『海原』No.46(2023/3/1発行)

◆No.46 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

榠樝の実落ちて居場所のなかりけり 伊藤幸
よう来たか秩父木枯吹き合う笛 植田郁一
フェイスシールド色鳥は純な球 大沢輝一
よう咲いたと白山茶花に一献 大谷菫
神送りアンサンブルのような雨 小野裕三
穭田の光唄えば自由律 加藤昭子
覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
好きな曲だけを集めて小鳥来る 小松敦
戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
やわらかい握手のごとし荻に月 佐孝石画
連弾です大草原の草紅葉 鱸久子
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
ざくろの実その感情のつとはぜる 竹田昭江
かりんの実青く重たく中学生 田中亜美
雨戸重たし無縁社会はしぐれたり 長尾向季
更地にもなれず被曝の田にすすき 中村晋
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
誘うような手首の静脈秋の蝶 仁田脇一石
肉親との話し炭火のあたたかさ 野口思づゑ
人類に国境のあり鰯雲 野﨑憲子
綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
言い訳の色づく秋の山帰来 松本千花
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士
時雨忌やラーメン店の列に従く 村本なずな
血の色の実の生っている寒さかな 望月士郎
ラ・フランス自傷の匂い微かなる 茂里美絵
飛魚は星座になってみたいんだ 森由美子
燗熱く神を信じる信じない 柳生正名
息をせぬ全ての兵士星月夜 山下一夫
老老の庭灯すごと石蕗の花 吉澤祥匡

中村晋●抄出

秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
今夜読む本ありホットミルクティー 大池美木
弔辞優し屋根に燕の列長し 大久保正義
模造銃構え少女の微笑む冬 大西健司
桜もみじ巣箱はさびしいオブジェです 河原珠美
立て掛けし画架イーゼルに跳ね櫟の実 北村美都子
月夜です田んぼに忘れし茣蓙一枚 小池弘子
覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
友の名呼ぶ冷たい月を撫でるように 佐孝石画
はつ雪をまず掌になみだほど 佐々木香代子
差羽来て野はひりひりと透き通る 篠田悦子
日の沈むくにの国葬まんじゅしゃげ 芹沢愛子
冬野やや遠くに孤礁のよう老人 十河宣洋
紅葉かつ散る停戦の落しどころ ダークシー美紀
窓越しに看取る日もあり朴落葉 立川由紀
白コップに牛乳注ぐ十一月 豊原清明
返さるる介護寝台暮の秋 長尾向季
半月は子規の横顔粥すする 船越みよ
眼の合ひし野菊を摘んで誕生日 前田典子
秋ばらの棘のしづけさ出さない手紙 松本千花
よく凍てて星を集める生家かな 松本勇二
葬儀屋のロレックス光る朝霧に マブソン青眼
北風や執事のような猫と住む 三浦二三子
君の絵に丸ごとの秋 君がいない 村上友子
充電完了まで鰯雲で待機 室田洋子
野ぶどう熟れる片思いってなんと一途 森武晴美
天瓜粉すっぽんぽんが逃げまわる 森由美子
自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫
コスモスに風コスモスの風になった 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

よう来たか秩父木枯吹き合う笛 植田郁一
 言うまでもなく、兜太師を偲ぶ句。「よう来たか」に、師のこわぶりが乗り移っている。作者自身、その声、その言葉の体験者であり、それは今もなお秩父の木枯らしの笛の中から聞こえてくるものなのだ。師亡きあと五年の歳月を経てなお、師の声がまざまざと聞こえてくるというのは、それだけ師を惜しみ、その臨在を待望する多くの人々の思いを、伝えようとする作者の願いでもあろう。

穭田の光唄えば自由律 加藤昭子
 穭田に萌え出る若い稲が、懸命に新しい茎を伸ばそうとしている。それは晩秋の光の中に輝いて、あたかもてんでに唄を唄っているかのよう。唄は斉唱でも合唱でもなく、それぞれ勝手にソロで唄い、中にはラップ調でしゃべくるものもいる。そんな混然とした演奏前の音合わせのような光の束を、「自由律」と言ってみたのではないか。この音と光の合奏の着眼は、穭田の風土感を新しい視角から言い当てている。

覗き込み秋の鏡に入れてもらふ 小西瞬夏
 昔風の箱作りの鏡台で、親しい間柄の人がお化粧をしている。その「おつくり」の途中の鏡面に、ふっと覗き込むようにわが顔を差し入れて、あやかりたいとでもいうかのように、化粧する人の顔に重ねて鏡像を見ている。その瞬間を、「秋の鏡に入れてもらふ」としたのは、美しく仕上がってゆく人への羨望に近い憧憬ではないか。

戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
 おそらく、ここで隅々を拭いているのは、敬老日にお祝いされる当の老人であろう。別に誰に頼まれたわけでもなく、むしろ今日は何もせずゆっくりしていて下さいと言われていながら、自ら進んで隅々まで拭き掃除をする。後に残る世代に、せめて戦争のない今の平和な暮らしが続きますようにとの願いを込めて、丹念に。

やわらかい握手のごとし荻に月 佐孝石画
 荻は、蘆に似た水辺に生える高さ一〜二メートルの大型の多年草。中国では蘆荻という言葉もある。人目を忍ぶ逢瀬なら、恰好の隠れ処かもしれない。月は中天に登って、川辺のデートもそろそろ別れの時が迫っている。そよそよと揺れる荻のさやぎが、やわらかい別れの握手の触感をつたえるかのようだ。二人の胸には、同じ思いが兆しながら、なかなか切り出せない。作者の青春性がよく出ている一句。

肉親との話し炭火のあたたかさ 野口思づゑ
 オーストラリア在住の作者が、古き良き日本の風土感に根ざす句をものした。海外在住の作者には、こんな憧れがあるのかも知れない。たしかハワイ在住のナカムラ薫さんも、「野遊びの素直になるための順路」(令和三年九月)と作っていた。掲句は、久しぶりに帰国した時、炭火の火鉢を囲んで肉親と話をした。その温かかったことを、心も体もひとしなみに受け止めている。

人類に国境のあり鰯雲 野﨑憲子
 ウクライナ戦争をモチーフにしている句。この戦争は長期化の様相を呈し始め、出口の見えないまま対立と緊張度を高めつつ、世界を大きく巻き込む可能性が出てきている。二〇二三年、日本の国境周辺での緊張感は一層高まるかも知れない。世界のグローバリゼーションは、ウクライナ戦争によって機能不全に陥った。あらためて人類に国境があることを思い知らされたという危機感を、作者はひしひしと感じている。この場合の鰯雲は、降雨の前兆としての不安感であろう。

綿虫の微かな気流妊婦なり 藤野武
 晩秋から初冬にかけて、青白い光を放って浮遊する綿虫は、雪蛍、雪婆の別名もあるように、幻想的なイメージがある。初雪の降る前に、交尾して産卵するから雌は大方妊婦だろう。綿虫の群は空中に浮遊するので、かすかな気流に乗っているようにも見える。こういう綿虫の生態をそのまま描きながら、「妊婦なり」の抑えで、その空間に漂う生臭いいのちの気配を表出した。

時雨忌やラーメン店の列に従く 村本なずな
 時雨忌は陰暦十月十二日、芭蕉の忌日。そんな由緒ある日に、人気のラーメン店では長蛇の列が続く。「色気」ならぬ「俳気」より「食い気」だ。列の一人に聞いてみた。「時雨忌ってご存じですか」「時雨の季節ってことでしょう。ラーメンも旨い時期ですしね」「いや全く…」。

 他に割愛した評釈に手を焼きそうな注目句を挙げておきたい。

フェイスシールド色鳥は純な球 大沢輝一
神送りアンサンブルのような雨 小野裕三
渡り鳥繋がりたくはないのです 高木水志
ざくろの実その感情のつとはぜる 竹田昭江
帰り花余生と言う程暇じゃない 中村道子
誘うような手首の静脈秋の蝶 仁田脇一石
棒高跳びの空の重たさ中也の忌 宮崎斗士

◆海原秀句鑑賞 中村晋

返さるる介護寝台暮の秋 長尾向季
 しばらく貸し出していた介護用のベッド。それが返却された。句意としてはただそれだけのことを叙述しているようにも見える。しかし、この作者には、介護用ベッドが返却される前には、たしかにこのベッドで人が生きていたという事実が見えている。そして返却されたということは、ベッドが必要なくなったということ、すなわちその人が亡くなったということ。そこまで鮮明に見えている。ベッドが貸し出され、返却される。その日常の中に「いのち」の在り処を見つめている作者の詩心が冴える一句。「暮の秋」の斡旋も見事だ。

窓越しに看取る日もあり朴落葉 立川由紀
 「窓越しに看取る」という表現が尋常ではない。臨終を迎える人と窓ガラスを隔てなければならない状況は、現在のコロナ禍がもたらしたものと想像される。また「日もあり」とあるから、作者は看取ることを日常にしている方なのだろうか。いずれにせよこの句にも、「いのち」の重みが感じられる。「朴落葉」が作者のやるせなさを代弁しているようだ。物に即して心を述べる「即物」の技法。この技術がこの句にしっかりとした骨格を与え、美しい佇まいをもたらしているように思う。

葬儀屋のロレックス光る朝霧に マブソン青眼
 この句も「いのち」に関わる句。とはいえ、捉え方は反語的。死を取り扱う葬儀屋の世俗性、俗物性を告発する作品である。光る「ロレックス」を描き出すところに、死者から金を吸い取り、肥え太る葬儀屋の金満ぶりを見逃さない鋭い批評精神が宿る。「朝霧に」紛れようとしても決して許すまいとする作者一流の反骨の一句だ。

紅葉かつ散る停戦の落しどころ ダークシー美紀
 「いのち」を犠牲にする最たるものは何か。それはおそらく戦争に他ならないだろう。しかもこの度のウクライナ戦争に関しては、核兵器の使用も示唆された。あるいは原子力発電所への攻撃もあった。世界が、そして地球が危機にさらされている。一刻も早く「停戦の落しどころ」を探りたい。その切なる願いが「紅葉かつ散る」にひしひしと伝わってくる。紅葉が散り尽くしてしまう前になんとかしたいとは誰もが願うことだろう。しかし、その方向に向かわないもどかしさ。

戦あるなと隅々を拭く敬老日 坂本久刀
 この作者も戦争に対する怒りを覚えつつも、そのために何をしたら良いのか、何ができるのか、困惑しているようである。「戦あるな」を単に掛け声だけで終わらせないためにはいったい何ができるのか。簡単には答えは見つからない。そしてふと我に返り、「隅々を拭く」ことになる。自分自身の日々の暮らしを全うすること、遠回りかもしれないがそれしか道はないという諦念だろうか。「敬老日」の措辞にしみじみさせられる。

自死の前の君に青空はみえたか 夜基津吐虫
 沖縄に住む作者による作品であることを踏まえると、「自死」の語が重い。太平洋戦争末期沖縄地上戦における自決行為を指すのだろうか。今なお多くの課題を担わされる沖縄。「君に青空はみえたか」の問いは、本土の我々にも「君は青空がみえるか」の問いになって響く。いや、戦争と関わりがなくとも、多くの人々に自死を強いる昨今の日本社会である。鋭く刺さる一句である。

秋の蟻影の重さに立ち止まる 伊藤歩
弔辞優し屋根に燕の列長し 大久保正義

 「いのち」の存在は人間に限ったものではない。すべての生きとし生けるものに宿っている。そのすべての生きものと心を通わせる感覚を「生きもの感覚」と兜太師は呼んだ。それを強く感じるのがこの二句。「秋の蟻」が「影の重さ」に立ち止まっているのか、それとも作者自身が自分の影の重さに立ち止まっているのか、読みに揺れを感じながら、いつしか読む側も「秋の蟻」と心を通わせている。作者と蟻との距離はかなり近い。この近さが「生きもの感覚」を呼び覚ます。これは「弔辞優し」の句においても同様。葬儀の際の一光景だと思われるが、屋根にずらりと並ぶ燕たちを見て、作者は、まるで燕たちが死を悼んでいるかのようだと見ている。いや、作者はまさに燕たちが死を悼んでいると断定する。この句に通う人間と燕との間の濃厚な「生きもの感覚」。齋藤茂吉の名歌「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」を思い起こさせる一句でもある。

天瓜粉すっぽんぽんが逃げまわる 森由美子
 子どもたちが子ども時代を十分に過ごせなくなっているのが今の日本社会。しかし、この句の「すっぽんぽん」は十分に子ども時代を過ごしているようで安心させられる。「生きもの感覚」が横溢する愛らしい一句。

差羽来て野はひりひりと透き通る 篠田悦子
 差羽が渡る頃の空気感。それを「ひりひりと」と体全体で捉えた表現の深さ。野、山、空すべてに「生きもの感覚」「いのち」を感じさせる、これぞ海原の一句。

◆金子兜太 私の一句

海を失い楽器のように散らばる拒否 兜太

 海を失う不条理に抗し、拒絶の意志は個々の反抗を通して連帯する。それを兜太は楽器が奏でる音楽に喩えた。失われた海は作句の地長崎に拘れば、鎖国政策によって失われた自由の謂か。だが、読者はそうした文脈を離れて、例えば水俣の海で、沖縄の海で、奏でられたノーを、慟哭と希求の旋律として受け止めることができる。『金子兜太句集』(昭和36年)より。片岡秀樹

起きて生きて冬の朝日の横なぐり 兜太

 「気持ち良く目覚めると、オットット陽光のパンチを顔にくらったよ!」と、いかにも兜太師らしいウイットに富んだ御句で充実感に満ちています。「文化功労賞」をはじめ数々の受賞に輝いて居られた最晩年、2014年の95歳の時の句。この頃私は、師のお言葉は一言ももらすまいと講演会やカルチャーセンター、「海程」の例会や秩父俳句道場と、あらゆる行事を必死に追いかけていたのをなつかしく思い出します。句集『百年』(2019年)より。深山未遊

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
熱帯夜ああ魂が浮いている 阿木よう子
コトリとも音せぬ炎昼ぬっーと兄 綾田節子
悦楽はまだ先のこと片陰り 泉尚子
美しき誤解でありぬ秋の蝶 大池美木
秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
観念的な夏空戦車通り過ぐ 大西健司
性という螺旋階段林檎剝く 片岡秀樹
ハンカチを上手に落とせない女 河西志帆
遠雷やショートホープの箱は空 小松敦
○会えぬままに友は蛍まみれらし 芹沢愛子
核の秋手品はそっと人を消す 田中信克
「あと一年できたらいいね」日々草 永田和子
しらたまや和解のこだわりを捨てて 日高玲
独り居の硯を洗ふ水の音 前田典子
なぜ空がこんなに青い 死ぬ日にも マブソン青眼
不眠ひたひた拍動ふかくケイトウへ 三世川浩司
哲学的限界集落鰯雲 嶺岸さとし
古書店ごと昼寝していて入れない 宮崎斗士
生きものたちに霧の中心の音叉 望月士郎
酒焼けの声が祭りの山車を出す 若林卓宣

刈田光児 選
秋の雲まだ地に足が着いている 石川青狼
百物語一斉に携帯アラーム 石橋いろり
夜を音読する鈴虫よ旅に出る 伊藤清雄
赤蜻蛉すぐに届いた返信封書 故・宇田蓋男
口中のほおずき鳴らし返事する 榎本祐子
黄金虫今朝は異界につながれて 桂凜火
虫すだく闇のみずみずしく生れて 北村美都子
瘡蓋のような新宿そろり秋 こしのゆみこ
数学が苦手で蛍追いかける 佐々木宏
咲ききったカサブランカの孤独感 清水茉紀
ハマヒルガオ越後の国の駅無人 鱸久子
原爆忌水音だけを聴いている 竹本仰
肖像の人みな故人白露の日 田中亜美
疣蛙いぼがえる悠悠自適の貌上げて 樽谷宗寬
青僧の撞く梵鐘や水の紋 中内亮玄
○星涼しわれら明るき草である ナカムラ薫
太陽吸い死地覆い葛光りまくる 中村晋
八月を山折り谷折りしまいをり 藤田敦子
萩こぼる本をさがしていて兜太 松本勇二
夏帽子おやつのような風が来る 宮崎斗士

すずき穂波 選
かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
かなしみを逃水のように持て余す 榎本愛子
○怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
君という巡る流星静かなり 近藤亜沙美
よく噛んで顔の輪郭に追いつく 三枝みずほ
ゆるやかな喪失であり蝉時雨 佐孝石画
野菊の前で接吻していい村だ 白井重之
○会えぬままに友は蛍まみれらし 芹沢愛子
引力に乳房は任せ登高す 高木一惠
体液が流れるように夏越かな 高木水志
幼子や西瓜に食べられているよう 谷川瞳
○星涼しわれら明るき草である ナカムラ薫
蟬しぐれ水のようです溺れます 丹生千賀
古稀すぎて裏が表につくつくし 増田暁子
ぼんやりの反対は鬼秋彼岸 松本勇二
過疎村をばりばりと食み鬼やんま 嶺岸さとし
この星を捨て子のように天の川 望月士郎
虹ときに暗帯となり国滅ぶ 茂里美絵
地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名
文化の日巻き取られない人だつた 山下一夫

横地かをる 選
百日紅黙はこころの瘤である 伊藤道郎
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
○怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
抽斗に初秋ことんと音を出す 大沢輝一
霧食べて育つ霧の子霧の家 奧山和子
秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
行き先をまだサンダルに告げてない 河西志帆
言霊の優しさ結び星祭 高木一惠
骨格標本ひとつはきっと蚊帳吊草 鳥山由貴子
被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
ひょんなことから風に好かれて露の玉 野﨑憲子
十三夜車窓に知らぬ私いて 藤田敦子
月光に溶けゆく私というさざなみ 藤野武
はらはらと消えた日常鳥渡る 本田ひとみ
庖丁を研ぎゆく無心十三夜 前田典子
秋の蜂木の家ふっと木に還る 三浦二三子
敗戦忌母には母の水たまり 宮崎斗士
アキアカネつと世紀末横切りぬ 茂里美絵
折り合ひの自在かなしき秋茜 山下一夫
病室の白い天井 白い出口 横山隆

◆三句鑑賞

秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
 繋がっている。世界中と。いつでもどこでも、繋がれる。今日も明日も明後日も、今日も昨日も一昨日も、誰かが語りかけている、語りかけられている。ワタシは今、ひとつの死を悼んでいる。かけがえのない死を。でもそれは誰にも伝わらない。伝えたくもない。繋がっていても、繋がれていても。

遠雷やショートホープの箱は空 小松敦
 肋骨骨折、足関節捻挫、顎関節脱臼。口が塩辛い、背中が冷たい。腕は動く。少しずつ、少しずつ、手首をねじる。すっと引いて、抜けた。腕で這う、壁まで。ずり上がり、座る。誰もいない。胸ポケットをさぐる。潰れた箱、引き出す。そっと広げる。空っぽ。今日はツイているのか、いないのか。ずっと耳鳴りがしている。いや、神の声かもしれない。

古書店ごと昼寝していて入れない 宮崎斗士
 古本っていったって最近はネットでさ、何しろ手軽だよな。でもさ、ほら、運命的な出会いってやつ、あれはさ、なかなかネットじゃね。なんかこう背表紙が輝いててさ、手が震えるんだよな。で、オヤジは?え、奥で昼寝?なんだよ、また閉まってんじゃねえか。ウンメイ返しやがれ。
(鑑賞・泉陽太郎)

秋の雲まだ地に足が着いている 石川青狼
 掲句の表記は実にシンプル。しかし、天地にひとり佇む宇宙感。そして、流れゆく雲と、足裏から伝わる大地の柔らかい感触に、秋を感受する風土の匂いが生まれる。上句と下句をつなぐ副詞〈まだ〉は、時間を表し、やがてやって来る冬を予見しつつ、今が在るという良い意味の味を出している。読後から余白が見えてくる。

瘡蓋のような新宿そろり秋 こしのゆみこ
 〈瘡蓋〉とは、「はれもの、きずなどのなおるに従って、その上に生ずる皮」という。日本一の大都市新宿が今瘡蓋状態とは何なのか。この謎を解く鍵は、〈そろり秋〉に在ると思われる。夏から秋の変り目は更衣の時であり、古着から新調に替えるそろり秋なのだ。ファッションの流行は、大都市の女性から発信される。

太陽吸い死地覆い葛光りまくる 中村晋
 福島県と新潟県はお隣りさんであり、昔から人的交流が盛んに行われてきた。自分の伯父は喜多方の人と結婚したので縁戚関係になる。福島は史跡と文化遺産が多く小学校の旅行は福島と決まっていた。そんな行事も止まってしまった。作者のいちずに被曝を詠う俳句精神に共感し、一日も早い放射線の恐怖が消え去る時を祈る。
(鑑賞・刈田光児)

怺えきれず母は銀河を漕いでゆく 榎本祐子
 怖いという感情は、失うかもしれないという妄想から生まれる。妄想と混同されるものに空想がある。人間の社会は、常にネガの妄想とポジの空想が入り混じるが、この母君は、ネガの究極を突破し、ポジの上昇気流へ、乗り換えた。その先の「銀河」だ。進むべき道を見つけた母君のコペルニクス的転回。母のその転回点に呪術・宗教の原初的形態であるアニミズムの存在を感じた作者。

虹ときに暗帯となり国滅ぶ 茂里美絵
二重の虹の主虹と副虹に挟まれ透けている部分を「アレキサンダーの暗帯」というらしい。その部分は二つの虹の背景であり、即ち雨雲の部分。その暗さが「滅ぶ」に繋がる。虹に吉兆を見るというが、現代社会の暗渠を、敢えて剥がし、凶の予兆と見てとった。作者には「薄紙をはがすたび虹近くなる」(句集『月の呟き』)の句があり「虹」への想念は深い。そして上質なのだ。

文化の日巻き取られない人だつた 山下一夫
 兜太師の匂いがする句だ。国からのご褒美の、文化功労者でありながら、断固あの「アベ政治を許さない」をやり通した。が、今冬、突如政府は反撃能力の保有を決定、防衛3文書を改定。我々国民としては「巻き取られ」感が、ひどく強く在るのでは…。
(鑑賞・すずき穂波)

秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
 母上は、作者とは異なる世界に旅立たれたのでしょうか。「秋茄子の色濃きところ」美しく、つややかに実った秋茄子を目にしたとき自然がつくる不思議な力を覚える。この深い色合いに母の姿を重ね合わせ、穏やかに過ごしたであろう母上との関係を見事に昇華させている。感慨をこめて一句に掬いあげた佳句。

庖丁を研ぎゆく無心十三夜 前田典子
 どんなに切れる庖丁でも使っているうちに切れ味が悪くなる。今夜は研ぎ直そうと心に決め厨に立つ。庖丁を研ぐ技量はすでに心得ているのかも知れない。注意深く、丁寧にていねいに、無心になって研ぐ。硝子窓から差し込む十三夜のひかりが美しく作者を照らし出す。十三夜がファンタスティックな世界を醸し出している。

病室の白い天井 白い出口 横山隆
 作者は、体調を崩されて入院生活を送っておられるようだ。コロナ禍の入院生活は健康な人には想像も及ばない日々なのでしょう。「白い天井白い出口」と白を際立たせ、病室を無機質なものと捉えている。家族との面会もままならない現実。不自由さと虚しさ。中七下五の空白が作者の心理を表している。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

あなただけが愛してる狂い花咲く 有栖川蘭子
すすき原すすき一本づつ二人 淡路放生
竜胆に慎しい自由あります 安藤久美子
鯛焼の背に風が欲しいよ君を欲しいの 飯塚真弓
秋薔薇みにくき足をさらしけり 石鎚優
弱者とうカテゴリーあり蛇穴に 遠藤路子
月光や父のカオスに母ひとり 大浦ともこ
月夜茸征かない人ら笛吹いて 岡田ミツヒロ
ババ抜きのババ持ちしまま冬の過ぐ 小野地香
嘘ついてどの口で吹く夜の葛湯 かさいともこ
無花果を食べてふふふの夫婦です 後藤雅文
臨終の金魚みつめる聖夜かな 小林育子
冬めくや小窓に嵌まる鉄格子 佐竹佐介
騙しきることの重さや青瓢 宙のふう
落ち椿触れるを拒む導火線 立川真理
雪女郎人恋うる時紅くなる 立川瑠璃
夫逝きてうつし身しぐるるばかりかな 服部紀子
あかまんまあえてでこぼこあるきたい 福井明子
銀杏落葉別れ話を気の済むまで 福岡日向子
カオナシが居るかも知れぬ虫の夜 藤井久代
金木犀画家の名前が浮かばない 藤川宏樹
枯蓮や老兵重い口開く 保子進
銀幕は黄泉人ばかり秋しぐれ 増田天志
霜降や消え去ることの意味を問う 松﨑あきら
神将の憤怒に釣瓶落しかな 村上紀子
うっとりとは水温むこと午後のこと 村上舞香
鶏頭花其処にモンローがいるのです 横田和子
ペチコート馬鈴薯抱へ居眠れり 吉田貢(吉は土に口)
耕して親父の子なり小六月 吉村豊
柿撫でる子規の痛みをさするかな 渡辺のり子

ヨロコブコロヨ 望月士郎

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

ヨロコブコロヨ 望月士郎

吾が妹を摘み草組みつ思い川
詫び景へ椿は奇抜平家琵琶
水張りて春田の垂は照り弾み
涅槃西風釈迦の手の火車死人跳ね
半ば摘み野に措く鬼の三葉かな
今もなお花影の家か妻も舞い
老いの名は大観描いた花の庵
策なきを悦ぶ頃よ翁草
遠の田は霞の御簾か機の音
蹴上がるは辞世の伊勢路春が明け

野の指とまれ 川田由美子

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原賞受賞 特別作品20句

野の指とまれ 川田由美子

ちちははの形代として朝の虫
きざはしが好きで穂草に生まれけり
押印のよう帰燕気流と擦れちがう
古代的近未来的樗の実
枯芙蓉からから風に産毛あり
なつかしい庭こがらしの櫂すべる
夕こがらし生家に母の被膜かな
冬野道スクリーンにかげおさな
根のようなり胸静もりて冬の梢
寒の水絵本の底にあるひかり
白猫と冬野ふうっと浮力
ロゼットに海流のあお目深なり
冬日影炙り出しのように家族
ひかりも声も澪曳き剥がる冬の石
野の指とまれ蠟梅は今ひとりかな
葉は櫂とふ旅人木たびびとのきと春隣
白梅や生まれたばかりの風探す
春の切株鴉の声の雨垂るる
椋実色母の春愁おっとりと
礫の字に春野の小人混じるかな

ウルトラマン商店街 大池桜子

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

第4回海原新人賞受賞 特別作品20句

ウルトラマン商店街 大池桜子

ウルトラマン商店街や冬ざるる
わたくしのそっくりさんがいる二月
とんかつ屋いつもの席が春隣
ドーナツに並んでいれば余寒かな
毎朝通るぶらんこだけの公園
春ってかなしいピアノの音がする
大好きなご夫婦に会うかすみ草
桃の花やさしい男に慣れてない
卒業式全然詩なんてないんだ
モジリアニみたいなマスター春暖か
リラの花ひとりでスマホで乗り切れる
住民が後輩ばかり春うらら
啓蟄ややたら垢抜け都会っ子
蝶の昼写真立てがたおれてる
夢で見る風船今日も切ない赤
君が子どもみたいで小手毬の花
やっぱりデザートも頼む猫の恋
風光る憶えてる数忘れた数
蜃気楼あなたの駅を今過ぎる
ふるさとがまた遠い雛祭

モナリザの姉 望月士郎

『海原』No.45(2023/1/1発行)誌面より

第4回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

モナリザの姉 望月士郎

風光りピカソの青とすれちがう
モネの絵に絵具を見てる春愁
海市にてビーナスの腕ニケの首
ルノアールの裸婦むくむくと雲の峰
霧深く抜けてキリコの街角に
シャガールの魚を買いに月の駅
蜻蛉が案山子にとまるときピエタ
蓑虫にムンクと名付ける叫ばない
兄さんへテオより贈る耳袋
モナリザは妹なんです雪女

『海原』No.45(2023/1/1発行)

◆No.45 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
禁断のアラート穴に這入る蛇 石川青狼
うすもみじ花屋のオジサンに嫁がきた 伊藤幸
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
今行きます曼珠沙華からコールです 大髙洋子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
遠太鼓スクワットする黄落期 河田清峰
田水落す月面に降り立つかな 川田由美子
人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
人間の着ぐるみを着て秋の空 小松敦
はんこたんな嫁も姑も稲架掛ける 佐藤千枝子
コスモスのをさな顔なる土性骨 ダークシー美紀
残響は霧にまみれて渓流よ 田中亜美
オオアレチノギク泣くこと黙ること 田中信克
横顔が雲だったころの青レモン 遠山郁好
ただ抱いてくれる背なから小望月 中野佑海
秋暁の後ろ歩きを見守りぬ 野口佐稔
君のおしゃべり僕のだんまり釣瓶落し 日高玲
コロッケの掌に温かき十三夜 藤野武
認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
小鳥来る誤字いっぱいの母でいい 宮崎斗士
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
虹消えてゆく硝煙のその最中さなか 茂里美絵
身ぬちにも荒野のありて蕎麦の花 矢野二十四
薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
耳朶に風シラタマホシクサの心地 横地かをる

前田典子●抄出
雲垂れ込め秋刀魚漁船の黙溜もだだまり 石川青狼
水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
細身の秋刀魚こうもミサイルに脅されては 植田郁一
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
切り岸の光の中を落ちる蝉 榎本祐子
秋の風頭があって手足あり 大沢輝一
残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
月光の匂う交換日記かな 片岡秀樹
稲架解いて厚き耳たぶ持つ子かな 加藤昭子
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
銀河濃しわが掌になにもなし 北上正枝
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
強情が秋に追い越されてしまう 佐々木昇一
青首大根両手に下げて妊婦来る 佐藤二千六
南あかるしかぐわしき稲の里 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
川とんぼ舳先にやわらかい会話 本田ひとみ
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
冷製スープコスモスの遠い揺らぎ 茂里美絵
眼鏡拭く雨月の失言消えるまで 山田哲夫

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
 「御託」とは、自分勝手な言い分をくどくど言い立てること。そんな厄介なものを聞いてやろうというのも、一つの市井の知恵で、向こう三軒両隣の世話役ならではのもの。「君」という呼びかけがその立ち位置を示す。作者には、そんな下町っ子の心意気がある。「まあまあ、いいからいいから」という声が聞こえて来そうだ。

風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
 「風鳴りの丘」に立つのは作者自身で、そこで自らの「秋思の捌き方」を習得しているという。秋はことのほか、事に寄せ物を見ては、秋の淋しさを感じ、物思いにふけることが多い。そこから故知らぬ悲しみに沈湎してしまうこともある。そんな秋思をきりよく捌いていかないと、落ち込みからは抜けられそうにない。風鳴りの丘に立って、そんな秋思の捌き方が自然と体感出来そうな気がしてくるのも、自然に教わる暮らしの知恵というものかもしれない。

秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
 今年の海原新人賞作家。日常身辺の題材を、素直に自分の感性で受けとめ、同世代同士で使っている普通の言葉で呟いている書き方だ。この素直さが、この人の新鮮さとなっている。秋の日ってクリスタルだよね、だから私の新しい靴も輝いているんだね。そうなんだ、嬉しい!、とばかり靴を抱きしめる姿まざまざ。

敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
 「敗戦忌」と「働く虫」との取り合わせによって、まず浮かび上がるものは、戦争によって多くの無辜の民に強いられた犠牲や不幸のことだろう。平穏な日々の暮らしと働く日常さえあれば、それだけで十分幸せだった人々。作者のまなざしは、今働いている虫たちにその人々の姿を重ねて、彼らの日々寧かれと願う祈りをこめているのだ。

柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
 遺体の埋葬を、野菊咲く草原の一角で行っている景。柩をおろし、最後のお別れに故人の名を呼んでいるところだろう。おそらく「御覧なさい。こんなに野菊が咲いて見送っていますよ。どうぞ、やすらかにお眠りください」と呼びかけているのではないか。心を込めた野辺送りの、素朴な華やぎすら見えてくる。地方ではまだ土葬も残っているので、こういう場面がみられよう。

人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
 この句でいう人生の余白とは、年を経て仕事の第一線から退き、余生を何事にも煩わされず、気ままに過ごそうとする時期を指しているのではないか。ところがその時を迎えてみると、そんな余白といえるようなゆとりのあるものではなく、なにやら追い込まれたような、穴まどいにも似た不安な日々を送る破目になりがち。そんな老いの有態を、「穴まどい」と詠んだのかも知れない。

認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
 晩年に認知症を患った母は、野菊のような童女の印象のまま逝去したという。これは痴呆からくる幼児返りによるものだろうが、時には愛らしく思えることもあるらしい。介護する娘の立場からすれば、すべての時がそうだったとはいえないにせよ、老いた母へのあわれみとも重なって、野菊の印象を思い出の中に、強く刻印したのだろう。母ももって瞑すべしとはいえまいか。

鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
 幼馴染の久しぶりの手紙のやりとりを予想する。「鬼灯二つ」とあるからには、女性同士の親友関係で、昭和時代に女学生の間で流行した友情以上恋愛未満の「エス」という関係なのかも知れない。そんな情感を匂わせているのが、「鬼灯」の質感だ。若き日には、もう少し隠微だった情感も、熟年の今は、懐かしい青春の思い出として、明るい口調の返事の中に蘇ってきたのだ。勿論こちらもそんな調子の手紙を出したはず。

霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
 今年の金子兜太賞を受賞し、今最も乗っている人の一人といえよう。その取材領域は広いが、題材の斬新さばかりでなく、この句のような人間存在の本質的在りようを風景の中に見出すこともある。霧の駅から降りてきた「みんな」は、皆一人ひとりなのに、「霧」という空間に「みんな」とともにゾーニングされていく。それは印象的な風景に囲い込まれたコンセプト的風景にも見えてくる。

薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
 回想の中の今は亡き兄ではなかろうか。今回の作品はすべて戦争回想句である。それも沖縄戦への回想のように思える。作品は亡き兄から聞いた生なましい見聞や記録から取材したものだろう。戦後を生きた兄が、沖縄戦に関わる何らかの顕彰を受け、記念の薔薇の花束を提灯のように高く掲げている景とみた。それは作者自身の誇りでもあったに違いない。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
 立秋も過ぎて、涼しさを感じ始めたものの、真夏に戻ったような暑さは耐え難い。若ければ存分に汗をかきつつやり過ごせる。作者は九十二歳の方。この作品を秀句とした決めては、「素直にくたびれる」という理屈抜きの、内発的な表出にあった。年齢を知った上での迷いはあったが、このお齢でなければ生まれないものであることを、大切にしたいと思った。一人称の句だが、わざわざ「私」を入れたのも、むしろ自然な効果があった。

我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
 下五の「式部の実」に、源氏物語を匂わせるところが憎いところである。読者をその物語に預けて、その恋のさまざまを想像させておくのだから。そして、「我が恋は」と、とぼけた位置から言ってのける。しかし、自身の言いたい的は外さない、ユーモラスな姿勢に魅かれた。

曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
 空の色と曼珠沙華といえば、〈つきぬけて天上の紺曼珠沙華〉(山口誓子)が思い浮かぶが、紺と赤の取り合わせた句柄が硬質的である。この自然の描写と、掲出の句の画との枠の違いということはあるが、趣が全く異なる。「空は端から塗りはじめよ」と言われた途端、画は自然の空になって、生々しく何かの気配が生まれ始まる。曼珠沙華は抽象的な不可思議な存在感を生み出し、「よ」の命令形が更に謎を深めてゆく。

弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
 もっとも表したいことがあるときは、ピアニッシモにするのだ、と聞いたことがある。「そっと弾く」も、初雪にはない趣の「秋雪」も、ピアニッシモの気配だ。繊細な弦の音色の余韻のなかに、一瞬の緊迫感のひびきがある。書かれているのは、弦とそれを弾く指であるが、読者は、弾かれたひとひらの雪を、無意識のうちに眼前にして、その感触や表情に誘い込まれている。喩の力の強みや、方法論を持つという姿勢への思いを深く持った。

つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
 ひらがな書きが、スローモーションのように「今」へと集約させてゆく。あのつくつくしの鳴き様には、限られた時間への命の切実さや、何かを急き立てるような感じを受ける。その響きの厳しさに触発されて、作者自身の「今」という時間への思いが喚起されたように思う。「ひりひりと」をどう捉えるか。こころの奥底から自然に沸き上がって得た、言葉を超える、真実の心情を表して動かしがたい。

歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
 日々、見慣れている「歯磨きの母」の日常の姿を、ふと眼にして切り取ったところに新鮮味を感じた。「背」ではなく、「背骨」、とした描写に、豊かだった母の老いゆく姿に抱く寂寥感が出ている。しかし、さびしいとは言わず、「寒露なり」と詠嘆する。思慕とも甘美とも思える母への視線が、たじろぐほどに純である。

馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
 世情に敏感になり、「国境線」をつい戦争に引きつけて見てしまいがちだったが、読み返して「海の上」や「国境線」に心が及ぶとき、人類の壮大な歴史が思われた。「馬肥ゆる」の馬も、約五千年前の小さな動物から大型化へと進化し、旧石器時代に人類とかかわり出したという。その馬が肥える季節。国境線の下の海は、ゆたかな潮流が繰り広げられている。戦争のことを意識下におきながらも、それを超えた、自然と人類との、いのちの営為の普遍性を得ていて感銘を受けた。

過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
 規制が少し緩んできたとはいえ、まだまだマスクをしてないと不安である。その不安は日本の隅々にまで浸透していて、過疎の村までその心理状況がゆきわたっている。しかも、見渡す限り新鮮な大気につつまれた田んぼ。水を落とすのは多分一人ではないだろうか。深刻な社会詠だが、諧謔性の帯びた作品として印象的である。

迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
 普通、葉っぱを見るときは、自然の風景のなかの種類、色彩などの形態であったり、季節の移り変わりに応じた変化など、ゆたかな美しさに魅かれる。この句の場合は、見る側の脳裏に記憶していた葉っぱへのイメージがふっと湧き出てきたようだ。この日は釈迢空の忌日。民族学的視線が、葉を憑代のような面として見た。一枚の葉への畏れに襲われた一瞬をとらえた感覚が鋭い。

風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
 さしずめ、そのシンフォニーの楽章は第四楽章のクライマックスだろうか。収穫を終えた安堵と歓喜にあふれた交響曲の響きが聴こえてくる。おのずと、刈田になるまでをさかのぼっての、壮大なスパンの、自然と共にした、人の営みの織り成すシンフォニー想像される。ゆたかな気分で立つ森田さんが宮沢賢治に見えたりもする。

◆金子兜太 私の一句

白椿老僧みずみずしく遊ぶ 兜太

 大日如来像で有名な、奈良の円成寺に遊んだときの作とあります(「金子兜太自選自解99句」)。参詣された日、円成寺の守番の老僧の話に「おうおう、うんうん」と耳を傾けていらっしゃる先生のお声が聞こえてくるようです。やがて純朴なお人柄の老僧と、青年期の運慶作の大日如来像を前にしての会話は、「みずみずしく」の言葉から、愉快に、聡明に、若々しく、お堂を満たして……。句集『詩經國風』(昭和60年)より。柏原喜久恵

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ 兜太

 ダケカンバは、薪ストーブを使用していた頃、母がその樹皮を利用して火をつけていた。鮭は食卓をよく賑わす。北海道に住む私にとってはいずれも身近なもの。しかし、「骨の鮭」などと思いを巡らすことはまったくなかった。そのような中、この句に出合う。参ってしまった。対象をわしづかみする力、そして直截な表現に圧倒される。句集『早春展墓』(昭和49年)より。佐々木宏

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
躓いた石が声出す暑さかな 大西宣子
麻服を着て見殺しにしていたり 小野裕三
太陽はふくらみ止まず水羊羹 狩野康子
ゆうれいの痛がる足にまだ軍靴 河西志帆
黴の花抱き人形の捨ててある 小西瞬夏
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
生い立ちに嘘一つまみレモン水 佐藤千枝子
ありばい崩し宇治金時にスプーン入れ 白石修章
水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
夢に愛妻寝首に汗の目覚めかな 瀧春樹
太ってぬくい茄子に諸事情 たけなか華那
梅雨冷や胸元に置く黒真珠 月野ぽぽな
十字切る兵士に天使来ぬ夏野 長谷川阿以
いつまでも嘘つく玉ねぎ剥いている 藤田敦子
錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
いいぞちょこまか人さし指を天道虫 三世川浩司
夫と厨にタバスコちょっと冷奴 村松喜代
手紙を書くときおり蛍狩りにゆく 望月士郎
涼しさはマチスの横向きの女体 山谷草庵
ウロコ雲猫の欠伸に負ける夫 らふ亜沙弥

刈田光児 選
紫蘇を揉む言の葉訪ねゆきて香 石塚しをり
犬に寄り人に寄る犬春の道 内野修
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
近江上布のおくるみ蓮の花開く 大西健司
口実をひとつ選んで水澄まし 奥山和子
少年のきれいな喉元蛍の夜 加藤昭子
みずすまし水の表裏を黙食す 狩野康子
夏風邪や義理人情のすたれた世 佐々木昇一
真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
老生のわれと遊びて源五郎 関田誓炎
わが生の各駅停車梅を干す 竹田昭江
旅に折る鶴のほどけし原爆忌 立川由紀
八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
鉄線花私語の鎮もるジャズ喫茶 平田恒子
白あじさい淋しい時はパンを焼く 本田ひとみ
目礼の距離美しく梅雨あがる 嶺岸さとし
花馬酔木やっぱり暗くなる序章 茂里美絵
ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
ウクライナ国花は向日葵潜む兵 山田哲夫
ががんぼや書き損じたる撥ね払い 横地かをる

