、出口の見えないまま対立と緊張度を高めつつ、世界を大きく巻き込む可能性が出てきている。二〇二三年、日本の国境周辺での緊張感は一層高まるかも知れない。世界のグローバリゼーションは、ウクライナ戦争によって機能不全に陥った。あらためて人類に国境があることを思い知らされたという危機感を、作者はひしひしと感じている。この場合の鰯雲は、降雨の前兆としての不安感であろう。

綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
 晩秋から初冬にかけて、青白い光を放って浮遊する綿虫は、雪蛍、雪婆の別名もあるように、幻想的なイメージがある。初雪の降る前に、交尾して産卵するから雌は大方妊婦だろう。綿虫の群は空中に浮遊するので、かすかな気流に乗っているようにも見える。こういう綿虫の生態をそのまま描きながら、「妊婦なり」の抑えで、その空間に漂う生臭いいのちの気配を表出した。

時雨忌やラーメン店の列に従く 村本なずな
 時雨忌は陰暦十月十二日、芭蕉の忌日。そんな由緒ある日に、人気のラーメン店では長蛇の列が続く。「色気」ならぬ「俳気」より「食い気」だ。列の一人に聞いてみた。「時雨忌ってご存じですか」「時雨の季節ってことでしょう。ラーメンも旨い時期ですしね」「いや全く…」。

 他に割愛した評釈に手を焼きそうな注目句を挙げておきたい。

フェイスシールド色鳥は純な球 大沢輝一
神送りアンサンブルのような雨 小野裕三
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
ざくろの実その感情のつとはぜる 竹田昭江
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
誘うような手首の静脈秋の蝶 仁田脇一石
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士

◆海原秀句鑑賞 中村晋

返さるる介護寝台暮の秋 長尾向季
 しばらく貸し出していた介護用のベッド。それが返却された。句意としてはただそれだけのことを叙述しているようにも見える。しかし、この作者には、介護用ベッドが返却される前には、たしかにこのベッドで人が生きていたという事実が見えている。そして返却されたということは、ベッドが必要なくなったということ、すなわちその人が亡くなったということ。そこまで鮮明に見えている。ベッドが貸し出され、返却される。その日常の中に「いのち」の在り処を見つめている作者の詩心が冴える一句。「暮の秋」の斡旋も見事だ。

窓越しに看取る日もあり朴落葉 立川由紀
 「窓越しに看取る」という表現が尋常ではない。臨終を迎える人と窓ガラスを隔てなければならない状況は、現在のコロナ禍がもたらしたものと想像される。また「日もあり」とあるから、作者は看取ることを日常にしている方なのだろうか。いずれにせよこの句にも、「いのち」の重みが感じられる。「朴落葉」が作者のやるせなさを代弁しているようだ。物に即して心を述べる「即物」の技法。この技術がこの句にしっかりとした骨格を与え、美しい佇まいをもたらしているように思う。

葬儀屋のロレックス光る朝霧に マブソン青眼
 この句も「いのち」に関わる句。とはいえ、捉え方は反語的。死を取り扱う葬儀屋の世俗性、俗物性を告発する作品である。光る「ロレックス」を描き出すところに、死者から金を吸い取り、肥え太る葬儀屋の金満ぶりを見逃さない鋭い批評精神が宿る。「朝霧に」紛れようとしても決して許すまいとする作者一流の反骨の一句だ。

紅葉かつ散る停戦の落しどころ ダークシー美紀
 「いのち」を犠牲にする最たるものは何か。それはおそらく戦争に他ならないだろう。しかもこの度のウクライナ戦争に関しては、核兵器の使用も示唆された。あるいは原子力発電所への攻撃もあった。世界が、そして地球が危機にさらされている。一刻も早く「停戦の落しどころ」を探りたい。その切なる願いが「紅葉かつ散る」にひしひしと伝わってくる。紅葉が散り尽くしてしまう前になんとかしたいとは誰もが願うことだろう。しかし、その方向に向かわないもどかしさ。

戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
 この作者も戦争に対する怒りを覚えつつも、そのために何をしたら良いのか、何ができるのか、困惑しているようである。「戦あるな」を単に掛け声だけで終わらせないためにはいったい何ができるのか。簡単には答えは見つからない。そしてふと我に返り、「隅々を拭く」ことになる。自分自身の日々の暮らしを全うすること、遠回りかもしれないがそれしか道はないという諦念だろうか。「敬老日」の措辞にしみじみさせられる。

自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫
 沖縄に住む作者による作品であることを踏まえると、「自死」の語が重い。太平洋戦争末期沖縄地上戦における自決行為を指すのだろうか。今なお多くの課題を担わされる沖縄。「君に青空はみえたか」の問いは、本土の我々にも「君は青空がみえるか」の問いになって響く。いや、戦争と関わりがなくとも、多くの人々に自死を強いる昨今の日本社会である。鋭く刺さる一句である。

秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
弔辞優し屋根に燕の列長し 大久保正義

 「いのち」の存在は人間に限ったものではない。すべての生きとし生けるものに宿っている。そのすべての生きものと心を通わせる感覚を「生きもの感覚」と兜太師は呼んだ。それを強く感じるのがこの二句。「秋の蟻」が「影の重さ」に立ち止まっているのか、それとも作者自身が自分の影の重さに立ち止まっているのか、読みに揺れを感じながら、いつしか読む側も「秋の蟻」と心を通わせている。作者と蟻との距離はかなり近い。この近さが「生きもの感覚」を呼び覚ます。これは「弔辞優し」の句においても同様。葬儀の際の一光景だと思われるが、屋根にずらりと並ぶ燕たちを見て、作者は、まるで燕たちが死を悼んでいるかのようだと見ている。いや、作者はまさに燕たちが死を悼んでいると断定する。この句に通う人間と燕との間の濃厚な「生きもの感覚」。齋藤茂吉の名歌「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」を思い起こさせる一句でもある。

天瓜粉すっぽんぽんが逃げまわる 森由美子
 子どもたちが子ども時代を十分に過ごせなくなっているのが今の日本社会。しかし、この句の「すっぽんぽん」は十分に子ども時代を過ごしているようで安心させられる。「生きもの感覚」が横溢する愛らしい一句。

差羽来て野はひりひりと透き通る 篠田悦子
 差羽が渡る頃の空気感。それを「ひりひりと」と体全体で捉えた表現の深さ。野、山、空すべてに「生きもの感覚」「いのち」を感じさせる、これぞ海原の一句。

◆金子兜太 私の一句

海を失い楽器のように散らばる拒否 兜太

 海を失う不条理に抗し、拒絶の意志は個々の反抗を通して連帯する。それを兜太は楽器が奏でる音楽に喩えた。失われた海は作句の地長崎に拘れば、鎖国政策によって失われた自由の謂か。だが、読者はそうした文脈を離れて、例えば水俣の海で、沖縄の海で、奏でられたノーを、慟哭と希求の旋律として受け止めることができる。『金子兜太句集』(昭和36年)より。片岡秀樹

起きて生きて冬の朝日の横なぐり 兜太

 「気持ち良く目覚めると、オットット陽光のパンチを顔にくらったよ!」と、いかにも兜太師らしいウイットに富んだ御句で充実感に満ちています。「文化功労賞」をはじめ数々の受賞に輝いて居られた最晩年、2014年の95歳の時の句。この頃私は、師のお言葉は一言ももらすまいと講演会やカルチャーセンター、「海程」の例会や秩父俳句道場と、あらゆる行事を必死に追いかけていたのをなつかしく思い出します。句集『百年』(2019年)より。深山未遊

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
熱帯夜ああ魂が浮いている 阿木よう子
コトリとも音せぬ炎昼ぬっーと兄 綾田節子
悦楽はまだ先のこと片陰り 泉尚子
美しき誤解でありぬ秋の蝶 大池美木
秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
観念的な夏空戦車通り過ぐ 大西健司
性という螺旋階段林檎剝く 片岡秀樹
ハンカチを上手に落とせない女 河西志帆
遠雷やショートホープの箱は空 小松敦
○会えぬままに友は蛍まみれらし 芹沢愛子
核の秋手品はそっと人を消す 田中信克
「あと一年できたらいいね」日々草 永田和子
しらたまや和解のこだわりを捨てて 日高玲
独り居の硯を洗ふ水の音 前田典子
なぜ空がこんなに青い 死ぬ日にも マブソン青眼
不眠ひたひた拍動ふかくケイトウへ 三世川浩司
哲学的限界集落鰯雲 嶺岸さとし
古書店ごと昼寝していて入れない 宮崎斗士
生きものたちに霧の中心の音叉 望月士郎
酒焼けの声が祭りの山車を出す 若林卓宣

刈田光児 選
秋の雲まだ地に足が着いている 石川青狼
百物語一斉に携帯アラーム 石橋いろり
夜を音読する鈴虫よ旅に出る 伊藤清雄
赤蜻蛉すぐに届いた返信封書 故・宇田蓋男
口中のほおずき鳴らし返事する 榎本祐子
黄金虫今朝は異界につながれて 桂凜火
虫すだく闇のみずみずしく生れて 北村美都子
瘡蓋のような新宿そろり秋 こしのゆみこ
数学が苦手で蛍追いかける 佐々木宏
咲ききったカサブランカの孤独感 清水茉紀
ハマヒルガオ越後の国の駅無人 鱸久子
原爆忌水音だけを聴いている 竹本仰
肖像の人みな故人白露の日 田中亜美
疣蛙いぼがえる悠悠自適の貌上げて 樽谷宗寬
青僧の撞く梵鐘や水の紋 中内亮玄
○星涼しわれら明るき草である ナカムラ薫
太陽吸い死地覆い葛光りまくる 中村晋
八月を山折り谷折りしまいをり 藤田敦子
萩こぼる本をさがしていて兜太 松本勇二
夏帽子おやつのような風が来る 宮崎斗士

すずき穂波 選
かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
かなしみを逃水のように持て余す 榎本愛子
○怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
君という巡る流星静かなり 近藤亜沙美
よく噛んで顔の輪郭に追いつく 三枝みずほ
ゆるやかな喪失であり蝉時雨 佐孝石画
野菊の前で接吻していい村だ 白井重之
○会えぬままに友は蛍まみれらし 芹沢愛子
引力に乳房は任せ登高す 高木一惠
体液が流れるように夏越かな 高木水志
幼子や西瓜に食べられているよう 谷川瞳
○星涼しわれら明るき草である ナカムラ薫
蟬しぐれ水のようです溺れます 丹生千賀
古稀すぎて裏が表につくつくし 増田暁子
ぼんやりの反対は鬼秋彼岸 松本勇二
過疎村をばりばりと食み鬼やんま 嶺岸さとし
この星を捨て子のように天の川 望月士郎
虹ときに暗帯となり国滅ぶ 茂里美絵
地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名
文化の日巻き取られない人だつた 山下一夫

横地かをる 選
百日紅黙はこころの瘤である 伊藤道郎
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
○怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
抽斗に初秋ことんと音を出す 大沢輝一
霧食べて育つ霧の子霧の家 奧山和子
秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
行き先をまだサンダルに告げてない 河西志帆
言霊の優しさ結び星祭 高木一惠
骨格標本ひとつはきっと蚊帳吊草 鳥山由貴子
被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
ひょんなことから風に好かれて露の玉 野﨑憲子
十三夜車窓に知らぬ私いて 藤田敦子
月光に溶けゆく私というさざなみ 藤野武
はらはらと消えた日常鳥渡る 本田ひとみ
庖丁を研ぎゆく無心十三夜 前田典子
秋の蜂木の家ふっと木に還る 三浦二三子
敗戦忌母には母の水たまり 宮崎斗士
アキアカネつと世紀末横切りぬ 茂里美絵
折り合ひの自在かなしき秋茜 山下一夫
病室の白い天井 白い出口 横山隆

◆三句鑑賞

秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
 繋がっている。世界中と。いつでもどこでも、繋がれる。今日も明日も明後日も、今日も昨日も一昨日も、誰かが語りかけている、語りかけられている。ワタシは今、ひとつの死を悼んでいる。かけがえのない死を。でもそれは誰にも伝わらない。伝えたくもない。繋がっていても、繋がれていても。

遠雷やショートホープの箱は空 小松敦
 肋骨骨折、足関節捻挫、顎関節脱臼。口が塩辛い、背中が冷たい。腕は動く。少しずつ、少しずつ、手首をねじる。すっと引いて、抜けた。腕で這う、壁まで。ずり上がり、座る。誰もいない。胸ポケットをさぐる。潰れた箱、引き出す。そっと広げる。空っぽ。今日はツイているのか、いないのか。ずっと耳鳴りがしている。いや、神の声かもしれない。

古書店ごと昼寝していて入れない 宮崎斗士
 古本っていったって最近はネットでさ、何しろ手軽だよな。でもさ、ほら、運命的な出会いってやつ、あれはさ、なかなかネットじゃね。なんかこう背表紙が輝いててさ、手が震えるんだよな。で、オヤジは?え、奥で昼寝?なんだよ、また閉まってんじゃねえか。ウンメイ返しやがれ。
(鑑賞・泉陽太郎)

秋の雲まだ地に足が着いている 石川青狼
 掲句の表記は実にシンプル。しかし、天地にひとり佇む宇宙感。そして、流れゆく雲と、足裏から伝わる大地の柔らかい感触に、秋を感受する風土の匂いが生まれる。上句と下句をつなぐ副詞〈まだ〉は、時間を表し、やがてやって来る冬を予見しつつ、今が在るという良い意味の味を出している。読後から余白が見えてくる。

瘡蓋のような新宿そろり秋 こしのゆみこ
 〈瘡蓋〉とは、「はれもの、きずなどのなおるに従って、その上に生ずる皮」という。日本一の大都市新宿が今瘡蓋状態とは何なのか。この謎を解く鍵は、〈そろり秋〉に在ると思われる。夏から秋の変り目は更衣の時であり、古着から新調に替えるそろり秋なのだ。ファッションの流行は、大都市の女性から発信される。

太陽吸い死地覆い葛光りまくる 中村晋
 福島県と新潟県はお隣りさんであり、昔から人的交流が盛んに行われてきた。自分の伯父は喜多方の人と結婚したので縁戚関係になる。福島は史跡と文化遺産が多く小学校の旅行は福島と決まっていた。そんな行事も止まってしまった。作者のいちずに被曝を詠う俳句精神に共感し、一日も早い放射線の恐怖が消え去る時を祈る。
(鑑賞・刈田光児)

怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
 怖いという感情は、失うかもしれないという妄想から生まれる。妄想と混同されるものに空想がある。人間の社会は、常にネガの妄想とポジの空想が入り混じるが、この母君は、ネガの究極を突破し、ポジの上昇気流へ、乗り換えた。その先の「銀河」だ。進むべき道を見つけた母君のコペルニクス的転回。母のその転回点に呪術・宗教の原初的形態であるアニミズムの存在を感じた作者。

虹ときに暗帯となり国滅ぶ 茂里美絵
二重の虹の主虹と副虹に挟まれ透けている部分を「アレキサンダーの暗帯」というらしい。その部分は二つの虹の背景であり、即ち雨雲の部分。その暗さが「滅ぶ」に繋がる。虹に吉兆を見るというが、現代社会の暗渠を、敢えて剥がし、凶の予兆と見てとった。作者には「薄紙をはがすたび虹近くなる」(句集『月の呟き』)の句があり「虹」への想念は深い。そして上質なのだ。

文化の日巻き取られない人だつた 山下一夫
 兜太師の匂いがする句だ。国からのご褒美の、文化功労者でありながら、断固あの「アベ政治を許さない」をやり通した。が、今冬、突如政府は反撃能力の保有を決定、防衛3文書を改定。我々国民としては「巻き取られ」感が、ひどく強く在るのでは…。
(鑑賞・すずき穂波)

秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
 母上は、作者とは異なる世界に旅立たれたのでしょうか。「秋茄子の色濃きところ」美しく、つややかに実った秋茄子を目にしたとき自然がつくる不思議な力を覚える。この深い色合いに母の姿を重ね合わせ、穏やかに過ごしたであろう母上との関係を見事に昇華させている。感慨をこめて一句に掬いあげた佳句。

庖丁を研ぎゆく無心十三夜 前田典子
 どんなに切れる庖丁でも使っているうちに切れ味が悪くなる。今夜は研ぎ直そうと心に決め厨に立つ。庖丁を研ぐ技量はすでに心得ているのかも知れない。注意深く、丁寧にていねいに、無心になって研ぐ。硝子窓から差し込む十三夜のひかりが美しく作者を照らし出す。十三夜がファンタスティックな世界を醸し出している。

病室の白い天井 白い出口 横山隆
 作者は、体調を崩されて入院生活を送っておられるようだ。コロナ禍の入院生活は健康な人には想像も及ばない日々なのでしょう。「白い天井白い出口」と白を際立たせ、病室を無機質なものと捉えている。家族との面会もままならない現実。不自由さと虚しさ。中七下五の空白が作者の心理を表している。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

あなただけが愛してる狂い花咲く 有栖川蘭子
すすき原すすき一本づつ二人 淡路放生
竜胆に慎しい自由あります 安藤久美子
鯛焼の背に風が欲しいよ君を欲しいの 飯塚真弓
秋薔薇みにくき足をさらしけり 石鎚優
弱者とうカテゴリーあり蛇穴に 遠藤路子
月光や父のカオスに母ひとり 大浦ともこ
月夜茸征かない人ら笛吹いて 岡田ミツヒロ
ババ抜きのババ持ちしまま冬の過ぐ 小野地香
嘘ついてどの口で吹く夜の葛湯 かさいともこ
無花果を食べてふふふの夫婦です 後藤雅文
臨終の金魚みつめる聖夜かな 小林育子
冬めくや小窓に嵌まる鉄格子 佐竹佐介
騙しきることの重さや青瓢 宙のふう
落ち椿触れるを拒む導火線 立川真理
雪女郎人恋うる時紅くなる 立川瑠璃
夫逝きてうつし身しぐるるばかりかな 服部紀子
あかまんまあえてでこぼこあるきたい 福井明子
銀杏落葉別れ話を気の済むまで 福岡日向子
カオナシが居るかも知れぬ虫の夜 藤井久代
金木犀画家の名前が浮かばない 藤川宏樹
枯蓮や老兵重い口開く 保子進
銀幕は黄泉人ばかり秋しぐれ 増田天志
霜降や消え去ることの意味を問う 松﨑あきら
神将の憤怒に釣瓶落しかな 村上紀子
うっとりとは水温むこと午後のこと 村上舞香
鶏頭花其処にモンローがいるのです 横田和子
ペチコート馬鈴薯抱へ居眠れり 吉田貢(吉は土に口)
耕して親父の子なり小六月 吉村豊
柿撫でる子規の痛みをさするかな 渡辺のり子

ヨロコブコロヨ 望月士郎

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

ヨロコブコロヨ 望月士郎

吾が妹を摘み草組みつ思い川
詫び景へ椿は奇抜平家琵琶
水張りて春田の垂は照り弾み
涅槃西風釈迦の手の火車死人跳ね
半ば摘み野に措く鬼の三葉かな
今もなお花影の家か妻も舞い
老いの名は大観描いた花の庵
策なきを悦ぶ頃よ翁草
遠の田は霞の御簾か機の音
蹴上がるは辞世の伊勢路春が明け

野の指とまれ 川田由美子

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原賞受賞 特別作品20句

野の指とまれ 川田由美子

ちちははの形代として朝の虫
きざはしが好きで穂草に生まれけり
押印のよう帰燕気流と擦れちがう
古代的近未来的樗の実
枯芙蓉からから風に産毛あり
なつかしい庭こがらしの櫂すべる
夕こがらし生家に母の被膜かな
冬野道スクリーンにかげおさな
根のようなり胸静もりて冬の梢
寒の水絵本の底にあるひかり
白猫と冬野ふうっと浮力
ロゼットに海流のあお目深なり
冬日影炙り出しのように家族
ひかりも声も澪曳き剥がる冬の石
野の指とまれ蠟梅は今ひとりかな
葉は櫂とふ旅人木たびびとのきと春隣
白梅や生まれたばかりの風探す
春の切株鴉の声の雨垂るる
椋実色母の春愁おっとりと
礫の字に春野の小人混じるかな

ウルトラマン商店街 大池桜子

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原新人賞受賞 特別作品20句

ウルトラマン商店街 大池桜子

ウルトラマン商店街や冬ざるる
わたくしのそっくりさんがいる二月
とんかつ屋いつもの席が春隣
ドーナツに並んでいれば余寒かな
毎朝通るぶらんこだけの公園
春ってかなしいピアノの音がする
大好きなご夫婦に会うかすみ草
桃の花やさしい男に慣れてない
卒業式全然詩なんてないんだ
モジリアニみたいなマスター春暖か
リラの花ひとりでスマホで乗り切れる
住民が後輩ばかり春うらら
啓蟄ややたら垢抜け都会っ子
蝶の昼写真立てがたおれてる
夢で見る風船今日も切ない赤
君が子どもみたいで小手毬の花
やっぱりデザートも頼む猫の恋
風光る憶えてる数忘れた数
蜃気楼あなたの駅を今過ぎる
ふるさとがまた遠い雛祭

モナリザの姉 望月士郎

『海原』No.45(2023/1/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

モナリザの姉 望月士郎

風光りピカソの青とすれちがう
モネの絵に絵具を見てる春愁
海市にてビーナスの腕ニケの首
ルノアールの裸婦むくむくと雲の峰
霧深く抜けてキリコの街角に
シャガールの魚を買いに月の駅
蜻蛉が案山子にとまるときピエタ
蓑虫にムンクと名付ける叫ばない
兄さんへテオより贈る耳袋
モナリザは妹なんです雪女

『海原』No.45(2023/1/1発行)

◆No.45 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
禁断のアラート穴に這入る蛇 石川青狼
うすもみじ花屋のオジサンに嫁がきた 伊藤幸
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
今行きます曼珠沙華からコールです 大髙洋子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
遠太鼓スクワットする黄落期 河田清峰
田水落す月面に降り立つかな 川田由美子
人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
人間の着ぐるみを着て秋の空 小松敦
はんこたんな嫁も姑も稲架掛ける 佐藤千枝子
コスモスのをさな顔なる土性骨 ダークシー美紀
残響は霧にまみれて渓流よ 田中亜美
オオアレチノギク泣くこと黙ること 田中信克
横顔が雲だったころの青レモン 遠山郁好
ただ抱いてくれる背なから小望月 中野佑海
秋暁の後ろ歩きを見守りぬ 野口佐稔
君のおしゃべり僕のだんまり釣瓶落し 日高玲
コロッケの掌に温かき十三夜 藤野武
認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
小鳥来る誤字いっぱいの母でいい 宮崎斗士
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
虹消えてゆく硝煙のその最中さなか 茂里美絵
身ぬちにも荒野のありて蕎麦の花 矢野二十四
薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
耳朶に風シラタマホシクサの心地 横地かをる

前田典子●抄出
雲垂れ込め秋刀魚漁船の黙溜もだだまり 石川青狼
水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
細身の秋刀魚こうもミサイルに脅されては 植田郁一
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
切り岸の光の中を落ちる蝉 榎本祐子
秋の風頭があって手足あり 大沢輝一
残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
月光の匂う交換日記かな 片岡秀樹
稲架解いて厚き耳たぶ持つ子かな 加藤昭子
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
銀河濃しわが掌になにもなし 北上正枝
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
強情が秋に追い越されてしまう 佐々木昇一
青首大根両手に下げて妊婦来る 佐藤二千六
南あかるしかぐわしき稲の里 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
川とんぼ舳先にやわらかい会話 本田ひとみ
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
冷製スープコスモスの遠い揺らぎ 茂里美絵
眼鏡拭く雨月の失言消えるまで 山田哲夫

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
 「御託」とは、自分勝手な言い分をくどくど言い立てること。そんな厄介なものを聞いてやろうというのも、一つの市井の知恵で、向こう三軒両隣の世話役ならではのもの。「君」という呼びかけがその立ち位置を示す。作者には、そんな下町っ子の心意気がある。「まあまあ、いいからいいから」という声が聞こえて来そうだ。

風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
 「風鳴りの丘」に立つのは作者自身で、そこで自らの「秋思の捌き方」を習得しているという。秋はことのほか、事に寄せ物を見ては、秋の淋しさを感じ、物思いにふけることが多い。そこから故知らぬ悲しみに沈湎してしまうこともある。そんな秋思をきりよく捌いていかないと、落ち込みからは抜けられそうにない。風鳴りの丘に立って、そんな秋思の捌き方が自然と体感出来そうな気がしてくるのも、自然に教わる暮らしの知恵というものかもしれない。

秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
 今年の海原新人賞作家。日常身辺の題材を、素直に自分の感性で受けとめ、同世代同士で使っている普通の言葉で呟いている書き方だ。この素直さが、この人の新鮮さとなっている。秋の日ってクリスタルだよね、だから私の新しい靴も輝いているんだね。そうなんだ、嬉しい!、とばかり靴を抱きしめる姿まざまざ。

敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
 「敗戦忌」と「働く虫」との取り合わせによって、まず浮かび上がるものは、戦争によって多くの無辜の民に強いられた犠牲や不幸のことだろう。平穏な日々の暮らしと働く日常さえあれば、それだけで十分幸せだった人々。作者のまなざしは、今働いている虫たちにその人々の姿を重ねて、彼らの日々寧かれと願う祈りをこめているのだ。

柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
 遺体の埋葬を、野菊咲く草原の一角で行っている景。柩をおろし、最後のお別れに故人の名を呼んでいるところだろう。おそらく「御覧なさい。こんなに野菊が咲いて見送っていますよ。どうぞ、やすらかにお眠りください」と呼びかけているのではないか。心を込めた野辺送りの、素朴な華やぎすら見えてくる。地方ではまだ土葬も残っているので、こういう場面がみられよう。

人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
 この句でいう人生の余白とは、年を経て仕事の第一線から退き、余生を何事にも煩わされず、気ままに過ごそうとする時期を指しているのではないか。ところがその時を迎えてみると、そんな余白といえるようなゆとりのあるものではなく、なにやら追い込まれたような、穴まどいにも似た不安な日々を送る破目になりがち。そんな老いの有態を、「穴まどい」と詠んだのかも知れない。

認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
 晩年に認知症を患った母は、野菊のような童女の印象のまま逝去したという。これは痴呆からくる幼児返りによるものだろうが、時には愛らしく思えることもあるらしい。介護する娘の立場からすれば、すべての時がそうだったとはいえないにせよ、老いた母へのあわれみとも重なって、野菊の印象を思い出の中に、強く刻印したのだろう。母ももって瞑すべしとはいえまいか。

鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
 幼馴染の久しぶりの手紙のやりとりを予想する。「鬼灯二つ」とあるからには、女性同士の親友関係で、昭和時代に女学生の間で流行した友情以上恋愛未満の「エス」という関係なのかも知れない。そんな情感を匂わせているのが、「鬼灯」の質感だ。若き日には、もう少し隠微だった情感も、熟年の今は、懐かしい青春の思い出として、明るい口調の返事の中に蘇ってきたのだ。勿論こちらもそんな調子の手紙を出したはず。

霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
 今年の金子兜太賞を受賞し、今最も乗っている人の一人といえよう。その取材領域は広いが、題材の斬新さばかりでなく、この句のような人間存在の本質的在りようを風景の中に見出すこともある。霧の駅から降りてきた「みんな」は、皆一人ひとりなのに、「霧」という空間に「みんな」とともにゾーニングされていく。それは印象的な風景に囲い込まれたコンセプト的風景にも見えてくる。

薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
 回想の中の今は亡き兄ではなかろうか。今回の作品はすべて戦争回想句である。それも沖縄戦への回想のように思える。作品は亡き兄から聞いた生なましい見聞や記録から取材したものだろう。戦後を生きた兄が、沖縄戦に関わる何らかの顕彰を受け、記念の薔薇の花束を提灯のように高く掲げている景とみた。それは作者自身の誇りでもあったに違いない。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
 立秋も過ぎて、涼しさを感じ始めたものの、真夏に戻ったような暑さは耐え難い。若ければ存分に汗をかきつつやり過ごせる。作者は九十二歳の方。この作品を秀句とした決めては、「素直にくたびれる」という理屈抜きの、内発的な表出にあった。年齢を知った上での迷いはあったが、このお齢でなければ生まれないものであることを、大切にしたいと思った。一人称の句だが、わざわざ「私」を入れたのも、むしろ自然な効果があった。

我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
 下五の「式部の実」に、源氏物語を匂わせるところが憎いところである。読者をその物語に預けて、その恋のさまざまを想像させておくのだから。そして、「我が恋は」と、とぼけた位置から言ってのける。しかし、自身の言いたい的は外さない、ユーモラスな姿勢に魅かれた。

曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
 空の色と曼珠沙華といえば、〈つきぬけて天上の紺曼珠沙華〉(山口誓子)が思い浮かぶが、紺と赤の取り合わせた句柄が硬質的である。この自然の描写と、掲出の句の画との枠の違いということはあるが、趣が全く異なる。「空は端から塗りはじめよ」と言われた途端、画は自然の空になって、生々しく何かの気配が生まれ始まる。曼珠沙華は抽象的な不可思議な存在感を生み出し、「よ」の命令形が更に謎を深めてゆく。

弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
 もっとも表したいことがあるときは、ピアニッシモにするのだ、と聞いたことがある。「そっと弾く」も、初雪にはない趣の「秋雪」も、ピアニッシモの気配だ。繊細な弦の音色の余韻のなかに、一瞬の緊迫感のひびきがある。書かれているのは、弦とそれを弾く指であるが、読者は、弾かれたひとひらの雪を、無意識のうちに眼前にして、その感触や表情に誘い込まれている。喩の力の強みや、方法論を持つという姿勢への思いを深く持った。

つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
 ひらがな書きが、スローモーションのように「今」へと集約させてゆく。あのつくつくしの鳴き様には、限られた時間への命の切実さや、何かを急き立てるような感じを受ける。その響きの厳しさに触発されて、作者自身の「今」という時間への思いが喚起されたように思う。「ひりひりと」をどう捉えるか。こころの奥底から自然に沸き上がって得た、言葉を超える、真実の心情を表して動かしがたい。

歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
 日々、見慣れている「歯磨きの母」の日常の姿を、ふと眼にして切り取ったところに新鮮味を感じた。「背」ではなく、「背骨」、とした描写に、豊かだった母の老いゆく姿に抱く寂寥感が出ている。しかし、さびしいとは言わず、「寒露なり」と詠嘆する。思慕とも甘美とも思える母への視線が、たじろぐほどに純である。

馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
 世情に敏感になり、「国境線」をつい戦争に引きつけて見てしまいがちだったが、読み返して「海の上」や「国境線」に心が及ぶとき、人類の壮大な歴史が思われた。「馬肥ゆる」の馬も、約五千年前の小さな動物から大型化へと進化し、旧石器時代に人類とかかわり出したという。その馬が肥える季節。国境線の下の海は、ゆたかな潮流が繰り広げられている。戦争のことを意識下におきながらも、それを超えた、自然と人類との、いのちの営為の普遍性を得ていて感銘を受けた。

過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
 規制が少し緩んできたとはいえ、まだまだマスクをしてないと不安である。その不安は日本の隅々にまで浸透していて、過疎の村までその心理状況がゆきわたっている。しかも、見渡す限り新鮮な大気につつまれた田んぼ。水を落とすのは多分一人ではないだろうか。深刻な社会詠だが、諧謔性の帯びた作品として印象的である。

迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
 普通、葉っぱを見るときは、自然の風景のなかの種類、色彩などの形態であったり、季節の移り変わりに応じた変化など、ゆたかな美しさに魅かれる。この句の場合は、見る側の脳裏に記憶していた葉っぱへのイメージがふっと湧き出てきたようだ。この日は釈迢空の忌日。民族学的視線が、葉を憑代のような面として見た。一枚の葉への畏れに襲われた一瞬をとらえた感覚が鋭い。

風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
 さしずめ、そのシンフォニーの楽章は第四楽章のクライマックスだろうか。収穫を終えた安堵と歓喜にあふれた交響曲の響きが聴こえてくる。おのずと、刈田になるまでをさかのぼっての、壮大なスパンの、自然と共にした、人の営みの織り成すシンフォニー想像される。ゆたかな気分で立つ森田さんが宮沢賢治に見えたりもする。

◆金子兜太 私の一句

白椿老僧みずみずしく遊ぶ 兜太

 大日如来像で有名な、奈良の円成寺に遊んだときの作とあります(「金子兜太自選自解99句」)。参詣された日、円成寺の守番の老僧の話に「おうおう、うんうん」と耳を傾けていらっしゃる先生のお声が聞こえてくるようです。やがて純朴なお人柄の老僧と、青年期の運慶作の大日如来像を前にしての会話は、「みずみずしく」の言葉から、愉快に、聡明に、若々しく、お堂を満たして……。句集『詩經國風』(昭和60年)より。柏原喜久恵

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ 兜太

 ダケカンバは、薪ストーブを使用していた頃、母がその樹皮を利用して火をつけていた。鮭は食卓をよく賑わす。北海道に住む私にとってはいずれも身近なもの。しかし、「骨の鮭」などと思いを巡らすことはまったくなかった。そのような中、この句に出合う。参ってしまった。対象をわしづかみする力、そして直截な表現に圧倒される。句集『早春展墓』(昭和49年)より。佐々木宏

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
躓いた石が声出す暑さかな 大西宣子
麻服を着て見殺しにしていたり 小野裕三
太陽はふくらみ止まず水羊羹 狩野康子
ゆうれいの痛がる足にまだ軍靴 河西志帆
黴の花抱き人形の捨ててある 小西瞬夏
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
生い立ちに嘘一つまみレモン水 佐藤千枝子
ありばい崩し宇治金時にスプーン入れ 白石修章
水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
夢に愛妻寝首に汗の目覚めかな 瀧春樹
太ってぬくい茄子に諸事情 たけなか華那
梅雨冷や胸元に置く黒真珠 月野ぽぽな
十字切る兵士に天使来ぬ夏野 長谷川阿以
いつまでも嘘つく玉ねぎ剥いている 藤田敦子
錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
いいぞちょこまか人さし指を天道虫 三世川浩司
夫と厨にタバスコちょっと冷奴 村松喜代
手紙を書くときおり蛍狩りにゆく 望月士郎
涼しさはマチスの横向きの女体 山谷草庵
ウロコ雲猫の欠伸に負ける夫 らふ亜沙弥

刈田光児 選
紫蘇を揉む言の葉訪ねゆきて香 石塚しをり
犬に寄り人に寄る犬春の道 内野修
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
近江上布のおくるみ蓮の花開く 大西健司
口実をひとつ選んで水澄まし 奥山和子
少年のきれいな喉元蛍の夜 加藤昭子
みずすまし水の表裏を黙食す 狩野康子
夏風邪や義理人情のすたれた世 佐々木昇一
真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
老生のわれと遊びて源五郎 関田誓炎
わが生の各駅停車梅を干す 竹田昭江
旅に折る鶴のほどけし原爆忌 立川由紀
八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
鉄線花私語の鎮もるジャズ喫茶 平田恒子
白あじさい淋しい時はパンを焼く 本田ひとみ
目礼の距離美しく梅雨あがる 嶺岸さとし
花馬酔木やっぱり暗くなる序章 茂里美絵
ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
ウクライナ国花は向日葵潜む兵 山田哲夫
ががんぼや書き損じたる撥ね払い 横地かをる

すずき穂波 選
銀河に合図水洗いのワイシャツ 有村王志
飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
戦争が饒舌になる交差点 大西政司
七夕や人生の橋かけたるか 河田光江
源五郎静かに途方に暮れたり 木下ようこ
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
しばらくは白い靴を磨く 笹岡素子
送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
東北の雨より白し神隠し 遠山郁好
ごった煮の老人ホーム昼寝覚 中川邦雄
たっぷりと墨摩るように六月来 中野佑海
この村の青い蛙とよき湿り 服部修一
螢狩わたしの無口は軽い罠 深山未遊
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
心太突けば戦がしゃしゃり出る 渡辺厳太郎

横地かをる 選
青葉騒たわいないこと復唱す 石川青狼
庭の木に交信の水撒きにけり 鵜飼惠子
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
青芝に雨降りやすき椅子を置く こしのゆみこ
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
白樺はおとうさん優しい夏の雨 たけなか華那
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
野の薔薇の満開になる逢いに来い 仁田脇一石
空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
豊かなる時間に触れる茅花流し 平山圭子
アガパンサス夫は身体を空にして 松田英子
姫女苑群生独りぼっちかな 松本勇二
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
妻の背の日ごと胡瓜の曲り癖 山田哲夫

◆三句鑑賞

夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
 なぜか、かなり急峻な崖が浮かぶ。下に海、上に空。真夏の日差しが照りつける。崖の中ほどの出っ張りに鳶がいる。あたりを見渡している。しばらくすると、ふわっと飛び上がり、瞬く間に空の点となる。その鳶の足である。足が離れるその瞬間。離れるのは果たして鳶の足なのだろうか。夏の海へと。

水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
 真夏の公園。子供たちは汗だくになって元気に飛び回っている。その手には水鉄砲。最近の水鉄砲は高性能だ。滑り台の影に身を隠し、あるいはまたジャングルジムの上から全景を眺める。そして、命中。自分も思い出す。あれは快感であった。間違いなく。でも模造銃、その通りだ。紛れもなく模造銃であった。

錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
 交通の要所、戦略的要所である橋。破壊しなければならない。そのための爆弾を仕掛ける。間違いは許されない。その設置のためであろう、まずは丁寧に橋の錆を払う。実害はなにもない。だから、今まで放置されていた錆。橋は久しぶりに錆を払われる。そしてつるりと綺麗になった鉄骨に、爆弾はしっかりと固定される。
(鑑賞・泉陽太郎)

真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
 今日から夏という空から、ロックの王様、エルヴィス・プレスリーが太陽に乗ってやって来た。強烈な心象の一句。一九五〇年後半から世界的に流行したロックンロールは、日本へも上陸し、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス等の歌手が活躍した。令和の今でも夏に入ると、苗場山麓に於てロックの祭典が開催される。

八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
 アカネ科八重葎は、原野に自生し蔓をからめながら一面に生い茂る雑草。草類の茂る原野は小さな生き物の住処であり天国である。一句を読むと自ずとウクライナの戦争地へ思いが及ぶ。原野を戦車が縦横に走り回り、草を薙ぎ倒し、虫を踏み殺す。戦車の通った跡はゴシック体の文字の様。生き残る草に明日への希望の光が射る。

ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
 絶滅危惧種に指定されているハシビロコウは、ちょっとやそっとで動かない鳥として知られる。一句は、この珍鳥を比較対象にして墓を洗っている情景。墓を洗うという行為は、日常と少し離れた位置に在り、この時はご先祖様とかそけき会話を可能にする。一方のハシビロコウはひとり瞑想の世界に耽っている。俳諧味の句。
(鑑賞・刈田光児)

飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
 「飯饐える」の喩が独創的。「饐えた飯は水で洗って食べる」というから子育てを顧み、過去を丁寧に洗い出し、気持ちを立て直す。いじめ、フリースクール等、複雑怪奇な現代にあって、子を躾け一人前にするのは、並大抵のことではない。酸っぱくほろ苦い自責の念が伝わるが、決して捨てずに有難く全てを頂くのだ、ご飯も我が子も。

送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
 「送り人」とは納棺師のこと。採ってきて、くたっとなったワラビに人間、それも沢山の人の遺体を想った。一つ一つ労わりながらその(蕨)首を洗う行為に、戦争の悲惨な翳が過り、銃後の人々の心情に寄り添っている作者。昨年、二〇二二年の春の重苦しい空気が漂う。

ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
 外国人にとって日本語は他国語に比べ難易度の高い言語という。若者言葉なんぞは、この国の我々ですら理解不能なときもある。目まぐるしく変化する現代の言語社会を言語学者金田一春彦氏は「歓迎すべき変化」と肯定する。一方、日本の国家は、相も変わらず鈍。民衆の変化にもはや国家は対応しきれておらず、ズレが生じている。滑稽・諧謔味の「ところてん」に情致が加わり、一句の余韻は哀愁のジャパンの感。
(鑑賞・すずき穂波)

サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
 サルビアの花は赤、白、紫などがあり、作中のサルビアは目の醒めるような赤い花ではないかと感じる。「確かな火」具体的には表記されていないが、作者のゆるぎない思いを推し量ることも出来る。今の世界の殺伐とした時代を生きているわたしたち、平和への願いをつよくされたのかも知れない。読者の想像を誘う余白がある。

葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
 子どもは成人になるまで二度の反抗期を迎えるという。「いやというほど」イヤの連続は第一反抗期の特徴といえる。イヤイヤをいっぱい言って駄々をこねるのは成長期の大切な課程。親も長い目でみてあげることが出来ればいいのでしょうが、いい加減にしてという気持ちになってしまう。子どもとの緊張感がみえるよう。

空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
 旅に出ることの楽しさ、よろこびは日常とは違い高揚感が伴う。コロナ禍の旅行が戻ってきたとは言うものの海外旅行はいうまでもなく国内の旅も気が引けるというもの。そんな折、机に拡げた地図の上での旅を心の渇きにも似た思いでひとり試みている。虚しさがただよう。いつの日か必ずとの思いを空梅雨が静かに支えている。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
「アイタシ」と打電ひたすら啄木鳥 有馬育代
青檸檬アリバイのごと文字を置く 安藤久美子
秋澄むや足音はいつしか羽音 飯塚真弓
昔の事ばかり自慢す羽抜鶏 石口光子
しじみ蝶心臓の朱は見せざりき 石鎚優
十月やパンの匂いの腕を抱く 井手ひとみ
墓標みな木の十字架や草の花 植松まめ
ぎんなんの音きこえたようなめざめ 遠藤路子
生身魂朴念仁と笑ひ合ひ 岡田ミツヒロ
吊るされて鮟鱇の目の潤む かさいともこ
人間の証明写真八月尽 川森基次
黄落やピザ窯乗せ来るキッチンカー 清本幸子
かなかなや母の手は小さき日溜り 小林育子
秋夕陽黒雲押しのけ見事に落つ 小林翕
複眼の乾坤を鬼やんまかな 佐竹佐介
雁渡し晩年は子に頼らざる 髙橋橙子
霧は善を戻らぬ日日へ連れていく 立川真理
顔見知りの菊人形に誘わるる 立川瑠璃
意地を張る相手もいなくおでん酒 谷川かつゑ
水切り石翔んでとんでいわし雲 中尾よしこ
萩の雨あては股旅唄などを 深澤格子
秀でたるものなき日々を馬肥ゆる 福岡日向子
草の花夫と吾とに学生時代 藤井久代
クイーンにキングならべる良夜かな 藤川宏樹
花野裂くアウシュヴッツの線路ゆく 三嶋裕女
祭神の縁起さまざま新走り 村上紀子
日向ぼこ水平線の揺ぎかな 村上舞香
家がいいと言いし母と十三夜 吉田もろび
凍土も縁者も彼方骨拾ふ 渡邉照香
大花野わたしの棺の窓かしら 渡辺のり子

『海原』No.44(2022/12/1発行)

◆No.44 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

白絣今のわたしに出会った日 綾田節子
かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
民喜・三吉・あれはあつゆき雲の峰 伊藤巌
終活の写真に埋もれ夜の秋 伊藤雅彦
草の花なら屈葬の真似ごとをせん 伊藤道郎
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
小悪魔系が子育て系に檸檬かな 大池桜子
秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
祈るたび半透明に花貝母 小野裕三
沈みくる枯葉筆跡は自由体 桂凜火
秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
ミサイル落下どうりで海がぬるかった 河西志帆
生きて死ぬウィルスからすうりの花 木下ようこ
投句てふ生存証明すべりひゆ 黒済泰子
白き帆へなりゆく少年の抜糸 三枝みずほ
金柑や性善説も疲れます 重松敬子
老いるとは窓辺に茂る灸花 篠田悦子
静脈の混みあっている夜のあじさい 芹沢愛子
弾痕のごとき陰影蟻地獄 鳥山由貴子
見晴るかす天地の狭間田の青し 中内亮玄
被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
安心し不安になれる露の庭 藤田敦子
空蟬の中黙契の師の鼓動 船越みよ
ねじり花黙ってみている愛し方 増田暁子
芒原さすらい別の顔になる 松井麻容子
立秋や傭兵のごと歯を磨く 松本勇二
凌霄花ほたほた予告なき銃弾 三木冬子
国葬あり落蝉天を仰ぐのみ 村上友子
生きものたちに霧の中心の音叉 望月士郎

前田典子●抄出

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
相談したくなる涼しき目の赤子 石川和子
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
山中にすみれすみれに人一人 内野修
かなしみを逃水のように持て余す 榎本愛子
何ごともちょっと歪んで良夜かな 岡崎万寿
霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
さびさびの老い始めです初紅葉 川崎千鶴子
行き先をまだサンダルに告げてない 河西志帆
蝉時雨あなたはいつも窓を背に 河原珠美
吊り革がわりだった君の白シャツ 黍野恵
母やいつも秋の蛍を連れてゐる 小西瞬夏
隙をつくさよならに似て夕月夜 近藤亜沙美
みんなみに呆然と月熱帯夜 篠田悦子
麦の秋農あり能に通ふなり 鈴木孝信
鳥海山ちょうかいの藍見晴るかす展墓かな 鈴木修一
こっぱみじん寸前の星金魚玉 芹沢愛子
始まりは詩集の余韻白雨来る 高木水志
日常は重しひたすら草を引く 東海林光代
悲しむな狐が泉覗くだけ 遠山郁好
葭切しきり何かがちがう戦況報道 中村晋
ひとり言たてよこななめ熱帯夜 丹生千賀
空爆無き空の下なり麦踏める 野口思づゑ
シンバルが打つ番ざあっと来る夕立 北條貢司
白さるすべり胸に小さなやじろべえ 本田ひとみ
ミサ曲のような沈黙空爆後 マブソン青眼
摺り足で来た七回忌秋夜つ 村上豪
隣り合わせの影は恍惚さるすべり 村上友子
アスパラの青色という折れやすさ 森由美子
地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
 高齢化時代の今日、老々介護はもはやごく日常的な現象となりつつある。そうなれば傍迷惑にならないよう夫婦二人の支え合いを第一に考えざるを得ない。それは、日々の暮らしの中で、同じものを分かち合うようにして生きていくことにつながる。たまたま住まいの近くに、鶴がやってくることがあって、二人はその様子を、一緒に黙したまま、飽きることなく眺めている。その様子は外目にはあわれともみえようが、二人にとっての時間は、眩しいまでに満たされたものではなかったろうか。

民喜・三吉・あれはあつゆき雲の峰 伊藤巌
 原爆詩人として有名な三人の名を挙げ、あらためて原爆許すまじの思いを雲の峰に祈る句。「民喜」は原爆詩集「夏の花」の原民喜。三吉は「にんげんをかえせ」の詩碑を残した峠三吉。あつゆきは、妻子四人を原爆で失い、「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」の句を記した松尾あつゆき。掲句は、三人の原爆詩人の名を称名のように唱えて、眼前の入道雲を原爆雲とも見なしながら一句をものしたに違いない。

小悪魔系が子育て系に檸檬かな 大池桜子
 小悪魔系とは、あざと可愛いメイクやファッションで、男心をくすぐる女の子。子育て系とは、育児に悩みながらも懸命に取り組む世話女房志向型。小悪魔系は、子育て系をいまいまし気にみながら、ちょっぴりうらやましい気分もあって、ふと黙って檸檬を一個渡していく。どこか「頑張って」と声をかけたい感じだろうか。その微妙な気配は、作者の世代でなければ判らないものかも知れない。そんな世代間のエールではないだろうか。

沈みくる枯葉筆跡は自由体 桂凜火
池のほとりの枯葉が、風に舞いながら水面に落ちてゆく。やがて水中に没していく間、さらにゆっくりと揺曳しながら水底へと向かう。あたかも草書で書く筆跡のようになめらかな曲線を描いている。その筆跡模様を「自由体」と喩えた。実は基礎となる書体の中に、「自由体」なる書体はないのだが、ここは作者の想像力によって、枯葉の舞い落ちるさまを「自由体」と比喩したのである。そこに作者独自の創見があるとみた。

投句てふ生存証明すべりひゆ 黒済泰子
 月々の俳誌への投句は、なによりも自分の生存証明になっているとは、句作するものの実感だろう。このところ二年越しのコロナ禍に加えて、世界的な社会不安や戦争の脅威が高まりつつあり、句会もままならぬ日々が続く。そんな中、投句だけは私の生存証明ですと宣言する。「すべりひゆ」は夏から秋にかけて咲く五弁の黄色の小花。葉や茎は、栄養豊富なスーパーフードと言われている。「すべりひゆ」を季語にしたのは、私だって生きてるよというしたたかなアリバイでもあるのだ。

老いるとは窓辺に茂る灸花 篠田悦子
 灸花は、夏から初秋にかけて咲く可憐な花で、色がもぐさ灸の痕のかさぶたに見えるところからこの名がある。最近とみに老いの兆しを感じ、両親たちが加齢とともに愛用していたお灸を据えてみようかと考えている。とはいえあの肌に残るかさぶたのことを思うと、つい迷ってしまうのだが、待ったなしの年齢を思えば、もはや見栄や体裁にこだわるまでないか。窓辺に灸花が生い茂って、決断を迫るようだ。

被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
 原発事故で被災した福島の現実を、作者は執念深く追及している。福島は、全国でも二位の桃の名産地だが、今なお被曝の現実から逃れられないでいる。その生産者も同様。「被曝した手」が「被曝した桃」を洗っているとぶっきら棒に書いたのは、あのときのありのままの現実を忘れるなという呼びかけに違いない。

ねじり花黙ってみている愛し方 増田暁子
 この句の本意は、ねじり花に仮託した反抗期の子供を象徴しているのではないか。そのねじれを無理に矯めなおそうとするのでなく、ゆっくり時間をかけて、本人の気づきを黙って見守ろうとしている。それが作者の愛し方ですという。勿論、子供の環境や資質にもよるだろうが、おそらくそれが、もっとも正解に近い育て方であり、愛し方だと作者はみているのだ。

立秋や傭兵のごと歯を磨く 松本勇二
 傭兵という制度は、世界的にも古い歴史をもつものだが、今回のウクライナ戦争であらためて認識させられた。立秋の朝、いつものように定時に起きて歯を磨く。それはあたかも傭兵のような律義さだという。いつもの生活習慣の中で、不意に「傭兵のごと」という言葉が浮かんだのは、身近な戦争への危機意識によるものではないか。立秋という季節の変わり目に、そんな危機意識が訪れるのも、差し迫った戦争の現実感を季節の冷気とともに、あらためて肌に感じた作者の感性によるものであろう。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
 作者は大分の方だから、鶴という存在に馴染んだ暮らしをされてきたのかと思う。そしていま、「老々介護」に「かなしいほど鶴見る」日々をおくっておられるらしい。鶴の営みと、介護が必要となった姿とを、自ずと重ねて見ている。時により、場合により、凄絶さを味わう場合のある「老々介護」。その切実さが、「かなしいほど鶴見る」のフレーズによって、美しく昇華されている。お二人が重ねてきた歳月を想うと、「かなしいほど」が、「かなしいほど」と読めてくる。

露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
 作者の実家は、広大な畑地を持ち、竹林や梨畑もあったと聞いたことがある。かつては地下足袋を履いて畑仕事を手伝ったに違いない。そのふるさとに帰り、久々に履いたのだろうか。地下足袋で踏む地面の感触は、他の靴とは全く違うのだと「露けしや」から想像がつく。
 よく旅をしているらしい作者は、帰郷をも旅として、新鮮な刺激を受けているようだ。

霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
 この句で思い出すのは、今は亡き作者の義父、奥山甲子男氏の第一句集に見る、「山霧」と題した兜太先生の序文である。〈山山のあいだを埋めつつ動いてゆく霧。それの朝、昼、夕の変化、その乳灰色、ときに真ッ白…〉という出だしで始まり、霧の印象が切々と綴られている。「霧食べて育つ」のは「霧の子」そのものであり、絶えず包まれている「家」自体なのだろう。「霧食べて」という直接的な表現に、実態といえる気持ちよさがある。勿論、「育つ」のは作物やそれを食べる者たちでもあろう。

吊り革がわりだった君の白シャツ 黍野恵
 「吊り革がわりだった」と過去形で書かれている。いまはその「君」はいないのであろう。ともに暮らしていたときは気付いてなかったことが、居なくなってから何かにつけて気付くことがある。「君の白シャツ」という普段、身につけていた具体をさらりと示して、距離感の近さ、濃さが思われる。その表現のさりげなさに、逆に、支えられていた体感の多くのことが、深々と伝わってくる。

母やいつも秋の蛍を連れてゐる 小西瞬夏
 かつては、ゆたかな活力に満ちていた母。老いとともに体力や気力がすこし弱まってきたのかもしれない。加えて、何かにつけて判断力も薄れてきたのだろうか。「秋の蛍を連れてゐる」と捉えた、母への視線が優しい。そのやさしさは「母や」の「や」も物語っている。この「や」という助詞の様々なはたらきに、作者の繊細な感性が重なっていて、助詞の効用の力が絶妙である。「いつも」、やや悲愁を帯びつつも、美しさを失っていない母としての存在感が味わい深い。

こっぱみじん寸前の星金魚玉 芹沢愛子
空爆無き空の下なり麦踏める 野口思づゑ

 前句、後句、対照的な作品であるが、両句に込められた思いは共通している。狂気的な判断ひとつで、宇宙に浮かぶ美しい緑の星がこっぱみじんになりかねない。生き生きと金魚が泳いでいる金魚玉が間違って落ちたら、という危機感が、その星と重なる。また、かつて、J・ケネディが危機的状況下でつかったという、「ダモクレスの剣」という故事が込められているのかもしれない。後句の作者は、オーストラリア在住の方。今更ながら、空爆のないことと、麦を育てることの出来る幸せを抱いている。あらためて、危機感は、世界的規模でひろがっているのだという認識が深まる。

シンバルが打つ番ざあっと来る夕立 北條貢司
 「打つ番」と言ったところが巧みだなあと感じ入った。オーケストラのシンバル奏者の出番は、他の楽器と比べてごく少ない。けれどもそれを鳴らすときがきたら、圧巻の音を奏でる。そんな瞬間を夕立に例えた、独自の喩の効果が発揮されている。

白さるすべり胸に小さなやじろべえ 本田ひとみ
 極々小さな一点で、長い棒の両端の重い荷を支えて立つ「やじろべえ」。胸にそれがあるというのだから、心の複雑な荷の均衡を、小さな小さな一点で担っている。「白さるすべり」の持つ清潔な表情と響き合い、内面の均衡を保とうとする、清らかな必死さが伝わってくる。

地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名
 日々、ウクライナの戦況が報道されて久しい。最も心痛むことは兵士はもちろんのこと、一般市民の死者が出ることである。おおよその数字で示される、情報のされ方に慣れてしまっていた。だが、死者は数ではなく一個人個人である、とこの句に気づかされた。一独裁者の命も、一市民の命も同等の重さがある。にんげんの手によって、ひとつの弾丸が落とされるたびに、一人ひとりの尊い命が失われる。
 群生の曼珠沙華も、一輪一輪ずつが開き、輝いている。

◆金子兜太 私の一句

夏の山国母いてわれを与太よたと言う 兜太

 この句に出会った時、一字一句間違いなく覚えられたほどのインパクトがあった。金子兜太先生の母に対する思いが心の奥底にあるからだ。その与太といわれたことに深い愛情を実感したのだろう。今、この時に豊かな母のような山容を誇っている夏の山国に、その声は谺して力強く聞こえているのである。私も与太と呼ばれたい気持ち。句集『皆之』(昭和61年)より。北原恵子

狂とは言えぬ諦めの捨てきれぬ冬森 兜太

 この句に続けて〈まず勢いを持てそのまま貫けと冬の花〉〈冬ばら一と束夕なぎに一本となれど〉の連作。一読、私を詠んでいただいたな、とそう思いました。大変光栄なことと思っています。師は私の投じた一石の波紋の拡がりを懸念されたのだと思います。師にとって私は変な弟子でした。ノーベル賞の季節がまためぐって来ています。句集『百年』(2019年)より。今野修三

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
茅花流しときに傾く右側に 稲葉千尋
○爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
○からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
春愁も巻き貝の身も螺旋状 黍野恵
机上いつも乱雑遠くに戦火 小池弘子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
○橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
六月や畦にはほっそりした夕暮 白井重之
昼の暗がり魂も風船玉も売られ 白石司子
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
仮想現実大統領の水遊び 立川弘子
月涼し他人のような影を踏む 立川由紀
指すべて灯して水無月の宴 月野ぽぽな
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
○晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
まなぶたの閉ぢ方知らず菊人形 松本悦子
泥道の花柄毛布に在る遺体 マブソン青眼
夏が来たので背表紙のように並ぶ 宮崎斗士
○濡れているてるてる坊主太宰の忌 望月士郎

高木水志 選
緑蔭に入り緑蔭の鬼となる 上野昭子
つくしんぼ今日はてんでんばらばらに 内野修
芽吹くスピード黒髪が恐ろしい 榎本祐子
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
○爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
囀りや離れ離れにショベルカー 小野裕三
アカシアの白き風舞う津波の地 金澤洋子
○からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
あなたの為よだって羊蹄噛みしめる 黍野恵
絵葉書を何遍も読み海霧の町 小松敦
逆上がり一回増やして夏至に入る 齊藤しじみ
かさぶたが取れそう熊ん蜂飛びそう 佐々木宏
徘徊は自由心太自由 鱸久子
さみだれの芭蕉とバッハよく歩く 田中亜美
棘の世の出来心なる山帰来 並木邑人
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
みぞれ降るや嘆願のまま硬直 マブソン青眼
カモミール摘むやみどりの蜘蛛走る 村本なずな
草抜くように目高数えては母 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

竹田昭江 選
戦争がはじまっている素足かな 石川青狼
春の暮父の入江が見つからない 伊藤歩
百まで十年九十までは早過ぎた 植田郁一
先端恐怖症の君は黒揚羽の黒 大西健司
一番星入れて代田の落ち着きぬ 加藤昭子
水匂う日めくりの風薄暑かな 川田由美子
夜の新樹話し足りない友ばかり 河原珠美
戦争が行く青草にぶつかつて 小西瞬夏
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
○橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
チェンバロや矢車草の鳴るごとし 田中亜美
手に風船夢は被曝をして消えた 中村晋
六月の壁につばさが描いてある 平田薫
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
風船に不戦託して放ちけり 三浦静佳
紙ふうせん母の老後という現場 宮崎斗士
白紫陽花しあわせの断面図 室田洋子
○濡れているてるてる坊主太宰の忌 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
水になりたい少女風鈴鳴っており 茂里美絵

若林卓宣 選
ひとつずつ駅に停まりて麦の秋 石田せ江子
青蜥蜴逃走は一本のひかり 伊藤道郎
一日中カレー番かな梅雨に入る 大池桜子
本棚の父の面差し椎の花 大髙洋子
山歩く日常があり葱坊主 大野美代子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
雨蛙雨の嫌いな奴もいる 川崎益太郎
戦闘機ゆく真うしろが現住所 河西志帆
母の背に軟膏塗り込む麦の秋 清水恵子
残世のこりよに蔵書一万ほどの黴の家 白井重之
生きているつもりもなくて大昼寝 白石司子
西の味覚持ち東西のちまき食ぶ 立川由紀
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
風船握る未来も被曝していた手 中村晋
ほうほたる便器も略奪した戦 日高玲
○晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
高原発キャベツに残る雨の傷 三浦二三子
豆御飯ふはっと炊けて独りかな 矢野二十四
蒲公英の地上絶え間なき戦火 山田哲夫

◆三句鑑賞

爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
 この軽さを、愛しさととってもいい。小さいころは大きな存在であった母。その言動に守られたり、振り回されたり。そんな母も、母との関係もだんだん軽くなっていくと感じることに、作者の人生の充実を思う。

からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
 夜になると美しく怪しい花をさかせるからすうりの花と家族写真との配合。しかもそれが白濁している。家族という絆のなかにうまれる染みのようなものか。もともと家族とは、写真のような虚構であるのかもしれない。

夏が来たので背表紙のように並ぶ 宮崎斗士
 口語で散文的、言いっぱなすような着地。内容を詩的に昇華させることは簡単ではない。どうしても理屈や説明になったり、感傷的になりすぎたり。だがこのかたちに作者はこだわり、きちんと俳句にしていく。「夏が来たので」という因果関係をもってきながら、「背表紙のように並ぶ」とのつながりは理屈では説明できない。脳のもっと内側に降りてくる必要がある。背表紙には題名が書かれてあり、そのことで内面を主張し、手にとられることを待つ。しかし、それはただ無個性に並んでいるようにも見える。選んでもらえるかどうかは他者にゆだねるしかない、そんな現実を思う。
(鑑賞・小西瞬夏)

囀りや離れ離れにショベルカー 小野裕三
 「囀り」は鳥が繁殖期に出す美しい複雑な鳴き声で、いかにも春が来たという感じがして、「囀り」という季語を聞くと僕は気持ちが昂ぶる。「離れ離れ」とあり、愛する人と会えなくなるのかと思ったら「ショベルカー」がきたのでびっくり。金属製の重機が人間のように愛おしく思えてくる。

さみだれの芭蕉とバッハよく歩く 田中亜美
 「さみだれの芭蕉」と言えば、『奥の細道』の有名な二句を思い浮かべるが、他にも「さみだれ」の句を旅先で詠んでいる。バッハは、二十歳の時に当時有名だったオルガニストの演奏を聴くために四〇〇キロ以上離れた都市まで徒歩で行き、それが彼の音楽の転機となったと伝記にある。歩くことでいろんな出会いが生まれる。

棘の世の出来心なる山帰来 並木邑人
 山帰来は別名さるとりいばら。棘のある蔓性の落葉低木で、黄緑色の小花を球状にたくさんつける。名前の由来に「山で病気になった者がこの実を毒消しにして元気に山から帰った」という説があり、僕は「棘の世」にコロナ禍を思った。山帰来自身が棘を負った日々を送って、そんな中で咲かせる花は「出来心」みたいだと、作者は感じたのかも知れない。
(鑑賞・高木水志)

夜の新樹話し足りない友ばかり 河原珠美
 コロナの世になって三年余が過ぎ、自粛を余儀なくされ、いつしか馴らされていきました。友に会って思いっきり話をしたい思いにかられるこの頃ですが、ふと「話し足りない」まま亡くなってしまった友たちへの思いが胸に溢れて潤みます。それは夜の新樹のように瑞々しいひと時と豊かな会話の中にいました。

紙ふうせん母の老後という現場 宮崎斗士
 急に自分の現実を突き付けられたような気がしました。老後という厄介な諸々の確かな事実を「現場」と捉えたリアルな表現にびっくりしましたが、それが的確な表現であると受け入れて向き合っていきます。母の老いを受け入れる象徴として思い出として、色とりどりの紙ふうせんはやさしいです。

白紫陽花しあわせの断面図 室田洋子
 断面図といっても縦も横もありますし、よってその内部の面は大分違うのではないかと思います。「しあわせ」となると、切り口によってはどの様な面が見えてくるのかちょっとどきどきしてしまいます。白紫陽花は一色ですが、何しろ込み入った花ですから断面図は複雑ではないでしょうか。
(鑑賞・竹田昭江)

ひとつずつ駅に停まりて麦の秋 石田せ江子
 私は乗り鉄でも撮り鉄でもない。各駅停車等に乗っていて、手を振っている子を車窓から見つけた時には手を大きく振り返すようにしている。小さい頃自分がされてうれしかったことを今も覚えている。黄金色の麦畑のつづく風景を見ながら作者がどう思っているかはわからないが「ひとつずつ駅に停まり」の表現は私に心地いい。

戦闘機ゆく真うしろが現住所 河西志帆
 俳句には季語があって欲しいと思っている。せめて季節を感じさせてくれるものがあって欲しいと思っている。作者の住む沖縄には基地に起因するデリケートな問題もある。「現住所」のある場所。この一句を素直に読み取る。硬質なのに幾度と声に出して読んでいると季節にこだわることも無いように思えてくる。

晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
 与謝野晶子と聞けば、「君死にたまふことなかれ」の弟の身を案じる反戦詩を思う。たった一人の狂気な男のために、大変な世の中になっている。大切な人は勿論のこと、知らない人の生命も思考も大事。誰も殺して欲しくない。誰も死んで欲しくない。そんな気持ちを持って「どの兵士にも母がある」が、句を引き締めている。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

巻爪でつかまれた腕真葛原 有栖川蘭子
ダリの髭はいつもポジティブ八月尽 有馬育代
子を産めぬ娘と猫とねこじゃらし 淡路放生
秋茜わたしもいつか西に行く 井手ひとみ
一つずつ遠くに飛んで草の絮 上田輝子
誰にでも振る尻っぽと夕涼み 鵜川伸二
蝉時雨ふと無音ですわれの死も 遠藤路子
海も嫌い山も嫌いな案山子かな 大渕久幸
忘れめや焼夷弾直下の母の夏 小田嶋美和子
家系図に浪花の匂い男郎花 木村寛伸
黄泉の児の降りて来てるらし庭花火 清本幸子
カナカナカナとっても長い後一周 後藤雅文
喉仏には小さき骨壺雲の峰 小林育子
戦など破片だらけの夏の跡 近藤真由美
夕焼を痛いたしいと思はぬか 佐々木妙子
亡き母の来て踊る手の影法師 重松俊一
秋思いまもマスカラの黒浮き上がる 清水滋生
秋蛍ふかいふかい谷川あり 宙のふう
祖父の東京どこも銀座でお祭りで 立川真理
おおむらさき誰かの背に結ばれて 立川瑠璃
捨案山子ああ青空が眼にしみる 谷川かつゑ
蛇の衣永田町では見当たらず 藤玲人
セーラーの衿にカレーの跳ね星河 中村きみどり
八月は舌の厚さを超えてゆく 福岡日向子
チャンネルを決める番台獺祭忌 福田博之
低く低くなぞる人道秋の蝶 松﨑あきら
凩がゆさぶっているのは私 村上舞香
埋れたる生家の沼の紅き鰭 吉田貢(吉は土に口)
夏果てて自由てふ恐怖ひたりひたり 渡邉照香
夜の桃奈落の水の甘さかな 渡辺のり子

『海原』No.43(2022/11/1発行)

◆No.43 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

結界とは問われて默す餘花の雨 阿木よう子
蔓手毬記憶の向こうはいつも雨 伊藤幸
父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
帰るさのタトゥーのサーファー海に礼 榎本愛子
胸襟を開いて笑う大花火 江良修
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
八月や影という影はすかいに 大髙洋子
オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
里帰り父どっかりと夏座敷 金澤洋子
羊水の子のようにふわふわ早苗 川崎千鶴子
息継ぎのように点描のしらさぎ 川田由美子
喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
鬼灯点しあわあわと今生 小池弘子
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
十薬や小さな鈴が鳴りやまぬ 中内亮玄
夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
壊れた戦車ひまわりとコキア 平田薫
セラピー犬の眼差しに似て合歓の花 船越みよ
核兵器はいらない日々草が好き 本田ひとみ
決めかねるこの世の始末古代蓮 松本千花
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
少年の脱け殻あまた青葉闇 望月士郎
無所属やベランダに長茄子らし 横山隆

前田典子●抄出

冷蔵庫に入り切れぬ泪いっぱい 伊藤幸
平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
父の教えいまだに解けぬ星月夜 奥山津々子
黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
束ね損ねし漠なりからすうりの花 川田由美子
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
絹さやの浅緑自分に恥じており 黒岡洋子
わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
車椅子の深き溝あり浜防風 佐藤美紀江
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
家郷遠し父母という草いきれ 白石司子
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
田水張る粗き下絵を描きつつ 中野佑海
吾子ふいに朝日に卵透かし夏 中村晋
妻の眼の涼しく走る大活字 野口佐稔
レコードに傷あり野茨の実の苦し 日高玲
我が鬱を切る夏蝶の極彩や 藤野武
山椒の実卒寿の父のいやいや病 増田暁子
耳鳴りも木の芽張るのも君のせい千 松本千花
茄子の馬ぐにゃりとなりて父還る 松本勇二
友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
先生のかるいユーモア日雷 横地かをる
賢治乗る電信棒に春の月 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
 父の日は、母の日に比べて影が薄いものだが、一応六月の第三日曜ということになっている。さて、その当日、家族の一人が「そういえば今日は父の日なんだけど、どうしたものか」と呟く。なにやら触れたくないものに触れたような気もして、少し後ろめたい思いで、まあこんなことは母さんにお任せしてとばかり、母(妻か)に一任する。母の裁量なら父も否やはあるまい。

八月や影という影はすかいに 大髙洋子
 八月は、六日、九日の原爆忌、十五日の敗戦日等、戦争の悲しみに関わる日が多い。そこには、歴史的に多くの死の影が漂っているはずで、それらの影は互いにひしめき、重なり、絡み合い、影同士はすかいにもつれあって倒れこもうとしている。爆心地に近い石階では、影だけ残して蒸発してしまった遺影もある。影はいずれも柱状に直立したまま斜めに倒れようとしている。すでにして死というモノと化している一瞬だ。「はすかいに」に、凝縮された映像が浮かぶ。

オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
 ウクライナ戦争の現実を想望した一句。朝食のオムレツを作って、さあ食べようかとしている時、不意に戦車の通過する音が聞こえてきた。敵か味方かはわからないが、まさに日常の中に戦争が紛れ込んでいる場面。或いは、戦争の日々が日常化しているともいえよう。「オムレツのしずけさ」に、息を潜めている庶民の暮らしがある。

喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
 大切なご主人を亡くされ、四十九日も過ぎ、喪明けして三日目の朝、ふと赤とんぼが飛んでいることに気づく。服喪中は、悲しみと雑務の中で日々過ぎてゆき、なにも目に入らなかったのだが、ようやく我に返った朝だったのかもしれない。気丈な作者だから、諸事万端に遺漏なく対応することに抜かりはなかっただろうが、その張りつめた気持ちも、一通りやり終え一息ついた朝。一匹の赤とんぼがふっと宙に浮いているのを、見るともなしに見ているうち、あらためて静かに悲しみが滲み出てきた。おそらく、その時心から泣きたかったに違いない。

職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
 職安に求職依頼に出かけ、求職用紙を貰う。生活がかかっているから、うまくいくかどうかは死活問題でもあり、緊張することこの上ない。その白い紙に、過呼吸する程の緊張感を感じたという。今の求職難と、そこに生きることの厳しさが、ありありと浮かび上がる。無季の句ながら、季を通じてのリアリティを感じさせる。

メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
 メロンは果物の中でも高級な食材とされているから、一般庶民が気楽に口にするようなものではない。しかし独り暮しをしていると、たまには気晴らしにパアーッとやるかという気になるのも無理はない。それにつけても不時の出費だから、思い切りが必要になる。そこは度胸一本で行こうかとばかり、自分に気合を入れていくわけだ。たかがメロンでも、独り暮しなりの度胸が必要なのも暮しの現実感。

夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
 語調と語感の楽しさと、一句全体のユーモラスな映像が軽やかに伝わってきて、いかにも夏向きの一句となった。こういう句は、意味的な解釈を拒否する。「夏目漱石」の語感から来る爽やかさと、作品そのものの軽みが相俟って、「メロン」の質感に通い合う。下五を三音の短律で切るのも、「○○メロン」と無音拍二音の停音効果との合わせ技で、中句の切れを響かせるとも言える。文脈的に読めば、漱石がメロンの中に入ってますだが、映像的には、漱石がトイレに入っていて、子規が厠から糸瓜を眺めたように、庭にメロンが転がっていると想像してみるのも面白い。すこし無理筋の評釈だが。

夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
 夫を亡くして初めてのお盆を迎えた朝のこと。まだ存命中の夫を夢に見て、ついついいつもの癖で叱り飛ばしてしまったが、目覚めてみると魂迎えの朝だった。いやもうその気まずさと悔いったらありゃしないと思いつつ、念入りに魂迎えの用意に取りかかる。それは亡き夫への最後の甘えだったのかもしれない。どうか許して下さいとの思いしきり。

無所属やベランダに長茄子らし 横山隆
 長いコロナ禍で、屈託の多い日々を過ごしているうちに、なんとなく自分自身が一体何に所属して、どう動こうとしているのか、自分自身の存在根拠がどこにあるのか分からなくなっているような気がしてくる。そんな寄る辺なさを「無所属や」とし、さてその挙句は、マンションのベランダでささやかな菜園に長茄子を生らしているようと捉えた。これは悠々自適の境地と異なり、どこか意味化されないままの生のありようにも見える。時節柄、妙に親近感を覚える句だ。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
 時世柄、ウクライナとひまわりにかかわる作品をよく目にする。作者の脳裏にもその光景はあるに違いないが、掲出句はそこからは距離を置いている。「平和」という言葉が、いま、どれほど虚しいことか。それだけに、身近な場所に咲いたひまわりの光景が、理屈抜きに新鮮だ。群生でもなく、一本でもない。「二本」の平衡感覚の静けさに、素朴な平和の実感がある。
 この句を味わいながら、本誌「海原」の柳生さんの連載論考〈全舷半舷〉で言及されている、「テレビ俳句」、「戦場想望俳句」などについて考え併せていた。かつて私は、テレビで見た作品に後ろめたさを感じて、その後、現地に確かめに行ったことも、想い出したりした。

黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
 一句を読み下しつつ、この上ない「花蜜柑」の配合に魅かれた。「黙読」「聖書」「愛」という、ある意味、スケールの大きくて深い世界を、繊細で清やかな精神世界へと馴染ませてくれる、無垢な気配の「花蜜柑」である。様々に深まる「黙読」の姿が、清々しく表出された。
 「詩人たるもの、聖書一冊ぐらい読み込んでいることが常識」との塚本邦雄の講演での強い口調を想い出す。作者は、既に身についた聖書を、折々、愛読しているようだ。

侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
 ほんとうに歯がゆい思いが募る二句に全く共感です。「侵攻NO!」と叫びたい程の気持。「春野」という自然に愛しさをも感じない殺伐とした境地が耐えられない。人間として当たり前のことを取り戻して欲しいとの訴えが通じる語彙力が欲しい。恃みの牛蛙もはっきりしない。このもどかしさを、こうして「語彙力」を超えた、「俳句力」を発揮されていることで救われる気がする。

わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
 日傘をさして歩いているとき、ふっとクロード・モネの絵のなかの、モネ夫人が思い出されたのだろうか。夫人がさしている日傘を、「わたくしの日傘」と言いつつも、絵の中のモネ夫人になりきっているように想えて楽しい。絵から閃いたインスピレーションが、何の違和感もなく作品化されて伝わってくる。ずらす表現力がセンスよく発揮されている。そんな作者像が魅力的だ。

原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
 アナログの時計は、時間の前後などを少し考える余裕があったり情緒も動く。デジタルは音もなく時間の数字だけが表示される。その不気味さが、突然の原爆投下にどこかで通じるような気がする。すべて人間が生み出した所産だということに、危機感や怖さを感じさせられる。

水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
 「水さげて」「小昼」「夏つばめ」の響きあいが快い。母を亡くした寂しさなどは、既に克服して久しい様子がうかがえる。しかし母を恋う気持ちは齢をとっても変わらない。下げている水も軽く、いそいそと墓参を楽しんでいるようだ。

首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
 茂吉の歌集『赤光』は、十七歌集あるうちの、三十二歳の頃の第一歌集で、強烈な印象をもつ連作を巻頭にした構成で、八三四首収められている。茂吉自身は、「写生のままの表現だ」と主張はしているものの、読者には難解なところがある。それ故の魅力も捨てられない。
 掲出句の作者田中さんは何度も味読していて、諳じられる程らしい。集中、何かにつけ「赤」の色彩を帯びた何首かが出てくるが、「首灼けて」と『赤光』とを色彩で結びつけているのではないと思う。「首灼け」るほどの炎天下を、ひたすら目的地へ向かいつつ迫ってくる、心理的なものが、諳じさせているような気迫を感じる。「首灼けて」の斡旋が「茂吉『赤光』」に適っている。

友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
 不意の訃に接したその日の夜、故人を偲ぶ思いで、その人にかかわる著書を開いたとき、不意に紙魚が出てきて「しろがねに走」った。ひょっとしたら久しく会ってなかったのかもしれないし、著書も長く閉じたままだったようだ。それだけに鮮烈に現れた生命感と、作者にとっての故人の存在感がこころに沁みる。

なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
 平仮名書きの「なつやすみ」はまだ低学年のお子さんの夏休みであろう。「白紙に水平線一本」は、そのお子さんにとっての夏休みの「喩」かもしれない。でも、まず、白紙をひろげ、緊張と期待感の「水平線一本」をひく親子の様子も見えてくる。この一本をどう配分して過ごすか。「線一本」ではなく、「水平線一本」と見立てたところに、空や海を味方に夢や解放感がひろがる。

◆金子兜太 私の一句

炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太

 この句には「朝日賞を受く」の前書きがある。幸運にも、私はその受賞式(平成28年1月)に参加し、兜太一代の名スピーチを聴くことが出来た。感動のあまり一同思わず聴き入っていた。感動の背景にはトラック島戦場体験に裏打ちされた兜太の人間観があった。その記憶と重なり、この俳句は生きている。「これでよかったんだ」という感慨がある。句集『百年』(2019年)より。岡崎万寿

麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人 兜太

 丈高い麒麟の脚の細さに美しい恵みよと、兜太先生の健康的で純粋な純心を感じ感銘いたしました。夏の人の解釈は読む方の解釈でよいと思いますが、素敵な方を想像したり、麒麟のように理知的な群を抜く殿上人かもしれません。佐藤鬼房全国大会で、兜太先生の賞状を胸に兜太先生との写真が瀟洒な此の句とともに座右の銘として大切な宝になりました。句集『詩經國風』(昭和60年)より。蔦とく子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
柳絮飛ぶ打たれるための左頬 榎本祐子
韮の花まだまだ伸びる影法師 川田由美子
行間に仏法僧のいる真昼 久保智恵
聖五月落っこちていた靴底は 小松敦
鉛筆の書き味に似て春目覚め 佐孝石画
曖昧なきりとり線や風光る 清水恵子
ひろしま忌人形の眼のガラス玉 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
止息して海鼠のかたち梅雨来る 瀧春樹
黒き函並ぶ都心や春の暮 田中亜美
母の亡き最初の母の日の日差し 月野ぽぽな
ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
豆飯の豆の多すぎ老後なり 前田典子
傍線のような一日髪洗う 三浦静佳
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
たんぽぽや少女狙撃手絮吹いて 柳生正名

高木水志 選
瓦礫に立つ陽炎は死者たちの未来 石川青狼
他人事だった自由なからだ夏の潮 桂凜火
うりずんや基地と墓群を夜が吹く 河西志帆
緑陰や仕掛け絵本のように風 河原珠美
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
同類の匂いはなちて夏の潮 こしのゆみこ
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
苦瓜は憤怒のかたち太き雨 重松敬子
まなこ澄み君は梟だったのか 篠田悦子
白桃すするジェノサイドの幻聴 清水茉紀
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
毛たんぽぽ吹けば生国消えていく 十河宣洋
クロッカスから地球の呻き声 たけなか華那
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虹色の五月と言い孤独死のはなし ナカムラ薫
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
カワセミの青き閃光必ずもどる 松本勇二
音もなく常世へと散りえごの花 水野真由美
日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
春ゆうやけ原風景の犬ふりむく 望月士郎

竹田昭江 選
戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
虫喰いのような記憶や亀の鳴く 榎本祐子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
憲法記念日一輪車は難しい 佐藤博己
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虚弱体質烏柄杓をはびこらす 鳥山由貴子
君の心に走り書きして春落葉 中野佑海
宥すとは窓あけること花は葉に 中村晋
サザエさんち今日も揺れてる昭和の日 中村道子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
何の荷を下したのだろ柳絮飛ぶ 藤田敦子
満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司

若林卓宣 選
鼻眼鏡の妻と眼の合う春の昼 綾田節子
変体仮名の古書店閉づや藤の雨 石川和子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
桜苗植えて余生を青空に 金並れい子
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
花散れば散ったで酒がまたうまい 佐々木昇一
新樹光這い這いの子が立ち上がる 高橋明江
「麦畑」世を黄に染めしゴッホかな 永田和子
海に母苺に母ゐるランチかな 西美惠子
青芝を傷つけラジコンの戦車 根本菜穂子
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青麦の空が破れる音がする 藤田敦子
夏落葉ひっくり返してみる手紙 堀真知子
交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
桐の花母の呼ぶ声から逃げる 森鈴
さみしくて雨になりたいかたつむり 輿儀つとむ
夜桜や亡母の古羽織ちょいと借り 吉村伊紅美

◆三句鑑賞

ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
 実際に聞こえる音、手にとって見ることができるものと、そうではない幻との境はどこにあるのだろう。この作者にとってそれは極めてあいまいであり、幻のほうがリアルであったりするのかもしれない。ハンカチのような白いがく片がざわめく音が聞こえるということ、なくなった身体の一部が痛むということ。それらが言葉にされることで、言葉にしか表現し得ない世界が見えてくる。

六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
 人間の体の細胞分裂と遠花火の出会い。なぜか奇妙な実感がある。たしかにそれは、自分の体で起こっていることでありながら、まるで遠花火のように遠くで美しく弾けては消えていくものである。「の」以外は漢字で生物の教科書に出てくるような書きぶりも、味わい深い。

朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
 ポストに投げ込まれた手紙がカサリと立てる音が聞こえてくるようだ。それ以外は何の音も聞こえない夜である。手紙は黙っているが、さまざまな思いが何層にも重なって届けられるのを待っている。「重なり合う」という描写は当たり前のようでいて、その思いの厚みと重さを客観的に表現し得ている。朧夜のポストだからこその実景であり心象風景でもある。
(鑑賞・小西瞬夏)

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 胡瓜揉みは、胡瓜を薄くスライスして塩を振り、手で揉んで、出てきた水分を絞り、甘酢や三杯酢等で和えて食べる料理だ。僕も揉んでみた。胡瓜から、たくさんの水分が出てきて、だんだん柔らかくなって気持ちが良かった。胡瓜を揉む、優しい力。日々の暮らしの中に、平和への深い祈りが籠められていると思う。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 「初蝶の産土」に惹かれた。作者は秩父にお住まいだとのこと。この句の産土は、兜太先生と同じ山国秩父のことだろう。秩父谷にひらひらと蝶が舞い、川の水は春の光に照らされて眩しく見える。山国の厳しい冬が終わり、春の訪れを実感する作者のふるさとを想う気持ちが感じられる。

日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
 春の温かな光の中で、年老いた母がのんびりと椅子に座っている。そんな情景を思い浮かべた。更に「ぽつんと椅子がある」の「ぽつんと」について考えていると、今は椅子に座れなくなった母を詠んでいるのではないかと思えてきた。作者の、母との時間を大切にする思いや、母に対する敬愛の念が伝わってきて、胸がいっぱいになる。
(鑑賞・高木水志)

戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
 テレビをつければウクライナの悲惨で非人道的な映像が流れる。地球で起こっている戦争である。観ているという表現で、心の痛みを無力感を表している。「昭和の日」の制定された意味や由来はいろいろあるが、昭和は太平洋戦争という大きな犠牲を出した時代でありその傷痕は今も残っている。

青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
 飯島晴子の「恋ともちがふ紅葉の岸をともにして」の「恋ともちがふ」は正真正銘恋の句と思う。掲句は「青鬼灯」のあの未熟感と、文という情緒を以て紛れもなく初々しい表情の恋の句である。夏から秋にかけての季節の移ろい、心の移ろいの微妙な心情が詠まれている。

満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
 なんじゃもんじゃの木を初めて見た時の印象は正に「なんじゃ」という感じで、後に「ヒトツバタゴ」と知る。満場一致のあやうさを声高でなくさっと掬い上げて納得させるには、威圧感の不思議なこの木しかないとすんなり思わせる。そして、柔らかな表現に高揚感と終末を漂わせる力量が満ちている。
(鑑賞・竹田昭江)

兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
 素足でいるのは、寛いでいるからだろう。しかも兄弟だけでなく従兄弟もまざっている。近いところの人であっても、話し上手がいたり、聞き上手がいたり。お盆で帰省して久し振りに会ったのだろう。飲みながらの話は楽しい。畳の上ならなおさら寛げるだろうし。「素足」が色々と句を広げてくれているのはうれしいことだ。

交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
 警察署、消防署、自衛隊というところは、元来、暇であれば暇であるほどいいと思っている。有事の際には必要となるので、訓練だけは一生懸命やってもらって欲しいが、あとはゆっくりと休んで欲しいと思っている。見ている人は少ないけれど、月見草はけなげに咲いている。「交番に人気のなしや」は、通常の仕事の範疇。

桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
 お父さまをでしょうかお母さまをでしょうか病人をお世話されていることは大変なこと。あるいは看護とか介護とかお仕事をされているのかも知れない。さりげない物言いがいい。冬が厳しければ厳しい程、春の訪れの喜びは大きい。「桜咲きましたよ」と聞くだけで、明るい気持ちになる。「ベッドの向き変える」が、秀逸です。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

わかった私が悪かった大夕立 有栖川蘭子
ビルの谷ペルソナ吐いて炎暑かな 有馬育代
蝮谷白い帽子が落ちている 淡路放生
しろがねの南風に青鈍の鳩たちよ 飯塚真弓
雀隠れもう先生の一周忌 石口光子
卯の花腐し落ちるところまで落ちる 大渕久幸
夢ひと夜邪馬台国へ螢狩 岡田ミツヒロ
手の影をスプンで運ぶ半夏雨 川森基次
町の名は白南風基地の街佐世保 古賀侑子
老人は歯磨きをしてサクランボ 後藤雅文
青水無月メメント・モリと呟けり 小林育子
マンゴーを切って太陽取り出した 小林ろば
蕃茄トマトにはハーブ妬けさす青さあり 齊藤邦彦
星涼し烏の骸晒しある 佐竹佐介
口先の民主主義夏の火縄銃 島﨑道子
シクラメン舌やはらかに嘘を言ひ 宙のふう
青野を食む獣と草を分けあふて 立川真理
天体は遠い過去形流れ星 立川瑠璃
舌打ちは生きてるあかし青大将 千葉芳醇
暑き日やヴァットの上の母の乳房ちち 藤玲人
権現の楠からどさと大暑かな 深澤格子
死にたいと思わなくなる噴井かな 福岡日向子
冷房は無い必要だったのは空だ 松﨑あきら
お咎めの墓に吹かれて蛇の衣 村上紀子
青年の傾斜凩は緩まず 村上舞香
土手あざみ莊子譜を編み去りにけり 吉田貢(吉は土に口)
白南風やそのまま行けそうな昼寝 吉村豊
白鳥の背のやはらかき誘ひかな 路志田美子
安眠と危篤の狭間木下闇 渡邉照香
髪洗う背なに原罪やどるかな 渡辺のり子

『海原』No.42(2022/10/1発行)

◆No.42 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母の日をモナリザのよう手を組んで 綾田節子
戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
山桜桃記憶の外の負の記憶 奥山和子
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
麦秋や噛めば噛むほどごはん粒 北上正枝
やわらぎは保健室のよう金魚玉 楠井収
今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
極太の赤ペン添削梅雨夕焼け 黒済泰子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
どしゃぶりの電柱まるごと師の言葉 佐孝石画
徘徊は自由心太自由 鱸久子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
津波跡の明日葉明日に壁なくて 竹本仰
聖農の墓蕺菜の香のきつく 竪阿彌放心
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
ぞわわぞわわと大百足虫疑念も少し 藤野武
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
人混みに独りを創る日傘かな 武藤幹
青葉渦から戦闘ドローンがまた一機 村上友子
噴水にどしゃぶりのきて笑い合う 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

大西健司●抄出

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
海峡を渡る蝶なり無国籍 石川青狼
百合の香や弦音高く矢を放つ 泉尚子
そうしてさ無人駅の虹の手話 伊藤清雄
切岸に孤高の野山羊聖五月 榎本愛子
ひとやとも茅花あかりの仮住まい 榎本祐子
尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
東京を蝕む夜の巣箱かな 小野裕三
カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
天道虫飼つて時々寂しがる 小西瞬夏
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
君というこころの余韻夕立くる 近藤亜沙美
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
海をゆく蹄の音の霞みおり 白石司子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
産土の神の水辺に茗荷の子 関田誓炎
踏青やママはタトゥーが嫌いです 芹沢愛子
強情や鹿一頭が野に残る 十河宣洋
とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
静けさや手長蝦釣る雨の池 髙井元一
石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
本ひらく若葉へ船を出すように 遠山郁好
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
短夜や8ビートな喧嘩して 中野佑海
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
Tシャツをはみ出て誰の腕ですか 堀真知子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
 蛍狩りに来て、蛍を捉えようと悪戦苦闘している内に、気が付くと足下に蛍のむくろが落ちていた。自分が叩き落としたものかどうかは定かでないが、おそらくこの蛍狩りの最中に、人間どもの手によって犠牲になったのだろう。いわば人間のエゴイズムの犠牲となった蛍に違いない。にわかに気づくと、妙に粛然たる気持ちになって、やや高い土の上に蛍のむくろを置き、蛍狩り戦記の犠牲者として弔いたい気分になったのではないか。束の間の蛍の命への心の通い合いを詠んでいる。

沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
 沖縄海域におけるジュゴンの生息環境は、きわめて厳しい状況にあるという。戦争や戦後の基地建設、埋め立てによる再開発等によって、ジュゴンの生息環境はますます窮迫し、絶滅の危機に瀕しているらしい。沖縄忌は、昭和二十年六月二十三日、日本軍が摩文仁岬において壊滅した日に当たる。この戦いで多くの民間人が犠牲になったが、戦後約八十年の歴史の中で、ジュゴンもまたあの時の沖縄の人々同様絶滅の危機に直面していることを、戦争の悲劇とともに告発しているのではないか。

老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
 人間も生き物である以上、生まれ、育ち、盛りの時期を過ぎて、いのちの消滅を迎えるのは、自然の成り行きと言わざるを得ない。不老不死は望むべくもないが、老後の時間が長期化していることも事実である。老いの行程は、必ずしも楽なものではなく、むしろどう耐えていくかの重荷を背負うもの。しかも老いは、紙魚のように忍び寄り、刺客のように不意を襲うのだ。そうなると正面から戦えるものではなく、いかにうまく付き合っていくかの問題となる。この比喩が個性的だ。ここでは、その入り口に立った人の、途方に暮れた立ち姿と見たい。

今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
 この句の本意は、残された時間は多くなくやるとすれば今しかないのに、うたたねをしていたずらに時を空費している己への自省の念を詠んでいるように思える。やや筆者自身の身に引き付けた読みかも知れないが、これも一つの境涯感の風景と読めなくはない。すでに田水は張って、田植えに取り掛かる用意が出来ているというのに、一向に腰が上がらないのも、老い故だろうか。その刻々の時間意識自体、一つの生命現象には違いない。

徘徊は自由心太自由 鱸久子
 すでに九十代半ばに達している作者の、自由闊達な生きざまを書いた一句。「徘徊は自由」とは、兜太先生の「俳諧自由」をもじったもの。年を取ると眠りが浅くなり、夜中に目覚めて徘徊することもある。作者は、それなら起きて自由に徘徊してやろうという。兜太先生もそうしていたらしい。「心太自由」は、ちょっと難しいが、イメージからすると排便のことか。兜太先生は晩年、土スカトロジーに親しい糞尿譚をやたら句にしていた。さすがに作者は、そこは慎ましく「心太」とぼかしたが、なんとも奥ゆかしい(?)自由さではないか。

黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
 五月の黄金週間、コロナ禍の最中ながら、二年越しのコロナ疲れに、ウクライナ疲れも重なって来たので、久しぶりの連休は家族連れの短い旅行に繰り出したのではないか。さりとて、感染対策に気を抜くわけにもいかず、全員黒マスクで物々しくバスに乗り込む。そんな一家のささやかな癒しのひと時を、かけがえのないものとして愛おしんでいる。黄金と黒の対照に緊張感を宿しながら。

母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
 この場合の「顔」は、母の日の主役の母の顔ではないだろうか。日頃一家のために献身している母は、自分がお祝いの当事者であることなど、ころりと忘れているから、子供たちは示し合わせてひそかに母の喜びそうなものを用意し、当日、何食わぬ顔で集まって、食事時に出し抜けに母にプレゼントする。「忘れものした時の顔」とは、その時の母の、あっと驚く表情ではないか。

鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴

 この三句では、日常のさりげない暮らしの断片から、なにやらショートエッセイ風の物語的世界が広がる。
 「鳥ぐもり」の句。震災による瓦礫の下に、ぬいぐるみの人形が落ちていて、被災の爪痕を生々しく残している。被災地の復興未だしの中、鳥ぐもりの空は一向に晴れそうにない。
 「蘭鋳」の句。小さな金魚鉢に一匹の蘭鋳がいて、いつも独り口を動かしている。どうやらその淋しい言葉は食べ尽くしたようと見立てた。自画像の投影だろうか。
 「水仙花」の句。夜の水槽で、水仙が花を開き、根茎は節々から不定根を水中に広げている。その姿は、寒さの中、花の矜持を保つかのように、密かにスクワットを試みているかのようにも見える。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
 「尽くし過ぎですか」と言われても困るんですがってこたえたくなる。桜子さんの同人としてのスタートを飾る一句は私の思う彼女らしい句だ。薔薇は薔薇、私は私そんなところだろう。私らしく生きる、これからのありようを語っているように思える。やはり薔薇を持ってくるあたり素晴らしい。華やかに活躍してほしい。

カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
 やはり新同人の清峰さんの味のある句に注目。
 なんと言ってもカメノテが秀逸。地方都市に住む者の強み、こんな題材なかなか無いだろう。カメノテ穿るなんて書けない。何ともいえないリアリティが愛おしい。
 縁側だろうか、屋外だろうか。一杯やりながらほじほじやっているのだろう。梅雨の晴れ間のひととき、少しべたつく潮風を感じながらの至福の時間。そういえば海辺の小さいスナックで、突出しに出された磯物に困惑した記憶が甦ってくる。それは小さな巻き貝。カメノテよりも小さいやつをちまちまと穿ったことを思い出す。
 素敵な一句に乾杯。

ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
 何とも楽しい句だ。最初読んだときわざわざ上野なんて書かなくてもと思ったが、やはり余計なことは書かず楽しいリズムで「上野のシャンシャンみたいにさ」と書ききった良さだろう。「みたいにさ」が実に愛らしい。
 上五のハンモックへと戻っていくのだろうが、いそいそとハンモックを吊しながら呪文のように呟くのだろう。
 何ともいいなあ、シャンシャンみたいにおもいっきりごろごろするんだろうな。羨ましいことです。

馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
 こちらもおなじく「黄昏れやうかしら」が何とも良い。
 軽やかに響いてくるのが実に愛らしい。実際のところ広辞苑などには物思いにふけるというふうには出ていないが、いつしか一般的にはこのように使われているのでそのように読みたい。たぶん一人で馬糞海胆を堪能しながら、ちょっと黄昏れてみようかしらなんて呟いて飲んでいるんだろうな。節子さんの「みたいにさ」と同じく「やうかしら」が実に素敵。でも馬糞海胆とこう書かれると優雅さよりユーモアと感じてしまうのは何故。

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
 なにこの不気味な導入部。木下闇にポツンと人形が置かれていたら怖いだろうな。そのうえ目が無いとなると勘弁して欲しい。そしてその目を探しているのだ。何だこれは、ここから何が始まるのだろうか。しかしやはりこれは作者の内面に潜む何かなのだろう。不思議な世界観に心引かれる。

とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
 一転こちらは明るい世界が広がる。広がるがやはりこちらも不思議な世界。何なのこの梅雨鯰って、しかも二階のベッドにとなると例によって妄想癖が動き出す。
 私の詮索だとある日の旦那さんの姿態。どたっと寝転がっているのだろう。口髭でもあるのかな。ベッドと一体になっているのだろうなどなど何とも失礼しました。
 読み手を楽しくさせてくれる仕掛けに溢れた句。

橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
 昼のポーって何なのから始まって、いつしかとりこになっている。エドガー・アラン・ポーとかいろいろと考えていると、ふっと浮かんできたのが少女漫画のポーの一族。内容はよく知らないが壮大な物語が動き出す。
 でも何なんだろうこの不思議なポーは。ポーがこの句のすべて。秀逸。

用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
 一昔前だと家猫も気儘に外を歩いていた。そこには縄張りがあり、ボス猫の存在があった。この句の用心棒みたいな猫の存在ももちろんあった。凄みのある風体に幾多の戦いを経てのあまたの傷痕。猫好きにはたまらない一句。そんな猫が青葉の中に眼光鋭く蹲っているのだ。
 青嵐がよく似合う。

石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
 地震で怖いのは火事に津波。あとかたもなく想い出を奪い去ってしまう。あとに残るのは残骸のみ。作者は、日々の暮らしの痕跡である石塊や木っ端も遺品という。
 建物の破片かも知れない木っ端や、庭先にあったのかも知れない石塊に思いを寄せている。遠くにあって映像で見るのみだが、その残酷さを痛切に思う。この夏も酷暑に豪雨、各地で頻繁におこる地震。常に災害は身近なところにあり、他人事ではないだけにこの句が身に染みる。

 ところで、いろいろと訳のわからないことを好き勝手に書かせていただきましたが最終回です。ありがとうございました。

◆金子兜太 私の一句

霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ 兜太

 戦後の組合活動の関係で、先生が何度か広島を訪れた時の句である。広島駅前に、数人の女性が佇んでおり、その中に顔半分がケロイド状で、それを隠すようにするきれいな女性がいた。先生はその姿を忘れられなかった。汽車が走り出す後まで「きゃー」という声が上がるという幻覚。先生はその女性の夢を何度も見たという。かつて夫と降り立った広島駅での出来事と思うと、同じ女性としてひしひしと悲しみが迫ってくる。句集『少年』(昭和30年)より。〈著書『あの夏、兵士だった私』(平成28年)の中に自句自解あり)石川和子

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 この句が難解と思う人も多いようだが、兜太先生の句で好きな句ベストスリーの一つだ。俳句をする前から、ダリなどシュールレアリスム的作風の絵が好きだったが、この句はそのような絵になる句だと思った。この句を絵にしたら、タイトルは「早春」だ。早春になった喜びの気分を表現する俳句として、この句は私には大変新鮮な句である。句集『遊牧集』(昭和56
年)より。峠谷清広

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
春水の言葉に両手差し入れる 榎本祐子
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
しっかり呼吸巣箱に粗漉しのひかり 川田由美子
未草こころは足からは遠い 河西志帆
晩春のこだまを入れる鞄かな こしのゆみこ
蓋閉まらないほど入れて春の夢 小松敦
花見上げ奥へ奥へと僕等つながれ 佐孝石画
清明や戦地の夢は冷たい顔 豊原清明
揺れること立つこと鳥の巣を抱く樹 中村晋
どこかで又ちひさな渦巻きたねをの忌 野﨑憲子
四郎四郎と呼ばう島あり睦月かな 野田信章
天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
チューリップ画をかくように戦をして 平田薫
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
戦火また四月の橋に足をかけ 水野真由美
ブランコ最下点またふるい魚群くる 三世川浩司
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
鳥雲に君は前しか見ていない 室田洋子
消印は 三月十一日海市 望月士郎
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

高木水志 選
人類の未来世紀へ届けよ薔薇 石川青狼
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
春雨は古典よ魚になる途中 大沢輝一
蝙蝠のスープ静謐な春のこと 大西健司
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
やや無口とか人間の種袋 小松敦
雨の輪のかさなりあひて死生観 三枝みずほ
まっさらな今日を燃やして夜の桜 佐孝石画
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
喪失という繰りかえし春の雪 芹沢愛子
みづいろは大地テラの頬笑みしやぼん玉 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
内なる死干潟に満ちて遊女塚 並木邑人
崩壊の土来年も咲くよ菫 野口思づゑ
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
桜もう風の軽さに漂いぬ 茂里美絵
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

竹田昭江 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
清明の縞馬フォンタナの切れ目 石川まゆみ
げんげげんげどこを曲がりてわれに今 伊藤道郎
畳まれて国旗の色の紙風船 小野裕三
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雲雀落つ父と永眠との間 木下ようこ
いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
土筆野に朝日清浄なりしかな 関田誓炎
めつぶるは睡魔のなごり白山吹 田口満代子
友情は黄泉につづけり花きぶし 田中亜美
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
山道の菫見るまでのリハビリ 谷川瞳
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
苧環の咲いて出雲の雲遊び 遠山郁好
たんぽぽの絮毛吹こうと誘われる 中村道子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
ひとり花見つぶやくことも我が浮力 村上友子
地球儀は地球にいくつシャボン玉 望月士郎
山椒の実遠回りには訳があり らふ亜沙弥

若林卓宣 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
うしろの正面にいます春の蝶 市原正直
蕗の煮物のとりとめのない日常 宇田蓋男
ヒヤシンスきょうはさみしい音を買う 大髙洋子
もうよせよあの八月がやって来る 奥村久美子
豆ごはん並べてやさしき時間かな 柏原喜久恵
順繰りの人生と母日向ぼこ 金澤洋子
お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
目刺焼く格好付けるなと言ったでしょ 楠井収
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
初夏の少女ブランコをゆらしている 笹岡素子
夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
戦争を観ているビール注いでいる 瀧春樹
ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
騙されるふりの優しき万愚節 長尾向季
食べることねること桜さくらかな 平田薫
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
落ちて割れた氷柱を蹴って難民か マブソン青眼
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
親に物言わぬ子となる木の芽時 梁瀬道子

◆三句鑑賞

天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
 天皇を句に詠むときに感じるちょっとした抵抗感。天皇という存在を畏れ多いものとしてしまう無意識の何かと、それと同時にその何かを否定しようとする意識。「きれいに」でまずは天皇誕生日を言祝ぎながらも「鯛の骨」という、ひっかかりや違和感を持ち出し、もしかしたら最上級の風刺なのではないか、と思わせる。

消印は 三月十一日海市 望月士郎
 胸が苦しくなるような悲しみを、美しく表現された。一時空けを含めての句の姿がビジュアルとして、句の意味を超えたものを醸し出している。「消印は」と始まり空間がある。ここにあの津波からのあらゆる出来事が省略されていながらも、たしかに見えてくる。「は」という助詞を使いながらそのあとは散文としては続かない。韻文の律を持ちつつ、ぼんやりとした映像を見せる。「海市」という季語が十分に働いているからだろう。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 「木のやうな人」とあり、なんとなくそれっぽい人を想像する。「と」のあとにくるのは何だろうという期待を裏切られるよろこびとして「木の人」がやってきた。「木の人」とは?にイメージを遊ばせる朝のアンニュイな時間がたっぷりとやってくる。
(鑑賞・小西瞬夏)

変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
 ルールは本来、人々が安全で平和に暮らしていくためにあるもので、小学生の時、みんなで試行錯誤しながら遊びのルールを変えていったことを思い出す。作者が思っている「変えていいルール」はわからないが、僕は、まだ寒さが残る時期に、ここから春ですよと白線を引き、宣言する作者の未来に向けた気持ちや清々しさを感じた。

不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
 家族の様子を「不燃性家族」、一人「たんぽぽ化」と表現したところが面白い。たんぽぽと言えば、僕は先ずその絮を思い浮かべる。閉塞感が漂っている家族の中で、一人明るく逞しく育ち、希望を抱いて飛び立とうとする姿が「たんぽぽ化」なのではないか。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 不思議で魅力的な句。人の暮らしは、昔から木と共にあった。僕にとって、木とは、大地に根をはり、太陽に向かって枝・葉を広げ、風雪に耐えながら、たくさんの生き物を育んで生きているものだ。「木のやうな人」は、そうした木のように歳月を重ねた人だと思う。「木の人」は、木の精霊のことだろうか。日常生活の中で、こんな朝寝ができるなんて素敵だ。
(鑑賞・高木水志)

いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
 「つ」の連鎖の韻律が奏でる心地良さ、表記の端正さ、うつくしくの趣がすっと見えてきた。「いつかつかう」の言の葉が胸に響いて、きめ細かく生きるおりふしのやさしさに触れる感触、それは春の家。箱に千代紙を貼って大切にしたのはいつのことだったのか、今も何入れるでもない箱を大事にしている。

全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
 三月十日の東京大空襲で被災した私は、毎日報道されているウクライナの惨状が痛くて震える。国花のひまわりを「全面的に」こそ世界平和を希求する大きな声であり「咲かそう」と停戦への積極的な行為を示している。麦が青々と風にたなびき、ひまわりが太陽の下で大きく咲く日が一日も早くと願うばかりである。

追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
 まったくと言いながら待っている気持ちは可笑しくも分かる。きっと日本猫で黒猫に違いないと確信すらして。我が家にも猫が居て実に気儘であるが、その気儘が気に入っている。「追い返すつもり」と待っていると、ふと寂寥を感じるのは日永のせいか。犬より猫の句が圧倒的に多いのは、気配の生きものだから、と思う。
(鑑賞・竹田昭江)

お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
 歩き遍路をしていると、お接待を受けることがよくあり、いただいた気持ちとして納札をお渡しする。「よくお参りくださいました」と言われると、頭が深くさがる。「遍路は歩いてこそ」と言う寂聴さんのポスターを見かけると、そうとも思うが、都合もある。「お達者で」と言われると、益々元気になれるような気がする。

夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
 公園なんかでよく見かける風景。子であろうか、孫であろうか、まさかの本人であろうか。鉄棒の出来ない年齢になってから知ったのだが、鉄棒に腹をくっつけたまま太紐で縛れば逆上りは出来る。やがて夕虹のなか、その少女は(勝手に決めつけているが)何の助けも、誰の助けもなく、逆上りが出来ていると思う。

ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
 春には桜、夏にはひまわり、秋には紅葉を撮っている写真の好きな人が私の近くにいる。中でも桜には贔屓の木があり、毎年撮っている桜の写真を見せてくれる。「満開の桜を浴びる」のだから桜を好き過ぎてどころではない。環境なのか、日本人の血なのか。「墓石に映りながら散る」桜も気になってしょうがないようだ。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

食卓に色違いの箸茗荷筍 有栖川蘭子
青梅や母のゐぬ間に紅して 有馬育代
石屋から出て来る白い羽抜鶏 淡路放生
企画書と寝ぬべき頃かな明易し 飯塚真弓
蟻ころす部室のかたすみ資本論 遠藤路子
殺めたる豚の血の色端居して 大渕久幸
れんぎょうの花よおとなの反抗期よ かさいともこ
夏蜜柑力を入れて産みました 後藤雅文
こんなにもたんぽぽ咲いていて痛い 小林ろば
夕焼けや余生青でもよかろうか 近藤真由美
丸裸謀反役なるチャップリン 齊藤邦彦
蜘蛛の囲にぶらさがってみるゆれてみる 宙のふう
ミロ愛す花と女とかたつむり 髙橋京子
父の日やひと日娘になりにけり 立川真理
人は生く泰山木の花咲かせ 立川瑠璃
蕨狩り上飛ぶブルーインパルス 土谷敏雄
古火鉢に目高飼い初む七十なり 原美智子
鯨幕の外で踊るよ顔なき人 樋口純郎
跨線橋のつしのつしと積乱雲 深澤格子
さみどりやかの道裸眼でゆくことに 福井明子
揚羽蝶前頭葉にフラグが立つ 福岡日向子
レコードを脇に抱へる夕立かな 福田博之
新緑や夫を病いを悪自慢 藤川宏樹
限界団地内公園文字摺草ほっ 松﨑あきら
海難を悼む島の灯走り梅雨 村上紀子
低速で檸檬つぶしていく指よ 村上舞香
虹立つも國家を主語とするなかれ 吉田貢(吉は土に口)
みちのくにそろりそろりと祭りあり 吉田もろび
剃髪の母大海のごと笑ひをり 渡邉照香
白薔薇や獅子座のおとこ所望する 渡辺のり子

『海原』No.41(2022/9/1発行)

◆No.41 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

今生の別れはライン 薄翅蜉蝣 石橋いろり
遠く住む姉 障子明りが救いです 泉尚子
麦秋や爪弾く禁じられた遊び 大髙洋子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
肖像画遺す人生麦青む 小野裕三
籐椅子の窪みかすかや姉の逝く 片町節子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
陽だまりは祈りの白さみどりの日 小松敦
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
王冠忘れた女王様です白木蓮 鱸久子
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
羊歯若葉少年いつも老い易く ダークシー美紀
腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
花は葉に数える影のくいちがう 竹田昭江
無辜の眼の底に昏れゆく麦の秋 田中信克
新茶汲むこの一椀の天地かな 寺町志津子
行く春の愁緒一懐しゅうしょいっかい抱きて寝る 董振華
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
暗がりの樹々かをりたつ藍浴衣 前田典子
嘆きのように祈りのように熊谷草 松本千花
今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
朧なる人道回廊けものみち 深山未遊
何も無い日々に丸して花水木 室田洋子
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司
父の背がここ籐椅子のふくらみに 森武晴美

大西健司●抄出

少年の髯剃る最中遠郭公 石川和子
パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
草城にダニの句多し夏の雨 大西恵美子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
怒りにも賞味期限や春の虹 加藤昭子
病む父へ猫は寄り添い余花の雨 鎌田喜代子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
薬草のような女になる五月 佐藤詠子
火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江
空蝉やへその緒三つ手の中に 志田すずめ
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
閉ざされし母校の艇庫冴え返る 新宅美佐子
さびしさに正面ありぬ金魚玉 竹田昭江
生意気なナースの二の腕風薫る 長尾向季
兜太の忌古き鞄を陽に晒す 日高玲
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
桜蘂降るカーナビは遠回りが好き 深山未遊
マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
幣辛夷田の神様は大股で 横地かをる
円墳に歌舞く役者か黒揚羽 吉村伊紅美
孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣

◆海原秀句鑑賞 安西篤

卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
 作者の実家は三重県南部の山深い地に住む旧家。「爪の小さな家系」とは、ささやかな矜持を謙遜の意を込めて書いたものだろう。「卯の花腐し」は、陰暦四月卯の花月に降る雨で、春雨と梅雨の中間の霖雨。せっかくの卯の花が腐るのではないかという先人の思いからきたものという。おそらくこの季語の湿り気を帯びた滅びの美しさと、その地に耐え忍んで生きる旧家の宿命を、さらりと書いているのではないか。義父甲子男に通ずる反骨をも感じさせる一句。

卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
 作者は、今年、定住の地であった長野県から沖縄へ転居した。その一報を電話で受けたとき一瞬驚いたが、彼女なら迷いなくやりぬくだろうとすぐに思った。この句はその第一報だろうが、まったく物怖じしない気合が入っている。沖縄の海に向かい両手を広げ、ずかずかと靴のまま海に入っていき、どうぞよろしくと叫んでいる姿が目に見えるようだ。海もまた「いいぞ助っ人」と答えているに違いない。

桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
 「桜蘂降る」は、花が散った後の、静かな晩春の風情で、地面をうっすらと赤紫に染めるように散り敷く。掲句は、今の時期ウクライナ戦争を意識しているのだろうから、その惨状を正視に耐えがたい思いで見聞きしているはずだ。「戦禍見ぬふり聞かぬふり」は、それにもかかわらず、見、聞かざるを得ない気持ちを詠んでいるとみたい。その辛さやりきれなさを、逆説的な表現で捉えた一句といっていい。桜蘂は戦禍の血痕のようにも見える。

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 やはり日常の暮らしの中で、戦争の現実をひしひしと感じつつある一句だ。この世界に戦争しない力を、その念力を私にも、という願いを込めて、胡瓜を揉んでいる。もちろんそれだけで、直接戦争抑止力につながるわけではないが、その願いの集積が、大きな波動となって歴史を動かしていくことはあり得よう。ささやかな日常に平和への願いと祈りを込めた一句。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 兜太先生の身辺にあって、同じ風土と空気の中で生きてきた人ならではの、身体的韻律を感じさせるものがある。一句全体が兜太節といっていいのではないか。初蝶は、春の訪れを告げるかのように舞い出て、山河の水はその光に照り映える。あらためてわが産土の地を寿ぐかのように。兜太先生の晩年は、この句のような原郷回帰の思いが濃かったのではないだろうか。

腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
 作者は今年二十七歳、大阪在住の青年だが重度の障碍者で、脳機能はなんとか保全されてはいるものの、肢体の動きはままならず、辛うじて言葉を発することは出来ても、健常者のように会話を自由に操ることは出来ないという。外部とのコミュニケーションや俳句の創作は、もっぱらお母さんが本人の言葉をパソコンに打ち込んで発信する。お父さんは脳科学者でもあり、本人の健康管理は両親の専門的対応によって万全を期しておられる。重いハンディキャップを両親の献身的介護のもとで乗り越え、俳句は大叔母の本誌同人高木一惠さんが受信して適切なアドバイスもしながら、編集部に取り次いでいる。いわば一家一族あげての手厚い支援体制の下で俳句活動が成り立っているわけだ。このような背景を踏まえて掲句を読み直せば、「腹這いの自由繋いで」に作者の懸命な野遊びの映像と、土筆のささやかながら精一杯生きようとする景が重なって、いのちのシンクロニシティの空間を現出しているような感動を覚える。

爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
 ウクライナの現実を想望した句の中では、戦争の初期の衝撃を映像化したものではないか。爆風で風見鶏がくるくる回っている景。ひまわりの国というウクライナを擬した表現にも、風見鶏の回転に連脈する語感の軽快なリズム感があって、戦争の衝撃に耐える弾力性を思わせるものがある。だがその「ひまわりの国」も、今は略奪と暴行で泥まみれに打ちひしがれている。その現実を我々は想望するだけだが、それでも戦争の悲劇を我々の日常の断片の中に見出して、ささやかな体感を表現していくことは出来よう。

今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
 働いている人々の今日のアレコレ。誰にも言えず、ひたすら時間とともに塵芥のように堆積してゆく。その多くは対人関係のものだけに、おのれ自身で背負うしかない。そんなアレコレをかっさらっていけるのは、今頬をなでていく若葉風ぐらいのものだろう。いわば束の間のカタルシスだが、それでもそのひと時あればこそ、明日への生きる力をよみがえらせることが出来る。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
 今月号は「風の衆」の俳句がおもしろい。中でも木下ようこさんの句にはショートショートのようなおもしろさがつまっており妄想癖を刺激する。
 「こなごなの過去」「記憶の下の下の詳細」などとどこか意味深。そして最後に「離婚後も同居」という現実が述べられ、突然の青葉木菟の出現にびっくり。
 元亭主があたかも青葉木菟であると取りたい。
 冷え冷えとした家の中の片隅に存在している元亭主のどこか達観した姿とはうがち過ぎだろうか。でも青葉木菟でよかった、たとえばごきぶりじゃいやだもの。
 かと思えば「灰吹屋薬局」が出てくる。何とも灰吹屋が気にかかる。調べればごく普通のドラッグストアとか。
 ただやはり江戸から続く老舗のようだ。ツバメに好かれる江戸店からいろいろと妄想が膨らむ。諧謔味に溢れた五句が秀逸。

薬草のような女になる五月 佐藤詠子
 何とも悩ましい薬草のような女。さてどんな女性なのだろうとまたまた妄想が膨らむ。なかなか渋い味わい深い人だろうか。ノバラ、イチヤクソウ、それともドクダミのミステリアスな白。五月になるとそんな女になるという。みちのくの五月は全てが躍動的になる美しい季節。
 そんな季節にどう生まれ変わるのだろうか興味はつきない。

火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
 後家とは何とも意味深。いまも普通に使える言葉なのだろうか。日常の中に存在する火薬庫の不気味さ、そして何気に佇む女性の存在が何ともいえず秀逸。ここから何か物語が始まるのだろう。

はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
 言葉遊びの楽しさを堪能。
 他にも紫木蓮をティラノサウルスの舌と捉えた感性。
 青葉径を横切る狐の尾の愛らしさ。のびのびと書かれていてすべてがたのしい。

パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
 ひゆーいと伸びるパンタグラフは路面電車のもの。
 やはり普通の電車のパンタグラフはこんなにのどかではない。とりどりの路面電車のなかでもとりわけ古い車輌のものだろう。広島の街を縦横に走る路面電車の愛らしさが「ひゆーい」から伝わってくる。そんな広島にまたあの時と同じ暑い夏が来るのだ。

五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
 水墨画の味わいだろう。五月雨に煙る野にぽつんと一頭の山羊がいる。その山羊の姿が全景なのだ。何もかも雨にかき消されている。一頭の山羊に焦点をあてて秀逸。

はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江

 二句とも何でも無いさりげない句だが、このさりげなさが好ましい。黒岡には「春泥に」という重いテーマの句もあるが最終的にこの句をいただいた。
 佐藤句はただ帽子を二つ買ったというだけ。しかしそれが病院帰りだということで、ストーリーがそこから動き出す。能動的な夏の始まりがうれしい。

星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士

 やはり光の衆の句は除けては通れない。なるべく無視しようなどと余計なことを考えるのだが、やはり実力作家の句はあなどれない。さて松本句だが最近とみに身辺詠に冴えをみせるのだが、この句のような壮大なロマン溢れる絵画的な句もいい。むしろこのような句が松本勇二の世界だろうと思う。どこか神話を思わせる。
 そして宮崎句だが、君という存在の重さをまず思う。
 そしてそこには君の死を受け入れられない現実が横たわる。そのやるせない思いの重さ深さにひたすら摘草を続けるのだ。それは胸の奥深くひっそりと永劫続くのだろう。あまりに切ない。

マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
 マトリョーシカはロシアの代表的な木製人形。その愛らしい人形が呟く。「春は終わった」と。やはりこのぶっきらぼうな言い方のその中に、今度の戦争の虚しさが隠れている。すべては終わってしまった。もう元には戻れない、そんな切なさに溢れている。

孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣
 孑孑の湧いた水を盛大に舗装路へぶちまけているのだ。
 その行為のおもしろさ。孑孑を水ごと捨てるという、その捉え方の手柄だろう。一見ぶっきらぼうな言い方に諧謔味があり、この行為を正当化する人の姿の様子まで見えてくる。

◆金子兜太 私の一句

葱坊主わらべの持ちし土光り 兜太

 私の故郷は愛知県の奥三河の山村で、山が迫り空は帯の様に細長い。平地は少なく段々の田畑が細々とあり農業と林業の暮らしである。山と土に育った私には、兜太先生の土に親しみ土に生きるという考え方と、その諸句に強い共鳴と印象を感じ今日まで学んでいる。この句の土が光るというのは、正に土を大事にし、土が全てであると表現されている。秩父の腹出し童と土、先生の俳句の原点と強く惹かれる。句集『少年』(昭和30年)より。伊藤雅彦

海流ついに見えねど海流と暮らす 兜太

 入会して間もなく秩父俳句道場で拙句を特選に採って下さり、〈谷底にめしつぶ怒号して百軒〉の色紙をいただきました。色紙の入った額の裏には〈昭和五十七年七月道場兜太書〉と墨で書いて下さった私の宝物です。海流と暮らす五十代から六十代の血気盛んな先生の姿が偲ばれます。後の〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉はオホーツク海を離れ、人間界に戻って流れてゆく「定住漂泊」を詠っておられます。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。若森京子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
天国だ地獄だろうと団子虫 阿木よう子
雛人形美は断崖に立っている 片岡秀樹
水喰らい風喰らい阿吽の形の凍瀑よ 刈田光児
越後平野慕わし雲居より白鳥 北村美都子
お日さまにくちびる見せよ春の子よ 三枝みずほ
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
世の中のどこまで信じ地虫出づ 佐藤詠子
能面の男の囲む焚火かな 白石司子
春の霧老いの深さに追いつかぬ 髙橋一枝
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
流氷接岸夜は一羽の迷鳥に 鳥山由貴子
夜のきわが街を呑み込む兜太忌や 藤野武
湯冷めして返しそびれた本のよう 船越みよ
小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
谷の芽木いま兄呼べば振り向かむ 水野真由美
雪割り草意外と「遺憾です」の顔 宮崎斗士
素心臘梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
心音はこれくらいかと臘梅咲く 横地かをる
泪をながさうまた生まれやう繁藪や 横山隆

川崎益太郎 選
落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
春の土耕すように脳軟化 大西政司
梅匂う人間鬱になる途中 尾形ゆきお
桜舞うフェイクニュースに踊らされ 奥村久美子
春の闇骨肉の戦車並ぶなり 桂凜火
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
必死とて死ぬわけでなし亀の鳴く 高橋明江
かじかんだ手を置く頰はあったんだ 竹本仰
黄砂降るそのまた向こう戦あり 竪阿彌放心
デモのない国のかたすみ鳥帰る 田中信克
裏側は決して見せない月の意地 東海林光代
啓蟄やごみの捨て場に遍路杖 長尾向季
秋思など戦禍思へば言い出せず 野口思づゑ
同窓名簿遠い遠いスタートの日 間瀬ひろ子
私に正面くださいチューリップ 三好つや子
フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
天井の闇のひとみや雹の音 森田高司
酔いどれにマスクが月にぶらさがり 輿儀つとむ

村本なずな 選
自分史の過去が氷解雪解川 赤崎裕太
雪吊や知恵とはなべて美しき 石田せ江子
三月十一日と書くもくやしきかな 稲葉千尋
蝶々や無数の仮説あおぞらに 上原祥子
捜し物もともとあらず朧月 片町節子
どこに仕舞おう零れる時の種袋 桂凜火
花あしび野辺に光の荷を降ろす 川田由美子
光りつつ消える俤竹の秋 北上正枝
いぬびわの実なにもおしつけない流れ 黒岡洋子
うさぎまっすぐわたしを抜けて雲 三枝みずほ
椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
卒業式の後のふんわり鬼ごっこ たけなか華那
花ミモザ仔馬は耳で考える 遠山郁好
しどみ咲く段々畑の日の笑窪 平田恒子
麦青む胸のファスナー空へ開き 藤野武
若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
この木から言葉始まる榛の花 三浦二三子
語尾また♯してぼくらも春の一部 三世川浩司

山田哲夫 選
千枚田水が張られてきれいな歯 稲葉千尋
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
自粛とやまたしばらくは冬の蜂 尾形ゆきお
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
菜の花盛り艶の山気に仮睡して 関田誓炎
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
故郷や笑い上戸の山ばかり 峠谷清広
駅蕎麦の生真面目な艶春出雲 中内亮玄
春一番こける子のゐる地曳網 長尾向季
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
観念をしまう抽斗猫柳 松本勇二
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
私書箱に置き去りにする春愁い 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
 山独活は収穫時に根を残すと、ほぼ毎年同じ場所で収穫出来る山の恵み。えぐ味が強いが皮を剥いだ真白な茎を切り水にさらすと透き通り、仄かな苦みと歯ざわりがある。山独活を知り尽くした作者が山独活と民話とに共通する本質的なものを感じとり、それを言い切ることで、読む側への説得力がより強くなったと思った。

白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
 前書きには「母他界」とある。人の死で最後まで残るのは聴覚と聞いたことがある。作者の母を呼ぶ声も、多分白梅が散りゆくように今際の母上の耳から遠く静かに消えていく。身近な人の死の悲しみをこんなにも美しく表現し、結句に鼓膜という厳然とある器官を据えることで現実に引き戻す作者の句力に脱帽。

小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
 五月の良く晴れた日に友と二人近くの山へ。途中日当りの良い斜面から五〜六羽の子連れ鳥。胸のオレンジ色が印象的。小綬鶏だ。聞き做しは「チョットコイ」二羽が鳴き交わせばまさに夫婦喧嘩。作者がそう思い付いた瞬間の茶目っ気ある笑顔が見えるよう。世界中が小綬鶏の声の聞こえる自然豊かな土地で平和に暮らせたらどんなに良いことでしょうか。
(鑑賞・狩野康子)

落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
 落椿という季語について、前触れなく、落ちることを詠んだ句は多いが、「他界」と結び付けたことから、兜太師のことが思い出されて、心に響いた。確かに、遠くて近い、他界は、落椿という季語の本意かも知れない。

マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
 ロシアを代表する民芸品であるマトリョーシカの腹に一物と言わせる哀しさ。数々の美しいロシア民謡も何か胸につかえて、昔のように素直には歌えない。ただ一人の男のために…。先の見えない戦に冴返るどころでなく、凍りついてしまう。

フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
 「フラスコ」と「ふらここ」をリフレイン的に使った俳味あふれる句である。確かに、フラスコは胎児を守る子宮のような感じを受ける。そこで、子どもが無心にふらここで遊んでる。毎日のように、ウクライナの子どもたちの悲惨な状況等を目にさせられるだけに、幸多かれと祈るのみである。
(鑑賞・川崎益太郎)

椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
 高濱虛子の「流れゆく大根の葉の早さかな」の流れは野趣を感じさせる流れである。一方掲句は椿の花の優雅さのため、庭園の遣り水を思わせる。それまでは流れの速さを特に意識していなかったが、一輪の椿が落ちたとたん、流れは生命を吹き込まれ生き生きと流れだしたのだ。私は思わず黒澤明の「椿三十郎」のワンシーンを思い浮かべてしまった。鋭い観察眼と感覚の一句。

真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
 意表を突かれる句。新玉の陽を有り難くおろがむのではなく、挑戦するように真向かう作者。しかも食ってしまおうかと思う胆力と気概。小賢しいレトリックなどこの方には不要だ。確かな矜持をもって生きてこられたに違いない。ずばり踏み込んだ表現に圧倒される。

若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
 いささか厚手のダッフルコートは学生時代のものだろうか。これを見ると若き日の思い出とともにあの頃の情熱や志が甦ってくる。そのコートが「日和るなよ。あの頃の思いを貫けよ。」と作者を叱咤激励している。作者はその思いを確認するため、このコートを見つめているのだ。
(鑑賞・村本なずな)

冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
 冬の火葬場で少年が見送るのは、肉親であろうか。それとも兄弟だろうか。悲しみの極にある少年の心を察して、肩をそっと抱き寄せた火夫。その行為の中に日々人の死に向き合っている人の心根の優しさと、それを見た作者の温かなまなざしを美しいと思う。死と向き合うと、人の心は不思議と素直になる。

遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
 日々戦争や災害や疫病の蔓延にやるせない思いを抱きつつ生活している身には、こうした句に出会うと急にほっとさせられる。土偶の昔とて、人間の日常の営みにたいした違いもないかも知れぬが、眼前の土偶は、黙して語らぬ。だが、土偶という存在そのものが、既に昔を思わせずにはおかない。「三月尽」が効いている。

木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
 二十数年連続し出生率が低下し続ける日本。都市部も地方も人口減少に歯止めが掛からない。「木五倍子垂る」山国の開拓村とて同様で、一人また一人と村を去り、やがて学校は廃校、切り拓いた農地は荒れ、限界集落となり、自然に還る。過疎を嘆く作者の思いが春を迎えて生き生きと垂れる木五倍子とは対象的に哀しく伝わってくる。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

父母のありてさびしさ袋掛 有栖川蘭子
卯波立つうかつにも乳はじかれて 有馬育代
ふじだなの藤の驕りを離れけり 淡路放生
路地奥の波音湿る立夏かな 安藤久美子
蔵座敷の奥へ永久とわへと青嵐 飯塚真弓
墓石には父の好かない青蜥蜴 井手ひとみ
戦場の轍の跡にすみれ咲く 植松まめ
春野っぱらつきささってる線量計 遠藤路子
アイスティーの氷溶けてく退屈 大池桜子
メガホンの小さい方の穴梅雨入 大渕久幸
芒野に入りし古老の行方かな 押勇次
団欒の声が朧の空き家から 後藤雅文
天網も無力かシェルターからの叫び 塩野正春
雪明り心の闇のバンクシー 重松俊一
臍らしき模様を抱きて蝌蚪の腹 高橋靖史
祖父といふ静けさ囀りの中へ 立川真理
水中花最後の晩餐は点滴 谷川かつゑ
少々の漁獲に五月蝿さばえたかりけり 土谷敏雄
緑陰で誰の捨てたる嘘を踏む 服部紀子
麦秋のがっしとつかむ発煙筒 深澤格子
死にたいとき死ねるといいね茄子の花 福岡日向子
道に売るトカゲのおもちゃ薄暑光 福田博之
鷹鳩に化し父さんはなんか変 藤川宏樹
にんげんとは何 ひまわりに砲弾 増田天志
野良仔猫大きな好意は怖いのです 松﨑あきら
夕の虹欄干に居る猿五、六 村上紀子
囀りやうつばりの塵こぼれ浮き 吉田貢(吉は土に口)
スコップに予期せぬ肉感初蛙 吉田もろび
此の身脱ぎたしセーター脱ぐやうに 渡邉照香
夜桜の発火点まで来てしまう 渡辺のり子

『海原』No.40(2022/7/1発行)

◆No.40 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

斑雪老婆焦土に国旗挿し 綾田節子
キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
リハビリの綾取り縺れ日脚伸ぶ 榎本愛子
麦秋と青空の旗 土がたわれは 岡崎万寿
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雪割草ひさかたという一隅を 川田由美子
葉桜や暗号交はす弟たち 木下ようこ
根開きやあっけらかんと艶話 佐藤君子
春あらしみな素顔にてウクライナ 鈴木栄司
土を縫う種漬花たねつけばなよ返し針 鱸久子
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
子を逃がし護国に戻るミモザの日 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
夜桜やロシアにロシアンルーレット 竹本仰
春装や癒えて久しき針もつ手 立川弘子
爆音の街の蘖として生きる 田中信克
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
反戦歌初蝶のまだ匂わない 遠山郁好
幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
白木蓮ここから私の海がはじまる 平田薫
椿落つ猫とじゃれ合う鍼灸師 松田英子
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
春の木や戦場に名をなくしつつ 水野真由美
母を看るさくら貝この散らばりよう 宮崎斗士
茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
欣求穢土ぼうたんのひらききる 山本掌

大西健司●抄出

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
もう抱かれぬ躰水仙咲きにけり 榎本祐子
笹鳴や屋根を開いてごらんなさい 大髙洋子
火球とぶ夜勤の道の盆やぐら 荻谷修
弟に駆け落ちの過去目張り剥ぐ 加藤昭子
ふらここを横に引っぱってはだめ 河西志帆
息せぬ子まるごとくるむ毛布かな 鈴木修一
万愚節食べられさうな草ばかり ダークシー美紀
溜息は泡立つ時計蕗の薹 高木水志
まぎれなく戦ありしよ黄砂降る 田口満代子
自分で髪切ってちゃんと寂しく四月 たけなか華那
泣くほどのことかよ冷やし中華だぜ 竹本仰
夜桜のどこかおどけた喉仏 舘林史蝶
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
悼むときムスカリは色濃くゆれる 月野ぽぽな
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
花冷えのような地名ね「リビウ」 遠山郁好
春雷や母さん今日なぜ優しいの 遠山恵子
春の夜のわたしの身体にわたずみ 鳥山由貴子
服従を拒みて紋黄蝶となる 中條啓子
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
冬ぎしぎしの点在殉教史のはじめ 野田信章
春鰊とても上手に食べました 前田恵
すべて嘘だったと言ってくれドニエプル川 マブソン青眼
朧夜を歩く魚を踏まぬよう 望月士郞
茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
蝶々来てゾルゲの墓の露西亜文字 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

子を逃がし護国に戻るミモザの日 高木一惠
 ロシアのウクライナ侵攻によって国を追われた人々が、 国境で家族と別れ、祖国を守る戦いに戻ってゆく姿が放映されていた。三月八日は、国連が定めた「国際女性デー」。イタリアでは「ミモザの日」と呼ばれる。ちょうどミモザの花咲く頃、小さな黄金色の花々が、懸命に父や夫に呼びかけるようで、別れの哀感に胸を衝かれるものがあった。こんな悲劇を戦後八十年近い歳月を経て、繰り返されなければならないとは。兜太先生が幾たびも十五年戦争前夜といい、「戦あるな」と呼び掛けられたこと、今にして身に染みる思い。

反戦歌初蝶のまだ匂わない 遠山郁好
 反戦歌が湧き上がっている野に、「初蝶のまだ匂わない」とは、どう解釈すればよいのだろう。二月に始まった戦争に、まだ息をひそめるようにして成り行きを見守っているということか。舞い出た初蝶は、まだ体臭を伴うほどの実感には達していないとみたのか。いずれにせよ、なんらかの危機感を覚えながら、反戦歌を聞きつつ平和を守る願いを、どう実現できるかとのためらいやせめぎ合いがあって、身につかない思いへのいら立ちなのかも。

春の木や戦場に名をなくしつつ 水野真由美
 ウクライナ侵攻の戦場の跡は、建物はおろか街路樹や公園までも、破壊し尽くし焼き尽くさずにはおかなかった。そこにあった春の木々は名もわからない。その惨状を、「戦場に名をなくしつつ」と詠んだ。あたかも先の大戦で、多くの無名戦士の墓標が立てられたことに連脈する景だろう。作者は、心情に触れると全身で慟哭することをためらわない人だ。ウクライナの映像に揺さぶられるものを感じたに違いない。

切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
 やはり戦争の現実を詠んだもの。あるいは戦争の現実を想望したものともいえよう。根こそぎ切り倒された切株の上に、戦死者の遺品となった靴が置かれている。靴は天へ向かうかのように、靴先を天空へ向けている。それは声なき声として、発せられているものだろう。同時に、不条理な戦争への告発を叫んでいるかのようでもある。「俳句弾圧不忘の碑」の建立に尽力した作者ならではの一句ともいえる。

春あらしみな素顔にてウクライナ 鈴木栄司
 ロシアの侵攻に苦しむウクライナの人々の素顔が、刻々とSNSで報じられている。その映像はまさに、春のあらしそのものと見たのだ。「春の嵐」といえば、気象条件が浮かび上がる。作者は「春のあらし」と平仮名表記することによって、歴史的事件へと転じた。みな素顔で泣きじゃくり、苦悶の表情を隠さない。その裏に多くの悲劇の現実が隠されていることを暗示している。

幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
 アトリは、晩秋北方から飛来する渡り鳥で、幾千もの鳥の群れが鳴きたてながらやってくる。その壮観から、今ウクライナで始まっている戦争に思いをいたし、アトリの鳴き声に異様な訴えのようなものを感じつつ、戦争よどうぞ収まってくれとの願いを込めて祈る句。アトリの群れに、ウクライナの人々の叫びを感じているようだ。アトリの輪舞は続いている。

出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
 クロッカスは、早春に花をつけ暖かくなると休眠してしまう。老いれば誰しも覚えがあろうが、昨日まで出来ていたことが、次々と出来なくなることも増えてくる。そんな時、クロッカスの地を這うように咲く花々の終わる姿を見て、身につまされる淋しさを味わっている。

茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
 暖かくなると、野菜の花茎の中に抜きんでて伸びてくるものがある。そうなってしまうともう調理のしようもなくなる。子供のおませな口ぶりをみていて、あなたにはあなたの動詞があるのね、もうついていけないわとばかり、言語感覚の世代間ギャップを感じているのだろう。それが特に現れるのが動詞の表現だ。具体的な例示は、家族の身辺に覗えよう。

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
 今どきの若者言葉を使って、初恋の衝撃を咲き始めたつるバラの花に喩えた句。「キュンです」が面白い。いわゆる「胸キュン」の意だが、小ぶりのつるバラのように可憐で、「キュンキュン」と続くようなショックとも受け取れ、若い世代の言語感覚のふるまいが、端的に体に突き刺さるように感じられる。

春装や癒えて久しき針もつ手 立川弘子
 しばらく病んでいて、久しぶりに病衣から春装へとよそおいも新たに、縫物を始めたのだろう。縫っているのは春装そのもの、すこし華やいだ感じの衣装に、心も晴れやかに針を運んでいる。「久しき針もつ手」も軽やかに、喜びが溢れている。家事裁縫を女のたしなみとして育った世代ならではの生活感覚なのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
 まさにキュンとする一句。メジャーリーグの実況放送で大谷翔平のホームランに「翔平キュンです」と実況席のアナウンサーが絶叫。その時のキュンが忘れられない。この句は咲きはじめたつるバラの愛らしさに思わず呟いたのだ。旬の言葉を使って好句となった。早い者勝ちだ。

もう抱かれぬ躰水仙咲きにけり 榎本祐子
 初老の美しい女性が佇む日本海の海辺に凜と咲く水仙の健気さを想う。ドラマの一場面か重厚な小説の一章が切なく想われる。着物の衿をあわせる女性は水仙の化身だろうか。男はただ虚しくこのような妄想を抱くのである。何とも悩ましい一句。

息せぬ子まるごとくるむ毛布かな 鈴木修一
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
 生と死の対比があまりに哀しい。鈴木氏の句からは理不尽に生をたたれた子への絶望があまりに重い。その哀しみを、その現実を押し隠すようにまるごと毛布でくるむのである。まるごとという措辞が上手い。
 一方、田中氏の句からは生の喜びが伝わってくる。ただそこはシェルターの中。今にも砲声とともに禍々しいものがやって来るかも知れない。理不尽な侵攻、破壊が続くなかも懸命に生きる人々にとって新しい命の誕生は希望の象徴だろう。何とか生き抜いてほしいと願うことしか出来ない現実が辛い。

自分で髪切ってちゃんと寂しく四月 たけなか華那
 たまらないほどの孤独感。最初このように読んでいたのだが、しばらくたって思うことは意外とあっけらかんとしているのではないかとのこと。「ちゃんと寂しく」ここからうかがえるのは想定内の寂しさだろう。長い一人暮らしだろうか、ちゃっちゃと自分で髪を切って、四月は想定内の寂しさだとたくましくいう。そんな都会の一人暮らしの女性のたくましさにリアリティーを感じる。

泣くほどのことかよ冷やし中華だぜ 竹本仰
 俳句というより一行詩に近いのかもと思いつつ、この一句から離れられないでいる。なんともいえない哀愁漂う情景に引かれる。ある食堂でのこと、冷やし中華始めましたの頃だろうか。テーブルの冷やし中華をはさんで座る二人の男、一人が泣きながら何かを訴えているのだろう。
 それに対しもう一人の男が何気なく話を逸らす。今年最初とはいえたかが冷やし中華だぜと明るく言うのだ。
 そんな男二人の関係性、手厚い友情を思うときどっぷりとこの世界観にはまっている。剛速球ではないがこの何ともいえないくせ球が気にかかる。

蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
 こちらは何ともストレートな句だ。どこか風刺画のような味わいを感じる。日本人も首をすくめていると、いつかこのような状況に出くわすかも知れない。そんな警告とも取れる。あまりにも理不尽な行いへのストレートな怒りが伝わってくる味わいある一句。

花冷えのような地名ね「リビウ」 遠山郁好
 この溜息のような「リビウ」という地名が心に響く。私は溜息のようなと感じた。作者は花冷えのような地名と捉えた。ウクライナ西部の歴史の古い美しい街リビウ。
 その美しい街を哀しいと感じるいまの状況が切ない。避難民の溢れる街に打ち込まれたロケット弾。こうなるとただ地名から感じる想いを口にするだけではすまない。作者の言う花冷えのようなという想いがあまりにも切なく響く。花冷えという季語は桜の頃の突然の寒さをいうが、リビウの街も突然に凍りつくような出来事に見舞われた。
 リビウの街を、人々を案じつつ美しく一句に仕上げた手腕を讃えたい。

春の夜のわたしの身体にわたずみ 鳥山由貴子
朧夜を歩く魚を踏まぬよう 望月士郎
 何と幻想的な光景だろう。繊細な感性が捉えたものは似ている。鳥山氏は春夜に溶け込む身体を水だという。
 そしてそれはあたかも潦だという。美しい断定。
 一方望月氏は朧夜に揺蕩う水を幻視しながら、そこに魚の存在を捉えている。朧月夜の薄絹に包まれたような道を歩けば、そこはあたかも青く揺蕩う水の中。作者は魚を踏まぬようとやさしさを表出する。
 兜太先生の〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉を彷彿とさせる、生きもの感覚の美しさを想う。

キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
 映像で見るキエフの街の惨状にこう書くしかないのだ。
 なにを書いても傍観者であることの虚しさ。
 誰かが言っていたが、先の戦争のときに子供だった親がテレビを見ては怯えるのだと。この戦渦の街をみんながさまざまに書いているがこんな句はもう書きたくない。
 一日も早く平和をと願うばかり。

◆金子兜太 私の一句

漓江どこまでも春の細路ほそみちを連れて 兜太

 昭和60年。金子先生が朝日俳壇の選者になられた年の3月。先生を団長に中国漓江下りの旅が催された。桂林に前泊。漓江は小雨に煙って峨々たる山容は南画そのもの。その間を船は進んでいった。両岸に点在する小さな村落。河に沿って細い道が続いていた。先生は後の自句自解に「漓江が夫、細路は妻のやさしさ」と書かれた。ご一緒だった皆子先生の面影と共にありありと思い出される。句集『皆之』(昭和61年)より。伊藤淳子