すずき穂波 選
銀河に合図水洗いのワイシャツ 有村王志
飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
戦争が饒舌になる交差点 大西政司
七夕や人生の橋かけたるか 河田光江
源五郎静かに途方に暮れたり 木下ようこ
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
しばらくは白い靴を磨く 笹岡素子
送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
東北の雨より白し神隠し 遠山郁好
ごった煮の老人ホーム昼寝覚 中川邦雄
たっぷりと墨摩るように六月来 中野佑海
この村の青い蛙とよき湿り 服部修一
螢狩わたしの無口は軽い罠 深山未遊
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
心太突けば戦がしゃしゃり出る 渡辺厳太郎

横地かをる 選
青葉騒たわいないこと復唱す 石川青狼
庭の木に交信の水撒きにけり 鵜飼惠子
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
青芝に雨降りやすき椅子を置く こしのゆみこ
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
白樺はおとうさん優しい夏の雨 たけなか華那
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
野の薔薇の満開になる逢いに来い 仁田脇一石
空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
豊かなる時間に触れる茅花流し 平山圭子
アガパンサス夫は身体を空にして 松田英子
姫女苑群生独りぼっちかな 松本勇二
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
妻の背の日ごと胡瓜の曲り癖 山田哲夫

◆三句鑑賞

夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
 なぜか、かなり急峻な崖が浮かぶ。下に海、上に空。真夏の日差しが照りつける。崖の中ほどの出っ張りに鳶がいる。あたりを見渡している。しばらくすると、ふわっと飛び上がり、瞬く間に空の点となる。その鳶の足である。足が離れるその瞬間。離れるのは果たして鳶の足なのだろうか。夏の海へと。

水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
 真夏の公園。子供たちは汗だくになって元気に飛び回っている。その手には水鉄砲。最近の水鉄砲は高性能だ。滑り台の影に身を隠し、あるいはまたジャングルジムの上から全景を眺める。そして、命中。自分も思い出す。あれは快感であった。間違いなく。でも模造銃、その通りだ。紛れもなく模造銃であった。

錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
 交通の要所、戦略的要所である橋。破壊しなければならない。そのための爆弾を仕掛ける。間違いは許されない。その設置のためであろう、まずは丁寧に橋の錆を払う。実害はなにもない。だから、今まで放置されていた錆。橋は久しぶりに錆を払われる。そしてつるりと綺麗になった鉄骨に、爆弾はしっかりと固定される。
(鑑賞・泉陽太郎)

真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
 今日から夏という空から、ロックの王様、エルヴィス・プレスリーが太陽に乗ってやって来た。強烈な心象の一句。一九五〇年後半から世界的に流行したロックンロールは、日本へも上陸し、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス等の歌手が活躍した。令和の今でも夏に入ると、苗場山麓に於てロックの祭典が開催される。

八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
 アカネ科八重葎は、原野に自生し蔓をからめながら一面に生い茂る雑草。草類の茂る原野は小さな生き物の住処であり天国である。一句を読むと自ずとウクライナの戦争地へ思いが及ぶ。原野を戦車が縦横に走り回り、草を薙ぎ倒し、虫を踏み殺す。戦車の通った跡はゴシック体の文字の様。生き残る草に明日への希望の光が射る。

ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
 絶滅危惧種に指定されているハシビロコウは、ちょっとやそっとで動かない鳥として知られる。一句は、この珍鳥を比較対象にして墓を洗っている情景。墓を洗うという行為は、日常と少し離れた位置に在り、この時はご先祖様とかそけき会話を可能にする。一方のハシビロコウはひとり瞑想の世界に耽っている。俳諧味の句。
(鑑賞・刈田光児)

飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
 「飯饐える」の喩が独創的。「饐えた飯は水で洗って食べる」というから子育てを顧み、過去を丁寧に洗い出し、気持ちを立て直す。いじめ、フリースクール等、複雑怪奇な現代にあって、子を躾け一人前にするのは、並大抵のことではない。酸っぱくほろ苦い自責の念が伝わるが、決して捨てずに有難く全てを頂くのだ、ご飯も我が子も。

送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
 「送り人」とは納棺師のこと。採ってきて、くたっとなったワラビに人間、それも沢山の人の遺体を想った。一つ一つ労わりながらその(蕨)首を洗う行為に、戦争の悲惨な翳が過り、銃後の人々の心情に寄り添っている作者。昨年、二〇二二年の春の重苦しい空気が漂う。

ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
 外国人にとって日本語は他国語に比べ難易度の高い言語という。若者言葉なんぞは、この国の我々ですら理解不能なときもある。目まぐるしく変化する現代の言語社会を言語学者金田一春彦氏は「歓迎すべき変化」と肯定する。一方、日本の国家は、相も変わらず鈍。民衆の変化にもはや国家は対応しきれておらず、ズレが生じている。滑稽・諧謔味の「ところてん」に情致が加わり、一句の余韻は哀愁のジャパンの感。
(鑑賞・すずき穂波)

サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
 サルビアの花は赤、白、紫などがあり、作中のサルビアは目の醒めるような赤い花ではないかと感じる。「確かな火」具体的には表記されていないが、作者のゆるぎない思いを推し量ることも出来る。今の世界の殺伐とした時代を生きているわたしたち、平和への願いをつよくされたのかも知れない。読者の想像を誘う余白がある。

葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
 子どもは成人になるまで二度の反抗期を迎えるという。「いやというほど」イヤの連続は第一反抗期の特徴といえる。イヤイヤをいっぱい言って駄々をこねるのは成長期の大切な課程。親も長い目でみてあげることが出来ればいいのでしょうが、いい加減にしてという気持ちになってしまう。子どもとの緊張感がみえるよう。

空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
 旅に出ることの楽しさ、よろこびは日常とは違い高揚感が伴う。コロナ禍の旅行が戻ってきたとは言うものの海外旅行はいうまでもなく国内の旅も気が引けるというもの。そんな折、机に拡げた地図の上での旅を心の渇きにも似た思いでひとり試みている。虚しさがただよう。いつの日か必ずとの思いを空梅雨が静かに支えている。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
「アイタシ」と打電ひたすら啄木鳥 有馬育代
青檸檬アリバイのごと文字を置く 安藤久美子
秋澄むや足音はいつしか羽音 飯塚真弓
昔の事ばかり自慢す羽抜鶏 石口光子
しじみ蝶心臓の朱は見せざりき 石鎚優
十月やパンの匂いの腕を抱く 井手ひとみ
墓標みな木の十字架や草の花 植松まめ
ぎんなんの音きこえたようなめざめ 遠藤路子
生身魂朴念仁と笑ひ合ひ 岡田ミツヒロ
吊るされて鮟鱇の目の潤む かさいともこ
人間の証明写真八月尽 川森基次
黄落やピザ窯乗せ来るキッチンカー 清本幸子
かなかなや母の手は小さき日溜り 小林育子
秋夕陽黒雲押しのけ見事に落つ 小林翕
複眼の乾坤を鬼やんまかな 佐竹佐介
雁渡し晩年は子に頼らざる 髙橋橙子
霧は善を戻らぬ日日へ連れていく 立川真理
顔見知りの菊人形に誘わるる 立川瑠璃
意地を張る相手もいなくおでん酒 谷川かつゑ
水切り石翔んでとんでいわし雲 中尾よしこ
萩の雨あては股旅唄などを 深澤格子
秀でたるものなき日々を馬肥ゆる 福岡日向子
草の花夫と吾とに学生時代 藤井久代
クイーンにキングならべる良夜かな 藤川宏樹
花野裂くアウシュヴッツの線路ゆく 三嶋裕女
祭神の縁起さまざま新走り 村上紀子
日向ぼこ水平線の揺ぎかな 村上舞香
家がいいと言いし母と十三夜 吉田もろび
凍土も縁者も彼方骨拾ふ 渡邉照香
大花野わたしの棺の窓かしら 渡辺のり子

『海原』No.44(2022/12/1発行)

◆No.44 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

白絣今のわたしに出会った日 綾田節子
かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
民喜・三吉・あれはあつゆき雲の峰 伊藤巌
終活の写真に埋もれ夜の秋 伊藤雅彦
草の花なら屈葬の真似ごとをせん 伊藤道郎
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
小悪魔系が子育て系に檸檬かな 大池桜子
秋冷や荼毘に付す間も来るライン 大西恵美子
霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
祈るたび半透明に花貝母 小野裕三
沈みくる枯葉筆跡は自由体 桂凜火
秋茄子の色濃きところ母居ます 加藤昭子
ミサイル落下どうりで海がぬるかった 河西志帆
生きて死ぬウィルスからすうりの花 木下ようこ
投句てふ生存証明すべりひゆ 黒済泰子
白き帆へなりゆく少年の抜糸 三枝みずほ
金柑や性善説も疲れます 重松敬子
老いるとは窓辺に茂る灸花 篠田悦子
静脈の混みあっている夜のあじさい 芹沢愛子
弾痕のごとき陰影蟻地獄 鳥山由貴子
見晴るかす天地の狭間田の青し 中内亮玄
被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
安心し不安になれる露の庭 藤田敦子
空蟬の中黙契の師の鼓動 船越みよ
ねじり花黙ってみている愛し方 増田暁子
芒原さすらい別の顔になる 松井麻容子
立秋や傭兵のごと歯を磨く 松本勇二
凌霄花ほたほた予告なき銃弾 三木冬子
国葬あり落蝉天を仰ぐのみ 村上友子
生きものたちに霧の中心の音叉 望月士郎

前田典子●抄出

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
相談したくなる涼しき目の赤子 石川和子
露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
山中にすみれすみれに人一人 内野修
かなしみを逃水のように持て余す 榎本愛子
何ごともちょっと歪んで良夜かな 岡崎万寿
霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
さびさびの老い始めです初紅葉 川崎千鶴子
行き先をまだサンダルに告げてない 河西志帆
蝉時雨あなたはいつも窓を背に 河原珠美
吊り革がわりだった君の白シャツ 黍野恵
母やいつも秋の蛍を連れてゐる 小西瞬夏
隙をつくさよならに似て夕月夜 近藤亜沙美
みんなみに呆然と月熱帯夜 篠田悦子
麦の秋農あり能に通ふなり 鈴木孝信
鳥海山ちょうかいの藍見晴るかす展墓かな 鈴木修一
こっぱみじん寸前の星金魚玉 芹沢愛子
始まりは詩集の余韻白雨来る 高木水志
日常は重しひたすら草を引く 東海林光代
悲しむな狐が泉覗くだけ 遠山郁好
葭切しきり何かがちがう戦況報道 中村晋
ひとり言たてよこななめ熱帯夜 丹生千賀
空爆無き空の下なり麦踏める 野口思づゑ
シンバルが打つ番ざあっと来る夕立 北條貢司
白さるすべり胸に小さなやじろべえ 本田ひとみ
ミサ曲のような沈黙空爆後 マブソン青眼
摺り足で来た七回忌秋夜つ 村上豪
隣り合わせの影は恍惚さるすべり 村上友子
アスパラの青色という折れやすさ 森由美子
地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
 高齢化時代の今日、老々介護はもはやごく日常的な現象となりつつある。そうなれば傍迷惑にならないよう夫婦二人の支え合いを第一に考えざるを得ない。それは、日々の暮らしの中で、同じものを分かち合うようにして生きていくことにつながる。たまたま住まいの近くに、鶴がやってくることがあって、二人はその様子を、一緒に黙したまま、飽きることなく眺めている。その様子は外目にはあわれともみえようが、二人にとっての時間は、眩しいまでに満たされたものではなかったろうか。

民喜・三吉・あれはあつゆき雲の峰 伊藤巌
 原爆詩人として有名な三人の名を挙げ、あらためて原爆許すまじの思いを雲の峰に祈る句。「民喜」は原爆詩集「夏の花」の原民喜。三吉は「にんげんをかえせ」の詩碑を残した峠三吉。あつゆきは、妻子四人を原爆で失い、「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」の句を記した松尾あつゆき。掲句は、三人の原爆詩人の名を称名のように唱えて、眼前の入道雲を原爆雲とも見なしながら一句をものしたに違いない。

小悪魔系が子育て系に檸檬かな 大池桜子
 小悪魔系とは、あざと可愛いメイクやファッションで、男心をくすぐる女の子。子育て系とは、育児に悩みながらも懸命に取り組む世話女房志向型。小悪魔系は、子育て系をいまいまし気にみながら、ちょっぴりうらやましい気分もあって、ふと黙って檸檬を一個渡していく。どこか「頑張って」と声をかけたい感じだろうか。その微妙な気配は、作者の世代でなければ判らないものかも知れない。そんな世代間のエールではないだろうか。

沈みくる枯葉筆跡は自由体 桂凜火
池のほとりの枯葉が、風に舞いながら水面に落ちてゆく。やがて水中に没していく間、さらにゆっくりと揺曳しながら水底へと向かう。あたかも草書で書く筆跡のようになめらかな曲線を描いている。その筆跡模様を「自由体」と喩えた。実は基礎となる書体の中に、「自由体」なる書体はないのだが、ここは作者の想像力によって、枯葉の舞い落ちるさまを「自由体」と比喩したのである。そこに作者独自の創見があるとみた。

投句てふ生存証明すべりひゆ 黒済泰子
 月々の俳誌への投句は、なによりも自分の生存証明になっているとは、句作するものの実感だろう。このところ二年越しのコロナ禍に加えて、世界的な社会不安や戦争の脅威が高まりつつあり、句会もままならぬ日々が続く。そんな中、投句だけは私の生存証明ですと宣言する。「すべりひゆ」は夏から秋にかけて咲く五弁の黄色の小花。葉や茎は、栄養豊富なスーパーフードと言われている。「すべりひゆ」を季語にしたのは、私だって生きてるよというしたたかなアリバイでもあるのだ。

老いるとは窓辺に茂る灸花 篠田悦子
 灸花は、夏から初秋にかけて咲く可憐な花で、色がもぐさ灸の痕のかさぶたに見えるところからこの名がある。最近とみに老いの兆しを感じ、両親たちが加齢とともに愛用していたお灸を据えてみようかと考えている。とはいえあの肌に残るかさぶたのことを思うと、つい迷ってしまうのだが、待ったなしの年齢を思えば、もはや見栄や体裁にこだわるまでないか。窓辺に灸花が生い茂って、決断を迫るようだ。

被曝した手よ被曝した桃洗う 中村晋
 原発事故で被災した福島の現実を、作者は執念深く追及している。福島は、全国でも二位の桃の名産地だが、今なお被曝の現実から逃れられないでいる。その生産者も同様。「被曝した手」が「被曝した桃」を洗っているとぶっきら棒に書いたのは、あのときのありのままの現実を忘れるなという呼びかけに違いない。

ねじり花黙ってみている愛し方 増田暁子
 この句の本意は、ねじり花に仮託した反抗期の子供を象徴しているのではないか。そのねじれを無理に矯めなおそうとするのでなく、ゆっくり時間をかけて、本人の気づきを黙って見守ろうとしている。それが作者の愛し方ですという。勿論、子供の環境や資質にもよるだろうが、おそらくそれが、もっとも正解に近い育て方であり、愛し方だと作者はみているのだ。

立秋や傭兵のごと歯を磨く 松本勇二
 傭兵という制度は、世界的にも古い歴史をもつものだが、今回のウクライナ戦争であらためて認識させられた。立秋の朝、いつものように定時に起きて歯を磨く。それはあたかも傭兵のような律義さだという。いつもの生活習慣の中で、不意に「傭兵のごと」という言葉が浮かんだのは、身近な戦争への危機意識によるものではないか。立秋という季節の変わり目に、そんな危機意識が訪れるのも、差し迫った戦争の現実感を季節の冷気とともに、あらためて肌に感じた作者の感性によるものであろう。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

かなしいほど鶴見る老々介護かな 有村王志
 作者は大分の方だから、鶴という存在に馴染んだ暮らしをされてきたのかと思う。そしていま、「老々介護」に「かなしいほど鶴見る」日々をおくっておられるらしい。鶴の営みと、介護が必要となった姿とを、自ずと重ねて見ている。時により、場合により、凄絶さを味わう場合のある「老々介護」。その切実さが、「かなしいほど鶴見る」のフレーズによって、美しく昇華されている。お二人が重ねてきた歳月を想うと、「かなしいほど」が、「かなしいほど」と読めてくる。

露けしや地下足袋履くも旅のよう 稲葉千尋
 作者の実家は、広大な畑地を持ち、竹林や梨畑もあったと聞いたことがある。かつては地下足袋を履いて畑仕事を手伝ったに違いない。そのふるさとに帰り、久々に履いたのだろうか。地下足袋で踏む地面の感触は、他の靴とは全く違うのだと「露けしや」から想像がつく。
 よく旅をしているらしい作者は、帰郷をも旅として、新鮮な刺激を受けているようだ。

霧食べて育つ霧の子霧の家 奥山和子
 この句で思い出すのは、今は亡き作者の義父、奥山甲子男氏の第一句集に見る、「山霧」と題した兜太先生の序文である。〈山山のあいだを埋めつつ動いてゆく霧。それの朝、昼、夕の変化、その乳灰色、ときに真ッ白…〉という出だしで始まり、霧の印象が切々と綴られている。「霧食べて育つ」のは「霧の子」そのものであり、絶えず包まれている「家」自体なのだろう。「霧食べて」という直接的な表現に、実態といえる気持ちよさがある。勿論、「育つ」のは作物やそれを食べる者たちでもあろう。

吊り革がわりだった君の白シャツ 黍野恵
 「吊り革がわりだった」と過去形で書かれている。いまはその「君」はいないのであろう。ともに暮らしていたときは気付いてなかったことが、居なくなってから何かにつけて気付くことがある。「君の白シャツ」という普段、身につけていた具体をさらりと示して、距離感の近さ、濃さが思われる。その表現のさりげなさに、逆に、支えられていた体感の多くのことが、深々と伝わってくる。

母やいつも秋の蛍を連れてゐる 小西瞬夏
 かつては、ゆたかな活力に満ちていた母。老いとともに体力や気力がすこし弱まってきたのかもしれない。加えて、何かにつけて判断力も薄れてきたのだろうか。「秋の蛍を連れてゐる」と捉えた、母への視線が優しい。そのやさしさは「母や」の「や」も物語っている。この「や」という助詞の様々なはたらきに、作者の繊細な感性が重なっていて、助詞の効用の力が絶妙である。「いつも」、やや悲愁を帯びつつも、美しさを失っていない母としての存在感が味わい深い。

こっぱみじん寸前の星金魚玉 芹沢愛子
空爆無き空の下なり麦踏める 野口思づゑ

 前句、後句、対照的な作品であるが、両句に込められた思いは共通している。狂気的な判断ひとつで、宇宙に浮かぶ美しい緑の星がこっぱみじんになりかねない。生き生きと金魚が泳いでいる金魚玉が間違って落ちたら、という危機感が、その星と重なる。また、かつて、J・ケネディが危機的状況下でつかったという、「ダモクレスの剣」という故事が込められているのかもしれない。後句の作者は、オーストラリア在住の方。今更ながら、空爆のないことと、麦を育てることの出来る幸せを抱いている。あらためて、危機感は、世界的規模でひろがっているのだという認識が深まる。

シンバルが打つ番ざあっと来る夕立 北條貢司
 「打つ番」と言ったところが巧みだなあと感じ入った。オーケストラのシンバル奏者の出番は、他の楽器と比べてごく少ない。けれどもそれを鳴らすときがきたら、圧巻の音を奏でる。そんな瞬間を夕立に例えた、独自の喩の効果が発揮されている。

白さるすべり胸に小さなやじろべえ 本田ひとみ
 極々小さな一点で、長い棒の両端の重い荷を支えて立つ「やじろべえ」。胸にそれがあるというのだから、心の複雑な荷の均衡を、小さな小さな一点で担っている。「白さるすべり」の持つ清潔な表情と響き合い、内面の均衡を保とうとする、清らかな必死さが伝わってくる。

地にひとつ被弾一輪曼珠沙華 柳生正名
 日々、ウクライナの戦況が報道されて久しい。最も心痛むことは兵士はもちろんのこと、一般市民の死者が出ることである。おおよその数字で示される、情報のされ方に慣れてしまっていた。だが、死者は数ではなく一個人個人である、とこの句に気づかされた。一独裁者の命も、一市民の命も同等の重さがある。にんげんの手によって、ひとつの弾丸が落とされるたびに、一人ひとりの尊い命が失われる。
 群生の曼珠沙華も、一輪一輪ずつが開き、輝いている。

◆金子兜太 私の一句

夏の山国母いてわれを与太よたと言う 兜太

 この句に出会った時、一字一句間違いなく覚えられたほどのインパクトがあった。金子兜太先生の母に対する思いが心の奥底にあるからだ。その与太といわれたことに深い愛情を実感したのだろう。今、この時に豊かな母のような山容を誇っている夏の山国に、その声は谺して力強く聞こえているのである。私も与太と呼ばれたい気持ち。句集『皆之』(昭和61年)より。北原恵子

狂とは言えぬ諦めの捨てきれぬ冬森 兜太

 この句に続けて〈まず勢いを持てそのまま貫けと冬の花〉〈冬ばら一と束夕なぎに一本となれど〉の連作。一読、私を詠んでいただいたな、とそう思いました。大変光栄なことと思っています。師は私の投じた一石の波紋の拡がりを懸念されたのだと思います。師にとって私は変な弟子でした。ノーベル賞の季節がまためぐって来ています。句集『百年』(2019年)より。今野修三

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
茅花流しときに傾く右側に 稲葉千尋
○爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
○からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
春愁も巻き貝の身も螺旋状 黍野恵
机上いつも乱雑遠くに戦火 小池弘子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
○橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
六月や畦にはほっそりした夕暮 白井重之
昼の暗がり魂も風船玉も売られ 白石司子
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
仮想現実大統領の水遊び 立川弘子
月涼し他人のような影を踏む 立川由紀
指すべて灯して水無月の宴 月野ぽぽな
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
○晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
まなぶたの閉ぢ方知らず菊人形 松本悦子
泥道の花柄毛布に在る遺体 マブソン青眼
夏が来たので背表紙のように並ぶ 宮崎斗士
○濡れているてるてる坊主太宰の忌 望月士郎

高木水志 選
緑蔭に入り緑蔭の鬼となる 上野昭子
つくしんぼ今日はてんでんばらばらに 内野修
芽吹くスピード黒髪が恐ろしい 榎本祐子
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
○爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
囀りや離れ離れにショベルカー 小野裕三
アカシアの白き風舞う津波の地 金澤洋子
○からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
あなたの為よだって羊蹄噛みしめる 黍野恵
絵葉書を何遍も読み海霧の町 小松敦
逆上がり一回増やして夏至に入る 齊藤しじみ
かさぶたが取れそう熊ん蜂飛びそう 佐々木宏
徘徊は自由心太自由 鱸久子
さみだれの芭蕉とバッハよく歩く 田中亜美
棘の世の出来心なる山帰来 並木邑人
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
みぞれ降るや嘆願のまま硬直 マブソン青眼
カモミール摘むやみどりの蜘蛛走る 村本なずな
草抜くように目高数えては母 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

竹田昭江 選
戦争がはじまっている素足かな 石川青狼
春の暮父の入江が見つからない 伊藤歩
百まで十年九十までは早過ぎた 植田郁一
先端恐怖症の君は黒揚羽の黒 大西健司
一番星入れて代田の落ち着きぬ 加藤昭子
水匂う日めくりの風薄暑かな 川田由美子
夜の新樹話し足りない友ばかり 河原珠美
戦争が行く青草にぶつかつて 小西瞬夏
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
○橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
チェンバロや矢車草の鳴るごとし 田中亜美
手に風船夢は被曝をして消えた 中村晋
六月の壁につばさが描いてある 平田薫
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
風船に不戦託して放ちけり 三浦静佳
紙ふうせん母の老後という現場 宮崎斗士
白紫陽花しあわせの断面図 室田洋子
○濡れているてるてる坊主太宰の忌 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
水になりたい少女風鈴鳴っており 茂里美絵

若林卓宣 選
ひとつずつ駅に停まりて麦の秋 石田せ江子
青蜥蜴逃走は一本のひかり 伊藤道郎
一日中カレー番かな梅雨に入る 大池桜子
本棚の父の面差し椎の花 大髙洋子
山歩く日常があり葱坊主 大野美代子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
雨蛙雨の嫌いな奴もいる 川崎益太郎
戦闘機ゆく真うしろが現住所 河西志帆
母の背に軟膏塗り込む麦の秋 清水恵子
残世のこりよに蔵書一万ほどの黴の家 白井重之
生きているつもりもなくて大昼寝 白石司子
西の味覚持ち東西のちまき食ぶ 立川由紀
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
風船握る未来も被曝していた手 中村晋
ほうほたる便器も略奪した戦 日高玲
○晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
高原発キャベツに残る雨の傷 三浦二三子
豆御飯ふはっと炊けて独りかな 矢野二十四
蒲公英の地上絶え間なき戦火 山田哲夫

◆三句鑑賞

爪切って青葉の母が軽くなる 奥山和子
 この軽さを、愛しさととってもいい。小さいころは大きな存在であった母。その言動に守られたり、振り回されたり。そんな母も、母との関係もだんだん軽くなっていくと感じることに、作者の人生の充実を思う。

からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
 夜になると美しく怪しい花をさかせるからすうりの花と家族写真との配合。しかもそれが白濁している。家族という絆のなかにうまれる染みのようなものか。もともと家族とは、写真のような虚構であるのかもしれない。

夏が来たので背表紙のように並ぶ 宮崎斗士
 口語で散文的、言いっぱなすような着地。内容を詩的に昇華させることは簡単ではない。どうしても理屈や説明になったり、感傷的になりすぎたり。だがこのかたちに作者はこだわり、きちんと俳句にしていく。「夏が来たので」という因果関係をもってきながら、「背表紙のように並ぶ」とのつながりは理屈では説明できない。脳のもっと内側に降りてくる必要がある。背表紙には題名が書かれてあり、そのことで内面を主張し、手にとられることを待つ。しかし、それはただ無個性に並んでいるようにも見える。選んでもらえるかどうかは他者にゆだねるしかない、そんな現実を思う。
(鑑賞・小西瞬夏)

囀りや離れ離れにショベルカー 小野裕三
 「囀り」は鳥が繁殖期に出す美しい複雑な鳴き声で、いかにも春が来たという感じがして、「囀り」という季語を聞くと僕は気持ちが昂ぶる。「離れ離れ」とあり、愛する人と会えなくなるのかと思ったら「ショベルカー」がきたのでびっくり。金属製の重機が人間のように愛おしく思えてくる。

さみだれの芭蕉とバッハよく歩く 田中亜美
 「さみだれの芭蕉」と言えば、『奥の細道』の有名な二句を思い浮かべるが、他にも「さみだれ」の句を旅先で詠んでいる。バッハは、二十歳の時に当時有名だったオルガニストの演奏を聴くために四〇〇キロ以上離れた都市まで徒歩で行き、それが彼の音楽の転機となったと伝記にある。歩くことでいろんな出会いが生まれる。

棘の世の出来心なる山帰来 並木邑人
 山帰来は別名さるとりいばら。棘のある蔓性の落葉低木で、黄緑色の小花を球状にたくさんつける。名前の由来に「山で病気になった者がこの実を毒消しにして元気に山から帰った」という説があり、僕は「棘の世」にコロナ禍を思った。山帰来自身が棘を負った日々を送って、そんな中で咲かせる花は「出来心」みたいだと、作者は感じたのかも知れない。
(鑑賞・高木水志)

夜の新樹話し足りない友ばかり 河原珠美
 コロナの世になって三年余が過ぎ、自粛を余儀なくされ、いつしか馴らされていきました。友に会って思いっきり話をしたい思いにかられるこの頃ですが、ふと「話し足りない」まま亡くなってしまった友たちへの思いが胸に溢れて潤みます。それは夜の新樹のように瑞々しいひと時と豊かな会話の中にいました。

紙ふうせん母の老後という現場 宮崎斗士
 急に自分の現実を突き付けられたような気がしました。老後という厄介な諸々の確かな事実を「現場」と捉えたリアルな表現にびっくりしましたが、それが的確な表現であると受け入れて向き合っていきます。母の老いを受け入れる象徴として思い出として、色とりどりの紙ふうせんはやさしいです。

白紫陽花しあわせの断面図 室田洋子
 断面図といっても縦も横もありますし、よってその内部の面は大分違うのではないかと思います。「しあわせ」となると、切り口によってはどの様な面が見えてくるのかちょっとどきどきしてしまいます。白紫陽花は一色ですが、何しろ込み入った花ですから断面図は複雑ではないでしょうか。
(鑑賞・竹田昭江)

ひとつずつ駅に停まりて麦の秋 石田せ江子
 私は乗り鉄でも撮り鉄でもない。各駅停車等に乗っていて、手を振っている子を車窓から見つけた時には手を大きく振り返すようにしている。小さい頃自分がされてうれしかったことを今も覚えている。黄金色の麦畑のつづく風景を見ながら作者がどう思っているかはわからないが「ひとつずつ駅に停まり」の表現は私に心地いい。

戦闘機ゆく真うしろが現住所 河西志帆
 俳句には季語があって欲しいと思っている。せめて季節を感じさせてくれるものがあって欲しいと思っている。作者の住む沖縄には基地に起因するデリケートな問題もある。「現住所」のある場所。この一句を素直に読み取る。硬質なのに幾度と声に出して読んでいると季節にこだわることも無いように思えてくる。

晶子の忌どの兵士にも母がある 前田典子
 与謝野晶子と聞けば、「君死にたまふことなかれ」の弟の身を案じる反戦詩を思う。たった一人の狂気な男のために、大変な世の中になっている。大切な人は勿論のこと、知らない人の生命も思考も大事。誰も殺して欲しくない。誰も死んで欲しくない。そんな気持ちを持って「どの兵士にも母がある」が、句を引き締めている。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

巻爪でつかまれた腕真葛原 有栖川蘭子
ダリの髭はいつもポジティブ八月尽 有馬育代
子を産めぬ娘と猫とねこじゃらし 淡路放生
秋茜わたしもいつか西に行く 井手ひとみ
一つずつ遠くに飛んで草の絮 上田輝子
誰にでも振る尻っぽと夕涼み 鵜川伸二
蝉時雨ふと無音ですわれの死も 遠藤路子
海も嫌い山も嫌いな案山子かな 大渕久幸
忘れめや焼夷弾直下の母の夏 小田嶋美和子
家系図に浪花の匂い男郎花 木村寛伸
黄泉の児の降りて来てるらし庭花火 清本幸子
カナカナカナとっても長い後一周 後藤雅文
喉仏には小さき骨壺雲の峰 小林育子
戦など破片だらけの夏の跡 近藤真由美
夕焼を痛いたしいと思はぬか 佐々木妙子
亡き母の来て踊る手の影法師 重松俊一
秋思いまもマスカラの黒浮き上がる 清水滋生
秋蛍ふかいふかい谷川あり 宙のふう
祖父の東京どこも銀座でお祭りで 立川真理
おおむらさき誰かの背に結ばれて 立川瑠璃
捨案山子ああ青空が眼にしみる 谷川かつゑ
蛇の衣永田町では見当たらず 藤玲人
セーラーの衿にカレーの跳ね星河 中村きみどり
八月は舌の厚さを超えてゆく 福岡日向子
チャンネルを決める番台獺祭忌 福田博之
低く低くなぞる人道秋の蝶 松﨑あきら
凩がゆさぶっているのは私 村上舞香
埋れたる生家の沼の紅き鰭 吉田貢(吉は土に口)
夏果てて自由てふ恐怖ひたりひたり 渡邉照香
夜の桃奈落の水の甘さかな 渡辺のり子

『海原』No.43(2022/11/1発行)

◆No.43 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

結界とは問われて默す餘花の雨 阿木よう子
蔓手毬記憶の向こうはいつも雨 伊藤幸
父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
帰るさのタトゥーのサーファー海に礼 榎本愛子
胸襟を開いて笑う大花火 江良修
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
八月や影という影はすかいに 大髙洋子
オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
里帰り父どっかりと夏座敷 金澤洋子
羊水の子のようにふわふわ早苗 川崎千鶴子
息継ぎのように点描のしらさぎ 川田由美子
喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
鬼灯点しあわあわと今生 小池弘子
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
十薬や小さな鈴が鳴りやまぬ 中内亮玄
夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
壊れた戦車ひまわりとコキア 平田薫
セラピー犬の眼差しに似て合歓の花 船越みよ
核兵器はいらない日々草が好き 本田ひとみ
決めかねるこの世の始末古代蓮 松本千花
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
少年の脱け殻あまた青葉闇 望月士郎
無所属やベランダに長茄子らし 横山隆

前田典子●抄出

冷蔵庫に入り切れぬ泪いっぱい 伊藤幸
平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
父の教えいまだに解けぬ星月夜 奥山津々子
黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
束ね損ねし漠なりからすうりの花 川田由美子
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
絹さやの浅緑自分に恥じており 黒岡洋子
わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
車椅子の深き溝あり浜防風 佐藤美紀江
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
家郷遠し父母という草いきれ 白石司子
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
田水張る粗き下絵を描きつつ 中野佑海
吾子ふいに朝日に卵透かし夏 中村晋
妻の眼の涼しく走る大活字 野口佐稔
レコードに傷あり野茨の実の苦し 日高玲
我が鬱を切る夏蝶の極彩や 藤野武
山椒の実卒寿の父のいやいや病 増田暁子
耳鳴りも木の芽張るのも君のせい千 松本千花
茄子の馬ぐにゃりとなりて父還る 松本勇二
友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
先生のかるいユーモア日雷 横地かをる
賢治乗る電信棒に春の月 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
 父の日は、母の日に比べて影が薄いものだが、一応六月の第三日曜ということになっている。さて、その当日、家族の一人が「そういえば今日は父の日なんだけど、どうしたものか」と呟く。なにやら触れたくないものに触れたような気もして、少し後ろめたい思いで、まあこんなことは母さんにお任せしてとばかり、母(妻か)に一任する。母の裁量なら父も否やはあるまい。

八月や影という影はすかいに 大髙洋子
 八月は、六日、九日の原爆忌、十五日の敗戦日等、戦争の悲しみに関わる日が多い。そこには、歴史的に多くの死の影が漂っているはずで、それらの影は互いにひしめき、重なり、絡み合い、影同士はすかいにもつれあって倒れこもうとしている。爆心地に近い石階では、影だけ残して蒸発してしまった遺影もある。影はいずれも柱状に直立したまま斜めに倒れようとしている。すでにして死というモノと化している一瞬だ。「はすかいに」に、凝縮された映像が浮かぶ。

オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
 ウクライナ戦争の現実を想望した一句。朝食のオムレツを作って、さあ食べようかとしている時、不意に戦車の通過する音が聞こえてきた。敵か味方かはわからないが、まさに日常の中に戦争が紛れ込んでいる場面。或いは、戦争の日々が日常化しているともいえよう。「オムレツのしずけさ」に、息を潜めている庶民の暮らしがある。

喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
 大切なご主人を亡くされ、四十九日も過ぎ、喪明けして三日目の朝、ふと赤とんぼが飛んでいることに気づく。服喪中は、悲しみと雑務の中で日々過ぎてゆき、なにも目に入らなかったのだが、ようやく我に返った朝だったのかもしれない。気丈な作者だから、諸事万端に遺漏なく対応することに抜かりはなかっただろうが、その張りつめた気持ちも、一通りやり終え一息ついた朝。一匹の赤とんぼがふっと宙に浮いているのを、見るともなしに見ているうち、あらためて静かに悲しみが滲み出てきた。おそらく、その時心から泣きたかったに違いない。

職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
 職安に求職依頼に出かけ、求職用紙を貰う。生活がかかっているから、うまくいくかどうかは死活問題でもあり、緊張することこの上ない。その白い紙に、過呼吸する程の緊張感を感じたという。今の求職難と、そこに生きることの厳しさが、ありありと浮かび上がる。無季の句ながら、季を通じてのリアリティを感じさせる。

メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
 メロンは果物の中でも高級な食材とされているから、一般庶民が気楽に口にするようなものではない。しかし独り暮しをしていると、たまには気晴らしにパアーッとやるかという気になるのも無理はない。それにつけても不時の出費だから、思い切りが必要になる。そこは度胸一本で行こうかとばかり、自分に気合を入れていくわけだ。たかがメロンでも、独り暮しなりの度胸が必要なのも暮しの現実感。

夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
 語調と語感の楽しさと、一句全体のユーモラスな映像が軽やかに伝わってきて、いかにも夏向きの一句となった。こういう句は、意味的な解釈を拒否する。「夏目漱石」の語感から来る爽やかさと、作品そのものの軽みが相俟って、「メロン」の質感に通い合う。下五を三音の短律で切るのも、「○○メロン」と無音拍二音の停音効果との合わせ技で、中句の切れを響かせるとも言える。文脈的に読めば、漱石がメロンの中に入ってますだが、映像的には、漱石がトイレに入っていて、子規が厠から糸瓜を眺めたように、庭にメロンが転がっていると想像してみるのも面白い。すこし無理筋の評釈だが。

夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
 夫を亡くして初めてのお盆を迎えた朝のこと。まだ存命中の夫を夢に見て、ついついいつもの癖で叱り飛ばしてしまったが、目覚めてみると魂迎えの朝だった。いやもうその気まずさと悔いったらありゃしないと思いつつ、念入りに魂迎えの用意に取りかかる。それは亡き夫への最後の甘えだったのかもしれない。どうか許して下さいとの思いしきり。

無所属やベランダに長茄子らし 横山隆
 長いコロナ禍で、屈託の多い日々を過ごしているうちに、なんとなく自分自身が一体何に所属して、どう動こうとしているのか、自分自身の存在根拠がどこにあるのか分からなくなっているような気がしてくる。そんな寄る辺なさを「無所属や」とし、さてその挙句は、マンションのベランダでささやかな菜園に長茄子を生らしているようと捉えた。これは悠々自適の境地と異なり、どこか意味化されないままの生のありようにも見える。時節柄、妙に親近感を覚える句だ。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
 時世柄、ウクライナとひまわりにかかわる作品をよく目にする。作者の脳裏にもその光景はあるに違いないが、掲出句はそこからは距離を置いている。「平和」という言葉が、いま、どれほど虚しいことか。それだけに、身近な場所に咲いたひまわりの光景が、理屈抜きに新鮮だ。群生でもなく、一本でもない。「二本」の平衡感覚の静けさに、素朴な平和の実感がある。
 この句を味わいながら、本誌「海原」の柳生さんの連載論考〈全舷半舷〉で言及されている、「テレビ俳句」、「戦場想望俳句」などについて考え併せていた。かつて私は、テレビで見た作品に後ろめたさを感じて、その後、現地に確かめに行ったことも、想い出したりした。

黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
 一句を読み下しつつ、この上ない「花蜜柑」の配合に魅かれた。「黙読」「聖書」「愛」という、ある意味、スケールの大きくて深い世界を、繊細で清やかな精神世界へと馴染ませてくれる、無垢な気配の「花蜜柑」である。様々に深まる「黙読」の姿が、清々しく表出された。
 「詩人たるもの、聖書一冊ぐらい読み込んでいることが常識」との塚本邦雄の講演での強い口調を想い出す。作者は、既に身についた聖書を、折々、愛読しているようだ。

侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
 ほんとうに歯がゆい思いが募る二句に全く共感です。「侵攻NO!」と叫びたい程の気持。「春野」という自然に愛しさをも感じない殺伐とした境地が耐えられない。人間として当たり前のことを取り戻して欲しいとの訴えが通じる語彙力が欲しい。恃みの牛蛙もはっきりしない。このもどかしさを、こうして「語彙力」を超えた、「俳句力」を発揮されていることで救われる気がする。

わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
 日傘をさして歩いているとき、ふっとクロード・モネの絵のなかの、モネ夫人が思い出されたのだろうか。夫人がさしている日傘を、「わたくしの日傘」と言いつつも、絵の中のモネ夫人になりきっているように想えて楽しい。絵から閃いたインスピレーションが、何の違和感もなく作品化されて伝わってくる。ずらす表現力がセンスよく発揮されている。そんな作者像が魅力的だ。

原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
 アナログの時計は、時間の前後などを少し考える余裕があったり情緒も動く。デジタルは音もなく時間の数字だけが表示される。その不気味さが、突然の原爆投下にどこかで通じるような気がする。すべて人間が生み出した所産だということに、危機感や怖さを感じさせられる。

水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
 「水さげて」「小昼」「夏つばめ」の響きあいが快い。母を亡くした寂しさなどは、既に克服して久しい様子がうかがえる。しかし母を恋う気持ちは齢をとっても変わらない。下げている水も軽く、いそいそと墓参を楽しんでいるようだ。

首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
 茂吉の歌集『赤光』は、十七歌集あるうちの、三十二歳の頃の第一歌集で、強烈な印象をもつ連作を巻頭にした構成で、八三四首収められている。茂吉自身は、「写生のままの表現だ」と主張はしているものの、読者には難解なところがある。それ故の魅力も捨てられない。
 掲出句の作者田中さんは何度も味読していて、諳じられる程らしい。集中、何かにつけ「赤」の色彩を帯びた何首かが出てくるが、「首灼けて」と『赤光』とを色彩で結びつけているのではないと思う。「首灼け」るほどの炎天下を、ひたすら目的地へ向かいつつ迫ってくる、心理的なものが、諳じさせているような気迫を感じる。「首灼けて」の斡旋が「茂吉『赤光』」に適っている。

友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
 不意の訃に接したその日の夜、故人を偲ぶ思いで、その人にかかわる著書を開いたとき、不意に紙魚が出てきて「しろがねに走」った。ひょっとしたら久しく会ってなかったのかもしれないし、著書も長く閉じたままだったようだ。それだけに鮮烈に現れた生命感と、作者にとっての故人の存在感がこころに沁みる。

なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
 平仮名書きの「なつやすみ」はまだ低学年のお子さんの夏休みであろう。「白紙に水平線一本」は、そのお子さんにとっての夏休みの「喩」かもしれない。でも、まず、白紙をひろげ、緊張と期待感の「水平線一本」をひく親子の様子も見えてくる。この一本をどう配分して過ごすか。「線一本」ではなく、「水平線一本」と見立てたところに、空や海を味方に夢や解放感がひろがる。

◆金子兜太 私の一句

炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太

 この句には「朝日賞を受く」の前書きがある。幸運にも、私はその受賞式(平成28年1月)に参加し、兜太一代の名スピーチを聴くことが出来た。感動のあまり一同思わず聴き入っていた。感動の背景にはトラック島戦場体験に裏打ちされた兜太の人間観があった。その記憶と重なり、この俳句は生きている。「これでよかったんだ」という感慨がある。句集『百年』(2019年)より。岡崎万寿

麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人 兜太

 丈高い麒麟の脚の細さに美しい恵みよと、兜太先生の健康的で純粋な純心を感じ感銘いたしました。夏の人の解釈は読む方の解釈でよいと思いますが、素敵な方を想像したり、麒麟のように理知的な群を抜く殿上人かもしれません。佐藤鬼房全国大会で、兜太先生の賞状を胸に兜太先生との写真が瀟洒な此の句とともに座右の銘として大切な宝になりました。句集『詩經國風』(昭和60年)より。蔦とく子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
柳絮飛ぶ打たれるための左頬 榎本祐子
韮の花まだまだ伸びる影法師 川田由美子
行間に仏法僧のいる真昼 久保智恵
聖五月落っこちていた靴底は 小松敦
鉛筆の書き味に似て春目覚め 佐孝石画
曖昧なきりとり線や風光る 清水恵子
ひろしま忌人形の眼のガラス玉 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
止息して海鼠のかたち梅雨来る 瀧春樹
黒き函並ぶ都心や春の暮 田中亜美
母の亡き最初の母の日の日差し 月野ぽぽな
ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
豆飯の豆の多すぎ老後なり 前田典子
傍線のような一日髪洗う 三浦静佳
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
たんぽぽや少女狙撃手絮吹いて 柳生正名

高木水志 選
瓦礫に立つ陽炎は死者たちの未来 石川青狼
他人事だった自由なからだ夏の潮 桂凜火
うりずんや基地と墓群を夜が吹く 河西志帆
緑陰や仕掛け絵本のように風 河原珠美
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
同類の匂いはなちて夏の潮 こしのゆみこ
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
苦瓜は憤怒のかたち太き雨 重松敬子
まなこ澄み君は梟だったのか 篠田悦子
白桃すするジェノサイドの幻聴 清水茉紀
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
毛たんぽぽ吹けば生国消えていく 十河宣洋
クロッカスから地球の呻き声 たけなか華那
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虹色の五月と言い孤独死のはなし ナカムラ薫
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
カワセミの青き閃光必ずもどる 松本勇二
音もなく常世へと散りえごの花 水野真由美
日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
春ゆうやけ原風景の犬ふりむく 望月士郎

竹田昭江 選
戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
虫喰いのような記憶や亀の鳴く 榎本祐子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
憲法記念日一輪車は難しい 佐藤博己
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虚弱体質烏柄杓をはびこらす 鳥山由貴子
君の心に走り書きして春落葉 中野佑海
宥すとは窓あけること花は葉に 中村晋
サザエさんち今日も揺れてる昭和の日 中村道子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
何の荷を下したのだろ柳絮飛ぶ 藤田敦子
満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司

若林卓宣 選
鼻眼鏡の妻と眼の合う春の昼 綾田節子
変体仮名の古書店閉づや藤の雨 石川和子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
桜苗植えて余生を青空に 金並れい子
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
花散れば散ったで酒がまたうまい 佐々木昇一
新樹光這い這いの子が立ち上がる 高橋明江
「麦畑」世を黄に染めしゴッホかな 永田和子
海に母苺に母ゐるランチかな 西美惠子
青芝を傷つけラジコンの戦車 根本菜穂子
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青麦の空が破れる音がする 藤田敦子
夏落葉ひっくり返してみる手紙 堀真知子
交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
桐の花母の呼ぶ声から逃げる 森鈴
さみしくて雨になりたいかたつむり 輿儀つとむ
夜桜や亡母の古羽織ちょいと借り 吉村伊紅美

◆三句鑑賞

ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
 実際に聞こえる音、手にとって見ることができるものと、そうではない幻との境はどこにあるのだろう。この作者にとってそれは極めてあいまいであり、幻のほうがリアルであったりするのかもしれない。ハンカチのような白いがく片がざわめく音が聞こえるということ、なくなった身体の一部が痛むということ。それらが言葉にされることで、言葉にしか表現し得ない世界が見えてくる。

六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
 人間の体の細胞分裂と遠花火の出会い。なぜか奇妙な実感がある。たしかにそれは、自分の体で起こっていることでありながら、まるで遠花火のように遠くで美しく弾けては消えていくものである。「の」以外は漢字で生物の教科書に出てくるような書きぶりも、味わい深い。

朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
 ポストに投げ込まれた手紙がカサリと立てる音が聞こえてくるようだ。それ以外は何の音も聞こえない夜である。手紙は黙っているが、さまざまな思いが何層にも重なって届けられるのを待っている。「重なり合う」という描写は当たり前のようでいて、その思いの厚みと重さを客観的に表現し得ている。朧夜のポストだからこその実景であり心象風景でもある。
(鑑賞・小西瞬夏)

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 胡瓜揉みは、胡瓜を薄くスライスして塩を振り、手で揉んで、出てきた水分を絞り、甘酢や三杯酢等で和えて食べる料理だ。僕も揉んでみた。胡瓜から、たくさんの水分が出てきて、だんだん柔らかくなって気持ちが良かった。胡瓜を揉む、優しい力。日々の暮らしの中に、平和への深い祈りが籠められていると思う。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 「初蝶の産土」に惹かれた。作者は秩父にお住まいだとのこと。この句の産土は、兜太先生と同じ山国秩父のことだろう。秩父谷にひらひらと蝶が舞い、川の水は春の光に照らされて眩しく見える。山国の厳しい冬が終わり、春の訪れを実感する作者のふるさとを想う気持ちが感じられる。

日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
 春の温かな光の中で、年老いた母がのんびりと椅子に座っている。そんな情景を思い浮かべた。更に「ぽつんと椅子がある」の「ぽつんと」について考えていると、今は椅子に座れなくなった母を詠んでいるのではないかと思えてきた。作者の、母との時間を大切にする思いや、母に対する敬愛の念が伝わってきて、胸がいっぱいになる。
(鑑賞・高木水志)

戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
 テレビをつければウクライナの悲惨で非人道的な映像が流れる。地球で起こっている戦争である。観ているという表現で、心の痛みを無力感を表している。「昭和の日」の制定された意味や由来はいろいろあるが、昭和は太平洋戦争という大きな犠牲を出した時代でありその傷痕は今も残っている。

青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
 飯島晴子の「恋ともちがふ紅葉の岸をともにして」の「恋ともちがふ」は正真正銘恋の句と思う。掲句は「青鬼灯」のあの未熟感と、文という情緒を以て紛れもなく初々しい表情の恋の句である。夏から秋にかけての季節の移ろい、心の移ろいの微妙な心情が詠まれている。

満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
 なんじゃもんじゃの木を初めて見た時の印象は正に「なんじゃ」という感じで、後に「ヒトツバタゴ」と知る。満場一致のあやうさを声高でなくさっと掬い上げて納得させるには、威圧感の不思議なこの木しかないとすんなり思わせる。そして、柔らかな表現に高揚感と終末を漂わせる力量が満ちている。
(鑑賞・竹田昭江)

兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
 素足でいるのは、寛いでいるからだろう。しかも兄弟だけでなく従兄弟もまざっている。近いところの人であっても、話し上手がいたり、聞き上手がいたり。お盆で帰省して久し振りに会ったのだろう。飲みながらの話は楽しい。畳の上ならなおさら寛げるだろうし。「素足」が色々と句を広げてくれているのはうれしいことだ。

交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
 警察署、消防署、自衛隊というところは、元来、暇であれば暇であるほどいいと思っている。有事の際には必要となるので、訓練だけは一生懸命やってもらって欲しいが、あとはゆっくりと休んで欲しいと思っている。見ている人は少ないけれど、月見草はけなげに咲いている。「交番に人気のなしや」は、通常の仕事の範疇。

桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
 お父さまをでしょうかお母さまをでしょうか病人をお世話されていることは大変なこと。あるいは看護とか介護とかお仕事をされているのかも知れない。さりげない物言いがいい。冬が厳しければ厳しい程、春の訪れの喜びは大きい。「桜咲きましたよ」と聞くだけで、明るい気持ちになる。「ベッドの向き変える」が、秀逸です。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

わかった私が悪かった大夕立 有栖川蘭子
ビルの谷ペルソナ吐いて炎暑かな 有馬育代
蝮谷白い帽子が落ちている 淡路放生
しろがねの南風に青鈍の鳩たちよ 飯塚真弓
雀隠れもう先生の一周忌 石口光子
卯の花腐し落ちるところまで落ちる 大渕久幸
夢ひと夜邪馬台国へ螢狩 岡田ミツヒロ
手の影をスプンで運ぶ半夏雨 川森基次
町の名は白南風基地の街佐世保 古賀侑子
老人は歯磨きをしてサクランボ 後藤雅文
青水無月メメント・モリと呟けり 小林育子
マンゴーを切って太陽取り出した 小林ろば
蕃茄トマトにはハーブ妬けさす青さあり 齊藤邦彦
星涼し烏の骸晒しある 佐竹佐介
口先の民主主義夏の火縄銃 島﨑道子
シクラメン舌やはらかに嘘を言ひ 宙のふう
青野を食む獣と草を分けあふて 立川真理
天体は遠い過去形流れ星 立川瑠璃
舌打ちは生きてるあかし青大将 千葉芳醇
暑き日やヴァットの上の母の乳房ちち 藤玲人
権現の楠からどさと大暑かな 深澤格子
死にたいと思わなくなる噴井かな 福岡日向子
冷房は無い必要だったのは空だ 松﨑あきら
お咎めの墓に吹かれて蛇の衣 村上紀子
青年の傾斜凩は緩まず 村上舞香
土手あざみ莊子譜を編み去りにけり 吉田貢(吉は土に口)
白南風やそのまま行けそうな昼寝 吉村豊
白鳥の背のやはらかき誘ひかな 路志田美子
安眠と危篤の狭間木下闇 渡邉照香
髪洗う背なに原罪やどるかな 渡辺のり子

『海原』No.42(2022/10/1発行)

◆No.42 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母の日をモナリザのよう手を組んで 綾田節子
戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
山桜桃記憶の外の負の記憶 奥山和子
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
麦秋や噛めば噛むほどごはん粒 北上正枝
やわらぎは保健室のよう金魚玉 楠井収
今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
極太の赤ペン添削梅雨夕焼け 黒済泰子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
どしゃぶりの電柱まるごと師の言葉 佐孝石画
徘徊は自由心太自由 鱸久子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
津波跡の明日葉明日に壁なくて 竹本仰
聖農の墓蕺菜の香のきつく 竪阿彌放心
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
ぞわわぞわわと大百足虫疑念も少し 藤野武
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
人混みに独りを創る日傘かな 武藤幹
青葉渦から戦闘ドローンがまた一機 村上友子
噴水にどしゃぶりのきて笑い合う 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

大西健司●抄出

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
海峡を渡る蝶なり無国籍 石川青狼
百合の香や弦音高く矢を放つ 泉尚子
そうしてさ無人駅の虹の手話 伊藤清雄
切岸に孤高の野山羊聖五月 榎本愛子
ひとやとも茅花あかりの仮住まい 榎本祐子
尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
東京を蝕む夜の巣箱かな 小野裕三
カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
天道虫飼つて時々寂しがる 小西瞬夏
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
君というこころの余韻夕立くる 近藤亜沙美
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
海をゆく蹄の音の霞みおり 白石司子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
産土の神の水辺に茗荷の子 関田誓炎
踏青やママはタトゥーが嫌いです 芹沢愛子
強情や鹿一頭が野に残る 十河宣洋
とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
静けさや手長蝦釣る雨の池 髙井元一
石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
本ひらく若葉へ船を出すように 遠山郁好
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
短夜や8ビートな喧嘩して 中野佑海
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
Tシャツをはみ出て誰の腕ですか 堀真知子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
 蛍狩りに来て、蛍を捉えようと悪戦苦闘している内に、気が付くと足下に蛍のむくろが落ちていた。自分が叩き落としたものかどうかは定かでないが、おそらくこの蛍狩りの最中に、人間どもの手によって犠牲になったのだろう。いわば人間のエゴイズムの犠牲となった蛍に違いない。にわかに気づくと、妙に粛然たる気持ちになって、やや高い土の上に蛍のむくろを置き、蛍狩り戦記の犠牲者として弔いたい気分になったのではないか。束の間の蛍の命への心の通い合いを詠んでいる。

沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
 沖縄海域におけるジュゴンの生息環境は、きわめて厳しい状況にあるという。戦争や戦後の基地建設、埋め立てによる再開発等によって、ジュゴンの生息環境はますます窮迫し、絶滅の危機に瀕しているらしい。沖縄忌は、昭和二十年六月二十三日、日本軍が摩文仁岬において壊滅した日に当たる。この戦いで多くの民間人が犠牲になったが、戦後約八十年の歴史の中で、ジュゴンもまたあの時の沖縄の人々同様絶滅の危機に直面していることを、戦争の悲劇とともに告発しているのではないか。

老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
 人間も生き物である以上、生まれ、育ち、盛りの時期を過ぎて、いのちの消滅を迎えるのは、自然の成り行きと言わざるを得ない。不老不死は望むべくもないが、老後の時間が長期化していることも事実である。老いの行程は、必ずしも楽なものではなく、むしろどう耐えていくかの重荷を背負うもの。しかも老いは、紙魚のように忍び寄り、刺客のように不意を襲うのだ。そうなると正面から戦えるものではなく、いかにうまく付き合っていくかの問題となる。この比喩が個性的だ。ここでは、その入り口に立った人の、途方に暮れた立ち姿と見たい。

今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
 この句の本意は、残された時間は多くなくやるとすれば今しかないのに、うたたねをしていたずらに時を空費している己への自省の念を詠んでいるように思える。やや筆者自身の身に引き付けた読みかも知れないが、これも一つの境涯感の風景と読めなくはない。すでに田水は張って、田植えに取り掛かる用意が出来ているというのに、一向に腰が上がらないのも、老い故だろうか。その刻々の時間意識自体、一つの生命現象には違いない。

徘徊は自由心太自由 鱸久子
 すでに九十代半ばに達している作者の、自由闊達な生きざまを書いた一句。「徘徊は自由」とは、兜太先生の「俳諧自由」をもじったもの。年を取ると眠りが浅くなり、夜中に目覚めて徘徊することもある。作者は、それなら起きて自由に徘徊してやろうという。兜太先生もそうしていたらしい。「心太自由」は、ちょっと難しいが、イメージからすると排便のことか。兜太先生は晩年、土スカトロジーに親しい糞尿譚をやたら句にしていた。さすがに作者は、そこは慎ましく「心太」とぼかしたが、なんとも奥ゆかしい(?)自由さではないか。

黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
 五月の黄金週間、コロナ禍の最中ながら、二年越しのコロナ疲れに、ウクライナ疲れも重なって来たので、久しぶりの連休は家族連れの短い旅行に繰り出したのではないか。さりとて、感染対策に気を抜くわけにもいかず、全員黒マスクで物々しくバスに乗り込む。そんな一家のささやかな癒しのひと時を、かけがえのないものとして愛おしんでいる。黄金と黒の対照に緊張感を宿しながら。

母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
 この場合の「顔」は、母の日の主役の母の顔ではないだろうか。日頃一家のために献身している母は、自分がお祝いの当事者であることなど、ころりと忘れているから、子供たちは示し合わせてひそかに母の喜びそうなものを用意し、当日、何食わぬ顔で集まって、食事時に出し抜けに母にプレゼントする。「忘れものした時の顔」とは、その時の母の、あっと驚く表情ではないか。

鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴

 この三句では、日常のさりげない暮らしの断片から、なにやらショートエッセイ風の物語的世界が広がる。
 「鳥ぐもり」の句。震災による瓦礫の下に、ぬいぐるみの人形が落ちていて、被災の爪痕を生々しく残している。被災地の復興未だしの中、鳥ぐもりの空は一向に晴れそうにない。
 「蘭鋳」の句。小さな金魚鉢に一匹の蘭鋳がいて、いつも独り口を動かしている。どうやらその淋しい言葉は食べ尽くしたようと見立てた。自画像の投影だろうか。
 「水仙花」の句。夜の水槽で、水仙が花を開き、根茎は節々から不定根を水中に広げている。その姿は、寒さの中、花の矜持を保つかのように、密かにスクワットを試みているかのようにも見える。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
 「尽くし過ぎですか」と言われても困るんですがってこたえたくなる。桜子さんの同人としてのスタートを飾る一句は私の思う彼女らしい句だ。薔薇は薔薇、私は私そんなところだろう。私らしく生きる、これからのありようを語っているように思える。やはり薔薇を持ってくるあたり素晴らしい。華やかに活躍してほしい。

カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
 やはり新同人の清峰さんの味のある句に注目。
 なんと言ってもカメノテが秀逸。地方都市に住む者の強み、こんな題材なかなか無いだろう。カメノテ穿るなんて書けない。何ともいえないリアリティが愛おしい。
 縁側だろうか、屋外だろうか。一杯やりながらほじほじやっているのだろう。梅雨の晴れ間のひととき、少しべたつく潮風を感じながらの至福の時間。そういえば海辺の小さいスナックで、突出しに出された磯物に困惑した記憶が甦ってくる。それは小さな巻き貝。カメノテよりも小さいやつをちまちまと穿ったことを思い出す。
 素敵な一句に乾杯。

ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
 何とも楽しい句だ。最初読んだときわざわざ上野なんて書かなくてもと思ったが、やはり余計なことは書かず楽しいリズムで「上野のシャンシャンみたいにさ」と書ききった良さだろう。「みたいにさ」が実に愛らしい。
 上五のハンモックへと戻っていくのだろうが、いそいそとハンモックを吊しながら呪文のように呟くのだろう。
 何ともいいなあ、シャンシャンみたいにおもいっきりごろごろするんだろうな。羨ましいことです。

馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
 こちらもおなじく「黄昏れやうかしら」が何とも良い。
 軽やかに響いてくるのが実に愛らしい。実際のところ広辞苑などには物思いにふけるというふうには出ていないが、いつしか一般的にはこのように使われているのでそのように読みたい。たぶん一人で馬糞海胆を堪能しながら、ちょっと黄昏れてみようかしらなんて呟いて飲んでいるんだろうな。節子さんの「みたいにさ」と同じく「やうかしら」が実に素敵。でも馬糞海胆とこう書かれると優雅さよりユーモアと感じてしまうのは何故。

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
 なにこの不気味な導入部。木下闇にポツンと人形が置かれていたら怖いだろうな。そのうえ目が無いとなると勘弁して欲しい。そしてその目を探しているのだ。何だこれは、ここから何が始まるのだろうか。しかしやはりこれは作者の内面に潜む何かなのだろう。不思議な世界観に心引かれる。

とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
 一転こちらは明るい世界が広がる。広がるがやはりこちらも不思議な世界。何なのこの梅雨鯰って、しかも二階のベッドにとなると例によって妄想癖が動き出す。
 私の詮索だとある日の旦那さんの姿態。どたっと寝転がっているのだろう。口髭でもあるのかな。ベッドと一体になっているのだろうなどなど何とも失礼しました。
 読み手を楽しくさせてくれる仕掛けに溢れた句。

橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
 昼のポーって何なのから始まって、いつしかとりこになっている。エドガー・アラン・ポーとかいろいろと考えていると、ふっと浮かんできたのが少女漫画のポーの一族。内容はよく知らないが壮大な物語が動き出す。
 でも何なんだろうこの不思議なポーは。ポーがこの句のすべて。秀逸。

用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
 一昔前だと家猫も気儘に外を歩いていた。そこには縄張りがあり、ボス猫の存在があった。この句の用心棒みたいな猫の存在ももちろんあった。凄みのある風体に幾多の戦いを経てのあまたの傷痕。猫好きにはたまらない一句。そんな猫が青葉の中に眼光鋭く蹲っているのだ。
 青嵐がよく似合う。

石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
 地震で怖いのは火事に津波。あとかたもなく想い出を奪い去ってしまう。あとに残るのは残骸のみ。作者は、日々の暮らしの痕跡である石塊や木っ端も遺品という。
 建物の破片かも知れない木っ端や、庭先にあったのかも知れない石塊に思いを寄せている。遠くにあって映像で見るのみだが、その残酷さを痛切に思う。この夏も酷暑に豪雨、各地で頻繁におこる地震。常に災害は身近なところにあり、他人事ではないだけにこの句が身に染みる。

 ところで、いろいろと訳のわからないことを好き勝手に書かせていただきましたが最終回です。ありがとうございました。

◆金子兜太 私の一句

霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ 兜太

 戦後の組合活動の関係で、先生が何度か広島を訪れた時の句である。広島駅前に、数人の女性が佇んでおり、その中に顔半分がケロイド状で、それを隠すようにするきれいな女性がいた。先生はその姿を忘れられなかった。汽車が走り出す後まで「きゃー」という声が上がるという幻覚。先生はその女性の夢を何度も見たという。かつて夫と降り立った広島駅での出来事と思うと、同じ女性としてひしひしと悲しみが迫ってくる。句集『少年』(昭和30年)より。〈著書『あの夏、兵士だった私』(平成28年)の中に自句自解あり)石川和子

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 この句が難解と思う人も多いようだが、兜太先生の句で好きな句ベストスリーの一つだ。俳句をする前から、ダリなどシュールレアリスム的作風の絵が好きだったが、この句はそのような絵になる句だと思った。この句を絵にしたら、タイトルは「早春」だ。早春になった喜びの気分を表現する俳句として、この句は私には大変新鮮な句である。句集『遊牧集』(昭和56
年)より。峠谷清広

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
春水の言葉に両手差し入れる 榎本祐子
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
しっかり呼吸巣箱に粗漉しのひかり 川田由美子
未草こころは足からは遠い 河西志帆
晩春のこだまを入れる鞄かな こしのゆみこ
蓋閉まらないほど入れて春の夢 小松敦
花見上げ奥へ奥へと僕等つながれ 佐孝石画
清明や戦地の夢は冷たい顔 豊原清明
揺れること立つこと鳥の巣を抱く樹 中村晋
どこかで又ちひさな渦巻きたねをの忌 野﨑憲子
四郎四郎と呼ばう島あり睦月かな 野田信章
天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
チューリップ画をかくように戦をして 平田薫
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
戦火また四月の橋に足をかけ 水野真由美
ブランコ最下点またふるい魚群くる 三世川浩司
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
鳥雲に君は前しか見ていない 室田洋子
消印は 三月十一日海市 望月士郎
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

高木水志 選
人類の未来世紀へ届けよ薔薇 石川青狼
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
春雨は古典よ魚になる途中 大沢輝一
蝙蝠のスープ静謐な春のこと 大西健司
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
やや無口とか人間の種袋 小松敦
雨の輪のかさなりあひて死生観 三枝みずほ
まっさらな今日を燃やして夜の桜 佐孝石画
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
喪失という繰りかえし春の雪 芹沢愛子
みづいろは大地テラの頬笑みしやぼん玉 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
内なる死干潟に満ちて遊女塚 並木邑人
崩壊の土来年も咲くよ菫 野口思づゑ
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
桜もう風の軽さに漂いぬ 茂里美絵
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

竹田昭江 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
清明の縞馬フォンタナの切れ目 石川まゆみ
げんげげんげどこを曲がりてわれに今 伊藤道郎
畳まれて国旗の色の紙風船 小野裕三
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雲雀落つ父と永眠との間 木下ようこ
いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
土筆野に朝日清浄なりしかな 関田誓炎
めつぶるは睡魔のなごり白山吹 田口満代子
友情は黄泉につづけり花きぶし 田中亜美
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
山道の菫見るまでのリハビリ 谷川瞳
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
苧環の咲いて出雲の雲遊び 遠山郁好
たんぽぽの絮毛吹こうと誘われる 中村道子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
ひとり花見つぶやくことも我が浮力 村上友子
地球儀は地球にいくつシャボン玉 望月士郎
山椒の実遠回りには訳があり らふ亜沙弥

若林卓宣 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
うしろの正面にいます春の蝶 市原正直
蕗の煮物のとりとめのない日常 宇田蓋男
ヒヤシンスきょうはさみしい音を買う 大髙洋子
もうよせよあの八月がやって来る 奥村久美子
豆ごはん並べてやさしき時間かな 柏原喜久恵
順繰りの人生と母日向ぼこ 金澤洋子
お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
目刺焼く格好付けるなと言ったでしょ 楠井収
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
初夏の少女ブランコをゆらしている 笹岡素子
夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
戦争を観ているビール注いでいる 瀧春樹
ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
騙されるふりの優しき万愚節 長尾向季
食べることねること桜さくらかな 平田薫
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
落ちて割れた氷柱を蹴って難民か マブソン青眼
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
親に物言わぬ子となる木の芽時 梁瀬道子

◆三句鑑賞

天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
 天皇を句に詠むときに感じるちょっとした抵抗感。天皇という存在を畏れ多いものとしてしまう無意識の何かと、それと同時にその何かを否定しようとする意識。「きれいに」でまずは天皇誕生日を言祝ぎながらも「鯛の骨」という、ひっかかりや違和感を持ち出し、もしかしたら最上級の風刺なのではないか、と思わせる。

消印は 三月十一日海市 望月士郎
 胸が苦しくなるような悲しみを、美しく表現された。一時空けを含めての句の姿がビジュアルとして、句の意味を超えたものを醸し出している。「消印は」と始まり空間がある。ここにあの津波からのあらゆる出来事が省略されていながらも、たしかに見えてくる。「は」という助詞を使いながらそのあとは散文としては続かない。韻文の律を持ちつつ、ぼんやりとした映像を見せる。「海市」という季語が十分に働いているからだろう。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 「木のやうな人」とあり、なんとなくそれっぽい人を想像する。「と」のあとにくるのは何だろうという期待を裏切られるよろこびとして「木の人」がやってきた。「木の人」とは?にイメージを遊ばせる朝のアンニュイな時間がたっぷりとやってくる。
(鑑賞・小西瞬夏)

変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
 ルールは本来、人々が安全で平和に暮らしていくためにあるもので、小学生の時、みんなで試行錯誤しながら遊びのルールを変えていったことを思い出す。作者が思っている「変えていいルール」はわからないが、僕は、まだ寒さが残る時期に、ここから春ですよと白線を引き、宣言する作者の未来に向けた気持ちや清々しさを感じた。

不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
 家族の様子を「不燃性家族」、一人「たんぽぽ化」と表現したところが面白い。たんぽぽと言えば、僕は先ずその絮を思い浮かべる。閉塞感が漂っている家族の中で、一人明るく逞しく育ち、希望を抱いて飛び立とうとする姿が「たんぽぽ化」なのではないか。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 不思議で魅力的な句。人の暮らしは、昔から木と共にあった。僕にとって、木とは、大地に根をはり、太陽に向かって枝・葉を広げ、風雪に耐えながら、たくさんの生き物を育んで生きているものだ。「木のやうな人」は、そうした木のように歳月を重ねた人だと思う。「木の人」は、木の精霊のことだろうか。日常生活の中で、こんな朝寝ができるなんて素敵だ。
(鑑賞・高木水志)

いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
 「つ」の連鎖の韻律が奏でる心地良さ、表記の端正さ、うつくしくの趣がすっと見えてきた。「いつかつかう」の言の葉が胸に響いて、きめ細かく生きるおりふしのやさしさに触れる感触、それは春の家。箱に千代紙を貼って大切にしたのはいつのことだったのか、今も何入れるでもない箱を大事にしている。

全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
 三月十日の東京大空襲で被災した私は、毎日報道されているウクライナの惨状が痛くて震える。国花のひまわりを「全面的に」こそ世界平和を希求する大きな声であり「咲かそう」と停戦への積極的な行為を示している。麦が青々と風にたなびき、ひまわりが太陽の下で大きく咲く日が一日も早くと願うばかりである。

追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
 まったくと言いながら待っている気持ちは可笑しくも分かる。きっと日本猫で黒猫に違いないと確信すらして。我が家にも猫が居て実に気儘であるが、その気儘が気に入っている。「追い返すつもり」と待っていると、ふと寂寥を感じるのは日永のせいか。犬より猫の句が圧倒的に多いのは、気配の生きものだから、と思う。
(鑑賞・竹田昭江)

お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
 歩き遍路をしていると、お接待を受けることがよくあり、いただいた気持ちとして納札をお渡しする。「よくお参りくださいました」と言われると、頭が深くさがる。「遍路は歩いてこそ」と言う寂聴さんのポスターを見かけると、そうとも思うが、都合もある。「お達者で」と言われると、益々元気になれるような気がする。

夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
 公園なんかでよく見かける風景。子であろうか、孫であろうか、まさかの本人であろうか。鉄棒の出来ない年齢になってから知ったのだが、鉄棒に腹をくっつけたまま太紐で縛れば逆上りは出来る。やがて夕虹のなか、その少女は(勝手に決めつけているが)何の助けも、誰の助けもなく、逆上りが出来ていると思う。

ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
 春には桜、夏にはひまわり、秋には紅葉を撮っている写真の好きな人が私の近くにいる。中でも桜には贔屓の木があり、毎年撮っている桜の写真を見せてくれる。「満開の桜を浴びる」のだから桜を好き過ぎてどころではない。環境なのか、日本人の血なのか。「墓石に映りながら散る」桜も気になってしょうがないようだ。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

食卓に色違いの箸茗荷筍 有栖川蘭子
青梅や母のゐぬ間に紅して 有馬育代
石屋から出て来る白い羽抜鶏 淡路放生
企画書と寝ぬべき頃かな明易し 飯塚真弓
蟻ころす部室のかたすみ資本論 遠藤路子
殺めたる豚の血の色端居して 大渕久幸
れんぎょうの花よおとなの反抗期よ かさいともこ
夏蜜柑力を入れて産みました 後藤雅文
こんなにもたんぽぽ咲いていて痛い 小林ろば
夕焼けや余生青でもよかろうか 近藤真由美
丸裸謀反役なるチャップリン 齊藤邦彦
蜘蛛の囲にぶらさがってみるゆれてみる 宙のふう
ミロ愛す花と女とかたつむり 髙橋京子
父の日やひと日娘になりにけり 立川真理
人は生く泰山木の花咲かせ 立川瑠璃
蕨狩り上飛ぶブルーインパルス 土谷敏雄
古火鉢に目高飼い初む七十なり 原美智子
鯨幕の外で踊るよ顔なき人 樋口純郎
跨線橋のつしのつしと積乱雲 深澤格子
さみどりやかの道裸眼でゆくことに 福井明子
揚羽蝶前頭葉にフラグが立つ 福岡日向子
レコードを脇に抱へる夕立かな 福田博之
新緑や夫を病いを悪自慢 藤川宏樹
限界団地内公園文字摺草ほっ 松﨑あきら
海難を悼む島の灯走り梅雨 村上紀子
低速で檸檬つぶしていく指よ 村上舞香
虹立つも國家を主語とするなかれ 吉田貢(吉は土に口)
みちのくにそろりそろりと祭りあり 吉田もろび
剃髪の母大海のごと笑ひをり 渡邉照香
白薔薇や獅子座のおとこ所望する 渡辺のり子

『海原』No.41(2022/9/1発行)

◆No.41 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

今生の別れはライン 薄翅蜉蝣 石橋いろり
遠く住む姉 障子明りが救いです 泉尚子
麦秋や爪弾く禁じられた遊び 大髙洋子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
肖像画遺す人生麦青む 小野裕三
籐椅子の窪みかすかや姉の逝く 片町節子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
陽だまりは祈りの白さみどりの日 小松敦
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
王冠忘れた女王様です白木蓮 鱸久子
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
羊歯若葉少年いつも老い易く ダークシー美紀
腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
花は葉に数える影のくいちがう 竹田昭江
無辜の眼の底に昏れゆく麦の秋 田中信克
新茶汲むこの一椀の天地かな 寺町志津子
行く春の愁緒一懐しゅうしょいっかい抱きて寝る 董振華
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
暗がりの樹々かをりたつ藍浴衣 前田典子
嘆きのように祈りのように熊谷草 松本千花
今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
朧なる人道回廊けものみち 深山未遊
何も無い日々に丸して花水木 室田洋子
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司
父の背がここ籐椅子のふくらみに 森武晴美

大西健司●抄出

少年の髯剃る最中遠郭公 石川和子
パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
草城にダニの句多し夏の雨 大西恵美子
卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
怒りにも賞味期限や春の虹 加藤昭子
病む父へ猫は寄り添い余花の雨 鎌田喜代子
縄文式土器に水の香大田植 刈田光児
離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
薬草のような女になる五月 佐藤詠子
火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江
空蝉やへその緒三つ手の中に 志田すずめ
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
閉ざされし母校の艇庫冴え返る 新宅美佐子
さびしさに正面ありぬ金魚玉 竹田昭江
生意気なナースの二の腕風薫る 長尾向季
兜太の忌古き鞄を陽に晒す 日高玲
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
桜蘂降るカーナビは遠回りが好き 深山未遊
マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
幣辛夷田の神様は大股で 横地かをる
円墳に歌舞く役者か黒揚羽 吉村伊紅美
孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣

◆海原秀句鑑賞 安西篤

卯の花腐し爪の小さな家系かな 奥山和子
 作者の実家は三重県南部の山深い地に住む旧家。「爪の小さな家系」とは、ささやかな矜持を謙遜の意を込めて書いたものだろう。「卯の花腐し」は、陰暦四月卯の花月に降る雨で、春雨と梅雨の中間の霖雨。せっかくの卯の花が腐るのではないかという先人の思いからきたものという。おそらくこの季語の湿り気を帯びた滅びの美しさと、その地に耐え忍んで生きる旧家の宿命を、さらりと書いているのではないか。義父甲子男に通ずる反骨をも感じさせる一句。

卯波立つ靴を脱がずに入ってゆく 河西志帆
 作者は、今年、定住の地であった長野県から沖縄へ転居した。その一報を電話で受けたとき一瞬驚いたが、彼女なら迷いなくやりぬくだろうとすぐに思った。この句はその第一報だろうが、まったく物怖じしない気合が入っている。沖縄の海に向かい両手を広げ、ずかずかと靴のまま海に入っていき、どうぞよろしくと叫んでいる姿が目に見えるようだ。海もまた「いいぞ助っ人」と答えているに違いない。

桜蘂降る戦禍見ぬふり聞かぬふり 黍野恵
 「桜蘂降る」は、花が散った後の、静かな晩春の風情で、地面をうっすらと赤紫に染めるように散り敷く。掲句は、今の時期ウクライナ戦争を意識しているのだろうから、その惨状を正視に耐えがたい思いで見聞きしているはずだ。「戦禍見ぬふり聞かぬふり」は、それにもかかわらず、見、聞かざるを得ない気持ちを詠んでいるとみたい。その辛さやりきれなさを、逆説的な表現で捉えた一句といっていい。桜蘂は戦禍の血痕のようにも見える。

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 やはり日常の暮らしの中で、戦争の現実をひしひしと感じつつある一句だ。この世界に戦争しない力を、その念力を私にも、という願いを込めて、胡瓜を揉んでいる。もちろんそれだけで、直接戦争抑止力につながるわけではないが、その願いの集積が、大きな波動となって歴史を動かしていくことはあり得よう。ささやかな日常に平和への願いと祈りを込めた一句。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 兜太先生の身辺にあって、同じ風土と空気の中で生きてきた人ならではの、身体的韻律を感じさせるものがある。一句全体が兜太節といっていいのではないか。初蝶は、春の訪れを告げるかのように舞い出て、山河の水はその光に照り映える。あらためてわが産土の地を寿ぐかのように。兜太先生の晩年は、この句のような原郷回帰の思いが濃かったのではないだろうか。

腹這いの自由繋いで土筆かな 高木水志
 作者は今年二十七歳、大阪在住の青年だが重度の障碍者で、脳機能はなんとか保全されてはいるものの、肢体の動きはままならず、辛うじて言葉を発することは出来ても、健常者のように会話を自由に操ることは出来ないという。外部とのコミュニケーションや俳句の創作は、もっぱらお母さんが本人の言葉をパソコンに打ち込んで発信する。お父さんは脳科学者でもあり、本人の健康管理は両親の専門的対応によって万全を期しておられる。重いハンディキャップを両親の献身的介護のもとで乗り越え、俳句は大叔母の本誌同人高木一惠さんが受信して適切なアドバイスもしながら、編集部に取り次いでいる。いわば一家一族あげての手厚い支援体制の下で俳句活動が成り立っているわけだ。このような背景を踏まえて掲句を読み直せば、「腹這いの自由繋いで」に作者の懸命な野遊びの映像と、土筆のささやかながら精一杯生きようとする景が重なって、いのちのシンクロニシティの空間を現出しているような感動を覚える。

爆風へ向く風見鶏ひまわりの国 北條貢司
 ウクライナの現実を想望した句の中では、戦争の初期の衝撃を映像化したものではないか。爆風で風見鶏がくるくる回っている景。ひまわりの国というウクライナを擬した表現にも、風見鶏の回転に連脈する語感の軽快なリズム感があって、戦争の衝撃に耐える弾力性を思わせるものがある。だがその「ひまわりの国」も、今は略奪と暴行で泥まみれに打ちひしがれている。その現実を我々は想望するだけだが、それでも戦争の悲劇を我々の日常の断片の中に見出して、ささやかな体感を表現していくことは出来よう。

今日のアレコレかっさらって若葉風 三世川浩司
 働いている人々の今日のアレコレ。誰にも言えず、ひたすら時間とともに塵芥のように堆積してゆく。その多くは対人関係のものだけに、おのれ自身で背負うしかない。そんなアレコレをかっさらっていけるのは、今頬をなでていく若葉風ぐらいのものだろう。いわば束の間のカタルシスだが、それでもそのひと時あればこそ、明日への生きる力をよみがえらせることが出来る。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

離婚後も同居してゐる青葉木菟 木下ようこ
 今月号は「風の衆」の俳句がおもしろい。中でも木下ようこさんの句にはショートショートのようなおもしろさがつまっており妄想癖を刺激する。
 「こなごなの過去」「記憶の下の下の詳細」などとどこか意味深。そして最後に「離婚後も同居」という現実が述べられ、突然の青葉木菟の出現にびっくり。
 元亭主があたかも青葉木菟であると取りたい。
 冷え冷えとした家の中の片隅に存在している元亭主のどこか達観した姿とはうがち過ぎだろうか。でも青葉木菟でよかった、たとえばごきぶりじゃいやだもの。
 かと思えば「灰吹屋薬局」が出てくる。何とも灰吹屋が気にかかる。調べればごく普通のドラッグストアとか。
 ただやはり江戸から続く老舗のようだ。ツバメに好かれる江戸店からいろいろと妄想が膨らむ。諧謔味に溢れた五句が秀逸。

薬草のような女になる五月 佐藤詠子
 何とも悩ましい薬草のような女。さてどんな女性なのだろうとまたまた妄想が膨らむ。なかなか渋い味わい深い人だろうか。ノバラ、イチヤクソウ、それともドクダミのミステリアスな白。五月になるとそんな女になるという。みちのくの五月は全てが躍動的になる美しい季節。
 そんな季節にどう生まれ変わるのだろうか興味はつきない。

火薬庫の裏口に後家青葉騒 佐藤二千六
 後家とは何とも意味深。いまも普通に使える言葉なのだろうか。日常の中に存在する火薬庫の不気味さ、そして何気に佇む女性の存在が何ともいえず秀逸。ここから何か物語が始まるのだろう。

はひふへと藤の花びら散り濡るを 佐々木香代子
 言葉遊びの楽しさを堪能。
 他にも紫木蓮をティラノサウルスの舌と捉えた感性。
 青葉径を横切る狐の尾の愛らしさ。のびのびと書かれていてすべてがたのしい。

パンタグラフひゆーいと伸びて夏兆す 石川まゆみ
 ひゆーいと伸びるパンタグラフは路面電車のもの。
 やはり普通の電車のパンタグラフはこんなにのどかではない。とりどりの路面電車のなかでもとりわけ古い車輌のものだろう。広島の街を縦横に走る路面電車の愛らしさが「ひゆーい」から伝わってくる。そんな広島にまたあの時と同じ暑い夏が来るのだ。

五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
 水墨画の味わいだろう。五月雨に煙る野にぽつんと一頭の山羊がいる。その山羊の姿が全景なのだ。何もかも雨にかき消されている。一頭の山羊に焦点をあてて秀逸。

はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
夏帽子病院帰りに二つ買い 佐藤美紀江

 二句とも何でも無いさりげない句だが、このさりげなさが好ましい。黒岡には「春泥に」という重いテーマの句もあるが最終的にこの句をいただいた。
 佐藤句はただ帽子を二つ買ったというだけ。しかしそれが病院帰りだということで、ストーリーがそこから動き出す。能動的な夏の始まりがうれしい。

星涼し尾根を狩猟の民行けば 松本勇二
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士

 やはり光の衆の句は除けては通れない。なるべく無視しようなどと余計なことを考えるのだが、やはり実力作家の句はあなどれない。さて松本句だが最近とみに身辺詠に冴えをみせるのだが、この句のような壮大なロマン溢れる絵画的な句もいい。むしろこのような句が松本勇二の世界だろうと思う。どこか神話を思わせる。
 そして宮崎句だが、君という存在の重さをまず思う。
 そしてそこには君の死を受け入れられない現実が横たわる。そのやるせない思いの重さ深さにひたすら摘草を続けるのだ。それは胸の奥深くひっそりと永劫続くのだろう。あまりに切ない。