日の夕べ天空を去る一狐かな 兜太

 昭和42年に熊谷に転居して、しばしば読んでいた『詩経国風』(吉川幸次郎注)の「王風」の中の夫の留守をまもる妻の歌〈君子于役〉(せのきみはたびに)を俳句にしたものである。自句自解には「夕暮れどき狐が一匹、空をさあーと翔けてどこかへ消えていきます」「この狐は自分の夫かもしれない。あるいは夫のところへ飛んでいく自分かもしれない」とあるが、皆子夫人への労りの気分をさりげなく書いた愛妻句であって、狐は兜太師自身だと思う。『金子兜太全句集』収録の『狡童』(昭和50年)より。小松よしはる

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
数の子を噛み無性に響く頭蓋 石川青狼
鵙の贄釦ひとつひとつ外す 榎本祐子
古本屋電気に群れていし冬が 大沢輝一
ものの芽や季節背負って快快 太田順子
句会後の水割り焼酎死者生者 岡崎万寿
水仙をまんなかとする都市計画 小野裕三
街に風花脚注を付すように 片岡秀樹
野火迫る冷たい耳を揃えている 桂凜火
手にとれば位牌は狐火ほど軽い 佐々木宏
過ぎ去った愛を並べてホットレモン 佐藤千枝子
やまとことのはとりとめもなき夜の雪田 口満代子
十指空に冬芽のように愛してみよ 竹本仰
転倒の一瞬長し冬光る 田中裕子
ミルキーな牡蠣大きくてフリル付き 蔦とく子
身籠るや人肌ほどに春の山 中内亮玄
レノン忌のあまたの石が脈を打つ ナカムラ薫
○山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
しきみとう踏み固めし雪詩を食べて 並木邑人
野を冷まし猟師が帰る言霊も 松本勇二
曼陀羅のどこかが欠けて綿虫とぶ 吉田朝子

川崎益太郎 選
高齢を何故祝うのか黄水仙 阿木よう子
賑わいの虚空のかたち案山子展 有村王志
開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
オミクロン株を尻目に蛇穴へ 江井芳朗
寒月光穴を掘る人埋める人 片岡秀樹
春の窓ことばさがしの二歳かな 河田光江
人訪わぬを疲れというよ龍の玉 川田由美子
冬ざれて百鬼夜行を見たようだ 清水恵子
半分は母半分はしゃぼん玉 清水茉紀
冬の月墓標のごときビルの群れ 白石司子
○棄てられたマスクのやうにちぎれ雲 高木一惠
仁義なき闘い春のオミクロン 立川弘子
冬の水無季の俳句は許せない 遠山恵子
乏しきをエコと言ひ換へ年あらた 長尾向季
花は好き名が嫌いなの木瓜の花 仲村トヨ子
雪激し「うちかて夜叉になりますえ」 中村道子
どんどの火桜冬芽のまま焼かれ 藤田敦子
寝正月夢の言葉に付箋する 松田英子
花八手思春期という殴り書き 三浦二三子
訃報というキリトリ線や冬鴎 望月士郎

村本なずな 選
○胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
鼻歌の気付けば軍歌十二月 伊藤巌
悴む手が月とはぐれて帰れない 榎本愛子
一角はすずなすずしろ古墳浴 大高俊一
木枯しの奥へ奥へと通院す 大野美代子
毛細血管図崖一面の蔦枯るる 鎌田喜代子
雪が降る會津八一の仮名文字の 北村美都子
終電車解体さるる聖樹あり 小松敦
○えくぼなら母にも窓にも雪野にも 佐々木宏
飼犬の鎖冷たし震災忌 重松敬子
一葉忌えみから涙になる途中 清水茉紀
加齢による反抗期です八ツ頭 芹沢愛子
○冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
冬蒲公英青空固くなるばかり 瀧春樹
雪知らぬ雪予報士の騒がしき 東海林光代
ノートにはぎゅうぎゅう詰めの春の風 中内亮玄
出直せる余生いつでもちゃんちゃんこ 嶺岸さとし
紙の音して小説の駅に雪ふりそむ 望月士郎
冬ざれの耳のうしろの小さな凪 茂里美絵
冬銀河に行ったよ尻尾のあった頃 森由美子

山田哲夫 選
断捨離の断で躓く年の暮 石川青狼
○胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
いっそかろやか元日という空白は 狩野康子
「冬眠です」と言ひて母逝く星月夜 北原恵子
着膨れて富士に憑かれて箱根まで 小泉敬紀
めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
○えくぼなら母にも窓にも雪野にも 佐々木宏
欠けるとこありても睦み寒卵 佐藤詠子
雪雲が寝そべっていて過呼吸 清水恵子
○冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
○棄てられたマスクのやうにちぎれ雲 高木一惠
無口といえば海鼠といえば父の酒 竹田昭江
○山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
死ぬ気などなくて死にゆく薄氷 船越みよ
嘘すこし閉じこめ洗面器の薄氷 松岡良子
石蕗の花老いてゆく日を軽やかに 松田英子
理科室のよう一人暮らしの元朝は 宮崎斗士
やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子
感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる

◆三句鑑賞

古本屋電気に群れていし冬が 大沢輝一
 古本屋と冬の取り合わせ。ふうっと作者の世界に迷い込んでしまう。覆いかぶさるばかりに積まれた古本。ときおり背表紙の金色が鈍い光を放つ。上から釣り下げられた電気に冬が群れる。決して蛍光色ではない赤みを帯びた電球。古本屋を愛する作者の思いがかすかな危うさを伴い漂う。

水仙をまんなかとする都市計画 小野裕三
 すべては水仙のイメージから始まる。冬に開花し花の姿から清楚な感じ。球根に毒を持つ。今号伊藤雅彦氏の句は水仙から母の項を連想しておりこの句も心に沁みた。揚句は水仙のイメージを真ん中に都市計画という発想の飛躍が素晴らしく、俳句の持つ多様性と伝達力に気付かされた。

やまとことのはとりとめもなき夜の雪 田口満代子
 やまとことのは、辞書に「大和言の葉」源氏物語(桐壺)「伊勢、貫之に詠ませ給へる」とあり、王朝の和歌と思える。この語は序詞のように「とりとめもなき夜」を導き、相聞歌を想像させる。ただ降り続く雪ではなく、雅びに人のうつつも夢ものせてとりとめもなく降る夜の雪である。
(鑑賞・狩野康子)

開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
 十二月八日は、太平洋戦争の開戦日である。日本の敗戦により戦争は終わり、戦争は歴史の一頁として塩漬けにされた。以後、日本では戦争は封印されて来た。しかし、世界では以後も戦争が各地で起こっている。特にこの度のロシアのウクライナ侵攻は、戦争を知らない世代にまで、リアル戦争を提示している。まるで漬物石が外れ、どこかを捜しても見当たらない状態である。

冬ざれて百鬼夜行を見たようだ 清水恵子
 ロシアのウクライナ侵攻は、日々激しさを増し、全く終息の気配が見えない。その様子は、百鬼夜行のごとくである。この句の投句された頃は、まだ、その正体が見えないので、「見たようだ」と、やや、緊張感なく詠まれているが、その後、その正体が暴かれる序章のような句である。

冬の水無季の俳句は許せない 遠山恵子
 俳諧自由を標榜している「海原」誌に、このようにはっきり詠う勇気に驚いた。季語を超える言葉がないと無季の俳句は成立しないと言われている。季語の「冬の水」が、断定の力強さを表わしているように思う。「嫌い」でなく、「許せない」という言い方に、どのような意見等が出されるか。
(鑑賞・川崎益太郎)

一角はすずなすずしろ古墳浴 大高俊一
 近年、古代史に様々な発見があり、各地の古墳も注目を集めるようになったが、ここはそれ程有名な古墳ではないのだろう。なにしろ一角は畑になっており、蕪や大根が植えられているのだから。しかし、なだらかな丸みを帯びた古墳は見ているだけで穏やかな心地になる。天気も良し。これを「古墳浴」と言わずして何と言おう。

一葉忌えみから涙になる途中 清水茉紀
 赤貧洗うがごとき生活の中、数々の名作を残し、わずか二十四歳で夭折した樋口一葉。貧しくとも、誇り高く微笑んでいたに違いない。しかしふとした拍子に一気にそれが崩れることもある。作者も何かに耐え、微笑んでいたが、今、こらえていた涙が溢れそうになっている。そうさせたものが温かい優しい言葉であってほしい。

加齢による反抗期です八ツ頭 芹沢愛子
 反抗期と言えば自我が芽生える四歳児あるいは独立を求める思春期だが、作者はその原因を加齢によるものだと強弁する。我々が医師の診察を受けた際、最もがっくりくるのは、「加齢ですね」のひとこと。もうなすすべもない。加齢ならどうしようもないのだ。そこへもってきてごろんと八ツ頭。これは手強い反抗期ですよ。
(鑑賞・村本なずな)

胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
 「小声の福は内」が何とも素晴らしい。日常生活の中の出産という一大行事。やがて生まれ出てくる新しい命を、密かに期待する親や家族の気持ちが、じんわり滲み出てくる気がして、思わず祝福の言葉をかけたくなる。少子化傾向が一向に止まらないどこかの国の若い親たちの心にこの幸せをお裾分けしたい一句である。

山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
 山や河で代表された「も」は、他にも自然に存在する多くを物が合む「も」だ。被曝は自分たち人間のみでなく、全てだという認識からの詠出が、ずしりと心に響く。やはり、大震災の被曝地福島の作者だからこその認識だと思う。新しい年を迎えて、被曝を乗り越え、更に力強く生きたいとする希望の『初日の出』が美しい。

感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる
 冬の翡翠を見たことは無いが、作者は、感情は冬の翡翠だという。この喩の見事さにまず脱帽。ホバリングは、鳥がはばたきながら空中にとどまっている状態だから、これもまた冬に堪えている作者の感情の停滞状況の喩でもある。日常の自らの心を篤と見つめる醒めたまなざしの持ち主だからこそこうした喩も生まれてくるのだろう。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春の川投網の円周率ひかる 有馬育代
俳号に蝶の思いもなくもなし 淡路放生
励ましはスローモーション蘖ゆる 飯塚真弓
桜散る娼婦と呼ばれたひとの居て 井手ひとみ
クールぶってやってきたのに亀鳴くよ 大池桜子
鞦韆を揺らして五臓六腑かな 大渕久幸
疫禍余波辺地に及び冴え返る 押勇次
トゲクリ蟹わたしは負けた訳じゃない かさいともこ
ややこしく出来た人間鳥交る 葛城広光
蛇穴をいでて地雷のなき方へ 木村寛伸
難民のザックの犬よ春遠し 後藤雅文
樹幹いま春の小川の音がする 小林ろば
運命とは花鳥風月そして僕 近藤真由美
ふるさとの高さ競はぬ山笑ふ 鈴木弘子
貝寄風や想ひ出といふ持病 立川真理
マニュアルを歩む旅人かげろうや 立川瑠璃
カド※来たるいざ出番なり谷空木 土谷敏雄 ※秋田の方言 
りんりんと春動かしてゆく奥羽 福井明子
葉桜になる前はまだ他意はない 福岡日向子
多喜二忌やロボットの背に乾電池 福田博之
蝶を殺す食ふだけ殺す野原かな 藤好良
花ミモザ老身を寄せ風分かつ 保子進
つばくらめ廃墟の街に子どもたち 増田天志
なんでそんな人がいるの菫には解らない 松﨑あきら
三階の市長室あけ花惜しむ 村上紀子
春宵や文庫に付きしチョコレート 山本まさゆき
牡丹の芽初湯のように雨を浴ぶ 吉田和恵
桑の實やむかし少年驢馬の旅 吉田貢(吉は土に口)
木の葉髪濡れ手を離れがたきかな 路志田美子
菜の花やふかい地下から反戦歌 渡辺のり子

『海原』No.39(2022/6/1発行)

◆No.39 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
冬帽子ムーミンパパのお古だな 綾田節子
曽祖母の夜咄締めは「生き過ぎた」 石川まゆみ
ムンクの叫び凍滝と言えないか 伊藤道郎
生き切ったいや生き切れず金魚玉 宇田蓋男
サイバー空間千頭の蝶放たるる 榎本祐子
国境の楤の芽の一心 大上恒子
つくし煮る生きてるかぎり母の味 大野美代子
花りんごマトリョーシカは無口です 岡崎万寿
冬菜みな手傷を負っていたりけり 小野裕三
君の部屋やさしい獣の巣のように 河原珠美
独り居に闇尖りくる久女の忌 黒済泰子
海市までプロパンガスを配達す こしのゆみこ
ストリートピアノ一小節を燕かな 三枝みずほ
ダイヤモンドダスト弦楽四重奏響く 佐藤博己
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
ざらめ雪断捨離はせず生きんかな 鈴木康之
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
感情のもつれほぐれし風花や 田口満代子
春の日の屈折率を恋という 竹田昭江
国跨ぐ黒煙それが春なのか 田中信克
透明な樹木の残る春の鹿 豊原清明
ハスキーボイス少女の中を砕氷船 鳥山由貴子
雛飾り雛仕舞いウクライナ遠し 中村晋
遠雷を空爆ときく国もあり 野口思づゑ
ふきのとう薹立ち東北震災忌 服部修一
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
言えなかったやさしい言葉花ミモザ 松井麻容子
素心蠟梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡

野﨑憲子●抄出
戦況からCMへ桜前線へ 石橋いろり
兜太の忌しゃぶりたらず叱られる 稲葉千尋
侵攻止められず緋木瓜白木瓜更紗木瓜 植田郁一
渾身の膝立ち上る初燕 上野昭子
獏も食わぬ独裁者の春の夢 江良修
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
啓蟄や耳かき一本の愉悦 川崎千鶴子
戦争嫌やたゞ寒沢川さぶさがわは不器用や 久保智恵
切通し春雲一気に湧きあがる 佐藤稚鬼
花咲爺風花売りとすれちがふ 鈴木孝信
シマフクロウの神の座高し雪解風 鈴木修一
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
立春や空っぽの僕らの青さ 高木水志
山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
波打つ薄氷あつかましい平和 谷口道子
雪月夜われのみが知るパスワード 董振華
遠く白魚火リュウグウの砂こぼる 鳥山由貴子
大らかな出雲の坂に春の虹 中内亮玄
朧夜に触れたら流砂なのでした ナカムラ薫
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
猫の恋地球に誰もいないのか 丹生千賀
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
猪神や爆音で目覚めた少女 日高玲
はしき星に生きもの在りき戦争す 藤野武
白鳥帰る白い絶望をかかえ 本田ひとみ
ちりめん雑魚人体淡く海になる 松井麻容子
追伸は風の椿の樹下にあり 水野真由美
三月のひかり水切りりりりりり 望月士郎
桜貝なみだは遠い昔のこと 茂里美絵
シャワー越し青葉のひとみあふれをり 輿儀つとむ

◆海原秀句鑑賞 安西篤

曽祖母の夜咄締めは「生き過ぎた」 石川まゆみ
 曽祖母というからには曽孫もいて、核家族化のすすんだ大都市とは異なり、地方ではまだかなりの大家族の暮らしがあるのだろう。それでも昔の夜咄を聞いてくれる曽孫がいる限り、まだしも自分の居場所はある。触れ合いを保ちうる者がいるからだが、いつまで続くものやらと思えば、やがて来る〈そのとき〉への不安は喩えようもない。作者はまだ余力を保っているはずだが、「生き過ぎた」という感慨を、他人事ならず受け止めているに違いない。

生き切ったいや生き切れず金魚玉 宇田蓋男
 前句に続く境涯感の句。ほぼ同世代の作者ならではのものだろう。老いてからの人生の送り方は難しい。高齢化社会の今日、己の人生を振り返って「生き切った」と言い切れる人はどれだけいるだろうか。自らに問い直して、「いや生き切れず」と省みる。「金魚玉」は、ある日ふと何気なく目にとめたとき、ちいさな空間にうごめく生きものの姿に、胸を衝かれるように〈いのち〉を感じ、それがそのまま己の境涯感へ突き刺さっていったのだ。

サイバー空間千頭の蝶放たるる 榎本祐子
 サイバー空間とは、コンピューターやネットワーク上に構築された仮想空間で、今や国際間の戦争も先ずサイバー攻撃から始まるとされている。ウクライナ戦争などまさにそうだった。目に見えないものだけに、その怖ろしさは測り知れない。そんな仮想空間へ、千頭の蝶を放つ。いわばメカニカルな空無の空間へ生きものの蝶を放って、生の空間として捉え返そうとする。そこに生きてこその思いも込めながら。

君の部屋やさしい獣の巣のように 河原珠美
 亡き人への追慕の句とみてよい。これは作者の境涯に照らしての感慨なのだが、大切な人への思いは時間とともに薄れていくものではなく、むしろ純粋な形で結晶化されていく。愛する人を失ったとき、その部屋は獣の巣のような乱雑さで、生々しい温もりを残していたに違いない。作者は今も忘れ得ぬその印象を「やさしい獣の巣」と捉えた。その思いは夫との愛の思い出にもつながる。

ざらめ雪断捨離はせず生きんかな 鈴木康之
 「ざらめ雪」とは、春、日中に溶けた雪が夜再び凍結し、それを繰り返してできるざらめ糖状の積雪。「断捨離」は、不要なものを減らし生活に調和をもたらそうとするヨガの思想。作者は、今世に流行する「断捨離」の思想には同調せず、あえて「ざらめ雪」のように繰り返し活用する道を選ぼうとする。有限な資源の地球を、「もったいない」で生きようとしているのだ。「ざらめ雪」こそ我が生き方と居直っている。

鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
 「鳥獣戯画」は、京都高山寺にある国宝の紙本墨画四巻。動物の生態を擬人的に描いたもので、そこにはさまざまな人間への諷刺が込められている。「そろりと参ろう春の闇」には、作者自身、戯画の端くれにひそかに紛れ込み、動物の一つとして人間をからかってやれば、さぞ面白かろうにという。中七の狂言風の言い回しで、どこか異次元の世界を目指すかのようなおどけ振りをもって、自己劇化を試みた句。

感情のもつれほぐれし風花や 田口満代子
 感情のもつれは、身近な者同士であればあるほど、複雑でさまざまな根深い絡み合いを伴うもの。そんなしがらみを抱えながら生きて行かなければならない。風花の舞う空間は、そのしがらみが一気にほどけて、多くの断片を撒き散らしたように見ている。それは作者の無意識のうちのカタルシスだったのかも知れない。

雛飾り雛仕舞いウクライナ遠し 中村晋
 ウクライナに起こった戦争は、数々の悲劇とともに大国のエゴをまざまざと見せつけた。ゼレンスキー大統領の国連演説は追い詰められた民の悲痛な叫びのように聞こえる。今日本では、桃の節句で雛人形を飾り、大事に仕舞う平和な時を過ごしているが、遠いウクライナの悲劇は、日本においてもいつまた身に迫る現実となりかねないという危機感を逆説的に暗示している。兜太師の言われていた「十五年戦争前夜」にも通ずる危機感がこの句のモチーフにはある。

麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
 三月の東京例会通信句会で圧倒的な支持を得た句。いうまでもなく今度の戦争で、ウクライナの市民が戦車の前に身を挺して反転させた映像に基づく。物生り豊かな祖国を守るために、自らすすんで一身を捧げる姿に感動させられたのである。ところが今やロシア軍は、容赦なく民間人を虐殺することをためらわない。戦争の深刻化にともなって、緒戦における一片の勇気や良識すら、もはや通用しないような、あからさまな戦争の残虐性が露呈しつつある。戦争俳句は、事態の長期化、深刻化とともに様相を変えつつあることを、忘れてはなるまい。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

戦況からCMへ桜前線へ 石橋いろり
 桜前線の香川通過は半月前だった。ウクライナ情勢はますます緊迫し混迷を極めている。リズミカルなテレビ画面の作品化に世相が映る。省略の妙。句群中、「瓦礫の下の『てぶくろ』絵本残寒に」にも惹かれた。『てぶくろ』は、エウゲーニー・M・ラチョフの表紙絵が素晴しく世界の子供達の愛読書だ。だいたい人間の落とした手袋に、一匹の動物が入るのも無理に決まっているのに、次々に森の動物たちが入ってくる。夢のいっぱい詰まった絵本。戦争は、夢も、希望も、棲家そのものも奪ってしまう。

兜太の忌しゃぶりたらず叱られる 稲葉千尋
 俳句道場で師はよく「俳句をしゃぶれ」と話された。私も師の言葉を受け「しやぶり尽くせと冬霧の眼かな」と詠んだことがある。それは、何度も読み味わうことによりその句の心が観えてくるということだ。「俳句は理屈じゃないよ、心だ」「人間が面白くなきゃ、句もつまんねぇ」とも言われた。頓馬で内気な私は、師の言葉に、不器用な自分のままで良いと気付き、どんなに勇気をいただいたことか知れない。私は、句をしゃぶり尽くしていると言えるだろうか、稲葉さんの句に思わず襟を正した。

侵攻止められず緋木瓜白木瓜更紗木瓜 植田郁一
 美しい木瓜ぼけの花には申し訳ないが、ロシアのウクライナ侵攻を止められない人類への忸怩たる思いを畳みかけるように色ごとに呼びかけ木瓜の花に託した植田さんの力作である。「春の雲戦火見詰めていて崩れず」「椿落つ重なり落ちて傭兵死す」等の句にも注目。卒寿の植田さんの平和への願い、漲る熱い俳句愛に感動した。

シマフクロウの神の座高し雪解風 鈴木修一
 シマフクロウは『アイヌ神謡集』の最初に登場するアイヌの守り神である。縄文人の末裔であるアイヌは、七世紀ごろからの大和朝廷の侵攻により辺境へ追いやられた。人類はまた同じ過ちを繰り返している。芭蕉は、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言った。今の私達にとっては「地球の事は、地球に習へ」即ち、森羅万象の声を聞け!ではないのだろうか。そこには、縄張りも、国境も無い。邪論と言われても、ここに立つことだけが、人類の生き残れる道ではないのかと思う。

波打つ薄氷あつかましい平和 谷口道子
 「波打つ薄氷」が見事に決まっている。谷口さんの第3回「海原金子兜太賞」応募作のタイトルも「あつかましい平和」だった。これは、誌上選考座談会で一位推挙の柳生正名さんの言にもあるように、師のドキュメンタリー映画「天地悠々」の中の最後のインタビューで師が強調していた言葉だ。私も、「平和への願いも、自身の表現も貪婪なまでの図々しさと熱情で新しい世界を切開けよ!」との師の言と捉えている。我がジャイロである。

こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
 真青なる美しい地球に、人類の宿痾のような戦争が、いつもどこかで起こっている。辛夷は、日本原産の花木。春の訪れを感じさせてくれる白いシャンデリアのような辛夷の花。その花のような、心温まる愛語を言霊の幸ふ国から発信してゆくことの大切さを強く感じる。師のごゲダンゲン・リリク著書にあった思想的抒情詩という言葉が頭から離れない。

猫の恋地球に誰もいないのか 丹生千賀
 加藤楸邨の「蟇誰かものいへ声かぎり」が、永田耕衣の「恋猫の恋する猫で押し通す」が浮かんでくる。この地球を壊滅してしまえる原子爆弾を発明したのが人類なら、この悪魔のような侵攻を収束させるのも人類でなければならないのである。生きとし生けるものの「いのち」の声を代弁できるのも人類だけなのだから。九十一歳の丹生さんの「地球に誰もいないのか」は、私達、うら若き人類に向けられているのだ。

反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
 マブソン青眼さんが俳句道場にゲスト参加された時の師との対談「昭和俳句弾圧事件について」が発端になり、師が他界された五日後に長野県上田市の無言館近くの小高い丘に建立された「俳句弾圧不忘の碑」。戦時下に弾圧され亡くなった俳人追悼のこの碑文は師の揮毫による。「平和」と「俳諧自由」。師の悲願は、人類存続の要だ。

猪神や爆音で目覚めた少女 日高玲
 アニメ『もののけ姫』のシシ神や少女サンを想起させる。猪ではなくて鹿の形の神だったとおもうのだが、森の奥に棲む精霊の王シシ神はこの人類の愚行をどう見ているのか。爆音で目覚めたサンはこれからどうするのか、日常では忘れられがちの、隠れた大切な世界が姿を現す。

三月のひかり水切りりりりりり 望月士郎
 「りりりりりり」の調べのそして字面の美しさに圧倒された。三月がいい。そして、三月の光が水を切ってゆく。そこから立ち上がってくる目くるめく光の世界に酔いしれた。「海原」誌の表紙絵も、毎号、輝いている。

◆金子兜太 私の一句

旅を来て魯迅墓に泰山木数華 兜太

 我が家の階段を上がった二階の廊下の突き当たりに掲句が掛かっている。初めて手に入れた先生独特の字体の色紙だ。中国旅吟句で格調の高い抒情溢れた一句で「数華」が目に鮮明で魅力的だ。縁の上海は先生にとって感慨深いものがあったろう。その頃に、御父上の伊昔紅氏と魯迅との接触もあったのではと想像も膨らむ。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大西政司

よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太

 我が家は、今年の干支の寅の置物と一対になる形でこの色紙を飾っています。皆子先生が腎臓癌治療のため、千葉県旭市の旭中央病院に移られてからのお供をさせていただいた当時に、兜太先生から贈られてきた色紙です。「よく眠る」の「ゆっくり生きてゆこうの心意」をいただくうれしさ。おおらかな野生にあやかる年年歳歳の感謝です。句集『東国抄』(平成13年)より。山中葛子

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
羽後残照見開きひと言夜の灯 有村王志
川鵜またひとりぼっちか冬青空 宇川啓子
冬夕焼母のさざなみガラス質 榎本愛子
解除ボタンかすかに湿る十二月 大西健司
火種にはまだ程遠い綿虫飛ぶ 奥山和子
山茶花の薄く住まうとこのあたり 川田由美子
○狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
人格者のようで祖父はけむり茸 佐々木宏
咎は無し百の吐息に山眠る 佐藤詠子
村灯るあの家この家に雪女郎 白井重之
綿虫に顔入れ誰よりもやさしく 十河宣洋
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
白息を使徒と思えば海荒れて 遠山郁好
毛糸着て雑念少し増やしけり 中村孝史
霜に日が差して誰かの生れたる 松本勇二
清貧にかたちあるなら冬菜畑 嶺岸さとし
綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
ポインセチア遠くに居ればいいひとよ 室田洋子
大根炊ける透き通っていられない 森鈴
てつぺんでキューピー尖る師走八日 柳生正名

川崎益太郎 選
本音吐く炭火ときどきナルシスト 市原正直
雪国や「核」捨てるのにいい遠さ 伊藤歩
冬銀河ヒトに臍の緒という水脈 伊藤道郎
子宮で考え中です枇杷の花 井上俊子
再びを夢見るごとき落椿 宇川啓子
○細胞のひとつ分裂くしゃみ出る 奥山和子
家系図は差し歯入れ歯に時雨けり 川崎千鶴子
綿虫の帰化する原野歩みゆく 後藤岑生
葉牡丹はアンモナイトになる途中 佐々木宏
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
水脈凍てて夢の果てなる引揚船 立川弘子
まゆみの実老いらくの恋やせ我慢 舘林史蝶
天国に原発はないクリスマス 中村晋
冬ざれのタンポポ「私変わりもの」 西美惠子
寒たまご地球に寄生する我等 本田ひとみ
神無月マンモス復活計画 松本千花
四番目に生まれ跡取り千歳飴 深山未遊
桑の実ってこれだったのねお母さん 森由美子
ポインセチア唇いくつ生け捕りに 山下一夫
柊の花より淡く母居たり 横地かをる

村本なずな 選
白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
芽麦一列戦禍なき一日あるように 伊藤道郎
道草や雪は子供に降ってくる 荻谷修
○細胞のひとつ分裂くしゃみ出る 奥山和子
杜鵑活ければ母の居るごとし 北原恵子
どんぐりころころ音楽になる途中 北村美都子
綿虫やここ地球とう仮住まい 楠井収
審議会長須鯨が揃いけり 今野修三
「雪来る」と火災報知機鳴ってみたい 佐々木昇一
木の家を木枯し叩く武州真夜 篠田悦子
中身のないポケットのよう冬の空 高橋明江
水刻むごとく大根千六本 鳥山由貴子
冬の斜面あの光るのが除染ごみ 中村晋
青空をがんがん冬のプラタナス 平田薫
寒落暉告白は大声ですべき 前田恵
木の葉髪自由と孤独と腰痛と 増田暁子
禁猟区母のアルバムずっしりと 松本千花
無添加の煮干のひかりクリスマス 三浦静佳
布団の奥アンモナイトの息をする 柳生正名
龍の玉良く笑う児がよく転ぶ 梁瀬道子

山田哲夫 選
野仏の膝は日溜り冬の蜂 伊藤巌
少年の微熱のように冬木の芽 伊藤道郎
釘打って十一月を掛けておく 大沢輝一
骸かと掃けば仄かな冬の蜂 川崎千鶴子
ネックレスざらりと外し大根炊く 黍野恵
○狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
家族という淡い繭玉冬の雷 佐孝石画
霧に消ゆ歩荷かぽかぽ音残し 篠田悦子
魚を糶る岬や石蕗の茎太し 髙井元一
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
コンクリート打ちっ放し冬の足音す 鳥山由貴子
切り口はいつも血まみれ大枯野 野﨑憲子
姿なきひとと分け入る花野かな 日高玲
踊るように人の死はあり枯野原 平田薫
着ぶくれて服にこころに裏表 前田典子
久女の忌からだにふっと火打石 三好つや子
私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
月蝕やどこかで冬のサーカス団 茂里美絵
良縁をまとめどさっと深谷葱 森由美子
軸足はきっとふるさと冬の虹 横地かをる

◆三句鑑賞

人格者のようで祖父はけむり茸 佐々木宏
 人間誰も沢山の顔をもつ。句の鍵けむり茸は踏むと灰色の煙を吐く。子供の頃祖母に「煙が目に入ると目が見えなくなる」と聞かされたが、それは俗信で食用と知った。周りから人格者として尊敬された祖父。けれど作者はひょうひょうと時に怖れられ親しまれた祖父を知る。句に漂う俳諧味が愛すべき祖父のイメージを強くする。

白息を使徒と思えば海荒れて 遠山郁好
 白息、使徒とシ音で静かに始まる。しかし結句は海荒れて。白息は自分の嘆息。助けを求めれば使徒が現れるかもしれない。しかし鎮まるどころか海は荒れている。ふと使徒の語で白息は多数の人間の嘆息に変わり、現実として神に祈るしかない戦争の不条理。神の力も及ばない悲惨な現状を詠っているのではと思った。

てつぺんでキューピー尖る師走八日 柳生正名
 師走八日は日本真珠湾攻撃に始まる開戦日。語り継ぐべき昭和史の大事件。戦争の犠牲になったのは武器をもたない庶民とキューピーの号令下に従った幾万の兵士。立場は異なるが現在のロシアとウクライナ。戦争は今も昔も一見無害な人の心を持たぬキューピーのような存在によって引き起こされる。暗喩のキューピーが抜群。
(鑑賞・狩野康子)

あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
 いま世界中を震撼させているロシアのウクライナ侵攻。ウクライナは民主主義に対する挑戦と言っているが、ロシアの言い分も民主主義を守るというのが言い分で、このように民主主義に対する考えはいろいろあり、それはおでんの仕切り板のように曖昧なものであるという句。捉え方がユニークで上手い。

天国に原発はないクリスマス 中村晋
 天国に原発があるかないかは、行ったことがないから分からないが、作者は、ないと言い切っている。言い切っているが、本心は、ないことを願うという願望の句であろう。その思いをクリスマスという季語を採り合わせて祈るような気持ちであろう。作者が福島の方であるので、よりリアルに読者の胸を打つ句である。

四番目に生まれ跡取り千歳飴 深山未遊
 日本では古くから、家の跡取りは、生まれた順でなく、男子の一番目と決められていた。それは今も根強く受け継がれている。特に、やんごとなき方に関しては、法律で決められている。これが平民にまで受け継がれて、慣習化されている。この句は、そのことに対する不合理さを訴えた句である。それを直接言わないところが上手い。
(鑑賞・川崎益太郎)

白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
 後ろ手に歩いているのはボランティアの方なのだろうか。越冬のために湖を訪れる白鳥たちを長年にわたり世話してきた。後ろ手に歩くその様子からかなりの年輩者であることがうかがわれるが、冬の寒さも厭わず見回りをする。白鳥たちもこの人物を統率者のように思い慕っている。美しい水辺、豊かな自然に囲まれて白鳥を見守る実直な人物の姿が目に浮かぶ。

審議会長須鯨が揃いけり 今野修三
 ○○審議会などという大層な所にはその方面の都合の良いお歴々が呼び集められる。いつどこでそんな話が?などと訝しがる庶民を余所に物事は進む。根回しは済んでいるから、余裕綽々、長須鯨は席に着くだけだ。一茶が大喜びしそうな皮肉たっぷりの一句。

「雪来る」と火災報知機鳴ってみたい 佐々木昇一
 火災報知機は実に目立つ。赤くて丸くて真ん中には押してごらんと誘うような薄いカバーが嵌まっている。ひとたびカバーを押そうものなら、とんでもない音が鳴り響く。作者は雪国の人。雪は時には危険な相手でもある。長い間火災もなく、静かに待機している報知機も「雪が来る」と自分の存在を主張したくなる時があるのだ。
(鑑賞・村本なずな)

骸かと掃けば仄かな冬の蜂 川崎千鶴子
 掃くという行為の中で、ふと目に止まった蜂の骸。否、骸かと思ったら、微かに動きだしたではないか。生きてるぞ。仄かな命の蠢きよ。この一句には、そんな命の蠢きを、細やかな情愛を込め眺めやる作者のまなざしがある。日常生活の一コマ一コマを大切に生きる姿勢の中からこそこういう句は生まれてくるのだろう。

家族という淡い繭玉冬の雷 佐孝石画
 作者は、家族は淡い繭玉だという。この比喩の確かな認識に心惹かれる。家族は無数の淡い糸で繋がれ、押し合い、引き合いながら日常を送っている。晴れの日もあれば、寒い冬の雷の鳴る日もあってこそ家族という淡い糸で繋がれた存在も強い絆で結ばれた玉になっていくのだと思う。「淡い」という形容が心憎い。

私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
 私という存在。確かにあるようで、自分でもなかなか捉え憎いこころとからだ。それを冷徹に見極めようとする作者自身のまなざしが意識される。「私」と「わたし」と意識的に書き分けたところが、その存在の有り様を示している様で、工夫が見える。「雪明り」の中に佇む私という設定も印象的で、捨てがたい。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春昼の寺に一礼して歩く 淡路放生
疼痛と嘔吐はせめて菫ほど 飯塚真弓
億ションに巻きついてゐる春の蛇 石鎚優
原罪を問う君の頰に桜散る 井手ひとみ
ヒヤシンス後悔って一人芝居だ 大池桜子
リラ冷えや玉子しつかり焼く昭和 大渕久幸
高齢者は非国民だべ落椿 押勇次
モヒカンに滝が当たっておお寒い 葛城広光
干鱈焙る母亡き昼の野弁当 河田清峰
青き踏む生を満喫するために 日下若名
太刀魚のごとく白髪水俣よ 小林育子
教室に彼だけいない春の椅子 近藤真由美
手の平の蝌蚪ぷにぷにと児等囃す 佐々木妙子
半仙戯円周率のかなたまで 鈴木弘子
春泥や削除できない疵あまた 宙のふう
祖父の胸の静謐に置くライラック 立川真理
凜々と祖父は花野を作っていた 立川瑠璃
カモの首伸びて水面の桜かな 塚原久紅
蔓引くやあらぬ方より冬瓜来 土谷敏雄
春の風邪コンビニの一人鍋を買う 原美智子
傷付きやすき男が零る遅日かな 福岡日向子
恋猫をまね舐めてみる右の足 藤川宏樹
すてぜりふ残した背なに冬の月 丸山初美
餡蜜から向こう側は未知である 村上舞香
砲弾にパパ残りをり苜蓿 矢野二十四
恋猫や駅の正面墓地の山 山本まさゆき
厩戸の空蟬つまむ背後かな 吉田貢(吉は土に口)
家と家間をビュッと東風が行く 吉田もろび
啓蟄のひかりの渦に這い出せり わだようこ
ぼたん雪天使の耳のかたちして 渡辺のり子

『海原』No.38(2022/5/1発行)

◆No.38 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
ガスタンク球体の羽化寒の月 市原正直
開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
未来図ノ谺ノヨウニ冬木影 伊藤道郎
着ぶくれてマスクのなかの独り言 稲葉千尋
解体の原発鳩の群れ旋回 江井芳朗
介護です冬着に冬日遊ばせる 大髙洋子
駅ピアノ猫ふんじゃったは春の歌 奥山和子
街に風花脚注を付すように 片岡秀樹
親睦の真ん中に雪集めるよ 木下ようこ
葱みじんこだわりって何だったのか 楠井収
比喩で説く人生論や温め酒 齊藤しじみ
鬼遊び冬木は息を継ぐところ 三枝みずほ
雪が降る嗚咽のように啞のように 佐孝石画
画用紙に太き直線年始め 重松敬子
密集や風の窪みの仏の座 篠田悦子
産土を訪えば枯蘆無尽蔵 鈴木栄司
冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
あまりにもプライベートな冬薔薇 竹田昭江
立禅や二月二十日の開聞岳 立川弘子
ルルルッと鳴るよふたご座流星群 遠山郁好
除雪車の忘れる過疎地でも好きで 新野祐子
父の声谺とならず雪男体山なんたい 根本菜穂子
穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
小春日のぼけとつっこみ百寿かな 本田ひとみ
ランボオ忌の道路を歩く大白鳥 マブソン青眼
理科室のよう一人暮らしの元朝は 宮崎斗士
人生のゆるくくぼんで寒卵 室田洋子
感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる
べんじょ紙しみじみ白し十二月 横山隆

野﨑憲子●抄出

砲弾の白煙止むや雪ばんば 赤崎裕太
喪乱帖の王羲之唸る虎落笛 漆原義典
冬の海荒淫の日輪渺渺と 榎本祐子
虎の巻春の宇宙の歩き方 奥山和子
カブールの心火にあらず冬の星 桂凜火
野の心さらさら掬う春隣 川田由美子
先住の熊を起こさぬように行け 河西志帆
雪いつか本降り樅の立ちつくし 北村美都子
手にアララギの実楽しいは正義です 黒岡洋子
めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
お別れは朝の湯たんぽみたいにさ 小松敦
日脚伸ぶ氷点下二十度の太陽 佐藤博己
冬麗へ踏み出す一歩よっこらしょ 鱸久子
棄民のまなざし元朝の神経痛人 すずき穂波
自画像に寒紅すっと引きにけり 竹田昭江
雪片顔にひかり死はみんなのもの 竹本仰
母に会う七種粥の明るさの 月野ぽぽな
国栖人は鹿の尾をもつ藪椿 長尾向季
ラヴェルのボレロ銀杏黄落腑に満ちて 中野佑海
異端もない破綻もない俳句じゃない 並木邑人
人は人をつくらず地球がら空き 服部修一
水鳥や昨日は今日にもぐりこむ 平田薫
土くれも祈りのかたち遠冬嶺愛 藤田敦子
草餅を押して地球のぼんのくぼ 藤原美恵子
死ぬ気などなくて死にゆく薄氷 船越みよ
どんどんゆく冬木立どんどん 堀真知子
アフガンの子らの瞳や寒満月 前田典子
神は鷹を視ている鷹は私を視ている マブソン青眼
梅咲きぬどの小枝にも師の筆先 村上友子
やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
 「開戦日」はいうまでもなく、十二月八日対米開戦に踏み切った日。「漬物石」は漬物を作る際に、重石として用いる石のこと。歴史の転換点の日にも、ごく日常的な暮らしの営みで右往左往している庶民の姿がある。しかしもう一方では、日本が国際政治の渦中を戦争へと追い込まれていく流れがあり、その流れをせき止める重石のような存在が見当たらなかったことをも含意しているのかもしれない。これはやや穿ちすぎの時評的見方なのだが、開戦日をキーワードにして、二つの時間の流れを比喩的に重ねて詠んでいるとみたい。

介護です冬着に冬日遊ばせる 大髙洋子
 介護施設での老人たちの小春日の日向ぼこ。普段の暮らしの中で、冬着を日に干している景ともみられる。それを「冬着に冬日遊ばせる」と喩えた。有態は冬着を日光消毒しているのだろうが、冬着自体の介護のようにも見立てたのではないか。それは冬着を着ている老人たちの介護の姿そのものと重なる。上五には、冒頭「これは介護なんです」と宣言する作者の心意気が覗われる。

親睦の真ん中に雪集めるよ 木下ようこ
 雪の降る日。団地の広場のような場所で、久しぶりの井戸端会議風のおしゃべりを楽しんでいるグループなのかもしれない。その集いの真ん中に雪が降り積もっていく。親睦の輪の真ん中には、雪と共に言葉の輪がどんどん積み重なっていく感じを捉えている。下五「集めるよ」は「集まるよ」ではない。皆で「それいけ」とばかり、力をあわせて積み上げていく親睦の輪なのだ。「よ」の切字の働きが動きのノリになっている。

比喩で説く人生論や温め酒 齊藤しじみ
 戦前から戦後にかけての地方では、囲炉裏を囲んで、古老が若者たちに自分の体験談を語りながら、人生論にもつながる喩え話を披露していた。まさに滋味掬すべき体験談で、ほどよい燗の温め酒同様に、聴く者の肺腑に沁み込んでいく。今はそういう語部自体少なくなっているが、それこそ聴く者の胸のうちで発酵させ、ブレンドできる地酒のような得がたい語りではなかったか。

密集や風の窪みの仏の座 篠田悦子
 「密集や」で切っているから、いわゆる感染対策の標語となった三密の一つで、句の主格となっている。仏の座は春の七種で、新年の景物。ちょうど野を渡る風の吹き溜まりのような窪んだ場所に、蓮座のような可憐な花を開く。小さい花同士が身を潜め肩を寄せ合うようにして咲いているのを、これも一つの密集ですよ、気をつけて下さいと呼びかける。それはコロナ禍を生きる生きものへのいたわり。

ルルルッと鳴るよふたご座流星群 遠山郁好
 「ルルルッ」は、電話の呼び出し音のようなオノマトペだから、「ふたご座流星群」から発せられた電子音のようにも受け取れる。ふたご座は、北天ならカストルとポルックスの兄弟星、南天ならばケンタウルス座のα星とβ星という。一対の星同士が送受信の音を鳴らしながら、流星群の中で互いの安否を交信し合って流れていく。「ルルルッ」の擬音は、そんな天空のロマンをリアルに秋の夜空に描き出す。五七六の十八音で中七で句またがりとなる流麗な韻律だ。

除雪車の忘れる過疎地でも好きで 新野祐子
 作者の在地は山形だから、今年の豪雪はさぞご苦労されたことだろう。数メートルにもおよぶ積雪は、除雪車の出動なしにはとても除雪できるものではない。過疎の進んだ東北の農山村では、ほんの一握りの人口の村落も珍しくない。しかも高齢者ばかりとあっては声も届きにくいから、勢い公共の除雪車もつい忘れがち。そんな過疎地でも、私はこの田舎が好きという。「好きで」と言う思い切りのいい言い方に、「タマラナイ」の情感。

穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
 正月を迎えるに当たり、日頃離れて暮らす子や孫たちが実家に集まって、注連飾りを手伝っている。一見平和な家族の団欒の景だが、内面では世代や居住環境の隔たりとともに、次第に疎隔や断絶感を覚えるようになってきている。例年の正月準備の表情の内に、徐々に変わりつつある家族のかたちを嗅ぎ取って、「穏やかな断絶もあり」と冷静なまなざしで捉え返す。これも今日的社会性俳句の一つとはいえまいか。

小春日のぼけとつっこみ百寿かな 本田ひとみ
 小春日の日向で老人同士が日向ぼこをしている。年寄りの集いの多くは寡黙なものだが、なかには結構独演振りを発揮する人もいて、いつも話の相方を見つけてはしゃべりまくる。いわゆる漫才でいう「ぼけとつっこみ」だが、茫然と聞いている大方の年寄りは、ほとんど無反応。それでも反応のなさなどまったくおかまいなしに、ぼけとつっこみの独演会は続く。そんな元気な年寄りは、百寿まで長生きしそう、いやもう百寿なのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

砲弾の白煙止むや雪ばんば 赤崎裕太
 「雪ばんば」は綿虫のこと。雪蛍ともいう。初冬の頃、青白い光を放って飛ぶ小さな虫たちの乱舞。雪ばんばはウクライナにも居るのだろうか?この号の出る五月には平和が戻ってきていることを願ってやまない。

喪乱帖の王羲之唸る虎落笛 漆原義典
 喪乱帖は、中国東晋の書家で政治家の王羲之の手紙の断片を集めたもの。羲之も北方民族に悩まされていた。縄張りも、報復も、まっぴらだと感じていたに違いない。二十一世紀の虎落笛に王羲之の呻きを聞くとは、斬新。

先住の熊を起こさぬように行け 河西志帆
 地球誕生から現在までを一年としたら、人類が登場したのは大晦日だという。その人類の歴史は征服の歴史でもある。この「先住の」生きものを慈しみ共生の道をひらくことが、その思いを伝える俳句が、今まさに崖っぷちに居る人類を救う最後の切り札のように痛感する。

雪いつか本降り樅の立ちつくし 北村美都子
 雪国に住む北村さんには雪の名句がたくさんある。樅の凜とした美しい立ち姿が作者のイメージと重なる。楸邨の「落葉松はいつめざめても雪降りをり」も浮かんで来る。どちらも沈黙の世界の見事な映像化である。

手にアララギの実楽しいは正義です 黒岡洋子
 アララギの実は真っ赤。種に毒があるという。掌のアララギの実が語っているのだ「楽しいは正義です」と。そう!生かされているのだから〈どんな時も楽しめ〉が人生の醍醐味。破調ゆえの、溢れんばかりの自由がある。

めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
 十二月八日は太平洋戦争開戦日である。と共に、ジョン・レノンが凶弾に倒れた日でもある。『ジョンの魂』の中で、「今まで読んだ詩の形態の中で俳句は一番美しいものだ。だから、これから書く作品は、より短く、より簡潔に、俳句的になっていくだろう」と語ってる。ジョンも、〈五七五の力〉に注目したのだ。「めくられて……千切らるる」と日めくりに焦点を合わせた瞬夏さんの鋭い感覚。「十二月八日」が、鮮やかに立ち上っている。

棄民のまなざし元朝の神経痛人 すずき穂波
 「神経痛人」の連作五句「神経痛人ちりちりひらく蝉氷」「鶴唳や衣擦れに泣く神経痛人」……どの作品からも刺すような痛みが伝わってくる。多分だが、神経細胞にも及んだ重度の帯状疱疹のように思われる。ご自身の症状を直視し、表現した圧巻の作家魂に深く感動した。

雪片顔にひかり死はみんなのもの 竹本仰
 作者は、淡路島に住む真言宗の古刹のご住職。色んな死に立ち会ってこられた。「雪片顔にひかり」から、霊柩車を参列者が取り囲み見送るシーンのように見えてくる。「死はみんなのもの」は、いのちは一つの思いに繋がる。

母に会う七種粥の明るさの 月野ぽぽ
 コロナ流行前のぽぽなさんは、毎年、母の日に合わせてニューヨークから長野に住むお母様の元に帰国していた。その度に吟行や句会をご一緒するのが楽しみだった。夢の中でのことかも知れないが再会されたのだ。「七種粥の明るさの」に、優しくて気丈な母上の面影が浮かぶ。

異端もない破綻もない俳句じゃない 並木邑人
 大ベテランの一句に重みがある。異端も破綻も丸ごと取り込み熱く渦巻く最短定型詩、それが俳句。多様性がいのちともいえる。師も、芭蕉も、その当時の前衛の最先端だった。前衛とは始原を見つめる眼でもある。その中から「俳諧自由」の世界観が生まれてきたのだ。

人は人をつくらず地球がら空き 服部修一
 あらゆる〈いのち〉は海から生まれて来たという。海のような心で人が人を育む原点に立ち返らねば「地球がら空き」になるという警句。近未来の世界の天辺に立つ人よ、海のような人であれ!その君よ、疾く現れよ!

神は鷹を視ている鷹は私を視ている マブソン青眼
 大いなるいのちを通しての視座。南洋の島へ単身乗り込み暮らした青眼さんならではの断定が心地よい。神は青眼さんを視ている、ということ。大いなるいのちの世界こそ「いのちの空間」であり、生きとし生けるものの根源である。そして世界最短定型詩の源でもあるのだ。

梅咲きぬどの小枝にも師の筆先 村上友子
 村上さんは、梅の花の一輪一輪を師の筆先と捉えたのだ。この一歩踏み込んだ新鮮な把握に、梅の香が、より濃く匂い立つ。そして花の奥から師の眼が光り、ウクライナ侵攻を怒る師の声が「俳句にして世界へ示せ!」と大音声で聞こえてくる。

やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子
 挨拶で始まり挨拶で終わる日々の幸い。やわらかな心に争いは無い。冬木の芽は春には爛漫の花を咲かせる。

◆金子兜太 私の一句

気力確かにわれ死に得るや橅若葉 兜太
 地球上最大規模の橅原生林を有する朝日連峰の麓に私は暮らしている。橅の芽吹きと新緑は、数多の広葉樹の中で際立って美しい。先生の産土である秩父の山々にも橅の林があるだろう。先生は橅若葉を眺めてとっさに死について考えたと。当時七十代の先生、気力も体力も人一倍あったのに、なぜ?橅若葉の中を行けば、いのちは永遠であるように思えてくる私には、大きな衝撃だった。句集『両神』(平成7年)より。新野祐子

どれも口美し晩夏のジャズ一団 兜太
 昭和37年3月。私は兜太先生と四谷駅で「海程」創刊号の原稿を持って来る初代編集者の酒井弘司さんを待って印刷所へ行き食事をして新宿の劇場に行った。電飾下の華やかなジャズ演奏など聴いていると、先生はポケットからメモの紙切れを出して「この句はどうだ」と言った。それが掲句であった。この句を見るたびに、海程創刊の先生の心意気と美意識をあの夜の字句のそれぞれに重ねて思う。句集『蜿蜒』(昭和43年)より。前川弘明

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選
樹の洞に小さき蛙春燈 大山賢太
冬の虫とんでもないと思われて 奥野ちあき
○細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
ハロウィーン改札通る魔女その他 片岡秀樹
駆け出せば木の実降るよう追われるよう 河原珠美
○人間であること寂し冬木の芽 北上正枝
大根の穴の数ほどある戦禍 木村和彦
○毛糸編みつづける友よ逃げなくちゃ こしのゆみこ
草虱生きる術など足りている 佐藤詠子
霜柱踏む今生の大切さ 佐藤紀生子
老人の靴大きくて冬の旅 篠田悦子
巻耳おなもみよ誰が居たっけこの更地 鱸久子
たましいの天秤冬の水平線 たけなか華那
寝ころんでおまえは冬の銀河だな 竹本仰
水琴窟静かに秋とすれ違う 董振華
水たまりに秋風の貌主役だろ 野﨑憲子
十三夜妻のハンカチぶかたち 本田日出登
鍵穴を失くした鍵のよう暮秋 宮崎斗士
蕎麦の花われもだれかの遠い景 望月士郎
ヒヤシンス死んだ理由は残さない らふ亜沙弥

中内亮玄 選
漂着の陽のしわしわの案山子展 有村王志
赤子が笑う満月笑う笑う 伊藤道郎
読まないで印鑑を捺す鳥雲に 植竹利江
銀水引微熱くらいの不平等 奥山和子
○羽後しぐれ人も野面も口籠る 加藤昭子
約束の言葉寂しき秋なすび 狩野康子
気の弱い鶏から先に風邪をひく 河西志帆
○星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
○冬ざれや積み木のような虚栄心 佐藤詠子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
ため息を折り込む小指秋深し 高木水志
いつしかのロマンポルノと豆の花 田中信克
霜晴れをせり合う羽根の眩しさよ 董振華
心臓を無理なく生かせ冬来る 服部修一
雪見だいふく食べて火星に住むつもり 藤田敦子
地球との距離を律儀に初日の出 前田典子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
小鳥来るひたすら旅を言葉にす 横地かをる

望月士郎 選
木の洞のかなかなかなとふるへけり 内野修
亡夫の椅子名残の月と息合わす 狩野康子
○星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
水族館に魚の行進十二月 北上正枝
○毛糸編みつづける友よ逃げなくちゃ こしのゆみこ
我と吾林檎をひとつ齧りけり 小西瞬夏
敗者らに透く秋虹の脚太し 鈴木修一
○白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
陽炎も首など絞めてみる午後も 田中信克
こぼれ落つ乳歯石榴の酸っぱさに 東海林光代
不仕合せまじる仕合せ煙茸 鳥山由貴子
ちからしばひとりのときは力芝 平田薫
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
骨揚げを見ている遺影雁の声 船越みよ
このいのちかるしおもしと草の絮 前田典子
子供らと落葉を音に変えてゆく 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
「はいどうじょ」ドングリ一個たまわりぬ 森武晴美
合わせ鏡の軽い幽閉さよなら夏 茂里美絵
夭折といふ綾取のまだ途中 柳生正名

森武晴美 選
掃き残す枯葉のような記憶かな 伊藤歩
山盛りの気骨崩るる後の月 太田順子
次郎柿甘やかされて取りそこね 奥山和子
台風の色蹴散らして進みけり 小野裕三
○細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
○羽後しぐれ人も野面も口籠る 加藤昭子
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
○人間であること寂し冬木の芽 北上正枝
吐息のような風の霜月涙腺がゆるむ 小林まさる
○冬ざれや積み木のような虚栄心 佐藤詠子
○白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
日向ぼこ何処かが痛い人が寄り 中村道子
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
霧晴れて手足やさしくして歩く 横地かをる
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
老兵はしゃしゃり出るもの曼殊沙華 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

駆け出せば木の実降るよう追われるよう 河原珠美
 時間に遅れそうと小走りになったところ、体の動きに心が釣られてよけいに焦った経験を思い出しました。森の中で突然前触れもなく木の実が落ちてきた時のドキドキ感と、鬼ごっこをした時のようなワクワク感。ちょっとした心の変化を、丁寧にしかも意外な二つの喩えで表現していて楽しい句でした。

大根の穴の数ほどある戦禍 木村和彦
 丹精して育てた大根を収穫した充実感。でも作者は、畑に残った夥しい穴に戦禍を連想しました。大根の穴のように身近にある戦争。この文を書いている今、テレビではロシアのウクライナ侵攻の映像が次々映しだされています。非日常がいつの間にか日常になる怖さを感じます。

霜柱踏む今生の大切さ 佐藤紀生子
 土を被ってるため気づかずに、大きな霜柱をごりっと踏むことがあります。そんな時「あっ」と思います。霜柱を踏んだことで強く意識される「今」。人には「今」しかないといいます。過去は取り返しがつかず、いくら心配しても未来はなるようにしかならない。だから今現在をしっかり生きろというのが、釈迦の忠告です。
(鑑賞・伊藤歩)

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 一読して、目の前にゴッホの絵画があった。具体的に何と言うのではない、例えば「星月夜」あるいは「星降る夜」、いや「糸杉と星の見える道」だろうか。動くはずのない星が軽やかに動き、現実世界ではモミの木が店に入荷されてくる。いや、私の目の前にモミの木があるのは、世界の隙間から星が入り込んだからかもしれない。

霜晴れをせり合う羽根の眩しさよ 董振華
 頬を切るような冴えた冬の朝、霜の白い結晶が光っている。きらきらと朝日に輝く繊細な光だ。しかし、次の瞬間にカメラは頭上に向けられる。映像は真っ青な空にむつみ合う小鳥たち。羽ばたきも、子どもたちが競い合うようで微笑ましく、その向こうには朝日が眩しい。地上も天空も光あふれる、今日はきっといい日だ。

ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
 男子の変声期前にしか出ない高音域は「天使の歌声」などとも呼ばれ古来より愛されてきた。作者は、この美しい歌声を、レモンを一絞りしたようだと例えて見せる。言葉では伝えることの難しい「声」が、きゅっというオノマトペとも相まって生き生きと伝わってくる。破調ながら、俳句ならではの「言葉の結晶」と思う。
(鑑賞・中内亮玄)

陽炎も首など絞めてみる午後も 田中信克
 二つの「も」によって並列された事柄が、隠れたあるものを指し示しています。それは「今日ママンが死んだ」数日後に犯した殺人事件のようなものなのか、それとも退屈な午後の白日夢なのか。意識的に芝居がかったと思われるこの句は、しかし、そのどちらでもあり、どちらでもなく、多分どうでもよいのでしょう。

骨揚げを見ている遺影雁の声 船越みよ
 静かに微笑んでいる遺影のその頬や顎の骨、頭骨や脛骨が目の前にあります。その遺影の視線、この生前と死後が互いを内包するような空間。そして箸を持てば鳥葬の鳥になった気分なのです。「ホラホラ、これが僕の骨」の中也に似て、読者のその時を既視に変えてゆきます。しばらくして、遺骨の後ろを遺影が歩いてゆきました。

「はいどうじょ」ドングリ一個たまわりぬ 森武晴美
 意味を追うと見えないのですが、隠れて読みに影響する声があるのです。この句では「はいどうじょ」の中に童女と泥鰌が見つかりました。すると童謡「どんぐりころころ」をBGMにして、不思議な童女にもらったドングリから始まる物語を、知らぬ間に読者それぞれが語り始めます。こんなこと俳句ならではの技法でしょう。
(鑑賞・望月士郎)

次郎柿甘やかされて取りそこね 奥山和子
 甘やかされてが次郎柿に合っていて、取りそこねで決まりましたね。得てして、長男は家督を継ぐので大切に、しかし厳しく育てられた。それに比べ次男は、比較的のんびりと甘やかされた。友人、知人の兄弟や姉妹にもその傾向が見られる。取りそこなったのはいったい何。取り残された次郎柿はどうなった。気になるところだ。

細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
 年齢を重ねていくと、今まで出来ていたことが、ふっと出来なくなる。その時の心細さ、このまま年老いて何も出来なくなるのではと、不安が心を過る。その思いを断ち切るように、梨の芯を深く切り取る。梨のザラッとした果肉の感触が、包丁を通して伝わってくる。細りゆくこころの表記が、凜として清々しい。

着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
 着ぶくれてが、なかなか効いていると思う。記憶力の低下は年々ひどくなり、悲しいと言うよりおかしくなってくる。昨日の逃げ足が一番早く、五十年前は逃げずにずっと居てくれる。身体的な老化も、精神面の老化も、仕方のないことだが、受け入れるのはむずかしい。着ぶくれて、昔の記憶と遊ぶことにしよう。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

今生の右側には君蒲団干す 有栖川蘭子
寂しさの手が大根を摺り下ろす 淡路放生
愛されし記憶まるむる浮寝鳥 飯塚真弓
牡蠣鍋のまだ生臭き命かな 井手ひとみ
ゲルニカを鸚哥と観ている炬燵かな 上田輝子
発熱の君を包んで霜夜です 遠藤路子
大寒にして我が恋の決戦日 大池桜子
ぬかづくとはこのこと母の初参り 梶原敏子
公園に誰もいなくて脳死かな 葛城広光
日の本に生まれ睦月の握り飯 木村寛伸
水仙は少し物申したげ我のよう 日下若名
蜜柑むく一人芝居の気まずさに 小林育子
木枯しが母の話の邪魔をする 近藤真由美
弥勒像日向ぼこして坐しけり 佐竹佐介
囃されて赤ちゃん三歩春うらら 重松俊一
成人の日の振袖とコロナかな 鈴木弘子
綾取りのれては消える多角形 立川真理
人に尾の跡鯨に骨盤の跡 谷川かつゑ
「ご健脚ね」薄笑いする雪女 藤玲人
初鏡遠い母いて私です 中尾よしこ
不在の冬の菫のその向こう 服部紀子
去年今年昨日のケーキ持て余す 福田博之
スギハラの命のビザや冬銀河 藤井久代
年惜しむやがて校歌の消える村 丸山初美
冬紅葉残照にあり友の墓 武藤幹
用もなき背広かけ置く冬座敷 矢野二十四
水仙や抱かれて青き駿河湾 山本まさゆき
道まがれば橋遠ざかる暮の春 吉田貢(吉は土に口)
受刑服雪より白き過去包み 渡邉照香
寒満月浮かぶ地球のふかい闇 渡辺のり子

『海原』No.37(2022/4/1発行)

◆No.37 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

長命の虎の巻其の二猫じゃらし 綾田節子
羽後残照見開き悼武藤鉦二兄ひと言夜の灯 有村王志
冤罪は小さな箱の中粉雪 泉陽太郎
欠礼のはがきガラスに点る顔 市原正直
野仏の膝は日溜り冬の蝶 伊藤巌
冬薔薇を植え片思い日常に 大池美木
立冬の椅子の周りに椅子のあり 小野裕三
ブースター接種告知板から冬の蜂 桂凜火
ぞくぞくと冬芽哀しみは未だ半端 加藤昭子
沖縄にない狐火を表記せよ 河西志帆
しゃらしゃらと狐狸の目をして着脹れて 北上正枝
新資本主義群集の白長須鯨しろながす 今野修三
木の実ふるふる整理整頓苦手組 芹沢愛子
黄落や祈る形で佇めり 髙井元一
鳥風か追憶のページさざなみす 田口満代子
十二月選ぶ感情的な花 たけなか華那
冬蝶や誰も気づかぬ風がある 竹本仰
淡く濃く人はみな泣く桜かな 田中信克
つぎはぎの重い空から雪の花 中内亮玄
死なぬならまだのんびりと根深汁 中川邦雄
「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
早世の墓誌銘に触れ風花 根本菜穂子
若き白息伐られ大地に身を打つ木 藤野武
去年から開かぬシャッター冬銀河 藤原美恵子
枯菊を焚くや感情かをりたつ 前田典子
綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
月蝕やどこかで冬のサーカス団 茂里美絵
良縁をまとめどさっと深谷葱 森由美子
着膨れてアナログ気取る老教師 渡辺厳太郎

野﨑憲子●抄出

兜太かなおいと貌出す春の山 有村王志
白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
爪のびた〜港公園冬うらら 石川まゆみ
野仏の膝は日溜り冬の蜂 伊藤巌
その魚いずれやってくる冬至かな 上原祥子
富士薊ごつつい刺に雨滴溜め 内野修
仮面の赤アラビア文字の立ち上がる 大西健司
ゲルニカの馬のいななき人類よ 岡崎万寿
小春日が大好きなんだ鳶の笛 河原珠美
正義は直感すぐ折れる水仙 黍野恵
狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
つぶやきをAIききとってうさぎ 三枝みずほ
もみじ葉のはぐれて光となる遊び 佐孝石画
降り切って冬空太古の紺流す 十河宣洋
流感処分の鶏に隊列十二月八日 高木一惠
定住漂泊うつつごころに初しぐれ 田口満代子
蹉跌あり桜紅葉の黒き染み 田中亜美
吉野源流秋螢よろぼうて 樽谷宗寬
冬晴れの原爆ドーム命美し 寺町志津子
月冴ゆるぞっとするほど痛き街 豊原清明
「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
ゆつくりと昔をほどく大焚火 故・丹羽美智子
球音響く軍神二十歳の冬森に熊 野田信章
血管を見せにくる馬雪催 松本勇二
つくづくラクダおもいきり嚔して 三世川浩司
シナリオを捨てていよいよ冬の蝶 宮崎斗士
山眠る霊長類の笑い皺 三好つや子
どどん「どん底」客席にマスク百 柳生正名
ひとつたましい月光浴に焦げる焦げる 山本掌
柊の花より淡く母居たり 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

羽後残照見開きひと言夜の灯 有村王志
 「悼武藤鉦二兄」の前書きがある。「見開きひと言」は、秋田の武藤氏の在地とその句集への、親しみと敬意を込めた挨拶句であろう。昼間の仕事を終えた夜、机上に『羽後残照』を開いてひと言、「読ませて頂きます」と故人に挨拶して読み始めたのではないか。その開巻第一句を読んだとき、「羽後残照」を真浴びしたように体感したに違いない。「見開きひと言」に、作者の追悼の姿勢が深く刻み付けられている。

冬薔薇を植え片思い日常に 大池美木
 作者の本意がどういうものかよくはわからないが、冬薔薇を植えて、片思いを日常的に思い返したいと書いている。冬薔薇に、片思いにつながるものを感じているのだろうか。おそらくは遠い思い出で、思い返すたびに、ちょっと切なく、甘く、若やいだ気持ちに帰ることができる。冬薔薇の花の質感に呼び覚まされ、しばしその陶酔感に浸る気分を味わっている。冬薔薇のひめやかな気配にも合う。

しゃらしゃらと狐狸の目をして着脹れて 北上正枝
 「しゃらしゃら」は、薄い布などが軽く摩擦する様子を表す擬音語。ややマイナスよりのイメージで、軽薄さを暗示するという。「狐狸の目をして」とあるから、和服を幾重にも着込み着膨れている様は、狐や狸が化けたようにも見える。このような風俗風刺の句は、よほど自分がしっかりと立っていなければ悪ふざけになりかねない。ご主人を亡くされてなお、このように冷静な批評眼を失わない作者に脱帽する。

新資本主義群集の白長須鯨しろながす 今野修三
 今日の時事的課題を端的に取り上げ、生まの時事用語と比喩によって表現した野心作。俳句というより川柳に近い散文的批評性を持つ。「新資本主義」はいうまでもなく岸田首相が提唱した政治思想または姿勢で、中身はひと言で言って、所得格差を縮小して経済を安定させ成長と分配の好循環を図ること。「群集の白長須鯨」とは、いわゆるポピュリズムを指す。その口当たりの良さを読者に問題提起して、さあどうすると迫って来る一句。

十二月選ぶ感情的な花 たけなか華那
 十二月は一年の総決算の月だけに、日常はあわただしく、一年を振り返ればさまざまな思いも行き交う。その中で作者のいう「感情的な花」とは何で、「選ぶ」とはどういうことなのか。おそらく、一人ひとり違う花で、他人の花を賛美するというより、否定的に見たり、ねたましく思ったりしているに違いない。作者はそんな感情的な花をどう選ぶのか、まだ迷っているのかもしれないし、誰かに勧められたとしても、決して納得することはないだろう。そんな際どい心理を句にしたようにも見える。

淡く濃く人はみな泣く桜かな 田中信克
 桜は、日本人独特の無常観と結びついた詩歌の世界の代表的な花で、単に花といえば桜を指すとさえ言われている。だからこの句は、桜に寄せる日本人の通念的心情を、ごく庶民感覚的に書き留めたものともいえる。桜を見ては、「人はみな泣」いてきた。それは必ずしも悲しみばかりでなく、喜びに於いてさえ泣いた。その感情の圧力もさまざまで、時に応じて「淡く濃く」なった。上五に据えたニュアンスが桜の歴史的質感だった。

若き白息伐られ大地に身を打つ木 藤野武
 「若き白息」で切り、山深い森林で、伐採に勤しんでいる若者像が浮かぶ。中下では、伐られてどうと大地に倒れ伏す巨樹を描く。昔からある林業の実景だが、最近は我が国の林業も長引く不況と人手不足から存続の危機に立たされているようだ。その中で掲句のような大自然の原風景に立つ木の力感と若者の立ち姿には、生まの生きもの感覚が息づいていて、にわかに力づけられるような気がしてくる。

枯菊を焚くや感情かをりたつ 前田典子
 前掲たけなか句の〈十二月選ぶ感情的な花〉とは好対照の一句。たけなか句の方が心象映像的なのに対し、前田句は即物的な生きもの感覚ともいえよう。筆者は枯菊を焚くかおりを経験したことはないが、おそらくのこんのいのちを感じさせるような、老いの情念にも似た、かぐわしい「感情のかをり」があるのではないだろうか。枯菊の焼ける物音にも、激しく感情を揺さぶられながら。

綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
 日常心理の襞を軽妙な比喩で新鮮に捉え返す感性において、作者の右に出るものは、わが「海原」においてもそうはいないだろう。冬のどんよりした日に、綿虫が白い灰のように二三そして四五と舞い上がってくる。その気配に二度寝のような倦怠感を覚えながら、「あなたと逢う」という。どうやら二人の間に漣が立ち始めたのかもしれない。こういう負の心理感覚は、この作者には珍しいものだが、これも作品世界の新しい局面として拓かれたものだろう。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

兜太かなおいと貌出す春の山 有村王志
 二月二十日の金子兜太師の忌日を前に稿を書き始めた。他界の師は、高松での句会へも来てくださっている気配がある。〈おいと貌出す〉がいかにも先生らしい。「海原」の将来を見守ってくださっていると確信している。

その魚いずれやってくる冬至かな 上原祥子
 一読、飯島晴子の言葉が蘇った。「……そのなかには、俳句という特殊な釣針でなければ上げることの出来ないものが、必ずあるという強い畏れを感じる。小さい魚だから小さい針とは限らない。大きい魚だから小さい針ということも成立つ」。そんな幻の魚を待っている人がここにも居た。奇跡は信じる人のところにきっとやってくる。

ゲルニカの馬のいななき人類よ 岡崎万寿
 ピカソが、母国スペインのバスク地方ゲルニカへの無差別空爆を描いた傑作「ゲルニカ」。絵の中の馬の嘶きは、ますます大きな叫びとなっている。今まさに崖っぷちにいる人類へ、掲句の問いかけが、さらなる珠玉の句を生み渦となり全世界へ広がるよう願わずにいられない。

正義は直感すぐ折れる水仙 黍野恵
 直感はほとんどが当たっている。正義は直感であると断言する作者。〈すぐ折れる水仙〉の切り返しが見事。でも束にしたら折れない。「花八手愛敬じゃなくくそ度胸」の句も、実に小気味よい。限りなく前向きな黍野さんの真骨頂の作品である。

狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
 風や雲が従ってゆく、この狩人はマタギ。天地に祈り感謝し、必要なだけ狩をさせてもらっているのだ。自然と共に生きることの大切さを教えてくれる作品である。こしのさんの作品には、愛が溢れている。

つぶやきをAIききとってうさぎ 三枝みずほ
 このAIは、兎の形をしているのだろうか、平仮名の真ん中にアルファベットの二字。なんだか風のリボンのように見えてくる。五句の中には「石仏を打つ雨わたし濃くなりぬ」「世界中の時計を合わすつめたい手」。鋭敏な生きもの感覚と宇宙をも俯瞰した俳句眼。金子先生にお会いしたかったと熱く語る彼女に、師は他界で頷きながら眼を細めていらっしゃることだろう。

流感処分の鶏に隊列十二月八日 高木一惠
 鳥インフルエンザに罹った鶏の殺処分報道の度、他に方法が無いのかと胸が痛む。〈鶏に隊列〉に続く、太平洋戦争開戦日。その通底するものに愕然とする。掲句は、人類の足元を見直す大切な警句であるとおもう。

「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
 「照一隅」は、長年、アフガニスタンに赴き、医師としての活動の枠を超え用水路の建設など現地の人たちに寄り添い続け銃弾に倒れた中村哲さんが愛した言葉。その仏教用語とクリスマスとの絶妙の対比。仏教もキリスト教もイスラム教も包含した他界、即ち「いのちの空間」へと向かう深い愛を見事に表現している。

ゆつくりと昔をほどく大焚火 故・丹羽美智子
 丹羽さんは百歳。齢を重ねるからこそ見えてくる世界がある。大焚火の炎の中に、色んな時間が浮かんでは消えてゆく。

球音響く軍神二十歳の冬森に 野田信章
 二十歳で英霊となったこの青年は野球が好きだったのだろう。〈冬森に〉に万感の思いが籠る。他に、「洗われて入れ歯カッカッ笑う冬」。野田さんの、傘寿を超えた今も健在の少年の眼差しと、深い俳句愛、そして真摯な生き様に限りなく憧れる。

シナリオを捨てていよいよ冬の蝶 宮崎斗士
 最後の「俳句道場」での閉会の辞を述べた宮崎さんの、バナナの化身のようなコスチューム姿が今も忘れられない。バナナが大好きだった師は、よく道場の机の上のバナナを眼を閉じて美味しそうに召し上がっていらした。この粋な芝居っ気に「海原」の僥倖を感じた。そう!シナリオを捨てて表舞台へ、冬蝶さんよ。これからが、いよいよ人生の本番。「海原」から新しい神話が始まる。

どどん「どん底」客席にマスク百 柳生正名
 猛烈なビートで、どん底を蹴飛ばしてコロナ後に新しい時代がやって来る。「布団の奥アンモナイトの息をする」「てつぺんでキューピー尖る師走八日」も柳生さん。始原から現代へ、様々な時代を詠み込み進化してゆく。これぞ『俳諧自由』の「海原」発、俳句新時代!

ひとつたましい月光浴に焦げる焦げる 山本掌
 この美しい調べに魅了された。〈ひとつたましひ〉の倒置の妙。月光浴に焦げるという感性の豊かさ、全身全霊で月光浴をしているのだ。まさに魂の歓喜の詩。

◆金子兜太 私の一句

三日月がめそめそといる米の飯 兜太

 飯粒の一つ一つの擬人化であろう。日本人なら毎日、口にしているそれこそ糊口である。作者の意図から離れて、改めて字句を追うと“ぞ”と読める。ネガティブな思いが浮かび上がってくるが完円ならぬ月に古来から米に纏る物語がここにある。米を作る人、それを食べる人が見えて来よう。狩猟生活から定住農業以後の道程という先人の営みの泥土と苦汁が見えて来るのではないか。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。佃悦夫

木曾のなあ木曾の炭馬並びる 兜太

 俳句道場でのことでした。私が句稿を書く当番になり、あと一句兜太先生の欄が空いていました。鈴木孝信氏が優しく厳しく先生を見守っておられる。先生は「うーん、うーん」とうなっておられる。道場出席者全員のため誠実に考えぬかれる姿でした。とても懐かしい思い出です。この句の「糞る」は信州北信地方では日常使ってましたが、句に会った時は驚きました。句集『少年』(昭和30年)より。梨本洋子

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選
舌足らずの鬼灯一灯いかがです 石川青狼
訃は岬白い夜長のはじまれる 伊藤道郎
濁世美し解体現場の藪枯らし 尾形ゆきお
榧の実や受け入れること笑うこと 奥山津々子
大根や一粒の種みごとなり 尾野久子
捨田から始まる花野父点る 加藤昭子
北塞ぐ窓から夜の川流す 河西志帆
木の実落つ独りよがりの子煩悩 楠井収
群衆の眼に忘却の泡立草 佐々木義雄
鉦叩にんげんが急にあふれたよ 長谷川順子
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
蓑虫や笑顔をしまいかねている 藤田敦子
故郷遠し枝豆の湯気青臭く 藤野武
小鳥来る少しづつあきらめも来る 前田典子
能面の右目左目雪虫飛ぶ 前田恵
○犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
もう隠せない秋バラそれぞれの深傷ふかで 村上友子
淋しらを洗濯する娘十三夜 森鈴
○夕かなかなちちはは水になる途中 茂里美絵
酒に泡浮き十三夜月咲いた 柳生正名

中内亮玄 選
新米の湯気にしばらく顔を寄せ 伊藤雅彦
骨上げのコトコト鳴りぬ今年酒 上野昭子
色即是空問題は秋の雨 大西健司
退屈は罠だ秋の蚊が匂う 尾形ゆきお
秋冷や我に「訓練」という輩 川嶋安起夫
既読既読玻璃の底なる十三夜 川田由美子
蟷螂のよそ見する間に駆落ちす 河原珠美
西鶴忌外科医の朱いスニーカー 黒済泰子
秋風の孕み楕円の路地に入る 佐々木義雄
まじめに泣く赤ん坊です天高し 竹田昭江
落花生パッキパッキの個性です 田中裕子
連雀や星ぼし速さ競い合う 豊原清明
色変へぬ松や多感な米寿なり 中川邦雄
寒月よ花挿すように絶句せよ ナカムラ薫
さりげなく墓仕舞のことちちろ鳴く 平山圭子
○腹やら腰やらずしりと笑う柿熟す 藤原美恵子
秋の蚊の離れたがらぬわが臀部 三浦静佳
猫の耳つまみ尽くして冬野なり 水野真由美
ふってきたどんぐりピカピカ児の歌も 三世川浩司
露草に雨腐れ縁のような雨 梁瀬道子

望月士郎 選
魂に宿る肉体白鬼灯 泉陽太郎
木耳のふくよか夕日の耳打ち 伊藤清雄
わたくしの内の雌雄や菊人形 榎本祐子
赤ちゃんも地球も丸い林檎剥く 大池美木
辞書の上空蝉ふたつ組み合はせ 木下ようこ
蝉時雨われを遠くにしていたる 黒岡洋子
老眼のツルとマスクの絡みかな 佐藤稚鬼
白曼珠沙華母の晴れ着の端切れです 鱸久子
漢字すべてにルビふる鏡花星月夜 芹沢愛子
切り取ってぺたっと貼った満満月 たけなか華那
すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
実石榴の軋んで少女たちの黙 月野ぽぽな
いぼむしり泳ぎ疲れたように街 遠山郁好
実紫ネパール人の密語洩れ 日高玲
紫苑とても遠い日があったむらさき 平田薫
花芒揺れて私という彼方 藤原美恵子
○犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
まんじゅしゃげ白まんじゅしゃげ長い宿題 室田洋子
○夕かなかなちちはは水になる途中 茂里美絵
あかのままあだちがはらのあやとり 山本掌

森武晴美 選
台風接近真っ先に飛ぶ口約束 石川青狼
十六夜やコロナ以外のあまたの死 江良修
我が儘と自由の間濁り酒 大西恵美子
薄原遠くで呼ぶから答えない 奥山和子
手話の指秋の光を掬いあげ 狩野康子
やぶからし一行目からまちがえる 河西志帆
蔓ばらは身に曲線の支柱得て 北村美都子
感情だって夏痩せします自粛自粛 黒済泰子
握手してハグして青春マスカット 小林花代
雷のとどろき余生裏返す 佐々木昇一
コスモスに空は空色用意して 篠田悦子
独り身っぽい男が夫しゃくとり虫 芹沢愛子
被曝の葛被曝の柿の木を縛る 中村晋
水澄むやうらもおもてもなくひとり 丹生千賀
寝違えのこむら返りのからすうり 平田恒子
大胆に水溜りの月跨ぎくる 平山圭子
○腹やら腰やらずしりと笑う柿熟す 藤原美恵子
出不精でも引き籠りでもなし鶏頭咲く 深山未遊
落葉とマスク掃き寄せていて祈る 村上友子
目汁鼻汁干からびゆくよ赤のまま 村松喜代

◆三句鑑賞

訃は岬白い夜長のはじまれる 伊藤道郎
 比喩を使って、きっぱり言いきった書き出しに意表を突かれました。岬は、海に迫り出した陸の孤島。絶え間なく聞こえる波音と風音は、突然の訃報に、襲ってきた孤独感と、動揺する心の内を表しているようです。色の使い方も巧みで、これから始まるであろう眠れない長い夜を思い、暗澹とするのです。

小鳥来る少しづつあきらめも来る 前田典子
 「あきらめ」の内容によっては深刻になりがちなことも、擬人法を使ってさらりとうたっています。小鳥を見かけることが増え、嫌でも夏の終わりと秋の訪れを意識するようになった頃、季節の移り変わりと共に失っていく人や物。自身の老いと共に縁遠くなった行動などもあるかもしれない。三つに切れるリズムも句の内容を伝えてくれています。

犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
 犬は興奮するとよく震えることがあって、そんな時抱きしめると、その震えが伝わってきて、その命に感じ入ります。言葉を使っての意思疎通はできなくても触れることで伝えたり共有したりできるものもある。一人と一匹が共有できた楽しい時間や感情を思い出しました。
(鑑賞・伊藤歩)

秋風の孕み楕円の路地に入る 佐々木義雄
 商店街の路地を歩けば、突き当りが楕円の広場にでもなっているのか、あるいは路地へ入っていく私の視界が丸く歪むのか、「楕円」のイメージが虚実を膨らませる作品。楕円の路地に楕円の私がさまよえば、くるり落葉を舞い上げて、たっぷりとぶつかってくる秋の風。療養中の作者には、新しい命をも感じさせるその風の重さ。

猫の耳つまみ尽くして冬野なり 水野真由美
 飼い猫を撫でながら、耳をマッサージしてやる。皆さんはご自分の耳をつまんでみて欲しい。さて、それは物思いにふけっているのか作句に悩んでいるのか、いずれにせよ何か考え事をしている時の姿ではないだろうか。本当につまんでいるのは猫の耳か私の耳か。生ぬるい被膜をつまんでいれば、枯れた冬野に行き当たった。

ふってきたどんぐりピカピカ児の歌も 三世川浩司
 どんぐりが降っている。子どもたちが歌を歌うなら、もちろん「どんぐりコロコロ♪」だろう。掲句は一読、コロコロをピカピカと替えた、動きの擬態語を形態の擬態語に替えた、つまらぬ工夫がされている。ところが、何度も読み返すうち、「どんぐりピカピカ」が実にいいことに気づく。子どもたちの目が、輝いている。
(鑑賞・中内亮玄)

辞書の上空蝉ふたつ組み合はせ 木下ようこ
 蝉殻のあの形態からすると、この「ふたつ」は相撲の蹲踞の姿勢から立ち上がり、組み合おうとする瞬間に似ています。土俵は辞書、できれば『大辞林』がよいでしょう。言葉という幼虫がこの林の地中にうようよです。完全主義を目指す辞書の上に置かれた空蝉=現し身。辞書と空蝉の軽重いの対比も妙です。

白曼珠沙華母の晴れ着の端切れです 鱸久子
 「晴れ着」と「端切れ」がアナグラムの関係にあります。このささやかな発見は、人の一生を鮮やかに象徴するものとなっていて、秘密を解く鍵のような効果をしています。赤ではなく白い曼珠沙華の斡旋も静かな毒を感じさせ、「ハハ」「ハレギ」「ハギレ」の頭韻も、なにやらの呪文のように秘密めいて響いてくるのでした。

あかのままあだちがはらのあやとり 山本掌
 全ひらがな表記、「あ」の頭韻、それに十六音中十一音を数える「A」の母音。「あかのまま」「あだちがはら」「あやとり」の三題噺を仕上げるのは読者それぞれに任されます。しかし、意味で繋ごうとすると途方に暮れるのです。抽象絵画における色、形、配置のように、言葉の戯れを愉しめば良いのでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

十六夜やコロナ以外のあまたの死 江良修
 デルタ株が収束しつつあった昨年末、オミクロン株がこれほど蔓延するとは思っていなかった。毎日感染者は急増し、ワクチン接種は進まない。一方、コロナ以外の死も当然あるのだが、報道はされていない。作者は医療従事者として、その死に深く向きあっている。十六夜の月がやさしいのか、冷たいのか、胸中やいかに。

コスモスに空は空色用意して 篠田悦子
 空に空色は当たり前のようだが、案外少ない。冬は曇天だし、春には霞がかかり、梅雨空となる。コスモスが一番映えるバックは何か、やっぱり青空。濃い青色よりも薄い空色。空が空色を用意したと詠んだ作者の気持ちがやさしい。空色の空の下、それぞれの色を風に揺らして咲くコスモス。この風景をいつまでもと思えた一句。

寝違えのこむら返りのからすうり 平田恒子
 一読して思わず笑ってしまった。上五中七を「の」で繫いだことでリズムが生まれ、その流れがからすうりにうまく乗ったと思う。笑い事ではない、寝違えもこむら返りも、からすうりの色や形で救われたような気になる。からすうりも、よく詠まれる季語ではあるが、なかなか手強い相手。うまく処理した句と思う。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

冬銀河柩にはふる十七音 有馬育代
冬蝶のステンドグラスとなり了る 淡路放生
折り目から地図破れゆく冬の雨 井手ひとみ
後輩の息子いっぱし阪神忌 植朋子
冬休み少女は安吾を読むと言ふ 上田輝子
すぐみかんとか出してくる母が好き 大池桜子
事始めとうカレンダー誰も来ぬ かさいともこ
入学の二日前から風呂にこもる 葛城広光
犬小屋に居らぬ次郎に冬桜 河田清峰
茶の花の明るい家の明るいひと 日下若名
スマホの手覚束無くて寅彦忌 古賀侑子
アフガンの飢えの紙面へ薯の皮 後藤雅文
十二月八日補聴器に雑音 小林ろば
どの人も師走になってゆく風か 重松俊一
我が生のここまで来たる木の葉髪 鈴木弘子
泣きそうに恍惚の中枯蟷螂 宙のふう
「ニーッ」といふは笑いの形受験生 立川真理
冬薔薇四季咲きといふ疲れかな 立川由紀
人といふ病ひのありてちちろ鳴く 立川瑠璃
キュビスムの句詠みたき夕焼ピカソ展 平井利恵
新しい資本主義とか枯空木 深澤格子
冬兆す出羽や荒ぶる神を抱く 福井明子
大根煮て醤油懐柔されにけり 福田博之
にぎはひの中心なからに老母春近し 松岡早苗
短日や地を打って竹籠を編む 村上紀子
盂蘭盆會戰に死にし碑は高し 吉田貢(吉は土に口)
水仙のピエロにみへてひきかへす 路志田美子
冬の雨言葉を探す医師の手美し わだようこ
大寒の虹骨壺に納めけり 渡邉照香
枯芒まだ返り血は乾かない 渡辺のり子

雪 大沢輝一

『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

雪 大沢輝一

切切と雪に雪降り潟泊り
霏霏と雪鴉よ白くなりなさい
雪のメモ解読しない潟の人

冬の潟ごっつんこする硬い風
寒い潟僕のそびらを僕が押す
潟の鳥毀れて雪になったきり
冬の潟老婆ぽつんと吹き曝し
冬眠の爺婆すでに虫だった
おっ母よ潟の夜も雪が匍う
潟風の聲雪雪と聞え来る

沸騰 大沢輝一

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

沸騰 大沢輝一

冬の鳥作業衣のごと雨の中
冬鳥に生まれてそして潟は潟
冬の鳶なんども空にぶつかって

鴉からす雪風咥え啼けぬなり
雪の日の鷺閉じきって石器です
蘇るためまた潜るかいつぶり
水鳥の快感水を嚙み砕く
もうもうと白鳥生理急ぐなり
眠る白鳥柔らかな卵です
白鳥群啼くというより沸騰す

ピロピロ笛 鳥山由貴子

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

第3回海原賞受賞 特別作品20句

ピロピロ笛 鳥山由貴子

永遠の花野に軋む観覧車
左手が生む詩つぎのページに冬青の実
落し穴少し欠けてる冬の月
やさしさと赤いセーターちくちくす
雪降り積むかすかに蜂鳥の羽音
鳰を待つ夕暮色の椅子ひとつ
ハレの日ケの日鼠黐の実食べ尽くす
龍の玉まだあたらしき死者の声
水時計水の一滴ずつ凍る
冬銀河ガラスの階段踏み外す
一月のサイコロキャラメル展開図
誕生石は美しき血の色雪兎
手のひらに文鳥文庫二月果つ
フラスコの中で生まれてゆく海市
妄想の旅どの街も黄砂降る
わがままな私ときどきヒヤシンス
春泥を愛しどこまでも少女
街はきさらぎスパンコールを散らかして
春の蠅ガラクタの中にあるひかり
野遊びのようピロピロ笛を吹鳴らす

『海原』No.36(2022/3/1発行)

No.36 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
銀杏大樹兄サが降りてきそうな日 大沢輝一
冬の雷不穏不穏と救急車 大西政司
ちひろ好きの亡妻つまの小机柿落葉 岡崎万寿
キスをする男と男鬼胡桃 小野裕三
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
枯すすき名もなき咎を負うがごと 黒済泰子
おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
返り花「何とかなる」をエールとす 篠田悦子
山眠るもののけ微かな息そろう 十河宣洋
白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
愛みたいな初雪の日の深呼吸 たけなか華那
考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
ハミングハミング空に白い曼珠沙華 遠山郁好
蟻君ありんこ忌夫婦漫才またトチる 遠山恵子(藤本義一の忌)
フクシマに冬蝿といるふたりごころ 中村晋
夕花野みんな忘れてしまふのか 野﨑憲子
木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの愁思かな 村本なずな
霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
夭逝といふ綾取のまだ途中 柳生正名

藤野武●抄出

結び目にぴたりはまった今日の月 阿木よう子
初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
鍵盤に慣れる指から冬に入る 奥山和子
けはひ皆落とし物かな秋日向 川田由美子
星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
立冬の杉鋭角を貫きぬ 佐藤君子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
やわらかきひき算の果て秋ほたる 芹沢愛子
時という分別箱へ木の葉かな 高木水志
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
感情のだんだん欠けて泡立草 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
生牡蠣のかおりや末期癌のはなし マブソン青眼
仲直りのように仕上がる障子貼り 三浦静佳
セーターゆるく昼月がくすぐったい 三世川浩司
敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
よそ見しているみたいなベンチに木の実降る 村上友子
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの秋思かな 村本なずな
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
白鳥がくるそらいろの方眼紙 望月士郎
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
 冬山は、草木も枯れ寂とした景観。この句の「お父さん」は、定年も過ぎ、なにやらしこしこと趣味の庭仕事や俳句などにいそしんでいる人。口数は少ないが自分の世界を持っていて、結構亭主関白を張っているタイプ。現役時代の颯爽さはないが、なんとなく隠然たる権威を感じさせる。その父の風采を、「冬山のようななり」とみた。作者はそんな父に親しみとたのもしさを込めて見つめている。「お父さん」の呼びかけに心情を込めて。

綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
 綿虫は秋から冬にかけて出現し、時に燐光を発しながら大量に降るように舞う。「静かに降るよ」で切れているので、「名を呼ばれ」たのは作者。呼んだのは綿虫舞う空間の奥からの声なき声ではないか。だが文脈通りに読めば、綿虫が名を呼ばれたように出現して静かに降っているとも読める。その主体の転換は、中七の切れによるものではあるまいか。

おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
 「おびただしきにんげんの穴」とは、どんな穴をいうのだろう。人間がすっぽり入る墓穴のような大きさの穴なのか、人間があちこちに掘り尽くした大小さまざまの穴なのか。前者なら死者を意味し、後者なら人間の手による戦争や乱開発の穴となる。上中の平仮名表記で、その双方を含む世紀末的世界が滲むとみた。となると「末枯るゝ」がにわかに重い意味を持つ。それは平仮名表記がかえって具象を超えた心象に接近したからであろう。

十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
 十二月に入って、テレビでにわかに開戦時の歴史を回顧する特集番組が組まれた。対米戦争に成算のなきまま突入せざるを得なかったのは、当時の国民感情や陸軍中堅層の意向に抗えず、徒らに引き返すべき時を失った政治の責任であることを痛感させられる。それは今日にも通ずる教訓だ。「火の芯となる折鶴」に、その象徴的映像をみた。火達磨となった平和の象徴としての折鶴だろうか。歴史の転換点に燃えるもの。

石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
 「石積み」は、古城や長堤の石積みで、その力学的構成はまさに見事なオブジェとも見られる。そのオブジェの上を鷹が渡って行く。「美しき」はその景観への賛歌に違いないが、やや決まり文句と見られなくはない。だが「力学美しき」としたことで、型通りの形容句を脱した。月並みの景に生命力の重い矢を射込んだとはいえまいか。

考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
 考は亡父、妣は亡母。亡き両親を偲びつつ、池面を低く飛ぶ二匹のおはぐろ蜻蛉を目で追っている。やがて蜻蛉は空高く舞い上がって見失われるのだが、作者は亡き父母の行方のように、その飛び去った軌跡を追い求めている。ある日、ふと訪れた亡き父母への慕情。

木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
 木犀は仲秋の頃、細かい十字の花からやや甘い感じの芳香を放つ。久しく会わない人、それは想い人に限らず、懐かしき師や友、あるいは亡き人であってもいい。そんな会いたい人に、木犀の香りの気流に乗れば会えますかと呼びかける。そのおずおずとした語感に、抑制された情感、思いの丈が籠っている。

すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
 すすき原を抜けたら、人間の顔になったという。ならば、すすき原では何の顔だったのだろう。そこはすすき原にふさわしい生きものの顔。例えば狐とか山犬、あるいは鹿だったかもしれない。そして全力で疾走、やっと抜けて息弾ませながら、人間の顔に戻ったという。人心地ついたところだろう。その表情が、すすき原での心細さや怖ろしさを物語る。

人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
 老人施設に母を預けている。程度の差こそあれ認知症を抱えているが故の措置で、高齢化社会の直面している現実に他ならない。その母の姿を、「人質のよう」でもあり、「コスモスのよう」でもあると見ている。やがては自分自身にも及ぶことと知りながら、その現実をあわれとも、さびしいとも受け止めているのだろう。「コスモス」の揺れが、心のざわめきのかなしさを伝えている。

霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
 この句も一つの境涯感と見られよう。「運命線」は手相の中の運勢を表す線。それを「霧の駅から」としたのは、茫漠とした生涯の先行きを、もはや運勢にまかせるほかはないと見たのだ。一種の諦念であって、意志的な選択ではあるまい。今やこういう句が多くなってきたのは、大きくいえば、日本社会の先行きに不透明感が覆いつつあるからともいえる。その現実にどう対処すればよいのか、おそらく誰にも正解はあるまいが、一人ひとりの生き方の中で問われている課題ではあろう。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
 軽やかな表現の中に、突き上げるような思いが伝わってくる句。予想どおりに淡々と過ぎてゆく今という情況に、作者はどこか認めがたい(あるいは妥協しがたい)ものを感じているのだろう。そんな現状を打ち破り、乗り越えてゆくために、(「初霜」という季節の節目で)何か納得がいかない音、胸に落ちない(尋常でない)音がして欲しい(聴きたい)、と(すら)思うのだ。それは喪失感と表裏?「聴きたい」という口語表現が切実。

実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
 「通学路」というのは、おそらく小学生の通学路。もちろん作者が幼いときに通った路。その傍には柘榴の木があって、たわわに実をつけている。「酸つぱいまま」が上手いと思う。幼いということは、未熟ではあるが純で、愛おしいもの。そして通学路での出来事一つ一つが、(もはや二度と手にできない)何ものにも代えがたいものに思えるのだ。作者はそれを「酸つぱい」と感受する。今でも胸の中の通学路は「酸つぱいまま」にある。「実柘榴」が美しい。

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 絵本や童話のひとこまを見るような楽しさ。とにかく「シュルン」という擬態語が素敵。星が「シュルン」と流れ(あるいは輝き)、それが何かの合図でもあったかのように「モミの木」が、どさりと入荷した。あふれる樅の香り。華やぐ店先。もうすぐクリスマス。

糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
 ごくごくありふれた日常を、詩に昇華した。「糸屑」が服についているよ、とか「パン屑」が床に落ちましたよ、とかいった、日常のきわめて些細なことどもが、秋の透明な「木洩日」のもとに置かれて、とても大切な、珠玉のように感じられるのだ。ゆったりとした時間の中で、豊かに暮らす人間の姿が見えてくる。やわらかな感性。

だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
 「枯野」を表現するに、「だぶつくものなんにもなく」とは、とても個性的。この措辞によって、無駄なものがすっきり削ぎ落とされた枯野が、鮮明に浮かんでくる。そんなシンプルなあり様は、作者にとって一つのあるべき姿なのかもしれない。そう考えるとこの句、作者の自画像にも見えてくるのだが。

神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
 やおよろずの神がいるという日本には、様々な神がいて、なかにはかなり人間くさい、決して立派とは言えないような方もいるのだ。陰暦十月、出雲に集うために旅をするという「神の旅」でも、そのついでに「実家に寄りたい」と思う神がいてもおかしくない。このぎすぎすした世の中で(とりわけ身動き取れないコロナ禍で)こんな(ゆったりした)心の余裕に、私達は、ほっと和み、なぜか喝采したくなるのだ。上質なウイット。「実家に寄りたい」に、妙なリアリティーがある。

冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
 日が暮れるまで夢中になって遊んで、服に牛膝をいっぱいつけた少年(一人ぐらいは少女が混ざっている)一群の姿が目に浮かぶ。作者の少年時代の一光景にちがいない。「日暮れ」によって「冒険」の質が明瞭になる。でも子供たちは今、コンピューターゲームなどに夢中になっていて、この句の世界とはやや趣を異にする、というのが一般的な見方かもしれない。しかし注意深く辺りを見回してみれば、自転車でわざわざ遠くの公園まで出かけて行って遊んでいる一団や、キックスクーターの二人組が歩道を漕いでいる姿を見かけることもあるのだ。人間の本質はそう変わっていないのかもしれない。子供は(ときに大人も)自分の限界を超えたい、限界を広げたいという欲求に駆られる時がある。きっと「冒険」とはホモサピエンスの本質なのだ。そして今でも「冒険」は色あせない。この句の世界は単なるノスタルジーにあらず。私がこの句に魅かれる所以。

敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
 「その名」とは、「敗戦忌」という名称そのものであり、同時に戦争で亡くなられたり傷つかれたりした方々の、具体的な名前でもあるのだろう。まことに頼りなげな「笹舟」は、戦争に翻弄されたそうした人々を象徴し、また、誰も脅かさず傷つけぬ、のどかなる平和の喩でもあると受けとれる。

ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
 「死なめやも」について、「め」は意志を表し、「やも」は反語と私は解釈した(文法が不得手なので自信はない)。(キリシタンの弾圧や原爆など)様々な苦難を乗り越えてきた「ながさき」の空に今、悲しみを癒すように「鰯雲」が美しい。ああもう死んでもいいと、ふと思う。『死のうか…』『いやいやまだ死なぬ。生きよう』と自問する。平仮名表記の「ながさき」が立体感を生む。こういう句を見ると、つくづく俳句という詩形の底力を感じる。

◆金子兜太 私の一句

とび翔つは俺の背広か潟ひとひら 兜太

 金子先生は昭和39年6月、秋田県男鹿半島の旅をした。二日目「寒風山かんぷうざん」の頂上近くの緑地を歩いた。日本海と日本第二の八郎潟の干拓を眺望。先生は完成間近い広大な干拓地を見て背広を脱ぎ、青い空に放り飛ばした。前掲の句を声高く唱え、まさに一瞬のドラマであった。先生は四十代半ば。俳句一生の大志を抱いた作品と思う。傍らには皆子夫人と武田伸一、武藤鉦二らが居た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。舘岡誠二

堀之内長一たんぽぽまみれかな 兜太

 「海程全国大会in熊谷」の開催が決まり、下見のため先生と関係者四人で荻野吟子記念館へ。車を止めてから堀之内さん篠田さんが威勢よく土手を登って行きました。菜の花やたんぽぽが一面に咲き乱れていました。先生は足腰が弱って休憩所で待つことに。二人が降りて来ず、先生はそのうち怒ってしまい、「あの二人の仲はできている」とカンカンでした。降りてきたら先生は何もなかったようにケロッとしていました。程なくして〈老いらくの恋などといま昼寝かな〉を発表。先生は天才です。天晴でした。句集『百年』(二〇一九年)より。長谷川順子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選

大切なものに距離置く水引草 石川和子
黒牛の全重量に虻まわる 稲葉千尋
肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
寝落つとき沼の匂ひす二日月 木下ようこ
日常という渚くるぶしに白露 小池弘子
シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
蟬時雨震える身体溶かしてよ 高木水志
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
夜の迷路ヒマワリと人間ひと入れ替わる 鳥山由貴子
穴惑いフクシマを問い嫌われる 中村晋
ごめんねの一語野に萩満ちており 藤原美恵子
ふたりしずか触れることばの衣かな 北條貢司
八月の水を飲むとき石拾うとき 本田ひとみ
梨喰らう充電している前頭葉 松井麻容子
刈り入れや黄泉の家族が二三人 松本勇二
白木槿散り敷く未完の私小説 村上友子
蜉蝣にされて誰かの記憶の川 望月士郎
コロナ禍や机上は我の浮巣のよう 森鈴
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

中内亮玄 選

書きとめる仏の言葉秋薔薇 伊藤歩
缶ビールせめてコップや皿並べて 植田郁一
元気な人ランニングシャツ着て朝死なむ 宇田蓋男
刻刻としずかにくるう虫の声 大髙宏允
月光を濯ぎ静かなる窪地 北上正枝
初月夜童貞すてた村に棲む 白井重之
宅配の箱の行き交ふ星月夜 菅原春み
日傘のまま返す御辞儀や影もまた 田中裕子
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
とんぼうの次々そこに座りなさい ナカムラ薫
オンライン授業そびらに林檎むく 根本菜穂子
秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
浜のシャワー女人達ヴェヒネゆるりと泡分け合う マブソン青眼
塩素臭いよカゲロウは昼へただよう 三世川浩司
韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
トルソーの一体月の踊り場に 望月士郎
炊立ての淋しらに白曼珠沙華 柳生正名
老母歩めば秋の川音ついてくる 輿儀つとむ
烏賊を干す島に青空みな集め 若林卓宣

望月士郎 選

祖母の家へ祖父夜這ひせし涼夜かな 石川まゆみ
麩のようなひと日風船蔓かな 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
夕立のはじまりを聞くもう一人 小松敦
ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
回転落下たちまちに蘭鋳となり 中井千鶴
ムヒカさんと同じクボタで春耕す 新野祐子
こころなどみえないけれど心太 丹生千賀
人体を拡げるように白シーツ 藤田敦子
ぽっくりを失くした記憶敗戦忌 松田英子
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
キリストのふっと微笑む飛込台 松本勇二
鳥だった頃の名残に胡瓜曲がる 三浦二三子
ずいぶん芒ずいぶん物理がきらい 三世川浩司
夫婦という一足す一足す柚子ひとつ 宮崎斗士
蛍袋に遠吠えの二、三匹 三好つや子
子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
空耳は耳鳴よりも星流る 柳生正名
で。百年後わたしはまた白壁の前に立つ 横山隆

森武晴美 選

新盆の骨箱にのるハンチング 石川青狼
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
驟雨美し父母亡き家の息遣い 河原珠美
祭果て一人ひとりの橋渡る 黒岡洋子
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
鬼百合の花のいつまで火を追はむ 仁田脇一石
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ポケットにねじ込む秋思ハローワーク 三好つや子
杖置いて母よ花野へ出掛けましょう 村松喜代
プールより人いっせいに消え四角 望月士郎
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
がちやがちやと暫く僕でなくて俺 柳生正名
彷徨の母空を舞う赤とんぼ 輿儀つとむ
どこまでも母手を振りぬかなかなかな 横地かをる

◆三句鑑賞

肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
 二つの事柄のみを提示した句の形が、簡潔で力強いです。人にはそれぞれ固有の体質があり、誰しもそれに制限されて生きていると思っているので、「肉体の檻」という措辞に共感しました。近くの森から聞こえてくる青鳩の低くけだるい獣めいた声が、不自由な身のやるせなさを一層際立たせていると思います。

日常という渚くるぶしに白露 小池弘
 軽装で庭に出たら、素足に草の露がかかったのでしょうか。その時詩想が浮かんだのかもしれません。「渚」とは、波が打ち寄せてくる所、五感に波のような刺激を受けて、それを言語化する日常。句作に励む充実した毎日が思われます。畳み掛けるような破調のリズムのループが、句の内容によく合っています。

シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
 風にひるがえる白いシーツとその爽やかな香り、バイオリンのしなやかな調べ。視覚、嗅覚、聴覚を刺激する気持ちの良い句でした。シーツは撓み、バイオリンの音色も、「バイオリン」という言葉も撓んで響き合います。北海道の長い冬の訪れを前にした、貴重で穏やかな秋のひとときを味わう心地です。
(鑑賞・伊藤歩)

マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
 世の中の風景は、こんなに劇的に変わるものかと驚いている。マスクをしていない者とすれ違う時の、人々の群れのあの非難がましい目つき。そこには理性的な、あるいは知性的な判断というものはなく、ただ感情的嫌悪が何よりも優先されるようだ。人間の有り様に寒々とする今日、マスクを顔の「国境」とは見事な風刺。

秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
 全国大会の折、振り返ると武藤鉦二さんがいた。何度もお会いしているが、忘れていたら申し訳ない。「お久しぶりです、福井の中内亮玄です」と、改めて挨拶すると「何よ?知ってるよお、有名人だもん」と、いたずらっぽく笑った、あの笑顔。原生林広がる白神山地を、悠々と飛び越えてゆく武藤鉦二が見える。

韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
 映像鮮やか、状況鮮やか、叙情鮮やか、全て鮮明。掲句に登場する人物の台詞まで聞こえてきそうだ。斗士俳句を追う者は常に二番煎じ、全て画竜点睛を欠く作品となろう。「海程流」とか「海原流」というのではない、工場長くらいの軽い表現では、彼の力を十分に表現できない。ゆえに、海原「関東四天王」の一角と呼ぶ。
(鑑賞・中内亮玄)

ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
 ポリキポリキという奇妙な音がします。外は騒がしい蝉しぐれですから、これは身体の中から聞こえてくるのでしょう、歩くと鳴る老人音です。ポキという骨の折れちからるような音と、それに対抗するようにリキ=力を思わせる音がしのぎを削りつつ一つになっています。自虐と諦観と力強い呑気が感じられます。

炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
 系統樹の一番上にぶらさがるヒトという奇妙な果実。ちかごろこのヒトは「地球にやさしい」というキャッチコピーの下に延命活動を始めました。地球にやさしくするというヒトの立ち位置の尊大さに気付くこともなく。「地球に嫌われないように」でしょう。どうやら地球内生命であることを忘れているようです。

子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
 シャボン玉とおならという、口から出るものと尻から出るものの球体空気つながりを導線に、子の未来に想いを馳せます。漢字、ひらがな、カタカナの表記の仕方が通常とずれていて、特に「みらい」によって希望的歴史軸から逸脱したアンニュイが漂います。この薄さ、儚さ、柔らかさはどうしたものでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
 そうそうと手を叩いた句。爪先を前にきれいに並んだ形は、出航を待つ船にそっくり。子供靴やブーツもあって何とも賑やか。玄関はまるで風待ち港。梅雨晴れの外出を、今か今かと待っている。風待ち港であった牛深の、ハイヤ節が聞こえてきそうな、明るさが感じられる。

夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
 話し上手は聞き上手とか。会話を持続するには、話し手よりも聞き手が大事。「そうそう」と頷いてくれたら、うれしくなって次へと繋がります。命の電話の相談員の方は、ずっと聞き続けられるのだそうです。否定せず、励まさず、頷きひたすら聞く。命の接続詞でもある頷き。夏の月がやさしい。

フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
 東日本大震災から十年、熊本地震から五年。その復興には温度差があり、更地で残っている所がまだまだあります。白く広がるこの地にも、笑顔の語らいがあったはずです。元の楽しい生活が、一日も早く戻ることを、願ってやみません。繁殖力の強い韮の白い花を思いながら、熊本の地から「負けんばい」のエールを送ります。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

うっせーわ母を教育芋煮会 荒巻熱子
少しずつ朽ちれば怯えず霜の夜 有栖川蘭子
小三治の並べし枕都鳥 有馬育代
前期高齢枝豆をてんこ盛 石口光子
まだわたし綿虫のように生きている 井手ひとみ
甲殻に神去月の吾子隠す 植朋子
綿虫や信じきれないのが病 大池桜子
十人兄弟の九番目小鳥来る 大渕久幸
老人に巻耳なもみがいつぱい付いていた 押勇次
荒縄に縛られて咲く冬の薔薇 かさいともこ
ワカメ干す真ん中辺りで寝てみるか 葛城広光
神無月誘われたので行くソワレ 川森基次
竹の春ロボットと歌うイマジン 日下若名
バンクシーの枯れたひまわり地球の日 重松俊一
風呂吹の面取りは母ゆずりかな 五月女文子
秋深しダリの時計の二十五時 宙のふう
老画家に柚子を貰いて別れたり 田口浩
名山の眠り給ふや麓の葬 立川真理
泣く時は白鳥のよう後向く 立川瑠璃
枝豆の一さや三粒褒めらるる 土谷敏雄
銀漢やマクラの小三治さっと立つ 野口佐稔
奥羽なり降りて軸足陰を持つ 福井明子
身に余る恋木犀が匂いはじめる 福岡日向子
食卓にジェンガ崩れて林檎在り 福田博之
熟柿吸うコロナ死の記事斜めに見て 保子進
夜干しのシャツに朝日文化の日だよー 松﨑あきら
秋の日の原発見ゆる乗馬かな 山本まさゆき
深山舞茸一子相伝のごと孫へ 吉田もろび
銃のくに菊は刀をあきらめし 路志田美子
葱きざむほどのなみだでひと想う 渡辺のり子

『海原』No.35(2022/1/1発行)

◆No.35 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
榠樝の実だけを並べて無聊です 伊藤雅彦
鶏頭の紅蓮私にも黙秘権 榎本愛子
十月の水動かずにひとの影 大池美木
鶴来るカタカナで鳴く父連れて 奥野ちあき
木霊かなフォークソングにかなかな 奥山富江
手話の指秋の光を掬いあげ 狩野康子
秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
リモートが大胆にする熱帯魚 黒岡洋子
羊雲図画工作室へなだれるよ こしのゆみこ
乾燥機百円分の秋思かな 小松敦
晩夏光嬰抱くように拾う骨 清水茉紀
夜の秋アクリル越しのきつねそば 菅原春み
わが徘徊刈田コンビニ土の道 鱸久子
夏暁の桟橋にして旅の全景 すずき穂波
峰湿る産土に蔦紅葉して 関田誓炎
資本論復活大豆ミートの噛み応へ ダークシー美紀
若狭の旅秋思というは顔見知り 竹田昭江
投げ遣りで気鬱で身軽侘助は 立川弘子
月の出や野武士のごとくピアニスト 田中亜美
まほろばや驟雨が木々を歌うとき 遠山郁好
被曝の葛被曝の柿の木を縛る 中村晋
秋興や傘寿の右腕が太い 梨本洋子
水澄むやうらもおもてもなくひとり 丹生千賀
ババ抜きのババに座のあり芒原 丹羽美智子
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
ぶらさがる凍蝶として思考中 前田典子
出不精でも引き籠りでもなし鶏頭咲く 深山未遊
落葉とマスク掃き寄せていて祈る 村上友子
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵
曼珠沙華ハィハィハィと手を挙げて 森鈴

藤野武●抄出
実石榴の赤透きとおる吾が老いも 石田せ江子
鹿鳴けりまるで一筋の香り 大池美木
消雪の水吹く街に赴任する 荻谷修
のど自慢すぐに退場野分晴れ 小野裕三
文書くは桜紅葉の甘さかな 河原珠美
曲がるたび人いなくなる秋の風 北上正枝
辞書の上空蟬ふたつ組み合はせ 木下ようこ
秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
川えびのの透きとほる秋の昼 久保智恵
蕎麦の花夕冷えは村の端へと 小池弘子
悲しいほど実のなるリンゴ 笹岡素子
十六豇豆じゅうろくや何でも良くて倚りかかる 篠田悦子
独り身っぽい男が夫しゃくとり虫 芹沢愛子
まじめに泣く赤ん坊です天高し 竹田昭江
すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
失せし物また北風に辿りつく 立川弘子
月の出や野武士のごとくピアニスト 田中亜美
知ってて待つ線香花火の展開 田中裕子
角笛を抱かせてもらう霧の夜 月野ぽぽな
硫酸紙の感触九月の少年に 鳥山由貴子
鳩吹いて餡パンふいに欲しくなる 並木邑人
焚火臭一すじわれに添寝かな 野田信章
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
ライオンの奇麗な舌に雪ばんば 前田恵
秋深し乳酸菌が騒がしい 松井麻容子
浅間からポリネシアまで鰯雲 マブソン青眼
唐辛子鎖骨のきゅっと固まって 室田洋子
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵
砂糖菓子崩れるような疲労感 輿儀つとむ
純粋になりシラタマホシクサに並ぶ 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鶏頭の紅蓮私にも黙秘権榎本愛子

 鶏頭の花は、たしかに紅蓮の炎のような鶏冠をなしてほむら直立する。しかも一叢の群落をなして、まさに炎だつ立ち姿だ。それを作者は己の内面に兆した抗議の意思のかたちと捉えた。それはあたかも「黙秘権」の行使のようにも見える。それは、東京オリンピックの表彰台で一言も発せず、母国の軍事政権への抗議の意思を三本の指を上げて表したミャンマーの選手像にも連脈している。

秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
 この原稿を書いている時に、作者の訃報を知った。作者の句は偶然十月号十二月号にも秀句に取り上げていたから、大いに注目していた。まだ二十代の若さで、新人賞もとって注目されていたのに、あたら春秋に富む未来を自ら擲ったのは何故か、惜しまれてならない。掲句の「剥製の爪」には、思いなしか冷たい死の翳を見るような気もする。「秋思」は、季語以上の重いものが込められていたのだろう。これが本誌への絶吟となった。

リモートが大胆にする熱帯魚 黒岡洋子
 コロナ禍によってリモートワークが定着し、自宅で仕事をするケースが増えている。そうなると金魚鉢のある家では、普段は出勤のためあまり見られることもない金魚鉢でも、しばしば視線があつまることが多くなりそうだ。金魚の方も、なにやら大胆なポーズで泳ぎまくっているような気がしてくるという。ささやかな日常の変化に着目した時事俳句といっていい。

羊雲図画工作室へなだれるよ こしのゆみこ
 いつもはぽっかりと浮かんでいる羊雲が、珍しく群れをなして秋空を動き始めた。それが小学校の図画工作室へなだれこむようと見たのだ。ちょうど生徒たちは図画工作の製作に夢中になっている最中。羊雲は頑張れと声援を送るかのように集まってきている。兜太師はこしの句を、書き方がゆっくりしていてリズム運びがいいといっていたが、まさにこの句もそう感じさせるものがある。

夜の秋アクリル越しのきつねそば 菅原春み
 「夜の秋」はいうまでもなく、夜になると秋の気配が漂う頃のこと。コロナ禍対策として、近頃飲食店では座席をアクリル板で仕切っている。そうなると、久しぶりに食事をしながらおしゃべりでも、というわけにもいかず、一人黙々とアクリル囲いの中できつねそばをすする破目になる。コロナ禍の夜の秋とは、こういうものかという思いも噛み締めながら。

峰湿る産土に蔦紅葉して 関田誓炎
 この句の「峰」とは、作者の故郷秩父の脊梁山脈であろう。それは作者にとって産土の地でもある。「湿る」とは、一雨来た後、急に秋が深まり蔦も紅葉する景をいうのだろう。蔦紅葉は文字通り真紅の見事さで、落葉性の夏蔦とされている。作者はそんな産土の峰々を遠望しながら、望郷の思いを募らせているのではないか。「峰湿る」は、作者の望郷の思いの湿り気も滲んでいよう。

資本論復活大豆ミートの噛み応へ ダークシー美紀
 「資本論復活」とは、少壮の経済学者斉藤幸平による『人新世の「資本論」』がベストセラーになったあたりから火が点いたといってもよいだろう。それは「豊潤な脱経済成長」の道を示すものとして世に迎えられた。その風潮自体を「大豆ミートの噛み応へ」と、象徴的に風刺している。この時事感覚を、大陸的な「大豆ミート」という具体的なモノで捉えた素晴らしさだ。

投げ遣りで気鬱で身軽侘助は 立川弘子
 侘助は、閑寂を楽しむ「侘」と、芸事を意味する「数奇」とが合体した言葉ともいわれている。中国原産の唐椿の一種で、茶人たちが好んで茶席の花として活けたという。そんな本意をもつ侘助が「投げ遣りで気鬱」とは、どこか加齢に伴う後悔や自己嫌悪の投影ではないだろうか。それは老年という本来の意味での生成のために、潜り抜けねばならぬ過程でもある。そして「身軽」という成熟に達して素朴に帰る。侘助の花樹にその姿を見ているのだろう。

ババ抜きのババに座のあり芒原 丹羽美智子
 作者はすでに百歳に達しておられる方だが、今なお矍鑠として俳句を作っておられることに驚く。孫たちのトランプのババ抜きの座に招かれて、一緒に楽しんでいる。さて「芒原」の喩だが、荒涼としたものではなく、むしろ高原に広がる広闊たる芒原、子供たちが歓声をあげて突っ込んでいくような原っぱではないか。そんな仲間に入れる嬉しさのようなものに違いない。

 今回も取り上げるべくして、すでに幾度か取り上げた作者ゆえに、申訳ないが遠慮して頂いた作品はある。

十月の水動かずにひとの影 大池美木
夏暁の桟橋にして旅の全景 すずき穂波
まほろばや驟雨が木々を歌うとき 遠山郁好
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵

等がその例である。記してお詫びしておきたい。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

硫酸紙の感触九月の少年に 鳥山由貴子
 この句の魅力は「硫酸紙の感触」という喩にある。「硫酸紙」というのは「硫酸で処理して作った半透明の紙。耐水・耐油性があるのでバターなどの食品や薬品の包装用に使われる。」(明鏡国語辞典)もの。なるほど少年を喩えるに硫酸紙はぴったり。さらに「感触」とまで念を押して「九月の少年」の輪郭を明瞭にした。
 俳句にとって喩は極めて重要だと思う(そもそも俳句自体が一つの喩と言いたいほど)。そして私がすぐれた喩だと感じるものは、感覚的であり、加えて個性的なものだ。一方でそれが客観性をもっていることも勿論重要。掲句の、「硫酸紙の感触」という喩は、まさに優れて感覚的でとりわけ個性的である。

鹿鳴けりまるで一筋の香り 大池美木
 この句もまた「一筋の香り」という喩の魅力。遠く聞こえくる鹿の声は、冬へと向かう私たちの心に染みとおるもの。もちろん「鹿の声」は、牡鹿の繁殖の鳴き声。命のいとなみの声である。そう考えると「一筋の香り」という喩には、単なる美しさを超えた、あえかな生きものへの愛おしさまで感じられてくるのだ。

文書くは桜紅葉の甘さかな 河原珠美
 「桜紅葉の甘さ」も、心情をどんぴしゃりと表出した喩。「文書く」という営為は、おそらく日常からほんの少し非日常に足を踏み入れたところにある。そしてその「文書く」非日常はまた、ほんの少し華やいだ気分をもたらすものでもあるのだろう。そんな微妙な心情を繊細に掬いとった。「桜紅葉の甘さ」の品の良さ。

悲しいほど実のなるリンゴ 笹岡素子
 字足らずの句である。しかし字足らずの寡黙な表現が、この句の場合、くどくど饒舌に喋られるよりは、ぐさりと胸に刺さる。「リンゴ」が的確で動かない。華やかな真っ赤なリンゴが、(溢れる生命力で)たわわに実れば実るほど逆に、人間の置かれている孤独感が際立ち、心の底を吹き抜ける悲しさはいや増すのだ。「俳句は省略の文学」というけれど、それはあながち間違いではない。

蕎麦の花夕冷えは村の端へと 小池弘子
 繊細な感性。深まる秋の山里の、言いようのない静かさ、さびしさが、透明感をもって描かれている。白い蕎麦の花の視覚的感受。「夕冷え」という心象に傾いた皮膚感覚。純な手触りの染み透るイメージ。

十六豇豆じゅうろくや何でも良くて倚りかかる 篠田悦子
 この句の背景にあるのは「老い」だろうと、私は受け取った。『十六豇豆が支柱に倚りかかっている姿のように、「私」もまた、もはや倚りかかれるものなら何でも良くて、選り好みせずに倚りかかっております』。
 「老い」というものを表現するに(これは自戒を込めて言うのだが)とかくネガティブに書いてしまう。しかしこの句の場合は、老いや衰えをある意味肯定し面白がっているようにさえ見える。「倚りかかる」と言いながら、どうしてどうして逞しく、したたかである。
十六豇豆じゅうろく」が効果的。

すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
 人は、全てを明らけくする光輝く場所に、常にとどまって居られるものではないのかもしれない。明るさという、明快さや高揚から離れて、ときに少しの曖昧さ静かさ、ある種の後退を良しとしよう、と思うようだ。そしてそんな自分の気持ちに正直に、身の内のあかりをすこし落としてみる。心の内奥を見つめる目は鋭い。

知ってて待つ線香花火の展開 田中裕子
 線香花火の火花は、松葉になり柳になりやがてちりちり火の玉となって、ほとりと落ちる。その「展開」は皆知っている。知ってはいるがその展開を息をつめて待つ。じっと待つことこそが、線香花火の愉しみとさえ言えるのかもしれない。そんな様子をアイロニーを含んだもの言いで書いた。と同時に、この乾いた表現が、線香花火の移ろう様子に、私たち生きもののあり様を二重写しする。結末が分かっている生きものの展開だが、その一瞬一瞬にこそ意味があるのではないか、と。

葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
 中句「だったような」という言い回しが面白い。「だった」と断定的に言っておいて、「ような」と少々曖昧にオブラートにくるむ。その脱力感。さらに加えて、ずるずるっと続く韻律。それらによって現れた、いかにも現代の空気感の、けだるい雨の秋の一日、その気分。

ライオンの奇麗な舌に雪ばんば 前田恵
 生態系の頂点に立つ圧倒的な力のライオンと、誠に頼りなげな綿虫という、対照的な二つの生きものの出会いの一瞬が、とても美しい。「奇麗な」「舌」と言って、命を食らわなければ生きられないライオンの宿命を、優しく肯定する。一方小さな綿虫もまた、確かな命を輝かす。

◆金子兜太 私の一句

廃墟という空き地に出ればみな和らぐ 兜太

 「寒雷」「海程」と投句。その時、兜太先生より、太字にて「健吟をいのる」との励ましの文あり、感激。現在まで続けられた由縁かな。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。佐藤稚鬼

ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ 兜太

 掲句は、平成15年に開催された九州地区現代俳句大会に隣席された折りの金子先生の作品。昭和30年代中頃からの宮崎・日南が新婚旅行のメッカとしてブームを巻き起こし、若き日の上皇ご夫妻も新婚旅行でお泊まりになられたホテルも解体されてしまったが、そこに隣接する亜熱帯植物園にこの句碑が建っている。この青島の地に立つと、沖で鯨が吹く潮が自分にまで及ぶという。兜太先生らしいなんとも豪快な作品に、身も心も震える思いがしてならないのだ。句集『日常』(平成21年)より。疋田恵美子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
ファソラシは螢の軌跡恋だなぁ 狩野康子
蝋燭灯し亡友と詩で遊ぶ晩夏 川嶋安起夫
夏ツバメ父の机上は端正で 河原珠美
○前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
夏館静かな文字のような人 小松敦
見上げること信じ直すこと帰燕 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
交響曲六番蟷螂のごとコンダクター 佐藤稚鬼
寝て起きて食べて寝て生く樫落葉 篠田悦子
○父の日の正しき位置に父の椅子 白石司子
積乱雲に愛伐り出している静か 竹本仰
○ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
一粒の言の葉浅黄斑ひらり 樽谷寬子
蟇出でてスコップの先いててって 中井千鶴
端居から静かに外れ逝きにけり 中村晋
月若く月見るときは若くなる 長谷川阿以
皿に盛るパセリの森よ巣ごもりよ 長谷川順子
梅雨空は桃紅さんのエピローグ 三浦二三子
○母眠る眉間に繭をひとつ置き 望月士郎

竹本仰 選
○ふるさとは蚊帳に落ちたる青大将 上野昭子
空蟬を集めた指の匂い嗅ぐ 榎本祐子
不如帰あいたさ募る今朝の空 柏原喜久恵
○嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
母のうしろ追うて蛍火の斑ら 小西瞬夏
夏至の日の白き鯨を追いかける 三枝みずほ
原爆忌わたしの手鏡わたしがいない 清水茉紀
○父の日の正しき位置に父の椅子 白石司子
衰夏なり無観客てふおもてなし 白石修章
対岸は対岸を見て螢の夜 田中亜美
湧き起こる妬心もあろう雲の峰 中内亮玄
みんなでそよぐ平行感覚青もみじ 中野佑海
蟻の列死骸を担ぐ二匹かな 仲村トヨ子
夏草にポイ捨てマスクいかがわし 疋田恵美子
はんなりと諭されている水羊羹 三好つや子
村を出る虹の根っこを踏み外し 故・武藤鉦二
○母眠る眉間に繭をひとつ置き 望月士郎
つんつんと胸高くして更衣 森由美子
戰爭は負けたッちゅうばな大カボチャ 横山隆
ちちろむしあたしのためにだけ生きろ らふ亜沙弥

ナカムラ薫 選
片陰や潮引くような物忘れ 伊藤歩
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
きれいな言葉の浮輪溺れている 桂凜火
父呼べば枇杷色の明りが灯る 河原珠美
悩みにはまず肯いてところてん 故・木村リュウジ
○前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
惜別や葡萄の種を噛みこぼし 佐藤美紀江
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
どこの水滴かしたたっている教室 竹本仰
○ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
街の灯にことごとく濡れ夜のプール 月野ぽぽな
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
道過る蛇やわらかき断定なり 藤野武
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
まただれか自画像ぬりつぶして白夜 三世川浩司
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌

並木邑人 選
夫婦に季語があるならば梅雨きのこ 井上俊子
○ふるさとは蚊帳に落ちたる青大将 上野昭子
夫といて淋しいときは郭公になる 榎本愛子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
○嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
運命の人だと思うほど短夜 近藤亜沙美
飛べそうな気がする夜を緑夜という 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
決心はいつも厨で夏大根 佐藤詠子
水中花人さし指でノンと言ふ すずき穂波
人はみな回路図にある小春かな 田中信克
ひしゃげたパイン缶まだ友達だよね 遠山恵子
金亀虫手中最後の弾丸として 中内亮玄
ノンセクトラジカルの旗梅雨続く 仁田脇一石
じんじんと夕焼ふたりのようでひとり 丹生千賀
黒塗り開示蜥蜴の巣ある限り 平田恒子
家畜みたいにワクチン打って夏の星 藤野武
オオウバユリ酋長はもういない 前田恵
陸上部夏を音読する少年 宮崎斗士
湖にひらく掌篇オオミズアオ 望月士郎

◆三句鑑賞

蝋燭灯し亡友と詩で遊ぶ晩夏 川嶋安起夫
 字余りに、亡友への思いの強さ、悲しみの深さが窺える。蝋燭を灯して遺影の前に座り、思い出を語る作者の後ろ姿が目に浮かぶ。遺句集を手に、酒をちびちび飲みながら、連句のごとく付合をして遊んでいるのだろうか。亡友のいろんな表情や声が思い出される「遊び」を続けながら、晩夏の夜が更けてゆく。

寝て起きて食べて寝て生く樫落葉 篠田悦子
 緊急事態宣言の最中に、こういう毎日を送った人が多いのでは。通院日でない日の私は、まさにこの句のとおり。「何のために生きてるんだろう」と自問自答していたので、深く共感した。自殺者が増えるのも頷ける。だが、樫落葉が腐葉土となって役に立つように、自分もいつか役立つ日が来ると信じて、生きるしかない。

端居から静かに外れ逝きにけり 中村晋
 祖父が、三十一年間ほぼ寝たきりの末、九十八歳で亡くなり、八年が経った。内実を知らない人からは、「大往生だったね」と、よく言われたものだ。先日、その祖父の弟の妻(父の叔母)が九十九歳で亡くなった。九十六歳まで畑仕事をしていたのだが、老衰だったようだ。この句は終末の理想型。人の最期とは、かくありたい。
(鑑賞・清水恵子)

嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
 我々の悩みの大半は人間関係による。特にもし嫌われたらという強迫観念は無意識に血肉化している。社会はそんな各人の自縄自縛で成り立っているのだが、ふいに解き放れた時、茨木のり子が詩の一節で敗戦を語った「禁煙を破ったときのようにくらくら」するナマの自由が来る。自由の原点は、そんな所からしか見えないようだ。

衰夏なり無観客てふおもてなし 白石修章
 トウキョー五輪。たしかに「おもてなし」はあったのだ。それを感じられたかどうかは別として。空っぽのスタンドと実況アナの絶叫、この不思議な空気感。『徒然草』の中で祭りのあとの人去りし寂しさに美を見出した兼好法師の慧眼、それに匹敵するほどに「無観客」の「おもてなし」というこの着眼点は秀逸であるように思った。

戰爭は負けたッちゅうばな大カボチャ 横山隆
 昔、四コマ漫画の「サザエさん」に、「戦争」と聞き日露戦争と勘違いした老人が勇み立つ、そんな笑えない一コマがあった。戦争は数珠つなぎのようにやって来る。そしてこの句には出来そこないの大かぼちゃを叱り飛ばすような言っても仕方がない怒りとも笑いとも何ともやりきれない気持ちに敗戦への問いかけが直に出ている。
(鑑賞・竹本仰)

きれいな言葉の浮輪溺れている 桂凜火
 鬼平の「無口な船頭」は仕事柄無口でいられる。が、心の中で辛辣なお喋りをしている。作者は仕事を効率的に進めるため、人間関係を良好に保つため、怒り心頭な相手であれ心とは違う「きれいな言葉」で喋る。そして疲弊する。されば綺麗はこの場にてお縄を掛け、共に本当の自分の浮輪で一気に浮上しようではないか。

前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
 強い意志を持つ瞳がある。しかも「焦げている」。最高だ! 何故って向日葵の種もカラメルソースのほろ苦い甘みもゆっくり焦がしてこそ得られるのだから。表面は「ギリギリ」で切れて見えるが「ああ汝、吾をゆめゆめ二物衝撃と呼ぶことなかれ」なのだ。「前髪」という私から「向日葵」という私へシームレスに移行し二つのリアルは豊かに焦げてゆく。

夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
 この作品を単に「擬人法が成功している」と回収したら誠につまらなく、何より人間中心の視点で「生きもの」を捉えた傲慢な態度となる。作者は一瞬にして対象と同化したのだ。「測り終え」と尺蠖の営みの微かな息に私は無防備な小さな命へ思いを致し、再び遥かなる夜空に何をするともなく放たれてしまった。
(鑑賞・ナカムラ薫)

嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
 映画でも漫画でも、主人公より奔放に振舞っているのはいつも敵役、つまり嫌われ役。主役はストーリーを牽引しなければならないので、箍が嵌められてしまうのだ。水澄は自由の象徴として登場しているものと思うが、感情の水面を素知らぬ顔で泳ぎ切るバイキンマンのような存在でもあるのかもしれない。

人はみな回路図にある小春かな 田中信克
 田中もアイロニーたっぷりに人間を描いている。小春を堪能するささやかな幸福、それもこれも設計図に詳細に指示された回路図の小径をただ辿っているに過ぎないのだ。次に待っているのは日本沈没か、地球温暖化の果ての火星移住計画か? 一方では、AIを駆使して棋界を席捲する天才少年が居るのも事実なのだが―。

オオウバユリ酋長はもういない 前田恵
湖にひらく掌篇オオミズアオ 望月士郎
 この世のものとは思えない緑白色の長身の百合と青白色の大型の蛾。その名前があるだけで一句成立してしまう呪力を秘めている。前田句の「酋長」は、ユリから採れる澱粉が保存食として重要な役割を担ったアイヌ文化との関わりを示している。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

間引菜を洗う百十円の老眼鏡 有栖川蘭子
秋刀魚喰う組閣のテロップが邪魔 植朋子
指組まず指切りげんまん寒露かな 梅本真規子
ポケットの多いジャケット君にあげる 大池桜子
膝の上のキャパの戦場冬日さす かさいともこ
しゃりしゃりと炭が崩れる原爆忌 葛城広光
アレルギーは孫にあるらし秋刀魚焼く 木村寛伸
暮の秋一頭騸馬せんばになりました 日下若名
開運の本を頂く老人日 後藤雅文
白曼殊沙華さよならに似た言葉 小林育子
落し水棚田の芥押してきた 坂本勝子
紫陽花の色よく乾ぶ銀河かな 佐竹佐介
赤とんぼまるで昭和がとんでいる 重松俊一
月白く音叉の波動のやうに日々 宙のふう
祖父在るはも一つの故郷小鳥くる 立川真理
あすを裁く晩秋の風に恋もして 立川瑠璃
冬落暉むこうに昭和が揺れている 谷川かつゑ
母の手を子は払い行く良夜かな 野口佐稔
水連れて父母の井戸から月上る 服部紀子
ケーキ屋の呪文滑らか小鳥来る 福田博之
母の忌の読経の僧に日傘差す 藤井久代
秋の衣更えビバルディを独り分 松﨑あきら
まんじゅしゃげ一つの旗は燃えやすい 武藤幹
修験道巨石の上に木の実落つ 村上紀子
毎日が小さな被曝彼岸花 山本まさゆき
つつがなく首を載せては菊人形 吉田和恵
コンビニで犢鼻褌たふさぎを購ふ雨女 吉田貢(吉は土に口)
利根川と空までの距離尺取 わだようこ
コンポスト開けて無数のいのちかな 渡邉照香
抽斗に溜めし秋思のしろい骨 渡辺のり子

『海原』No.34(2021/12/1発行)

◆No.34 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
今朝の秋シャインマスカットの水光 石橋いろり
顔のないマネキン運ぶ敗戦忌 大沢輝一
八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
一人居の箸置替えて涼新た 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
白い少年どの旅立ちも素足 小西瞬夏
菊の酒下戸はそこそこ艶ばなし 小松よしはる
鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
鬼灯の如しフクシマにおす母 清水茉紀
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
不器用な二人だったな盂蘭盆会 白石修章
秋茄子捥ぐ刀自に夕星滴りし 関田誓炎
海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
とうすみの身体を抜けて風になる 高木水志
メールするためらい荻を見ている たけなか華那
秋祭古いお旅所飾られて 竪阿彌放心
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ひとり綾取り川の向こうをこぼれ萩 松本千花
黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
秋風の音になりきる駅ピアノ 三浦二三子
ちょれ北斎画樗檪となりてグレートウェーブ 深山未遊
言い訳を聞きおり天使魚眺めおり 村本なずな
秋黴雨逆流の川のよう日常 森鈴
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

藤野武●抄出

産声という名月のありにけり 伊藤道郎
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
玉葱一個今日一日を生き延びた 大髙宏允
美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
鳴き移りし木の淋しくて秋の蟬 北村美都子
頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
洗い髪記憶の端を踏む亡夫 黍野恵
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
鰯雲あふれ出て来るスピーカー こしのゆみこ
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
芋虫が蛹になってまた思う 小松敦
君の背の醒めゆくままに月光 近藤亜沙美
三日月や言葉仕舞えば帆となりて 佐藤詠子
鬼灯の如しフクシマにおす母 清水茉紀
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
首筋を鈍く打ちたる蝉時雨 中内亮玄
マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来たハワイ ナカムラ薫
朝日赤しトマトとトマト触れ合って 中村晋
一竿は野良着ばかりや天高し 西美惠子
蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
笑ってばかり流し素麺速すぎる 平山圭子
返し針のような八月の日記 北條貢司
桃剥けて背より抜けゆくちからかな 前田典子
がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
 八月は上旬に立秋を迎えるが、なお残暑きびしく、花火や盆踊りなどの行事もある一方、原爆忌や敗戦日など歴史的記念日も続く。作者は表立った言上げをしていないものの、「にんげんとして」とあえて平仮名表記することで、乾いたモノとしての人間像を浮かび上がらせる。それは、かつて戦争によって多くの非業の死者をもたらした悲劇の歴史を踏まえているからだ。死に近い人間は必ず水を求める。末期の水は、人間としての最後の欲求だ。「喉鳴らす」は、その限界状況を捉えている。

訃報あり金魚のひれは夜を知らず 木村リュウジ
 夜、訃報の電報が届いた。作者にとってかけがえのない大切な人の訃報に違いない。事のあまりに思いがけない知らせに、しばし茫然としている。傍らに金魚鉢か水槽があって、金魚がそんな夜の出来事も知らず、無心にひれを動かしている。劇的なシーンをモンタージュした静止画像で、悲しみの瞬間を捉えた一句。

鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
 「鉦二」とは、いうまでもなく今年の八月十九日に亡くなられた秋田の重鎮武藤鉦二氏のことである。中下は、故人の死出の旅路とみた。「駘蕩たり」は武藤氏のお人柄同様に、のどかな他界への旅を楽しんでおられることでしょう、というもの。それは、安らかなご冥福を祈る思いにつながる。武藤氏は人望の人だった。

原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
 広島原爆被害の惨状は、広島平和記念館や丸木俊子夫妻の絵画展等によって広く知られているが、その現実は目を覆うばかりで、如何に過酷なものであったかと思い知らされる。「原色を塗り重ねゆく」とは、生々しい現実をあるがままに描き出そうとする作者の句意によるものではないか。戦後七十六年の時の隔たりによって、決して風化させてはならないという思いを込めているのだ。

海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
 海ほおずきは江戸時代から始まった口に含んで鳴らす玩具だが、今では作者の母の世代までの名残りとなっていよう。「人魚座り」とは、しなだれるように両足を横になげだした座り方。女性のリラックスした時の座り方だ。母にとっては、幼き日に返った気分で、ふるさとの懐かしさや幼馴染の誰彼を思いだしながら、一人海ほおずきを鳴らしている。その母の一人きりのゆったりした沈黙の時間を、そっとしておきたい気分で詠んでいる。

風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
 仙人草は、雄しべの先に白いひげを長くのばしているところからその名があるという。風を曲がるとは、風の向きに添って曲がって行く、風の中を曲がるととった。そのときふと仙人草の白いひげが風に揺れて、なにやら久米の仙人が風を切って飛んでゆくような気配を感じたのかもしれない。そのあるかなきかの風音を立てたのは、仙人草だった。その音は、たしかどこかで聞いたような気がした。仙人草にその名通りの不思議さを感じている。

老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
 むらさきしきぶの花は、六月から八月にかけて淡い紫色の小花が葉の付け根ごとに群がり咲く。十月から十一月にかけては落葉して、やはり紫色の小さな丸い実がおびただしく実を結ぶ。源氏物語の作者紫式部になぞらえた名が付けられたのは、紫そのものとも見える気品のある色合いによるもの。老老介護は、家庭の事情により身近な高齢者同士で介護せざるを得ない状況で、夫婦や親子、兄弟間で行われることが多い。介護疲れで共倒れになることも大きな社会問題になりつつある。花に雨とは、哀しみを堪忍んでいる表情そのものなのだろう。

黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
 黒揚羽が地を這うような低さで飛んでいる。それは何かを伝えたいと思わせるような低さだという。作者自身のもどかしげな心情を投影したもので、黒揚羽の仕草に重ねて見ているのだ。何かを伝えたい、だがその心情はまだ言葉の形を成さない。もやもやとした深層意識として、澱のようによどんでいる状態なのだろう。そんな言葉を捜している作者の思いのようにも見られる。

カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
 カンカン帽は、大正時代に流行った男性用の麦藁帽だが、現在ではお洒落な女性のファッションの一つともなっている。この句の場合、別れを告げるのは、男女どちらとも取れる。まあ今は女性であってもおかしくない。「ひょいと浮かせて」には、ドライな別れの挨拶のニュアンスが滲む。この作者は最近めきめきと腕を上げてきているように思える。若々しい乾いた心情表現に巧みが
ある。

 一つお願いしたいこと。投句欄には年齢の記入欄があり、もちろん個人情報なので公にされることはないが、作品の生活感をうかがうには大事な情報源でもあるので、できるだけご記入願えると有難い。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
 船医が乗船する船とは、概ね外洋を航行する大型船。青い海と青い空を背景に、(おそらく真白い)夏帽を抱く船医。眩しくも鮮明な映像。「抱く」が船医の人となりを想像せしめる。大きな波のうねりのような眩い時間。そして青春性。

夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
 ちぎれ雲というのは、(積雲などの)高層の雲の下層を、ちぎれ飛ぶように流れる雲のことを言うらしい。そのちぎれ雲が空一面に流れゆく。それを見ている作者は、ふっと「夏」そのもの(あるいは「夏」というものに抱いている作者の「思い」そのもの)も、ちぎれてゆくように感じたのだ。日本の、広島の、特別な夏。

てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
 「私」の寸法を、「てのひら」「肩幅」と具体的に述べて、「秋草」の可憐さが際立つ。だが一方で、「私の寸法」とは、必ずしも物理的な寸法のことのみを言っているのではないだろう。私という「存在」の寸法。そう受け取ると、秋草に向いていた視線は、翻って秋草のような「私」というふうに逆転する。等身大の「私」。

頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
 秋は、突然やってくる。昨日までさんざめいていた夏も突然、醒めた顔をした秋になっている。ああ秋だと得心すると、ここにいるのは、ちょっと澄ました秋の金魚。軽やかな日常。秋に背を押された作者の心の一歩も。

遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
 二物配合の妙。一瞬輝いては消えてゆく「遠花火」と、「デジャビュのごとくハグ」をされたときに生まれた、時をまさぐるような「違和感」とが配合され、日常の狭間に、新鮮な異なる世界が顔を覗かせる。

口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
 舌は、あらためて言うまでもなく、喋り、味わい、飲み込むといった、人間にとってきわめて重要な役割を持つ器官。だがそんな舌も、時に何となくしっくりこず、少々持て余しぎみになることもあるのだ(心と肉体の落差?あるいは心と言葉の落差?)。それを「だぶつく」と表現した。桃の重みや甘い香りが、その落差をさらに増幅する。

過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
 「肉色」という措辞が心に刺さる。人も疎らでさびれた村に、取り残され、取り捨てられたように在ると、鬱々とした気持ちは、ときにふつふつと沸き立つのだ。冷たいはずの月の光は、この沸き立つ心が投影され、「ただ肉色に」に見える。肌色ではない「肉色」に。

スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
 スケートボードの競技をテレビで視て、宙を飛び手すりを滑る姿が、まさにこの「ガリガリと炎天へ」という表現にぴったりだと思う。そしてこの「ガリガリ」感は、既成の概念や秩序に挑戦し、ガリガリと大いなる壁に挑んでいる、若者の思いのようにも見えて来るのだ。「影」がいかにも現代の若者の情況を象徴していて、鋭い。

マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来た ナカムラ薫
 「隣の蔦が伸びて来た」というフレーズは、実景に由来するのかもしれないが同時に、作者の心の「喩」でもあると思う。マンモグラフィの検診を受けているときに感じる、(そっと侵入しはびこって来る蔦のような)なにか制御しにくいものに対する、不安感。

蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
 話し相手がだらだら喋りっぱなしで、相槌を打つ暇がないのか、相手の話の内容が相槌を打ち肯定する内容ではないのか、いずれにしても半分呆れ半分諦めながら、「蟬しぐれ」の時間は過ぎてゆく。こうしてずっと、どうということなく日常は過ぎてゆくのか。だが一方で、「これでいいのだ」とも思う。軽妙にして洒脱な句。

返し針のような八月の日記 北條貢司
 「返し針」とは、裁縫で一針ごとにあとへ返して縫う縫い方。つまり行ったり来たりを繰り返しながら前へ進んでゆく。それだけ丈夫にしっかりと縫うことが出来ると言う。「八月」の日記(思い)はそんなふうに行きつ戻りつ。

がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美
 「がまずみの実」を指差すという何気ない行為によって、家族ではない人たちが、まるで家族のような感じになった。温かい「家族めく」心の動きが生まれた、と言う。一人一人がばらばらに(たとえ家族でも)孤立させられてしまっている現代においては、ひと時でも、また仮のものであっても、家族のように心を通わせ合うことが、得難いことなのだろう。寄り集まって実る赤い「がまずみの実」が、ぽっと灯った家族のようで愛おしい。

◆金子兜太 私の一句

レモン握る掌時には開き確信得る 兜太

 変動する世界にあって、変転する社会との関係、その度に掌を開いて問われ
たのであろう。啄木の見る嘆く手の平ではなく、後悔の無い清爽なものを捕ら
えたことに間違いは無かったと確信する掌である。この句を知った時、私はこ
のレモンのようなものを握ることが出来るだろうかと羨望した。先生が詠まれ
た御歳の倍を過ぎた今、未だ「確信」を得るものは不明。句集『少年』(昭和
30年)より。柳ヒ文

縄とびの純潔のぬかを組織すべし 兜太

 無邪気に縄跳びに興じている子供たち、その純朴な子らに「子供たちよ平和を希求する大人になって欲しい」と言う、これは作者自身への願求でもあろう。『暗緑地誌』収載句には「校庭が飛んでくしんしんと怒れば」がある。怒りが沸点に達した時、周りは静かにそして風景は歪み校庭も飛んでゆく。戦争への怒りと憎しみを金子先生は後記で述べている。両句には通底するものがあろう。そして金子先生の晩年の平和運動へと続く。句集『少年』(昭和30年)より。輿儀つとむ

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
睡蓮や正しく開く初版本 江良修
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
青大将の青があまりに過呼吸で 大西健司
地獄の黙示録蝦蟇の眼玉浮く 川崎千鶴子
円周率3より後は熱帯魚 木村リュウジ
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
火葬場や光が砂になる晩夏 佐藤詠子
叱られた日の次の日の蓮の花 高木水志
茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
第三の眼はひたい鑑真忌 梨本洋子
ネモフィラは風を鏡と思うかな 平田薫
逆縁の母を抱きし祖母立夏 藤田敦子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
葉桜の影を測れば父佇てり 水野真由美
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
梅雨晴れや亡母が遊びにぴょんと来る 森武晴美
若葉なす山は語り部三河弁 山田哲夫

竹本仰 選
不意にでる涙が怖い夏帽子 伊藤歩
神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
蝶つかめばロマンポルノ見たような 井上俊子
六月や心の一部屋空けておく 宇田蓋男
うつろうや百足愛しき封鎖都市 大西健司
草引くや草の神経ぞっとでる 尾形ゆきお
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
揚羽蝶あなたに借りた夢がある 竹田昭江
夥しき味蕾わたしに蛇苺 鳥山由貴子
春や春じつに大きなおっぱい来 ナカムラ薫
うつつとは如何なる咎か蟬丸忌 並木邑人
コロナ禍や虹はLINEをはみ出して 根本菜穂子
胞衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
こんなにも五月の緑出棺す 藤田敦子
卯の花腐しシンバル早めに振りかぶる 堀真知子
もてあます黄泉の万緑奈良夫無し 松本勇二
腹へるよ噴水むやみにたかくさみしく 三世川浩司
なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士

ナカムラ薫 選
人通るたびにしんぷる柚子の花 伊藤淳子
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
生きることけものくさくて夏マスク こしのゆみこ
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
ひまわりは満開全力で君に刺され 中内亮玄
卯の花腐し息継ぎ長き離職の子 中村晋
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
母逝きて二年夏蝶と友達 松本勇二
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
老人が点滅している緑の夜 三好つや子
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
母親を脱いで涼しきもの啜る 柳生正名
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

並木邑人 選
宇宙儀ってどんな色だろう干瓢剥く 綾田節子
月光の刺さった手斧と眠る岳父 有村王志
幻月や蝦夷のサンショウウオ浮かぶ 石川青狼
接尾語か小さく翔ちて梅雨の蝶 市原光子
春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇 桂凜火
脳は唐草記憶はぷにぷに春愁い 黍野恵
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
「人流」どこかプラスチック臭い 今野修三
老鶯や繕いて繕いて今 佐藤千枝子
通潤橋田植えてお神札ふだ二三言ふたみこと 下城正臣
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
托卵のごと女子水球のパスワーク 董振華
家蠅の清々しさを持つ夕日 豊原清明
国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
身体の中の綾取り待ち時間 北條貢司
ポンポンダリア昼を出られぬ数え歌 三好つや子
ダダイストです生脚の春の夜 若森京子

◆三句鑑賞

連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
 女性同士で連れ立ってトイレに行くことはあるが、「連れション」には、男性同士ならではの近しさがある。「聖五月」との取り合わせが、面白いことこの上ない。兜太先生が、親しみの持てる、あのようなお人柄だったがゆえに、こういう句が生まれるのだ。心がほっこりして、嬉しくなった。皆の隣には、今も、先生が居る。

睡蓮や正しく開く初版本 江良修
 貴重な初版本への敬意が感じられる。睡蓮が正しく開くのに呼応して、初版本も正しく開かれるのを待っているのだ。長らく古書店に眠っていた本に、目覚めの時が訪れた。静寂の中、耳を澄ますと、睡蓮の開く音、作者が正しくそっとページを開く音が聞こえてくる。

茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
 野菜の花は、意外と美しい。茄子の花も、紫色の素朴で可憐な花。俯いて咲く。若き日の恋人は、素朴で可愛らしく控え目で、意外性もあったのだろう。畑仕事を一緒にしたのかもしれない。「若き日の恋」を引きずっている私からすると、「もう神話」とまで昇華して考えられる作者が羨ましい。
(鑑賞・清水恵子)

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
 おかしな話になるが、昔犯罪関係の本で、誘拐犯が子供を誘う時に一番効くのは、昆虫の生死にかかわるものだと読んだことがある。「○○の産まれる所、見たくない?」とか。それでいくとこの句にはこの種の誘いが隠されているように感じた。この世の一番の秘密がすぐそこにある。そんな逆説こそ真実経験してきたものだ。

夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
 感動というもの。実は保存ができない。ほんの一瞬である。フィルムであろうがディスクであろうが、百%は残せない。とりあえず、もう一度とページ端を折る。だが、作者はそんなことはよく知っている。だから、折るという行為に、もう戻れないものだからというメッセージがひそかにこめられているように思えるのだ。

なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士
 なめくじに哲学?生きた人間それぞれに哲学はあるのだろうから、まだ人間のよりはいいものかも。だが接近の仕方が難しい。塩を振るくらい?では消えてしまう。悲しき接近である。そして我々はこういう接近の例を山ほど知っている。例えば原発。そして塩を振りつつこの関係は何なのだろうかと問う、そんな余韻が味わえる。
(鑑賞・竹本仰)

双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
 ワーグナー〈タンホイザー〉序曲が流れる。「双極」というメロディは、アポロ的分別からもはや秩序など立ち入ることを拒否したディオニソス的嶺へゆっくり確実に昇る。どこにも属さぬ快楽は、どこにも属せぬ混沌。その混沌が響き合う時、例えようもない美の世界が生まれる。咲ききることを選んだ芍薬の耽溺の刹那は、その刹那は狂おしく美しい。

わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
 しばらく幻想に浸りたい作品だ。「わが胸へ飛ぶ夏かもめ」が格別にカッコいいからだ。ただのカッコ良さに囲い込まれないのは、「引き潮や」と現実を差し出して上五中七を語り損なうという装いで語っているからである。夏の日差しは命と魂の臨界点を浄化する。夏かもめが咥えて来た昇る太陽の光は明日へのわが胸へと導く。

誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
 体温を持つ明快なフレーズからヒトへの愛おしさ切なさが溢れる。WHOは「人類はこの惑星の個体」と定義する。進化するcovid-19と共存し始めた個体は丸裸で目を瞑り髪を洗う。作者が風呂場から発信したSOSは「髪洗う」の本意に与することなく愉快痛快。マッパにこそ新・真がもたらされるのだ。
(鑑賞・ナカムラ薫)

春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
 なくとも解釈に支障はない強調の「をば」を敢て挿入したところに、宇田の農事への意地と執着を感じる。中下句もあっぱれ。トリセツには書いてない土への限りない愛情が溢れている。同様に綾田、有村、大沢、下城たちの作品にも、農林業と人間の生き様が密接に息づいていることを物語る。

アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
 皮肉たっぷりの導入部は、黒沢清監督の映画の題名。そのエッセンスを575に組み替えたものだ。私も創作に行き詰まった折に、俳句以外のジャンルから素材を拝借することがある。旧来のメソッドに固執するか、進んで越境して行くのかは、俳句観の根幹に関わるものであり、その当否は各人の判断によるべきものであろう。

国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
 江戸末期の歌川国芳は、現代でも行列ができる人気の浮世絵師。天保の改革の風俗取締りに反発した町民同様、コロナ禍に鬱屈した精神を解放するには格好のアイテムでもある。武者絵や妖怪図、裸の人間を組み合わせた顔や猫の擬人画が著名だが、金魚が煙草をふかしたり、纏を振るう図もなかなか太々しい。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

紫蘇摘んであしたの天を新しく 有栖川蘭子
叩く蚊にわが血の証し老人ホーム 伊藤優子
歌読めば声裏返る秋ひとり 梅本真規子
簾揺れてわたし振り向いて永 遠遠藤路子
テンションが高いと言われる秋思かな 大池桜子
揮発する言葉八月十五日 大渕久幸
花の枝骨折ごとに舟に落ち 葛城広光
鈴虫や姿見一つ形見なり 神谷邦男
朝月夜カフカのプラハうら思ふ 川森基次
嘘よりも深くなりけり居待月 木村寛伸
ジェラシーは母の愛から燕の子 後藤雅文
秋の田刈る稗田阿礼と人のいう 齊藤邦彦
万有引力あり盛土の霙るるあり 佐久間晟
風天忌今夜あたりは人が降るかも 重松俊一
野分くるぽっかり空地の胸の中 宙のふう
猫の待つ月夜の家へ帰りけり髙橋橙子
神々に異端の交じる鉦叩き 田口浩
メリーウィドーそれとも薄羽蜉蝣 立川真理
現し世の桃啜る時生きている 立川瑠璃
律と母にもっと光を獺祭忌 野口佐稔
不服従彗星の尾として光らん 服部紀子
夕ひぐらしな鳴きそ鳴きそ退院す 原美智子
霧深く君にさらはれて堕落 平井利恵
積乱雲精一杯の「バカヤロー」 深沢格子
木漏れ日は八月に思い当たる感情 福岡日向子
頻尿のしだる日常白日傘 藤好良
健忘症の達人超人枯蟷螂 松﨑あきら
集落の今に限界彼岸花 村上紀子
白鳥や重きロシアのパンに慣れ 路志田美子
四畳半サルトリニーチェ迷い蜂 渡辺のり子

にこっと秋 大沢輝一

『海原』No.35(2022/1/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

にこっと秋 大沢輝一

蔵の壁とんぼが寄って旗つくる
川端のひとなつっこい赤蜻蛉
原子炉の構造的な曼珠沙華
蕎麦の花残り湖底で咲いている

雨続く秋の日つらっと感電す
青北風や乗り放題の切符買う
婆さまをじっくり吸って赤蜻蛉
蜻蛉邨途中下車する駅がある
秋の路地匂いにひだり右があり
にこっと秋充電終えた赤ん坊

『海原』No.33(2021/11/1発行)

◆No.33 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
花氷含み笑いをYESという 綾田節子
手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
木洩れ日にひとり影踏み自粛の子 伊藤巌
枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
今更のハザードマップ水中花 河西志帆
竹節虫のつかむ熊野の木下闇 黍野恵
紀音夫忌や鞄の本が濡れている 木村リュウジ
逃水は原発ママチャリが過る 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過ぎる梅雨の蝶 黒済泰子
夏館静かな文字のような人 小松敦
やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
さみだるる唄いつくした子守唄 鱸久子
うりずんや過去はかけらにシーグラス 芹沢愛子
蚕豆の莢のふわふわ家族って何 高木水志
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
みんみんのこだまも埋む土石流 董振華
田の神の化粧直しや半夏生 永田タヱ子
冬ざれのベンチの老人ストレッチ 野口思づゑ
ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
訪ね来し児に校長が新茶汲む 前田典子
金雀枝と次男傾き易きかな 松本勇二
大夕焼野生馬ただいま勃起中 マブソン青眼
壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
ほたるぶくろ黙読のふと独り言 望月士郎
紋白蝶止まっていいよ信じていいよ 森由美子

茂里美絵●抄出
みみずの伸縮さよならを急ぐ 泉陽太郎
頬杖の行方決まらずさくらんぼ 伊藤雅彦
夫といて淋しいときは郭公になる榎本愛子
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
空き缶がひらき直っている酷暑 大西宣子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
崖のぞく刹那や夜濯ぎの渦 川田由美子
悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
昼すぎのアールグレイとさびたの花 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
遠野へと言ってきかない白桔梗 小西瞬夏
影踏んで来て夕暮れの花氷 三枝みずほ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
柔らかな虹の向こうのシーソーよ 高木水志
風と来て風に置き去り青葉木菟 竹田昭江
ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
たくらみの匂って来るよ栗の花 東海林光代
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
噴水やここは泣いてもいい所 仲村トヨ子
あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
アジサイは考えぬいて海の青 服部修一
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
夢のままよこしまなまま顔洗う 森田高司
晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

花氷含み笑いをYESという 綾田節子
 「花氷」は、夏の涼をとるために美しい草花や金魚などを閉じ込めた氷柱。この句の花氷は、一句自体の象徴的題材であるが、具体的な思い人の立ち姿のようにも見える。花氷の次第に溶けていくにつれ、少しずつ歪んでくる様は、含み笑いのようでもある。それはまさに、告白へのYESの回答のよう。そう思いたい。

手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
 昭和の戦争の時代、出征する人々は、皆家族手製の心を込めた衣類を身につけて戦地へ赴いた。今に残る遺品の数々は、手編み物ばかりで、あの時代の家族の絆をあらためて思い知らされる。昭和の日に当たり、作者の世代なればこその痛切な反応といえようか。

枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
 東日本大震災から十年を経て、放射能汚染の地にも移植葱が植えられるようになったのだが、やはり食用に供するには、土地の除染や枯草を敷いての養生は欠かせない。梅雨籠りの季節にも、その準備は怠れないのだ。かつて物生り豊かな地であった福島の、今なお過酷な現実をひそやかに詠んだ一句。

苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
 苔むした庭園に、久しぶりにたっぷりと雨が降り、苔の花がにわかに息づいた。だがそのたたずまいには、すこしばかり鬱っぽい気配が漂う。それは満ちたるがゆえの、故しれぬ不安かかなしみか。その鬱がどこから来るものかもわからない。どこか不条理ともみられるような不安につながるものかも知れない。それは苔の花の質感を言い当ててもいるのだ。

草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
 暑い盛りの草刈は、大変な辛抱の要る作業だが、最近は電動式の草刈機で随分楽になっている。その作業をしなければならない人にとっては、草刈機のうなり声が読経のように有難い物音に聞こえているに違いない。「享く心地」にその実感がうかがえる。これは農作業をした人ならではのものかも知れない。

ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
 この句は、今年亡くなった会津の田中雅秀さんへの悼句だろう。彼女が亡くなってから、各地の句会で多くの追悼句が寄せられたのは記憶に新しい。それだけ彼女の人気は全国的なもので、多くの人々に爽やかな印象を残したのだ。この句は、蛍狩の夜、雅秀のまぼろしのような蛍を追ってゆくと、闇の中に彼女の明るい笑みの面影が、ぽっと浮かんできたという。それは作者の体感そのものだったに違いない。「ぽっと笑む」に、温かい灯を灯すような雅秀の出現ぶりが見えて来る。

梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
 梔子は、大きく純白の六弁花で、ジャスミンのような芳香を放つ。実は熟しても裂けないところから、「くちなし」の名があるという。二〇〇三年に俳優の渡哲也が、同名の曲を歌って彼の生涯最大のヒット歌謡となった。渡の歌(水木かおる作詞)の一節に「くちなしの花の/花のかおりが/旅路のはてまでついてくる」とある。
 掲句の「昼を大きくして咲」くとは、梔子の花の存在感が、真昼の時空にゆるぎなく立ち上がっていることを意味していよう。もちろん渡の唄とは比較にならぬ乾いた存在感だ。

驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
 おそらく吟行の途次に、驟雨に見舞われ、近くのお屋敷に駆け込んだのだろう。時ならぬ大勢の客にもかかわらず、そのお屋敷では温かく迎え入れてくれて、茶菓のもてなしに加え、句会までやらせてくれたのかも知れない。玄関先には、靴の大群が並ぶ。やがて驟雨は去ったが、句会はまだ続いていて、靴の群れは、避難のため寄港した多くの漁船のように、腰を据えて居並んでいる。「寄港のごとく」の直喩が、その時の臨場感をよく捉えている。とまあ、見てきたように想像したのである。

壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
 廃校の校舎や古民家の壁に、青蔦が這っているのだろう。年代ものの建物の故に、その壁もいつまでもつのか、いつ途中で取り壊されるのかはわからない。壁に残された時間は、青蔦の残り時間でもある。掲句はそこに、おのれの境涯感を重ねている。
 この句を読んだとき、虚子の次男で、音楽教育家にして俳人の次の句を思い出した。
 蔦茂り壁の時計の恐ろしや 池内友次郎
 武藤句は、まったくこの句とは関係なく作られたものと思うが、池内句と期せずして同じようなモチーフで書かれているのに驚いた。人間の死生観には、古来共通のものがあるからだ。
 それは『徒然草』一五五段の次の一節にも通ずる。「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。」

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
 生きていく上で、悩みから逃れることが出来ないのが人間。それも真面目な人程その感が強い。作者もそのひとり。この句はとても前向きで明るい涼感がただよう。
 心を悩ませる事柄に対し、まず肯定してひたむきに向き合う姿勢。「ところてん」の、少しとぼけた季語に何故か読者はほっとする。作者はさまざまな悩みを、これからも克服していくに違いない。

聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
 まず、「ゆわーん」のオノマトペの効果。中原中也の詩「サーカス」の中に〈ゆあーんゆよーん〉があるがそれに匹敵する素晴らしさ。聴力の曖昧さを調べるこの検査は誠にうっとうしい。その感覚を、ゆわーんと。そして湿り気のある「梅雨の蝶」も言われてみれば、確かに「ゆわーん」とした存在。

怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
 人はさまざまな感情に翻弄されて生きている。そして負の想いの中でも怒りには暗い影がつきまとう。しかしこの作者は「怒りとは光りなり」と断言しているが、それなりの理由があるはず。怒りの概念として「個」であるとは限らない。たとえば、海を見ていて波のうねりの美しい光が、突如悪魔に変貌することへの連想。
 私情を超越したところに怒りの想念が湧き上がる。夏燕の鋭い、しかし飛翔の純粋なひかりが、この作者の心情を象徴しているのかもしれない。

天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
 すっきりと、しかも堂々とした言い切りがいい。諧謔性があり、ドラマチックな童話のようにも。雲が「天才」は分かる。そして思いがけない行動や言葉を発する老人も天才と。きっと食卓に並べられた夏野菜に向けて語りかける「老人」の言葉がとても愉快だったのかも。

眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
 大げさに言えば、詩歌は不条理を承知の上で成立している部分もある。この句の場合、理屈を考えず強いて説明をせず、素直に共感すればいい。すると静謐で、すこし弱くなった光の混沌や、晩夏の風景が見えてくるのではあるまいか。自然の中に佇む作者の、すこし哀しげなシルエットも。

あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
 遠近法の成功した作品。「風の祭」なら風の中の行事としての祭だが「り」があるため祭の動詞化、つまり初秋の風の動きとも思える。橋の向こうの芒やコスモスが光りながらそよぐ。それを「風の祭り」と見立てたところが鋭い。加えて時の移ろいの淋しさも。

短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
 暗くなりがちな現在の巣ごもり生活を、明るく表現したところがいい。多分リモートで仕事をする女性。さまざまな電機器具のコードが、部屋を占拠している。〈もうすこしオシャレに置こうかな〉との呟きも聞こえてきそうで、思わず頬がゆるむ。

思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
 軽いようで重い句。誰しも順風満帆な生活を送っているとは限らない。いや、そんな生活は現在では稀有にひとしい。自宅で仕事をする機会も増えた。必要な書類の置き場も不足しがち。ついイライラして自分を罵りたくなる。〈分かってはいるんだけど〉と。しかし、かなぶんぶんの出現で、この小煩い昆虫の声に吹き出している自分。〈コイツも文句言ってる〉と。読者もほっとする。

晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
 いろいろに想像ができて面白い。「朽ちたフレーズ」とは、いま世間を騒がせている有名人(多分政治家?)の空疎なことば。厳粛語の対極にあるのが朽ち果てたフレーズ。その語句(フレーズ)に群がるマスコミという魔物に「晒されて」ますます混迷が広がる。半ばやけくそになる国民。あぁもう夏も終わりか、とつぶやく。

月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
 幻想的な作品で、思わず立ち止まる。月球儀。永久に滅びない薄白い荒廃を想像する。そしてのうぜんかずらの、太陽の光のような色彩の花を司る蔓の存在。まるで生き物のように少しずつ伸びる。突如として現れた花への驚きと共に、そのゆくえには月を照らす惑星群の微光がうっすらと流れているのかも。

川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美
 陶芸家の創作の過程を、テレビ番組で見たことがある。まずいい陶土を見つけることから始まる。陶芸家にしか分からない劇的な存在を川の底に認めた時のときめきは読者にも伝わってくる。丁度七夕の頃の澄んだ水底を想像すると「鎮まり」と「星祭」が響き合い、呼応し合っているようにも思えてくる。俳句は不思議な文芸。こんなに短い言葉の中に無限を感じたりもする。

◆金子兜太 私の一句

殉教の島薄明に錆びゆく斧 兜太

 掲句は、「海程」創刊以前に、「小田原桜まつり俳句大会」の講師として来られたときの特撰として戴いた句である。あれから六十年以上の歳月が過ぎたが、その短冊は家宝として飾られており、日々不肖な弟子を鞭打つのである。掲句は、言うまでもなく長崎時代の句であり、キリスト教の弾圧によって死んでいった信徒と、トラック島で飢え死にした部下への鎮魂の想いが込められているのだろう。『金子兜太句集』(昭和36年)より。木村和彦

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな 兜太

 金子兜太先生、皆子様の眠っておられる総持寺の境内にある句です。墓所までの細い登り坂の途中、沙羅(夏椿)の木陰に、二メートルはあろうかと思われる大きな自然石に先生のどっしりとした文字で彫られています。先生の最初の句碑であり、句は皆子様が推されたとか、お二人の思いのこもった句碑であると思います。いつか先生の墓所をお訪ねしたいと願っています。句集『狡童』(未完句集・昭和50年)より。金並れい子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
花は葉に日紡ぐ手編みの遺品かな 有村王志
夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
深爪の夕べぼうたんゆらめきぬ 狩野康子
水中花お尻が貧弱で困る 河西志帆
水を抱く少女玉繭冷えゆけり 小西瞬夏
ソプラノに光る薄暑の空き地かな 小松敦
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
てんと虫君の点せし言の葉よ 中條啓子
花は葉に恋の綻び縫いますよ 中村道子
父さんは母さんが好き柿若葉 服部修一
風でした樹でした遠くまではつ夏 藤原美恵子
身罷るを身籠ると読み夕朧 船越みよ
鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
心音ぽぽぽぽ老猫に眠き春 村本なずな

竹本仰 選
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
テッペンカケタカ他愛ない話しよう 柏原喜久恵
追慕かな娘へ一吹きのシャボン玉 小林まさる
雨匂うよく似た人のワンピース 小松敦
家族という青い落書き新樹光 佐孝石画
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
臍の緒のゆるり絡まる桜かな 高木水志
コロナ禍を真直に立ちて夜の新樹 竪阿彌放心
フィボナッチ数列として秋茜 田中信克
更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
春の雪ときにあやまちの疾走 ナカムラ薫
みどりの耳ひしめくばかり晩霞かな 野﨑憲子
土人形の危うき重心梅雨晴間 藤野武
わたくしのいびつ眺める夏の滝 藤原美恵子
銀河の尾まがりくねって港かな マブソン青眼
夕べに蝶わが過ちのように過る 望月士郎
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

ナカムラ薫 選
樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春の園児母の手縫いの翼です 大沢輝一
白藤や家系図という不燃物 奥山和子
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
ふろしきに不要不急の水を詰め 河西志帆
サイダーの思い続けている世界 小松敦
懐しい紙片を拾うごと緑雨 佐孝石画
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
春の渚へ蹠はひらききる感情 野﨑憲子
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
しゃべるだけしゃべって帰るねぎ坊主 藤田敦子
また水の景色に座り桐の花 水野真由美
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

並木邑人 選
鳧の擬傷は見ていないことにする 稲葉千尋
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
黄砂降るコロナに混る機関銃 大西宣子
断層ですかえごの花降る街明かり 川田由美子
遊女の声洛中洛外図の垂桜しだれ 黒岡洋子
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
連翹に撃たれイマジン唄う姉 鈴木千鶴子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
春陰の子午線という古本屋 竹田昭江
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
五月雨を降ろし足早のプリウス 服部修一
B案は防疫体勢かひやぐら 松本千花
梅雨えやみ家々偽卵抱くごとし 松本勇二
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
桜餅つねる戦艦大和の忌 柳生正名
大工道具なくし蛇として生きる 山下一夫
火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
海面のような長髪雨期始まる 輿儀つとむ

◆三句鑑賞

夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
 回覧板が、プリント一枚ということが、時折ある。コロナ渦の現在、祭りや会合の中止を知らせるものばかりだが。その、ヒラヒラとした「一枚だけの回覧板」を見て、今年も寂しい夏になりそうだと感じたのだろう。「来年こそは、夏祭りができますように」という作者の願いも込められているのではないだろうか。

ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
 「もし…ならば」と机上で悩んでいるうちに、いつしか夏の兆しが…。こういう人は、世の中にたくさんいるだろう。だが、「ifばかり零れて」という、しゃれたことは、なかなか言えるものではない。英語が、これほど見事に、ピタッとはまった俳句は、珍しいのではないだろうか。作者の詩的センスに脱帽。

鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
 鱗粉のついた少女が、繊細な指を、蝶のようにヒラヒラと振っているのだろう。「少女も蝶」のようにしがちだが、「少女の指も蝶」と「指」にクローズアップしたことで、少女の瑞々しさが、より際立った。願わくは、この少女に、蝶のごとく未来へと羽ばたいていってほしいものだ。
(鑑賞・清水恵子)

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 詩「くらげの唄」で金子光晴はくらげの弱々しい存在の中にもその生活臭を「毛の禿びた歯刷子が一本」と表していた。この句にも歯ブラシ特有の本人にしかわからない生活感情が鋭く出てくる。もはやそこに何があったかどうかも定かならぬ更地だからこそ、歯ブラシ一本に大切な暮らしがあったことを語らせているのだ。

更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
 『不思議の国のアリス』の、あのアリスが成長してふと我が姿に立ち止まった時、こんな句になるのではと思った。少女でも大人でもないあのとりとめもない境地を衣更えの瞬間に見出して、「風でいる」と確かに言い切ったところにこの句の醍醐味があると思った。と、そういう物語的鑑賞に誘う魅力のある句である。

男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
 男が「男運」を云々することはまずないのだが、それがとある酒場での女同士のうちとけた呟きの中にふと聞こえ、聞き耳を立てた、そんな句かと想像した。「男運」というリアルな語感の世界から、男女という社会のある意味深い背景が見える仕組みになって面白い。そして仕上げはモズクのぬるっとしたオチ。取り合せの妙である。
(鑑賞・竹本仰)

樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
 言葉と音の戯れがとてもイカしている。「き」イ音の冷ややかさと「ま」ア音の晴れやかさの連打は、濃緑の雨粒、湿った大地、樹を照りつける白い日差しに命を吹き込む。樹の真下に何があるのだろう、と思ったら樹下で何度もこの詩を呟いてみることだ。「解かない謎解き」を、その異界をただ全身で享受したい。

血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
 木下闇の匂いに懐かしさと興奮を覚えるのは、そうか、あれは血の味だから。「うっすらとして」の後、小さな息継ぎがあり、そして木下闇に着地させられる。そこにはきっと、すとんとしたワンピースを着た清楚な女性が佇んでいるに違いない。「血の味」を得た作者の静かな感動が伝わる。

また水の景色に座り桐の花 水野真由美
 「水の景色」が桐の花そのものを感じさせてくれる。大いなる水は、自分を自分たらしめる過去を引いてくる。自分を果てしなく遡行させる水に座れば、その流れは清く穏やかで、日常の憂さを、誠につまらないものへと変え、ついにはその傷跡さえ覆い尽くして広がる。そんな清麗な水を纏う桐の花に今日もまた会いにいく。
(鑑賞・ナカムラ薫)

ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
 今月もコロナ禍の俳句が山盛りだったが、ワクチンを巡る騒動が今なお続いている。「まるで蚕室」が言い得て妙。その場を経験した人の正直な感懐で、待つ人の気持ちの有りようや不満の声、噎せ返る汗や薬品臭、終わった後の小さな安堵感などがスクランブルエッグのように凝縮している。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 生き抜くことが常に駆け引きの時代にあって、この純粋な繊細さには舌を巻いた。この句の裏返しのような句だが、蕉門十哲の一人内藤丈草に「春雨や抜け出たままの夜着の穴」がある。重苦しい搔巻が人間の形態をそのまま留めているというユーモアのある句だが、どちらも春雨の句の絶品として残るべき作品であろう。

火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
 山本が何をイメージして火蛇と表象したのか不明だが、イザナミの産んだカグツチ、亡骸を奪う妖怪火車の類であろうと推察。直ぐ連想したのは現在のアフガニスタンやミャンマー、そして香港の清純な少女たち。彼女たちが遭遇している艱難辛苦を思うと、困窮もなく俳句に遊んでいる自分が申し訳ない気持ちになる。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

母を叩く夕立や腹に穿刺針 飯塚真弓
逝きし揚羽焼く母その匂い忘れず 伊藤優子
大好きな百合がぎゅうぎゅう柩窓 植朋子
辻褄は合わなくていい夏の母 梅本真規子
俯瞰して自分みている守宮のように 遠藤路子
今日は話せたガーベラを抱いてゆく 大池桜子
咬み傷のいつまで夏は惜しげなく 川森基次
形よく西瓜も赤ん坊も転がっているよ 日下若名
頷けば楽になれるか虎落笛 近藤真由美
憂き夜や動かざる灯蛾見てをりぬ 佐々木妙子
言ひ遺すこと何もなく涼しさよ 佐竹佐介
大海のかくもしづもりサングラス 澤木隆子
ひまわりや原爆の朝も咲いていた 宙のふう
はるがゐて与太ゐて我の合歓の盆 高橋靖史
虹消えてひとまず老いに戻りけり 田口浩
汝は花野拡大鏡に消えて行く 立川真理
運命線いつから流れ星の順路 立川瑠璃
わしゃわしゃと納豆の泡文化の日 谷川かつゑ
螢袋とっても柔らかい個室 中尾よしこ
小雀にも蟻にも今朝の梅雨晴間 野口佐稔
指先に駄菓子べたつく雲の峰 福田博之
清昭一ひさし昭如泥鰌鍋 藤好良
三男坊ちょっぴりぐれる凌霄花 増田天志
手鏡に水の匂ひの緑夜かな 松岡早苗
エコバッグに文庫とニッカ夏の雲 松﨑あきら
借金を倍返しする男梅雨 村上紀子
どうしても横向く向日葵七十路は 吉田和恵
死にたればこの裏山のかなかなや 吉田貢(吉は土に口)
蜘蛛の囲の端正と真面目ただそこに 吉田もろび
白薔薇と燃へて発光父の体 渡邉照香

『海原』No.32(2021/10/1発行)

◆No.32 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ラベンダー不意打ちの別れのことば 石橋いろり
かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
花盛り本日人間休みます 大沢輝一
青嵐肺のすみずみ波の音 大髙洋子
奔放に薔薇を咲かせて介護の日 奥山和子
陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
遺書に追伸おくやみ欄不要 河西志帆
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
補陀落へパラボラアンテナ浜昼顔 黍野恵
花あしび崩るるように母の文字 黒済泰子
滴りのの艶生命惜しまねば 関田誓炎
向日葵やヒロシマの日もぬっと咲き 竹田昭江
百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
麦の秋過疎地の景色大らかで 竪阿彌放心
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
柳絮舞うひかりライブの只中へ 遠山郁好
プラタナスの青き実わたしの垂直跳び 鳥山由貴子
アイリスはつれなく人は縺れ合う 中野佑海
夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
胎衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
夕立来るふと焦げ臭き父の背な 藤原美恵子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
引鳥のごちゃごちゃ先生のホイッスル 三浦静佳
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
幻聴のようにオオミズアオを見る 望月士郎
一つ家に孤食のテレビ半夏雨 森鈴
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

茂里美絵●抄出

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
許すこと許されること寒卵 植竹利江
初蝶へ顔が横向き歩け歩け 内野修
一脚の椅子と一人の芝居夏至 大池美木
六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
鎌倉の画廊閉じらる蟇 鎌田喜代子
星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
いち枚の戸籍をめくる朴の花 木下ようこ
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
戒名は「雅秀」と田中雅秀さん追悼なりし春の星 志田すずめ
足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
紅葉燃えて明日は遺伝子組み換えて 田中信克
冷蔵庫勝手に開けていいよって仲 遠山恵子
金星に坐す地面がある青蛙 豊原清明
揺れるのが好きで蛍袋かな 中條啓子
私を脱ぎたくて居る夏の霧 中村道子
紅糸蜻蛉心ときどき擦過音 根本菜穂子
皆既月食の風よわたしは蛇の衣野﨑憲子
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
白壁は鬼籍の余白走り梅雨 故・武藤鉦二
青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
 繊細な抒情感覚で、すでに一家をなしている作者だが、最近はその心情を知的に乾かして表現する傾向が出ている。同時発表の句に「人通るたびにしんぷる柚子の花」がある。この句などは従来の持ち味に近い。それでも「…たびにしんぷる」とまでは言わなかったような気がする。掲句にもどれば、「昼を白しと記すとき」の真昼の倦怠感が、「かき氷」という日常のオブジェによって、生の時間に目覚めさせられる。乾いたカ行音が真夏の空間に響き合う。「昼を白しと記すとき」のシ行、ラ行音の共振の韻もまた。

缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
 作者は、現在一人暮らし。折からのコロナ禍で、他出もままならず、さりとて気ぶっせいな引き籠りも耐え難い。ままよとばかり、湯上りの缶ビールでひと時をごまかしても、毎日のことともなれば「生きた気もせず」、ましてや「死ぬ気もせず」。まことに宙ぶらりんな一日一日のうっちゃり方を繰り返す。この句には、まさにコロナ禍の蟻地獄のような現実が、リアルに詠まれているではないか。

花盛り本日人間休みます 大沢輝一
 花盛りの本日。人間を臨時休業いたしますという。そのこころは、人間としての矜持やプライドは一旦棚上げにして、一日楽しもうというものか。これは単に休養を取るということではない。人間を一時的にやめて、生きものとして生きようということではないか。それだけに、事々しく「人間休みます」と宣言したのである。それは兜太師の言われた〈生きもの感覚〉に近い。

陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
 「やさしい語尾選ぶ」とは、必ずしも相聞句とは限らないが、この句の前に「逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇」があるので、やはり相聞の一連とみてもよかろう。それにしても、その心情のドライな軽快さは、とても一昔前の湿り気のある慕情とは似ても似つかぬものだ。「やさしい語尾選ぶ」に、この人らしい肌理の細やかさがあって感性の新鮮さを感じる。

とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
 水系の発達した我が国では、蜻蛉は古い時代から馴染みの題材であって、詩歌によく詠まれて来た。「とうすみ蜻蛉」の語感が田園風景の懐かしさを誘い、「ちちははふふむ草の風」で、産土を体感している。特に中七の平仮名表記とその語感が、その体感を匂わせてくれる。

百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
 低成長化の管理社会に入って久しいが、その中で生まれた分断や格差は、多くの生きづらさを招いている。これは男女を問わず、働くものに負わされた宿命かもしれない。そのどうしょうもない鬱屈感を、「をとこは人を斬る仕草」で晴らそうとしているという。もちろんそれは、つかの間の憂さ晴らしにすぎないが、それでも男にはその手があっただけましだとの思いを込めて、「をとこは」と少し僻みっぽく言う。「百日紅」にシラケた思いもこめながら。

紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
 紫陽花は梅雨時に最盛期を迎える。産道は、分娩の時に胎児が通過する母体内の通路。共に湿り気の多い隠微ないのちの息遣いを感じさせる場所にある。句の狙いは「産道の湿り」にあって、あの修羅場を美しいいのちの花ひらく道のりと捉えている。やはり女性ならではの感覚といえよう。

夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
 「夏シャツの鉤裂き」とは、夏の海辺でロックを楽しむ若者たちの一団を予想する。兜太師の「どれも口美し晩夏のジャズ一団」にもつながる。ただ兜太句はもっと感覚的映像なのに対し、新野句はやや観念的映像表現の匂いがする。「自由からの逃走」は、戦後ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの著書の題名でもある。掲句は、そこまで思想的なものではなくて、「夏シャツの鉤裂き」を、「自由からの逃走」と知的に見立てた感覚表現といえよう。その連想を呼ぶところが洒落ている。

花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
 花冷えの季節感を、「古書の薄埃」に喩えたのは、意外性がありながら、言い得て妙だ。花冷えで薄く散り敷いた落花は、あたかも古書に降り積もった薄埃のように、どこか馴染み深く、しっとりと落ち着いている。その感覚は、古本屋の薄暗いどこか冷え冷えとしてうず高く積み重ねられた古本棚の、狭い通路を思わせる。

螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子
 おそらく幼馴染で、お互い意識しながら結ばれることもなく時を過ごし、同窓会あたりで毎年顔を合わせながら、いたずらに歳を重ねている。そのような清い間柄のまま、静かに時は過ぎて行く。それも一つの人生。

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
 読む者の心を、しんとさせ無口にさせる。六月は生命が本格的に動き出す、いわば活発な月でもある。しかし反対に自然に圧倒されて、ひるんでしまうのも人間。「生木の哀しみ」。鬱蒼とした森の中で、ふと見つけた傷ついている木。まだ若い木がまるで内臓を剥き出しにしているような姿に一瞬どきっとして立ち止まる。そっと撫でてみる。じかに伝わる若木の哀しみ。作者の、青春の傷を思い出したようにそっと撫でる。

星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
 多分昭和生まれのこの男性(夫)は家族を愛し仕事も順調の、威風堂々の人生を送って来られたと推察する。そして「折鶴飛ぶ構え」と。静かに老いる心境は更にない。で、老人扱いをする周囲に腹を立てているのだ。傍で見ている作者は、夫の人間欲をユーモアとペーソスのまなざしで眺めている。この句の芯は「飛ぶ構え」。

足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
 高原で、さまざまな草花の研究をしていた頃の、風景がふと脳裏をよぎる。急な坂道を登ったり、長い間歩いても疲れを知らなかったあの頃。加齢と共に足腰が弱るのは自然の定め。せめて精神は若々しくありたいと思うのは万人の願いでもあろう。字面とはイメージが違う蛇苺の可愛い赤い実。足元がふっと明るくなるような。

蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
 その昔、自然と共に人々は素朴で正直で大らかに生きていた。春秋の豊作を祝う歌垣(宴)で、男も女も艶めいたひとときを過ごす。「蓮ひらく」の季語はそのように生きてゆく人間の本能をもさりげなく示唆している。

ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
 楽しかった人間関係を妨害する、悪魔のような疫病。この作品には露骨な表現はどこにもないが、しみじみとした哀しみが、読む者の心を鷲掴みにする。時には輝くように現れる、まぼろしの都。二年前のごく当たり前と思っていた普通の生活が「海市」ではなく、現実に戻ってくることを祈るのみ。

夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
 季節の感じ方の内容は独りずつ違って当然。夏至は昼がもっとも長く、人によってはその明るさに倦怠感を憶えるのかも知れない。夕暮れ近く最後の光の束が、蜂蜜の入った壜を照らすときの一瞬の光線が、黄金色のとろりとした液体の暗さを返って際立たせるのだ。甘美ですこし切ない雰囲気を具象化させ、読者を感動させる。

昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
 俳句は短いので、言葉の決定の選択次第で、優劣が決まってしまう。この作品の場合は「難問」の鋭さ。ある年齢に達すると人はこのような想いに悩むことになる。壮年期の社会的に認められた立場では、なおさらであろう。智に働けば角が立つ、の心境。人間関係の微妙な空気に敏感になってしまう。しかし案ずるなかれ。温かい応援の視線もあるはず。あえて申すならば、世間の雑音に拘わらず堂々と歩むしかないのでは。時にはゆったりと、昼寝をすることも必要なのです。

青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
 自分の言葉を見つけるのは、たやすいようで、実はとても難しい。言葉は空気の中の微塵の光のようで、それらを掴むことの出来るのは、ある意味で無心で素直な感性のなせる技なのかも知れない。「青水無月」の季語がパッと目に飛び込む。そして「地球」。大きな自然の中で、瞳にかぶせる薄いレンズの存在。すんなりとした言葉たちではあるが、大胆さも感じさせる一句。

半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
 シュールな詩の一節のようで独りで楽しみたいと思える句。「半裂」「水槽」「端」の裏側にある想いとは。息苦しさや閉塞感は、今や世界中の現代人が、みな持っている心の状態。厖大なあるいは狭い世の片隅で、人々はさまざまな制約を受けながら生きている。大勢の中のひとり。世の中の端っこで。ある者は病院の中で。

蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
 俳人の想像力の逞しさを感じる。例えば蒲公英の咲くさまを、可愛い、と思うのがフツーの感覚。この作者はたぶん物の外見に騙されないすこし立ち止まる冷静さの持ち主。そして植物にも意志があると思っているのだ。蒲公英の根は意外に頑固で見えない所で意地を張っていると。あぁこういう種類の花も、あるいは人間も嫌いなんだと改めて納得している作者のユニークさが面白い。

兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名
 「ワハハ。ばかに暑いじゃねぇか。晩夏なんぞと気取りやがって。くたばってしまえ夏さんよ」兜太先生のナマの声が聞こえそう。一見気難しそうなこの作者。「兜太ありき」に万感の想いがこもる。ジーンとしました

◆金子兜太 私の一句

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 俳句を習い始めた頃、この句に出合い衝撃を受けました。春の訪れを全身で感覚し、しかも自由にうたい切ったところが凄いと思う。白梅が引き金となって青鮫が現れる想念はとても新鮮でした。嘗て朝日俳壇の兜太選にひかれ、その選評に頷き多くの共感を覚えました。また朝日カルチャーや読売カルチャーの教室にも参加させて頂けた金子先生のご縁に感謝いたします。句集『遊牧集』(昭和56年)より。髙井元一

黒ずみしとろろを啜る初夏兼山 兜太

 平成10年、岐阜県兼山町(現・可児市兼山)の蘭丸ふる里の森に於て、春の吟行会が催された。当時の町長は俳句に理解があり、兜太先生を招待され、海程の会員十数名も参加。掲句は素朴で郷土色豊かな土地柄に対する気持ちの良い挨拶句であると思った。句集『東国抄』(平成13年)より。【平成17年、同公園内に合併を記念して先生の句碑が建立された。〈城山に人の暮しに青あらし〉】平山圭子

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
白椿穢れなき刃の我に向く 大池美木
しんかんと老いゆく地球花の闇 北村美都子
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
満開に足のつかなくなる深さ 小松敦
春がくる骨の一挙手一投足 佐々木昇一
冬の虹古本の如母の手のひら 清水茉紀
晩節は春泥のごとひかりおり 白石司子
朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
呟きは鏡の国へ雛あられ 高木水志
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
風船売遠軽までは風に乗り 遠山郁好
蝶ボルト春愁の指遊ばせる 鳥山由貴子
カラスノヱンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
華鬘草老いて早口早足よ 野田信章
歯につきし飴のようなり春の悩み 村上豪
ひとひらのどこからかきて春愁 望月士郎
海市昏し弁当箱の隅に骨 茂里美絵
春の川この世は呼吸いきをするところ 横山隆

服部修一 選
のどかさの真ん中市電のふと悲し 石川まゆみ
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
鍵穴はなんの饒舌春疾風 大髙宏允
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
旅という終わりあるもの春夕焼 奥野ちあき
悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
野火走る男の背の四角かな 加藤昭子
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
花筏どれも船頭がいない 河西志帆
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
春眠の時の潮目の午後三時 齊藤しじみ
朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
悲しみはさざ波のごとヒヤシンス 清水恵子
物種の臍かな裏は大宇宙 すずき穂波
残された時間山椒の芽の天ぷら 髙尾久子
陽炎や君と並んで薄い僕 高木水志
桜ちりゆくひとしずくひとしずく 月野ぽぽな
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
逃散史めくれば村の陽炎えり 故・武藤鉦二
引き抜いてほいと大根渡される 森由美子

平田恒子 選
行く春の遥か先ゆくわれの影 伊藤道郎
灯台の螺旋は祈り野水仙 榎本愛子
戦さあるな餓死の島より兜太は今も 岡崎万寿
型紙の幅を継ぎ足す薄暑かな 荻谷修
カラスのエンドウ段々縺れゆく会話 奥山和子
蝌蚪の水少年の日の真顔を映し 小林まさる
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
双眸に朝のきていて真菰の芽 関田誓炎
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
長城暫し万里にかかる春の虹 董振華
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
朴の花憲法のこの声の若さ 中村晋
臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
淋しさは空腹に似て色なき風 野口思づゑ
まれびとのほとほと叩く蓴舟 日高玲
言いそびれ聞きそびれ鳥雲に入る 藤田敦子
感情が濾過されてゆく花吹雪 松井麻容子
検温の額差し出し青野めく 松本勇二
魔女狩りもかくやアネモネがすれすれ 三世川浩司

嶺岸さとし 選
海明ける笊蕎麦一枚の気分 石川青狼
原発は国家の柩鶴帰る 稲葉千尋
福寿草キリマンジャロの地図広げる 植竹利江
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
外来語辞典かかえたかたつむり 久保智恵
野焼きの匂いくすぶる恋のありやなしや 小池弘子
日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
少年の項かなしき袋掛 白石司子
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
時空越え八分音符は花の窓 蔦とく子
花は葉に処理とは棄てることでした 中村晋
長閑だな腕をついはずしたくなる 北條貢司
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
村を出る父よ真鱈を厚く切る 武藤暁美
畦塗りの黄泉へと続く鍬づかい 故・武藤鉦二
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子

◆三句鑑賞

朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
 春の月は、他の季節の月とは異なり、柔らかく滲んだ風情が特徴だ。その極みである〈朧月〉を前にした体感を〈目鼻口耳もくびこうじの交歓す〉と個性的に言い得て見事。〈朧月〉だからこそ、目と鼻と口と耳の機能の輪郭が曖昧になりすべてが溶け合い喜び合うのだ。やがて〈朧月〉とも渾然一体に。なんという恍惚感だろう。

藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
 藤棚の蔓が〈オンライン〉の画面に向かう者同士の繋がりを、藤の房の姿や匂いが〈深夜〉ゆえの心身の悦楽と倦怠を彷彿させる。〈藤棚のごとく〉の比喩が冴えると共に、現代の景を詩的に掬い取った〈深夜のオンライン〉の措辞が光る。兜太師の唱えた「古き良きものに現代を生かす」精神が掲句に確かに息づいている。

うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
 〈うまれつきぼんやりで〉ね、と優しく微笑む雅秀さんの姿と、美しい〈雪と花〉の映像とが、柔らかく重なり合う。今年四月、若くして他界された雅秀さんを、兜太師は驚きながらも温かく迎えられたことだろう。この場をお借りして、俳句のご縁で雅秀さんと出会えたことに感謝し、雅秀さんのご冥福を心からお祈りする。
(鑑賞・月野ぽぽな)

悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
 「アメリカヤマボウシ」の文字数が十七字の過半を占める贅沢な構成だがとても惹かれる。アメリカヤマボウシは日本のヤマボウシに似て、花がピンク色の実に美しい花木。作者はこの花を悲しみに結びつけた。日本の街路樹の中でも華やかに見えるこの花、もらわれて来て遠い異国を飾りたてる姿に悲しみが見えたのだろうか。

花筏どれも船頭がいない 河西志帆
 「どれも船頭がいない」という短い言葉から、花筏の「されるがまま」の様々な光景が目に浮かぶ。吹雪のごとく舞う桜、水面に浮く無数の花びら、花びらは三々五々寄り合い重なり、流されていく。作者はさらにこの句に、どこに行き着くかわからない今の社会情勢や生活に感じる、何とはなしの不安を含ませているようだ。

朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
 トランプの「ババ抜き」が下地なのだろうか。しかし私にはこの「遊び」が、どこか異界で行われる不思議な行為に思えてくる。大いなる者が、とある空間からジョーカーを取り出している。この作業は暗く孤独で、永遠に続けられているようだ。なんの目的でこの作業が行われているのか、またジョーカーが何を意味し、大いなる者が何者かは定かではない。
(鑑賞・服部修一)

古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
 夕焼は翌日の晴天の予兆である。西の空を真赤に染める豪快な夏の夕焼に比べて、春の夕焼は、はんなりと西空を染める。「古本の賑わい」とは言い得て妙である。小さな町の古本屋。時代と人の慈しみの手を経て、巡り合う一冊の本と人。時の鎮もりと、重なる「ご縁」がある。少々くすんだ本の色合いや手触りも懐かしい。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 タカの一種である差羽。秋に大群で南方へ渡る。数万の差羽の大群が岬の上昇気流に乗って舞い上がる様は、鷹柱と呼ばれる。季節の変化を人もまた、肌感覚で感じ取る。雄大な鷹の渡りの景から、新しいパジャマの用意へ、一気に日常の一齣へと視点が移る。取り合わせの意外性、ダイナミックで爽やかな世界である。

臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
 春分から少しずつ日が伸び始めると、日中の時間や気持ちにもゆとりが出来て、のびやかになる。丁寧に『千字文』を書き写してゆく。さぞ満ち足りた三日間であったことと拝察する。古代の百済系帰化人、王仁が『論語』と共に日本へ伝えた楷、行、草の『三体千字文』。習字、書道の手本として、今も書き継がれている。
(鑑賞・平田恒子)

日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
 作者の句はほぼ平易な日常語しか用いない。しかし、つい見過ごし、忘れ去りそうな、小さな掛け替えのない世界を提示してくれる。掲句は、コロナ禍の中で日々の小さな楽しみや生き甲斐が奪われてゆく危機感、喪失感を、身近なタンポポに託して表現したものだろうが、シンプルながら真に迫る危機意識の深さに驚かされる。

少年の項かなしき袋掛 白石司子
 作者はしばしば、若者・少年賛歌を詠んでおられる。この句もそうだ。果樹(葡萄?)の袋掛けはなかなかの重労働と聞く。長身で色白の少年が身を屈めるようにして懸命に作業を進めている。すっと伸びたうなじを窮屈そうに曲げながら。作者は、その様子を愛しく見守っているのだろう。「項」に焦点を当てたのがとてもよい。

蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
 「父の墓」に「蹴り上げたキャベツ」が出てくる意外性に、先ず心を掴まれた。しかも、キャベツが「戻る」などあり得ない。結局、こういうことかと考えた。父の墓に参ると、生前、父が怒りにまかせてキャベツを蹴り上げた記憶が、決まって戻ってくる、なんとも豪快な父だった―と。読ませる壺を心得た手練の句。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

気に入らない愛する君よほととぎす 有栖川蘭子
緑陰に擬態してゐるカフェテラス 有馬育代
父の日の摩る手と手のきりも無や 飯塚真弓
マカロンの列のしんがり五月蠅なす 石口光子
ジオラマにパセリ千円分の森 植朋子
薫風や市電は頭振って来る 上田輝子
緑まばゆし死にゆく母とふたり 遠藤路子
羅を着てこころ澱ませないマナー 大渕久幸
古書店のどこまでが棚花曇 かさいともこ
蟻の足凄い速さで乱れるよ 葛城広光
彫り物の青き眼の龍明易し 神谷邦男
少年茜に焼け母とゐる土手 川森基次
どくだみの匂いのぐるり黒沢家 黒沢遊公
ほうたるの川へ傾ぎぬ千枚田 坂本勝子
小便小僧をあの子と呼ぶ子青葉風 佐々木妙子
紫陽花の叢よりヒッチコックかな 鈴木弘子
主治医逝く新病棟に冴ゆる月 宙のふう
鯰憮然千のマスクにさらに憮然 田口浩
水母の傷夜の素顔に似てはずかし 谷川かつゑ
母の日の付録のように父の日来 野口佐稔
花見酒末期の水を斯くの如 平井利恵
梅雨晴間おのれの頭撫でる僧 増田天志
木蓮が好きだった津波が来るまで 松﨑あきら
毒殺す正義正論晩夏光 武藤幹
瓜漬の底に弐日ありにけり 矢野二十四
水馬に押され水馬前に出る 山本まさゆき
梅雨寒や在宅勤務に妻の影 横林一石
こども図書館ももんがスーッと飛んだよう 吉田和恵
蜃気楼彼岸のきわの迫り来る 渡邉照香
左遷さる鬼薊の群れの中 渡辺のり子

『海原』No.31(2021/9/1発行)

◆No.31 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

寂しさとう頑固のひとつ冬の岩 有村王志
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
空気からからだ引き上げ春の蠅 伊藤歩
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
眠るも沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
お喋りの続きは来世で花は葉に 宇川啓子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
空耳のシュプレヒコール久女の忌 奥山富江
野の空席わが春愁の個室です 金子斐子
コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
若松のさかる風帰天いま 北村美都子
甘野老あまどころほろほろ嘆き唄う母 黒岡洋子
蕗味噌や黒ずむ爪の母います 佐藤美紀江
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
木の芽山石棺の夜の湿りかな 白石司子
走り梅雨お悔み欄の歳を見る 鈴木康之
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
へそくりを隠し金魚と目の合いぬ 寺町志津子
川上に孔子の嘆き花は葉に 董振華
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
泣き上戸アサギマダラの島に老い 本田ひとみ
暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
師は遠く縄文土器と麦の秋 森鈴
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

茂里美絵●抄出

バードウイーク蛍光ペンで目印を 石川青狼
白薔薇のブラックホールに嵌りこみ 石橋いろり
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
陽炎の中に冷たき火種ある 榎本祐子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
秋の空遠くにきっと笑顔あり 奥村久美子
星影を雫に変えてふところへ 奥山津々子
こいのぼり方向音痴でも愉快 小野裕三
人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
みんな帰った夕焼のスイッチ押す 狩野康子
再会は春の星座の燃ゆる刻 刈田光児
使わない香水がまた減っている 河西志帆
父母に会うために生まれて山笑う 楠井収
サイダーの思い続けている世界 小松敦
ラフマニノフに逃れ緑陰に溺れ すずき穂波
紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
蛍狩あすはナポリへ飛ぶと言ふ 長尾向季
花に重さ鼻くすぐってゆくうつつ 中野佑海
つちふるや一糸まとわぬ走り書き ナカムラ薫
マスク外して陽炎になっている 丹生千賀
かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
臥竜梅夕くれないの海の微熱 平田恒子
遠桜人はいつから淋しがる 松岡良子
視力なきひとの草笛ローレライ 松本節子
パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

海原秀句鑑賞 安西篤

三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
 三密とは、令和二年に厚労省が掲げたコロナ対策の標語「密閉、密集、密接」のこと。葉桜の始まる頃。三密で抑圧されていた生活感は、ほとんど限界に達しようとしている。それを三密の表面張力と捉え、目一杯の臨界点のまま、花は葉に移ろうとしているというのだ。一字空けの効果が臨界点の緊張感を伝える。

コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
 コロナ禍のステイホームも長引くと、身だしなみや肌のお手入れもおろそかになりがちで、勢い雀斑もふえてしまう。初夏、一面に梨の花咲く里に来て、その白花の群落に身を浸し、しばし命の洗濯を試みる。さてその効果のほどは―。梨の実の雀斑模様が答えを暗示する。

若松のさかる風帰天いま 北村美都子

 本年四月二十八日に五十七歳で亡くなった田中雅秀さんへの悼句である。会津若松に在住、ご主人とともにホテルを経営しておられ、傍ら東北新潟を駆け巡って俳句行脚にいそしんだ女丈夫でもあった。遺句集となった『再来年の約束』に、北村さんが心を籠めた解説を書いている。しかし誰もが予想しなかったように、約束の再来年は果たせなかった。故人の所在地と名前を折込み、痛惜の思いで書かれた一句。

暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
 たね爺とは、亡くなった関西の俳人高橋たねをさんのこと。おそらく、海程香川句会の屋島吟行ではないか。そこはたねをさんがしばしば訪れては、句会に活を入れていた場所でもある。「たね爺さんよ、いつもの屋島に夏が来ましたよ。」と呼びかける。いや呼びかけたい思い。

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 災後十年を経たフクシマの、遅々たる復興の有り様の一端を覗かせる一句。被災地には一部更地化した土地は、除染されたとはいえ本当に安全基準に達しているのか疑念は晴れない。更地化された土地は再利用されそうもなく、しらじらと空けたままかげろふが立ち、誰が落としたのか一本の歯ぶらしがあるばかり。

脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
 かつてロボットといえば、人体模型化したものがイメージされ、その典型が鉄腕アトムだった。ところが今やロボットの導入が進んで、工場内の単純作業はロボットが処理するようになり、人間の肉体労働はほとんど代替されてしまった。加えて、その機能分化により、脚は脚だけ、手は手だけのロボットが、それぞれ流れ作業の一端を担っている。「昭和の日」は、その時代の変化への回想であろう。

原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
 原爆忌も、ここまで日常化したイメージで書けるのかと思わせる一句。俳句の場合、普通は前書きが主で、後書きは稀に長々と散文的事情説明となる場合が多い。原爆忌俳句で有名なのは、松尾あつゆきの「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」に付けた前書き「十五日妻を焼く終戦の詔下る」がある。掲句はそういう前書きも後書きも一切省略して、一句勝負で書かれた原爆忌俳句を指す。それこそが原爆忌俳句としてもっとも潔い態度だという。

手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
 格調高い美意識で映像化した一句。墨流蝶すみながしとは、翅が墨を流したように見える美しいタテハ科の蝶。上句・中句の映像表現は、「墨流蝶すみながし」の具象性よりも、言葉から来る映像感覚に誘われるように「手足濡れゆく」とし、蝶のかすかな羽ばたきがしばし収まりゆく様子を「浅き眠り」と喩えた。それが 「墨流蝶すみながし」 という題材に現実感をもたらしたといえる。作者の文学的感性を感じさせられる。

野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
 「野遊び」という季語は、夏井いつきの『絶滅寸前季語辞典』に収録されているように、今ではあまり使われていない季語。戦前から戦後にかけて、中流以上の家庭ではよく行われていたピクニックのことである。そんな季語をハワイ在住の作者に蘇らせてもらった。「素直になるための順路」とは、その世界に戻るには、一定の心理的な場を、順序よく踏んでいかなければなるまいということ。

 他に触れるべき句として惜しまれるものを挙げておく。

眠るも沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵

海原秀句鑑賞 茂里美絵

廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
 ツルゲーネフの小説『父と子』を想起するのは、穿ちすぎだろうか。父と娘の甘やかな関係、母親に対する、息子の永遠の思慕とは隔絶した意識。追い越すことが出来なくて反発した青年期。だがやがて父を追い越していく自分。その象徴として「西日」「廃屋」がある。しかし「純化せり」には、哀切的な父へのオマージュが、込められているのではあるまいか。

神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
 蠟梅の実を知らなかったので図鑑で調べた。五月頃には、あの透き通るような花からは思いも及ばない、長さ四センチの立派な実がなるという。上五の、神棚からはモノ。そしていきなり、マチスである。全体に微妙に、ずれた感じではあるが、どうしても立ち止まらなければいられない俳句もある。仄暗い神棚にささげる蠟梅の実。神棚とは掛け離れた艶やかな黄色の実。命そのもの。純粋的色彩の世界を創りあげたマチスを、其処に見出した作者の、イマジネーションに感服するばかり。

サイダーの思い続けている世界 小松敦
 長いスツールに腰かけてサイダーを注文する。都会の一隅の小さな店。軽い閉塞感のある雰囲気の中で飲むサイダー。プツプツと無数の気泡が喉を過ぎる。次第に、自分自身もその気泡と同化していく。見知らぬ人々の流れを、窓越しに眺めている内に、想いが広がっていく。不安、悲しみの溢れた現代の世界。サイダーと一体化して無意識にぶつぶつと呟く作者。

紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
 人生の三分の二は悲しみに包まれている、とはある作家の言葉である。人間は勝手なもので、嬉しいことにはすぐ満足して時間を引き延ばしたりはしない。悲しみも色々段階はあるが、他のことに集中して悲しみを忘れる努力をするのは、かなり重い事柄と思う。その様な時には、先程の作家の〈人が生きるということは、その三分の二は悲哀なのです〉を思い出して欲しい。あなたには、輝くような早春と紅梅が寄り添っているのだから。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 もともと春雨は静かに降る。白雨のような激しさはないが、じんわり体にまとわりつく。そして「切り裂く」ではなく「切り抜く」には微妙な違いがある。春雨の透明なカーテン。折紙を丸く切り抜くように、かすかな音を立てて前へ進む作者。若い感性の捉えた、自然現象の一瞬を、するどく表現して見事。

バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
 腰掛け部分が蝶の翅のように広がった、背もたれのない椅子。この場合、木製品と勝手に想像してしまう。いろいろに空想の広がる俳句は楽しい。つまり省略が小気味よく利いているということ。更に言えば、具象と抽象を備えた主旨が、俳句の真髄だと思う。蝶の形をした椅子から、青葉へと移行していく、こころ。春から夏へ加速していく森のざわめき。
 評論集『蝶の系譜』(高岡修著)から見つけた短歌を次に。〈丘の上を白いちょうちょが何かしら手渡すために越えてゆきたり山崎方代〉
 蝶は美しいばかりでなく、幸せも運ぶ使者なのかも。

かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
 静かにゆっくりと歩を進める。まひるの空気がゆらゆらと動く。かげろうも寄り添うように動く。老尼僧と言えども、厳しい戒律とさまざまな日課のなかの日常。「かげろうと棲み分ける」の意味するもの。迷いを謝絶した柔和な表情。しかし凜とした想いが、辺りを鎮める。対極的な位置に在るかげろう。しかしその儚い自然の現象を認めた上で、この老いた尼僧はゆったりと陽炎とも共存するのだ。

パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
 俳句の世界にもコンピューター時代が来ているらしいというより、現在のコロナ禍の中、パソコンでの通信句会をせざるを得ない。便利になったが、其処に風や花の匂いはない。この作者は、それを逆手にとってゆったり暮らして居られる。街へ出ても人と人は表情や手ぶりで会話を交わす。まるでパントマイムのように。同じような日々が過ぎていく。桜が散り美しい葉桜になっても、さまざまな国ではパンデミックと戦うしかない。静かに半ば諦めのまなざしで、それらを眺める作者。

青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子
 〈酔ふばかりであったふらんす物語荷風〉こんな断片をどこかで読んだ。永井荷風。作品に『ふらんす物語』など。若森氏の俳句には不思議な復元力がある。勇気づけられる。日本はいま正に「幽愁のくに」。このフレーズには参りましたね。まぁでも私たちはどんな時でも、前を向いて歩くしかない。さぁ歩こうよ、と。親しい仲間とひっそり個室で飲んで、酩酊の口にはマスク。そして青葉冷えの夜風に吹かれるのも、たまにはいい、か。

◆金子兜太 私の一句

酒止めようかどの本能と遊ぼうか 兜太

 金子先生が朝日俳壇の選者になる前、担当記者が掲句を私に示し、「これ、誰の句か知ってる?」と。正直に首を傾げると、今度選者になる金子兜太さんの句と教えてくれた。その担当者は酒好きうまいもの好きで「全く身に染みる句だよなぁ」と言いながら、透析しつつ先生と旅をした。先生の選者入りに反対する空気と断固闘った人。そして、私にとっての邂逅の一句となった。句集『両神』(平成7年)より。滝澤泰斗

自動車の眼玉が二つ不思議な冬 兜太

 車の前照灯を眼玉が二つと直截にとらえたインパクトある表現が気を惹く。かっと見開いたその眼玉がみている事象は何か、あるいは心のあり様だろうか。「不思議な冬」のフレーズが韻律のよさと共に忘れ難い句の存在を示している。郊外に住む私にとって車は分身の如くあり、運転あるいは同乗の機会に嘱目した自句を思い返すとき、掲句は高みにある。句集『皆之』(昭和61年)より。三木冬子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
睦むとき冬の金魚が翻る 榎本祐子
耕すや孫と花びらついてくる 大久保正義
鉄路にも桜の余熱逢いに行く 片岡秀樹
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
話したいこといっぱいあった窓に雪 佐孝石画
頭あり早春の遺失物のよう 佐々木宏
母の忌の木に寄りかかる冬日向 管原春み
ぶらんこを乗り継ぎいつか星になろう 竹田昭江
はんの花死にたいなぁと生きたいなぁ たけなか華那
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
恋猫の無明ムミョウと哭きにけり 中内亮玄
水に声火に声三月十一日 中村晋
兜太の忌血脈のごと野草の根 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
しぐれたる葦原老いのまなこは駅 北條貢司
幼子の匂い春の虹の匂い 村松喜代
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
新雪の遠嶺くっきり喪明けかな 森由美子
春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子

服部修一 選

春は曙追いかけることばっかり 大池美木
春を想う橋から帽子飛んでゆく 大髙宏允
ぬたになる分葱再婚する分葱 こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
冬眠をしたい人間しない熊 篠田悦子
おでん鍋戦争が匂いはじめる 白石司子
サンタ来るパーテーションの向こうから 芹沢愛子
パンジーの寝言はきっとありがとう 高木水志
税務署は本屋の隣二月尽 寺町志津子
春の風蠢くものの応援歌 東海林光代
人はみなひとり春の海キラキラ 西坂洋子
春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
夢を売ります風花の窓辺にて 船越みよ
蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
風呂に浮く柚子の愛され上手かな 三浦静佳
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
草餅を食べて死などは考えず 村本なずな
セーターを着て人間がうしろまえ 望月士郎
地球儀回せば難民零れ落ち 輿儀つとむ
木履ぽっくりをはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子

平田恒子 選

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
冴え返る羽音のごとき人の流れ 伊藤淳子
明暗の境目あたり遍路かな 大髙宏允
軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
佐渡よりの流木砂洲の天の川 黒岡洋子
ゆく春の輪ゴム見えなくなるまで飛ぶ こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
白鳥や言葉深追いせず眠る 芹沢愛子
末黒野にキリンの義足鳴る夜かな 竹本仰
鳥雲に入る記憶こそ鮮やか 故・田中雅秀
春の致死言葉の先に人がいる 中内亮玄
枕辺に枯露柿三個遺書はなし 野田信章
寒月下ジャングルジムという折り鶴 堀真知子
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
白鳥の千のつどへば千の鈴 松本千花
惜春の石に壊れし椅子一つ 村上豪
寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
光年やいまさらさらと春のからだ 若森京子

嶺岸さとし 選

水色のスープが刺さる浅い春 泉陽太郎
諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
はくれんへ逃れて少女拒む羽化 伊藤道郎
春の雨インド象ゆっくり通る 大池美木
ふっと声目線上げれば梅二輪 狩野康子
白さるすべり夜を散らかすのが仕事 河西志帆
深雪晴宙いっぱいに嘘をつく 後藤岑生
温かなタオルでぬぐう春の夢 小松敦
能面の嗤いが駈ける芒原 清水茉紀
何度でも握り返して春手袋 故・田中雅秀
分身として朧夜の声ひとつ 月野ぽぽな
剪定夫はるかな山も抱え居り 中村孝史
薪ストーブ爺の訛のよく燃える 前田恵
アクリルの向こう遙かを徒遍路 松本勇二
言い訳の言葉ちぐはぐ落椿 武藤暁美
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
永遠の紙ヒコーキを冬青空 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
木履ぽっくり をはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子

三句鑑賞

おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
 手鏡を開けて自分を映すと、鏡の自分がいろいろ話してきて、ちょっとうるさいので、黙ってもらった。実は喋っているのは自分の心なのだけれど、その様子を〈おしゃべりな鏡を閉じる〉としたユーモアのセンスが光る。どんな心の声だったのだろう。ふふっと微笑むような余韻が〈春の宵〉にやわらかく広がってゆく。

しぐれたる葦原老いのまなこは駅 北條貢司
 駅は動かず、来るものを受け入れ、去るものを見送る。列車や人々、ひいては時間さえも。〈老いのまなこは駅〉からは、何もかもを忙しく追いかけた日々は過ぎ去り、それを経験したからこそ到達し得た、全てをあるがままに受け入れて執着しない、達観の眼差しが見えた。一面の枯葦は来し方。時雨は全てを慈しむように降る。

春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子
 〈春寒〉の体感を〈四肢ゆるく絞め〉と掴んだ、「肉体感」とも呼びたいうぶな感性が独特で魅力的。冬の寒さとは違う春の寒さがここにある。そして〈さすらいの四肢〉から、春寒の頃、〈さすらい〉の句を此岸に置き他界された兜太師の姿が私たちの前に現れる。「定住漂泊」を生き抜いた師への渾身のオマージュである。
(鑑賞・月野ぽぽな)

春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
 「ごろごろ」という語感が、十分に成熟した上蔟まぎわの蚕を思わせる。日本経済発展の一端を担ってきた蚕糸業界は、化学繊維や生活様式の変化により急速に衰退した。かつてこのような豊かな春蚕に多くの人たちが携わり、喜びの歌も生まれた。馥郁とした春蚕を前にして、作者も大いに心を動かされたのではないだろうか。

蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
 路傍の蒲公英は大変だ。行き交う人々から踏みつけられては頭をもたげて立ち上がり、また踏まれる、のくりかえし。しかし作者には蒲公英に意思があるかのように、うまい立ち上がり方や、ダメージの少ない踏まれ方があるように見えた。人間にしても同じ。しかも人間には知恵も足もあり蒲公英よりはうまく対処できるはずだと。

夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
 夫婦は幾何学だ、と言っている。夫婦問題の暗喩。そこで幾何学側から夫婦問題を見ると何か分かるかもしれない。たしかに幾何学は複雑のようでも必ず解があり、規則的な幾何学模様は見方によっては美しい。深淵なる夫婦問題も案外そんなものか、と納得しそうになる。いろいろ考えているうちに、下五「しゃぼん玉ふわり」で作者本人に寄り切られた感じだ。
(鑑賞・服部修一)

軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
 本来「軋轢」は人間の不和、葛藤などを意味するネガティブな言葉である。この作品の面白いところは、「軋轢」を詩を育む母胎のように捉えて、柔らかい芽吹きの中に置き合わせた味わいである。時を得て良い詩が醸し出されることを信じて、軋轢をも抱きとる包容力と懐の深さが感じられる。

寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
 寒卵がつるりと剥けて、見るからに美味しそう。滋養にもなりそう。書き物をしていると、覚えていた筈の文字が不確かで辞書を探す。一本横線が足りないかな?ならばちょこっとそれらしく足しておく。筆順は当然つるんと誤魔化しちゃった。茶目っ気たっぷりのユーモラスな描写が好もしい。

アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
 昭和三十年代、デパートなどの商業ビルの屋上には大売出しの宣伝のアドバルーンが揺れていた。ただ、強風には弱い。どこかへ飛んで行ってしまわないようにと、見張りのバイト要員が控えていたのだろう。近年では、世間の反響をうかがうために意図的に情報をリークするアドバルーン揚げもあるので要注意!
(鑑賞・平田恒子)

諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
 一読、「諦めの美学」は「おぼろに」語るのが相応しい、と読めた。が、平凡だ。作者は「おぼろに語」るのが大好きなのではないか。「諦めの美学」だとしても朧に語らずにはいられない。「諦めの美学?だとしても、朧に語りたくて仕方ない私です。一緒に朧に語りましょう!」こんな解釈の方が魅力的ではないか。いかが?

てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
 何かを思わず握りしめようとしたか、包もうとした瞬間だったのか、掌に意志を見たのは。自分の中の無意識、本能的なものが表出した一瞬をみごとに形象化している。「指」でなく「てのひら」、「小さき」でなく「軽き」の措辞の斡旋が、詩を生んでいるのではないだろうか。作者の柔らかな感性に拍手を贈りたい。

木履ぽっくりをはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子
 「木履」は女児用の下駄のようだ。幼時の記憶から、翻って老いた我が身に思い至るのだが、さり気なく、洒落で死に方願望を語ってしまうおおらかさと諧謔味に、心を鷲掴みにされた。こういう心境は俄仕込みでは生まれてこないように思う。作者の辿りきた人生の豊かさと深さを想う。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

過ぎ去りし若さ照らして更衣 有栖川蘭子
蜘蛛下がる御用学者の眉尻へ 植朋子
こころの迷彩は何を隠すの夏 大池桜子
一言も発することのない泉 大渕久幸
陽炎のことなど話し蕎麦啜る かさいともこ
雨粒のたった五粒に山沈む 葛城広光
藤の房屈伸の手は地につかず 河田清峰
告白の腹にいちもつ罌粟の花 木村寛伸
梅雨寒や缶振れば鳴るドロップス 清本幸子
ポン菓子屋ポンポン春を引いてくる 後藤雅文
父の手の昏がりにほうほたる 小林育子
毛たんぽぽ言葉の襞からひらひら 小林ろば
海ばかり見てながらえてはまなす野 榊田澄子
熊野路の雨は球体雨月かな 宙のふう
春蝉鳴く今日の顔して一日かな 高坂久子
黒薔薇の蔓が寝棺の窓を這う 田口浩
夏館母は吾を吾はデグーを叱る*ペット、ネズミの仲間 立川真理
白というまばゆき坩堝更衣 立川瑠璃
青田波蝦夷百年の風の記憶 谷川かつゑ
生きてあれアカシアの花共に見む 平井利恵
花冷えのショパンすこしく前のめり 深澤格子
らいてうとふ女性ありけり青き踏む 藤井久代
こころざしこんな処に蕗の薹 藤好良
来し方の変えぬ不器用豆の飯 保子進
春惜しむ集ひに一人リアリスト 武藤幹
少しだけ親切になれる薔薇咲く 村上紀子
鳥曇海に帰れぬ水のあり 矢野二十四
花びらを着けデイケアから母帰る 吉田和恵
素っ裸おむつ一つの父の体 渡邉照香
もののけのはしゃぐ声する春嵐 渡辺のり子

『海原』No.30(2021/7/1発行)

◆No.30 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

晩年とは風を聴くこと西行忌 赤崎ゆういち
諸葛菜土鈴ですか山鳩ですか 石橋いろり
籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお
この話長くなります龍の玉 奥山富江
アンテナの多き下町クロッカス 小野祐三
気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
目借り時尖ることばをどうしよう 桂凜火
散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
笑むことも自傷のひとつマスク美人 久保智恵
背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
溺愛でなく風は摺り足してカタクリ 小林まさる
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
点滴がつづいています夢十夜 白井重之
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
耳朶柔し百態の春に惚ける 竹田昭江
三日月がさくらを静かに分けている 竹本仰
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
春雷や古き文読む母の眉間 遠山恵子
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
カラスのエンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
野卑にして優し焚火に筍焼く 藤野武
春浮雲少し動いた有精卵 村上友子
点滴と心音シンクロして透蚕 望月士郎
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子
生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名

松本勇二●抄出

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
神の留守マルクスのごと前かがみ 奥山富江
鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
春キャベツ拗ねてひとりになりたがる 河西志帆
連弾のよう夜更かしの仔猫たち 河原珠美
亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
ゆっくりと母来るように春の雪 佐藤君子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
たんぽぽを真っ直ぐに来る装蹄師 鳥山由貴子
土いじる二人のえやみ長閑なり 中村ひかり
田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
偏頭痛きざす紋白蝶までとおい 三世川浩司
白木蓮デモクラシーは錆びやすく 嶺岸さとし
畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
菜種梅雨ジャンボ滑り台の憂鬱 吉澤祥匡

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子

 時代背景は異なるが、ともにミャンマーに関わる現実を基に作ったもの。岡崎句は、竹山道雄原作市川昆監督により映画化された名作をモチーフにして、かつてのビルマの英霊に対する供養に生涯を捧げた一日本兵士の故事を思い、ミャンマーの平和の回復と歴史への鎮魂を祈る。「忘れまじビルマにさ迷うわだつみの骨」の句もある。
 佐々木句は、現在のミャンマー国軍と民主勢力との対立状況を踏まえ、軟禁状態にあるスーチー女史に草の根からの声援を送る一句。ともに時代状況に即した問題意識が熱く反映された作。

籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお

 ステイホームを余儀なくされている日常を詠んだ二句。泉句。巣籠りの日々にも、紅白入り混じった木瓜の花が日毎に彩色するように色をつけ、鬱陶しい気分を慰めてくれる。ささやかな日々の移ろいに見出した彩りが、柔らかな息遣いのように感じられる。
 尾形句は、少し当たり散らしている感じ。同時発表の「歯ぎしりやじりじり動く洗面器」の句などをみると、大丈夫かと言いたくなる。それだけ若さからくる鬱屈感が強いのかもしれない。花をみてもその優しさに癒されず、ゾンビ映画の刺激によっても発散することはない。あげくの果ては「ふて寝」と決め込んだが、それで一件落着とはいくまい。そのありのままの屈託感をぶっつけているところが面白い。

気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
 通条花は、三~四月頃、黄色の房状の花序を長く垂らして枝一面に咲く。地味な花で、いかにも気取りなく生きている感じがする。句の中で明示されているわけではないが、「風の中」には、コロナ禍の危機感に揺れる現在が暗示されているとみてもいい。作者はすでに熊本の台風禍で、抗い難い災禍を経験している。そんな時、平常心をもって柔軟に生きることを、通条花の立ち姿に見ていたのかもしれない。

散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
 池や川面に大きく枝を差し伸べた桜は、落花の頃は水面にさまざまな模様を描く。その模様の一つを仮面のようなイメージと見立てた。落花が描く仮面には、作者の潜在意識が投影されている。そこには、幼い頃の童話の世界や、身近に感じたさまざまな人の風貌のデフォルメされた映像が描き出されてくる。どちらかといえば、好ましいものというより、怖いもの、不思議なものの映像のような気もする。それは作者の潜在意識にひそむ多彩な原風景の一つに違いない。

背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
 「枝垂桜の中にいる」とは、枝垂桜を浴びるような立ち位置で見上げているのだろう。そのとき「背を青くして」立っていたという。こういう感覚的体感の捉え方は、作者の得意とするものかもしれない。あらかじめ背を青くして枝垂桜の下に入っていったのではなく、枝垂桜の中で、背が青くなった状態が続いているとみたのだ。それは枝垂桜とともにある存在感そのものではないか。

反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
 兜太師追悼の一句とみたい。ご夫妻とも反核の人であり、黒文字の花を愛しておられた。黒文字は三〜四月頃、半透明の繊細な花を開く。たしか熊谷のお庭にも咲いていたような気がする。どちらかといえば皆子夫人のイメージに近いが、兜太師にもそんな感性があった。作者は、黒文字の花のイメージに、兜太の反原爆の書の筆太な黒文字をも重ねていたのではないだろうか。

自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
 「残った人」とは、東日本大震災で生き残った人と受け取った。「海市」のイメージから、あの時の津波に生き残った人という映像が誘い出されるからだ。今年は震災後十年という節目を迎えている時でもあり、作者にその時事性が意識されたのだろう。十年を経ても「フクシマ」は終わっていない。原発禍は収まらず、廃炉は遅々として進んでいない。生き残った吾は、幸せなのかどうか。海市の中の幻のような存在なのかも。

生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名
 終活の一環として、生前墓を用意しておく。出来上がってみると、なんとなく愛着が湧いてきて、なでさすったり、亀を鳴かしてみたりするという。周知のように「亀鳴く」は虚構としての季語だが、この句のポイントはまさに「亀鳴かしたり」の仕掛けにある。この空想上のイメージを取り合わせることによって、やや大げさに言えば、日常のことばと古典的ことばとを〈異階層言語〉として組み合わせ、その相互作用によってことばを両義化しつつ、俳諧の詩的達成を目指したともいえる。こういう試みは今にはじまったことではないが、現代俳句の一つの沃野として広がっていることは確かだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
 過去に経験した自身の三月への思いか、あるいは東日本大震災への思いか。鉈の重さという比喩が作者の暗くて重い記憶を思わせる。明るく晴れやかな句が好まれがちだがこういうぐさりと来る重い句も大切にしたい。

玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
 帰宅したときいつもはあちこち向いている靴が、今日は揃えられていた。どきりとする。誰か来るのかくらいでは止まらず、誰かの死を思ってしまう作者の心配性気質が垣間見える。死は案外近いところにある。

春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
 収穫が遅れて割れてしまったキャベツ。それを契機に相続を放棄すると書く。相続放棄には様々なややこしい事情があろうが、それらをあっさりと凌駕し固執しない作者。さっぱりとした生き様が鮮やかに尾を引く。

鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
 時代劇が面白かったのは昭和の終わりの頃か。花篝の奥には鬼平犯科帳や必殺仕掛人の主人公が鋭い目つきでこちら側を見ている。虚構であるのに実感があるのは、ためらいなく言い切ったことの効果であろう。

亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
 筆者の祖母が遺してくれたジューサーが先日破壊した。作者は圧力鍋のようだ。いささか迷惑気味の口ぶりが諧謔味を呼ぶ。亀鳴く、という季語もとぼけた感じでこの句に合っている。

晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
 椿のところで切って二句一章として読んだ。晴れた日の椿は照葉樹である緑の葉の照りもあり、光り輝いていることだろう。そんな明るい日にふと子離れを決意した作者。カチンという擬音がべとつかない子離れを思わせ好感を呼ぶ。

延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
 誰と競っているのか考えた。俳句仲間か近所の奥様か。萎まないように自分を叱咤している作者である。元気で居ようとする心意気が嬉しい。延齢草の白い花弁と競っているのかも知れないが。

紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
 昔の田は紫雲英が紫の花をびっしりと咲かせていた。それを鋤き込み稲作の堆肥としていた。花冠や首飾りを女子は作っていた。大人になっても紫雲英田に来ると素直になる作者。そおっと連れて帰ればしばらく安寧の日々を過ごすことができる。

水枕母在るときの波まくら 白井重之
 母在るとき、は何時までたっても突然眼前に脳裏に蘇る。解熱のために水枕を使った作者に、波の音が聞こえて来た。母上と過ごした海辺の光景が現れたか。リズム感に支えられてどこか懐かしい一句となった。

春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
 ぎりぎりの肥後守世代だ。細い竹や木を削ったりした。買ってもらった日には何回も刃を出し入れしてワクワクしていた。作者には何十年も前の肥後守がまだ身辺にあり錆びてしまっている。春愁の重厚さが半端ない。

昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
 十代の記憶が突然現れるようになったのは六十を過ぎた頃からか。特に夢の中では顕著だ。みんな若くて目を輝かせて走り回っている。現実はどうだ。昨日何をしたか夕食は何だったか思い出せない。少し年を取った人たちの同一の思いをさっと掬い上げて見事。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 「差羽群れ舞う」は鷹柱のことか。それを見て、パジャマを新しくする契機にした。サシバからパジャマへの大きな展開は感覚優先で書いている証左であろう。

田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
 山里では上流部で川を堰き止め井手を作りそこに水を流して田に水を引いている。息急き切って流れ来る水が山の風も連れて来ると書き爽やか。農事のあれこれの中で感じた自然現象をきちんと吸い上げ一句に仕上げた。

蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
 出掛ける時玄関でぴょんぴょん跳ねる蠅捕蜘蛛。それは「私を感じている」からだ。人間の近くで生きるこの蜘蛛は人の感情を感知できるのであろう。生命力の横溢する万緑では、蜘蛛もヒトも鋭敏になってくる。

花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
 飛花落花のさなか、地上の花びらの動きに神様の一歩を感じた作者。これくらいなら他に見たことがあるだろうが「ふと」にやられた。神様は、うやうやしくでなく、何気なく足を降ろされたのだ。気取らなさが上手い。

置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
 農業従事の方が春に逝去された。筋肉を置き去りにして、と書く作者の視点に瞠目。よくぞ書いていただいた。さぞ惜しまれながらのご逝去であったことであろう。

畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
 鍬を使うのは本当にしんどい。長時間使っていると腰がこわれたと思うほど痛くなる。畝をたててジャガイモでも植えるつもりであろうか。一畝たてるごとに老いてゆく鍬は自身の老いにも繋がる。農業者は老いても限界が来るまで鍬を振り続けなければならない。農を繋いでゆく覚悟を、鍬を通じて象徴的に表した。

故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
 迷路は来し方の心象映像か。季語が後で効いてくる。

◆金子兜太 私の一句

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太

 誌上には大胆な句で、今まで「うんこ」と誰が表現しただろうか。私事だが、出産時に「うんこ」を漏らしても良いからいきみなさいと看護婦に言われた。ただし終日これを繰り返し、やっと出産できた。これは太古よりの命の始まりで、先生の母上への深い感謝と愛の迸る感銘の一句である。句集『日常』(平成21年)より。川崎千鶴子

山峡に沢蟹の華微かなり 兜太

 小生も幼少から山の沢に行き、よく蟹を取ってきたものだ。沢蟹は人里離れた奥深い辺鄙な所でひっそりと生きている。この句の沢蟹(実は兜太師ではないか)は今華やかさが僅かであり、全く地味な生き方であるが、後に世に知られ脚光を浴びて名をなすであろうことを如実に暗示している句に他ならない。私の大好きな一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。山谷草庵

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
陽のしずくを酌み交わすなり福寿草 伊藤巌
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
夢多きカプセルホテル冬霞 小野裕三
小春日を縢るよう母の数え唄 加藤昭子
パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
雪搔けば我の中にも竜が在り 佐藤詠子
白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
壮快なギブアップ風の葦野原 篠田悦子
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
母のそれからミシン奏でる冬銀河 中野佑海
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
寒灯は真昼のごとくコロナ棟 藤田敦子
おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
前の波の鎮魂歌なり 波の音 マブソン青眼
葛湯吹く母には母という順路 宮崎斗士
籠り居の耳の渚に冬青そよごの実 柳生正名
初しぐれ禿びた箒のにぎやかに 矢野千代子

服部修一 選

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
外出はポスト迄です春隣 伊藤雅彦
着信に優しい嘘と冬夕焼 榎本愛子
極月やカマボコ板が飛んでいる 榎本祐子
ともだちの少ない犬や小六月 奥山富江
小六月鏡に映らないところ 小松敦
あなたは杖をステッキと言う春野 三枝みずほ
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大旦ちょっぴり縮む車椅子 高木水志
あかんぼと目が合っているおでん 竹本仰
薔薇に雪ふとマッチ売りの少女かな 田中裕子
寒鴉あつまる街の余白かな 董振華
陽のかけら初日へ色を足しており 永田タヱ子
御慶かな隣家のポルシェ唸り出す 長谷川順子
万両の木陰お前も小心者 間瀬ひろ子
父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
人日の植木等の重さかな 村井隆行
雪は膝下尉鶲ピュッと飛ぶ 村松喜代
筍やざっくりと切る八年目 らふ亜沙弥

平田恒子 選

朽ちし生家は雪を被ったまま傾ぐ 植田郁一
小鳥来て大岩壁に身を投ず 内野修
棒読みのような書き初め飾るかな 小野裕三
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
身のほどを問われる始末酔芙蓉 黍野恵
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
句縁とは星座のごとし兜太の忌 齊藤しじみ
句の中で何度も死んで今朝の雪 佐々木昇一
君らの言葉氷柱太るがごとく純 白石司子
冬ざくら山嶺は蒼き煙 田中亜美
風船葛枯れるに触るればほろと言う 谷口道子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
歩いても歩いてもなかなか死ねない マブソン青眼
ブザー鳴る介護たとえば冬青草 宮崎斗士
なまはげ来る山のかたちの闇を負い 武藤鉦二
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
すずなすずしろ透明な箱を買いにゆく 横地かをる

嶺岸さとし 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
楤の芽や小言を増やし黄昏れる 宇川啓子
約束の帯はむらさき雪の花 北村美都子
晩年の冬耕終え一番星に触れる 白井重之
臘梅や玉砕という言葉ふと 白石司子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
ビル群に産み落とされし冬満月 藤野武
論点の違う話のように雪 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
欠餅の膨れる力恋心 松本豪
藤垂れて睡い眼の少年とをり 水野真由美
風花す二人のこころまだ下書き 宮崎斗士
枯木星みんな出口を探してる 三好つや子
手をつなぐことのためらい冬夕焼 武藤鉦二
ポインセチア谷間の深きドレスかな 室田洋子
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

◆三句鑑賞

パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
 〈パソコン〉に向かい作業をしているのだろうか。〈パソコン〉は便利な道具であるが、不具合が生ずると、たちまち悩みの種になりがち。〈遊ばれている〉には、そんな状況に一喜一憂せず、むしろそれを楽しむかのような達観の境地が見える。上質で軽やかな諧謔精神は〈寒い夜〉でさえも、命を謳歌する時に変えるのだ。

白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
 確かに白梅の白には、静かにかつ強く内面に語りかけてくる力があると思う。自分の奥底の忘れていた場所に通じる扉を開け、もしくは眠りから覚めて、ありのままの自分に近付いていけそうだ。そこではどんな自分と出会うのだろう。ふと「白梅や老子無心の旅に住む」にて俳句人生の一歩を踏み出した兜太師を思った。

おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
 まるで呟きそのままのようにうぶな質感のある掲句からは〈おでん〉のように素朴であたたかく〈海〉のように包容力のある〈妻〉の人となりが見える。また、〈おでんはさらに/つまそのもので/うみで〉と、七・七・三の句跨りが生み出す、〈海〉の波のように畳みかける抑揚が〈妻〉への思いの深さを伝えている。
(鑑賞・月野ぽぽな)

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
 言ってしまっている俳句はたいしておもしろくない、と思ってはいけない。女房子供を働かせるのは父親が甲斐性なしだからとは限らない。では、例えば昨今のコロナ禍による解雇、雇い止めにまで言い及んでいるのか。そうではなく、やはりここは、「燗」をつけるときつい口をついて出た男の慣用句、男の甲斐性なのである。

小六月鏡に映らないところ 小松敦
 鏡には大きさや遠近の具合で当然映らない「ところ」があり、これを承知のうえで作者は何か言いたかったのだろう。此の世のものでひょっとしたら鏡には映らないところがあるのではないか、と思うとなんとなく不気味。自分の心の深淵も同様。晴れ晴れとして暖かく、快適な季節感である小六月が逆にうまくマッチしている。

父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
 ほのぼのとして温かい雰囲気に惹き付けられた。「父さん」の語感が、初老の優しげなお父さんを思わせる。そんな父さんが、どうしてだか師走の風をはらんでいるのだ。この句は、寒風吹きすさぶ都会の喧噪を背景に、父さんの心象を描いたものと思える。父さんはいま充足した境地にあって、心地よい師走の風に身を任せているのである。
(鑑賞・服部修一)

冬うらら不要不急の長電話 片町節子
 コロナ禍のご時世。人と話すことも、会うことも自粛を促されている。「重症化しやすい」と言われる高齢者たちにとっては不要不急の判断は難しい。基本を守り、外出は食料の買い出しと、通院だけ。高齢者たちは健気である。生の声を交わして少し笑って、互いの消息を確かめる。電話はついつい長くなる。外は良い天気!

行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
 「行きがかり上」独身と言う。そのからりとした語り口が魅力的。親が独身の娘について、気がかりとか、先行きを心配する句は散見するが、その逆の当人の「特に理由はない。『行きがかり上』なんだから。」とさらりと書かれた作品は、珍しいと思う。しかもその手には大きな朱欒がある。何だか良いことがありそうな……。

さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
 老母に対する子の思い。会うたびに母の老いを感じて、母との残された時間を想う。一年半に及ぼうとするコロナ禍の日々なればなおさらである。「風花」にはかすかな不安と、母を思うしみじみとした優しさと情感がある。「母少し逝く」の「逝く」が独特の空気感を醸し出している。緩やかな、止めようのない時の流れがある。
(鑑賞・平田恒子)

苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
 確かに現代人のもつエネルギー量は、生活の便利さに反比例して、小さくなっているだろう。この句の面白さと手柄は、その現象を「苺ミルク」で直感した点だ。苺はそれ自体十分に甘い果物だが、それにコンデンスミルクをかけ、コテコテにして食すとは! これこそ繊細な甘さを味わう味覚エネルギーの退化に他ならない。

正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
 今や、正論で生産的な議論を成立させることはとても難しい。ところが掲句では、正論がぶつかり合っている。とても健全と思いきや、下五は「海鼠」である。正論のまっとうな議論のはずが、やはり互いに「海鼠」のように変われない、空疎な議論を展開しただけという結果に終わる。日本社会への風刺の効いた、俳味十分の句だ。

湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
 湯たんぽは、その昔には愛用していた。満タン近くまでの熱湯が揺れた時の「たぷん」という印象的な音は、今でも耳元に残っている。この句は、その懐かしさを刺激してくると同時に、「不審船がくる」という意表を突く飛躍のみごとさを持つ。湯たんぽから、夜陰に乗じて密入国する船の波音を連想するとは!
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

水晶体もさがも温むや水のなか 飯塚真弓
しゃぼんだま丸し中也の朝の歌 植朋子
ひとり卵焼き裏返す春って 大池桜子
八十八夜飽きられる前に飽きる 大渕久幸
永遠にボクでゐる君修司の忌 かさいともこ
絵手紙にありしコウノトリの地酒買う 樫本昌博
石庭に夕焼け紅鯨上陸す 葛城広光
かぶりつく金時豆パン昭和の日 小林ろば
ため息と思ふ重さや落椿 坂川花蓮
懐かしきダットサンかよ春うらら 重松俊一
たましいは歌う春満月のオブリガード 宙のふう
街ひとつ幽体離脱蜃気楼 ダークシー美紀
春の野に肩を並べる遊芸なり 田口浩
書き溜めた蝶の俳句のひらひらと 立川真理
李香蘭語る祖母居て桃の花 立川瑠璃
敵味方嗅ぎわける鼻あたたかし 谷川かつゑ
阿弖流為アテルイの一統かもな蕗を食む 土谷敏雄
わが反骨腰骨にあり青き踏む 野口佐稔
筍ややっと裸のおつきあい 平井利恵
英字新聞すっと小脇に風光る 深澤格子
蜜蜂を労るように女体かな 福岡日向子
雑踏に癒されに行く桜かな 藤好良
夫の遺産は競売物件はなごろも 松﨑あきら
紋白蝶吾の書斎を覗き去る 武藤幹
襟ぐりのタトーがのぞく竹の秋 村上紀子
残花かな風に吹かれて昼の酒 山本まさゆき
ひとひらは一つのことば花吹雪 吉田和恵
納涼の酒酌み交はす危ふさや 吉田貢(吉は土に口)
清明の気を吸ひ込めよ父の体 渡邉照香
渡り廊下の断崖ウスバカゲロウ 渡辺のり子

『海原』No.29(2021/6/1発行)

◆No.29 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
節目なき痛哭を負う三月十一日 宇川啓子
狐火の麓より湧く被曝村 江井芳朗
三月の孤独汽船の影となり 大池美木
酢のごとき日日にも微光クロッカス 尾形ゆきお
海峡を蝶飛ぶことも有事かな 片岡秀樹
涅槃図の只ならぬ密マスクせよ 加藤昭子
春の月やはりパスワードが違う 河西志帆
雪うさぎもう誰彼のなき母よ 黍野恵
春の闇少しかためにふくらんで 小松敦
ステイホームグラスに夕日を一気かな 重松敬子
石蕗咲いて気さくな刀自とおしゃべりす 関田誓炎
鉄橋の鉄うすみどり春の川 田中亜美
啓蟄を昏くぬかるむ脇の下 月野ぽぽな
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
木木の芽のその韻律に触れんとす 遠山郁好
水に声火に声三月十一日 中村晋
春風や別れは駅の肘タッチ 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
飛花落花マスクをずらす食事法 前田典子
手鞠唄指の先まで鞠にして 松本豪
家系図を読み上げるように波の輪唱カノン マブソン青眼
ドアノブしっとりと春愁のゆくえ 三世川浩司
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
鼓草みようみまねのヒップホップ 深山未遊
透明な輪投げをひとつ冬三日月 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
何もない日常が好き鳥総松 森由美子
初蝶や忘れることもお弔ひ 柳生正名

松本勇二●抄出

嘘のあと柚子湯で伸ばす背骨かな 泉陽太郎
二人暮しの指の冷たさ赤蕪 伊藤淳子
春は曙追いかけることばっかり 大池美木
プレッシャーに強き青年悴めり 小野裕三
鍵盤のよう白く透く街背美鯨 桂凜火
余生という広き入口緑立つ 北上正枝
閃きの瞬間眩し寒雀 金並れい子
筋書きを言いたがる妻彼岸寒 楠井収
花菜の風を二つに割って納骨す 小林まさる
本当に眠ると春の森に出る 小松敦
目くばせはこころの瀬音海市たつ 近藤亜沙美
子をぎゅっとして春の日の終わらない 三枝みずほ
春のあらし鍋の把手のネジ締める 佐藤君子
少年の鳩尾あたり吹雪くかな 白石司子
水仙のまはり透明死にとうなか すずき穂波
氏子総代酔ふて候寒紅梅 髙井元一
菰巻きの菰焼く春の裏おもて 高木一惠
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
小綬鶏の声の高さに励まされ 友枝裕子
春立つや昨夜の私が見つからぬ 中村ひかり
茹で過ぎと男チマチマほうれん草 中村道子
山眠る里にふかぶか錠と鍵 本田日出登
青空の奥にあをぞら初蝶来 前田典子
牛乳をなみなみおおよそ遅日ほど 三世川浩司
風光る草食系のふくらはぎ 三好つや子
冬虹の脚の届かぬ生家跡 武藤鉦二
アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
フルートの音色のひとつ諸葛菜 横地かをる
春寒やさすらいの四肢ゆるく締め 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

節目なき痛哭を負う三月十一日 宇川啓子
狐火の麓より湧く被曝村 江井芳朗
水に声火に声三月十一日 中村晋
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ

 この作者四人は、被曝当時福島に在住していた。この内、三人は、今なお福島にとどまっているが、本田氏は今も埼玉に移住している。とどまるも去るも、相当に辛いこの十年だったろう。東北の人々は口が重く、誠実なだけに、自分の苦労を他者に安易に分かち合ってもらおうとはしない。国や地方公共団体に期待していても、到底復興のビジョンはみえて来なかった中、ひたすら自助、共助によって耐え抜いて来たのである。
 宇川句の「節目なき痛哭」とは、この十年の間、復興とその過程という節目が一向に見えず、ただただ痛哭の思いだけが積み重なっていった。その現実を三月十一日が来るたびに噛み締めさせられている。江井句。被曝して無人化した山村では、冬には狐が口から火を吐くといわれる鬼火が麓より湧いてくるという。それは死者の魂の訪れのようにも見えて、怖れと懐かしさの入り混じった思いで迎えている。兜太師もいうように、他界は此の世に隣り合っているような体感であったに違いない。中村句は、三月十一日の地獄絵のような阿鼻叫喚の現実を象徴的に表現したもの。「水に声」も「火に声」も断末魔の叫びそのもの。しかし十年を経た今、「水」や「火」を復興の象徴として、或いは未来へ向けての方向感として捉え返してもよくはないかとも思うがどうだろう。「まだそこまでは」という声も聞こえそうな気もするが。本田句では、被曝十年の長期にわたる避難生活が、高齢化の進展とそれに伴う心身の健康リスクをもたらしている現実を直視している。「骨盤の歪み」が「かすか」なうちはいいが、早晩取り返しのつかぬレベルに達するのは目に見えている。それを警告ではなく、現実の相の予兆と暗示している。

酢のごとき日日にも微光クロッカス 尾形ゆきお
涅槃図の只ならぬ密マスクせよ 加藤昭子
ステイホームグラスに夕日を一気かな 重松敬子
春風や別れは駅の肘タッチ 梨本洋子
飛花落花マスクをずらす食事法 前田典子

 緊急事態宣言下の日常のあれこれを詠んだ一連。尾形句。「酢のごとき日日」とは、閉塞感の中で日常が酸化し、酢のような臭気を発している状態と見立てたのではないか。そんな日日にも、清冽な水に漂うクロッカスのような、微光の差し込む瞬間もあるという。加藤句。釈迦の涅槃図をみると、まさに只ならぬほど数多の
人間や生きもの達が、過密なまでに集い寄って嘆き悲しんでいる。これではマスクをしてもらはないといけません、と訴える。涅槃図に託した三密への警告。重松句。ステイホームの日日の過ごし方。見事な夕日をグラスに取りためておき、日の暮れとともに一気飲みする。太陽から気の流れを頂く呼吸法。梨本句。感染防止対策として、親しい者同士の別れの挨拶は、接吻はもちろんハグや握手もご法度となり、もっぱら肘タッチや拳タッチが多用されるようになって来ている。春風の吹く駅頭には、就職や転勤、新入学の見送り場面があって、友人同士の肘タッチがそこここにみられる。肘タッチの着眼に、今の世相が見えて来よう。前田句。花も終わりの飛花落花の時期を迎えたが、今年は花見の宴も慎まねばならず、屋内での会食の際にもマスクして、時々マスクをずらす食事法がとられる。なんとも味気なく、会話が弾む余地もない。どの句も、リアルな実感そのものではないか。

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
 昭和生まれでも、昭和史を生きて来たといえるのは、戦前・戦後を通じて生きて来た人々であろう。それも作者のように五十年を越す昭和のキャリアを積んだ人に限られよう。この句の「龍の玉」は、単に植物としての存在感ばかりでなく、歴史を見てきた目玉をも象徴している。句意に素材の語感がうまく適合した好例ではないか。

春の月やはりパスワードが違う 河西志帆
 デジタル化の浸透で、キャッシュレス決済が普及している。日本などは先進国の中で周回遅れといわれているほどだが、高齢者ほど適応力が乏しいから、しばしばパスワードを失念したり、入力ミスしたりすることはある。決済不能となれば一大事。春の月におぼろに照らされながら、パスワードの相違に茫然とする老い一人の姿。まさか作者が当事者というわけでもあるまいが。

家系図を読み上げるように波の輪唱カノン マブソン青眼
 作者は、二〇一九年七月から一年間、ポリネシア・マルキーズ諸島ヒバオア島で、一人暮らしをした。そこでコロナに感染し、死線をさまよう経験をしながらなんとか無事に帰国できたらしい。おそらくこの句も、その時の経験をもとに作られたものだろう。かつてポリネシア古代文明の中心地であったその島には、大規模な先祖像が残っているというから、ひねもす繰り返される波の輪唱は、その先祖像の家系図を読み上げているように聞こえたのだ。そこで彼は、無季句五百句と長編小説一篇を書いたという。凄まじい体験の所産というほかはない。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

二人暮しの指の冷たさ赤蕪 伊藤淳子
 生活の中のどんなものに焦点を当てるかが作者のセンスである。作者は「指の冷たさ」に気持ちが届いた。流石だ。頷かざるを得ない。座五の赤蕪も冷たさを増長している。筆者も二人暮しになって久しいが、これほどの詩のある生活が出来ていないことに茫然としている。

鍵盤のよう白く透く街背美鯨 桂凜火
 街の様子が鍵盤のように白く透いていると感得するには相当な気分の昂揚が必要であろう。そういう境地に至った時には、言葉が書き留められないほどどんどん溢れて出てくる。その境地から口を突いた「背美鯨」もかなり冴えている。俳句は詩であるとつくづく思う。金子先生がよく言われた「感の昂揚」を作者が体現してくれた。

閃きの瞬間眩し寒雀 金並れい子
 感性とは閃きである、などとよく喋っている。作者は豊かな感性をして、よく閃いているようだ。脳の浅い部分で閃くのでその言葉はすぐに消えてしまう、とも思っている。閃くときは脳内スパークが発生する。それゆえ十分に眩しいのであろう。寒雀も光の中にいる。

花菜の風を二つに割って納骨す 小林まさる
 納骨は誰にも辛い経験だ。正面から吹く花菜風に骨壺を抱いた作者が歩いていくのが見える。その柔らかな風は骨壺にあたり二つに分かれていく。「花菜の風を」とゆっくりと書き出すことで落ち着いた納骨風景となった。

本当に眠ると春の森に出る 小松敦
 本当に眠れていますか、と聞かれたようでドキリとする。夜中に覚め昨日今日のあれこれを一つ一つ考えてしまっている。朝日が差すまでは悪い方へしか考えが向かない。もう一度眠ろうとするが実に浅い眠りになってしまう。これは偽りの眠りなのであろう。春の森にでるような本当の眠りを経験したいものだ。掲句は言い切ることで信憑性が高まった。断定は重要な一手だ。

目くばせはこころの瀬音海市たつ 近藤亜沙美
 誰かに意志を伝えるため目配せをしたようだ。それが心中の瀬音であると書いている。自分を覗き込み、自分を分析している作者。今にも折れてしまいそうな細い細い心であるが、海市を配置して少し明るくなった。俳句で均衡を保つと心も均衡を保てるようになる。

子をぎゅっとして春の日の終わらない 三枝みずほ
 まだ小さい頃であるが「ぎゅうっとして」と母親にせがむ孫がいた。抱きしめられた孫は安堵の表情であった。子育て真っ最中の作者の日常なのであろう。具体的な動きを書くことで詩になったし明るさも増した。

水仙のまはり透明死にとうなか すずき穂波
 亡母が毎年楽しみにしていた水仙が今年も黄色く咲いている。水仙で何か言ってやろうと思っていたがやられた。そのまわりは透明なのだ。閃きや凄し。それだけで十分なのに下五の直情が句にドラマ性を持たせた。展開させるとはこういうことなのであろう。

小綬鶏の声の高さに励まされ 友枝裕子
 小綬鶏は「ちょっとこい」を連呼する。もういいでしょ、と思うくらい鳴き続ける。その声の高さに励まされる作者は幸せだ。こういう人は生きる力を何からでも貰える。元気が出る俳句を読ませていただいた。

牛乳をなみなみおおよそ遅日ほど 三世川浩司
 牛乳を注ぐ分量を「おおよそ遅日ほど」と書き新鮮。なみなみ、なのでかなりの分量と思われる。誰かにそう言って注いで貰ったのであろうが、そういうジョークをすっと受け止めてくれる相方こそ素晴らしい感性だ。

アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
 こういうアルバイトがあるのだろう。コロナ禍に翻弄される人々を尻目にこののどかさはどうだ。浮世離れした作者であるが最後に春の愁いを置いて少し世の中への配慮を見せている。

薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
 一昨年母を亡くした。出来ていたことが出来ないので失敗ばかりする母をよく叱った。叱ったあと、胸の奥の薄い氷がパリンと割れたような気がした。何回も何回も薄氷を割った。作者は追憶でなく現在只今薄氷を割り続けている。介護の心中を具現化して見事。

春寒やさすらいの四肢ゆるく締め 若森京子
 さすらいの四肢がじつにかっこいい。あてもなく彷徨ってしまう手足ということか。それをきつくではなくゆるく締めるのである。春が来たがまだ寒い。出て行きたい思いと自重する気持ちのせめぎ合いを楽しんでいる作者か。兜太先生の「日常に居ながら漂泊せよ」をこういうベテラン作家がひょいと思い出させてくれる。層の厚い集団で俳句をしているとこういう恩恵もある。

◆金子兜太 私の一句

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

 グアムに行ったとき、トラック島から来たというホテルの掃除婦から、「ナツヱもう一人はフミコ。ニッポンアメリカバンバン」と話しかけられました。兜太師がトラック島を去るときの「人の為に生きよう」との掲句の決意と遺骨収集の動きの鈍さ、二千万人を殺害した大東亜戦争の反省の無さが対照的に思わされます。句集『少年』(昭和30年)より。長尾向季

冬眠の蝮のほかは寝息なし 兜太

 〈海程賞〉を受賞した折に、「風土に浸透するように育つ詩情」という御評と共に頂いたご染筆のお句である。幼少の頃に過ごした山裾での自然をよく思い出すのだが蝮もよく見かけた。木洩れ日に照る沼を泳いでゆく、無気味でもあり神秘的でもある光景など忘れがたい。先生ご自身の愛着深い句を頂いたことに加えて、私の体験もお話して感謝したかった。句集『皆之』(昭和61年)より。前田典子

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選

十二月残る軟膏絞り出す 石川青狼
皺くちゃの幸せと浮く冬至の湯 伊藤巌
○ゲレンデで待てよとおとと納棺す 稲葉千尋
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
○返り花昔よかったなんて嘘 鎌田喜代子
宗谷本線鮭のふ化する駅がなくなる 佐々木宏
○いい人でいい空であれ山眠る 佐藤詠子
山の和尚きょうは銀杏洗って居り 篠田悦子
木枯が石室の夜を叩きはじめ 白石司子
鉦叩ここら地雷のあるところ ナカムラ薫
アウシュビッツ忌スープの鍋をパンでぬぐう 中村晋
白黒黄みんな肌色冬木の芽 中村道子
冬晴や国に穏やかなる死相 藤田敦子
日に月に向く枯菊をまだ刈らず 前田典子
友よ癒えよ歳晩を来てがらんどう 松本勇二
今朝もまあ平熱雪女と暮らす 宮崎斗士
羽後がごろりと母の座の大南瓜 武藤鉦二
昭和とは畳の上のカーペット 望月士郎
防波堤闇に人間灯りだす 山内崇弘
心臓のバイパス五本吊る聖夜 山谷草庵

楠井収 選

○ゲレンデで待てよとおとと納棺す 稲葉千尋
冬紅葉拾った嘘をもてあます 奥山和子
二番目の母となる日やゐのこづち 奥山富江
肩書の過去をよすがや冬夕焼 片町節子
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
膳に付くマスクホルダー年忘れ 加藤昭子
○返り花昔よかったなんて嘘 鎌田喜代子
○獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
白鳥が来ている眼鏡はずすたび こしのゆみこ
人も街も切り抜きのよう十二月 三枝みずほ
○いい人でいい空であれ山眠る 佐藤詠子
○人間を呼び捨てにする枯野かな 峠谷清広
初夢や誰も隣に座らない 遠山恵子
秋の陽やマスク忘れてめだちおり 畑中イツ子
空席あり死んだふりする冬の蝿 増田暁子
○残る鴨切手を貼ってあげようか 三浦静佳
○かなかなや私のどこか切り取り線 宮崎斗士
帰り花行ったり来たりの旅だった 村上友子
来たか元気か杖並ぶ冬日向 森田高司
新蕎麦や別れた男の食べっぷり 梁瀬道子

佐藤詠子 選

青いミューズ空想の空域の翼 阿久沢長道
寒昴呪文のようにありがとう 大髙洋子
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
綿虫やアナログ的に主知的に 金子斐子
自惚れも恋のひとつや吊るし柿 河西志帆
ダイヤモンドダストいけない子どもだつた 小西瞬夏
しずかなるあなたの左脳寒の入り 近藤亜沙美
慌しく九十歳が来たり花柊 篠田悦子
我という一つの記号落葉期 白石司子
冬帝の空踏み鳴らし襲い来し 竪阿彌放心
月の舟オンライン句会してますよ 谷口道子
熊よけの鈴を子猫にあげました 田村蒲公英
鶴凜と現在未来見据えて可 蔦とく子
○人間を呼び捨てにする枯野かな 峠谷清広
豊満な角の張り方新豆腐 中内亮玄
くるっと梟うしろの正面も闇 中村晋
寒たまご君の見た夢たべている 服部修一
○残る鴨切手を貼ってあげようか 三浦静佳
存在の自由に耐えて一裸木 嶺岸さとし
○かなかなや私のどこか切り取り線 宮崎斗士

山下一夫 選

孫は腹の中で眠り牡丹鍋 井上俊子
狐火の血筋集めるコンクール 小野裕三
マンモスの影踏むあそび枯野中 刈田光児
正誤表探す旅です海鼠です 川崎益太郎
○獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
嚔や人間少しほどけたり 佐藤詠子
遠き日の友は矢車草の瞳 重松敬子
弦として吹かれるからだ芒原 芹沢愛子
雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
しぐるるや勾玉の闇始まりぬ 寺町志津子
そっと息吹けば兎になる落葉 鳥山由貴子
母の手は寒冷前線聖夜降る 中野佑海
風花や手紙抜けだす連綿体 西美惠子
高齢者という洞穴雪降りだす 丹生千賀
五体投地のライダーありし花野かな 野田信章
無患子拾ふ秘めごと洩れないよう拾ふ 長谷川順子
しきりに笑う白息二重硝子の向こう 藤野武
奥歯抜くふと荒野に佇つ狐 増田暁子
白鳥来どこかで弦の切れる音 茂里美絵
鮟鱇鍋たえず昭和という分母 若森京子

◆三句鑑賞

鉦叩ここら地雷のあるところ ナカムラ薫
 危いぞとか、悲しいねとか、一言も書いてない怖さです。戦場という名の土地など何処にもなく、みんな人の住む場所。一体どれほど埋めたのかさえ覚えてない人達と、同じ空の下で、笑顔のままの子供の手や足や命が、どれほど飛び散ったかを、その目で見て欲しい。悲しみの善良な土に紛れているその武器を、心底憎いと思う。

白黒黄みんな肌色冬木の芽 中村道子
 大坂なおみさんのPRアニメを見た。白い肌、明るい髪の色、細い腕、正直誰なのか分からなかった。配慮が足りなかったと企業側は謝罪したというが、反対にその配慮・・が起こした騒ぎだと私は思う。白に白を混ぜると白になり、白に白以外を混ぜると白にならない。これは変わらないことだから、みんな肌色‼それでいいじゃないか。

昭和とは畳の上のカーペット 望月士郎
 思わず膝を叩いた。そうだった。畳を隠すと、卓袱台の室が洋間みたいになった。女房と畳は新しい方がいいなどという男達もいなくなった。あの頃からか、使い捨てが文化的暮らしだと思い込みひた走ったのだ。海外で買ってきた土産の裏にメイドインジャパン‼、今の何処ぞの国と少し似ているが、あの畳たちは元気だろうか。
(鑑賞・河西志帆)

二番目の母となる日やゐのこづち 奥山富江
 人生の節目に際し、その決意を感じさせる一句。この方は今回継母となり、ある家庭の子供に接していくこととなった。実母は死亡したのか、離婚したのか。いずれにしても子供には罪はないのだ。今後色々困難なこともあろうが、ゐのこづちのようにしっかりとその家庭とくっつきあって過ごしていきたいとの決意なのだ。

獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
 この青年は悪事を働き、親には迷惑をかけ、結局牢獄に入る。しかしその後罪を悔い、模範的な囚人となった。刑期を終え獄舎を出る際、世話になった人々に心を込めて一礼をした。安堵とともに故郷の父母への思いが心をよぎる。リンゴの甘酸っぱい匂いのような思いなのだ。リンゴの香が句のイメージを一層膨らませている。

帰り花行ったり来たりの旅だった 村上友子
 この方の人生色々あったわけですね。この句は実際旅に出て回り道などしたことを言っているが、あと人生についても紆余曲折あったことも示唆している。だがまあ総じて幸せな人生だったなあと実感しているのだ。それは末期の床の中かもしれぬ。そうなのだ自分は晩年予期せぬ花を咲かせることが出来たのだ。帰り花が秀逸。
(鑑賞・楠井収)

我という一つの記号落葉期 白石司子
 一つの記号とは、一つの人生を表している気がした。年月を経て今の作者が伝えたいことは、口では言い尽くせない「形」なのだろう。どんな意味の記号か知りたくなる。落葉後の裸木の姿もまた生命の標の記号のようで心惹かれる。俳句も人の生き様の記号かもしれない。

寒たまご君の見た夢たべている 服部修一
 悪夢を食べるという伝説の獏を思い浮かべた。とは言え、君の見た夢がどんなのだったのか。何かに追いかけられる夢、終わらない仕事の夢……。夢は目覚めてすぐ口に出さないと忘れてしまう。慌てて話す君の素直な表情が愉しくて、滋養豊かな寒たまごごと君の夢を笑って食べた。寒中のほっこりする一片だ。

存在の自由に耐えて一裸木 嶺岸さとし
 裸木は無防備な神だと思う。何も纏わず真実のまま立ち、存在の重さを見せつけている。寒風の日、その枝は呆けたふりで踊ってるようにも見える。作者の言う存在の自由は生きる価値への自由かもしれない。この時世は自己の存在にさえ迷う自由。だが、己の立ち位置で今を生きゆく力を一裸木に重ねたのだろう。
(鑑賞・佐藤詠子)

獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
 刑務施設に収容されていた青年が出所する。十分に悔い改めたことが挙動に表れていて清々しい。巧みな情景描写である。実見は考えにくいので映像等を目にしてのことか。収容の背景には犯罪の重大、悪質、反復等があるはずで、青年期の間での矯正は容易ではなかろう。かくあれかしとの切望かなどと様々に味わうことができた。

五体投地のライダーありし花野かな 野田信章
 交通事故が起こった辺りの花野である。衝突事故もあり得るが、恐らくは急カーブをオートバイが曲がり切れなかった自損事故。大怪我や死亡であれば悲惨である。しかしなぜかほのぼのした気配がある。仏教用語「五体投地」の効果であろう。花野もまた極楽に見えてくる。その中空を舞ったライダーの幸いとか、想念が湧いた。

しきりに笑う白息二重硝子の向こう 藤野武
 「白息」までを上句として、箸が転げてもおかしい年頃の女子の寒中でのおしゃべりと見る。下句には、暖かい室内にいる作者の視点がある。「二重硝子」は、寒冷地仕様または防音であろうが、上句が象徴するものとの隔絶という二重の意味も潜んでいよう。七七七の緩いリズムが硝子の曇りまで描出しているかのようで素晴らしい。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

否定からはじまるおんな黄砂降る 有栖川蘭子
心根に龍と入れ墨涅槃西風 飯塚真弓
朧夜の起きたら虫になる話 植朋子
ニッポンを語る少女や麦青む 上田輝子
春一番くしゃくしゃのビニールが私 大池桜子
哺乳瓶の乳首が前世とや朧 大渕久幸
がまんとは人を見ること椿落つ 梶原敏子
正月や蜘蛛が真っ直ぐ下降する 葛城広光
風花に舟という舟やせていく 木村リュウジ
馬糞ボロ採りの合間にかき込む菜飯かな 日下若名
北風や尻が狡いと鼻がいう 後藤雅文
タトゥーとは哀しい曲線鳥雲に 小林育子
好物は金時豆パン多喜二の忌 小林ろば
山里の子子孫孫ししそんそんや山笑う 坂本勝子
囀や媼三人背に刺青 佐竹佐介
優しさにすこしおびえる春の雷 宙のふう
雪平に遅春の粥をまた噴かせ ダークシー美紀
酔覚めて黙りこくりし春の月 高橋靖史
鳥帰る未完のままに自画像 立川真理
妙齢の教師につぶて雪合戦 土谷敏雄
隣人は朝日浴びをり残る雪 福田博之
恋文を丁寧に折る二月かな 藤川宏樹
春は夢、夢でのみ逢ふ人もゐる 宮本より子
春灯のどれにも我を待つ灯なし 武藤幹
商いのさくらまつりに自衛隊 村上紀子
ばあちゃんの甘露煮じいちゃんの目刺 矢野二十四
アーモンドを冬の涙として噛る 山本まさゆき
家系図に嬰児を加え下萌ゆる 渡辺厳太郎
春の雷ゴッホの自画像髭もそり 渡邉照香
ねむれない吐息いつしか雪女郎 渡辺のり子

『海原』No.28(2021/5/1発行)

◆No.28 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

元朝をパンチで交わす吾家かな 綾田節子
編み方の緩き八十路の冬帽子 石川和子
ひとりという人の気配や藪柑子 伊藤淳子
人の声波紋となれり紅葉狩り 内野修
掌に新米転げ復興す 江井芳朗
裸木は歩いているよ夜と霧 大髙宏允
デリカシーとは綿虫縫って歩くこと 奥山和子
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
姫始アラビアンナイトの木馬 川崎千鶴子
初鏡おとこにはなき身八つ口 河西志帆
生け花の七種組み終え年惜しむ 金並れい子
冬銀河君との多元方程式 黒済泰子
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
兄逝きてきっぱり軒昂老椿 小松よしはる
許すとは守ることです雪明かり 佐孝石画
大気凍つ鉈目のごとく残る月 佐藤稚鬼
石蕗咲いて気さくな刀自とおしゃべりす 関田誓炎
実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大樹雪に聳え百年の孤独 十河宣洋
籠もり居を抜け出して行く風船 髙井元一
モノクロのくしゃみ三丁目に消えた 高木水志
白黒のマスクはらませ反駁す 竹内一犀
冬の沼言葉愛しく粒立つよ たけなか華那
初日記真砂女愛でたり嫌ったり 立川弘子
麦踏んでマスクの奥の二枚舌 館林史蝶
冬木に陽愛よりありふれた親切 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
前の波の鎮魂歌なり波の音 マブソン青眼
信じたし今は寒燈程の距離 山田哲夫
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

松本勇二●抄出

かしんかしん空家と老人眠る山 有村王志
大晦日の出棺母よ雪です 石川青狼
ぴんと張る歯朶黎明期の家族 石川まゆみ
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
少し硬いが噛むと十一月の味 大沢輝一
夫さする枯蟷螂の強き眼よ 大野美代子
春を待つ栞ばかりを溜め込んで 奥野ちあき
冬ぬくし柴犬三匹分の距離 奥山和子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
初御空ひよどりの木を借り助走 狩野康子
薄明や寒卵はた感嘆符 北村美都子
晩節はぎんなん踏みし所より 黍野恵
冬茜古書店にいる十五の私 小池弘子
龍の玉ひとつを空へ戻しけり こしのゆみこ
そろそろ家族が透けて来る頃です雪 佐孝石画
下手な字に落ち込む女山眠る 清水恵子
数え日の貨物列車や米研ぐよう 高木水志
故郷ふるさとや枯野を出たらまた枯野 峠谷清広
冬木立伐られ氏神あらわるる 鳥井國臣
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
大枯野老いては群れず群の中 長谷川阿以
看る人の手の甲にメモ寒昴 藤田敦子
山眠る母より父がなつかしく秋 藤盛和子
マヤ暦辿るあんかに赤きコードかな 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
しゅんしゅんと気化する歳月師走くる 増田暁子
焚火から泣き声がするわずかだが 松本豪
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
父だけが配達牛乳飲んでた冬 三木冬子
地蔵彫る夫の背中の十二月 村松喜代

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ひとりという人の気配や藪柑子 伊藤淳子
 藪柑子は、冬場の庭の片隅あたりに、真っ赤な小豆大の珠のような実をつけ、楕円形のつややかな葉の蔭から二、三粒ずつ輪になって顔をのぞかせる。そんな藪柑子が、ある時ふと身じろぎのように揺らいだのは、かすかな人の気配を感じたからであった。それは藪柑子の実のゆらぎが招いたかのようなひとりの人、「ひとりという人」とあえてくどくいうことで、たゆたうような人生の時間の流れに浮かぶ。どこか漂泊感を湛えているような気配。

裸木は歩いているよ夜と霧 大髙宏允
 「夜と霧」は、単なる霧の夜ではなく、フランクルの名著『夜と霧』を意識していよう。そこでは、人生はどんな過酷な情況にあっても生きてゆく意味があることを教えてくれる。「裸木は歩いているよ」には、すべてを失った限界状況下にある人生においてなお、生きる目的をもって進む人間像をイメージしているのではないか。そしてどんな状況にあっても、人生は生きてゆく意味があることを暗示する。それは「夜と霧」の映像から広がるものだ。

デリカシーとは綿虫縫って歩くこと 奥山和子
 デリカシーは、いうまでもなく繊細さや感覚感情のこまやかさ。そのこころは、「綿虫縫って歩くこと」と喩えている。なるほどとうなずかされてしまう。「繊細」「優雅」という定義的言葉でなく、どこか照り映えるような外来語の語感によって、景が生動してくる。縫うように歩くのを、縫って歩くと言い切って景に身をもみこんでいく。デリカシーを体感している感覚だ。

冬銀河君との多元方程式 黒済泰子
 冬は夜空が冴え渡るから、寒空に一段と星が大きく輝く。星冴ゆる空だ。「君との多元方程式」とは、そんな夜空の下で、彼との成り行きのあれこれをとつおいつ思い悩んでいる。多元方程式は二つ以上の未知数をもつものだから、彼の気持ちのよくわからない部分を推し測っているうちに、ますます難解の度が加わる。すっきりした解に届くのはいつの日のことだろう。ああとふり仰ぐ冬銀河。そこには未知の解があるに違いない。最近こういう数学用語を使った情感の句を見かけるが、この句は数少ない成功作の一つと思う。

兄逝きてきっぱり軒昂老椿 小松よしはる
 作者の実体験の一句。おそらく亡くなった兄は、作者にとってかけがえのない存在だったに違いない。周囲の人々はこもごもお悔やみや励ましの気遣いをしてくれる。その配慮に対し、「きっぱり軒昂」とは、毅然たる姿勢を示す。内心の悲しみはたとえようのないものでありながら、ぎりぎりまでの心情の溢れをせきとめている。それが悲しみの深みに耐える唯一の姿勢であり、老いたる吾の意地でもある。健気な老椿一輪の姿。

大樹雪に聳え百年の孤独 十河宣洋
 雪原に立つ一本の大樹。百年を超える風雪に耐えて、亭々と聳え立つ。あたりに他の樹木はなく、ひとり孤高を保つように立ち上がっている。作者は北海道の人だから、大雪原に立つ春楡の巨樹とみた。もっとも「百年の孤独」は、南米のノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスの代表作でもあり、宮崎県の麦焼酎にも同名の銘酒があるが、この場合は、北海道の風土とみてよかろう。しかしその名にちなんだ数々の名品があることから、一句に風格を与えていることも間違いはない。

冬木に陽愛よりありふれた親切 中村晋
 この句は、東日本大震災被災地の生活感から生まれたものとみた。災後十年を経て、ようやく冬の木に陽射しが訪れ始めた被災地。とはいえまだまだ昔の姿にはほど遠い。多くの応援メッセージを頂き、その方々の愛を有難いとは思っているものの、本当に必要だったのは、ごくありふれた小さな親切な行動だった。その積み重ねが、復興の歴史を作っている。

信じたし今は寒燈ほどの距離 山田哲夫
 信じたいものが何か明示されていないが、おそらくは懐かしさをともなう肉親や幼馴染の消息であろう。「寒燈ほどの距離」とは、まさにその心情の声がきこえてくるような距離感なのだ。寒燈は厳しい寒さの中にあるがゆえに、いのちの温かみを感じさせるものでもある。しかも「今は」という時間の設定が、作者の境涯感の中の一場面として語りかけてくるのである。

自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子
 我が国のコロナ禍への対応は、これまでのところ強権的規制ではなく、もっぱら自粛要請によってそれなりの効果をあげている。そこには日本特有の社会的同調圧力もさることながら、内在する文化の力、共同体の力が息づいているからだ。寒鯉は薄氷の張った池底にじっとしている。その姿はあたかも、自粛を守っているかのよう。「鰓呼吸」は、その寒鯉の固唾を呑むような姿を、今の人間の端的な自粛振りに重ねてみているのだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

かしんかしん空家と老人眠る山 有村王志
 丁度今朝のニュースで空家に施錠を呼びかけていた。空家窃盗が多くなっているらしい。大分県も同様に空家が増えてきているのであろう。そして老人も。かしんかしん、をオノマトペとして読んだ。山中に眠る空家と老人を思ううちに思わず口を突いたのが、かしんかしん。冬木を叩く音のようでもあり淋しく冷たい擬音であった。

大晦日の出棺母よ雪です 石川青狼
 本家の爺様の葬儀が大晦日にあり、牡丹雪が降る中を両親に連れられて行った記憶がある。釧路の雪はもっと厳しい雪だ。お棺の中の母上に「母さん雪だよ」と話しかけている作者。句にすることでその時の切なさがずっと残ることになる。

少し硬いが噛むと十一月の味 大沢輝一
 少し硬い、しかヒントがない。沢庵かスルメイカか見当がつかない。しかし作者にとっては大切な十一月の味なのである。奇妙な句であるがどこか味がある。

冬ぬくし柴犬三匹分の距離 奥山和子
 ソーシャルディスタンスという語はコロナ禍以後通常語になった。柴犬三匹分が作者のセンスで諧謔味があった。柴犬を連れて散歩中、他者との距離に気を遣う作者が見える。現在只今の日常を上手く掬い上げた。

初御空ひよどりの木を借り助走 狩野康子
 鵯は群れて楠の大木などで休んでいたりする。何かの拍子で一斉に飛び立つとその多さに驚く。まさにひよどりの木、である。そこにはエネルギーが満ちている。そのエネルギーを分けてもらい今年も元気に生きて行こうとする作者。自然の中にある、気のようなものに興味を持つ作者なのであろう。

龍の玉ひとつを空へ戻しけり こしのゆみこ
 龍の玉を見つけた時は何か嬉しい。その光沢に引き付けられ手に取った記憶は誰にでもある。一個だけ空に戻すとはどういう行為なのか。実際には空にかざしただけかも知れないが、戻すと書き詩になった。虚構であるが腑に落ちた。こういう明るい句に出会えると嬉しくなってくる。下五で句を展開させる、とはこういうことだ。

そろそろ家族が透けて来る頃です雪 佐孝石画
 雪の降る夜は静かだ。しんしんと降る雪の中いろいろなことに思いを巡らせていると頭の中が次第に澄んでくる。そういう状態で家族を思うと透けて来るように感じたのかもしれない。作者は「感が昂揚」してくる過程を書こうとしたのではないだろうか。

数え日の貨物列車や米研ぐよう 高木水志
 年の瀬の貨物列車が平常時とどう違うのか分からない。米研ぐよう、の形容でシャッシャとかシュッシュという音が聞こえはする。せわしない年末の貨物列車走行時の喩えとして、米研ぐは合っているのではなかろうか。

故郷ふるさとや枯野を出たらまた枯野 峠谷清広
 枯野を歩き切りやっと出たと思ったらまた枯野があると書いている。上五の大きな書き出しと相俟って雄大な景色が見えてくる。自虐的な句が多い作者であるが、当該句は故郷賛歌とも取れる大きく構えた一句であった。

目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
 突然目隠しをされたときにはときめく。異性間ではことさらであろう。こういう時代もあったような気がする。そのときめきに似ているのが時雨と書く。日本の時雨のイメージとはかなり遠い異国の地の時雨感が書けた。

大枯野老いては群れず群の中 長谷川阿以
 自身は群れないと思って生きているが、実際には群の中に居る。生活者として群は避けられない。大枯野をどんと据えたことで作者の矜持の堅牢さがうかがえる。それにしても、老いては群れず、はかっこいいフレーズだ。

看る人の手の甲にメモ寒昴 藤田敦子
 看護師さんの手にはよくメモが書かれている。ここでは看護師ではなく、家庭内における看る人かもしれない。寒昴の斡旋により冷たく白い手の甲が眼前に現れる。

マヤ暦辿るあんかに赤きコードかな 藤原美恵子
 マヤ文明に興味を持ちそれを辿っているという上五から、あんかへ急降下する落差に鮮度があった。四国山中で育った筆者は炭火を入れた行火の記憶がある。その後電気行火に変わって行った。そんな落差激しい二物、電気行火の赤いコードとマヤ暦は郷愁感という領域で微かにつながっている。

焚火から泣き声がするわずかだが 松本豪
 生木を焚火に入れると水分が出てくる。その時に何かしら音がする。それを泣き声と感得した。下五に、わずかだが、と書き足すユーモア溢れる表現力を称えたい。

◆金子兜太 私の一句

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫 兜太

 今から五、六年前、「今月のこの人」というある雑誌の対談に掲載されていたこの句は、心に原郷を持ちながら、本能のまま、荒々しく、自由に、平凡に、愚を自覚しながら心の糧を俳句に求めて生きようと決心した先生が日銀時代に詠まれたものという。まさに先生!と思った一瞬の句でした。熊谷名産の「五家宝」を美味しそうに召し上がっていた写真の先生の横顔と共に土着の匂い、土の手触りを含みつつ先生のお人柄そのものとして洗練されて大好きな一句。句集『遊牧集』(昭和56年)より。北上正枝

眼鏡ばかりの電車降りれば火まみれに 兜太

 高校生の時に手に入れた『今日の俳句』と共に、手許に『暗緑地誌』が二冊あり、一冊は金子兜太と署名がある。この句集には昭和42年からの句が収録されているが、その頃に私は作句を始めた。また、昭和46年11月の伊良湖勉強会で森下草城子さんに紹介されて初めて金子先生とお話をしたが、巻末のこの句が発表された時期と重なる。こじつけが過ぎたかも知れない。だれもが忙しくしていた時代でもあった。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。若林卓宣

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選
秋惜しむ逆さに置きしマヨネーズ 大沢輝一
バラバラに手足意志持つ十三夜 大西政司
秋暑し幼ななじみという他人 奥山富江
室の花夕日は赤いとは限らぬ 北村美都子
足裏にいろいろくっついて良夜 小松敦
○端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
小春日の㾱車四角に畳まるる 鱸久子
埋め立地を秋触われる水はなくて たけなか華那
萩の風少女はつめたいやわらかい ナカムラ薫
死がこわくなって大人や秋のくれ 中村晋
里芋のぬめりのように母と娘は 根本菜穂子
コスモスの戦げば戦ぐほど夜明け 野﨑憲子
サングサや辺野古のジュゴンうろつくよ 疋田恵美子
林檎むく不安があばれだす前に 藤田敦子
満月の街少年の暗い脛 前田恵
○霜の夜を兜太の残党として潜む 松本勇二
髪乾く途中熟柿になる途中 三浦静佳
○何もない部屋に転がる月があり 山内崇弘
ごうごうとわれに釘打つ夜長かな 山本掌

楠井収 選
コロナ来るゆるり首折る曼珠沙華 泉尚子
秋冷や風の2キロの学校道がっこみち 伊藤巌
幼児の問いは難し冬銀河 伊藤雅彦
竹の春むだ話したかったのに 大髙洋子
俺いずれどんぐりころころ待っててね 岡崎万寿
めぐみちゃんと呼ぶ声嗄れ星流る 鎌田喜代子
○軽トラだけど乗つてゆきなよ野菊 木下ようこ
酔芙蓉晩成なんぞコケコッコ 黍野恵
落蝉のふいっと飛立ち焦燥感 黒岡洋子
○端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
名月へ夫の作業着干しました 高木一惠
長き夜や亡き父を待つような母 峠谷清広
白魚や無声映画の女給B 遠山恵子
病む人が看る人を抱き小鳥来る 中村晋
吊し柿とキャラメルほどの距離である 松本千花
ぎょっとする妻の落書き白桔梗 宮崎斗士
手話の子へ茶の花ひとつずつ咲くよ 村上友子
新米と母の体重同じとは 山内崇弘
マスクした顔で別れてそれっきり 山田哲夫
○はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子

佐藤詠子 選
裏窓に来ている火星と守宮かな 石川義倫
桃吹くや言葉が軽くずれてゆく 伊藤淳子
冬蝶にもてあそばれている傘寿 伊藤雅彦
石蕗の花斜め斜めに再起する 上野昭子
冬たんぽぽ迷子のように踞る 宇川啓子
ノイズばかりを拾って秋の躰 榎本祐子
点滴に預けし利き手雁わたる 北村美都子
○軽トラだけど乗つてゆきなよ野菊 木下ようこ
優しすぎる雲にうつむく鴉かな 佐孝石画
したたかにみな古びしや冬囲い 鈴木栄司
待つことに少しもたれて秋袷 田中雅秀
朝寒や呼び捨てされるように起き 峠谷清広
落葉掃く消せぬ傷口なぞるごと 藤野武
俳句にも骨格のあり冬けやき 船越みよ
二人の耳がひとつになって夜長かな 宮崎斗士
木菟啼いて当てずっぽうの余生かな 武藤鉦二
三日月や滲んだままに投函す 村上友子
○何もない部屋に転がる月があり 山内崇弘
託老所のバス左折して時雨くる 吉田朝子
○はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子

山下一夫 選
うどん啜るみたいな会話星流る 榎本祐子
決断の途次に轢かれし秋の蛇 川崎千鶴子
うそ泣きをしてひぐらしを黙らせる 川西志帆
恋人よ落葉を紅い順に置く 木下ようこ
そこにある太陽林檎齧るなり 小西瞬夏
鴉去る私が鴉になったあと 佐孝石画
燕帰る拾い読みで終わる日々 芹沢愛子
秋を吹かれる静かに千切れながら 遠山郁好
除染とは改竄である冬の更地 中村晋
骨拾う約束の友大根引く 仁田脇一石
露の玉の中に玉ありヒツヒツフー 野﨑憲子
泡立草美しと老身立ちつくす 野田信章
レモンの時代甲高の足を憎みて 日高玲
しろい風しろい知らせがこんと来る 平田薫
○霜の夜を兜太の残党として潜む 松本勇二
バレリーナの正しき呼吸九月来る 宮崎斗士
すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
長き夜の次のページに象歩む 望月士郎
マスク越しに言ふし浮寝鳥眠いし 柳生正名
文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子

◆三句鑑賞

秋暑し幼ななじみという他人 奥山富江
 同級会の後「死ぬなよ〜」と言って手を振った。私も「死なないよ」と返した。保育園からずっと一緒だった。暗くなるまで境内で遊び、何年たってもその景色はすぐに思い出せた。戦後数年で生まれた子供達は、何処に行っても子供だらけで、上手に喧嘩して上手に仲直りをした。親戚よりも近かった。だってこんなにも悲しい。

サングサや辺野古のジュゴンうろつくよ 疋田恵美子
 絶滅危惧種のジュゴン、遠目にはちょっと太めのマーメードが、今途方に暮れています。海に住む草食のほ乳類の、そのテリトリーの海が埋め立てされるという噂を聞いたと言うんです。象と遠い親戚とはいえ、今さら陸に上ることもできません。食う道を阻み、いつも絶滅に力を貸すのが人間です。先生の「君と別れてうろつくよ」の句が心の中をかけ巡ります。懐かしいあの声と一緒に。

満月の街少年の暗い脛 前田恵
 ぶつけてこんなに痛いから、齧られたらそりゃあ痛いと思うけど、世間の親はそんなに痛くないらしい。そうそう最近誰ぞが満月に勝手に横文字の名を付けた。年寄りは無邪気にスマホで追い続け、若者はその反対側に行こうとしている。星がみんな帰っても、また此処に、痩せた月が太りにやってくる。
(鑑賞・河西志帆)

端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
 幸せになる心洗われる句。世の中集合写真等を撮る時は子に真中に居るよう言う親もいるわけだが、この親はそうではない。子に謙譲の心、犠牲の心を教えたのだ。負けるが勝ちということもあっただろう。冬菫のように小さな愛とか幸せを感じる家庭だったのでしょう。素敵な両親と子に乾杯。自戒を込めて鑑賞。

病む人が看る人を抱き小鳥来る 中村晋
 何とも哀切を感じる一句。病人はもう末期の夫。夫婦の生活はこれまで紆余曲折あった。しかしこの夫は何事も一徹の男。会社生活は勿論、家庭生活でも、また自らの闘病生活も。残していく妻を思う心も一徹。それが男のロマンなのだ。思わず妻を抱きしめる。夫婦別々のこれからの世も夫々小鳥が来るような生活が送れそう。

ぎょっとする妻の落書き白桔梗 宮崎斗士
 上中と季語の落差。白桔梗のような清楚な妻。過日夫は使い古しの子の教材に書いた妻の文字を見つけた。好きなものに異性の名。嫌いなものは夫の寝顔。いやそんな深刻なことではないかも。何と嫌いなものに納豆。好きだと共に食していたのに。夫は絶句。実は関西出身の妻は納豆が苦手。まあこの位の落ちなら救われますね。
(鑑賞・楠井収)

優しすぎる雲にうつむく鴉かな 佐孝石画
 心の美しい人の前では、自分の雑な思考や行動が恥ずかしくなる。優しすぎる雲に鴉がうつむくのは、我らと似ているかも。善悪に惑いながら皆、現実を生きている。若い頃、爽やかに語っていた夢とは違う空の下に今がある。けれど、俗世もまた良かれ。人も鴉も凜とした生き方を持つ。絹のような雲は生き物全ての憧憬だ。

待つことに少しもたれて秋袷 田中雅秀
 待つという「時間」に寄り掛かると読んだ。待つ時間は、想定外の自由でもある。時間に心を委ね、素の自分を思い出せるのだろう。秋袷には、初秋のやわらかな女性の潤いを感じる。単衣ではなく裏地のある袷の着物を用意し、移りゆく季節を静かに待つことも作者にとっての少し凭れた愉しみなのかもしれない。

はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子
 原稿を書き終えた後の開放感を目指して、筆を握る。言葉が溢れてくる。結局、省略しながら字数を整えるいつものパターン。せっかくの想いを削るのは、淋しい。ともあれ、自分の分身ができあがった。「はしょって」が、お茶目だ。そして、自分だけの言葉を最後に添える。夕暮れの部屋に草の実をそっと置くように。
(鑑賞・佐藤詠子)

レモンの時代甲高の足を憎みて 日高玲
 俗に日本人の足は幅広甲高と言われるが、欧米人との比較では幅広甲薄らしい。掲句の主体は甲高な自身の足を憎んだのか、日本人らしく甲薄なので欧米人様の甲高の足を憎んだのか。身体の目立たない箇所への拘りが少女を思わせるので前者と思う。「レモンの時代」との措辞が余すところなくその多感と輝き、香しさを伝えている。

長き夜の次のページに象歩む 望月士郎
 一読、深更まで読書にふける場面が思い浮かぶ。静まり返った書斎でふとページの向こうに象の気配を感じるのである。それほどにリアルな物語なのか、過度の集中が幻想を招いたか、あるいは入眠時幻覚か。およそ似つかわしくないシチュエーションに生身の巨体を喚起させる下五の措辞が登場して断層が生じ、そこに想念が湧く。

マスク越しに言ふし浮寝鳥眠いし 柳生正名
 「し」の韻が目を引く。二番目と三番目は若い人の口吻でよく耳にするが俳句では珍しい。接続助詞で並列とすると後には結句が続くはずである。季語「浮寝鳥」は和泉式部が「憂き寝」を掛けて涙に暮れて寝る身に例えて詠んだという。マスクも外さぬままに別れを告げられ悲嘆に暮れたが眠気には勝てないという自嘲か。深い。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

冬ぬくし大楠の産む光かな 安藤久美子
冬蝶や逸る気持ちの透けてゐし 飯塚真弓
神といっしょに野良犬の背を哄笑す 伊藤優子
下の子を肩車して火事の跡 植朋子
ポケットの除菌スプレー探梅です 上田輝子
風花って出してない手紙みたいだ 大池桜子
棚を開け隠した黒子をまた付ける 葛城広光
自画像に足され白鳥は不機嫌 木村リュウジ
人間ら日向ぼこして檻の中 黒沢遊公
校庭も風呂焚く家も冴え返る 古賀侑子
木枯をリヤカーに乗せ弟よ 後藤雅文
神様が微笑む病葉風に消えた 近藤真由美
凍て空に薬師如来のうずくまる 坂本勝子
海に出るまでの大河や春あした 重松俊一
荷をあけるや林檎の貫録祖のけむり 鈴木千鶴子
胡桃割るマザーグースの小さき部屋 宙のふう
切り絵師の鋏はなるる寒夕焼 ダークシー美紀
コロナ禍は地球の言葉お正月 立川真理
遠き友身長のびてマスクして 立川瑠璃
早梅や秩父音頭が聞こえてくる 中尾よしこ
てんてまり戦がみんな持ってった 仲村トヨ子
糸底のか細く強き雑煮盛る 平井利恵
蜜柑M新日常の軋む音 藤好良
万葉の冬月ふるさとつつがなき 増田天志
針金のハンガー撓む革コート 宮田京子
小寒や大往生の斬られ役 山本美惠子
冬木立じっとする只じっとする 横田和子
鍵のない家。柊に目礼す 吉田和恵
敗戰忌骨片くすぶる岩のくぼ 吉田貢(吉は土に口)
わが骨のもろさのかたち冬の蝶 渡辺のり子

九十九王子 大西健司

『海原』No.28(2021/5/1発行)誌面より

◆自由作品20句

九十九王子 大西健司

讃岐の人狐火の杜目指しけり
憂国や熊野中辺路木守柿
草の罠冷たく滝尻王子かな
野長瀬一族の山茶花は赤奥熊野
萍紅葉に心寄せつつ木橋過ぐ
木橋渡る庚申さんへ櫨紅葉
小広王子や狐の罠の覚めており
鹿の声聞きに水呑王子かな
狐火の杜よ伏拝王子へと
多富気王子や熊楠の宿霧晴れて
がまずみの赤が寂しい奥熊野
目箒の匂い霧降る宿小さし
つぶやきのパプリカ薪をなお焼べぬ
スペイン家具の丸み愛しき霧の宿
バジル芳し森のパン屋は冬支度
茶屋跡の山茶花那智に赤が映ゆ
慈母観音とやかの人冬の滝拝す
非日常の鯨山彦笑わない
石蕗の黄や人影しるき狼煙台
鹿の糞まだ新しき狼煙台

春愁ふふっと 桂凜火

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆自由作品20句

春愁ふふっと 桂凜火

気仙沼牡蠣語を話す牡蠣漁師
孕鹿暮れる東国うす青し
たましいの在りどころ探す鹿の舌
なすび蒔く土を優しく膨らます
輪郭なき春 靴紐堅結び
逸れてゆく日常生活水草生う
マスク越し小さく唄う隅田川
ハリネズミ抱く東京の春の闇
深海のいのち犇めく春の真夜
聞きたいことたくさんあります萱鼠
はにかみ顔喜劇役者の逝く朧
トルソーめく君と直立す花月夜
継ぎはぎの春愁ふふっと河馬のキス
みだれ髪雄ライオンのあたたかし
麝香猫の糞から旨きカフェ春愁
君は陽炎生みたての卵を洗う
切りぎしやゲルニカの木に若葉風
人相の悪い毛虫に会ってしまう
青葉風逆さまのシャツ泳ぎだす
赤い砂の惑星に棲む蜥蜴の名

眼差し 三枝みずほ

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

眼差し 三枝みずほ

どのこゑも遠し青き空ひとつ
石ころがほろほろ零れ春の川
さてもまたあなたの春野さまよへり
蛇穴を出て飴色にひかるもの
葉脈の透けて弥生の朝かな
髪結師咥えし紐の真白なり
山間の歌もて春の宮参り
手のひらの椿のほかは揺れてをり
白く濡れてゆくさくらの参道を
おおかみの眼差しがあり囀れり

『海原』No.27(2021/4/1発行)

◆No.27 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

寒夕焼気分に句読点を打つ 伊藤雅彦
悼む夜は胸に花野の漂流す 伊藤道郎
マスク外せば目鼻耳持つ綿虫は 植田郁一
秋の双蝶生きんがための物忘れ 大野美代子
狐火の血筋集めるコンクール 小野裕三
秋冷や思い出せない日も生きた 柏原喜久恵
冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
膳に付くマスクホルダー年忘れ 加藤昭子
マスクして目は饒舌になりにけり 上脇すみ子
獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
海へ向く薔薇錆びゆくや憂国忌 黒済泰子
ひなたぼこキリトリセンのあつまるよ こしのゆみこ
着ぶくれて不要不急の人となる 齊藤しじみ
定位置や碁を打つ亡父と冬の猫 篠田悦子
晩年の居場所も決めて冬南瓜 鈴木栄司
牛蛙ここだ孝信ここだここ 鈴木孝信
荻の花役にたたないこと得意 芹沢愛子
迷いてあれば短日の魚影美し 田口満代子
冬浪に佇む君の透明度 竹田昭江
冬の虹二人並ぶと濃くなった 田中雅秀
冬ざれて標本みたいな街になる 峠谷清広
チャリ飛ばす団地老人四日かな 遠山恵子
呑み込みし言の葉ふわり冬雲雀山 新野祐子
世界史の横揺れにゐて去年今年 野口思づゑ
滝はわが身中にあり冬の虹 野﨑憲子
初秋はポストの上の忘れもの 平田薫
竹籠の編み目芳し賀状絶つ 藤原美恵子
さかりゆく母は雪山の匂い 村本なずな
白鳥来どこかで弦の切れる音 茂里美絵
虎落笛カタカナ書きの母のメモ 吉田朝子

高木一惠●抄出

皺くちゃの幸せと浮く冬至の湯 伊藤巌
限界集落婆に砦の吊し柿 伊藤道郎
嗚呼一年仕事納めは顔合わせ 江良修
囲炉裏端母の手縫いの静寂です 大沢輝一
密集のまん中に居る冬将軍 大髙宏允
九十九王子未完の森の煙茸 大西健司
他界とは地下にあるらし竜の玉 岡崎万寿
綿虫やアナログ的に主知的に 金子斐子
暮の秋小石をひとつ沈めたり 川田由美子
黄落やしみじみ介護保険料 河西志帆
ビーバーの愛しさ茶の花月夜かな 北上正枝
草氷柱正夢となる前に融け 小松敦
鳥獣虫魚木霊の語る冬の森 小宮豊和
大寒の小声の似合う夫婦かな 齊藤しじみ
大根干すわだつみの声となるまで 白石司子
五郎助に耳羽民生委員奔る すずき穂波
実南天古刹は水の照るところ 関田誓炎
音沙汰は鴎のしろさ初時雨 田口満代子
星星かたく目を瞑るササラ電車だよ たけなか華那
雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
そっと息吹けば兎になる落葉 鳥山由貴子
柿落葉老いのひとひらごといとし 中野佑海
被曝の連鎖柿の実柿の根に埋めて 中村晋
獏枕耳の奥から雨男 日高玲
言い訳がとってもきれい黄せきれい 本田ひとみ
着ぶくれて天地無用の荷となりぬ 増田暁子
梅咲いて猫の耳などうらがへす 水野真由美
真珠層いくつはがれて冬蝶へ 三世川浩司
師の声の逞し秋の一本道 村上友子
寒鴉のそのそと来る夜明け前 山内崇弘

◆海原秀句鑑賞 安西篤

寒夕焼気分に句読点を打つ 伊藤雅彦
 寒夕焼は、野の果てにいても街なかにあっても、一篇のドラマの中にいるような気分にさせられる。たとえ短い時間であれ、夕映えは一つの文体をもって訴えかける。それは大いなるものの中へ消えてゆく存在感でありながら、メリハリのある哀感の力をもつからだ。そこをしっかり確認するために、その気分に句読点を打つという。

秋の双蝶生きんがための物忘れ 大野美代子
 秋の双蝶とは、秋の陽射しの中を、二羽の蝶がもつれあうように舞い上がり舞い降りしている姿。「生きんがための物忘れ」との取り合わせは、いわば忘我の状態で蝶の舞を見ているおのれ自身ではないか。そこには忍び寄る老いの姿が重なるが、それとて嫌なことつまらないことを忘れて生きる老いの知恵なのかもしれない。蝶の舞を見つつ、そう自分に言い聞かせている。

冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
 犬がいつものようにお手をして、飼い主からおやつを貰っている。その様子をみていて、犬がなにやらさびしい方の手を出しているようだという。その見立ては、「冬の犬」なればこそ成り立つ。冬の季節感に作者の心情が投影されているからだろう。お手をした犬の手に冬を感じるのは、その感触に季節のさびしさを覚えたからに違いない。犬は作者の冬の心情を推し量って、さびしい方の手を出してくれたのだ。

マスクして目は饒舌になりにけり 上脇すみ子
 今や緊急事態宣言下の街中は、マスクマスクのマスク一色。マスクから覗く目だけが、当人唯一の認識対象の窓口となる。となれば、その目がにわかに饒舌に語りかけてくるような気がする。それは相手の目からなにかを読み取ろうとする意識の照り返しでもあるのだ。目は口ほどに物をいうような色っぽいものではなく、相手の目から意図を読むという、いわば探りの目に違いない。

着ぶくれて不要不急の人となる 齊藤しじみ
 ステイホームで着ぶくれているだけでは何事も始まらず、人と会うこともままならぬとあっては語り合うこともできない。そこで今流行のオンライン句会などいかがといっても、IT旧石器時代人の多い俳壇では、浸透に時間がかかりそう。手も足も出ないとあっては、着ぶくれて不要不急の人でいるしかない。そんな現実を諷刺している。もちろん作者はそちらサイドの人ではないが。

牛蛙ここだ孝信ここだここ 鈴木孝信
 言うまでもなく、兜太師追慕の一句である。この句の
こわぶり
声風には、在りし日の師の野太い声がまざまざと再現されている。なんといっても「牛蛙」の声に擬したところがぴったり。「牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ」の兜太句もある通り、声はすれども姿をみせない牛蛙同様に、師の作者への呼びかけは、姿はみえなくとも今も鳴り響いている。師は作者の泥つき野菜のような人柄を愛していた。死してなお師の声を聞くとは、羨ましいかぎり。

迷いてあれば短日の魚影美し 田口満代子
 「迷いてあれば」というからには、何かこころにかかっている迷いがあるのだろう。まして昨今のコロナ禍の日々は、相談したり、話を聞いてくれたりする人もいないし、その機会もない。一人思い悩んで、冬の池のほとりに佇むと、短日の慌しげな日の暮れの水面に、魚影が美しい背びれを閃かせて横切った。そのとき、なにかがことりと腑に落ちたような気がしたのではないか。

冬の虹二人並ぶと濃くなった 田中雅秀
 冬の虹はめったに見ることはないが、暖かい雨が降った後など、ふっと見えることがある。珍しいことなので連れ合いにも声をかけ、二人して見ていると心なしか冬虹は一段と色濃くなって、見せ場を作ってくれたような気がしてくる。「二人並ぶと濃くなった」というぶっきらぼうな捉え方が、かえって東北の冬の虹の素朴なサービス振りを演出しているようにも思える。

世界史の横揺れにゐて去年今年 野口思づゑ
 コロナ禍は、全世界に蔓延して今なお終息の兆しをみせていない。ちょうど昨年の暮あたりは、北半球で第三波がうねり始めた頃である。作者のいるオーストラリアにあっても、その余波は及んでいたであろう。「横揺れ」という地震のような形容をもってきたのは、そのことを指している。もはやこれは世界史的な画期をなす災禍というほかはない。

竹籠の編目芳し賀状絶つ 藤原美恵子
 高齢化とコロナ禍の厳しい歳末を迎えて、年賀状もこの際欠礼しようという動きは高まっている。お正月用の縁起物の海山の幸を入れる竹籠を用意しながら、一方で儀礼的な年賀状を省略しようとする。大切なのは自分の居場所で、それはふれあいの関係性の整理によって確保しようというのだろうか。難しい選択には違いない。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

他界とは地下にあるらし竜の玉 岡崎万寿
 竜の玉は寒中、鬚状の葉の奥深くに紺碧の彩を極めて、絹の道の壁画に遺るラピス・ラズリの青はこれかと思われる。春に葉を刈りこむと花つきがよく、夏には緑色の実を結ぶ。その実が白く透けて、やがて秋麗の空の色に染まるのだ。「他界」については様々に言われるけれど、最近私は親しい人が重病かもしれぬと聴いて、現実の此の世はおしまい、まして彼の世のことなんてと、俄に思い詰めた。然りながら、俳句と共に文芸の世界に支えられて生きる限り、「他界」は存在するのだとも思う。
 作者の「俳人兜太にとって秩父とは何か」は各位必読のシリーズ。兜太先生の読書歴が『俳句日記』等で俯瞰的に辿られて、書の解説も附されている。

音沙汰は鴎のしろさ初時雨 田口満代子
 さっと来る眩しい白さ、鴎のようだ。兜太先生が「かもめは小生のなかの山中葛子の映像でもある」と述べておられるので、この音沙汰は千葉在住の大先達お二方の交情の一齣かもしれない。応仁の乱の頃、心敬の〈雲はなほさだめある世の時雨かな〉に和した宗祇の〈世にふるも更に時雨のやどりかな〉(新撰菟玖波集)の「時雨」は、芭蕉が〈世にふるもさらに宗祇のやどり哉〉と受けた頃には、元々の山野の景を超えた季語となっていた。海の鴎に、そんな象徴的な時雨の景が重なる。

星星かたく目を瞑るササラ電車だよ たけなか華那
 ササラ電車は札幌と函館の市電の線路を走る除雪専用車で、アニメ『となりのトトロ』に登場するネコバスみたいな虎猫模様の車体もある。夜更けの雪道に、竹の束(ササラ)のブラシを回転させて繰り出すと、降り積もった雪は地吹雪のように舞い上がり、星達も思わず目を瞑る!と、作者の詩情は宮沢賢治に通う。

雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
 一片の春雪を手に受けた時に、それがすぐに融けてしまうのは、わが手が温かいから則ち生きているからだ、屍であったらそのまま積もるだけなのだ、という感慨を持ったことがある。しかしそうした思念無しに、音として感得できるのが、ぽぽな俳句の真骨頂なのだと思う。高村光太郎が「言葉に或る生得の感じを持っているものによって詩は発足する」(『自分と詩との関係』)というその「生得の感じ」の持ち主のようだ。

嗚呼一年仕事納めは顔合わせ 江良修
 顔合わせだけで仕事を納めるのは官公庁の「御用納」。季語の傍題に「仕事納」がある。この習俗は昭和の末に制定された「行政機関の休日に関する法律」によるが、新型コロナに顔合わせを禁じられた一年間の感慨が籠る。

九十九王子未完の森の煙茸 大西健司
 熊野古道沿いの神社の一群が九十九王子。降雨量日本有数の紀伊山地の霊場である。森がいつまでも未完であれば自然は安泰。煙茸も頭の穴から胞子を風に靡かせて、たばこを一服楽しんでいる風情だ。
 兜太先生は『俳句日記』昭和五十九年六月九日の項に「熊野へ。那智山の大滝の見える観瀑荘別館に鞄を置き、大滝の滝壺近いところまでゆく。中村ヨシオ、谷口視哉の地元二人元気なり」と記し、夜の句会に〈大滝という欠落に似た生きもの〉を出句したが、「生きもの」では不可と反省、と記された。全句集の座五は「似た宇宙」。

ビーバーの愛しさ茶の花月夜かな 北上正枝
 茶の花が雄蕊をふんわり抱え込むように咲いて、月夜のダムから覗くビーバーみたいに可愛い。葉の間の花はお月さまのようにも見える。高一の時、母を喪ってお茶垣の陰で泣いていたら、母が愛した西条八十と蕗谷虹児の詩画集の情景に包まれた。茶の花の香りがした。

草氷柱正夢となる前に融け 小松敦
 草氷柱は流水が叢にかかって凍り、柱状となった大きなものもあるが、よく見かけるのは露が凍ってできた氷柱で、陽が差すとすぐに融けてしまう。夢で見たとおりの内容が現実になるのを正夢とすれば、目覚める頃には融けてしまう草氷柱は正夢にはなれない。なんとも儚い草氷柱をぽつりと句にして、象徴性も感じられる。

大寒の小声の似合う夫婦かな 齊藤しじみ
五郎助に耳羽民生委員奔る すずき穂波
 小声の似合う夫婦のシルエット。「大寒」の季語が効いて、寄り添う姿が浮き彫りにされ印象的だ。老いても斯くありたいが、耳が遠くなったりして現実は厳しい。電話もダメなどと、なにかと民生委員のお世話になる。委員の皆さんは冬帽目深に奔走の日々である。

獏枕耳の奥から雨男 日高玲
梅咲いて猫の耳などうらがへす 水野真由美
師の声の逞し秋の一本道 村上友子
 雨男も梅も、兜太先生を偲ぶよすがと思う。秋彼岸は先生の誕生日。近年は開花の時期が早まっていた彼岸花が、雨が多かった昨年はぴったりお彼岸に盛りを迎えた。先生の俳諧自由の一本道…出会えてよかった。

◆金子兜太 私の一句

きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 兜太

 気を入れて事をする時「きよお!」と口の中でときに声を出して言うことがある。自分の背中を押すって感じである。新緑の夜中のみずみずしさと「この汽車はゆく」の突き進む力強さは美しく、こころが躍動する。三十代の作品とあるが、先生の生きる姿勢は生涯変わらず、強靱でしなやかでいらっしゃったと。この句を胸に響かせて歩いていきたい。句集『少年』(昭和三十年)より。竹田昭江

朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太

 先生の大学時の卒論は、日本農業の将来に関することだったと聞く。それ故か、こと農業、とりわけ秩父の養蚕業に対する思いは、生涯一貫して強かったと思う。もとより、奥様への愛情はそれ以上のこと。掲句の「手中の蚕」と「妻に示す」に、これらのことが如実に込められた感銘句である。かつ、妻俳句および秩父産土俳句の基なる句と思う。不肖私もほぼ同郷、若干、農にかかわってきた者として心酔する。句集『少年』(昭和三十年)より。吉澤祥匡

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選

真実を嘘に芙蓉の咲くころに 泉陽太郎
彼岸花きのうより少し俺も老い 井上俊一
兄炎帝、弟台風の如く逝く 江井芳朗
モノクロの風針穴にすっと糸 奥山和子
自粛警察汗の下着がからみつき 黍野恵
鉄臭き校庭の水原爆忌 黒済泰子
ジュゴン鳴く工事休日大浦湾 今野修三
○秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
○蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
秋の蛇すこしおとろえ西へゆく 白井重之
棒立ちの八月母は父灯す ナカムラ薫
父の八月石鹼ひとつでぜんぶ洗う 中村晋
色鳥来さいごは早口になるニュース 根本菜穂子
賛成の人手を上げて揚雲雀 野口思づゑ
傷つけば傷から光る青檸檬 藤田敦子
寂しいと書きががんぼの脚になる 前田恵
牛膝淋しがり屋に付きたがる 三浦静佳
膝鳴って夜寒いま薬瓶からこぼれ 三世川浩司
木曜日を辿ってゆけば蝉の穴 三好つや子
曼珠沙華朱の奪われしその日 山本掌

楠井収 選

卑屈さも歳月のなか花野原 泉陽太郎
屈託の秋ジーパンの吹き曝し 伊藤雅彦
いのこずち誰も私を誘わない 奥山富江
痛けりゃ薬哀しきゃ月に吠えりゃいい 河西志帆
コロナ禍やどうもどうもと言うばかり 佐々木昇一
○蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
枇杷あまた見上げておれば主婦ら寄る 下城正臣
浮いて来いよ悪玉コレステロール すずき穂波
かしこ過ぎてあの子死んだだ葉鶏頭 遠山恵子
真葛原頭痛難聴夫源病 中村道子
穴まどひ愛するために生まれたの 野﨑憲子
ブドウの皮そっと剥ぐとき罪の匂い 藤盛和子
街中の数字よむ癖晩夏となる 北條貢司
千年後のマスク思へば蚯蚓鳴く 前田典子
親離れ子離れ蟹の横歩き 松本豪
台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
コロナ禍や全速力のかたつむり 武藤鉦二
放鳥や指の先まで秋の風 村上友子
外せるものはずし酌む酒新秋刀魚 村本なずな
えこひいき無しの先生ゐのこづち 梁瀬道子

佐藤詠子 選

思い出にあおられて返事する月 市原正直
心外ということふっと蜥蜴鳴く 伊藤淳子
黒揚羽私はそれを待つだけです 宇田蓋男
白山の名月ラップしておこう 大沢輝一
秋思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
手土産のように広がる鰯雲 小野裕三
佛飯の新米乳房の白きかな 狩野康子
豊作だってぎゅっと雑巾絞る姉 佐々木宏
少女趣味という趣味捨てず蛍草 芹沢愛子
夕暮がとんぼの体軽くする 十河宣洋
我が影の千々に乱れて曼殊沙華 竹内一犀
逃げるように歩く癖あり秋暑し 峠谷清広
美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
冬めいて己の肉を感じおり 中村孝史
白鳥来るねむったふりをする田面 丹生千賀
曼珠沙華大地にルビを振っている 松井麻容子
はつふゆの風に栞を挟みけり 水野真由美
後ろ指差された心地黒揚羽 室田洋子
よく晴れて言葉と小鳥とりかえに 望月士郎
秋風を指一本で掴まえる 茂里美絵

山下一夫 選

竜淵に潜む安らぎ緩和ケア 石川まゆみ
朝ドラに軍歌懐メロのごと秋の雲 伊藤巌
夏蝶の昏さよ古き手紙のよう 伊藤淳子
訃は岬青い夜長に漂える 伊藤道郎
秋黴雨かけられる鍵は全部掛け 奥山和子
捕虫網補修している自由かな 小野裕三
夕闇のふいに笑窪のお茶の花 川田由美子
海ほおずき母にも好きな子のありて 黒岡洋子
酸漿とうはくちびるのあはひかな 小西瞬夏
ひとはひとにふれ秋の野に入る 三枝みずほ
○秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
死角からちょろちょろ出てくる氷旗 すずき穂波
返信を待つ間のゆらぎ鳥渡る 田口満代子
林檎剥く部屋の重心うつりゆく 月野ぽぽな
翔べない白鳥秋のカーテン翻る 鳥山由貴子
秋草のさぁっと強迫神経症 堀真知子
おのを叩き星座を叩きハカ踊る マブソン青眼
柚子だんだん黄色にそんな別居中 宮崎斗士
ああ今朝も平熱ですね小鳥来る 室田洋子
見回してわたしもいない芒原 望月士郎

◆三句鑑賞

自粛警察汗の下着がからみつき 黍野恵
 一般市民が正義を振りかざす時、それは凶器にも近い。スーパーの入口で、マスクをしろ‼と怒鳴っていたのは普通のおじいさんだった。その形相を見て、いやな汗が垂れた。あの暗い時代も、市民を監視していたのは市民だ。「自分から進んで自分の行動を慎むこと」それを強く求められている私達。怪我と弁当は自分持ち。

蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
 忘れないでと言わなければ、忘れてしまうのが怖い。海が陸を取ろうとして襲ってきたかの様な、あの映像。沢山の瞳の中に残った悲しみや恐怖は、次の新しいものに押し流され、過去よりも遠くなってゆく。今日も震度6強が襲った。復興などとはますます遠く、あの日あれからあのままの此処を捨てずに、人々は生きている。

父の八月石鹼ひとつでぜんぶ洗う 中村晋
 八月に特別な意味などないと言える日が来るのだろうか。マラリアとデング熱に罹り、終戦の前に還ってきたという父のことを、こんなにも知らなかったことに、今気づく。家族揃って、石鹼ひとつで足りた時代を過ぎても、シャンプー等には触れもせず、まるで石鹸しか信じていない様だった。あの節くれだった掌も、父の八月も、ここからは見えない。
(鑑賞・河西志帆)

かしこ過ぎてあの子死んだだ葉鶏頭 遠山恵子
 夭折の子を思う母の慟哭。この子は確かに頭が良かったのだ。勉強も頑張った。それだけに親の期待は大きく、したがって反動も大きい。賢過ぎたと思うしかないのだ。この「だだ」という素朴な方言が、より一層悲しみを誘う。葉鶏頭の葉の色々な色への移ろいが母の悲しみを助長する。

街中の数字よむ癖晩夏となる 北條貢司
 いや実はこれに似た方、私の身近におられるんです。テニス友達でメンバーの車のナンバーを諳んじていて、誰が来場か即座に当てます。何か心に屈託をもっておられるのか、何か一芸に秀でたいとか、人と同じことをするのを嫌うとか。そういう生き様で季節は移ろい夏も過ぎていく。これも人生ですね。

外せるものはずし酌む酒新秋刀魚 村本なずな
 酒好きな私にとっては堪らない一句。外せるものをみな外して酌む。身につけているもの、色々な憂いも。ちょっと艶な感じもあるが、そんなことはこの際超越した感あり。酒はやはり冷酒でしょうか。また、この新秋刀魚が季節感プンプンで良し。中年の男のロマンを感じさせる一句。
(鑑賞・楠井収)

思い出にあおられて返事する月 市原正直
 多忙な日々の中で、返信できないままのメールがたまっていく。夜ふと、スマホを開くと仲間との写真が。無邪気で飾らない笑顔がある。会えずにいる大切な人たちとの思い出がたくさん溢れてくる。日常に少し疲れていた心が、だんだん柔らかく膨らんできた。満月のように。きっと、普段着のような言葉で返事をしたのだろう。

秋思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
 ほくそ笑んでしまう句。秋思と言えば、少し物悲しいセンチメンタルをイメージ。ため息をついて物思いにふけても、答えの出ないことが多い。変わらない毎日、変わらない関係、もどかしさを誰かにわかってもらいたいのに、変わらない現実。ゆったりと漂う海月の足を引っ張って、承認欲求を満たしたくなる本音に大いに共感。

手土産のように広がる鰯雲 小野裕三
 鰯雲の空は、ぽこぽこしていてその不思議な様は、どこか滑稽でもある。作者は鰯雲を見て、広げた手土産のようだと。納得である。家族が集まりわくわくしながら手土産の大きな包みを開け、はしゃぐ声が聞こえる。コロナ禍で、親族や友人がなかなか集まることができない今、この句のような日常の幸せを待ちたい。
(鑑賞・佐藤詠子)

朝ドラに軍歌懐メロのごと秋の雲 伊藤巌
 ドラマでは戦時のサインとしてよく軍歌が流される。心ある人は筋に関わらず胸が痛むであろう。昨年は朝ドラ「エール」が好評を博したが、主人公の業績に軍歌もあり毎朝よく流れていた。上八中八のリズムと措辞に鬱屈が滲み出ており、「秋の雲」の斡旋が慨嘆をより効果的に伝える。抑制の利いた大人な態度とも言え少し憧れる。

酸漿とうはくちびるのあはひかな 小西瞬夏
 酸漿を鳴らす遊びを知る世代も少なくなったろう。種抜きがまず難関。なんとかクリアできても鳴らせなかった。口の中で果皮の空洞に息を吹き込み球体にした上で舌と唇で押しつぶして鳴らす。秘訣を探ろうと母や従姉や小母らの唇をじっと見つめていたものである。古典的仮名遣いがその艶めかしさを余すところなく彷彿させる。

柚子だんだん黄色にそんな別居中 宮崎斗士
 「そんな別居中」と言われてもというところだが、「柚子」について連想を巡らせていると、未熟な柚子は別居の原因となった諍い、熟しつつあるのは心境又は関係の変化の暗喩に見えてきた。柚子の軽い黄色に希望的観測という突っ込みも浮かび、にやりとさせられる。取り合わせが確かな技巧に裏打ちされており素晴らしい。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

どこか楽しげ木の葉に葉の香壺春堂 飯塚真弓
父母にそれぞれの恋シクラメン 石塚しをり
銀杏落葉踏みしめ向かう湯灌かな 植朋子
開戦日赤ペンで書く一句かな 梅本真規子
イブに別れって洒落てるなんて言う 大池桜子
鮟鱇を食ふて経年劣化かな 大渕久幸
雪の日の歩き方伝受して笑う 梶原敏子
原っぱで雲形定規投げるんや 葛城広光
花八手栞代わりの帯失くす 木村リュウジ
神の手を滑り落ち双子座流星群 日下若名
枯野道不可視の空の果て恋えり 工藤篁子
残しおく田畑二町歩生姜酒 古賀侑子
女坂パンツに紅葉はいってる 後藤雅文
ピック投げる最後の恋であるように 近藤真由美
飛ぶことを忘れて歩く冬の蠅 坂川花蓮
おちこちの山もおととも眠りけり 坂本勝子
はがゆくもまっすぐ生きて憂国忌 重松俊一
落花生割るたび心のはみ出しぬ 宙のふう
大綿虫おおわた湧いて集合時間に遅れます ダークシー美紀
二〇二〇恐れ苛ち着ぶくれて 髙橋橙子
電飾のよすがに青き聖かな 高橋靖史
安寧なドア一枚や春の闇 立川由紀
コロナ禍や鍋に逃げ込む安らかさ 保子進
12月8日からの喪失でがらし茶 松﨑あきら
重ね着を嫌う老母の反抗期 村上紀子
十二月八日の記事が減ってきた 山本美惠子
春の泥あばら骨よりほどけるか 吉田貢(吉は土に口)
言の葉の海に漂う炬燵かな 吉田もろび
洞窟に蒼白冬眠の日本兵 渡邉照香
狼よわたしの腐臭嗅ぎつけて 渡辺のり子

◆追悼  近藤守男 遺句抄

遠蛙問わず語りの妻のめし
暮の春微醺の浮漂ぶいの浮沈かな
啓蟄の穴を拝借涙壺
子規病みてそれからが子規しじみ蝶
立春や摩文仁の丘に「ハブ注意」
草の根の蟻んこわんさ嬥歌かな
天道虫愚直の軌跡かえりみず
ヒント得て物理学者の立ち泳ぎ
青鷺翔つ夜明の水辺帰農かな
鮎解禁むかし米とぎ子守唄
メロンパン信長公記曝書して
蝉の声大言海に漂えり
繭を日に透かしていれば鳴るサイレン
敦盛草流人の墓碑に吾が姓
里曳きのをなごの木遣歌御柱祭きやりおんばしら
ポケットの団栗こぼす子の昼寝
園児皆永久歯秘め運動会
嫁ぐ娘と良夜の富士にハーモニカ
新走り小股にはさみ小海線
眼と声の大きくなりぬ妻のマスク
(日高玲・抄出)

守男さんを悼む 日高玲

 近藤守男さんが昨年二〇二〇年七月に八十七歳で、逝ってしまわれました。この二、三年は体調不良で句会を欠席されていましたが、年賀状に、ご夫妻でゴルフを楽しむお元気そうな写真が映っていたので幸いと思っておりました。ところが、今年一月になって、昨年夏、転倒から体調を崩し、肺炎を誘発してしまい、との訃報を頂き、愕然としました。
 今、『海程多摩』のアンソロジーを繰ってみますと、自己紹介として、昭和九年六月五日東京府滝野川区に誕生とあります。「僕は名門音羽幼稚園卒業なんですよ」の声がよみがえります。昭和二十年四月戦災で秋田県能代市に疎開。昭和二十七年三月に上京。『海程』四〇五号(平成十六年八月号)より投句、とありますが、それ以前に、近藤さんの創作は俳諧の連歌(連句)から始まります。きっかけとなったのは、知人で、現在NHKカルチャー町田教室「連句講座」講師の佛渕健悟氏から連句の楽しみを教わったことでした。やがて東明雅主宰の「猫蓑会」に入会し、ますます連句の楽しさに嵌っていきます。一方で、開講して間がないNHK青山教室の金子兜太俳句講座に参加し、金子先生の魅力に惹かれて、海程に入会します。その後は「東京例会」は勿論のこと、「多摩句会」に「秩父道場」にと、海程の同人として俳句の創作に励み、生涯の楽しみとされたのでした。
 守男さんの作品は、家族への想いや日常景を生真面目に活写したものが多いのですが、リアリズムの奥には、ロマンティシズムが潜んでいて、独特の俳味が滲んできます。掲句の「遠蛙」や「眼と声の」「ヒント得て」のとぼけた味。「草の根」の田舎人のロマンティシズム。独特な感覚の利いた「メロンパン」等。
 思えば長い年月、私共夫婦は「守男さん」と雅号で呼び習わし、俳諧の連衆として、座を共にし旅を共にしました。金子兜太俳句講座に、空席がまだあるから遊びに来ないかと誘って頂き、やがて一緒に海程に入会。初心の頃には、守男さんご贔屓の旗亭に句友たちと集い、批評をしたり未熟を嘆いたりと、二度と無い楽しい時代を過ごすことができました。本当に淋しくなりました。

りんどうの花 日高玲

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原賞受賞 特別作品20句

りんどうの花 日高玲

草原に仔馬を拾う遥かなり
清明の鳥のたちまち流れゆく
半地下に打音の響く日永かな
夜更かしの水飲む舌のおぼろなり
白アスパラ喉のくぼみの脈打って
メジロ二羽感情移入せぬとあり
原っぱに貴石埋もれてさみだるる
龍の這う不易の水をいさかいぬ
滝の音やがて微塵となるレモン
ぬか漬けの甕に秋の蚊クロニクル
木星に土星近づく草泊
鹿の目よ棕櫚の葉音に眠られぬ
優雅なる野生のしぐさ鮭の葬
旅の終りりんどうの花象りて
言葉ひとつ白桃の蜜滴りぬ
我を通す童子の悲鳴白鳥来
アイススケート少女に傷の組み込まれ
ひと寄りて絹の冷気のさまよえる
鶴を飼う時雨の軒に宿りして
雪原に晒す老女の微笑なり

あたたかいくぼみ 小松敦

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原新人賞受賞 特別作品20句

あたたかいくぼみ 小松敦

月白の匂い始める部屋を出て
ひらがなの丘に枯葉の海望む
ふたりとも青の体温焼りんご
あたたかいくぼみに違う生きものと
住んでいる体の中に陽炎える
もう少し待って羽化したての右手
レモン汁ぱっとあかるくなった顔
振り向くと振り向いている青時雨
初めての人もう一人夏薊
はまなすの花今日までの映画館
夕凪の階段なんの笑顔かな
青岬夏から夏へ出す手紙
からっぽの海辺に落ちていた小壜
きらめいているのも知らず蝸牛
温かな肌に目覚める卵かな
冬蛹だんだん世界できあがる
流氷期語りかけても咲きません
搭乗を待つ魂等エアポート
旅人を追いかける声春障子
手の届くところにいつもひらひらと

一枚だけの紙 たけなか華那

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原新人賞受賞 特別作品20句

一枚だけの紙 たけなか華那

蒸気時計が叫ぶ父に最後の冬
一日に一枚だけの紙ください冬の青空
寒月 ナツメ灯点すだけの部屋
運河にハスゴオリ愛に致死量がある
枯渇する魂ENTERキーをさがす
雨氷林背ぶるいして風はくる
響き渡る凍裂トドマツの遺言
冬の教科書オールドローズは風
紫大根擦る夜が明けるようだ
盲目の犬の心音初雪なのです
窓をたたく冬の蜂心臓はここだよ
ビワは咲いたあなたはわたしを殴れない
石ころが添い寝をする冬の菫
鳩が辺に並ぶ落葉のない小学校
蜜柑をもむひとりがいいのはスネてる証拠
捻りこむ命の芯地吹雪を行く
流れつく異邦の欠片此処から冬
顕れるものみな昏し砕氷船
空が混じって冬野がすこし横
冬日差しぼんやり生命の影ぼうし

春野 三枝みずほ

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

春野 三枝みずほ

罫線に沿うもう青空に追いつけない
塗りつぶす文字や焦げ臭い鉛筆
手のひらをはなれ睦月の光とは
オルゴール開けば立春核家族
水すこし零れ二月の巻き貝は
曲線の交わるところ青き魚
明るさの連なる声や黄水仙
陽だまりの窪みにうさぎ涅槃西風
春泥を弾む生まれたてのことば
仰向けに春野おおかみ来るころか

白い深淵 佃悦夫

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆自由作品20句

白い深淵 佃悦夫

かいつぶり女院大の字に寝たるか
白梅や秤に揺らぎ残りおり
人外にもっとも遠くニオ寝落つ
水神も兎も寝るをはじめたる
一瞬は蝶本道を外れたり
白梅を手折り祖は渡来人かと
陽炎を真っ向から毟りたり
白百合の骨肉覚めいたりけり
白蝶の動脈刺すことはかどりて
白蝶の発条が顔にもぶつからむ
本流は草矢で埋まる夜中かな
菜畑の涯にかならず面人
草はらの夏は千手の突き刺さむ
鳰鵺にもっとも近いようだ俺
青垣を造りつづける白鳥か
深淵を往ったきりなる鉦叩
かまど神冬稲妻と相対死
冬の陽の血眼本尊まで届く
寒鴉人に非ずと喚きおり
大寒というエメラルド破損せり

果無山脈 大西健司

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆自由作品20句

果無山脈 大西健司

忍手の男無患子こぼれおり
果無や絵馬堂にがまずみの赤
熊野晩秋心許なき竹の杖
杯に甘露の水や那智は秋
茶屋跡の石蕗果無山が見ゆ
毀誉褒貶雲取越の緋連雀
雲取越や傀儡師霧の道辿る
木沓鳴る道や芳し煙茸
縋る杖なく箸折峠すがれ虫
それぞれの秋湯の峰に滾る水
果無の郷や目箒匂いけり
こともなき十一月や杖磨く
毒消しを探す果無山は秋
無限宇宙はてなし坂の木守柿
とがの木や中辺路に兄探しおり
大斎原野﨑憲子の真言や
溲瓶忍ばせ大先生は冬熊野
有精卵翳す近露冬はじめ
狐火や古道はずれの厩跡
讃岐の人狐火の杜目指しけり

『海原』No.26(2021/3/1発行)

『海原』No.26(2021/3/1発行)

◆No.26 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母が来るリュックありったけの十月 綾田節子
白秋や被爆ピアノの喫茶室 石川まゆみ
未完なる冬の俳句に尾行さる 市原光子
みぞおちの苦いくらがり鳥渡る 伊藤淳子
竹の春むだ話したかったのに 大髙洋子
銀杏を拾う秘密を分かつため 片岡秀樹
白湯冷ましつつ洎夫藍の真昼濃し 川田由美子
鶴渡る短い童話書けそうな 北上正枝
曼殊沙華全部ひそひそ話かな 小松敦
銀杏散る詩を口ずさむはやさにて 三枝みずほ
切り岸は父の背であり夕野分 佐藤君子
十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
エスプレッソに男の匂ひ小鳥来る すずき穂波
芋虫のひんやり鼓動つまみあぐ 高橋明江
銀色のおりがみに顔ゆがんで冬 月野ぽぽな
ハロウィンの渋谷細身の托鉢者 董振華
倒立の少女に火星冬支度 遠山郁好
和菓子屋灯り金木犀のカルテット 中野佑海
除染とは改竄である冬の更地 中村晋
ブーケトス継ぐに樺太鱒遡上 並木邑人
小春日やただ三食を作りて過ぐ 西坂洋子
里芋のぬめりのように母と娘は 根本菜穂子
コロナ禍や秋夜繰り出す基地の兵 疋田恵美子
舞茸の歯ざわりミステリアスな家族 本田ひとみ
コロナ禍やアマビエの絵も夏のシャツ 三木冬子
点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎
ポインセチア感情過多で電話魔で 森鈴
文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子
亡母を訪う旅の途中の一位の実 横地かをる
貴腐ワインふと私の死に化粧 若森京子

高木一惠●抄出

死ぬ気のしない聲の幻二月来る 有村王志
立冬の月を取り込む換気かな 石川青狼
栗ご飯コロナ禍だけど雨だけど 石橋いろり
優しさは昨夜の氷柱もういない 泉陽太郎
伊勢型紙流星の色放ちけり 稲葉千尋
どこも消毒柿何連も何連も 奥山和子
穭田や最終章の序章かも 川崎益太郎
熟柿透く孤独の果てるところまで 河原珠美
俺っぽくない証明写真木の実落つ 楠井収
受話器より病状淡々やもり消ゆ 黒済泰子
日あたりのよい友といてレノンの忌 こしのゆみこ
そこにある太陽林檎齧るなり 小西瞬夏
レノン忌ややけにあかるいな人が 三枝みずほ
十二月大石小石がごろごろ 鈴木孝信
このきのこ毒と決めつけ妻頼もし 鈴木修一
鳥渡る会釈のように腹を見せ 十河宣洋
草もみじ僕の指紋を忘れない 高木水志
芋虫のひんやり鼓動つまみあぐ 高橋明江
ハロウィンの渋谷細身の托鉢者 薫振華
あらがわずしかと暮らせり紅葉山 中村孝史
蛇眠る朽ち葉のぬくみまつろわせ 根本菜穂子
石切唄石の聞き入る秋の暮 野﨑憲子
泡立草美しと老身立ちつくす 野田信章
若者の手足が欲しい高原キャベツ 服部修一
無口で淋しきスイッチのあり鰯雲 藤野武
発想を飛ばしなさいと声小六月 三木冬子
葱の列真っ直ぐ父のいる限り 武藤暁美
稲ぐるま小回りの利く母が居た 武藤鉦二
すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

母が来るリュックありったけの十月 綾田節子
 母が久しぶりに田舎から訪ねて来た。おそらくは新居を構えた娘の家を見がてら、娘夫婦としばらくぶりの対面の時間を楽しみたいという気持ちからだろう。時は十月、収穫期の故郷の幸を、ありったけリュックに詰め込んで、勇んでやってきたに違いない。「リュックありったけ」にその意気込みが伝わる。肝っ玉母さんを思わせるような、古き良き時代の親子像が浮かび上がる。

未完なる冬の俳句に尾行さる 市原光子
 この句を読んで、俳句つくりなら誰しも、アルナアと腑に落ちるものを感じるにちがいない。昨日あたりから仕掛かったままの句がひっかかって、なかなかまとまらない。ままよとばかり外に出て、他のことに気を紛らわせようとしても、その一句に尾行されているかのように頭を離れない。そこでまた鉛筆をなめることになるのだが、相変わらず完成することのない袋小路に入ったまま。

鶴渡る短い童話書けそうな 北上正枝
 鶴渡るは鶴来ると同様、秋シベリアから渡来する鶴の群れ。鶴は家族や仲間たちと一緒に来るから、たどり着いたばかりの鶴たちの所作に、どこか長旅の思い出やこれからの仲間同士の暮らしの話題がたえないような感じ。その鶴の群れの鳴き声に、作者は短い童話のヒントがもらえそうな気がしたという。それは、作者のアニミスティツクな共感から呼びさまされた創作意欲にちがいない。

十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
 福島の被災地は、もう十年になろうとしているのに、未だ復興の歩みは遅々としている。この句の景でも、かつての駐在所が仮設派出所のままで、おそらくは巡回の頻度も少なく、派出所に人影が動くことも稀なのではないか。十六夜の月が、まさにいざよう感じでおづおづと上るとき、ふと仮設派出所に人影が動いた。それはその地域にとってのささやかな救いの影とも見えたのだろう。

和菓子屋灯り金木犀のカルテット 中野佑海
 おそらく作者地元の老舗とみられる和菓子屋が、珍しく夜まで店を開いていたのだろう。店の前に金木犀が四本ほど並んでいて、店の灯りに唱和するかのように、花をつけている。その有様を「金木犀のカルテット」としたのだ。そのカルテットを、あたかも老舗への応援歌を奏でているように見立てている。それは作者自身の思い入れをも映し出しているのではないか。

除染とは改竄である冬の更地 中村晋
 この句も、被災地フクシマの現実を詠んでいる。原発被害による放射能の除染は遅々として進んでおらず、更地にしたことだけで除染作業は終わったかのように、表面を取り繕って事足れりとしている。それはまさに、除染という名の改竄であると作者は告発する。福島在住の人ならではの現場感覚だ。今の日本の社会の現実を見据えた社会性俳句である。

ブーケトス継ぐに樺太鱒遡上 並木邑人
 ブーケトスとは、花嫁がウエディングブーケを未婚の女性に投げることで、受け取った女性は次に結婚ができるといわれている。つまり幸せのお裾分けをすること。樺太鱒は秋に産卵のため川を遡上するとき、魚体を婚姻色に染めて雄を誘う。句意としては、ブーケトスの縁起を引き継ぐように、樺太鱒は川を遡上しているよというもの。ブーケトスを樺太鱒の遡上と取り合わせて、季節の祝婚歌とした一句。

舞茸の歯ざわりミステリアスな家族 本田ひとみ
 舞茸は、風味豊かで歯ざわりもよく、炒め物、ソテー、てんぷらなど、多彩な料理の食材として広く使われる。何にでも合わせられるし、他の食材の引き立て役にもなる。ミステリアスな家族と舞茸の歯ざわりは、一見何の関係もないように見えるが、どこか融通無碍に合わせられる舞茸のような家族とみれば、それこそミステリアスなまでに平和な家族関係とも見られよう。

ポインセチア感情過多で電話魔で 森鈴
 ポインセチアは、十二月頃、茎の先の緑の苞葉が鮮紅色に変わり、美しい観葉植物となる。猩々木の名もある通り、真紅の葉の激しいまでの存在感は、冬の花の中でも抽んでている。掲句は、ポインセチアに喩えられる現代風女性像の一典型を描いている。即ち「感情過多で電話魔」、どこか小悪魔的な女性像は、社会人女性の中によく見られるものかもしれない。

文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子
 「文庫本ほど」といわれても、五百頁を越す大著もあれば、百頁そこそこの薄手のものもあって、「ジェラシー」の程度を推し量るのは難しい。だが「秋桜」とあるからには、まあ二百頁か、せいぜい二百五十頁までの標準本とみてよいだろう。川柳の「女房の妬くほど亭主もてもせず」というところながら、女房からすれば到底許せないところまで来ているのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

死ぬ気のしない聲の幻二月来る 有村王志
発想を飛ばしなさいと声小六月 三木冬子
 天下の魁の梅の便りと共に兜太先生の忌日を迎える。先生九十五歳の談話「私はどうも死ぬ気がしない」は著書の標題ともなった。わが座右の『戦後俳句日記』にも御声は満ちているが、やはり肉声は格別である。

立冬の月を取り込む換気かな 石川青狼
 発想を飛ばす…換気換気と心がけても、作者の在地では生やさしいものではなかろう。新型コロナ禍のそんな現場に古典的な詞華「月」を取り込んだ。巧まずにそれができる俳諧精神。日頃の鍛錬の賜物と思われる。

熟柿透く孤独の果てるところまで 河原珠美
 樹上の熟柿に目白の番いが来て、毎日少しずつ実を啜り、やがて啄む影が透けて見えるようになり、とうとう皮一枚、はらりと地に落ちた。

穭田や最終章の序章かも 川崎益太郎
あらがわずしかと暮らせり紅葉山 中村孝史
 小林秀雄が古希の心情を「死は問題として現れるのではない、手応えのある姿をしている。世の移り変わりより、我身の変化の方に切実なものがある。」(講演「生と死」)と話している。然りとしても如何ともし難し。眼を転ずれば、穭田も紅葉山も終章の今を精一杯生きている。

葱の列真っ直ぐ父のいる限り 武藤暁美
稲ぐるま小回りの利く母が居た 武藤鉦二
 高く盛土した葱の畝の列に、畑主の丹精の跡が見える。刈り稲を稲架のある畦まで運ぶ稲ぐるま。でこぼこ道をうまく回して、よく働く母上がいた。私の母も敏捷な人だったが、頑張りすぎて三十代で逝ってしまった。

石切唄石の聞き入る秋の暮 野﨑憲子
 作者が高松市の石の資料館(庵治石が名高い)で聴いた石切唄は哀切な調べだったというが、「見たか聞いたか山寺名所/慈覚大師の開山だ」など、職人が各地を移動して全国に広めたようだ。建築家の隈研吾が角川武蔵野ミュージアムの外観に石を選んだのは、古代からの信仰対象である「聖なる岩」を復活させる為とか。高千穂町の天岩戸の近くには石切場の跡があるそうで、天鈿女命を踊らせたのも石切唄だったか。石に尋ねてみたい。

すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
 過呼吸するのが「たましい」とまで思い入れて、現つを生きる苦しみを詠んだのかもしれないが、若山牧水の〈吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ〉を心とした想夫恋の句とも解される。
 実は「かるかや」で先ず思い浮かべたのは懐かしい石童丸と苅萱道心の物語で、説教節や浄瑠璃に登場する「かるかやどうしん」の音の響きに、仏法で名告り合いを禁じられた父子の話が重なって、ずっと心に残って来た。苅萱の穂は花薄のように美しくはないけれど…。

草もみじ僕の指紋を忘れない 高木水志
 草の葉はそれぞれの葉脈がそれぞれに指紋を持つように紅葉してゆく。そこに掲句の作者の自意識も見えると、千葉句会の山中葛子評を伺い、読みの深さに感服した。草紅葉と親しく交感する作者の立ち位置は、〈不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心〉の啄木に似ているようで、大きく異なると思う。「僕を忘れない、僕も忘れない」と、この交情を忘れないで。

日あたりのよい友といてレノンの忌 こしのゆみこ
レノン忌ややけにあかるいな人が 三枝みずほ
 ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノンが撃たれて亡くなったのは一九八〇年十二月八日。太平洋戦争開戦日の三十九年後である。一昨年、中国武漢で最初に確認された新型コロナウイルス感染者の発症日も十二月八日だったとか。――想像してみて、みんなが全世界を共有しているって――「イマジン」の歌詞が蘇る。

点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎
 月の無い夜に満天の星が輝いて見える星月夜。点字の表は一見星月夜のようでもある。新月を前にした師走半ば、双子座流星群を見ようと半纏にくるまりベランダに出たり入ったり。月が出ると星影が薄れるのを実感した。宮城道雄の箏曲「春の海」は歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ作曲されたが、七歳の頃に失明したというから、ほとんど想像の海を奏でたのであろう。そんな世界に少しでも近づきたくて、『スーホの白い馬』や『もみの木』等々、寝しなに童話の朗読を聴いて感動した。光を知らぬ読み手にも、この星空が輝きますように!
 俳句はどうか。時に幽玄の境を見せる星月夜の詩韻に迫るにはどうすればいいか考えた。写生と言い具象化と言い、結局は常と変わらぬのだと思い至ったが、只今の逼塞の世では、果敢な心情吐露よりも、連句で言えば人情抜きの「場の句」の類をこの星月夜は好むのではないか。兜太先生の〈おおかみに螢が一つ付いていた〉も場の句である。きっと星月夜になれると思う。

◆金子兜太 私の一句

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり 兜太

 平成15年、「海程」の全国大会が伊良湖で行われた、その時兜太師が作られたのが掲句。風光明媚な伊良湖岬にこの句を句碑として残そうと、さっそく石さがしがはじまった。ある夏の暑い一日、故森下草城子氏、故北川邦陽氏、故山口伸氏を乗せて私は運転手として同行、岡崎の石工団地や石屋を何軒か訪ねまわる。そして無事に平成17年に句碑が完成した。差羽の句とともに忘れられない思い出です。句集『日常』(二〇〇九年)より。井上俊一

洋上に硫黄島見ゆ骨の音も 兜太

 この句はまさに、ミャンマー・オークデビジャンへの慰霊の旅に重なる。そこは、父が銃創と破傷風により戦病死した野戦病院があった森。未だ紛争地域であるため近づくことは許されず、森を遥かに望むシッタン河の竹の吊り橋から遙拝した。吊り橋は心細く揺れ、軋みつつ音を立てた。それは父たちの骨の音だったのだ。その骨は未だ帰ってきていない。句集『百年』(二〇一九年)より。谷口道子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎選
○秋風を咥え手足の自由律 市原光子
隧道の中の滴り独り者 榎本祐子
黒い雨滲んだ産道蝉絶唱 大上恒子
少年を覗けば蛍袋かな 小西瞬夏
八月の真白き紙に感電す 三枝みずほ
夏草の指先午後の余白かな 佐孝石画
塩狩峠夕日も汽車も半ズボン 佐々木宏
葛藤の端っこに来る赤とんぼ 佐藤詠子
蚯蚓鳴く胎内という真暗がり 白石司子
秋の蝶顕つやその戸を閉めてより 田中亜美
遠まわりをして花野に濡れにゆく 月野ぽぽな
水面から忘れはじめる遠かっこう 遠山郁好
六月のぐずぐず赤ちゃんの重さ ナカムラ薫
無医村と知りて緑を濃く思う 中村孝史
流星の舳先に腕を組み少女 水野真由美
○模型屋に時の種あり天の川 三好つや子
少年の刺し合う視線夏運河 村本なずな
言ふなれば独り身のプロ冷奴 柳生正名
九月の図書館何故か耳たぶやわらかき 山内崇弘
あの世とは水平感覚つくつくし 若森京子

加藤昭子選
○秋風を咥え手足の自由律 市原光子
ペン先になかなか死なぬ夜の蟻 榎本愛子
○蚯蚓鳴く聞き流すのも思いやり 江良修
人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
みかんの花考えたことない母との距離 黒岡洋子
少年の水になりゆく平泳ぎ 佐々木香代子
烏揚羽父なる森のくろを被て 篠田悦子
這う母とカサブランカを見ておりぬ 清水茉紀
八月をたどる折鶴ひらくよう 芹沢愛子
今日生きる作法の一つ草を引く 髙井元一
青柿のまだという明るい期待 高橋明江
書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
○小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
○炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
○月明り水色の声だけ掬う 松井麻容子 
父の名をマスクの中で秋彼岸 松本勇二
母の目に力まだまだ茄子が咲く 宮崎斗士
○模型屋に時の種あり天の川 三好つや子
老いも海月も流るるという遊び 武藤鉦二
母を看てそのあと金魚見て駅へ 望月士郎

董振華選
○蚯蚓鳴く聞き流すのも思いやり 江良修
夕凪にサーカス小屋の仄として 大髙洋子
さらさらさら秋の水リハビリの掌に 大谷菫
八月の雲と語りて幾十歳いくとせか 岡崎万寿
蜻蛉のひとふるえして向きを変え 川嶋安起夫
鬼灯が真っ赤な嘘を吐き出した 後藤岑生
胸像の胸襟開く残暑かな 齊藤しじみ
夜の金魚凶器のように愛のように 佐孝石画
親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
叱声は控えています花むくげ 鈴木栄司
雨音の途絶えし闇の蚊喰鳥 関田誓炎
明り消し住処たちまち虫しぐれ 田中怜子
凸凹と育つ夫婦の晩夏光 中野佑海
○小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
○月明り水色の声だけ掬う 松井麻容子
かいつぶり奈落覗いてきた白目 松本勇二
死にどころはどこでもいいよ波音あらば マブソン青眼
狗尾草母と哀しくくすぐり合う 望月士郎
生き方のこだわり捨てて半夏生 森由美子
秋茄子や夫が猫背に厨ごと 柳ヒ文

室田洋子選
さらば夏 帽子を投げてみたけれど 伊藤幸
白さるすべり氏神に見す肢体かな 稲葉千尋
まず笑えそして一人で夏を越せ 大野美代子
歩み寄る露草の色生きるいろ 刈田光児
今すっと流れゆく冷え草の絮 北上正枝
滝しぶき嗚呼ときれいになる眼 北村美都子
秋茜耐えるおとこは夫である 小池弘子
てのひらに檸檬の匂う別れかな 近藤亜沙美
天性の農夫凜々しく夕端居 佐藤紀生子
雲流るるか夏果ての樹々くか 鈴木修一
ため息は肺にいいのよ草の絮 すずき穂波
マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
夫に作るサラブレッドの瓜の馬 高橋明江
濁流を語りし時に遠花火 舘林史蝶
ぽっかりと花野にわたし置いてきた 月野ぽぽな
遠き日の夢の瘡蓋破れ蓮 寺町志津子
○炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
はつなつの鷹に逢ひたし拗れたし 松本千花
晩夏光母はアンネと同い年 村松喜代
無花果熟れ乳房満ちくる心地して 森鈴

◆三句鑑賞

隧道の中の滴り独り者 榎本祐子
 独特な視線を感じる。隧道は昏くて気味の悪い異界。天城隧道を歩いたことがある。ひんやりとした暗闇に心拍数が上がる。水の豊かな森の隧道は滴りが落ちてくることがよくある。滴りが首筋を伝うときなどなんとも言えぬ恐怖が身を過る。闇にひとり放りだされる恐怖。その恐怖の感覚は、明りが氾濫する都会の孤独にも通じる。

黒い雨滲んだ産道蝉絶唱 大上恒子
 黒い雨裁判があった。国はいまだ被爆者を救済しようとせず、その姿勢に憤りを感じる。「黒い雨滲んだ産道」は被爆二世の誕生を言っているのであろう。この凄まじい表現は被爆した母子のかなしき怒り。そして戦後、差別という過酷な人生を強いられた被爆者たちの声は「蝉絶唱」という胸揺さぶる措辞で締めくくられる。

少年を覗けば蛍袋かな 小西瞬夏
 少年と蛍袋の取り合わせは新鮮。蛍袋は風に揺られて清楚で夢見るよう。しかし、雨風に翻弄される日も。少年はと言えば森羅万象何にでも興味、関心を持つ。そして阿修羅像のごとく様々な表情を見せ、時に走れメロスのように友情と非情を知る。少年期という一瞬だからこそ、光と影にとても敏感。蛍袋は少年を秘めている。
(鑑賞・伊藤道郎)

人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
 作者は花野に立っている様に感じた。いろいろな花が咲き誇る中で、身の回りを過ぎて行った人達を思い起こしている。離れて暮らしている人、亡くなった人を一人一人思い出し心を寄せている時間の経過が、一マス空けに表出されていると思う。一本摘み、又一本摘み花束となる。花束の重さが作者の優しい心根のように思える。

母の目に力まだまだ茄子が咲く 宮崎斗士
 「目力」という言葉がある。目に精気があることは生きて行く気持ちが強いということだ。母は老いて、もしかしたら病床にあるかも知れない。歩けなかったり、喋れなかったりとしても、目はしっかり作者を見つめてくれる。「まだまだ」が上五・下五に掛かり母の気丈さに安堵する。無駄花が無いという茄子の花が前向きで良い。

母を看てそのあと金魚見て駅へ 望月士郎
 朝の介護の景と受け取った。出勤前、母親の面倒を見る。身体介護となると大変と思う。思いやる気持ち、言葉は母にとって、今日一日を心穏やかに過ごす力となる。母を看た後、金魚の世話。情景を淡々と描いてあるが、その分介護に慣れてしまった時間の長さを思わずにいられない。次の句にも引かれた。〈狗尾草母と哀しくくすぐり合う〉
(鑑賞・加藤昭子)

小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
 地位が低くて、言うことも重んじられない。それでも確かな存在感を示している。上五と中七のズバリとした断定は作者の自信たっぷりとした姿が目に浮かぶ。また、黄色い小さなトマトの花は至って地味な印象であるが、よく見ると五枚の花弁を星型に開いてまぶしく感じられる。上の措辞が季語とよく響き合っていて巧妙。

生き方のこだわり捨てて半夏生 森由美子
 七月の上旬、丁度半夏の時期に咲く半夏生は、虫媒花として、より目立ち、魅力的な花にするため、葉を白くしているのである。何事も完璧を求めてきた作者だが、ある時それは不可能だと、ふと気づいた。やはり成り行きに任せて、内気で気儘に生きていく方がずっと楽しい。半夏生のように「情熱を内に秘めて」生きる。

秋茄子や夫が猫背に厨ごと 柳ヒ文
 日本では、旬を迎え美味しくなる「秋茄子は嫁に食わすな」という封建的な家族制度の中から生まれた言葉がある。また、一般的な認識では、男の人はあまり家事を手伝わない、厨事はなおさらである。しかし、我が家では違う。料理を手伝う夫は不器用かもしれないが、自慢の愛妻家である。夫にかける視線に夫婦愛をよく感じとる。
(鑑賞・董振華)

夫に作るサラブレッドの瓜の馬 高橋明江
 お盆の精霊馬。お迎えは早く我が家に帰って来られるよう胡瓜を馬に見立てて作り、彼の世に戻る時はゆっくり茄子の牛で。明江さんはご主人にサラブレッドの瓜の馬を作られた。「これに乗って早く早く帰って来て」ご主人への深い愛情。サラブレッドが何とも素敵でかっこいい。ちょっとの俳味も。

炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
 コロナ禍の夏、誰もが経験した日常。とにかく毎日マスク。どこに行くのも何をするにも。それまでも冬や花粉の時期はしていたが、真夏はつらかった。涼しい素材を色々試してみたがやっぱり暑くてうっとうしいのだ。そして洗うのが面倒臭い。くちゃっと洗いに実感がこもる。炎天をも洗ってしまいたい。コロナの収束を祈る。

晩夏光母はアンネと同い年 村松喜代
 調べたら、今年九十一歳になる私の母も同い年だった。「アンネの日記」は娘もその娘も愛読していたので皆で驚いた。遠い歴史の中の人物だと思っていた聡明そうな額の大きな瞳の少女は、今も生きて何の不思議も無かったのだ。あの恐ろしい悲惨な戦争ナチスの迫害が無ければ。晩夏光は挽歌。母も村松さんの母上も健やかなご長寿を。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

すこーんとこぐ自転車や秋の暮 有栖川蘭子
幸せなり方しゃらり落葉かな 飯塚真弓
冬麗や女に戻れぬので笑う 植朋子
ロードバイク部屋に飾りて小春かな 梅本真規子
白冬薔薇ならわたしを好きなはず 大池桜子
人参抜くもれなく嘘がついてくる かさいともこ
小春日やほうびに違いないと書く 梶原敏子
疑うと窪でパジャマを着る私 葛城広光
穴惑い昨日の僕と出くわしぬ 木村寛伸
山茶花ほっここは泣いてもいいベンチ 木村リュウジ
紅葉且つ散る白髪混りのポニーテール 日下若名
押印の不要に押印文化の日 後藤雅文
屋根に霜空き家に隣るごみ屋敷 榊田澄子
八月の厄介なわたし捨てにゆく 宙のふう
解体は看取りのように菊師の子 立川真理
着ぶくれて形骸となる詩の破片 立川瑠璃
紅葉且つ散る人間のままでいる 谷川かつゑ
被爆地に住み何処かが冷える 中尾よしこ
ラ・フランス歪な頭の君が好き 仲村トヨ子
学校は大きな吃り冬の空 福岡日向子
囲はれの鸚鵡の窓に小鳥来る 藤井久代
見えない傷深く少女初雪 松﨑あきら
来年は来ぬかも知れぬ小鳥来る 矢野二十四
会計士の黒縁眼鏡焼さんま 山本まさゆき
穂芒やわたしを離れぬ無鉄砲 山本美惠子
祭太鼓が防災無線でやって来た 吉田和恵
やつがくんだ。一角獸がてゐる 吉田貢(吉は土に口)
納骨の現場に届くメールかな 渡辺厳太郎
宵闇や泉下のに吾子かぐはしき 渡邉照香
わが咎を石打つところ大花野 渡辺のり子

雪の賦 北村美都子

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆特別作品30句
 第21回現代俳句協会年度作品賞佳作

雪の賦 北村美都子

直線のひしめきてビル群に雪
雪暗や河口に途絶え街の音
姿見の奥のあおあお雪が来る
雪の夜の薬包ふたつひとりずつ
子規の句の雪の深さとなりにけり
降る雪の降るままにここ母のくに
雪襖みつめくれしを炉火と呼ぶ
子狐のおはなし小米雪ささささ
雪無限母の部屋より数え唄
樅の木の雪の降る日は雪の木に
深慮ここに雪を被きし樅一樹
生月はまた永逝のとき六花
葬の門雪踏みひらき踏みかため
回廊に佇むは誰 霏々と雪
奥の間に黙の坐せる雪の真夜
うつばりや累代のこえ雪の声
縄文の雪とよもせる火焔土器
雪しまく土偶のまなこ瞠らせて
地吹雪の止むや一村あたらしく
切り岸の地層ありあり雪霽るる
雪折に止まりて鴉落ちつかず
山ふたつ抜けるトンネル雪の花
雪晴の平野を描き鳶の輪
歎声のいまし雪嶺夕映えて
芳書一通病中見舞雪月夜
雪後の天より点滴の滴・滴・滴
読みさしの詩集一篇風花す
病み抜きし頰剃られおり牡丹雪
春雪や諸手を合わせ洗う箸
ゆきやまに稜線われに心電図

(現代俳句協会『現代俳句』二〇二〇年十月号より転載)

手の影 三枝みずほ

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

手の影 三枝みずほ

青空の深さ声帯が震える
縄跳びや冬の虹立ち上がるまで
人体の散らばらぬよう焚火へ手
硝子戸に星の息づく漱石忌
指紋まで差し出す冬のタッチパネル
液晶に照らされる街冬の雨
呼吸器もろとも寒風が真正面
寒鴉群がる空よ詩が長い
身体の軸となる黒きセーター
手の影はやがてさみしいおおかみへ

『海原』No.25(2021/1/1発行)

『海原』No.25(2021/1/1発行)

◆No.25 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

まんじゅしゃげ心の隅に原野あり 阿木よう子
夏蝶の昏さよ古き手紙のよう 伊藤淳子
タクト振り止まず白鳥鳴き止まず 植田郁一
鹿の目に山の空気の吸われたり 大髙洋子
本日は単身赴任のバッタかな 奥野ちあき
愁思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
反論は十数えてから涼新た 奥山富江
風はおる君にぞっこん花芒 加藤昭子
雁渡し私のどこかが鳴りました 河原珠美
生き恥をどすんと曝す榠樝の実 北上正枝
水底から水面仰ぎて原爆忌 楠井収
鉄臭き校庭の水原爆忌 黒済泰子
晴れた日の鯨の余暇の過ごし方 小松敦
鹿の眼やゆるく窪んだ空ひとつ 三枝みずほ
雑念も時に祈りか曼珠沙華 佐藤詠子
蜘蛛の巣の向うにドローン天高し 篠田悦子
ハンガーに我かけておく鵙日和 白石司子
返信を待つ間のゆらぎ鳥渡る 田口満代子
頬杖の置きどころなしこの秋思 竹田昭江
美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
地下水が噴き出す蛇口中村忌 鳥井國臣
石棺に少年の骨つづれさせ 鳥山由貴子
タクト振りはじむ月下の枯蟷螂 野﨑憲子
じいちゃんの案山子に錆びた鉄兜 平田恒子
ちちろ鳴く女いつでも刺客です 松井麻容子
検温から始まる順路紅葉寺 三浦静佳
マスクはずす朝の緑道をセキレイと 三世川浩司
置き手紙に「遠くへ」とだけすすきの穂 宮崎斗士
見回してわたしもいない芒原 望月士郎
彼岸花囲むソーラーパネルの田 森武晴美

高木一惠●抄出

何から省こう麻畑暮れてゆく 伊藤淳子
生国へ訃を届けんと鳥帰る 植田郁一
配膳を下げる女を見て慰む 宇田蓋男
捕虫網補修している自由かな 小野裕三
欠伸からうまれたお前しじみ蝶 桂凜火
曼珠沙華愛しき女優自死選び 川崎千鶴子
葡萄房とりどり歌仙一と巻きの 北村美都子
なめくじり夢で生業けっとばす 黍野恵
青蛙家族みたいに棲みついて 木村和彦
海ほおずき母にも好きな子のありて 黒岡洋子
素ぴん勝負コスモスの道の駅 小泉敬紀
秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
豊作だってぎゅっと雑巾絞る姉 佐々木宏
独り身の息子に仔猫良夜かな 志田すずめ
少女趣味という趣味捨てず蛍草 芹沢愛子
ハイリゲンシュタット朝露踏まぬやう 田中亜美
星祭り疎水の水の確かさよ 田中雅秀
曼珠沙華死ぬ時も弱音吐くだろう 峠谷清広
水面飢え馬のすべてを映す秋 遠山郁好
電線の隙間に痺れ白き月 中内亮玄
コロナ禍の裂け目に嵌まる泥鰌かな 並木邑人
じいちゃんの案山子に錆びた鉄兜 平田恒子
月への坂道徘徊の友上りしか 船越みよ
美しきもの見つけよと父秋の雲 前田典子
葛の花の遠さが好きだ透きとおる 松本千花
鷹柱もっと遠くを見ておかな 松本勇二
台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
つくつくし流砂のなかの白い石 茂里美絵
俳諧に自由しからずば枝豆 柳生正名
引き際は野葡萄のごと野にはにかむ 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

まんじゅしゃげ心の隅に原野あり 阿木よう子
 人間の心の世界は、多層構造をなしている。もちろん年齢や経験の深さ、生い立ち、個性によってもさまざまだが、この場合の「心の隅」とは、その人のよって立つ心の原風景のようなものではないか。「まんじゅしゃげ」は、その原風景に咲く花に違いない。兜太師の〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉のような原風景ともいえる。おそらく作者の心の基層にある「原野」なのだ。

タクト振り止まず白鳥鳴き止まず 植田郁一
 「宮川としを逝く」の前書がある。宮川は、海程創業期以来の同人で、古賀政男賞を受賞したプロの作曲家。今年の六月、食道がんで亡くなった。享年八十六。亡くなる直前まで、仕事をし続けたという。出身が旧日本領の樺太だったから、今は帰らぬ故郷である。掲句の「白鳥」は、その故郷に棲息していた白鳥をイメージしているのだろう。亡き人のタクトはいつまでも「振り止まず」、白鳥はいつまでも「鳴き止まず」。そこに追悼の想いが内籠もる。植田の今月の五句はすべて宮川への追悼句で占められている。その中の〈夢の望郷岸を離れる流氷に〉は、宮川生前の句集『離氷』にちなんだものである。

本日は単身赴任のバッタかな 奥野ちあき
 作者は北海道江別市の人。江別は札幌のベッドタウンだから、札幌勤務の会社員が多く住んでいる。その中には本州から来た単身赴任者も多い。彼等を「バッタ」に喩えているのは、多分に皮肉を込めた見方であろう。同時発表の句に、〈秋晴れの大群となるわたし達〉がある。ここにも大量の食害をなすバッタの大群を、無為徒食する「わたしたち」と予想している。「本日は」には、バッタに変身したおのれの、諧謔味豊かな挨拶ぶりが見られよう。作者は才気煥発の四十代。

雁渡し私のどこかが鳴りました 河原珠美
 「雁渡し」は、秋も深まり雁が北方から渡ってくる頃、野面を吹き渡る北風をいう。「私のどこかが鳴りました」とは、その「雁渡し」の風音に響き合うように、自分のからだのどこかが音をたてたというのだ。その音は、意識的に自分がたてた音ではなく、無意識のうちにからだのどこからか立ち上がってきた音のようだ。季節の移ろいとともに、からだが何かに反応してたてた物音のようでもあった。

ハンガーに我かけておく鵙日和 白石司子
 この句の第一感としては、いつも出かけるとき着ている洋服がハンガーにかけられている景が浮かぶ。いつの間にやらハンガーにかかっている服は、自分自身の影のようにも見えて来る。ああそれならこの際、いつも建前で生きている自分はハンガーにかけておき、本当の自分自身はハンガーから抜け出して、大いに羽を伸ばそうか、外は鵙の鳴くよきお日和だから。

美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
 「美しき樹形のような」「言葉」とは、大らかでのびやかな、はりのある言葉なのだろう。それにしても美しい樹形のようなという形容句の見事さはどうだろう。この直喩によって、読者のさまざまな過去の記憶のなかから、自分を貫いていった樹形のベストワンを取り出し、相手から聞いた見事な言葉に重ねて捉え返すのである。さらにこのような言葉を吐く「」とは、連れ合いかごく親しい友人のような気のおけない間柄。だからこそ、思いがけないほどの言葉の衝撃を受けたともいえよう。

置き手紙に「遠くへ」とだけすすきの穂 宮崎斗士
見回してわたしもいない芒原 望月士郎
 芒原二題。「遠くへ」とだけ書かれた置き手紙は、感情にまかせて衝動的に家出したからかもしれない。とはいえ「遠くへ」には、家のしがらみから遠く離れた世界へ逃れたいという離郷のこころや漂泊への想いがこもっていよう。それは決してあこがれ出づるものではなく、ひたすら彷徨う思いのなかにある。「すすきの穂」は、そんな心情を受ける季語としてピタリと決まっている。
 さて、芒原へ来てみたが、そこには誰もいない。誰もいないばかりか、「わたしもいない」。となれば「見回して」いる「わたし」は誰なのか。「わたしがわたしである」ところの自己同一性には、もともと不安定な要素があった。「わたし」は、「本当のわたし」を求めるという「自分探し」の在りようを模索しているのだろう。その答えはまだ出ていない。

愁思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
頬杖の置きどころなしこの秋思 竹田昭江
 愁思二態。「海月の足を掴むよう」とは、掴みどころのない漠然とした哀しみ、故知らぬ悲しみのような得体の知れぬものの在りどころを求めている「愁思」。対する「秋思」の方は、「頬杖」に支えられつつも、その「頬杖」の「置きどころ」がないという。中野信子の新著『ペルソナ』の表紙に、崩れた頬杖に顔を乗せている著者自身の写真があり、本の帯には「心の闇を愛でよ」とある。ふと掲句に通底するものを感じた。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

何から省こう麻畑暮れてゆく 伊藤淳子
 通気性の良い簡素な麻衣は、古来、綿よりも庶民に重宝されてきたが、化学繊維の登場で栽培農家も減少一途。そんな麻の畑が作者の視野に暮れてゆく。新型コロナ禍の逼塞感の中で、私なども妙に終活を意識したりするが、兜太先生の愛弟子の「省こう」の措辞が深い。万葉集に〈庭に立つ麻手刈り干し布さらす東女を忘れたまふな〉と、都へ帰る恋人に贈った常陸娘子の別れの歌がある。二人の逢瀬はきっと、丈高い麻畑の日暮れだった。

生国へ訃を届けんと鳥帰る 植田郁一
 初鴨が水飛沫を響かせて妻問いに励んでいる。春には家族を増やして帰るのだけれど、ヒマラヤを越えてゆくアネハヅルの渡りの壮絶さを論外としても、親子無事に生国の地を踏むのは大変だ。人間界も葬祭の為の帰郷が多い。それも叶わず、空ゆく鳥に訃報を届けてと願う。

葡萄房とりどり歌仙一と巻きの 北村美都子
 三十六歌仙に擬えて、発句から挙句まで長短三十六句を並べた連句の歌仙形式は、芭蕉が整えて『猿蓑』に新風を結実させた。俳諧宇宙の趣向を凝らした一巻、葡萄なら評判のマスカットか。私は種のある甲斐路が好き。

引き際は野葡萄のごと野にはにかむ 若森京子
 野葡萄は食べられないが、初秋に白や紫、碧色の小さな実をつけて愛らしい。「野にはにかむ」とは、なんという瑞々しさ。こんな引き際に憧れる。

水面飢え馬のすべてを映す秋 遠山郁好
 連句の師眞鍋呉夫の〈草束子ほどけ流るる月夜かな〉は「牛馬冷す」晩夏の景だが、秋水を詩心鋭く描きとった佳句を前に、馬の「すべて」に拘った。なまじ馬への思い入れが強くて、果たして「すべて」を映すことができるのかしらと立ち止まってしまった。作者の感得したものを真っ直ぐに受けとめられぬ曖昧気質、要注意。

つくつくし流砂のなかの白い石 茂里美絵
 昔愛読した山川惣治の『少年ケニア』に、流砂が恐竜の世界へと導く話が出て、怖ろしくも不思議な流砂の存在に惹かれた。法師蟬の声が呼び込んだ流砂は生々流転の輪廻の流れ。白い石は個なる存在と思われる。季語も流砂も儚い取り合わせだが、白い石は案外堅固だ。

ハイリゲンシュタット朝露踏まぬやう 田中亜美
 大事な耳の疾患と失恋に自死を思いつめて弟に宛てた「ハイリゲンシュタットの遺書」に、ベートーヴェンは「人との社交の愉しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく感激しやすい性質をもって生まれついている」と自身の性情を記している。絶望の果てに、交響曲「田園」がウィーン郊外にある此処で作られた。ハイリゲンシュタット…地名が醸す情趣を想うが、俳句にこれを入れると残りは僅か。独文専攻の作者は実際に楽聖の散策路を辿って「朝露踏まぬやう」を得たのであろう。この地に寄り添う作者の有り様も揺るぎなく伝わる。

俳諧に自由しからずば枝豆 柳生正名
コロナ禍の裂け目に嵌まる泥鰌かな 並木邑人
 漢文調の「しからずば」が、米国独立戦争開始時に発せられたパトリック・ヘンリーの「われに自由を与えよ、しからずんば死を」を想起させる柳生作品は、「自由無き俳諧なら捨てて、枝豆でも食しておれ」というのか、自由無しでも「枝豆があれば結構」なのか聊か迷うが、何れにしても俳諧への強い想いを俳諧を以て表した感。その枝豆が定番の庶民の居酒屋が疫禍に遠ざけられて、並木作品の泥鰌にも、客足途絶えて大地震の裂け目のような現場でもがく人々の姿が重なる。今は養殖が頑張る泥鰌鍋だが、冬耕の鍬にかかった泥鰌を篠笹に刺して、畦で待つ私に渡してくれた父の笑顔を忘れない。

捕虫網補修している自由かな 小野裕三
 捕虫網を繕っていて、ふと、「捕虫」という、自由を縛する行為に加担するわが身に気付いて、「自由」に詠嘆が籠る。所詮は人間の天下。そのことを承知しつつ、自由への真心を抱えた「自由かな」であろう。

秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
 蒼く張りつめた空には筋肉があり、上下左右かるがると舞い始めた蝶はまるで空に操られるかのようだ。秋蝶は約束のように来て、空の誘いに身を任せる。太陽に迫る天体望遠鏡の映像に、支配者の素顔を覗き見したような、逃げ出したい気持ちになる私も、実は秋の人だ。

台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
 台風一過、決まって爽やかな秋天に恵まれたのに、この頃は温暖化のせいか、かの「天晴れ」感が薄くなった。諸処の被害、友人知人の安否も気にかかり報道に釘付けの数日を経て、どうやら大丈夫そうと空を見上げたら、雲がひとひら浮かんでいた。多くの句会を束ねる作者はとりわけ台風の行方に気を揉んだであろう。群雲でなく雲はひとつ。明るく光っていたはずだ。

◆金子兜太 私の一句

豹が好きな子霧中の白い船具 兜太

 作品は、金子家の一人息子の眞土少年を中心に、家族三人で神戸港の埠頭を散策している和やかな雰囲気の情景が描かれている。この作品を読んで図らずも、三十年前に仕事の関係で神戸市郊外のホテルに宿泊し、翌朝ホテルの窓から広ーい港湾内に多くの船が停泊している光景に感動し、時間を忘れて眺めていたことが懐かしく思い出された。『金子兜太句集』(昭和36年)より。刈田光児

春の河原に人間もくと原始なり 兜太

 先生はサインの折りに句を書かれることもあり、「君にはこれだよ、決めてあるんだ」と〈果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島〉の御句を。また私の海程賞受賞の際の色紙には〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉の御句を。そして「やっと宿題を済ませた気分だよ」と。懐かしい御言葉のかずかず。掲句は、その受賞特集号の、東国抄の中から。「もく」とルビを振る先生のお背中が、私には見えてくる。句集『東国抄』(平成13年)より。村上友子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎選
麦秋や長女は木綿の匂いして 加藤昭子
夏布団まざまざとある手足首 こしのゆみこ
○白靴より砂の零るる独語かな 小西瞬夏
僕という嘘がはじまる白雨かな 佐孝石画
緑夜かな身体がこころの荷物となり 芹沢愛子
くらやみの太古の民ら椎匂う 田口満代子
水平のさびしさのあり花うばら 竹田昭江
六月の部屋のまま若者逝けり たけなか華那
○遠いものばかりを夏至の耳拾う 月野ぽぽな
○独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
夏煮えて酸っぱい雨の降るバス停 中内亮玄
みんないて青野に翼つけてもらう ナカムラ薫
孫で子で父で祖父であり花火 藤野武
かりがねや開けつ放しといふ平和 前田典子
蚤の市海夕焼の叩き売り 三浦静佳
夏蝶の来て電柱の傾けり 水野真由美
角ひかる葛切ふうっと未明のにおい 三世川浩司
○螢呼ぶ母はいつしか水になり 武藤鉦二
○悲しんだ身体の残る昼寝覚 村本なずな
青岬母の声して耳のかけら 望月士郎

加藤昭子選
物音に影あり風の凌霄花 伊藤淳子
心音の直下に春の谷のあり 内野修
解き放つ揚羽窓より海が見ゆ 大西健司
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
ハンカチが白いもう空をわすれそう 三枝みずほ
てのひらって案外重いんです緑雨 佐孝石画
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
逃水を小舟のように亡父ちちが行く 清水茉紀
戦ぐ夜の胸底に鳴くこおろぎよ 関田誓炎
雨の鹿目に万緑の詩が写る 十河宣洋
○ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
○遠いものばかりを夏至の耳拾う 月野ぽぽな
○家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
父の日やルビを振るごと家事習ふ 中神祐正
原爆忌造花のやうな式辞かな 前田典子
八月という永遠の立ちくらみ 三好つや子
○螢呼ぶ母はいつしか水になり 武藤鉦二
すべりひゆ膝の関節錆びている 室田洋子
滑莧まなざしはときに絡むよ 茂里美絵
定位置に風なる夫の来て涼し 森由美子

董振華選
栗の花胸に微熱があるような 大西宣子
十月の並木蠢く物落ちて 荻谷修
蟻の列その先の石その下の穴 小野千秋
○白靴より砂の零るる独語かな 小西瞬夏
老いてなお細身に丈る立葵 小松よしはる
遠雷やブルーシートの家に座す 清水茉紀
スケボーの虹の高さへ翻る 鱸久子
東京のあいまいな空かたつむり 芹沢愛子
○ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
響きあう東塔西塔春夕焼 樽谷寬子
○家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
破片焚く唇は八月の赤 ナカムラ薫
逃散をひとまず怺え断髪す 並木邑人
鷺一羽青田に降りる涼しさよ 畑中イツ子
髪洗う渚は群れ鳥のひかり 船越みよ
酒蔵の酵母ぷくぷく夏至る 増田暁子
短夜や宵っ張りの癖老いてなお 松本節子
蕗の糸たどりてやがて母の膝 深山未遊
くちなしの夜半よは壮年のぬかに雨 山本掌
青年のあをき旋毛や雲の峰 吉田朝子

室田洋子選
糸偏や夕焼けは青春の傷跡 阿久沢長道
皇帝ダリア旅を予定しているよ 伊藤淳子
異国訛りの英語で売られハンカチーフ 小野裕三
大津絵の地獄ぞんざい西瓜切る 片岡秀樹
捥ぎたての走り出しそう茄子の馬 鎌田喜代子
どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
夏ぐみ食ぶ夕べの二人貧しきや 小池弘子
小さき耳見せてはならぬところてん こしのゆみこ
紫陽花や手に群青の診察券 佐々木義雄
青簾はじめて夫の髪を切る 高木一惠
夏の霧櫂を放したのはわたし 竹田昭江
○独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
ふいに逝き眩しさ残す麦藁帽 永田タヱ子
夏蝶や何があったのその落胆 西美惠子
踊子草ドガの絵の隅にいる男 松岡良子
かなぶんの不意のブローチ外れない 松田英子
昼寝覚しきりにオランダ通詞など 三世川浩司
○悲しんだ身体の残る昼寝覚 村本なずな
ねぎ坊主岡本太郎かの子の子 森由美子
若返ることはなけれど更衣 梁瀬道子

◆三句鑑賞

六月の部屋のまま若者逝けり たけなか華那
 現代の都会の片隅を切り取った一句。若者がどのような背景で逝ったのかは句からは不明だが、「六月の部屋のまま」とあるから突然に逝ったのであろう。しかも、都会で独りひっそり暮らしていて「六月の部屋」を遺言のようにして逝った。そこにはまだ若者の呼吸の痕がある。「六月の部屋」は現代の若者の孤独極まる景だ。

独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
 こころ塞ぐときや悔いの鎖に束縛されるとき、溜息にまじり独語が溢れ来る。そして時間とともに独語はこころに沈殿する。金魚鉢の金魚が浮いてパクパクするように作者はだんだんと泥濘にはまる。空気の澱んだ部屋は水のないプールのようだ。ただ風と落葉だけが舞うプール。そう、プールは作者のこころの内なのだ。

夏煮えて酸っぱい雨の降るバス停 中内亮玄
 いきなり「夏煮えて」と来る。この措辞が詠む者の心に突き刺さる。日本特有の重い湿気を帯びた暑さ。そして「酸っぱい雨」と続けば、余りの蒸し暑さに心も身体も折れそうなほどの不快感を表出する。時折混みあったバスの車内で半乾きの噎せるような匂いに悩まされるこ
とがある。作者の鼓動は乱れ酸っぱさを増してくる。
(鑑賞・伊藤道郎)

心音の直下に春の谷のあり 内野修
 一読、吊橋の真ん中に立っている作者が見えた。一歩ずつ足元を確かめながら渡る。心臓がバクバクしている。眼下には春になり、緑濃い草木がたっぷり。吊橋の揺れと心音の緊張感が作者を楽しませ、谷の深さや緑の美しさが旅の思い出になったことだろう。

父の日やルビを振るごと家事習ふ中神祐正
 本来なら「父の日」は家族から崇められる最大のイベントだと思うが、掲句は家事を習うと言う。テレビCMのように退職後の夫が料理を習う情景が浮かぶ。奥さんから一つ一つ教わることも円満の秘訣と思うし、ルビを振ると言う措辞にほのぼのとした様子が伝わって来る。

すべりひゆ膝の関節錆びている 室田洋子
 加齢と共に足、腰は悲鳴を上げる。サプリメントに頼る日常だが、すぐに効きめがあるとは確信出来ない。草むしりしていると立ち上がりや移動の際、膝の痛さを覚えるのだろう。膝の違和感を錆びたと捉えたところに納得。滑莧の茎や葉は多肉で潰すと粘りがあり、錆との対比が面白い。
(鑑賞・加藤昭子)

ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
 ジャガイモの原産地は南米で、のちに欧州へ伝えられた。最初は観賞用植物とされたが、やがて食物として庶民に広めた。江戸時代に日本に渡来し、栽培されるようになった。花は薄紫やピンク、白などあり、清楚でとても綺麗だ。作者はジャガイモの白い花を人に見立て、まさに住む場所を定めず、各地を彷徨い歩いていると詠嘆。

家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
 作者は「胡桃」をわざわざ「くるみ」としている。なぜ仮名に拘ったのか、恐らく漢字で表現すると、青の感触を損なわれること。雨の音が偏りなく、世の全ての家に行き渡っている。勿論、宙から俯瞰するのではなく、窓から見える景から連想している。口語の「です」の表現も「くるみ」と響きあい、句の柔らかさを感じさせる。

くちなしの夜半よは壮年のぬかに雨 山本掌
 梅雨の時、しとしと降る雨に気分が沈みがちだが、突然どこからともなく清涼剤のようないい香りが漂ってきて、思わずその香りの元を探してしまう。静まり返る夜半の梔子の香気がより澄み切っている。それと額を打つ雨が相まって、梔子の花言葉のように「とても幸せ」な気分になる。「壮年」のとろり感とのバランスが佳し。
(鑑賞・董振華)

どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
 放課後、校舎の裏の片隅で好きな彼に告白したのだろうか。そして彼の返事は残念ながら…うつむいて立ちすくす私。ふと目が合ったのはどくだみの真っ白な花。鮮やかな白花は大きな瞳のようだ。ああ見られてしまったとその場を走り去った。青春のほろ苦い思い出。「跨げば思い出す」に何とも言えない可笑しみと切なさ。

夏の霧櫂を放したのはわたし 竹田昭江
 遠い夏の日すべてを隠してしまう霧の中、櫂を流されてしまった。でも本当はわたしが手を放したのよ、ふふふ。そんな声が聴こえる。フランス映画のような倦怠感とナルシズムを感じさせる大人の句。芹沢愛子さんの〈あなたが櫂を失くしたという芒原〉この句と相聞のようでもあり、どちらもとても素敵。

若返ることはなけれど更衣 梁瀬道子
 更衣は四季のある日本の大切な行事だ。同じ温度でも春の服と秋の服は違う。取り掛かるまで面倒なのだが結構楽しい。でも昨年まで似合っていた服がどうもしっくりこないことがある。年をとったのだ。きれいなお姉さんだっておばさんになる。「若返ることはなけれど」に深く実感。ちょっと悲しく笑ってしまう。この俳味が好き。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

無月なり伝わらないから手に触れる 有栖川蘭子
父の肺より十六夜の水を吸う 飯塚真弓
東京の孤独とか言いたくない月 大池桜子
秋思断つべくズブロッカのお湯割り 大渕久幸
遡上する鮭ボクサーの面構え かさいともこ
彼岸花黄泉平坂よく照らせ 梶原敏子
水銀のように団扇の光る面 葛城広光
良夜かな背中に文字を書く遊び 木村リュウジ
焼き茄子のお尻モウロクしています 後藤雅文
吾の地図の山の辺りの銀河かな 近藤真由美
春めくは佳人の涙と思うかな 齊藤建春
梳く髪の先までいのち蔦もみじ 坂本勝子
硝子切引いて抜き取る秋景色 佐竹佐介
ざわつく枯葉スカラ座前に吹き溜まる 鈴木千鶴子
孤高といふ厄介なもの寒椿 宙のふう
横這ひに愚図つてゐたる秋の雷 ダークシー美紀
あたりまえを無くした年を去年と言おう 立川真理
七十億の世界は一つマスクして 立川瑠璃
ストレス禿鏡の奥の初雪 谷川かつゑ
金木犀なんのかんのと友老いて 半沢一枝
割印に紙の段差や神の留守 福田博之
後悔の口の苦さよ酸漿よ 藤井久代
コロナは風邪だ。風だ、街吹っ飛んだ 藤川宏樹
この宙から言葉の宙へ夜長人 藤好良
秋刀魚焼く無頼の過去をけむにして 武藤幹
北斎とボサノヴァを聴く夜長かな 山本まさゆき
ジャズ調のダニーボーイや秋夕焼 山本美惠子
オレオレと昔の仲間稲光 横林一石
天道蟲帽子に乘つて海わたる 吉田貢(吉は土に口)
地球いま挽歌漂ふ風の色 渡邉照香

『海原』No.24(2020/12/1発行)

『海原』No.24(2020/12/1発行)

◆No.24 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

山彦を吸い込んでいる父の声 奥山津々子
人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
黒揚羽刻を透かし彫るように 金子斐子
丸髷の背中侘し気獺祭忌 上脇すみ子
足裏が目覚めずにいる水の秋 北上正枝
明易し老老介護の息遣い 楠井収
糸とんぼ君との今日の空気感 黒済泰子
聞き耳をたてたるごとく萩さくよ こしのゆみこ
熱帯夜アンモナイトの時間帯 小松敦
さよならの言葉の楕円梅雨の駅 佐々木義雄
這う母とカサブランカを見ておりぬ 清水茉紀
巣籠りのからす団扇のありどころ 鈴木孝信
蝦夷えみしらの土葬の丘や桐の花 鱸久子
マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
今日生きる作法の一つ草を引く 髙井元一
黙祷もせず消毒する8月の教室 たけなか華那
遠き日の夢の瘡蓋破れ蓮 寺町志津子
不要不急の沼のあたりが秋ですよ 遠山郁好
ボクたちの不自然な距離青柿落つ 鳥山由貴子
書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
友引におろす半襟萩の風 丹羽美智子
豪雨禍三日蟹より赤きものを見ず 野田信章
牛蛙のトロンボーンソロ昭和の森 長谷川順子
軽き齟齬秋の肌感覚崩れ 藤原美恵子
ことばあり風蘭ほどの考え事 北條貢司
秋うらら蛇の目になるコンタクト 三好つや子
合歓の花地層はつねに藍色で 村上友子
無花果熟れ乳房満ちくる心地して 森鈴
合歓の花坊さん裏木戸開けてくる 山谷草庵
あの世とは水平感覚つくつくし 若森京子

石川青狼●抄出

日雷舞妓になったというメール 石川義倫
一隻が海のファスナー開くかな 市原正直
闇になおおもて隠して踊りの輪 伊藤巌
白さるすべり氏神に見す肢体かな 稲葉千尋
脳天にシャワー一匹の鮭のつもり 井上俊子
大器晩成と煽てられしが灸花 宇川啓子
木の葉降る身はよろけたり糺すまい 宇田蓋男
トンボのように尻尾を立てて留まりたい 大久保正義
COVID-19白旗に見える夏 大沢輝一
岬へと当てずっぽうの径灼ける 小野裕三
仏壇に重み一房黒葡萄 川崎益太郎
戦争の事を喋って嫌われて 河西志帆
滝しぶき嗚呼ときれいになる眼 北村美都子
旅人として故郷の清水手で掬う 木村和彦
秋茜耐えるおとこは夫である 小池弘子
胸像の胸襟開く残暑かな 齊藤しじみ
蝦夷梅雨や紙ナプキンで鼻をかむ 笹岡素子
親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
秋よ天衣無縫の子をうみたくなる 白井重之
風の音朝に残し蝉の羽化 白石司子
雲流るるか夏果ての樹々くか 鈴木修一
蛇老いてつひに叶はぬ更衣 高木一惠
みづうみは放電をして睡蓮 田中亜美
夏鳥の真言を聴くステイホーム 並木邑人
雷青々と天地激越に抱擁す 藤野武
撓る蛾のまっ白という狂気 前田恵
摘んだマンゴー一個で満腹満潮見る マブソン青眼
ピーマン鈴生りふるさとに帰れない 三浦静佳
蝉時雨止んで石段現れる 横地かをる
七十五年目われ潮枯れの背泳ぎす 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
 一見相聞句のようだが、熊本の水禍を思えば追悼句とみても差し支えあるまい。亡き人を偲びつつ、草の花を摘み花束を作っている。「人想う一本」とは、この一本はあの人のために、この一本はこの人のためにと、一本一本に想いをこめつつ花束を作る。それが「いつしか草の花束」になっていた。花束は幾人かの人達への思いを束ねて、その一人ひとりへの思いの彩りをそのまま映し出している。やがて小さなかなしみの華やぎとなって、流れに投じられるのだろう。一拍の字明けが情感を湛える。

黒揚羽刻を透かし彫るように 金子斐子
 夏の日を黒い翅に受けて舞い出る黒揚羽は、強い陽射しの中を透かし彫るように、夏の空間に舞い出る。その時、黒い羽は鋭利な刃物のように空間を切ってゆくと見たのだ。おそらく厳密にいえば、彫る感じより切り出す感じの方が強いのではないかと思うが、「透かし彫る」としたことで、切り出すニュアンスが加わったのではないか。このあたりの作者の言語感覚は見事なものというほかはない。あたかも扇をひらひらと投げかけるような優雅さが、そこに加わったと見てもよい。

糸とんぼ君との今日の空気感 黒済泰子
 糸とんぼは、体が細く青みを帯びた色あいで、翅に透明感がある。なんとなくはかない清潔感があって、その存在自体が、空間を浄化してゆくような気配を漂わせる。久しぶりに会った恋人同士。どこかまだ幼さの残る年頃だろうか。幼馴染の中高年同士ともとれる。爽やかな気分で出会い、とりとめのない会話を交し合った後、またの日を約束して清くわかれるのだろう。それが「今日の空気感」だった。あるいは、これから始まる今日の空気感かもしれない。糸とんぼは、その清めの合図のようでもある。

マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
 コロナ禍発生以来、街中マスク一色となった。マスクによって人々は皆覆面化したのだ。覆面によって表情を消し、匿名化したともいえる。なにやらおぞましい無表情の街。きつねのかみそりは彼岸花と同じ秋の花。六弁のオレンジ色の花で、花の実体感もさることながら語感からくる怪しげな感じが、マスクの奥にひそむ得体の知れない匿名感に響く。

黙祷もせず消毒する8月の教室 たけなか華那
 8月の教室とはどういう教室かわからないが、社会人向けの夏の臨時講座かも知れない。「8」とアラビア数字を使っているところから、講座の臨時性を感じさせる。「黙祷」とは風水害の犠牲者の出た地域での通過儀礼かもしれない。それがコロナ禍発生以後、黙祷の前に先ず「消毒」することから始まった。こういう非日常の新たな生活習慣に着目して、ニューノーマルといわれる事態をリアルに見据えた一句となったのだ。

ボクたちの不自然な距離青柿落つ 鳥山由貴子
 「ボクたち」とは、どういうボクたちなのだろう。「不自然な距離」との相対感からすれば、お互いに意識しあうギゴチナサのようなものを感じる。加えて「青柿落つ」とは、熟さないまま落ちて行く果実だから、そこに「ボクたち」の青春性が浮かび上がってくる。一方で現在のコロナ禍から強いられた「不自然な距離」とも見られなくはない。あるいはその双方を含む距離感なのかもしれない。それがソーシャルディスタンスと呼ばれる距離感なのだろう。

書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
 深夜一人原稿に向かうとき、書くという感情だけが先立ちながら、一向に稿が進まないことはよくある。「夜のかたつむり」がその辺りの情況を照らし出している。遅々として進まぬ原稿にたいして、書こう、書かねばという感情だけが先走ってゆく。それは銀色の筋を引きながら進むかたつむりのような稿の動きともみられよう。

友引におろす半襟萩の風 丹羽美智子
 暦の六曜の一つ友引は、友を引くとして葬儀にはふさわしくないが引越しや結婚式には良い日柄とされている。半襟とは、和服の襦袢に縫い付ける襟のこと。さすがに年配者らしい教養で、友引の日に新しい半襟をおろして着付ける。なにがなし人を待つともなく待つ風情で庭に出ていると、折りしも萩の花咲く時期で萩の匂いを風が運んでくる。友引の日なればこそおろした半襟に、吹き寄せるかのような萩の風。静かな老いの時間が流れる。
牛蛙のトロンボーンソロ昭和の森 長谷川順子
 「昭和の森」とは、具体的に昭和公園の森をイメージしてもよいが、おそらくは「昭和時代の森」を重ねているのではなかろうか。疾風怒濤の昭和時代の音を、重低音の牛蛙の鳴き声のトロンボーンソロのように聞いている。もちろん昭和の歴史は、戦争と無残な敗北に終わる二十年までと、戦後の復興から高度成長へ向かうそれ以後とでは曲調が一変するわけだが、これもジャズのようなトロンボーンソロの変調演奏とみれば、納得がいく。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

日雷舞妓になったというメール 石川義倫
雷青々と天地激越に抱擁す 藤野武
 石川句。日雷は降雨を伴わない雷で旱の前兆ともいわれる。平穏な日常の生活圏へ、突然メールが届く。その内容は衝撃的な「舞妓になりました」とのこと。白昼夢のような予期しない伝言に、雷が脳天に落ちたような衝撃であったのだ。「舞妓さん」との接点がない私には、舞妓になるための条件も一人前になるための修行の何たるかも想像はつかないがドラマチックな一句。
 藤野句。突然の雷。天と地が揺らぐような青々とした雷光と雷鳴とともに激しい雨が降り出した。「激越」の一語は作者の押さえきれない感情の高ぶりでもある。その高ぶりを包み込む人知を超えた自然の力を感じたのか。
〈生を区切られし義兄あにに浜ゆり燃えやまぬ〉の義兄への思いを切々と詠んだ五句の一句であるが屹立している。

COVID-19白旗に見える夏 大沢輝一
夏鳥の真言を聴くステイホーム 並木邑人
 大沢句。新型コロナウイルス感染症の正式名称が今年の2月に「COVID-19(コヴィッドナインティーン)」に決定した。その時期からこの夏まで感染が終息しない。人類がこのウイルスに白旗を挙げているように見えるのだ。だが、白旗を挙げても終息とはならない。
 並木句。耳を澄ませば夏鳥の鳴き声。夏鳥は春から初夏に南方から渡ってきて繁殖し、秋に南方へ去る鳥だ。ツバメは春の彼岸ごろに来て子を育て、秋の彼岸ごろに帰る。カッコウやホトトギス、とくにヨシキリなどはその鳴き声が「ギョギョシ」と鳴くので行行子とも呼ばれ俳人には馴染みがある。とにかくコロナ禍のために自粛を強いられステイホーム中。夏鳥の鳴き声が真言(マントラ)のように心地よく聞こえ、作者の心に沁みてきたのだ。差し詰め般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦ぎゃていぎゃていはらぎゃてい」のように聞こえてきたか。作者自身も唱えていたのかも知れない。いつまで「家に居ようよ」となるのであるか。

親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
撓る蛾のまっ白という狂気 前田恵
 篠田句。よく悪さをする子供を見かけると、つい「親の顔が見てみたい」と口に出てしまう。掲句はそうではない。植物の葉に丸々と太った芋虫を発見。周りの人は気持ち悪いし、害虫だから駆除しようと言うのだが、作者は芋虫が将来どんな蝶に変身するのか、どんな親であったのか楽しみとばかりに「顔見たいだけなの」と期待と愛情を込めて飼っているのだ。もちろん、行儀がよく躾がしっかりしているので親御さんの顔を見てみたい子供と芋虫との取り合わせの妙もある。
 前田句。まっ白い蛾が白昼、木の周りを乱舞していたか。蛾は灯取虫、火蛾とも呼ばれるように灯火に狂ったように飛んでいるが、掲句のイメージは夜より白昼の乱舞と見たい。蝶は美しく、蛾は醜いダークな存在である。まして、まっ白な蛾はどこか毒々しく魔力を持っているような感じがする。妖艶に撓うように飛んでいるのか。それが大群をなして木の周りを乱舞している様は狂気であろう。作者の頭の中も真っ白になってしまったか。

旅人として故郷の清水手で掬う 木村和彦
ピーマン鈴生りふるさとに帰れない 三浦静佳
 木村句。故郷を飛び出してから長い歳月が過ぎてしまった作者。何度も帰ろうと思っていたが、いざという決心が鈍ってしまっていた。意を決しての帰郷であり、すでに旅人として訪ねるような心境なのであろう。子供のころ遊び場であった清水湧く場所に出かけ、懐かしく清水を掬う。たちまち幼い頃の自分に帰っていたか。
 三浦句。ピーマンの収穫量の多い産地は、温暖な気候を持つ地域で、茨城、宮崎、高知の県名が上位に上がる。作者のふるさとの家では畑で野菜を栽培して、特に夏にはピーマンが鈴生りになるのか。いつもなら帰郷して両親の元に兄弟家族が集まり楽しく食卓を囲んでいるのだが、今年はコロナ禍で「ふるさとに帰れない」のだ。

脳天にシャワー一匹の鮭のつもり 井上俊子
 作者は鮭の遡上を間近で見たのであろうか。段差のある川上へ懸命にジャンプしながら遡上する姿は涙ぐましく感銘を覚える。頭から強めのシャワーを浴びているとまるで一匹の野性の鮭になったような気分なのだ。脳天から肢体を流れるシャワーに身を委ねて、しばし歓喜の声を上げていたのかもしれない。爽快さが伝わる。

岬へと当てずっぽうの径灼ける 小野裕三
〈管理人に駄洒落の多きバンガロー〉の句などから、家族でキャンプへ出かけた時の連作であるか。キャンプ地から岬へのプチ探検。簡単な地図だけ持って子供たちと目的地の岬へと出発。とにかく当てずっぽうに歩き出す。天気が良すぎてうだるような暑さとなり、径は灼けるようだ。もっと緻密な計画をしておけばと少々後悔しながらも、解放感を存分に味わっているのだ。そしてついに岬が見えてきた。一気に軽快な足取りになる。

七十五年目われ潮枯れの背泳ぎす 若森京子
 戦後七十五目の今、「われ」に課せられたものを問う。

◆金子兜太 私の一句

雪の吾妻山あずまよ女子高校生林檎剝く 兜太

 「九四歳の荒凡夫」の収録で来福。収録終わり頃、女子高生が林檎を上手に剝き「福島自慢の林檎、放射能検査済です。安心して召し上がって下さい」と。兜太先生は一切れ、二切れと頷きながらゆっくり味わっていらっしゃった。帰り道「若い人に辛い言葉を使わせる世の中はいかんなぁ」と、風評被害で苦しむ福島を気遣って下さった。冷たい風の中、吾妻山は福島をしっかり抱いていました。句集『百年』(二〇一九年)より。宇川啓子

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太

 その人を伝うるに選句眼を以てす。たとえば、選に入りせば喜びに浸る。それに裏付けられし句業の中で句を探す。われ百パーセントの句でなく、「俳句界の傑作」に思いを馳せる。すると掲げし二句を得る。前句は誰もが興奮せど五七五の壁あり、三句体の幅を広く持ちて成らす。後句は当時の出産事情と絡ませ長寿を活かす。かような句から「存在者・金子兜太」が浮かび上がる。前句『暗緑地誌』、後句『日常』より。鈴木孝信

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎 選
飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
もう鳥になれず五月の水たまり 伊藤淳子
全身で桜を家に閉じ込めるコロナ禍 奥山富江
耳朶悲鳴眼鏡補聴器夏マスク 川崎益太郎
枇杷熟るる小鳥の時間貰いけり 河原珠美
花嫁の小さき頭痛や鳥帰る 木下ようこ
青梅ぽとりクラスで透明な俺 黍野恵
○平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
とり絞めてその黄昏のがらんどう 小池弘子
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
白鷺は抜き書きめきし夕まぐれ 田口満代子
風熄めば風の少年蘆を噛む 遠山郁好
○滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
白詰草姉さんという青い空 平田薫
都市封鎖ナマハゲマスク雄叫びを 藤盛和子
また羽音アジサイを淡水源として 三世川浩司
夕顔やひとり言とは微かな旅 宮崎斗士
巣ごもりの折り紙どこかに棘少し 村上友子
あいまいに笑う少年川蜻蛉 横地かをる

加藤昭子 選
父の額へ吾額合わす花の冷え 石川青狼
夜の空気かすかに濡れて青無花果 伊藤淳子
○行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
ことごとく健脚たるや蟻の列 片町節子
死の中に夕暮れのあり冷奴 河西志帆
○緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
北国の闇の分厚し蛍烏賊 北村美都子
数頁後には純愛青葉木菟 木下ようこ
夾竹桃父の死に場所だったろうか 白井重之
セーラー服次々羽化す青水無月 すずき穂波
人の群れゆく春の鹿より無表情 芹沢愛子
世間向けの真面目な顔で蚊をつぶす 峠谷清広
読み人知らずかげろうの痒そうな 遠山郁好
まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
病む母にどくだみの花星のごと 間瀬ひろ子
田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
ダム底にゆらぐ分校にいにい蟬 武藤鉦二
○卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
○教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
研ぎ物師傍らに涼しさ置き 茂里美絵

董振華 選
芒種かな無言で豆腐ハンバーグ 伊藤歩
音消してすでに漂流橡の花 伊藤淳子
篠の子やつんつんとする三姉妹 伊藤雅彦
定住漂泊光と闇のはざま生く 上野有紀子
○行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
三密で竦んでいない蛙鳴く 大西政司
瀑布の裏は悲しきまでに透きとおる 金子斐子
○平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
沙羅咲いて母の居た日に入り浸る 竹田昭江
万緑に小さき鉤裂き夏館 田中亜美
フクロウの鳴きつぐ森の闇匂う 椿良松
○滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
青田整い鷺は片足どこに置く 丹生千賀
七月や師越へ親越へ我白寿 丹羽美智子
風紋のような守宮のきれいな瞳 三浦二三子
専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
○卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
流れ星全米デモが海超える 望月たけし
○教室や心の浮巣に一人居る 森鈴

室田洋子 選
草城子青田の中を自転車で 浅生圭佑子
春キャベツ不要不急の顔でいる 有村王志
朧です棺の父のはにかむよう 石川青狼
妻の裸つつききれいと言う五月 伊藤巌
とにかく生きて厚手の布団入れ替える 宇田蓋男
卯の花ぱっとさざなみみたいな便りだ 大髙洋子
投函のふり向き際に春の虹 柏原喜久恵
麦秋や時のほこりにまみれながら 金子斐子
○緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
逝きし夫ささぶねの揺れ大きい靴 久保智恵
訪ねれば双子出てくる柿若葉 小林花代
願いを込め隅々を拭く麦の秋 坂本久刀
ばあちゃんって私のことね広いバラ園 髙尾久子
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
桐の花上昇気流を待ちかまえ 田中雅秀
また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
囮鮎おれたちすることないもんね 松本豪
神経は薔薇のつぼみの中にある 茂里美絵
新緑のピンクのスニーカー買う 山内崇弘
さう来たか朝のトマトの断面 横山隆

◆三句鑑賞

青梅ぽとりクラスで透明な俺 黍野恵
 青春性あふれる一句。現代の少年の切なき景が映しだされる。少年期という誰もが通過する甘酸っぱい時期。「クラスで透明な俺」にはこの時期特有の孤立感が漂う。群れ合い、じゃれ合い過ごすことが多い少年期にふと襲い来る孤立感は透明な気持ちにさせる。否、透明だからこそ孤立感を産む。「青梅ぽとり」が効いている。

とり絞めてその黄昏のがらんどう 小池弘子
 昭和の背を色濃く映し出す。戦後しばらく生きることは食べることだった。鶏は一番身近にいる食べもの。僕たちは身近な生き物を食べて生きていることを肌で目で実感していた。鶏は頸を切られても走り回っていた。そして静かになった後の虚ろと何とも言えぬ後ろめたさ。「黄昏のがらんどう」が生に切り込む一句に仕上げた。

また羽音アジサイを淡水源として 三世川浩司
 薄暮の中の淡い景か。紫陽花を「アジサイ」とカタカナ表記にしたのが成功している。さて、羽音は鳥か虫か……。ゆったりとした蝶のような微かな羽音が次第に幻聴なのかも知れぬと詠むものに感じさせる羽音。そのいのちの水がアジサイという発想は詠むもののこころにさざ波を起こす。詩情豊かな一句に仕上がった。
(鑑賞・伊藤道郎)

父の額へ吾額合わす花の冷え 石川青狼
 五句共、父上への追悼句。今まで何度も人の死に会い、顔や髪の毛を撫でる行為を見て来たが、額を合わすというのは初めて。もう息子として抱きしめることも出来ないという哀しみ。父への感謝、額を通じて最後の父への孝心のような気がする。花冷えの季語が美しく哀しみを誘う。

田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
 自分も農家なので一読、親しさを覚えた句。大家族で暮らしていた頃が思い出されたのだろう。機械化が進んだ現在は、田植も稲刈りも多くの人出を必要としない。炎天にお湯の様に沸いた田の中を、這いつくばって草取りしていた親達。隣近所の結いの繋がりも薄くなった淋しさを思う。

卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
 卯の花の白さ、食器も多分白いのだろう。句またがりの中七の切れが巧み。「ひとり」「ひかり」の措辞が耳に心地良く清潔感が漂う。たっぷりと花をつけた卯の花を見ながらのランチだろうか。日射しに映える食器の美しさに、どこか淋しさを感ずるのは私だけだろうか。
(鑑賞・加藤昭子)

沙羅咲いて母の居た日に入り浸る 竹田昭江
 「沙羅の花」は釈迦入寂の「沙羅双樹」とは別の木である。白い花弁に黄色の蕊を持ち、咲いてもその日のうちに落ちてしまう一日花。また、花の形が椿に似ていることから、「夏椿」ともいう。上五の季語がよく利いている、夏椿の白い花が咲き、母がまだ健在していたあの日あの時に戻りたい、母への深い思いを感じさせる。

フクロウの鳴きつぐ森の闇匂う 椿良松
 梟は普段穏やかで大人しい気質である為、人間から非常に親しまれる一方、日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた為、「不幸鳥」と呼ばれる。また、夜行性である故、人目に触れる機会は少ないが、冬夜の森と言えば幽深なるイメージで、「梟が鳴き継ぐ」によって、更に森の闇を深め、静寂感を際立たせる。

卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
 日本の古歌には光のようとも雪のようとも詠われる「卯の花」。旧暦の四月(卯月)頃に咲くことから、この名があり、夏の到来を感じさせる代表的な花である。季語と「ひとり食器のひかり」との取り合わせはリズムが整い、一人暮らしであっても光る。寂しさの中に前向きな姿勢を感じさせ、充実した一人暮らしが見てとれる。
(鑑賞・董振華)

朧です棺の父のはにかむよう 石川青狼
 春の夜、棺に眠る父。長い人生を家族のために必死に働いて来た。大変な時代ご苦労も多かったことと思う。そして昭和の父は無口で怖い存在だったかもしれない。でも今その顔は安らかでまるではにかんでいるようだ。誠実に生きた幸福な大往生。残された家族も幸せ。「朧です」が優しい。父への深い感謝と愛情が胸に沁みる。

訪ねれば双子出てくる柿若葉 小林花代
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
 双子ってとても魅力ある存在だ。小説や詩や短歌、もちろん俳句でもよく詠まれる。掲句は二句とも女の子の双子と思う。訪いに明るく出て来た同じ顔をした女の子達。軽い驚きと嬉しさ。艶やかに輝く柿若葉がぴったり。「人形も双子」ちょっとミステリアスで素敵。抱いている少女達も双子。ふたつの南風が心地よくさわやか。

また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
 これは金子先生だ。例会の帰り道何度か駅までご一緒した。俳句の話や他愛もないお喋りをしながらわいわい歩いた。皆、先生といるのが嬉しく楽しかった。晩年は杖をついていらしたが、姿勢がよくすっと立つ信号待ちの先生が鮮やかに浮かぶ。でも「また霧が」消してしまう。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

霊界だっぺ父の色情因縁は夏 荒巻あつこ
永吉のうねる歌詞かな野分まえ 飯塚真弓
八月は鵺を葬る匂いして 植朋子
鳥渡るハンドソープを買う列に 大池桜子
媼らが「ジジ抜き」するや秋の昼 大山賢太
秋淋し役人妻が髪ほどく 岡村伃志子
豹の足電車の床からぬっと出る 葛城広光
山法師きのうおととい映し出す 木村リュウジ
夏休み忍者学校手裏剣部 後藤雅文
秋暑し底なし沼の歎異抄 小林育子
吾のいない地球ひまわり揺れている 近藤真由美
煉瓦塀崩れて竹の春溢る 佐竹佐介
全天を送り火として逝きし彼 島﨑道子
やわももの触れたとこから腐りゆく鈴木弥佐士
大利根はふところ深し鮭遡上 五月女文子
梅雨冷を纏ふて影の蠢きぬ 宙のふう
ほろほろと崩れてぬくき蛇の衣 ダークシー美紀
別の日は別の顔する菊人形 立川真理
ピザ届くけもの道よりにゅっと月 谷川かつゑ
捨案山子倒されたまま寝息して 仲村トヨ子
汗光るわたしは黒人女性です 野口佐稔
原爆忌名札垂らして非戦闘員 福田博之
甚平に下駄つつかけて五歳かな 藤井久代
銀河は葬列おとうとよ光れ 増田天志
夏はいつも角のパン屋のガラスから 山本まさゆき
蝉殻を付けて表彰台に立つ 吉田和恵
かたつむりみどりの井戸のあたりかな 吉田貢(吉は土に口)
重陽や背すじ伸ばして卵巻く 吉田もろび
実石榴や女児女生徒に変はるころ 渡邉照香
とぐろ巻く髪をなだめて熱帯夜 渡辺のり子

◆宮川としを遺句抄(植田郁一・抄出)

 皿売りが仕舞い忘れた霧一枚
 行間は荒塩サハリンからの遺書
 望郷の指先で立つ寒たまご
 上野駅春の握手が落ちている
 駅弁を棺のように持つ老人
 踏み消されてからは吸殻も木枯しの仲間
 霧はとぎ汁母の小言が流れ着く
 老母逝く天の一波地の一波
 いまも湖底に曲り続ける父のレール
 霧撲てば父の怒りがはねかえる
 雪崩のようにああ上野駅人を消す
 ひとすじの後悔が行く雨の竿売り

  兄一勢逝く
 掌の雪の水に還りし音を聴く
 秋刀魚のしっぽはわが経歴のそれだな
 ダイヤモンドダストいま誰れかの臨終
 病葉ゆえ音を立てたりしないのです
 蕎麦打ちの骨の太さよ眼の細さよ
 他人の葬列遠い書棚を少し動かす
 うつむけばうつむく影を誰れもがもつ
 まだ生きてあのカラフトの雪を踏む

頑張り抜いた生涯 植田郁一

 9月10日、海程創刊時からの仲間宮川さんが12月3日87歳の誕生日を待たず亡くなり暗澹たる思いは今も脳裡から離れないでいる。宮川さんは作曲家として数多くの作品を残し、「俳句交信」を主宰発行、作詩・作曲家として「古賀政男賞グランプリ」を受賞するなど活躍、後進の指導にも精力的に当っていた。
 食道癌の大手術を受けたが屈せず活動の手は緩めることなく、懸念された転移が肝臓に認められるも怯まず、何事にも前向きの精神を崩さなかった。その精神力は持って生まれたもので、六人兄弟の四男として樺太(サハリン)で生まれ12歳で終戦、お父さんは既に亡く、敗戦によって引揚げるなどの辛苦は想像を絶する。幸い長兄勢一さん(俳名・園一勢)がおり、従軍先の北支から引揚げ北海道に居住、二年後引揚げた宮川さんは兄宅に同居することになった。一勢さんは山田緑光、星野一郎らと細谷源二を擁して「氷原帯」を発行。宮川さんは一勢さんから俳句の指導を受け忽ち頭角を現して同人となり、氷原帯賞にも輝いた。しかし作曲家への夢は捨てきれず上京、仕事を転々としながら苦学、その間「海程」へ入会、海程集を経ずして15号で同人に推挙された。のちに園、山田、星野の各氏も同人参加。父親代りでもあった一勢さんが亡くなり、山田、星野両氏は海原集作家になったことを思うと、宮川さん兄弟も当然その席にあるべき作家であった。
 宮川さんは東京例会の案内葉書、事前投句された作品を謄写印刷を担当、しかも無償で引受けられた。また「海程」28号発行を前に大山編集長が困っていた。作品合評を依頼した原稿が締切を過ぎても届かない。素早く宮川さんが買って出た。二人で今夜中に書き上げ、明日大山さんへ届けることになった。宮川さんは率先して身を挺する人でもあった。
 宮川さんはいま流氷がぶつかり合って出来た氷原の上を歩いているに違いない。少年の頃氷原の果てに興味を持ち、その先は濃紺な海が大河のように流れ、反射的に振り返り、もし氷原が岸から離れたらと心配で急いで帰ったという。宮川さん、もう帰る心配も戻る必要も無い。私のほうから行くから待っててくれ。そして流氷をカクテルにして一緒に飲もうよ。――。

『海原』No.23(2020/11/1発行)

◆No.23 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

水禍後ポツリ婆語るよう子守唄 伊藤幸
鵜の木に鵜じっとしている流離さすらい 伊藤淳子
殖栗ふぐりぶら下げ荒ぶ被曝畑 江井芳朗
老いたかな夏葱きざむ軽き嫉妬 大野美代子
雲母虫「菜根譚」に停まりぬ 片町節子
コロナ禍のわが晩節の濃紫陽花 金子斐子
百物語きみの出番はあるのかな 河原珠美
師系とは一本の滝 滝真白 北村美都子
木苺の花なんでもない今日に礼 黒岡洋子
青嵐や迷宮という君の余韻 近藤亜沙美
青葉風付箋はときに飛べない鳥 三枝みずほ
行者にんにくウポポイに血が騒ぐかな 坂本祥子
業平忌五感を濡らす私雨 重松敬子
土嚢と辷る足弱へ泥泥藪蚊群れ 下城正臣
峽に虹木地師こけしの目を入るる 鱸久子
短夜の伽のはざまにLINEかな すずき穂波
緑雨かな僧の目をして黒猫よ 関田誓炎
辻辻に醤の匂ひ虹渡る 髙井元一
ステイホーム小道にずらり土竜塚 高木一惠
生きるとはこんなものかな海月かな 高木水志
眼裏は記憶の影絵竹落葉 高橋明江
汀女の忌音たてぬよう匙つかう 遠山恵子
ふいに逝き眩しさ残す麦藁帽宮 永田タヱ子
音階の半音ずれてコロナの日々 服部修一
七夕は雨人声のさわさわ滲む 藤野武
かりがねや開けつ放しといふ平和 前田典子
感情を因数分解夏のれん 松井麻容子
塩壺に星の匂ひの山の夏 水野真由美
八月の影ひとつずつ人立てて 望月士郎
柚子坊のまるい感情ねむたそう 横地かをる

石川青狼●抄出

桐の秋麻薬もありの処方箋 阿木よう子
晩節の山菜ほどよき村に住む 有村王志
口述筆記少し乱雑ねこじゃらし 市原光子
看取られないところを終いの住処とは 植田郁一
眠いかと聞かれウンと螢です 大沢輝一
開け放つ仏間揚羽のそよぎおり 大西健司
トマトもぐ子育て世代支援かな 奥野ちあき
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
じき爪を噛む癖それって含羞草 楠井収
木苺の花なんでもない今日に礼 黒岡洋子
愛こそはすべて連結部の蛇腹 小松敦
ハンカチが白いもう空をわすれそう 三枝みずほ
始祖鳥もかく啼きいしか夜を青鷺 佐々木香代子
蠅叩くさよならヒット打つように 佐々木宏
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
読みきった後の波だち夏鴎 田口満代子
夏草や僕たちは通り雨なんだろう たけなか華那
熱帯夜とろりとろりとろりめくる 月野ぽぽな
夕焼や遊んで遊んでいた昭和 峠谷清広
かなかなかなかなかなの木の縛られて 遠山郁好
明日から休校黄蝶のように手を振り合い 中村晋
不知火海しらぬい五月牡蠣立ち食いの僧もいて 野田信章
ここからは風の領分ねじ花ほわっ 平田薫
待合室に×のそこここ梅雨の蝶 三好つや子
八月や牛に曲芸など要らぬ 武藤鉦二
翅ほどの骨片蛍に渡される 茂里美絵
曲がった胡瓜ほめて育ててなかったか 山内崇弘
濃あじさい渇きていだく昼の闇 山本掌
あじさいやその感情にまた会ひし 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

水禍後ポツリ婆語るよう子守唄 伊藤幸
 今年の熊本の水禍を詠んだ一句だろう。天災を免れることは難しいが、災難を語り継ぐのはいつも、その体験をしたか身近に聞いていた古老の役割である。この句の「婆」も、孫をあやしながら子守唄の中で、かの水禍で亡くなった人々や村の様子を折込み、唄い聞かせているのだろう。それが婆にとっての亡き人々への供養でもあり、忘れ得ぬ出来事の記念の想いに違いない。

百物語きみの出番はあるのかな 河原珠美
 百物語とは、夏の涼を楽しむために怪談を一人ひとり語り、話が一つ終わるとろうそくの火を一つずつ消して、怖さをあおりつのらせていく遊びのこと。この句の「きみ」とは作者が最近亡くされた最愛のご主人と思われる。もし逢えるものなら、化けてでも出てきてほしい気持ち。だから百物語の中にかの「きみ」の出番はあるのかな、いやあってほしいという一句。ユーモラスな言葉の裏にひそむ痛切な思い。

師系とは一本の滝 滝真白 北村美都子
 あらゆる芸術や芸の世界には、引き継がれてきた師系というものがある。それは一本の滝のように連綿として流れ、しかもその師系ならではの祖師からの教えを受け継いで、門流を育てて行く。それが一つの系譜を作っていくのだ。その姿を「一本の滝」に喩えた。あえて下五を分かち書きにして一拍置くことにより、「滝真白」の印象を鮮明にし、「師系」の純粋さを強調した。それは作者の「師系」へのこだわりでもあったに違いない。

青葉風付箋はときに飛べない鳥 三枝みずほ
 青葉風吹く森のような公園か、行きつけの野外の木陰で本を読む。読み疲れて少しうとうととしていると、取り落とした本に挟んだ付箋が、風にかすかにふるえていた。それは本から飛び立とうとした付箋が、飛び立てないままもがいている鳥のようにも見えて来る。おそらく、本に触発された作者のイメージは、うつぼつとして行き場を見失っている状態なのかもしれない。それも若さ故の倦怠感アンニュイなのだろうか。

土嚢と辷る足弱へ泥泥藪蚊群れ 下城正臣
 作者も熊本の人だから、やはり水禍に見舞われたときの体験を詠んだものだろう。それも被災者ならではの実感をリアルに詠んでいる。泥水の浸入を防ぐために積んだ土嚢と、崩れた泥に足をとられている足弱な老人や婦女子たち。その足をめがけて、泥まみれの藪蚊が襲いかかる。「足弱へ泥」「泥藪蚊群れ」と読んでも、「足弱へ泥泥」「藪蚊群れ」と読んでも、状況のすさまじさを捉え得る。まさに現場の臨場感まざまざの一句。

眼裏は記憶の影絵竹落葉 高橋明江
 作者は、近年眼を患っておられ、次第に視力を失いつつあるという。この句の「眼裏は記憶の影絵」とは、視力確かなときの記憶を、影絵のようにおのが眼裏にとどめておこうとすること。しかしその記憶すら、竹落葉のように、次第に剥がれ落ちていくのを如何にせん。衰え行く視力を、いのちの証のように記憶にとどめておきたいという切なる願い。

音階の半音ずれてコロナの日々 服部修一
 コロナ禍で、日常の流れが微妙にコロナ以前とは違ってきている。おそらくこれは、世界的にも共通することではないか。「ニューノーマル」とは、コロナとともにある新たな常態をどう生き抜くかが課題。「音階の半音」の「ずれ」とは、その新たな常態にいささかの違和感を覚えながら、「コロナの日々」とどう折り合いをつけて生きていくかを求めようとしている。それは、覚悟というほどのものではなく、微妙な違和感を包み込むような、音階なら半音程度のずれを常態として受け止めているような、そんな現実を直視している態度とも思われる。

感情を因数分解夏のれん 松井麻容子
 暑い最中、出入り口に掛けられた暖簾はいかにも涼しげで、ほっとする感じを呼ぶ。大方は目の粗い麻布が多いが、涼しげな模様をあしらった木綿地のものもある。一方「感情を因数分解」するとは、いろいろな感情を要因別に分解した上で、その積となるとまた別種の感情になったり、より大きな乗数効果を発揮したりする。多様な夏のれんの薄い透き通るような感情のひるがえりや模様の重なりから、不意に滲み出る感情の多様性を喩えているようだ。モダンでお洒落な夏のれん感覚。

塩壺に星の匂ひの山の夏 水野真由美
 塩壺の塩を見つめていると、細やかながら星型の結晶の砕片のようにも見えて来ることがある。ところどころに苦汁のかたまりがあって、薄い茶色の塊を作っていたりする。塩壺は必需品だから、台所の手近な場所に置かれていよう。ことに夏は、塩分の摂取は欠かせない。山場の暮らしならなおさらに。そんな日常を一瞬のうちに詩に昇華させたのが、「星の匂ひ」であろう。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

桐の秋麻薬もありの処方箋 阿木よう子
 桐の秋は、大きな桐の葉が音をたてて落ち、秋になったと思うこと。勢い盛んに栄えたものが凋落して行く様子の例えとしても使われるが、掲句は人生の秋の兆しを暗示していよう。病気治療の一環として、痛みを和らげる医療用の麻薬を使用する場合もあるとの処方箋が出されたのだ。「麻薬もあり」との医師の言葉に、桐の葉が音をたて落ちたような気持ちがしたのであろうか。

看取られないところを終いの住処とは 植田郁一
 〈是がまあつひの栖か雪五尺一茶〉の帰郷当時の「つひの栖」の捉え方は現代の生活事情と随分隔たりがあるように感じる。一茶の覚悟は当時の日常的な環境であり、植田句は現代の看取りの姿を浮き彫りにする。家族、知人らには「終いの住処」である自宅を指しながら、最後の看取りの場所は実際には何処か判らないとの諦観であるか。かつては「終いの住処」の自宅で家族に看取られていたが、現在は自宅で看取られるのは難しい時代でもある。芭蕉の「おくのほそ道」の一文、「旅を栖」として「旅に死せる」は漂泊人の本懐であろうが現実はどうか。「住処とは」には自虐的皮肉も込められているようだ。

開け放つ仏間揚羽のそよぎおり 大西健司
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
 大西句。いつもは閉め切っている仏間も、久々の好天気となり窓を開け、空気の入れ替えをしていた。淀んだ空気が漂っていたが、いっきに新鮮な空気を吸い込み、一緒に揚羽蝶も舞い込んできたのだ。開け放たれた仏間を軽やかにひらひらそよぐ揚羽は、まるで勝手知ったる空間のように気ままに飛び回りひらりと消えていった。
 狩野句。盆も近づき襖や障子を取り払い、風通しをよくして簾をかけたり、亡き夫が座っていた夏物の座布団を出し、すっかり夏らしい座敷となり、まるでお客様をお迎えするように迎えたのだ。少々可笑し味を添えながら、亡き夫への思いがほのぼのと伝わってくる。
 佐藤句。お盆、実家に家族が集まる。夜にはテーブルを囲み亡き人を偲びながら話題が親孝行の話となったか。なかなか寝付かれず、盆の月を仰ぎながら「孝行の質」を自問自答。悔いることのみか、まだ時間があるのか。

眠いかと聞かれウンと螢です 大沢輝一
翅ほどの骨片蛍に渡される 茂里美絵
 大沢句。作者が子供のころ、両親に連れられ蛍狩りへ出かけたのであろうか。いつもならそろそろ寝る時間なのか目をこすると、父から「眠いか」と聞かれ「ウン」と答えた瞬間、蛍が光った。そして次々と合図したように明滅し始め、幻のような暗闇の扉が開いた。
 茂里句。最愛の人の骨片は、脆く薄く、翅のような軽さであったのだ。掬うように一片一片丁寧に骨箱へ納める。温もりの残った骨箱を抱えながら家への帰還。その夜、まるで骨片が翅を付けたかのように蛍が現れ、光り消えて行った。蛍へ渡された逝く人の命の灯である。

明日から休校黄蝶のように手を振り合い 中村晋
待合室に×のそこここ梅雨の蝶 三好つや子
 中村句。コロナ禍で明日から休校を余儀なくされた子供たち。下校時に、先生や友だちへ手を振り合い別れて行く。黄蝶のように、明るく元気な明日の希望の手だ。
 三好句。あらゆる病院や施設などの待合室には、三密を防ぐ目的で椅子に×印がそこここに貼られている。なんとも不思議な光景であるが、皆んな間を空けて座っている。まさか梅雨の時期までにはコロナが終息するものと思っていたが、未だに闘っているのが現状だ。何故か×印のそこここに梅雨の蝶がいるようにも見えてくる。

熱帯夜とろりとろりとろりめくる 月野ぽぽな
かなかなかなかなかなの木の縛られて 遠山郁好
 月野句。熱帯夜だ。「とろりとろりとろり」と眠気を催しているがなかなか寝落ちない。「えい」とばかりタオルケットをめくり、ベッドから起き上がり水分補給。気分をリセットするも、まだ寝付けないのだ。「とろり」の薄皮を一枚一枚捲るような息苦しい皮膚感覚でもあるか。
 遠山句。「かなかな」の鳴き声が頭から一気に読み下され、どこまでが鳴き声で、どこからが「かなかな」の蜩なのか謎解きのようで、作者はくすっと笑っているか。/かなかなかな/かなかなの木の/縛られて/の詠みが浮かび/かなかな/かなかなかなかなの木の縛られて/の「かな」の一語が鳴き声と呼び名の両方を兼ねて混在し、「かなかな」の声に包まれる。いや、呪縛されているのだ。仮名文字の「かな」を連綿体で書き連ねて、句と文字が一体化していくような心地よさを覚える。

濃あじさい渇きていだく昼の闇 山本掌
あじさいやその感情にまた会ひし 横山隆
 山本句。ひと雨降るごとに、色を濃く鮮やかにする紫陽花が、雨を渇望している真昼間の闇の陰影。
 横山句。今は亡き人が愛情込めて育てていた紫陽花への思いが、今年も見事に咲いてくれた。その人の思いの「その感情」にまた会えた喜びと、作者の感情との融合。

◆金子兜太 私の一句

街は野へ野は街に消え夜明けの記者 兜太
 この句は、先生の初来道の折の作と思われる。ちょうど私は転勤族だったためお会いできなかったが、「北海道九句」という前書きがあり、十勝の名を使った句もある。広大な十勝平野と風土の捉え方の的確さ、そして「夜明けの記者」に見られる生の言葉の力によって、豊かに生き生きと表現、スケールの大きい句になっている。改めて先生の力量に教えられた作品である。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。加川憲一

園児らは五月の小鳥よく笑うよ 兜太
 掲句は、宮崎市の真栄寺こども園と鹿児島県志布志市の西光寺こども園に句碑が建立されています。先生はお寺との御縁が深く、この二つのお寺は、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の句碑がある千葉県我孫子市の真栄寺と兄弟寺。先生は子供たちとの出合いを大切にされ、子供たちもとても先生が好きで、お出でになるとすぐ囲いができます。そんなとても微笑ましい光景にたびたび出合えたなつかしい俳句です。平成20年5月、句集未収録作品。永田タヱ子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選
○空想はうすい塩味豆の花 伊藤淳子
バラと生きバラと逝く母新ウイルス 伊藤雅彦
終息を祈りて均す春の土 稲葉千尋
口紅水仙キスまでの距離4センチ 大池美木
清明の光行き交う封鎖都市 小野裕三
力抜くことも教える子供の日 上脇すみ子
機嫌よく眠るみどり児夏立つ日 北上正枝
虹の根を潜って黄泉の妻に会いに 木村和彦
ハンカチの花さらりと本音言えそうな 黒済泰子
バンクシーの影なぞりたき聖五月 齊藤しじみ
電子辞書訛りを打てば遠雷す 坂本祥子
白鳥の梯団沖へ群青へ 鱸久子
知性的に芽木野性として草原 十河宣洋
春手袋百済観音に会いたし 樽谷寬子
泣き足りなくて春の落葉を搔き集め 遠山郁好
五月の空アウシュビッツの青い壁 鳥山由貴子
きれいな鳥と春暁分かち合い自粛 中村晋
終戦日永久におわらぬ砂時計 茂里美絵
合掌にはびるの匂ふ忌野忌 柳生正名
蜘蛛を見て蜘蛛に見られている夫よ らふ亜沙弥

市原正直 選
乱筆のような終生躑躅燃ゆ 市原光子
清潔に流れる言葉若葉色 奥野ちあき
木の芽雨一粒ずつ検品す 奥山和子
○八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
風光る自転車の錆脳の錆 神林長一
菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
耕運機峡の真昼を裏返す 金並れい子
麦の秋たたんだままの青写真 黒済泰子
水を束ねて一枚の田に落とす 小池弘子
○呼吸濃き色となりたるあやめかな こしのゆみこ
己が顔脱いで一息青葉騒 小林まさる
影喰いの少年跳ねる青葉騒 佐孝石画
○栗の花ことばは朝の水たまり 関田誓炎
炎天にかじられているお父さん 峠谷清広
八重桜手術の傷の盛り上がり 仁田脇一石
上昇志向の話疲れる犬ふぐり 三浦静佳
赤ん坊の拳夏への扉です 三浦二三子
落丁のまた乱丁の夏の蝶 望月士郎
大あくび皐月の青さ食い切れず 森田高司
乳歯むぐむぐ新樹ざわっと濡れている 吉田朝子

伊藤巌 選
ぼうたんと語りて光の中にいる 石田せ江子
少年は夏の匂いを落として行った 伊藤幸
淵に座す十薬昏き白を見て 伊藤道郎
灯をすくい昏きに消ゆる春の雪 榎本愛子
夜の蟇考える事に慣れてくる 奥山和子
日常の襞そのままに花菜漬 狩野康子
風信子噂は背中合わせが楽し 黍野恵
春の海に背く身体は光の束 三枝みずほ
かげろふを歩く足裏が重たい 清水茉紀
陽光に紛れる春耕一打かな 須藤火珠男
初夏はつなつのノートにはさむ鴎かな 田口満代子
人消えて青空群れている夏野 月野ぽぽな
戸惑いのかすかな隙を鷺が舞う 遠山郁好
疫病の町恋猫になりすます 日高玲
石人石馬空の匂いがする四月 平田薫
薔薇一輪立てるすべてが雨の中 前田典子
欲はなく空になりきる朴の花 三浦二三子
折鶴の中の水音ふくしま忌 武藤鉦二
夜ふたつ蛍しずかに縫い合わす 望月士郎
○水底の晴やかなれば燕来る 横地かをる