マトリョーシカ春は終わったとひとこと 村上友子
 マトリョーシカはロシアの代表的な木製人形。その愛らしい人形が呟く。「春は終わった」と。やはりこのぶっきらぼうな言い方のその中に、今度の戦争の虚しさが隠れている。すべては終わってしまった。もう元には戻れない、そんな切なさに溢れている。

孑孑を水ごと舗装路へ捨てる 若林卓宣
 孑孑の湧いた水を盛大に舗装路へぶちまけているのだ。
 その行為のおもしろさ。孑孑を水ごと捨てるという、その捉え方の手柄だろう。一見ぶっきらぼうな言い方に諧謔味があり、この行為を正当化する人の姿の様子まで見えてくる。

◆金子兜太 私の一句

葱坊主わらべの持ちし土光り 兜太

 私の故郷は愛知県の奥三河の山村で、山が迫り空は帯の様に細長い。平地は少なく段々の田畑が細々とあり農業と林業の暮らしである。山と土に育った私には、兜太先生の土に親しみ土に生きるという考え方と、その諸句に強い共鳴と印象を感じ今日まで学んでいる。この句の土が光るというのは、正に土を大事にし、土が全てであると表現されている。秩父の腹出し童と土、先生の俳句の原点と強く惹かれる。句集『少年』(昭和30年)より。伊藤雅彦

海流ついに見えねど海流と暮らす 兜太

 入会して間もなく秩父俳句道場で拙句を特選に採って下さり、〈谷底にめしつぶ怒号して百軒〉の色紙をいただきました。色紙の入った額の裏には〈昭和五十七年七月道場兜太書〉と墨で書いて下さった私の宝物です。海流と暮らす五十代から六十代の血気盛んな先生の姿が偲ばれます。後の〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉はオホーツク海を離れ、人間界に戻って流れてゆく「定住漂泊」を詠っておられます。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。若森京子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
天国だ地獄だろうと団子虫 阿木よう子
雛人形美は断崖に立っている 片岡秀樹
水喰らい風喰らい阿吽の形の凍瀑よ 刈田光児
越後平野慕わし雲居より白鳥 北村美都子
お日さまにくちびる見せよ春の子よ 三枝みずほ
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
世の中のどこまで信じ地虫出づ 佐藤詠子
能面の男の囲む焚火かな 白石司子
春の霧老いの深さに追いつかぬ 髙橋一枝
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
流氷接岸夜は一羽の迷鳥に 鳥山由貴子
夜のきわが街を呑み込む兜太忌や 藤野武
湯冷めして返しそびれた本のよう 船越みよ
小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
谷の芽木いま兄呼べば振り向かむ 水野真由美
雪割り草意外と「遺憾です」の顔 宮崎斗士
素心臘梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
心音はこれくらいかと臘梅咲く 横地かをる
泪をながさうまた生まれやう繁藪や 横山隆

川崎益太郎 選
落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
春の土耕すように脳軟化 大西政司
梅匂う人間鬱になる途中 尾形ゆきお
桜舞うフェイクニュースに踊らされ 奥村久美子
春の闇骨肉の戦車並ぶなり 桂凜火
○おやすみとさよならは似て冬の嶺 佐孝石画
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
必死とて死ぬわけでなし亀の鳴く 高橋明江
かじかんだ手を置く頰はあったんだ 竹本仰
黄砂降るそのまた向こう戦あり 竪阿彌放心
デモのない国のかたすみ鳥帰る 田中信克
裏側は決して見せない月の意地 東海林光代
啓蟄やごみの捨て場に遍路杖 長尾向季
秋思など戦禍思へば言い出せず 野口思づゑ
同窓名簿遠い遠いスタートの日 間瀬ひろ子
私に正面くださいチューリップ 三好つや子
フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
天井の闇のひとみや雹の音 森田高司
酔いどれにマスクが月にぶらさがり 輿儀つとむ

村本なずな 選
自分史の過去が氷解雪解川 赤崎裕太
雪吊や知恵とはなべて美しき 石田せ江子
三月十一日と書くもくやしきかな 稲葉千尋
蝶々や無数の仮説あおぞらに 上原祥子
捜し物もともとあらず朧月 片町節子
どこに仕舞おう零れる時の種袋 桂凜火
花あしび野辺に光の荷を降ろす 川田由美子
光りつつ消える俤竹の秋 北上正枝
いぬびわの実なにもおしつけない流れ 黒岡洋子
うさぎまっすぐわたしを抜けて雲 三枝みずほ
椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
卒業式の後のふんわり鬼ごっこ たけなか華那
花ミモザ仔馬は耳で考える 遠山郁好
しどみ咲く段々畑の日の笑窪 平田恒子
麦青む胸のファスナー空へ開き 藤野武
若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
この木から言葉始まる榛の花 三浦二三子
語尾また♯してぼくらも春の一部 三世川浩司

山田哲夫 選
千枚田水が張られてきれいな歯 稲葉千尋
○マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
自粛とやまたしばらくは冬の蜂 尾形ゆきお
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
○擦り傷は青春に似て桃の花 白石司子
菜の花盛り艶の山気に仮睡して 関田誓炎
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
○山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
故郷や笑い上戸の山ばかり 峠谷清広
駅蕎麦の生真面目な艶春出雲 中内亮玄
春一番こける子のゐる地曳網 長尾向季
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
観念をしまう抽斗猫柳 松本勇二
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
私書箱に置き去りにする春愁い 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
 山独活は収穫時に根を残すと、ほぼ毎年同じ場所で収穫出来る山の恵み。えぐ味が強いが皮を剥いだ真白な茎を切り水にさらすと透き通り、仄かな苦みと歯ざわりがある。山独活を知り尽くした作者が山独活と民話とに共通する本質的なものを感じとり、それを言い切ることで、読む側への説得力がより強くなったと思った。

白梅のひとひらふたひら母の鼓膜 月野ぽぽな
 前書きには「母他界」とある。人の死で最後まで残るのは聴覚と聞いたことがある。作者の母を呼ぶ声も、多分白梅が散りゆくように今際の母上の耳から遠く静かに消えていく。身近な人の死の悲しみをこんなにも美しく表現し、結句に鼓膜という厳然とある器官を据えることで現実に引き戻す作者の句力に脱帽。

小綬鶏の明るい夫婦喧嘩かな 松本勇二
 五月の良く晴れた日に友と二人近くの山へ。途中日当りの良い斜面から五〜六羽の子連れ鳥。胸のオレンジ色が印象的。小綬鶏だ。聞き做しは「チョットコイ」二羽が鳴き交わせばまさに夫婦喧嘩。作者がそう思い付いた瞬間の茶目っ気ある笑顔が見えるよう。世界中が小綬鶏の声の聞こえる自然豊かな土地で平和に暮らせたらどんなに良いことでしょうか。
(鑑賞・狩野康子)

落椿遠くて近い他界なり 宇川啓子
 落椿という季語について、前触れなく、落ちることを詠んだ句は多いが、「他界」と結び付けたことから、兜太師のことが思い出されて、心に響いた。確かに、遠くて近い、他界は、落椿という季語の本意かも知れない。

マトリョーシカの腹に一物冴返る 江良修
 ロシアを代表する民芸品であるマトリョーシカの腹に一物と言わせる哀しさ。数々の美しいロシア民謡も何か胸につかえて、昔のように素直には歌えない。ただ一人の男のために…。先の見えない戦に冴返るどころでなく、凍りついてしまう。

フラスコの中のふらここ少年期 望月士郎
 「フラスコ」と「ふらここ」をリフレイン的に使った俳味あふれる句である。確かに、フラスコは胎児を守る子宮のような感じを受ける。そこで、子どもが無心にふらここで遊んでる。毎日のように、ウクライナの子どもたちの悲惨な状況等を目にさせられるだけに、幸多かれと祈るのみである。
(鑑賞・川崎益太郎)

椿落つ流水速度あげにけり 佐藤稚鬼
 高濱虛子の「流れゆく大根の葉の早さかな」の流れは野趣を感じさせる流れである。一方掲句は椿の花の優雅さのため、庭園の遣り水を思わせる。それまでは流れの速さを特に意識していなかったが、一輪の椿が落ちたとたん、流れは生命を吹き込まれ生き生きと流れだしたのだ。私は思わず黒澤明の「椿三十郎」のワンシーンを思い浮かべてしまった。鋭い観察眼と感覚の一句。

真っ向の新玉の陽を食らわんか 鱸久子
 意表を突かれる句。新玉の陽を有り難くおろがむのではなく、挑戦するように真向かう作者。しかも食ってしまおうかと思う胆力と気概。小賢しいレトリックなどこの方には不要だ。確かな矜持をもって生きてこられたに違いない。ずばり踏み込んだ表現に圧倒される。

若き日のダッフルコート日和るなよ 松本勇二
 いささか厚手のダッフルコートは学生時代のものだろうか。これを見ると若き日の思い出とともにあの頃の情熱や志が甦ってくる。そのコートが「日和るなよ。あの頃の思いを貫けよ。」と作者を叱咤激励している。作者はその思いを確認するため、このコートを見つめているのだ。
(鑑賞・村本なずな)

冬の葬火夫少年を抱き寄せし 小松よしはる
 冬の火葬場で少年が見送るのは、肉親であろうか。それとも兄弟だろうか。悲しみの極にある少年の心を察して、肩をそっと抱き寄せた火夫。その行為の中に日々人の死に向き合っている人の心根の優しさと、それを見た作者の温かなまなざしを美しいと思う。死と向き合うと、人の心は不思議と素直になる。

遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
 日々戦争や災害や疫病の蔓延にやるせない思いを抱きつつ生活している身には、こうした句に出会うと急にほっとさせられる。土偶の昔とて、人間の日常の営みにたいした違いもないかも知れぬが、眼前の土偶は、黙して語らぬ。だが、土偶という存在そのものが、既に昔を思わせずにはおかない。「三月尽」が効いている。

木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡
 二十数年連続し出生率が低下し続ける日本。都市部も地方も人口減少に歯止めが掛からない。「木五倍子垂る」山国の開拓村とて同様で、一人また一人と村を去り、やがて学校は廃校、切り拓いた農地は荒れ、限界集落となり、自然に還る。過疎を嘆く作者の思いが春を迎えて生き生きと垂れる木五倍子とは対象的に哀しく伝わってくる。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

父母のありてさびしさ袋掛 有栖川蘭子
卯波立つうかつにも乳はじかれて 有馬育代
ふじだなの藤の驕りを離れけり 淡路放生
路地奥の波音湿る立夏かな 安藤久美子
蔵座敷の奥へ永久とわへと青嵐 飯塚真弓
墓石には父の好かない青蜥蜴 井手ひとみ
戦場の轍の跡にすみれ咲く 植松まめ
春野っぱらつきささってる線量計 遠藤路子
アイスティーの氷溶けてく退屈 大池桜子
メガホンの小さい方の穴梅雨入 大渕久幸
芒野に入りし古老の行方かな 押勇次
団欒の声が朧の空き家から 後藤雅文
天網も無力かシェルターからの叫び 塩野正春
雪明り心の闇のバンクシー 重松俊一
臍らしき模様を抱きて蝌蚪の腹 高橋靖史
祖父といふ静けさ囀りの中へ 立川真理
水中花最後の晩餐は点滴 谷川かつゑ
少々の漁獲に五月蝿さばえたかりけり 土谷敏雄
緑陰で誰の捨てたる嘘を踏む 服部紀子
麦秋のがっしとつかむ発煙筒 深澤格子
死にたいとき死ねるといいね茄子の花 福岡日向子
道に売るトカゲのおもちゃ薄暑光 福田博之
鷹鳩に化し父さんはなんか変 藤川宏樹
にんげんとは何 ひまわりに砲弾 増田天志
野良仔猫大きな好意は怖いのです 松﨑あきら
夕の虹欄干に居る猿五、六 村上紀子
囀りやうつばりの塵こぼれ浮き 吉田貢(吉は土に口)
スコップに予期せぬ肉感初蛙 吉田もろび
此の身脱ぎたしセーター脱ぐやうに 渡邉照香
夜桜の発火点まで来てしまう 渡辺のり子

『海原』No.40(2022/7/1発行)

◆No.40 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

斑雪老婆焦土に国旗挿し 綾田節子
キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
リハビリの綾取り縺れ日脚伸ぶ 榎本愛子
麦秋と青空の旗 土がたわれは 岡崎万寿
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雪割草ひさかたという一隅を 川田由美子
葉桜や暗号交はす弟たち 木下ようこ
根開きやあっけらかんと艶話 佐藤君子
春あらしみな素顔にてウクライナ 鈴木栄司
土を縫う種漬花たねつけばなよ返し針 鱸久子
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
子を逃がし護国に戻るミモザの日 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
夜桜やロシアにロシアンルーレット 竹本仰
春装や癒えて久しき針もつ手 立川弘子
爆音の街の蘖として生きる 田中信克
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
反戦歌初蝶のまだ匂わない 遠山郁好
幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
白木蓮ここから私の海がはじまる 平田薫
椿落つ猫とじゃれ合う鍼灸師 松田英子
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
春の木や戦場に名をなくしつつ 水野真由美
母を看るさくら貝この散らばりよう 宮崎斗士
茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
欣求穢土ぼうたんのひらききる 山本掌

大西健司●抄出

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
もう抱かれぬ躰水仙咲きにけり 榎本祐子
笹鳴や屋根を開いてごらんなさい 大髙洋子
火球とぶ夜勤の道の盆やぐら 荻谷修
弟に駆け落ちの過去目張り剥ぐ 加藤昭子
ふらここを横に引っぱってはだめ 河西志帆
息せぬ子まるごとくるむ毛布かな 鈴木修一
万愚節食べられさうな草ばかり ダークシー美紀
溜息は泡立つ時計蕗の薹 高木水志
まぎれなく戦ありしよ黄砂降る 田口満代子
自分で髪切ってちゃんと寂しく四月 たけなか華那
泣くほどのことかよ冷やし中華だぜ 竹本仰
夜桜のどこかおどけた喉仏 舘林史蝶
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
悼むときムスカリは色濃くゆれる 月野ぽぽな
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
花冷えのような地名ね「リビウ」 遠山郁好
春雷や母さん今日なぜ優しいの 遠山恵子
春の夜のわたしの身体にわたずみ 鳥山由貴子
服従を拒みて紋黄蝶となる 中條啓子
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
冬ぎしぎしの点在殉教史のはじめ 野田信章
春鰊とても上手に食べました 前田恵
すべて嘘だったと言ってくれドニエプル川 マブソン青眼
朧夜を歩く魚を踏まぬよう 望月士郞
茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
蝶々来てゾルゲの墓の露西亜文字 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

子を逃がし護国に戻るミモザの日 高木一惠
 ロシアのウクライナ侵攻によって国を追われた人々が、 国境で家族と別れ、祖国を守る戦いに戻ってゆく姿が放映されていた。三月八日は、国連が定めた「国際女性デー」。イタリアでは「ミモザの日」と呼ばれる。ちょうどミモザの花咲く頃、小さな黄金色の花々が、懸命に父や夫に呼びかけるようで、別れの哀感に胸を衝かれるものがあった。こんな悲劇を戦後八十年近い歳月を経て、繰り返されなければならないとは。兜太先生が幾たびも十五年戦争前夜といい、「戦あるな」と呼び掛けられたこと、今にして身に染みる思い。

反戦歌初蝶のまだ匂わない 遠山郁好
 反戦歌が湧き上がっている野に、「初蝶のまだ匂わない」とは、どう解釈すればよいのだろう。二月に始まった戦争に、まだ息をひそめるようにして成り行きを見守っているということか。舞い出た初蝶は、まだ体臭を伴うほどの実感には達していないとみたのか。いずれにせよ、なんらかの危機感を覚えながら、反戦歌を聞きつつ平和を守る願いを、どう実現できるかとのためらいやせめぎ合いがあって、身につかない思いへのいら立ちなのかも。

春の木や戦場に名をなくしつつ 水野真由美
 ウクライナ侵攻の戦場の跡は、建物はおろか街路樹や公園までも、破壊し尽くし焼き尽くさずにはおかなかった。そこにあった春の木々は名もわからない。その惨状を、「戦場に名をなくしつつ」と詠んだ。あたかも先の大戦で、多くの無名戦士の墓標が立てられたことに連脈する景だろう。作者は、心情に触れると全身で慟哭することをためらわない人だ。ウクライナの映像に揺さぶられるものを感じたに違いない。

切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
 やはり戦争の現実を詠んだもの。あるいは戦争の現実を想望したものともいえよう。根こそぎ切り倒された切株の上に、戦死者の遺品となった靴が置かれている。靴は天へ向かうかのように、靴先を天空へ向けている。それは声なき声として、発せられているものだろう。同時に、不条理な戦争への告発を叫んでいるかのようでもある。「俳句弾圧不忘の碑」の建立に尽力した作者ならではの一句ともいえる。

春あらしみな素顔にてウクライナ 鈴木栄司
 ロシアの侵攻に苦しむウクライナの人々の素顔が、刻々とSNSで報じられている。その映像はまさに、春のあらしそのものと見たのだ。「春の嵐」といえば、気象条件が浮かび上がる。作者は「春のあらし」と平仮名表記することによって、歴史的事件へと転じた。みな素顔で泣きじゃくり、苦悶の表情を隠さない。その裏に多くの悲劇の現実が隠されていることを暗示している。

幾千のアトリの輪舞いくさ果てよ 新野祐子
 アトリは、晩秋北方から飛来する渡り鳥で、幾千もの鳥の群れが鳴きたてながらやってくる。その壮観から、今ウクライナで始まっている戦争に思いをいたし、アトリの鳴き声に異様な訴えのようなものを感じつつ、戦争よどうぞ収まってくれとの願いを込めて祈る句。アトリの群れに、ウクライナの人々の叫びを感じているようだ。アトリの輪舞は続いている。

出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
 クロッカスは、早春に花をつけ暖かくなると休眠してしまう。老いれば誰しも覚えがあろうが、昨日まで出来ていたことが、次々と出来なくなることも増えてくる。そんな時、クロッカスの地を這うように咲く花々の終わる姿を見て、身につまされる淋しさを味わっている。

茎立や貴方にはあなたの動詞 森武晴美
 暖かくなると、野菜の花茎の中に抜きんでて伸びてくるものがある。そうなってしまうともう調理のしようもなくなる。子供のおませな口ぶりをみていて、あなたにはあなたの動詞があるのね、もうついていけないわとばかり、言語感覚の世代間ギャップを感じているのだろう。それが特に現れるのが動詞の表現だ。具体的な例示は、家族の身辺に覗えよう。

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
 今どきの若者言葉を使って、初恋の衝撃を咲き始めたつるバラの花に喩えた句。「キュンです」が面白い。いわゆる「胸キュン」の意だが、小ぶりのつるバラのように可憐で、「キュンキュン」と続くようなショックとも受け取れ、若い世代の言語感覚のふるまいが、端的に体に突き刺さるように感じられる。

春装や癒えて久しき針もつ手 立川弘子
 しばらく病んでいて、久しぶりに病衣から春装へとよそおいも新たに、縫物を始めたのだろう。縫っているのは春装そのもの、すこし華やいだ感じの衣装に、心も晴れやかに針を運んでいる。「久しき針もつ手」も軽やかに、喜びが溢れている。家事裁縫を女のたしなみとして育った世代ならではの生活感覚なのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

キュンです。咲き初めしつるバラ 石橋いろり
 まさにキュンとする一句。メジャーリーグの実況放送で大谷翔平のホームランに「翔平キュンです」と実況席のアナウンサーが絶叫。その時のキュンが忘れられない。この句は咲きはじめたつるバラの愛らしさに思わず呟いたのだ。旬の言葉を使って好句となった。早い者勝ちだ。

もう抱かれぬ躰水仙咲きにけり 榎本祐子
 初老の美しい女性が佇む日本海の海辺に凜と咲く水仙の健気さを想う。ドラマの一場面か重厚な小説の一章が切なく想われる。着物の衿をあわせる女性は水仙の化身だろうか。男はただ虚しくこのような妄想を抱くのである。何とも悩ましい一句。

息せぬ子まるごとくるむ毛布かな 鈴木修一
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
 生と死の対比があまりに哀しい。鈴木氏の句からは理不尽に生をたたれた子への絶望があまりに重い。その哀しみを、その現実を押し隠すようにまるごと毛布でくるむのである。まるごとという措辞が上手い。
 一方、田中氏の句からは生の喜びが伝わってくる。ただそこはシェルターの中。今にも砲声とともに禍々しいものがやって来るかも知れない。理不尽な侵攻、破壊が続くなかも懸命に生きる人々にとって新しい命の誕生は希望の象徴だろう。何とか生き抜いてほしいと願うことしか出来ない現実が辛い。

自分で髪切ってちゃんと寂しく四月 たけなか華那
 たまらないほどの孤独感。最初このように読んでいたのだが、しばらくたって思うことは意外とあっけらかんとしているのではないかとのこと。「ちゃんと寂しく」ここからうかがえるのは想定内の寂しさだろう。長い一人暮らしだろうか、ちゃっちゃと自分で髪を切って、四月は想定内の寂しさだとたくましくいう。そんな都会の一人暮らしの女性のたくましさにリアリティーを感じる。

泣くほどのことかよ冷やし中華だぜ 竹本仰
 俳句というより一行詩に近いのかもと思いつつ、この一句から離れられないでいる。なんともいえない哀愁漂う情景に引かれる。ある食堂でのこと、冷やし中華始めましたの頃だろうか。テーブルの冷やし中華をはさんで座る二人の男、一人が泣きながら何かを訴えているのだろう。
 それに対しもう一人の男が何気なく話を逸らす。今年最初とはいえたかが冷やし中華だぜと明るく言うのだ。
 そんな男二人の関係性、手厚い友情を思うときどっぷりとこの世界観にはまっている。剛速球ではないがこの何ともいえないくせ球が気にかかる。

蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
 こちらは何ともストレートな句だ。どこか風刺画のような味わいを感じる。日本人も首をすくめていると、いつかこのような状況に出くわすかも知れない。そんな警告とも取れる。あまりにも理不尽な行いへのストレートな怒りが伝わってくる味わいある一句。

花冷えのような地名ね「リビウ」 遠山郁好
 この溜息のような「リビウ」という地名が心に響く。私は溜息のようなと感じた。作者は花冷えのような地名と捉えた。ウクライナ西部の歴史の古い美しい街リビウ。
 その美しい街を哀しいと感じるいまの状況が切ない。避難民の溢れる街に打ち込まれたロケット弾。こうなるとただ地名から感じる想いを口にするだけではすまない。作者の言う花冷えのようなという想いがあまりにも切なく響く。花冷えという季語は桜の頃の突然の寒さをいうが、リビウの街も突然に凍りつくような出来事に見舞われた。
 リビウの街を、人々を案じつつ美しく一句に仕上げた手腕を讃えたい。

春の夜のわたしの身体にわたずみ 鳥山由貴子
朧夜を歩く魚を踏まぬよう 望月士郎
 何と幻想的な光景だろう。繊細な感性が捉えたものは似ている。鳥山氏は春夜に溶け込む身体を水だという。
 そしてそれはあたかも潦だという。美しい断定。
 一方望月氏は朧夜に揺蕩う水を幻視しながら、そこに魚の存在を捉えている。朧月夜の薄絹に包まれたような道を歩けば、そこはあたかも青く揺蕩う水の中。作者は魚を踏まぬようとやさしさを表出する。
 兜太先生の〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉を彷彿とさせる、生きもの感覚の美しさを想う。

キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
 映像で見るキエフの街の惨状にこう書くしかないのだ。
 なにを書いても傍観者であることの虚しさ。
 誰かが言っていたが、先の戦争のときに子供だった親がテレビを見ては怯えるのだと。この戦渦の街をみんながさまざまに書いているがこんな句はもう書きたくない。
 一日も早く平和をと願うばかり。

◆金子兜太 私の一句

漓江どこまでも春の細路ほそみちを連れて 兜太

 昭和60年。金子先生が朝日俳壇の選者になられた年の3月。先生を団長に中国漓江下りの旅が催された。桂林に前泊。漓江は小雨に煙って峨々たる山容は南画そのもの。その間を船は進んでいった。両岸に点在する小さな村落。河に沿って細い道が続いていた。先生は後の自句自解に「漓江が夫、細路は妻のやさしさ」と書かれた。ご一緒だった皆子先生の面影と共にありありと思い出される。句集『皆之』(昭和61年)より。伊藤淳子

日の夕べ天空を去る一狐かな 兜太

 昭和42年に熊谷に転居して、しばしば読んでいた『詩経国風』(吉川幸次郎注)の「王風」の中の夫の留守をまもる妻の歌〈君子于役〉(せのきみはたびに)を俳句にしたものである。自句自解には「夕暮れどき狐が一匹、空をさあーと翔けてどこかへ消えていきます」「この狐は自分の夫かもしれない。あるいは夫のところへ飛んでいく自分かもしれない」とあるが、皆子夫人への労りの気分をさりげなく書いた愛妻句であって、狐は兜太師自身だと思う。『金子兜太全句集』収録の『狡童』(昭和50年)より。小松よしはる

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
数の子を噛み無性に響く頭蓋 石川青狼
鵙の贄釦ひとつひとつ外す 榎本祐子
古本屋電気に群れていし冬が 大沢輝一
ものの芽や季節背負って快快 太田順子
句会後の水割り焼酎死者生者 岡崎万寿
水仙をまんなかとする都市計画 小野裕三
街に風花脚注を付すように 片岡秀樹
野火迫る冷たい耳を揃えている 桂凜火
手にとれば位牌は狐火ほど軽い 佐々木宏
過ぎ去った愛を並べてホットレモン 佐藤千枝子
やまとことのはとりとめもなき夜の雪田 口満代子
十指空に冬芽のように愛してみよ 竹本仰
転倒の一瞬長し冬光る 田中裕子
ミルキーな牡蠣大きくてフリル付き 蔦とく子
身籠るや人肌ほどに春の山 中内亮玄
レノン忌のあまたの石が脈を打つ ナカムラ薫
○山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
しきみとう踏み固めし雪詩を食べて 並木邑人
野を冷まし猟師が帰る言霊も 松本勇二
曼陀羅のどこかが欠けて綿虫とぶ 吉田朝子

川崎益太郎 選
高齢を何故祝うのか黄水仙 阿木よう子
賑わいの虚空のかたち案山子展 有村王志
開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
オミクロン株を尻目に蛇穴へ 江井芳朗
寒月光穴を掘る人埋める人 片岡秀樹
春の窓ことばさがしの二歳かな 河田光江
人訪わぬを疲れというよ龍の玉 川田由美子
冬ざれて百鬼夜行を見たようだ 清水恵子
半分は母半分はしゃぼん玉 清水茉紀
冬の月墓標のごときビルの群れ 白石司子
○棄てられたマスクのやうにちぎれ雲 高木一惠
仁義なき闘い春のオミクロン 立川弘子
冬の水無季の俳句は許せない 遠山恵子
乏しきをエコと言ひ換へ年あらた 長尾向季
花は好き名が嫌いなの木瓜の花 仲村トヨ子
雪激し「うちかて夜叉になりますえ」 中村道子
どんどの火桜冬芽のまま焼かれ 藤田敦子
寝正月夢の言葉に付箋する 松田英子
花八手思春期という殴り書き 三浦二三子
訃報というキリトリ線や冬鴎 望月士郎

村本なずな 選
○胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
鼻歌の気付けば軍歌十二月 伊藤巌
悴む手が月とはぐれて帰れない 榎本愛子
一角はすずなすずしろ古墳浴 大高俊一
木枯しの奥へ奥へと通院す 大野美代子
毛細血管図崖一面の蔦枯るる 鎌田喜代子
雪が降る會津八一の仮名文字の 北村美都子
終電車解体さるる聖樹あり 小松敦
○えくぼなら母にも窓にも雪野にも 佐々木宏
飼犬の鎖冷たし震災忌 重松敬子
一葉忌えみから涙になる途中 清水茉紀
加齢による反抗期です八ツ頭 芹沢愛子
○冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
冬蒲公英青空固くなるばかり 瀧春樹
雪知らぬ雪予報士の騒がしき 東海林光代
ノートにはぎゅうぎゅう詰めの春の風 中内亮玄
出直せる余生いつでもちゃんちゃんこ 嶺岸さとし
紙の音して小説の駅に雪ふりそむ 望月士郎
冬ざれの耳のうしろの小さな凪 茂里美絵
冬銀河に行ったよ尻尾のあった頃 森由美子

山田哲夫 選
断捨離の断で躓く年の暮 石川青狼
○胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
いっそかろやか元日という空白は 狩野康子
「冬眠です」と言ひて母逝く星月夜 北原恵子
着膨れて富士に憑かれて箱根まで 小泉敬紀
めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
○えくぼなら母にも窓にも雪野にも 佐々木宏
欠けるとこありても睦み寒卵 佐藤詠子
雪雲が寝そべっていて過呼吸 清水恵子
○冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
○棄てられたマスクのやうにちぎれ雲 高木一惠
無口といえば海鼠といえば父の酒 竹田昭江
○山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
死ぬ気などなくて死にゆく薄氷 船越みよ
嘘すこし閉じこめ洗面器の薄氷 松岡良子
石蕗の花老いてゆく日を軽やかに 松田英子
理科室のよう一人暮らしの元朝は 宮崎斗士
やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子
感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる

◆三句鑑賞

古本屋電気に群れていし冬が 大沢輝一
 古本屋と冬の取り合わせ。ふうっと作者の世界に迷い込んでしまう。覆いかぶさるばかりに積まれた古本。ときおり背表紙の金色が鈍い光を放つ。上から釣り下げられた電気に冬が群れる。決して蛍光色ではない赤みを帯びた電球。古本屋を愛する作者の思いがかすかな危うさを伴い漂う。

水仙をまんなかとする都市計画 小野裕三
 すべては水仙のイメージから始まる。冬に開花し花の姿から清楚な感じ。球根に毒を持つ。今号伊藤雅彦氏の句は水仙から母の項を連想しておりこの句も心に沁みた。揚句は水仙のイメージを真ん中に都市計画という発想の飛躍が素晴らしく、俳句の持つ多様性と伝達力に気付かされた。

やまとことのはとりとめもなき夜の雪 田口満代子
 やまとことのは、辞書に「大和言の葉」源氏物語(桐壺)「伊勢、貫之に詠ませ給へる」とあり、王朝の和歌と思える。この語は序詞のように「とりとめもなき夜」を導き、相聞歌を想像させる。ただ降り続く雪ではなく、雅びに人のうつつも夢ものせてとりとめもなく降る夜の雪である。
(鑑賞・狩野康子)

開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
 十二月八日は、太平洋戦争の開戦日である。日本の敗戦により戦争は終わり、戦争は歴史の一頁として塩漬けにされた。以後、日本では戦争は封印されて来た。しかし、世界では以後も戦争が各地で起こっている。特にこの度のロシアのウクライナ侵攻は、戦争を知らない世代にまで、リアル戦争を提示している。まるで漬物石が外れ、どこかを捜しても見当たらない状態である。

冬ざれて百鬼夜行を見たようだ 清水恵子
 ロシアのウクライナ侵攻は、日々激しさを増し、全く終息の気配が見えない。その様子は、百鬼夜行のごとくである。この句の投句された頃は、まだ、その正体が見えないので、「見たようだ」と、やや、緊張感なく詠まれているが、その後、その正体が暴かれる序章のような句である。

冬の水無季の俳句は許せない 遠山恵子
 俳諧自由を標榜している「海原」誌に、このようにはっきり詠う勇気に驚いた。季語を超える言葉がないと無季の俳句は成立しないと言われている。季語の「冬の水」が、断定の力強さを表わしているように思う。「嫌い」でなく、「許せない」という言い方に、どのような意見等が出されるか。
(鑑賞・川崎益太郎)

一角はすずなすずしろ古墳浴 大高俊一
 近年、古代史に様々な発見があり、各地の古墳も注目を集めるようになったが、ここはそれ程有名な古墳ではないのだろう。なにしろ一角は畑になっており、蕪や大根が植えられているのだから。しかし、なだらかな丸みを帯びた古墳は見ているだけで穏やかな心地になる。天気も良し。これを「古墳浴」と言わずして何と言おう。

一葉忌えみから涙になる途中 清水茉紀
 赤貧洗うがごとき生活の中、数々の名作を残し、わずか二十四歳で夭折した樋口一葉。貧しくとも、誇り高く微笑んでいたに違いない。しかしふとした拍子に一気にそれが崩れることもある。作者も何かに耐え、微笑んでいたが、今、こらえていた涙が溢れそうになっている。そうさせたものが温かい優しい言葉であってほしい。

加齢による反抗期です八ツ頭 芹沢愛子
 反抗期と言えば自我が芽生える四歳児あるいは独立を求める思春期だが、作者はその原因を加齢によるものだと強弁する。我々が医師の診察を受けた際、最もがっくりくるのは、「加齢ですね」のひとこと。もうなすすべもない。加齢ならどうしようもないのだ。そこへもってきてごろんと八ツ頭。これは手強い反抗期ですよ。
(鑑賞・村本なずな)

胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
 「小声の福は内」が何とも素晴らしい。日常生活の中の出産という一大行事。やがて生まれ出てくる新しい命を、密かに期待する親や家族の気持ちが、じんわり滲み出てくる気がして、思わず祝福の言葉をかけたくなる。少子化傾向が一向に止まらないどこかの国の若い親たちの心にこの幸せをお裾分けしたい一句である。

山も河も被曝の仲間初日の出 中村晋
 山や河で代表された「も」は、他にも自然に存在する多くを物が合む「も」だ。被曝は自分たち人間のみでなく、全てだという認識からの詠出が、ずしりと心に響く。やはり、大震災の被曝地福島の作者だからこその認識だと思う。新しい年を迎えて、被曝を乗り越え、更に力強く生きたいとする希望の『初日の出』が美しい。

感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる
 冬の翡翠を見たことは無いが、作者は、感情は冬の翡翠だという。この喩の見事さにまず脱帽。ホバリングは、鳥がはばたきながら空中にとどまっている状態だから、これもまた冬に堪えている作者の感情の停滞状況の喩でもある。日常の自らの心を篤と見つめる醒めたまなざしの持ち主だからこそこうした喩も生まれてくるのだろう。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春の川投網の円周率ひかる 有馬育代
俳号に蝶の思いもなくもなし 淡路放生
励ましはスローモーション蘖ゆる 飯塚真弓
桜散る娼婦と呼ばれたひとの居て 井手ひとみ
クールぶってやってきたのに亀鳴くよ 大池桜子
鞦韆を揺らして五臓六腑かな 大渕久幸
疫禍余波辺地に及び冴え返る 押勇次
トゲクリ蟹わたしは負けた訳じゃない かさいともこ
ややこしく出来た人間鳥交る 葛城広光
蛇穴をいでて地雷のなき方へ 木村寛伸
難民のザックの犬よ春遠し 後藤雅文
樹幹いま春の小川の音がする 小林ろば
運命とは花鳥風月そして僕 近藤真由美
ふるさとの高さ競はぬ山笑ふ 鈴木弘子
貝寄風や想ひ出といふ持病 立川真理
マニュアルを歩む旅人かげろうや 立川瑠璃
カド※来たるいざ出番なり谷空木 土谷敏雄 ※秋田の方言 
りんりんと春動かしてゆく奥羽 福井明子
葉桜になる前はまだ他意はない 福岡日向子
多喜二忌やロボットの背に乾電池 福田博之
蝶を殺す食ふだけ殺す野原かな 藤好良
花ミモザ老身を寄せ風分かつ 保子進
つばくらめ廃墟の街に子どもたち 増田天志
なんでそんな人がいるの菫には解らない 松﨑あきら
三階の市長室あけ花惜しむ 村上紀子
春宵や文庫に付きしチョコレート 山本まさゆき
牡丹の芽初湯のように雨を浴ぶ 吉田和恵
桑の實やむかし少年驢馬の旅 吉田貢(吉は土に口)
木の葉髪濡れ手を離れがたきかな 路志田美子
菜の花やふかい地下から反戦歌 渡辺のり子

『海原』No.39(2022/6/1発行)

◆No.39 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
冬帽子ムーミンパパのお古だな 綾田節子
曽祖母の夜咄締めは「生き過ぎた」 石川まゆみ
ムンクの叫び凍滝と言えないか 伊藤道郎
生き切ったいや生き切れず金魚玉 宇田蓋男
サイバー空間千頭の蝶放たるる 榎本祐子
国境の楤の芽の一心 大上恒子
つくし煮る生きてるかぎり母の味 大野美代子
花りんごマトリョーシカは無口です 岡崎万寿
冬菜みな手傷を負っていたりけり 小野裕三
君の部屋やさしい獣の巣のように 河原珠美
独り居に闇尖りくる久女の忌 黒済泰子
海市までプロパンガスを配達す こしのゆみこ
ストリートピアノ一小節を燕かな 三枝みずほ
ダイヤモンドダスト弦楽四重奏響く 佐藤博己
遠き世の土偶の無言三月尽 白井重之
ざらめ雪断捨離はせず生きんかな 鈴木康之
鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
感情のもつれほぐれし風花や 田口満代子
春の日の屈折率を恋という 竹田昭江
国跨ぐ黒煙それが春なのか 田中信克
透明な樹木の残る春の鹿 豊原清明
ハスキーボイス少女の中を砕氷船 鳥山由貴子
雛飾り雛仕舞いウクライナ遠し 中村晋
遠雷を空爆ときく国もあり 野口思づゑ
ふきのとう薹立ち東北震災忌 服部修一
拒否の眼の少女ふり向くヒヤシンス 増田暁子
言えなかったやさしい言葉花ミモザ 松井麻容子
素心蠟梅ためらいは凜々しくもあり 村上友子
麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
木五倍子垂る開拓村またひとり去り 吉澤祥匡

野﨑憲子●抄出
戦況からCMへ桜前線へ 石橋いろり
兜太の忌しゃぶりたらず叱られる 稲葉千尋
侵攻止められず緋木瓜白木瓜更紗木瓜 植田郁一
渾身の膝立ち上る初燕 上野昭子
獏も食わぬ独裁者の春の夢 江良修
抽斗に隠されていく百合鴎 小野裕三
啓蟄や耳かき一本の愉悦 川崎千鶴子
戦争嫌やたゞ寒沢川さぶさがわは不器用や 久保智恵
切通し春雲一気に湧きあがる 佐藤稚鬼
花咲爺風花売りとすれちがふ 鈴木孝信
シマフクロウの神の座高し雪解風 鈴木修一
それぞれの消えてゆきかた雪催 芹沢愛子
立春や空っぽの僕らの青さ 高木水志
山独活を晒せば透けてくる民話 瀧春樹
波打つ薄氷あつかましい平和 谷口道子
雪月夜われのみが知るパスワード 董振華
遠く白魚火リュウグウの砂こぼる 鳥山由貴子
大らかな出雲の坂に春の虹 中内亮玄
朧夜に触れたら流砂なのでした ナカムラ薫
こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
猫の恋地球に誰もいないのか 丹生千賀
反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
猪神や爆音で目覚めた少女 日高玲
はしき星に生きもの在りき戦争す 藤野武
白鳥帰る白い絶望をかかえ 本田ひとみ
ちりめん雑魚人体淡く海になる 松井麻容子
追伸は風の椿の樹下にあり 水野真由美
三月のひかり水切りりりりりり 望月士郎
桜貝なみだは遠い昔のこと 茂里美絵
シャワー越し青葉のひとみあふれをり 輿儀つとむ

◆海原秀句鑑賞 安西篤

曽祖母の夜咄締めは「生き過ぎた」 石川まゆみ
 曽祖母というからには曽孫もいて、核家族化のすすんだ大都市とは異なり、地方ではまだかなりの大家族の暮らしがあるのだろう。それでも昔の夜咄を聞いてくれる曽孫がいる限り、まだしも自分の居場所はある。触れ合いを保ちうる者がいるからだが、いつまで続くものやらと思えば、やがて来る〈そのとき〉への不安は喩えようもない。作者はまだ余力を保っているはずだが、「生き過ぎた」という感慨を、他人事ならず受け止めているに違いない。

生き切ったいや生き切れず金魚玉 宇田蓋男
 前句に続く境涯感の句。ほぼ同世代の作者ならではのものだろう。老いてからの人生の送り方は難しい。高齢化社会の今日、己の人生を振り返って「生き切った」と言い切れる人はどれだけいるだろうか。自らに問い直して、「いや生き切れず」と省みる。「金魚玉」は、ある日ふと何気なく目にとめたとき、ちいさな空間にうごめく生きものの姿に、胸を衝かれるように〈いのち〉を感じ、それがそのまま己の境涯感へ突き刺さっていったのだ。

サイバー空間千頭の蝶放たるる 榎本祐子
 サイバー空間とは、コンピューターやネットワーク上に構築された仮想空間で、今や国際間の戦争も先ずサイバー攻撃から始まるとされている。ウクライナ戦争などまさにそうだった。目に見えないものだけに、その怖ろしさは測り知れない。そんな仮想空間へ、千頭の蝶を放つ。いわばメカニカルな空無の空間へ生きものの蝶を放って、生の空間として捉え返そうとする。そこに生きてこその思いも込めながら。

君の部屋やさしい獣の巣のように 河原珠美
 亡き人への追慕の句とみてよい。これは作者の境涯に照らしての感慨なのだが、大切な人への思いは時間とともに薄れていくものではなく、むしろ純粋な形で結晶化されていく。愛する人を失ったとき、その部屋は獣の巣のような乱雑さで、生々しい温もりを残していたに違いない。作者は今も忘れ得ぬその印象を「やさしい獣の巣」と捉えた。その思いは夫との愛の思い出にもつながる。

ざらめ雪断捨離はせず生きんかな 鈴木康之
 「ざらめ雪」とは、春、日中に溶けた雪が夜再び凍結し、それを繰り返してできるざらめ糖状の積雪。「断捨離」は、不要なものを減らし生活に調和をもたらそうとするヨガの思想。作者は、今世に流行する「断捨離」の思想には同調せず、あえて「ざらめ雪」のように繰り返し活用する道を選ぼうとする。有限な資源の地球を、「もったいない」で生きようとしているのだ。「ざらめ雪」こそ我が生き方と居直っている。

鳥獣戯画そろりと参ろう春の闇 髙井元一
 「鳥獣戯画」は、京都高山寺にある国宝の紙本墨画四巻。動物の生態を擬人的に描いたもので、そこにはさまざまな人間への諷刺が込められている。「そろりと参ろう春の闇」には、作者自身、戯画の端くれにひそかに紛れ込み、動物の一つとして人間をからかってやれば、さぞ面白かろうにという。中七の狂言風の言い回しで、どこか異次元の世界を目指すかのようなおどけ振りをもって、自己劇化を試みた句。

感情のもつれほぐれし風花や 田口満代子
 感情のもつれは、身近な者同士であればあるほど、複雑でさまざまな根深い絡み合いを伴うもの。そんなしがらみを抱えながら生きて行かなければならない。風花の舞う空間は、そのしがらみが一気にほどけて、多くの断片を撒き散らしたように見ている。それは作者の無意識のうちのカタルシスだったのかも知れない。

雛飾り雛仕舞いウクライナ遠し 中村晋
 ウクライナに起こった戦争は、数々の悲劇とともに大国のエゴをまざまざと見せつけた。ゼレンスキー大統領の国連演説は追い詰められた民の悲痛な叫びのように聞こえる。今日本では、桃の節句で雛人形を飾り、大事に仕舞う平和な時を過ごしているが、遠いウクライナの悲劇は、日本においてもいつまた身に迫る現実となりかねないという危機感を逆説的に暗示している。兜太師の言われていた「十五年戦争前夜」にも通ずる危機感がこの句のモチーフにはある。

麦踏みし足が戦車の前に立つ 柳生正名
 三月の東京例会通信句会で圧倒的な支持を得た句。いうまでもなく今度の戦争で、ウクライナの市民が戦車の前に身を挺して反転させた映像に基づく。物生り豊かな祖国を守るために、自らすすんで一身を捧げる姿に感動させられたのである。ところが今やロシア軍は、容赦なく民間人を虐殺することをためらわない。戦争の深刻化にともなって、緒戦における一片の勇気や良識すら、もはや通用しないような、あからさまな戦争の残虐性が露呈しつつある。戦争俳句は、事態の長期化、深刻化とともに様相を変えつつあることを、忘れてはなるまい。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

戦況からCMへ桜前線へ 石橋いろり
 桜前線の香川通過は半月前だった。ウクライナ情勢はますます緊迫し混迷を極めている。リズミカルなテレビ画面の作品化に世相が映る。省略の妙。句群中、「瓦礫の下の『てぶくろ』絵本残寒に」にも惹かれた。『てぶくろ』は、エウゲーニー・M・ラチョフの表紙絵が素晴しく世界の子供達の愛読書だ。だいたい人間の落とした手袋に、一匹の動物が入るのも無理に決まっているのに、次々に森の動物たちが入ってくる。夢のいっぱい詰まった絵本。戦争は、夢も、希望も、棲家そのものも奪ってしまう。

兜太の忌しゃぶりたらず叱られる 稲葉千尋
 俳句道場で師はよく「俳句をしゃぶれ」と話された。私も師の言葉を受け「しやぶり尽くせと冬霧の眼かな」と詠んだことがある。それは、何度も読み味わうことによりその句の心が観えてくるということだ。「俳句は理屈じゃないよ、心だ」「人間が面白くなきゃ、句もつまんねぇ」とも言われた。頓馬で内気な私は、師の言葉に、不器用な自分のままで良いと気付き、どんなに勇気をいただいたことか知れない。私は、句をしゃぶり尽くしていると言えるだろうか、稲葉さんの句に思わず襟を正した。

侵攻止められず緋木瓜白木瓜更紗木瓜 植田郁一
 美しい木瓜ぼけの花には申し訳ないが、ロシアのウクライナ侵攻を止められない人類への忸怩たる思いを畳みかけるように色ごとに呼びかけ木瓜の花に託した植田さんの力作である。「春の雲戦火見詰めていて崩れず」「椿落つ重なり落ちて傭兵死す」等の句にも注目。卒寿の植田さんの平和への願い、漲る熱い俳句愛に感動した。

シマフクロウの神の座高し雪解風 鈴木修一
 シマフクロウは『アイヌ神謡集』の最初に登場するアイヌの守り神である。縄文人の末裔であるアイヌは、七世紀ごろからの大和朝廷の侵攻により辺境へ追いやられた。人類はまた同じ過ちを繰り返している。芭蕉は、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言った。今の私達にとっては「地球の事は、地球に習へ」即ち、森羅万象の声を聞け!ではないのだろうか。そこには、縄張りも、国境も無い。邪論と言われても、ここに立つことだけが、人類の生き残れる道ではないのかと思う。

波打つ薄氷あつかましい平和 谷口道子
 「波打つ薄氷」が見事に決まっている。谷口さんの第3回「海原金子兜太賞」応募作のタイトルも「あつかましい平和」だった。これは、誌上選考座談会で一位推挙の柳生正名さんの言にもあるように、師のドキュメンタリー映画「天地悠々」の中の最後のインタビューで師が強調していた言葉だ。私も、「平和への願いも、自身の表現も貪婪なまでの図々しさと熱情で新しい世界を切開けよ!」との師の言と捉えている。我がジャイロである。

こぶし咲く戦火を燃やし継ぐ星に 中村晋
 真青なる美しい地球に、人類の宿痾のような戦争が、いつもどこかで起こっている。辛夷は、日本原産の花木。春の訪れを感じさせてくれる白いシャンデリアのような辛夷の花。その花のような、心温まる愛語を言霊の幸ふ国から発信してゆくことの大切さを強く感じる。師のごゲダンゲン・リリク著書にあった思想的抒情詩という言葉が頭から離れない。

猫の恋地球に誰もいないのか 丹生千賀
 加藤楸邨の「蟇誰かものいへ声かぎり」が、永田耕衣の「恋猫の恋する猫で押し通す」が浮かんでくる。この地球を壊滅してしまえる原子爆弾を発明したのが人類なら、この悪魔のような侵攻を収束させるのも人類でなければならないのである。生きとし生けるものの「いのち」の声を代弁できるのも人類だけなのだから。九十一歳の丹生さんの「地球に誰もいないのか」は、私達、うら若き人類に向けられているのだ。

反戦句碑は同志のたましい風光る 疋田恵美子
 マブソン青眼さんが俳句道場にゲスト参加された時の師との対談「昭和俳句弾圧事件について」が発端になり、師が他界された五日後に長野県上田市の無言館近くの小高い丘に建立された「俳句弾圧不忘の碑」。戦時下に弾圧され亡くなった俳人追悼のこの碑文は師の揮毫による。「平和」と「俳諧自由」。師の悲願は、人類存続の要だ。

猪神や爆音で目覚めた少女 日高玲
 アニメ『もののけ姫』のシシ神や少女サンを想起させる。猪ではなくて鹿の形の神だったとおもうのだが、森の奥に棲む精霊の王シシ神はこの人類の愚行をどう見ているのか。爆音で目覚めたサンはこれからどうするのか、日常では忘れられがちの、隠れた大切な世界が姿を現す。

三月のひかり水切りりりりりり 望月士郎
 「りりりりりり」の調べのそして字面の美しさに圧倒された。三月がいい。そして、三月の光が水を切ってゆく。そこから立ち上がってくる目くるめく光の世界に酔いしれた。「海原」誌の表紙絵も、毎号、輝いている。

◆金子兜太 私の一句

旅を来て魯迅墓に泰山木数華 兜太

 我が家の階段を上がった二階の廊下の突き当たりに掲句が掛かっている。初めて手に入れた先生独特の字体の色紙だ。中国旅吟句で格調の高い抒情溢れた一句で「数華」が目に鮮明で魅力的だ。縁の上海は先生にとって感慨深いものがあったろう。その頃に、御父上の伊昔紅氏と魯迅との接触もあったのではと想像も膨らむ。句集『遊牧集』(昭和56年)より。大西政司

よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太

 我が家は、今年の干支の寅の置物と一対になる形でこの色紙を飾っています。皆子先生が腎臓癌治療のため、千葉県旭市の旭中央病院に移られてからのお供をさせていただいた当時に、兜太先生から贈られてきた色紙です。「よく眠る」の「ゆっくり生きてゆこうの心意」をいただくうれしさ。おおらかな野生にあやかる年年歳歳の感謝です。句集『東国抄』(平成13年)より。山中葛子

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

狩野康子 選
羽後残照見開きひと言夜の灯 有村王志
川鵜またひとりぼっちか冬青空 宇川啓子
冬夕焼母のさざなみガラス質 榎本愛子
解除ボタンかすかに湿る十二月 大西健司
火種にはまだ程遠い綿虫飛ぶ 奥山和子
山茶花の薄く住まうとこのあたり 川田由美子
○狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
人格者のようで祖父はけむり茸 佐々木宏
咎は無し百の吐息に山眠る 佐藤詠子
村灯るあの家この家に雪女郎 白井重之
綿虫に顔入れ誰よりもやさしく 十河宣洋
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
白息を使徒と思えば海荒れて 遠山郁好
毛糸着て雑念少し増やしけり 中村孝史
霜に日が差して誰かの生れたる 松本勇二
清貧にかたちあるなら冬菜畑 嶺岸さとし
綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
ポインセチア遠くに居ればいいひとよ 室田洋子
大根炊ける透き通っていられない 森鈴
てつぺんでキューピー尖る師走八日 柳生正名

川崎益太郎 選
本音吐く炭火ときどきナルシスト 市原正直
雪国や「核」捨てるのにいい遠さ 伊藤歩
冬銀河ヒトに臍の緒という水脈 伊藤道郎
子宮で考え中です枇杷の花 井上俊子
再びを夢見るごとき落椿 宇川啓子
○細胞のひとつ分裂くしゃみ出る 奥山和子
家系図は差し歯入れ歯に時雨けり 川崎千鶴子
綿虫の帰化する原野歩みゆく 後藤岑生
葉牡丹はアンモナイトになる途中 佐々木宏
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
水脈凍てて夢の果てなる引揚船 立川弘子
まゆみの実老いらくの恋やせ我慢 舘林史蝶
天国に原発はないクリスマス 中村晋
冬ざれのタンポポ「私変わりもの」 西美惠子
寒たまご地球に寄生する我等 本田ひとみ
神無月マンモス復活計画 松本千花
四番目に生まれ跡取り千歳飴 深山未遊
桑の実ってこれだったのねお母さん 森由美子
ポインセチア唇いくつ生け捕りに 山下一夫
柊の花より淡く母居たり 横地かをる

村本なずな 選
白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
芽麦一列戦禍なき一日あるように 伊藤道郎
道草や雪は子供に降ってくる 荻谷修
○細胞のひとつ分裂くしゃみ出る 奥山和子
杜鵑活ければ母の居るごとし 北原恵子
どんぐりころころ音楽になる途中 北村美都子
綿虫やここ地球とう仮住まい 楠井収
審議会長須鯨が揃いけり 今野修三
「雪来る」と火災報知機鳴ってみたい 佐々木昇一
木の家を木枯し叩く武州真夜 篠田悦子
中身のないポケットのよう冬の空 高橋明江
水刻むごとく大根千六本 鳥山由貴子
冬の斜面あの光るのが除染ごみ 中村晋
青空をがんがん冬のプラタナス 平田薫
寒落暉告白は大声ですべき 前田恵
木の葉髪自由と孤独と腰痛と 増田暁子
禁猟区母のアルバムずっしりと 松本千花
無添加の煮干のひかりクリスマス 三浦静佳
布団の奥アンモナイトの息をする 柳生正名
龍の玉良く笑う児がよく転ぶ 梁瀬道子

山田哲夫 選
野仏の膝は日溜り冬の蜂 伊藤巌
少年の微熱のように冬木の芽 伊藤道郎
釘打って十一月を掛けておく 大沢輝一
骸かと掃けば仄かな冬の蜂 川崎千鶴子
ネックレスざらりと外し大根炊く 黍野恵
○狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
家族という淡い繭玉冬の雷 佐孝石画
霧に消ゆ歩荷かぽかぽ音残し 篠田悦子
魚を糶る岬や石蕗の茎太し 髙井元一
◎あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
コンクリート打ちっ放し冬の足音す 鳥山由貴子
切り口はいつも血まみれ大枯野 野﨑憲子
姿なきひとと分け入る花野かな 日高玲
踊るように人の死はあり枯野原 平田薫
着ぶくれて服にこころに裏表 前田典子
久女の忌からだにふっと火打石 三好つや子
私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
月蝕やどこかで冬のサーカス団 茂里美絵
良縁をまとめどさっと深谷葱 森由美子
軸足はきっとふるさと冬の虹 横地かをる

◆三句鑑賞

人格者のようで祖父はけむり茸 佐々木宏
 人間誰も沢山の顔をもつ。句の鍵けむり茸は踏むと灰色の煙を吐く。子供の頃祖母に「煙が目に入ると目が見えなくなる」と聞かされたが、それは俗信で食用と知った。周りから人格者として尊敬された祖父。けれど作者はひょうひょうと時に怖れられ親しまれた祖父を知る。句に漂う俳諧味が愛すべき祖父のイメージを強くする。

白息を使徒と思えば海荒れて 遠山郁好
 白息、使徒とシ音で静かに始まる。しかし結句は海荒れて。白息は自分の嘆息。助けを求めれば使徒が現れるかもしれない。しかし鎮まるどころか海は荒れている。ふと使徒の語で白息は多数の人間の嘆息に変わり、現実として神に祈るしかない戦争の不条理。神の力も及ばない悲惨な現状を詠っているのではと思った。

てつぺんでキューピー尖る師走八日 柳生正名
 師走八日は日本真珠湾攻撃に始まる開戦日。語り継ぐべき昭和史の大事件。戦争の犠牲になったのは武器をもたない庶民とキューピーの号令下に従った幾万の兵士。立場は異なるが現在のロシアとウクライナ。戦争は今も昔も一見無害な人の心を持たぬキューピーのような存在によって引き起こされる。暗喩のキューピーが抜群。
(鑑賞・狩野康子)

あいまいなおでんの仕切り民主主義 竹田昭江
 いま世界中を震撼させているロシアのウクライナ侵攻。ウクライナは民主主義に対する挑戦と言っているが、ロシアの言い分も民主主義を守るというのが言い分で、このように民主主義に対する考えはいろいろあり、それはおでんの仕切り板のように曖昧なものであるという句。捉え方がユニークで上手い。

天国に原発はないクリスマス 中村晋
 天国に原発があるかないかは、行ったことがないから分からないが、作者は、ないと言い切っている。言い切っているが、本心は、ないことを願うという願望の句であろう。その思いをクリスマスという季語を採り合わせて祈るような気持ちであろう。作者が福島の方であるので、よりリアルに読者の胸を打つ句である。

四番目に生まれ跡取り千歳飴 深山未遊
 日本では古くから、家の跡取りは、生まれた順でなく、男子の一番目と決められていた。それは今も根強く受け継がれている。特に、やんごとなき方に関しては、法律で決められている。これが平民にまで受け継がれて、慣習化されている。この句は、そのことに対する不合理さを訴えた句である。それを直接言わないところが上手い。
(鑑賞・川崎益太郎)

白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
 後ろ手に歩いているのはボランティアの方なのだろうか。越冬のために湖を訪れる白鳥たちを長年にわたり世話してきた。後ろ手に歩くその様子からかなりの年輩者であることがうかがわれるが、冬の寒さも厭わず見回りをする。白鳥たちもこの人物を統率者のように思い慕っている。美しい水辺、豊かな自然に囲まれて白鳥を見守る実直な人物の姿が目に浮かぶ。

審議会長須鯨が揃いけり 今野修三
 ○○審議会などという大層な所にはその方面の都合の良いお歴々が呼び集められる。いつどこでそんな話が?などと訝しがる庶民を余所に物事は進む。根回しは済んでいるから、余裕綽々、長須鯨は席に着くだけだ。一茶が大喜びしそうな皮肉たっぷりの一句。

「雪来る」と火災報知機鳴ってみたい 佐々木昇一
 火災報知機は実に目立つ。赤くて丸くて真ん中には押してごらんと誘うような薄いカバーが嵌まっている。ひとたびカバーを押そうものなら、とんでもない音が鳴り響く。作者は雪国の人。雪は時には危険な相手でもある。長い間火災もなく、静かに待機している報知機も「雪が来る」と自分の存在を主張したくなる時があるのだ。
(鑑賞・村本なずな)

骸かと掃けば仄かな冬の蜂 川崎千鶴子
 掃くという行為の中で、ふと目に止まった蜂の骸。否、骸かと思ったら、微かに動きだしたではないか。生きてるぞ。仄かな命の蠢きよ。この一句には、そんな命の蠢きを、細やかな情愛を込め眺めやる作者のまなざしがある。日常生活の一コマ一コマを大切に生きる姿勢の中からこそこういう句は生まれてくるのだろう。

家族という淡い繭玉冬の雷 佐孝石画
 作者は、家族は淡い繭玉だという。この比喩の確かな認識に心惹かれる。家族は無数の淡い糸で繋がれ、押し合い、引き合いながら日常を送っている。晴れの日もあれば、寒い冬の雷の鳴る日もあってこそ家族という淡い糸で繋がれた存在も強い絆で結ばれた玉になっていくのだと思う。「淡い」という形容が心憎い。

私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
 私という存在。確かにあるようで、自分でもなかなか捉え憎いこころとからだ。それを冷徹に見極めようとする作者自身のまなざしが意識される。「私」と「わたし」と意識的に書き分けたところが、その存在の有り様を示している様で、工夫が見える。「雪明り」の中に佇む私という設定も印象的で、捨てがたい。
(鑑賞・山田哲夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春昼の寺に一礼して歩く 淡路放生
疼痛と嘔吐はせめて菫ほど 飯塚真弓
億ションに巻きついてゐる春の蛇 石鎚優
原罪を問う君の頰に桜散る 井手ひとみ
ヒヤシンス後悔って一人芝居だ 大池桜子
リラ冷えや玉子しつかり焼く昭和 大渕久幸
高齢者は非国民だべ落椿 押勇次
モヒカンに滝が当たっておお寒い 葛城広光
干鱈焙る母亡き昼の野弁当 河田清峰
青き踏む生を満喫するために 日下若名
太刀魚のごとく白髪水俣よ 小林育子
教室に彼だけいない春の椅子 近藤真由美
手の平の蝌蚪ぷにぷにと児等囃す 佐々木妙子
半仙戯円周率のかなたまで 鈴木弘子
春泥や削除できない疵あまた 宙のふう
祖父の胸の静謐に置くライラック 立川真理
凜々と祖父は花野を作っていた 立川瑠璃
カモの首伸びて水面の桜かな 塚原久紅
蔓引くやあらぬ方より冬瓜来 土谷敏雄
春の風邪コンビニの一人鍋を買う 原美智子
傷付きやすき男が零る遅日かな 福岡日向子
恋猫をまね舐めてみる右の足 藤川宏樹
すてぜりふ残した背なに冬の月 丸山初美
餡蜜から向こう側は未知である 村上舞香
砲弾にパパ残りをり苜蓿 矢野二十四
恋猫や駅の正面墓地の山 山本まさゆき
厩戸の空蟬つまむ背後かな 吉田貢(吉は土に口)
家と家間をビュッと東風が行く 吉田もろび
啓蟄のひかりの渦に這い出せり わだようこ
ぼたん雪天使の耳のかたちして 渡辺のり子

『海原』No.38(2022/5/1発行)

◆No.38 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

胎動を撫でて小声の福は内 石橋いろり
ガスタンク球体の羽化寒の月 市原正直
開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
未来図ノ谺ノヨウニ冬木影 伊藤道郎
着ぶくれてマスクのなかの独り言 稲葉千尋
解体の原発鳩の群れ旋回 江井芳朗
介護です冬着に冬日遊ばせる 大髙洋子
駅ピアノ猫ふんじゃったは春の歌 奥山和子
街に風花脚注を付すように 片岡秀樹
親睦の真ん中に雪集めるよ 木下ようこ
葱みじんこだわりって何だったのか 楠井収
比喩で説く人生論や温め酒 齊藤しじみ
鬼遊び冬木は息を継ぐところ 三枝みずほ
雪が降る嗚咽のように啞のように 佐孝石画
画用紙に太き直線年始め 重松敬子
密集や風の窪みの仏の座 篠田悦子
産土を訪えば枯蘆無尽蔵 鈴木栄司
冬あたたか鮭のはみ出る握り飯 ダークシー美紀
あまりにもプライベートな冬薔薇 竹田昭江
立禅や二月二十日の開聞岳 立川弘子
ルルルッと鳴るよふたご座流星群 遠山郁好
除雪車の忘れる過疎地でも好きで 新野祐子
父の声谺とならず雪男体山なんたい 根本菜穂子
穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
小春日のぼけとつっこみ百寿かな 本田ひとみ
ランボオ忌の道路を歩く大白鳥 マブソン青眼
理科室のよう一人暮らしの元朝は 宮崎斗士
人生のゆるくくぼんで寒卵 室田洋子
感情は冬の翡翠ホバリング 横地かをる
べんじょ紙しみじみ白し十二月 横山隆

野﨑憲子●抄出

砲弾の白煙止むや雪ばんば 赤崎裕太
喪乱帖の王羲之唸る虎落笛 漆原義典
冬の海荒淫の日輪渺渺と 榎本祐子
虎の巻春の宇宙の歩き方 奥山和子
カブールの心火にあらず冬の星 桂凜火
野の心さらさら掬う春隣 川田由美子
先住の熊を起こさぬように行け 河西志帆
雪いつか本降り樅の立ちつくし 北村美都子
手にアララギの実楽しいは正義です 黒岡洋子
めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
お別れは朝の湯たんぽみたいにさ 小松敦
日脚伸ぶ氷点下二十度の太陽 佐藤博己
冬麗へ踏み出す一歩よっこらしょ 鱸久子
棄民のまなざし元朝の神経痛人 すずき穂波
自画像に寒紅すっと引きにけり 竹田昭江
雪片顔にひかり死はみんなのもの 竹本仰
母に会う七種粥の明るさの 月野ぽぽな
国栖人は鹿の尾をもつ藪椿 長尾向季
ラヴェルのボレロ銀杏黄落腑に満ちて 中野佑海
異端もない破綻もない俳句じゃない 並木邑人
人は人をつくらず地球がら空き 服部修一
水鳥や昨日は今日にもぐりこむ 平田薫
土くれも祈りのかたち遠冬嶺愛 藤田敦子
草餅を押して地球のぼんのくぼ 藤原美恵子
死ぬ気などなくて死にゆく薄氷 船越みよ
どんどんゆく冬木立どんどん 堀真知子
アフガンの子らの瞳や寒満月 前田典子
神は鷹を視ている鷹は私を視ている マブソン青眼
梅咲きぬどの小枝にも師の筆先 村上友子
やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

開戦日漬物石が見当たらぬ 伊藤雅彦
 「開戦日」はいうまでもなく、十二月八日対米開戦に踏み切った日。「漬物石」は漬物を作る際に、重石として用いる石のこと。歴史の転換点の日にも、ごく日常的な暮らしの営みで右往左往している庶民の姿がある。しかしもう一方では、日本が国際政治の渦中を戦争へと追い込まれていく流れがあり、その流れをせき止める重石のような存在が見当たらなかったことをも含意しているのかもしれない。これはやや穿ちすぎの時評的見方なのだが、開戦日をキーワードにして、二つの時間の流れを比喩的に重ねて詠んでいるとみたい。

介護です冬着に冬日遊ばせる 大髙洋子
 介護施設での老人たちの小春日の日向ぼこ。普段の暮らしの中で、冬着を日に干している景ともみられる。それを「冬着に冬日遊ばせる」と喩えた。有態は冬着を日光消毒しているのだろうが、冬着自体の介護のようにも見立てたのではないか。それは冬着を着ている老人たちの介護の姿そのものと重なる。上五には、冒頭「これは介護なんです」と宣言する作者の心意気が覗われる。

親睦の真ん中に雪集めるよ 木下ようこ
 雪の降る日。団地の広場のような場所で、久しぶりの井戸端会議風のおしゃべりを楽しんでいるグループなのかもしれない。その集いの真ん中に雪が降り積もっていく。親睦の輪の真ん中には、雪と共に言葉の輪がどんどん積み重なっていく感じを捉えている。下五「集めるよ」は「集まるよ」ではない。皆で「それいけ」とばかり、力をあわせて積み上げていく親睦の輪なのだ。「よ」の切字の働きが動きのノリになっている。

比喩で説く人生論や温め酒 齊藤しじみ
 戦前から戦後にかけての地方では、囲炉裏を囲んで、古老が若者たちに自分の体験談を語りながら、人生論にもつながる喩え話を披露していた。まさに滋味掬すべき体験談で、ほどよい燗の温め酒同様に、聴く者の肺腑に沁み込んでいく。今はそういう語部自体少なくなっているが、それこそ聴く者の胸のうちで発酵させ、ブレンドできる地酒のような得がたい語りではなかったか。

密集や風の窪みの仏の座 篠田悦子
 「密集や」で切っているから、いわゆる感染対策の標語となった三密の一つで、句の主格となっている。仏の座は春の七種で、新年の景物。ちょうど野を渡る風の吹き溜まりのような窪んだ場所に、蓮座のような可憐な花を開く。小さい花同士が身を潜め肩を寄せ合うようにして咲いているのを、これも一つの密集ですよ、気をつけて下さいと呼びかける。それはコロナ禍を生きる生きものへのいたわり。

ルルルッと鳴るよふたご座流星群 遠山郁好
 「ルルルッ」は、電話の呼び出し音のようなオノマトペだから、「ふたご座流星群」から発せられた電子音のようにも受け取れる。ふたご座は、北天ならカストルとポルックスの兄弟星、南天ならばケンタウルス座のα星とβ星という。一対の星同士が送受信の音を鳴らしながら、流星群の中で互いの安否を交信し合って流れていく。「ルルルッ」の擬音は、そんな天空のロマンをリアルに秋の夜空に描き出す。五七六の十八音で中七で句またがりとなる流麗な韻律だ。

除雪車の忘れる過疎地でも好きで 新野祐子
 作者の在地は山形だから、今年の豪雪はさぞご苦労されたことだろう。数メートルにもおよぶ積雪は、除雪車の出動なしにはとても除雪できるものではない。過疎の進んだ東北の農山村では、ほんの一握りの人口の村落も珍しくない。しかも高齢者ばかりとあっては声も届きにくいから、勢い公共の除雪車もつい忘れがち。そんな過疎地でも、私はこの田舎が好きという。「好きで」と言う思い切りのいい言い方に、「タマラナイ」の情感。

穏やかな断絶もあり注連飾る 藤田敦子
 正月を迎えるに当たり、日頃離れて暮らす子や孫たちが実家に集まって、注連飾りを手伝っている。一見平和な家族の団欒の景だが、内面では世代や居住環境の隔たりとともに、次第に疎隔や断絶感を覚えるようになってきている。例年の正月準備の表情の内に、徐々に変わりつつある家族のかたちを嗅ぎ取って、「穏やかな断絶もあり」と冷静なまなざしで捉え返す。これも今日的社会性俳句の一つとはいえまいか。

小春日のぼけとつっこみ百寿かな 本田ひとみ
 小春日の日向で老人同士が日向ぼこをしている。年寄りの集いの多くは寡黙なものだが、なかには結構独演振りを発揮する人もいて、いつも話の相方を見つけてはしゃべりまくる。いわゆる漫才でいう「ぼけとつっこみ」だが、茫然と聞いている大方の年寄りは、ほとんど無反応。それでも反応のなさなどまったくおかまいなしに、ぼけとつっこみの独演会は続く。そんな元気な年寄りは、百寿まで長生きしそう、いやもう百寿なのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

砲弾の白煙止むや雪ばんば 赤崎裕太
 「雪ばんば」は綿虫のこと。雪蛍ともいう。初冬の頃、青白い光を放って飛ぶ小さな虫たちの乱舞。雪ばんばはウクライナにも居るのだろうか?この号の出る五月には平和が戻ってきていることを願ってやまない。

喪乱帖の王羲之唸る虎落笛 漆原義典
 喪乱帖は、中国東晋の書家で政治家の王羲之の手紙の断片を集めたもの。羲之も北方民族に悩まされていた。縄張りも、報復も、まっぴらだと感じていたに違いない。二十一世紀の虎落笛に王羲之の呻きを聞くとは、斬新。

先住の熊を起こさぬように行け 河西志帆
 地球誕生から現在までを一年としたら、人類が登場したのは大晦日だという。その人類の歴史は征服の歴史でもある。この「先住の」生きものを慈しみ共生の道をひらくことが、その思いを伝える俳句が、今まさに崖っぷちに居る人類を救う最後の切り札のように痛感する。

雪いつか本降り樅の立ちつくし 北村美都子
 雪国に住む北村さんには雪の名句がたくさんある。樅の凜とした美しい立ち姿が作者のイメージと重なる。楸邨の「落葉松はいつめざめても雪降りをり」も浮かんで来る。どちらも沈黙の世界の見事な映像化である。

手にアララギの実楽しいは正義です 黒岡洋子
 アララギの実は真っ赤。種に毒があるという。掌のアララギの実が語っているのだ「楽しいは正義です」と。そう!生かされているのだから〈どんな時も楽しめ〉が人生の醍醐味。破調ゆえの、溢れんばかりの自由がある。

めくられて十二月八日千切らるる 小西瞬夏
 十二月八日は太平洋戦争開戦日である。と共に、ジョン・レノンが凶弾に倒れた日でもある。『ジョンの魂』の中で、「今まで読んだ詩の形態の中で俳句は一番美しいものだ。だから、これから書く作品は、より短く、より簡潔に、俳句的になっていくだろう」と語ってる。ジョンも、〈五七五の力〉に注目したのだ。「めくられて……千切らるる」と日めくりに焦点を合わせた瞬夏さんの鋭い感覚。「十二月八日」が、鮮やかに立ち上っている。

棄民のまなざし元朝の神経痛人 すずき穂波
 「神経痛人」の連作五句「神経痛人ちりちりひらく蝉氷」「鶴唳や衣擦れに泣く神経痛人」……どの作品からも刺すような痛みが伝わってくる。多分だが、神経細胞にも及んだ重度の帯状疱疹のように思われる。ご自身の症状を直視し、表現した圧巻の作家魂に深く感動した。

雪片顔にひかり死はみんなのもの 竹本仰
 作者は、淡路島に住む真言宗の古刹のご住職。色んな死に立ち会ってこられた。「雪片顔にひかり」から、霊柩車を参列者が取り囲み見送るシーンのように見えてくる。「死はみんなのもの」は、いのちは一つの思いに繋がる。

母に会う七種粥の明るさの 月野ぽぽ
 コロナ流行前のぽぽなさんは、毎年、母の日に合わせてニューヨークから長野に住むお母様の元に帰国していた。その度に吟行や句会をご一緒するのが楽しみだった。夢の中でのことかも知れないが再会されたのだ。「七種粥の明るさの」に、優しくて気丈な母上の面影が浮かぶ。

異端もない破綻もない俳句じゃない 並木邑人
 大ベテランの一句に重みがある。異端も破綻も丸ごと取り込み熱く渦巻く最短定型詩、それが俳句。多様性がいのちともいえる。師も、芭蕉も、その当時の前衛の最先端だった。前衛とは始原を見つめる眼でもある。その中から「俳諧自由」の世界観が生まれてきたのだ。

人は人をつくらず地球がら空き 服部修一
 あらゆる〈いのち〉は海から生まれて来たという。海のような心で人が人を育む原点に立ち返らねば「地球がら空き」になるという警句。近未来の世界の天辺に立つ人よ、海のような人であれ!その君よ、疾く現れよ!

神は鷹を視ている鷹は私を視ている マブソン青眼
 大いなるいのちを通しての視座。南洋の島へ単身乗り込み暮らした青眼さんならではの断定が心地よい。神は青眼さんを視ている、ということ。大いなるいのちの世界こそ「いのちの空間」であり、生きとし生けるものの根源である。そして世界最短定型詩の源でもあるのだ。

梅咲きぬどの小枝にも師の筆先 村上友子
 村上さんは、梅の花の一輪一輪を師の筆先と捉えたのだ。この一歩踏み込んだ新鮮な把握に、梅の香が、より濃く匂い立つ。そして花の奥から師の眼が光り、ウクライナ侵攻を怒る師の声が「俳句にして世界へ示せ!」と大音声で聞こえてくる。

やわらかなおじぎをひとつ冬木の芽 室田洋子
 挨拶で始まり挨拶で終わる日々の幸い。やわらかな心に争いは無い。冬木の芽は春には爛漫の花を咲かせる。

◆金子兜太 私の一句

気力確かにわれ死に得るや橅若葉 兜太
 地球上最大規模の橅原生林を有する朝日連峰の麓に私は暮らしている。橅の芽吹きと新緑は、数多の広葉樹の中で際立って美しい。先生の産土である秩父の山々にも橅の林があるだろう。先生は橅若葉を眺めてとっさに死について考えたと。当時七十代の先生、気力も体力も人一倍あったのに、なぜ?橅若葉の中を行けば、いのちは永遠であるように思えてくる私には、大きな衝撃だった。句集『両神』(平成7年)より。新野祐子

どれも口美し晩夏のジャズ一団 兜太
 昭和37年3月。私は兜太先生と四谷駅で「海程」創刊号の原稿を持って来る初代編集者の酒井弘司さんを待って印刷所へ行き食事をして新宿の劇場に行った。電飾下の華やかなジャズ演奏など聴いていると、先生はポケットからメモの紙切れを出して「この句はどうだ」と言った。それが掲句であった。この句を見るたびに、海程創刊の先生の心意気と美意識をあの夜の字句のそれぞれに重ねて思う。句集『蜿蜒』(昭和43年)より。前川弘明

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選
樹の洞に小さき蛙春燈 大山賢太
冬の虫とんでもないと思われて 奥野ちあき
○細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
ハロウィーン改札通る魔女その他 片岡秀樹
駆け出せば木の実降るよう追われるよう 河原珠美
○人間であること寂し冬木の芽 北上正枝
大根の穴の数ほどある戦禍 木村和彦
○毛糸編みつづける友よ逃げなくちゃ こしのゆみこ
草虱生きる術など足りている 佐藤詠子
霜柱踏む今生の大切さ 佐藤紀生子
老人の靴大きくて冬の旅 篠田悦子
巻耳おなもみよ誰が居たっけこの更地 鱸久子
たましいの天秤冬の水平線 たけなか華那
寝ころんでおまえは冬の銀河だな 竹本仰
水琴窟静かに秋とすれ違う 董振華
水たまりに秋風の貌主役だろ 野﨑憲子
十三夜妻のハンカチぶかたち 本田日出登
鍵穴を失くした鍵のよう暮秋 宮崎斗士
蕎麦の花われもだれかの遠い景 望月士郎
ヒヤシンス死んだ理由は残さない らふ亜沙弥

中内亮玄 選
漂着の陽のしわしわの案山子展 有村王志
赤子が笑う満月笑う笑う 伊藤道郎
読まないで印鑑を捺す鳥雲に 植竹利江
銀水引微熱くらいの不平等 奥山和子
○羽後しぐれ人も野面も口籠る 加藤昭子
約束の言葉寂しき秋なすび 狩野康子
気の弱い鶏から先に風邪をひく 河西志帆
○星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
○冬ざれや積み木のような虚栄心 佐藤詠子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
ため息を折り込む小指秋深し 高木水志
いつしかのロマンポルノと豆の花 田中信克
霜晴れをせり合う羽根の眩しさよ 董振華
心臓を無理なく生かせ冬来る 服部修一
雪見だいふく食べて火星に住むつもり 藤田敦子
地球との距離を律儀に初日の出 前田典子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
小鳥来るひたすら旅を言葉にす 横地かをる

望月士郎 選
木の洞のかなかなかなとふるへけり 内野修
亡夫の椅子名残の月と息合わす 狩野康子
○星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
水族館に魚の行進十二月 北上正枝
○毛糸編みつづける友よ逃げなくちゃ こしのゆみこ
我と吾林檎をひとつ齧りけり 小西瞬夏
敗者らに透く秋虹の脚太し 鈴木修一
○白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
陽炎も首など絞めてみる午後も 田中信克
こぼれ落つ乳歯石榴の酸っぱさに 東海林光代
不仕合せまじる仕合せ煙茸 鳥山由貴子
ちからしばひとりのときは力芝 平田薫
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
骨揚げを見ている遺影雁の声 船越みよ
このいのちかるしおもしと草の絮 前田典子
子供らと落葉を音に変えてゆく 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
「はいどうじょ」ドングリ一個たまわりぬ 森武晴美
合わせ鏡の軽い幽閉さよなら夏 茂里美絵
夭折といふ綾取のまだ途中 柳生正名

森武晴美 選
掃き残す枯葉のような記憶かな 伊藤歩
山盛りの気骨崩るる後の月 太田順子
次郎柿甘やかされて取りそこね 奥山和子
台風の色蹴散らして進みけり 小野裕三
○細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
○羽後しぐれ人も野面も口籠る 加藤昭子
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
○人間であること寂し冬木の芽 北上正枝
吐息のような風の霜月涙腺がゆるむ 小林まさる
○冬ざれや積み木のような虚栄心 佐藤詠子
○白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
日向ぼこ何処かが痛い人が寄り 中村道子
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
霧晴れて手足やさしくして歩く 横地かをる
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
老兵はしゃしゃり出るもの曼殊沙華 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

駆け出せば木の実降るよう追われるよう 河原珠美
 時間に遅れそうと小走りになったところ、体の動きに心が釣られてよけいに焦った経験を思い出しました。森の中で突然前触れもなく木の実が落ちてきた時のドキドキ感と、鬼ごっこをした時のようなワクワク感。ちょっとした心の変化を、丁寧にしかも意外な二つの喩えで表現していて楽しい句でした。

大根の穴の数ほどある戦禍 木村和彦
 丹精して育てた大根を収穫した充実感。でも作者は、畑に残った夥しい穴に戦禍を連想しました。大根の穴のように身近にある戦争。この文を書いている今、テレビではロシアのウクライナ侵攻の映像が次々映しだされています。非日常がいつの間にか日常になる怖さを感じます。

霜柱踏む今生の大切さ 佐藤紀生子
 土を被ってるため気づかずに、大きな霜柱をごりっと踏むことがあります。そんな時「あっ」と思います。霜柱を踏んだことで強く意識される「今」。人には「今」しかないといいます。過去は取り返しがつかず、いくら心配しても未来はなるようにしかならない。だから今現在をしっかり生きろというのが、釈迦の忠告です。
(鑑賞・伊藤歩)

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 一読して、目の前にゴッホの絵画があった。具体的に何と言うのではない、例えば「星月夜」あるいは「星降る夜」、いや「糸杉と星の見える道」だろうか。動くはずのない星が軽やかに動き、現実世界ではモミの木が店に入荷されてくる。いや、私の目の前にモミの木があるのは、世界の隙間から星が入り込んだからかもしれない。

霜晴れをせり合う羽根の眩しさよ 董振華
 頬を切るような冴えた冬の朝、霜の白い結晶が光っている。きらきらと朝日に輝く繊細な光だ。しかし、次の瞬間にカメラは頭上に向けられる。映像は真っ青な空にむつみ合う小鳥たち。羽ばたきも、子どもたちが競い合うようで微笑ましく、その向こうには朝日が眩しい。地上も天空も光あふれる、今日はきっといい日だ。

ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
 男子の変声期前にしか出ない高音域は「天使の歌声」などとも呼ばれ古来より愛されてきた。作者は、この美しい歌声を、レモンを一絞りしたようだと例えて見せる。言葉では伝えることの難しい「声」が、きゅっというオノマトペとも相まって生き生きと伝わってくる。破調ながら、俳句ならではの「言葉の結晶」と思う。
(鑑賞・中内亮玄)

陽炎も首など絞めてみる午後も 田中信克
 二つの「も」によって並列された事柄が、隠れたあるものを指し示しています。それは「今日ママンが死んだ」数日後に犯した殺人事件のようなものなのか、それとも退屈な午後の白日夢なのか。意識的に芝居がかったと思われるこの句は、しかし、そのどちらでもあり、どちらでもなく、多分どうでもよいのでしょう。

骨揚げを見ている遺影雁の声 船越みよ
 静かに微笑んでいる遺影のその頬や顎の骨、頭骨や脛骨が目の前にあります。その遺影の視線、この生前と死後が互いを内包するような空間。そして箸を持てば鳥葬の鳥になった気分なのです。「ホラホラ、これが僕の骨」の中也に似て、読者のその時を既視に変えてゆきます。しばらくして、遺骨の後ろを遺影が歩いてゆきました。

「はいどうじょ」ドングリ一個たまわりぬ 森武晴美
 意味を追うと見えないのですが、隠れて読みに影響する声があるのです。この句では「はいどうじょ」の中に童女と泥鰌が見つかりました。すると童謡「どんぐりころころ」をBGMにして、不思議な童女にもらったドングリから始まる物語を、知らぬ間に読者それぞれが語り始めます。こんなこと俳句ならではの技法でしょう。
(鑑賞・望月士郎)

次郎柿甘やかされて取りそこね 奥山和子
 甘やかされてが次郎柿に合っていて、取りそこねで決まりましたね。得てして、長男は家督を継ぐので大切に、しかし厳しく育てられた。それに比べ次男は、比較的のんびりと甘やかされた。友人、知人の兄弟や姉妹にもその傾向が見られる。取りそこなったのはいったい何。取り残された次郎柿はどうなった。気になるところだ。

細りゆくこころ深く切る梨の芯 柏原喜久恵
 年齢を重ねていくと、今まで出来ていたことが、ふっと出来なくなる。その時の心細さ、このまま年老いて何も出来なくなるのではと、不安が心を過る。その思いを断ち切るように、梨の芯を深く切り取る。梨のザラッとした果肉の感触が、包丁を通して伝わってくる。細りゆくこころの表記が、凜として清々しい。