川田由美子 選
○空想はうすい塩味豆の花 伊藤淳子
せりせりと初夏の草食家族です 大沢輝一
若葉かぜ主語なきいのちも混じるよ 大髙宏允
○八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
あの滝は恐竜の子の滑り台 木村和彦
白魚や姉に静かな反抗期 黒済泰子
○呼吸濃き色となりたるあやめかな こしのゆみこ
夏の野のくぼみ少しの水を欲る 小西瞬夏
かたつむり緑の風の訃が届く 小山やす子
僕のリハビリ寒梅のよう少し優雅 齋藤一湖
棺の兄子馬のように撫でられる 佐々木宏
枯野原父母という遠汽笛 白石司子
○栗の花ことばは朝の水たまり 関田誓炎
もしかして君はともだち夏来る 高木水志
夕焚火こころの乾くまで居らむ 松本悦子
青田風旅の一座が来たような 松本勇二
夏夕べ橋に木霊の立ちもどる 水野真由美
清潔なあめんぼ水輪ごと掬ふ 柳生正名
○水底の晴やかなれば燕来る 横地かをる
巣作りは仮縫のごと涅槃の風 若森京子

◆三句鑑賞

バンクシーの影なぞりたき聖五月 齊藤しじみ
 謎の英国人画家バンクシーは神出鬼没に鼠の絵と言葉を発信し物議を醸してきた。コロナ禍の五月、彼は一枚の絵を病院に寄贈した。バットマンやスパイダーマン人形に目もくれず、マントを翻す看護士人形をかざしている男の子の絵だ。ウイルスと闘う看護士こそ真のヒーローと称え、医療従事者へ感謝を表したのだ。聖五月を配した作者の想いが見える。

春手袋百済観音に会いたし 樽谷寬子
 仏像が美しいと気づいたのは、修学旅行で奈良法隆寺の百済観音を見た時だ。三月に東京博物館で百済観音の特別公開の予定だったが、コロナで潰えた。外出自粛は、人だけでなく、会いたい仏像にも絵画にも会えない。今は薬師如来三尊像に救いを求めたい。春手袋は柔らかな印象の季語だが、コロナ対策必須アイテムでもある。

終戦日永久におわらぬ砂時計 茂里美絵
 終戦日には戦争と平和について考えさせられる。戦後七十五年たっても永久にこの命題に対峙していかねばならない。静かに砂が落ちていく様は戦争の記憶を表しているのか。あるいは平和な時間を表しているのか。逆に連綿と零れ続けている戦争の火種を表しているのか。いずれにしても、心に刻みたい句。
(鑑賞・石橋いろり)

乱筆のような終生躑躅燃ゆ 市原光子
 乱筆とは、まさに無我夢中に、エネルギッシュに多忙をこなしてきた一人の人生を思わせる。躑躅の画数の多い漢字のありさまも、花弁のもみくちゃに咲くさまに、これまでの行為の濃密さを想像させる。しかも「燃ゆ」の一語で、それらを自嘲することはあっても、だからこそ現在があることを肯定している。

麦の秋たたんだままの青写真 黒済泰子
 一面に麦畑のひろがる光景は、まさに青春の一幕だ。原風景だ。稲の穂が頭を垂れて老成を思わせていれば、麦のそれはまっすぐ天を指して、青年の直情を抱かせる。たたんだままの青写真は、以前から企画していた行動か。希望からその後の実行を、予感させてくれるが、予感のままで終わらせてほしくない。

乳歯むぐむぐ新樹ざわっと濡れている 吉田朝子
 草田男の〈万緑の中や吾子の歯生え初むる〉を連想させるが、この句はすでに乳歯あり、離乳のころか。むぐむぐ・濡れているが新鮮だ。それは、乳歯はもちろん新樹の瑞々しさも合体させた讃歌で、この児の将来は大樹になれと期待している親のまぶしいまなざしも濡れている。
(鑑賞・市原正直)

ぼうたんと語りて光の中にいる 石田せ江子
 何度も口ずさんでみる。句の中へすっきりと気持ちよく入ってゆく。さらりと書かれているが、一つ一つの言葉が注意深く選ばれている。「ぼうたんと語りて」それだけで、あとは何も言わない。だが至福の時に居る作者が見えてくる。「光の中にいる」もいいなと思う。簡潔な表現だからこそ画けた世界だと思う。

陽光に紛れる春耕一打かな 須藤火珠男
 一幅の絵を見るようだ。平凡な譬えだが、鮮明な映像が浮かび離れない。土に親しみ、時に這いずり回るような苦労を知る人でなければ、春耕一打は言えない。凍てついた土が解け、そこへ打ちこむ鍬の手ごたえ。さあ春だ、目を覚ませ……。そんな作者の気合が伝わって来る。陽光に解き放たれた喜びがそこにある。

欲はなく空になりきる朴の花 三浦二三子
 朴の花というと何時も見上げるという感じが浮かぶ。白い、空にむかってゆったりと開いている花。「欲はなく空になりきる」なるほどそうだと納得、まさに朴の花、いやこれからは朴の花を見るたびにそう感じながら見上げるだろう。深い空をバックに咲く花はまさに空になりきっているに違いない。
(鑑賞・伊藤巌)

白魚や姉に静かな反抗期 黒済泰子
 「姉」を成長期の子どもと読んでも、齢を経た大人と読んでもよい。「姉」に「静かな反抗期」が訪れたのだ。「白魚」と「姉」に宿命的なものを感じる。白魚は生まれながら「白」を、姉は「姉」を生きる。逃れたい思い、逃れられない思いとは、何だろうか。静かに収斂してゆく存在の翳り。そこからは誰も逃れられない。

僕のリハビリ寒梅のよう少し優雅 齋藤一湖
 含羞のように挟み込まれた「僕の」と「少し」によって、作者の実際の手ざわりが加わった。「リハビリ」は機能の回復をたどる道のり。ゆるやかな営みの反芻を「優雅」と表した。寒中のモノクロームの風景のなかに、ぽつりぽつりと開く円らな一輪。その一輪のように、一輪の優雅さのように、際立つ生命が見えてくる。

巣作りは仮縫のごと涅槃の風 若森京子
 つがいの、子育ての栖。「仮縫のごと」とは、素材を集めつつとりあえずの形に仕上げられたものということだろうか。そのひとかけらずつに懸けられた尊さを思う。「巣」とは「仮」のもの。やがてほどかれ巣立ちをむかえる、束の間の共棲のなかにあって、個は個を縫い上げてゆく、涅槃の風に包まれながら。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

木下闇たまに優しくしてくれし 有栖川蘭子
母という唯一確かなる夏野 飯塚真弓
紅薔薇の好きな人にはわかるまい 植朋子
アイスティーもう味もなく溶けた別れ 大池桜子
形代を流すメニューにない料理 大渕久幸
鉄棒にひぐらし蹴って落としけり かさいともこ
百合の花聞かずにいれば諦めた 梶原敏子
リモコンを芝生の上に忘れたる 葛城広光
ほたるがりふたりそろってひとぎらい 木村リュウジ
夏盛り馬臭かろうが我も獣 日下若名
工場の旋盤に錆梅雨曇 工藤篁子
陽炎の向こうは昭和ついてゆく 小林ろば
満月をルパンのように手に入れる 近藤真由美
花も人も街も有耶無耶海霧ガスかぶり 榊田澄子
一鍬の忽ち田水落しけり 坂本勝子
脳内の蝿の羽音が漏れる耳 鈴木弥佐士
無花果の熟れて裂けたる昏さかな そらのふう
合歓の花母いつまでも母の貌 立川由紀
水着など伸びはしないぞ痩せたのだ 土谷敏雄
揚羽追えば二軒続きの空き家かな 野口佐稔
目に映る海里の程や鑑真忌 福田博之
掴む蹴る嬰児やや遊泳の宇宙なう 藤川宏樹
遠雷や青き昔の亀裂縫う 保子進
地球てふパンドラの箱春の闇 藤好良
空蝉や柱時計に螺子の穴 矢野二十四
砂に混じる花火のかけら昼の雨 山本まさゆき
沖縄忌集めし記事のひりひりと 山本美惠子
反戦の一つの形なめくぢり 吉田和恵
堕天使や凍てし蘇酪チーズを瓦礫に挿す 吉田貢(吉は土に口)
跳び箱に怯えし記憶いわし雲 渡辺厳太郎

『海原』No.22(2020/10/1発行)

◆No.22 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

アマビエを刻して夏至の道祖神 赤崎ゆういち
もだという裸のこころほうほたる 伊藤淳子
篠の子やつんつんとする三姉妹 伊藤雅彦
行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
夏帽子フランスパン抱き鳥になる 大野美代子
どの鳩もみな首を振るカフカの忌 尾形ゆきお
はめごろしの窓二つ花粉症 奥山富江
躾糸抜いて賢母の大昼寝 川崎益太郎
数頁後には純愛青葉木菟 木下ようこ
平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
少年の自画像の目の深みどり 小西瞬夏
早桃捥ぐそして逢いたさ急降下 近藤亜沙美
自画像は聖五月という陰影 三枝みずほ
願いを込め隅々を拭く麦の秋 坂本久刀
セーラー服次々羽化す青水無月 すずき穂波
山独活はコロナ自粛の夜も太る 瀧春樹
雑に書くノート卯の花腐しかな 田口満代子
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
万緑に小さき鉤裂き夏館 田中亜美
老い孔雀羽根広げたり無観客 田中雅秀
また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
えごは実にマスクの視線交わらず 野田信章
象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
夕焼やニュースは今日の死を数え 藤田敦子
おはぐろ蜻蛉ふわり予言書は失せた 三世川浩司
専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
おっとりとAIの声ところてん 三好つや子
喪の家の次の雷光までの闇 武藤鉦二
教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
梅雨晴れやロミオ駿足橋わたる 吉村伊紅美

石川青狼●抄出

飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
もう鳥になれず五月の水たまり 伊藤淳子
吾子の背青蘆原に水脈を引く 川田由美子
緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
アンニュイなんて贅沢主婦に羊蹄 黍野恵
死に方にも本音と建て前糸蜻蛉 楠井収
逼迫の星降る地球水買いに こしのゆみこ
環状列石地が歌う蝦夷春蝉 後藤岑生
まだ消えぬ蛍ひかりのかたちして 小西瞬夏
早桃捥ぐそして逢いたさ急降下 近藤亜沙美
かくほどに右手はかたち失へり 三枝みずほ
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
夏の星磁石のような師の言葉 清水茉紀
鴇群れてアレを鴇色と母指せり 菅谷トシ
立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
「終わりの始まり」たぶんその続きの春だ 芹沢愛子
はくれんやくらくらとある友の死後も 十河宣洋
滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
仏間に沈む蘭鋳の甕自粛なる 日高玲
まばたきは更衣のようだ鶴数え 北條貢司
僕たちの敗北に似た五月闇 松井麻容子
囮鮎おれたちすることないもんね愛 松本豪
田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
梅雨コロナぽつぽつと折る傘の骨 水野真由美
ゆるくむすぶ後ろ髪に梅雨のけはい 三世川浩司
収骨や生あるものは汗ばみて 嶺岸さとし
草笛や亡父はジャージで会いに来る 宮崎斗士
卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
枇杷つるつる剝いた夕べに死すとも可 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

もだという裸のこころほうほたる 伊藤淳子
 蛍狩での出来事。その時の気分というか情感のようなものを書いている。おそらく蛍の光の乱舞に言葉を失って立ち尽くしているのだろう。その光の空間の素晴らしさは到底語ることは出来ない。どんなに言葉を尽くしても、語る言葉は沈黙には勝てない。その沈黙すれすれの言葉を語ろうとすれば、こころの中に渦巻いている言葉にならない裸のこころそのものを差し出すほかはない。「ほうほたる」の呼びかけが、その感動を伝える。「黙という裸のこころ」とはよく言い得たもの。

行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
 「三密」とは、新型コロナウイルス感染症拡大期に厚生労働省が打ち出した標語で、「密閉・密集・密接」をウイルスクラスター発生の共通項として挙げたもの。「行間」とは原稿の行間だろうから、推敲の過程を書き込んだに違いない。その悪戦苦闘ぶりを、今稔り豊かな麦の穂の生育振りに喩えた。麦の穂の生い茂りは三密状態にあって、麦畑に入ると麦の穂に刺されて痛い。苦心の原稿の仕上がり同様に、嬉しい悲鳴の麦の秋。

少年の自画像の目の深みどり 小西瞬夏
自画像は聖五月という陰影 三枝みずほ
 ともに自画像を題材としているので、並べて鑑賞してみた。小西句は、「少年の自画像」とあるから、まさに少年の目の「深みどり」そのもの、モジリアーニを思わせる孤独感。三枝句は、対象となる自画像に「聖五月」のものとも見える陰影が宿っているとした。自画像は少年とは限らない。画題全体の印象が「聖五月」なのだ。清潔な季節感が瑞々しい。それぞれに爽やかな初夏の持ち味で自画像を彩っている。

老い孔雀羽根広げたり無観客 田中雅秀
 誰も居ない動物園。コロナ自粛によって閉鎖を余儀なくされている。その中で老いた孔雀が大きく羽根を広げていた。それはかつてないほどの見事なものだった。老い孔雀はせめてこの世への置き土産にと、思いっきり翼を広げたのだろう。しかし誰もみているものはない。当然無観客の檻の前。その姿も一瞬のことなのだが、それが老い孔雀にとってのたった独りの存在証明だったのかもしれない。

象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
 象番とは、象の当番つまり飼育係のことだろう。見事な月夜に、象がいつのまにやら檻を出てしまったのか、あるいは体調不良でぐったりしているのか、とにかく象になんらかの異変が起きているのだろう。それに気づいているのは、月だけ。月は象番のいそうなところをくまなく照らし出して、急を知らせているかのよう。しかし今はなんの応答もなく、時だけが過ぎて行く。一体象はどうなるのでしょう。「月でした」という結びが、童話のエンディングを暗示する。

専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
 「専門家会議」とは、内閣の新型コロナウイルス感染症対策本部の下で、医学的見地からの助言を行うために設置された部署。さまざまな議論が沸騰したという。ここでいう「鯰」の意味は定かではないが、大きな異変の元凶を象徴するものでもある。待ったなしの時間制約の下で、なんらかの対策に結びつくような提案を出さねばならない。もちろん実行は政府の責任だが、会議の帰趨はまさに「鯰の出たり潜ったり」だったことは、容易に想像がつく。

おっとりとAIの声ところてん 三好つや子
 AIの普及にともなって、その技術革新がさまざまな産業や雇用の構造に与える影響は測りしれない。ただAIは、人間のもつ知性とは本質的に違うものだから、人間の課題解決の役割がなくなるわけではない。「おっとりとAIの声」とは、そんなAIさんが出でましたという。「ところてん」がちょっと難しいが、時代の流れとともに、すんなりとおいでなすったとも受け取れる。ユーモラスな時代批評の句ではないだろうか。まともに考えれば、結構深刻なテーマだが。

教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
 この場合の教室とは、若い学生の教室でなく、社会人向けの教養教室のような気がする。しばしばこういう教室では、友人と連れ合ったり、講師との関わりのようななんらかの絆があるものだが、個人の発意で来る人も少なくはない。定年になったり子育てが終わったりした人達の、なんらかの寄る辺を求める気持ちからだろう。とは言え年を重ねてからの教育環境の変化に、すぐには馴染めないこともままあり得る。また、長い経験の末にふと境涯感に誘われて、教室の仲間内にありながら孤独を感じることもありそうなことだ。結局は、人間の寄り合いの中での孤独感は、どうしようもないことかも知れない。とどのつまりはその人の生き方が決めるものだから(これは作者の個人的事情とは関係のない解釈)。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
死に方にも本音と建て前糸蜻蛉 楠井収
 伊藤句の「あなたは飴をかむ派?それともなめる派?」と唐突に尋ねられたら、思わず「噛む派」と答えるであろう。とにかく、のど飴を口にして味わうこともなく、カリカリと噛み砕く。「今に歯が欠けるよ」と言われたものだ。だが、ここに来て「老い」という厄介な代物に出くわし、意識して「なめる派」になってきた。老いの目安の歯、目、耳などの衰えとは無縁と思っていたのだが。作者は誰に向かって問いかけたのか。カリッと噛んだ音で、か細い「糸とんぼ飛んだ」か。楠井句は眼前の糸蜻蛉に自らを投影して、ふと自分の死に方を自問自答しているのか。はたまた家族や友に語っているのか。本音と建て前。語っているうちはまだまだ余裕の域である。自らの死に方を選択出来るならそれに越したことはない。死と直面し他人に委ねなければならない切羽詰まった死の選択だけはしたくないと思いながら、本音のところはどうなのか。

緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
仏間に沈む蘭鋳の甕自粛なる 日高玲
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、自粛を強いられている現在。いつまで続くのか不安な毎日である。季節は春から夏へ移行し、すでに木々は新緑となり、いつもなら気持ちに弾んだ心持があるのだが、今までに経験したことのない夏を体験。河原句は緑雨そのものが「鳥籠」となり作者を包む。そしてひたすら目を閉じ眠るだけの自粛生活を送っているのだ。日高句は自粛している「場」を「仏間」に身を置き、作者の心の深淵を「蘭鋳の甕」の中で揺蕩う。刻々と染み入る時空の狭間。

立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
梅雨コロナぽつぽつと折る傘の骨 水野真由美
 コロナの感染予防対策として「3密」「ソーシャルディスタンス」など耳慣れない言葉が登場。特に3密(密閉・密集・密接)は座の文学といわれる俳句にはもっとも基底にある。コロナ禍により新たな形の「座」が生まれるであろうが、やはり同じ空間に触れあっている皮膚感覚のあるその地の「座」の存在が基盤であろう。鈴木句はソーシャルディスタンスの自然なアイテムに登場した「日傘」。日傘を人除けに意識して使おうと表に出たが知人と会い、立ち話となり「つひに日傘を閉じ」てしまうことに。なんとも言えぬ切実な思いに俳味が覗く。水野句は単刀直入に、梅雨まで持ち越したコロナの鬱陶しさと苛立ち、不安感が入り混じり、傘の骨を折り畳む音が直に手から「ぽつぽつ」と体に、こころにジワリ
と沁みてくるのだ。得体の知れぬ音の響きを聞く。

まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
まばたきは更衣のようだ鶴数え 北條貢司
 新野句の「まばたき」に、ふと病床のベッドに横たえている姿が浮かんできた。少し開けた窓から心地よい風が顔に届く。外はすっかり青葉がまばゆい季節を迎えている。話すことも出来ぬ状態で、アイコンタクト。その「まばたきは肯定」は生きている証でもあるのだ。静謐な空気が漂うような一刻である。若いカップルが織りなすドラマチックな明るい場面などいろいろ想像できる。北條句を目にして、井出都子の〈鶴を数えるとてもやわらかな洗濯〉が浮かんできた。井出句はタンチョウを数えているうちにふわふわな感覚の洗濯をしている心持の句で、北條句は鶴を数える瞬間瞬間のまばたきが真新しい更衣をしているような感覚を持った感性の機微。

かくほどに右手はかたち失へり 三枝みずほ
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
 書家石川九楊著『河東碧梧桐表現の永続革命』は目から鱗の衝撃であった。著書の中で―俳句から俳句へではなくて、俳句の下層に現に存在する俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かったことによって、近代においてただひとり碧梧桐は俳句の臨界を前へと押し広げた。―の文は圧巻。今回、多くの同人の自筆の俳句を読み、一人一人の顔を想像しながら楽しませて頂いた。三枝句の「かく」は「書く」「描く」「搔く」ほどに右手が形を失ってゆくのだ。無心の境地でもないが一心不乱に「かく」ことで、右手が無意識に運筆しているような感覚の冴えた心境か。書家でもある佐孝は、内面から迸る言葉の肉声を手掴みしたい衝動に駆られたか。例えば言葉を書字へ移す時の手に伝わる感触、言葉と書字が一体化する手触り感を包む空間は、「花は葉」に移ろう自然の営みの刹那に触れているような感覚なのであろうか。

田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
 祖父母、父母から受け継いだ田畑。炎天が続き植田の水が湯のように沸きだすその田に入って田草を取っているのか。子供のころ見ていた風景が突然現れ、皆んな揃っていた頃の風景をしみじみと思い出している。感傷的でもあるが、近頃彼岸此岸が身近に感じて、軽々と往還出来るような心境の齢になってきたのかも知れない。

◆金子兜太 私の一句

逢うことが便ち詩とや杜甫草堂 兜太
 平成7年、金子先生を団長とする現俳訪中団一行二十名、四川省訪問。杜甫草堂を会場に日中詩人、俳人による合同句会が開催された。四川省の参加者十名、自作の漢俳を披露。熱気に包まれた。当時中国に漢俳という詩型が生まれて十五年。内陸のこの地までこれほど漢俳が浸透していたとは、と先生、大そう喜ばれた。掲句は戴安常の漢俳を受けての一句。句集『両神』(平成7年)より。大上恒子

梨の木切る海峡の人と別れちかし 兜太
 昭和40年8月、金子兜太師は皆子夫人同行で、青森の「暖鳥」俳句大会特別選者として来県、故徳才子青良師の感化を受け、会友として参加した頃であった。下北半島の尻屋崎へ吟行した折の句。伝統を主体的に取り込む表出の見事さと、俳句の力強さを感じた思い出の一句なのである。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。須藤火珠男

◆共鳴20句〈7月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選
燕となり原発の街さ迷えり 大久保正義
富士山をまるめて飛ばすしゃぼん玉 鎌田喜代子
「死ぬまでが賞味期限」に山笑ふ 川崎千鶴子
合歓の花「宮城まり子」を知らず咲く 川崎益太郎
○少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
ラファエロの仄暗さ残照の菜の花 黒岡洋子
花の夜の坩堝の中に耳打ちす 小西瞬夏
マスク越し鮮度の落ちる立ち話 齊藤しじみ
樹液垂る山の心拍地の鼓動 十河宣洋
マスクなし一揆の如く土筆立つ 髙井元一
土に生き土に帰る身霾 高橋明江
春愁や自分自身に絡み酒 峠谷清広
大きくならはってうれしゅうて桜 梨本洋子
筆先にコロナウイルス春怒濤 野﨑憲子         
逝く春の骨片としての還える 平田恒子
よく眠るテレビ会議が青むまで 松本勇二
まだ生きてあのカラフトの雪を喰む 宮川としを
辛いことは鉛筆で書け安吾の忌 宮崎斗士
伊予の海に河ぶつかりて鳥雲に 山本弥生
甘藷で見えぬ道路米兵の服ちらほら 輿儀つとむ

市原正直 選
春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
鳥雲に入る手のひらの水たまり 伊藤淳子
囀りや伸びて縮んで生き急ぐ 榎本祐子
リュックサックいていますよ枯木山 奥山富江
逃げ水の取材に行ったきりでした 片岡秀樹
マネキンの腕の虚空や更衣 片町節子
採血の管のいくつよ春の雷 楠井収
ひらくたび光の曲がる雛の函 小西瞬夏
気配してセンサーが点く沈丁花 佐々木義雄
月おぼろ台車響ける石畳 菅原春み
人生はぜんぶ足し算日向ぼこ すずき穂波
○わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
待つという静かな未完木の芽雨 月野ぽぽな
フクロウと秘かに同じ闇にいる 椿良松
残る蜂老醜互いに気にならず 中川邦雄
揚雲雀空に絶壁はあるか ナカムラ薫
枝々に雪を咲かして記紀の峰 疋田恵美子
○揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
初蝶が来て撥ね上がる天秤棒 武藤鉦二
ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし

伊藤巌 選
地卵は岳父の気配の山暮らし 有村王志
忙殺はすでに言い訳目借時 石川青狼
水音のどこか錆色春一番 伊藤淳子
内耳蒼く沖の暗さを捉えけり 大西健司
自粛とや荒れ霜さえ詩を宿し 狩野康子
上流は杜甫住むところ花筏 神田一美
竹挽きのノコの切れ味三鬼の忌 神林長一
まんさくや言葉の角を風が揉む 黍野恵
清明の落ち水地図にない小川 佐々木香代子
○フクシマや春キャベツまっ二つに母 清水茉紀
みんな蒸発したような午後冬たんぽぽ 芹沢愛子
破船描き足すきさらぎの鳥瞰図 鳥山由貴子
水張って村がますますひかりだす 服部修一
記紀の峰深雪に獣道のあり 疋田恵美子
雪柳あったところに石を帰す 平田薫
人と人と距離狂ふまま四月尽 前田典子
ハナミズキごしの陽を丁寧にあるく 三世川浩司
盤寿吾に二上山陵冬日照る 矢野千代子
夕陽のシャワー静かに怒りデモの散会 輿儀つとむ
○春の山やさしくなって降りて来る 横地かをる

川田由美子 選
山椒の芽みんなのお伽話かな 大髙洋子
地層暗く獏の眠りのひずむ春 大西健司
ふらここや八十路は風のようなもの 金子斐子
○少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
姉よりも先に来ていて青き踏む こしのゆみこ
亡母在れば花菜に雨の咀嚼音 小林まさる
花は葉に書架の崩れ落つように 佐孝石画
早春や木にも星にも水の音 佐々木宏
病みゆくように夜へ傾ぎて紫木蓮 佐藤稚鬼
さくら餅塩味仄か汗の母 篠田悦子
○フクシマや春キャベツまっ二つに母 清水茉紀
○わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
点眼やじわりと春の田に滲みる 丹生千賀
○揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
白鳥来寡黙な沼を抱くように 船越みよ
いつか会える皆たんぽぽの絮になり 本田ひとみ
風よりもしづかな姿勢柿の花 水野真由美
○春の山やさしくなって降りて来る 横地かをる
白鳥引きし水際のなまなまし 若森京子

◆三句鑑賞

土に生き土に帰る身霾 高橋明江
 季語の「霾」は「つちふる」や「つちぐもり」「ばい」と読む。この場合、下五とすれば、つちぐもりになるだろう。大風に吹き上げられた土砂や黄砂が降り積もることを言う春の季語。この世に生を受け、地道に土に根差した生き方をし、死後は土に帰る身であると達観している作者。生きている上で目を瞑りたいような困難もあったであろう。「土に」「土に」と霾の「つち」のリフレインが実に重厚に響いてくる。

大きくならはってうれしゅうて桜 梨本洋子
 作者は長野の方。長野でこういう言い方をするのだろうか?関西出身の方なのだろうか?いずれにしても、桜咲く入学あるいは卒業の頃。孫か親戚の子の成長を寿ぐ喜びがあふれている。最後に桜を一つ置いたところが句を一点にまとめあげてる。方言がいい。

よく眠るテレビ会議が青むまで 松本勇二
 コロナ禍でリモートワークに切り替わった所も多かっただろう。テレビ会議の場合、手もち無沙汰な待ち時間がどうしてもできてしまう。眠気も起こるだろう。それどころか、夢まで見ているのだ。あるいは作者は、リモートワークという熱気の伝わらない媒介を通じての試みに抗っているのかもしれない。
(鑑賞・石橋いろり)

 新型コロナ禍のせいか、この頃何か説明のつかぬ不安が満ちている。だからか、ぼくの選句はそれを打ち払いたいとする傾向になった。俳句は抒情の短詩でありたい。カタチにしがたい心象風景が表出されると面白い。

人生はぜんぶ足し算日向ぼこ すずき穂波
 作者は、人生を前向きに歩んで来られた方かと思う。時に失敗することもあれば、それは学習することであり、次への一歩の足し算になる。社会性、人間関係の善悪も、清濁併せ呑んで人生が出来る。日向ぼこは来し方を三省するひとときになっている。

揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
 雲雀の声が、空高くから聞こえて来たのは伊東静雄の詩。同時に歌手の美空ひばりが現れる。絵本は純情の世界。余白は余った空間ではなく、そこへさらなる読者の創意を描かせる舞台。鑑賞は読者に作者以上の解釈を期待している。

ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし
 大ぶろしきには、大げさな言動の解釈もあるが、ここは素直に青葉とルノアールの絵の柔らぎの交感と読めた。二物衝撃でなく、二物配合で、青葉のためにふろしきを解いた。まぶしい色彩が解かれる。
(鑑賞・市原正直)

水張って村がますますひかりだす 服部修一
 この豊かさ、平和とはこういうものだと思う。水張って。冬が終わり、田植えを待つばかりの水田、その広がり、まさに鏡のよう。深く空を映しこれからの命の営みに備えているようだ。人々の笑顔が見える。厳しい農作業が待っている。でも働けるってこんなにも嬉しいものだ、そんな唄が聞こえて来るようだ。

盤寿吾に二上山陵冬日照る 矢野千代子
 盤寿、八一歳は今の日本では年寄りとは言えないかもしれない。でも作者には感慨深いものがある。万葉集の大津皇子、大伯皇女姉弟の悲話。その大津皇子の御陵のある二上山に冬陽、大和平野のどこから見ても二上山は端正で美しい。そして気持ちが静まる。自分もあの山のようでありたい。そんな思いが伝わって来る。

夕陽のシャワー静かに怒りデモの散会 輿儀つとむ
 慰霊の日に読まれる平和の詩にはいつも心打たれる。そして戦場となり四人に一人の犠牲者を出した沖縄の現状をいかに受け止めるかをいつも問われる。そうしたことを背景に、デモが行われている。静かに怒り、に込められた作者の想いが痛い。繰り返し、繰り返し諦めるわけにはいかない。沖縄のデモ、想い……。
(鑑賞・伊藤巌)

姉よりも先に来ていて青き踏む こしのゆみこ
 「先に来ていて」の言葉からは待合わせの場面が見えてくるが、そこに繋がる「青き踏む」の季語のスケールがその場面から大きくはみ出している。そこには作者が物語を生むための境界、結界が張られているようだ。姉と自分という存在の対峙、過去から未来に繋がる時空。そこから放たれ、作者は今、春の野に踏み出している。

点眼やじわりと春の田に滲みる 丹生千賀
 「や」の切字によって、点眼をしている作者が見えてくる。目薬がじんわりと行き渡ってゆく時の、かすかなひりつき感。清涼感が薄い膜となって作者を包みこんでゆく。その一瞬を契機に、作者は潤む眼で「じわりと春の田に滲み」ている己の姿を見たのではないだろうか。作者を滲みこませている「春の田」。そのうれしさ。

田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
 「さわさわ」とそよぐ田に分け入り「さわさわ」と繁る草を搔き寄せてゆく。そこに、人生を生き老いをたどる今の感触を得たのだろう。あちらこちら果てしもなく湧いてくる草を前にするように、「手さぐり」で進んでゆくしかない老いというもの。「さわさわ」の乾いた響きが、不確かに自分を透かしてゆく、老いの姿を感じさせる。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

芥子の花女の加工され易き 有栖川蘭子
蟻の列皆が小さき餌を持つ 齋貴子
自由なる妃にめだか差し出せり 植朋子
蛇よプライドって自分を守るため 大池桜子
短夜やトイレの壁にアンモナイト 大渕久幸
偵察の蜂ラケットで打ち殺す かさいともこ
あおろうのういろうわたし盆霞 葛城広光
寒色のペディキュアを塗る太宰の忌 木村リュウジ
土間のある暮らし燕と住む暮らし 後藤雅文
卯の花腐しウェブ会議の憂鬱 小林育子
おーっと若葉わーっと青葉水甘し 小林ろば
散らかした羽根などいつか霧は立つ 近藤真由美
昼顔や無印といふ個性なり 坂川花蓮
梅雨晴間ボディブローのよう省略語 島﨑道子
先頭は鼻利く者か蟻の列 五月女文子
ほうたるや闇に眠れぬ目がふたつ ダークシー美紀
生涯一度の父への反抗竹皮脱ぐ 髙橋橙子
デンデラ野ビールを家に置いてきた 谷川かつゑ
松蝉が仰向けでいること平和 千葉芳醇
ステイホーム五十集いさばふれくる虚子忌かな 土谷敏雄
新緑に包まれ柔らかい握手 中尾よしこ
青蛙戦争知らぬ肉食派 仲村トヨ子
絶滅危惧種てふはまばうの生真面目さ そらのふう
権力なき暴力痛し夏の空 福田博之
魂魄の浮遊か黒揚羽の息 増田天志
その児を救えなかった私達茅花流し 松﨑あきら
帰るたび義父の目高の増えてをり 山本まさゆき
上野驛かひこふところにばばら離散 吉田貢(吉は土に口)
シヴァ神の踊る街這ふ青大将 渡邉照香
にんげんは幻視にすぎず紫木蓮 渡辺のり子

『海原』No.21(2020/9/1発行)

◆No.21 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

蕗の葉煮る高倉健の味のして 綾田節子
紅枝垂れ病む肩に触れ背中に触れ 伊藤巌
木の芽雨一粒ずつ検品す 奥山和子
八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
孕み猫ぬっとコロナ禍のシャッター街 楠井収
茶髪のひとりは百日紅にもたれ 久保智恵
鏡の間にいるごとき春マスクマスク 黒岡洋子
コロナ禍の白透き通るガーゼかな 三枝みずほ
放心に色ありにけり青葉騒 佐孝石画
棺の兄子馬のように撫でられる 佐々木宏
黒ぶどう山と盛られてステイホーム 重松敬子
葉ざくら一本仮設住宅撤去跡 清水茉紀
蒼海を来てネモフィラの風となる 鈴木修一
じゃがいもの花に亡母ははいてむせぶなり 関田誓炎
顔無しの息ひそめゆく春の闇 高木一惠
走り書きほどのさみしさ麦黄ばむ 田口満代子
青葉騒だから押韻なのだから 田中亜美
ムスカリムスカリ母のハミングの聞こゆ 田中雅秀
夕焼けや切株のラジオより漫才 寺町志津子
春眠深し釈迦の掌中かもしれぬ 董振華
五月闇犯人のように独り言 峠谷清広
そうか柳絮になろう外出自粛 遠山郁好
蟻地獄脱ぎ捨てられし靴の数 鳥山由貴子
男去り鉄筋居並ぶ皐月闇 中野佑海
田水張る光源として人はあり 藤野武
オランダ屋敷四葩咲くときおんな声 増田暁子
花水木やわらかい言葉だけ残す 松井麻容子
著莪の花自粛を自粛したくなる 水野真由美
落丁のまた乱丁の夏の蝶 望月士郎

遠山郁好●抄出

頓挫する日常亀の鳴いており 浅生圭佑子
青芒村の存亡透かしおり 石川和子
母の日は昨日のつづきミシン踏む 石橋いろり
「お〜い伸よ!」五月の空より兜太の声 井上俊一
麦青む静かに青む手足です 大沢輝一
疲れます人人みんな深海魚 岡崎万寿
青葉風直線だけで描く身体 奥山和子
朧ろげな友よ朧の長電話 桂凜火
白南風や掬えるほどに澄む月日 川田由美子
霾風に振りむく逐われいるごとく 北村美都子
菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
呼吸濃き色なりたるあやめかな こしのゆみこ
水を張り田は湖のまま我れ白し 後藤岑生
ラテ色に夏めく風の眼指は 近藤亜沙美
床に臥す銀河が我を揺さぶり来 齋藤一湖
葉にふれる風よはなればなれです 三枝みずほ
月光下吾歩まねば刻凍てる 佐藤稚鬼
祖の家や真面目に酸っぱい夏みかん 篠田悦子
栗の花ことばは朝の水たまり 関田誓炎
知性的に芽木野性として草原 十河宣洋
朝の蠅朝の光に手を洗うよ 中村晋
水に書く文字積りゆくステイホーム 並木邑人
水脈と水脈ぶつかるところ夏の星 根本菜穂子
夫摘みしサラダ菜春の雪みどり 長谷川順子
田水張る仏間に風を入れてから 松本勇二
真意言う指もて広げブラインド 三浦静佳
花いばら胸中急な雨に遭う 三浦二三子
夏夕べ橋に木霊の立ちもどる 水野真由美
髪洗う空中ブランコが見える 望月士郎
空耳の耳朶のあたりを春という 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
 作者は広島の人なので、原爆忌を詠んだ句とみて差し支えあるまい。あの日、被爆地で無心に縄電車をして遊んでいた子供たちが、一瞬の閃光とともに「しゅっぽと消えた」。縄電車は発車しようとしていたところなのだろう。「しゅっぽ」の擬音が、子供たちの声で発せられた瞬間に、一切が消えたのだ。平和な日常が不意に断ち切られた事実をありのままに書いている。歴史の哀しみを伝える言挙げせぬリアリティの力。

孕み猫ぬっとコロナ禍のシャッター街 楠井収
 コロナ禍によって、各地の商店街は軒並みシャッター街と化した。アーケード付きの商店街だろうから、灯の消えたシャッター街は昼なお暗いゴーストタウンと化している。人通りの絶えたその街へ、ぬっとばかり一匹の孕み猫が登場した。死んだような空間に、生きもののいのちが現れたのだ。それもやがて生まれるいのちをも宿しながら。「ぬっと」にいのちの生なましさがある。

鏡の間にいるごとき春マスクマスク 黒岡洋子
 今や街中に溢れているマスクの群れは、街全体の表情を一色に掩っている。どちらを見てもマスクマスクで人の判別も難しい。あたかも童話の鏡の間にいる気分のようで、一向に落ち着かない。その不安にはいささかの苛立ちも混じっている。下五「マスクマスク」のリフレインは、単に景としての描写ばかりでなく、やり切れない気分の語感をも捉えている。

棺の兄子馬のように撫でられる 佐々木宏
 亡くなった兄を棺の中に収めて見送るとき、集った人々はこもごも亡き兄の頭や頬を撫でて別れを惜しむ。あたかも牧場の子馬を愛おしげに撫でる所作のように。それはまた在りし日の兄が子馬を撫でていた所作そのものでもある。作者は北海道の人だから、おそらく牧場で兄とともにしていた所作を、兄との思い出とともによみがえらせていたに違いない。

顔無しの息ひそめゆく春の闇 高木一惠
 「顔無し」とは、水木しげる作「げげげの鬼太郎」に出てくるのっぺら棒の大型の紙の妖怪だ。特に悪さをするわけではないが、ひょっこり現れては、人を驚かす。そんな「顔無し」が、春の闇の中で息をひそめて隠れている。誰か来たら、びっくりさせられるようなそんないたずらっぽい春の闇がうずくまっているような気がする。なにか面白い仕掛けがありそうな夜気。

青葉騒だから押韻なのだから 田中亜美
 青葉騒が吹き抜けてゆく森の中。その葉騒の繰り返す音が、いつのまにやらある韻律を持っているように聞きなしている。「青葉騒だから」に重ねて「押韻なのだから」と、自分に言い聞かせるように言う。「なのだから」と言いさしたまま口をつぐんで、そこから広がるものを読者に投げ返している。あるいは、そこから先は内面での推敲の世界に籠もるのかも。青葉騒にその気配だけを伝えている。

夕焼けや切株のラジオより漫才 寺町志津子
 夏の夕焼けの森の中で、ひと時の休息をとっている。おそらく伐採作業でもしているのだろうか。切株に携帯ラジオを置いて、聞くともなしに聞いていると、ラジオから漫才の声が聞こえてくる。静かに流れてゆく時間に、ユーモラスな声と話題が、夕焼けのひと時を和ませる。疲れた体から、くすりと笑い声が洩れる。

春眠深し釈迦の掌中かもしれぬ 董振華
 いかにも大陸的なスケールの大きい、寓話性に富む一句。中国の『西遊記』を思わせる世界。こういう持ち味は作者ならではのものかも知れない。「春眠深し」と夢の世界に誘っておいて、「釈迦の掌中」へと飛躍する。一句は「春眠」という季語の体感を書いている。それを日本人ならさまざまな春眠の微妙なアスペクト(相貌・表情)で書くのだが、作者は、おめず臆せず言葉の寓話的体感一発で書く。そのあっけらかんぶりがなんとも魅力的だ。

そうか柳絮になろう外出自粛 遠山郁好
 コロナ禍による外出自粛で、一時街中は火の消えたような閉塞感に蓋われた。そんなある日、ふと外をみると、柳の絮が軽やかに飛んでいる。「そうか、あの柳絮になろう」、いやなりたいと思う。そうなれば、外出自粛のうっとおしさも少しは紛れよう。もちろんイメージの上でのことにすぎないが、「そうか」といううなずき方に、その鬱屈の深さが測られる。

オランダ屋敷四葩咲くときおんな声 増田暁子
 長崎の名所オランダ屋敷。「おんな声」とは、歌謡曲「長崎物語」で唄われた「じゃがたらお春」を連想させる。四葩咲く雨の日のおんな声に、お春の望郷の思い止み難い哀しみに通ずるものを感じている。「よひらさく」という語感の響きが、柔らかく繊細なおんな声に通い合う。実在のお春は、ジャカルタで幸せな生涯を送ったらしい。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

祖の家や真面目に酸っぱい夏みかん 篠田悦子
 大振りでごつごつの手触り、朴訥そのものの夏みかん。特に昔のそれは、今よりずっと酸っぱくて、捥がれないまま裏庭に落ちて転がっていたりした。その夏みかんを、真面目に酸っぱい・・・・・・・・とは言い得て妙。でもこの句の良さはそれだけではない。上五に祖の家と置くことで、先祖代々の篤実で生真面目な暮し振りが、金色に実る夏みかんの映像と共にこころ豊かに伝わる。ふるさとへの思いの厚さが、作者らしい卒直な切り口で鮮やかに描かれている。

花いばら胸中急な雨に遭う 三浦二三子
胸中急な・・・・と畳みかけるように始まるこの句、徒ならぬ気配を漂わせている。特にこの句の中で、胸中・・の一語が微妙な陰影を落とす。例えば、ずぶ濡れのどうしようもないわたしと、それを傍観者のように茫然と眺めているもう一人の自分が存在するような複雑なイメージ。そして然りげなく添えられた花いばらも想像をひろげる。まるで一篇の物語のプロローグの一行のような「胸中急な雨に遭う」に魅せられる。

菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
 菫といえば星菫派に代表されるような可憐な花。その菫にうす暗がりを感じた作者。そのうす暗がりは、すみれが本来持っていたものか。それとも、花々で噎せ返るような花屋の片隅に潜んでいたものか。いずれにしても、すみれ色をした小さな生き物のようなうす暗がり・・・・・。そのうす暗がりが家まで付いて来たのなら、すみれと一緒に育ててみましょう。

真意言う指もて広げブラインド 三浦静佳
 真意はその反応や影響を思うとなかなか告げられないものだ。真意を告げる時の、自分の戸惑いを相手に見られているような気がして、何かに触れていなければいられないような居た堪れなさを感じることがある。それがブラインドの隙間に指を入れて広げる行為につながる。それが真夏のある日の光景と思えば、作者のこころのありようが一層強く想像されて切ない。

朝の蠅朝の光に手を洗うよ 中村晋
 東日本大震災以来、作者の中に棲み、知己のごと、分身のごとく時々顔を出す蠅。この句、今がコロナ禍でなかったら、平和な家族の一日の始まりの光景であったはず。でも今はこの蠅、感情の翳のように漂うものと読めてしまう。ただこの句、どこにもコロナ禍とは書かれていないから、そのまま日常詠と受け取っても十分魅力的だ。朝の蠅、朝の光と朝のリフレイン。その朝の光を切って飛ぶ蠅の羽音と蠅のもつ僅かな屈折感。そして呼びかけるような手を洗うよ・・・・・。どれも新しい今日の始まりと未来を予兆させる。敢えてそう読みたい。

田水張る仏間に風を入れてから 松本勇二
 田植前の水張田は空や木々やまわりの様々を映して殊更美しい。作者は、田に水を張る前に一見脈絡のなさそうな、仏間に風を入れると言う。しかしこう書かれて違和感はない。むしろ、そうすることが自然であるかのように思わせる生活に根差した真実が見える。水張田と仏間に纏わるそれぞれの人の思いを十分に想像させて、心に響く。作者の誠意や佇まいまではっきり見える。季節感濃く、簡明で味わい深い句。それにしても水と風は似合う。

白南風や掬えるほどに澄む月日 川田由美子
 梅雨が明けてさわやかな白南風の中に身を置くとき、震えるように繊細で透明な感性は、過ぎし月日を掬えるほどに澄むと感受した。歳月と言わず月日がいい。これまでの月日に耳を澄ませて、それらを包み込むよう純粋に肯定できる作者のこころに惹かれる。月日へのオマージュと優しい目差が感じられる。前を向き生きるせいの眩しさと共に。

夏夕べ橋に木霊の立ちもどる 水野真由美
 夏の夕べは、いつでもハッとするほど青く吸い込まれそうになる。そこには数多の哀歓を秘めた追憶のしるべのように橋が架かっている。そして異界とを自由に往来することができる。もちろん人ばかりでなく、深い夏の木々の精霊たちも。そう言えば、さっき去って行ったばかりの木霊が、迷子のようにふわふわ立ち戻って来ている。暫くは、この想像の翼に乗って遊んでみる。

葉にふれる風よはなればなれです 三枝みずほ
 風はいつも素っ気なく、もどかしいほどよそよそしい。そして通り過ぎるもの。風にはいつも疎外感が漂う。風とはそういうものだと解っていても、はなればなれですと言いたい作者。だけど人はそんな風が好き。きっと何かを運んで来てくれると信じ。だから、ときには風よなどと呼びかけたりする。が、相変わらず風は風であり、ひとのこころには寄り添ったりはしない。葉にふれる風の手って一体何色でしょうか。

◆金子兜太 私の一句

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 兜太

 高校の時、詩歌に造詣の深い音楽の先生から「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」は「作者の強い反戦の思い」と教わった。私達生徒は、リズム感あるフレーズを始終口にした。長じて海程入会三年目の平成23年、広島で全国大会があり、師を川崎千鶴子さんと平和公園(爆心地)をご案内した。慰霊碑の前で静かに佇まれた師。ご自身の句が平和に役立つよう常に願っておられた師との郷土でのかけがえのない思い出と共に大切にしている句である。句集『少年』(昭和30年)より。寺町志津子

霧の村石をうらば父母散らん 兜太

 金子先生が熊谷の新居に移られた折に、今は亡き先輩と共に先生宅に訪問しました。その帰り際に上掲「短冊」を頂く。以上は半世紀も前の昔のことですが、それ以来我が家の「家宝」として大事にしています。先生が育った秩父は山峡―なので霧が深い―山国を出ることなく暮らす老父母への愛情―を句にされたものと鑑賞。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。本田日出登

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選

二・二六雪の話をするふたり 伊藤巌
大夕焼仙台空襲と見間違う 江井芳朗
春隣日矢の音叉のカフェテラス 榎本愛子
トゥーンベリ柳の芽の弾けるよ グレタさん 大上恒子
亡妻つま呼べば草田男碑あり枯木径 岡崎万寿
冬柏ざわざわざわと逢瀬かな 尾形ゆきお
義理の兄「よかばってん」と根深汁 片町節子
涅槃西風過去がだんだん丸くなる 北上正枝
官邸へ直進の犀夏の月 今野修三
オルガンの余韻棲みつく冬たんぽぽ 芹沢愛子
○煮凍りや真顔で「どなた」と仰せらる 中村道子
どの道も杳杳として3・11忌 並木邑人
水引いて小箱大箱りんご箱 服部修一
静かな看取り日溜りの冬の蜂 船越みよ
木星の匂いね新しい布団 前田恵
霞む比叡山ひえい影絵のように友病んで 増田暁子
堅雪や一茶にながき訴訟事 村本なずな
水温む気化してしまった昨日のこと 森鈴
ふらここやガーゼのように泡立つ日 茂里美絵
恐竜はほとほと滅びふきのたう 柳生正名

市原正直 選

薄氷をこわす音して密事 榎本祐子
鉄骨のぶつかる響き冬夕焼 川嶋安起夫
野火走る乳出す草を舐めてゆく 河西志帆
着ぶくれて悪党がいる父がいる 佐々木宏
伏せし本に背骨一本ありて冬 佐々木義雄
木の芽風あめ玉二つ分の欲 佐藤詠子
指紋なき白き雛の手夜に入る 竹田昭江
野遊びのみんなが消えた野が消えた 椿良松
とあるページ引裂くきさらぎの直情 鳥山由貴子
○煮凍りや真顔で「どなた」と仰せらる 中村道子
コロナショック顔半分の春マスク 西美惠子
あお向けの海に雲雀を放ちたる 藤田敦子
玄関に咳ひとつだけ置いてくる 松井麻容子
他界から出てきた足か春炬燵 松本勇二
姿見を出たがるしっぽ雛の夜 三好つや子
○雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
○花明り人みちあふれている無人 望月士郎
こわれものの形あきなう梅まつり 茂里美絵
遮断器の棹の弾みも初景色 梁瀬道子
恋猫の一目散という汚れ 横地かをる

伊藤巌 選

髪濡れしまま沈丁を深く嗅ぐ 大池美木
青の熊野に備中鍬というものを 大西健司
道問われ示す芽吹きのうすみどり 狩野康子
げんげ田の水がふくらむ急がねば 河西志帆
春宵ほろほろ見知らぬ犬と道連れに 河原珠美
春夕焼なんにもしない手を洗う 北上正枝
梅よ、師の逝きし日の吾の生れし日の 北村美都子
いちじくの若葉冷たき手を探す 木下ようこ
しんしんと空しみじみと大根煮ゆ 篠田悦子
少年に風青々と原野来る 中内亮玄
冬霧がときどきたずねてくるカモメ 平田薫
浅き春手の濡れしまま人迎ふ 松岡良子
芽木とわれひとつの影となりゆけり 水野真由美
立木生う春田となれぬまま九年 嶺岸さとし
あおさ採り岩に張りつく母の影 武藤暁美
○雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
○花明り人みちあふれている無人 望月士郎
○種袋はらからの息やわらかい 矢野千代子
なりゆきの静かに終ひ冬河口 横山隆
○美濃紙折り母の寝嵩を憶う冬 若森京子

川田由美子 選
舞うように種を蒔く人山の畑 石川義倫
誰かく影より淡くあめんぼう 伊藤淳子
アフガンは青し柩は白し冬 稲葉千尋
病状にやわらかな揺れ薄氷 宇川啓子
ベビーカー春と並んでやって来る 奥村久美子
LPに落とす針先蝶生まる 片岡秀樹
失われし鑑真の眼の春の星 佐々木香代子
月あがる素朴が嬉し三月は 関田誓炎
やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
墓洗う一番明るい影つれて 舘林史蝶
青き踏む体のうろが軋みけり 中内亮玄
雪柳わたしも揺れていいですか 中條啓子
春の野に入口ぽろんと置いてきた ナカムラ薫
眠る星ひとつぶ呑むや夢深き 藤盛和子
白鳥は栞であった春隣 北條貢司
太陽の程よき重さ野遊びは 宮崎斗士
白葱やただ一行の母の文 武藤暁美
梟棲む父の分厚き日記かな 武藤鉦二
○種袋はらからの息やわらかい 矢野千代子
○美濃紙折り母の寝嵩を憶う冬 若森京子

◆三句鑑賞

官邸へ直進の犀夏の月 今野修三
 コロナ禍で、国のリーダーの資質の重要性をこれほど感じたことはない。今はカケ・トモ・桜問題は置いておいて、国民はコロナ危機への知恵のなさに怒っているのだ。犀は国民であり、もしかしたら、兜太先生のスピリットかも。犀の重量感と勢いがこの句の真骨頂。夏の月は迷う所。

水引いて小箱大箱りんご箱 服部修一
 作者は颱風銀座の異名を持つ宮崎県の方。ここ二年の大豪雨の実景であろう。地域や時間を限定せずとも普遍性がある。豪雨の後の広く散乱した家財。否、カメラを遠景からズームインしていき最後にりんご箱に焦点が合うことで、リアリティが増すようにも読み取れる。シンプルな素材を効果的にリフレインしたとこがうまい。

堅雪や一茶にながき訴訟事 村本なずな
 一茶の生い立ちを辿ると句柄とは程遠い骨肉の争いが横たわっていた。父親の遺書を頼みに北信濃の実家の遺産分与を十年に及ぶ訴訟の末勝ち取った。同じ長野出身の作者には身近な題材であり、堅雪は肌感覚の季語なのだろう。一度融けかかった雪が冷え込んで凍りつき堅くなった雪。人間関係の雪解けも難儀だ。季語がうまく嵌まった。
(鑑賞・石橋いろり)

コロナショック顔半分の春マスク 西美惠子
 コロナショックは令和二年の事件として、歴史に残るから、この句は将来名句になるかもしれない。この時期コロナ禍に関連してマスクの作品が多く見られたが、マスクは冬の季語だということを忘れた季重ねが散見された。マスクしたご婦人の年齢を当てさせるコマーシャルがあった。顔の下半分の手入れが悪いと老け顔になるという化粧品の宣伝。マスク美人の多いこの頃、マスクをはずした時のまたちがうショックが恐ろしい。

雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
 同時に、蕪村の〈斧入て香におどろくや冬こだち〉を思い出させる。斧の音を響かせるのは俗界との結界を求めたこころ。孤独というより自尊独歩の生きざまを鼓舞させる。

こわれものの形あきなう梅まつり 茂里美絵
 梅まつりの頃はまだまだ寒いが、その縁日で骨董もどき古道具類を並べた露店の様子が見えてくる。かって実用だった物の陳列は、一部に欠損などあってもなつかしい文化・思い出のかたまりである。それは古くなったから駄目でなく、むしろ熟成の慈味が出てくる。梅まつりという新たな季節の先ぶれは、こわれものと自虐する晩成のひとりを励ましている。
(鑑賞・市原正直)

げんげ田の水がふくらむ急がねば 河西志帆
 故郷の春・営みがぱっと浮かんでくる。水がふくらむいそがねば……、ああそうだったなとしみじみ思う。長い厳しい冬を過ごす地方の春は一気にやってくる。雪解けを待ちきれないように、梅、桜が開き、田にはれんげの花。そして田打ち、田植え……、そう春を喜んでばかりはいられない。厳しい辛い日々もやってくる。

立木生う春田となれぬまま九年 嶺岸さとし
 田圃は一年遊ばせると、原野に帰る。草ぼうぼうになるばかりか保水力が無くなり、復元は大変な作業になる。3・11からもう九年、いまだ原発の廃炉、除染の見通しも立たない田圃には、草どころか木が生え育っている。今はもう春田の時期。一番活気づく命の季節でもあるのに……。目をそらせないテーマがますます増えていく。

雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
 厳しい自然、大地に深く根を張ったような句に魅かれる。雪晴れの朝、ピーンと張りつめた空気、山仕事の緊張感が伝わって来る。斧を振るうたびに飛び散る木っ端、あたりに新鮮な木の香りが広がる。波郷の句に読まれた切字とは違った鋭い感じがいい。こんなふうに切字が使えたらとも思う。谺のように何時までも残る斧の音。
(鑑賞・伊藤巌)

誰か咳く影より淡くあめんぼう 伊藤淳子
 通りすがりの誰か、あるいは記憶の中の誰かだろうか。幽かなしわぶきの気配。作者の意識の中に影のように開き消えていった何か、それは作者の意識のまたたきそのものかもしれない。影より淡い、あめんぼうのような自意識。やさしさ、あきらめ、かなしみの影が見えてくる。

やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
 「やまとことのは」は、いわゆる「大和言葉」ではない。「やまと」と「ことのは」が、合わせ鏡となって見えてくる。作者は遠く倭の国にまで思いを馳せているのだろうか。永々と積み重ねられてきた人の営み、戦、歴史。全てが溶け合い、今、美しい風土となり作者の前に立ち現れる。手から手へ、心から心へと受け継がれた「ことのは」は、風土を湛えた多層のグラデーションである。

春の野に入口ぽろんと置いてきた ナカムラ薫
 春の野のやさしさ、春の訪れとともにやわらかくなってゆく心持ちが、「ぽろん」の音から感じられた。「入口」は、作者が春の野を踏みしめたその一歩、春の野に迎え入れられた最初の感触のようなものと受け取った。その「入口」が遠く定かでなくなるほどに、作者は春の野に包まれている。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

菖蒲葺くアルコール消毒の香り甘く 有栖川蘭子
夕焼けは私が沈むナルシシズム 泉陽太郎
葬儀する父のするめの役終わる 荒巻あつこ
燃えるのよ花も至誠もすべからく 飯塚真弓
時々サングラスをかけ独裁者 植朋子
てふの仲一時も縛るもの無き 鵜川伸二
この薔薇の門をくぐれば帰れない 大池桜子
雪渓や仮面護ろうとする本能 大渕久幸
尻振って狩する構え春の猫 かさいともこ
赤ん坊耳だけ大きくつくられて 葛城広光
乳飲み子に男の眼玉さくらんぼ 木村寛伸
八十八夜乱筆乱文恋しくなる 木村リュウジ
父母の墓抱く山より初音して 清本幸子
春の夢ずーと笑っている私 後藤雅文
ジャスミンと鉄線絡み合う無口 小松敦
桃咲いて李白の一村現れる 重松俊一
蟻落ちる子供の手より地獄へと 鈴木弥佐士
飛行機の影また過る茶摘かな ダークシー美紀
忘れればいいんだふわぁと終える春 たけなか華那
きのうより強い蚊のいる寝屋に行く 立川真理
ホームステイ晴れときどきチンアナゴ 谷川かつゑ
太陽の匂いがします更衣 千葉芳醇
桜の実終生脇役で光る 中尾よしこ
心折れふらここに乗る強く漕ぐ 仲村トヨ子
祖国といふとき梧桐のはにかみ 深澤格子
初鳴きの染み込んでゆくシャッター街 保子進
青空という拘束郭公は破る 松﨑あきら
春の燈やあまたの奈落ありといふ 武藤幹
隠元豆煮染める窓に海せまり 吉田貢(吉は土に口)
夜光虫父にまばゆき癌の点 渡邉照香

『海原』No.20(2020/7/1発行)

◆No.20 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

春琴抄閉じ春雷の中にいる 伊藤巌
誰か呼ぶふと身じろぎの花蘇枋 伊藤淳子
激論のあと春満月が重過ぎる 伊藤道郎
3・11「古里」奏ずトランペット 江井芳朗
一枚の田のそれぞれの春の鳥 大髙洋子
父母焼けて吾が名知らぬ子ヒロシマ忌 川崎千鶴子
料峭や夜という名の黒猫 河原珠美
無口なりの感染もあり蝶の島 木下ようこ
春は夕暮れ花嫁の父小さく帰る 小池弘子
ひらくたび光の曲がる雛の函 小西瞬夏
羽音めくその向こう側花の雨 近藤亜沙美
夫逝きて消えし犬鷲秋田駒 坂本祥子
葉桜という感情で夜を漉く 佐孝石画
片減りの靴に卯の花腐しかな 佐々木義雄
友逝くやコロナ籠りの花の雨 白石修章
英霊の数詞は「柱」桜散る 瀧春樹
マスクしてまばたくわれら鳥帰る 田口満代子
蕗の筋舌に残りぬ多喜二の忌 竹田昭江
春愁や自分自身に絡み酒 峠谷清広
巣ごもりの朝餉のためのみずからし 遠山郁好
どこでもない懐しい町蠅生る 鳥山由貴子
生きすぎて逝く日待ちおり啄忌 中川邦雄
揚雲雀空に絶壁はあるか ナカムラ薫
茎立す昨日を消したカレンダー 増田暁子
紫木蓮空気うごかさぬよう見上ぐ 松本勇二
休校の桜生徒を待ち切れない 三浦二三子
テレワークもっと囀りのなかへもっと 三世川浩司
躁の桜も鬱の桜も故山なり 武藤鉦二
ミモザ抱いて抱いてすべなしコロナ禍や 村上友子
桃の日や八十年の朦朧体 若森京子

遠山郁好●抄出

春なのにコロナウイルス春なのに 綾田節子
春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
嬉しさを膝に流して春の空 奥野ちあき
少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
ぞっとしました桜隠しに月光とは 小池弘子
生あれば吸気の香り青い風 小宮豊和
甲斐駒ヶ岳かいこま拳骨げんこいただく春霞 近藤守男
無表情拾ひ集めし四月かな 齊藤しじみ
北の朝深い呼吸と軽いコート 笹岡素子
卒業式みんなが狐マスクして 佐々木宏
山恋し木洩日淡し花通草 末安茂代
夢なんて照れば忘れる揚雲雀 高木一惠
わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
待つという静かな未完木の芽雨 月野ぽぽな
青空をスピーカーにして山笑う峠谷清広
春の音いつしか雨に濡れている 永田タヱ子
飛花落花たましいにある金属質 中塚紀代子
吾が町角色濃く見える老いの春 中村孝史
身辺の尖りに倦みし春の暮 丹羽美智子
義歯洗う夜滝を覗き込むように 野田信章
朧世の朧の中で白濁す 長谷川阿以
あいまいな喪失抱えしまま飛燕 藤田敦子
田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
休校のブランコ夜の渚かな 本田ひとみ
カトラリーちいさく鳴ったのは花冷 三世川浩司
ふくしま三月両膝は海に向く 武藤鉦二
ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし
疫病えやみ世に生まれ蝶の名すみながし 柳生正名
楪や父の直球受け損ね 梁瀬道子
ここから先は自由にサワガニ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

誰か呼ぶふと身じろぎの花蘇枋 伊藤淳子
 日常にふと訪れたかすかな漂泊感を、肌理の細かい言葉の斡旋で捉えた作者の真骨頂の一句。花蘇枋は雨に濡れていたのではないか。「誰か呼ぶ」とは、花蘇枋に憑かれたように見入っていたとき、ふと誰かに呼ばれたような気がしたのだろう。それはあるかなきかの物音とも声ともつかぬものだが、作者があっと気づいたとき、花蘇枋は濡れたからだでかすかに身じろぎをしたに違いない。それは、作者にふとさずかった詩的直感の響きあいともいうべきものであった。

一枚の田のそれぞれの春の鳥 大髙洋子
 山間の棚田の中の一枚の田に訪れた春の鳥。「それぞれの」とあるからには、春の鳥が思い思いに自分の田と決めて、一枚ずつ田に舞い降りているのかも知れない。それほど多くの群れではなかったのか、一枚ずつの田の配分に事欠くことはなかったのだろう。「田のそれぞれの春の鳥」としたとき、峡の棚田の安らかな平和を感じたのではないか。穏やかな庶民の暮らしが見えて来る一句。

春は夕暮れ花嫁の父小さく帰る 小池弘子
 春の夕暮れ、その日最愛の娘の結婚式と披露宴も滞りなく終えた父親が、やっと肩の荷を下ろした思いで帰ってゆく。その背中は妙に淋しげで、小さく曲がっていた。おそらく、これが花嫁の父親像の典型的な姿ではないか。結婚式は春と秋がシーズンといわれているから、秋の夕暮れもあり得よう。だが秋だと花嫁の父はなかなか建前から逃れることが出来ず、小さく帰るわけには行かないような気もする。春の夕暮れなればこそ小さい父に戻るのだ。

葉桜という感情で夜を漉く 佐孝石画
 花の後の葉桜は、どこか感情のざわめきのようなものを覚える。花の宴の後に来る空しさの気配とともに、突然強い風がシャワーを伴って吹き募ることがある。葉桜はその感情のざわめきで、夜を和紙のように漉いてゆくと捉えた。さすがに越前和紙、若狭和紙等の本場に住む作者ならではの感性である。加えて作者は書家でもあり、和紙の質感に精通している人。「葉桜という感情」で夜の帳を漉いてゆくという表現が、この人ならではの重い実感に支えられているこというまでもない。

友逝くやコロナ籠りの花の雨 白石修章
 「コロナ籠り」とは、全国的緊急事態宣言によって外出自粛が行われ、自宅待機を余儀なくされている状態をいうのだろう。こういう閉塞感の中にあっては、気力を失い、病が嵩じて亡くなられる方も多くなる。その中に親しい友がいた。おそらく死去の報を前に、駆けつけることもかなわず、ただ茫然と花の雨を見つめているばかり。「コロナ籠り」という異常事態の中にあって、花の雨が友の死の悲しみを染み通らせてゆく。

生きすぎて逝く日待ちおり啄木忌 中川邦雄
 作者は、今老人ホームで静かに余生を過ごしておられる。大きな施設というし、ご夫婦での入居だからそれなりに豊かな日々を楽しまれておられるのではないかと想像していたが、この句から伝わってくるものは、やがて来る死を待ちつつ無為の日々を送る老いの姿である。そこには「生きすぎ」たとするやや自己韜晦の味も感じられるものの、啄木忌と取り合わせたことで、一気にそんな生きざまを肯い得ない作者の心意気に触れた気がする。弱冠二十六歳で火花のような生涯を終えた啄木を、美しい星のように見上げつつ、対照的な幕引きの時を迎えようとしている一人の老いの姿の中に。

紫木蓮空気うごかさぬよう見上ぐ 松本勇二

 紫木蓮は、花弁が中ほどから外へ開く端正な六弁の花で、大ぶりの葉がついている。大木にはならないが二~三メートルほどには達する。花は深い紅紫色で、庭木としても美しい。作者はその咲きぶりに魅せられつつ、花のかたちの見事さをいつまでもそのまま保ってほしいとの思いをこめて、「空気うごかさぬよう」にそっと見上げた。この心遣いが紫木蓮の花の完璧な姿を保証している。

桃の日や八十年の朦朧体 若森京子
 桃の日は、いうまでもなく三月三日の雛祭の日にあたり、女児のいる家庭では雛人形を飾り、美しく装ってお祝いの宴を開く。恵まれた家庭に育ち、豊かな才能を存分に発揮してきた作者にとって、一年の中のひときわ輝かしい一日であったに違いない。その作者も八十年の歳月を経て、ようやく若き日の輝きも茫々たる往時の中に、朧に霞んでみえる。そのとき、自分の八十年の生涯は、墨絵の朦朧体のような朧な輪郭をまとっているようにさえ見えて来る。おのれを遠い風景のように抱え込んだ命の灯りと見ている境涯感ではないか。

 折りしもコロナ問題に世界中が巻き込まれている中にあって、「テレワークもっと囀りのなかへもっと」(三世川浩司)、「ミモザ抱いて抱いてすべなしコロナ禍や」(村上友子)ような意欲作があったことを付け加えておきたい。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
 待っていた春がやって来て、妻は春の花の名を指折り数えはじめる。やがてそれが十指に余り両手に溢れる。そんな妻の仕草を慈しみ深く見守る人。その時、妻の表情がぽおっと灯ったように明るく見えた。祈りにも似た今日一日の安堵と幸せに、しみじみ浸る刻。なんと誠実で、愛あふれる句だろう。人の美しき本質を見るようだ。春はしみじみいい。

北の朝深い呼吸と軽いコート 笹岡素子
 北国の人の春の訪れに対する感受は深く鋭敏。しかし、この句には、どこにも春とは書かれていない。ときに春を言うとき春という言葉の概念に束縛され、新鮮な春が伝わらないこともあるが、この句は違う。北の朝、深い呼吸、軽いコートを提示するだけで、長い冬からの解放の喜びを伝えようとする作者の率直な言葉、物への接近が功を奏した。まだ浅き春の人懐かしさと澄み、それを全身で感じようとしている作者の眩しさ。

青空をスピーカーにして山笑う 峠谷清広
 こんな山笑うは他にあったでしょうか。とにかく、手放しで笑う山を書き切った。スカーッとこの抜け感。単純明快な映像は印象も鮮明。雲一つない、どこまでも続く響き渡るような青い空、その青空がスピーカーになり山の笑い声を、春を、わんわん拡大拡散し、時には耳障りなほど、そこらじゅうに満ち満ちる。雪国にまた春が来た。どこか戯画的で、一茶を思わせる直截は魅力的。

嬉しさを膝に流して春の空 奥野ちあき
 この作者も北国の人。そう思うと春への思いは、私などと比べようもなく深いはず。何か嬉しいことがあったのでしょう。それを膝に感じていることが、とてもユニークで新鮮。正座している膝に春の空が映って流れてゆく。嬉しいことと一緒に。ことさら人に告げることもなく、ひとりで、さりげなく喜びを噛み締めている。ああいいなあ。感じとることの優しさを春の空が祝福する。

夢なんて照れば忘れる揚雲雀 高木一惠
 夢なんてと多少の屈折と共に始まり、照れば忘れると大胆な展開に引き込まれ、そして結句の突き放つような明るさの揚雲雀に救われる。雲雀野の空へ向かって帽子を抛り上げるような、書くことによる自己解放の句でもある。また、今世界を席捲する疫病禍を一場の春夢と捉えれば、そんな夢なんて太陽が照りつければ、やがて忘れるという力強いメッセージとも読め、この句に惹かれる。

わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
 火入れ前の火種を造ることに視点を置いて書かれたこの句。予言者の神聖な儀式のようでもある。宿命のようなごうのようなわが影。その影を束ねる行為に人間存在の重さと寂寥を思う。再生のための野焼、その跡からは、どこからか野太い声が聞こえてくる。

春の音いつしか雨に濡れている 永田タヱ子
 春の音ってどんな音だろう。水の風の木々のそして空の擦過音。生き物たちの暮らしの音。ひかりにも音が。それらの全ての春の音に耳を傾けるとき、春の音と私は、いつしか雨に濡れている。いつしか・・・・に長い人生の歳月を感じ、この星の悠久の時をも思う。簡明にして深くリリカルなこの句に出合うとき澄明な感動が訪れる。

休校のブランコ夜の渚かな 本田ひとみ
 緊急事態宣言による一斉休校により、人影のない校庭の使われないブランコ。その無人のブランコ、人恋しさで微かに揺れ軋む。その音を聞いた作者。その時、離れて暮らす故郷への思いが、夜の渚と共にひたひたと甦る。休校のブランコと夜の渚の二つの物語の重なりが、この作品をより深化させ、その想いを厚くさせる。

春なのにコロナウイルス春なのに 綾田節子
 今は春まっ只中なのに、ウイルス禍が世界中に蔓延している。花々が咲き乱れ、眠っていた生き物が目覚める春だというのに。今はそれらと交感することも出来ず、素通りするだけ。春なのに・・・・の繰り返しは実感であり、こころからの声。しかしこのウイルス、紫外線と湿度に弱いと聞く。今は信じよう。全身で季節を感じられる日が来ることを。

疫病えやみ世に生まれ蝶の名すみながし 柳生正名
 新型コロナウイルスという疫病えやみ世に遭遇してしまった。自然界の複合的要素と人為的要素によって引き起こされる疫病。こんな疫病世と知らずに生き物は生まれる。もちろん蝶も。その中で作者は、すみながしという蝶に注目した。蝶の名は染色の墨流しから来ていて、粋ではあるが、墨が流れる様はウイルスに汚染されてゆく地図のようにも見える。また、蝶の赤い口吻は気味のよいものではなく、そう言えば蝶の飛ぶさまは病み上がりのようでもある。疫病はつねに文明の在り方を問い続ける。過去の感染症の記憶を感情でなく科学で理解しなければと思う。

◆金子兜太 私の一句

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太
 掲句と兜太先生を教えてくれたのは、故徳才子青良先輩であった。この句で兜太先生を知り、「海程」の会員となった記念の句である。1962年8月、先生は「寒雷」青森支部俳句大会特別選者として初めての来県。大会の翌日竜飛崎吟行をし、朝の暗い岬に立ちタバコの火を点し岩肌が赤く燃えたという。私は先生の心が燃えたと読み取り、思い出深い一句である。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。後藤岑生

ほぐれたりひぐらしが湧くよ 兜太
 五・五・三の破調ですが、繰り返し読んでいますと十七音の呼吸で体に入ってきます。「ほぐれたり」の語感にどこか懐かしい響きが、また「湧くよ」という先生独特の捉え方に時間的経過と美しい感覚の世界が立ち上がってきます。新同人になった年の全国大会で先生から出身地を訊ねられ「長野県伊那です」「そうだ伊那の顏だ。伊那は君の様な顔容の人が多い」緊張の糸がほぐれた一瞬でした。句集『日常』(平成21年)より。横地かをる

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
レタスほど晩節明るい夕べかな 有村王志
ベロ焼いてヘロヘロしている大みそか 石川義倫
水仙の波間よ日暮の重さくる 伊藤淳子
七草粥姉がおととを叱りし日よ 宇田蓋男
強引がちょっと嬉しい鎌鼬 奥山和子
寛容であることに尖る牡蠣フライ 桂凜火
遠き死近き死あり風花す 金子斐子
煤逃げの上手な娘わたくし似 川崎千鶴子
待春のかたちで眠る猫に添う 河原珠美
柚子もぐや子に従えば晴れてくる 金並れい子
雪降りて村たべさせるねむらせる こしのゆみこ
息継ぎが足りない雲から雪となる 佐孝石画
北風や兜太残党のくちびるぶ厚い 白井重之
梅咲いてスマホに写る青き鮫 鈴木康之
冬虹の低し集落は小さし 田中雅秀
煤逃げ誘う路線バスの灯りかな 谷口道子
麦を踏む軽さよ無印むじのスニーカー 董振華
慈雨は母老木も母噛みしめる 野口思づゑ
十方じっぽうのあまたのや兜太の忌 疋田恵美子
如月の美童の犬歯見え隠れ 日高玲

奥山和子 選
柚子湯かな年寄りは年寄りが嫌い 宇田蓋男
最終列車乗ってしまった嫁が君 奥山津々子
いたわるしかない冬のキュウリ一本 柏原喜久恵
野水仙私というは小さきふち 川田由美子
困ったひとだ無花果の重さかな 木下よう子
ピカソノフクロウガヒロシマヲアルイタ 白石司子
初鏡ちょっと自分にあっかんべえ 鱸久子
初春や人のかたちのうちに会う 髙尾久子
蝿叩き離さぬ魚屋あり立冬 野田信章
○白うさぎ医師にすこしの嘘をつき 長谷川順子
道の端に手袋片方指す真闇 藤田敦子
まだ曲にならない音符冬銀河 船越みよ
雪を着る針葉樹林肩がない 堀真知子
よく喋る縄文土偶冬の月 松井麻容子
白菜を割って寂しい顔ふたつ 松本勇二
雪の夜は耳にじょうずに触れてくる 宮崎斗士
他界から片掌を出して八重椿 村上豪
ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる
母さんは嘘ばかりつく春の昼 らふ亜沙弥
掴みたる分だけでいい年の豆 若林卓宣

佐々木宏 選
冬北斗吾を爆弾と云う父の 伊藤幸
アフガンは青し柩は白し冬 稲葉千尋
非戦派や焼芋で臍あたためる 榎本祐子
冬林檎猫になりきる喧嘩して 奥野ちあき
ここはむかし子宮だつた雪だつた 小西瞬夏
冬花火年に一度の遺書を書く 菅原春み
なまはげ一匹怪しき出所名乗りけり 鈴木修一
ザリガニの髭が絡まる今朝の春 高木水志
冬の蠅男が唇を舐める 鳥山由貴子
孫が子を産む九月かーんと塔そびえ 野田信章
○白うさぎ医師にすこしの嘘をつき 長谷川順子
トローチのだんだん細り墓掃除 畑中イツ子
一族にひとつの便座去年今年 藤原美恵子
耳たぶは寒夜のさな寛容かな 北條貢司
みみず鳴くまだまだこの世は神秘的 松本節子
マフラーぐるぐる血糖値ひくいはず 三世川浩司
○葱を掘る忌日も老いも後ろより 武藤鉦二
凍蝶やひたすらスマホの少年や 村上友子
白菜が炎のかたち夜のウォーキング 山内崇弘
アスパラガス甘い仕事です明日も 六本木いつき

芹沢愛子 選
廃炉遥か初日を隠す防潮堤 伊藤巌
山茶花や影ごと散っている日常 伊藤淳子
谷の木木月に釣られて動きけり 内野修
セーターの葉っぱ取り合って別れかな 大久保正義
春の月まん中という柔らかさ 奥村久美子
飼いならすように寒紅引きにけり 小野裕三
国家にも方向音痴時雨けり 片岡秀樹
冬銀河その奥に詩を汲みにゆく 北村美都子
やれやれ夜明けときどき鳴いて梟 小池弘子
走り去る者の清潔焚火の 遠山郁好
真夜中の鏡砕氷船が過ぐ 鳥山由貴子
大晦日の手と話すまだ働ける 西美惠子
雨音のもの忘れして雪になる 丹生千賀
白鳥の村の少女の平和論 本田ひとみ
美容室着いて来たのは北狐 前田恵
神を信じるしかない島よ崖しかない マブソン青眼
雪女同士気づいてユニクロにて 宮崎斗士
○葱を掘る忌日も老いも後ろより 武藤鉦二
アフガンで死なせし大根煮くばかり 柳生正名
冬の薔薇くずれ母に抱かれたよう 若森京子

◆三句鑑賞

ベロ焼いてヘロヘロしている大みそか 石川義倫
 日常の他愛無い一コマ。実に滑稽だ。想像するだけで作者の本性が垣間みえる。餅でも焼いてつまみ食い。大晦日をヘロヘロしながら皆の邪魔になりながら煤逃げしているのか。笑みが思わず零れる普通の人間の。安堵感のある魅かれる句だ。

麦を踏む軽さよ無印むじのスニーカー 董振華
 子供の頃、二毛作で麦畑はいっぱいあった。麦踏みはあまり記憶がない。藁のストローでのシャボン玉のほうが記憶に強い。無印のスニーカーは実際にあるようだ。その軽さも連想させて今風の若者の句に。実際の麦踏みの力の入れ具合はわからないが。「麦を踏む軽さ」の表現が気持ちよくて素敵な句になった。

十方じっぽうのあまたのや 兜太の忌 疋田恵美子
 先生の「おう」は何回聞いたことだろう。この一言を聞くことの為にだけ各地から参集した海程人は数多に違いない。わたしもその一人だが。また、今号に
年齢は七掛け八掛け兜太の忌 深山未遊
という句も掲載されていた。「女は七掛け、男は八掛け」これもよく聞いた覚えがある。それにつけても兜太残党の我ら。「兜太の忌」が沁みる。
(鑑賞・大西政司)

白菜を割って寂しい顔ふたつ 松本勇二
 田舎に住んでいると手に入る白菜はたいてい一玉単位である。「えいや」と二つ割にして、切り口を眺める。絹のような繊維が年輪の様に連なって瑞々しく美しい。さてこれをどうしよう。子供らも巣立った家庭では使い切るのは大変である。覗き込む二人の顔が、切り口の顔に重なる一瞬の寂しさが心を打つ。

他界から片掌を出して八重椿 村上豪
 幾層にも重なった少しもったりした花びらが、艶艶の深緑の奥から覗く。「なにも怖がることはない。あの世には懐かしい人たちが待っている」。花々はまるで誘うように手を伸ばして来る。両手ではなくまだ片手なので、引き込まれるにはもう少し間がありそう。それまでこの世でもうひと踏ん張りである。

まだ曲にならない音符冬銀河 船越みよ
 キーンと澄んだ寒空に散らばる星々の煌きを何に例えるかは作者の感性。四分音符、八分音符、それぞれの瞬きと大きさに置き換えられた音符は春の訪れに際して、どんな音楽になるのだろう。壮大な交響曲や優しいセレナーデ。楽団はすでにチューニングを始めているかもしれない。想像は何処までも膨らんで楽しい。
(鑑賞・奥山和子)

マフラーぐるぐる血糖値ひくいはず 三世川浩司
 血糖値が低いと冷や汗やふるえ等の症状があらわれ、場合によっては意識障害から昏睡状態も見られることがあるという。「マフラーぐるぐる」。このマフラーのあり様に、なにか血糖値の低い状態を見て取ったのであろう。やや滑らかさを欠くリズムは、その暗示に有効に作用しているように感じる。それにしても、マフラーから血糖値へは、なかなか飛べない。すぐれた感性というか卓越したわざ、力量を思う。

冬北斗吾を爆弾と云う父の 伊藤幸
 親は子どもにいろいろな願いを持つ。しかし、子どもはそうした願いとは別に自立の道を、時には大胆に歩み出す。爆弾とはこうした乖離やはらはら感のことであろう。インパクトの強いことばを巧みに使いながら、冬北斗と父親の凜とした姿勢をうまく重ね合わせた。

冬林檎猫になりきる喧嘩して 奥野ちあき
 先日、読んだ本に「分かる/分からないをX軸、おもしろい/おもしろくないをY軸に四つの象限を書くと、多くの詩は分からなくておもしろいという象限に存在している」とあった。俳句は、どうなのであろう。この句はどの象限に入るのだろう。いずれにしても、良質・好句と思う。洒落たフレーズが光る。
(鑑賞・佐々木宏)

やれやれ夜明けときどき鳴いて梟 め奴  小池弘子
 梟が身近にいない者はイメージで作る。題材として梟はいかにも魅力的なので佳句も多いが、「梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る/前田恵」を秀句に選んで大沢輝一氏が「真実の冬の夜」と評した。小池さんのこの句も「真実の冬の朝」としてすんなりと心に響いた。過去の句「青葉木菟まるいちいさい何もいらない」も大好き。

神を信じるしかない島よ崖しかない マブソン青眼
 昨年からフランスのマルキーズ諸島に単身移り住んだ作者。一年中気温二七度の島の暮しは無季句になると、俳句の可能性に期待していたが、病院はおろか酸素ボンベ一つ無い島でコロナウイルスに感染してしまった。今は快方に向かったと聞くが本当に辛くて怖かったという。「崖しかない」は絶唱。背景を知らずとも胸に迫る句。

アフガンで死なせし大根煮くばかり 柳生正名
 医師中村哲さんの死は衝撃的だった。その死を惜しみ業績を称える追悼句が多い中、「死なせし」との捉え方に瞠目した。失われた命の大きさに、ジャーナリストとして、日本人としての無力さを感じている。〈死にたれば人来て大根煮きはじむ〉と死を突き放したような下村槐太の句を踏まえ、「煮くばかり」と心情を込めている。
(鑑賞・芹沢愛子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春のうみ天使の羽の腐乱臭 泉陽太郎
柚子風呂に老いぼれといふ真正面 鵜川伸二
寒夜の訃とおき怒濤と思いけり 上田輝子
滲ませて言えない言えない春の月 遠藤路子
亀鳴けり方言がかわいいとかって 大池桜子
宅配で届くユーウツ春の蝶 かさいともこ
木の芽時閑職の椅子逆さまに 葛城広光
白つつじ愛想笑いを午後という 木村リュウジ
あさり飯藍色多き江戸古地図 工藤篁子
密閉密集密接句会おぼろ 黒沢遊公
花冷えや夜勤ナースの付け睫 黒済泰子
言葉遅き子ポケットから青蛙 小林ろば
チューリップ理由をきこうとして笑う 小松敦
丹念に手洗いをして雛の前 榊田澄子
疫禍の春キリコの街を見るごとし 佐々木妙子
花冷えの立方体の狡猾さ 島崎道子
蛍烏賊食みて眠れば腹光る 鈴木弥佐士
肩痩せて桜隠しのしんしんと そらのふう
白樺若葉足を止めて長まれよ たけなか華那
こんな世に放り出されて行行子 立川真理
水温む情死のように箸浮かび 谷川かつゑ
野遊びはポルトガル人の匂いがする 松﨑あきら
ウイルス百態ガバリゴブリと三鬼の忌 松本千花
言魂ことだまの人を離るる余寒かな 武藤幹
体操の受業に昔蛇を見た村 上紀子
ドンキホーテ飛沫に向かい草矢射る 森本由美子
夫とゐるは開花の誤差の如きもの 山本まさゆき
猫四匹散らばりねむる處暑の家 吉田貢(吉は土に口)
人様のいのちの重み佗助よ 渡邉照香
砂時計ひとつぶ詰まり啄木忌 渡辺のり子

『海原』No.19(2020/6/1発行)

◆No.19 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬落暉海に浮かんでいる享年 大沢輝一
沈丁花ぽろぽろ鬼の泣く話 奥山和子
回教徒冬の霧へと歩み去る 小野裕三
泥の海より車引き出す夜明けかな 金澤洋子
風評の不連続音春疾風 刈田光児
男手の無くて弥生のおろしがね 木下ようこ
春の星花文字を読むように 久保智恵
末黒野を行くちちははに影がない 小西瞬夏
掃きこぼす満天星の花街路灯 近藤守男
春の砂洗ったばかりの言葉かな 佐藤詠子
金縷梅が音立てて咲く師の墓域 篠田悦子
おぼろ夜の抽斗ひきだしアンモナイトの化石 清水茉紀
マスクして大群衆のひとりとなる 白石司子
父帰る樹齢百年梅の花 鈴木康之
初蝶来めしひの姉のかぶくかな 髙井元一
やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
人去りてあしびの花に次の雨 竹田昭江
嘴のやうなるマスク花ミモザ 田中亜美
野遊びのみんなが消えた野が消えた 椿良松
白鳥は帰りミルクの賞味期限 遠山郁好
ひなあられ光を玉にしてこぼす 中内亮玄
春の野に入口ぽろんと置いてきた ナカムラ薫
煮凍りや真顔で「どなた」と仰せらる 中村道子
春光のソナタ形式にて老女 日高玲
廃炉まで死なぬ耕しの鍬一本 船越みよ
老優のほほえみ冬のしゃぼん玉 本田ひとみ
死んだ気がしないと兜太蕗の薹 深山未遊
しあわせの形状記憶ミモザ咲く 室田洋子
ど忘れのように父いる潮干潟 望月士郎
無観客にて蝶生まれ白墨折れ 柳生正名

遠山郁好●抄出

逃げ場ない夜は蜆の水覗く 伊藤歩
誰かく影より淡くあめんぼう 伊藤淳子
冬の谷岩の凹みに水死せり 内野修
春九十歳あと十年は背負い投げ 大内冨美子
蟷螂や五郎丸さんのルーティン 金澤洋子
耕読舎こうとくしゃと名付けし納屋や吊し雛 神田一美
涅槃西風過去がだんだん丸くなる 北上正枝
青年は脱皮途中に陽炎える 金並れい子
沖見尽くして二月のきれいな顔 三枝みずほ
春の砂洗ったばかりの言葉かな 佐藤詠子
病める子よ雪女郎は語らない 下城正臣
両手で受ける遍路のお鈴波の音 鱸久子
歩いているこころが葉っぱっぽくて小春 芹沢愛子
何処までも僕の肉体冬の空 高木水志
やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
白鳥飛べば散華のよう私 田村蒲公英
日に九里けふは葛城山かつらぎ猪駆ける 樽谷寬子
苔清水見えぬ眼冷やす老博徒 遠山恵子
野兎は少年火薬庫までの距離 鳥山由貴子
にわとりもりらの真昼をたそがれて ナカムラ薫
霾ぐもりひりひりひりと手を洗う 丹生千賀
芹を摘むまもなく風がとどきます 平田薫
手鞠花ことばと息をまるく出す 北條貢司
木星の匂いね新しい布団 前田恵
鰯の頭生物兵器かもしれぬ 松本豪
陽炎それからやすみがちな本屋 三世川浩司
掌の雪のようです眠る君 森由美子
須磨恋したいやきの餡はみ出して 矢野千代子
冬ひと日心澄まねば筆を置く 山田哲夫
一番三番テーブルに水春疾風 六本木いつき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

回教徒冬の霧へと歩み去る 小野裕三
 回教徒は、今ではイスラム教徒(ムスリム)と一般的に呼ばれている中東地域の人々。独特の服装に特色がある。男女とも、胴長の上からすっぽりかぶる黒っぽい衣装で、女性は特に顔を隠すスカーフ状のものを用いる。作者の在住する国際都市ロンドンあたりでは、よく見かける民族衣装かもしれない。そんな秘密めかした姿は、冬の霧の中にまぎれこむのにふさわしい。ロンドンは霧の多い街。霧に消えていく幻想性が生まれよう。

泥の海より車引き出す夜明けかな 金澤洋子
 作者は岩手の人だから、この句は東日本大震災を回想したものかもしれない。やはり岩手の俳人照井翠に「喉奥の泥は乾かずランドセル」がある。照井句は直接遺体を詠んでいるので、その迫真性には及ばないかもしれないが、照井句にはない景としての臨場感や時間の流れも見えて、夜明けとともに浮かび上がった被災地の惨状を浮き彫りにしている。

父帰る樹齢百年梅の花 鈴木康之
 今年は兜太先生生誕百年の年に当たるので、あるいはこの句のモチーフにも、それが意識されているのかもしれない。そうだとすれば、「父帰る」は師父としての兜太師が他界から帰ってくる日が含意され、「梅の花」は「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の庭の梅ともみられよう。当然「樹齢百年」は生誕百年を祝う挨拶が込められるとみてよい。そう読めるところが面白い。

人去りてあしびの花に次の雨 竹田昭江
 馬酔木の花の群落に、一団の人々が集まっている。つい今しがたまで小雨があったが、人々の鑑賞中は雨も上がっていた。やがて人々が去ると、思い出したように次の雨が降ってきた。それは偶然のことに違いないが、馬酔木鑑賞の一団へのサービスのような、こころ憎いもてなしのようにも見える。

ひなあられ光を玉にしてこぼす 中内亮玄
 雛飾りの美々しさもさることながら、ひなあられのおこぼれにあずかる時の待ち遠しさもまた心弾むもの。作者の住む福井あたりでは、女の子をもつ家庭なら今なお大きな年中行事となっていよう。ひなあられをお供えするとき、その幾粒かがこぼれ落ちた。あっと思った瞬間、ひなあられは「光を玉にして」こぼれ落ちたという。ひなあられに家族への思いが凝縮されている。

春光のソナタ形式にて老女 日高玲
 ソナタ形式とは、器楽形式の一種で、主要主題を持ち、提示部・展開部・再現部からなり、序奏や結尾部(コーダ)を付けることもある。人生をこのようなソナタ形式に則って過ごせる老人は、人生の勝者といってよいだろう。こんな人はざらにはいないが、稀にはいる。女流俳人なら、中村汀女、星野立子、細見綾子などが挙げられる。そういう人達の人生は、老いてなお春光の中に馥郁と香るような余生を送るのである。

老優のほほえみ冬のしゃぼん玉 本田ひとみ
 老優としゃぼん玉の取り合わせといえば、やはり昭和の映画全盛時代の老優が思い浮かぶ。ましてその「ほほえみ」ともなれば、滋味溢れる老け役笠智衆あたりが典型的なものだろう。孫たちの吹くしゃぼん玉の行方を目で追いながら、頬に深い皺を刻んで微笑む。そこには、苦労多かった人生を言挙げせず、ひたすら耐え忍んで生きてきたいぶし銀のような表情がある。しゃぼん玉は、そんな定めなき余生の行方を見ているようだ。

死んだ気がしないと兜太蕗の薹 深山未遊
 兜太師は生前『私はどうも死ぬ気がしない』という著書を書き、「いのちは死なない、「他界」に移るだけ」と述べておられた。おそらく今頃他界でも「どうも死んだ気がしない」と嘯いておられよう、蕗の薹が芽を出すこの時期に。師の命日も近い頃合。師のやや甲高い塩辛声のようにも響いてくる。親しみをこめた追悼の一句だ。

しあわせの形状記憶ミモザ咲く 室田洋子
 ミモザの花は、どこか南国の楽園の花を想像させるところがある。そこは、なぜかしあわせの宿る花園で、過ぎ越し人生のどこかで花開いていたような気がするものだ。ことに亡き肉親や愛する人々との日々は何ものにも代えがたい。そんなしあわせの日々の記憶が、ミモザの花を見るたびに甦るという。この句の「形状記憶」というメカニカルな表現は、作者の中で多年牢乎として棲みついている思い出なのだろう。

無観客にて蝶生まれ白墨折れ 柳生正名
 折からのコロナ禍問題で、さまざまなイベントが無観客で開催されている。そんな世相を風刺しながら、季節の生活感を巧みに織り込んだ一句。蝶が生まれても、外出自粛の折から見る人とてない。学校の黒板に問題を書いても、休校が続いては解を書く生徒とていない。すべては無観客のまま営まれるほかはない。季節の表情の裏に広がる自然社会現象の空しさを捉えている。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

陽炎それからやすみがちな本屋 三世川浩司
 陽炎が立った。カミュの「異邦人」然り、人は一見、何の因果関係もない自然現象を理由に、しばしば自分の行為を正当化することがあるらしい。近頃の本離れの社会状況ばかりでなく、確かに陽炎自体、人を幻惑し、懶惰な気分にさせる。そして何より、この句の読み手を誘い込むような韻律にすっかり取り憑かれてしまい、そもそもこの本屋は最初から存在したのかさえ疑わしくなる。さっきまで鄙びた町の小さな本屋の主人の佇まいまではっきり見えていたはずなのに。

須磨恋したいやきの餡はみ出して 矢野千代子
 神戸淡路大震災のあと、作者はじめ関西の方々のお世話になり、海程全国大会で須磨に泊まったことがある。須磨は源氏物語や歌枕、そして様々な歴史上の地でもあり、その景と共に忘れ難い。この句、作者は全く日常的な鯛焼の餡のはみ出すことから、突然のように須磨が恋しいと言う。何の脈絡もなさそうな、遠いと思われていた二つの物の衝撃により新しい風景が見える。そのインパクトは大きい。そして今、ご自宅のある須磨を離れて暮らしておられる作者の、「須磨恋し」と衷心からの卒直な言葉に共鳴し、心が揺さぶられる。

耕読舎こうとくしゃと名付けし納屋や吊し雛 神田一美
 晴耕雨読からの命名でしょうか。職を退かれてからの悠々自適の生活が覗われる。耕読でなく耕読がいい。飄飄として。また今年も耕しの季が到来した。納屋には吊し雛が飾られている。この句では、中七ので大きく切れているが、単なる雛祭の頃の季節感だけに終わらず、実際に納屋には吊し雛が一吊り下がっていると読みたい。作者の充実した日々に艶も加わって。

手鞠花ことばと息をまるく出す 北條貢司
 旅をしていて、例えば、会津や紀州や秩父の鄙びた場所の道端や家の前の畑に、なにげなく咲いていた手鞠花は忘れられない。存在感のある大きな花なのに、取り分け主張するでもなく、然りげ無く咲く手鞠花が好きだ。純白で清らで抱えると何かもの言いたげに微かに揺れ、ふっと言葉を洩らすことがある。またその白さから生まれる陰影とその手おもりに耐えかねるような愁いから、まあるい息を吐く。そんな手鞠花が好きで、一本育てている。

蟷螂や五郎丸さんのルーティン 金澤洋子
 ラグビーの五郎丸さん、ゴールポストを前にキックするまでの独得のルーティンは、テレビを通して今も鮮明に残る。私はなんとなくフランシスコ・ザビエルの肖像画を思い浮かべていたが、それはちょっと陳腐だった。この句を見て、そうだ蟷螂だと共鳴してしまう。そのちょっとした気付きに共感し喜び合うのも俳諧の楽しみの一つ。この句の季語と切れ字の働きは大きい。それにしても、一途な者の仕草って、時に滑稽に見える。蟷螂も人もおかしな動物だなといとおしくなる。

掌の雪のようです眠る君 森由美子
 長く患われたご主人様を看取られた作者。最期は作者のてのひらで雪が解けるよう静かに永い眠りにつかれた。戻らない人と時への喪失感、物そのものに触れようとする感性が、今も切れるような悲しみと共にてのひらに残る。万感の思いで逝く人に献げる絶唱。

一番三番テーブルに水春疾風 六本木いつき
 透明であることを証明するため、無色無臭の水は透明なグラスに入れられ、そっけなく、ことんとテーブルに置かれている。ただそれだけ。一番三番とテーブルを番号で呼ぶのは、明らかに水を供する側の目線。それがこの句を一層クールにさせる。その時、まるでインスピレーションのように春の疾風が光と共にやって来た。それを眩しい程の若さと潔さでさっと切り取り、この句を提示した。これから何が始まろうとしているのか。今、一番三番のテーブルには水だけが置かれている。

今回の投句の中で、新型コロナウイルスに関する多くの句に出会った。

鰯の頭生物兵器かもしれぬ 松本豪
 ウイルスが拡がり始めた当初、感染源はどこかなどと盛んに詮索され、コウモリいやセンザンコウではないかとか、研究室からの生物兵器の流出説など、フェイクニュース擬いのものまで拡散された。鰯の頭は、節分に柊に挿す厄除けのおまじないだが、生物兵器かもしれぬと言われると反応してしまう。今は何を信じていいのか、いつ安寧は訪れるのか。

霾ぐもりひりひりひりと手を洗う 丹生千賀
 今はただ流言飛語に惑わされず、不要不急の外出を避け、作者の言うようにひりひり手を洗うことぐらいしか出来ない。ひりひり手を洗うと、折しもこの霾ぐもりの中、ひりひりこころが痛む。人類と感染症との戦いは、果てしなく続く宿命だと聞く。ウイルスとうまく共生する道を探るしかない。しかし今は、このウイルスに効く治療薬とワクチンを、ひたすら待つばかりだ。

◆金子兜太 私の一句

暗黒や関東平野に火事一つ 兜太

 師・金子兜太に、私を繋げた一句です。俳句でもと模索しているさなか、この句に出合いました。浮かんだ景は――上りの夜行列車。関東平野に差し掛かったあたり。真っ暗闇にぽっと火。「火事だ」禍々しくも美しい。不遜だが、その火に希望も見える。窓に映る顔、沈黙と葛藤と静寂。――窓に映るその男の声が聞こえたように思いました。これが俳句か、と衝撃でした。そして「私の師はこの人・金子兜太」と決めた一瞬でした。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。鱸久子

男鹿の荒波黒きは耕す男の眼 兜太

 昭和58年10月、俳句を学びたいと思い立って、八郎潟畔の句会の門を叩いた。その夜の会場は、「海程」同人の舘岡誠二さん宅。句会の室に、全紙の大きさで掲げられていたのが挙句。句の中の黒きのように、墨痕鮮やかな大字、男鹿の荒波が聴こえて来るような気がした。俳句を始めようとした日に出会ったこの句に励まされて、今日まで俳句を作って来た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。竪阿彌放心

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
インドのようで寝相のようで日向ぼこ 宇田蓋男
血痕の理由は知らず蜜柑食う 江良修
もち肌の老師おはこをひとくさり 大西健司
あかあかと在ろうよ晩年からすうり 小池弘子
烏瓜手繰ればはしゃぐユートピア 小林まさる
○山眠る身体脱ぎ捨てた色だ 佐孝石画
小春日の孤独という語愛おしむ 末安茂代
胡の国も光と影と秋の空 滝澤泰斗
残り菊あまねく世事に背を向けず 竹内一犀
この世をば婆娑羅に暮らすそぞろ寒 中内亮玄
湯豆腐や肺腑に落ちぬこと多し 長尾向季
碁敵は石見に出張り年木積む 並木邑人
落葉のわおん月光わおん山河かな 野﨑憲子
鳥渡る踏絵見て海見る人に 野田信章
老いという光のはじまり枯葉舞う 本田ひとみ
消ゆるなよ姿見抜けて来し夕霧 宮川としを
林檎拾うころんと赤い膝小僧 武藤暁美
美男葛火種のようにてのひらに 室田洋子
○触れたくてわたむしわたむし一寸さがれ 横地かをる
春は名のみのブラックチョコレート らふ亜沙弥

奥山和子 選
侘助の一輪で足る武家屋敷 石川和子
土の人で在りたし葱の真青なる 稲葉千尋
市場冬寝息を立てる魚ばかり 大沢輝一
○おにぎり屋時計屋花屋みな柚子湯 大髙宏允
タブレットの液晶寒鯉のエネルギー 尾形ゆきお
つぎはぎをしてでも生きん根深汁 川崎千鶴子
手も足も短かくなって山眠る こしのゆみこ
錆色の街からついてきた蜻蛉 芹沢愛子
白菜の翼をひとつずつ外す 月野ぽぽな
柊の花傷口がまだ濡れている 鳥山由貴子
冬の蝶ネット社会の外を這ふ 長尾向季
村中の騙されそうな秋祭り 永田タヱ子
湯冷めして家に柱の多かりし 中塚紀代子
寒茜ふーっと哀しき襖かな 本田日出登
ペニスに縞模様や椰子の陰で尿す マブソン青眼
手さぐりの会話つかんだのは海鼠 宮崎斗士
○まつげにも微音双子座流星群 茂里美絵
鮟鱇の中の宇宙も吊り下げる 柳生正名
○触れたくてわたむしわたむし一寸さがれ 横地かをる
○幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす 若森京子

佐々木宏 選
ちちははは半透明です冬未明 安藤和子
触れなば温もり冬眠しているんだ土も 宇田蓋男
○おにぎり屋時計屋花屋みな柚子湯 大髙宏允
公園デビュー兎のように子を抱いて 木村和彦
歳の順に逝くとせば俺ポインセチア 楠井収
指ぬきをはずす着水の音がして こしのゆみこ
日向ぼこ捜索願出てないので 佐々木昇一
○山眠る身体脱ぎ捨てた色だ 佐孝石画
霜柱歯並びのよい馬通る 白井重之
水晶と夜と同時の谺かな 田中亜美
クリスマス楽器はどれも闇を持ち 月野ぽぽな
猫柳君の指切りきつくって 遠山恵子
落鮎の泳ぎ出すよう塩をふる 永田タヱ子
数珠玉をやさしい石と思うかな 平田薫
冬の虹飛ばしたジョークが消え残る 堀真知子
小母さん逝く薪ストーブの青い煙 前田恵
父は父を全うしたか湯たんぽよ 三好つや子
レム睡眠ノンレム睡眠冬かもめ 茂里美絵
流星は俺を叩いた箒だね 輿儀つとむ
○幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす 若森京子

芹沢愛子 選
命名はジンベエドロノミ聞いたか鮫 石川青狼
母眠る部屋のまんなか冬の橋 伊藤歩
字足らずの句や梟の声を足す 加藤昭子
大地へともどりしこころ落葉踏む 川口裕敏
落葉の椅子へ魂と猫預けます 河原珠美
忘じるというは愉しい木の実独楽 北上正枝
泣くといふ老父ちちの愉しみ水蜜桃 木下ようこ
咀嚼して候人生の冬夕焼け 小林まさる
信じることは目をつむること冬の雷 佐孝石画
物忘れとはパッと移動の寒雀 髙橋一枝
自分史に入りきれない三・一一 船越みよ
母の死後歩幅せまくて霜が降る 松本勇二
星の木に星の匂ひの小鳥来る 水野真由美
日向ぼこ余白はわすれた声であり 三世川浩司
ゆうの鹿涙もろくて内向的 村上友子
夜焚火の影ゆれるたび迷子の目 望月士郎
○まつげにも微音双子座流星群 茂里美絵
母も寝てしずけき音や木の実降る 山口伸
春の耳より夫の耳より猫の耳 らふ亜沙弥
追憶ははなだ裁縫箱冷えて 若森京子

◆三句鑑賞

インドのようで寝相のようで日向ぼこ 宇田蓋男
 わかったようなわからぬような宇田ワールドの句。何か納得させられる句だ。インドの大きさ、寝相の小ささ、公と私、対比が実にうまい。ただ日向ぼこをしているだけなのに。あれ、自身が日向ぼこ、誰かの日向ぼこ。考えれば考えるほど作者の思うつぼ。

もち肌の老師おはこをひとくさり 大西健司
 老師が誰なのか。勝手に兜太先生と思ってしまった。「母親似でもち肌だ。」そう聞いた覚えが確かにある。「おはこ」は秩父音頭。全国大会で先生自ら皆を引き連れて踊っていた場面が鮮明に思い出される。秩父音頭の由来なども聞いた覚えもある。ひとくさりの下五もなぜか先生らしい懐かしみを覚えた。

碁敵は石見に出張り年木積む 並木邑人
 「游陣」から「敵は女房」まで。この句は奥さんへの相聞句?。年木は年季で年季を積んだ碁敵の奥さん、石見は語感からか、あるいは実際の実家なのでは。正月にかけての里帰り。家はわが所なのだから、出張る、すなわち出陣。早くわが陣へ帰参を。愛妻への一句。と考えたのは考えすぎか?
(鑑賞・大西政司)

つぎはぎをしてでも生きん根深汁 川崎千鶴子
 人智の及ばない脅威を前に人の出来る事は限られる。それでも必死に生きる術を模索する。冷静に見ればどれも後手後手で、効果のほどは今一つ。それでも何か手を打たねばと、動かずにはいられない。案外人間はしぶとい。作者の強い前向きの気持ちに根深汁の季語の斡旋が生きている。

柊の花傷口がまだ濡れている 鳥山由貴子
 身体の傷か、心の傷か、負ってからまだ日が浅いのだろう。静かに癒えるのを待つ時、若い葉は邪気を祓う棘を持つが、年月を経ると葉は丸くなる柊の芳香が届く。その香りは同じ科の金木犀より濃厚であると聞く。「疼く(ヒヒラグ)」から転じた名を持つこの花を選んだ作者、回復には少し時がかかりそうだ。

冬の蝶ネット社会の外を這ふ 長尾向季
 気が付けばがんじがらめのネット社会。快適に暮らせるという甘い言葉に取り込まれ、一絡げに網の内。個々のプライバシーを犠牲にした平和の享受。やがて自由を謳歌した蝶がぼろぼろの羽を引きずって周りを這う。中からは冷やかな目が、どちらが幸せかは神のみぞ知るか。
(鑑賞・奥山和子)

指ぬきをはずす着水の音がして こしのゆみこ
 指ぬきをはずす時、どんな音がするであろうか。私のような凡人が擬音で表現するとしたら「ぽん」とか「ぱちん」ということになろう。それが、着水の音だという。新鮮と思った。上質な感性と表現の巧みさに感心する。

父は父を全うしたか湯たんぽよ 三好つや子
 湯たんぽは、私にとって冬には欠かせない品のひとつである。つい最近まで毎晩お湯を沸かして湯たんぽに入れ、それを足元に置いて寝ていた。そんなこともあってか、この句を読んだとき、私が問いかけられたような気がしてはっとした。作者は「湯たんぽよ」と下五をおさめることによって、父親に対する心情の機微をうまく語ったと思う。

レム睡眠ノンレム睡眠冬かもめ 茂里美絵
 睡眠についてはあまり詳しくはないが、レム睡眠ノンレム睡眠は知っている。それにしても、それがどうして「冬かもめ」なのであろうか。けっこう距離は遠い。しかし、韻文には、こうした距離を補ってくれる不思議な力がある。この句は、そうした韻文の持つ力をうまく利用した句と評価したい。レム睡眠ノンレム睡眠という措辞は、冬かもめの、例えば風の中を飛ぶ姿態などを上手に言い当てているように思う。
(鑑賞・佐々木宏)

母眠る部屋のまんなか冬の橋 伊藤歩
 「部屋のまんなか」に結界のように橋がある。「冬の」、であることが、置かれている状況の厳しさを想像させる。今は束の間の自分の時間。一方山口氏の、「母も寝てしずけき音や木の実降る」は回想の句だろうか。日常の中の満ち足りた安らかな時間。しずけき音は母の寝息か、木の実降る音か。母と過ごすかけがえのない時間。

大地へともどりしこころ落葉踏む 川口裕敏
 卒寿を超えた作者ならではの悠々とした境涯句である。「落葉」が土に一番近くて温かいと教えられた。ひらがなの「こころ」もふんわかと柔らかい。河原さんの「落葉の椅子へ魂と猫預けます」にも同様の自然への信頼を感じ、ふと、みんな金子兜太師の生徒だなぁと思った。

咀嚼して候人生の冬夕焼け 小林まさる
 作者と同じ「樹の会」の上野丑之助さんの句に「九〇代は春夕焼けを見るごとし」がある。また昭和63年新人賞、森田浩一さんの「この指に夕焼けとまる二〇代」もあり、初心の私は対句のように覚えてしまい忘れられない。食事も人生も「咀嚼して」、「候」と気取って見せる矜持。小林さんにはこんな滋味深い句を「春夕焼け」が見えるまで作り続けていただきたいと、切に思った。
(鑑賞・芹沢愛子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

野仏に森のけものに春の雪 安藤久美子
草餅も亀の甲羅も輪廻かな 飯塚真弓
淋しきは一夜の契りと浮巣かな 上野有紀子
うるうると少女のようだ春ってさ 遠藤路子
お洒落し過ぎてしまう春は嫌いだ 大池桜子
近頃はどん引き多く春長ける 荻谷修
団塊と呼ばれし我ら泥蛙 かさいともこ
水鳥に囲われみんな金髪や 葛城広光
梅を待つひとつや鼻毛切ることも 木村リュウジ
少女らのジーンズに穴木の芽風 工藤篁子
野遊びや足下に眠る弾薬庫 黒済泰子
春泥の匂いテレビが来た昭和 小林ろば
巻き戻すことなきテープ春の雪 小松敦
六号館落研部室に春ともし ダークシー美紀
青き踏む視線の違ふ二人かな 高橋橙子
誕生日のからだは二月の舟 たけなか華那
クラスター抽斗にある休校日 立川真理
鳥つるむ明日は夫の三回忌 中谷冨美子
春ショール十年前の君を巻く 野口佐稔
アフガンに生るる子に「哲」水の春 平井利恵
弥生吾は螺子置きしまま生まれしか 藤川宏樹
陽炎に犬の振り向く真顔かな 増田天志
春隣二列目に干す狐面 松本千花
やがてゆくあの世とやらへ凧あげる 丸山初美
電線の果ては原子炉寒雀 山本まさゆき
ものの芽やエキゾチックは誉め言葉 山本美惠子
クレソン摘むそして北斗を示しけり 吉田和恵
芹なずな心地透明に粥すする 吉田もろび
「ひとり行け」とタゴールのうた春怒濤 渡邉照香
この距離は恋人未満春の雷 渡辺のり子

『海原』No.18(2020/5/1発行)

◆No.18 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬ぬくし現状維持でもう一年 東祐子
百万本の霜の花なりサンタマリア 石川青狼
橙や鼓動ことりと加齢して 伊藤淳子
かって火を焚く土葬の夜は猪眠る 植田郁一
霜柱踏むリセット出来ない君と 榎本愛子
久女の忌待っているより待たせたい 大池美木
アフガンの初日泣く子と泣く女 大髙洋子
また ひとり逝く友よ 数え日の途中 河西志帆
瞑りいるまなぶた真紅深雪晴 北村美都子
繭玉やまだ譲れない台所 金並れい子
祈りをり水鳥を数ふるやうに 小西瞬夏
膨らんださびしさ傾ぐ寒卵 佐藤詠子
霊峰の胸に寝過ごし雪女郎 佐藤千枝子
初鏡ちよっと自分にあっかんべえ 鱸久子
柔らかき女医の触診シクラメン 高橋明江
粗壁の罅に凍み入る影法師 瀧春樹
ポインセチアが強く脈打っている 月野ぽぽな
着ぶくれて独りで駄駄をこねている 峠谷清広
冬青そよごの実孤独が鳥の眼する 鳥山由貴子
反抗期了え反照の冬薔薇 並木邑人
石蕗の花今日がおっとりしています 平田薫
再発のかすかな疼き雪兎 平田恒子
音叉のよう鴨の水脈ひく逢瀬かな 船越みよ
北狐いつも手軽な雪つぶて 北條貢司
独身巡査蕎麦の咲く村に来た 三浦静佳
雪女同士気づいてユニクロにて 宮崎斗士
スキップの大きい礼者小さい礼者 村上友子
冬菊の夕映え母よ逝くのか 村本なずな
キリストを産みそうな夜寒卵 望月士郎
ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる

大沢輝一●抄出

カレンダーはがす今年が終る音 阿木よう子
山茶花や影ごと散っている日常 伊藤淳子
かって火を焚く土葬の夜は猪眠る 植田郁一
子の髪に触れてあしたの梅咲かす 榎本祐子
弟の声が旧かなの町よりす 大西健司
ポットから注ぐコーヒーよ横浜待春 大池美木
山の端の初茜よき弥陀の顔 小川佳芳
寒卵わぁと呻いてここにいる 奥野ちあき
力抜く事知らず冬木になっている 加藤昭子
枯れるとはこういうことか認知症 川崎益太郎
水鳥の小函のように眠りおり 川田由美子
落葉降る散歩の犬は陽に融けて 河原珠美
懐中電灯ときに悲しきもの照らす 三枝みずほ
見上げれば一人称の冬木かな 佐孝石画
寒の湖鳥には鳥の火種あり 佐藤詠子
村の墓地後ろに大きな冬夕焼 佐藤美紀江
寒さ急小鳥が鳴らす火打石 篠田悦子
雁の空駅へ向かうは帰るため 遠山郁好
木枯を真赤と思う別れ際 中塚紀代子
夕日受け白鳥はなだらかな斜面 根本菜穂子
ふっと魚影の蒼さ晩秋の一家族 野田信章
梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る 前田恵
あざ野良犬寒満月をかかげをり 松岡良子
凍蝶は峡に吹かれて母は無し 松本勇二
雪の夜は耳にじょうずに触れてくる 宮崎斗士
寒夕日鴉の声が刺さってる 三好つや子
キリストを産みそうな夜寒卵 望月士郎
古書店に木枯誰も気にしない 森武晴美
路面電車の先頭にいる大西日 山内崇弘
湖北行く今なら風花になれる 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

百万本の霜の花なりサンタマリア 石川青狼
 北海道ならではの風土感が詠みこまれている。作者の住む釧路あたりでは、雪は少ないが凜冽たる寒気が続き、地表は霜に覆われることが多い。海辺から平坦な土地が続いて、道路沿いに家々が立ち並ぶ。その間隔はゆったりとしていて、一面に霜の花が咲く。本州から来るとどこか西部劇風のエキゾチシズムを感じる。そんな霜の花園では、「サンタマリア」と祈りたいような敬虔な気配が漂うのだろう。信仰というより一つの風土賛歌だ。

かって火を焚く土葬の夜は猪眠る 植田郁一
 やはり兜太師の秩父を連想させる一句。昔、秩父地方では、土葬が一般的だった。近隣の人々が相集ってお弔いをし直会なおらいの酒宴をする。そこで温めあう絆が亡き人への供養にもなる。「火を焚く」とは、夜に入っての篝火か焚火のような集いの火なのだろう。酒宴は夜を徹して行われたのかも知れない。三々五々帰ってゆく頃には、裏山で猪も眠っているに違いない。冒頭の「かって」には、そんな古き良き時代への郷愁を滲ませている。

アフガンの初日泣く子と泣く女 大髙洋子
 アフガンの情勢は今なお不透明である上、中村医師の死がどのような形で受け継がれるのかも定かではない。そんなアフガンに新しい年が訪れても、「泣く子」や「泣く女」は絶えない。それは紛れもない現実ながら、なればこそ忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さが求められるのではないか。中村医師はそう言っている。「天共に在り」(中村哲著)の「初日」と受け止めたい。

祈りをり水鳥を数ふるやうに 小西瞬夏
 祈りにはさまざまな形があるのかもしれないが、「水鳥を数ふるやうに」祈るとは、祈りの中にいくつかの対象があって、その一つ一つにいのちの言葉をこめていこうとしているのではないだろうか。兜太師は、親しい亡き人の名を毎朝称え続けていたという。おそらく作者はその事実を意識しながら、祈りの幾つかを数え上げていたに違いない。「祈り」は水鳥のいのちを得て、生なましく立ち上がって来るのだ。

冬青そよごの実孤独が鳥の眼する 鳥山由貴子
 冬青はモチノキ科の常緑樹で、春に四弁の小花を開き、赤い球形の実を結ぶ。作者は孤独な思いを抱いているとき、なにやらその赤い実をつまんでみようかといわんばかりの鳥のまなざしになった。いやそんな気がしてきたのだ。それもこれも心の中の孤独感ゆえ。作者の孤心がなせる渇望感でもあろうか。「そよご」の語感が切ない。

石蕗の花今日がおっとりしています 平田薫
 おっとりしている今日とは、忙しい日々の中にふと訪れた余暇とその時間をゆっくり味わっている心のゆとりを指すのだろう。この場合の「石蕗の花」は、庭の片隅に咲いている地味な花。たしかな存在感というより、ひっそりとその位置を得ている姿。「おつとりしています」という擬人化した在り方が、如実に物語っている。

北狐いつも手軽な雪つぶて 北條貢司
 北狐は、北海道、南千島、サハリンに棲息する。寒い時期は餌を求めて人里近くに来ることもある。そんなとき、いつも手軽に作った雪つぶてで追い払おうとする。それは北狐への親しみを込めた挨拶のようにも受け取れる。「いつも手軽な雪つぶて」には、軽いアニミスティックな親近感が漂う。

独身巡査蕎麦の咲く村に来た 三浦静佳
 村の駐在所に、独身の巡査がやってきた。ちょうど蕎麦の花の咲く頃で久しぶりの独身巡査の到来に、村の中は少しばかり色めき立ったのだろう。蕎麦の花が満開なので、村をあげての歓迎ぶりもさこそと思われる。「蕎麦の咲く村に来た」というぶっきら棒な言い方が、いかにもひなびた村にやってきたお巡りさんの雰囲気にふさわしい。

スキップの大きい礼者小さい礼者 村上友子
 都市化と核家族化の進んだ近頃では、新年の挨拶回りの行事も少なくなったようだが、かつては近所や親類縁者を回って正月の挨拶をするという習慣があった。連れ立って挨拶に歩く一団は家族や友人が多く、その中には子供たちもいるから、お年玉やご馳走への期待でスキップをして歩く者もいよう。その中の大きな背のものは大きなスキップ、小さな背のものは小さなスキップをして歩く。その軽やかな喜びが、もろに出ている風景。

ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる
 おそらく夫婦か恋人同士のふたりなのだろう。生活の中の弾みを感じさせる師走である。「リズムのような十二月」とは、ふたりいればこその暮らしのリズムなのだ。
 この他、「初鏡ちょっと自分にあっかんべえ(鱸久子)」「反抗期了え反照の冬薔薇(並木邑人)」「音叉のよう鴨の水脈ひく逢瀬かな(船越みよ)」「雪女同士気づいてユニクロにて(宮崎斗士)」等遜色のない佳吟があった。

◆海原秀句鑑賞 大沢輝一

寒卵わぁと呻いてここにいる 奥野ちあき
 北海道は、妻と初夏の道東を定年旅行をした思い出の地。冬の北海道。あの雪の凄さ、ホワイトアウト、ささら電車等は体験したことがない。また零下何十度という極寒の生活。ダイヤモンドダストもまたしかり。掲句、希少価値となった「寒卵」という滋養が濃く滋味溢れた卵と「ここにいる」日常の一コマとの二物衝撃の句。ここに。今ここにいる―と強調する作者。自然界への畏れと恐れ、土着人としての郷土愛を描く。この技量の凄さ。

力抜く事知らず冬木になっている 加藤昭子
 朝は朝星、夜は夜星を戴いて働く日本人。町・村問わず同様だった。良く言えば、勤勉家。少しくらい休めばよいのに、でも職場に出かける。そういう時代だった昭和―を思う。推察するに作者も昭和人。そういう人々を見ていた。否、その人だったと言えよう。少し揶揄した、少し批判気味な目で書いている。

枯れるとはこういうことか認知症 川崎益太郎
 老境。それは人間の避けることが出来ない加齢と共にやってくる。また、生長の終わりごろに出てくる認知症という病気。悲惨でさえある。作者は、このことを、自然体で素直に書く。深刻な問題を書く。「こういうことか」なんと含蓄のある表現。口語なのも良い。作者と共に私も認知症にならないよう、留意したい。

懐中電灯ときに悲しきもの照らす 三枝みずほ
 昔は提灯、ローソク次に懐中電灯が夜道の必携帯品。現在では災害時に欠くことの出来ない必需品。大小あわせて二つ以上備品として各家庭にある懐中電灯。掲句は、今様の緊急時の懐中電灯であろう。地震・洪水・土砂崩れ・噴火と災害が頻繁に発生する日本災害列島「ときに悲しきもの照らす」言い得て妙。

寒さ急小鳥が鳴らす火打石 篠田悦子
 「火打石」とは懐かしい語だ。昔、白っぽい石(石英)と同じ石や鉄と打ち合わせて“ちりちり”と火花を出して遊んだことがある。きっと作者は、火打石の火花の音から“小鳥”という世界に辿りついたのでしょう。寒さが急に来た夕べの一ときの景をうまく掴まえた。「からすからす呑み込んだ小石火打石」沢野みち、こと金子皆子の句を思い出した。

梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る 前田恵
 静かな静かな冬の夜。物音ひとつしない夜。家族も皆んな寝た頃。何のためだかは不明。ゆっくりと墨を磨る作者が見える。煩わしい日常生活者。そのことから掛け離れた至福の時間なのでしょう。ひたすら墨を磨っているのだ。半紙を机上に乗せる。何を書くのであろうか。森では梟が小気味よく鳴いている。真実の冬の夜。

凍蝶は峡に吹かれて母は無し 松本勇二
 凍蝶は、凍ったようにじっとしている冬の蝶の一つと理解している。この「凍蝶」が峡の寒風に吹かれているのだ。生前の母の擬態のようでさえある。優しくて温かかった母の懐、よく叱られた思い出と記憶が作者に甦る。凍蝶への憐憫のこころと母への思い―が見えてくる。「母は無し」に母恋しの追慕感を一歩抜け出ていて、現実との葛藤が垣間見えてくる。

寒夕日鴉の声が刺さってる 三好つや子
 驚くほど大きな寒の夕日が今見える。飛ぶ鳥は鴉以外見えない。鴉しか飛ばない冬の空。日昼、街で漁りに漁る鴉。塒にでも帰るのだろう。近年渡り鳥の鴉も混ざり日本には三種類いるといわれる鴉。嫌われものの鴉。こんな鴉の声が作者には、寒夕日に刺さっているとどきっとする表現。嫌な鴉、しゃないわという鴉、どちらに見えるのだろうか。日暮と鴉、夕日の赤と鴉の黒の対比のみではない気がするのだが…。

古書店に木枯誰も気にしない 森武晴美
 掲句は、二句一章のスタイル。古書店に木枯が居ることのがポイント。古書店があっても、そこに古書店があることさえ人々は気にかけない。そんな忙しない日常の旦暮、嫌な時代になってしまったと嘆く作者。木枯が居ようが入ろうが気にしない、少しは気にして欲しいと願う。寂しい情景、夕暮感が描けている。町の片隅に灯る古書店、木枯がいる古書店―を大事にしたい風景の一つなのだ。

路面電車の先頭にいる大西日 山内崇弘
 F鉄道で電車の運転士をしていた経歴の私。暑い日の西日は酷く辛かった。掲句は、路面電車と先頭にいる西日を詩にしたもの。作者が路面電車の前にいて―大西日―と読めるが、私は強弁と言われても一句一章としてアニミズムの感じで「先頭に大西日」と読みたい。ジリジリと灼きつく西日奴と言う男がいる、そう読みたい。路面電車(機械)と大西日(自然)との攻めぎ合いと見たい。映像がよく見えてくる。

◆金子兜太 私の一句

霧に白鳥白鳥に霧というべきか 兜太
 昭和49年10月、皆子夫人と共に九州入りの折、当時三歳の長男と三人で九重レークサイドホテルで出迎え、同人になって初の出会い。ホテルの前の山下湖に白鳥三羽が悠然と遊ぶ夕景が今も目に浮かぶ。掲句は、ここでの作品。「白鳥・九重」と題した23句のなかの一句。茫漠たる大自然のなか、日銀という組織を離れた胸中は自然回帰かなど懐かしい一句。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。有村王志

確かな岸壁落葉のときは落葉のなか 兜太
 平成29年、金子先生から戴いた色紙に記された句。かすかな春の気配と共に、先生の優しい励ましが深く心に沁みた。この句は先生が日銀福島支店勤務の暮らしの中で、自己確認の心意を込めてつくられたという。どんな状況でも、淡々と受け止め、諦めず、想像力を働かせ、切り抜けて行こうと、今あらためて、この句を噛み締めている。句集『少年』(昭和30年)より。本田ひとみ

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
涅槃図に素手のわたしをすべらせる 稲葉千尋
背を向けて警官立つは余所事なり 宇田蓋男
二番手が足長蜂に刺されけり 内野修
○個人的な事です月を齧っている 榎本祐子
文化の日左折ばかりの道選ぶ 江良修
紅葉して若い会話の空続く 大西宣子
兜太師やこんこん眠り枯野まで 奥山津々子
われもこう風の慚愧の息ずかい 黍野恵
生鱩ごりりごりりと母の刻 久保智恵
虎落笛夜の瘡蓋を剥がしおり 白石司子
花梨の実兜太の豪傑笑いかな 鱸久子
○絶筆は帆影めきしか鳥渡る 田口満代子
赤チョーク黄チョーク粉塵秋了はる 田中亜美
彫刻のイサム神めくわれもこう 永田タヱ子
病葉を抱く君なら嫁がせる 並木邑人
ひまわりの四、五本西を向いている 服部修一
猫が来て地球を丸くまるくせり 舛田傜子
末枯れの故山乱行とも言えぬ 武藤鉦二
メメント・モリうすくれないの薔薇の棘 山本掌
○つるうめもどき遥か炎上の城ありて 若森京子

奥山和子 選
あんパンのへその胡麻まで菊日和 市原正直
○個人的な事です月を齧っている 榎本祐子
土へスコップ骨盤は冬木の芽 狩野康子
へその緒が寒がっている箱のなか 河西志帆
眠るため木を探しゆく十二月 こしのゆみこ
秋耕や泥まみれペニスで放尿す 佐藤稚鬼
夕凪や白拍子のよう猫がくる 芹沢愛子
しづかさや白鳥がゐて重き湖 髙井元一
月光に打撲ベルリンの壁崩壊 田中亜美
釣鐘人参後ろ手は鳥に似て 遠山郁好
若水汲む一茶ぼしゃぼしゃ粥を炊く 遠山恵子
白障子あたりいちめん明るいフェイク ナカムラ薫
島影風影火影人影秋の蛇 野﨑憲子
沼ふっと舌出したよう葛の花 平田薫
○定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
ロールキャベツはもっと煮込め雨の鵙 三浦二三子
遊ぶとき傾ぐ体や冬木の芽 水野真由美
○釣瓶落しとはワンピース脱ぐように 宮崎斗士
柘榴割れ暗峠くらがりとうげまでとばし読み 矢野千代子
図書館の人それぞれが積乱雲 山内崇弘

佐々木宏 選
スクラムを押すごと全山紅葉す 石川青狼
寒気まとって影のひとつは水の音 伊藤淳子
倦怠や沼をみにきて馬をみる 尾形ゆきお
夏の人体空を飛ぶのも仕事です 小野裕三
先生の口真似すれば木の実降る 河原珠美
狗尾草の祖母の接吻頰へ鼻へ 下城正臣
ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
鮭の声鹿の声こだます雪来るや 十河宣洋
○絶筆は帆影めきしか鳥渡る 田口満代子
素直さのいくつか梨のぶら下がる 中内亮玄
鶴来ると村は静かな箱となる 中塚紀代子
霧の巣となる父おごそかに礼す ナカムラ薫
死後のごとく気ままな旅の柿を食ぶ 日高玲
凍蝶の省略というしなやかさ 藤野武
朴落葉たった一人のお弔い 本田ひとみ
○父の余白泡立草で埋めつくす 松井麻容子
○定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
○釣瓶落しとはワンピース脱ぐように 宮崎斗士
赤といふ赤押し寄せ一面の赤 柳生正名
○つるうめもどき遥か炎上の城ありて 若森京子

芹沢愛子 選
聞き役のままの八十路や石蕗の花 伊藤雅彦
流人のように耳がさびしい曼珠沙華 榎本愛子
親鸞忌小さなパンの小さな声 大髙宏允
泡立草ほどの背丈で痩せている 大髙洋子
ここにしか生きられず臘月のもぐら 久保智恵
友が逝き拳の中で芒ゆれ 後藤岑生
初雪や昨日の続きじゃない栞 佐藤詠子
戸締りの後の独りに竈馬 篠田悦子
友死すと葡萄の種を口に忘れ 下城正臣
あの人がまた来てるよと小鳥たち 鈴木修一
狐狸来たる納屋に小さな音楽隊 十河宣洋
紛争の世界の裏に鹿眠る 高木水志
ジャンヌ・モローと青年ふたり秋桜 中條啓子
入り日受く枯葉はみんな歌を持ち 中村孝史
冬銀河瞬き毎に次の我 藤原美恵子
寒月に撥ね返されるオデコかな 堀真知子
○父の余白泡立草で埋めつくす 松井麻容子
ファーブルの帽子くしゃくしゃ秋出水 三好つや子
ホスピスへ去るひとの手の林檎の香 村本なずな
小春日和に俳句好きだと言えぬまま 六本木いつき

◆三句鑑賞

文化の日左折ばかりの道選ぶ 江良修
 こういう気分はよくわかる。「左折」はすいすいと止まることなしに進むことができる。たまにはこんな日も。まして「文化の日」。美術館にでも、いや俳人としては、吟行でも。余裕の一日なのだから。共感しきりである。憲法記念日や建国記念日ではきつすぎて、やはり「文化の日」がすとんと落ちる。

花梨の実兜太の豪傑笑いかな 鱸久子
 先生のお宅の庭に花梨の木があって、愛でて撫でている。そんな景をテレビで見たか、あるいは話で聞いたか、目に浮かんで来る。そのお庭を見たいと若森さんや江良さんと訪れたことが懐かしい。早や三回忌も過ぎた。それにしても、先生の豪傑笑いが懐かしい。花梨の実が先生の顔にも見えてくる。

ひまわりの四、五本西を向いている 服部修一
 一読、子規の鶏頭の句を下敷きにしていると思われる。四、五本では寂しい気もするが、リズムがいい。また、ひまわりは漢字で「向日葵」。東を向く奴の中に西を向いているのがいる。「西」は西方浄土であり、ひまわりの溢れる生命に対して「死」をも連想させる。即吟の体だが簡単に作句したのではないだろう。
(鑑賞・大西政司)

へその緒が寒がっている箱のなか 河西志帆
 干して、桐の箱の中に大切に収めるのはいつ頃からある風習なのか。あの世へ行くとき、それを握って行けば道に迷わないとも言われているが、自分のは何処にあるのかわからない。いつの間にか忘れられ、からからと干乾びた音をさせ、実家の箪笥に眠っているのかと思うとちょっと可笑しい。

白障子あたりいちめん明るいフェイク ナカムラ薫
 貼りたての障子。木枠に囲まれた、真白な四角い和紙の一つ一つが冬日を透かす。妙に明るいその桝群をフェイクと捉える作者の柔軟な発想が楽しい。今、地球規模で起こっているこの災害が、全てフェイクであって欲しいと願っているのは私だけではあるまい。

島影風影火影人影秋の蛇 野﨑憲子
 本体でない影の部分に焦点をあて、読み手を幽玄の舞台に誘う。日が落ちて、島の全てが闇の中に沈む頃、僅かな炎の揺らぎに、風の囁きに誘われた人々を縫うように蛇が登場する。まだ穴に入る前の冷たい体の触感が、微かに生臭さを伴って体験させられる。実体のないものに酔わせられる一句。
(鑑賞・奥山和子)

倦怠や沼をみにきて馬をみる 尾形ゆきお
 倦怠、倦怠感。ストレス社会であり、だれでもが抱える日常であろう。それはそれとして、私は「沼をみにきて馬をみる」というフレーズに魅かれた。やさしい言葉でやさしそうに書かれているが、巧みにずらしが行われている。うまいと思う。あれこれ深読みせずに、書かれている通りに楽しみたい。

先生の口真似すれば木の実降る 河原珠美
 先生の思い出は、小中高、大学を間わずたくさんある。あだ名をつけたり、仕草のまねをして喜んだものである。ここでは口真似である。どんな口調、トーンだったのであろうか。いずれにしても「木の実降る」ということであるから、心温まるほほえましい師弟関係であったのであろう。

赤といふ赤押し寄せ一面の赤 柳生正名
 深みゆく秋の移ろいであろうか。赤の繰り返しにより抽象度は高い。いま北海道では新型コロナウイルスの感染拡大が問題となっている。ウイルスは目に見えず、どこまで感染が広がっているかと考えると不安は大きい。ふと私の中で、ウイルスとこの赤が重なる。北の地は、もう一面が赤くなっているのかもしれない。
(鑑賞・佐々木宏)

戸締りの後の独りに竈馬 篠田悦子
 普通の言葉であるがままを書いただけなのに、強く心に訴えてくるのはなぜだろうか、と以前から篠田さんの句に感じていたことをこの句でも思った。自分と竈馬を、もう一人の自分が見ている。そしてしみじみと、「独り」を感じる時間が、「戸締りの後」であることの自然さ。日常と隣り合わせの言いようもない寂寥感。

友死すと葡萄の種を口に忘れ 下城正臣
 葡萄の種を口から出すのを忘れるという些細なことから、作者の茫然自失している様子と寂しさが伝わってくる。同じように友を思う句、「友が逝き拳の中で芒ゆれ/後藤岑生」は「拳」という言葉に友との思い出や無念さが込められ、喪失感が感覚的に描かれている。境涯句が多い中でも、この二句の個性に惹かれた。

あの人がまた来てるよと小鳥たち 鈴木修一
 井の頭自然文化園の飼育員さんに、「象のはな子は自分に度々会いに来る人をすべて覚えていましたよ」とお聞きしたことがある。他にライオン舎の句もあるのでここは動物園かも知れない。大きな檻の中から見物人を見ておしゃべりをしている小鳥たち。絵本のようで可愛いらしいが、「あの人」も「小鳥たち」も少し寂しい。
(鑑賞・芹沢愛子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

幻想は無限大です睦月です 飯塚真弓
戦争を私は知らない除夜の鐘 泉陽太郎
日本が端っこの地図晦日蕎麦 植朋子
ジャガイモめく夫は平和のシンボル 上野有紀子
亡き夫の鉛筆ころがす仔猫かな 遠藤路子
天気予報は雪こころ予報は吹雪 大池桜子
悔しさに罵詈雑言や霜柱 小田嶋美和子
ぐみの実がサウナの床に転がって 葛城広光
竹馬に乗りて天下を睥睨す 金子康彦
人日や文庫に糊のにおいして 木村リュウジ
銅鏡の奥に狐火ひそむらん 黒済泰子
霜柱踏む繊細すぎる君と 小林育子
冬の朝見知らぬ人の煙立つ 小松敦
枯芭蕉底ひに水の音すなり ダークシー美紀
しゃがんだら仏の座の花凍っていた たけなか華那
母知るや化粧ケースに春の嵐 立川真理
春雷や一千ボルトの動詞降る 立川瑠璃
花びら餅ほんとうは酒豪だった父 中尾よしこ
いましがた凍蝶の翅傾いた 仲村トヨ子
アフガンに凍星昇る地に祈り 野口佐稔
金柑や難しき顔たまにして 福田博之
天と地はきらり時雨に繋がれる 増田天志
蜜柑に種ふとアンシャンレジーム 松﨑あきら
万両たわわ大きな耳の虚言癖 松本千花
枯草や根っこは地を抱く息潜め 松本孜
焚火あと噂話うわさばなしの熱のこる 武藤幹
てふてふまふやながさきさかのさき 吉田貢(吉は土に口)
熊の胃のぶら下がりたる盤石よ 吉田もろび
着膨れて高齢者の新米です 渡辺厳太郎
神がかる父にこの世の大旦 渡邉照香

『海原』No.17(2020/4/1発行)

◆No.17 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

こんな世ですみません八月十五日 石川修治
恍惚の影をこぼして大根干す 市原光子
訝しむようなさびしさ冬木の芽 伊藤淳子
風に家路なし新宿は枯野なる 伊藤道郎
ところどころ箔を剥がして冬の海 榎本祐子
年下の恋人クリスマスローズかな 大池美木
凶弾に死なず荒野を水とうとう 岡崎万寿
金銀の鈍き鍵束年詰まる 小野裕三
前略も省略したる秋出水 片町節子
夢に父花柊の匂う朝川 田由美子
整列の鯛焼虚ろ憂国忌 河原珠美
指ぬきをはずす着水の音がして こしのゆみこ
寒たまご正論が座す子のメール 佐藤詠子
戦時下を巻紙みたいに話す祖父 清水茉紀
堅物も軟派も老いてラ・フランス 鈴木栄司
一人には一人の暮し冬至粥 瀬古多永
コスモスや甘えん坊の空ひらく 高木水志
ゆく道のすすきかるかや笑尉わらいじょう 田口満代子
黙祷の耳の静けさ寒卵 竹田昭江
寝釈迦めくふる里の島里神楽 寺町志津子
麦秋や旅芝居の子の声変わり 遠山恵子
柊の花傷口がまだ濡れている 鳥山由貴子
湯冷めして家に柱の多かりし 中塚紀代子
碁敵は石見に出張り年木積む 並木邑人
パソコンを起動する間の尉鶲 仁田脇一石
天上の言の葉ふはり冬すみれ 野﨑憲子
多肉植物幼児の首の汗湿り 日高玲
幾何学のほどける光冬の蜂 宮崎斗士
胡桃の実鳥のことばを溜めておる 横地かをる
幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす 若森京子

大沢輝一●抄出

冬はじめ旅の仕度は出来ている 浅生圭佑子
ほとりとは一ミリの雨に青鷺 伊藤淳子
風に家路なし新宿は枯野なる 伊藤道郎
穭田は黄に葬列は村の奥 稲葉千尋
淋しさのマントの中に転がり来 梅川寧江
風すこし少し気取りて鴨渡る 大野美代子
地吹雪の焦がされている私かな 奥野ちあき
名刺出す大白鳥の貌をして 奥山富江
遠近法近いものほど冬ざるる 刈田光児
照柿をしるべ亡妻つまよ帰って来い 木村和彦
インフルエンザ科学って淋しいよ 小泉敬紀
小春日や軽い嘘つき笑い合う 佐々木昇一
十二月八日発泡スチロール飛んだ 佐藤君子
霜柱歯並びのよい馬通る 白井重之
九州に雪降るいのち抱いて寝る 瀧春樹
枯蓮やあらましはたそがれのなか 田口満代子
穭田に不動明王立っている 竹内義聿
大都市を煌めく枯野だと思う 月野ぽぽな
手袋が落ちてる家庭裁判所 寺町志津子
十二月八日女ばかりの野良仕事 鳥井國臣
柊の花傷口がまだ濡れている 鳥山由貴子
十二月八日ただ轟音・轟音 ナカムラ薫
眩しきは土ひと川面三冬月 並木邑人
着ぶくれて朝からずっと貌がない 丹生千賀
たつた一つの影を追ひかけ枯野ゆく 野﨑憲子
数珠玉をやさしい石と思うかな 平田薫
死は背中にべったりつきて初日差し 藤野武
老いの身を蒸気機関車駈け抜けり 宮川としを
寒夕焼け色濃きところ銃身なり 森田高司
幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

こんな世ですみません八月十五日 石川修治
 昭和二十年八月十五日、日本は官民あわせて三百万人に及ぶ犠牲者を出して戦争を終結した。この決断を最終的に下したのは昭和天皇であり、天皇自ら身を捨てる覚悟で行われたことはよく知られている。その事実に多くの国民が深い感動を抱き、戦後の復興再建に力を合わせようという阿吽の呼吸が出来上がったともいわれている。あれから七十四年、たしかに戦後復興から高度成長期を経たものの、今日本の現状と未来に明るい展望を描ける人は多くない。作者自身その憂国の思いを、少しおどけ気味に自嘲しているのではないだろうか。かつての聖断の日への慙愧の思いを込めて。

ところどころ箔を剥がして冬の海 榎本祐子
 冬の海は暗く荒涼たる感じがある。ことに日本海側は、雪雲が重く垂れ込めて波も高い。作者は兵庫県の人。北の丹波地方の冬は厳しく海も暗い。丹波は戦国時代、明智光秀が数年の間統治した。優れた行政官でもあった光秀は善政を敷き、領民に慕われていたという。しかしその悲劇の生涯から、どこか哀しげな暗いイメージがある。掲句の場所は定かではないが、箔を剥がすような冬の海とは日本海側の丹波の印象か。冬の海には、ところどころ氷が張っていたのかもしれない。

年下の恋人クリスマスローズかな 大池美木
 クリスマスローズは、花の少ない冬に咲く園芸植物の一つ。クリスマスの頃、高さ三〇センチほどの茎に白やピンクの五弁の花をつける。ややうつむき加減に咲くところから、「年下の恋人」というイメージは言いえて妙。クリスマスは恋人とともに過ごしたり、友達に紹介したり、或いは新しい出会いがあったりする。それが年下の恋人ならさぞ可愛いことだろう。ピンクレディの「年下の男の子」という曲を思い出す。

前略も省略したる秋出水 片町節子
 昨年は台風の被害もあって、「秋出水」を身近に感じさせられることが多かった。被災地で暮らしている親しい人に、急ぎ安否を尋ねることがあったのだろう。心せくままに、季節の挨拶はおろか前略の書き出しすら略して、いきなり「無事ですか」と問いかける便りになった。切迫した思いをまともにぶっつけてゆく。それが便りに託した被災者への思いの丈でもある。

寒たまご正論が座す子のメール 佐藤詠子
 寒たまごは、寒中に鶏が産んだ卵。他の季節に産んだ卵より滋養が多く、貯蔵も利くので珍重される。掲句は「寒たまご」で切って、「正論が座す子のメール」と続く。遠方に住む我が子に、なにか相談事をしたのかもしれない。すると折り返しメールで返事があった。それはいかにも現代風の割り切った正論であった。そこには、我が子の成長ぶりを頼もしく思いつつも、どこか手の届かぬところで自立してしまったことへの淋しさがある。しっかりした「寒たまご」にそんな我が子を重ねてみる親心。

堅物も軟派も老いてラ・フランス 鈴木栄司
 おそらくは久しぶりに再会した旧友たちとの集いだろう。かつてはその中に、堅物もいれば軟派もいて、会えばかんかんがくがくの議論が百出したものだ。しかし八十路の坂を越えたいまは、皆柔らかい肉質のラ・フランスのように一様に老いてしまった。それは若い頃に持っていたものを失うことによってのみ生み出される老いの果実、老いの静かな香りを身につけたからではなかろうか。作者は同じ号に、「山茶花や目立たず倦まず老いゆくか」と詠んでいる。