着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
 着ぶくれてが、なかなか効いていると思う。記憶力の低下は年々ひどくなり、悲しいと言うよりおかしくなってくる。昨日の逃げ足が一番早く、五十年前は逃げずにずっと居てくれる。身体的な老化も、精神面の老化も、仕方のないことだが、受け入れるのはむずかしい。着ぶくれて、昔の記憶と遊ぶことにしよう。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

今生の右側には君蒲団干す 有栖川蘭子
寂しさの手が大根を摺り下ろす 淡路放生
愛されし記憶まるむる浮寝鳥 飯塚真弓
牡蠣鍋のまだ生臭き命かな 井手ひとみ
ゲルニカを鸚哥と観ている炬燵かな 上田輝子
発熱の君を包んで霜夜です 遠藤路子
大寒にして我が恋の決戦日 大池桜子
ぬかづくとはこのこと母の初参り 梶原敏子
公園に誰もいなくて脳死かな 葛城広光
日の本に生まれ睦月の握り飯 木村寛伸
水仙は少し物申したげ我のよう 日下若名
蜜柑むく一人芝居の気まずさに 小林育子
木枯しが母の話の邪魔をする 近藤真由美
弥勒像日向ぼこして坐しけり 佐竹佐介
囃されて赤ちゃん三歩春うらら 重松俊一
成人の日の振袖とコロナかな 鈴木弘子
綾取りのれては消える多角形 立川真理
人に尾の跡鯨に骨盤の跡 谷川かつゑ
「ご健脚ね」薄笑いする雪女 藤玲人
初鏡遠い母いて私です 中尾よしこ
不在の冬の菫のその向こう 服部紀子
去年今年昨日のケーキ持て余す 福田博之
スギハラの命のビザや冬銀河 藤井久代
年惜しむやがて校歌の消える村 丸山初美
冬紅葉残照にあり友の墓 武藤幹
用もなき背広かけ置く冬座敷 矢野二十四
水仙や抱かれて青き駿河湾 山本まさゆき
道まがれば橋遠ざかる暮の春 吉田貢(吉は土に口)
受刑服雪より白き過去包み 渡邉照香
寒満月浮かぶ地球のふかい闇 渡辺のり子

『海原』No.37(2022/4/1発行)

◆No.37 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

長命の虎の巻其の二猫じゃらし 綾田節子
羽後残照見開き悼武藤鉦二兄ひと言夜の灯 有村王志
冤罪は小さな箱の中粉雪 泉陽太郎
欠礼のはがきガラスに点る顔 市原正直
野仏の膝は日溜り冬の蝶 伊藤巌
冬薔薇を植え片思い日常に 大池美木
立冬の椅子の周りに椅子のあり 小野裕三
ブースター接種告知板から冬の蜂 桂凜火
ぞくぞくと冬芽哀しみは未だ半端 加藤昭子
沖縄にない狐火を表記せよ 河西志帆
しゃらしゃらと狐狸の目をして着脹れて 北上正枝
新資本主義群集の白長須鯨しろながす 今野修三
木の実ふるふる整理整頓苦手組 芹沢愛子
黄落や祈る形で佇めり 髙井元一
鳥風か追憶のページさざなみす 田口満代子
十二月選ぶ感情的な花 たけなか華那
冬蝶や誰も気づかぬ風がある 竹本仰
淡く濃く人はみな泣く桜かな 田中信克
つぎはぎの重い空から雪の花 中内亮玄
死なぬならまだのんびりと根深汁 中川邦雄
「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
早世の墓誌銘に触れ風花 根本菜穂子
若き白息伐られ大地に身を打つ木 藤野武
去年から開かぬシャッター冬銀河 藤原美恵子
枯菊を焚くや感情かをりたつ 前田典子
綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
私の棲むわたしのからだ雪明り 望月士郎
月蝕やどこかで冬のサーカス団 茂里美絵
良縁をまとめどさっと深谷葱 森由美子
着膨れてアナログ気取る老教師 渡辺厳太郎

野﨑憲子●抄出

兜太かなおいと貌出す春の山 有村王志
白鳥のおさなり後ろ手に歩く 石川青狼
爪のびた〜港公園冬うらら 石川まゆみ
野仏の膝は日溜り冬の蜂 伊藤巌
その魚いずれやってくる冬至かな 上原祥子
富士薊ごつつい刺に雨滴溜め 内野修
仮面の赤アラビア文字の立ち上がる 大西健司
ゲルニカの馬のいななき人類よ 岡崎万寿
小春日が大好きなんだ鳶の笛 河原珠美
正義は直感すぐ折れる水仙 黍野恵
狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
つぶやきをAIききとってうさぎ 三枝みずほ
もみじ葉のはぐれて光となる遊び 佐孝石画
降り切って冬空太古の紺流す 十河宣洋
流感処分の鶏に隊列十二月八日 高木一惠
定住漂泊うつつごころに初しぐれ 田口満代子
蹉跌あり桜紅葉の黒き染み 田中亜美
吉野源流秋螢よろぼうて 樽谷宗寬
冬晴れの原爆ドーム命美し 寺町志津子
月冴ゆるぞっとするほど痛き街 豊原清明
「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
ゆつくりと昔をほどく大焚火 故・丹羽美智子
球音響く軍神二十歳の冬森に熊 野田信章
血管を見せにくる馬雪催 松本勇二
つくづくラクダおもいきり嚔して 三世川浩司
シナリオを捨てていよいよ冬の蝶 宮崎斗士
山眠る霊長類の笑い皺 三好つや子
どどん「どん底」客席にマスク百 柳生正名
ひとつたましい月光浴に焦げる焦げる 山本掌
柊の花より淡く母居たり 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

羽後残照見開きひと言夜の灯 有村王志
 「悼武藤鉦二兄」の前書きがある。「見開きひと言」は、秋田の武藤氏の在地とその句集への、親しみと敬意を込めた挨拶句であろう。昼間の仕事を終えた夜、机上に『羽後残照』を開いてひと言、「読ませて頂きます」と故人に挨拶して読み始めたのではないか。その開巻第一句を読んだとき、「羽後残照」を真浴びしたように体感したに違いない。「見開きひと言」に、作者の追悼の姿勢が深く刻み付けられている。

冬薔薇を植え片思い日常に 大池美木
 作者の本意がどういうものかよくはわからないが、冬薔薇を植えて、片思いを日常的に思い返したいと書いている。冬薔薇に、片思いにつながるものを感じているのだろうか。おそらくは遠い思い出で、思い返すたびに、ちょっと切なく、甘く、若やいだ気持ちに帰ることができる。冬薔薇の花の質感に呼び覚まされ、しばしその陶酔感に浸る気分を味わっている。冬薔薇のひめやかな気配にも合う。

しゃらしゃらと狐狸の目をして着脹れて 北上正枝
 「しゃらしゃら」は、薄い布などが軽く摩擦する様子を表す擬音語。ややマイナスよりのイメージで、軽薄さを暗示するという。「狐狸の目をして」とあるから、和服を幾重にも着込み着膨れている様は、狐や狸が化けたようにも見える。このような風俗風刺の句は、よほど自分がしっかりと立っていなければ悪ふざけになりかねない。ご主人を亡くされてなお、このように冷静な批評眼を失わない作者に脱帽する。

新資本主義群集の白長須鯨しろながす 今野修三
 今日の時事的課題を端的に取り上げ、生まの時事用語と比喩によって表現した野心作。俳句というより川柳に近い散文的批評性を持つ。「新資本主義」はいうまでもなく岸田首相が提唱した政治思想または姿勢で、中身はひと言で言って、所得格差を縮小して経済を安定させ成長と分配の好循環を図ること。「群集の白長須鯨」とは、いわゆるポピュリズムを指す。その口当たりの良さを読者に問題提起して、さあどうすると迫って来る一句。

十二月選ぶ感情的な花 たけなか華那
 十二月は一年の総決算の月だけに、日常はあわただしく、一年を振り返ればさまざまな思いも行き交う。その中で作者のいう「感情的な花」とは何で、「選ぶ」とはどういうことなのか。おそらく、一人ひとり違う花で、他人の花を賛美するというより、否定的に見たり、ねたましく思ったりしているに違いない。作者はそんな感情的な花をどう選ぶのか、まだ迷っているのかもしれないし、誰かに勧められたとしても、決して納得することはないだろう。そんな際どい心理を句にしたようにも見える。

淡く濃く人はみな泣く桜かな 田中信克
 桜は、日本人独特の無常観と結びついた詩歌の世界の代表的な花で、単に花といえば桜を指すとさえ言われている。だからこの句は、桜に寄せる日本人の通念的心情を、ごく庶民感覚的に書き留めたものともいえる。桜を見ては、「人はみな泣」いてきた。それは必ずしも悲しみばかりでなく、喜びに於いてさえ泣いた。その感情の圧力もさまざまで、時に応じて「淡く濃く」なった。上五に据えたニュアンスが桜の歴史的質感だった。

若き白息伐られ大地に身を打つ木 藤野武
 「若き白息」で切り、山深い森林で、伐採に勤しんでいる若者像が浮かぶ。中下では、伐られてどうと大地に倒れ伏す巨樹を描く。昔からある林業の実景だが、最近は我が国の林業も長引く不況と人手不足から存続の危機に立たされているようだ。その中で掲句のような大自然の原風景に立つ木の力感と若者の立ち姿には、生まの生きもの感覚が息づいていて、にわかに力づけられるような気がしてくる。

枯菊を焚くや感情かをりたつ 前田典子
 前掲たけなか句の〈十二月選ぶ感情的な花〉とは好対照の一句。たけなか句の方が心象映像的なのに対し、前田句は即物的な生きもの感覚ともいえよう。筆者は枯菊を焚くかおりを経験したことはないが、おそらくのこんのいのちを感じさせるような、老いの情念にも似た、かぐわしい「感情のかをり」があるのではないだろうか。枯菊の焼ける物音にも、激しく感情を揺さぶられながら。

綿虫や二度寝のようにあなたと逢う 宮崎斗士
 日常心理の襞を軽妙な比喩で新鮮に捉え返す感性において、作者の右に出るものは、わが「海原」においてもそうはいないだろう。冬のどんよりした日に、綿虫が白い灰のように二三そして四五と舞い上がってくる。その気配に二度寝のような倦怠感を覚えながら、「あなたと逢う」という。どうやら二人の間に漣が立ち始めたのかもしれない。こういう負の心理感覚は、この作者には珍しいものだが、これも作品世界の新しい局面として拓かれたものだろう。

◆海原秀句鑑賞 野﨑憲子

兜太かなおいと貌出す春の山 有村王志
 二月二十日の金子兜太師の忌日を前に稿を書き始めた。他界の師は、高松での句会へも来てくださっている気配がある。〈おいと貌出す〉がいかにも先生らしい。「海原」の将来を見守ってくださっていると確信している。

その魚いずれやってくる冬至かな 上原祥子
 一読、飯島晴子の言葉が蘇った。「……そのなかには、俳句という特殊な釣針でなければ上げることの出来ないものが、必ずあるという強い畏れを感じる。小さい魚だから小さい針とは限らない。大きい魚だから小さい針ということも成立つ」。そんな幻の魚を待っている人がここにも居た。奇跡は信じる人のところにきっとやってくる。

ゲルニカの馬のいななき人類よ 岡崎万寿
 ピカソが、母国スペインのバスク地方ゲルニカへの無差別空爆を描いた傑作「ゲルニカ」。絵の中の馬の嘶きは、ますます大きな叫びとなっている。今まさに崖っぷちにいる人類へ、掲句の問いかけが、さらなる珠玉の句を生み渦となり全世界へ広がるよう願わずにいられない。

正義は直感すぐ折れる水仙 黍野恵
 直感はほとんどが当たっている。正義は直感であると断言する作者。〈すぐ折れる水仙〉の切り返しが見事。でも束にしたら折れない。「花八手愛敬じゃなくくそ度胸」の句も、実に小気味よい。限りなく前向きな黍野さんの真骨頂の作品である。

狩人にくっついていく風や雲 こしのゆみこ
 風や雲が従ってゆく、この狩人はマタギ。天地に祈り感謝し、必要なだけ狩をさせてもらっているのだ。自然と共に生きることの大切さを教えてくれる作品である。こしのさんの作品には、愛が溢れている。

つぶやきをAIききとってうさぎ 三枝みずほ
 このAIは、兎の形をしているのだろうか、平仮名の真ん中にアルファベットの二字。なんだか風のリボンのように見えてくる。五句の中には「石仏を打つ雨わたし濃くなりぬ」「世界中の時計を合わすつめたい手」。鋭敏な生きもの感覚と宇宙をも俯瞰した俳句眼。金子先生にお会いしたかったと熱く語る彼女に、師は他界で頷きながら眼を細めていらっしゃることだろう。

流感処分の鶏に隊列十二月八日 高木一惠
 鳥インフルエンザに罹った鶏の殺処分報道の度、他に方法が無いのかと胸が痛む。〈鶏に隊列〉に続く、太平洋戦争開戦日。その通底するものに愕然とする。掲句は、人類の足元を見直す大切な警句であるとおもう。

「照一隅」クリスマスの灯に隣るかな 新野祐子
 「照一隅」は、長年、アフガニスタンに赴き、医師としての活動の枠を超え用水路の建設など現地の人たちに寄り添い続け銃弾に倒れた中村哲さんが愛した言葉。その仏教用語とクリスマスとの絶妙の対比。仏教もキリスト教もイスラム教も包含した他界、即ち「いのちの空間」へと向かう深い愛を見事に表現している。

ゆつくりと昔をほどく大焚火 故・丹羽美智子
 丹羽さんは百歳。齢を重ねるからこそ見えてくる世界がある。大焚火の炎の中に、色んな時間が浮かんでは消えてゆく。

球音響く軍神二十歳の冬森に 野田信章
 二十歳で英霊となったこの青年は野球が好きだったのだろう。〈冬森に〉に万感の思いが籠る。他に、「洗われて入れ歯カッカッ笑う冬」。野田さんの、傘寿を超えた今も健在の少年の眼差しと、深い俳句愛、そして真摯な生き様に限りなく憧れる。

シナリオを捨てていよいよ冬の蝶 宮崎斗士
 最後の「俳句道場」での閉会の辞を述べた宮崎さんの、バナナの化身のようなコスチューム姿が今も忘れられない。バナナが大好きだった師は、よく道場の机の上のバナナを眼を閉じて美味しそうに召し上がっていらした。この粋な芝居っ気に「海原」の僥倖を感じた。そう!シナリオを捨てて表舞台へ、冬蝶さんよ。これからが、いよいよ人生の本番。「海原」から新しい神話が始まる。

どどん「どん底」客席にマスク百 柳生正名
 猛烈なビートで、どん底を蹴飛ばしてコロナ後に新しい時代がやって来る。「布団の奥アンモナイトの息をする」「てつぺんでキューピー尖る師走八日」も柳生さん。始原から現代へ、様々な時代を詠み込み進化してゆく。これぞ『俳諧自由』の「海原」発、俳句新時代!

ひとつたましい月光浴に焦げる焦げる 山本掌
 この美しい調べに魅了された。〈ひとつたましひ〉の倒置の妙。月光浴に焦げるという感性の豊かさ、全身全霊で月光浴をしているのだ。まさに魂の歓喜の詩。

◆金子兜太 私の一句

三日月がめそめそといる米の飯 兜太

 飯粒の一つ一つの擬人化であろう。日本人なら毎日、口にしているそれこそ糊口である。作者の意図から離れて、改めて字句を追うと“ぞ”と読める。ネガティブな思いが浮かび上がってくるが完円ならぬ月に古来から米に纏る物語がここにある。米を作る人、それを食べる人が見えて来よう。狩猟生活から定住農業以後の道程という先人の営みの泥土と苦汁が見えて来るのではないか。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。佃悦夫

木曾のなあ木曾の炭馬並びる 兜太

 俳句道場でのことでした。私が句稿を書く当番になり、あと一句兜太先生の欄が空いていました。鈴木孝信氏が優しく厳しく先生を見守っておられる。先生は「うーん、うーん」とうなっておられる。道場出席者全員のため誠実に考えぬかれる姿でした。とても懐かしい思い出です。この句の「糞る」は信州北信地方では日常使ってましたが、句に会った時は驚きました。句集『少年』(昭和30年)より。梨本洋子

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選
舌足らずの鬼灯一灯いかがです 石川青狼
訃は岬白い夜長のはじまれる 伊藤道郎
濁世美し解体現場の藪枯らし 尾形ゆきお
榧の実や受け入れること笑うこと 奥山津々子
大根や一粒の種みごとなり 尾野久子
捨田から始まる花野父点る 加藤昭子
北塞ぐ窓から夜の川流す 河西志帆
木の実落つ独りよがりの子煩悩 楠井収
群衆の眼に忘却の泡立草 佐々木義雄
鉦叩にんげんが急にあふれたよ 長谷川順子
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
蓑虫や笑顔をしまいかねている 藤田敦子
故郷遠し枝豆の湯気青臭く 藤野武
小鳥来る少しづつあきらめも来る 前田典子
能面の右目左目雪虫飛ぶ 前田恵
○犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
もう隠せない秋バラそれぞれの深傷ふかで 村上友子
淋しらを洗濯する娘十三夜 森鈴
○夕かなかなちちはは水になる途中 茂里美絵
酒に泡浮き十三夜月咲いた 柳生正名

中内亮玄 選
新米の湯気にしばらく顔を寄せ 伊藤雅彦
骨上げのコトコト鳴りぬ今年酒 上野昭子
色即是空問題は秋の雨 大西健司
退屈は罠だ秋の蚊が匂う 尾形ゆきお
秋冷や我に「訓練」という輩 川嶋安起夫
既読既読玻璃の底なる十三夜 川田由美子
蟷螂のよそ見する間に駆落ちす 河原珠美
西鶴忌外科医の朱いスニーカー 黒済泰子
秋風の孕み楕円の路地に入る 佐々木義雄
まじめに泣く赤ん坊です天高し 竹田昭江
落花生パッキパッキの個性です 田中裕子
連雀や星ぼし速さ競い合う 豊原清明
色変へぬ松や多感な米寿なり 中川邦雄
寒月よ花挿すように絶句せよ ナカムラ薫
さりげなく墓仕舞のことちちろ鳴く 平山圭子
○腹やら腰やらずしりと笑う柿熟す 藤原美恵子
秋の蚊の離れたがらぬわが臀部 三浦静佳
猫の耳つまみ尽くして冬野なり 水野真由美
ふってきたどんぐりピカピカ児の歌も 三世川浩司
露草に雨腐れ縁のような雨 梁瀬道子

望月士郎 選
魂に宿る肉体白鬼灯 泉陽太郎
木耳のふくよか夕日の耳打ち 伊藤清雄
わたくしの内の雌雄や菊人形 榎本祐子
赤ちゃんも地球も丸い林檎剥く 大池美木
辞書の上空蝉ふたつ組み合はせ 木下ようこ
蝉時雨われを遠くにしていたる 黒岡洋子
老眼のツルとマスクの絡みかな 佐藤稚鬼
白曼珠沙華母の晴れ着の端切れです 鱸久子
漢字すべてにルビふる鏡花星月夜 芹沢愛子
切り取ってぺたっと貼った満満月 たけなか華那
すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
実石榴の軋んで少女たちの黙 月野ぽぽな
いぼむしり泳ぎ疲れたように街 遠山郁好
実紫ネパール人の密語洩れ 日高玲
紫苑とても遠い日があったむらさき 平田薫
花芒揺れて私という彼方 藤原美恵子
○犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
まんじゅしゃげ白まんじゅしゃげ長い宿題 室田洋子
○夕かなかなちちはは水になる途中 茂里美絵
あかのままあだちがはらのあやとり 山本掌

森武晴美 選
台風接近真っ先に飛ぶ口約束 石川青狼
十六夜やコロナ以外のあまたの死 江良修
我が儘と自由の間濁り酒 大西恵美子
薄原遠くで呼ぶから答えない 奥山和子
手話の指秋の光を掬いあげ 狩野康子
やぶからし一行目からまちがえる 河西志帆
蔓ばらは身に曲線の支柱得て 北村美都子
感情だって夏痩せします自粛自粛 黒済泰子
握手してハグして青春マスカット 小林花代
雷のとどろき余生裏返す 佐々木昇一
コスモスに空は空色用意して 篠田悦子
独り身っぽい男が夫しゃくとり虫 芹沢愛子
被曝の葛被曝の柿の木を縛る 中村晋
水澄むやうらもおもてもなくひとり 丹生千賀
寝違えのこむら返りのからすうり 平田恒子
大胆に水溜りの月跨ぎくる 平山圭子
○腹やら腰やらずしりと笑う柿熟す 藤原美恵子
出不精でも引き籠りでもなし鶏頭咲く 深山未遊
落葉とマスク掃き寄せていて祈る 村上友子
目汁鼻汁干からびゆくよ赤のまま 村松喜代

◆三句鑑賞

訃は岬白い夜長のはじまれる 伊藤道郎
 比喩を使って、きっぱり言いきった書き出しに意表を突かれました。岬は、海に迫り出した陸の孤島。絶え間なく聞こえる波音と風音は、突然の訃報に、襲ってきた孤独感と、動揺する心の内を表しているようです。色の使い方も巧みで、これから始まるであろう眠れない長い夜を思い、暗澹とするのです。

小鳥来る少しづつあきらめも来る 前田典子
 「あきらめ」の内容によっては深刻になりがちなことも、擬人法を使ってさらりとうたっています。小鳥を見かけることが増え、嫌でも夏の終わりと秋の訪れを意識するようになった頃、季節の移り変わりと共に失っていく人や物。自身の老いと共に縁遠くなった行動などもあるかもしれない。三つに切れるリズムも句の内容を伝えてくれています。

犬抱けば犬も木霊を待ちをりぬ 水野真由美
 犬は興奮するとよく震えることがあって、そんな時抱きしめると、その震えが伝わってきて、その命に感じ入ります。言葉を使っての意思疎通はできなくても触れることで伝えたり共有したりできるものもある。一人と一匹が共有できた楽しい時間や感情を思い出しました。
(鑑賞・伊藤歩)

秋風の孕み楕円の路地に入る 佐々木義雄
 商店街の路地を歩けば、突き当りが楕円の広場にでもなっているのか、あるいは路地へ入っていく私の視界が丸く歪むのか、「楕円」のイメージが虚実を膨らませる作品。楕円の路地に楕円の私がさまよえば、くるり落葉を舞い上げて、たっぷりとぶつかってくる秋の風。療養中の作者には、新しい命をも感じさせるその風の重さ。

猫の耳つまみ尽くして冬野なり 水野真由美
 飼い猫を撫でながら、耳をマッサージしてやる。皆さんはご自分の耳をつまんでみて欲しい。さて、それは物思いにふけっているのか作句に悩んでいるのか、いずれにせよ何か考え事をしている時の姿ではないだろうか。本当につまんでいるのは猫の耳か私の耳か。生ぬるい被膜をつまんでいれば、枯れた冬野に行き当たった。

ふってきたどんぐりピカピカ児の歌も 三世川浩司
 どんぐりが降っている。子どもたちが歌を歌うなら、もちろん「どんぐりコロコロ♪」だろう。掲句は一読、コロコロをピカピカと替えた、動きの擬態語を形態の擬態語に替えた、つまらぬ工夫がされている。ところが、何度も読み返すうち、「どんぐりピカピカ」が実にいいことに気づく。子どもたちの目が、輝いている。
(鑑賞・中内亮玄)

辞書の上空蝉ふたつ組み合はせ 木下ようこ
 蝉殻のあの形態からすると、この「ふたつ」は相撲の蹲踞の姿勢から立ち上がり、組み合おうとする瞬間に似ています。土俵は辞書、できれば『大辞林』がよいでしょう。言葉という幼虫がこの林の地中にうようよです。完全主義を目指す辞書の上に置かれた空蝉=現し身。辞書と空蝉の軽重いの対比も妙です。

白曼珠沙華母の晴れ着の端切れです 鱸久子
 「晴れ着」と「端切れ」がアナグラムの関係にあります。このささやかな発見は、人の一生を鮮やかに象徴するものとなっていて、秘密を解く鍵のような効果をしています。赤ではなく白い曼珠沙華の斡旋も静かな毒を感じさせ、「ハハ」「ハレギ」「ハギレ」の頭韻も、なにやらの呪文のように秘密めいて響いてくるのでした。

あかのままあだちがはらのあやとり 山本掌
 全ひらがな表記、「あ」の頭韻、それに十六音中十一音を数える「A」の母音。「あかのまま」「あだちがはら」「あやとり」の三題噺を仕上げるのは読者それぞれに任されます。しかし、意味で繋ごうとすると途方に暮れるのです。抽象絵画における色、形、配置のように、言葉の戯れを愉しめば良いのでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

十六夜やコロナ以外のあまたの死 江良修
 デルタ株が収束しつつあった昨年末、オミクロン株がこれほど蔓延するとは思っていなかった。毎日感染者は急増し、ワクチン接種は進まない。一方、コロナ以外の死も当然あるのだが、報道はされていない。作者は医療従事者として、その死に深く向きあっている。十六夜の月がやさしいのか、冷たいのか、胸中やいかに。

コスモスに空は空色用意して 篠田悦子
 空に空色は当たり前のようだが、案外少ない。冬は曇天だし、春には霞がかかり、梅雨空となる。コスモスが一番映えるバックは何か、やっぱり青空。濃い青色よりも薄い空色。空が空色を用意したと詠んだ作者の気持ちがやさしい。空色の空の下、それぞれの色を風に揺らして咲くコスモス。この風景をいつまでもと思えた一句。

寝違えのこむら返りのからすうり 平田恒子
 一読して思わず笑ってしまった。上五中七を「の」で繫いだことでリズムが生まれ、その流れがからすうりにうまく乗ったと思う。笑い事ではない、寝違えもこむら返りも、からすうりの色や形で救われたような気になる。からすうりも、よく詠まれる季語ではあるが、なかなか手強い相手。うまく処理した句と思う。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

冬銀河柩にはふる十七音 有馬育代
冬蝶のステンドグラスとなり了る 淡路放生
折り目から地図破れゆく冬の雨 井手ひとみ
後輩の息子いっぱし阪神忌 植朋子
冬休み少女は安吾を読むと言ふ 上田輝子
すぐみかんとか出してくる母が好き 大池桜子
事始めとうカレンダー誰も来ぬ かさいともこ
入学の二日前から風呂にこもる 葛城広光
犬小屋に居らぬ次郎に冬桜 河田清峰
茶の花の明るい家の明るいひと 日下若名
スマホの手覚束無くて寅彦忌 古賀侑子
アフガンの飢えの紙面へ薯の皮 後藤雅文
十二月八日補聴器に雑音 小林ろば
どの人も師走になってゆく風か 重松俊一
我が生のここまで来たる木の葉髪 鈴木弘子
泣きそうに恍惚の中枯蟷螂 宙のふう
「ニーッ」といふは笑いの形受験生 立川真理
冬薔薇四季咲きといふ疲れかな 立川由紀
人といふ病ひのありてちちろ鳴く 立川瑠璃
キュビスムの句詠みたき夕焼ピカソ展 平井利恵
新しい資本主義とか枯空木 深澤格子
冬兆す出羽や荒ぶる神を抱く 福井明子
大根煮て醤油懐柔されにけり 福田博之
にぎはひの中心なからに老母春近し 松岡早苗
短日や地を打って竹籠を編む 村上紀子
盂蘭盆會戰に死にし碑は高し 吉田貢(吉は土に口)
水仙のピエロにみへてひきかへす 路志田美子
冬の雨言葉を探す医師の手美し わだようこ
大寒の虹骨壺に納めけり 渡邉照香
枯芒まだ返り血は乾かない 渡辺のり子

雪 大沢輝一

『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

雪 大沢輝一

切切と雪に雪降り潟泊り
霏霏と雪鴉よ白くなりなさい
雪のメモ解読しない潟の人

冬の潟ごっつんこする硬い風
寒い潟僕のそびらを僕が押す
潟の鳥毀れて雪になったきり
冬の潟老婆ぽつんと吹き曝し
冬眠の爺婆すでに虫だった
おっ母よ潟の夜も雪が匍う
潟風の聲雪雪と聞え来る

沸騰 大沢輝一

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

沸騰 大沢輝一

冬の鳥作業衣のごと雨の中
冬鳥に生まれてそして潟は潟
冬の鳶なんども空にぶつかって

鴉からす雪風咥え啼けぬなり
雪の日の鷺閉じきって石器です
蘇るためまた潜るかいつぶり
水鳥の快感水を嚙み砕く
もうもうと白鳥生理急ぐなり
眠る白鳥柔らかな卵です
白鳥群啼くというより沸騰す

ピロピロ笛 鳥山由貴子

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

第3回海原賞受賞 特別作品20句

ピロピロ笛 鳥山由貴子

永遠の花野に軋む観覧車
左手が生む詩つぎのページに冬青の実
落し穴少し欠けてる冬の月
やさしさと赤いセーターちくちくす
雪降り積むかすかに蜂鳥の羽音
鳰を待つ夕暮色の椅子ひとつ
ハレの日ケの日鼠黐の実食べ尽くす
龍の玉まだあたらしき死者の声
水時計水の一滴ずつ凍る
冬銀河ガラスの階段踏み外す
一月のサイコロキャラメル展開図
誕生石は美しき血の色雪兎
手のひらに文鳥文庫二月果つ
フラスコの中で生まれてゆく海市
妄想の旅どの街も黄砂降る
わがままな私ときどきヒヤシンス
春泥を愛しどこまでも少女
街はきさらぎスパンコールを散らかして
春の蠅ガラクタの中にあるひかり
野遊びのようピロピロ笛を吹鳴らす

『海原』No.36(2022/3/1発行)

No.36 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
銀杏大樹兄サが降りてきそうな日 大沢輝一
冬の雷不穏不穏と救急車 大西政司
ちひろ好きの亡妻つまの小机柿落葉 岡崎万寿
キスをする男と男鬼胡桃 小野裕三
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
枯すすき名もなき咎を負うがごと 黒済泰子
おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
返り花「何とかなる」をエールとす 篠田悦子
山眠るもののけ微かな息そろう 十河宣洋
白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
愛みたいな初雪の日の深呼吸 たけなか華那
考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
ハミングハミング空に白い曼珠沙華 遠山郁好
蟻君ありんこ忌夫婦漫才またトチる 遠山恵子(藤本義一の忌)
フクシマに冬蝿といるふたりごころ 中村晋
夕花野みんな忘れてしまふのか 野﨑憲子
木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの愁思かな 村本なずな
霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
夭逝といふ綾取のまだ途中 柳生正名

藤野武●抄出

結び目にぴたりはまった今日の月 阿木よう子
初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
鍵盤に慣れる指から冬に入る 奥山和子
けはひ皆落とし物かな秋日向 川田由美子
星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
立冬の杉鋭角を貫きぬ 佐藤君子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
やわらかきひき算の果て秋ほたる 芹沢愛子
時という分別箱へ木の葉かな 高木水志
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
感情のだんだん欠けて泡立草 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
生牡蠣のかおりや末期癌のはなし マブソン青眼
仲直りのように仕上がる障子貼り 三浦静佳
セーターゆるく昼月がくすぐったい 三世川浩司
敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
よそ見しているみたいなベンチに木の実降る 村上友子
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの秋思かな 村本なずな
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
白鳥がくるそらいろの方眼紙 望月士郎
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
 冬山は、草木も枯れ寂とした景観。この句の「お父さん」は、定年も過ぎ、なにやらしこしこと趣味の庭仕事や俳句などにいそしんでいる人。口数は少ないが自分の世界を持っていて、結構亭主関白を張っているタイプ。現役時代の颯爽さはないが、なんとなく隠然たる権威を感じさせる。その父の風采を、「冬山のようななり」とみた。作者はそんな父に親しみとたのもしさを込めて見つめている。「お父さん」の呼びかけに心情を込めて。

綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
 綿虫は秋から冬にかけて出現し、時に燐光を発しながら大量に降るように舞う。「静かに降るよ」で切れているので、「名を呼ばれ」たのは作者。呼んだのは綿虫舞う空間の奥からの声なき声ではないか。だが文脈通りに読めば、綿虫が名を呼ばれたように出現して静かに降っているとも読める。その主体の転換は、中七の切れによるものではあるまいか。

おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
 「おびただしきにんげんの穴」とは、どんな穴をいうのだろう。人間がすっぽり入る墓穴のような大きさの穴なのか、人間があちこちに掘り尽くした大小さまざまの穴なのか。前者なら死者を意味し、後者なら人間の手による戦争や乱開発の穴となる。上中の平仮名表記で、その双方を含む世紀末的世界が滲むとみた。となると「末枯るゝ」がにわかに重い意味を持つ。それは平仮名表記がかえって具象を超えた心象に接近したからであろう。

十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
 十二月に入って、テレビでにわかに開戦時の歴史を回顧する特集番組が組まれた。対米戦争に成算のなきまま突入せざるを得なかったのは、当時の国民感情や陸軍中堅層の意向に抗えず、徒らに引き返すべき時を失った政治の責任であることを痛感させられる。それは今日にも通ずる教訓だ。「火の芯となる折鶴」に、その象徴的映像をみた。火達磨となった平和の象徴としての折鶴だろうか。歴史の転換点に燃えるもの。

石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
 「石積み」は、古城や長堤の石積みで、その力学的構成はまさに見事なオブジェとも見られる。そのオブジェの上を鷹が渡って行く。「美しき」はその景観への賛歌に違いないが、やや決まり文句と見られなくはない。だが「力学美しき」としたことで、型通りの形容句を脱した。月並みの景に生命力の重い矢を射込んだとはいえまいか。

考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
 考は亡父、妣は亡母。亡き両親を偲びつつ、池面を低く飛ぶ二匹のおはぐろ蜻蛉を目で追っている。やがて蜻蛉は空高く舞い上がって見失われるのだが、作者は亡き父母の行方のように、その飛び去った軌跡を追い求めている。ある日、ふと訪れた亡き父母への慕情。

木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
 木犀は仲秋の頃、細かい十字の花からやや甘い感じの芳香を放つ。久しく会わない人、それは想い人に限らず、懐かしき師や友、あるいは亡き人であってもいい。そんな会いたい人に、木犀の香りの気流に乗れば会えますかと呼びかける。そのおずおずとした語感に、抑制された情感、思いの丈が籠っている。

すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
 すすき原を抜けたら、人間の顔になったという。ならば、すすき原では何の顔だったのだろう。そこはすすき原にふさわしい生きものの顔。例えば狐とか山犬、あるいは鹿だったかもしれない。そして全力で疾走、やっと抜けて息弾ませながら、人間の顔に戻ったという。人心地ついたところだろう。その表情が、すすき原での心細さや怖ろしさを物語る。

人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
 老人施設に母を預けている。程度の差こそあれ認知症を抱えているが故の措置で、高齢化社会の直面している現実に他ならない。その母の姿を、「人質のよう」でもあり、「コスモスのよう」でもあると見ている。やがては自分自身にも及ぶことと知りながら、その現実をあわれとも、さびしいとも受け止めているのだろう。「コスモス」の揺れが、心のざわめきのかなしさを伝えている。

霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
 この句も一つの境涯感と見られよう。「運命線」は手相の中の運勢を表す線。それを「霧の駅から」としたのは、茫漠とした生涯の先行きを、もはや運勢にまかせるほかはないと見たのだ。一種の諦念であって、意志的な選択ではあるまい。今やこういう句が多くなってきたのは、大きくいえば、日本社会の先行きに不透明感が覆いつつあるからともいえる。その現実にどう対処すればよいのか、おそらく誰にも正解はあるまいが、一人ひとりの生き方の中で問われている課題ではあろう。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
 軽やかな表現の中に、突き上げるような思いが伝わってくる句。予想どおりに淡々と過ぎてゆく今という情況に、作者はどこか認めがたい(あるいは妥協しがたい)ものを感じているのだろう。そんな現状を打ち破り、乗り越えてゆくために、(「初霜」という季節の節目で)何か納得がいかない音、胸に落ちない(尋常でない)音がして欲しい(聴きたい)、と(すら)思うのだ。それは喪失感と表裏?「聴きたい」という口語表現が切実。

実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
 「通学路」というのは、おそらく小学生の通学路。もちろん作者が幼いときに通った路。その傍には柘榴の木があって、たわわに実をつけている。「酸つぱいまま」が上手いと思う。幼いということは、未熟ではあるが純で、愛おしいもの。そして通学路での出来事一つ一つが、(もはや二度と手にできない)何ものにも代えがたいものに思えるのだ。作者はそれを「酸つぱい」と感受する。今でも胸の中の通学路は「酸つぱいまま」にある。「実柘榴」が美しい。

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 絵本や童話のひとこまを見るような楽しさ。とにかく「シュルン」という擬態語が素敵。星が「シュルン」と流れ(あるいは輝き)、それが何かの合図でもあったかのように「モミの木」が、どさりと入荷した。あふれる樅の香り。華やぐ店先。もうすぐクリスマス。

糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
 ごくごくありふれた日常を、詩に昇華した。「糸屑」が服についているよ、とか「パン屑」が床に落ちましたよ、とかいった、日常のきわめて些細なことどもが、秋の透明な「木洩日」のもとに置かれて、とても大切な、珠玉のように感じられるのだ。ゆったりとした時間の中で、豊かに暮らす人間の姿が見えてくる。やわらかな感性。

だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
 「枯野」を表現するに、「だぶつくものなんにもなく」とは、とても個性的。この措辞によって、無駄なものがすっきり削ぎ落とされた枯野が、鮮明に浮かんでくる。そんなシンプルなあり様は、作者にとって一つのあるべき姿なのかもしれない。そう考えるとこの句、作者の自画像にも見えてくるのだが。

神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
 やおよろずの神がいるという日本には、様々な神がいて、なかにはかなり人間くさい、決して立派とは言えないような方もいるのだ。陰暦十月、出雲に集うために旅をするという「神の旅」でも、そのついでに「実家に寄りたい」と思う神がいてもおかしくない。このぎすぎすした世の中で(とりわけ身動き取れないコロナ禍で)こんな(ゆったりした)心の余裕に、私達は、ほっと和み、なぜか喝采したくなるのだ。上質なウイット。「実家に寄りたい」に、妙なリアリティーがある。

冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
 日が暮れるまで夢中になって遊んで、服に牛膝をいっぱいつけた少年(一人ぐらいは少女が混ざっている)一群の姿が目に浮かぶ。作者の少年時代の一光景にちがいない。「日暮れ」によって「冒険」の質が明瞭になる。でも子供たちは今、コンピューターゲームなどに夢中になっていて、この句の世界とはやや趣を異にする、というのが一般的な見方かもしれない。しかし注意深く辺りを見回してみれば、自転車でわざわざ遠くの公園まで出かけて行って遊んでいる一団や、キックスクーターの二人組が歩道を漕いでいる姿を見かけることもあるのだ。人間の本質はそう変わっていないのかもしれない。子供は(ときに大人も)自分の限界を超えたい、限界を広げたいという欲求に駆られる時がある。きっと「冒険」とはホモサピエンスの本質なのだ。そして今でも「冒険」は色あせない。この句の世界は単なるノスタルジーにあらず。私がこの句に魅かれる所以。

敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
 「その名」とは、「敗戦忌」という名称そのものであり、同時に戦争で亡くなられたり傷つかれたりした方々の、具体的な名前でもあるのだろう。まことに頼りなげな「笹舟」は、戦争に翻弄されたそうした人々を象徴し、また、誰も脅かさず傷つけぬ、のどかなる平和の喩でもあると受けとれる。

ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
 「死なめやも」について、「め」は意志を表し、「やも」は反語と私は解釈した(文法が不得手なので自信はない)。(キリシタンの弾圧や原爆など)様々な苦難を乗り越えてきた「ながさき」の空に今、悲しみを癒すように「鰯雲」が美しい。ああもう死んでもいいと、ふと思う。『死のうか…』『いやいやまだ死なぬ。生きよう』と自問する。平仮名表記の「ながさき」が立体感を生む。こういう句を見ると、つくづく俳句という詩形の底力を感じる。

◆金子兜太 私の一句

とび翔つは俺の背広か潟ひとひら 兜太

 金子先生は昭和39年6月、秋田県男鹿半島の旅をした。二日目「寒風山かんぷうざん」の頂上近くの緑地を歩いた。日本海と日本第二の八郎潟の干拓を眺望。先生は完成間近い広大な干拓地を見て背広を脱ぎ、青い空に放り飛ばした。前掲の句を声高く唱え、まさに一瞬のドラマであった。先生は四十代半ば。俳句一生の大志を抱いた作品と思う。傍らには皆子夫人と武田伸一、武藤鉦二らが居た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。舘岡誠二

堀之内長一たんぽぽまみれかな 兜太

 「海程全国大会in熊谷」の開催が決まり、下見のため先生と関係者四人で荻野吟子記念館へ。車を止めてから堀之内さん篠田さんが威勢よく土手を登って行きました。菜の花やたんぽぽが一面に咲き乱れていました。先生は足腰が弱って休憩所で待つことに。二人が降りて来ず、先生はそのうち怒ってしまい、「あの二人の仲はできている」とカンカンでした。降りてきたら先生は何もなかったようにケロッとしていました。程なくして〈老いらくの恋などといま昼寝かな〉を発表。先生は天才です。天晴でした。句集『百年』(二〇一九年)より。長谷川順子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選

大切なものに距離置く水引草 石川和子
黒牛の全重量に虻まわる 稲葉千尋
肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
寝落つとき沼の匂ひす二日月 木下ようこ
日常という渚くるぶしに白露 小池弘子
シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
蟬時雨震える身体溶かしてよ 高木水志
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
夜の迷路ヒマワリと人間ひと入れ替わる 鳥山由貴子
穴惑いフクシマを問い嫌われる 中村晋
ごめんねの一語野に萩満ちており 藤原美恵子
ふたりしずか触れることばの衣かな 北條貢司
八月の水を飲むとき石拾うとき 本田ひとみ
梨喰らう充電している前頭葉 松井麻容子
刈り入れや黄泉の家族が二三人 松本勇二
白木槿散り敷く未完の私小説 村上友子
蜉蝣にされて誰かの記憶の川 望月士郎
コロナ禍や机上は我の浮巣のよう 森鈴
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