碁敵は石見に出張り年木積む 並木邑人
 年木は新年に用いるための燃料の薪。碁敵が好敵手を尋ねて銀山で著名な石見の国、今の島根県西部石州へと出張った。そこで年越しをさせてもらったので、せめて年木など積む手伝いなどしているのではなかろうか。年明けに行う手合わせを楽しみにしながら、呉越同舟の年越しをしている。「碁敵」「石見に出張り」の語感が、年あらたまるめでたさにも響き合う。

天上の言の葉ふはり冬すみれ 野﨑憲子
 「天上の言の葉」とは、亡き兜太師の言葉なのかもしれない。せめて冬すみれのような小さな私に、言葉をかけて下さいとの願いのようにも思える。或いはかつて師からお聞きした言葉が、ふと思い出されたのかもしれない。同じ号に「てのひらをこぼるる刻よ冬すみれ」がある。かつての至福感を冬の日差しの中で味わっているような。

胡桃の実鳥のことばを溜めておる 横地かをる
 胡桃は、鳥の好物の一つ。鳥の日常には、他の生き物と同様に食べ物と鳥同士の意思疎通をはかる言葉があるに違いない。胡桃の実の生る頃は、鳥が群がって胡桃の木のまわりに集まる。だから胡桃は鳥のことばをいっぱい溜めているのだ。下五の「溜めておる」という言い方に、作者の師森下草城子氏の語調を感じて懐かしかった。

◆海原秀句鑑賞 大沢輝一

ほとりとは一ミリの雨に青鷺 伊藤淳子
 「 ほとり」とは、一体何処を指すのであろう。それは、「一ミリの雨に青鷺」を感じるようなところであろう。“一ミリの雨青鷺”ならば解り易い情景になるが、雨と書く作者。このが曲者で。句を成している要である。により読者を幽玄の世界へ引き込む力がある。言葉を詩語にする技量にいつも瞠目し羨望しきり。とにかく素晴らしい本格な詩人の一人。

穭田は黄に葬列は村の奥 稲葉千尋
穭田に不動明王立っている 竹内義聿
 一句目、稲を刈った後、その株から二度米が穫れるのではないかと思うくらい青青として穂が出る穭田。その後黄色になり、冬鳥の餌になる。折しも葬儀が村にあり、静かに進む。田仕事を終えた男(この場合絶対男)の天寿の葬列が皆に見守られて進む。二句目、不動明王とは、五大明王の一つで怒りの相を現して火炎を背にして立つ―のだが、今、作者の前に立っていると書く。この不動明王は、誰だろうか。父か母かそれとも作者自身であろうか。もしくは幻影だったろうか。穭田とマッチして、深読みさせられる。

淋しさのマントの中に転がり来 梅川寧江
 大正から昭和にかけて、ダンディーなファッションの一つとしてマントが流行り好んで着られた。防寒具のマント。胸元で止め冬の風の中を歩く。中折帽を被り、口髭を蓄え格好よかった。そんな父が大好きだった作者。さぞかし父上は狐の襟巻をしたマント姿が良く似合ったのでしょう。淋しさを「転がり来」と突き放した書き方に好感。昭和は昔。その昔が懐かしい。

十二月八日発泡スチロール飛んだ 佐藤君子
十二月八日女ばかりの野良仕事 鳥井國臣
十二月八日ただ轟音・轟音 ナカムラ薫
 十二月八日、開戦日である。この日より日本人は、不幸な戦争の道へ突入。長い長い戦争時代になった。一句目、あの“トラトラトラ”の精神は消え、一応平和なその日の日常の一コマを書く。現在では、振り向く人は少なくなった十二月八日を描いている。この平和な日常がとても大事と思う。二句目、当時の男は出征兵として戦地へ、故に男手が足りない。女は一家を守る、いわゆる銃後の戦争を書き止めている、そう読みたい。三句目、当時の敵国アメリカでは、陸続と飛ぶ轟音のみを描き、物量豊富な大国のすさまじい軍力、一種の恐怖を描き得ている。いずれも十二月八日を正面に据えた力量ある俳句作品。今は亡き兜太師の俳句理念の基盤であった反戦思想、詩精神が確実に受け継がれている。

霜柱歯並びのよい馬通る 白井重之
 昭和までは、鶏鳴で目覚め、牛で田を鋤き耕す。馬で荷を運ぶ。そんな懐かしい時代であった。それも年年少なくなり私の地域から消えてしまった家畜。そんな家族の一員であったこれら牛馬は、何処に行ってしまったのだろうか。時が移り令和の今は、何をしているのだろう。霜の降りた朝は寒い。馬も人も吐く息は白かった。

眩しきは土ひと川面三冬月 並木邑人
 掲句を一読。どこで切って読めばよいのか迷って二読目で、土、ひと、川面、三冬月、と読めて納得。眩しきは土、眩しきはひと、眩しきは川面、そしてこれら全てが眩しい三冬月なんですと書いている。そう読みたい。徹底的に連体修飾語を省略しての作品。老いた身で(失礼)自然じねんに立つ。全てが眩しく感じられる。この感覚同じ老境のひとりとして、解ります。三冬月とは、古い語だ。師走の別称であり、それが見事に結句を成している。

老いの身を蒸気機関車駈け抜けり 宮川としを
 掲句の蒸気機関車、幼児語で汽車ぽっぽ。童謡の幾つかを思い出しつい口遊んでしまった。力強く黒煙を吐き蒸気を吐いて日本中を駈け巡った頃は作者も私も若かった。今では、その勇姿を見ることは出来ない。ただ、数本のみだが観光列車として運行はされている。他に鉄道博物館に、あるいは、公園の隅っこで休んでいる蒸気機関車が見られるのみとなってしまった。惜別の感頻り。一瞬、昔に
戻っての思いが湧き上がる。“D51だっ”と一心不乱に見惚れている少年の目。きらきらさが目に浮かぶ。もしかしたら作者も“鉄ちゃん”の一人だったのではないでしょうか。作詞作曲を生業にしておられる作者ならではの感覚が素晴らしい。身を駈け抜ける、そんな情景の一句。そんな思いの一句。

幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす 若森京子
 少し温かい冬の或る日。ふっと、あらっという感じで何か聞こえる「幻聴かしら」と思いながら視線をまわす。すると庭の隅に、囁くように必死に縋りついている凍蝶がいる。暫くそれを視ている。生命の強さを見ている。すると“こんな冬に負けないで”という作者の優しさが見えてくるから不思議だ。口語の導入部「幻聴かしら」がこの句を生き生きさせる。

◆金子兜太 私の一句

東にかくも透徹の月耕す音 兜太
 句と絵の今風に言えばコラボ。左下に薄墨色の闇に月の絵。30年くらい前になろうか金子兜太・森澄雄二人展の即売会があった。新聞紙上にそのいくつかが紹介された。その新聞の切り抜きの一枚を額に嵌めた。今も壁に掛かったままだ。日暮れの早い山峡の厳しい自然。東の山の端に冷気を誘う月。急かされる山人の暮し。日本の原風景アニミズムの世界観だ。いったい季語は月か耕しか。季感は。『詩經國風』(昭和60年)より。金子斐子

じつによく泣く赤ん坊さくら五分 兜太
 以前、BS俳句王国という番組が松山から発信されていた。四月には必ず金子先生が主宰。その収録で来る途中、飛行機の中での出来事だとおっしゃっていた。が、自選自解では列車の中での句とおっしゃっている。私の思い込みだったのだろうか。この「さくら五分」は、もう先生だけのもの。「梅咲いて」と同様に誰でもが使えるものではないフレーズだと思っている。今も私の車の後部座席には左義長師とにこにこおしゃべりしている姿がある。『東国抄』(平成13年)より。山内崇弘

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

北上正枝 選

訃の電話白い夜長のはじまれり 伊藤道郎
雪迎え夫の本音に引っかかる 奥山和子
どの山も水の容れもの夜の秋 河西志帆
狐に礼そしてあなたにお訣れを 河原珠美
日溜りにふくらむ会話ねこじゃらし 北村美都子
鶉のごと地味な話題を父とかな 木下ようこ
秋夜に我折りぐせのついた手紙です 佐孝石画
妻病んで老いたる梟の私である 白井重之
千人針は未だに途中石榴割る 鱸久子
痩身の伯父の角帯木賊刈る 髙井元一
きぬかつぎ愛しからずや口の皺 高木一惠
口中に葡萄ひとつぶの残照 月野ぽぽな
ラ・フランスホロホロ鳥の重さかな 長谷川順子
からの巣の秋雲寄するばかりなり 藤野武
草いきれ生きる方便という家族 増田暁子
○晩秋は大きな耳であり迷子 宮崎斗士
生兜太こころにいます瀬戸晩秋 室田洋子
振り向いたこと互いに知らず狗尾草 望月士郎
蚊帳吊つて大和武蔵も海の底 柳生正名
蜂の巣を焼いて讃岐に発ちました 若森京子

峠谷清広 選
にぎりこぶしのおにぎり一つ敗戦日 有村王志
星月夜グラスの結露で貼る切手 石川義倫
残暑の町毀れたものが毀れたまま 井上俊一
来る人なく逝く人ばかり星の夜 植田郁一
吐息まで紫蘇を匂はせ妻揉めり 江井芳朗
夕かなかな母は私の給水所 佐藤君子
ビルの街日傘男子が擦れ違う 佐藤美紀江
つないだ手染って笑顔秋夕焼け 釈迦郡ひろみ
ふるさとは柿盗人もゆるされて 新城信子
ふる里や風はひらがな秋桜 瀬古多永
銭湯の煙突恋いしそぞろ寒 中村孝史
ラムネ玉音まで吸うて球児ちる 西美惠子
セーターの毛玉増やして老いにけり 丹羽美智子
埴輪の目今は落葉を聞いてます 前田恵
居ない猫まだ抱いている母冬へ 宮崎斗士
指紋という小さな銀河針しごと 望月士郎
祖父来たる背籠に松茸踊らせて 山岸てい子
北枕寝心地良くて星月夜 山本弥生
水底の石声上げる水の秋 横地かをる
○新月冴ゆ渚のごとく一泊す 若森京子

平田薫 選
いわし雲牧場まきばのロバは寄りたがり 伊藤淳子
蝶老いてトンと机を叩くなり 大髙洋子
小鳥来るぽかんと第二駐車場 小野裕三
ざわめきに置かれた霧の兎です 桂凜火
あきかぜやうさぎの切手貼り足して 木村和彦
台風一過雲の流れを見てばかり 小原恵子
草々のほどけて秋の蛍かな 三枝みずほ
ポプラ黄葉大きく息をする父だ 佐々木宏
ひらがなの筆よく撓う良夜かな 多田ひろ子
大瀬戸のぶおーと哭いて揺れるよ先生 谷口道子
野性かなひかりの中で靴を脱ぐ 遠山郁好
巻き癖の海図の上へ青檸檬 鳥山由貴子
青北風や山峡に鐘すきとおり 中井千鶴
毛虫横切り大蜘蛛垂れて我はゆく 永田和子
墓掘りしあと横の土 一人分 マブソン青眼
経堂の秋のしわぶき立ちあがる 宮川としを
木立ち抜ければコスモス色の内出血 村上友子
名盤にホロヴィッツの呼吸いき良夜なり 村本なずな
小惑星掠めて地球辣韭掘る 柳生正名
鯊釣りのひとりは草の上に寝て 若林卓宣

森田高司 選
ぬくめ酒古き便りを読み返す 浅生圭佑子
脳軟化鰯の干物しゃぶっている 榎本祐子
分別ごみかーるい眩暈冬到来 奥山津々子
名を持たぬ山から時雨れ始めたり 河西志帆
蛇穴に入るがごとくよ駄菓子屋へ こしのゆみこ
振り仰ぐ今宵の月は磨きたて 近藤守男
風の青空りぼんはいっぽんのひも 三枝みずほ
玉ねぎとペン胼胝笑い合う野面 下城正臣
栗拾う朝日まみれの空気なり 関田誓炎
晩秋の余った夜明け木のベンチ 高木水志
秋の蚊打つ裏切のよう淋しさよ 髙橋一枝
国境どちらのものや大稲田 竪阿彌放心
鏡の欠片つながってゆく刈田かな 丹生千賀
樹を切って十月天の父に謝す 藤盛和子
芒の穂ぽわぽわ真面目に物忘れ 間瀬ひろ子
月光に解体されるまで歩く 松井麻容子
○晩秋は大きな耳であり迷子 宮崎斗士
銀杏炒る戦死の叔父に糸でんわ 望月たけし
遠会釈して刈田出るコンバイン 山口伸
○新月冴ゆ渚のごとく一泊す 若森京子

◆三句鑑賞

千人針は未だに途中石榴割る 鱸久子
 一片の布が未だ手元にあるということは、出征しないうちに終戦になったということか。出征する兵士のために千人の女性が赤い糸でひと針ずつ千個の縫玉をつくって兵士の安泰を祈願していた日本。笑ってみえる石榴が救いですね。九十四歳の作者ならではの力作。

からの巣の秋雲寄するばかりなり 藤野武
 湧いては流れ、流れては消えてゆく秋の雲に、作者の虚しさが重なって見えて、何故か追悼句に読めてきてならない。空っぽになった巣。このフレーズに作者の埋めようのない虚しさ哀しさが感じられ心情が伝わってきた。辛いことの多い昨今同感しました。

振り向いたこと互いに知らず狗尾草 望月士郎
 若かりし頃のほのかな思い出に繋がるお相手に偶然出合った瞬間のドラマ。男性とは思えぬ繊細さとドラマ性を持っている作者の複雑な感性に、戸惑いつつもつい魅了されてしまう。狗尾草はこのドラマの全容を見ていたに違いない。
(鑑賞・北上正枝)

夕かなかな母は私の給水所 佐藤君子
 「母は私の給水所」とは新鮮でユーモアのある比喩だ。「給水所」は、「人生というマラソンにおける給水所」という意味だと思う。人生で辛いことがある度に作者はお母さんに心を支えられてなんとか頑張って乗り越えて生きてきたのだろう。頼もしく明るく、そして、水のように爽やかなお母さんなのかもしれない。

ビルの街日傘男子が擦れ違う 佐藤美紀江
 風俗画的俳句だ。日傘は女性がするものだったが、日傘をする男性も最近は増えてきたようだ。それでも、そのような男性はまだ少数だろう。ビル街で彼等が人と擦れ違う時はちょっと照れて恥ずかしそうな雰囲気がする。男性ではなく男子としたのも良いと思う。作者は「可愛い!クスクス」と楽しく眺めているみたいだ。

北枕寝心地良くて星月夜 山本弥生
 北枕は不吉である。もちろんそれは迷信なんだが、迷信だとわかっていても北枕だと落ち着かなくなる人は多い。実は、私もそうだ。しかし、山本さんは北枕なんか気にしていない。北枕で星月夜を気持ち良く寝ている。更に、こういう堂々とした性格自体も星月夜のように気持ち良く爽やかだ。私には羨ましい性格の人だ。
(鑑賞・峠谷清広)

いわし雲牧場まきばのロバは寄りたがり 伊藤淳子
 ロバといわし雲、のびやかな世界が広がる。ロバは4千年以上も前から人のそばにいたという。辛抱強く優しい。同じ匂いを持つ人間を敏感に嗅ぎわけ、そういう人へ寄るのかもしれない。人もまたこのようであろうか。「寄りたがり」が切ない。抒情を深々と包み込み、読むものを明るくひろびろとした世界に誘ってくれる。

蝶老いてトンと机を叩くなり 大髙洋子
 蝶が老いたという。さて蝶はどのくらい生きるのかと思う。2、3週間だったり1カ月、5カ月だったりもするようだ。老いたのは蝶である私、あるいは誰か近しい人だろうか。何か言いながら、考えながらトンと机を叩く。どこにでもありそうなこと。人という存在のいろいろを思わせる。ちょっとシニカルなその面白さ。

小惑星掠めて地球辣韭掘る 柳生正名
 なぜ辣韭掘るなの、と思うのだがそこがこの作者。およそ辣韭を掘ることと軌道が確認されているものだけでも7万個あるという小惑星との関係がどこにあるのか。しかも掠めるのは地球。地球と言ったって人間って言ったってそんなもんよ。泥臭くせっせと辣韭でも掘ることです。そんなふうに言っているのでしょうかね。
(鑑賞・平田薫)

脳軟化鰯の干物しゃぶっている 榎本祐子
 不思議な句だ。が、胸中が見え隠れする。柔らかくなった脳とかたくなった鰯。どちらにも共通するのは、命と時間だ。正に、漂泊する者の思いがたっぷりと込められている。「しゃぶっている」その姿は、鰯のこれまでの一生や、自分自身のこれまでの歩みの道筋を、確かめているかのごとくの気配である。また、噛んでいないことが、絶妙な余韻を醸し出している。

秋の蚊打つ裏切のよう淋しさよ 髙橋一枝
 蚊から裏切、そして内面の葛藤へと広がっている。蚊を打つことは、信義に反する行為だと気づいてしまった瞬間にやってきた淋しさ。生気が失われ、孤独のなかに自分の身が置かれた時でもある。日常は、予期せぬ出会いの連続。一瞬の心の揺れと対峙する感性が、ありのまま引き出されている句だ。

月光に解体されるまで歩く 松井麻容子
 誰にでも、何かに身を委ねたくなる時がある。自分は何者なのか、という問いかけを抱き歩みを重ねていくことは、並大抵ではない。月の光は、異次元への入口。できあがってしまった自分を原点に戻す姿がある。だからこそ「まで歩く」が、ありのままの姿を強く引き出している。
(鑑賞・森田高司)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

ひな人形捨てる男を捨てたように 有栖川蘭子
愛されし記憶まるめる浮寝鳥 飯塚真弓
うわさって爪にはさまる葱の種 井上俊子
納棺師にルージュ手渡し雪しまく 植朋子
綿虫や絵文字ばかりのメールして 大池桜子
さざんかの白い息吐く微熱かな 梶原敏子
黒インク落ちたら出来る枯野原 葛城広光
冬蜂や目と目を合わせない握手 木村リュウジ
それだけのことだったのに寒い雨 工藤篁子
令和とや何回万歳何回くしゃみ 黒沢遊公
亡母の指宙に追いしはきっと狐火 黒済泰子
悲しくて嗤う女に秋日さす 小林育子
母性愛って系統はあんぽ柿 小林ろば
雪時雨何度もさようならを言う 小松敦
中村哲アフガン照らす寒北斗 坂川花蓮
落ちてゐる手袋指を広げをり 鈴木弘子
なにに腹立て神鶏の蹴る枯葉 ダークシー美紀
横道にそれし女優や枯芙蓉 高橋橙子
独楽やがてふらついて明日が来る たけなか華那
大晦日だれのものでもないあした 立川瑠璃
遠き日の靄の中から男がゆらり 谷川かつゑ
ねこじゃらし真面目な夫につきまとう 仲村トヨ子
元日晴「自由のために」と兜太日記 野口佐稔
里神楽人きて立つる土埃 福田博之
二合研ぐ新米のあおき濁り汁 藤川宏樹
狐火や耳鳴りじんと襲い来る 保子進
晩秋の元彼にやる六文銭 松本千花
木守柿母の矜恃といふのなら 吉田和恵
道ばたの雜草にけつまづく哉 吉田貢(吉は土に口)
つめられし小指の先の寒さかな 渡邉照香

耳打ち すずき穂波

『海原』No.17(2020/4/1発行)誌面より
◆第1回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

耳打ち すずき穂波

日向ぼこして恐るべき甕夫婦とは
畳の上で死ねるってこんな福笑
無冠し寒鴉の羽繕ひ
浅春の炭都老女に淡き髭
盆梅太る風を知らない存在者
はくれんの白濁石女に史実
耕しに岩石黒聖母か現はるオリエント神話に地母神崇拝が伝はるが…
春ショール王道を来てつんのめる
落椿に金泥心中にちょっと憧れ
骨壺に耳打ちすれば蝶生る

『海原』No.16(2020/3/1発行)

『海原』No.16(2020/3/1発行)

◆No.16 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

スクラムを押すごと全山紅葉す 石川青狼
蔦かずら女系家族は不滅です 石橋いろり
大花野今泥流のびょうびょう 伊藤巌
鶴渡るどこかに忘れものあるような 伊藤淳子
老いという気儘な不自由根深汁 伊藤雅彦
貌尖り蟷螂つくづく戦中派 江井芳朗
冬薔薇ガラスに映えて余命宣告 岡崎万寿
神留守の少しずれてる鍋の蓋 加藤昭子
紅葉かつ散る不完全燃焼もある 黍野恵
ああそうか君はいないかかなかなかな 楠井収
隠沼や生絹 すずしのような私信受く 黒岡洋子
果肉薄き哀しみ赤し烏瓜 小宮豊和
長き夜や人生訓に付箋貼る 齊藤しじみ
霜の花ことばをそっとしまひけり 三枝みずほ
落人の血を継ぐ吾に石榴熟る 関田誓炎
ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
平和とは傍にいること神の旅 高木水志
隊商キャラバンの鈴のごとしよ帰り花 田口満代子
ぽつんと夕日水禍のあとの泥に柿 中村晋
寒梅や生きるに力死ぬに力 丹羽美智子
蕎麦の花兜太師の墓すぐそこです 長谷川順子
海鼠噛むラガーの耳の肉厚し 日高玲
夫婦という単位に戻り草紅葉 藤田敦子
定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
母はあれから鏡を見ない姫くるみ 宮崎斗士
まるめろのさみしい輪郭をなぞる 室田洋子
ちらほら痴呆ちらほら俳句神無月 森鈴
晩秋はおおきな器透く葉脈 茂里美絵
コスモスの真ん中にいて自由 横地かをる
つるうめもどき遥か炎上の城ありて 若森京子

大沢輝一●抄出
秋刀魚喰う美しい骨だけになる 市原正直
秋は鈴を鳴らして過ぎる旧海軍兵学校へいがっこう 伊藤幸
鰯雲たそがれは水が運ぶよ 伊藤淳子
逆光の背は嘘つきでねこじゃらし 榎本愛子
個人的な事です月を齧っている 榎本祐子
夏の人体空を飛ぶのも仕事です 小野裕三
冬の月真ん中にある迷いかな 奥村久美子
銀漢や誰も降りない駅に立つ 奥山和子
じゃんけんの拳開けば枯野あり 加藤昭子
手渡しのしずけさふっとちちろむし 川田由美子
われもこう風の慚愧の息ずかい 黍野恵
眠るため木を探しゆく十二月 こしのゆみこ
雪が降る生きていてもいいんですか 小山やす子
放射能よ氷雨はもう万華鏡 清水茉紀
ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
老獪な獣雪野の俺を視つめけり 十河宣洋
まっすぐに秋思ざさっと鴎 田口満代子
晩秋の断面抽斗引くたびに 鳥山由貴子
鶴来ると村は静かな箱となる 中塚紀代子
茶の花日和母は施設の人となる 中村ひかり
米寿とは他人がそっとささやけり 中山蒼楓
美しい瞳で降りてくるカラス 服部修一
凍蝶の省略というしなやかさ 藤野武
朴落葉たった一人のお弔い 本田ひとみ
秋の時雨なかに弔い置いてくる 松井麻容子
秩父鉄道握手のようだ柿の色 宮崎斗士
一枝さんふと蟋蟀の闇にまぎれ 村上友子
本日終電わたしのものである秋思 六本木いつき
コスモスの真ん中にいて自由 横地かをる
蓑虫に風が母の羅紗の匂い 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

スクラムを押すごと全山紅葉す 石川青狼
 ワールドラグビー人気で、一躍スクラムの肉弾相搏つ迫力が浮かび上がって来た。紅葉するシーズンともなれば、山裾から這い上がるように頂上めがけて紅葉が殺到する。その勢いを「スクラムを押すごと」と捉えた。選手たちの紅潮した肉体がぶつかりあって、渦巻く奔流のようにグラウンド上で押し合う。その力感もまた全山紅葉の勢いに重なると見たのだろう。

冬薔薇ガラスに映えて余命宣告 岡崎万寿
 ごく身近な人か、自分自身に即した余命宣告であろう。高齢化が進むにつれ、癌による死亡が増えているという。日本では死因のトップに位置する病である。また余命宣告もしばしば行われている。余命を意識して終活を早めに用意させるという狙いかもしれない。「冬薔薇」は死の予感を象徴しているのではないか。作品は個人的感想のように書かれてはいるが、むしろ現代の世相の一端を物語っているともいえよう。

神留守の少しずれてる鍋の蓋 加藤昭子
 上五は「神の留守」として、二句一章形式にしたいところ。「神の留守」で一度切って、「少しずれてる鍋の蓋」と取り合わせる形で読みたい。掲句のポイントは「少しずれてる」ところにある。つまり神の留守の間の、やや緊張感を欠いた暮らしの実像が浮き彫りにされるのだ。そこにかえって日常感のリアリティが覗く。

紅葉かつ散る不完全燃焼もある黍野恵
 紅葉の盛りに、紅葉の見事に散り行くさまを、完全燃焼した人生に喩えている。しかし中には、不完全燃焼のままの人生もあるという。現実に完全燃焼する人生は少なく、むしろ多くは不完全燃焼の燃え殻となって朽ち果てて行くものだろう。その現実を直視しつつ生きてゆく。そんな生きざまへのひそかな共感が見える。

ああそうか君はいないかかなかなかな 楠井収
 この場合の「君」とは最愛の人。おそらくは亡き妻とみておきたい。当然いるはずの人がいないという含意がある。その人を失った現実を知りながら、その事実を認めたくない自分がいる。だから、あらためてその現実を再認識させられて、愕然としているのだろう。かなかなの鳴き声は、音としての儚い感じとともに、晩夏から初秋にかけての季節感が哀愁を添える。「ああそうか」と「かなかな」の語感の響き合いが切ない。

落人の血を継ぐ吾に石榴熟る関田誓炎
 「落人」といえば、平家の落人とみるのが歴史的にも典型的例ではなかろうか。関東では、栃木県日光市の湯西川温泉がその落人の里の一例とされている。作者は秩父の人だから、あるいはその流れを汲む末裔の一人なのかもしれない。石榴は秋半ばに熟して、赤く裂けた実をつける。その姿は秋天に映えてもの哀しい。熟れた果肉の色合いは血のように肉感的で、「血を継ぐ」という表現にいかにも相応しい。

平和とは傍にいること神の旅 高木水志
 兜太師は、その晩年にいたるも、戦争を憎み平和を希求する思いを、おのれの切実な体感として強く意識しておられた。それもごく身近な日常実感として、捉えておられたように思う。作者自身は、兜太師のような戦争体験を持ち合わせてはいないのだろうが、問題意識としては同じ思いを抱いているに違いない。神の旅は、陰暦十月一日に諸国の神々が出雲に集まる日とされている。各地の神々は留守になってしまう日も、平和は傍にいることを願っている。いや、神が留守なればこそ平和が傍にいてほしいのだ。

寒梅や生きるに力死ぬに力 丹羽美智子
 作者は当年九十八歳。兜太先生の享年と同じ年である。おそらくその年ともなれば、死は生の内側に入り込み、逆に生を支えていてくれるものかもしれない。死があってこそ生の力が試される。となれば、「生きるに力」とは、生きる力として「死ぬ力」も試されていると見ているのかもしれない。同じ号に「円居には仏も交じる年の暮」がある。もう作者には、死は生の一部であり、死を超える絆が築かれているに違いない。

定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
 この句の「定住」には、兜太師のいう〈定住漂泊〉が意識されていると見てよかろう。定住しつつ、漂泊感を屹立させて生きるのである。「時折り鹿のように鳴く」とは、その漂泊感の比喩。作者は昭和三十一年生まれだから兜太師世代の定住感とは大きく異なるが、その漂泊への動因に鹿の鳴き声にも似た生きもの感覚が働くことだけは、間違いなく継承されている。同じ作者の「許されぬマスクもありて鳥渡る」の時事感覚が平衡を保つ。

 この他、「霜の花ことばをそっとしまひけり」(三枝みずほ)、「ぽつんと夕日水禍のあとの泥に柿」(中村晋)、「コスモスの真ん中にいて自由」(横地かをる)にも注目。

◆海原秀句鑑賞 大沢輝一

冬の月真ん中にある迷いかな 奥村久美子
コスモスの真ん中にいて自由 横地かをる
 「真ん中」の修辞が決め手。一句目「冬の月」という少し硬い少し淋しい月感。その真ん中にいるから迷いがある。作者の澄んだ目がここにある。人は迷う迷うから人である。迷いの中に進歩が見えてくるものだ。二句目、先ず破調なのが良い。「自由」さが息遺いている。コスモスの風の中に立つ、それも真ん中に立つと自由を感じる。素敵なメルヘンの時間。その時間が自由ですと作者。私もいつの日にかコスモスの真ん中に立ちたい。

じゃんけんの拳開けば枯野あり 加藤昭子
 じゃんけんの拳はグーで、それを開けばパーでしょう。拳を開いて何を待つのであろう。そんなことどうでもいい。私の拳を開いたら枯野ですと書くいさぎよさ。秋田の地の作者は、裏日本の枯野を見る。次に来る冬感、雪感を言いたかったのではないでしょうか。冬の次には春が来ることをお互い信じましょう。

雪が降る生きていてもいいんですか 小山やす子
 作者の呟き、独白の句。ここをどう読み切るか。読者力が試されている。私には、兜太師亡きあとのさみしいつぶやき、また、放射能汚染事故のフクシマへの鎮魂歌とも読めます。そういう風に読みたい。「雪が降る」の斡旋も憎いくらい上手い。少し甘口なモノローグ。

ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
 姉妹の移り気な遊びごころの掲句。蛍を観てはしゃぎ、金魚のような明るい姉妹。健康な初夏の一コマ。それを切り取る詩的な眼力。「ときどき」のリフレーンの使い方、使う術を心得て見事に決まり、映像もぴたり。読者を魅了する。

老獪な獣雪野の俺を視つめけり 十河宣洋
 獣が視つめている、と少しスリリングな句風に魅力。それも老獪な獣という。いつも誰かに監視されているような現代社会。ニュースの度に防犯カメラの映像が飛び出す。いつの間にそんなカメラが設置されたのであろうか。「視つめけり」より現代の不安と不気味が見える。

鶴来ると村は静かな箱となる 中塚紀代子
 村祭も終わると「鶴が来る」晩秋から初冬の季節。村は総出で雪囲いをはじめる。村力。雪囲いの中の家家は、温かく静かな箱の中のようである。能登の地に、“間垣まがき”と言われる習いがある。村中が竹や萱で風の通り道を被う。雪風、海風、砂風を防ぐ。そうして冬に耐える。

茶の花日和母は施設の人となる 中村ひかり
 「茶の花日和」という少し甘口の抒情から入る。すると、どきっとする景が現れる。一家の主婦の内面を鋭く吐露した掲句。どの家の誰しもが肉親を施設に入れることの苦渋、抵抗、日々悩む(と書くと作者の叱責がありそう)。一人の読者の勝手読みです。ある日、母の方から施設に入ってもいいよ、と言われたのでしょう。そう言われた家人の複雑な切ない心情。父母を亡くした私には、少々だが解る。「人となる」のが上手い。

朴落葉たった一人のお弔い 本田ひとみ
秋の時雨なかに弔い置いてくる 松井麻容子
 弔いとは、人の死を哀しみ、くやむことが本意。重いものと思う。掲句は、少し違った方向から弔いを書いている。一句目、一人のそれも「たった一人」のお弔いと強調する作者。朴落葉と中七以下より、乾いた“死”を連想することは容易い。幼児性を思う。その明るい幼児のお弔い、ここからお弔いごっこ感が思われる。例えば、飼っていた金魚の死を悼む子の姿。二句目「弔い置いてくる」とさりげない行為と秋の時雨の少しきらきらしている時間。湿り気のある心中のお弔い。若い女性特有の心の揺らぎ。複雑な心の中が見えるようだ。共通する点は、従来の弔い感を現代風な俳句作品にされたこと。成功。

一枝さんふと蟋蟀の闇にまぎれ 村上友子
 亡くなった小林一枝さんを偲んでの作。小林一枝さんとは、永い間、おつきあいを頂いていた私です。思い出を少々。そうあの日は、殊に荒れた冬の越前海岸。白濤が飛び北風が荒ぶ。波の花があたり一面狂ったように舞う。そんな中、ふいと一枝さんの姿が消えた。今は亡き山本仁太郎と探しに探した。すると「ここよ」と声がする。波止場のテトラポットの影より現れた。その時「このまま、波の花になってしまいたかった」と呟いた一枝さんの横顔が忘れられませんでした―閑話休題―作者は、虫すだく闇の中。蟋蟀がことに大きく鳴く。その闇に一枝さんを見られたのでしょう。お化けでもいい、今一度、一枝さんにお会いしたいと慟哭あふれた掲句です。

本日終電わたしのものである秋思 六本木いつき
 「本日終電」が新鮮かつ大胆。続いて「わたしのものである秋思」と書ける若さの自由さ。奔放さ。今様の作者の世界である。秋思を言葉として使える作者。秋のものを思う移ろいゆく人の心の揺れ感が見事に一句に溶け込んでいる。女子会、それともデート。とにかく若人だ。

◆金子兜太 私の一句

左義長や武器という武器焼いてしまえ 兜太

 私の郷里山梨と金子先生の郷里秩父は山一つ隔てた所にあり、気候も風俗も似ており、少し荒い気質などは懐かしいような恥ずかしいような気分ですぐ馴染みます。カルチャーの後など先生は秩父訛で皆とよく歓談されました。「ほんな危ねえもん武器なんか火にくべて燃やしてしめえ!」と言っている晩年の先生の顔が見えます。句集『日常』(平成21年)より。黒岡洋子

霧過ぎて白露おきてこの碑錆ぶ 兜太

 多賀城碑と題したこの句の先生の書、私の書斎に飾ってある。平成15年の壺の碑俳句大会に出席された先生から頂いた。この日、鳴子温泉に先生と同宿。お風呂で椅子を並べたので「先生背中流しましょうか」と聞いたら「オーッ」と頷かれた。先生の背中は真っ白で豊か。「先生背中白いですね」と言ったら「うん母親譲りだからな、長生きするよ」と言われた。句集未収録作品。中村孝史

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

北上正枝 選
グラジオラス以下同文の人であり 石橋いろり
歴史のもし・・・その鍵は人敗戦忌 伊藤巌
○僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
憲法九条ゆがみそうなり無月なり 宇川啓子
日傘持つ足から影の生えて坂 奥山和子
無音とは人影のこと 八月 金子斐子
寝押しする姉の静かな影が動く 河西志帆
星月夜あまた買ひ物して老ける 木下ようこ
炎昼の踏切長い長い電車 篠田悦子
フクシマの浜ハマナスと骨片 清水茉紀
○家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
言い切ってからの深海髪洗う 中内亮玄
がつんと兜太に叱られ目覚む今朝の秋 中村晋
海霧の奧ただカミのみぞゐたりけり 野﨑憲子
花ダチュラもともと雨のかけらでしょ 平田薫
虫の音や薄紙のやう眠り落つ 松岡良子
永遠の不燃ごみ核 原爆忌 三木冬子
○アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
気の抜けた麦酒みたいな句ばつかり 柳生正名
わだつみや添寝に白波立ち八月 若森京子

峠谷清広 選
向日葵のいまだ直立不動の兄 有村王志
墓碑銘は読めず夏蝶舞うばかり 石川義倫
漂着のような一日柘榴裂け 市原光子
簞笥臭い昭和の浴衣歩きだす 大髙宏允
戦前もこの声だった夕蜩 大西恵美子
○六歳のわれ八十となる終戦忌 河田光江
空蝉のなおも何かを脱ごうとす こしのゆみこ
かたつぶり信号渡る大冒険 志田すずめ
「来年も」と言えぬさよなら敬老会 鱸久子
送り火やひとはひとをゆきすぎる風 竹本仰
声にして言えない事情蝉しぐれ 中村ひかり
汗滲みる道はわたしかも知れない 堀真知子
さやさやと癒えてゆく日の糸とんぼ 本田ひとみ
雨の日もひかりはありて秋彼岸 前田典子
朱夏マラソン逃げるみたいに走る人 三浦静佳
○アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
白桃吸ふ唇にかすかな秘密 深山未遊
原爆忌白いご飯とお味噌汁 村松喜代
草虱死者焼くように日記焼き 森鈴
付録のような妻を愛して盂蘭盆会 山口伸

平田薫 選
昼月は普段着のまま梨畑 伊藤淳子
夜は月を眺めてばかり老庭師 鵜飼惠子
はつ秋の空気は鈴を振るごとし 大池美木
子かまきり一心不乱もう一日 大髙洋子
かなかなやポストに新聞入る音 大西恵美子
電球交換キュルキュルと夏の月 尾形ゆきお
明日も在るおもしろおかし照る紅葉 小川佳芳
ポケットにキャラメル覚悟なんてないよ 桂凜火
明日は咲くなでしこの花津波の地 金澤洋子
あめんぼう長い廊下の拭き掃除 上脇すみ子
○六歳のわれ八十となる終戦忌 河田光江
稲に問い花と陽に問い稲肥かな 神田一美
○あきらめたときにレモンが浮いてくる 三枝みずほ
まるで他郷夏河越えただけなのに 篠田悦子
どぶろくよ正調刈干切唄よ 鱸久子
薬差す飲む塗る三度秋暑し 鈴木康之
二重線のやれはすに似た肖像画 董振華
今朝の陽射し波ごと波の上に虹 マブソン青眼
腰伸ばし蚯蚓をめめんたろうと呼び 柳生正名
葦刈小舟うかうかと文字を刈る 若森京子

森田高司 選
蝉が鳴く日がな一日ジャムを煮る 伊地知建一
夕蜩ただ包丁を研ぐ夫 伊藤雅彦
○僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
汗みどろなる着ぐるみのがらんどう 鵜飼惠子
フクシマの無言の更地炎天下 宇川啓子
枝豆のゆあがりむすめぴんとこな 大高俊一
満月に浮かぶ兜太の笑顔かな 川嶋安起夫
夜夜の月みみたぶの曖昧な位置 小西瞬夏
○あきらめたときにレモンが浮いてくる 三枝みずほ
傾いた電信柱夏の果て 清水恵子
手術室へ大暑と点滴ひっぱって 新宅美佐子
○家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
被曝土埋めしと立札小さし蝶の丘 高木一惠
実を落とす大樹に天の眼あり 竹内一犀
あるいてるひたすらあるきみる夕焼け 永田和子
銀漢と釣り合うああと泣く幼子 藤野武
椰子の葉より美しきもの椰子の影 マブソン青眼
田水張り空に深入りする一家 武藤鉦二
列をはなれし蟻の貌して氷菓はむ 村上豪
石拾ひ当てなく投げた日焼けの子 柳ヒ文

◆三句鑑賞

僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
 筆者と全く同じ境遇にいらっしゃった作者にまず驚いた。私の記憶の中のバイクで来る僧侶は数学の先生だった。多感な少女期に僧侶の剃髪した姿は気味悪い以外の何ものでもなかった。以来数学は大っ嫌いな科目に。戦後数年たった頃の懐かしい田舎風景の一齣で懐かしい中学時代を思い出させてくれた一句。麦の秋が絶妙。

炎昼の踏切長い長い電車 篠田悦子
 この句のひとつ前のまるで他郷夏河越えただけなのにこの二句を連作として深読みしてみたらなんと作者の心象が読める気がして来た。何度も何度も読み返して一見して単純なわかり過ぎるこの句にベテラン作家の巧みな心情が描かれていることに気付いた。そこはかとなく滲み出る哀しみが巧みに描かれている。

海霧の奧ただカミのみぞゐたりけり 野﨑憲子
 海原になって第一回の全国大会は、四国香川で開催された。今年は颱風の当たり年、次から次へとやって来る颱風に、開催地の皆様の気遣いはいかばかりかと……。神様を信じたくなる気持ちがさりげなく詠まれていて伝わってきた。
(鑑賞・北上正枝)

空蝉のなおも何かを脱ごうとす こしのゆみこ
 蝉の抜け殻にそういう見方もあるのかと感心した句。蝉の抜け殻なんて普通の人にはどうでもいい物だが、作者には「なおも何かを脱ごうとす」と見えたのだ。なるほど、そう言われみたら、確かにそう見えると納得してしまう。作者は何でも無いような物にも詩を見つける人なのかもしれない。この才能がうらやましくなる。

送り火やひとはひとをゆきすぎる風 竹本仰
 盂蘭盆の最終日に行われる送り火を見ながら、作者は夜の街を歩いていると思う。死んでしまった懐かしい人達の思い出にふけりながら歩いているのだろう。他の歩いている人達を見ることも無くぼんやりと。「ひとはひとをゆきすぎる風」が良い。ちょっとニヒルで切ない気分だ。演歌の歌詞に使ってみたくなる表現だ。

さやさやと癒えてゆく日の糸とんぼ 本田ひとみ
 「さやさや」というオノマトペが良い。「さやさや」が無かったら、平凡な単なる「心身回復俳句」になっていたと思う。「さやさや」は風の中で木の葉の触れ合う音や小さな糸とんぼの微かな羽音のことだろうが、作者の気分でもあると思う。心身が少しずつゆっくりと癒えてゆく時の気分が「さやさや」で表現されている。
(鑑賞・峠谷清広)

子かまきり一心不乱もう一日 大髙洋子
 蟷螂はどこかさみしそうに思えるのだが、小さいかまきりは剽軽でかわいい。そんな小さいかまきりを飽かず眺めている、命そのものを慈しむかのように。一心不乱は子かまきりであり、見つめ続けている作者でもある。そして、もう一日というのは一日が過ぎたということであり、小さな命への、また一日という祈りでもある。

電球交換キュルキュルと夏の月 尾形ゆきお
 最近はLEDになり電球交換もあまり必要なくなってしまったが、昔はよくこんな経験をしたものだ。確かにキュルキュルだった。だがこのキュルキュルは交換の音ではなく夏の月が上がってくる時の音だ、と言っている。そこがたまらなく面白い。日常のなかの小さなできごとを体全部で楽しんでいる気持ちの弾みが心地よく伝わる。

葦刈小舟うかうかと文字を刈る 若森京子
 「あしかりおぶね」という語がすでに遥かな物語をはらんでいるようだ。〈玉江こぐあしかりを舟さしわけて誰をたれとか我は定めん読人しらず〉という後撰和歌集を思い合わせれば、なおこの句の深さに引き寄せられる。うかうかと文字を刈るのは作者それとも…。遥かなものと我・我等へのやや屈折した思いがひしひしとくる。
(鑑賞・平田薫)

あるいてるひたすらあるきみる夕焼け 永田和子
 人間は、これまでにどれだけの夕焼けを見てきたのだろうか。季節の営みであり、一日の終わりでもある夕焼け。心の中に原始から刻み込まれた歩くという行為は、生きる術であり、夕焼けと出会うことで一日の安堵が約束されてきた。「ひたすらあるきみる」に、太古からの姿と作者の暮らしを貫く意思の姿が見えてくる。

椰子の葉より美しきもの椰子の影 マブソン青眼
 葉より影の方が美しいとは。影は、ゆらめき、語りかけてくるのだろうか。日常の目の前にある事象と対峙することの肝要さを改めて教えられる。作者の周りに存在するもの、見えているものの美しさも、きっと影に凝縮されているのであろう。だから美しいと断言している。作者が身を委ねる場所や日々の空気感の広がりを、見事に浮きあがらせている。

田水張り空に深入りする一家 武藤鉦二
 声が聞こえる。いよいよだという意気込みが、句全体からあふれている。繰り返される米作りの営みに、天候の良し悪しは大きく影響する。何カ月も前から準備し今日を迎えた一家。「空に深入りする」は、この時に立ち合うことへの満足感や意欲、家族それぞれの表情までを、見事に浮かびあがらせている。
(鑑賞・森田高司)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

林檎投げ付ける女ここに四人 有栖川蘭子
抱擁ののち束ねざるコスモスよ 飯塚真弓
三面鏡にむらがる蜻蛉自我決壊 泉陽太郎
冬虹の幽けきに繰るサリンジャー 植朋子
最中を買ひて水羊羹をいただく 上野有紀子
シンプルって逆にしんどいポインセチア 大池桜子
ななかまどゆでたまごまごのまお かさいともこ
坊さんを剃るとき桔梗の香りする 葛城広光
冬残し己が墓石を下見する 木村寛伸
銀河濃し吾が骨壺の土を練る 工藤篁子
衣被夫の機嫌をうっちゃりぬ 黒済泰子
マニキュアの色数ほどの生きづらさ 小林育子
裸木となって大人になりにけり 小林翕
憂国忌生温かき肉団子 小松敦
富有柿両手にくるみ味はひぬ 小松睦美
栗剥いて月に近づく一草庵 重松俊一
菊人形師は入魂の霧を吹く 五月女文子
男待たせて零余子の蔓を引きにけり ダークシー美紀
こころは死ねるコキアの赤昇りつめ たけなか華那
雪女郎そして私は生きてきた 立川真理
紅葉かつ散る野生化していく神の辺に 立川瑠璃
虎落笛三日三晩の身のささくれ 谷川かつゑ
帰り花今日もテレビに世をそしる 野口佐稔
焼林檎ナイフの重さほどの罪 福田博之
洪水の奥羽に加護あれ寒桜 松尾信太郎
桃に雨気うしろに武器のある気配 松本千花
避難所に柿剥く人の正座して 武藤幹
妻の買ひし白き自転車冬立ちぬ 山本まさゆき
抱きて裏切るブエノスアイレス冬竝木 ●田貢(●は土に口)
母の目にぼくはとうめい春の夜 渡邉照香

QRコード すずき穂波

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
◆第1回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

QRコード すずき穂波


黒葡萄門外不出といふやうに
忘我かな白桔梗浮いてゐる
QRコード蓑虫の実体蠢く
稲穂波わたしの位相ずれにずれ
落穂拾ふわれらに高度成長期
論集に線引くがつんがつん秋耕の鍬
木守柿大和魂をまさぐる
止揚かな赤い羽根にもう無い針
冬の蠅もうお逃げなさいスマホから
着ぶくれて分かりやすい生き物に

流し台 すずき穂波

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より
◆第1回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

流し台 すずき穂波


ヒロシマの影に木耳の吸湿性
小腹すくバナナ・ボートは労働歌
全身筋肉の尺取諧謔に行くべし
落蝉存在する空間無韻
抽斗に虚ろなお金天の川
朝霧の馬にまばゆき安楽死
秋雨前線インパール作戦に葷羶くんせん
秋冷の生き死に扱ふ流し台
この国を鞣してゐたり秋の潮
邯鄲の歴史にわたし食ひ込んで

孵ろうか 望月士郎

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
◆特別作品20句

孵ろうか 
望月士郎 第1回海原新人賞受賞

春の闇そっとたまごを渡される
朧夜の卵に貼ってある「光」
鳥雲に托卵されてわが目玉
触りにくるさくらさくらと囁いて
母の視線感じて巣箱の穴一つ
抱卵期握手にやわらかな隙間
地球儀の影を楕円にくれかぬる
白日傘ひらくと軋む骨は母
ヒロシマと記す卵の内壁に
嘴が私の内から突っつくよ
月の湖卵の中に黄身二つ
良夜かな妻とまあるいもの支え
無口な奴だなゆで卵むいてやる
階段にナースの卵十三夜
ぼんやりとガーゼに滲み出す日の丸
折り鶴のたまごは四角冬青空
姉さんほらこんなところの寒卵
黄身白身かきまぜている雪女
雪だるま溶けて帽子屋にひとり
どの町のどの樹の上に孵ろうか

水を汲む 三枝みずほ

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
◆特別作品20句

水を汲む 
三枝みずほ 第1回海原新人賞受賞

初秋の花の匂いの髪を梳く
雨粒のゆっくり赤へ曼珠沙華
ひざまずき少女は秋の水を汲む
雨音の遠く花野にソルフェージュ
ねこじゃらしどちらが先に泣くだろう
秋風のカーテンひらがなのひとつひとつ
秋星と触れ合いながら子の寝言
身体しかなくて砂時計また返す
海鳴りのつづきのように手紙来る
書き出しやずっと手に持つ寒いペン
くしゃみひとつそれでも空のあかるい日
マフラー空へ広い野っぱら走らねば
枯野にころぶ四肢の感触まだありて
背骨一本ふとなまなましい枯木
並べられ体温よりもつめたい椅子
残業のブルーライト冬の水飲み干す
凍つる夜の羽音として終電車
枯木に空ここは始発駅です
手のひらを透かせばそこに冬の蝶
クレヨンはおひさまの香冬日向

留守にして 室田洋子

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
◆特別作品20句

留守にして 
室田洋子 第1回海原賞受賞

さえずりや冷たい頬に触れながら
守備範囲いつしかずれて鳥雲に
桐の花だんだん靄る夫の声
先生がふいに屈伸麦の秋
空席がふたつ並んでクレマチス
女郎蜘蛛さびしさは黄色が似合う
愛よりもAI信じて心太
晩夏光動物園の裏側に
蛍袋あなたを詰めてしまおうか
十六夜を猫に抱かれて泣いており
左手に満月きみに会いに来た
鈴虫やむかし電話交換手
たっぷりと行間あけて木の実降る
秋の蝶ちょっとこの世を留守にして
天の川向こう岸にいるとも思えず
カラフルに仏壇の中は夕焼ける
とりどりの喪服の黒よわれもこう
紅葉かつ散る物書きの末裔
まがっても曲がってもまだ鰯雲
雁渡るふり向きもせず行く人よ

白い地図帳 水野真由美

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
◆特別作品20句

白い地図帳 
水野真由美 第1回海原賞受賞

約束を言葉にさるとりいばらの実
食みをれば鹿となりけり霧の底
風と風のあはひの森の椋の実よ
萱野なり渡りし水を川と名付け
夕闇に人すぐ消えて雪野原
男老ゆ木霊らの夢に見られつつ
冬の夜の沖ゆく船の灯を数ふ
寒月光もしくは弦楽四重奏
木の椅子に去りし時雨の匂ひをり
煙突に塗る海のいろ冬木の芽
兜太亡き空の木目をなぞりゆく
寒満月円陣を組む馬たちよ
朴の木を伐る毎に冬の雲生まれ
榾明りポスター剥がれゆく駅舎
冬麗の少し焦がしてパンの耳
風花を老いたる猫と嗅ぎをりぬ
馬の背に戻らぬ父や冬銀河
水を抱く手にかさなりて枯木星
きさらぎの月のひかりに地図開く
芽吹かねばならず樹木の立ちにけり

乾き 小西瞬夏

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より
◆特別作品20句

乾き 小西瞬夏第1回海原賞受賞

厄玉の砕けてしまいたる秋思
秋蝶のかすかな脚がふれし母
風が出て囮のこえの潤むとき
風音やひとつ残りし蓮の種
黒鍵にかしずいてゐる色なき風
降りだす雪ピアス外すを見られつつ
ランボオや使いきれざる息白し
母は海坂さざんくわの開きやう
雪聖夜汲みたる水の平らかに
冬霞死者だんだんに進みつつ
手鏡の柊の花ふせようか
人形の眠る函の中 冬日
押入れに醒める少年冬の星
杏酒の泡うきあがる春の昼
春の雷いきなり夜の匂ひかな
鳥交るあふれるほどに水を汲み
剪定の音の光れる多佳子の忌
ものの芽や青年のゆび指すほうに
春寒や碧をつらぬく展翅板
耳を向けると春蝉の翅の乾き

遊ぶ流木 村上友子

『海原』No.16(2020/3/1発行)誌面より


◆自由作品18句

遊ぶ流木 村上友子

昨日まで回遊魚だった流木
オブジェとして春原宿を見て流木
ビル明かりゆらり流木となる途中
流れ流れ木ときに人知をはべらせて
時のしずくの流木とぎれてはふとエッセー
かわせみの羽根を映して流木は
あの日海底うなぞこ見ていたはずの流木
海月くらげと別れ流れ木夜を穿うがつかな
産土うぶすなのかげろうたたみこむ流木
そらへ流木立てかけておく灯船
何の指示?流木矢印のまま今日も
月を抱く流木絶対の青を求めて
鳥雲に流れ流れ木は父母の湿り
変調徐徐に流木流星の尾を捉えた
秋風と流木いつだって旅支度
流木はじけばメタセコイヤの濃い気流
いまし森も海も孵化するきらら流木
蝶なのか流木めぐりくるメタファ

『海原』No.15(2020/1/1発行)

◆No.15 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

眠れぬから寒夜の除染土と語る 有村王志
生き急ぐ音して秋のシュレッダー 安藤和子
星流る賞罰無しで生きて来し 伊藤雅彦
新老人に致死量の鰯雲 伊藤道郎
避難解除の地あかりのごとく柿たわわ 宇川啓子
颱風一過一個の空洞のよう ひと 大上恒子
捨田いま花野となりて遠見の父 加藤昭子
鬼灯や童女老いながら童女 金子斐子
精の君霧三井さんへの中帰りゆく 上脇すみ子
戦争を知らぬ年寄り夕端居 河西志帆
ドローンとぶ口車にのったふう 菊川貞夫
花鶏あとり来る少女も犬も夫の膝 北上正枝
伎芸天の耳のふくらみどつと秋 小西瞬夏
草々のほどけて秋の蛍かな 三枝みずほ
白日傘ゆくはぶりの列の向かう岸 すずき穂波
羊水に包まれている星月夜 月野ぽぽな
野性かなひかりの中で靴を脱ぐ 遠山郁好
野遊びや裸眼の夫にふと照れて 遠山恵子
巻き癖の海図の上へ青檸檬 鳥山由貴子
ミサイルのよく飛ぶ日だな夏蚊遣り 中内亮玄
雨季孕むししよ野越えの人形座 野田信章
茗荷の花悔悟のように掌の濡れて 日高玲
生はるまきに秋虹透かす三井さん 前田典子
いくつかの残像ならぶ曼珠沙華 松井麻容子
今日もコスモス八墓村を逃げ惑う 嶺岸さとし
八月とは黙って父が拾う石 宮崎斗士
妻というふっと不知火のともる 望月士郎
水滴は無くした指輪秋あざみ 諸寿子
蚊屋吊つて大和武蔵も海の底 柳生正名
黙禱とちがふ落葉ともちがふ 横山隆

伊藤淳子●抄出

春楡の洞あり初秋充満し 石川青狼
慈悲心鳥ひと声あとは風の寺 伊藤巌
母の味問うおとうとよ秋螢 伊藤幸
重心の低い遠景落し水 市原正直
乱読の軽い空間鳥渡る 市原光子
文集にひらがなあふる木の実降る 江良修
石に草に影を忘れて川蜻蛉 大沢輝一
触ってはいけないスイッチ烏瓜 奥山和子
教会の鐘を眠らせ露葎 小野裕三
蓮の実の飛んで放哉のこころ 川崎千鶴子
名を持たぬ山から時雨れ始めたり 河西志帆
狐に礼そしてあなたにお訣れを 河原珠美
固形スープゆっくり溶かす秋の虹 北上正枝
おもいあふれて青ほおずき海酸漿 黒岡洋子
秋赤城遊び心の流れ雲 小林まさる
咳止めの淡きみどりや獺祭忌 齊籐しじみ
草の花我守るため我でいる 佐藤詠子
晩秋だとおもう澎湃とおもう 白井重之
かりがねやものの遠さの胸騒ぎ 田口満代子
つくつくし次のページは捲らない 椿良松
銀杏散る蝶散る如く詫びるごとく 中内亮玄
産土を生き抜く風よ曼珠沙華 野﨑憲子
茗荷の花悔悟のように掌の濡れて 日高玲
霧の来て山わしづかむ我が胸も 藤野武
井戸って憂鬱の匂いのようだ秋 本田日出登
秋の蝶何か思い返している 本田ひとみ
今日の顔脱いで月光青く強し 松本勇二
盆帰省砂を放さぬ土踏まず 三浦静佳
蜜豆や優柔不断は生まれつき 室田洋子
夕暮のいつもの歯痛秋思とも 森鈴

◆海原秀句鑑賞 安西篤

星流る賞罰無しで生きて来し 伊藤雅彦
 定年後の第二の人生を穏やかに送っている人の境涯感が見える。そろそろ年貢の納め時かなと思って、自分の人生を振り返っているのだろう。学生時代から会社員生活を通して賞罰ともになく、人に迷惑をかけることも、かけられることもなかった。平々凡々ではあっても無事な人生を送れたのは、有難いことと言わなければなるまい。「星流る」がやや歌謡曲調だが、ふと人生をふりかえるきっかけを作ってくれたとはいえそうだ。

新老人に致死量の鰯雲 伊藤道郎
 「新老人」とは、老人になりたての人ぐらいに押えておいていいだろう。では「老人」とは何歳からを指すのだろうか。俳人大牧広氏は七十五歳説を唱えていた。老化には、個人差があるので一概には決めがたいが、一般的にはその辺が目安となろう。作者は客観的に老人になりたての人を想定している。老人は、いやおうなく死を予感する。鰯雲を致死量相当のものと見たのは、そんな死への予感に通ずるものだろう。

ドローンとぶ口車にのったふう 菊川貞夫
 個人用ばかりでなく産業用にもよく使われるようになった小型の無人飛行機ドローン。自動操縦ばかりかドローン自体が自立的に判断して動くことも可能になっているらしい。大空をわが物顔に飛び交うようになると、持ち主の意のままにならないこともありそうな気がする。便利で面白いという口車に乗って始めたのはいいが、使いこなせない現代人の悲喜劇。ドローンのとびざまにも、そんな無機質な感覚の仕掛けがあるような気がする。

草々のほどけて秋の蛍かな 三枝みずほ
 夏の間に草がびっしりと茂りあって、密生した叢となった庭の一隅。草々が固く結ぼれて、濃い茂みを作っている。やがて秋が来て、時間とともに空間にも微妙な翳りを感じるようになる。そのあるかなきかのゆらぎの中から秋の蛍がこぼれるように舞い出てきた。ゆらぎは、「草々のほどけ」るような動きによるのだろう。秋蛍はそこから生まれたとも見えたのだ。やわらかく繊細な感性の働きが見えてくる。

野遊びや裸眼の夫にふと照れて 遠山恵子
 ある春の日、久しぶりに夫とともに野遊びに出かけた。夫は眼鏡をかけているのだが、その日は好天でもあり、野の緑を目の保養にと眼鏡をはずしている。近眼の人が眼鏡をはずすと、物を確かめるように見つめないと見分けにくい。日頃見慣れている妻であっても、野遊びの中の妻は、にわかに生き生きと見えたのかもしれない。夫の妙にしげしげとした視線に、ふと照れいる妻。それも春の陽気に誘われた初々しい情感なのかもしれない。

巻き癖の海図の上へ青檸檬 鳥山由貴子
 海図は、精度を維持するために特別に作られた丈夫な紙を使用している。その紙を場所をとらずに保管するために、巻いて丸い筒に入れておく。だから海図は巻き癖がついていて、見るときは広げて四隅を押えないといけない。その文鎮代わりの重しに、青檸檬を一隅に置いたのだろう。青檸檬の香りが、どこか遠い海からの香りのように感じられる。梶井基次郎の短編『檸檬』のような不安感を忍ばせながら、海図の未知の世界が広がる。

雨季孕むししよ野越えの人形座 野田信章
 人形劇の一座が、人形や舞台道具を車に積んで、町から町へと移動してゆく。季節は梅雨も近い初夏。旅芸人にとっては、蒸し暑い日々だ。「雨季孕むしし」とは、人間にとっても人形にとっても、湿り気を帯びた肢体を抱えて、気だるげにのろのろと旅を続けている様子をいう。作者は俳句と旅の大好き人間で、どこへでも飄然と立ち現れては、寸鉄人を刺すような句と評を大声でわめいてはふっと姿を消す。あたかも漂泊の旅を続ける人形一座の興行主のようでもある。

生はるまきに秋虹透かす三井さん 前田典子
 三井さんが亡くなって、多くの追悼句が誌面に登場した。こんな人気者だったのかと改めて気づかされたものだ。生前の三井さんは、独特の個性をもった不思議な人という印象だったが、決して華やかにアッピールするタイプではなく、むしろひっそりといつも裏方に廻って影から支えてくれるような人だった。「生はるまきに秋虹透かす」とは、そんな三井さんの、柔らかで透明感のある感性を的確に捉えたものといえよう。

妻というふっと不知火のともる 望月士郎
 妻というものは、夫にとって時に不知火の火のように不思議な、謎めいた火の明滅を起こすもの。それも「ふっと」突然に起こる。ところが夫の方は、火を起こす経路が妻にとって掌を指すように明らかなものと暗に示唆している。となれば所詮夫は妻に対して勝ち目はない。とはいえそんな夫婦のありようこそが、夫婦円満の秘訣ともいえる。掲句はそんな予定調和の結論を導かずに、その過程のスリリングな場面を映像化してみせたのだ。

◆海原秀句鑑賞 伊藤淳子

春楡の洞あり初秋充満し 石川青狼
 春楡は大木が多く、ごつごつした幹に、いかにも年輪を感じさせる洞を抱えている。その情景だけを描写して季節の移ろいを感じさせる一句である。洞に初秋が満ちている、というこの季節感は、秋が短い北海道の澄んだ空気と、光が良く語られている。春楡の春は、季節とは関係ないが、それでも文字として一句の中に生かされていて、春から夏を過ぎて秋へとの自然の移ろいがスケール大きく充ちている。

重心の低い遠景落し水 市原正直
 実りの秋である。稲を刈る前に流す田の水音は、秋もいよいよ深まったことを感じさせる。どこまでも広がっていく稲田の風景を、実った稲穂の重たさをして、重心が低いと感受したのであろう。重心という身体のバランス感覚で、遠景を表した作者の、自然を感じる目、その確かさを思う。稲刈りがいよいよ近くなった頃、田から引いてゆく水音は、秋の季節の終わりを告げているのだ。農家の方々の収穫の時が訪れている。

乱読の軽い空間鳥渡る 市原光子
 およそ、学者、文筆家などを除いて、普通は好き好きに読書に親しんでいると思う。あれこれ本を読んでいるときに感じるふとした手応えや深読みの嬉しさなど、いろいろ乱読の楽しみ方があり、自分ひとりの喜びでもある。そのさまざまな合間の時間を軽い空間と感受したのであろう。読書にはぴったりの鳥渡る季節である。秋の澄んだ空気が感じられ、渡ってくる鳥影が見えるようだ。

石に草に影を忘れて川蜻蛉 大沢輝一
 川蜻蛉は美しい種類が多いというが、一般的にはおはぐろとんぼであろうか。河原などを飛び交っている風情は、夏もそろそろ盛りを過ぎたことを感じさせる。あのどことなく弱々しい飛び方で、日陰を好んで飛んでいる様子を、影を忘れてと表現したのであろう。石に草に少し飛んではちょっと止まっている様子は、ひそやかであるが、確かな生命力が感じられる。

狐に礼そしてあなたにお訣れを 河原珠美
 『狐に礼』とは昨年七月に亡くなった三井絹枝さんの句集名である。『狐に礼』の命名には私も相談に与っていたのでそれからの歳月を思うばかりである。訣れは不意に訪れて悲しさや、淋しさや言葉に言い表せないが、「あなたにお訣れを」という柔らかい言い回しが作者の個性をよく表している。あたたかい言葉を書ける人である。哀悼の滲む揚句の他にも「コンビニはかつて小鳥屋晩夏光」「台風一過セキレイの速歩き」など、いずれも日常の景色を書いて素敵だ。

固形スープゆっくり溶かす秋の虹 北上正枝
 この日常感は主婦ならではと思わされる一句である。少し前までは、普通にスープをとるのは実に手間のかかることであった。きれいに捌いた鶏の殻。そこへセロリ、パセリなど香味野菜を入れ、時間をかけてことこと煮出すのである。しかし今は固形スープの素を溶かしただけで、簡単にスープが出来上がる。このキューブの溶けゆく時間、そのゆっくりの様子、少しはかない時間を書きとめた。その配合に淡く消えてゆく秋の虹が実にいい。

かりがねやものの遠さの胸騒ぎ 田口満代子
 何か心配事など、こころ穏やかでない予感を、ものの遠さの中に感じる作者である。このものの遠さという少し抽象的な言い方は、読み手それぞれの距離感覚にかかっていて、視覚を感覚的に捉えているのであろう。その遠さはまた、時間をありありと感じさせるので、ある種の不安だったり、心配事だったりするのであろうか。雁の渡る季節である。冬が近づいて何か落ち着かない気持ちと、雁の声との配合が見事だ。

霧の来て山わしづかむ我が胸も 藤野武
 霧が湧いてきてみるみる山を覆い尽くし、あたり一面真っ白になる様子を「山わしづかむ」と表現した。この荒々しい一語でスケールの大きな景色を見事に作者のものにしている。それは、山国の人でなければ、実感できない、山への愛着に他ならない。そして「我が胸も」と表現したこの硬質の叙情に朝な夕な山影と共に暮らしている作者のシルエットが見えるようだ。我が胸は常に何かを考え、何かを思い何かを感じているのであろう。その胸にも霧が来ているのだ。

今日の顔脱いで月光青く強し 松本勇二
 今日の顔とはどんな顔であろう。一日働いた顔、充実している顔、少し疲れた顔。あるいは嬉しかったり、苦しかったり、さまざまな喜怒哀楽の中での一日であったのであろう。その一日が終わったのだ。その終わったことを脱ぐと表現した。このインパクトのあるフレーズで、一句に強い、深い手応えを感じさせている。月の光が煌々と照っている様子を青くと表現し、そして強くと実感したのである。この力強い表現は、また明日からの充実した生活を思わせている。

◆金子兜太 私の一句

死にし骨は海に捨つべし沢庵嚙む 兜太

 この句は私が海程新人賞を頂いた時と言いたいが、それからだいぶ年月が経ってから頂いた「色紙」に記された句である。その時から、忘れられない一句になっている。何故この句なのか、それは私に対する兜太先生の励ましであると思った。どちらかというと、中だるみでサボリ気味の私への「もっと死ぬ覚悟でやれ」という一句である。そして今もその思いは変わらない。句集『少年』(昭和30年)より。稲葉千尋

母の歯か椿の下の霜柱 兜太

 赤い椿の下の力強く土を持ち上げる霜柱。おそらくは山国の、ザクザクとした霜柱を「母の歯か」と気づくその感覚の鋭さ、新鮮さは私の思う金子先生そのものである。佳き母はこの自然の中のどこにでも居られる。母と子の関係の充分な満足感が伝わる。美しく大きな句と思う。私事だが二週間前母を亡くした。広げられたお骨の中から「これは歯ですね」と教えられ、初めて具体的に泣けた。句集『日常』(平成21年)より。木下ようこ

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

北上正枝 選
歳月やためらい傷のよう八月 安藤和子
髪撫でることも悔恨カーネーション 石川青狼
子猿ゐる青葉若葉の揺りかごに 内野修
茅の輪くぐるギリシャの空を想いけり 大髙宏允
疲弊の吾を放り上げたし天の川 大西恵美子
オムライス一口あげるから緑雨 奥山和子
向日葵に攻められ音楽室は空っぽ 小野裕三
水母水母黒くてらてらの空母 黒岡洋子
少しずつ尿瓶に銀河紛れ込む 齋藤一湖
○聞き役の母に首振る扇風機 齊藤しじみ
心くだけばこころ渇いてゆく朧 芹沢愛子
○雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
すいーと来てわたしに止まれ糸蜻蛉 野原瑤子
○鬼灯市二十才はたちであった妻とはぐれ 日高玲
父さんの輪郭の濃し夏木立 松井麻容子
虚構から鎌首もたげ烏蛇 松本勇二
花筵みんな昭和の四角い名 三浦静佳
草笛や一人旅とは不思議な箱 宮崎斗士
梅雨の月卑弥呼の不眠の褥かな 村本なずな
退屈しそうでしない青水無月 茂里美絵

峠谷清広 選
夏木立軍服脱げない兄のいる 有村王志
米寿にも初恋はあるすべりひゆ 安藤和子
汗みどろの発光体はバス・ルームへ 石橋いろり
廃駅は夕焼の焦げ痕ですよ 伊藤道郎
私も調味料ですサングラス 奥野ちあき
短夜のファスナーが噛む二人の距離 黍野恵
少女ひたすら夏空に試されて 小西瞬夏
○聞き役の母に首振る扇風機 齊藤しじみ
幸せも時には淋し風鈴の音 新城信子
さうめんを囲めばちやんと家族かな すずき穂波
包丁を噛みて離さぬ南瓜かな 瀬古多永
ふきのとうふたりぐらしのやさしい箱 芹沢愛子
江戸団扇写楽のあごが風を生む 新田幸子
梅雨寒や君いるだけで嬉しかった 藤野武
柿の花壊れたピアノのごと望郷 増田暁子
家族というシナリオのまま新茶汲む 宮崎斗士
見えていて見えない息子昼花火 三好つや子
余生にも宿題があり梅漬ける 武藤暁美
枇杷の木よ母がだんだん錆びてゆく 室田洋子
五月闇作業のように食事する 森武晴美

平田薫 選
シャツを干す両脇紋白蝶である 石川青狼
浮葉片寄るかの文体のやわらか 伊藤淳子
蓮開く小さな音は風のはじまり 井上俊一
水無月やぷかぷか膝に水溜めて 榎本祐子
分校に蝿叩きあり備品です 大沢輝一
わが海に網降す日よ花ざくろ 大髙宏允
昼寝たっぷり夜はたっぷり河馬の夢 柏原喜久恵
朴咲けり裏庭の象帰るらし 木下ようこ
バッタになる肘も拳も敷きこんで 久保智恵
一粒の雨より軽き夏の蝶 近藤亜沙美
被災地の短かき夏に石を積む 舘林史蝶
ポインセチアぎりぎり愛と呼べるもの 遠山恵子
まったらしのスニーカー水蜜見っけ 中井千鶴
見上げれば青の染み込む氣比松原 中内亮玄
敗戦忌父の解説負けたのみ 中神祐正
守宮来て薄桃色の口開く 中條啓子
田植機と蛙のオセロ寝て待とう 中野佑海
そやな千代紙折つて鶴飛ばそ 野﨑憲子
○鬼灯市二十才はたちであった妻とはぐれ 日高玲
筋肉寝て筋肉立ちて春めくよ 北條貢司

森田高司 選
全身のまるで黴です偽善とは 綾田節子
驟雨とは肉体昏き草いきれ 伊藤淳子
緑陰の深みに嵌る介護かな 上野昭子
炎天に本音さらして迷子です 宇川啓子
梅雨いとど亡き父いつも縁側より 江井芳朗
麦秋一枚吾が日常の隣り 金子斐子
風鈴の励ますように偶に鳴る 上脇すみ子
縄文の文字描きつつ飛ぶ蛍 川崎益太郎
弔いや春雨はけもののにおい 清水茉紀
擬宝珠咲く地主のように石のすそから 鈴木玲子
まだ星の匂いの残る草を引く 月野ぽぽな
木に雨の降る日は誰とかくれんぼ 遠山郁好
○雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
誰彼に見せたる蛍死して朝 中神祐正
海を見て朝をはじめる合歓の花 ナカムラ薫
ひなたぼこ深みにはまりニルヴァーナ 野口思づゑ
軽トラに泥つきゴボウのごと眠る 藤田敦子
荒梅雨や骨の名いくつ言へますか 前田典子
ナメクジの真面目に舐めて行きにけり 横山隆
蚊帳吊し人の匂いの青い遺書 若森京子

◆三句鑑賞

髪撫でることも悔恨カーネーション 石川青狼
 カーネーションという季語の斡旋で作者の中の亡き母や亡き妻の在りし日の思い出が感じられる。悔やんでも悔やみきれない後悔の念は誰しもの思いに通じるものがある。作者の哀しみが私自身の経験と重なり合って切ないくらい伝わって心に沁みた。

雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
 二句一章の句に音と味を盛り込んだ美味しそうな句。感覚が効いていて愉しい。桑の実ジャムは軽井沢などの大きなスーパーに期間限定で置いてあるようだ。雨垂れを言葉のリズムに喩えて濃紫のジャムをたっぷりと味わう。ジャムはもとよりわたし好みの句とともに何ともローカルな幸せなひとときか。

退屈 しそうでしない青水無月 茂里美絵
 俳句十七音の上五のあとひとマス明けるという技法はあちこちで見かけるし失敗例も多々あると思う。効果的に使われないと何とも陳腐なものになりかねない。この句の場合、退屈の後の空間が何とも絶妙で読み手に様々な想像力を駆り立ててくれる。季語の斡旋の巧みさかも知れない。作者の幸せな一日が始まりそうで。
(鑑賞・北上正枝)

私も調味料ですサングラス 奥野ちあき
 自分が調味料とは新鮮で面白い比喩表現だから採った。ただし、この調味料という比喩の解釈は難しい。サングラスだから季節は夏だ。夏は街の匂いが濃くなる季節。調味料とは匂いのことではないかと解釈した。作者の塩っぱい汗の匂いかもしれない、あるいは甘い香水の匂いかもしれない。いろいろと想像してしまう楽しい句。

幸せも時には淋し風鈴の音 新城信子
 平凡な句に見えるかもしれないが、「幸せも時には淋し」は人間心理の複雑さを示している表現だと思う。幸せなのは良いことだろう。しかし、幸せが続くと退屈で淋しくなってしまうのも本当だ。人間というのは面倒くさい生き物だ。普通なら爽やかな夏の風景として使われる風鈴だが、この句では淋しい金属音として聞こえる。

梅雨寒や君いるだけで嬉しかった 藤野武
 三井さんと句会でよく一緒になった。彼女とお喋りするのが楽しみだった。彼女とお喋りすると心が暖かくなったものだ。彼女はいわゆる「癒し系」の人だった。「君いるだけで嬉しかった」は私も同じ気持ちだ。しかし、彼女はもういない。もっともっとお喋りしたかった。残念だ。梅雨寒は作者の淋しい気持ちだろう。
(鑑賞・峠谷清広)

蓮開く小さな音は風のはじまり 井上俊一
 風の強い夜、風の終わる音を聞きたいと思ったがいつしか寝入ってしまい、翌朝残念に思ったことがある。作者は風の始まりを聴き留めている。蓮の花のひらく小さな音がそれだと。人の暮らしのまわりにあるものに、自然を宇宙を受け取る感性。それは暮らしの中にある事象一つひとつへの誠実な向き合い方でもあるのだろう。

朴咲けり裏庭の象帰るらし 木下ようこ
 私は雉鳩が鳴くと、ああ父が来ていると思う。作者もまた朴の花が咲くのを見て、裏庭に象がいると思う。それは掛替えのない人であろう。象を見るのではなく全身で感じ取っているのだ。そして「帰るらし」と、そのことを受け入れている。故人へ寄せる思いが深いところまで迫ってくる追悼句。人への眼差しでもあるだろう。

鬼灯市二十才はたちであった妻とはぐれ 日高玲
 人が物語を好むのは、果たせなかった思いをその中に読み取りたいからかもしれない。これは夫恋の物語。自分を置いて逝ってしまった夫への懐かしさを書いているようにも読める。鬼灯市の人混みの中ではぐれたのは今の私ではなくまだ二十才だった頃の私でしょ、しょうがない人ねえ、と。取り戻すことのできない時間がある。
(鑑賞・平田薫)

梅雨いとど亡き父いつも縁側より 江井芳朗
 改めて自分らしさは、日常の積み重ねであることを教えられる。長雨の中で、ふと目が行ってしまう縁側。父との暮しの声もきっと聞こえていることだろう。だからこそ「いつも」が素敵だ。家族は、時間を超えて記憶の中で成長していくものだと予感させられる句だ。

ひなたぼこ深みにはまりニルヴァーナ 野口思づゑ
 うらやましいなと引き込まれた。ひなたぼこに、少しずつ身を委ねていく様がはっきりと見えてくる。宇宙からの光を浴びてゆったりと浮遊し始める自分自身と対面することは至福の時でもあろう。「はまり」が素敵だ。そんな至福の相方が、ロックバンドのニルヴァーナとは驚愕であり、原点なのかと勝手に想像してしまう句だ。

軽トラに泥つきゴボウのごと眠る 藤田敦子
 育てることは、命と向き合うこと。わがままは通用しない。軽トラの泥からは、一日の仕事を終えた息遣いが凝縮され光っている。関わる者や道具、大地や天候それらがぶつかり補完し合う中で、やるべきことをやりとげた充実感と明日への願いが、込められた姿がゴボウであろう。やっぱりついた泥は、生きている。素敵な句だ。
(鑑賞・森田高司)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

赤蜻蛉たしかに滅びの光かな 有栖川蘭子
堪忍や熾烈に抛る曼珠沙華 飯塚真弓
おとこがまだ何かのために死ねた夏 泉陽太郎
黄の絵具使い果して夏逝けり 上田輝子
緑蔭に投げキッスのごと風立てり 上野有紀子
きれぎれの喧騒か声か渋谷秋色 大池桜子
病院にあかんべえする暮の秋 大山賢太
気楽は寂しい冬瓜煮転がす 荻谷修
腰の曲らぬ百歳を疎む秋 梶原敏子
苺汁鎖かたびらを動かす ぽ 葛城広光
大花野長い鉛筆持っていく 木村リュウジ
栗ごはん隣は一家離散とや 黒済泰子
銀杏散る何者でもないわたくしへ 小林育子
ペルソナの手を引かれゆく夜店かな 小松敦
日まわりの影蘇る爆心地 重松俊一
新月のめぐり来る時熱を出す ダークシー美紀
ぼさっと懐こい曼珠沙華の間隔 たけなか華那
名の川のいくつが壊れ藤村忌 立川真理
何すべく事なく病めり冬の月 立川瑠璃
毛穴からオキシトシンや菊人形 谷川かつゑ
穴惑う老いのあまたやキャッシュレス 野口佐稔
台風や土足禁止の避難場所 福田博之
廃仏毀釈乗り越えた塔秋の 空保子進
流れ星アンモナイトをなぞる指 増田天志
怪しげな父持つ娘穴まどい 松﨑あきら
他界とは秋夕焼のつづらおり 松本千花
四本のウオッカ買ひて冬構へ 武藤幹
照紅葉ときおり空を挑発す 森本由美子
天高しナイフ刺すごと投函す 山本まさゆき
落ち胡桃少年の翳を標とし 吉田和恵

『海原』No.14(2019/12/1発行)

◆No.14 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

自分史にA面探すかたつむり 綾田節子
青蜥蜴どこかがうわの空でいる 伊藤淳子
フクシマの無言の更地炎天下 宇川啓子
簞笥臭い昭和の浴衣歩きだす 大髙宏允
渋谷の街をあなたは姉のように合歓 大西健司
秋の日にシーツ展げるように死す 片岡秀樹
えのころ草旅の心を湿らせる 川田由美子
三人で叱られ雨に咲く茗荷 木下ようこ
理由わけありの新玉葱の臭う夜 黍野恵
空蝉や知ったか振りの父の髭 楠井収
秋夕焼ノートひらきっぱなしです こしのゆみこ
動かない夏雲の翳空耳のカタチ 佐孝石画
不安です隙のない婿冷奴 佐藤美紀江
原爆忌セロファン色に母が座す 清水茉紀
「来年も」と言えぬさよなら敬老会 鱸久子
家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
夏闌けてわが少年の発火点 関田誓炎
くちもと見られたくない夕顔咲く 芹沢愛子
カルピスの水玉昭和の夏休み 髙尾久子
白桃や夜をスケッチするわたし 竹田昭江
さりながらデパ地下混み合う終戦日 寺町志津子
秋灯や少女水なら吸い取ろう 遠山郁好
少女らに晩夏雑草研究部 鳥山由貴子
夏蝶はいちにち線を引きなおす 平田薫
折鶴折る三つ編髪のヒロシマ忌 平田恒子
空席にハンカチのあり広島忌 望月士郎
沖縄の木々の根ぢから兵ども 望月たけし
いちにちを喃語のようにハンモック 茂里美絵
わが死後やトマト畠のアンタレス 横山隆
葦刈小舟うかうかと文字を刈る 若森京子

伊藤淳子●抄出

零余子落ち素手とは笑いあう仲間 有村王志
教会は久しく空家山桃落つ 石川修治
晩夏まとえば流木となりはじむ 伊藤道郎
僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
あめんぼの波紋に雨の波紋かな 内野修
秘め事のあるかに今日のひぐらしは 大池美木
渋谷の街をあなたは姉のように合歓 大西健司
少年に渡廊下のにおいかな 菊川貞夫
立ちどまるための石段小鳥来る 北村美都子
価値観を逆さに吊す唐辛子 倉田玲子
ががんぼの溺れていたる七曜表 こしのゆみこ
夜夜の月みみたぶの曖昧な位置 小西瞬夏
君の掌を開かば零る夕月夜 近藤亜沙美
あいまいな自由を選び飛ぶトンボ 佐々木昇一
鮭のぼる一番星までのぼる 佐々木宏
まるで他郷夏河越えただけなのに 篠田悦子
父の忌の武甲山ぶこうの湿り栗の花 関田誓炎
ななかまど灯る清流に鮭葬り 十河宣洋
金魚玉我はわたしの伴走者 竹田昭江
明晰と叙情と蜻蛉翅うすし 田中亜美
記憶みな合歓の花閉ずようにかな 寺町志津子
子の呉れし風の伝言猫じゃらし 中野佑海
萩真白あなたはわたしを探せない ナカムラ薫
ヒロシマと言うとき蠅の来るフクシマ 中村晋
蛇打つは密かな儀式手を洗う 仁田脇一石
烏瓜かなしみのみを光らしめ 水野真由美
ペン先鳴ってここから先は十六夜 三世川浩司
アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
方向音痴ときどき茸狩にゆく 望月士郎
夏水仙つまりは淋し二、三人 茂里美絵

◆海原秀句鑑賞 安西篤

フクシマの無言の更地炎天下 宇川啓子
 放射能に汚染された福島の土地が更地化され、炎天下に晒されている。すでにあれから八年の歳月を経ても、現実は一向に変わらない。あのときその現実に言葉を失った姿のまま、今もなおそこから抜け出せないでいるフクシマ。除染作業は進められていても、かつての街の賑わいは戻って来ない。更地になった土地、それは、言葉を失った街の表情ともいえる。そこから再び歩き出せる日はいつだろうか。作者の問いかけは続く。

簞笥臭い昭和の浴衣歩きだす 大髙宏允
 生活の洋式化の進んだ今では、洋服簞笥が主流を占めているが、それでもなお古い家なら木製の桐簞笥に和服を収納している家庭は結構ある。和服のなかでも、ことに夏の浴衣の木綿の単衣ものの味は風情があっていい。そんな風情をなつかしむのも、やはり昭和の世代ならではのもの。ふと思いついて、久しく簞笥の中に収めていた浴衣を取り出して着てみる。簞笥の臭いの立ち込めている浴衣だが、昭和という時代をまとっているかのように歩き出す。昭和世代ならではの嗅覚ともいえよう。

えのころ草旅の心を湿らせる 川田由美子
 えのころ草は、猫じゃらしとも呼ばれるイネ科の一年草。日頃の物憂さから逃れようと、小さな一人旅をしているとみたい。とある道端で、えのころ草を抜いてくるくると回しながら歩いている。おそらく、故知らぬかなしみのような気分に誘われているのではないか。そのアンニュイ「旅の心を湿らせる」のは、作者の知的倦怠感とも言えよう。「湿らせ」てその気分の中にしばらく漂う。それが、〈旅情〉というものに違いない。

秋夕焼ノートひらきっぱなしです こしのゆみこ
 見事な秋の夕焼空。これは一句ものせずばなるまいとばかり、句帖に鉛筆をはさんで家を飛び出した。ところが、その景に対面するとにわかに言葉を失って、どうにも一句の態をなさない。ノートはひらきっぱなしのまま。いわゆる「感の昂揚感」に溢れすぎてか、言葉という客観的なかたちをなさないのだ。しばらくはその感の中に浸るしかあるまい。

原爆忌セロファン色に母が座す 清水茉紀
 この場合の母は、亡き母のような気がする。「セロファン色」に「座す」という捉え方には、母の肉体感というより、母のもたらす透明な空気感のようなものが漂う。「原爆忌」を上五に据えたからには、原爆忌自体が母の忌日なのかも知れない。原爆の放射熱に、母は一瞬のうちにセロファン色に気化したと見なすことも出来よう。そのセロファン色の空間に、紛れもなく今も母が存在している。その死者としての存在感の確かさをいう。

家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
 「左義長さん」とは、言うまでもなく、かつての四国俳壇の重鎮で海程の主力同人としても著名な相原左義長氏その人。作者にとって思い出深く、大事な先達だったに違いない。「家蜘蛛」は、ハエ、ゴキブリ、ダニ等の害虫を駆除するばかりでなく、縁起物としても珍重されている。そんな家の守り神のような役割を、担っておられた左義長さん。「家蜘蛛」の「やうだし」と口語調で口ごもる捉え方が、ややためらい勝ちで、かえって親しみと懐かしさを誘う。

少女らに晩夏雑草研究部 鳥山由貴子
 晩夏の夏草は、勢いよく生い茂る。丈高く伸びた草原の中に入れば、目も眩むような草いきれに襲われよう。草いきれは雑草のとばりの中に立ちこめる。そんな草原へ少女たちが分け入って、雑草の研究調査をしている。雑草の臭いに少女たちの体臭がまじって、むせかえるようだ。「雑草研究部」とクールに表現して、かえってその事実の中の濃密な空間を暗示したともいえる。

空席にハンカチのあり広島忌 望月士郎
 空席にひろげたハンカチが置かれている。野外の球場か運動場のような場所で、これから始まるのはアマチュア野球か運動会なのだろう。ハンカチは、一人分の席をとるために置いてある。「広島忌」としたことで、おそらく被曝して亡くなった人の席をそこに設けたのではないか。もちろん個人的な思い入れには違いないが、ひそかに亡き人の席として、ハンカチが置かれていたと見たのだろう。あるいは偶然見かけた空席のハンカチに、亡き人を偲ぶ想いを重ねてみたのかもしれない。

わが死後やトマト畠のアンタレス 横山隆
 アンタレスは蠍座の首星で、ひときわ輝きも大きい。いつも世話しているトマト畠で、そのアンタレスを見上げている。そんなとき、ふと自分の死後の景を思う。それは死後の世界ではなく、自分不在のこの世の景なのだ。死後の世界のことなど誰にもわからない。だが、今見ているこの景が、死後の自分から見られている景だとしたら、自分と世界を一つに抱擁しているような、妙に新鮮な世界との一体感を覚えるのではないか。

◆海原秀句鑑賞 伊藤淳子

あめんぼの波紋に雨の波紋かな 内野修
 沼や小川など、水面をついつい動き回っているあめんぼ。水面には、あめんぼが作りだす小さな波紋が静かに生まれては消えてゆく。その水の景色は見飽きることがない。その静かな作者の視線のなかに俄に降ってきた雨は、あめんぼの波紋をかき消して、みるみる水面を覆い尽くして、広がっていったのである。一つの景色を描写して魅力いっぱいである。やがて、水面に響く雨の音も聞こえてくるようだ。時間の経過とともに変化してゆく波紋。あめんぼの小さな波紋は、雨の波紋とともに沼の景色となった。

渋谷の街をあなたは姉のように合歓 大西健司
 人を思い、人を偲ぶとき、その思い出のなかのどこを切り取るか。作者は渋谷の街を思ったのである。あの渋谷の雑踏を気遣いながら案内してくれた人を、姉のようだと思っているのだ。忘れ難いその面影を合歓の花影に見ているのであろう。

立ちどまるための石段小鳥来る 北村美都子
 人は立ちどまるとき、何を思うのであろう。歩いていてふと止まる。そのための石段だという。石段といえば、神社、仏閣のお社が思われるが、立ち止まるときは、余程何か考え込んだとき、あるいは不意に何かを思い出したのであろうか。または心に溜まったものを整理したくて立ち止まることもあるのかもしれない。作者は、作者自身の心の動きから、その立ち止まる石段を意識したのであろう。下五の「小鳥来る」が鳥声とともに、周りの木々の佇まい、風の気配、陽のかげりなどを思わせて、作者のこころの在り方を静かに伝えている。

鮭のぼる一番星までのぼる 佐々木宏
 鮭の遡上を実際に見るまでは、あれほどに雄大で、荒々しく、どこかもの悲しい景色とは思わずにいた。北海道の作者には、季節の風物詩として、身近な景色なのかもしれない。しかし「一番星までのぼる」と感受したのは、やはり日暮れが近づいて、あたりが黄昏色になり、西の空に一番星が輝きだしたときに見る鮭たちの生命の行動力なのであろう。浅瀬に見る魚影の大きさや、ひたすら川上を目指すエネルギーに圧倒されたことを思い出す。同じ作者の〈熊出没秋の小さなくしゃみかな〉にもさりげなく風土の中の日常を感じさせている。

まるで他郷夏河越えただけなのに 篠田悦子
 一読して兜太師の最後の九句の中の一句〈河より掛け声さすらいの終るその日〉が心をよぎった。しかし、同じ言葉といえば「河」だけなのに不思議だ。なぜだろうと自問してみるに、篠田句に漂う「まるで他郷」という突き放した言い方にみる寂寥感。一句に漂う心当たりがないほどさりげない孤独感。その越えた河は、両岸に大きな土手をかかえ、水面は流れを秘めて無表情にみえるのであろう。「越えただけなのに」という静かなモノローグが、こころに沁みて響いてくる。

金魚玉我はわたしの伴走者 竹田昭江
 「我」は「わたし」である。しかし敢えて私のなかで区別している我とわたし。「わたし」は現し身である自分自身であろう。そして、それを支えている、あるいは励ましているもう一人の自分が「我」なのであろうか。わたしは自由であり、我が儘であり、快楽的でもある。しかし伴走者である「我」は常に理性的であり、付き添って一緒に走りながら、「わたし」を補助している。ある時は励まし、ある時は慰め、あるいは叱咤激励し、喜んで抱きしめてもくれる。自分自身を深く愛し、冷静に見つめる作者が見える。上五に置かれた金魚玉が一句を風情ある様子にしている。

萩真白あなたはわたしを探せない ナカムラ薫
 下五に置かれた「探せない」が単に見つけ出せないというだけでなく、探し求めても得られないと思わせられるのは、真っ白に咲き乱れている萩の花の配合だからであろうか。現在、ハワイ在住の作者は、金子先生から学んだ俳句を彼の地に根付かせるべく、自宅で句会を持つなどして、積極的に活動している。「あなた」と「わたし」が持っている愛しさ、喜び、淋しさ、もしくは重たさまでも、綯い交ぜにして、彼の地の文化、歴史、習慣のなかで暮らしているのだ。この句のほかに〈てのひらへせせらぎひとつ夜の桃〉があり、この本格の一句のうつくしさを思う。

アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
 この句の注目は「和紙の手触り」であろう。作者の感覚は、第二句集『そんな青』の兜太師の帯文に顕著であるが、それから五年。その個性に歳月がもたらしたもの、それが和紙の手触りかと思う。作者は常に、自分の個性で言葉を発信し続けており、群れをなして飛び続ける赤とんぼと、上質の和紙に感じられる独特の風合いとの、二物配合は、秋そのものを感じさせて独自である。同じく〈新刊の雲が並んで梅雨の明け〉〈口調いまも柔らかい雨敗戦忌〉のこれらの句も、作者を感じさせてくれる。

◆金子兜太 私の一句

おおかみに螢が一つ付いていた 兜太

 狼は古くから大神おおがみとも呼ばれ、山や里の民から恐れられると同時に敬われた。土着の民の心を拠りどころとし、アニミズムに心を寄せる師が、狼を自己のアイデンティティー(自己同一性)とした句であるとわたしは思う。現実には絶
滅した狼は師の中で力強く生きている。真冬に猛々しく出現する狼は大神でもあり、夏の姫なる螢を「かんざし」にしているとは、なんと象徴的であろうか。句集『東国抄』(平成13年)より。吉村伊紅美

秋赤城真っ赤に酔ってはぐれ鳥 兜太

 今は亡き小堀葵氏をリーダーとした群馬樹の会が、先生をお招きし先生の大好きな侠客、大前田英五郎の墓を見てから赤城温泉での一泊勉強会。私に「お前さん英五郎のイメージにそっくりだね、この句お前さんだよ」と言われた時
の先生のご機嫌なお顔と、仲間の羨む顔が想い出されます。句集『遊牧集』(昭和56年)より。小林まさる

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

尾形ゆきお 選
○レタス剥ぐ遠く波音聴くような 安藤和子
木瓜は実に身辺徐々に液化して 伊藤淳子
花馬酔木円錐のよう猜疑心 伊藤雅彦
蝙蝠も無惨も食って髭面兜太 岡崎万寿
梅雨寒の壁にピエロの肖像画 小野裕三
○驟雨来る水面は感嘆符の林 片岡秀樹
白象の現れそうな夏の霧 川嶋安起夫
忘却という弾力や五月の空 佐孝石画
蝶の昼無人の家の多すぎて 菅原春み
鷗指揮せんと薄暑の灯台へ 鈴木修一
○消毒液に浸すてのひら半夏生 すずき穂波
暗緑へ鹿追い込んで父と居る 十河宣洋
はんざきやふいに後からくる怒り 寺町志津子
セーターの毛玉の目立つ別れの日 遠山恵子
除染土に死にどころなし青嵐 中村晋
茸山今年も独り消えてゆく 中山蒼楓
山椒魚森の深部に書庫のあり 日高玲
にたーっと蝿が飛びくる柏餅 松本豪
○平成果つ立夏のシャドウボクシング 柳生正名
新緑や先頭をゆくクリトリス 横山隆

十河宣洋 選
兄みな逝く浮木の日本菜種梅雨 有村王志
○レタス剥ぐ遠く波音聴くような 安藤和子
桜散る家族が歩くスピードで 伊藤歩
母の日父の日私が死ぬ日私の日 植田郁一
南瓜煮る生きてるかぎり白い雲 大野美代子
声明のなかの肉欲蝶の昼 尾形ゆきお
○驟雨来る水面は感嘆符の林 片岡秀樹
吊っておく芒の原のフライパン 菊川貞夫
夕立来て薄暮の醒めてゆく速度 近藤亜沙美
巧言令色性感帯はこの辺り 今野修三
夏とろり遠近両用メガネはいずい 佐々木宏
約束は屹立ゆれてチューリップ 鈴木栄司
静かとは青ざめている水を飲む 遠山郁好
薔薇の香に浮かぶ身体や洗いたて 中野佑海
合歓の花ゆうべ二人の息合いし ナカムラ薫
○かなしみの尖る形か鶴を折る 仁田脇一石
たくさん泣いてたくさん笑つて青葉潮 野﨑憲子
夜毎の闇記憶に溜めこむ白牡丹 増田暁子
木の葉見よはじめての木を見よ仔猫 マブソン青眼
馬耕繰るごとくに父の車椅子 武藤鉦二

遠山郁好 選
なめくじに終バス未だとも行ったとも 植田郁一
緑陰を駆ける漆黒どですかでん 大髙宏允
きつねのてぶくろ咲ききって山へ帰る 大谷菫
藤の房地に触れ色々ありがとう 小山やす子
惜春や郵便局まで歩くとす 佐藤美紀江
白神山の栗の花ざわついてばかり 白井重之
石棺を出でしより蝶のひかりかな 白石司子
○消毒液に浸すてのひら半夏生 すずき穂波
うぐいすの声ペン先に或る楽想 竹本仰
町を歩く今も八月六日の此処 立川弘子
相聞は穂先を撓めうわみずざくら 田中亜美
ががんぼよすがりつくな僕は野獣派 中塚紀代子
○かなしみの尖る形か鶴を折る 仁田脇一石
蛇いちごその笑顔すら言い訳だ 宮崎斗士
緑陰のギター時間は戻せない 室田洋子
花菜漬君うっすらと来て座る 茂里美絵
○平成果つ立夏のシャドウボクシング 柳生正名
麦秋の勾玉のごとぬれてゐる 吉田朝子
お土産やっぱりマカデミアナッツ短夜 六本木いつき
青嵐いまは箪笥に夫のたてがみ 若森京子

松井麻容子 選
キャンバスよりはみ出す一人遠夏野 安藤和子
八月や鉛筆で書く平和論 稲葉千尋
青嵐見えない象をなでている 上原祥子
老犬に雨来る匂い葱坊主 榎本愛子
今日もまたボーッと生きて梅雨に入る 大西恵美子
レモンをぎゅっサラダいよいよ白南風に 河原珠美
揚羽蝶風読むように手招きす 小山やす子
姉のぐち妙に明るい苺ジャム 佐々木宏
撫子や言いたいことがあるのです 清水恵子
はなびらの軽さも君の不在かな 芹沢愛子
短夜や再生ボタン何度も押す 田中雅秀
夏蝶の記憶からもう消えた僕 椿良松
友逝けり耳朶の淋しき夏帽子 董振華
はつなつの淋しさいちまいの湖 中村晋
弟は口八丁や水鉄砲 丹羽美智子
一身に魚影濃くあり晩夏光 日高玲
声帯は昼の梟要介護 北條貢司
蒸し鰈疲れ切ったるふくらはぎ 森由美子
六月の円を正しく描くあそび 横地かをる
寝台になめくじを飼うその後 らふ亜沙弥

◆三句鑑賞

花馬酔木円錐のよう猜疑心 伊藤雅彦
 猜疑心を円錐に喩えているところが上手いと思った。円錐はその先が尖っているので、外に向ければ他者を傷つけ、内に向けば自傷する凶器となる。まさに猜疑心そのものだ。花馬酔木もよく効いていると思う。この花は不思議な花で、後悔や嘆きなどのマイナス感情と結びついてよく書かれている。有毒なのでそのせいだと思う。

セーターの毛玉の目立つ別れの日 遠山恵子
 一読してドラマを感じさせる句だと思った。そしてこの別れはやはり男女の別れと読みたい。このセーターの毛玉は後悔とか、自分や相手の欠点とか、もろもろのわだかまりとかの暗諭として読めるが、ここは実景と受け取った方が面白い。やはり毛玉だらけのセーターなんか着ていたら女に逃げられるよな。俺も気をつけよう。

山椒魚森の深部に書庫のあり 日高玲
 どうしても「満開の森の陰部の鯉呼吸」を連想する。森の深部(陰部)と魚のイメージが重なるあたりよく似ていると思う。ところでこの書庫は実在の森の図書館か、それとも脳内にある記憶の暗諭か。ちなみに八木三日女作のそれは、以外にも実景の水族館であったそうだ。何か深い思索に誘われそうな句で、つい選んでしまった。
(鑑賞・尾形ゆきお)

吊っておく芒の原のフライパン 菊川貞夫
 不思議な風景。フライパンと芒の関係はない。このアングルで写真を撮る。モノクロの新鮮な写真になりそうである。写真のポイントはフライパンである。その向こうの芒原が風に戦いでいる風景がぼんやりとある。台所から見た芒原の風景である。毎日、窓から見ている。日常の風景のなかに、ふっと意識した風景。

巧言令色性感帯はこの辺り 今野修三
 作者の心の余裕を見る。性感帯をどう取るかは読み手の問題。そのまま取ってもいい。でも、人の心を擽る物言いなどと取ることも面白い。その場合、風刺の効いた一句。おもてなしなどと言う擽りのキャッチコピーの裏が見えてくる。私が中学一年生の時、帰りの会で先生が、子曰巧言令色鮮仁と黒板に書いたのが今でも鮮明である。

薔薇の香に浮かぶ身体や洗いたて 中野佑海
 ナルシスト?。でも、新鮮な明るさを感じる。健康な女性。西洋の物語や神話を感じる。バラの香りをさせて俎板の上に乗る鯉のような印象もある。洗いたての一語が新鮮な不思議な世界へ読者を引き寄せる。これを、バラの香りの中で産湯を使っているという読みもあるがそれではつまらない。
(鑑賞・十河宣洋)

藤の房地に触れ色々ありがとう 小山やす子
 藤の花には人との別れの思い出がある。「藤の房地に触れ」に続く「色々ありがとう」は、偶然がまるで必然のようにさらりと書かれていて見事だ。藤の句ではないが、例えば芭蕉の「さまざまの事思い出す桜かな」にはどこか作意が感じられるが、この句にはそれがなく、作者の素のこころが直に伝わって来て惹かれる。

消毒液に浸すてのひら半夏生 すずき穂波
 消毒液に手を浸すのは、例えば病院や介護施設等か。一つの読みは、白濁の消毒液に浸す手がまるで半夏生草のようだと驚くこと。もう一つは、介護の日々の消毒液の中の手を見て、もう半夏生かという感慨。初めに具体的な半夏生草のイメージを提示し、次に時候の半夏生に無理なく導くことに成功。作者の季語の使い方巧み。

青嵐いまは箪笥に夫のたてがみ 若森京子
 作者には、これ迄箪笥を詠んだ秀句がいくつもある。その愛着ある箪笥の中にいま夫のたてがみが在るという。長い歳月を共に過ごして来た人とその日々を鬣が象徴する。今を肯いつ昔日へのオマージュ。青嵐の中での作者の衒いのない感動は真っ直読者に伝わる。作者の心情、そして青嵐の言葉の美しさに今さらながら魅せられる。
(鑑賞・遠山郁好)

姉のぐち妙に明るい苺ジャム 佐々木宏
 中七の妙に明るいが効いている。表記の「ぐち」が軽い雰囲気を出している。下五の苺ジャムの色彩と質感がぐっと迫ってくる。姉のぐちは愚痴なのかのろけなのかちょっとした自慢なのか。明るくて甘い雰囲気のうまく出した苺ジャム。季語がぴったりときていると思う。

夏蝶の記憶からもう消えた僕 椿良松
 記憶からもうの「もう」にはっとさせられる。憶測で消えたと思っているのか、確実に消えているとわかっているのか。夏蝶に誰かを重ねているのだろうけど、消えるが曖昧で、認知症や加齢などか、それとも「なかったことに」いうイマドキの消え方なのだろうか。消えた僕がどーんときていて句に厚みを出している。夏蝶との距離感が絶妙に上手い。切ない余韻です。

弟は口八丁や水鉄砲 丹羽美智子
 取り合わせが妙に面白い。本来口八丁は話しの上手なことを意味しているが、一般的なニュアンスではやや胡散臭さが出てくる。褒めているのか、やや皮肉っぽく言っているのか。下五の水鉄砲の躍動感がくすっと笑える。水鉄砲の明るい雰囲気がいい。きっと愛すべき弟さんなんだろう。句全体から愛を感じる。
(鑑賞・松井麻容子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
水すまし光の時間座標に在り 阿久沢長道
哀しみがいとま与えず日の盛り 飯塚真弓
夏祭り心の隅の不発弾 泉陽太郎
コーンスープの温みもて灯火親しむ 上野有紀子
ワンテンポずれるアピール法師蝉 大池桜子
座布団に顔を埋めたまま秋思 大渕久幸
浜木綿やルーチン替える度胸なく 荻谷修
夏おわるわれに野心の足りなきこと かさいともこ
参観日紙の時計を持っている 葛城広光
大蜈蚣鎖帷子纏ひけり 金子康彦
晩夏光スパゲッティの少し焦げ 木村リュウジ
片陰の凱旋門に座る旅 日下若名
ゲートルに花の刺繍や敗戦忌 工藤篁子
空蝉や未生のことば抱くかに 黒済泰子
樹木葬に詳しい友とかき氷 小泉裕子
蜉蝣のゆっくり過る親の家 小林育子
手花火の夜を円くして亡ぶ 小松敦
秋天や淵のにごりに影映す 斉藤栄子
死児を負い直立不動原爆忌 榊田澄子
桃二つ内裏のごとく座らせて 佐々木妙子
露を置く郵便受けの一封書 ダークシー美紀
花氷ゆっくり細るあれはわたし たけなか華那
佳き人の呼ぶ声がする蜻蛉つり 立川真理
校舎いくつ希望と秋思の窓をもつ 立川瑠璃
手に空蝉なんか哀しいカステーラ 中尾よしこ
八十路なり一度はビキニ着たかった 仲村トヨ子
男だけ緑林に居て生臭し 野口佐稔
滝壺の底に獣骨あまたなり 増田天志
花氷あたしは明日どこにいる 松本千花
鐘樓や蟻それぞれに雨を嗅ぐ ●田貢(●は土に口)

『海原』No.13(2019/11/1発行)

◆No.13 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

全身のまるで黴です偽善とは 綾田節子
驟雨とは肉体昏き草いきれ 伊藤淳子
選句楽しと微笑む遺影仕出し弁当 植田郁一
土蔵の扉開けば父の蛍かな 大池美木
地のことば水のことばをほうたると 岡崎万寿
はい、この話はお終い桜桃忌 奥山富江
四万六千日やはりソースよりしょうゆ 河西志帆
蜩ややゝあって人の声する 北上正枝
さがさないで三井さんそして谷さん川蜻蛉草に素泊り 木下ようこ
梅雨寒や老老介護のルーティン 楠井収
少しずつ尿瓶に銀河流れ込む 齋藤一湖
五月雨という感情の斜面かな 佐孝石画
時の日やガラスの靴はもういらぬ 佐藤詠子
さうめんを囲めばちやんと家族かな すずき穂波
ふきのとうふたりぐらしのやさしい箱 芹沢愛子
青鷺はモディリアーニの哀愁 竹田昭江
逝きしかな天魚あまご美し星まつり 田口満代子
ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
口漱ぐ母の音して山滴る 野﨑憲子
すーっと月光生絹すずしなる友天へ翔ち 野原瑤子
夜間飛行のよう梅雨の天象儀 平田恒子
少年に馬のまなざし青水無月 船越みよ
柿の花壊れたピアノのごと望郷 増田暁子
杜の小径放熱している合歓の花 松井麻容子
清濁は併せて呑めず蜻蛉生る 松本勇二
稲の花父が遺影を抜け出す夜 三浦静佳
ラムネ玉のころっと本音反抗期 宮崎斗士
枇杷の木よ母がだんだん錆びてゆく 室田洋子
口寄せにめまとひが来て父が来て 柳生正名
ナメクジの真面目に舐めて行きにけり 横山隆

伊藤淳子●抄出

私の中のわたしを受容青れもん 安藤和子
蓮開く小さな音は風のはじまり 井上俊一
汽笛転悼 末岡睦がる小樽霧とも時雨とも 植田郁一
川鵜飛んでる寝ぐせの髪が笑っている 榎本祐子
心にも水たまりかな七変化 大髙洋子
避難勧告やら告知やらふっと青鮫 大西健司
夏柳影にせせらぎあるような 大野美代子
梅実落つ星は多感なる呪文 片岡秀樹
麦秋一枚吾が日常の隣り 金子斐子
落としものはるか梢の朴の花 川田由美子
さがさないで三井さんそして谷さん川蜻蛉草に素泊り 木下ようこ
五月雨という感情の斜面かな 佐孝石画
毛虫太る変身といい新生といい 白石司子
プールサイド蹠の吸ふゆるい水 すずき穂波
心くだけばこころ渇いてゆく朧 芹沢愛子
少しだけ余った気持ちさみだるる 高木水志
帆は沖へふと 三井絹枝さんを偲んで面影の白日傘 田口満代子
ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
犬稗の雨はきれいに指の傷 遠山郁好
雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
すでに夏雲地震に耐えたる村人よ 野田信章
雨はやや雨のにおいの立葵 平田薫
夏富士やみぞおちに磁場の広がり 藤原美恵子
片かげりふっとことばの蜆蝶 北條貢司
ゆっくりと薄暑の積まれゆく本堂 松井麻容子
新じゃがに薄皮ひとに羞恥心 嶺岸さとし
流されてなお流れない水馬 武藤鉦二
口寄せにめまとひが来て父が来て 柳生正名
一周忌オオムラサキのやわらかさ 横地かをる
また八月がくる耳打ちのごと波の如 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

選句楽しと微笑む遺影仕出し弁当 植田郁一
 亡き兜太師の新聞俳句選をしている一場面と見てもよい。テレビでも報じられたシーンで、先生の選句風景を作者は懐かしげに思い返している。新聞社が用意してくれた松花堂弁当を開き、里芋の煮ころがしあたりから箸をつけて、ゆっくりと味わうように噛みしめる。時々目をつぶったり、大きく目を開けて覗き込んだりしながら、時間をかけて食べる。これも選句の楽しみの一つなのかもしれない。まさに「悠々」たる選句風景である。

地のことば水のことばをほうたると 岡崎万寿
 たった一人の蛍狩だろうか。時に地のことば、時には水のことばで、蛍とともに語り合ってみたいという。蛍と睦みあう景ではあるが、そのことを通して、水の霊や地の霊と語り合おうとしているかにも見えてくる。蛍の飛び交う夜景は、なにやらいのちを宿した精霊の交感の場とも思えるもの。そのやりとりを作者は、言葉以前のコトバの気配と捉えたのではないか。蛍の光は、コトバの軌跡をたどりつつ、地のことばや水のことばに触れ合っているのかも知れない。

はい、この話はお終い桜桃忌 奥山富江
 「はい、この話はお終い」とは、日頃家族や親しい友人との間で交わされる何気ない世間話の中の一台詞。その中で、ちょっとした意見や見方の食い違いが生じて、なにやら剣呑な空気を生み出しそうになっている。そんな気配を察知して、話題を切換えようとしているのだろう。桜桃忌は、平明達意な文章の達人でもあった太宰治の忌日。そんな日にぐずぐず言うのはやめましょう。どこか年配者の世間知のような台詞も詩になる一例。

さうめんを囲めばちやんと家族かな すずき穂波
 「さうめん」とは、いうまでもなく「素麺」のこと。あえて旧仮名表記をすることで、口語新仮名とは一味違った気品のようなものを感じさせる。「ちやんと家族」とは、いかにも明るくてまとまりのいい家族団欒の雰囲気が感じられる。どこかサザエさん一家を思わせるような食事風景でもある。旧仮名と話し言葉の取り合わせが、奇妙な面白さをかもし出す。

ふきのとうふたりぐらしのやさしい箱 芹沢愛子
 早春に咲くふきのとうは、いかにも二人暮らしのつましく優しげな雰囲気に通う。「ふたりぐらし」は必ずしも若い人とは限らないが、早春の季節感からすれば若夫婦とみるのが自然だろう。この句の面白さは、その「ふたりぐらし」を「やさしい箱」と喩えた点にある。「箱」ホームには、家のイメージがあって、こじんまりした温もりを感じさせる。小さな幸せが詰まっているとみてもよい。

ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
 一句全体の平仮名表記が、やわらかな情感を漂わせる。「ゆるくはぐれる」のは、その情感そのものなのであろう。「あじさい」の淡い色合いとしどけない花の姿が、「ゆるくはぐれ」るように溶け合っている。そんな「あじさいにまぎれる」のは、ある日ある時の、作者の情念の傾きによるものに違いない。

すーっと月光生絹すずしなる友天へ翔ち 野原瑤子               
 清涼な追悼句。亡き人は月光を辿って天上へと翔って逝かれた。「すーっと」「生絹すずし」と重ねる上中句節首の音韻の響き合いが、涼やかな韻律効果を用意しつつ、昇天する友の霊の光の軌道に乗って行く。かぐや姫の説話を想記するようなイメージともいえる。

少年に馬のまなざし青水無月 船越みよ
 「少年に馬のまなざし」とは、少年に向けられた馬のまなざしとも、少年自体に馬のような大きなまなざしがあるともとれる。やや後者のニュアンスに傾きつつ、おそらくはその双方向的まなざしの交差があるとみてもよい。水無月は陰暦六月の異称だが、「青水無月」は梅雨明けの山野の青々とした状態をいう。作者は秋田の人だから、その頃の風土感に息づく少年像を生なましく捉えている。

柿の花壊れたピアノのごと望郷 増田暁子
 柿の花は、梅雨の頃、屋敷に沿った道などに、黄ばんだ白い花を落とす。落とした花には古いもの新しいものが散り混じり、道に風情を添えている。柿若葉の間に小さな柿の実がつき始めている。ふと、これはたしか見たことのある景だ。そう、故郷の景に似ている。すでに離れて久しく、身寄りもいなくなったが、今も「壊れたピアノ」のように故郷への愛惜の思いは尽きない。遠きにありて思うもののかたちを、見事に言い当てている。

稲の花父が遺影を抜け出す夜 三浦静佳
 稲が穂孕み期になって、間もなく多くの花を開き始めると収穫への期待が一段と高まる。亡き父は生前、その頃になると、夜も時々稲の様子を見に出かけていたものだ。手塩にかけて育てた稲がどんな様子か、一番気にしていた父。今も皆が寝静まった夜に、遺影から抜け出して、稲を見に行っているに違いない。

◆海原秀句鑑賞 伊藤淳子

心にも水たまりかな七変化 大髙洋子
 心の有り様を書いて、自己の内面をさりげなく感じさせる魅力の一句である。水たまりに映るのは、空の雲だったり、人声だったり、暮らしの中のもろもろの景色なのであろう。その水たまりが、心にもあるという。感じるという。日常の暮らしの中での思いを、優しいモノローグで書き止めた。雨の中、ひときわ色を増してきた紫陽花と共に、梅雨の頃の季節感が、とても良く感じられる。

さがさないで川蜻蛉草に素泊り 木下ようこ
 「三井さんそして谷さん」の前書きのある一句である。身近な方々が亡くなって、追悼句を多く目にするこの頃である。どの句も思いが伝わってきて、故人を偲ぶばかりであるが、追悼句は故人と対で語りかけるのがいいと聞いていたので、分からないことはそのままに、この一句に惹かれた。不意に他界した谷さん。どこか覚悟というものを身にまとっていた三井さん。「さがさないで」という言葉に胸が詰まる思いである。

五月雨という感情の斜面かな 佐孝石画
 感情を五月雨と表現したところに、この感情がいかに感じやすく、多感であるかを思わせる。陰暦五月頃に降るその長雨は、多くある雨の中でも表情豊かに、古くから詩歌に詠われてきた。作者はその雨に感情を見たのである。しかも、それは平らではなく斜めであるという。屈折した思いが見てとれるが、この感情の持つ感覚はひそやかで親しい。独特な世界ながら、意識の下の思いが伝わってくる。

プールサイド蹠の吸ふゆるい水 すずき穂波
 夏のアンニュイとでもいうものを、どこかに感じさせながら、夏を見事に実感出来る一句である。プールサイドに立ったときに感じた足裏の感触。それは子供達の歓声や、なかなかのスピードで泳いでいる人影などと共に、プールからゆっくり流れ出た水である。ぴたぴたと足裏を濡らしているのだ。真っ青な空と、照りつける太陽。プールの喧騒の中で、思わぬ孤を感じさせてもいる。

ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
 ゆるくはぐれるとは、どういう状態なのであろう。いつのまにか同行の人を見失ったということであろうか。この「ゆるく」という心理状態に、読み手はふっと立ち止まる。そして、あじさいの花群れにまぎれ込んだというのだ。不安感だけとも違う微妙な心の綾を、平仮名だけの二句一章のリズムで書き表した。

雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
 雨垂れの途切れないリズミカルな音を目で追いながら、心に浮かぶ景や思いをことばに掬いとっていく。この雨垂れの言葉を受けて、桑の実をジャムにするという日常の景が、実にバランスがいい。桑の実の熟れる頃の空気感を表して、感覚の利いた一句となった。破調のように見えて、全体を十七音にまとめあげた、作者のセンスを思う。

片かげりふっとことばの蜆蝶 北條貢司
 真夏の午後である。コントラストの強い日陰を、ふっとよぎった蜆蝶を、とっさに「ことば」だ、と感じたのだ。小さな蜆蝶の青緑色の羽ばたきは、どこまでも自由である。ことばを使って何かを表現しようとするとき、一瞬に見たもの、芭蕉ではないが、ものの見えたる光りを捉えて言葉に生かしていくのであろう。実景を通して感受した思いがことばの力になるのだと思える。

ゆっくりと薄暑の積まれゆく本堂 松井麻容子
 初夏のある日。寺院にお詣りしたときの様子を丁寧に書きとめた。ご本尊を祀ってある本堂を流れている空気。じっとしていると、次第に感じてくる暑さを、積まれゆくと表現したのだ。少しずつ汗ばんでくる身体に、寺院を吹き抜ける風に乗った読経の声や、人々の静かな気配が、感じられ、薄暑を実によく感じさせている。

一周忌オオムラサキのやわらかさ 横地かをる
 この一周忌は、森下草城子さんであろう。作者は初学の時から草城子さんに師事されていて、その長い歳月の、師との思い出は尽きることが無いであろう。師を偲ぶとき、蝶の中でも大型で美しい、国蝶のオオムラサキなのだ。ふと、金子先生と草城子さんの面影がよぎる。同じ発表に「先生に未完のわたし日雷」があり、同感の思いを強くした。

また八月がくる耳打ちのごと波の如 若森京子
 年々歳々繰り返し訪れる歳月だが、八月は特別である。八月が示すのは、六日の広島であり、九日の長崎であり、八月十五日の終戦の日である。それは最早、大きな声で叫ぶのではなくて、戦後七十四年。一人ひとりの思いの中に、しっかりと刻まれ、互いの思いを確かめ合っているのであろう。ある年齢以上の人々が持っている深い感慨は消えることは無い。

◆金子兜太 私の一句

定住漂泊冬の陽熱き握り飯 兜太

 わが郷土はご存知の通り、東日本大震災・原発の原子炉水素爆発事故により、避難せざるを得ない生活に見舞われました。家族で七年もの漂泊生活を送り、冬の陽の熱さ、温かい握り飯の美味しさ、有難さを実感持って味わいました。兜太先生のずばりとした感情表現を身に付けようと努力しているところです。帰還して畑作やら盆踊りに興じ、「原郷」として、人生漂泊に親しんでおります。句集『日常』(平成21年)より。江井芳朗

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太

 傾斜地を好み群集して咲く曼珠沙華は、計画性があり、咲き終わると次の年の斜面の高さを定めて葉を伸ばす。緻密さを秘めて兜太師に相応しい。そこを天真爛漫に行動する子供達は人間力が強い。兜太師も精力的である。最近この句は、戦後東亰の小石川行舎から秩父に帰還時のものと知った。衣料不足をものともせぬ秩父の子の勇健さにも触れた、多面性の句と思われてきた。句集『少年』(昭和30年)より。成井惠子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

尾形ゆきお 選
朧夜の吽形物を言いたげに 石川和子
ガラス質の少女駈け出し夏兆す 市原光子
歯車が歯車を押し弥生かな 小野裕三
死者たちを蓄えし闇薪能 片岡秀樹
子等が来て家中鯉が泳ぎけり 川崎千鶴子
花の冷え青のとけだす硝子玉 小西瞬夏
鳥帰る沼も私も穴だらけ 佐々木宏
夢に原発雨はプラチナの鎖 清水茉紀
麦の秋「みんなの体操」一人でして 田中雅秀
○はつなつの乳房はやわらかい半島 月野ぽぽな
冴え返る開かない窓が多い街 峠谷清広
麦秋の彼方へ人は火事を抱き 中内亮玄
○どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
○卯の花腐し髪梳くように浪費して 日高玲
不眠症金魚は朝の夕陽である 北條貢司
読み聞かせのような雨音青ぶどう 宮崎斗士
緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
○花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
石の下蟻の体臭どっとくる 山内崇弘
頰杖もけむりとなりて五月病 若森京子

十河宣洋 選
千島桜制限時間いっぱいです 石川青狼
麦を踏む鳥の目付きの農婦です 大沢輝一
水戸納豆粘っこさそれ兜太の「戦記」 岡崎万寿
鈴懸の実よ連綿と記憶の鈴よ 金子斐子
恋文のやうにハンカチの花ひろふ 川崎千鶴子
蜥蜴くすくす妹ぢやあるまいし 木下ようこ
麦の秋わいせつにしてとおいまひる 小池弘子
刃物屋の奥に吊られし春の昼 小西瞬夏
真夜中の浅蜊あの世と交信す 佐藤君子
鯉に口髭男に尻毛花に酌む 瀧春樹
「巴里は燃えてるか」病的な顔夜と霧 瀧澤泰斗
○はつなつの乳房はやわらかい半島 月野ぽぽな
初蝶の浮力液体のよう綺麗 丹生千賀
○卯の花腐し髪梳くように浪費して 日高玲
老いて朧の手斧削りの光たち 藤野武
春の病棟中庭に眼がいっぱい 前田恵
刻一刻の充実感やさるすべり 宮川としを
○花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
ぐずる子に高目のカーブ土用波 梁瀬道子
○たちまち夏泣いてばかりじゃ青になる らふ亜沙弥

遠山郁好 選
令和元年五月一日当番医 江良修
蓬の精かな少年が立っている 大髙洋子
少しずつ結晶化する青嵐 奥山和子
母を看て時々椿落ちにけり 加藤昭子
楠若葉さびしい小鳥お断り 河原珠美
昼過ぎの夏蝶舌のしづもれり 小西瞬夏
春の日のおとがいとなる高架橋 佐孝石画
こでまりや伝西行の戻り橋 鈴木孝信
夏衣来てかく軽薄の僧となる 竪阿彌放心
短命な初蝶といる君といる 椿良松
夏蝶来て目じりのあたり闇匂う 董振華
○どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
遺影の君はすこし上向きすいかずら 野田信章
緑の夜湖心へ伸びる長い足 日高玲
夢に兜太夏雲をやわらかく抱きて 藤野武
瞼ぬらして青葉を泳ぐ園児たち 本田ひとみ
新樹ざわめき遠い昔がまだ苦い 間瀬ひろ子
貧血なるほどクロアゲハがひんやり 三世川浩司
磯巾着ふわりふわりと認知症 森由美子
遠蛙群青いろの村だった 横地かをる

松井麻容子 選
病む友にいま会いたいと鰹煮る 東祐子
鬱の日はそっと蕗味噌癒しかな 泉尚子
「考える人」の筋肉風光る 市原正直
シーッ、蓮の眠りを醒まさないで 伊藤幸
蝸牛迷わぬ人は不仕合せ 伊藤雅彦
退屈しのぎに川は流れる河口から 宇田蓋男
とことこと牛に朧がついてくる 大沢輝一
花の昼鬼女の柩を誰担ぐ 大西健司
饒舌な通夜の客たち梅白し 奥山富江
春昼や人魚のように回想す 近藤亜沙美
無造作に空になりきり花水木 佐孝石画
万緑や私の中の癇癪玉 重松敬子
いつまでもはぐれ風船見えている 竹本仰
スコールの森のどこかに非常口 ナカムラ薫
この微熱額紫陽花にうつそうか 根本菜穂子
おーいおーい欅若葉よおーいおーい 平田薫
緑陰に来し方うつくしい老婆 本田ひとみ
こでまりの連絡網を回します 室田洋子
行く春や僕の行方とちがふやうだ 横山隆
○たちまち夏泣いてばかりじゃ青になる らふ亜沙弥

◆三句鑑賞

歯車が歯車を押し弥生かな 小野裕三
 二月から三月へ移る季節感を歯車で表現したところにまず心ひかれた。作者はイギリス在住らしいので、ビッグ・ベンの歯車を想像して書かれたのかもしれない。だとするとロンドンの都会的な三月が思い浮かぶが、一方で芥川龍之介の「歯車」も連想したりして、不安なものも感じた。「歯車」という語感が誘う面白い句だ。

冴え返る開かない窓が多い街 峠谷清広
 詩は批判であるという立場からすると、採らざるをえない句。パターン化された、プラモデルめく家ばかり建ち並ぶ街が増える一方で、開かない窓(空家)ばかりが増えて廃虚化しつつある街も多いのではないか。「サイレントマジョリティ」という言葉もなぜかこの句から連想した。孤絶という意味で通底していると思う。

緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
 個人的には京都の三十三間堂にあるような社寺の長い廊下をどうしても連想してしまう。たぶん作者のご自宅にある廊下なのであろうが、それが家の中ではなく鏡の中にあるのだ。すると実在の廊下が象徴性を帯びて、それが家族の歴史のみならず、作者の内面まで意味しているものに思われ、非常に心ひかれた。
(鑑賞・尾形ゆきお)

千島桜制限時間いっぱいです 石川青狼
 北海道に住む者なら意味は明快。小中学校でも北方領土は教える時代である。日本の外交の下手さ加減が招いた戦後処理の一つである。北方領土からの引揚者に残された時間は制限時間一杯どころか、越えているのである。日本で桜が一番遅く開花する地方の叫びである。千島桜の置き方が上手い。

麦の秋わいせつにしてとおいまひる 小池弘子
 誰かさんと誰かさんが麦畑、という直接的な猥褻ではないのである。麦秋の芳しい雰囲気、香りというのではなく、肌で感じる芳しさである。麦畑を渡ってくる風や太陽の光、すべてが芳しい。あの芳しさは、何かありそうな期待感を持たせる。そう、爽やかな猥褻観である。

刻一刻の充実感やさるすべり 宮川としを
 人生を楽しむというより、達観した。そんな想いのする作品。百日紅の花言葉は「雄弁」「愛嬌」「不用意」「あなたを信じる」「潔白」など。ここまで書くと意味は自明。自画像である。今までやって来たことの反省や思い出。良かったことばかりではないが、充実感が湧いてくる。酒を飲みながらの回想でもある。
(鑑賞・十河宣洋)

貧血なるほどクロアゲハがひんやり 三世川浩司
 自らの体に起こった現象を感覚を信じ、果敢に言葉に置き換えた。なるほどから結びのひんやりに続く一行は、体験した人でなければ書けない微妙で鋭敏、凄みさえ感じられる。定型からずれてはいるが、貧血が徐々に進み、クロアゲハが現れ、次第にひんやりと感じられるまでの一連の変化は、こう書かざるをえなかった。
   
春の日のおとがいとなる高架橋 佐孝石画
 頤と高架橋。うん?瞬時に頬杖をしている人を想像し楽しくなった。そうなると、橋脚か腕か。腕が何本もあって愉快。もしかしたら、頬杖をしているのは人ではないかも知れない。春の日特有のなんとない気怠さ、顎でなく頤がその気分を誘う。そして無機質な高架橋がきて、やっぱり春愁かも知れないと思いつつ、頬杖してる。

夢に兜太夏雲をやわらかく抱きて 藤野武
 金子先生が他界されて時々夢を見る。夢で先生は金子先生であり、兜太先生やましてや兜太ではない。ご子息が「父は反骨の人であった」と言われたが、加えて弱音や困難な状況の人への視線は愛溢れるヒューマニストであった。今頃は夏雲を抱いて笑っているだろうか。そろそろ兜太先生とお呼び出来るような気がする。
(鑑賞・遠山郁好)

スコールの森のどこかに非常口 ナカムラ薫
 激しいスコールの中、必死にどこかの非常口を探す。走ったり、時に歩いたり。スコールの森は現代社会を表現しているように思う。ここではないどこかに行きたい、癒されたい、激しい社会の中から解放されたいという象徴が非常口に繋がっていく。非常口は日常生活の中でよく目にするものだが、妙に甘美な想像力を搔き立てる。森と非常口の取り合わせが面白い。好きな世界。

「考える人」の筋肉風光る 市原正直
 ロダンの「考える人」を見て筋肉に着目したのが面白い。いつも「考える人」が何を考えているか、ということを考えていた。あの筋肉質な身体の曲線美に初めて気付かされた。季語の風光るが句に拡がりを持たせていてそのうち立ち上がるのではという躍動感も感じる。

病む友にいま会いたいと鰹煮る 東祐子
 日常生活の中のふとした瞬間に病んでいる友人を思い出して会いたいという気持ちを募らせる。中七のいま会いたいというストレートな表現がすごく心に沁みた。鰹煮たり、何かしら動いている方が落ち着くのだと思う。日常の中での友人への想い、作者の人柄が出ているやさしい世界だと思う。
(鑑賞・松井麻容子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

朝ぐもりわからないので会いに行く 有栖川蘭子
幕下の同郷力士浮いてこい 石口光子
快晴の空埋め尽くす蛾の紋様 泉陽太郎
短夜の土器の欠片のくぼみかな 大渕久幸
目の語る事を読み取る青葉騒 荻谷修
コーヒーの花白き夏故郷捨つ かさいともこ
紙の裏北海道が刷ってある 葛城広光
独り言は下書きのよう青胡桃 木村リュウジ
湧き水に今際の鰻浸される 日下若名
生涯が墓碑に一行蝉しぐれ 工藤篁子
雨響く今年は咲かぬ紫陽花に 小泉裕子
カタカナで綴る感情原爆忌 小林育子
水飲んで人間の血を薄めるよ 小松敦
をさなごの文字なき世界夏の星 三枝みずほ
遺骨今露の丹波に帰りけり 坂本勝子
皿で反る反骨の水貝 たけなか華那
尊徳像残し閉校きりぎりす 土谷敏雄
何処に夫よ泳ぎたいこの雲海 中谷冨美子
ゴミ袋二匹の蟻を出してやる 野口佐稔
暑気払ひスマホ苦手な同世代 半沢一枝
人よりも組織大事や菊の花 平井利恵
場末なり筍悪知恵のよう曲がる 福田博之
更衣去年は妻と笑ってた 藤好良
遠くより読経響くや蝉の穴 増田天志
わめく子に柔和なる女医カーネーション 松尾信太郎
聖書を燃やせ原爆を使った日 松﨑あきら
身の内にふりむく誰か草いきれ 望月士郎
海坂藩藤沢周平夏朝餉 ●田貢(●は土に口)
鬼灯で鍛える根気羽後日暮れ 吉田もろび
大蚯蚓の遺骸をよけて僧の列 渡邉照香

『海原』No.12(2019/10/1発行)

◆No.12 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

なめくじり志ん生の似顔絵ばかりかな 綾田節子
野のおおかたの時間たまって蛍袋 伊藤淳子
花馬酔木円錐のよう猜疑心 伊藤雅彦
母の日父の日私が死ぬ日私の日 植田郁一
緑陰を駆ける漆黒どですかでん 大髙宏允
梅雨寒の壁にピエロの肖像画 小野裕三
驟雨来る水面は感嘆符の林 片岡秀樹
ジャーマンアイリス嫌ひなひとから朝速達 木下ようこ
むかし花街いまひっそりと枇杷熟れる 木村和彦
自分史に傍線数多鳥雲に 楠井収
俺をうならせろと父青葉木菟 黒岡洋子
また音叉鳴るやう六月の歯痛 小西瞬夏
合歓咲いて身ぬちの水の遠くあり 佐孝石画
山背風の村眉間の暗き農夫いて 笹岡素子
青鬼灯わたしの中に棲む返事 佐藤詠子
惜春や郵便局まで歩くとす 佐藤美紀江
形状記憶シャツ葉桜に雨 竹田昭江
うぐいすの声ペン先に或る楽想 竹本仰
町を歩く今も八月六日の此処 立川弘子
相聞は穂先を撓めうわみずざくら 田中亜美
夏霧にわたしをやわらかく刻印 月野ぽぽな
静かとは青ざめている水を飲む 遠山郁好
セーターの毛玉の目立つ別れの日東 遠山恵子
山椒魚森の深部に書庫のあり 日高玲
菜種梅雨端布はぎれとりどり縫い合わす 平田恒子
波打ちぎわの少女はにかみ青あじさい 本田ひとみ
母の日は母のあくびを見て終る 松本豪
いもうとのくのいちごっこ花りんご 武藤鉦二
緑陰のギター時間は戻せない 室田洋子
お土産やっぱりマカデミアナッツ短夜 六本木いつき

佃悦夫●抄出

薫風へ阿形の あばら音立てり 綾田節子
レタス剥ぐ遠く波音聴くような 安藤和子
何度も言ったよ俺牛蛙だって 伊藤幸
青葉木菟鳴く鳩尾は深い沼 伊藤道郎
なめくじに終バス未だとも行ったとも 植田郁一
イザナミイザナギ栗の花真っ盛り 榎本祐子
春光を一人で歩く一人で食ぶ 大野美代子
ナナフシや何と闘っているのだろう 奥山和子
白象の現れそうな夏の霧 川嶋安起夫
大き緑陰少年に深睫毛 北村美都子
次の世はアテルイ目指せまむし草 坂本祥子
春月や紐を垂らした裾通る 佐々木昇一
白神山の栗の花ざわついてばかり 白井重之
石棺を出でしより蝶のひかりかな 白石司子
夏の河歴史の藻屑遣欧使節 滝澤泰斗
寺と神社行ったり来たり揚羽蝶 峠谷清広
小鳥の名草の名呼んで噴水は 遠山郁好
五月晴れ左右の足と左右の手 中内亮玄
ががんぼよすがりつくな僕は野獣派 中塚紀代子
茸山今年も独り消えてゆく 中山蒼楓
植田整いちらかさぬよう鷺の足 丹生千賀
ソフトクリーム鴉は鴉で嗤ってる 前田恵
にたーっと蝿が飛びくる柏餅 松本豪
菜の花のなか廃校のうすみどり 武藤暁美
くちびるは少女に還りさくらんぼ 武藤鉦二
李あげよう空が映りし君の瞳よ 村松喜代
梅雨入りや中也全集持ち重り 堀真知子
少年が少年を待つ青野原 横地かをる
新緑や先頭をゆくクリトリス 横山隆
麦秋の勾玉のごとぬれてゐる 吉田朝

◆海原秀句鑑賞 安西篤

緑陰を駆ける漆黒どですかでん 大髙宏允
 「どですかでん」は、黒澤明監督による一九七〇年の映画題名。中で、六ちゃんというやや知恵遅れの少年が、毎日空き地で見えない電車を走らせ、その電車の音を「どですかでん」という擬音で表現する。この句はその話を下敷きにして、緑陰を駆け抜ける漆黒の見えない電車を走らせるというイメージを句にしたもの。一句の中で題名を名指しすることで、映画の繰り広げる世界を再構築したともいえる。「どですかでん」なる擬音の効果がわからないと伝わりにくいが、有名映画だけに、映画通ならすぐピンと来る映像ではないか。「どですかでん」一発が一句のいのち。

自分史に傍線数多鳥雲に 楠井収
 高齢化社会になると、定年後、自分史を書いてみようと計画する人は意外に多いようだ。カルチャー教室などで指導するカリキュラムもある。「鳥雲に」という季語は、そんな境涯感を暗示する。そのなかで、特に印象深い部分に傍線を引き、自分の思い出を反芻している。それは作者の過去と現在を措定しつつ、残された余生へのひそかな期待にもつなげようとしている行為ではなかろうか。あるいは人にはいえない自分だけの、ささやかな志かもしれない。そこに、作者の晩年にかけての生きざまを賭けてみようとしているのかもしれない。

青鬼灯わたしの中に棲む返事 佐藤詠子
 鬼灯は、七~八月頃赤く熟れ、子供たちが実の中味を揉み出し、外皮だけを口に含んで「ギュッ」と鳴らして遊ぶ。「青鬼灯」は熟れる前の実を包んだもの。まだ成熟しきれない年頃ながら、思う人からのプロポーズの言葉を、切なげに期待している映像が重なる。そして、そんな「わたしの中に棲む返事」は、とっくに決まっている。もちろん「イエス」なのだ。その言葉を久しく待っているという。幼い頃からの憧れの人への思いにつながる一句。

町を歩く今も八月六日の此処 立川弘子
 作者は広島の人だから、八月六日といえば当然広島原爆の日である。町を歩いていて、「八月六日の此処」はどことも指定されていないが、爆心地に近い有名な原爆ドームの近くとか、平和記念公園の慰霊碑あたりというより、十余万人の死者を出した町中のとある場所なのかもしれない。筆者は昭和二十五、六年頃広島に在住していたのだが、当時の町中では、少し土を掘ればいたるところから遺骨が出る状態だった。いわば町全体が遺跡ともいえた。「町を歩く今も」とは、決して風化されることのない被爆の体験意識で、町中を歩いているのだろう。

相聞は穂先を撓めうわみずざくら 田中亜美
 「相聞」には、お互いの安否を問うて相手を恋い慕う思いの色合いがある。「うわみずざくら」(上溝桜)は、五月頃、ブラシのような花をつける。その花の穂先を撓めたような形が、相聞の映像だと作者は断定する。そこに作者の感性が捉えた相聞の高ぶりが見えたのだろう。「うわみずざくら」の語感にも、その高ぶりの美意識が照り映えているようにも思われる。

夏霧にわたしをやわらかく刻印 月野ぽぽな
 霧は秋の季語だが、夏にも霧は発生する。ことに高原で出会う朝の霧は、暑さを忘れさせるほどの涼味を呼ぶ。急に現れて早々と消えていくのも一つの特色だ。そんな夏霧の中へ、ふっと身を差し入れる。いやいつの間にか霧に取り巻かれていたのかもしれない。夏霧の中にひっそりと立つ「わたし」は、霧の中で「やわらかく刻印」されているかのよう。それは「わたし」の存在証明アリバイでもあるかのようだ。

静かとは青ざめている水を飲む 遠山郁好
 柔軟な知的感覚で、対象を自分の感性に鞣してゆくのが作者の持ち味。「静けさとは」でなく、「静かとは」とあえて主観的な口語調で書き出すことにより、「青ざめている水を飲む」行為を、自分の内面にシーンと落とし込むような体感として捉え返しているのだろう。

母の日は母のあくびを見て終る 松本豪
 母の日に兄弟相集って、何か母のためにとささやかなパーティを催したのだろう。しかし年老いた母は、もはや贈り物やご馳走にもあまり反応することなく、大きなあくびを一つしただけだった。兄弟たちは二の句もつげ得ず、ただ顔を見合わせているばかり。結局、母の日は、母のあくびを見ただけに終わった。

緑陰のギター時間は戻せない 室田洋子
 緑陰で、久しぶりにギターを爪弾いている。それは若き日にとった杵柄ともいえるものだが、どうにも以前のような気分に乗ってゆけない。曲はどうにか弾けても若き日の気分は戻らないのだ。失われた時間は、もう戻って来そうもない。「戻せない時間」とは、戻そうとしても戻らない時間というままならぬ時間なのだ。

◆海原秀句鑑賞 佃悦夫

青葉木菟鳴く鳩尾は深い沼 伊藤道郎
 四季のうちこれ以上の良い季節はない。森羅万象がこの時とばかり生を謳歌しているのだが、それこそ身体髪膚が響めいているといっていい。人体を神が造ったか否かはとにかくとして完全無欠にはしなかったらしい。それは神と同位の存在とはしなかった。弱点をしっかり造っている。アキレス腱しかり鳩尾しかりである。男女を問わず、これらの弱点を抱えながら生きていくばかりだ。鳩尾を“深い沼”と受け止めた感覚は鋭い。この弱点に対して文字通りなずむほかはないのかも知れぬ。

ナナフシや何と闘っているのだろう 奥山和子
 この不可思議な生き物は、何時このフォルムとして進化したのだろうか。擬態を常としながら生き永らえてきたにちがいないが、絶滅しない限りフォルムは変化していくのだろう。ナナフシも生存競争は免れ難く、強食弱肉の圏内に組み込まれているのだから、己より下位の生き物を食としながら常に闘いを強いられている。とは言うものの作者はナナフシが心を持っているかも知れぬと、ふと思ったのではなかろうか。

白象の現れそうな夏の霧 川嶋安起夫
 春、秋、冬のいずれにも霧を見るが、肌にダイレクトに、大袈裟に言えば襲うのは夏の霧である。しかし夏の霧という気象を都市部で見ることは、それほど多くはなかろう。よって本作は都市部ではなく自然条件の豊かな地での幻想と言っていい。“現れそうな”と言うのだから幻視もしていないが、白象と言えば普賢菩薩がその上に坐している姿を視ることになるかも知れない。作者にはやがて白象が確かな輪郭をもって眼前するのではないのだろうか。

次の世はアテルイ目指せまむし草 坂本祥子
 漢方薬として有用なものの名前の連想から嫌われる“まむし草”。輪廻転生を信じるとすれば“まむし草”は前世は一体何だったのだろうか。それは別としても次の世はアテルイを目指せと言う。日本列島の先住民は北へ北へと和人に追い詰められるばかりだったが、先住民の蜂起のリーダー・アテルイは敗北。以後、歴史の舞台は本州中心に軸を移していく。“まむし草よ次の世は必ずや悲劇”という冠詞なき英雄として生まれ変わって欲しいと心からの作者の叫びのように聴こえてきた。

石棺を出でしより蝶のひかりかな 白石司子
 難解な語句は一つもないが、難渋してしまいそうである。読んでの通りと言われれば読者の私の理解力の貧困を言っているようなものだが、これは事実詠ではないとすれば極めて簡単だ。野に打ち捨てられた平民の屍は別として高貴な人の屍は副葬品とともに丁重に儀式された。その石棺から何かを訴えたいのか、単純に春爛漫の現世に浮かれ出たのかは知らず、春の光を照り返しながら、別名プシケは魂の塊となって古代から現代への旅立ちとなったのか。作者のロマンの何と明るいことか。

夏の河歴史の藻屑遣欧使節 滝澤泰斗
 夏の河といえば山口誓子の“夏の河赤き鉄鎖のはし浸る”が知られているが即物に徹している。作者はむしろ『方丈記』が念頭にあったのかも知れない。夏の河底には生を何代も繰り返す藻が揺らいでいる。天正年間にローマに派遣された少年使節団も、河の藻屑のように歴史に呑み込まれてしまった。帰国して棄教したもの、節を曲げなかったものありという。先進文化に直に接した少年たちは、顧みて日本という国の長所短所を痛感したことだろう。