中内亮玄 選

書きとめる仏の言葉秋薔薇 伊藤歩
缶ビールせめてコップや皿並べて 植田郁一
元気な人ランニングシャツ着て朝死なむ 宇田蓋男
刻刻としずかにくるう虫の声 大髙宏允
月光を濯ぎ静かなる窪地 北上正枝
初月夜童貞すてた村に棲む 白井重之
宅配の箱の行き交ふ星月夜 菅原春み
日傘のまま返す御辞儀や影もまた 田中裕子
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
とんぼうの次々そこに座りなさい ナカムラ薫
オンライン授業そびらに林檎むく 根本菜穂子
秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
浜のシャワー女人達ヴェヒネゆるりと泡分け合う マブソン青眼
塩素臭いよカゲロウは昼へただよう 三世川浩司
韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
トルソーの一体月の踊り場に 望月士郎
炊立ての淋しらに白曼珠沙華 柳生正名
老母歩めば秋の川音ついてくる 輿儀つとむ
烏賊を干す島に青空みな集め 若林卓宣

望月士郎 選

祖母の家へ祖父夜這ひせし涼夜かな 石川まゆみ
麩のようなひと日風船蔓かな 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
夕立のはじまりを聞くもう一人 小松敦
ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
回転落下たちまちに蘭鋳となり 中井千鶴
ムヒカさんと同じクボタで春耕す 新野祐子
こころなどみえないけれど心太 丹生千賀
人体を拡げるように白シーツ 藤田敦子
ぽっくりを失くした記憶敗戦忌 松田英子
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
キリストのふっと微笑む飛込台 松本勇二
鳥だった頃の名残に胡瓜曲がる 三浦二三子
ずいぶん芒ずいぶん物理がきらい 三世川浩司
夫婦という一足す一足す柚子ひとつ 宮崎斗士
蛍袋に遠吠えの二、三匹 三好つや子
子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
空耳は耳鳴よりも星流る 柳生正名
で。百年後わたしはまた白壁の前に立つ 横山隆

森武晴美 選

新盆の骨箱にのるハンチング 石川青狼
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
驟雨美し父母亡き家の息遣い 河原珠美
祭果て一人ひとりの橋渡る 黒岡洋子
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
鬼百合の花のいつまで火を追はむ 仁田脇一石
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ポケットにねじ込む秋思ハローワーク 三好つや子
杖置いて母よ花野へ出掛けましょう 村松喜代
プールより人いっせいに消え四角 望月士郎
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
がちやがちやと暫く僕でなくて俺 柳生正名
彷徨の母空を舞う赤とんぼ 輿儀つとむ
どこまでも母手を振りぬかなかなかな 横地かをる

◆三句鑑賞

肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
 二つの事柄のみを提示した句の形が、簡潔で力強いです。人にはそれぞれ固有の体質があり、誰しもそれに制限されて生きていると思っているので、「肉体の檻」という措辞に共感しました。近くの森から聞こえてくる青鳩の低くけだるい獣めいた声が、不自由な身のやるせなさを一層際立たせていると思います。

日常という渚くるぶしに白露 小池弘
 軽装で庭に出たら、素足に草の露がかかったのでしょうか。その時詩想が浮かんだのかもしれません。「渚」とは、波が打ち寄せてくる所、五感に波のような刺激を受けて、それを言語化する日常。句作に励む充実した毎日が思われます。畳み掛けるような破調のリズムのループが、句の内容によく合っています。

シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
 風にひるがえる白いシーツとその爽やかな香り、バイオリンのしなやかな調べ。視覚、嗅覚、聴覚を刺激する気持ちの良い句でした。シーツは撓み、バイオリンの音色も、「バイオリン」という言葉も撓んで響き合います。北海道の長い冬の訪れを前にした、貴重で穏やかな秋のひとときを味わう心地です。
(鑑賞・伊藤歩)

マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
 世の中の風景は、こんなに劇的に変わるものかと驚いている。マスクをしていない者とすれ違う時の、人々の群れのあの非難がましい目つき。そこには理性的な、あるいは知性的な判断というものはなく、ただ感情的嫌悪が何よりも優先されるようだ。人間の有り様に寒々とする今日、マスクを顔の「国境」とは見事な風刺。

秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
 全国大会の折、振り返ると武藤鉦二さんがいた。何度もお会いしているが、忘れていたら申し訳ない。「お久しぶりです、福井の中内亮玄です」と、改めて挨拶すると「何よ?知ってるよお、有名人だもん」と、いたずらっぽく笑った、あの笑顔。原生林広がる白神山地を、悠々と飛び越えてゆく武藤鉦二が見える。

韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
 映像鮮やか、状況鮮やか、叙情鮮やか、全て鮮明。掲句に登場する人物の台詞まで聞こえてきそうだ。斗士俳句を追う者は常に二番煎じ、全て画竜点睛を欠く作品となろう。「海程流」とか「海原流」というのではない、工場長くらいの軽い表現では、彼の力を十分に表現できない。ゆえに、海原「関東四天王」の一角と呼ぶ。
(鑑賞・中内亮玄)

ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
 ポリキポリキという奇妙な音がします。外は騒がしい蝉しぐれですから、これは身体の中から聞こえてくるのでしょう、歩くと鳴る老人音です。ポキという骨の折れちからるような音と、それに対抗するようにリキ=力を思わせる音がしのぎを削りつつ一つになっています。自虐と諦観と力強い呑気が感じられます。

炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
 系統樹の一番上にぶらさがるヒトという奇妙な果実。ちかごろこのヒトは「地球にやさしい」というキャッチコピーの下に延命活動を始めました。地球にやさしくするというヒトの立ち位置の尊大さに気付くこともなく。「地球に嫌われないように」でしょう。どうやら地球内生命であることを忘れているようです。

子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
 シャボン玉とおならという、口から出るものと尻から出るものの球体空気つながりを導線に、子の未来に想いを馳せます。漢字、ひらがな、カタカナの表記の仕方が通常とずれていて、特に「みらい」によって希望的歴史軸から逸脱したアンニュイが漂います。この薄さ、儚さ、柔らかさはどうしたものでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
 そうそうと手を叩いた句。爪先を前にきれいに並んだ形は、出航を待つ船にそっくり。子供靴やブーツもあって何とも賑やか。玄関はまるで風待ち港。梅雨晴れの外出を、今か今かと待っている。風待ち港であった牛深の、ハイヤ節が聞こえてきそうな、明るさが感じられる。

夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
 話し上手は聞き上手とか。会話を持続するには、話し手よりも聞き手が大事。「そうそう」と頷いてくれたら、うれしくなって次へと繋がります。命の電話の相談員の方は、ずっと聞き続けられるのだそうです。否定せず、励まさず、頷きひたすら聞く。命の接続詞でもある頷き。夏の月がやさしい。

フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
 東日本大震災から十年、熊本地震から五年。その復興には温度差があり、更地で残っている所がまだまだあります。白く広がるこの地にも、笑顔の語らいがあったはずです。元の楽しい生活が、一日も早く戻ることを、願ってやみません。繁殖力の強い韮の白い花を思いながら、熊本の地から「負けんばい」のエールを送ります。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

うっせーわ母を教育芋煮会 荒巻熱子
少しずつ朽ちれば怯えず霜の夜 有栖川蘭子
小三治の並べし枕都鳥 有馬育代
前期高齢枝豆をてんこ盛 石口光子
まだわたし綿虫のように生きている 井手ひとみ
甲殻に神去月の吾子隠す 植朋子
綿虫や信じきれないのが病 大池桜子
十人兄弟の九番目小鳥来る 大渕久幸
老人に巻耳なもみがいつぱい付いていた 押勇次
荒縄に縛られて咲く冬の薔薇 かさいともこ
ワカメ干す真ん中辺りで寝てみるか 葛城広光
神無月誘われたので行くソワレ 川森基次
竹の春ロボットと歌うイマジン 日下若名
バンクシーの枯れたひまわり地球の日 重松俊一
風呂吹の面取りは母ゆずりかな 五月女文子
秋深しダリの時計の二十五時 宙のふう
老画家に柚子を貰いて別れたり 田口浩
名山の眠り給ふや麓の葬 立川真理
泣く時は白鳥のよう後向く 立川瑠璃
枝豆の一さや三粒褒めらるる 土谷敏雄
銀漢やマクラの小三治さっと立つ 野口佐稔
奥羽なり降りて軸足陰を持つ 福井明子
身に余る恋木犀が匂いはじめる 福岡日向子
食卓にジェンガ崩れて林檎在り 福田博之
熟柿吸うコロナ死の記事斜めに見て 保子進
夜干しのシャツに朝日文化の日だよー 松﨑あきら
秋の日の原発見ゆる乗馬かな 山本まさゆき
深山舞茸一子相伝のごと孫へ 吉田もろび
銃のくに菊は刀をあきらめし 路志田美子
葱きざむほどのなみだでひと想う 渡辺のり子

『海原』No.35(2022/1/1発行)

◆No.35 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
榠樝の実だけを並べて無聊です 伊藤雅彦
鶏頭の紅蓮私にも黙秘権 榎本愛子
十月の水動かずにひとの影 大池美木
鶴来るカタカナで鳴く父連れて 奥野ちあき
木霊かなフォークソングにかなかな 奥山富江
手話の指秋の光を掬いあげ 狩野康子
秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
リモートが大胆にする熱帯魚 黒岡洋子
羊雲図画工作室へなだれるよ こしのゆみこ
乾燥機百円分の秋思かな 小松敦
晩夏光嬰抱くように拾う骨 清水茉紀
夜の秋アクリル越しのきつねそば 菅原春み
わが徘徊刈田コンビニ土の道 鱸久子
夏暁の桟橋にして旅の全景 すずき穂波
峰湿る産土に蔦紅葉して 関田誓炎
資本論復活大豆ミートの噛み応へ ダークシー美紀
若狭の旅秋思というは顔見知り 竹田昭江
投げ遣りで気鬱で身軽侘助は 立川弘子
月の出や野武士のごとくピアニスト 田中亜美
まほろばや驟雨が木々を歌うとき 遠山郁好
被曝の葛被曝の柿の木を縛る 中村晋
秋興や傘寿の右腕が太い 梨本洋子
水澄むやうらもおもてもなくひとり 丹生千賀
ババ抜きのババに座のあり芒原 丹羽美智子
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
ぶらさがる凍蝶として思考中 前田典子
出不精でも引き籠りでもなし鶏頭咲く 深山未遊
落葉とマスク掃き寄せていて祈る 村上友子
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵
曼珠沙華ハィハィハィと手を挙げて 森鈴

藤野武●抄出
実石榴の赤透きとおる吾が老いも 石田せ江子
鹿鳴けりまるで一筋の香り 大池美木
消雪の水吹く街に赴任する 荻谷修
のど自慢すぐに退場野分晴れ 小野裕三
文書くは桜紅葉の甘さかな 河原珠美
曲がるたび人いなくなる秋の風 北上正枝
辞書の上空蟬ふたつ組み合はせ 木下ようこ
秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
川えびのの透きとほる秋の昼 久保智恵
蕎麦の花夕冷えは村の端へと 小池弘子
悲しいほど実のなるリンゴ 笹岡素子
十六豇豆じゅうろくや何でも良くて倚りかかる 篠田悦子
独り身っぽい男が夫しゃくとり虫 芹沢愛子
まじめに泣く赤ん坊です天高し 竹田昭江
すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
失せし物また北風に辿りつく 立川弘子
月の出や野武士のごとくピアニスト 田中亜美
知ってて待つ線香花火の展開 田中裕子
角笛を抱かせてもらう霧の夜 月野ぽぽな
硫酸紙の感触九月の少年に 鳥山由貴子
鳩吹いて餡パンふいに欲しくなる 並木邑人
焚火臭一すじわれに添寝かな 野田信章
葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
ライオンの奇麗な舌に雪ばんば 前田恵
秋深し乳酸菌が騒がしい 松井麻容子
浅間からポリネシアまで鰯雲 マブソン青眼
唐辛子鎖骨のきゅっと固まって 室田洋子
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵
砂糖菓子崩れるような疲労感 輿儀つとむ
純粋になりシラタマホシクサに並ぶ 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鶏頭の紅蓮私にも黙秘権榎本愛子

 鶏頭の花は、たしかに紅蓮の炎のような鶏冠をなしてほむら直立する。しかも一叢の群落をなして、まさに炎だつ立ち姿だ。それを作者は己の内面に兆した抗議の意思のかたちと捉えた。それはあたかも「黙秘権」の行使のようにも見える。それは、東京オリンピックの表彰台で一言も発せず、母国の軍事政権への抗議の意思を三本の指を上げて表したミャンマーの選手像にも連脈している。

秋思かな剥製の爪磨かれて 故・木村リュウジ
 この原稿を書いている時に、作者の訃報を知った。作者の句は偶然十月号十二月号にも秀句に取り上げていたから、大いに注目していた。まだ二十代の若さで、新人賞もとって注目されていたのに、あたら春秋に富む未来を自ら擲ったのは何故か、惜しまれてならない。掲句の「剥製の爪」には、思いなしか冷たい死の翳を見るような気もする。「秋思」は、季語以上の重いものが込められていたのだろう。これが本誌への絶吟となった。

リモートが大胆にする熱帯魚 黒岡洋子
 コロナ禍によってリモートワークが定着し、自宅で仕事をするケースが増えている。そうなると金魚鉢のある家では、普段は出勤のためあまり見られることもない金魚鉢でも、しばしば視線があつまることが多くなりそうだ。金魚の方も、なにやら大胆なポーズで泳ぎまくっているような気がしてくるという。ささやかな日常の変化に着目した時事俳句といっていい。

羊雲図画工作室へなだれるよ こしのゆみこ
 いつもはぽっかりと浮かんでいる羊雲が、珍しく群れをなして秋空を動き始めた。それが小学校の図画工作室へなだれこむようと見たのだ。ちょうど生徒たちは図画工作の製作に夢中になっている最中。羊雲は頑張れと声援を送るかのように集まってきている。兜太師はこしの句を、書き方がゆっくりしていてリズム運びがいいといっていたが、まさにこの句もそう感じさせるものがある。

夜の秋アクリル越しのきつねそば 菅原春み
 「夜の秋」はいうまでもなく、夜になると秋の気配が漂う頃のこと。コロナ禍対策として、近頃飲食店では座席をアクリル板で仕切っている。そうなると、久しぶりに食事をしながらおしゃべりでも、というわけにもいかず、一人黙々とアクリル囲いの中できつねそばをすする破目になる。コロナ禍の夜の秋とは、こういうものかという思いも噛み締めながら。

峰湿る産土に蔦紅葉して 関田誓炎
 この句の「峰」とは、作者の故郷秩父の脊梁山脈であろう。それは作者にとって産土の地でもある。「湿る」とは、一雨来た後、急に秋が深まり蔦も紅葉する景をいうのだろう。蔦紅葉は文字通り真紅の見事さで、落葉性の夏蔦とされている。作者はそんな産土の峰々を遠望しながら、望郷の思いを募らせているのではないか。「峰湿る」は、作者の望郷の思いの湿り気も滲んでいよう。

資本論復活大豆ミートの噛み応へ ダークシー美紀
 「資本論復活」とは、少壮の経済学者斉藤幸平による『人新世の「資本論」』がベストセラーになったあたりから火が点いたといってもよいだろう。それは「豊潤な脱経済成長」の道を示すものとして世に迎えられた。その風潮自体を「大豆ミートの噛み応へ」と、象徴的に風刺している。この時事感覚を、大陸的な「大豆ミート」という具体的なモノで捉えた素晴らしさだ。

投げ遣りで気鬱で身軽侘助は 立川弘子
 侘助は、閑寂を楽しむ「侘」と、芸事を意味する「数奇」とが合体した言葉ともいわれている。中国原産の唐椿の一種で、茶人たちが好んで茶席の花として活けたという。そんな本意をもつ侘助が「投げ遣りで気鬱」とは、どこか加齢に伴う後悔や自己嫌悪の投影ではないだろうか。それは老年という本来の意味での生成のために、潜り抜けねばならぬ過程でもある。そして「身軽」という成熟に達して素朴に帰る。侘助の花樹にその姿を見ているのだろう。

ババ抜きのババに座のあり芒原 丹羽美智子
 作者はすでに百歳に達しておられる方だが、今なお矍鑠として俳句を作っておられることに驚く。孫たちのトランプのババ抜きの座に招かれて、一緒に楽しんでいる。さて「芒原」の喩だが、荒涼としたものではなく、むしろ高原に広がる広闊たる芒原、子供たちが歓声をあげて突っ込んでいくような原っぱではないか。そんな仲間に入れる嬉しさのようなものに違いない。

 今回も取り上げるべくして、すでに幾度か取り上げた作者ゆえに、申訳ないが遠慮して頂いた作品はある。

十月の水動かずにひとの影 大池美木
夏暁の桟橋にして旅の全景 すずき穂波
まほろばや驟雨が木々を歌うとき 遠山郁好
パンデミック十六夜の灯は遠浅 茂里美絵

等がその例である。記してお詫びしておきたい。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

硫酸紙の感触九月の少年に 鳥山由貴子
 この句の魅力は「硫酸紙の感触」という喩にある。「硫酸紙」というのは「硫酸で処理して作った半透明の紙。耐水・耐油性があるのでバターなどの食品や薬品の包装用に使われる。」(明鏡国語辞典)もの。なるほど少年を喩えるに硫酸紙はぴったり。さらに「感触」とまで念を押して「九月の少年」の輪郭を明瞭にした。
 俳句にとって喩は極めて重要だと思う(そもそも俳句自体が一つの喩と言いたいほど)。そして私がすぐれた喩だと感じるものは、感覚的であり、加えて個性的なものだ。一方でそれが客観性をもっていることも勿論重要。掲句の、「硫酸紙の感触」という喩は、まさに優れて感覚的でとりわけ個性的である。

鹿鳴けりまるで一筋の香り 大池美木
 この句もまた「一筋の香り」という喩の魅力。遠く聞こえくる鹿の声は、冬へと向かう私たちの心に染みとおるもの。もちろん「鹿の声」は、牡鹿の繁殖の鳴き声。命のいとなみの声である。そう考えると「一筋の香り」という喩には、単なる美しさを超えた、あえかな生きものへの愛おしさまで感じられてくるのだ。

文書くは桜紅葉の甘さかな 河原珠美
 「桜紅葉の甘さ」も、心情をどんぴしゃりと表出した喩。「文書く」という営為は、おそらく日常からほんの少し非日常に足を踏み入れたところにある。そしてその「文書く」非日常はまた、ほんの少し華やいだ気分をもたらすものでもあるのだろう。そんな微妙な心情を繊細に掬いとった。「桜紅葉の甘さ」の品の良さ。

悲しいほど実のなるリンゴ 笹岡素子
 字足らずの句である。しかし字足らずの寡黙な表現が、この句の場合、くどくど饒舌に喋られるよりは、ぐさりと胸に刺さる。「リンゴ」が的確で動かない。華やかな真っ赤なリンゴが、(溢れる生命力で)たわわに実れば実るほど逆に、人間の置かれている孤独感が際立ち、心の底を吹き抜ける悲しさはいや増すのだ。「俳句は省略の文学」というけれど、それはあながち間違いではない。

蕎麦の花夕冷えは村の端へと 小池弘子
 繊細な感性。深まる秋の山里の、言いようのない静かさ、さびしさが、透明感をもって描かれている。白い蕎麦の花の視覚的感受。「夕冷え」という心象に傾いた皮膚感覚。純な手触りの染み透るイメージ。

十六豇豆じゅうろくや何でも良くて倚りかかる 篠田悦子
 この句の背景にあるのは「老い」だろうと、私は受け取った。『十六豇豆が支柱に倚りかかっている姿のように、「私」もまた、もはや倚りかかれるものなら何でも良くて、選り好みせずに倚りかかっております』。
 「老い」というものを表現するに(これは自戒を込めて言うのだが)とかくネガティブに書いてしまう。しかしこの句の場合は、老いや衰えをある意味肯定し面白がっているようにさえ見える。「倚りかかる」と言いながら、どうしてどうして逞しく、したたかである。
十六豇豆じゅうろく」が効果的。

すこしあかりを落とす身中虫の声 竹本仰
 人は、全てを明らけくする光輝く場所に、常にとどまって居られるものではないのかもしれない。明るさという、明快さや高揚から離れて、ときに少しの曖昧さ静かさ、ある種の後退を良しとしよう、と思うようだ。そしてそんな自分の気持ちに正直に、身の内のあかりをすこし落としてみる。心の内奥を見つめる目は鋭い。

知ってて待つ線香花火の展開 田中裕子
 線香花火の火花は、松葉になり柳になりやがてちりちり火の玉となって、ほとりと落ちる。その「展開」は皆知っている。知ってはいるがその展開を息をつめて待つ。じっと待つことこそが、線香花火の愉しみとさえ言えるのかもしれない。そんな様子をアイロニーを含んだもの言いで書いた。と同時に、この乾いた表現が、線香花火の移ろう様子に、私たち生きもののあり様を二重写しする。結末が分かっている生きものの展開だが、その一瞬一瞬にこそ意味があるのではないか、と。

葛の花だったような雨のいちにち 平田薫
 中句「だったような」という言い回しが面白い。「だった」と断定的に言っておいて、「ような」と少々曖昧にオブラートにくるむ。その脱力感。さらに加えて、ずるずるっと続く韻律。それらによって現れた、いかにも現代の空気感の、けだるい雨の秋の一日、その気分。

ライオンの奇麗な舌に雪ばんば 前田恵
 生態系の頂点に立つ圧倒的な力のライオンと、誠に頼りなげな綿虫という、対照的な二つの生きものの出会いの一瞬が、とても美しい。「奇麗な」「舌」と言って、命を食らわなければ生きられないライオンの宿命を、優しく肯定する。一方小さな綿虫もまた、確かな命を輝かす。

◆金子兜太 私の一句

廃墟という空き地に出ればみな和らぐ 兜太

 「寒雷」「海程」と投句。その時、兜太先生より、太字にて「健吟をいのる」との励ましの文あり、感激。現在まで続けられた由縁かな。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。佐藤稚鬼

ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ 兜太

 掲句は、平成15年に開催された九州地区現代俳句大会に隣席された折りの金子先生の作品。昭和30年代中頃からの宮崎・日南が新婚旅行のメッカとしてブームを巻き起こし、若き日の上皇ご夫妻も新婚旅行でお泊まりになられたホテルも解体されてしまったが、そこに隣接する亜熱帯植物園にこの句碑が建っている。この青島の地に立つと、沖で鯨が吹く潮が自分にまで及ぶという。兜太先生らしいなんとも豪快な作品に、身も心も震える思いがしてならないのだ。句集『日常』(平成21年)より。疋田恵美子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
ファソラシは螢の軌跡恋だなぁ 狩野康子
蝋燭灯し亡友と詩で遊ぶ晩夏 川嶋安起夫
夏ツバメ父の机上は端正で 河原珠美
○前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
夏館静かな文字のような人 小松敦
見上げること信じ直すこと帰燕 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
交響曲六番蟷螂のごとコンダクター 佐藤稚鬼
寝て起きて食べて寝て生く樫落葉 篠田悦子
○父の日の正しき位置に父の椅子 白石司子
積乱雲に愛伐り出している静か 竹本仰
○ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
一粒の言の葉浅黄斑ひらり 樽谷寬子
蟇出でてスコップの先いててって 中井千鶴
端居から静かに外れ逝きにけり 中村晋
月若く月見るときは若くなる 長谷川阿以
皿に盛るパセリの森よ巣ごもりよ 長谷川順子
梅雨空は桃紅さんのエピローグ 三浦二三子
○母眠る眉間に繭をひとつ置き 望月士郎

竹本仰 選
○ふるさとは蚊帳に落ちたる青大将 上野昭子
空蟬を集めた指の匂い嗅ぐ 榎本祐子
不如帰あいたさ募る今朝の空 柏原喜久恵
○嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
母のうしろ追うて蛍火の斑ら 小西瞬夏
夏至の日の白き鯨を追いかける 三枝みずほ
原爆忌わたしの手鏡わたしがいない 清水茉紀
○父の日の正しき位置に父の椅子 白石司子
衰夏なり無観客てふおもてなし 白石修章
対岸は対岸を見て螢の夜 田中亜美
湧き起こる妬心もあろう雲の峰 中内亮玄
みんなでそよぐ平行感覚青もみじ 中野佑海
蟻の列死骸を担ぐ二匹かな 仲村トヨ子
夏草にポイ捨てマスクいかがわし 疋田恵美子
はんなりと諭されている水羊羹 三好つや子
村を出る虹の根っこを踏み外し 故・武藤鉦二
○母眠る眉間に繭をひとつ置き 望月士郎
つんつんと胸高くして更衣 森由美子
戰爭は負けたッちゅうばな大カボチャ 横山隆
ちちろむしあたしのためにだけ生きろ らふ亜沙弥

ナカムラ薫 選
片陰や潮引くような物忘れ 伊藤歩
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
きれいな言葉の浮輪溺れている 桂凜火
父呼べば枇杷色の明りが灯る 河原珠美
悩みにはまず肯いてところてん 故・木村リュウジ
○前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
惜別や葡萄の種を噛みこぼし 佐藤美紀江
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
どこの水滴かしたたっている教室 竹本仰
○ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
街の灯にことごとく濡れ夜のプール 月野ぽぽな
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
道過る蛇やわらかき断定なり 藤野武
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
まただれか自画像ぬりつぶして白夜 三世川浩司
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌

並木邑人 選
夫婦に季語があるならば梅雨きのこ 井上俊子
○ふるさとは蚊帳に落ちたる青大将 上野昭子
夫といて淋しいときは郭公になる 榎本愛子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
○嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
運命の人だと思うほど短夜 近藤亜沙美
飛べそうな気がする夜を緑夜という 佐孝石画
◎やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
決心はいつも厨で夏大根 佐藤詠子
水中花人さし指でノンと言ふ すずき穂波
人はみな回路図にある小春かな 田中信克
ひしゃげたパイン缶まだ友達だよね 遠山恵子
金亀虫手中最後の弾丸として 中内亮玄
ノンセクトラジカルの旗梅雨続く 仁田脇一石
じんじんと夕焼ふたりのようでひとり 丹生千賀
黒塗り開示蜥蜴の巣ある限り 平田恒子
家畜みたいにワクチン打って夏の星 藤野武
オオウバユリ酋長はもういない 前田恵
陸上部夏を音読する少年 宮崎斗士
湖にひらく掌篇オオミズアオ 望月士郎

◆三句鑑賞

蝋燭灯し亡友と詩で遊ぶ晩夏 川嶋安起夫
 字余りに、亡友への思いの強さ、悲しみの深さが窺える。蝋燭を灯して遺影の前に座り、思い出を語る作者の後ろ姿が目に浮かぶ。遺句集を手に、酒をちびちび飲みながら、連句のごとく付合をして遊んでいるのだろうか。亡友のいろんな表情や声が思い出される「遊び」を続けながら、晩夏の夜が更けてゆく。

寝て起きて食べて寝て生く樫落葉 篠田悦子
 緊急事態宣言の最中に、こういう毎日を送った人が多いのでは。通院日でない日の私は、まさにこの句のとおり。「何のために生きてるんだろう」と自問自答していたので、深く共感した。自殺者が増えるのも頷ける。だが、樫落葉が腐葉土となって役に立つように、自分もいつか役立つ日が来ると信じて、生きるしかない。

端居から静かに外れ逝きにけり 中村晋
 祖父が、三十一年間ほぼ寝たきりの末、九十八歳で亡くなり、八年が経った。内実を知らない人からは、「大往生だったね」と、よく言われたものだ。先日、その祖父の弟の妻(父の叔母)が九十九歳で亡くなった。九十六歳まで畑仕事をしていたのだが、老衰だったようだ。この句は終末の理想型。人の最期とは、かくありたい。
(鑑賞・清水恵子)

嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
 我々の悩みの大半は人間関係による。特にもし嫌われたらという強迫観念は無意識に血肉化している。社会はそんな各人の自縄自縛で成り立っているのだが、ふいに解き放れた時、茨木のり子が詩の一節で敗戦を語った「禁煙を破ったときのようにくらくら」するナマの自由が来る。自由の原点は、そんな所からしか見えないようだ。

衰夏なり無観客てふおもてなし 白石修章
 トウキョー五輪。たしかに「おもてなし」はあったのだ。それを感じられたかどうかは別として。空っぽのスタンドと実況アナの絶叫、この不思議な空気感。『徒然草』の中で祭りのあとの人去りし寂しさに美を見出した兼好法師の慧眼、それに匹敵するほどに「無観客」の「おもてなし」というこの着眼点は秀逸であるように思った。

戰爭は負けたッちゅうばな大カボチャ 横山隆
 昔、四コマ漫画の「サザエさん」に、「戦争」と聞き日露戦争と勘違いした老人が勇み立つ、そんな笑えない一コマがあった。戦争は数珠つなぎのようにやって来る。そしてこの句には出来そこないの大かぼちゃを叱り飛ばすような言っても仕方がない怒りとも笑いとも何ともやりきれない気持ちに敗戦への問いかけが直に出ている。
(鑑賞・竹本仰)

きれいな言葉の浮輪溺れている 桂凜火
 鬼平の「無口な船頭」は仕事柄無口でいられる。が、心の中で辛辣なお喋りをしている。作者は仕事を効率的に進めるため、人間関係を良好に保つため、怒り心頭な相手であれ心とは違う「きれいな言葉」で喋る。そして疲弊する。されば綺麗はこの場にてお縄を掛け、共に本当の自分の浮輪で一気に浮上しようではないか。

前髪のギリギリ向日葵焦げている こしのゆみこ
 強い意志を持つ瞳がある。しかも「焦げている」。最高だ! 何故って向日葵の種もカラメルソースのほろ苦い甘みもゆっくり焦がしてこそ得られるのだから。表面は「ギリギリ」で切れて見えるが「ああ汝、吾をゆめゆめ二物衝撃と呼ぶことなかれ」なのだ。「前髪」という私から「向日葵」という私へシームレスに移行し二つのリアルは豊かに焦げてゆく。

夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
 この作品を単に「擬人法が成功している」と回収したら誠につまらなく、何より人間中心の視点で「生きもの」を捉えた傲慢な態度となる。作者は一瞬にして対象と同化したのだ。「測り終え」と尺蠖の営みの微かな息に私は無防備な小さな命へ思いを致し、再び遥かなる夜空に何をするともなく放たれてしまった。
(鑑賞・ナカムラ薫)

嫌われてしまえば自由水澄みずすまし 久保智恵
 映画でも漫画でも、主人公より奔放に振舞っているのはいつも敵役、つまり嫌われ役。主役はストーリーを牽引しなければならないので、箍が嵌められてしまうのだ。水澄は自由の象徴として登場しているものと思うが、感情の水面を素知らぬ顔で泳ぎ切るバイキンマンのような存在でもあるのかもしれない。

人はみな回路図にある小春かな 田中信克
 田中もアイロニーたっぷりに人間を描いている。小春を堪能するささやかな幸福、それもこれも設計図に詳細に指示された回路図の小径をただ辿っているに過ぎないのだ。次に待っているのは日本沈没か、地球温暖化の果ての火星移住計画か? 一方では、AIを駆使して棋界を席捲する天才少年が居るのも事実なのだが―。

オオウバユリ酋長はもういない 前田恵
湖にひらく掌篇オオミズアオ 望月士郎
 この世のものとは思えない緑白色の長身の百合と青白色の大型の蛾。その名前があるだけで一句成立してしまう呪力を秘めている。前田句の「酋長」は、ユリから採れる澱粉が保存食として重要な役割を担ったアイヌ文化との関わりを示している。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

間引菜を洗う百十円の老眼鏡 有栖川蘭子
秋刀魚喰う組閣のテロップが邪魔 植朋子
指組まず指切りげんまん寒露かな 梅本真規子
ポケットの多いジャケット君にあげる 大池桜子
膝の上のキャパの戦場冬日さす かさいともこ
しゃりしゃりと炭が崩れる原爆忌 葛城広光
アレルギーは孫にあるらし秋刀魚焼く 木村寛伸
暮の秋一頭騸馬せんばになりました 日下若名
開運の本を頂く老人日 後藤雅文
白曼殊沙華さよならに似た言葉 小林育子
落し水棚田の芥押してきた 坂本勝子
紫陽花の色よく乾ぶ銀河かな 佐竹佐介
赤とんぼまるで昭和がとんでいる 重松俊一
月白く音叉の波動のやうに日々 宙のふう
祖父在るはも一つの故郷小鳥くる 立川真理
あすを裁く晩秋の風に恋もして 立川瑠璃
冬落暉むこうに昭和が揺れている 谷川かつゑ
母の手を子は払い行く良夜かな 野口佐稔
水連れて父母の井戸から月上る 服部紀子
ケーキ屋の呪文滑らか小鳥来る 福田博之
母の忌の読経の僧に日傘差す 藤井久代
秋の衣更えビバルディを独り分 松﨑あきら
まんじゅしゃげ一つの旗は燃えやすい 武藤幹
修験道巨石の上に木の実落つ 村上紀子
毎日が小さな被曝彼岸花 山本まさゆき
つつがなく首を載せては菊人形 吉田和恵
コンビニで犢鼻褌たふさぎを購ふ雨女 吉田貢(吉は土に口)
利根川と空までの距離尺取 わだようこ
コンポスト開けて無数のいのちかな 渡邉照香
抽斗に溜めし秋思のしろい骨 渡辺のり子

『海原』No.34(2021/12/1発行)

◆No.34 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
今朝の秋シャインマスカットの水光 石橋いろり
顔のないマネキン運ぶ敗戦忌 大沢輝一
八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
一人居の箸置替えて涼新た 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
白い少年どの旅立ちも素足 小西瞬夏
菊の酒下戸はそこそこ艶ばなし 小松よしはる
鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
鬼灯の如しフクシマにおす母 清水茉紀
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
不器用な二人だったな盂蘭盆会 白石修章
秋茄子捥ぐ刀自に夕星滴りし 関田誓炎
海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
とうすみの身体を抜けて風になる 高木水志
メールするためらい荻を見ている たけなか華那
秋祭古いお旅所飾られて 竪阿彌放心
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ひとり綾取り川の向こうをこぼれ萩 松本千花
黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
秋風の音になりきる駅ピアノ 三浦二三子
ちょれ北斎画樗檪となりてグレートウェーブ 深山未遊
言い訳を聞きおり天使魚眺めおり 村本なずな
秋黴雨逆流の川のよう日常 森鈴
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

藤野武●抄出

産声という名月のありにけり 伊藤道郎
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
玉葱一個今日一日を生き延びた 大髙宏允
美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
鳴き移りし木の淋しくて秋の蟬 北村美都子
頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
洗い髪記憶の端を踏む亡夫 黍野恵
遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
鰯雲あふれ出て来るスピーカー こしのゆみこ
海峡の潮吠えなだめすかす芒 後藤岑生
口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
芋虫が蛹になってまた思う 小松敦
君の背の醒めゆくままに月光 近藤亜沙美
三日月や言葉仕舞えば帆となりて 佐藤詠子
鬼灯の如しフクシマにおす母 清水茉紀
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
首筋を鈍く打ちたる蝉時雨 中内亮玄
マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来たハワイ ナカムラ薫
朝日赤しトマトとトマト触れ合って 中村晋
一竿は野良着ばかりや天高し 西美惠子
蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
笑ってばかり流し素麺速すぎる 平山圭子
返し針のような八月の日記 北條貢司
桃剥けて背より抜けゆくちからかな 前田典子
がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

八月のにんげんとして喉鳴らす 大髙宏允
 八月は上旬に立秋を迎えるが、なお残暑きびしく、花火や盆踊りなどの行事もある一方、原爆忌や敗戦日など歴史的記念日も続く。作者は表立った言上げをしていないものの、「にんげんとして」とあえて平仮名表記することで、乾いたモノとしての人間像を浮かび上がらせる。それは、かつて戦争によって多くの非業の死者をもたらした悲劇の歴史を踏まえているからだ。死に近い人間は必ず水を求める。末期の水は、人間としての最後の欲求だ。「喉鳴らす」は、その限界状況を捉えている。

訃報あり金魚のひれは夜を知らず 木村リュウジ
 夜、訃報の電報が届いた。作者にとってかけがえのない大切な人の訃報に違いない。事のあまりに思いがけない知らせに、しばし茫然としている。傍らに金魚鉢か水槽があって、金魚がそんな夜の出来事も知らず、無心にひれを動かしている。劇的なシーンをモンタージュした静止画像で、悲しみの瞬間を捉えた一句。

鉦二死す初秋の闇駘蕩たり 佐々木昇一
 「鉦二」とは、いうまでもなく今年の八月十九日に亡くなられた秋田の重鎮武藤鉦二氏のことである。中下は、故人の死出の旅路とみた。「駘蕩たり」は武藤氏のお人柄同様に、のどかな他界への旅を楽しんでおられることでしょう、というもの。それは、安らかなご冥福を祈る思いにつながる。武藤氏は人望の人だった。

原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
 広島原爆被害の惨状は、広島平和記念館や丸木俊子夫妻の絵画展等によって広く知られているが、その現実は目を覆うばかりで、如何に過酷なものであったかと思い知らされる。「原色を塗り重ねゆく」とは、生々しい現実をあるがままに描き出そうとする作者の句意によるものではないか。戦後七十六年の時の隔たりによって、決して風化させてはならないという思いを込めているのだ。

海ほおずき人魚座りの母の黙 芹沢愛子
 海ほおずきは江戸時代から始まった口に含んで鳴らす玩具だが、今では作者の母の世代までの名残りとなっていよう。「人魚座り」とは、しなだれるように両足を横になげだした座り方。女性のリラックスした時の座り方だ。母にとっては、幼き日に返った気分で、ふるさとの懐かしさや幼馴染の誰彼を思いだしながら、一人海ほおずきを鳴らしている。その母の一人きりのゆったりした沈黙の時間を、そっとしておきたい気分で詠んでいる。

風を曲がれば風のおとする仙人草 平田薫
 仙人草は、雄しべの先に白いひげを長くのばしているところからその名があるという。風を曲がるとは、風の向きに添って曲がって行く、風の中を曲がるととった。そのときふと仙人草の白いひげが風に揺れて、なにやら久米の仙人が風を切って飛んでゆくような気配を感じたのかもしれない。そのあるかなきかの風音を立てたのは、仙人草だった。その音は、たしかどこかで聞いたような気がした。仙人草にその名通りの不思議さを感じている。

老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
 むらさきしきぶの花は、六月から八月にかけて淡い紫色の小花が葉の付け根ごとに群がり咲く。十月から十一月にかけては落葉して、やはり紫色の小さな丸い実がおびただしく実を結ぶ。源氏物語の作者紫式部になぞらえた名が付けられたのは、紫そのものとも見える気品のある色合いによるもの。老老介護は、家庭の事情により身近な高齢者同士で介護せざるを得ない状況で、夫婦や親子、兄弟間で行われることが多い。介護疲れで共倒れになることも大きな社会問題になりつつある。花に雨とは、哀しみを堪忍んでいる表情そのものなのだろう。

黒揚羽何かを伝えたき低さ 松本勇二
 黒揚羽が地を這うような低さで飛んでいる。それは何かを伝えたいと思わせるような低さだという。作者自身のもどかしげな心情を投影したもので、黒揚羽の仕草に重ねて見ているのだ。何かを伝えたい、だがその心情はまだ言葉の形を成さない。もやもやとした深層意識として、澱のようによどんでいる状態なのだろう。そんな言葉を捜している作者の思いのようにも見られる。

カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
 カンカン帽は、大正時代に流行った男性用の麦藁帽だが、現在ではお洒落な女性のファッションの一つともなっている。この句の場合、別れを告げるのは、男女どちらとも取れる。まあ今は女性であってもおかしくない。「ひょいと浮かせて」には、ドライな別れの挨拶のニュアンスが滲む。この作者は最近めきめきと腕を上げてきているように思える。若々しい乾いた心情表現に巧みが
ある。

 一つお願いしたいこと。投句欄には年齢の記入欄があり、もちろん個人情報なので公にされることはないが、作品の生活感をうかがうには大事な情報源でもあるので、できるだけご記入願えると有難い。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

美しく夏帽を抱く船医かな 小野裕三
 船医が乗船する船とは、概ね外洋を航行する大型船。青い海と青い空を背景に、(おそらく真白い)夏帽を抱く船医。眩しくも鮮明な映像。「抱く」が船医の人となりを想像せしめる。大きな波のうねりのような眩い時間。そして青春性。

夏ちぎれ行く一面のちぎれ雲 川崎千鶴子
 ちぎれ雲というのは、(積雲などの)高層の雲の下層を、ちぎれ飛ぶように流れる雲のことを言うらしい。そのちぎれ雲が空一面に流れゆく。それを見ている作者は、ふっと「夏」そのもの(あるいは「夏」というものに抱いている作者の「思い」そのもの)も、ちぎれてゆくように感じたのだ。日本の、広島の、特別な夏。

てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
 「私」の寸法を、「てのひら」「肩幅」と具体的に述べて、「秋草」の可憐さが際立つ。だが一方で、「私の寸法」とは、必ずしも物理的な寸法のことのみを言っているのではないだろう。私という「存在」の寸法。そう受け取ると、秋草に向いていた視線は、翻って秋草のような「私」というふうに逆転する。等身大の「私」。

頷いてここより秋の金魚なる 木下ようこ
 秋は、突然やってくる。昨日までさんざめいていた夏も突然、醒めた顔をした秋になっている。ああ秋だと得心すると、ここにいるのは、ちょっと澄ました秋の金魚。軽やかな日常。秋に背を押された作者の心の一歩も。