新緑や先頭をゆくクリトリス 横山隆
 なんと大胆な、なんとおおらかな女性観よ。万物すべて噎せ返るような、それでいて官能をいっせいに呼び覚ます新緑の季節よである。“華麗な墓原女陰あらわに村眠り”(兜太)と女性の肉体の最も敏感な部分を直截に言っている先蹤があるが、横山句とは作句時の時代状況も年齢も違う。その違いは横山は己れの肉体の衰えを痛感しているのかも知れない。それにしてもウーマンリブではないが女性の自己主張を“先頭をゆく”と強調していて止まない。下五“クリトリス”はあるいは最初にして最後の語彙となるかも知れない。これは私の偏見にして管見のせいかも知れないが。
麦秋の勾玉のごとぬれてゐる 吉田朝子
 麦畑が最も輝かしいのは初夏である。青空と黄金色の穂波の麦畑は望郷の念を刺戟すること大である。“勾玉のごとぬれてゐる”と比喩した対象物は何物なのか作者以外には分からないが、恣意な想像を許されるなら若い女性であろうか。胎内にあって胎児は羊水に遊弋して、まさにぬれているのだが、その胎児のように、現世にあって新鮮に輝いている。これほどの生きていることの讃歌はない。生の営みが神である自然の力に左右されつつ人智を超えて掲句のような世界が顕ちあらわれる。この“勾玉”は永却に濡れ続く。

◆金子兜太 私の一句

どれも口美し晩夏のジャズ一団 兜太

 平和と自由の象徴のジャズに託し、奏者との一体化を「どれも口美し」と瑞々しく捉えた。その解放された高揚感は晩夏のひかりの中へ。日比谷公園、おそらく野外音楽堂に満ちていた。それは希求していた自由を手にした歓びでもある。戦後の風景を淡彩に叙した。この斬新さに魅了される。美しいリリカルな句、と思う。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。田口満代子

華麗な墓原女陰あらわに村眠り 兜太

 寒雷から海程への歩みを確定させてくれたのが師の『定型の詩法』である。その中で「造型俳句」というものが態度の確保された手法であることを学んだのがこの句の成立について述懐された一文である。このことを体感的にも確かめたくて句の生まれた野母半島は三回訪れた。この自然風土にあっての精神風土の形成かとその後の私の歩みにとっては信念ともなった。『金子兜太句集』(昭和36年)より。野田信章

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
 〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


尾形ゆきお 選
産土の木の実木の家空家かな 有村王志
夜桜や魔界の口を見たような 石橋いろり
足裏のざわざわ暗し花は葉に 伊藤淳子
鬱という一つの漂泊花薊 伊藤雅彦
花冷えのからだは薄き器なる 伊藤道郎
写真から天地悠々の風あはは 大髙宏允
○帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
桜満開突然闇に引き込まれ 髙橋一枝
○鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
悔恨や雪に埋もれし花馬酔木 田中亜美
空っぽの本棚春満月のごと灯り 鳥山由貴子
陽炎のセクシー猫ゆくもセクシー 西美惠子
○あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
青麦のきらきらきらと物忘れ 藤野武
○鳥類の天にエレベーターの柩 北條貢司
生温い目をして鴨の残りたる 堀真知子
塔炎上祈りの色としてフリージア 村上友子
○蛇口からポトリと落ちる朧月 山内崇弘
浮けよ流れよ春オホーツクの溺死体 横山隆

十河宣洋 選
一匙ほどの春愁いきなりドア軋む 安藤和子
抱卵の明るさノート横書きに 市原光子
癌告知差し当って野を焼こう 伊藤幸
○リュウグウは遥か天蚕うすみどり 大西健司
花冷えの舫解くよう接吻す 片岡秀樹
間引菜を茹でる圧倒的自由 狩野康子
妻逝けば夫はすぐ散る桜かな 川崎益太郎
桜の下でくみたてている戦闘機 河西志帆
踏青やわたくしも色無きたましい 佐孝石画
○まなざしはやさしいことば初桜 月野ぽぽな
満開や首までひたひたと桜 中内亮玄
○あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
断捨離せず夫の恋文持ちてそろ 疋田恵美子
だるまさんが転んだらしい春炬燵 藤原美恵子
蝶の昼人肌ほどの幼なじみ 増田暁子
木の芽時紙の鍵盤わたしの音 宮崎斗士
さえずりか先生からの耳打ちか 室田洋子
花ひらくなり骨片うすく在り 茂里美絵
朝寝して転げ落ちるよ地球から 山内崇弘
3・11ひとりになれば一行書く 若森京子

遠山郁好 選
どこまでを途中と言うかクローバー 伊藤淳子
春飛魚にひとつの言葉のせてみる 上原祥子
枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
○立春やの手とろとろ甘噛す 大沢輝一
○リュウグウは遥か天蚕うすみどり 大西健司
白魚大漁そして一気に改元へ 金子斐子
花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
肉球の感触とめどなき春愁 近藤亜沙美
草木瓜の花や夕日を放さない 篠田悦子
児玉さん逝くきさらぎの草の妻 芹沢愛子
○鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
日本の傷に向かって蛙鳴く 豊原清明
満天星躑躅水平器の泡動く 鳥山由貴子
猫見上げる空はたゆたゆ春が来た 中島まゆみ
○鳥類の天にエレベーターの柩 北條貢司
とねりことねりこ唱えて眠くなりにけり 水野真由美
畦塗りの黄泉へつながるほどの照り 武藤鉦二
思い断ち切っても赤花常磐万作 村上友子
○蛇口からポトリと落ちる朧月 山内崇弘
ゆめやゆめうつつやゆめやうすべにの 山本掌

松井麻容子 選

まだそこに昨日がありて桜騒さくらざい 伊藤淳子
○立春やの手とろとろ甘噛す 大沢輝一
花冷えの夜は孤独死など思う 木村和彦
○帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
ははの忌の白蝶森に逃がしけり 小西瞬夏
他者という表面張力青き踏む 佐孝石画
囀りに目覚め包丁どれ使う 佐藤紀生子
ランナーの手足青葉若葉かな 重松敬子
草青むアルパカと同じ背の少女 芹沢愛子
○まなざしはやさしいことば初桜 月野ぽぽな
うしろの正面花の殺意が近すぎる 中塚紀代子
この海のすこしむこうの春の海 平田薫
水温になるまで眠る朧月 藤原美恵子
脇役のいつしか主役冬すみれ 松本悦子
持ち歩く心臓へ降る桜蘂 松本勇二
鷗の仕事春あけぼのを告げること マブソン青眼
花かたくり師を偲ぶときふっと乱視 宮崎斗士
ふりむけばひかりほどけるせりなずな 矢野千代子
青嵐乳房その他に溺れるな らふ亜沙弥
白昼や引き潮のごと雛の部屋 若森京子

◆三句鑑賞

葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
 「情念」という言葉自体、すでにかなりの湿り気を帯びている気がするが、それが「水びたし」なのだ。何か味の濃い漬物にさらに醬油を足して出されたようなボリューム感(?)を感じる。この乾いた時代にこのように葉桜を描いているのはかえって魅力的だが、「水びたしの情念」に浸っているのは葉桜ではなく、たぶん作者なのだ。

青麦のきらきらきらと物忘れ 藤野武
 「老人力」ではないが、物忘れを肯定的に捉えている所にまず心惹かれた。一面の麦畑に光が当たって輝いているように、物忘れをしてもこのように明るくいられるのなら、した方もされた方も救われるのではないか。きらきらきらの擬態語がミラーボールの乱反射のようにも思われ、散乱する記憶の暗喩として新鮮に感じた。

鳥類の天にエレベーターの柩 北條貢司
 「鳥類の空」ではなく、「鳥類の天」である。作者は北海道の方なのでなるほどと思った。一読他愛もない句にも思えるが、映画「鳥」のワンシーンみたいに、多数の鳥が乱舞している不吉な空の下、ビルのシースルーエレベーターがいっきに昇っていく映像が頭から離れない。「柩」という喩えも上手い。「鳥葬」という言葉をなぜか連想した。
(鑑賞・尾形ゆきお)

桜の下でくみたてている戦闘機 河西志帆
 平和ボケしている日本を突き放して見ている。花に浮かれている一見平和に見える私たちの生活であるが、目を転じてみれば、戦闘機どころか様々な武器が日本でも製造されている。日本の武器製造所はどこ?などと呆けてはいられないよと。作者の想いが見事に日本人の心理を活写した。

蝶の昼人肌ほどの幼なじみ 増田暁子
 やわらかい時間の楽しさを感じる。幼なじみとの交歓の楽しい時間が作り上げるひと時が作者の宝物の時間である。幼なじみは近くに居そうでなかなか居ないものである。しかも、人肌という楚辞の中に作者と幼なじみとの関係が伝わってくる。何を言っても受け止めてくれる。そんな関係が見えてくる。

さえずりか先生からの耳打ちか 室田洋子
 先生との愛の交感、と思いたい。声が大きくて明瞭な兜太先生の話が思い出される。多分作者もその辺を言いたいのであろうと見当をつけて読んだ。その先生の声が聞こえたのである。ある時ふっと。耳を澄ましてみたがもうその声は何処かへ消えてしまった。夢か幻聴か、そうではない。先生が来たのだ。
(鑑賞・十河宣洋)

枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
 枯れ草に日が射し、黄金色に変わるとき、そこに風が吹き、枯れ草も人も全てを溶かし、自然と同化する様は、懐かしく神々しくさえある。感動を率直な言葉で韻律に乗せ、こんなに端正で美しい世界を開示し、しかも、ものの真髄に触れるこの作品。しみじみ作者の佇まいを思い、俳句形式の恩寵を思わずにはいられない。

花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
 慈しみ愛しむ、なんと日常の淡々と豊かなことか。花菜の黄の弾むような明るさを摘み取る妻。その妻と過ごした歳月を「猫背の妻も景色」と言う作者の妻への優しい眼差しは、これまでの全てを包み込む親愛と慈愛に満ち溢れている。そして結びの、少し照れて、幼く付け足したように置かれたは、この句を一層魅力的にする。

肉球の感触とめどなき春愁 近藤亜沙美
 丸く盛り上り、ただ柔らかいだけでなく、不思議な手触りの桃色の肉球を春愁と感受した作者に惹かれる。その肉の下に鋭い爪を隠していることなど考えず、いつまでも触れていていいのだろうか。溺れそうな遣り切れなさを、とめどなき春愁と言う作者。つぎつぎ押し寄す春愁に身を浸す自分を美しいと思うことにする。
(鑑賞・遠山郁好)

花冷えの夜は孤独死など思う 木村和彦
 花冷えの皮膚感覚にくる空気感が死を連想させる。身体を包む淋しさやなんとなくの悲しさ。夜の花明かりの淡さから、孤独死にたどり着いたのか。桜と死は近い世界で、色々なこの世ではない世界を思い描くことに魅了される。孤独死はやや重い言葉だが、下五の「など思う」の「など」の曖昧さが全体的な軽さを出している。

水温になるまで眠る朧月 藤原美恵子
 朧月に温度を感じるということにまず、驚いた。月の距離感や質感を感じることはあっても温度のことを考えたことがあまりなく「水温になるまで」の導入がぐっときた。なるまで眠るという時間の経過の表現に、作者の優しさが伝わってくる。朧月のもつ独特のふんわりとした感じがうまく表現されていると思う。

青嵐乳房その他に溺れるな らふ亜沙弥
 青嵐の躍動感やドラマ性のある上五から、中七下五の強烈な表現がすごい。ガツンときた。「その他」に色々な想像、妄想を搔き立てられる。溺れるなと言われれば、溺れてしまいたくなる。その甘美な世界に浸ってみたい気持ちになる。どこか自堕落になりたい、でもギリギリで許されない世界。とても魅力的な世界観。
(鑑賞・松井麻容子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

仮の世に夫に焼かれし鮎置かる 有栖川蘭子
北斎の神妙美人画蟹を吸う 飯塚真弓
口説くための蛾の鱗粉の胸の奥 泉陽太郎
人の名をいくつも忘れ蕗を煮る 上田輝子
つれづれに鰻を食みてひと日果つ 上野有紀子
ネクタイを選ぶ母よ夏の恋人 大池桜子
手を振るは帰らぬ人か花は葉に 大渕久幸
人間の魅力は矛盾夏はじめ 荻谷修
女医さんの風呂に手織りの鶴がいた 葛城裸時
青嵐修司とハツは同じ墓 木村リュウジ
すこし濡れついにびしょ濡れ水鉄砲 工藤篁子
清水汲む少女の腕に緋のタトゥー 黒済泰子
色丹たんぽぽ北方気質な母 小林ろば
ブロンズの小さな裸夏の窓 小松敦
怠慢な安心だった麦枯るる 近藤真由美
牡丹切り海に流れる五月かな 齊藤建春
閉架書庫ふつと蛍の匂ひせり 三枝みずほ
沼杉の根っこも木だねぽたぽた歩く たけなか華那
猫じゃらしガキ大将に追われてた 仲村トヨ子
若き日を肴に飲んで梅雨寒し 野口佐稔
赴任してもう渾名付く五月かな 松尾信太郎
水母うふっと貧乏人はみな善人 松﨑あきら
白雨やむ誰も拾わぬキーホルダー 松本千花
形代に息吹きかけて余生かな 丸山初美
黴の香に労われ遺品整理かな 武藤幹
毛虫焼くときもしずかな薬指 望月士郎
ひと夏の密室に死し蝸牛 山本幸風
皐月闇嗅げば六波羅蜜寺かな 吉田貢 (吉田貢の吉は土に口)
韮は明日もきっと韮です元気です 吉田もろび
夏燕貴様と俺はまだ米寿 渡辺厳太郎

◆追悼  三井絹枝 遺句抄

小春日が流れてきます汲んでおこう(『狐に礼』より)
諦めのひゅう葡萄の木の匂う
川とんぼ私のおなかに耳をあて
二月には遠くへ抜けて鳥になり
月光と降る羽衣わたしははだか
姉さんの白鳥の透き通る声
長閑だねえ朝霧と夫入れ替わり
みずうみすう哀れ蚊の鳴く声かな
狐に礼しみじみ顔のゆがみけり
淡雪は古風ですねえ 先生
幼子二人に一つの枕薄紅梅(「海程」「海原」より)
古書店の帰り冬鳥とほうよう
淋しさもほろりと抜けし木のほとけ
蚊に刺され小さな水黽できました
一夜汲み二夜風汲み花すすき
陽炎の小さな花屋はじめます
白い梅ふしぎそうに皆年をとり
初鶯手に乗せて湯に入ります
風蘭のかたえ歩いてゆく恋や
彼岸寺ほそほそ一人言咲く
(野原瑤子・佐藤美紀江抄出)

絹枝さんありがとうさようなら  森岡佳子

 絹枝さんとは双方の娘が小学校入学時から仲良しになったので、母親同士も自然に付き合いが始まりました。ちょうど四十年になります。その間、たくさんの優しさと楽しい思い出をいただきました。寂しさとともに心からのありがとうの気持ちでいっぱいです。
 絹枝さんを最初に俳句の道に誘ったのは私で、NHKテレビの俳句の時間を一緒にしたことから始まりました。絹枝さんの俳句の乳母は私、なんて自慢したりもしました。渋谷の区民講座で楠本憲吉氏に教わり、次いで朝日カルチャーセンターの金子兜太先生に学び、「海程」で独自の個性を開花させました。
 絹枝さんに連れられて、よく行った吟行のことは忘れられません。中でも玉原高原の一泊吟行は、初めて経験する句会の緊張感と兜太先生を間近にできる喜び。そして句会の後の兜太先生を囲んでの談笑の時間。先生と秩父音頭を一緒に踊ったこと。また、満天の星の感動や翌日の自然観察の時間など、こんな得難い珠玉の体験ができたのも、みんな絹枝さんに誘われたからのお陰です。
 二年前の六月、急遽手術を受ける事態になるまで、病気のことは隠し通していましたが、病状は一進一退を繰り返しつつ、今年二月初めには外出できるくらいに元気でした。三月末で治療をやめる決心をされ、七月に入ると点滴ももう要らないと止められたそうです。七日の誕生日までは難しいとの医師の予測に、五日、長女が急遽七十二歳の誕生日を開きました。そして、翌六日午後六時半、娘さんたちも気づかないうち、静かに息を引き取られたそうです。常々「静かに煙のようにこの世から消えたいの」と言っておられたとおりの旅立ちでした。
 実は亡くなる一カ月ほど前の六月六日に、三井さんがご自宅に招いてくださり、一緒に俳句を作る時間がありました。その時に作られたものが最後の作品となりました。
  種はひとつぶ神様になり風蘭のよう
  蜘蛛の頭は人形のよう動きし
  七夕の日までは待てずしおれて
  後ろから雀のようほと泣きし
  うれしいなあ辛いこともなくなり七夕むかえ

『海原』No.11(2019/9/1発行)

◆No.11 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出


春愁のゴリラの背中名前がない 綾田節子
たんぽぽの絮よいつよりこの動悸 伊藤淳子
花馬酔木母と触れ合っている言葉 伊藤雅彦
藤の花母性に昏き小部屋あり 伊藤道郎
葉桜や帰還若者老けて見ゆ 江井芳朗
糠床に錆釘種まき唄が聞こえる 大西健司
薄氷や女だてらという言葉 奥山富江
歯車が歯車を押し弥生かな 小野裕三
すかんぽや妣の手いつも湿りけり 片町節子
母を看て時々椿落ちにけり 加藤昭子
リラ冷えの着信音という隙間 金子斐子
子等が来て家中鯉が泳ぎけり 川崎千鶴子
楠若葉さびしい小鳥お断り 河原珠美
昼過ぎの夏蝶舌のしづもれり 小西瞬夏
夢に原発雨はプラチナの鎖 清水茉紀
この町に不義理もありて桜見に 鈴木栄司
麦の秋「みんなの体操」一人でして 田中雅秀
ひと逝きて水かげろうのそのまわり 遠山郁好
夕薄暑除染作業の求人欄 根本菜穂子
遺影の君はすこし上向きすいかずら 野田信章
応援の連唱のよう百千鳥 長谷川順子
卯の花腐し髪梳くように浪費して 日高玲
夢に兜太夏雲をやわらかく抱きて 藤野武
不眠症金魚は朝の夕陽である 北條貢司
蝶の昼だれかれの目にサスペンス 三好つや子
呼び止める令和の朝の姫じょおん 村上友子
ポンポンダリア老いにこそ相聞歌 森鈴
磯巾着ふわりふわりと認知症 森由美子
花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
カーネーションやっぱり写真の母に買う 諸寿子

佃悦夫●抄出

朧夜の吽形物を言いたげに 石川和子
ガラス質の少女駈け出し夏兆す 市原光子
令和元年五月一日当番医 江良修
蓬の精かな少年が立っている 大髙洋子
死者たちを蓄えし闇薪能 片岡秀樹
麦の秋海の中では帆立貝ほたて跳び 片町節子
限界集落さめざめと蛇穴を出る 加藤昭子
しろつめ草雲と私編み込んで 川田由美子
花の冷え青のとけだす硝子玉 小西瞬夏
無住寺にこたえ求めて西行忌 坂本祥子
鳥帰る沼も私も穴だらけ 佐々木宏
花水木ままごとのような友の墓 白石修章
黒揚羽弁才天にまぎれたる 関田誓炎
目借時獏がうろうろしてならぬ 瀬古多永
雑炊と卒塔婆の路地に紙ヒコーキ 竹内義聿
はつなつの乳房はやわらかい半島 月野ぽぽな
短命な初蝶といる君といる 椿良松
洗いざらしのステテコが好き草の花 遠山恵子
ボタン失くしたあのきさらぎの雑木林 鳥山由貴子
どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
天の川猫はねずみを追いかける 永田和子
若き日の百冊灰に鳥雲に 新野祐子
胃カメラの何処まで行っても蝶の羽音 藤野武
緑陰に来し方うつくしい老婆 本田ひとみ
風で描く自画像もあり五月来る 宮崎斗士
散りぎわに薄目をあける朝桜 三好つや子
緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
石の下蟻の体臭どっとくる 山内崇弘
遠蛙群青いろの村だった 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

たんぽぽの絮よいつよりこの動悸 伊藤淳子
 いつよりか兆し始めた体調の変化、それが加齢にともなうものだとしたら、もはや受け入れるしかない。この句の声調には、しのびよる衰えをおのれの体感で確かめながら、静かに向かい合おうとしている作者がある。たんぽぽの絮は、幼い頃から幾たび見てきたかわからないが、その都度の体感が加齢とともに微妙に変わってきていることにも気づかされる。老いに対する認識や心構えなど遠い景色と思っていたのに、近頃頻繁に訪れる動悸は、にわかにその遠景が近づいてきたとも思わせる。それはいつごろからのことだったろう。そのときたんぽぽの絮を、いのちのいとおしさのように感じている。

糠床に錆釘種まき唄が聞こえる 大西健司
 糠床は、糠漬を作るために、糠に塩や水を加えたもの。殊に地方での食生活には欠かせない。種まきは、春彼岸の頃から八十八夜にかけてが好時期とされている。糠漬の決め手は糠床にあるが、あまり暑くならないうちに作り置くものなのだろう。種まきの時期は、糠床に野菜を漬け込む好時期でもある。作者は幼い頃から、種まき唄の聞こえる初夏に糠床作りを体験していたに違いない。その大事な糠床に錆釘が入っていたという。まさに一家の一大事で大騒ぎとなった。それは糠床の匂いと種まき唄が、ふるさとの生なましい思い出として甦ってくる。

すかんぽや妣の手いつも湿りけり 片町節子
 すかんぽは春から初夏にかけて、田の畔や野原に赤い穂を揺らす。茎葉に酸味があり、あまり見映えのしない花だが、不思議になつかしさを誘うものがある。「すかんぽ」の語感が、幼き日の母の思い出にもつながる。そういえば手をつないでくれた亡き母の手は、いつも湿り気を帯びていた。その皮膚感覚が母の感触として忘れられない。「湿り」にいのちの息づかいがある。

母を看て時々椿落ちにけり 加藤昭子
 「母を看て」とは、母の介護に努めていることを指すのだろう。おそらく重篤の状態が予想される。かなり張りつめた病床の緊張感である。その重い静寂の最中に、時々庭の椿の花の落ちる音が間を置いて聞こえてくる。それは、刻一刻と消えつつあるいのちを刻む音でもあろう。「時々椿落ちにけり」が、緊迫した時の推移を伝えている。

この町に不義理もありて桜見に 鈴木栄司
 「この町に不義理」があったとは、具体的にはよくわからないが、かつてこの町で肉親を含めて長く住み、多くの人々にいろいろとお世話になったのに、そのお返しもしていないという気持ちの上での恩義感をいうのではないか。その時から長い月日を経て、もはや恩義に報いるべき人も居なくなり、お返しするすべもない。せめてこの町の桜時に桜見物に行って、往時を偲び感謝の気持ちを忘れまいという。「不義理もありて」に、ままならぬ人の世のしがらみとさだめを思う。

遺影の君はすこし上向きすいかずら 野田信章
 「遺影の君」とは、おそらく愛する人の遺影なのだろう。その面影は今もまざと瞼の裏にある。遺影を見つめ返すことで、瞼の裏に面影の上書きをしているに違いない。遺影は「すこし上向き」で、睫毛越しに眸が大きく見ひらかれている。すいかずらは香りが強く、甘くなやましいおもいを誘う。遺影を見つめているとしあわせだった頃の思い出がよみがえる。いかにも当事者ならではの体感であり、映画的ともおもえるような、映像のショットである。

不眠症金魚は朝の夕陽である 北條貢司
 不眠症で一晩眠れなかった朝。窓辺の金魚鉢に射しこんでいる朝日の光を見たのだろう。頭は重く、眼はショボついているのに、陽の光だけは眩しい。金魚の鱗に反射する光は、朝日に違いないのに、自分には夕陽のような重苦しい感じに見えている。その体感を「金魚は朝の夕陽である」と断定した。その一瞬の時空の転換によって、不眠症の体感を言い当てたのである。

蝶の昼だれかれの目にサスペンス 三好つや子
 時は夏の真昼。所は蝶の飛び交っている公園。そのほんのひと時に、人通りが絶えて不気味な空間がひっそりと静まりかえっている。あたかもなにかの事件の予感のような、それは見た人ならだれかれなく、サスペンス劇の始まりを想像させるような瞬間だった。

磯巾着ふわりふわりと認知症 森由美子
 磯巾着は、浅海の岩場に生息し、花のように触手をひらいて獲物を待っている。魚などの餌が触れると捉えて口を締める。ふだんはふわりふわりと海水の中で漂っているが、それはあたかも認知症の人の行動のように、とりとめがない。おそらく、作者の身辺で見かける実感そのものなのだろう。とはいえ、下手に対応しようものなら、たちどころに食いつかれることもある。それは磯巾着同様の厄介さなのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 佃悦夫

朧夜の吽形物を言いたげに 石川和子
 朧夜は悪だろうと善だろうと隠してしまう。現世のわずらわしさを一時でも忘却させてくれる朧の夜は茫漠として広がる。この阿吽像二体は何処に存在しているのだろうか。作者宅に佇立しているのだろうか。吽形一体のみは考え難い。いずれにしても口を永遠に閉ざしてしまったかに見える吽形鬼もやはり内心に言いたいことを我慢しているのだろう。その唇はかすかに動いたのではなかろうか。

令和元年五月一日当番医 江良修
 今月号も改元についての多数の作品が見られたが、本作品に止めを刺したい。改元一日目であろうと救急病院の当番医には何ほどの変わりはない。患者が運ばれてくれば手を尽くして使命を全うするばかりだ。当番医も家庭に帰って改元を改めて意識したことだろう。

死者たちを蓄えし闇薪能 片岡秀樹
 篝火が激しい音を挙げて燃え盛る。篝火のほかは将に闇の世界。燃え盛るほど闇は深海のようだ。演目ほとんどが死んでも死に切れぬ怨霊の呻きに違いない。この世を全う出来ずに無念の死を強いられたものの魂が篝火にもなおのこと激しく訴えているのかも知れない。

麦の秋海の中では帆立貝 ほたて跳び 片町節子
 一般的によほどのことが無い限り海中の世界まで思い及ばない。地上では麦の秋という。麦の穂が風に揺らいで、その豊作を謳っているのだが、その一方の海中では帆立貝も生の営みに懸命である。移動のためか、はたまた餌を捉えるためか、跳躍しているに違いないと、作者はその生命に想像を限りなく巡らしている。

鳥帰る沼も私も穴だらけ 佐々木宏
 歳月は間断なく運行を続けている。今年も候鳥が日本を飛び去って行く日がきたのだという詠嘆が“鳥帰る”と言わしめた。蛙の跳び込んだ沼か、やがて蓮の花が咲くであろう沼か。人間には両眼・両耳・鼻孔・後陰・前陰の九穴があるという。ただし本作は九穴以上に欠陥だらけと卑下しているのかも知れない。

目借時獏がうろうろしてならぬ 瀬古多永
 使い古された季語“目借時”だが、蛙ならぬ作者もつい居眠りの境に入りそうな寸前の漠とした気分を“獏”に身代りしてもらっている。もちろん、人間の悪夢を食う獏が、瞼に右往左往しているのであろう。中七以下の現在進行形は現実か夢かの境界の定かならぬ目借時だ。

どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
 念のために字典を索くと“どく”は毒、“だみ”は矯める・止めるの意とあり漢方を思い出す。本作は作者のみが知るストーリーを秘めている気がしてならない。獅子身中の虫ではないが決してポジティブな思いではなく、瞬時の灰かぐらからは苦い苦い場面が再現してくるのであろう。

緑陰に来し方うつくしい老婆 本田ひとみ
 西東三鬼“緑陰に三人の老婆笑へりき”を誰でも思い出すであろう。三鬼作は本田作を貶めるために掲出したのではもちろんない。作者は三鬼作を承知した上である。人生百年という現今、何歳以上を老婆というのかは問わないが、人生決して平坦であろうはずはなく、来し方のさまざまを超越し切った“うつくしい老婆”と思わず感嘆しきりだったのだ。その上に己れを顧みて、この老婆のようにかくありたいと思った。

風で描く自画像もあり五月来る 宮崎斗士
 世に自画像は無数にあろう。画材・大きさ・機会・美化などさまざまだ。ゆえに自画像の“も”の所以である。本作品は何とも爽快で軽快であり、きっと微笑しているのだろう。風で描いたという作者の意識の働きが想像されるが“風”“五月”という言葉の力を思った。また無言館にまで思いも及ぶ。それにしても風貌なる言葉とはまさにこの自画像を措いてはなかろう。

緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
 時は夏。この永井廊下とは社寺のようなものではなく自宅と見たい。鏡の中にまで樹々の緑が生きもののように在る。その鏡に長い廊下が映っているという叙景句だが、生きてきた何人もの足跡が刻されていることだろう。その家の歴史そのものの光っている廊下。何処までも無限に続いているかに錯覚してしまう。叙景以上のものが見えてくる廊下の佇まいといえる。

遠蛙群青いろの村だった 横地かをる
 過去への追憶だろうか。“だった”と詠嘆しているが、その村も作者も老いた。さまざまの青に囲繞された安息の日々の暮らしがあった。“遠蛙”はその感傷を増幅した。

◆金子兜太 私の一句

河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく 兜太

 「今、お風呂から上ってくるので、ここでお待ちなさい」とのご内室のお言葉。下着姿の金子先生に福岡の旅館の居室で頂いた色紙。何時ごろ書かれた作か正確には知らないが、眼前でご揮毫いただいた時、俳句の自由・自在さに驚いた。《河の歯》の具体は分からないが、誰が名付けたか所謂前衛俳句の旗手であり新しい俳句を開墾する、そんな思いの丈の表出であったのかも知れない。句集『狡童』(昭和50年)より。瀧春樹

孤独な鹿草けり水けり追われる鹿 兜太

 初学の頃、夫が買ってくれた講談社の日本大歳時記を読むのが好きだった。カラー写真や絵が多く、小川芋銭の「狐火」などを見つけては喜んでいたものだった。大好きな鹿の項目の最後に載っていたのが掲句である。童話の中の鹿に気持ちを寄せるように鑑賞していたあの頃だったが、前衛の先頭を疾駆する若き日の先生の苦悩さえ、今なら思い描くことができるような気がしている。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。河原珠美

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


大西健司 選
除染未だ凍てし原野に寝息かな 伊藤巌
髪束ねまた来てねって気楽なムスカリ 伊藤幸
鳥雲にどこかで舟を出す気配 伊藤淳子
カフェオレに春満月を入れて恋 大池美木
啓蟄や自分をボクと呼ぶ少女 奥山和子
引っぱって外すネクタイ霾ぐもり 加藤昭子
まんさくの薄き縫い目を野にほどく 川田由美子
○狐火匂う我が出自という斜面 白石司子
○ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
啓蟄の口角少しだけ上がる 鳥山由貴子
かひやぐら沖へ消えゆく流人舟 長尾向季
母の忌の薄日の中の菜飯かな 新野祐子
梅三分眉引くときは他人です 増田暁子
古民家カフェへパンジーの路地ぬけて 三世川浩司
優しさうな梅のおでこにことんと愛 三井絹枝
○一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
牡蠣啜る寄り目の妻のあどけなき 森鈴
そうなのよ左乳房はライラック らふ亜沙弥
デカンタにワイン春蝉の気がして 六本木いつき
重ね着は樹木のしめり死者生者 若森京子

片岡秀樹 選
納棺師動かざるものに春の虹 赤崎ゆういち
寒三日月あうんのうんの罅割れる 石川青狼
互いに素それがよくって日向ぼこ 伊藤巌
春愁のポケット多き旅鞄 加藤昭子
○枕木と同じ匂いの春の鳶 川田由美子
おしゃべりはひかりの遊び花三椏 河原珠美
鳥交る栓を閉めても水の音 北上正枝
○笹鳴きや今日は生きたい方の母 木下よう子
○茶碗酒野焼の匂う男たち 小宮豊和
冬の雨ふと雑踏という浅瀬 佐孝石画
一茶忌や6Bエンピツ削ぐ男 清水茉紀
雪柳君といる仮説を立てる 竹田昭江
○ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
でこぼこに住んでふる里蝌蚪に脚 永田タヱ子
蛇穴を出て喋らない方がいい 丹生千賀
華やぎは枇杷の花ほど旅芝居 長谷川順子
憂鬱という字の中のフィヨルドよ 北條貢司
剪定の梯子ひとつと暮れ残る 松岡良子
○一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
天に澄む凧の力を子に渡す 山口伸

桂凜火 選
半分はへこたれて搔く分厚い雪 石川青狼
冬眠の師の領域ぞ誰か咳く 伊藤淳子
フクシマといい沖縄といい蓮根太る 稲葉千尋
木のどこに触れても春の水の音 大沢輝一
僧のごと鬱の日の冬木立 尾形ゆきお
春暁の鴉あわあわあかんたれ 河原珠美
○笹鳴きや今日は生きたい方の母 木下ようこ
七転八起別れ楽しも春の雪 久保智恵
○茶碗酒野焼の匂う男たち 小宮豊和
○人の背に文字の混みゆく時雨かな 佐孝石画
眩しさの雪野へ眼玉転がれる 佐々木義雄
○狐火匂う我が出自という斜面 白石司子
牡丹雪死者に無いものねだりする 芹沢愛子
さあこれで見るものはみた冬欅 平田薫
「愛に近いもの」そんなの要らぬ榾火かな マブソン青眼
男運悪しき手相やシクラメン 森武晴美
蕗味噌舐め「自然」を「うぶ」と読み兜太 柳生正名
夕田鶴は なげうつごとく息使う 矢野千代子
○へその緒を戻してみたき雨水かな 山下一夫
フルートの少女つめたき耳ふたつ 横地かをる

日高玲 選
春の鹿窓往く人びとの系譜 石川まゆみ
三月を笑いころげてただ哀し 宇川啓子
独活を待っている孤独のページかな 大髙洋子
ふきのとう開いて猫を眠らせる 奥山和子
凍土ひそひそひそケルト文明史 小野裕三
海鼠切る吾が体幹のゆらぎかな 狩野康子
○枕木と同じ匂いの春の鳶 川田由美子
木椅子とは一種定型鳥雲に 北村美都子
猪罠のからっぽ夕日落ちてゆく 小池弘子
生き物の凹みにたまる春の雨 こしのゆみこ
最北の線路の石は野にかえり 近藤守男
○人の背に文字の混みゆく時雨かな 佐孝石画
まんさくやセントヨハネのちぢれ髪 猿渡道子
三椏の蕾微笑む麗子像 髙井元一
ポケットの梅の花片いつか失せ 田中雅秀
春愁や輪ゴムをギターのようにき 峠谷清広
生しらす愛憎もまた遠い景 藤野武
みんな帰りふらここからポルトガル語 堀真知子
マスクして居留守のような昼の顔 三好つや子
○へその緒を戻してみたき雨水かな 山下一夫

◆三句鑑賞

一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
 斗士さんの文体そのもの。意味を追っても混乱するばかり。感覚でわかるかわからないか、それだけだろう。わたしも二人のおじ、そして年下のいとこの一周忌がまもなくなだけに、なんとなくこの仮縫いという感覚がわかるような気がする。これが両親だったりするともっとこの思いは強いのだろう。不思議な魅力のある句。

除染未だ凍てし原野に寝息かな 伊藤巌
 少し道具立てが公式的かななどと勝手なことを思いつつ、その内容の重さにこだわっている。未だ故郷に帰還出来ずにいる人たちに思いを馳せつつ、春遠い原野に命を暖め、ひたすら春を待つ生き物たちを愛おしく思う作者。堪え忍ぶ命は未だ帰還出来ぬ人々そのものなのだろう。生き物感覚のよろしさを思う。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 何とも難解な句ながら、言わんとすることは伝わってくる。人として日常生活を営む中、人々の群れの中を流離いながら過ごしている。少し抹香臭いのは、竹本さんが確か淡路島のお寺のご住職ゆえと納得しつつ、春岬と納めたところに救いを感じている。行き着く先は青みを増し始めた岬が心地よい。「匂いを漂流」がことに秀逸。
(鑑賞・大西健司)

互いに素それがよくって日向ぼこ 伊藤巌
 1以外の公約数を持たない関係を「互いに素」という。中学校で習う数学用語だが、これを人間関係に転用すれば、共通点を持たない集合となる。日向ぼこの場面として、通常私達が想起する、同性の子供達や老夫婦といった、共有点を多く持つ人々の姿はここには無い。年齢、性別、文化、主義主張、国籍すら異なる人々がそれを是として日向ぼこする、これは作者の示す平和論であろう。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 たとえ家族を捨て、故郷を離れ、世間のしがらみの一切を振り払っても、人は人との関係を全く絶って暮らすことは出来ない。逃れ逃れて辿り着いた最果ての岬においても、人は「ひとの匂い」を求め、その中で漂うのだろう。それが人の定めであり、また救いでもあると、「春」の措辞は伝えている。

憂鬱という字の中のフィヨルドよ 北條貢司
 憂鬱という漢字は、複雑に入り組んだ入江のような字形をなす。確かに、北極圏に見られるフィヨルドの海岸線に似ている。絶望の画家ムンクは、『叫び』の背景にオスロのフィヨルドを不穏なタッチで描き込んだ。フィヨルド、それは鬱に苦しむ人間に向かって開口する、非人間的な深淵に他ならない。
(鑑賞・片岡秀樹)

冬眠の師の領域ぞ誰か咳く 伊藤淳子
 師はまだ冬眠中で、いつか目覚めることもというのとは少し違う。おそらくは魂の領域の話。肉体はないけれど自分の側にいる師の魂を作者は感じることができている。誰にも邪魔されたくない至福の領域。だが、「誰か咳く」という生身の人間の気配がある。そのことでより鮮明となる寂寞の世界にとても心惹かれた。

笹鳴きや今日は生きたい方の母 木下ようこ
 生きるのに日々意味を問わねばならぬのは、少し辛いが、年を取ればそういう時もくるのだろう。「今日は生きたい方の母」という措辞から、寄り添う者のつらさや、愛情深いまなざしが感じられた。「笹鳴きや」の取り合わせも無心な生きものの生命力が伝わる季語だ。これからも「生きたい方の母」上の日が多くなりますように。
フルートの少女つめたき耳ふたつ 横地かをる
 何もかわったことは言っていないのにとても印象深い。あえて言えば「耳ふたつ」と当たり前のことを改めて言って見せたところが巧まれたものだろう。そしてそれは 「つめたき」少女の耳なのだ。いかにも可憐で若々しく、しかも健気な感じさえ伝わる。少女の姿が句の中で過不足なく伝えられる巧みさに憧憬を覚えた。
(鑑賞・桂凜火)

春の鹿窓往く人びとの系譜 石川まゆみ
 絶え間なく窓の外を流れ行く人。ここからあちらに、あるいは生から彼方へ冥界へ命は流れ往く。その流れはあたかも一つの系譜をたどる様だ。配合した季語は、子鹿を身籠った母鹿の柔らかな姿態や子鹿の誕生の映像を想起させ、よりくっきりと生命の姿が描きだされていく。中下句の措辞、特に「窓往く人びと」が佳い。

生き物の凹みにたまる春の雨 こしのゆみこ
 生命の全体像を「生き物の凹み」の措辞で言い切り、暖かなユーモアが滲む。同時に、太古の時代の生命誕生などが思われたり、「凹み」にエロティックなイメージも重ねたりと、複雑な味わいが醸しだされて面白い。「春の雨」の効果が絶大で、生き物への親和力と言うか、そこはかとなく暖かい感触がじんわりと伝わってくる。

みんな帰りふらここからポルトガル語 堀真知子
 夕暮れの遊園地の風景から、やや孤独な心象景が描きだされている。恐らく、誰もが子供時代からずっと大事に持っている美しい孤独な心象景とでも言うもの。「ポルトガル語」がこの句の肝となり、作者のウィットが、寂しい心象と気持ちよく混合されて、独特な味が引き出されている。「ふらここからポルトガル語」の語感が面白い。
(鑑賞・日高玲)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

リラの香や昨日が流れ去るを待つ 有栖川蘭子
摘草や書くという存在兜太日記 安藤久美子
金輪際より参上や花むぐり 飯塚真弓
ペンギンの搾り出す声夏の雲 石塚しをり
五月の蝿地面に恋のにおいかな 泉陽太郎
蒲公英の閉じる緩さよ還暦よ 齋貴子
母ったら薔薇を褒めるのが毎日 大池桜子
まだ何者でもなく卯の花腐し 大渕久幸
相傘を妻にさそわる夕立かな 荻谷修
御飯粒雀の卵に付いている 葛城広光
白牡丹何処へも行かぬ母に咲く 清本幸子
令和来る父の戦後史曝す朝 黒済泰子
河骨や涙こらえるという過ち 小林育子
昭和って私が毛たんぽぽだった頃 小林ろば
探偵のポスターに犬こどもの日 小松敦
降伏も万歳の手も夏空へ 三枝みずほ
黄週間 ゴールデンウイーク川に来たので火を起こす ダークシー美紀
薔薇を剪る女庭師も棘あらむ 高橋靖史
春の風ソウイウモノニなってるわたし たけなか華那
身に覚えなき死が語る原爆忌 立川真理
帰省子のごと母がゐて母の家 立川由紀
靖国の落花わが頬打つように 野口佐稔
卯の花ならぬ言の葉腐しこの世かな 服部紀子
雁帰る地方ぢかた橋にて振り返る 藤好良
花の夜ざらっと冷めている背広 松﨑あきら
「うそつき」を覚えてからの飛花落花 松本千花
ポピュリズム無縁のごとく牡丹咲く 武藤幹
押入れに変な似顔絵昭和の日 山本きよし
憲法記念日ことばを差別せぬと師よ 吉田和恵
寢釋迦まで嵯峨野泥みち畦づたひ 吉田貢
(吉田貢の吉は土に口)

『海原』No.10(2019/7/1発行)

◆No.10 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

逃げ水の先頭除染土また除染土 有村王志
夜桜や魔界の口を見たような 石橋いろり
のどかかな影がほどける猫のヨガ 市原正直
人の世に優生保護法猫の恋 伊藤巌
鬱という一つの漂泊花薊 伊藤雅彦
花雪洞寡黙な男が凭れている 井上俊一
鍬の土叩き落して被曝畑 江井芳朗
写真から天地悠々の風あはは 大髙宏允
旧かなの閑けさ野蒜青みけり 大西健司
まんなかに遺棄の自転車菜花畑 尾形ゆきお
木の芽時マイナンバーの語呂合わせ 奥山和子
ふるさとの訛を隠す3・11 奥山富江
令和元年逃げ足速い素足の子 北上正枝
若潮の滴り少年の下帯 楠井収
帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
草木瓜の花や夕日を放さない 篠田悦子
児玉さん逝くきさらぎの草の妻 芹沢愛子
鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
空っぽの本棚春満月のごと灯り 鳥山由貴子
試着室の自惚れ鏡四月馬鹿 丹羽美智子
涅槃図の裏の暗さや花の昼 野原瑤子
満開のサクラ少々の翳り 服部修一
原発禍蜜吸う蜂の無垢な刻 船越みよ
生温い目をして鴨の残りたる 堀真知子
八十路なり眼をパチクリと春ウサギ 本田日出登
父を呼ばねば届かぬ高さ朴の花 水野真由美
花かたくり師を偲ぶときふっと乱視 宮崎斗士
ものの芽や耐震工事中のスーパー 山本弥生
鳥帰るエナメル質の声出して 横地かをる

佃悦夫●抄出

産土の木の実木の家空家かな 有村王志
鴨の逆立ち魍魎の水底へ 石川青狼
足裏のざわざわ暗し花は葉に 伊藤淳子
花冷えのからだは薄き器なる 伊藤道郎
刺青のそこだけ蛇皮のつめたさよ 井上広美
枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
立春やの手とろとろ甘噛す 大沢輝一
リュウグウは遥か天蚕うすみどり 大西健司
ザクザクと花の朧を生きてきた 桂凜火
うっすらと引き潮の音花蘇枋 川田由美子
花冷えの空の明るく切手買う こしのゆみこ
葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
雪解水よく切れるナイフを洗う 笹岡素子
ランナーの手足青葉若葉かな 重松敬子
冬の蝶あるいは風葬のかたち 白石司子
奪衣婆の目に土佐水木芽吹くなり 関田誓炎
譜面より音符飛び出し野に遊ぶ 高橋明江
鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
馬酔木花房翳りの中の羽といふ 田中亜美
満天星躑躅水平器の泡動く 鳥山由貴子
花の昼大河も死者も仰向きに 中村晋
陽炎のセクシー猫ゆくもセクシー 西美惠子
桜貝親指姫の褥とも 丹羽美智子
あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
青麦のきらきらきらと物忘れ 藤野武
畦塗りの黄泉へつながるほどの照り 武藤鉦二
花ひらくなり骨片うすく在り 茂里美絵
白セーター降ってくるよな恋を待ち 梁瀬道子
蛇口からポトリと落ちる朧月 山内崇弘
浮けよ流れよ春オホーツクの溺死体 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

夜桜や魔界の口を見たような 石橋いろり
 一読、梶井基次郎の短篇『桜の樹の下には』を連想させるような気がする。そこには、満開の桜やかげろうの生の美のうちに屍体を透視するデカタンスの心理が書かれており、桜の木の下に死が埋まっていると見たのである。掲句は、美の中にある不安や憂鬱を、梶井と同様のモチーフで見ている。それを「魔界の口」と喩えてみたのだ。どこか夜桜に吸い込まれていくような、妖しげな幻想とみてもよいだろう。

花雪洞寡黙な男が凭れている 井上俊一
 「花雪洞」は、桜の花模様をあしらった手燭、または球形のおおいをつけた灯。そんな雪洞を、寡黙な男が凭れ気味に抱えて座っている。これから始まる花見の宴に備えているのかもしれない。そのしばらくの待ち時間を、所在なげに過ごしているのだろう。「凭れている」という所作が、男の束の間の鬱屈を捉えている。軽い緊張感の高まりも感じながら。

鍬の土叩き落して被曝畑 江井芳朗
 いうまでもなく、福島の人によるフクシマ俳句である。こういう句は、当事者以外の人が書いてもさほど感興を呼ぶことはあるまい。しかし当事者の句となれば、言葉で表現されたもの以上の重みを感じざるを得ない。「鍬の土」は、被曝畑の除染土だろう。「叩き落して」には、まさにその実感ならではのものがある。「被曝畑」を、当事者以外のものが書いたとしても、後ろめたさを残すだけにちがいない。

旧かなの閑けさ野蒜青みけり 大西健司
 野蒜は道端の雑草にまじって生え、初夏には薄紫の小花をつける。若菜は摘んで浸しものにしたり、球根を焼いて食べると香ばしい。ここで「旧かなの閑けさ」としたのは、食べるときの風味よりも、地生えの立ち姿ではなかろうか。その細りとした気品の佳さを、あえて「旧かな」と喩えたのだ。

帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
 この句に、避難したフクシマの未帰還の人びとを連想してみてもよい。大震災後八年の月日が過ぎたが、放射能汚染度の低減や帰還への呼びかけにもかかわらず、帰還者は二、三割程度に留まるという。まだ被災地の安全性や賑わいの復活に信がおけないのか、避難先での暮らしが定着してしまったのかはわからないが、かつての被災地の復興自体ままならないのだろう。そうなると復興の掛け声自体、空しいものにならざるを得ない。作者は、その状況に「しずかに絶望しておりぬ」と見たにちがいない。残念ながら被災地の現状はそういう状況下にある。

花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
 菜の花を摘んでいる猫背の妻、それを「景色です」と見たのは、作者の老妻に対するあらためての思いであろう。別にいいとも悪いとも言ってはいないが、菜の花の景色に溶け込んでいる妻を、悪いと見ているはずがない。見馴れた風景だが、悪くはないなと思っているにちがいない。「景色です」とおどけて見せたのは、昭和一桁族の照れ隠しがあるのではないか。

鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
 鶴にかぎらず鳥は秋に北国から渡って来て、春にまた帰って行く。今は春だから北へ帰る時期で、正しくは「帰り終えしか」というべきだろう。季語でも「鳥帰る」は春、「鳥渡る」は秋となっている。しかしこの句の持ち味は、「夜の稿」で一気に深まった。深夜原稿を書いていて、どうにか一息ついたとき、ふっと鶴はもう北国へ帰っただろうかと思いやる。一仕事終えた気持ちのゆとりが、鶴への思い、またどこか北国にいる懐かしい人への思いにもつながるような。

生温い目をして鴨の残りたる 堀真知子
 鴨は春になると北国へ帰って行くが、少数の鴨はそのまま留まっている。それを残り鴨、あるいは春の鴨という。これからの暖かい春、そして暑い夏もそのまま過ごすとなれば、本来冬鳥の鴨にとってもそれなりの覚悟が要る。まだ少し迷いがあるのか、その目は「生温い」感じとみた。それは作者の、残り鴨への気
遣いの現れともみられよう。

八十路なり眼をパチクリと春ウサギ 本田日出登
 いつの間にやら八十歳代に入ってしまった自分自身に、ちょっと驚いている図。若い頃、八十歳代といえば超高齢者の感じで、とても自分がその年齢まで生きるとは想像できなかったように思う。また現在の自分がその八十歳代に入ったという感覚自体、一向に腑に落ちない。かつて予想していたような老境についての貫禄も意識も、今は自覚できていないのが有態のところだからである。だからこの作者同様、そういわれてもなあと、眼をパチクリさせているのが実感。これはもう待ったなしの世代感覚である。「眼をパチクリと春ウサギ」は、そんな自分自身の有態に驚きあきれていることへの比喩だろう。

◆海原秀句鑑賞 佃悦夫

鴨の逆立ち魍魎の水底へ 石川青狼
 鴨は何処でも見られる馴染みの候鳥だが、餌を捉えるために尻丸出しで水底へと急転回したのだろう。水底は普段あまり関心が無いものであり、異界といってもいいだろう。何が待ち構えているのかは水底に達してみなければ判らない。魑魅魍魎の闇の世界かも知れない。餌だけに関心のある鴨にとっては底知れぬ異界だ。念のために広辞苑を索いてみると“山の怪物や川の怪物”とあるが、仏教観が投影しているのかも知れぬ。その世界から瞬く間に水面へと浮上して光を存分に浴びたことだろう。

花冷えのからだは薄き器なる 伊藤道郎
 人間の記憶ほど曖昧なものはないが、今年の桜どきは気温の上下がはなはだしく、そのためもあって桜を堪能できたのは珍しいことではあるまいか。人体は一つの器と作者も言う。“器なる”と断定は避けてはいるものの、この比喩は適切といえよう。気温が高ければ厚き器と言ってもいるが、花冷えの季節の人体の自覚はまさに“薄き器”に違いない。原因“花冷え”結果“薄き器”という書き方は決して斬新とはいえまいが、比喩で生きた一句である。

枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
 折口信夫ではないが“ほう”と声を挙げたくなる世界だ。誰も枯草などに心を奪われはしないものに“美し日あり”と自然の営為を見過ごさない作者。風に靡く平々凡々たる景に美を見出している。“枯れ草”は、ほんの自然の片隅で己の在りようを訴えている。作者は誇張も主張もせず淡々と書くばかりだが、作者の人生観がその根底にあると言ってもいい。この手法は独自のものがあり、厭味など無縁の人柄のように思ったりした。

花冷えの空の明るく切手買う こしのゆみこ
 とある一日のある時のことの報告である。どのような切手かは読者の想像に任せている。少しも力みがなく邪心もない。それが“空の明るく”と言わしめた所以である。空気の冴えた天空の明るさを存分に浴びて、ふと切手を買ったのだが、作者の姿の輪郭がくっきりと印象された。この“切手”は青空飛翔へのパスポートになったかも知れぬ。
葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
 情念――硬い言葉をあえて使っている。これ以外の言葉は考えられなかったのだ。歳時記の常識を粉砕してしまう中七だ。“葉桜や”と常套手段に見せてどんでん返しを喰らわせている。“水びたしの情念”とは一体何なのか。濡れた情感、その持ち主の豊潤な肉体にも思いが及ぶ。作者の住む北陸の季節の“水びたし”の水がこんこんと湧き上ったに違いない。

鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
 鶴引く、あるいは鶴帰ると歳時記は言う。春が近づいて北帰行する冬の天使は続々と群れを成す。作者は深更に及んで机上の原稿に思いあぐねているかも知れない。天空はるかの聴こえないはずの優美な鶴の羽搏きや啼き声を確認したことであろう。季節の移ろいは寸分狂わず(最近はそうと言い切れないが)運行しているのだが、天空の鶴と地上の作者の姿が濃いものになっている。

花の昼大河も死者も仰向きに 中村晋
 東日本大震災の死者への鎮魂と読める。シェークスピアのオフェリアのように花飾りをしてはいないが死者は他界を目指して行く。春爛漫を欺くかのような屍を幻視、いや実体験であろう。それにしても死者は自分の意思で仰向けになって天上界に訴えているのだろう。

陽炎のセクシー猫ゆくもセクシー 西美惠子
 陽炎をセクシーと受け止めた感性は斬新だろう。それも猫の行く景もまたセクシーだという、作者の手柄としたい。春昼のアンニュイをセクシーの二語で畳み込んでいるのは面白いではないか。猫自身、わが輩はセクシーであるなどと少しも思ってはいない。猫の知ったことではないのだ。

あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
 即、南無大師遍照金剛を想起した。自然界の神は平等である。怒る時もあるし慈愛の時もある。この一句は弥生という季節の讃歌であるが、地上界に遍く光を降り注ぐ太陽を“光りよ”と讃嘆する。この光無くして生物は一日も生きられぬ。人間もこの糸車もともに光を浴びているのだが“讃岐の”と特定して縁の浅からぬ弘法大師が顕現した。女人が代々引き継いできた糸車自身は決して語るわけではないものの作者にはきっと聴こえているのではないか。その紡いだ糸で織り上がったのは胎蔵界曼陀羅図以外には考えられないと、ひそかに思った。

 ほかにも桂凜火、白石司子、鳥山由貴子、丹羽美智子、武藤鉦二、茂里美絵、山内崇弘、梁瀬道子、横山隆の作品にも触れたかったが紙数が尽き、割愛せざるを得ないことになったのは残念である。

◆金子兜太 私の一句

潮かぶる家に耳冴え海の始め 兜太

 「海程」創刊、という前書きのある句。昭和三十七年四月が創刊である。創刊に対する強い決意が窺われる句である。〈潮かぶる〉に、これから起こるであろうことを予感し、〈耳冴え〉に、冷静に対応し、各種の困難に立ち向かう決意があふれている。「海程」という海の始まりである。この後の昭和六十年に、主宰誌へという新たな潮をかぶることになる。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。川崎益太郎

海とどまりわれら流れてゆきしかな 兜太

 夫人を伴って、オホーツク海を旅した折に詠まれたといわれる掲出句。海は原初のままの姿でそこにとどまるが、現実のわれらは人間社会の日々に帰ってゆくよりほかないと書く。作者特有の情感が、不変の大自然・海という悠久のいざな存在に、人界の摂理を切なく響かせ、その造語「定住漂泊」へと誘う。〈海程海隆賞北村美都子君〉の為書とともに、兜太先生より賜った真筆の一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。北村美都子

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


大西健司 選
空耳と思いこんでる霜夜かな 伊藤淳子
ペンギンの足のようなる愛探す 榎本祐子
流星群灯をつけるとなお淋し 大久保正義
冬の灯の静寂母の手縫いです 大沢輝一
○猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
凍蝶の翅より影の剝落す 片岡秀樹
ついに言いそびれて冬の鵙となる 北村美都子
◎遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
野は枯れて鴉のねぐら火の匂い 篠田悦子
和箪笥に広がってゆく母の枯野 白石司子
○図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
ラガー等に雪よふはりと浮く巨石 田中亜美
野水仙何処までとはただ遠く 遠山郁好
冬空に越えられぬ坂海鵜低く 仁田脇一石
お降りや雨戸の軋む家族写真 日高玲
おけら火や人間という遠い青 藤野武
○鷹匠のまず天網を指し示す 松本勇二
大晦日錆びたる戦車に犬眠る マブソン青眼
ポインセチア或いは幻聴かもしれず 茂里美絵
逢うことは暇乞いだよ枇杷の花 山口伸

片岡秀樹 選
数え日やメモ一つ消しひとつ足す 伊藤巌
師は谷を谷は師を見る霧の村 大髙宏允
君の靴は遠い日の舟冬の虹 大西健司
石蹴りのような日常実南天 川田由美子
○冬の蜂なり人体という音叉 久保智恵
振り子のような小鳥のような初日記 近藤亜沙美
◎遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
ケンケンパケンケンパッパ冬北斗 菅原春み
○図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
○さっきまで山羊といたような空白 遠山郁好
○雪つむ木々書体も文体も肉体 中村晋
○なまはげの湧き出て星の余る村 丹生千賀
柊の花より零れ母の影 野﨑憲子
荻の穂の白い高さを矜恃という 平田薫
○鷹匠のまず天網を指し示す 松本勇二
くるぶしの寂しさ枇杷の花咲きぬ 水野真由美
エッシャーの絵を出られない煮凝よ 三好つや子
正月の風呂正月の月愛でつ 村田厚子
定位置は定位置のまま花八手 山下一夫
死ぬ理由どれにしやうか目白飼ふ 横山隆

桂凜火 選
ビー玉のなかでとがって冬の魔女 阿木よう子
強がりの渚冬の波尖らせて 伊藤幸
一月の景は背後の白けむり 伊藤淳子
九条危うし白菜漬が酸っぱいぞ 宇川啓子
流星群熊野へ蒼き馬奔る 大西健司
飼い慣らす数多の怒りみぞれ雪 加藤昭子
嘘でしょう訃報突き当たって冬木 北村美都子
一人というしあわせな不安雪兎 黒岡洋子
夢を喰ふけものや夜を着ぶくれて 小西瞬夏
あの人もこの人も舟冬の雷 佐孝石画
かんかんに雪を計っている雪おんな 白井重之
人日の十指に沼の湿りかな 白石司子
冬至粥無聊という平安 十河宣洋
雑煮食う辺野古が土砂で埋まる中 滝澤泰斗
耳たぶはつめたいやわらかい雫 月野ぽぽな
冬のサボテン好きなことだけして暮れる 鳥山由貴子
言吃るわれに凩の日溜り 野﨑憲子
雪割草闘志というも仄明かり 村上友子
寒牡丹あえかにあえぐあかつきの 山本掌
化学反応みたいにふたり春着で 六本木いつき

日高玲 選
老老に猫と猫付く嫁菜咲く 内野修
動かねば影が先行く冬耕もん 大沢輝一
孤独癖父は兎になっている 大髙洋子
ホイアンの予言書綿虫がいっぱい 大西健司
○猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
羽ばたきは鈍色の針冬野道 川田由美子
はたと止む吹雪に耳を攫われし 北村美都子
○冬の蜂なり人体という音叉 久保智恵
朝焼けや生命のように粉雪舞い 故・児玉悦子
◎遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
子狸の死の晒されて羽後落暉 佐々木香代子
小鳥来る人のことばの苦しきとき 篠田悦子
○さっきまで山羊といたような空白 遠山郁好
○雪つむ木々書体も文体も肉体 中村晋
○なまはげの湧き出て星の余る村 丹生千賀
築地塀ひらり冬陽は猫になり 三世川浩司
真冬なりすうっと高し何もなし 三井絹枝
寒に入るトイプードルの二割引き 三好つや子
ドローンを追う黒猫のと雪割草 村上友子
お布団を出られない戦争がゐた 柳生正名

◆三句鑑賞

冬の灯の静寂母の手縫いです 大沢輝一
 ぶっきらぼうに「母の手縫いです」と独白する作者の思いの深さがしみじみ伝わってくる。具体的に手縫いの何かは書かれてはいないが、形見の品だろうか。たとえば母の大切にしていた着物とか。片づけの最中にでも出てきたのだろうか。それとも母の手縫いのような静寂とでもいうのだろうか。冬の夜の寂しさがあまりに重い。

大晦日錆びたる戦車に犬眠る マブソン青眼
 大晦日という日本的なものにそぐわない、戦車という破壊兵器の存在。しかもそれは錆びているという。過去の遺物というのだろうか。街角に放置された戦車が違和感なくそこにある。傍らに眠る犬の存在が救いとなり、どこか異国の街角の、ごく普通の日常光景のように思えてくる。「犬眠る」が実に効いている。

逢うことは暇乞いだよ枇杷の花 山口伸
 伸さんももう九十歳を超えたのだろうか。逢うことは暇乞いとはあまりに重く響く。そんなこと言わずにまた逢いましょうよ。そんなふうに言いたくなる。たとえ内容は重くとも、このように伸さんらしく飄々と書かれると、まだまだ余裕だなと思ってしまう。地味な枇杷の花が来し方を思わせ、伸さんの笑顔が浮かんでくる一句だ。
(鑑賞・大西健司)

冬の蜂なり人体という音叉 久保智恵
 人間の身体は、共鳴体である。私達の精神が、ともすれば孤独の洞窟に各々を閉じ込める傾向を持つのに対し、私達の身体は、踊りや歌、宴や祭によって、あるいは性や創造の営みによって、絶えず世界や他者と共鳴しようとする。冬の蜂、ここではそれは閉ざされた闇を開口する一条の刺激であり、共鳴の端緒となる羽音であろう。

振り子のような小鳥のような初日記 近藤亜沙美
 「初」日記が私達に実感させるのは、一年間という時間である。それは、一方で「振り子のよう」に、正確に反復される機械的なものであり、他方で「小鳥のよう」に、偶然恩寵的にもたらされる一回限りの固有性を持つ。そのような単調さと、ささやかな幸福から成り立つ日々を、作者は日記に愛おしげに綴っていくのである。

図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
 図書館は「知の森(ナレッジ・フォレスト)」によく喩えられる。この句の手柄は、それを「むささびの翔ぶ森」としたことにある。世の中には調べ物をするならネットで充分、と考える人がいるが、他人が張ったリンクを辿るだけでは知的な創造には程遠い。書架から書架へ、むささびのように翔ぶ自由、真の知の快楽を、この作者は知っている。
(鑑賞・片岡秀樹)

ビー玉のなかで尖って冬の魔女 阿木よう子
 ビー玉の中にいる魔女って小さすぎて可愛い。と思うのだが、いやいやその魔女「尖っている」というのだから安心ならない。やはり魔女は何かしでかすかもしれぬ。しかも冬の魔女ときたら雪女……氷の女王……。いろいろな想像が生まれるピリリと辛い句に魅了された。またこの魔女、少し苛立つ作者の分身とも読め楽しめた。

あの人もこの人も舟冬の雷 佐孝石画
 「あの人もこの人も舟」の導入にまず心を掴まれた。何にも説明されないが海に浮かぶ大小の船のような人々を思うことができる。そして「冬の雷」の取り合わせによって、雷だけでなく、たちまち船の揺らぎ、海の波立ち、風のざわめきまでも加わる。その景の中で、孤独より連帯をみようとしている作者の視線に心ひかれた。

雑煮食う辺野古が土砂で埋まる中 滝澤泰斗
 テレビで映し出される辺野古に土砂が入れられる光景を複雑な思いで見た人は多いと思う。「雑煮食う」安心を沖縄の犠牲の上に贖っている後ろめたさのような気持ちに共鳴できた。映像と現実を「埋まる中」と接合したことで、時間軸と空間軸をうまく飛び越えた点に着目したい。
(鑑賞・桂凜火)

猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
 大都会でも意外なほど身近なところに野生動物は生息しているが、都会人はひたすら拒絶しながら暮らしている。作者は飼い犬を守るため、鎌で蝮をぶった切るようなこともあるらしい。一瞬の迷いが犬の命に係わる、そんな日常感覚。作品にたびたび登場する猪や鹿や蛇。野生生物への奥行ある生命感覚が命への共感を醸し出す。

朝焼けや生命のように粉雪舞い 故・児玉悦子
 今年二月に九十一歳で逝去された作者。掲句は一月に投句された作品となっている。作者は晩年、横浜市から故郷信州に居を移し農事に勤しんだと伺った。死を前にして万象が命に満ち満ちていると、この様にまざまざと感じられる。そのことに感激する。「山肌の落日の美追いにけり」の句もあり。

子狸の死の晒されて羽後落暉 佐々木香代子
 農事に携わるものにとっては狐狸は害獣であろう。駆除の果てには狸の子も混じるのか。「子」の一字がより哀れを呼ぶ。「羽後」の地名が利いている。小さな生命が土地の暗がりの中に溶けるように消滅していくが、その刹那、祝祭のような落日に染められていく。哀れにも美しく命のあり様を詠った。「羽後落暉」の硬い語感が響く。
(鑑賞・日高玲)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春北風お辞儀の角度は自由です 綾田節子
ロマンチックタック目借時なる蛙かな 飯塚真弓
ポケットに絡まるイヤホン朧かな 大池桜子
ブッチャーの涙草餅いただきぬ 大渕久幸
春深む本にアジられ眠れぬ夜 荻谷修
少しずつ慣れるあだ名やライラック 木村リュウジ
卯の花腐しgジーを感じる昼下り 日下若名
老桜に洞老人に虚ろあり 黒沢遊公
身をたたく雨だけを雨だと思ふ 三枝みずほ
転倒は段差二センチ自失せり 菅谷トシ
薯の芽を搔き春愁に無頓着 鈴木栄司
よく眠る兜太をつつく百千鳥 高橋靖史
あれだべさ雪塊かっぽんかっぽん流れてさ たけなか華那
わが足の危ふき処飛花落花 立川弘子
心象に寅さんの土手あやめ咲く 立川真理
朝帰り不機嫌そうに蛇出づる 館林史蝶
身を浄む若水血脈走るなり 中川邦雄
ジャズの香と夜桜我をたどる指 中野佑海
蛞蝓の蹲りし跡形となり 中村セミ
被曝ざくらの心音満ちる夜の森 野口佐稔
生きてるつてどこか恥づかし蛇穴に 野口思づゑ
裏山の懸巣さよなら離農する 前田恵
忘るるは慰めに似て春の雲 松本千花
風に乗り囀り届く獄舎かな 武藤幹
たんぽぽのわた吹く柔らかい自虐 望月士郎
積年の花の冷え沁む女体かな 森本由美子
危険な恋あきらめられず青蜥蜴 横林一石
うわーんと羽音が沸いてる花菜畑 吉田和恵
野遊びに小刀を持つ祖母なりき 吉田もろび
母といふ幻知つてゐる桜 渡邉照香

『海原』No.9(2019/6/1発行)

◆No.9 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

毀れゆく無韻の時間ひとは花に 市原光子
ミモザ降る頃か遠国の石畳 大池美木
雲海の底兵馬俑のような原発街 大久保正義
みちのく一列海への黙禱ぬいぐるみ 岡崎万寿
海老蔵の「にらみ」風邪気味初芝居 奥山富江
一方通行路を恋猫の激走す 片岡秀樹
フクシマやスローモーションの牡丹雪 桂凜火
嘘つきだなあガーゼみたいな風邪声 木下ようこ
厳父なり犬と揃いの赤セーター 楠井収
料峭や写真の裏に母のメモ 黒岡洋子
麦を踏む残照に眼のぬれしまま 関田誓炎
立春や女性左官の鏝捌き 髙井元一
兜太忌や山齢一つ加えたり 高木一惠
雪柳君といる仮説を立てる 竹田昭江
ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
つくし野に縄文土器の湿りあり 月野ぽぽな
ピラカンサ名は成さねども友多し 寺町志津子
苔寺に慈雨楚々と降る牛横切る 中内亮玄
生しらす愛憎もまた遠い景 藤野武
涅槃西風またはじめから数へ歌 前田典子
共犯者の顔していたり花粉症 松井麻容子
陽炎グニャグニャ性悪猫くるぞ 三世川浩司
優しさうな梅のおでこにことんと愛 三井絹枝
一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
マスクして居留守のような昼の顔 三好つや子
さびしいは自由の同義語冬カモメ 室田洋子
牡蠣啜る寄り目の妻のあどけなき 森鈴
乙女らが酸葉噛んでるどっと水音 矢野千代子
鉄漿おはぐろの雛の首の折れやすき 山本掌
朝の自分好きになるようあさり汁 六本木いつき

若森京子●抄出

納棺師動かざるものに春の虹 赤崎ゆういち
寒三日月あうんのうんに罅割れる 石川青狼
フクシマといい沖縄といい蓮根太る 稲葉千尋
春耕の風景の中でしゃがんでいる 井上俊一
油差す細き一筋春の昼 井上広美
正確に祈る形よ白ふくろう 大髙洋子
軍靴響く饗庭野あいばの鳥の影寒し 大西健司
ドッペルゲンガー梅林に汝と吾と 尾形ゆきお
凍土ひそひそひそケルト文明史 小野裕三
海鼠切る吾が体幹のゆらぎかな 狩野康子
寒林を抜け源流へ風蒼き 刈田光児
おしゃべりはひかりの遊び花三椏 河原珠美
生き物の凹みにたまる春の雨 こしのゆみこ
寒椿胸に聖書の島育ち 小松よしはる
魚影沈みいる深海の冬の部屋 佐々木義雄
蚕豆の皮をつるりと自由市場 重松敬子
ジャーナリズム春北風は馬の匂ひす すずき穂波
ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
春愁や輪ゴムをギターのようにき 峠谷清広
いやに静か瓜盗人の乳首立つ 遠山恵子
ヒヤシンス風の少年導火線 鳥山由貴子
麦秋の彼方へ人は火事を抱き 中内亮玄
多喜二の忌雪深ければ影青く 新野祐子
足裏がうぐいす餅ねと麻酔女医 仁田脇一石
憂鬱という字の中のフィヨルドよ 北條貢司
身体中しぐれいっぱい朝の父 松井麻容子
春星はるぼしふたつ切り絵ひらけば野外劇 村上友子
春の瀞先生スープ召しあがれ 室田洋子
へその緒を戻してみたき雨水かな 山下一夫
ほのほのと鳥語で爺は雛遊び 山本掌

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミモザ降る頃か遠国の石畳 大池美木
 ミモザの花は、どこか南国の楽園を想像させる。フランスでは、この花が咲き出すとミモザ祭が行われ、春の訪れを喜ぶという。作者には、この遠い憧れの異国を偲ぶ思いが湧き出てきたのではなかろうか。例えば、パリはモンパルナスの石畳あたりを想像しているのかもしれない。黄金色の花が穂状に群がって咲き、どこかエキゾチックな情緒を誘う。遠国に旅立った懐かしい人への思いにもつながる。

みちのく一列海への黙禱ぬいぐるみ 岡崎万寿
 三・一一の犠牲者に対する追悼句である。すでに八年の歳月が流れているのだが、被災した人々の時間は止まったままだ。「喪えばうしなふほどに降る雪よ」(照井翠)という句もあるように。掲句は、その思いを抱いて黙禱しつつ、幼くして亡くなった犠牲者のために、せめてぬいぐるみなと捧げたいとしている。「みちのく一列」とは、そんな追悼の思いを抱いた人々の一団が列をなして黙禱をしつつ、亡くなった人を偲んでいるのだ。作者の中に、「震災後」という日々は終わっていない。

フクシマやスローモーションの牡丹雪 桂凜火
 この句の作者も前句同様の思いを抱いているのだろう。「フクシマ」とカタカナ表記したことで、すでに原発被災への思いを馳せていることは明らか。「スローモーションの牡丹雪」が時間の流れを緩めながら、その一刻一刻を味わいつつ、自分自身に言い聞かせているものがある。今、何が問題でなにをなすべきなのか。いや、せずにはいられないのか。それでいて抱き合ったまま動けずにいるような思いも。「スローモーション」が、その内面の動きにも反応しているのではないか。

立春や女性左官の鏝捌き 髙井元一
 立春は陽暦二月四日か五日頃。まだ寒さは続いているものの、陽春に向けての仕事は始まっている。近頃は女性の男子労働への進出も目立つようになってきた。左官業もその一つなのだろう。まさに職人の仕事で、戦前は考えられないことだったが、今や女性左官も目立つようになってきている。そんな女性左官が鮮やかな鏝捌きを見せている。その仕上がりぶりに女性ならではのきめ細かさもあって、思わずほれぼれと見入っている立春の日。「イイネ」と作者は呟いているのだろう。

兜太忌や山齢一つ加えたり 高木一惠
 兜太先生の忌日も、はや一周忌を迎えた。先生のご逝去をまだ信じられないような思いの中にあって、否応なくその事実を確かめさせられている。はるか両神の山を望んだとき、山の齢も一つ年を加えたのだなあと思う。その思いは、兜太先生の亡くなられて以後の年輪が、さらに確かなものとして刻まれていくことにも通ずる。両神山はそのことを知っているはずだ、と作者は思う。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 この句から、三陸の大津波を連想させられた。多くの人や生き物が津波の中で、絶望的なまなざしを投げながら流されていった。そのとき、人は人の匂いを、生き物たちは生き物たちの匂いをまといつつ波間に消えていった。その匂いは瞬時の間、漂流していたに違いない。春の岬はその事実を覚えていると、作者は受け取ったのだろう。

つくし野に縄文土器の湿りあり 月野ぽぽな
 「つくし野」は、平仮名表記なので、土筆の生えている野を意味するのだろう。「縄文土器の湿り」とは、縄文土器出土の気配を感じられるような野ということで、まだ出土している状態ではあるまい。作者には、その気配が濃厚に感じられるのだろう。それが「湿り」の度合いによって次第に濃くなっていくのだ。

共犯者の顔していたり花粉症 松井麻容子
 花粉症は、スギ、ヒノキ、ヨモギなど風媒花の花粉による季節性の鼻炎。多分にアレルギー体質によって症状が違ってくる。花粉症に罹る人は、当人でなければわからない苦しみがあるわけで、咳、くしゃみ、鼻づまり、目のかゆみ等が収まらない。それはまたはた迷惑な症状でもある。それだけに同じ症状の人達は、お互いに「共犯者」のような顔をしているような感じ。ワカルワカルという表情も見えてくる。花粉症の心理感覚を捉えたところが、この句のお手柄。

陽炎グニャグニャ性悪猫くるぞ 三世川浩司
 陽炎の中に包まれつつある感覚だろうか。日差しが強まってくるとゆらゆらと蒸気が立ち上って、その中にあるものが揺らいで見える。そんな場所には、「性悪猫」が来そうな予感がする。それは空間の質的な変化のようにも思われて、何か一大事とまではいえないまでも、日常の中の違和感のような軽い異変が感じられる。その予感を「性悪猫くるぞ」と言ってみた。言われるとそんな気がしてくる。「陽炎グニャグニャ」が、いかにもいたづらっぽい語感で「性悪猫」の歩き姿にも響く。

◆海原秀句鑑賞 若森京子

正確に祈る形よ白ふくろう 大髙洋子
 祈る形には色々あるであろう、そこに作者の魂が入っているかいないかで、形には関係なく〈白ふくろう〉の措辞によって作者の心模様が見え、祈りの自然な姿が現れている。〈かいつぶり只シンプルな片思い〉この軽妙な一句にも、〈かいつぶり〉の措辞によって中七、下五の作者の姿が見える。季語の効用が一句を支えている。

ドッペルゲンガー梅林に汝と吾と 尾形ゆきお
 〈ドッペルゲンガー〉ドイツ語から始まる哲学的な一句。梅林に幻覚現象により自分の姿を視覚し、そしてまた汝と吾と。自分と相手を客観視している。この実験的な語意と音感は不思議な世界を梅林に投影し創造している。〈僧のごと鬱の日の冬木立〉二句から作者の鬱々とした心の深淵を覗き見たようだ。実験的な作句意欲に共感した。

凍土ひそひそひそケルト文明史 小野裕三
 少しプライドが高く、未だに階級制度が渾然とあり、ビートルズや斬新なファッションがある反面、古典文学、伝統文化が生活の根底に流れ、どんよりと太陽の少ないイギリスに住む作者は〈ひそひそひそ〉と人声の様な、妖精の様な、時流の様なオノマトペを一句に詠んでいる。〈ケルト文明史〉の想定外の厖大な空気に圧倒され呆然とする作者の姿が見える様だ。

海鼠切る吾が体幹のゆらぎかな 狩野康子
 得体の知れない形態の海鼠を切る時の心のゆらぎを〈体幹のゆらぎ〉と具現化している。宮城に住む作者は大きな被害を体験し〈体幹のゆらぎ〉の発語がリアルに響いてくる。〈言葉短かし子の部屋の奴凧〉淡々と親子の心情を書いているが、親子の絆として奴凧がクローズアップされる。あの大災害から一層家族の絆は強く結ばれているのであろう。

寒林を抜け源流へ風蒼き 刈田光児
 清漣を見る様な清々しい一句。〈源流へ風蒼き〉のフレーズは青春そのものだ。他に〈北帰行少女無心に梳る〉〈体内に抒情部屋ある名残雪〉このロマン溢れる抒情の部屋をこの作者にずっと持続して欲しいと願う。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 〈ひとはひとの匂い〉の措辞に現世に生きる人間を彷彿とさせる。その匂いが漂流した〈春岬〉。この春の岬は豊潤な岬の様でもあり、また現世から異界への浄土なのかも知れない。〈夜の海のようだ肺へも月あかり〉この心象風景は前句とは対照的に自分の内なる魂に問いかける捉え方。しかし僅かの月あかりを感じている。僧侶でもある作者は絶えず現世から異世へと往還する精神の動きがあり、作者の仏教思想とも思える二句だ。

いやに静か瓜盗人の乳首立つ 遠山恵子
 日常の中の小さな事件。しかしこの一行には人間の本能、生態が内包されている。盗人からすれば〈いやに静か〉に感じたであろうし、〈乳首立つ〉で異常事態が肉体に反応したのであろう。〈蛇笏忌や目玉の乾く街に居て〉〈「幸せ」って声に出さなきゃ百日紅〉この二句も日常で触れる作者独自の情感の流れがあり、後句の〈百日紅〉の季語は上手い。

ヒヤシンス風の少年導火線 鳥山由貴子
 〈ヒヤシンス風の少年〉とは最近よく見る中性的美少年を想像する。しかしその子が導火線となる危機感を孕んでいる日常感。〈春の風邪石灰石の貨車過る〉春の風邪は陽気の中で長引き、案外厄介なものだ。その喩として〈石灰石の貨車過る〉が実に上手く前句と同様危機感を独自の感性で日常の中で掬い上げている。

多喜二の忌雪深ければ影青く 新野祐子
 金子先生がお好きだった〈多喜二の忌〉は兜太忌と同じ二月二十日だ。季重ねだが中七、下五の表現が一句を深くしている。他の〈啓蟄や尹東柱ユンドンジュの詩よみがえる〉〈安らぎは非武装地帯鳥帰る〉〈母の忌の薄日の中の菜飯かな〉〈放射能なお積む沃土霾ぐもり〉、どれも智と情のバランスがよく、全五句にチェックした。

足裏がうぐいす餅ねと麻酔女医 仁田脇一石
 このコミカルな日常を捉えた一句、大変頰笑ましい景が眼に浮かぶ。手術前の緊張感を和らげるための女医の愛情も感じる。他に〈百円の春よ会議の吹かれけり〉百均の店が流行る昨今、〈百円の春〉と潔く言い切る大胆さ、会議はどうにでもなれと、ふて腐る気質が現代人らしい一面を見る。

ほのほのと鳥語で爺は雛遊び 山本掌
 〈まなかいのほの青みゆく雛の夜〉で始まる雛まつりの五句は、作者から醸し出されるみやびの世界である。〈鉄漿おはぐろの雛の首の折れやすき〉〈遠流すべし鉄漿おはぐろの雛のほほえみ〉年増の雛も混り、宴をしている。ほのほのと酔いどれ爺の姿が時をすりのぼって愉しく伝わってくる。

◆金子兜太 私の一句

果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太


 私が金子兜太先生が海程人であると認識し偉大であると感じた一句。それまでの私は、俳句も「海程」も金子兜太でさえも、知らなかった。しかし、この句に出会い「俺の」の自由性に感動した。俳句が楽しくできそうな瞬間だった。金子兜太先生や「海程」の諸先輩や皆様に刺激を受けてきた。その中でも金子兜太先生は断トツである。『金子兜太句集』(昭和36年)より。奥野ちあき

「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街 兜太

 港に近い街の片隅のガード下、霧笛の響きがやるせない。石原裕次郎出演の映画の一場面を見るようだ。汚い落書きやビラがところ狭しと書きなぐられ貼りめぐらされている、そのなかに、吃音矯正のビラにこころを惹かれた。自身が若干の傾向を隠し持っているためか、体とこころの乖離を体験しアイデンティティの回復を果たせぬまま、日々を漂流している体制のなかの少数派の立場を思いやって考えているのか、このままでは終わらせないストーリーの続きを感じさせる組立てを見せる作品だ。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。竹内義聿

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


大西健司 選
○もう人を愛さず鶏頭の立っている 榎本祐子
○父という木の箱舟を冬怒涛 桂凜火
合せ鏡の奥の淋しさ鳥渡る 金子斐子
独白は毒吐く軋みきりぎりす 黍野恵
霜の夜の妻抱くように位牌拭く 木村和彦
○嚔する寸前異界にちょっと寄る こしのゆみこ
鼬通り過ぐ風の音を残し 白石司子
残菊に淋しさ残る夕化粧 新城信子
凍蝶のぬかるみにゐる影淡し 菅原春み
犂牛くろうしや月山丸ごと冬眠す 鱸久子
○無防備なたましひの列ラガー果つ すずき穂波
○寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
◎愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
一人の仮設に百も柿干す祖母を許す 中村晋
○東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
大根炊く夫の寡黙を手で量り 藤田敦子
○黄落の靴ひもギュッと立ち直る 本田ひとみ
行く秋の海の匂いの遺品かな 武藤鉦二
○蓮の実飛ぶもう一駅歩こうよ 室田洋子
○野火恍惚と師よ存分にさようなら 若森京子

片岡秀樹 選
北風を来てたそがれが現住所 伊藤淳子
冬桜アルカリ性の恋をして 伊藤雅彦
銃眼あり石蕗の黄の際立てり 大西健司
冬銀河正しい位置にアキレス腱 奥山和子
山眠る夜へと綴る筆記体 小野裕三
○父という木の箱舟を冬怒涛 桂凜火
○嚔する寸前異界にちょっと寄る こしのゆみこ
小春日を脱ぐように鳩放ちけり 近藤亜沙美
蜻蛉散る刹那の光だったとは 佐々木香代子
下駄箱に並ぶ上履き開戦忌 新宅美佐子
○無防備なたましひの列ラガー果つ すずき穂波
◎愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
冬銀河回転木馬に鞭を打つ 鳥山由貴子
○東京奇譚古アパートの竃猫 日高玲
○黄落の靴ひもギュッと立ち直る 本田ひとみ
顔役のつもりの案山子担がれる 武藤鉦二
○蓮の実飛ぶもう一駅歩こうよ 室田洋子
○煮凝りやここに人間探求派 山本掌
やたら母は枯蓮の真似をする らふ亜沙弥
凍蝶一頭いまからプライベートです 若森京子

桂凜火 選
○もう人を愛さず鶏頭の立っている 榎本祐子
よく晴れた空と風と掌の木の実 黒岡洋子
煙突が白蝶を吐く震災忌 小西瞬夏
父母という白い季節に会いにゆく 佐孝石画
人の手に人の淋しさ冬夕焼 佐藤詠子
流星群兜太の星に旗を振る 釈迦郡ひろみ
瞼にて文字打つ詩人寒北斗 すずき穂波
ゆきずりの径なり茶の花日和なり 関田誓炎
大停電闇を踏み抜き木の実降る 十河宣洋
願わくはわが空欄に冬すみれ 竹田昭江
ふたりいつも違う夜にいて初時雨 竹本仰
○寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
ほんとうは雪は星になりたかったの 月野ぽぽな
失語のよう我に汚れた冬の窓 鳥山由貴子
蟹割ってみて雪明かりと思う 中内亮玄
戦のにおいサンタ淋しき眉と髭 船越みよ
無言といういちばんの嘘冬牡丹 宮崎斗士
骨になった魚うつくし寒茜 茂里美絵
なまはげを解いて見事な恵比須顔 山谷草庵
○野火恍惚と師よ存分にさようなら 若森京子

日高玲 選
突然死こんなにおしゃれ真弓の実 稲葉千尋
ちょろぎ齧りいて分骨の喉仏 大高俊一
銅鏡を鎮め菱の実の匂う 大西健司
ざくっと齧る新しきことば黒うさぎ 桂凜火
銀杏黄落あちこちリンパ押してみる 北上正枝
母の角部屋秋の観覧車の隣り 木下ようこ
冬草に人は無声の映画なり 久保智恵
まつさらなからだをしまふ長き夜 小西瞬夏
セーターが青い化石のように座す 清水茉紀
われ凡夫海鼠の沈黙を信ず 白井重之
冬沢の犇めく暁の鹿若し 関田誓炎
漂鳥よ葱のしろさの片しぐれ 田口満代子
◎愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
鯉は鳥に近づき椿でしたか 平田薫
唇の次に触れたい初氷 藤原美恵子
淋しさは神の采配とろろ汁 松岡良子
鮭燻す天地にまた人葬り 柳生正名
○煮凝りやここに人間探求派 山本掌
自販機にオニオンスープか笹鳴か 六本木いつき
名刺交換かすかに枯蘆すれる音 若森京子

◆三句鑑賞

霜の夜の妻抱くように位牌拭く 木村和彦
 奥様を亡くされたのだろう、あまりに哀切な妻恋の五句が胸を衝く。特に掲句は、「妻抱くように」と書かれているだけに、その切なさは半端ではない。愛おしい思いを胸に位牌を黙然と拭いている、老境の男性の切ない背中が見えてくる。また四句目の一人分の米を研ぐ様など本当に身につまされる。

一人の仮設に百も柿干す祖母を許す 中村晋
 祖母の行為を許すという、そんな切なさに遠く福島の空を思い浮かべている。独りぼっちの仮設住宅に暮らす祖母は、今も昔のように柿を剥き、干している。集落の中での暮らしのひとこまを忘れられずに今もなお。作者はそれを許すという。仮設住宅が未だに残る現実が重く響いてくる。

野火恍惚と師よ存分にさようなら 若森京子
 先生の追悼、追憶の句が溢れているが、あからさまな句はどれもこれも好きになれない。しかし、この句は素直に共鳴できる。「存分にさようなら」深い思いを振り切るように独白している。師との美しい別れを演出するのに「野火恍惚」とはあまりに切ない。凜とした先生の姿が思われる。
(鑑賞・大西健司)

北風を来てたそがれが現住所 伊藤淳子
 「北風を来て」が作者の来歴、「たそがれ」が現在位置を示す。無論、客観的なものではなく、作者自身の自己認識の反映である。「北風を来て」には、逆境の中で風雪に耐え抜いてきた凜とした来し方が、「たそがれ」には晩年の穏やかな諦念と自足が看取される。美しい佇まいである。

冬桜アルカリ性の恋をして 伊藤雅彦
 自身も相手も傷つける、身を焦がすような溶け合う恋を「酸性の恋」と呼ぼう。「アルカリ性の恋」は、そのような狂熱とは対極にある。温泉の湯質にたとえるなら、酸性はヒリヒリする刺激的な恋、アルカリ性はトロトロでリラックスできる恋と言えよう。若い時分なら破滅的な酸性の恋もいいが、中高年なら後者が理想だ。「冬桜」の措辞が効いている。

やたら母は枯蓮の真似をする らふ亜沙弥
 母の老いに直面し、子である私達は少なからずショックを受ける。狼狽え、眼を逸らしたくなることもしばしばだ。作者はその当惑を、やたら母が「枯蓮の真似をする」と書く。絶妙の比喩である。深刻な状況をふわっとユーモラスに受けとめる心の余裕、それこそ俳諧が私達の人生に齎してくれる効能の最たるものであろう。
(鑑賞・片岡秀樹)

寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
 日常の猥雑の中で日々を過ごすことはある意味豊かで芳醇な時間だ。しかし、一方でその猥雑の中から何かの原石を掘り起こすような「抽象」への試みは、とても静謐で透明で孤独な時間である。思索の石切場で石を切り出す作業に没頭する者に「寒月」の光が寡黙な随伴者のように降り注ぐという詩的世界に感銘を受けた。

失語のよう我に汚れた冬の窓 鳥山由貴子
 大きな失敗でもあったのだろうか。拭いきれない悔恨の喩として「我に汚れた冬の窓」。しかもそれは「失語のよう」にあるという。弁解はできない。謝罪もしようがない。ただ、自己の中にある悔恨を見つめている。そう、この句に心を掴まれたのは、明らかな負の記憶に正面から向かい合う作者の姿勢に心ひかれたからである。

骨になった魚うつくし寒茜 茂里美絵
 「骨になった魚うつくし」と「寒茜」の取り合わせと読むのがわたしは好きだ。もちろん「うつくし寒茜」とも読めるように仕組まれていてその重層構造がこの句の魅力だとも思う。魚は「老人と海」のカジキを思わせるが、私はむしろささやかな食卓の鰈くらいを想像した。まるで生き切ったものの清潔な美しさとしての骨である。
(鑑賞・桂凜火)

まつさらなからだをしまふ長き夜 小西瞬夏
 酸素供給のためカプセルに入って休息するサラリーマンか、壊れた部品を養生し眠っているサイボーグなのか。保冷箱に物を納めるような「しまふ」の言葉に現代人のからだ感覚が伝わる。「まつさら」の措辞、秋の季語が白の色彩や乾燥した清潔な空気感を暗示する。疲労感を孕む現代人のナルチシズムが淡々と表現されて新鮮な感触。

冬沢の犇めく暁の鹿若し 関田誓炎
 夜明けの光が未だ深く届かない半ば凍てついた沢に若い鹿が群れて水を飲んでいる。薄暗の鹿のからだからは湯気が立っている。敏感に動く鹿の耳や漆黒の大きな目、柔らかい四肢の動きなどが想像される。「犇めく」の語から力強い命の表情が伝わる。冬の季が利いているからこそ、十七音に凝縮されたこの美しい景が生きてくる。

鯉は鳥に近づき椿でしたか 平田薫
 「鯉・鳥・椿」この三つの言葉の取り合わせから醸される「をかし」の感覚がたまらなく楽しい。実景として、池の鯉が餌の近くを泳いでいる水鳥に近寄ることはあるだろう。自然の表情の中に自ずと存在する「をかし」を捉え、「椿でしたか」と言うのは鯉なのか作者なのか。やや「をかし」が過ぎているが、この椿への飛躍こそ独特。
(鑑賞・日高玲)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

日向ぼこ埃みたいに隅が好き 綾田節子
煮凝りや信ずるに値するものとして 有栖川蘭子
春の雨に怨みの歌をうたいます 泉陽太郎
かわたれの底に眠るあなたは春 上野有紀子
亡骸と二人寝る間の寒さかな 大西恵美子
父の日や「正しい父」は額の中 岡村伃志子
懐炉持ち全身唇な感覚 葛城裸時
書き損じばかりの便箋木の芽雨 川嶋安起夫
青き踏む証明写真撮る顔で 木村リュウジ
不揃いのセーター親父バンド燃ゆ 黒済泰子
寒桜また夜の人たちが来る 小松敦
お正月静かな海へ舟を出す 近藤真由美
どの人もマスク近未来はそこに 三枝みずほ
水仙や夜空を見ない大人たち 高木水志
柔ら陽に風ほろ苦く兜太の忌 高橋靖史
水仙傾ぐΩオームのかたちで猫がいる たけなか華那
てのひらに感情線もち卒業す 立川真理
魂を抜いて塵芥捨案山子 土谷敏雄
久女の忌才女厨に落着けず 中川邦雄
亀鳴くや村と基地の出入口隣る 仲村トヨ子
また木陰で昼寝隣のニート 野口思づゑ
芽吹き雨誰の為でもなき時間 宏州弘
春を聴く水琴窟に妻傾ぎ 藤好良
くちびるに野生ふつふつアイヌ葱 前田恵
みぞおちに獅子眠らせる冬銀河 増田天志
ぼぉーっと生きてる最初はタンポポ 松﨑あきら
立春大吉パパがいるから怪我をする 松本千花
ひとり灯して白梟に囲まれる 望月士郎
初桜廃炉作業の人らにも 山本きよし
鳥雲に入る黙秘覚えし十三歳 渡邉照香

『海原』No.8(2019/5/1発行)

◆No.8 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

数え日やメモ一つ消しひとつ足す 伊藤巌
未帰還の家枯草より覗く 江井芳朗
ペンギンの足のようなる愛探す 榎本祐子
老い仕度されど青鷺立ちしまま 大野美代子
まだ生きる障子の桟に冬の蠅 尾形ゆきお
猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
綿虫飛んで鎖骨に昨日の重さあり 金子斐子
降り頻る雪の拍手のエピローグ 刈田光児
たましいのかたち不揃いせりなずな 河西志帆
雪国の白さを想う粥柱 小池弘子
うまそうなおしくらまんじゅう耳袋 こしのゆみこ
目を病みぬ時に眇める寒椿 小原恵子
遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
下書きのままの自画像冬木の芽 佐藤君子
図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
冬至かな地下階段の行止り 髙井元一
日月にひとたびは透け龍の玉 高木一惠
楽茶碗に五山あり寒夕焼 樽谷寬子
草石蚕紅くて泣き虫の少女誰 遠山郁好
ジャズ流す店の暗がり黒ショール 中條啓子
風愛し亡夫は黒土温めおり 永田タヱ子
年暮るる抱へし膝の小さきこと 丹羽美智子
ジュゴン今冬の辺野古をさまよえり 疋田恵美子
どうしました振り向く医師の掌に秋蚕 平田恒子
自傷のようにスマホに縋る冬青草 藤野武
晴れのち吹雪絵文字にも空気感 船越みよ
鷹匠のまず天網を指し示す 松本勇二
これはもうパワハラとなる軒氷柱 宮崎斗士
二の腕のたるみに映える櫨もみじ 矢野千代子
化学反応みたいにふたり春着で 六本木いつき

若森京子●抄出

家族には素直になれずかまいたち 石川義倫
変身願望蛍になるまじない 石川修治
鉛筆凍つ零戦生みし設計図 石川まゆみ
薄目して「お早う」と言う草枯れる 伊藤歩
おかにあがった水鳥のごと不本意 伊藤淳子
煮凝に進化退化も沈殿す 梅川寧江
ペンギンの足のようなる愛探す 榎本祐子
冬深し伝統という一カップ 奥野ちあき
混沌に目鼻をつけし福笑 片岡秀樹
日向ぼこ母居る水脈に棹を差す 川田由美子
かさっと雪信玄袋にのみ薬 北上正枝
息白く袋小路は辞書のよう 久保智恵
屯田碑にオホーツクの風初景色 坂本久刀
遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
包丁をとげば霧氷のにおいする 佐々木宏
初雪の透けて見ゆ土わが暗部 佐藤君子
落葉踏みごうっと加齢の波かぶる 篠田悦子
清潔な木綿の谷さん逝く寒さ 芹沢愛子
耳たぶはつめたいやわらかい雫 月野ぽぽな
さっきまで山羊といたような空白 遠山郁好
雪つむ木々書体も文体も肉体 中村晋
3・11ゆるい鎖のように人 根本菜穂子
荻の穂の白い高さを矜恃という 平田薫
根のついた陽炎仮設住宅前 北條貢司
横抱きの郷愁空に凧 松本勇二
亡父ちちいまこの赦しの椰子のもと兵士 マブソン青眼
夫とは同郷ときどき麨粉はったいこ 三木冬子
盲導犬溶け込んでおり初電車 村本なずな
すずかけの実と人の声ふと拾う 茂里美絵
死ぬ理由どれにしやうか目白飼ふ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

数え日やメモ一つ消しひとつ足す 伊藤巌
 年の暮れも押し詰まって、指折り数えられる頃。日々の予定を書いておいたメモを一つずつ消し、翌日の分を足してゆく。いつものように行う生活習慣なのだが、やはり年の瀬ともなれば、一つ消しひとつ足す所作にも、時の流れを感じざるを得ない。そのこと自体に、おのれ自身の年輪の刻みを感じているに違いないからだ。

未帰還の家枯草より覗く 江井芳朗
  東日本大震災からはや八年を経たにも関わらず、未だに故郷福島に帰還していない(あるいは出来ない)人は多い。原発の廃炉は決まったようだが、放射能被災の影響は残っているし、街の賑わいが戻らない限り復興が進むとも思えない。未帰還者の家々は荒廃のまま、丈高く生い茂った枯草の中に、わずかに顔を覗かせているばかり。震災後に始まった喪失感もある。この現実にどう立ち向かうか。八年を経た今も問われている。

老い仕度されど青鷺立ちしまま 大野美代子
 老いを迎える、あるいは老いの最中にある者にとって、「老い仕度」は否応なく立ち向かわなければならないものだろう。さはさりながら、いざとなると何から手をつければいいのか、どうすればいいのか途方に暮れるのが現実。結局変わりばえのしない日常を繰り返すがまま。ご覧、青鷺だってさっきから立ったままでいるよ。

猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
 作者の所在地では、まだ時に猪が出没するのだろう。お正月の三ヶ日、恒例の挨拶回りに着飾って出かけたら、不意に猪が飛び出してきて、作者の影を踏むようにすり抜けていった。結構ヤバい状況なのだが、都会では大騒ぎになるところでも、地方では日常的現実のように感じられるのだろう。この場合はむしろ、猪さんもご挨拶に出かけたの、と言わんばかりの親しみとして捉える。一種のアニミズム感覚の面白さではないか。

綿虫飛んで鎖骨に昨日の重さあり 金子斐子
 綿虫は雪虫とも称されるように、晩秋から初冬にかけて雪のように浮遊する。そんな綿虫が、襟元を大きく開いた女性の鎖骨にふっと止まった。そのあるかなきかの気配を、「昨日の重さ」と捉えたのだ。それは、昨日の出会いから生まれた屈託感のような、憂いのようなもの。作者が感じる想いの重さにも通ずる。

日月にひとたびは透け龍の玉 高木一惠
 この「日月」は、「歳月」とも読める。「龍の玉」はユリ科の多年草で、毎年根茎を伸ばして殖えてゆく。五〜六月に淡紫白色の花をつけるが、その後の実は初冬に透明感のある瑠璃色となる。色は年々深みを増すような気もしてくる。「ひとたびは透け」とは、年毎の変化か季節の中の変化か、その双方を含むとみてもよかろう。それは、ある境涯感のようにも感じられる。

草石蚕紅くて泣き虫の少女誰 遠山郁好
 この場合の「草石蚕」は、正月料理に使われる赤く染めた塊茎だろう。黒豆の一盛りの中に、紅い草石蚕がぽつりと混じっていて、あれが欲しいとねだっては泣きべそをかいている女の子。それは一体誰でしょう。そう言いつつも実は、思い出の中にある幼い日の作者自身なのではないか。「泣き虫の少女誰」という問いかけは、回想の景の中に広がってゆく。

年暮るる抱へし膝の小さきこと 丹羽美智子
 作者自身は九十七歳。そのことを前提に読めば、残り少ない余生を大事に生きようとしている作者像が浮かび上がる。「抱へし膝の小さきこと」とは、周囲に気を遣いながらも、自分のいのちを大切に、生かされていることへのささやかな謝念をこめているとも受け取れる。あらまほしき老年の姿、その見事な立ち位置。

ジュゴン今冬の辺野古をさまよえり 疋田恵美子
  辺野古は、今話題の沖縄の米軍基地問題の渦中にある地域。この問題は極めて複雑な経緯があるため、未だに明確な展望が開けない。そのことを暗に示唆した時事俳句である。沖縄周辺の珊瑚礁近くを遊泳するジュゴンのさまよう姿を、今の辺野古問題として捉えた。「冬の辺野古」とは、先の見えない状況を象徴的に表現している。

晴れのち吹雪絵文字にも空気感 船越みよ
 「晴れのち吹雪」とは、友人への便りに、地元秋田の気象状況を絵文字にして書き込んだのではないか。その絵文字にも、秋田の気象を表すような空気感が見えているようだという。「空気感」に実感がある。

化学反応みたいにふたり春着で 六本木いつき
 別に示し合わせたわけでもないのに、デートの約束をした二人が共に春着で、約束の場所に現れた。思わず顔を見合わせて、微笑んだのだろう。「化学反応みたい」とは、その偶然を必然のように感じているせいかもしれない。学校の授業を連想させるところが、初々しい。

◆海原秀句鑑賞 若森京子

変身願望蛍になるまじない 石川修治
  変身願望は誰にでもある性だが、この虚をつかれたような発語に立ち止まった。〈蛍になるまじない〉にはまるでお伽噺の中に拡がる想念の世界に惹かれた。他に〈軍拡再びわたし達二枚舌〉は無季だが〈わたし達二枚舌〉の措辞にも前句と同じ上七の言葉に呼応する二物衝撃であり、破調でありながら智と情の絡む精神の断面を見るようで興味深い。

家族には素直になれずかまいたち 石川義倫
  家族に疎まれ一人浮いている父親像があり、〈かまいたち〉の季語がよく効いている。他に〈青春は拗ね今偏屈や年の酒〉があり、ぶつぶつ呟きながら独り酒の背中が見えるが、ふと独り善がりではとも思えた。一句にはそれなりの言葉とのせめぎ合いの痕跡があるが、このような内なる吐露の一句もまた、乙なものだ。

煮凝に進化退化も沈殿す 梅川寧江
  あのぷるぷるの煮凝の触感から〈進化退化〉への言葉の斡旋は繊細かつ大胆な個性がある。〈天日や誰に遠慮ぞ大嚏〉があり、肉体から開放された発語には、独自の切り口とエネルギーを感じる。

冬深し伝統という一カップ 奥野ちあき
  このリズミカルな一句。〈一カップ〉を焼き物のコップなのか、お酒を飲んでいるのか色々想像したが、〈伝統〉という重厚な言葉を軽く受けるギャップの面白さ、キャッチコピーのような音階に新しい響きを感じた。他に〈雪見酒インパクトを残さない〉にも同じ気風の良さを思う。

清潔な木綿の谷さん逝く寒さ 芹沢愛子
  谷さんの追悼句が数多くあったが、この作者のナイーブな感性で谷さんの肌ざわりを言い得ている。彼はエネルギッシュに俳句に真正面から向き合った前衛派の一人であったが、同人誌の頃〈冬は終りだとっても妻がやわらかい〉の句も印象深い。他の一句〈「阿部完市全集」逆しま銀狐〉の句に私は驚愕した。阿部完市氏のノーブルなお内裏様のような風貌に、ゴージャスな智識と言葉の調べにふと騙された錯覚に落ち入ったものだ。まさに銀狐。〈きつねこころをまっさかさまにしてうらら完市〉が思い出される。作者はある事物に対峙した瞬間に言葉との格闘があり的確で優れた直感力で把握し、詩的センスで一句を昇華させる。

耳たぶはつめたいやわらかい雫 月野ぽぽな
  耳をメタファーとして雫に連なるまでの〈つめたいやわらかい〉は作者自身のしなやかな情感の流れでいつもぽぽなポエムへと引き込まれる。〈うたかたの手のひらに雪のひといろ〉消えてしまいそうな美しい儚い一行だが〈耳たぶ〉〈手のひら〉と確かな自己意志を心する。〈年迎える自分の中の自分たち〉の句が顕著なその一行であろう。

雪つむ木々書体も文体も肉体 中村晋
  福島に住む作者は、今までにたくさんの震災と被曝の作品を書いてきた。その経過があればこそ出来たような一句。書体文体肉体と続くリズムと語彙に一人の人間の歩みを見る。書体と文体からは人間性を顕著に表出し、それはわが肉体である。死と直面し数多くの死を視てきた作者は無意識の内に人一倍わが肉体の存在意識に固執している。〈雪つむ木々〉からの意識の流れを、言葉としてすばらしく詠み上げている。

荻の穂の白い高さを矜恃という 平田薫
  美しい自然の中に、ふと作者の〈矜恃〉が意識され、他人に主張することもなく、白い高さを見ては自己に問いかける内包されたプライドは品格よく表現されている。これは一句の佇まいからくるのかも知れない。他の〈枇杷の実がちょっとふくれる谷佳紀〉この句も枇杷のふくらみを見て、そっと心の中で谷さんを懐かしく偲んでいる。自然に添うて作者のつつましい人となりをみるようだ。

盲導犬溶け込んでおり初電車 村本なずな
  日常の時間を一瞬切り取った一行だが、そこに作者の熱い情の流れをみた。誰しもこの現場に出合った瞬間は、健気に主人に仕える盲導犬に心を寄せつつも、見ない振りをして自然にふるまうのが常であろう。〈初電車〉の措辞により主人との生活まで想像し盲導犬に対する思いも一層強くなる。しかし、今日も暮れてゆく。

死ぬ理由どれにしやうか目白飼ふ 横山隆
  年を重ねると、つい死ぬ理由を考え出すのか、そして〈目白飼ふ〉の措辞に現実に戻り、救われる。〈傷口の昭和九年四月五日〉から自分はこの世に生を受けた時から傷を持って生きて来た。一行にして嗜虐的ともいえる人生を詠む。この一行は他に類をみない傑作だと思う。作者の年齢でこそ詠うことの出来る現代風俳諧の世界であろう。

◆金子兜太 私の一句

猪が来て空気を食べる春の峠 兜太

  掲句の「春の峠」は、幾つ目の峠であろうか。歩いて歩いて終に辿り着いた異空間。そこは猪・狼・鹿・蛇・熊・人等が自由に存在し、平和に暮らしている。殊に空気が旨い―峠。師兜太が願う真の平和希求の眼差しが見える。海程賞受賞(第23回・昭和62年)の副賞として戴いた陶飾板にこの句が記されている。我家の唯一の家宝です。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大沢輝一

青年鹿を愛せり嵐の斜面にて 兜太

  この句で詠まれている「嵐の斜面」とは、厳しい現代社会の漠然とした不安の譬えであろう。鹿は青年にとって「癒し」の象徴であり「愛情」の拠り所でもある。人間誰しも一人では生きてゆけない。煩わしくとも人間関係の中で心の支えや繋がりを求めて生きている。鹿を愛する青年の姿は全ての人々のシルエットとなって、その愛は能動的であれ受動的であれ、嵐のような現実社会に癒しを求めて立ち向かうのである。『金子兜太句集』(昭和36年)より。近藤亜沙美

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

榎本祐子 選
従姉妹来る手花火程の嫉妬心 伊藤雅彦
遅れ来てヤァーと明るき朱欒野郎 伊藤道郎
◎芋虫に手の平をほめられている 稲葉千尋
白蝶黄蝶が交互に上下うえした無策だな 宇田蓋男
息絶えし白鳥に不思議な三日月 榎本愛子
馬の眼で見ているような蔦紅葉 大池美木
妻といるふしぎな自由暮の秋 大沢輝一
実石榴やプチ整形に誘われる 川崎益太郎
碇星テディベアなんぞに恋 河原珠美
○東京駅から鰯雲に乗り換える 小池弘子
喧嘩してきて背高泡立草ばっちり 故・谷佳紀
わたくしの幅に窓開け秋送る 遠山郁好
鰯雲ヨッシャヨッシャと拉麺屋 豊原清明
相良さがら巡礼おんぶばったの居るうれし 野田信章
暴れ萩母は静かに手折るかな 藤田敦子
神のまだ幼き頃のきなこ餅 藤野武
黄落や何だか今頃背が伸びて 堀真知子
背に積もる時間が邪魔でかいつぶり 松本勇二
ふくろうは星を音符に首回す 武藤暁美
ロボットの作るオムレツ文化の日 森鈴

加藤昭子 選
七曜の無為のつくづく木の実降る 安藤和子
○小春日の頁めくればみるみる水輪 伊藤淳子
力学で測れぬ恋や柿紅葉 小川佑華
○枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
せせらぎに始まる妻の秋出水 川崎益太郎
芒原けむたがられている純情 河西志帆
あとがきのような稜線涼新た 黒岡洋子
蟋蟀と父と親しも可惜夜は 関田誓炎
母の日やいつもなにか口遊んでいた 芹沢愛子
○冬木立空って水の想像力 月野ぽぽな
田の沖で風を磨いている白鳥 丹生千賀
妻へ白鳥さびしらの波紋を生みぬ 藤野武
菊日和胴上げのよう父送る 三浦静佳
父のことなど小春日にあさく腰掛け 三世川浩司
待ちぼうけはたぶん哲学一位の実 宮崎斗士
はじまりの出口のようでひょんの笛 三好つや子
○からすうり圧倒的な隙間かな 茂里美絵
晩秋の光よ母よ崩れるな 森武晴美
両の手で頰を叩いて刈田出る 山口伸
○さうですか。さうですか僕少し泣く 横山隆

佐孝石画 選
◎芋虫に手の平をほめられている 稲葉千尋
違和感という確かさや桜桃忌 奥山富江
前世を知った顔なり烏瓜 小野裕三
○東京駅から鰯雲に乗り換える 小池弘子
雁渡しまつげに海の重さかな 白石司子
十薬の花深読みこばむ白さです 芹沢愛子
君はみづうみだった張りつめてゐた 田中亜美
○冬木立空って水の想像力 月野ぽぽな
青紫蘇の匂いが好きで検非違使で 遠山郁好
もうそろそろ抱かれにゆくか寒いから ナカムラ薫
石蕗咲いて老婆の思い出し笑い 本田ひとみ
白薔薇の秋の闇抱く白さかな 前田典子
破蓮体言止めのようにかな 松本勇二
海に遠く柊の花の匂へりき 水野真由美
こぼるるよう人はこうして鶯に 三井絹枝
夫婦旅このままコスモスの論調 宮崎斗士
行き過ぎてばかりだったの猫じゃらし 村上友子
○からすうり圧倒的な隙間かな 茂里美絵
○さうですか。さうですか僕少し泣く 横山隆
野のゆれは晩年のゆれ夕月夜 若森京子

竹内一犀 選
ピカソ展出て友の顔じっと見る 石川和子
○小春日の頁めくればみるみる水輪 伊藤淳子
◎芋虫に手の平をほめられている 稲葉千尋
きっかけは笑うことから枇杷の花 奥山和子
ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
○枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
日の影をふるいて穂草ゆるるかな 川田由美子
嗜むほどにまゆととのえり鵙高音 小原恵子
小窓よりさそり座入れて劇生まれ 齋藤一湖
異常なり歩のない将棋のような夏 佐々木昇一
白菜まっ二つ嘘つきの平和 清水茉紀
文鳥のめつむるしぐさ初しぐれ 田口満代子
冬三日月風の匂いの獣欲し 月野ぽぽな
ゆらゆらと歩けば綿虫に会える 中條啓子
無冠の夫草の実付けて戻り来る 船越みよ
茶の花や産着きるよう月のかさ 増田暁子
どんぐりが踏まれては自己責任論 マブソン青眼
白い皿ひとつ置かれていて無月 山田哲夫
昨日よりあおき感情小鳥来る 横地かをる
木の家に生まれ没後も木の実降る 若森京子

◆三句鑑賞

息絶えし白鳥に不思議な三日月 榎本愛子
 白鳥が息絶えたことで三日月は変貌したのか。そこにあるのは白鳥の骸と三日月だけの夾雑物のない交感の世界。三日月の細い光は白鳥のみに注がれ他の侵入を許さない。「不思議」という説明のつかない言葉が作り出した世界。また、三日月なればこそ、これが満月であればこの静寂は生まれない。

鰯雲ヨッシャヨッシャと拉麺屋 豊原清明
  暑かった夏も去り涼やかな空気の中、空の鰯雲を見て来し方行方を思ったりと、シミジミするのが鰯雲の世界感としてあるが、しかし、ここではヨッシャヨッシャである。既成の情趣から外れているのがとっても楽しい。ヨッシャの片仮名、拉麺の漢字表記が俳句としての効果を上げている。

背に積もる時間が邪魔でかいつぶり 松本勇二
  時間の堆積により今の自分が形作られ、それにより評価されたり、自身を縛り付けたりと過去の記憶は厄介だ。だが、生きているのは只今のこの瞬間。かいつぶりを見ていると、くるりと素早く潜水し水中の生き物を捕食している。その生の煌きの瞬間には過去の重苦しい時間などは邪魔なのだ。
(鑑賞・榎本祐子)

せせらぎに始まる妻の秋出水 川崎益太郎
  妻の感情を良く捉えていると思う。例えば日頃の夫婦の会話の、初めは笑い声や明るいやりとりが、何らかの切っ掛けで言葉の量が増え激しさを増す。多分、どこの家庭にもある事態なのだが読み手には、あれこれ詮索したくなってくる。いつものように妻を軽く躱す夫の愛情が感じられ、楽しく読ませて頂いた。

待ちぼうけはたぶん哲学一位の実 宮崎斗士
  作者の徒ならぬ感性に圧倒される。普通なら、待ちぼうけを食わされると気分の良いものではない。あれこれ待たされる理由を巡らすあたりを、哲学っぽく思う独特な性格が好ましい。真っ赤な一位の実を捉えたところがアクセントになり、ふわーっとした雰囲気が引き締まり、待ちぼうけを楽しむ余裕が見えてくる。

さうですか。さうですか僕少し泣く 横山隆
  「上五」「中七」の「さうですか」の違いを考える。シナリオのト書のように下五がきて、声の高さもスピードも違うのだ。報告を受けて、少し間があり中七は自身に言い聞かせるように。そして悲しみが膨らんでゆく。無季でこのような形の句に出会い、新鮮な衝撃と共にマンネリ化している自分の現状を考えることとなった。
(鑑賞・加藤昭子)

東京駅から鰯雲に乗り換える 小池弘子
 東京ではビルの狭間に刷毛で一振り塗られたような意志的な青空に出会う。人、ビル、車、声、さまざまな主張に疲れ帰路東京駅に。新幹線の座席につき、漸く一息つきながら、流れる車窓を眺めていると徐々に空が開け、鰯雲が見えた。そうだこれから地元の空へ帰るのだ。「鰯雲」に「乗り換える」とは実に饒舌な映像ではないか。

雁渡しまつげに海の重さかな 白石司子
  自分の視界には決して入ってこない睫毛の存在。マスカラなどで手を加えるだろう、他者へ開かれた身体の一部。身に北風を受けつつ過ぎゆく季節を思うとき、幾多の出逢いと別れ、さまざまな感情の水紋を思い起こす。「重さ」とは重量ではなく、己と他者を繋ぐ「海」の広がりであったに違いない。(「虎杖」掲載文を改稿)

こぼるるよう人はこうして鶯に 三井絹枝
  なんと抒情的で幻想的な世界だろう。樹上で歌っている鶯は、ちょっとしたきっかけで生まれ変わってしまった人間なのだ。慌ただしい日常にふと訪れる抒情のゆらぎ。陶酔でもあり、倦怠でもあり、自虐でもある情念の水たまりに作者は転生の兆しを見た。「こぼるるよう」に「人はこうして鶯に」なるのです。
(鑑賞・佐孝石画)

ピカソ展出て友の顔じっと見る 石川和子
  ピカソのゲルニカの後継作品に「泣く女」という女がハンカチを噛み大粒の涙を流している肖像画がある。キュービズムにて描かれたこの作品は美人画を鑑賞するように表層の美を愛で一瞥で通りすぎることはできない。「女」の顔はいびつであるが故に呻き哭く声が聞こえる。現実に返り、友の女の顔というものを深く見つめなおす。

芋虫に手の平をほめられている 稲葉千尋
  悲しいことに芋虫を愛でる人は多くはないが、芋虫とじーっと向き合ってお話ができる人は更に稀であろう。常に土に親しんでいる作者は、うごめく芋虫を手の平に載せ、アニマルとしての一体感と交歓の時を過ごしている。芋虫は通念としては醜なりと言えども、作者は芋虫をヒトと等価以上の存在であるとも謳っている。

小窓よりさそり座入れて劇生まれ 齋藤一湖
  オリオンの傲慢さに怒った女神ヘラは、さそりを地上に送り、その毒針でオリオンを殺した。この功を讃えられ、さそりは天に昇り星座になったが、現代の女神はそのさそり座を天の小窓より再び地上に誘い込み、地上の傲慢なるホモサピエンスをその毒針にて刺し殺す惨劇を始めるのであろうか。我ら人類よ、さそり座を天の小窓より入れること拒むべきや。
(鑑賞・竹内一犀)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

形状の記憶なんです凍滝は 綾田節子
デカケルと冬のホテルの窓に書く 泉陽太郎
母去りし日葉うらに口づける 伊藤優子
「オレ」と言う母がたのもし春の土 上野有紀子
友達の結婚式って朧かな 大池桜子
吾が掌中に母の尿の温かし 大西恵美子
弧立せぬ程の弧独を雪もよい 荻谷修
冬木道まだ気にしてる「マルテの手記」 川嶋安起夫
つわぶきや被害者なのに謝って 木村リュウジ
濁酒や出雲訛りに諭さるる 黒済恭子
レトルトのお汁粉四つ女正月 小林育子
鰊漬けばりばり愛を食べていた 小林ろば
かりんの実ふとうちあけてくれた空 小松敦
枯枝で描いた円を抜け出せず 三枝みずほ
流れ星臍はここだぞ父祖の墓 下城正臣
誰が選びし検挙者リスト白泉忌 関無音
鳥たちの中へ狐火消えにけり 高橋橙子
谷さんが死んじゃった ベンチを探す三日 たけなか華那
梟のしまいは嗚呼ややのごと 椿良松
全員がフォークを語る成人式 鳥井國臣
雪道や世話焼かずとも転ばぬわ 中神祐正
五年目の獄舎で嚙み締む若菜かな 中川邦雄
釣瓶落しの音が身に沁む母に純 中野佑海
寒茜母の足裏をちみる眼 服部紀子
年玉は「君たちはどう生きるか」とす 平井利恵
冬すみれ木洩れ日に読む福音書 増田天志
水仙ひっそり窮屈な国です 松﨑あきら
悲しみが海鼠のかたちをして困る 望月士郎
小寒の日蝕国のあす問はむ 山本きよし
梯子乗ひと揺らしして技に入る 山本幸風

『海原』No.7(2019/4/1発行)

◆No.7 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬桜アルカリ性の恋をして 伊藤雅彦
突然死こんなにおしゃれ真弓の実 稲葉千尋
鬱の日の部屋の匂いの茸山 榎本祐子
両手に余る葉つきの柚子は祖母のよう 大谷菫
茨城のれんこん確か兜太と珊太 岡崎万寿
冬の月私を私が尾行する 片岡秀樹
父という木の箱舟を冬怒涛 桂凜火
合せ鏡の奥の淋しさ鳥渡る 金子斐子
穭田のしずかな呼吸褥かな 川田由美子
猫とシンクロ落葉の音を聞きながら 河原珠美
日の当たる障子平和の句のかたち 北村美都子
逆光の君のたてがみ三冬月 近藤亜沙美
極月のコンビニの客皆クラゲ 笹岡素子
晩秋や人間のまま死ぬ予定 佐々木昇一
われ凡夫海鼠の沈黙を信ず 白井重之
梟の眠りの中は多面体 白石司子
冬銀河さざ波はラップのリズム 高橋明江
一人称単数白し紙漉けり 田中亜美
愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
ドローン飛ぶ粟田口です冬紅葉 樽谷寬子
蟹割ってみて雪明かりと思う 中内亮玄
除染土の山も山なり眠りおり 中村晋
小豆粥のぷくぷく簡にして要 西美惠子
東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
造成地はっと野性の式部の実 堀真知子
蕪つやつやかつてザビエルのことなど 三世川浩司
寒夕焼切り絵の街を出られない 三好つや子
顔役のつもりの案山子担がれる 武藤鉦二
立ち読みの背中あかるい寒林 室田洋子
煮凝りやここに人間探求派 山本掌

若森京子●抄出

巣箱あり中学生の素顔あり 内野修
あっ靴の中に伝言クリスマス 大池美木
ふくろうは遠く寂しく母の部屋 小野正子
陽春のこもれびのごと蒙古斑 北原恵子
まだ秋のメモ書きほどの明るい咳 木下ようこ
どんぐりや蘊蓄聞いてポンと蹴る 黒岡洋子
まつさらなからだをしまふ長き夜 小西瞬夏
十二月八日嘘を継ぎ足し山河あり 小林まさる
小春日を脱ぐように鳩放ちけり 近藤亜沙美
蜻蛉散る刹那のひかりだったとは 佐々木香代子
セーターが青い化石のように座す 清水茉紀
寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
冬に出る幽霊もいてわが晩年 中塚紀代子
老後とは今です泡食っている木枯 丹生千賀
次の風に乗つてくつもり冬紅葉 野﨑憲子
義歯洗う冬来る瀬音身のうちに 野田信章
東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
唇の次に触れたい初氷 藤原美恵子
樹から落ちついに昏睡落葉かな 本田日出登
淋しさは神の采配とろろ汁 松岡良子
蕨折る音ほどでした親孝行 三浦静佳
失語治療えのころ草から始めます 宮崎斗士
暗中模索スズメの冬は慌し 深山未遊
蕪つやつやかつてザビエルのことなど 三世川浩司
梟は一刀彫の闇なんだ 三好つや子
鮭燻す天地にまた人葬り 柳生正名
水かきのくつろいでおり落葉期 矢野千代子
綿虫や息の根ふれし京都御所 横地かをる
自販機にオニオンスープか笹鳴か 六本木いつき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

突然死こんなにおしゃれ真弓の実 稲葉千尋
 身近な人の突然死に直面したときの、呆然となった状態。なにか信じられないことが起こると、一瞬現実感が失われて、妙に白々とした空間に投げ出されたような気がしてくる。するとその空間に存在するものが、今までの時間の流れの中にあるものではなく、たった今そこに生まれ出たような感覚に捉われる。たまたまこの場合は、真弓の実が生っていた。それが妙におしゃれな感じだなあと作者は受け取った。突然死がもたらした衝撃で感性
が揺さぶられて、つきものが落ちたように感じたからではなかろうか。真弓の実が「こんなにおしゃれ」とは知らなかったという。それは作者自身の感性でもある。

冬の月私を私が尾行する 片岡秀樹
  冬の月の煌々と輝く中を、一人で歩いている景。月の光が後ろから射しこんでいるのか、前方に影が伸びている。その影を追って行くうちに、自分が自分自身を尾行しているような感覚になってきたのだろう。おそらく「何処へ」という自問自答のような、内面の景をそこに映し出しているのかもしれない。

穭田のしずかな呼吸褥かな 川田由美子
  稲刈りの済んだ刈り株から新しい芽が萌出ている田を穭田と呼ぶ。そこには新しい稲のいのちのいきづきがある。それを「しずかな呼吸」と作者は捉える。一面の穭田は稲の新芽の温かい褥のように広がっている。「しずかな呼吸」は、幼い稲の寝息かも知れない。山裾の穭田では、山鳩や雉が穭穂を啄みにくるし、湖や川の水辺に近い穭田では、鴨などが穭穂を啄んでいる。いのちの営みの静かな広がりが始まっているのだろう。「褥」の喩えが、「呼吸」に響きあう。

日の当たる障子平和の句のかたち 北村美都子
 障子には障子紙が貼られていて、風や寒気を防ぎ明り取りの用をなす。冬の和室になくてはならないものだ。障子に仕切られた空間は、平和そのものの象徴。兜太先生が東京新聞の「平和の俳句」で最初に応募句から選んだのは、「平和とは一杯の飯初日の出」だった。同様の発想で住の空間を捉えるとすれば、掲句のようなものになるに違いない。平和はなつかしく温かいものでもある。

梟の眠りの中は多面体 白石司子
 梟は、夜は眼を爛々と開いて活動するが、昼間は眼を閉じてうつらうつらしていることが多い。だが、その眠りの中は多面体だという。梟を比喩として、人間の内面を映し出しているのではないか。なぜ梟なのか。どこか知的な、もの思う生きもののイメージがあるからだろう。そこには、さまざまな夢の姿や妄想も混在していよう。その多面体として存在するものを想像している。

一人称単数白し紙漉けり 田中亜美
  一人称単数は、人間の原単位である。そこから二人称や三人称の関係が生まれる。紙を漉くことで生まれる一枚の紙に、どんな人間関係が描き出されるのか。今のところは一人称単数だが。そんな想像をしながら紙を漉く。人間関係を、新しく生まれる紙の上の物語のように捉えるのは普通だが、人称の数で始まると見るのは、当たり前のようで意外にユニーク。作者の乾いた眼が光っている。

愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
  作者は海程創業時代からの古い仲間で、兜太先生ご夫妻にはことのほか親しくお世話になった人である。昨年亡くなられた。享年七十五。若い頃から大胆な発想をする人で、海程創業時に「ゴリラや毛虫瞬間的に丸太ン棒」という怪作(?)をものして話題を呼んだ。あれから半世紀を経て、今や掲句のような作品が生まれるのは、時代相の反映というほかはない。海程初期の同人岑伸六は「肉親の愛涸れた場に光る藁」という名句を残している。それは戦後時代の人間像の修羅を描いたものだが、谷句は、ポスト戦後の白けた気分を詠んでいるのではないか。「そこはまぁ」という曖昧な言い方に、むしろ作者の現代に対する冷徹な眼差しがあるように思えてならない。

小豆粥ぷくぷく簡にして要 西美惠子
  一月十五日(もちの日)には小豆粥を食べる風習があり、一年の邪気を払うとされている。煮立ってきた小豆粥がぷくぷくと泡を噴いている様子は、いかにも簡にして要を得ていると見た。この直感的な捉え方には、長い生活習慣の中で培われてきた身近な生活感から、小豆粥への親しみを表現したのではないか。

東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
  東京には、世にも珍しい話が残っているそうな。その一つが、古アパートの竈猫。戦前からあるいは戦後間もなくからある古アパート自体珍しいが、いまだに竈猫をやっている猫も珍しい。これを東京奇譚といわずしてなんとしょう―そんな一句だ。どこか永井荷風の世界を、現代に静止させているような句でもある。おそらく作者は、そのような古き良き時代への郷愁を書きとどめたかったのかも知れない。

◆海原秀句鑑賞 若森京子

どんぐりや蘊蓄聞いてポンと蹴る 黒岡洋子
  軽妙なエスプリの効いた一句。まず句全体が弾んでいる。季語の〈どんぐり〉の形態と質感は、中七・下五と呼応して響き合っている。〈ポンと蹴る〉の発語感は作者の精神の躍動だ。日常の機微の中での屈折を一瞬切り取った面白い句。

十二月八日嘘を継ぎ足し山河あり 小林まさる
  真珠湾奇襲攻撃によって勃発した第二次世界大戦、そして戦後を生き抜いてきた作者の中七の措辞に感慨深いものがある。長い年月の間には自分の信念を曲げねばならぬことも多々あった。しかし下五の〈山河あり〉の発語に重みを感じ救われる。故郷の緑の山河はいつも変わらず身も心も包み込んでくれた。一人の生きざまを語るのに最短詩型の強みと力を思う。

小春日を脱ぐように鳩放ちけり  近藤亜沙美
 小春日の陽だまりから急に鳩が飛び立つ様子を〈小春日を脱ぐように〉と表現する作者に繊細な感性を思う。〈逆光の君のたてがみ三冬月〉の言葉の斡旋にも若々しいエネルギーを感じる。両句に流れる詩のエネルギーは作者独自のものであろう。

セーターが青い化石のように座す 清水茉紀
  青いセーターを着た男女は、美しい空気の中で生き生きと生活をしていた。あの人類の悲劇ともいえる一瞬の事故から死の世界へ、その姿のまゝ静止してしまったのだ。青い化石の様に座す姿は、現在の福島の姿を象徴している。色の無い映像の中に青い化石がとてももの悲しい。

愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
  私が海程に入った頃、谷さんは好作を次々と発表されて私には眩しい存在だった。結社誌になった時、一時海程を離れ、個人誌「ゴリラ」を発行し、数年経って再び海程に戻って来た。仲人をされた先生は大変嬉しそうだった。マラソン・ランナーの健康そのものだったが、昨年末あっという間に先生を追う様に逝ってしまった。〈命は消えてもそこはまぁ紅葉です〉と言っている様だ。

義歯洗う冬来る瀬音身のうちに 野田信章
  神から与えられたかけがえのない肉体も加齢によって次第に使い古され、加工物に頼らねばならない悲しい現実に直面する。しかし自然の摂理の中に身を晒し、何度目の季節がめぐってきたのであろう。人生ってこんなものだ。この十七文字によって一種の達観した気持ちで納得させられた。

東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
  まず一句から永井荷風の「濹東綺譚」を思った。玉の井の娼婦街ではなく、昭和初期の黄ばんだ映画のシーンを想起させてくれる。東京の下町風景が頭をよぎる追懐の世界である。

樹から落ちついに昏睡落葉かな 本田日出登
  〈昏睡〉の措辞から自然と人間を一体化させ「生と死」を詩として昇華させている。〈山柿の或る日すとんと水の闇〉自然の静けさの中、山柿となった作者の精神の動きが波紋を拡げ、人間の儚さ、切なさがこの簡明な一句に滲み出ている。

蕪つやつやかつてザビエルのことなど 三世川浩司
  まず〈蕪つやつや〉の語彙から何故ザビエルが思い浮かんだのか疑問を持つ。きっと蕪の真白い艶と質感のイメージから作者の心はキリスト教に飛躍したのか、それは作者の人生経験、智識、天性の情感、詩性あらゆる作者の持つ精神模様が働いたに違いない。そして一句としての成立に、視覚的、音感的に、最初に渡来してキリスト教を布教したスペイン人のザビエルという人物を選んだ。読者の私は、この一句にある色彩感、世界観に共鳴しただけだ。

失語治療えのころ草から始めます 宮崎斗士
 料理をする時、薬味を加えて思わぬ新しい味覚にめざめる瞬間がある。この作者の句にはいつも新しい覚醒がある。新人類の薬味と言おうか、現代人の明るさがあり、一句における心の屈折にも明るさが漂う。作者の天性ともいえる薬味であろう。これは比喩のうまさであろう。〈バレリーナ老いの一瞬風花す〉〈無言といういちばんの嘘冬牡丹〉。失語性も、バレリーナの老いも、いちばんの嘘も色彩豊かな、それは庶民の明るさである。

水かきのくつろいでおり落葉期 矢野千代子
  落葉期の黄金に輝く静かな湖畔の陽だまりに、ひとかたまりの水鳥が、羽根をふくらませ眼を閉じて休んでいる。まるで一枚の絵をみる様だ。「我々は水に入れば、水面下で休むことなく一生懸命、水かきを動かしているんだよ」と言っている様だ。最近、私は手紙の末尾に必ず「お互いにゆっくり生きましょうね」と挨拶がわりになっている。残された時間を大切に、との心情だ。

◆金子兜太 私の一句

被曝の人や牛や夏野をただ歩く 兜太

  先の東日本で発生した大地震と巨大津波、福島第一原発の事故は、被害が甚大で深刻な事態を引きずったままだ。一部の地区で、原発避難指示は解除されたが帰還者は少ないようだ。原発の事故によって、荒れた田畑や野原をただうろうろと歩くことしかできない人や牛の物寂しい姿を描いて、被曝の悲惨さ、むなしさを呟くように書きとめたもので、読む者の心に沁みてくる。「海程」(平成23年8・9月合併号)より。関田誓炎

林間を人ごうごうと過ぎゆけり 兜太

  父と一つ違いの先生の、明晰で磊落な人柄に海程の最大の魅力を感じていた。海程なればこそ私のような者が俳句を続けられたのだと感謝しかない。今世この地に生を受けた我々は、それぞれが様々な荷を負い、出会い別れて生きてゆく。まさに「ごうごうと」だ。更に時空を超えてこの地この林間に生きた幾多の時代の人の姿をも思わせる、この句の詩の力に圧倒されて止まない。『暗緑地誌』(昭和47年)より。藤原美恵子

◆共鳴20句〈1・2月合併号同人作品より〉〇印は2選者の共選句

榎本祐子 選
冬瓜をことこと煮ると宇多喜代子 伊藤道郎
ふと現実ときどき新聞休刊日 宇田蓋男
秋の蝶こつんとあたる辞書の文字 川田由美子
谺ことだま生唾をのむ晩秋 久保智恵
蟻ん子が枯れ葉に乗った朝です 釈迦郡ひろみ
秋雨をなめてみること牧水忌 白井重之
丸腰で生きねば夏野に夕日吊り 関田誓炎
乳ふさはふたつ先祖の月あかり 竹本仰
採血のさなかに雁の句の浮かぶ 田中雅秀
体に雨の音が眠って青葉かな 故・谷佳紀
姥百合や声つつぬけの丘の寺 樽谷寬子
○あきらめのあかるさ昼顔の真昼 月野ぽぽな
冬夕焼珈琲の湯気みたいに泣く 豊原清明
なでしこに流れる時間明日咲きます 中島まゆみ
露草に小さな客のありにけり 服部修一
ふたりで磨いた月夜の滑り台 堀真知子
白せきれい少女は雨を考える 本田ひとみ
ジョロウグモ八瀬やせで天寿を全す 矢野千代子
カサコソと走る老人星集め 山内崇弘
一泊は榠櫨の実です夢中です 若森京子

加藤昭子 選
○長蛇の列顎を突き出す鮭となり 石川青狼
絵手紙や半分は秋半分は村 大髙洋子
他人行儀な礼あけびの実重し 桂凜火
遠雷やこころざしなど書き足して 故・児玉悦子
○菊を焚く昼のこめかみ煙るなり 小西瞬夏
○目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
見開きに反戦のうた木の実降る 白石司子
鬼やんまカクッと眠るわが岸辺 田口満代子
体調は夜明けの渚九月来る 武田美代
○気が合って秋の水底歩くよう 遠山郁好
夜学子のことばの礫飢えているな 中村晋
石のベンチにあうらのえくぼ三尺寝 野田信章
秋霖や冷えて泣きたくなる山家 松本勇二
黙祷の沈黙を這う浜昼顔 三浦静佳
銀河とはこころの奥の濯ぎ水 宮川としを
木の実降る推敲ふっとこの手応え 宮崎斗士
○風を挿すことのはじまり秋桜 三好つや子
○文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
歩かねばひかがみ亡ぶ山竜胆 若森京子

佐孝石画 選
セーターの毛玉未読の書を重ね 市原光子
片空はどこかが錆びて返り花 伊藤淳子
諦めた色ありそうな曼珠沙華 小野裕三
純情をふりほどきゆく野分かな 河西志帆
影のなき人行き交える片かげり 北村美都子
私の後ろに触れる秋の雨 こしのゆみこ
○目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
漂鳥よ席ゆずられし水の秋 田口満代子
桃剝いてどしゃ降りの夜の淑やかさ 竹本仰
藻の色を帯びし雑踏ジャズ流れ 田中亜美
蜻蛉はすでに雨を散らした虹なのだ 故・谷佳紀
どのくらい泳げば水になれるだろう 月野ぽぽな
はじまりのおわりの金木犀のにおい 平田薫
無心なるものほど高し鷹柱 松本勇二
木犀の散りつくすまで師を待てり 水野真由美
添え乳の転た寝のよう草の花 深山未遊
○風を挿すことのはじまり秋桜 三好つや子
十薬の花の勢いパン焦がす 武藤暁美
薄紅葉句碑の太文字から川音 茂里美絵
隠れ耶蘇絶えて千枚田の穭 柳生正名

竹内一犀 選
○長蛇の列顎を突き出す鮭となり 石川青狼
バッタ跳ぶもの言うわれらのさびしさに 伊藤淳子
ぬくめ酒こつんこつんと二人の会話 井上俊一
木の実落つ無呼吸のごと更けて雨 榎本愛子
人形の愛され汚れゆく 秋 榎本祐子
秋の蚊を叩くひとりがこわくなる 尾形ゆきお
手花火のカゲおれじいちゃん似だって 黍野恵
○菊を焚く昼のこめかみ煙るなり 小西瞬夏
くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
鵙の贄風鳴りのごと父の声 白石司子
地すべり遠景琺瑯質の赤とんぼ 十河宣洋
○あきらめのあかるさ昼顔の真昼 月野ぽぽな
○気が合って秋の水底歩くよう 遠山郁好
午後の視線へ吹き寄せられる蜆蝶 成井惠子
独り居のこゑ響きをり南瓜切る 前田典子
骨たちがうなづく秋の連結音 宮川としを
母と娘のあわいに波紋ぬなわ舟 武藤暁美
○文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
曼珠沙華父の罠なら逢いに行く 茂里美絵
蛇は穴へ半透明な息置きて 六本木いつき

◆三句鑑賞

蟻ん子が枯れ葉に乗った朝です 釈迦郡ひろみ
 いつも地面を忙しく歩き回っている蟻。今朝、そんな蟻の一匹がまるで船にでも乗っているように枯れ葉に乗っているのを見つけた。今日という日の始まりがいつもと違うような気にさせてくれる小さな出会い。「蟻ん子」と親しみを込めた眼差しも温かく、朝ですと言い切って、何気ない出来事にも仕合せを見出す作者の豊かさがある。

ふたりで磨いた月夜の滑り台 堀真知子
  夜が更け静まり返り、月の光が降り注ぐ公園に二人がやって来た。ふたりは無言のまま只ひたすらに滑り台を磨く。ぴかぴか、つるつるに。完璧だ。ようやく二人は顔を見合わせてにっこりと笑った……。もしかしたら、この句はふたりで歩いてきた人生の比喩かもしれないが、わたしには素敵な一冊の絵本だ。

カサコソと走る老人星集め 山内崇弘
  カサコソと枯葉の擦れる様な侘しい擬音。老人の乾いた皮膚をも感じさせる。が、ここでの老人は落葉掃きなどしているのではなく、何かしら願いを託したくなるような瞬く星を集めているのだ。しかも走って。大方が共有している言葉のイメージ、想いへの軽い捩れがあり、それによって現れる世界観が楽しい。
(鑑賞・榎本祐子)

くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
 唇を肉片と書かれるとあまりに生めかしく、「口」では感じ取れないリアルさがある。それに加えて、自分を暗渠と表現したことに驚いた。体内を通る水量はどの位だろうか。無季の句だが、暗渠という措辞に農家の私は、すぐに稲の刈り入れ前の季節を思った。大胆な句の形に引かれた。

体調は夜明けの渚九月来る 武田美代
  夜明けの渚と九月の取り合わせに魅かれる。体調の比喩が波打際であるという感受。とてもさわやかで音楽のような感覚が身を包むのだ。「九月来る」という季語が明るさを生み出していると思う。作者の生活のスタンスがとても上手に表現されていて、自分もそこにいるような感覚だ。

文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
  一読、紫蘇の匂いに包まれる。文を重ねゆくようという比喩が鮮やかだ。肉親への手紙、子供への思いを書き留める様に、一枚ずつ丁寧に摘む紫蘇の葉を、手の平に重ねてゆく実直な仕事ぶり。思い出の中の母親への思慕が見えてくる。いつまでも残しておきたい風景だ。
(鑑賞・加藤昭子)

目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
  目覚めの際のあやうい感覚を見事にとらえている。目覚めとはいわばあの世からこの世に戻ってくる行為でもあり、その境界には未知の時空の襞が続く。そのおぼろげな境界をあたかも峠のトンネルを潜り抜けるように、この世へと漂着していく感覚。その先には出口の光があり、その漂流感覚として「傾斜」を見たのだろう。

藻の色を帯びし雑踏ジャズ流れ 田中亜美
  「色」とあるが、それは水中で眼を開きながら泳ぐ際の危げな視覚を想起させ、その水中感覚を「藻の色」とあえて視覚に限定することで、暗緑のベールの向こうの藻のごとき拘束感覚までも引き寄せてくる。「上海五句」とあるが、異郷の地が自我と圧倒的他者との浸透圧について再認識させたろう。また、「ジャズ」とアジアの中に西洋的なものを混在させ、眩惑感を更に増幅させる。

はじまりのおわりの金木犀のにおい 平田薫
  「はじまりのおわり」とは非常に難解な謎かけだ。五感のうち嗅覚はもっとも時間的。その感覚は知覚したと同時に霧散するきわめて刹那的なもの。「金木犀のにおい」に断片的に想起させられた様々な自分史が明滅していくその感覚を直感的にとらえた。その直感は死生観にも通じるものであるだろう。
(鑑賞・佐孝石画)

バッタ跳ぶもの言うわれらのさびしさに 伊藤淳子
  本来、直截に偽ることなく心情を表現すべきが我々表現者であるが、時として、他者の目や比較に捕らわれ、又、常識に埋没することもある。しかし、兜太的表現者にとって通念に捕らわれることは足枷でしかない。この足枷を自ずから外し、力強く未来へ飛翔することにより、真の表現者となり得る。

くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
人間には口づけをする為の唇と、自我という他者より察知できない腹がある。他のアニマルは唇を噛むか。アニマル同志が腹を探り合うか。ロボットは口を尖らすか。ロボットは腹を割るか。人間とアニマルとロボットとの関係性において新たなアニミズムを思う。

午後の視線へ吹き寄せられる蜆蝶 成井惠子
  いじめと不登校を経験した午後の視線にいた少年俳人・小林凜の〈蜆蝶我の心の中で舞え〉を彷彿とさせる。着想の起点はどうであれ、ここに表出された十七文字は純粋に造型的俳句として鑑賞に足る。視と蜆に蜆蝶の目目目……を感じて止まない。
(鑑賞・竹内一犀)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

水揚げの修羅場をあそぶ海鼠かな 飯塚真弓
初雪や三つの恋を弔う日 泉陽太郎
鶏さばく父の在りたる大晦日 齋貴子
冬すみれ麒麟の空にあこがれる 上田輝子
サヨナラを告げては食みぬ蕨餅 上野有紀子
幸せかと聞く人嫌い石蕗の花 大池桜子
闇汁の阿鼻叫喚を掬いけり 金子康彦
施錠する校舎の扉寒オリオン 川嶋安起夫
牡丹雪鏡に溜まる独り言 木村リュウジ
馬小屋の深く静かな聖夜かな 日下若名
名シェフと出会い大根冥利かな 黒済泰子
蠟梅やひっそりと生き方変える 小林育子
鰊漬けあふれる愛を食べていた 小林ろば
水槽のこちらの暮らし小六月 小松敦
吐く息のあつまるかたち冬薔薇 三枝みずほ
生きざまは擬態にあらず冬囲い 鈴木栄司
柿すだれかつて蚕飼の櫓かな 高橋靖史
冬の月ラッコは自分の石を持つ たけなか華那
母よりもわが身大きく冬芽越え 立川真理
けあらしや亡父の貌が描けない 立川由紀
猪鍋囲む今にも墜ちそうな村に居て 舘林史蝶
求愛する鴨もいて沼にぎにぎし 椿良松
山の講の大鋸おほがに神が降りてくる 中神祐正
綿虫の流れにさからう勇気かな 畑中イツ子
木菟言うソンナトコロニモウイナイ 松﨑あきら
極月の結露の窓にMと書く 松本千花
消印の町に粉雪降るころか 望月士郎
抜けそこねたLINEグループしろばんば 山本幸風
うす氷バギッと踏んで登校す 吉田和恵
狐火やシリアの石鹸匂ふ夜 渡邉照香



『海原』No.6(2019/3/1発行)

◆No.6 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

小春日の頁めくればみるみる水輪 伊藤淳子
従姉妹来る手花火程の嫉妬心 伊藤雅彦
妻といるふしぎな自由暮の秋 大沢輝一
ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
一人ひとり来し方行方冬木の芽 北村美都子
猿酒目をつむる事習い性に 黍野恵
自分史の書き辛い箇所遠花火 楠井収
あとがきのような稜線涼新た 黒岡洋子
我という浮遊感覚冬の雨 佐孝石画
ガリレオのように星月夜を黙読 猿渡道子
秋夕焼師の両神山りょうがみは包むかたち 篠田悦子
白菜まっ二つ嘘つきの平和 清水茉紀
菊人形サイケデリックに枯れている 白井重之
ちちろ鳴く君との時差の横たわる 竹田昭江
喧嘩してきて背高泡立草ばっちり 故・谷佳紀
フクシマと言うとき冬の蠅来るとき 中村晋
浜木綿や軍艦島に骨朽ちる 仁田脇一石
生いちじくの緩い食感愛に飢え 船越みよ
空家いま獣のにおい星月夜 本田ひとみ
破蓮体言止めのようにかな 松本勇二
どんぐりが踏まれては自己責任論 マブソン青眼
三角形いくつも描いて冬に入る 水野真由美
待ちぼうけはたぶん哲学一位の実 宮崎斗士
無花果樹いちじくの蔭怖くなるお留守番 村本なずな
「さみしい」の使用を禁ず吾亦紅 室田洋子
産直の陽の匂い抱き市民祭 望月たけし
ロボットの作るオムレツ文化の日 森鈴
大言海閉ぢて座礁の鯨どち 柳生正名
冬期限定の男ですはにかみ屋です らふ亜沙弥

前川弘明●抄出

鶴渡る夜折鶴は飛び発たん 伊藤道郎
峠まで故郷見にゆく鵙日和 石川義倫
原子炉のてり冷まじや日本海 稲葉千尋
米寿なり原爆乙女は歳読まず 大浦フサ子
きっかけは笑うことから枇杷の花 奥山和子
ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
抽斗の枯葉ざくざく新元号 桂凜火
枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
せせらぎに始まる妻の秋出水 川崎益太郎
自分史の書き辛い箇所遠花火 楠井収
我という浮遊感覚冬の雨 佐孝石画
塩害の落葉を素手で鷲掴み 佐々木昇一
初秋刀魚行方不明の猫帰る 瀬古多永
文鳥のめつむるしぐさ初しぐれ 田口満代子
立冬のキャッチボールは高く投ぐ 田中雅秀
草原に星飛ぶ夜の輪転機 鳥山由貴子
満開の漢の寿命冬銀河 中内亮玄
ゆらゆらと歩けば綿虫に会える 中條啓子
仮設のまま八年冬の薔薇一輪 中村晋
落葉蹴る炸裂音や女靴 中村孝史
蛇穴に入る一匹は酔いどれて 並木邑人
雑草の貌など捨てよ朝の稗 成井惠子
秋の海なら先頭車に乗るわ 平田薫
無冠の夫草の実付けて戻り来る 船越みよ
突っ立って竹箒なり十三夜 本田日出登
綿虫の命の青み神の庭 松岡良子
蝦夷の地の水の弾力胡桃落つ 武藤鉦二
夜も青空どこかで鯨潮吹いて 茂里美絵
両の手で頰を叩いて刈田出る 山口伸
こおろぎのむくろ見るのみ考へず 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

小春日の頁めくればみるみる水輪 伊藤淳子
  小春日和の続く穏やかな日に、家の近くの池か小川の畔に来て、静かな時間を過ごしているのだろう。「頁めくれば」とあるのは、今の時間に回想の景を繰り込んでいるに違いない。「みるみる水輪」は、現前の景に回想の景が重なって、想念は水輪とともに広がって行く、その〈現れ〉ではないだろうか。手錬れの作者ならではの〈時間の現在感覚〉とは言えまいか。

枯はちす立つ本能というひかり 狩野康子
  「枯はちす」は、冬の水面に残る枯れ果てた蓮の残骸で、骨のように突っ立っているものもある。一面に枯れわたった景は荒涼として、無残とも思えるほどだ。その中に「本能というひかり」を放つ枯蓮があるとは、泥中深く走っている地下茎が、豊かな蓮根を稔らせていることを暗示するものであろう。褐色の枯葉は水面にうなだれていても、本能が支えているいのちは、どっこい生きているというわけだ。

我という浮遊感覚冬の雨 佐孝石画
  冬の雨は、小暗く冷たい。ものみな枯れ果てた上に降るので、みじめな感じもある。明治期までは、「時雨」「寒の雨」の季題が使われていたが、よりこまやかに「冬の雨」を季題として用いるようになったのは、現代俳句においてであったと言う(山本健吉)。「我という浮遊感覚」は、まさに現代俳句ならではのもので、こういう〈故知らぬ倦怠感アンニュイ〉ともいうべき不安感は、少なくとも明治期以前にはなかったものかもしれない。

菊人形サイケデリックに枯れている 白井重之
  「サイケデリック」とは、心理感覚内にさまざまな幻覚によって生ずる視覚聴覚のイメージ。菊人形が枯れた状態になると、まさにそんな混沌とした抽象化された映像に変わるとみたのだろう。一九六六年にアメリカ西海岸に起こって全世界に波及したヒッピー運動のイメージにも通うと作者は見たのかも知れない。正直のところ、この比喩がどこまで当たっているのか私にはわからないが、「サイケデリック」と名づけたことで、枯れた菊人形のイメージが決定づけられたといってよい。

フクシマと言うとき冬の蠅来るとき 中村晋
  東日本大震災以来、福島はヒロシマ、ナガサキ同様にカタカナ表記され、原発被災を世界的規模で印象付けることになった。しかし災後八年、原発はますますグローバル資本主義と結びついて、災後のリスク感覚は風化されつつあるかに見える。そのことへの警告を、作者は声高でなく、「冬の蠅」のような日常感で訴える。それは、繰り返される忘却に抗し、被災が突きつけた問いにこだわり続ける庶民の粘り強い声に違いない。

空家いま獣のにおい星月夜 本田ひとみ
  地方の過疎化が言われて久しいが、今や人口減少は都市近郊にまで及び始めている。空家がふえ、ゴーストタウン化した地域は人影もなく、獣のにおいすら充ちつつある。作者は、福島に定住していたが、被災後、東京のベッドタウンといわれる埼玉に移住した。しかしそこすら、安住の地とはいえなくなって来ているのかも知れない。「星月夜」は、そんな現実を受け止めている作者の姿勢が見えてくる。

破蓮体言止めのようにかな 松本勇二
  破蓮が水面に広がる中にあって、いびつな漏斗が下を向いた形になっているものが見られる。それが一つ一つのオブジェのように、さまざまな形を作っている。その存在感を「体言止め」と見立てたのではないか。この形容の仕方は、独特なものだけに伝わりにくいものかもしれないが、雑然とした破蓮の群落にも、作者の中ではある拍音のようなリズムが感じられたのかもしれない。

待ちぼうけはたぶん哲学一位の実 宮崎斗士
  「待ちぼうけ」は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の童謡としてよく知られているが、もともとその説話は、中国韓非子に由来するものなので、「たぶん」といわれなくとも哲学なのである。作者はそこをおどけて、諧謔をこめて「たぶん哲学」といったのだ。そのずっこけぶりが、この句の面白さになっている。取り合わせた「一位の実」は、果実の質感というより、高官の笏を作ったことから来る「一位」の語感が、イメージの落差をもたらしていて面白い。平易な句柄とは裏腹に、結構二重三重の仕掛けのある巧みな句とみた。

無花果樹いちじくの蔭怖くなるお留守番 村本なずな
  無花果の木蔭の庭でお留守番をしているのは幼い頃の作者なのだろう。一人お留守番をして無花果の葉蔭にいると、なにやら物の怪に誘われそうな、怖ろし気な気配を感じてしまう。おそらくそれは、たんに一人で居る心細さばかりでなく、なにかえたいの知れない不安な塊のようなものに取りつかれる直前の気配のようなものかもしれない。作者にとって名づけられない何か、自分を突き動かす何かのような、詩的衝動に駆られていることを指しているのかも知れない。

◆海原秀句鑑賞 前川弘明

峠まで故郷見にゆく鵙日和 石川義倫
  ふるさとは遠きにありて思ふもの、と室生犀星はうたったが、あれは故郷を思い焦がれる裏返しのせつない自己韜晦であろう。それに比べると当句は率直で健やかである。峠まで来ても故郷が見えないことは判っているのだけれど、鵙が高鳴くこの美しい秋の日和は峠まで行けばきっと故郷を見せてくれるに違いない、と行くのだ。

米寿なり原爆乙女は歳読まず 大浦フサ子
  いま米寿の女性の原子爆弾被爆のときはまだ十代の夢多き乙女であった。それが、苦難の戦中戦後を経て苦しい道程をやっとここまで来た。世事に揉まれて年齢なんかわざわざ数えたこともない、もう無いようなものだと思うて生きてきたのだろう。花園の中の一輪のように。

ロボットと二人ぐらしや文化の日 片町節子
  この頃のロボットは優れていて、複雑な接客などにも利用されているようだ。だから一人居の生活にロボットが居れば、生活に充足感をもたらすだろうと思われるけれど、情愛というこまやかさの部分にはどうしても欠けるだろう。だから、結句に「文化の日」を据えているのは、ロボットであれ独り暮らしに共存の仲間が居るのは文化の賜物であると思っているのだろうか。いや、そうではなくて、命をもたないロボットとの二人きりの暮らしを「文化の日」だってさ、と皮肉っているのだろう。

抽斗の枯葉ざくざく新元号 桂凜火
  今年の五月一日から平成から新しい年号になる。平成には地震、津波、被曝、台風、猛暑、沖縄など、個人的な身辺のことも併せていろいろとあった。例えば抽斗を開けると枯葉がざくざくと出てくる感じだったな、と。

せせらぎに始まる妻の秋出水 川崎益太郎
  なかなか粋な句だ。妻の愚痴を聞いているのだ。初めは、せせらぎほどの耳障りだったのが、聞き流しているうちに、だんだん昂じて増水した川が溢れるように激しく止まらなくなったのだろう。困って狼狽する夫の様子が見える。この句を見た奥さんからまた秋出水。

初秋刀魚行方不明の猫帰る 瀬古多永
  単調だが、なんだか楽しく可笑しい。「初」が効いているのだ。長らく行方不明だった家の猫がひょっこり帰ってきた。猫にしてみれば、初秋刀魚ときいて帰らでおくものかと勇むのだろう。「さんま苦いか塩つぱいか」などと落ち着いて居られるものかと勝手知ったる家をめざすのだ。前に不満たらたらで出てきたことなど忘れてしまって、家主にむかってニャーンと啼いたことだろう。

草原に星飛ぶ夜の輪転機 鳥山由貴子
  ひろびろと夜の暗さにひろがる草原は、風にざわざわと靡いているだろう。空いっぱいにチカチカと星たちが咲き、ときどき流れ星がするどく星たちを横ぎって飛び、どこかで深夜の輪転機が回っている。溢れるほどに文字を載せた紙を、暗い草原の夜へ吐きつつ回っている。
 ……というような風景なのだろうか。だが、やはり上句と輪転機の位置や関係が判りにくいけれど、この壮大な風景と唐突な輪転機は、詠み手を混乱へ誘う以前に、未知の健全で甘美な世界を提示してくれたような感じがある。

無冠の夫草の実付けて戻り来る 船越みよ
  無冠の夫(あるいは自分)をモチーフにした句は多々あるが、この句の芯になっている「草の実付けて」の斡旋が、純真素朴な愛情をよく表していて、微笑して戻り来るのは栄誉栄達に固執しない大らかな夫なのであろう。その背中は太陽の匂いがしているのかもしれない。

綿虫の命の青み神の庭 松岡良子
  綿虫は白い綿のような分泌物をつけて弱弱しく飛ぶ。いま神の居ます庭に舞い飛ぶ綿虫は、神の恵みをうけて命青みて飛んでいるという。「命の青み」によって、しんしんと静謐な神の庭のたたずまいが偲ばれる。

蝦夷の地の水の弾力胡桃落つ 武藤鉦二
  蝦夷は北海道の旧称であるから、旧称時代を想っての句かもしれないが、この句の場合は古代に言語や風俗を異にした「えみし」が居住していた頃の東北の今に住み居ての句かもしれない。ま、どちらでもいいが、この地から湧く「水の弾力」の把握がすごい。かつてのこの地の活力と怨念さえ感じ、それによって、いま充実している胡桃の実が落ちるという。想像ゆたかな句である。

両の手で頰を叩いて刈田出る 山口伸
  なんと言うことない風景描写のようであるが、農地で働く人のしみじみとした生活感がある。稲を刈り取られた田は寒々と拡がっているだろう。もう何処にも人影はない。ときおりカラスの鳴き声がする。男は今年の田仕舞を見届けるように田をひと回りしてきたのだろう。案山子は小屋に仕舞った。鍬、鎌などの忘れ残りもない。みんなで頑張ってよく働いた。さあ家へ帰るとするかと、思わず、安堵自賛の、両の手で頰を叩いて刈田出る。

◆金子兜太 私の一句

白い人影はるばる田をゆく消えぬために 兜太

  養蚕教師だった祖父は、母の実家へ婿養子に入った後、小学校の代用教員をしていました。でも、曾祖父(舅)に農業に専念するよう頼まれ、戦争から復員後は農業一筋。その祖父を思い起こさせる、大好きな句です。金子先生が七年前、無言館の成人式にいらした折、「母は農家の出身だから」と言ったら、「農家が一番いいだ」と力強くおっしゃってくださいました。句集『少年』(昭和30年)より。清水恵子

海を失い楽器のように散らばる拒否 兜太

  兜太と言えば「造型俳句」。神戸から長崎、そして十年振りに東京に帰ってきた時期に重なり、掲句は長崎時代の作である。海に囲繞された長崎が海をなくしたとは、楽器のようにとは、拒否とは何か興味は尽きないが、踊るような高揚感と確乎とした意思が、やがて「海程」の創刊へと雪崩れ込んでいく。前衛俳句のひとつの頂点を成す一句である。『金子兜太句集』(昭和36年)より。並木邑人

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉〇印は2選者の共選句

榎本祐子 選
あちこちに頭ぶつけて夏が行く 伊藤幸
夏うぐいすきっとももいろ喉仏 稲葉千尋
夏の浜雨の拙く降りにけり 小野裕三
○青北風の血をきれいにする体操 こしのゆみこ
老いて犬も傾いで歩く稲の花 篠田悦子
○やぁと言えばちぇっと答える春の猫 芹沢愛子
天の川流れの果てに家を閉ず 十河宣洋
ブルドック畳を歩く良夜かな 髙井元一
大阪は蒸し器の湯気の歳月や 竹内義聿
ガーベラよ久しく口角上げてます 田中洋
秋暑し五臓六腑を言うてみる 寺町志津子
とびっ切りのねずみ花火で送り出す 新田幸子
妹が魅入られていく猛暑かな 服部修一
酔芙蓉二階から犬の吠えかかる 平田恒子
老人と悪さをしない蜂たちと 本田ひとみ
晩夏光鶏に横目で舌打ちされ 松本勇二
秋蝶の飛ぶとき兄の老ゆるなり 水野真由美
熱帯夜標本箱という秘境 三好つや子
○いなびかり兎のようにひとりきり 室田洋子
送り火やここからはじまる真の飢 矢野千代子

加藤昭子 選
夜汽車発つ胡桃の部屋に連結音 赤崎ゆういち
遺骨なき兄は蛍火萱の舟 安藤和子
小鳥来る電気のこない昼の町 伊藤歩
台本に風の音なく蝉時雨 伊藤幸
乗り換えればすでに故郷葛の花 榎本愛子
老いるとは茄子の馬さえ重荷なり 大野美代子
九十三の母反抗期大花野 小川佑華
朝顔や少女も猫も身繕う 刈田光児
鬼灯や泣くだけ泣けばあと黙る 河西志帆
文月やいちにち物を言わない日 北上正枝
海原のそう奏でてむ貝風鈴 北村美都子
退院のこの世の匂い麦の秋 楠井収
○青北風の血をきれいにする体操 こしのゆみこ
いつも東京普請中なり轡虫 柴田美代子
天の川やわらかかった師の握手 清水茉紀
秋深し労りの増す妻の声 中村孝史
行方不明のような手ざわり秋彼岸 丹生千賀
小鳥来て辞書引く息のやわらかく 水野真由美
背泳ぎの背の崖っぷち手術台 三好つや子
○姉さんの全円スカート無花果食う 室田洋子

佐孝石画 選
ブラックアウト銀河が僕に沁み込むよ 石川青狼
その言葉撤回しますつくつくし 伊藤歩
かなぶんやときに旅人ときどき風 伊藤淳子
正面をきちんと決めて青林檎 奥山和子
蟋蟀の夜の力で鳴きにけり 小野裕三
今日の黙身体に残し花野かな 川田由美子
旧姓で呼べば薄暑のような人 黒岡洋子
○すーっとトンボどこかでお逢いしましたか 小池弘子
月が海に落ちてゐる火の匂ひだ 小西瞬夏
○やぁと言えばちぇっと答える春の猫 芹沢愛子
渡りきて霧を見返るまた会える 十河宣洋
あかんぼのうす目静かに野分かな 竹本仰
すこやかに閉じてゆく日々水の秋 田中亜美
○逃げやすき血管を持ち夜は霧に 月野ぽぽな
地の下の水を感じて秋に入る 長谷川阿以
かなかなの語尾のにごりの雨もよう 増田暁子
ちひさき舟のちひさき睡り紫苑咲く 水野真由美
鶫来るみずうみという音域に 宮崎斗士
○いなびかり兎のようにひとりきり 室田洋子
蓮の葉の嗚呼と言っては暮れにけり 茂里美絵

竹内一犀 選
思い出は軽く握った草の絮 伊藤淳子
ひとしずくの青のしんじつ雨蛙 大西健司
ゆるく息吐く小望月生むように 片岡秀樹
ルーペで新聞正体知らぬ地虫鳴く 狩野康子
人の死を木片を噛むように訊く 菊川貞夫
○すーっとトンボどこかでお逢いしましたか 小池弘子
源五郎淋しい時は円描こう 齋藤一湖
肉片のごとき島あり浜昼顔 佐孝石画
いのちかな荒ぶる雨のからすうり 田口満代子
花石榴情は音律心は無 竹内義聿
月光の沁みゆく磧蝶の翅 田中亜美
○逃げやすき血管を持ち夜は霧に 月野ぽぽな
単純になるまで泳ぐ青むまで ナカムラ薫
青嵐いつから石でゐるのだらう 野﨑憲子
霧の旅一本の木に会ひにゆく 水野真由美
○姉さんの全円スカート無花果食う 室田洋子
蟬背より生まれ極刑ある日本 柳生正名
虫の声無人駅まで歩いてみる 山内崇弘
水打って小さな嘘を転がせり 山口伸
火蛇かだに触れあかつきは朱夏のたましい 山本掌

◆三句鑑賞

夏の浜雨の拙く降りにけり 小野裕三
 海水浴の人々でごった返す浜。地元の人しかしらないような静かな浜。ごつごつの岩だらけの浜。そんな夏の浜に雨が降り、黒いぽつぽつを少しだけ残して終わった。そして、浜は元の白い夏の浜へともどる。物事はいつも、ふと現れそして去る。その大方は日常の中へと埋もれ、何事もなかったかの様に時は流れてゆく。

熱帯夜標本箱という秘境 三好つや子
  標本箱に整然と並べられた者たち。そこは秩序的で何物にも侵されず、時間と空間が留められた世界。本来の場所にはなく、息づくことも無いひとつの死。だがサンプルとして己が姿を提示することでその者たちは生きている。熱帯夜という喘ぎの時も、そこは外界とは別の時空の、生と死の交差する静謐の秘境なのである。

送り火やここからはじまる真の飢 矢野千代子
  お盆には迎え火を焚き、親しい霊を迎え共に過ごす。短い逢瀬のようなひと時の後は送り返さねばならぬ。ちらちら揺れる送り火の奥に向けられた視線は身の内へと向かい、そこには漠とした闇を見るばかりだ。やがて送り火は消え、辺りは真の闇に包まれる。始まりは終わり、そして又始まりへと向かう。
(鑑賞・榎本祐子)

九十三の母反抗期大花野 小川佑華
  一読、自分の環境を思ってしまった。どんなことに反抗的になるのか解らないが、自分の母親も同年齢で、自己中心的で僻みっぽくなった。老いて来ると子供に帰って行くこともあるようだ。大人になった子は、大花野に分け入って来る我儘な母を、時には叱り、広い気持ちで受け入れるしかない。

退院のこの世の匂い麦の秋 楠井収
  かなり重篤な病気だったのだろうか。長く入院し、漸く退院となった。無機質な病室から出て外に出た瞬間を切り取った。日射し、空気感、人々の声、日常を取り戻した喜びが表出されている。麦秋の明るさに、生きている実感を味わっている作者が見える。この世の匂いを満喫。

いつも東京普請中なり轡虫 柴田美代子
  いつもあらゆる場所で、東京は工事の音で溢れている実態。賑やかな街騒に加えて重機の音や解体、ドリルの音。誰もが目にし、聞いている建築の様子が、馬具の一つに似ている轡虫の鳴き声と重なる。普請という少し古めかしい言葉が、東京そのものを築き直すようにも感じた。
(鑑賞・加藤昭子)

蟋蟀の夜の力で鳴きにけり 小野祐三
  「夜の力」に痺れてしまった。恐らく蟋蟀だけでなく、あらゆる虫たちは「夜の力」によって鳴くのだろう。虫だけでなく植物もそして人も。岡本太郎の「森の掟」を想起させるアニミズムの世界。上五の「の」という助詞もうまい。「は」や「が」でなく、「の」とすることで自然の大いなる力に委ねられる感じが出てくる。

渡りきて霧を見返るまた会える 十河宣洋
  北海道の霧は深い。視界を遮る濃い霧の中を歩いていくうちに、日常から浮遊した感覚が生じてくる。脳裏に浮かぶ様々な風景と現実の視覚が混ざりゆき、半ば恍惚となる時、ふと会いたかった人が遠くから歩み寄って来る(兜太先生だ)。いつしか霧が明け、呆然と来し方を見返り、強く頷きながら呟くのだ。「また会える」と。

逃げやすき血管を持ち夜は霧に 月野ぽぽな
  難解な句だが、一瞬にして惹かれた。共鳴したのは身体感覚ともいうべき直感。「逃げやすき血管」を敢えて説明するならば、脈拍や採血の際に浮かび上がる静脈とその触感か。「逃げ」の語は作者のためらいや自虐の念を思い浮かべ、あたかも自分自身が一本の静脈となり、都会の夜に捩れてゆくかのごとき幻想まで見えてくる。
(鑑賞・佐孝石画)

人の死を木片を噛むように訊く 菊川貞夫
  木片には臍や唇のような肉感は無いが、木片を噛むほどの悲しみを、哀悼の意を表しつつ、死したる者に向かい合い、口開くでもなく、歯を食い縛るでもなく、ただ木片を噛むように、言の葉無言に語り掛け、なお、我に問い、返り来るを求め訊く。

いのちかな荒ぶる雨のからすうり 田口満代子
  小さくも大きな命であることよ。荒ぶる雨の中にあり、赤の凝縮鮮やかにからすうりの我そこにいる。たとえ齢は重ねてもあかあかとしてそこにあり、いのちの存在風に揺れ、荒ぶる雨にずぶぬれに。世の混沌にまみれても、からすうりはあかあかといのちを翳し実を付ける。

火蛇かだに触れあかつきは朱夏のたましい 山本掌
  火蛇はエロティシズムのブッダなれ。火蛇の火に山の端触れてあかつきにレッドブッダを宿したる。地を焼くほどの魂を火蛇の分身授かりて、朱夏の陽となり地に踊る。地上にいのちあふれしが、いつしか火蛇の現れて、地上を闇に又包む。火蛇は深い闇にあり、地下のマグマに充たされて、又永劫にあかつきを。
(鑑賞・竹内一犀)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

芒原殺陣師の追って来るような 綾田節子
梳きこぼす言葉にからむ木の葉髪 石塚和枝
私の墓抱きしめる雨にうたれて 伊藤優子
長き夜や球根のよう自我を剥ぎ 上田輝子
てのひらはありがたき形小鳥来る 上野有紀子
檸檬切るわかりにくいのが幸せ 大池桜子
延命を否と告げし日冬ざるる 大西恵美子
素っぴんと照れる老いどち冬の虹 荻谷修
天の川放火のように涼しいな 葛城裸時
キャラメルの箔を剥がすや冬銀河 木村リュウジ
鉦叩わたしの洞を穿つごと 黒済泰子
烏瓜「暗夜行路」を抜け出して 小泉敬紀
石蕗の花まもなく明くる朝ふたつ 小松敦
満月に媼の沼を覗かれし 佐々木妙子
月仰ぎ石に躓く芭蕉の忌 重松俊一
雲傷みやすくなった11月が降りてくる たけなか華那
黄落の富士北斎のしかめっ面 立川真理
カンバスにあるは群像冬木立 田中裕子
酔芙蓉の花に濁流一草庵 中野佑海
秋茜スイスイ老いはズルズル生き 仲村トヨ子
欅落葉はな子に定年なかりしこと 野口佐稔
蜜柑箱開き一個の無尽蔵 野村だ骨
人焼けて寄ればポテチの残滓めく 福田博之
嘘を言う快感すでに蟻地獄 前田恵
榠樝どすん神々は時々まちがう 松﨑あきら
蓑虫やママが言うならそうだろう 松本千花
サーカスの爪先がくる霜夜かな 望月士郎
大きな鏡に小さな私獺祭忌 山本幸風
後継ぎは心許ない新松子 横林一石
呼氣吸氣冬蒼空へ竹しなる  吉田貢(吉田貢の吉は土に口)

◆追悼  谷佳紀 遺句抄

風がゆっくり雨がゆっくり柚子畑
一人って空の広さで紅葉多分ですが
後れ毛のように街並みは冬になった
その奥も冬が積もった古書の山
冬月に僕の濁りがゲップする
スケッチブックに古書のふくよか冬桜
お雑煮の愉快に旨く凪いでいる
臘梅が楽しく咲いて旅行中
紅梅の日暮れが通夜への愛にして
四十九日やおたまじゃくしぴちぴちの桜
畑が広がりパン屋にさくら草
青空や腑抜けになって目高になって
たんぽぽの絮と一緒の空きっ腹
天使からもらった夕陽山法師
沙羅のリボン肘や首お休みなさい
雨消えてキスにやさしいクローバー
紫陽花やいつも一人でいつもいたずら
夾竹桃が呼ぶんだビールが欲しいのさ
蜻蛉はすでに雨を散らした虹なのだ
体に雨の雨が眠って青葉かな
(二〇一八年作品より佃悦夫抄出)

人生円熟 佃悦夫
 「海程」創刊期からの参加者であり生え抜きと言える。プライバシーは断片的にしか知らないものの長年の盟友は多々。新潟県出身だが関東に出てきて、まず日逓製作所に職を得、しばらくして学校事務職となり定年まで全うしたのが公的な人生だった。
 初期の東京例会での発言はラジカルを常とし兜太にも臆することなく正面からぶつかった。同人誌から主宰制と変わったものの彼の姿勢は不動であり、ブレは皆無だった。
 作品もそのままを反映し攻め一方と言えた。若書きと言えばそれまでだが、そのエネルギーは噴射しつづけていた。もちろん作品世界は一直線の即物主義といえるほど真摯であった。虚構は無くも無いが、歴然として可視の域であった。
 作句者として漫然と才能を削っていたわけでは決して無い。
 平成元年発刊の金子兜太編『現代俳句歳時記』(チクマ秀版社)の協力者の一人として、その有能ぶりを発揮している。ふだんは特別に多弁ではないものの、発言は的を射ていただけに、この協力はかなりの貢献だったと思う。
 俳句の縁で金子夫妻の媒酌で結婚しているが数少ない一と組かも知れない。なんとその後を追う死となるとは。
 健康には人一倍心懸けていたようで各地開催のマラソン大会に七十歳台半ばのつい最近まで能う限り参加していたようだ。その死の原因は心筋梗塞(虚血性心疾患)というが、いまなお信じ難く、良く通る男性的な声を思い出す。
 金子兜太という強い磁気に吸い寄せられるように前衛俳句の作者として出発したに違いは無いが、別掲の作品は何と円熟度が高く、晦渋もなく穏やかな口語体である。肉体をとっくに突き抜けており、初期の作品からは想像も出来ない。いわゆる「ほっこり」「ふんわり」の感触である。
 その到達は彼の人生がいかに充実していたかの明らかな証左であると確信する。
 二〇一八年十二月十九日逝去、享年七十五。

『海原』No.5(2019/1/1発行)

◆No.5 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

膕の美しき人秋茜 浅生圭佑子
長蛇の列顎を突き出す鮭となり 石川青狼
言い淀むわが浅瀬にも昼の虫 伊藤淳子
ぬくめ酒こつんこつんと二人の会話 井上俊一
大叔母の遺影横向き単帯 奥山富江
ブラインド降ろし花野を眠らせる 片岡秀樹
花野しゅわっと風を見たのは誰かしら 河原珠美
百日紅先に逝くなと言ったのに 楠井収
栗の実落つ手足くびれて暮れるかな 児玉悦子
聖廟に偸安のあり白い風 小松よしはる
萩騒ぐ妻の反乱かも知れぬ 佐藤君子
鵙の贄風鳴りのごと父の声 白石司子
台風圏一道化師のわれ晒し 鈴木孝信
丸腰で生きねば夏野に夕日吊り 関田誓炎
地すべり遠景琺瑯質の赤とんぼ 十河宣洋
手話の少女はなびらのよう草の花 高橋明江
月天心師は大陸を踏みしめむ 田中亜美
淡海なり昔透蚕のようにかな 寺町志津子
電線たわむ秋雨さりさりと慕情 中内亮玄
花野ゆく食虫植物愛好家 長谷川順子
秋の日のこんなはじまりまずは牛乳 平田薫
認知症の友の確かな菊なます 平田恒子
独り居のこゑ響きをり南瓜切る 前田典子
夏の隅皮片手袋のひとり言 宮川としを
添え乳の転た寝のよう草の花 深山未遊
晩年に隠し球なし薯を掘る 武藤鉦二
髪ほどくまんじゅしゃげ白まんじゅしゃげ 室田洋子
文化の日絵馬に個人情報じょうほう保護シール 諸寿子
会いたいがいっぱいいっぱい夜の案山子 六本木いつき
終活や記憶の花野こみあげる 若森京子

前川弘明●抄出

この星の夜のアジアの虫の闇 赤崎ゆういち
二百二十日女は役者に逢いにゆく 伊藤道郎
木曽が好き野菊に言葉かけられて 植田郁一
目の紅にはつかな憂い秋まつり 榎本愛子
黄落や神に見せたき楽譜あり 大池美木
秋の蚊を叩くひとりがこわくなる 尾形ゆきお
濁り酒噛んで呑むなり神の里 大沢輝一
鉄柵にホースだらりと夏季休暇 小野裕三
五輪より福島大事いのこずち 河西志帆
親の家しとしと山椒の実がこぼれ 木下ようこ
白き鳥見しより耳朶に秋の風 小西瞬夏
目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
豊洲市場火口の上の踊りかな 今野修三
黄金の自虐の群れよ泡立草 佐孝石画
雪虫や白い分だけ目が重い 佐々木宏
炎熱を溜めし巌の空歪む 佐藤稚鬼
フクシマや鬼灯ほおずきの如母ねむる 清水茉紀
螢の夜人の生死と艶ばなし 関田誓炎
秋の風ぴくりと動く馬の耳 竪阿彌放心
あきらめのあかるさ昼顔の真昼 月野ぽぽな
気が合って秋の水底歩くよう 遠山郁好
里芋の煮くずれている通夜なりし 藤野武
台風一過龍が漂流している 服部修一
秋晴のだから何だよ人は死す マブソン青眼
風の盆どこかで誰かが遺し文 宮川としを
喪服脱ぎ萩のこぼれを掃きにけり 武藤暁美
文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
曼珠沙華父の罠なら逢いに行く 茂里美絵
木星に嵐ありけり蚯蚓鳴く 柳生正名
鷹を見しひと日小異にこだわらず 山田哲夫

◆海原秀句鑑賞 安西篤

長蛇の列顎を突き出す鮭となり 石川青狼
  北海道地震の被災者の列なのだろう。おそらく支援物資や食料等の配布を受けるために違いない。いずれも切羽詰った思いで、喉から手が出んばかりの表情で待っている。それは、産卵のために川を遡ろうとする鮭の、顎を突き出した表情そのものだという。一見事実を相対化して見ているようだが、現地にいる人々にとっては生死の切所にいる鮭の表情そのもののように見えたのだ。

大叔母の遺影横向き単帯 奥山富江
  大叔母が亡くなった。その遺影が今祭壇に飾られようとしている。遺影は正面でなく横向きになっている。おそらく大叔母は親戚中の中心人物として、敬愛されていたに違いない。横向きで単帯を締めている姿には、働き者で、結構口やかましく、親族の中の裁き役として重きをなしていた威厳が伝わってくる。作者はそんな大叔母を慕わしくもなつかしく思っているに違いない。

百日紅先に逝くなと言ったのに 楠井収
  伴侶か、あるいは無二の親友に先立たれた時の感慨ではなかろうか。「先に逝くなと言ったのに」には、親しいが故の、恨むような難ずるような口調がある。その死は、悲しいというより口惜しいのだ。花期の長い百日紅は、まだ花を咲き続けているというのに。俺を措いて先に逝くとはな、なんなんだよこいつ、と言いたい気持ち。

台風圏一道化師のわれ晒し 鈴木孝信
  台風圏の真っ只中に、独りいるわれ。叩きつけるような風雨の中に身を晒して、意外に痛快な自己浄化を体感しているのかもしれない。「一道化師」と己を戯画化しながら、矢でも鉄砲でも来いといわんばかりの気負いも感じられる。世間じゃ道化師というかもしれないが、存分に身を晒してやろうじゃないか。そんな台風圏の中での居直りの自己主張。いかにも作者らしい一句。

手話の少女はなびらのよう草の花 高橋明江
  手話で話をしている少女は、介護者ではなく、自身が障害者なのだろう。懸命に手話で会話する手振りがそのまま、花が開いたり、閉じたり、揺れたりするゼスチャーのように美しい。その美しさは、決して派手やかなものでなく、どこまでも可憐なひたむきさで繰り返される。それはあたかも風に揺れる草の花のはなびらのよう。この喩え方に作者の心情が込められている。

淡海なり昔透蚕のようにかな 寺町志津子
  「淡海」とは、淡水湖の琵琶湖のある旧国名の一つとされ、現在の滋賀県に当たる。「透蚕」は、孵化してから熟蚕になるまで約四週間かけて眠りと脱皮を繰り返し、その後桑を食べなくなって体が透き通ってくる状態をいう。この地域に根付いていた養蚕の仕事から触発されたイメージで、昔の琵琶湖の映像を喩えている。このモノの質感の喩えが十分にはわからなくとも、「透蚕」と「淡海」の取り合わせから来る言葉の繊細な美意識が、妙に納得させられるから不思議だ。

秋の日のこんなはじまりまずは牛乳 平田薫
  「こんなはじまり」がどんな始まりかはわからないが、とにかくまずは牛乳を飲んでからというスタートのけじめ感だけは伝わってくる。さりげない秋の日の日常の始まりを、まず牛乳を飲むことから始めようという庶民感覚のリアリティ。

認知症の友の確かな菊なます 平田恒子
  認知症となってなにもわからない状態に陥った友。そんな友でも長年の手仕事で本能的に身についている料理の味だけは間違いなく残っているようだ。お得意の「菊なます」の味には、今も確かな友の味があった。それが妙に嬉しくもあり、また淋しくもある。

独り居のこゑ響きをり南瓜切る 前田典子
  おそらく、最近家人がいなくなって、独り住まいとなったのだろう。そんな家の台所で大きな南瓜を切っている。加齢に伴う体力の衰えもあって、全身の体重をかけ、気合もろとも一気に切断しないと、とても南瓜を切ることもかなわなくなった。柄にもなく、「えーいッ」という声が家中に響き渡る。それに気づいたところで、誰もとがめるものもおかしがるものもいない。その淋しさと空しさ。

夏の隅皮片手袋のひとり言 宮川としを
  海程創業期のヴェテランが久し振りに作品を寄せてくれた。そのことがまず嬉しい。彼もまた一人暮らし。もともと作詞・作曲家として著名な人だが、最近はかなり重篤の病に罹り、厳しい闘病生活の中で仕事を続けているらしい。「皮手袋」はピアノを弾く手を保護するため、こういう仕事で出かけるときは必携のものだ。掲句は、その皮手袋の役目もここしばらくはご無沙汰なのだろう。しかも片方だけがぽつんとそこに。なにやらぶつぶつ言ってるらしいが、言わせておけという作者の表情が見えてくるようだ。

◆海原秀句鑑賞 前川弘明

二百二十日女は役者に逢いにゆく 伊藤道郎
 なんだか可笑しくて切ない句だ。台風の日だというのに女(妻?)はこの俺をおいて役者に逢いに行くというのだ。白塗りの役者たちによる舞台は、現実の裏側に咲く華やかな夢の異界なのである。なんで台風などという野暮な中でオロオロしていなければならないのだ、というのであろうか。女の気合ぞ佳し女のロマンぞ佳しと、おもえてくる。

黄落や神に見せたき楽譜あり 大池美木
  曲を直接に聴かせるのではなく、その楽譜を見てもらいたいのですと言う。神はこの美しい黄落のなかでこの楽譜をどのように弾いて下さるでしょうかと問うのである。降りしきる黄金の明かりのこの瞬間の神に捧げるように心にひらく楽譜を見てもらいたいのであろう。

秋の蚊を叩くひとりがこわくなる 尾形ゆきお
  読みに迷う句である。思うに、上五中七で切れ、「こわくなる」と続くのではないのだろう。それだと座の中の誰か一人が蚊を叩いたので、その人が怖くなった、と読めるけれど、それでは平凡の域だろう。しかしこの句の後半がひらがなで書かれているのは、もっと茫漠として沁み込むような切ない怖さのように思う。だから、作者が部屋にぽつねんとひとりで居て、飛んできた秋の蚊を叩いた。おもわず叩いて殺生をしてしまった自分、またひとりになって取りつく島のない自分がふいに怖くなった、と読みたい。ただ、そうならば上の句が「叩く」でなくて「叩き」が適切のように思うが、それでは「き」の音が強すぎるので、「く」音にしたかったのかもしれないが、それが読みを迷わせる始点なのかも知れない。

鉄柵にホースだらりと夏季休暇 小野裕三
  何んということはない何処にもありそうな風景だが、構えて「だらりと夏季休暇」と言われると、上句の「鉄柵にホース」の映像が、改めていきいきと脳裏によみがえってくる。平凡であるがゆえの日常の強さとでもいうべきか。硬い鉄柵に放水を終えて放心のホース。その映像
が夏期休暇をしっかりと認知させてくる。

目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
  目覚めのときの「眩しき傾斜」という表現がうまい。まして、暑い夏が過ぎ小鳥来る秋風の中の目覚めは確かにそのような心の状態にちがいない。スッキリと覚めているようでいて、からだも心もまだ傾斜しているような、しかしまぶしいような全身の反応なのである。

黄金の自虐の群れよ泡立草 佐孝石画
  金の色のアワダチソウは空地などに群生していて、勝手にざわざわぶつぶつと泡を吹いているかのように立っている。まるで自虐の群れだ。だが泡立草よ君は黄金の姿をしているのだ、誇りある自虐の黄金に輝く群れなのだよ、と作者の叱咤の声がきこえるよう。

あきらめのあかるさ昼顔の真昼 月野ぽぽな
  とにかく語音が明るい。昼顔の生態を描くのに「あ」とあ列の音をちりばめ、「る」音を友愛のように連携させて、昼ひらいて夕べにしぼむ昼顔の「あきらめのあかるさ」をひらがなで表現している。この人の感性がおのずからこのような表記を選ばせているような気がするほど自然なのである。

気が合って秋の水底歩くよう 遠山郁好
  この句も、感性がしずかに流れていくような句だ。あの人とはどうしてこうも気が合うのだろう。私がAと思うとあの人もAについて話をする。出すぎたりはしないで、あのきれいな秋の水の底を一緒に歩くような、そのような気分ですと。「秋の水底」の感覚がとてもいい。

台風一過龍が漂流している 服部修一
  台風の句は数多あるが、どうもパターン化する気配がある。すなわち家屋や道や田畑などが破壊される恐怖が主であろう。だがこの句は違うように読める。むろんその恐怖もあるだろうが、人知のはるかに及ばない霊神に対する敬虔な恐れのようなものを感じる。「龍」は流木などの例えでなくて、台風を追い払ったあとの尊い龍神の帰りゆく姿のようにも思えてくる。疲れた龍神は慎ましく川を漂流して還っていく、とは読めないだろうか。

曼珠沙華父の罠なら逢いに行く 茂里美絵
  真っ赤に群れ咲いた曼珠沙華は何かを狂わせるような気配がある。恋であったり死の匂いであったり、人の心に妖しいときめきをそよがせて咲く。この句は父(亡父か?)へのオマージュである。もし、あの曼珠沙華の群れが父の仕掛けた罠であるなら、喜んでその仕掛けに逢いに行こうと言う。父への娘のせつない献句であろう。

鷹を見しひと日小異にこだわらず 山田哲夫
  鷹とは周知の如く、姿に威厳がある。その鷹が大空を睥睨して翔るのを仰ぎ見て、その雄姿に自分の日常を想い、せめて今日はこせこせとこだわらずに生きようと。

◆金子兜太 私の一句

山峡に沢蟹のはな微かなり 兜太

 沢蟹は山の沢の石の下などにひっそりと生きている。それを「微かなり」と捉えている。二本のはさみをかざし、足を左右に開いて、踏ん張っている姿は美しい。自然の中にけなげに生きている生き物の美しさを「華」はなと捉えている。「華」はなと言い、「微かなり」と言ったところ、作者の産土である「山峡(秩父)」に生息している生き物に対する作者の温かいまなざしが感じられる。句集『早春展墓』(昭和49年)より。内野修

夕狩ゆうがりの野の水たまりこそ黒瞳くろめ 兜太

 先生が三重県にいらした時、書のお手伝いをしたことがある。その折、「何でも良いからお前さんの近所の話をして」と言われたので、畑を荒らす猪や猿や鹿のこと、狢や蛇との闘いのことなど話した。それらを一々うんうんと頷いて面白そうに聞いていらした。あの時先生は私の話から言葉を狩っていたのではないのだろうかと、先生の好奇心一杯の目の輝きとともに、時々懐かしく思い出す。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。奥山和子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉〇印は2選者の共選句

江良修 選
水無月やしみじみと読む終の号 泉尚子
小惑星「りゅうぐう」画像蠅生まる 市原光子
○夏の山国他界というはどのあたり 伊藤淳子
父の手記折れた頁のあり曝書 伊藤雅彦
五才児の遺す悲しみひらがな文字 植田郁一
親族は丸顔ばかり母の日よ 植竹利江
水馬水面に残すわだかまり 宇川啓子
トイレットペーパー二人増えれば三倍の夏 宇田蓋男
葉の裏に棲んで理系の青蛙 大沢輝一
簡単に生きてゆきたし胡麻に味噌 河西志帆
海傾けて大空を恋ふ海鼠 小西瞬夏
水すましゆっくり流れ影持たず 小林まさる
夏風邪や一分間が長すぎる 佐々木昇一
燕の巣四代目なる下駄屋かな 佐藤美紀江
蛞蝓が溶けない平和な村である 白井重之
油照りどこかで煎餅かじる音 竹田昭江
秋の空映して清し今日の酒 中内亮玄
麦熟星私に散歩ほどのほてり ナカムラ薫
田螺鳴く父母亡き里の遠きかな 疋田恵美子
スクランブル交叉の孤独五月尽 吉澤祥匡

鈴木修一 選
思うほど哀しくないのよ羽抜鶏 伊藤幸
この道は逃水にこわされている 稲葉千尋
待つ人の大らかな背よ麦の秋 植村利江
流木のオブジェ神鳴の記憶 江良修
みなとみらいを風鈴売に身をやつし 大西健司
思い込み烈しい娘熱帯魚 小野正子
手首より寝落つ子のいて青簾 加藤昭子
夕菅やバス見送りて咲くをまつ 北原恵子
病室にハンカチと母忘れけり 木下よう子
防空壕の入口に立つ夏帽子 須藤火珠男
乱鶯の声老妻にひびくなり 関田誓炎
風ほどに雲の動かず蝸牛 高橋明江
すり抜けてスプーンのよう裸子よ 遠山郁好
炎帝に錨・皿に深海魚 ナカムラ薫
枇杷稔る辺土に変節などあらず 成井惠子
○哀歌として犬の目はあり合歓の花 日高玲
少年は青い巻貝海夕焼 船越みよ
深夜なり冬毛のままの猫死せり マブソン青眼
微塵子と陽のはげしさの西ノ京 矢野千代子
蝉時雨子は子を見せにやつて来る 若林卓宣

鳥山由貴子 選
○夏の山国他界というはどのあたり 伊藤淳子
先生の裏山は夕かなかなかな 大髙洋子
海原は満天の星映すという 金子斐子
師のもとへ夏星載せて無蓋貨車 河原珠美
落し文昏いところから羽音 北上正枝
トマト持ち踏切を待つ漂泊感 佐孝石画
青葉して隠れんぼのよう人逝けり 柴田美代子
蛍とぶ百歳こえて欲しかった 芹沢愛子
離れ洲の好きな鵜といてたそがれ 田口満代子
もう海となる父の背中で泳ぐかな 竹本仰
閑かさや青葉を軽く噛む感じ 遠山郁好
香水は嫌い晩年も白紙です 丹生千賀
○哀歌として犬の目はあり合歓の花 日高玲
アダンの実向こうにわたしのいない海 堀真知子
○武器工場なべて花野になる絵本 前田典子
夏月の影森行の汽笛かな 水野真由美
冷奴おまけのように父座る 三好つや子
青葉渦潮われら等しき回遊魚 村上友子
妹も螢も闇も昭和かな 横山隆
高田馬場までふらりと夕焼けてくるか 六本木いつき

水野真由美 選
素っ裸で両神山りょうがみ拝す嗚呼夏霧 石川青狼
青葉若葉水に傷みがあるという 伊藤淳子
片蔭行く後のみんないなくなる 井上俊一
だめだべよこっちむげ溽暑の原子炉 大内冨美子
夏水仙前ぶれもなく母は来る 小野正子
夕端居姉はそよいでばかりかな 加藤昭子
落し文悲しき距離と決め歩む 金子斐子
先生の句碑は青野の切手です 河原珠美
ふだん着に着替えると鳴く青葉木菟 こしのゆみこ
猿山のボス衰えて百日紅 近藤守男
夏の月私の肩に猫が乗る 笹岡素子
めくら縞の母居る秋口の厨 猿渡道子
言ふにいはれぬ猥歌みじかき通夜に風 竹本仰
はつなつの上澄みとして母眠る 月野ぽぽな
青水無月ごりっと光る馬の臀部 中村晋
紫陽花の孵化とも違うあふれよう 丹生千賀
○武器工場なべて花野になる絵本 前田典子
夏蜜柑すきで自慢で巻き舌で 松本豪
しぼみゆく夫の掌朴の花 室田洋子
兜太なき浮世の羅はりついて 若森京子

◆三句鑑賞

夏の山国他界というはどのあたり 伊藤淳子
 金子兜太師を偲ぶ句だと思う。山国とは秩父のことであろう。師の故郷である秩父の深い山々。師の魂は秩父の山のどこかにおわすに違いない。ならば、師のおわす他界はどのあたりなのだろう。できることならばその境界まで足を運び、もう一度師にお会いしたいものだ。静かな表現で深い思慕の情を詠った句だと思う。

水すましゆっくり流れ影持たず 小林まさる
  周知のように、ミズスマシには、水澄ましとアメンボウ(水馬)の二つの意味がある。この句の水すましは、流れるというから水馬のことと思う。一方、影とは実体の存在している証である。だが、水すましのその細い体と足には影が見られない。実体はあるのにその存在の証拠が無い。虚しく過ぎ行く日々の表現であろうか。

蛞蝓が溶けない平和な村である 白井重之
  蛞蝓はその体のほとんどが水でできている。塩をかけると浸透圧で脱水され死ぬ。炎天下で日干しになっても死ぬ。そんな蛞蝓が溶けない、つまり死なない村とは、水が豊富で豊かな木陰があり、人間が蛞蝓を害虫として駆除しない村であろう。あらゆる生命の共存共栄こそが平和であると訴えている句のようだ。
(鑑賞・江良修)

手首より寝落つ子のいて青簾 加藤昭子
  眠る子の手が滑り落ちた瞬間を捉えた眼は、無数にあったに違いないが、こんなスナップ撮りで明かされたことがあっただろうか。小さな快挙と呼ぶべき俳句表現のつぼを得た作品。誰もが心に留める瞬間をリアルに再現することが、俳句を豊かにする。夏の日の家族、幸福の衣擦れの音が、涼やかな青簾越しに聞こえてくる。

深夜なり冬毛のままの猫死せり マブソン青眼
  自由でしなやかな猫の存在が人々を魅了してやまないが、永訣の日を逃れる術はない。死とは生き物の体内を巡る季節が止まること。夏用に生え替わる前の美しい姿で逝った猫。季節を違えたものが自らの最期を飾る。骸を覆う毛皮こそ供華である。深夜、人と猫一対の生き物の喪のとき。夜気の冷たさがしみる厳粛なひととき。

蝉時雨子は子を見せにやつて来る 若林卓宣
  健康的なこの句から、陰画のように想起された和歌がある。「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり和泉式部」(親である私よりもわが子を不憫に思いながら娘はこの世を去っていくのだ……)かつて親元へ子を見せに行った頃の気持ちが蘇る。蝉時雨の重奏が深く熱い思いを支えている。
(鑑賞・鈴木修一)

トマト持ち踏切を待つ漂泊感 佐孝石画
  薄暮の踏切。警報が鳴り遮断機が下りる。トマトの入った袋をぶら下げたまま延々と列車の通過を待つ。このまま永遠に家に帰り着くことが出来ないのではないか。そんな気がしてくる。その漂泊感。生活感の象徴としてのトマトは光を失い、その重みだけが手に食い込む。持つと待つ、という言葉の音と形の類似は意図的なものか。

離れ洲の好きな鵜といてたそがれ 田口満代子
  離れ洲に群棲する鵜。黒緑色の光沢のある羽とそのシルエット。潜水して魚を捕っては食べ、濡れた羽を大きく広げて乾かす。作者はそんな鵜を眺めるのが好きなのだ。やがて自身も洲に降り立ち、鵜と一緒に戯れているような感覚になる。どこか寂しげな佇まいの鵜と作者がたそがれの淡い光の中へ沈んでゆく。静謐で美しい詩。

高田馬場までふらりと夕焼けてくるか 六本木いつき
  何だか落ち込んだ一日。こんな日は馬場に行くしかない。学生やアジア系の人々が集まる混沌とした街で、グダグダ同じことを言っては涙を流し夕焼けるのだろう。家とはまた別の心許せる場所なのだ。滅茶苦茶辛い物を食べたりするうちに何故か笑えてくる。高田馬場という具体的な地名と少しやさぐれ感のある口語が魅力的だ。
(鑑賞・鳥山由貴子)

だめだべよこっちむげ溽暑の原子炉 大内冨美子
  「むげ」と「溽暑」の間にどんな切れを読めばいいのだろう。叱られている「原子炉」を思い、「溽暑の」に廃炉作業が続く福島第一原子力発電所が浮かび上がる。ならば叱られているのは「原子炉」ではなく私であり政府であり電力会社であり司法等であるだろう。さらに「原子炉」が「こっちむげ」と叱っているようでもある。

言ふにいはれぬ猥歌みじかき通夜に風 竹本仰
  おかしみと情けなさのあるワイセツな歌ならば好きである。それゆえ「言ふにいはれぬ」とは、あんまりな言い方ではないかと思ったが「みじかき通夜」で句は変貌する。「みじかき」は参列者の少なさだ。「に風」の素っ気なさもやりきれない。この「言ふにいはれぬ猥歌」とは故人への餞なのかもしれない。

武器工場なべて花野になる絵本 前田典子
  人を殺すための機械はバカ高いくせに莫大な利益を生む。殺すのも殺されるのも自分や家族ではないと軍需産業は成長し続けようとする。それが「なべて花野」になってしまうのかと喜んだら「絵本」の世界だと言われてうなだれてしまった。だが「絵本」とはわかりやすくてかわいい空想を意味するわけではない。何よりも、こんな「花野」を思い続けていたい。
(鑑賞・水野真由美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

くにゅくにゅの般若のタトゥ秋蚊鳴く 綾田節子
枯野ゆく死者はいつでも他者なりき 有栖川蘭子
賢治の忌ローズマリーを鶏肉に 安藤久美子
棺には死体と死んだ秋の花 泉陽太郎
姫胡桃支配しようとしてされる 大池桜子
原爆忌路面電車に乗ってみる 奥村久美子
お嫁さんの料理ハイカラ夏休み 金澤洋子
烏瓜古い病院のような幽さ 川嶋安起夫
詫び状の投函口に秋の蜂 神林長一
核心に触れぬ詫び状みみず鳴く 黒済泰子
稜線もわれもまざまざ野分後 小林育子
秋刀魚焼くエレベーターの無い団地 小林ろば
眼差しの交わる匂い秋の蝶 小松敦
叱ってばかり金木犀の風が来る 三枝みずほ
滅私無私蟻に学ぶか無視するか 下城正臣
鱏のごと見えてる火星夏夕べ 白石修章
釣瓶落とし少なき知己へ病い告げ 鈴木栄司
榠樝ひろってきれいなんだよ毎日が たけなか華那
天界は死ぬることなし風の盆 立川真理
燕帰る同居を拒む仮設の母 舘林史蝶
秋明菊月仰ぎつつ倒れたる 田中裕子
五十男に八十の父塩さんま 鳥井國臣
残菊や病因みんな加齢なり 中川邦雄
吾亦紅片隅という安定感 仲村トヨ子
被爆者と同じ齢を生きて夏 野口佐稔
唐辛子嘘はぴちぴちと明るい 前田恵
新涼や車椅子より母を抱く 増田天志
適当な良妻である秋刀魚焼く 松本千花
瓢の実や喉を痛めてをりまして 山本きよし
白木槿ぽつりぽとりと時落ちる 山本幸風


『海原』No.4(2018/12/1発行)

◆No.4 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
流木は海の文殻九月来る 市原光子
台本に風の音なく蝉時雨 伊藤幸
毅然と逝く海の蒼さは祖国の青 植田郁一
少年の腰の鍵束栗の花 宇川啓子
堂内の微光におわす亡師よ白寿 大上恒子
国ひとつ消えてゆくようかき氷 大髙宏允
野に母の点描のごと曼珠沙華 川田由美子
追憶の影の行き交う水の秋 北上正枝
私雨薄葉紙うすようの香よ紀音夫忌よ 黒岡洋子
天の川やわらかかった師の握手 清水茉紀
変てこなスキップですが秋の空 すずき穂波
草の花相生八十路小競り合う 髙井元一
少女ひそかに蛇を描けり母無しに 高木一惠
いのちかな荒ぶる雨のからすうり 田口満代子
濃尾の青田尼僧絵のごと風のごと 樽谷寬子
黙読のように紫式部に雨 月野ぽぽな
雲雀野や記憶失くした脱走兵 遠山恵子
標本箱詩篇のごとく石と火蛾 鳥山由貴子
海鼠一本密漁のごと魚籠の中 中山蒼楓
芋の露少女の転た寝よく動く 成井惠子
桐の実のやさしく拒否するとき揺れる 藤野武
鮎食べて何時かふたりは無縁墓 本田ひとみ
うす味の煮物のかおり野分くる 増田暁子
創刊号かぼちゃの味がして満足 宮崎斗士
水中花採血の跡が消えません 村上友子
晩夏かな半熟卵に刃をあてて 室田洋子
野分また野分の夜の水を聴く 山本掌
旱魃や無口な人の速い足 吉村伊紅美
おこごとのように雨降る西鶴忌 らふ亜沙弥
梅花藻やふっとうすれゆく家路 若森京子

前川弘明●抄出

兜太逝き二月の長い廊下です 有村王志
風鈴吊す記憶の風に会うために 井上俊一
今朝の秋横向きの師を担ぎけり 上野昭子
腐りゆく水にぼんやり水中花 榎本祐子
夏の月被爆土層に生活史 江良修
月よ欲しいものは盗ると言ってみる 大池美木
アスファルトに白線引かれ休暇果つ 片岡秀樹
新しい蜻蛉は水にわたしは駅に 木下ようこ
退院のこの世の匂い麦の秋 楠井収
雨脚の速さ刈田は古書の匂い 小池弘子
青北風の血をきれいにする体操 こしのゆみこ
花野風浅き傷より乾きゆく 小西瞬夏
ナスの籠少し骨壺より重い 佐々木宏
純真な孤島の如く夜のコンビニ 佐孝石画
ブルドック畳を歩く良夜かな 髙井元一
色鳥やいつも遊びにゆく書店 田口満代子
黙読のように紫式部に雨 月野ぽぽな
秋暑し五臓六腑を言うてみる 寺町志津子
蠅取リボンアインシュタイン舌を出す 鳥山由貴子
どのドアも異界へ開く虫の闇 中條啓子
響き合い村軽くなる落し水 永田タヱ子
白鷺の歩のようおおむね物忘れ ナカムラ薫
微光まとう臍の緒も新米も 根本菜穂子
姉のように帆船は過ぐ夏のおわり 藤野武
禿頭に余白ありけり晩夏光 本田日出登
閉じ込めし言の葉たちへ大花野 松本勇二
木の実降るまだ下書きのわが老後 宮崎斗士
おろおろと男老いゆく彼岸かな 村井隆行
いなびかり兎のようにひとりきり 室田洋子
夜やしんしん癌病棟の星祭 諸寿子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

流木は海の文殻九月来る 市原光子
  九月は台風の襲来や地震などが多く、あるいは予報が外れても、そのために心を労することは多い。ただその時期を過ぎてしまえば、安心して秋の彼岸や名月を楽しむことにもなる。流木は遠いどこかから流れ着いたもの。どんな天災や人災があったのかわからないが、木にとっての災難が予想され、そこに秘められた哀しみの物語が想像できよう。流木は、その哀れさの陰影を、文殻のように伝えている。

毅然と逝く海の蒼さは祖国の青 植田郁一
  これは兜太師への追悼句であろう。没後十ヵ月を経ても、なおその波紋は絶えない。「毅然と逝く」で、その死にざまと生きざまが示されており、「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」が思い出される。非業の死者たちに報いる生を心に誓って、戦後を生き抜いた師。それは生涯を通じての信念であり、存在者として生きる自らの生きざまでもあった。「祖国の青」は、誓いの青でもある。それはトラック島の海の蒼さに重ねて見ているのだ。

国ひとつ消えてゆくようかき氷 大髙宏允
  八月の東京例会で最高点を得た句。昨今の日本の現実を見るとき、こういう淋しさを感じることはよくわかる。まさにその共通感覚も。私はあえて頂かなかったが、モチーフ自体はわかりすぎるほどよくわかる。「かき氷」をツキスギとも、またその批評的姿勢にとどまることに対する淋しさを感じたからかもしれない。だが、内心に声あり。「認めざるを得ないじゃないか」「そうなんだがしかし…」。
追憶の影の行き交う水の秋 北上正枝
これも今の時期、兜太師への追悼句とみるのがふさわしい。師の没後数ヶ月の時間を経て、なお師への思いが去来し、どうしようもなくさまざまな追憶の影が湧き出てくる。水の秋の季節が到来し、澄み切って冴え冴えとした水面にも、透き通った川底にも、師の人懐こい面影が思い出の臨場感とともに浮かび上がってくる。

私雨薄葉紙うすようの香よ紀音夫忌よ 黒岡洋子
  上中の映像は、まさに林田紀音夫像そのもの。夕立の中で、ほんのりと香る薄葉紙の香り。それは、純粋に誠実に、無季俳句によっておのれの内面を書き続けた人の人柄を、限りない慕わしさをもって象徴的に捉えている。「薄葉紙うすようの香」の着想に驚くが、一方で、林田はもっと時代に、確然と生きていたようにも思えてならない。作者は、林田のやさしさに触れているのだ。

雲雀野や記憶失くした脱走兵 遠山恵子
  作者にとっては一つの仮想現実だが、戦時中のリアルな映像として想像的に形象化したものに違いない。雲雀鳴く夏野原に、ふらふらと夢遊病者のようにさまよい出た脱走兵。過酷な軍隊生活に耐えかね、おのれの記憶すら喪失して、なんの計画性もなく脱け出てしまった一兵士の虚無的な映像。作者は、そんなイメージから紡ぎ出される物語を用意しようとしているのかもしれない。

標本箱詩篇のごとく石と火蛾 鳥山由貴子
  自分で見つけた珍しい石と火蛾を、標本箱に収納する。それをあたかも、自分の作り出した詩篇のように、大切な宝物として感じている。標本となった石や火蛾は、ひとつひとつおのれの体感として甦る。「石と火蛾」を取り合わせたことによって、標本箱にまつわる思い出が、劇的な詩篇になる。一人だけの詩篇かもしれないが。

うす味の煮物のかおり野分くる 増田暁子
  作者は京都在住の人だから、京都風のうす味の煮物には馴れ親しんでいるのかもしれない。「野分」という由緒ある季語の王朝風の気品は、まさに「うす味」にふさわしい。「野分」という季語のもつ雰囲気を、味覚と嗅覚で捉え返した一句。

野分また野分の夜の水を聴く 山本掌
  作者は意識造型派の俳人だから、外部の景も常に内面的に形象する。「野分また野分の夜」とは、野分の吹き続く夜。そんな夜夜の風音の中に、耳を澄ませば水音が聞こえてくる。おそらく水音は作者の内面の響き合いかもしれない。そこに水音を求める思いが仮託されていよう。それが何かは、読者それぞれの内で思い描けばいい。おそらくこういうイメージは、容易に各自の中で思い当たる情感に違いないからだ。

梅花藻やふっとうすれゆく家路 若森京子
  わが家への帰路で、清流の中に可憐な梅花藻を見かけたのだろう。その花に見入って、「ふっと」家路への意識が遠のいたのかもしれない。こういう日常の中の一瞬はよくある。これは幼い頃の記憶にもありそうだが、どこか句が生まれるときの臨場感にも通じる。「梅花藻や」と切ったとき、梅花藻に呼ばれたような存在感を感じたのかもしれない。それは時に、あるイメージへジャンプする前の、創造的な意識の空白感でもある。

◆海原秀句鑑賞 前川弘明

兜太逝き二月の長い廊下です 有村王志
  兜太先生が逝ってからもう十か月になる。この間には世間でたくさんの悼句が詠まれて「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」や「おおかみに螢が一つ付いていた」など世間に膾炙した有名句と兜太の名前を併せて詠みこんだものが多かった。このような句は、兜太を十分に印象づけるものではあったけれども、作者自身と兜太との関係を窺わせるにはもどかしい句群であった。それらに比すと、この句の亡き兜太への追慕は鮮明である。二月(兜太の逝去月)への思いの「長い廊下」はみずからの行く先への感慨に他なるまい。作者の二月の長い廊下は冷え冷えと光って遠くまで伸びているのである。「です」という口ぶりがやさしくせつない気持ちを表している。

月よ欲しいものは盗ると言ってみる 大池美木
  これはまた思い切った告白である。何が欲しいのか判らないが、「月よ」で想像できるのはきっとロマンチックな何かであろう。いずれにせよ、この思いきった歯切れのよい語調がこの句をつよく自立させているのだ。

新しい蜻蛉は水にわたしは駅に 木下ようこ
  ある秋の日のしずかなひととき。上句の自然界の営みと下句の人間の生活を対照させている。蜻蛉は水に、わたしは駅に、とリズムを合わせて、自然界の水と人間社会の駅というそれぞれ日常に欠かせない大切なものの配合を並列に示すことによって平穏な日常が心地よい。

ナスの籠少し骨壺より重い 佐々木宏
  籠を持っているのだから茄子を収穫しているのだろう。自宅の菜園かもしれない。採った茄子を籠に入れるごとに籠はだんだん重くなる。そのとき思いだしたのだ。あの葬儀のときの骨壺よりもいま提げている茄子の籠の方が重いという思いがけない事実の哀しさを。重さの比較はいろんなものとできるだろうが、この句の良さは、荘厳な人の死と食用の植物と比べた機知にあるだろう。

ブルドック畳を歩く良夜かな 髙井元一
  畳を歩くブルドックが可笑しい。良夜という月の明らかな夜(特に中秋名月の夜)は幽玄とか優雅ほどの気分があるが、その既定の印象に抗うようにこわもての犬を配したのは、いまや人類は月を仰ぎ見るだけではなくて、月に出掛けて行こうとする時代の良夜の呼吸感を表現したように思える。そう思うと何か新鮮な飛沫を浴びた感じがある。ただ、こうしたアンマッチな配合は鑑賞する人によっては奇抜さのみが目立つのかもしれない。

黙読のように紫式部に雨 月野ぽぽな
  紫式部は夏に淡紫色の小花を開き、秋にむらがりついた小さな紫色の丸い実をつける。どちらの季節にしても紫に降る雨であるが、読みかえすたびに十二単を着た生身の紫式部が想われてならない。執筆の合間を縁側に立って紫に降る雨を見ているのだけれど、それは紫式部という希代の人に降る雨なのだと思う。源氏物語を生み出すたましいを秘めた生身の紫に降りかかるのである。

蠅取リボンアインシュタイン舌を出す 鳥山由貴子
  軒下かどこかに蠅取リボンがだらりとぶら下がっているのを見ているのだろう。そして、アインシュタインが舌をべろりと出している例の有名な写真を思いだしているのだ。ユニークな連想がヒラリと弾むようだ。しかも、下五が「舌出して」と回想の様子ではなく「出す」と現在只今の行為のごとき表現の臨場感がよかった。

姉のように帆船は過ぐ夏のおわり 藤野武
  暑く賑やかだった夏のおわりはさみしい。蝉の鳴き声は絶え、海浜には引き上げられたボートが腹を干され、波の音がするばかり。しいんと広い青い海の沖を白い帆船が過ぎてゆく。優しかった姉のように沖の向こうへきえてゆく。ああ、夏のおわり。

禿頭に余白ありけり晩夏光 本田日出登
  自虐的にみえるが、いやいや、なかなかの健康自慢の句だ。「余白ありけり」には悠々とした健康体自賛の余裕がある。加えて「晩夏光」がいい。人生の晩夏に向かいつつもその光を受けて、つやつやぴかぴかと光っているのだろう。人生よろしきかな、との声がきこえる。

閉じ込めし言の葉たちへ大花野 松本勇二
  あふれるような思いにありながら、言葉は胸の内に閉じ込めたままであった。いま大花野に立ち、この広い花野の美しいひろがりへ言葉たちを自由に放ちてやろうと。

いなびかり兎のようにひとりきり 室田洋子
  小学校に飼われていたのをよく眺めていた。まっ白いからだに赤い目をして、いつもぼくたちにもぐもぐと話しかけた。兎は金網のなかで寂しかったのだろう。話し相手が欲しかったのだろう。だから、この句のうさぎがよくわかる。しかもこの句はいなびかりが家の中までくり返しくるらしい。だから、優しい言葉が欲しくていなびかりの中に居るのです。うさぎのようにひとりきりで。

◆金子兜太 私の一句

赤い犀車に乗ればはみだす角 兜太

 掲句は連作十句の中の、兜太がアレゴリーの手法を実践した一句である。怒りや興奮、そして強烈なエネルギーをイメージさせる赤い色は、疾走する犀そのもの。アレゴリー的に言えば、例えば好景気の高度経済成長の時代を暗示していそうな。だが出る杭は打たれるの諺もある。はみだす角、、、、、もそうだろう。当時昭和元禄と呼ばれていた浮かれた日本に警鐘を鳴らしていたとも。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。宇田蓋男

猪は去り人は耕す花冷えに 兜太

 十三年前、東京から会津に移住した際、兜太先生に色紙を頂き、そこにあった句。猪の句としては「猪が来て空気を食べる春の峠」、東北の句としては「人体冷えて東北白い花盛り」が知られる。それらに比べればインパクトは弱いかもしれない。しかし花冷えの中の耕しの姿はまさに会津の風景だった。当時の私の身上を慮ったような句で金子先生のはなむけの気持ちを強く感じた。〈編注:『東国抄』(平成13年)に「猪は去る人は耕す紅葉冷え」の一句がある。恐らくこの句を踏まえ、春三月、会津に帰る作者を思って揮毫されたオリジナル作品と推察する〉田中雅秀

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉〇印は2選者の共選句

江良修 選
薔薇を抱える人等逆さま憂える湖 石川青狼
大仰な指揮者のタクト夏痩せて 伊藤雅彦
口に含む針の冷たさ六月は 大西健司
紫陽花や君の不注意な顔浮かぶ 奥野ちあき
次々に軽い悔恨ソーダ水 川崎千鶴子
つぶやきをぬりつぶしゆく燕子花 こしのゆみこ
木洩れ日を青葉若葉の裏に見て 近藤守男
肩書の取れたる父や大昼寝 瀬古多永
淡白な視線がびっしり蝌蚪生る 十河宣洋
○籐椅子に『悲しき熱帯』開かれて 田中亜美
本まくら春雨まくら無眠の仲 董振華
正面や父が鯛めし食べた顔 遠山郁好
旅の身の意外な浮力青き踏む 永田タヱ子
梅雨寒や待っているものあればいい 丹生千賀
酒中花や一人を慎み生きるのみ 疋田恵美子
逆縁の父座す麦秋のハーモニカ 平田恒子
村が好き一人が好きで残る鴨 松本豪
初対面ってこころの体操青葡萄 宮崎斗士
春愁やどこかずれてる組立家具 森由美子
押入れの父のリュックサック八月色 佳夕能

鈴木修一 選
籠る逃げるされど少年青嵐 伊藤道郎
兜太師の鼓動青葉の葉脈へ 大浦フサ子
ほんとうの自由はひとり蛙の夜 奥山和子
深夜バス胸ポケットの若菜かな 奥山富江
ゆるびたるボタンのここち水温む 片町節子
白杖の泡立ちてゆく青嵐 川田由美子
夏の山国ただただ俳句谺かな 北村美都子
牛蛙詮無せんないなあと傾ぐなり 久保智恵
シーツ敷くひろびろ夏の月の出の こしのゆみこ
葱植える昨夜の夢の続きかな 児玉悦子
こめかみで耐えてる漢水すまし 小林まさる
気詰まりで幽霊のこと発言す 佐々木昇一
○春落日急がぬと言い兜太師逝く 篠田悦子
もう少し生きてみようか遠郭公 鱸久子
○籐椅子に『悲しき熱帯』開かれて 田中亜美
南風カモメも波も喉見せて 中塚紀代子
宅急便置いて子燕数へゆく 前田典子
明け易し母の依怙地の懐しく 汀圭子
仲直り急に早口黒揚羽 山内祟弘
嬉しさをかくし切れない蝶の影 山岸てい子

鳥山由貴子 選
バースデイカードの中の蛍かご 大髙洋子
青麦や途方にくれている夕日 金子斐子
眼を病めば茅花流しに攫われる 河原珠美
泣かないでください春月よりメール 北村美都子
つばくらめ先づ心臓を盗まれる 木下ようこ
感情は水の静けさ毛虫焼く 金並れい子
蜥蜴去り昼の綻びという僕 佐孝石画
○春落日急がぬと言い兜太師逝く 篠田悦子
短夜や鏡の中に魚群れ 白石司子
白鷺や軸足は日暮のなか 田口満代子
逃げ水やカザフスタンの馬洗う 遠山郁好
光背はベネチアングラス蛇の衣 中村道子
どこを切っても深緑の青虫 梨本洋子
定住の仮屋に去年の螢籠 日高玲
水無月は淡しコンビニの灯が見える 藤野武
○野兎が笛吹き鳴らす白雨かな 松本勇二
流れゆく一人でありぬえごの花 水野真由美
我が家は閑かにしずかに桔梗 三井絹枝
積乱雲渡ればくずれ行く橋よ 室田洋子
リラ冷えの岸辺で終わる映画かな 茂里美絵

水野真由美 選
蕨一束ほどの帰心で立っている 有村王志
ピアノは燃えてシリアの夕焼け 石橋いろり
流離かな窓深々と夕焼け待つ 伊藤巌
兜太抜けし湯舟の湯量の淋しさよ 大久保正義
青田波どれも悼句になってゆく 大髙宏允
雲雀野やシンバル奏者のごと孤独 奥山富江
水すまし翅より寂しきものあらず 小林まさる
黒揚羽尖ったままで立っている 清水茉紀
夏帽や「ちひろ」の少女視線鋭し 鱸久子
蝶うまれ水にどこから来た風か 竹本仰
母のいた町のバス停夏椿 中條啓子
告知無く人の壊れる麦の秋 新田幸子
トンネルの出口かならず椎の花 服部修一
星落ちて口開けて馬鈴薯の花 堀真知子
○野兎が笛吹き鳴らす白雨かな 松本勇二
馬鹿野郎と褒める父なり四葩咲く 三浦静佳
水口の砥石も八十八夜かな 武藤鉦二
青蜥蜴いっしゅん深傷というひかり 茂里美絵
母音かすれる青梅に塩たっぷり 矢野千代子
螢ぶくろ子規の寝床は10ワット 若森京子

◆三句鑑賞

薔薇を抱える人等逆さま憂える湖 石川青狼
  何かのお祝いで花束をもらったのだろう、薔薇を抱える人等はきっと幸せな人たちに違いない。満面に笑みを浮かべている。そんな人等を映す湖の水面。人等はみな逆さまに見える。湖は人等の憂いを溶かし込み、笑みは小波に揺れて歪んでいく。実景と正反対の心の風景。湖は摩周湖だろうか。人の心の底は深い。

木洩れ日を青葉若葉の裏に見て 近藤守男
  「裏に見て」に心が止まった。木洩れ日を見る時、木洩れ日を作っている葉へ関心が私は薄かった。確かに、青葉若葉の木洩れ日と、紅葉の木洩れ日では味わいが違う。青葉若葉の木洩れ日はいきいきとした希望の光。裏に見るとは、自分は希望の光から縁の無いところにいるということのようだ。青春への羨望と受け止めた。

初対面ってこころの体操青葡萄 宮崎斗士
  私は口下手で人見知りである。職業柄、問診など事務的な会話には不都合は無いが、プライベートの場で初対面の人と話すのは苦手だ。初対面は、心のアキレス腱が切れないように緊張をほぐし、これからのお付き合いにとっていい出会いとするためのまさに心の準備体操の場だろう。青葡萄の未熟さは誠実さでもあります。
(鑑賞・江良修)

白杖の泡立ちてゆく青嵐 川田由美子
  青嵐の中、白杖を操って歩む人に注がれる温かいまなざし。その景は作者の内面で、青い奔流を貫く白い泡沫となって見えている。はかないが尽きない泡沫である。今春より特別支援学校に勤務し、白杖が突くための物ではなく、前方左右に地を払い、情報を得る道具だと知った。青嵐の音に交ざる、白杖と地面の擦れ合う音!

葱植える昨夜の夢の続きかな 児玉悦子
  永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」を想起。蕪村句「葱買うて枯木の中を帰りけり」の慎ましい暮しじつの温もりに比べ、この句には、生活の実を包む霧のような虚無の空気があり、芳しくも単調な葱畑の寂しさにふと包まれるようだ。くり返し葱を植える日常に訪れる夢うつつの感覚を「漂泊」と呼ぶこともできるだろうか。

春落日急がぬと言い兜太師逝く 篠田悦子
  海程終刊号の自句「林間に熟れて沈まぬ師の春日」は「春落日しかし日暮れを急がない」を踏まえたもの。同刊篠田氏の句は「意志のごと師の白骨の堅き春」。最期に寄り添った方ならではの把握に、離れて慕う我が身との差を思っていたところこの句に出会い、手を取り合いたい思いがした。嗚呼、長生にして急逝の兜太師よ!
(鑑賞・鈴木修一)

バースデイカードの中の蛍かご 大髙洋子
  誕生日を祝うカード。開くとそこに蛍かごが現れたのだ。あっと声を上げそうになる。が、これはあくまで作者の心象だ。年を重ねるにつれ、誕生日はうれしさよりも、寂しさを感じるようになったのではないか。今まで生きて来た時間とこれからの時間を思う。あたかも心臓と交信するかのように蛍が明滅している。

感情は水の静けさ毛虫焼く 金並れい子
  人間にとっての害虫、毛虫を焼き殺すという行為。それを当然のことと正当化し、平然とやってのける。眉を吊り上げることも、心を波立たせることもない。あくまでも水の静けさで、淡々と毛虫を焼くのだ。その異様とも言える感覚。しかし作者はそんな自分の恐ろしさに気付いているはずだ。自分の存在、人間の怖さ。

リラ冷えの岸辺で終わる映画かな 茂里美絵
  きっと美しく切なく、詩情溢れる映画なのだろう。出会い、そしていくつもの感情の交錯ののち、リラ冷えの岸辺で終わる。この岸辺とは、虚構の世界と現実との境界線なのかもしれない。まるで置き去りにされたように作者はリラ香る岸辺に佇み、いつまでも立ち去ることが出来ずにいるのではないか。その寂寥感。
(鑑賞・鳥山由貴子)

ピアノは燃えてシリアの夕焼け 石橋いろり
  十五音の短律を七・四・四と読んだ。「ピアノは燃えて」に山下洋輔が演奏した実際に燃えているピアノを思い出す。だが「シリア」は「燃えて」を戦火へと変貌させる。「夕焼け」が地名を再度、意識させ、楽器の黒と炎の赤の対比を深める。十七音の安定感が「夕焼け」を情感やニュース性に回収することを拒む短律の選択だ。

星落ちて口開けて馬鈴薯の花 堀真知子
  飛ぶのでも流れるのでもない「星落ちて」が、さらに「口開けて」が何だかうれしい。落下への驚きとも、口で受け止めようとしているとも思える動作だ。地面の「馬鈴薯の花」に向けられた視線から「開けて」は驚きゆえだったのかと思うが、それでも奇妙な気分は残る。いっこうにシミジミとしない新鮮な「馬鈴薯の花」である。

水口の砥石も八十八夜かな 武藤鉦二
 「水口」は田んぼの取水口だ。「砥石」は、すぐ使えるように水に浸してあるのだろう。何気なく見える情景といえる。だが夏の農作業の準備を始める「八十八夜」が現れると「も」に時空の広やかさが生まれる。深まってゆく草木の色、匂いが、「砥石」にあてられるであろう刃物の反射する光が生まれる。具体と季語が光り合う。
(鑑賞・水野真由美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

愛しいという嘘のせて青葉風 泉陽太郎
勢いをつけて溽暑の爪を研ぐ 齋貴子
ハンセン病に手をとられ湖の水飲む 伊藤優子
コスモス揺れるよビンタって初めて 大池桜子
悪口はなぜか聞こえて澄む秋ぞ 大西恵美子
夕間暮表で大きな秋刀魚焼く 大山賢太
秋蛍「電話していい?」とメール 川嶋安起夫
錆びついたバス停があり銀河濃し 木村リュウジ
蝉しぐれ亡父の戦後史拾い読み 黒済泰子
星月夜始発で座るように逝く 小松敦
奈落から這い上がり観る花火かな 近藤真由美
一億総活躍きゅうり切るわたし 三枝みずほ
薪積む家たつき確かと見て過ぎる 榊田澄子
落葉松に風のひびける月夜かな 坂本勝子
いごんめきしもの書いてゐる盆の過ぎ 佐々木妙子
紫蘭の実無数にあればほじりたく 関口まさを
迎火の燃えさし半開きの門扉 ダークシー美紀
傷に露頂き白詰草もわたしも たけなか華那
スカートめくりあれは色なき風だった 立川真理
すずかけ落葉いつも遊びたがる右脳 立川瑠璃
夕ひぐらし遠くに細身の母がいて 中尾よしこ
鼻のそばかす濃くなり君はジギタリス 中野佑海
東京に災なき怖さ厄日過ぐ 野口佐稔
胃瘻にして本当にごめん冬安居 野口思づゑ
どこまでが青空なのか夏つばめ増 田天志
追熟のバナナアボカド言葉尻 松本千花
銀漢や少女回転体となる 望月士郎
復興の地の今年酒「絆舞」きずなまい 山本きよし
十四じゅうしに買ひし賢治の詩集秋の空 山本幸風
まっ先に熟れたトマトをむぎゅと捥ぐ 吉田和恵


『海原』No.3(2018/11/1発行)

◆No.3 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

胸に夏帽立ち尽くす摩文仁の礎 赤崎ゆういち
ルルルルル邯鄲きみこそナルシスト 石橋いろり
父の手記折れた頁のあり曝書 伊藤雅彦
だめだべよこっちむげ溽暑の原子炉 大内冨美子
先生の裏山は夕かなかなかな 大髙洋子
鶯と三度の食事今日がある 大野美代子
風光る旧約聖書のうすぼこり 片町節子
手首より寝落つ子のいて青簾 加藤昭子
きょお!と喚ききょお!と消えゆく大花火 川崎益太郎
あれが両神山りょうがみきっと朝霧は晴れる 河原珠美
九夏三伏他界にせんせいは元気 北上正枝
花言葉茄子の花なり二人膳 北原恵子
秩父万緑金子兜太の遺児われら 北村美都子
そんなはずがややつと卒寿雨蛙 木下ようこ
ふだん着に着替えると鳴く青葉木菟 こしのゆみこ
ほうたるの夜の火薬庫の匂ふなり 小西瞬夏
歯ぎれよき君と饒舌氷頭膾 小原恵子
広島忌ドロップ缶がさびている 清水茉紀
餡蜜屋男三人の謀議かな 白石司子
梅雨の星我も昭和の尋ね人 須藤火珠男
先生九十八歳は夭折です 蛍 芹沢愛子
瞑目の波は崩れて青すじ揚羽 田口満代子
青水無月ごりっと光る馬の臀部 中村晋
紫陽花の孵化とも違うあふれよう 丹生千賀
荒川細うなりゆく木天蓼白かさね 野田信章
約束というほどでなく海月みている 平田薫
明易やアサギマダラのやさしさで 堀真知子
山影に蜻蛉の大群兜太来る 水野真由美
おめかしでポックリ寺へ風薫る 諸寿子
こんな句では駄目だ玉虫睦む昼 柳生正名

山中葛子●抄出

素っ裸で両神山拝す嗚呼夏霧 石川青狼
蟻ガキテオロオロアルク賢治の碑 伊藤幸
出水跡侍七人い出ませり 上野昭子
秩父山塊おおかみ光となり疾ける 大西政司
青になる確率に賭け糸トンボ 奥山和子
完璧に無視されているトマトかな 小野裕三
七夕の前日オウム大量死 川崎益太郎
先生の句碑は青野の切手です 河原珠美
青鷺や見るべき闇は身の内に 黍野恵
「ないものあります」啓蟄の商品棚 黒岡洋子
駄犬が見送るデイサービスへの俺を 佐々木昇一
フクシマがこんなに重たい熱帯夜 清水茉紀
蛞蝓が溶けない平和な村である 白井重之
残鶯や退つ引きならぬ泥の里 すずき穂波
陰毛も白髪に 玉蜀黍に花 瀧春樹
鯵刺や糸口はマスカットジュース 田口満代子
溽暑なり水玉模様の心地して 竹田昭江
柿若葉共に秩父音頭おんどを兜太師よ 谷口道子
はつなつの上澄みとして母眠る 月野ぽぽな
葭切りや天の静寂一人占め 豊山くに
緑陰や行きすぎて戻れない雲 西美惠子
亡師ひとり老師ひとりや遠霞 疋田美恵子
よく育つ夏蚕よ雲喰い風を喰い 藤野武
桷咲くよ父の貧しさのあたり 本田ひとみ
青梅やすくっとフェンシングの一瞬 宮崎斗士
燕の巣の下死刑執行ビラゆれる 村上豪
群れ立ちしブラシの花はフトモモ科 村上友子
お墓参りずっとお喋りさるすべり 室田洋子
微塵子と陽のはげしさの西ノ京 矢野千代子
兜太なき浮世の羅はりついて 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

胸に夏帽立ち尽くす摩文仁の礎 赤崎ゆういち
  摩文仁は、沖縄本島南西端にある太平洋戦争末期の沖縄戦最大最終の激戦地。日本軍の組織的抵抗が終わったのは、昭和二十年六月二十九日だった。今もその慰霊碑で、毎年祈りが捧げられている。この句はその場面を捉えたもの。上中の景は毎年のものだろうし、これまで書きつくされているのかも知れないが、「摩文仁のいしじ」と抑えた悲しみは、今なお生きている。胸に夏帽を抱いて、黙祷を捧げているのだろう。このような悲劇を二度と繰り返してはならないという誓いとともに。

父の手記折れた頁のあり曝書 伊藤雅彦
  父はおそらく亡き父であろう。父の遺された手記を大切に保存するため、曝書している。ふと見ると、その中に父が心覚えに折り曲げた頁がある。そこに書かれている文章に、父はどのような感銘を受けたのだろうかと想像してみる。またその頃の父像に、今の自分自身を重ね合わせてみることもある。すでにその頃の父の齢を過ぎて久しいのだろうが、手記の手触りに生身の父への親しみを感じているのだろう。

鶯と三度の食事今日がある 大野美代子
  作者は戦中戦後の食糧難時代を経験しているに違いない。あの頃の食料事情の苦難を思い返しているのだ。それに引き換え今は、庭には鶯が来て鳴き、三度の食事も有難く頂戴することが出来る。なんと幸せな有難いことか。戦中世代の慎ましやかな人生観というべきかもしれない。

風光る旧約聖書のうすぼこり 片町節子
  風光る季節。戸外へ出て、思い切り心も体も開放したい気分。そんなとき、読みさしの旧約聖書はうすぼこりをかぶったままになっている。決してなおざりにしたわけでもなかろうが、今はこの季節の気分を満喫する方が、聖書の意にもかなうのではと思う。いやそう思いたい。

広島忌ドロップ缶がさびている 清水茉紀
  広島忌は八月六日。原爆忌でもある。広島の原爆資料館へ行くと、被曝したドロップ缶が赤錆びたまま展示されている。被曝時のつい今しがたまで、一体どんな子供がそのドロップ缶を抱えていたのだろう。勿論遺体は影も形も無い。ただドロップの缶が転がっていただけ。戦後の長い歳月を経て、なお当時の惨禍を生なましく訴えている。

梅雨の星我も昭和の尋ね人 須藤火珠男
  昭和という厳しい時代を潜り抜けて来た人々には、時代の荒波の中で自分自身を見失ってきた人が多い。自分にとって昭和とはなんだったのか。あるいは昭和時代の中での自分自身は、どんな存在だったのか。不思議に命長らえて今があるのだが、あの頃の自分自身には出会えそうもない。それは自分自身という取替えの利かないものが、どこかにあったはずだということを、尋ね人のように探し求めていることなのかもしれない。「梅雨の星」は、なかなか出会うことのないものだが、そんな当てのない星を求めるように、自分という昭和時代の尋ね人を探し求めている。

先生九十八歳は夭折です蛍 芹沢愛子
  金子兜太先生九十八歳でのご逝去は、多くの人々に惜しまれ、もっと生きていて欲しかったとの声が満ち溢れていた。そんな人々の声を代弁するかのような一句である。普通に考えれば、九十八歳は天寿といっても差し支えないものだが、兜太先生の場合は特別で、九十八歳では夭折としか思えない。それほどまでに無くてはならない人だった。そして「蛍」。魂のように浮かんでいる「蛍」に、先生への呼びかけの対象としてのイメージを託しているのではないか。

青水無月ごりっと光る馬の臀部 中村晋
  青水無月は陰暦六月の異称で、陽暦ではほぼ七月に当たる。炎暑のため水が無くなる月と解されている。そんなとき、たくましい馬の臀部が、ごりっと筋肉を盛り上がらせた。しかもその臀部は光り輝いているという。福島は競走馬の名産地でもある。「ごりっと」に、見事な馬体が言い当てられている。

荒川細うなりゆく木天蓼白かさね 野田信章
  荒川の流れも、渇水と上流での取水の増加によって次第に細くなって来ている。作者は秩父に来るたびに、そのことを痛感しているのだろう。木天蓼の花は白い五弁花で夏梅とも呼ばれる。木天蓼は今年も白い花を咲かせ、独特の強い匂いを放っている。細りゆく荒川を励ますかのように。

山影に蜻蛉の大群兜太来る 水野真由美
  秩父の山影に蜻蛉の大群が発生し、威勢良くワッショイワッショイと掛け声でもかけるかのように里山に押し寄せる。なぜかその中心に兜太先生の魂が在すかのようにも思えてくる。

◆海原秀句鑑賞 山中葛子

素っ裸で両神山りょうがみ拝す嗚呼夏霧 石川青狼
  七月七日、「海程」最後の全国大会が秩父で開催され、翌日の有志吟行では、兜太先生の菩提寺・総持寺にて墓参のあと先生の生家(壺春堂)や各地の句碑めぐりが行われた折の一句である。「素っ裸で両神山拝す」の、まるはだかの我を存在させた、師への敬愛の念が艶やかに乗り移ってくる。そして、「嗚呼夏霧」の呼びかけへの呼応は、師弟ならではの気脈の通じるシャーマンのごとき恍惚感を導き出していよう。

蟻ガキテオロオロアルク賢治の碑 伊藤幸
  カタカナ表記によって、あっという間に宮沢賢治の世界観にひたる挨拶句の気合だ。日常から非日常にすり替わるマジックのような絵画性ゆたかな感動と言い換えてもよい。目から鱗のごとき賢治のするどい自然観察眼が投影された「画中に詩あり」の鮮やかさ。

青になる確率に賭け糸トンボ 奥山和子
  三原色の一つである「青」の存在。ここでは、運を天に任せている「賭け」の正体としての「糸トンボ」が配合されていよう。水辺にいる小形で、体は細く、静止時は翅を背上に合わせる青や緑の美しい形状を、燈心にたとえて燈心蜻蛉ともよぶ「糸トンボ」ならば、心理作戦の確率は、まさに予定調和そのもの。

完璧に無視されているトマトかな 小野裕三
  孤立化した真っ赤な「トマト」が見えている。いわば、「無視」されるということへの生きる恐さが擬人化されている「トマト」なのだ。一読して、感想を述べた説明句かと思いきや、意外にも独自なメッセージが生まれている定形感にゆきつく妙味なのだ。つまりは「かな」のもつ詠嘆の意、不確かなこと、願望の意が、呼び覚まされた「トマトかな」が物を言う詩力なのだ。

七夕の前日オウム大量死 川崎益太郎
燕の巣の下死刑執行ビラゆれる 村上豪
  九五年の地下鉄サリン事件をはじめ、数々の社会的事件を起こしたオウム真理教。その死刑が執行されたとなれば、「松本サリン忌ざりがにの忌なりけり」の小林貴子氏の句が思われてくる。一句目は、平成最後の「七夕の前日」という星祭りの行事が避けられている表現が印象深い。二句目は、燕が年々訪れるであろう「燕の巣の下」を占領した、ビラが揺れるざわめきの実景が、情景として描き出されている不穏のみごとさ。

残鶯や退つ引きならぬ泥の里 すずき穂波
  言葉を失う、予測もつかない気象状況に襲われた今年の夏。「泥の里」と化した災害地を思うにつけ、自然の猛威に立ち向かうすべもない人であるゆえの、人にゆきつく存在感が乗り移ってくる。「残鶯や」の春以上によく鳴く美声のひびきが、明日に向かっている尊さ。

陰毛も白髪に 玉蜀黍に花 瀧春樹
  「陰毛も白髪に」の老化しつつある肉体の自然。比べて、玉蜀黍とうもろこしに花の咲く今年だけの夏が来ているのだ。開花期には、ほうの先から長い鬚状の赤い花柱を垂らし、雄花から風で飛んでくる花粉を受け、甘い玉蜀黍の実りが始まる。ここでは、二つの命の形が、それぞれに可笑しみを誘ってくる軽妙さがあろう。「陰毛も白髪に玉蜀黍に花」の、「に」のリズム感が抜群にみごとであるだけに、一字空けの表記法がむしろ気になる。

緑陰や行きすぎて戻れない雲 西美惠子
  緑陰は、癒しの場でもあるはず。その当然な思いが、無念の情景として描きだされている日常感。ふと見上げる空模様に気付かされる「行きすぎて戻れない雲」の遥けさ。作者には「一番に水水欲する水害地」の句もあり、平成は天災の時代といえる生死観が直視されている。

青梅やすくっとフェンシングの一瞬 宮崎斗士
  「青梅や」の切字による二物配合の句。ここでは、フェンシングの一瞬の勝敗を決めたであろう「すくっと」という素早く刺さるような感触。繊細な微音が生み出さすれているみごとさ。青梅の果肉を感知する香りの酢さが漂う、えも言えぬ勝敗の美学がドラマチック。

群れ立ちしブラシの花はフトモモ科 村上友子
  濃い赤色で花序全体が瓶洗いのブラシのように見える花を見かけたことがある。しかし、「フトモモ科」と知ることで、おもわず「本当?」と辞書を開く。本当だった。その由来を知りたくなる植物への関心は、しぼんでいく老化に対する思いの、理屈抜きの憧れそのもの。

兜太なき浮世の羅はりついて 若森京子
  うすものは、しゃの類。透き目のある絹織物の軽さは、いかにも身体に張りつきやすい夏の衣服なのだ。和服姿の美しい作者を思うにつけ、兜太師の亡き浮世は、平成の終わりが新しい時代に移り変わる時のエネルギッシュな浮世心を象徴しているようでもある。「俳諧自由」の汲めども尽きない俳句詩形への理念が眩しいばかり。

◆金子兜太 私の一句

鶴の本読むヒマラヤ杉にシヤツを干し 兜太

 この句に対し「腕力で詩を創るのは叡知で田を作るよりもむづかしい《百句燦燦》」と書いたのは塚本邦雄である。しかし兜太はその並はずれた膂力によって俳句に鮮烈な詩を出現せしめた。鶴の本を読むというナイーブな感性の持主と、丈高いヒマラヤ杉の下枝にシャツを干す男臭い人が同一人物であることはいうまでもないが、その対照するがごとき存在感こそ詩の存在理由といえよう。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。白井重之

小鳥来る全力疾走の小鳥も 兜太

 平成十六年、海程新人賞の授賞式に金子先生から「軽やかな句を」と戴いた色紙。爽やかな秋の空、透明な空気感、自由に飛ぶ生命感あふれる小鳥。中には全力疾走の小鳥も。生きとし生けるものへのアニミズム。「小鳥も」という下語の四音が疾走感とエネルギーを強調している。この句は先生からの温かく大きな励ましと思う。私の作句信条でもある大切な一句。句集『両神』(平成7年)より。室田洋子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉〇印は2選者の共選句

江良修 選
○曼珠沙華いつかわたしを灼く原野 阿木よう子
人間が天敵の歴史ホモサピエンス 石川修治
コンセントかくされて点く花あかり 市原正直
抗えるか抗ってみよう無季句でも 稲葉千尋
○昭和の日裏返しして干す魚 大沢輝一
いっせいに植田生まれて村となる 大西宣子
熊谷はこれで見納め花恋忌 大西政司
雨音に少し昔の歌ひろう 奥山和子
旧道へ曲ろう初夏が待っている 柏原喜久恵
泥でも絵が描ける水でも句が書ける 河西志帆
鳥雲に数え白寿の句が遺言 北村美都子
膝抱けば胎児になるよ水芭蕉 佐藤君子
誰かハグしてる菜の花の長い土手 篠田悦子
葉桜や人生のせて行く自転車 鈴木修一
霞む首都眼下のビルは人の業 鈴木康之
群衆に溶ける孤独や桜道 滝澤泰斗
なんども改行やがて詩になる春の波 鳥山由貴子
安全ピン核の袋を閉じましょう 舛田傜子
○さびしさに睡くなりけりたんぽぽ黄 水野真由美
春濤や流木は悲哀が浮力 横山隆

鈴木修一 選
○曼珠沙華いつかわたしを灼く原野 阿木よう子
わが出来ることの多さよ鯉のぼり 東祐子
愛すべき母似の猫背春キャベツ 安藤和子
○巨岩この魂の冷え春逝くなり 伊藤淳子
麦青む未来を覗く測量士 梅川寧江
風ひかる旧交というまわり道 河原珠美
百年を動かぬ樟の若葉かな 篠田悦子
躑躅燃えルオーのような昼下り 白井重之
鮭の顎曲がる愚直なる我ら 白石司子
おぼろ夜の大河の鉄橋渡りけり 竪阿彌放心
はつなつの聖堂静脈の昏さ 月野ぽぽな
雪濁りなんでも生まれのせいにして 遠山恵子
海賊の打ち上げられし夏コイン 豊原清明
水温む襁褓のお尻はしゃぐかな 平田恒子
花祭り人々ちょうど好い密度 藤野武
田を植えて遠流のごとく青むかな 松本勇二
おろおろと男老いゆく春彼岸 村井隆行
夕燕畝ほっこりとととのいぬ 村本なずな
山法師目閉じて見えるもの多し 森武晴美
○夕雲雀声を上げねば空の塵 諸寿子

鳥山由貴子 選
遙けさはまだ音のあるぶらんこ 伊藤淳子
先生の杖が麦秋なでてゆく 大髙洋子
卯の花の駅に十六輌連結の貨車 大西健司
○八十八夜のかるいブリキの音だ父 木下ようこ
燕来るそこには誰も住んでません 木村和彦
本ひらく車窓ふたたび青葉闇 こしのゆみこ
人にそう呼ばれてへくそかずらなり 柴田美代子
よく眠るまぶた冷たし白木蓮 芹沢愛子
文庫本ひらく陰影つばくらめ 田口満代子
ピンホール・カメラ若葉の日の光 田中亜美
○無聊この標的のごと白い鳥 遠山郁好
さびしさの底に熱あり春の宵 ナカムラ薫
○さびしさに睡くなりけりたんぽぽ黄 水野真由美
朝から朝へぎゅーんと夏ツバメ 三世川浩司
しーんとす人も白梅も濡れており 三井絹枝
蛇足だな著莪咲き切って咲き切って 村上友子
先生は別館におります春夕焼 室田洋子
曇天に影あり白花はなみずき 茂里美絵
○夕雲雀声を上げねば空の塵 諸寿子
大宮に雨何故か優しい春禽も 六本木いつき

水野真由美 選
蝉の木の下手な奴いる未帰還兵 有村王志
○巨岩この魂の冷え春逝くなり 伊藤淳子
○昭和の日裏返しして干す魚 大沢輝一
とんぼ追う少年水の匂いせる 大西健司
春灯明るうせよ産土明るうせよ 金子斐子
海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
青嵐小窓のような家族かな 川田由美子
○八十八夜のかるいブリキの音だ父 木下ようこ
靴下は立って履けよと鳥帰る 木村和彦
筍茹でる誰彼逝きしことばかり 小池弘子
青簾越しのいもうと家族かな こしのゆみこ
台所とう機関車や夫の忌なり 篠田悦子
流星群も羊の群れも杖で追う 芹沢愛子
亡き夫の碁盤朧に置いておく 武田美代
○無聊この標的のごと白い鳥 遠山郁好
花馬酔木みつめ三日後髪白し 成井惠子
ホトトギス旅寝の底にふらっと父 松本勇二
たたむべき空しさに一礼麦の秋 深山未遊
悼みには触れず薄氷踏み行けり 武藤鉦二
田水張る亡父の脛には火傷痕 村松喜代

◆三句鑑賞

抗えるか抗ってみよう無季句でも 稲葉千尋
  作者の今回の作品は、酸葉は春の季語、麦は夏の季語、他は無季の句。以前の句を読み返してみると、季語としっかり向き合って作句されていたように思われる。この句の、有季定型句への戦闘態勢のような、あるいは自分自身への挑戦状のようにも思える表現が、「海原」創刊号で示されたことに、海程以後の俳句人生に対する新たな意欲と確固たる決意のように感じた。

いっせいに植田生まれて村となる 大西宣子
  過疎化により人影まばらとなった村だが、田植えが始まると、一時的にも人が増え、声があふれる。そして、青々とした植田が一面に広がって呼吸を始めると、本来の「村」らしい活気が生まれる。植田は村の象徴であり生命そのもの。生きもの感覚でとらえた村の姿。

熊谷はこれで見納め花恋忌 大西政司
  三年前の全国大会の時、大西さんと一緒に金子先生のご自宅を探し、勝手ながらお留守の家の前で記念写真を撮った。昨年は熊谷にある金子先生の句碑巡りをした。私の中ではこれで熊谷の見納めと思っていた。「花恋」は故金子皆子先生の句集名。もはや「金子兜太」は歴史上の人物になったのだなあという感慨がある。
(鑑賞・江良修)

わが出来ることの多さよ鯉のぼり 東祐子
  八十歳を超えた義母が、鬱の症状を妻に訴えてくる。「何も出来なくなった…」と。実際には家事を自力でこなし、九十に近い義父を養っているにも関わらず……。晩年の義母を「いろんなことがまだできている私、まんざら悪くないわね」と微笑ませたいと願う私に届いた、福音のような俳句。鯉のぼりよ義母の心の空を泳げ!

風ひかる旧交というまわり道 河原珠美
  最近、大学の同級生のグループラインなるものに加わった。東京での飲み会の誘いにおいそれとは出かけられないが、旧交を温める喜びを味わっている。それも、互いの子育てが一段落してから再燃したつき合いだった。「ひかる」の仮名表記に懐かしさと温もりを感じた。まわり道で見つけた宝物を伝え合い流れる豊かな時間。

鮭の顎曲がる愚直なる我ら 白石司子
  甲子園の夏「雑草軍団」が旋風を巻き起こした。わが郷土秋田金足農業高校準優勝の活躍!踏んでも立ち上がり倒れるまで闘う「愚直さ」こそ、旋風の原動力なのだった。生殖期に向かい曲がる鮭の顎。生命のひたむきさが描くカーブは、どこか無理している嘘っぽいポーズとは別物なのだ。鮭の顎の如き俳句の希少価値を思う。
(鑑賞・鈴木修一)

本ひらく車窓ふたたび青葉闇 こしのゆみこ
  旅の途上。ありふれた車窓の連続。退屈しのぎに本をひらく。すると、たちまち鬱蒼とした木立の中に入った。そういえば、さっきもそうだった。本をひらいたり閉じたりして確かめてみる。この不思議な連動。これは作者の心象なのだろう。やがて作者を乗せた列車は、物語の深い森の中を加速していく。

人にそう呼ばれてへくそかずらなり 柴田美代子
  蔓植物には手こずらされる。引くとズルズルととめどない。まるで反撃するように放たれる臭気。へくそかずら。憎々し気に、吐き捨てるように誰かが言う。そうだそうだという同調。可憐な花のことなど、ひと言も触れられないままだ。多分ものの名前は、こんなふうに決められてきたのだろう。そこにある哀しみ。

朝から朝へぎゅーんと夏ツバメ 三世川浩司
  朝から朝へがいい。ぎゅーんの平仮名、ツバメの片仮名表記の対照も。光あふれる朝。まだきのうの疲れを抱えたままの人間たちを掠めて飛ぶツバメ。その形、そのスピード、シャープな軌跡…。朝からまたつぎの朝へ、まるで時空を超えてゆくよう。なんどでも再生出来そうな気がしてくる。
(鑑賞・鳥山由貴子)

蝉の木の下手な奴いる未帰還兵 有村王志
  「蝉の木」は蝉が大量発生する木だろう。「木の」は軽い切れとして視線を堰き止めているらしい。堰き止められた視線は「下手な奴」から「上手な奴」―即ち戦後を声高にうまく立ち回った人々を連想する。「未帰還兵」とは彼らを取材し番組を制作したNHKによれば、第二次世界大戦が終わっても現地に居残った元日本兵をいう。

海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
  かつて「海鞘」の調理法を教えてもらったことがある。突起している部分の+と-のそれぞれから排泄物と体内の水を出して殻を剥くのだ。やってみれば案外、簡単だが、あの外見ゆえ立ち向かうような気持ちで刃を入れた。そこから「いるつもり?」ではなく「いるつもりだ」、それゆえ食べるのだという覚悟として読みたい。

たたむべき空しさに一礼麦の秋 深山未遊
  この「むなしさ」は何だろう。「たたむべき」であり「一礼」をうながすのだ。取り留めなく広がる喪失感のようでもある。だがこのままにしてはおけない。「麦の秋」の光と風は「空しさ」の広大さと「一礼」の後に歩き出す姿を浮かび上がらせる。人にはこんな時があるぜと共感しつつ、今は金子兜太の不在を思ってしまう。
(鑑賞・水野真由美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

あきらめは効率的に山滴る 泉陽太郎
ほうたるほたる真水の子の言葉 伊藤清雄
こきゅうのたび毛布が動く父の肉体 伊藤優子
無自覚に声をとがらす溽暑かな 荻谷修
イギリス海岸の化石漆黒青胡桃 河田清峰
未明に蟬鳴き始め詩を書き始める 川嶋安起夫
キョウチクトウ嫌いな人の名が綺麗 木村リュウジ
夏の雲子供でいられる時僅か 日下若名
萍や角の取れゆく言葉たち 黒済泰子
黒揚羽文学館に入りけり 小林育子
婆バクハツ半世紀ぶりの水着 小林ろば
心音の窪地を螢埋めつくす 小松敦
虹のほうへ少女ふっと出る旋律 三枝みずほ
見え透いた嘘ばかり聞き青葉闇 鈴木栄司
師よこちらいまアカシアが咲いてます 立川由紀
またひとつ七月六日のヒロシマ 立川瑠璃
夏山のごはんの白さを知っている 舘林史蝶
末期の水に焼酎二滴魂にはね たなべきよみ
ガリ版のザラ紙詩集をも曝書 中神祐正
モフモフのきりん夏バテの匂い立つ 中野佑海
朝凪の誰もが欠伸して裸 野村だ骨
祭笛聞こえると言い母の逝く 原美智子
ふたり展の初日筍飯を炊く 前田恵
蜘蛛の囲や魔性の瞳光らせる 増田天志
娘に負けぬ髪型の妻夏はじめ 松尾信太郎
なにかが遠くなる7月のトースト 松﨑あきら
夏は夜ニュースに夫の副音声 松本千花
父の日やポロシャツなんか欲しくない 武藤幹
柩を運ぶ内の一人は蟹を見る 望月士郎
裸で打つボンゴ広場の少年 森本由美子





『海原』No.2(2018/10/1発行)

◆No.2 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

蕨一束ほどの帰心で立っている 有村王志
橡の花幼き母も触れし幹 伊藤巌
いぶかしげに吾が手取る母夏座敷 榎本愛子
風鈴の青が淋しい私小説 大西健司
曼珠沙華母の小さき喉仏 奥山富江
夏の朝月パラフインの息づかい 川崎千鶴子
水温むちょいワルおやじの七分袖 楠井収
はふりかな目鼻なくゆく葦の水 黒岡洋子
青大将我れと向き合うとき歪む 小林まさる
緑雨かなスペアタイヤのごとく居り 近藤亜沙美
大地より胎児の匂ひ草いきれ 齊藤しじみ
葱の花兜太師囲みよく咲う 篠田悦子
夏帽や「ちひろ」の少女視線鋭し 鱸久子
リラ冷えの弥勒菩薩に合掌す 関田炎
雨の匂ひアジアのどこか半夏生 滝澤泰斗
老優の髪に染めむら姫辛夷 遠山恵子
水中花なにか言いかけた唇 鳥山由貴子
朝霧の囮とならん夫逝けり 永田タヱ子
告知無く人の壊れる麦の秋 新田幸子
利かぬ気の目ぢからに負け茄子の花 平田恒子
金魚浮かぶこの国は縮みつつあり 藤野武
浄瑠璃寺あじさい一斉射撃だな 増田暁子
でかいミミズ一本路地に国会前 マブソン青眼
馬鹿野郎と褒める父なり四葩咲く 三浦静佳
秩父若竹先生の声の垂直 村上友子
死ぬ死ぬとふ母嫌いです梨の花 森鈴
青蜥蜴いっしゅん深傷というひかり 茂里美絵
水温む腹話術師の喉仏 梁瀬道子
母音かすれる青梅に塩たっぷり 矢野千代子
人間をみておる出目金の退屈 横地かをる

山中葛子●抄出

笑い泣きときに論客羽抜鶏 有村王志
麦笛の直情いつより漂泊感 安藤和子
カミオカンデ飛騨往く人に鯉のぼり 石川修治
誰よりもうすき暗がりあやめ咲く 伊藤淳子
どくだみの花のかんばせ妻よ老けたな 宇田蓋男
風鈴の青が淋しい私小説 大西健司
杜若吉報ですかと聞けぬまま 桂凜火
梅雨豪雨恐竜時代が来たようだ 城至げんご
無患子のこぼれて兜太師眠る寺 北上正枝
萍や死はこっつんと一度くる 楠井収
シーツ敷くひろびろ夏の月の出の こしのゆみこ
静止する蜥蜴転生して動く 佐孝石画
春落日急がぬと言い兜太師逝く 篠田悦子
大戯場お骨上げの儀春ならむ 鈴木孝信
白鳥に少年という魔法とけ 芹沢愛子
まほろばの浮葉立葉や大賀蓮 高木一惠
狼とおおかみ夜半の液晶に 田中亜美
戦よあるな兜太の怒髪天を衝く 樽谷寬子
すずかけすずかけ青い実よ心音 遠山郁好
おおかみと夢の夏野をさあ生きん ナカムラ薫
人は逝くぽっとるるモネの睡蓮 西美恵子
蛇口から水の滴る沖縄忌 仁田脇一石
丸ごとに飲みこみくちなわの純情 野﨑憲子
枯れ尽くすからむし普段着のあいさつ 野田信章
噺家のまあるく逝きてゆすらうめ 松本勇二
流れゆく一人でありぬえごの花 水野真由美
うぐいすの明日の声して泪一つ 三井絹江
村に婚あり袴脱ぐ葱坊主 武藤鉦二
青蜥蜴いっしゅん深傷というひかり 茂里美絵
合歓咲いてうろつきませんね先生 森武晴美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

蕨一束ほどの帰心で立っている 有村王志
 蕨は、古来詩歌にも詠まれ、食用としても馴染みが深い。新芽は綿毛をかぶり、小さな拳を握ったような形で萌え出る。ちょうど四、五月頃に採集される山菜の代表的なもの。この句は、そんな蕨の萌出る頃のふるさとを想っているのではないか。ほんの一束ほどの蕨だが、まだ誰にも採集されずに生えている。おそらくは都市近郊の空き地あたりに自生しているものかもしれない。
 ふるさとを恋うような帰心とは、蕨に託した作者自身の想いに違いない。小さな拳を打ち振る想い。

いぶかしげに吾が手取る母夏座敷 榎本愛子
 久し振りに郷里の実家へ帰って、年老いた母と夏座敷にくつろいで対面している。「お母さん、お久し振り」と声をかけて手を取ると、反射的に握り返してくれるのだが、その眼差しにいぶかしげな表情が浮かんでいる。母は娘をはっきりと認識出来てはいないのだ。思わず、しっかりしてよと言いたい気持ちを抑えて、その表情をうかがう。しかし、その曖昧さは変わらない。突き上げてくる絶望感に耐えながら、しらじらとした夏座敷を見回している。

葱の花兜太師囲みよく咲う 篠田悦子
 亡き兜太師の身辺に居て、骨身惜しまずお世話をしていた人ならではの感じ方だ。兜太師には、天性ともいうべき明るさと周囲へのこまやかな気遣いがあった。師のまわりには、いつも人が集まり、笑いの花が咲く。「咲う」は「わらう」と読んで、一斉に花が咲き出るような印象を言いとめている。「葱の花」は、もちろん集まった人たちのことだが、等しく取り囲んで仰ぎ見ているような感じ。「葱坊主」の印象そのものと言ってもよい。

夏帽や「ちひろ」の少女視線鋭し 鱸久子
 ここでいう「ちひろの少女」とは、岩崎ちひろ描く少女像を思わせるような、可憐な少女を指すのだろう。大きな夏帽子の下で、つぶらな瞳がひたとなにかを見つめている。その先には、人間や自然、社会の真実の姿があるのではないか。その視線は意外に鋭いものがあった。暑い日差しの中の、涼やかな眼差しの鋭さだ。

雨の匂ひアジアのどこか半夏生 滝澤泰斗
 この句の「半夏生」は時候ではないか。雨が匂うのは時期として当然だが、「アジアのどこか」から匂って来るか、またはどこかで匂っていると視ているのかもしれない。この巨視的な捉え方が、若々しい客気を感じさせる。半夏生の季節感を時空を超えて感じるとき、世界の中の連帯感のようなものまで意識しているように思えてくる。「アジアのどこか」とぼかしていうところがいい。

朝霧の囮とならん夫逝けり 永田タヱ子
 夫に先立たれた孤独感を、「朝霧の囮」と形象化し、見事にその情感を表現した。沸き立ち始めた朝霧の中にあって、亡き夫を回想しているのだろう。朝霧は次第に濃くなりつつある。感情としては、その霧の中へ身をもみ込むように消え入りたいというところかも知れない。「ならん」で一度切って、「逝けり」と詠嘆したことにより、一句に響きをもたらした。

金魚浮かぶこの国は縮みつつあり 藤野武
 日本下り坂論が言われ始めて久しい。もはや子規や秋山兄弟が見た坂の上の雲は、下り坂の夕焼け雲に変わりつつある。その淋しさに耐えて金魚が浮かんでくる。作者は、そんな価値観の転換のありようを暗に捉えてみたかったのではないか。一匹の金魚は、その淋しさに向き合うために浮かび上ってきたようにも見えてくる。この国は縮みつつありますよ、でもそのことに背を向けていてはいけないよ、とでも言うかのように。それは作者自身の姿勢でもあるのだ。

秩父若竹先生の声の垂直 村上友子
 秩父で育った若々しい今年竹。緑の幹に蝋質の白い粉を吹いた輪がくっきりと目立ち、真直ぐに天を指している。秩父若竹というからには、秩父で育った若者の姿が目に浮かぶ。「先生」とはこの場合、金子兜太先生と見て差し支えあるまい。先生の教えを受けた若者は、秩父にのみ留まるものではないので、秩父若竹を一句の比喩と受け止め、秩父発の教えを受けた多くの青年たちとみてもよいだろう。先生の声は、真っ直ぐに彼らに届き、ストンと腑に落ちた。「先生の声の垂直」が、その事実を端的に表現している。

人間をみておる出目金の退屈 横地かをる
 大きな水槽風の金魚鉢に、出目金が泳いでいる。その周辺を多くの人間どもが出入りしている。人間は出目金をちらっと見て行くが、出目金の方も人間を眺めている。人間は見ているだけでなく、見られているのだ。この見られているという立場に立ったとき、人間とはなんと退屈なものよと感じられることだろうという。人間に対する省察を、出目金の目を借りて捉え返したのではないか。出目金は見る前からあきあきしているのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 山中葛子

誰よりもうすき暗がりあやめ咲く 伊藤淳子
  「誰よりも」という自意識が、うす暗い空気感のほの暗い「あやめ」を咲かせた自己陶酔と言えようか。ナルシシズムの奥深さが知的にイメージされた定型の格調。

どくだみの花のかんばせ妻よ老けたな 宇田蓋男
  十字花、十薬など馴染み親しいどくだみの花。生きる知恵がことごとく思い起こされる花の容貌は、「かんばせ」のひびきと結ばれ合った愛妻そのものなのだ。「妻よ老けたな」の功徳を積む、同行二人の愛の世界。

風鈴の青が淋しい私小説 大西健司
  「私小説」の情緒的なあらすじが想像力を搔き立ててくれる。語らずとも語っている韻文ならではの五感のはたらく、ブルーなページが増え続けているのだ。

梅雨豪雨恐竜時代が来たようだ 城至げんご
  気象予報が当てはまらない今年の豪雨災害は痛ましい。我が身を守ることが課せられた、自然の威力を目の当たりにする、まさに恐竜時代の到来を予感する暗示力。

静止する蜥蜴転生して動く 佐孝石画
  目の前に静止している蜥蜴。その蜥蜴が動いた一瞬を「転生」と感受した感覚のひらめきなのだ。生きかわり死にかわる輪廻のドラマが、生き生きと動き出している。

春落日急がぬと言い兜太師逝く 篠田悦子
おおかみと夢の夏野をさあ生きん ナカムラ薫
合歓咲いてうろつきませんね先生 森武晴美
無患子のこぼれて兜太師眠る寺 北上正枝
大戯場お骨上げの儀春ならむ 鈴木孝信
戦よあるな兜太の怒髪天を衝く 樽谷寬子
  追悼句が思われる六句。三句目までは、〈春落日しかし日暮れを急がない〉(両神)。〈おおかみに蛍が一つ付いていた〉〈よく眠る夢の枯野が青むまで〉(東国抄)。〈合歓の花君と別れてうろつくよ〉(日常)の、本歌取りとも、パロディともいえる即興の定型詩形が発揮されていよう。四句目は、長瀞町野上の総持寺のたわわな無患子むくろじ。五句目は、骨上げの儀式を「大戯場」と言わしめた俳諧自由。六句目は、平和を目的とする戦争のない社会を目標とする存在者兜太師。

萍や死はこっつんと一度くる 楠井収
杜若吉報ですかと聞けぬまま 桂凜火
  ここにみられる二物衝撃の二句。「萍」と「死はこっつんと一度くる」の二つのものが「や」によってぶつけられることで、不思議な解放感の景が現出しているのだ。二句目は、「杜若」と吉報を待ち望んでいる不安気な余情が、ぶつかりあっている立ち姿が何とも玄妙。

白鳥に少年という魔法とけ 芹沢愛子
  いま大空に向かって飛び立つときの白鳥が、擬人化されて見えている。ここには、少年期というデリケートな魔法が解けた、逞しいほどの眩しさが感じられる。魔力の不思議な術のひそむ、肉体の神秘さに気付かされる。

狼とおおかみ夜半の液晶に 田中亜美
 「狼」と「おおかみ」。漢字と平仮名の表記によって、生き物感覚が謎めいて感じられるイメージの不思議さ。生々しい液晶画像が予感的に展開されている夜半の静けさ。ふと現代人の孤独感に襲われる。

すずかけすずかけ青い実よ心音 遠山郁好
噺家のまあるく逝きてゆすらうめ 松本勇二
うぐいすの明日の声して泪一つ 三井絹江
  即興の気合ならではの三句。一句目の、すずかけのリフレインによる、童話の世界に迷い込んだような心音のドラマ。二句目の、噺家と言えば、最近ではテレビで親しむ桂歌丸の逝去が思われる。芸の厳しさは、円熟した「ゆすらうめ」の紅色そのもの。三句目は、今日というすげ替えの利かない「泪一つ」のひらめきの詩情。

人は逝くぽっとるるモネの睡蓮 西美恵子
  逝くという必然は、生まれ来るものへの必然でもある。ここでは、フランスの印象派の代表画家モネの「睡蓮」がぽっと咲いている生まれ変わりのごとき光線が美しい。

丸ごとに飲みこむくちなわの純情 野﨑憲子
 「蛇の純情」が実に心理的。小動物や鳥の卵を丸呑みする時の、蛇の口が全開する光景は本能そのもの。自然のままを神の使いともする説もある、詩的感動なのだ。

枯れ尽くすからむし普段着のあいさつ 野田信章
 山野に自生する苧は、茎から繊維を採り、糸を制して布を織る。その苧を身にまとう普段着の手ぶらな日常は、相手を敬う挨拶に富んだ、野生の王者を描き出した。

流れゆく一人でありぬえごの花 水野真由美
 旅姿にも似た、きっぱりとした自己主張。定住漂泊の想念をきわめる「えごの花」の白花にあやかる挨拶句。

◆金子兜太 私の一句

くろくなめらかうみの少女も夜の妻も 兜太

 句集『早春展墓』(昭和49年)の冒頭の道東旅行の作から。道東の湖は摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖と神秘的な湖が多い。夜の湖畔に仕事の手を休めて独り立つ少女のシルエットが滑らかであり、艶っぽい。横に連れ添う妻の横顔も普段より華やぎ、セクシーである。山々の稜線に囲まれた夜の湖面が黒く神秘的である。ふと、湖畔のアイヌの悲話の伝説が胸裏を過る。十河宣洋

長生きの朧のなかの眼玉かな 兜太

 この句に会った時、ルドンの一枚の絵と重なった。田舎生活ですり込まれた世間の目と違う根源的な眼に捕えられた。もう一句「霧のなか動かぬ眼玉やがて破裂」を知り、師が破裂するほど凝視していたもの、朧の中で生きていた眼玉に迫りたいと願っている。師とはお話することも叶わなかったが、句を通して背を追い続けられること、自然の中に師の眼を感じられる一瞬があることを幸いに思っている。句集『両神』(平成7年)より。黍野恵

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

五月雨やつらいと甘え十代美し 有栖川蘭子
春夕焼誰恋うとなく庭にあり 飯田貞子
夕焼けに染まる木目の香りかな 泉陽太郎
泣きたい日です夏蝶の生まるるは 大池桜子
捧げ持つ夏帽に入るひよこかな 大西恵美子
夏薊上手に書けぬ「正義」の文字 川嶋安起夫
アメフトの二十歳の証言青嵐 黒沢遊公
バーベキュー誰か秋刀魚を忍び入れ 小池健一
植田一枚オープンカーで参上す 小泉敬紀
大西日搔き混ぜられし街に入る 小松敦
泉湧き出る便箋の一行目 三枝みずほ
古梅干黒いし献体は余っている たけなか華那
この道は帰る道なし蜻蛉つり 立川真理
胸すでに炎室となるや原爆忌 立川瑠璃
ゲバ棒と寝たアカシアの花の下 たなべきよみ
どくだみや花の仲間に入りたき 椿良松
燕来るかごやひぜんやそめものや 鳥井國臣
厨に蜘蛛僕は時代にぶらさがり 仲村トヨ子
逃水のごとき言の葉自慢です 野口佐稔
旅先で出合うふるさと青田かな 野口思づゑ
新年度生徒会長くねくねす 野村だ骨
バイオリンケース開けるや夏の大三角 服部紀子
梅雨晴れや傘を素振りの市バス停 半沢一枝
果物はすべて丸型我は尖る 平井利恵
馬の脚ごりごり洗い夏に入る 前田恵
タコの不可解クラゲの自由我鬼忌かな 松本千花
桐の花わたくし雨とあなたの雨 望月士郎
ふくしまの大地に鉄塔桐の花 山本きよし
合歓の花地図で辿りぬ師の旅を 山本幸風
熊楠の喜色満面梅雨湿り 吉田和恵









『海原』創刊号(2018/9/1発行)

創刊号 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

蝉の木の下手な奴いる未帰還兵 有村王志
種播いて言葉が少し行方不明 伊藤淳子
ねばっこいねばっこい木の芽雨 江井芳朗
昭和の日裏返しして干す魚 大沢輝一
夏の蝶右から左から攻める 奥野ちあき
卓上に智恵の輪憲法記念の日 片岡秀樹
毒の字に母いて強し白日傘 加藤昭子
海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
逝きて戻らぬとりあえず冷奴長 河西志帆
風ひかる旧交というまわり道 河原珠美
芽起こしや影ごうごうと「存在者」 北村美都子
八十八夜のかるいブリキの音だ父 木下ようこ
ショートカットの母のうなじを夏の潮 こしのゆみこ
子宮かろし春昼の橋渡り終へ 小西瞬夏
花水木あかるい猜疑心でした 佐孝石画
まるき字の嫁なり終日囀れり 重松敬子
麦秋やフクシマ除染地図開く 清水茉紀
躑躅燃えルオーのような昼下り 白井重之
花アカシア異教のような耳鳴り 竹田昭江
青葉騒アンモナイトのデッサン画 田中亜美
浮巣のようでもあり先生の遺影 遠山郁好
涅槃西風師の骨白く太きかな 長谷川順子
天上のひとに弟子入り草刈女 日高玲
浅草暮色どじょう鍋屋に下足札 増田暁子
師を送る旅の真昼のえごの花 水野真由美
しーんとす人も白梅も濡れており 三井絹枝
形容詞の足りない妻と春炬燵 宮崎斗士
ピアノあやすごと春愁の調律師 村本なずな
先生は別館におります春夕焼 室田洋子
桜トンネルここは産道そして祈り 若森京子

山中葛子●抄出

蒸発したき人の集まる花見かな 石川まゆみ
巨岩この魂の冷え春逝くなり 伊藤淳子
朱夏なれや大海原に彼の光 大池美木
先生の杖が麦秋なでてゆく 大髙洋子
バナナむく兜太の手つきトラック島 岡崎万寿
夢の兄ふと水切りを投げんとす 尾形ゆきお
海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
芽起こしや影ごうごうと「存在者」 北村美都子
子宮かろし春昼の橋渡り終へ岡 小西瞬夏
兜太の揮毫梵音として被爆地に 齋藤一湖
春袷パイプオルガンのコンサート 笹岡素子
蝌蚪の紐何とか残る村八戸 佐藤君子
オノマトペが降りそうな空亀鳴けり 清水恵子
青葉騒アンモナイトのデッサン画 田中亜美
はつなつの聖堂静脈の昏さ 月野ぽぽな
春が逝く白抜きのわたしのカモメ 鳥山由貴子
兜太先生白梅咲いてますねここ 中内亮玄
夫婦喧嘩につつーっと下りて蜘蛛光りぬ 中村晋
オリオン南中師のぬくもりのまだありて 長谷川順子
天上の人に弟子入り草刈女 日高玲
夏は立つ立てぬ歩めぬ夫の辺に 前田典子
浅草暮色どじょう鍋屋に下足札 増田暁子
背を押してくれし神あり麦の秋 松本勇二
鳩のつがい大空かけて兜太葬る マブソン青眼
なめくじの履歴書意外な読みごたえ 宮崎斗士
たたむべき空しさに一礼麦の秋 深山未遊
おだやかにしかし多喜二の忌に逝けり 柳生正名
あれから七年三春桜に会いに行く 横地かをる
きっと修復可能なケンカ菖蒲湯へ 六本木いつき
春眠や球体感覚のままがいい 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

昭和の日裏返しして干す魚 大沢輝一
 昭和の日は、昭和天皇の誕生日だが、この場合は昭和時代を象徴するものと位置づけられている。戦争と戦後の耐乏、そして高度成長へと続く疾風怒濤の時代。作者は昭和十七年生まれだから、時代の空気を十分に吸って生きて来た。「裏返しして干す魚」には、決して豊かとはいえない戦後生活のなかで、干魚をしっかり干しておこうという生活の知恵が見えてくる。時代の回想を生活視点から捉えた一句。

逝きて戻らぬとりあえず冷奴 河西志帆
 兜太先生が亡くなられて、大きな喪失感に見舞われたことは、皆同様の経験であろう。私たちは先生が「逝きて戻らぬ」ことを、まぎれもない事実として否応なく思い知らされている。決して認めたくない事実だが、「死なれた」という喪失感の裏返しとして、「死なせてしまった」という悔恨や痛苦にまで及びかねない。そんな時、張り詰めた緊張感のままではとてもやっていけない。その緊張をほぐすための、しばしのくつろぎが必要になる。「とりあえず冷奴」は、いわば「一瞬のいなし」なのではないか。それは悲しみの宛先不明の意識でもあるのだ。

芽起こしや影ごうごうと「存在者」 北村美都子
 「芽起こし」とは、木の芽時の芽吹きの生命力をいうのだろう。兜太句に「林間を人ごうごうと過ぎゆけり」があり、掲句もそれを踏まえて、「存在者」兜太師を暗示している。今も兜太の生命力は、芽起こしの頃のように、この空間にみずみずしく臨在するとみているのではないか。「影」には師の存在感が宿るのである。その体感こそが作者の兜太像として今もあるという。

八十八夜のかるいブリキの音だ父 木下ようこ
 八十八夜は陽暦五月二、三日頃。「夏も近づく八十八夜」と童謡にも歌われた。父が裏庭でなにやら「かるいブリキの音」をたてながら仕事をしている。いわゆる日曜大工なので、趣味として楽しんでいるのだろう。この日常感のポイントは、八十八夜という季節感との配合にある。なつかしさとともに、どこか軋み音を感じさせる皮膚感覚のようなもの。そこに父との微妙な関わり合いがある。

子宮かろし春昼の橋渡り終へ 小西瞬夏
 こういう実感は男の立場からは、想像するしかないものだが、女性の体感をリアルに捉えたものという想像はつく。「子宮かろし」で、ある種の性的充足感があるのではないか。出産後の軽快感かもしれない。「春昼の橋渡り終へ」で、その実感を予想することも出来よう。一歩間違えれば鼻持ちにならない題材を、大胆な発想で象徴的に性感として捉えた作者を讃えたい。

花水木あかるい猜疑心でした 佐孝石画
 若々しい青年の心理、それも軽い悔いを伴う青春性が感じられる。花水木は樹液が多いため、枝を折ると水が滴り落ちるところから来ているといわれる。多感な年頃の鋭敏な感受性の中に、ふと兆した猜疑心が、一度湧いてくるととめどなく広がってゆく。でもそれは決して暗いものではなく、どこまでも明るい。こういう心理感覚は、青春ならではのもの。「でした」と過去形で捉えたところに、作者の青春の居場所があったのかも知れない。

浅草暮色どじょう鍋屋に下足札 増田暁子
 どこか久保田万太郎の世界を予想させるような、なつかしき浅草風景である。今も同じような雰囲気を保っているのかもしれない。老舗なら下足番もいるようだ。作者はその体験を踏まえているに違いない。古き良き時代の浅草、今もその面影を作者は、限りない郷愁とともに謳いあげている。

しーんとす人も白梅も濡れており 三井絹枝
 やはり、兜太先生逝去を背景に置いた方がわかりやすい一句。二月二十日、先生逝去の第一報が入ったとき、一瞬世界がしーんとしてその空間は湿り気を帯びていたという。この作者ならではの直感による即時即物感が、あの日あのときの時空を言い当てている。

形容詞の足りない妻と春炬燵 宮崎斗士
  作者自身の境涯感といってしまうと差し障りがあろうから、客観的作品と受け止めたい。一般にある年輪を経た妻との関わりはこういうものだろう。だからといって二人の関係が冷えているわけではない。よそ目には、二人して春炬燵に刺さって、しんねこを決め込んでいるのだから。「形容詞が足りない」とは、何事も単刀直入、ざっくばらんな妻への、奇妙な褒め言葉なのかもしれない。

先生は別館におります春夕焼 室田洋子
 いまだに先生の逝去を信じがたいと思う人は多いことだろう。その気持ちを代弁したような一句である。誰かに先生の所在を問われたとしたら、「他界」という別館におりますと答えたい気分。そうなんだ、そうに違いないと合点する。「きっと又会えるよね」と思いたい。「春夕焼」は、ちょうど四十九日のあたりかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 山中葛子

蒸発したき人の集まる花見かな 石川まゆみ
 満開から散り終わるまでの桜の期間は短い。名所を訪れて、花に酔い酒に酔う花見は、日本人にとって忘れがたい風習なのだ。浮かれ心のままに蒸発出来たらどんなに良いだろう。しかし、そうは問屋が卸さないこの世。

巨岩この魂の冷え春逝くなり 伊藤淳子
 通いなれた秩父俳句道場の岩場が悠然と見えてくる。巨岩はそのまま巨星金子兜太先生へのオマージュとなっていよう。わが魂のあり様は、巨岩と共に冷えまさる抒情を象徴した哀悼そのもの。もう春が逝くという自然界のなんという速さであろうか。

朱夏なれや大海原に彼の光 大池美木
 「海原」への旅立ちが微笑んでいよう。「彼の光」は、やや抽象的でありながら彼方なる標的の確かさを存在させているのだ。近づけど届かない希望という光源のプロセスが鮮やか。

先生の杖が麦秋なでてゆく 大髙洋子
背を押してくれし神あり麦の秋 松本勇二
たたむべき空しさに一礼麦の秋 深山未遊
 「麦の秋」の三句。ここには、それぞれの神話めいた映像が創造されていよう。一句目は、ことに鮮やかな熊谷の麦秋に立つ兜太先生が目に浮かぶ。先生の杖は、まるで魔法のようで優しく逞しく人々を成長させてくれるのだ。そしてそれは、二句目の「麦の秋」にも通じよう。三句目は、師を失った哀しみの余情を「たたむべき空しさ」に高めた「一礼」という挨拶を存在させている。

夢の兄ふと水切りを投げんとす 尾形ゆきお
 亡くなられている兄であろうか。水切りの小石を飛ばす遊びに興じている夢であろうか。「投げんとす」の一瞬の光景は、まだ手の中にある小石の鮮やかさでもあろう。われにかえる夢の覚め際に誘われる。

海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
 震災から七年を迎えて、いまだに定まらない複雑な日常感が窺える。「まだ人間でいるつもり」の自虐めいた心のあり様は、「海鞘を割く」海の生き物と共にある自然じねんを極めた詩力にみちている。

芽起こしや影ごうごうと「存在者」 北村美都子
 黒ずんだ煙のような芽吹きの感触は、ものの影たちがごうごうと音を立てている生き物感覚そのもの。「存在者」金子兜太師が乗り移っている「海原」創刊への響き。

子宮かろし春昼の橋渡り終へ 小西瞬夏
 「女性は子宮でものを考える」と言ったのは、八木三日女であったか。そうした女性特有の、感受性ゆたかな気分が軽快に伝達されてくる。と同時に男性の存在が意識されてくる不思議さ。眩しいほどの到達感なのだ。

オノマトペが降りそうな空亀鳴けり 清水恵子
  俳人好みの「亀鳴けり」の季語の妙味。その心は「オノマトペが降りそうな」空模様だという想定が面白い。無限に近いオノマトペを感知できそうな俳諧味。

青葉騒アンモナイトのデッサン画 田中亜美
  古生代のデボン紀から中生代末まで生存のアンモナイトは、殻の構造はオウムガイに似て大きなものは直径二メートルに及ぶ。デッサン画の謎めいた美しい構図と、青葉のちかちかとした光線の騒めきが、地球の歴史を呼び覚まして神秘的。

はつなつの聖堂静脈の昏さ 月野ぽぽな
 ここには、二つの読みがあろう。一つは、「はつなつ」の光線をあびた聖堂がまるで静脈の昏さを持つ生命体に感じられるという読み。もう一つは、眩しいほどの聖堂の明るさが、反射的に「静脈の昏さ」を意識したときの光と影の景を立ち上がらせた二物配合の読み。いずれにしても、わが肉体の静脈を感受した見事さと言えよう。

春が逝く白抜きのわたしのカモメ 鳥山由貴子
 先ずは映像力がゆたか。「白抜きのカモメ」は、一服の絵画となって読者に新鮮に語り掛けてくる。何といっても永遠の羽ばたきを我が物にした私性が浮き彫りにされているのだから。ああ春が逝くのだ。

兜太先生白梅咲いてますねここ 中内亮玄
 〈白梅や老子無心の旅に住む〉が思われてくる。それよりなにより、兜太先生と会話している感応のみごとさ。余情たっぷりな即興こそのリズム感。

オリオン南中師のぬくもりのまだありて 長谷川順子
 兜太先生の好きだった「オリオン南中」。二月二十日の夜は、篠田悦子さんと病院に駆けつけられ、息を引きとられたばかりの先生の体温はまだ温かく涙の時をすごされたとか。先生のご遺体がご自宅の玄関に入られたのを見届けて、長谷川さんが家に帰ると午前二時ごろの夜空は、オリオン南中であったという、瞬時の句が尊い。

◆金子兜太 私の一句

 富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ 兜太

 平成二十七年に、金子先生から戴いたこの色紙。壮大な、動かない自然と動く自然との融合。すこし俗(?)な言葉の裏に、それ故に尚のこと浮き彫りになる、夢幻の世界。富士山のなだらかな、しかし鋭い稜線が月白に突き刺さる情景は、神々の妖しくも秀麗な交合とも思え、加えて先生のシャイな心も仄見えて、私の愛誦句のひとつとなった。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。茂里美絵

 唯今二一五〇羽の白鳥と妻居り 兜太

 昭和五十九年の瓢湖での作。恐らく湖畔に掲示されていた白鳥飛来数を、そのまま取り込んだ。大きな数詞、そして字余り。しかし定型感に全く破綻がない。ばかりか弾む息遣いの生き生きした韻律。かつ臨場感。ズームアップされた犇めく白鳥と妻との美しく耀きあう一瞬(存在としての妻と白鳥)。兜太六十五歳・皆子五十九歳。命の高揚と華やぎと。句集『皆之』(昭和61年)より。藤野武

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

手になじむ万年筆が生み出す詩 安徳由美子
踏み鳴らす能舞台まで麦の秋 石田せ江子
魔が差したとわかっているよ青芒 泉陽太郎
北千住商店街や蝸牛 大池桜子
みんな無口に風死す無言館を去る 大野泰司
暦から三月十一日消し去りぬ 金澤洋子
夏草を踏み心地良い筋肉痛 川嶋安起夫
青葉闇くちうつしすることばかな 小松敦
天空と辛夷のあわい白濁す 斉藤栄子
蝶止まるてのひら血のかよふ感覚 三枝みずほ
立ち話行者にんにくに終始せり 榊田澄子
落し文鯉のもみ合う口あまた 白石修章
遠野初夏魑魅魍魎は国家から 関無音
パソコンを手放すためらい春夏日 関口まさと
長く細い尾だ母の日の霧笛 たけなか華那
手毬花ペンを置く時俯きぬ 立川真理
進学は夢の向こうや花は葉に 立川瑠璃
激論も心地よき和や夏料理 谷川瞳
往く蟻に帰りの蟻が何か言う 寺口成美
春の虫名など知らねど打ちにけり 中神祐正
古雛マグマを溜めし妻の笑み 中川邦雄
リュウマチの母や茅花をうましと言う 中谷冨美子
限りなく母に染まる日沈丁花 中野佑海
薄明や蛻の蟬に息残り 中村セミ
うりずんとう響が好きで手をひらく 仲村トヨ子
レコードの傷音痒き暮春かな 前田恵
青蛙地球まるごと蹴る構え 増田天志
砂時計の中に二匹のアリジゴク 望月士郎
最短を海図に描きヨット発つ 山本きよし
青き踏む一頭の蝶に変るまで 吉田和恵

「海原」の俳句

「海原」誌面に掲載された俳句を毎月ダイジェストで紹介します。