遠花火デジャビュのごとくハグをされ 楠井収
 二物配合の妙。一瞬輝いては消えてゆく「遠花火」と、「デジャビュのごとくハグ」をされたときに生まれた、時をまさぐるような「違和感」とが配合され、日常の狭間に、新鮮な異なる世界が顔を覗かせる。

口中に舌のだぶつく桃の昼 小西瞬夏
 舌は、あらためて言うまでもなく、喋り、味わい、飲み込むといった、人間にとってきわめて重要な役割を持つ器官。だがそんな舌も、時に何となくしっくりこず、少々持て余しぎみになることもあるのだ(心と肉体の落差?あるいは心と言葉の落差?)。それを「だぶつく」と表現した。桃の重みや甘い香りが、その落差をさらに増幅する。

過疎寒村ただ肉色に月を見る 田中信克
 「肉色」という措辞が心に刺さる。人も疎らでさびれた村に、取り残され、取り捨てられたように在ると、鬱々とした気持ちは、ときにふつふつと沸き立つのだ。冷たいはずの月の光は、この沸き立つ心が投影され、「ただ肉色に」に見える。肌色ではない「肉色」に。

スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
 スケートボードの競技をテレビで視て、宙を飛び手すりを滑る姿が、まさにこの「ガリガリと炎天へ」という表現にぴったりだと思う。そしてこの「ガリガリ」感は、既成の概念や秩序に挑戦し、ガリガリと大いなる壁に挑んでいる、若者の思いのようにも見えて来るのだ。「影」がいかにも現代の若者の情況を象徴していて、鋭い。

マンモグラフィ隣の蔦が伸びて来た ナカムラ薫
 「隣の蔦が伸びて来た」というフレーズは、実景に由来するのかもしれないが同時に、作者の心の「喩」でもあると思う。マンモグラフィの検診を受けているときに感じる、(そっと侵入しはびこって来る蔦のような)なにか制御しにくいものに対する、不安感。

蟬しぐれ相槌を打つところなし 丹生千賀
 話し相手がだらだら喋りっぱなしで、相槌を打つ暇がないのか、相手の話の内容が相槌を打ち肯定する内容ではないのか、いずれにしても半分呆れ半分諦めながら、「蟬しぐれ」の時間は過ぎてゆく。こうしてずっと、どうということなく日常は過ぎてゆくのか。だが一方で、「これでいいのだ」とも思う。軽妙にして洒脱な句。

返し針のような八月の日記 北條貢司
 「返し針」とは、裁縫で一針ごとにあとへ返して縫う縫い方。つまり行ったり来たりを繰り返しながら前へ進んでゆく。それだけ丈夫にしっかりと縫うことが出来ると言う。「八月」の日記(思い)はそんなふうに行きつ戻りつ。

がまずみの実を指差せば家族めく 水野真由美
 「がまずみの実」を指差すという何気ない行為によって、家族ではない人たちが、まるで家族のような感じになった。温かい「家族めく」心の動きが生まれた、と言う。一人一人がばらばらに(たとえ家族でも)孤立させられてしまっている現代においては、ひと時でも、また仮のものであっても、家族のように心を通わせ合うことが、得難いことなのだろう。寄り集まって実る赤い「がまずみの実」が、ぽっと灯った家族のようで愛おしい。

◆金子兜太 私の一句

レモン握る掌時には開き確信得る 兜太

 変動する世界にあって、変転する社会との関係、その度に掌を開いて問われ
たのであろう。啄木の見る嘆く手の平ではなく、後悔の無い清爽なものを捕ら
えたことに間違いは無かったと確信する掌である。この句を知った時、私はこ
のレモンのようなものを握ることが出来るだろうかと羨望した。先生が詠まれ
た御歳の倍を過ぎた今、未だ「確信」を得るものは不明。句集『少年』(昭和
30年)より。柳ヒ文

縄とびの純潔のぬかを組織すべし 兜太

 無邪気に縄跳びに興じている子供たち、その純朴な子らに「子供たちよ平和を希求する大人になって欲しい」と言う、これは作者自身への願求でもあろう。『暗緑地誌』収載句には「校庭が飛んでくしんしんと怒れば」がある。怒りが沸点に達した時、周りは静かにそして風景は歪み校庭も飛んでゆく。戦争への怒りと憎しみを金子先生は後記で述べている。両句には通底するものがあろう。そして金子先生の晩年の平和運動へと続く。句集『少年』(昭和30年)より。輿儀つとむ

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
睡蓮や正しく開く初版本 江良修
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
青大将の青があまりに過呼吸で 大西健司
地獄の黙示録蝦蟇の眼玉浮く 川崎千鶴子
円周率3より後は熱帯魚 木村リュウジ
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
火葬場や光が砂になる晩夏 佐藤詠子
叱られた日の次の日の蓮の花 高木水志
茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
第三の眼はひたい鑑真忌 梨本洋子
ネモフィラは風を鏡と思うかな 平田薫
逆縁の母を抱きし祖母立夏 藤田敦子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
葉桜の影を測れば父佇てり 水野真由美
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
梅雨晴れや亡母が遊びにぴょんと来る 森武晴美
若葉なす山は語り部三河弁 山田哲夫

竹本仰 選
不意にでる涙が怖い夏帽子 伊藤歩
神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
蝶つかめばロマンポルノ見たような 井上俊子
六月や心の一部屋空けておく 宇田蓋男
うつろうや百足愛しき封鎖都市 大西健司
草引くや草の神経ぞっとでる 尾形ゆきお
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
揚羽蝶あなたに借りた夢がある 竹田昭江
夥しき味蕾わたしに蛇苺 鳥山由貴子
春や春じつに大きなおっぱい来 ナカムラ薫
うつつとは如何なる咎か蟬丸忌 並木邑人
コロナ禍や虹はLINEをはみ出して 根本菜穂子
胞衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
こんなにも五月の緑出棺す 藤田敦子
卯の花腐しシンバル早めに振りかぶる 堀真知子
もてあます黄泉の万緑奈良夫無し 松本勇二
腹へるよ噴水むやみにたかくさみしく 三世川浩司
なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士

ナカムラ薫 選
人通るたびにしんぷる柚子の花 伊藤淳子
○こどもたちの消えるドア春のオルゴール 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
○口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
生きることけものくさくて夏マスク こしのゆみこ
○山笑うこれも男泣きの一つ 佐孝石画
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
ひまわりは満開全力で君に刺され 中内亮玄
卯の花腐し息継ぎ長き離職の子 中村晋
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
母逝きて二年夏蝶と友達 松本勇二
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
老人が点滅している緑の夜 三好つや子
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
母親を脱いで涼しきもの啜る 柳生正名
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

並木邑人 選
宇宙儀ってどんな色だろう干瓢剥く 綾田節子
月光の刺さった手斧と眠る岳父 有村王志
幻月や蝦夷のサンショウウオ浮かぶ 石川青狼
接尾語か小さく翔ちて梅雨の蝶 市原光子
春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
○田草取父はいろんな虫になり 大沢輝一
○六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇 桂凜火
脳は唐草記憶はぷにぷに春愁い 黍野恵
○アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
「人流」どこかプラスチック臭い 今野修三
老鶯や繕いて繕いて今 佐藤千枝子
通潤橋田植えてお神札ふだ二三言ふたみこと 下城正臣
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
托卵のごと女子水球のパスワーク 董振華
家蠅の清々しさを持つ夕日 豊原清明
国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
身体の中の綾取り待ち時間 北條貢司
ポンポンダリア昼を出られぬ数え歌 三好つや子
ダダイストです生脚の春の夜 若森京子

◆三句鑑賞

連れションは兜太先生聖五月 石川義倫
 女性同士で連れ立ってトイレに行くことはあるが、「連れション」には、男性同士ならではの近しさがある。「聖五月」との取り合わせが、面白いことこの上ない。兜太先生が、親しみの持てる、あのようなお人柄だったがゆえに、こういう句が生まれるのだ。心がほっこりして、嬉しくなった。皆の隣には、今も、先生が居る。

睡蓮や正しく開く初版本 江良修
 貴重な初版本への敬意が感じられる。睡蓮が正しく開くのに呼応して、初版本も正しく開かれるのを待っているのだ。長らく古書店に眠っていた本に、目覚めの時が訪れた。静寂の中、耳を澄ますと、睡蓮の開く音、作者が正しくそっとページを開く音が聞こえてくる。

茄子の花若き日の恋はもう神話 峠谷清広
 野菜の花は、意外と美しい。茄子の花も、紫色の素朴で可憐な花。俯いて咲く。若き日の恋人は、素朴で可愛らしく控え目で、意外性もあったのだろう。畑仕事を一緒にしたのかもしれない。「若き日の恋」を引きずっている私からすると、「もう神話」とまで昇華して考えられる作者が羨ましい。
(鑑賞・清水恵子)

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
 おかしな話になるが、昔犯罪関係の本で、誘拐犯が子供を誘う時に一番効くのは、昆虫の生死にかかわるものだと読んだことがある。「○○の産まれる所、見たくない?」とか。それでいくとこの句にはこの種の誘いが隠されているように感じた。この世の一番の秘密がすぐそこにある。そんな逆説こそ真実経験してきたものだ。

夕立や画集の裸婦のページ折る 木村リュウジ
 感動というもの。実は保存ができない。ほんの一瞬である。フィルムであろうがディスクであろうが、百%は残せない。とりあえず、もう一度とページ端を折る。だが、作者はそんなことはよく知っている。だから、折るという行為に、もう戻れないものだからというメッセージがひそかにこめられているように思えるのだ。

なめくじという哲学に塩を振る 宮崎斗士
 なめくじに哲学?生きた人間それぞれに哲学はあるのだろうから、まだ人間のよりはいいものかも。だが接近の仕方が難しい。塩を振るくらい?では消えてしまう。悲しき接近である。そして我々はこういう接近の例を山ほど知っている。例えば原発。そして塩を振りつつこの関係は何なのだろうかと問う、そんな余韻が味わえる。
(鑑賞・竹本仰)

双極といふもの芍薬咲ききつて 田中亜美
 ワーグナー〈タンホイザー〉序曲が流れる。「双極」というメロディは、アポロ的分別からもはや秩序など立ち入ることを拒否したディオニソス的嶺へゆっくり確実に昇る。どこにも属さぬ快楽は、どこにも属せぬ混沌。その混沌が響き合う時、例えようもない美の世界が生まれる。咲ききることを選んだ芍薬の耽溺の刹那は、その刹那は狂おしく美しい。

わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
 しばらく幻想に浸りたい作品だ。「わが胸へ飛ぶ夏かもめ」が格別にカッコいいからだ。ただのカッコ良さに囲い込まれないのは、「引き潮や」と現実を差し出して上五中七を語り損なうという装いで語っているからである。夏の日差しは命と魂の臨界点を浄化する。夏かもめが咥えて来た昇る太陽の光は明日へのわが胸へと導く。

誰か拾ってください地球髪洗う 宮崎斗士
 体温を持つ明快なフレーズからヒトへの愛おしさ切なさが溢れる。WHOは「人類はこの惑星の個体」と定義する。進化するcovid-19と共存し始めた個体は丸裸で目を瞑り髪を洗う。作者が風呂場から発信したSOSは「髪洗う」の本意に与することなく愉快痛快。マッパにこそ新・真がもたらされるのだ。
(鑑賞・ナカムラ薫)

春の土をば五指で始めはほぐすなり 宇田蓋男
 なくとも解釈に支障はない強調の「をば」を敢て挿入したところに、宇田の農事への意地と執着を感じる。中下句もあっぱれ。トリセツには書いてない土への限りない愛情が溢れている。同様に綾田、有村、大沢、下城たちの作品にも、農林業と人間の生き様が密接に息づいていることを物語る。

アカルイミライTシャツが水びたし 小西瞬夏
 皮肉たっぷりの導入部は、黒沢清監督の映画の題名。そのエッセンスを575に組み替えたものだ。私も創作に行き詰まった折に、俳句以外のジャンルから素材を拝借することがある。旧来のメソッドに固執するか、進んで越境して行くのかは、俳句観の根幹に関わるものであり、その当否は各人の判断によるべきものであろう。

国芳の金魚と遊びたき夕べ 中條啓子
 江戸末期の歌川国芳は、現代でも行列ができる人気の浮世絵師。天保の改革の風俗取締りに反発した町民同様、コロナ禍に鬱屈した精神を解放するには格好のアイテムでもある。武者絵や妖怪図、裸の人間を組み合わせた顔や猫の擬人画が著名だが、金魚が煙草をふかしたり、纏を振るう図もなかなか太々しい。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

紫蘇摘んであしたの天を新しく 有栖川蘭子
叩く蚊にわが血の証し老人ホーム 伊藤優子
歌読めば声裏返る秋ひとり 梅本真規子
簾揺れてわたし振り向いて永 遠遠藤路子
テンションが高いと言われる秋思かな 大池桜子
揮発する言葉八月十五日 大渕久幸
花の枝骨折ごとに舟に落ち 葛城広光
鈴虫や姿見一つ形見なり 神谷邦男
朝月夜カフカのプラハうら思ふ 川森基次
嘘よりも深くなりけり居待月 木村寛伸
ジェラシーは母の愛から燕の子 後藤雅文
秋の田刈る稗田阿礼と人のいう 齊藤邦彦
万有引力あり盛土の霙るるあり 佐久間晟
風天忌今夜あたりは人が降るかも 重松俊一
野分くるぽっかり空地の胸の中 宙のふう
猫の待つ月夜の家へ帰りけり髙橋橙子
神々に異端の交じる鉦叩き 田口浩
メリーウィドーそれとも薄羽蜉蝣 立川真理
現し世の桃啜る時生きている 立川瑠璃
律と母にもっと光を獺祭忌 野口佐稔
不服従彗星の尾として光らん 服部紀子
夕ひぐらしな鳴きそ鳴きそ退院す 原美智子
霧深く君にさらはれて堕落 平井利恵
積乱雲精一杯の「バカヤロー」 深沢格子
木漏れ日は八月に思い当たる感情 福岡日向子
頻尿のしだる日常白日傘 藤好良
健忘症の達人超人枯蟷螂 松﨑あきら
集落の今に限界彼岸花 村上紀子
白鳥や重きロシアのパンに慣れ 路志田美子
四畳半サルトリニーチェ迷い蜂 渡辺のり子

にこっと秋 大沢輝一

『海原』No.35(2022/1/1発行)誌面より

第3回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

にこっと秋 大沢輝一

蔵の壁とんぼが寄って旗つくる
川端のひとなつっこい赤蜻蛉
原子炉の構造的な曼珠沙華
蕎麦の花残り湖底で咲いている

雨続く秋の日つらっと感電す
青北風や乗り放題の切符買う
婆さまをじっくり吸って赤蜻蛉
蜻蛉邨途中下車する駅がある
秋の路地匂いにひだり右があり
にこっと秋充電終えた赤ん坊

『海原』No.33(2021/11/1発行)

◆No.33 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
花氷含み笑いをYESという 綾田節子
手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
木洩れ日にひとり影踏み自粛の子 伊藤巌
枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
今更のハザードマップ水中花 河西志帆
竹節虫のつかむ熊野の木下闇 黍野恵
紀音夫忌や鞄の本が濡れている 木村リュウジ
逃水は原発ママチャリが過る 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過ぎる梅雨の蝶 黒済泰子
夏館静かな文字のような人 小松敦
やませ吹く炭火のような本さがす 佐々木宏
草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
さみだるる唄いつくした子守唄 鱸久子
うりずんや過去はかけらにシーグラス 芹沢愛子
蚕豆の莢のふわふわ家族って何 高木水志
茄子の馬ひと雨すぎて帰りしか 田口満代子
石蕗ひらくいつかやさしく死ぬために 田中信克
みんみんのこだまも埋む土石流 董振華
田の神の化粧直しや半夏生 永田タヱ子
冬ざれのベンチの老人ストレッチ 野口思づゑ
ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
訪ね来し児に校長が新茶汲む 前田典子
金雀枝と次男傾き易きかな 松本勇二
大夕焼野生馬ただいま勃起中 マブソン青眼
壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
ほたるぶくろ黙読のふと独り言 望月士郎
紋白蝶止まっていいよ信じていいよ 森由美子

茂里美絵●抄出
みみずの伸縮さよならを急ぐ 泉陽太郎
頬杖の行方決まらずさくらんぼ 伊藤雅彦
夫といて淋しいときは郭公になる榎本愛子
飛魚の翼銀なり未完なる 大西健司
空き缶がひらき直っている酷暑 大西宣子
投げ上げて取りそこねたる大西日 奥山和子
崖のぞく刹那や夜濯ぎの渦 川田由美子
悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
昼すぎのアールグレイとさびたの花 黒岡洋子
聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
遠野へと言ってきかない白桔梗 小西瞬夏
影踏んで来て夕暮れの花氷 三枝みずほ
怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
柔らかな虹の向こうのシーソーよ 高木水志
風と来て風に置き去り青葉木菟 竹田昭江
ノクターン硯の海といふところ 田中亜美
たくらみの匂って来るよ栗の花 東海林光代
眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
噴水やここは泣いてもいい所 仲村トヨ子
あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
アジサイは考えぬいて海の青 服部修一
ソフトクリームあるいは没落貴族かな 本田ひとみ
夜空遠ししゃくとり今日を測り終え 松本勇二
短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
夢のままよこしまなまま顔洗う 森田高司
晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

花氷含み笑いをYESという 綾田節子
 「花氷」は、夏の涼をとるために美しい草花や金魚などを閉じ込めた氷柱。この句の花氷は、一句自体の象徴的題材であるが、具体的な思い人の立ち姿のようにも見える。花氷の次第に溶けていくにつれ、少しずつ歪んでくる様は、含み笑いのようでもある。それはまさに、告白へのYESの回答のよう。そう思いたい。

手編み物ばかりの遺品昭和の日 有村王志
 昭和の戦争の時代、出征する人々は、皆家族手製の心を込めた衣類を身につけて戦地へ赴いた。今に残る遺品の数々は、手編み物ばかりで、あの時代の家族の絆をあらためて思い知らされる。昭和の日に当たり、作者の世代なればこその痛切な反応といえようか。

枯草を敷く移植葱梅雨籠る 江井芳朗
 東日本大震災から十年を経て、放射能汚染の地にも移植葱が植えられるようになったのだが、やはり食用に供するには、土地の除染や枯草を敷いての養生は欠かせない。梅雨籠りの季節にも、その準備は怠れないのだ。かつて物生り豊かな地であった福島の、今なお過酷な現実をひそやかに詠んだ一句。

苔の花たっぷりと雨すこし鬱 狩野康子
 苔むした庭園に、久しぶりにたっぷりと雨が降り、苔の花がにわかに息づいた。だがそのたたずまいには、すこしばかり鬱っぽい気配が漂う。それは満ちたるがゆえの、故しれぬ不安かかなしみか。その鬱がどこから来るものかもわからない。どこか不条理ともみられるような不安につながるものかも知れない。それは苔の花の質感を言い当ててもいるのだ。

草刈機読経のごとく享く心地 佐藤稚鬼
 暑い盛りの草刈は、大変な辛抱の要る作業だが、最近は電動式の草刈機で随分楽になっている。その作業をしなければならない人にとっては、草刈機のうなり声が読経のように有難い物音に聞こえているに違いない。「享く心地」にその実感がうかがえる。これは農作業をした人ならではのものかも知れない。

ほうほたる会津の姫のぽつと笑む 野﨑憲子
 この句は、今年亡くなった会津の田中雅秀さんへの悼句だろう。彼女が亡くなってから、各地の句会で多くの追悼句が寄せられたのは記憶に新しい。それだけ彼女の人気は全国的なもので、多くの人々に爽やかな印象を残したのだ。この句は、蛍狩の夜、雅秀のまぼろしのような蛍を追ってゆくと、闇の中に彼女の明るい笑みの面影が、ぽっと浮かんできたという。それは作者の体感そのものだったに違いない。「ぽっと笑む」に、温かい灯を灯すような雅秀の出現ぶりが見えて来る。

梔子が昼を大きくして咲いた 平田薫
 梔子は、大きく純白の六弁花で、ジャスミンのような芳香を放つ。実は熟しても裂けないところから、「くちなし」の名があるという。二〇〇三年に俳優の渡哲也が、同名の曲を歌って彼の生涯最大のヒット歌謡となった。渡の歌(水木かおる作詞)の一節に「くちなしの花の/花のかおりが/旅路のはてまでついてくる」とある。
 掲句の「昼を大きくして咲」くとは、梔子の花の存在感が、真昼の時空にゆるぎなく立ち上がっていることを意味していよう。もちろん渡の唄とは比較にならぬ乾いた存在感だ。

驟雨去り寄港のごとく靴並ぶ 藤田敦子
 おそらく吟行の途次に、驟雨に見舞われ、近くのお屋敷に駆け込んだのだろう。時ならぬ大勢の客にもかかわらず、そのお屋敷では温かく迎え入れてくれて、茶菓のもてなしに加え、句会までやらせてくれたのかも知れない。玄関先には、靴の大群が並ぶ。やがて驟雨は去ったが、句会はまだ続いていて、靴の群れは、避難のため寄港した多くの漁船のように、腰を据えて居並んでいる。「寄港のごとく」の直喩が、その時の臨場感をよく捉えている。とまあ、見てきたように想像したのである。

壁の青蔦残り時間はわからない 故・武藤鉦二
 廃校の校舎や古民家の壁に、青蔦が這っているのだろう。年代ものの建物の故に、その壁もいつまでもつのか、いつ途中で取り壊されるのかはわからない。壁に残された時間は、青蔦の残り時間でもある。掲句はそこに、おのれの境涯感を重ねている。
 この句を読んだとき、虚子の次男で、音楽教育家にして俳人の次の句を思い出した。
 蔦茂り壁の時計の恐ろしや 池内友次郎
 武藤句は、まったくこの句とは関係なく作られたものと思うが、池内句と期せずして同じようなモチーフで書かれているのに驚いた。人間の死生観には、古来共通のものがあるからだ。
 それは『徒然草』一五五段の次の一節にも通ずる。「四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。」

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

悩みにはまず肯いてところてん 木村リュウジ
 生きていく上で、悩みから逃れることが出来ないのが人間。それも真面目な人程その感が強い。作者もそのひとり。この句はとても前向きで明るい涼感がただよう。
 心を悩ませる事柄に対し、まず肯定してひたむきに向き合う姿勢。「ところてん」の、少しとぼけた季語に何故か読者はほっとする。作者はさまざまな悩みを、これからも克服していくに違いない。

聴力検査ゆわーんと過る梅雨の蝶 黒済泰子
 まず、「ゆわーん」のオノマトペの効果。中原中也の詩「サーカス」の中に〈ゆあーんゆよーん〉があるがそれに匹敵する素晴らしさ。聴力の曖昧さを調べるこの検査は誠にうっとうしい。その感覚を、ゆわーんと。そして湿り気のある「梅雨の蝶」も言われてみれば、確かに「ゆわーん」とした存在。

怒りとは光なりけり夏燕 佐孝石画
 人はさまざまな感情に翻弄されて生きている。そして負の想いの中でも怒りには暗い影がつきまとう。しかしこの作者は「怒りとは光りなり」と断言しているが、それなりの理由があるはず。怒りの概念として「個」であるとは限らない。たとえば、海を見ていて波のうねりの美しい光が、突如悪魔に変貌することへの連想。
 私情を超越したところに怒りの想念が湧き上がる。夏燕の鋭い、しかし飛翔の純粋なひかりが、この作者の心情を象徴しているのかもしれない。

天才は雲と老人夏野菜 重松敬子
 すっきりと、しかも堂々とした言い切りがいい。諧謔性があり、ドラマチックな童話のようにも。雲が「天才」は分かる。そして思いがけない行動や言葉を発する老人も天才と。きっと食卓に並べられた夏野菜に向けて語りかける「老人」の言葉がとても愉快だったのかも。

眩しさは訝しそうに夏のうしろ 遠山郁好
 大げさに言えば、詩歌は不条理を承知の上で成立している部分もある。この句の場合、理屈を考えず強いて説明をせず、素直に共感すればいい。すると静謐で、すこし弱くなった光の混沌や、晩夏の風景が見えてくるのではあるまいか。自然の中に佇む作者の、すこし哀しげなシルエットも。

あの橋をわたれば風の祭りあり 長谷川順子
 遠近法の成功した作品。「風の祭」なら風の中の行事としての祭だが「り」があるため祭の動詞化、つまり初秋の風の動きとも思える。橋の向こうの芒やコスモスが光りながらそよぐ。それを「風の祭り」と見立てたところが鋭い。加えて時の移ろいの淋しさも。

短夜やタコ足配線はおしゃれに 深山未遊
 暗くなりがちな現在の巣ごもり生活を、明るく表現したところがいい。多分リモートで仕事をする女性。さまざまな電機器具のコードが、部屋を占拠している。〈もうすこしオシャレに置こうかな〉との呟きも聞こえてきそうで、思わず頬がゆるむ。

思いきり自分罵るかなぶんぶん 村本なずな
 軽いようで重い句。誰しも順風満帆な生活を送っているとは限らない。いや、そんな生活は現在では稀有にひとしい。自宅で仕事をする機会も増えた。必要な書類の置き場も不足しがち。ついイライラして自分を罵りたくなる。〈分かってはいるんだけど〉と。しかし、かなぶんぶんの出現で、この小煩い昆虫の声に吹き出している自分。〈コイツも文句言ってる〉と。読者もほっとする。

晒されて朽ちたフレーズ夏の果て 山下一夫
 いろいろに想像ができて面白い。「朽ちたフレーズ」とは、いま世間を騒がせている有名人(多分政治家?)の空疎なことば。厳粛語の対極にあるのが朽ち果てたフレーズ。その語句(フレーズ)に群がるマスコミという魔物に「晒されて」ますます混迷が広がる。半ばやけくそになる国民。あぁもう夏も終わりか、とつぶやく。

月球儀のうぜんかずらのゆくえ 山本掌
 幻想的な作品で、思わず立ち止まる。月球儀。永久に滅びない薄白い荒廃を想像する。そしてのうぜんかずらの、太陽の光のような色彩の花を司る蔓の存在。まるで生き物のように少しずつ伸びる。突如として現れた花への驚きと共に、そのゆくえには月を照らす惑星群の微光がうっすらと流れているのかも。

川底に陶土鎮まり星祭 吉村伊紅美
 陶芸家の創作の過程を、テレビ番組で見たことがある。まずいい陶土を見つけることから始まる。陶芸家にしか分からない劇的な存在を川の底に認めた時のときめきは読者にも伝わってくる。丁度七夕の頃の澄んだ水底を想像すると「鎮まり」と「星祭」が響き合い、呼応し合っているようにも思えてくる。俳句は不思議な文芸。こんなに短い言葉の中に無限を感じたりもする。

◆金子兜太 私の一句

殉教の島薄明に錆びゆく斧 兜太

 掲句は、「海程」創刊以前に、「小田原桜まつり俳句大会」の講師として来られたときの特撰として戴いた句である。あれから六十年以上の歳月が過ぎたが、その短冊は家宝として飾られており、日々不肖な弟子を鞭打つのである。掲句は、言うまでもなく長崎時代の句であり、キリスト教の弾圧によって死んでいった信徒と、トラック島で飢え死にした部下への鎮魂の想いが込められているのだろう。『金子兜太句集』(昭和36年)より。木村和彦

ぎらぎらの朝日子照らす自然かな 兜太

 金子兜太先生、皆子様の眠っておられる総持寺の境内にある句です。墓所までの細い登り坂の途中、沙羅(夏椿)の木陰に、二メートルはあろうかと思われる大きな自然石に先生のどっしりとした文字で彫られています。先生の最初の句碑であり、句は皆子様が推されたとか、お二人の思いのこもった句碑であると思います。いつか先生の墓所をお訪ねしたいと願っています。句集『狡童』(未完句集・昭和50年)より。金並れい子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

清水恵子 選
花は葉に日紡ぐ手編みの遺品かな 有村王志
夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
深爪の夕べぼうたんゆらめきぬ 狩野康子
水中花お尻が貧弱で困る 河西志帆
水を抱く少女玉繭冷えゆけり 小西瞬夏
ソプラノに光る薄暑の空き地かな 小松敦
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
てんと虫君の点せし言の葉よ 中條啓子
花は葉に恋の綻び縫いますよ 中村道子
父さんは母さんが好き柿若葉 服部修一
風でした樹でした遠くまではつ夏 藤原美恵子
身罷るを身籠ると読み夕朧 船越みよ
鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
心音ぽぽぽぽ老猫に眠き春 村本なずな

竹本仰 選
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
テッペンカケタカ他愛ない話しよう 柏原喜久恵
追慕かな娘へ一吹きのシャボン玉 小林まさる
雨匂うよく似た人のワンピース 小松敦
家族という青い落書き新樹光 佐孝石画
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
臍の緒のゆるり絡まる桜かな 高木水志
コロナ禍を真直に立ちて夜の新樹 竪阿彌放心
フィボナッチ数列として秋茜 田中信克
更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
春の雪ときにあやまちの疾走 ナカムラ薫
みどりの耳ひしめくばかり晩霞かな 野﨑憲子
土人形の危うき重心梅雨晴間 藤野武
わたくしのいびつ眺める夏の滝 藤原美恵子
銀河の尾まがりくねって港かな マブソン青眼
夕べに蝶わが過ちのように過る 望月士郎
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

ナカムラ薫 選
樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春の園児母の手縫いの翼です 大沢輝一
白藤や家系図という不燃物 奥山和子
○人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
ふろしきに不要不急の水を詰め 河西志帆
サイダーの思い続けている世界 小松敦
懐しい紙片を拾うごと緑雨 佐孝石画
○紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
○春山に眠り父母星に濡れ 十河宣洋
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
春の渚へ蹠はひらききる感情 野﨑憲子
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
しゃべるだけしゃべって帰るねぎ坊主 藤田敦子
また水の景色に座り桐の花 水野真由美
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

並木邑人 選
鳧の擬傷は見ていないことにする 稲葉千尋
○国のこと薄めて流せばワカラナイ 植田郁一
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
黄砂降るコロナに混る機関銃 大西宣子
断層ですかえごの花降る街明かり 川田由美子
遊女の声洛中洛外図の垂桜しだれ 黒岡洋子
○夕焼電車ときどきバッタになる人と 重松敬子
連翹に撃たれイマジン唄う姉 鈴木千鶴子
◎春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
春陰の子午線という古本屋 竹田昭江
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
五月雨を降ろし足早のプリウス 服部修一
B案は防疫体勢かひやぐら 松本千花
梅雨えやみ家々偽卵抱くごとし 松本勇二
○あなたきっと生きてるつもりね亀鳴くから 森由美子
桜餅つねる戦艦大和の忌 柳生正名
大工道具なくし蛇として生きる 山下一夫
火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
海面のような長髪雨期始まる 輿儀つとむ

◆三句鑑賞

夏近し一枚だけの回覧板 伊藤歩
 回覧板が、プリント一枚ということが、時折ある。コロナ渦の現在、祭りや会合の中止を知らせるものばかりだが。その、ヒラヒラとした「一枚だけの回覧板」を見て、今年も寂しい夏になりそうだと感じたのだろう。「来年こそは、夏祭りができますように」という作者の願いも込められているのではないだろうか。

ifばかり零れて机上夏兆す 遠山郁好
 「もし…ならば」と机上で悩んでいるうちに、いつしか夏の兆しが…。こういう人は、世の中にたくさんいるだろう。だが、「ifばかり零れて」という、しゃれたことは、なかなか言えるものではない。英語が、これほど見事に、ピタッとはまった俳句は、珍しいのではないだろうか。作者の詩的センスに脱帽。

鱗粉のつきし少女の指も蝶 松本千花
 鱗粉のついた少女が、繊細な指を、蝶のようにヒラヒラと振っているのだろう。「少女も蝶」のようにしがちだが、「少女の指も蝶」と「指」にクローズアップしたことで、少女の瑞々しさが、より際立った。願わくは、この少女に、蝶のごとく未来へと羽ばたいていってほしいものだ。
(鑑賞・清水恵子)

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 詩「くらげの唄」で金子光晴はくらげの弱々しい存在の中にもその生活臭を「毛の禿びた歯刷子が一本」と表していた。この句にも歯ブラシ特有の本人にしかわからない生活感情が鋭く出てくる。もはやそこに何があったかどうかも定かならぬ更地だからこそ、歯ブラシ一本に大切な暮らしがあったことを語らせているのだ。

更衣してしばらくは風でいる 月野ぽぽな
 『不思議の国のアリス』の、あのアリスが成長してふと我が姿に立ち止まった時、こんな句になるのではと思った。少女でも大人でもないあのとりとめもない境地を衣更えの瞬間に見出して、「風でいる」と確かに言い切ったところにこの句の醍醐味があると思った。と、そういう物語的鑑賞に誘う魅力のある句である。

男運とか言ひ海雲もづく啜りけり 柳生正名
 男が「男運」を云々することはまずないのだが、それがとある酒場での女同士のうちとけた呟きの中にふと聞こえ、聞き耳を立てた、そんな句かと想像した。「男運」というリアルな語感の世界から、男女という社会のある意味深い背景が見える仕組みになって面白い。そして仕上げはモズクのぬるっとしたオチ。取り合せの妙である。
(鑑賞・竹本仰)

樹雨樹雨真夏真昼間樹の真下 石川青狼
 言葉と音の戯れがとてもイカしている。「き」イ音の冷ややかさと「ま」ア音の晴れやかさの連打は、濃緑の雨粒、湿った大地、樹を照りつける白い日差しに命を吹き込む。樹の真下に何があるのだろう、と思ったら樹下で何度もこの詩を呟いてみることだ。「解かない謎解き」を、その異界をただ全身で享受したい。

血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
 木下闇の匂いに懐かしさと興奮を覚えるのは、そうか、あれは血の味だから。「うっすらとして」の後、小さな息継ぎがあり、そして木下闇に着地させられる。そこにはきっと、すとんとしたワンピースを着た清楚な女性が佇んでいるに違いない。「血の味」を得た作者の静かな感動が伝わる。

また水の景色に座り桐の花 水野真由美
 「水の景色」が桐の花そのものを感じさせてくれる。大いなる水は、自分を自分たらしめる過去を引いてくる。自分を果てしなく遡行させる水に座れば、その流れは清く穏やかで、日常の憂さを、誠につまらないものへと変え、ついにはその傷跡さえ覆い尽くして広がる。そんな清麗な水を纏う桐の花に今日もまた会いにいく。
(鑑賞・ナカムラ薫)

ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
 今月もコロナ禍の俳句が山盛りだったが、ワクチンを巡る騒動が今なお続いている。「まるで蚕室」が言い得て妙。その場を経験した人の正直な感懐で、待つ人の気持ちの有りようや不満の声、噎せ返る汗や薬品臭、終わった後の小さな安堵感などがスクランブルエッグのように凝縮している。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 生き抜くことが常に駆け引きの時代にあって、この純粋な繊細さには舌を巻いた。この句の裏返しのような句だが、蕉門十哲の一人内藤丈草に「春雨や抜け出たままの夜着の穴」がある。重苦しい搔巻が人間の形態をそのまま留めているというユーモアのある句だが、どちらも春雨の句の絶品として残るべき作品であろう。

火蛇かだ走り汚れるまえのぼうたんや 山本掌
 山本が何をイメージして火蛇と表象したのか不明だが、イザナミの産んだカグツチ、亡骸を奪う妖怪火車の類であろうと推察。直ぐ連想したのは現在のアフガニスタンやミャンマー、そして香港の清純な少女たち。彼女たちが遭遇している艱難辛苦を思うと、困窮もなく俳句に遊んでいる自分が申し訳ない気持ちになる。
(鑑賞・並木邑人)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

母を叩く夕立や腹に穿刺針 飯塚真弓
逝きし揚羽焼く母その匂い忘れず 伊藤優子
大好きな百合がぎゅうぎゅう柩窓 植朋子
辻褄は合わなくていい夏の母 梅本真規子
俯瞰して自分みている守宮のように 遠藤路子
今日は話せたガーベラを抱いてゆく 大池桜子
咬み傷のいつまで夏は惜しげなく 川森基次
形よく西瓜も赤ん坊も転がっているよ 日下若名
頷けば楽になれるか虎落笛 近藤真由美
憂き夜や動かざる灯蛾見てをりぬ 佐々木妙子
言ひ遺すこと何もなく涼しさよ 佐竹佐介
大海のかくもしづもりサングラス 澤木隆子
ひまわりや原爆の朝も咲いていた 宙のふう
はるがゐて与太ゐて我の合歓の盆 高橋靖史
虹消えてひとまず老いに戻りけり 田口浩
汝は花野拡大鏡に消えて行く 立川真理
運命線いつから流れ星の順路 立川瑠璃
わしゃわしゃと納豆の泡文化の日 谷川かつゑ
螢袋とっても柔らかい個室 中尾よしこ
小雀にも蟻にも今朝の梅雨晴間 野口佐稔
指先に駄菓子べたつく雲の峰 福田博之
清昭一ひさし昭如泥鰌鍋 藤好良
三男坊ちょっぴりぐれる凌霄花 増田天志
手鏡に水の匂ひの緑夜かな 松岡早苗
エコバッグに文庫とニッカ夏の雲 松﨑あきら
借金を倍返しする男梅雨 村上紀子
どうしても横向く向日葵七十路は 吉田和恵
死にたればこの裏山のかなかなや 吉田貢(吉は土に口)
蜘蛛の囲の端正と真面目ただそこに 吉田もろび
白薔薇と燃へて発光父の体 渡邉照香

『海原』No.32(2021/10/1発行)

◆No.32 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ラベンダー不意打ちの別れのことば 石橋いろり
かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
花盛り本日人間休みます 大沢輝一
青嵐肺のすみずみ波の音 大髙洋子
奔放に薔薇を咲かせて介護の日 奥山和子
陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
遺書に追伸おくやみ欄不要 河西志帆
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
補陀落へパラボラアンテナ浜昼顔 黍野恵
花あしび崩るるように母の文字 黒済泰子
滴りのの艶生命惜しまねば 関田誓炎
向日葵やヒロシマの日もぬっと咲き 竹田昭江
百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
麦の秋過疎地の景色大らかで 竪阿彌放心
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
柳絮舞うひかりライブの只中へ 遠山郁好
プラタナスの青き実わたしの垂直跳び 鳥山由貴子
アイリスはつれなく人は縺れ合う 中野佑海
夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
胎衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
夕立来るふと焦げ臭き父の背な 藤原美恵子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
引鳥のごちゃごちゃ先生のホイッスル 三浦静佳
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
幻聴のようにオオミズアオを見る 望月士郎
一つ家に孤食のテレビ半夏雨 森鈴
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

茂里美絵●抄出

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
許すこと許されること寒卵 植竹利江
初蝶へ顔が横向き歩け歩け 内野修
一脚の椅子と一人の芝居夏至 大池美木
六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
鎌倉の画廊閉じらる蟇 鎌田喜代子
星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
いち枚の戸籍をめくる朴の花 木下ようこ
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
戒名は「雅秀」と田中雅秀さん追悼なりし春の星 志田すずめ
足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
紅葉燃えて明日は遺伝子組み換えて 田中信克
冷蔵庫勝手に開けていいよって仲 遠山恵子
金星に坐す地面がある青蛙 豊原清明
揺れるのが好きで蛍袋かな 中條啓子
私を脱ぎたくて居る夏の霧 中村道子
紅糸蜻蛉心ときどき擦過音 根本菜穂子
皆既月食の風よわたしは蛇の衣野﨑憲子
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
白壁は鬼籍の余白走り梅雨 故・武藤鉦二
青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
 繊細な抒情感覚で、すでに一家をなしている作者だが、最近はその心情を知的に乾かして表現する傾向が出ている。同時発表の句に「人通るたびにしんぷる柚子の花」がある。この句などは従来の持ち味に近い。それでも「…たびにしんぷる」とまでは言わなかったような気がする。掲句にもどれば、「昼を白しと記すとき」の真昼の倦怠感が、「かき氷」という日常のオブジェによって、生の時間に目覚めさせられる。乾いたカ行音が真夏の空間に響き合う。「昼を白しと記すとき」のシ行、ラ行音の共振の韻もまた。

缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
 作者は、現在一人暮らし。折からのコロナ禍で、他出もままならず、さりとて気ぶっせいな引き籠りも耐え難い。ままよとばかり、湯上りの缶ビールでひと時をごまかしても、毎日のことともなれば「生きた気もせず」、ましてや「死ぬ気もせず」。まことに宙ぶらりんな一日一日のうっちゃり方を繰り返す。この句には、まさにコロナ禍の蟻地獄のような現実が、リアルに詠まれているではないか。

花盛り本日人間休みます 大沢輝一
 花盛りの本日。人間を臨時休業いたしますという。そのこころは、人間としての矜持やプライドは一旦棚上げにして、一日楽しもうというものか。これは単に休養を取るということではない。人間を一時的にやめて、生きものとして生きようということではないか。それだけに、事々しく「人間休みます」と宣言したのである。それは兜太師の言われた〈生きもの感覚〉に近い。

陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
 「やさしい語尾選ぶ」とは、必ずしも相聞句とは限らないが、この句の前に「逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇」があるので、やはり相聞の一連とみてもよかろう。それにしても、その心情のドライな軽快さは、とても一昔前の湿り気のある慕情とは似ても似つかぬものだ。「やさしい語尾選ぶ」に、この人らしい肌理の細やかさがあって感性の新鮮さを感じる。

とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
 水系の発達した我が国では、蜻蛉は古い時代から馴染みの題材であって、詩歌によく詠まれて来た。「とうすみ蜻蛉」の語感が田園風景の懐かしさを誘い、「ちちははふふむ草の風」で、産土を体感している。特に中七の平仮名表記とその語感が、その体感を匂わせてくれる。

百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
 低成長化の管理社会に入って久しいが、その中で生まれた分断や格差は、多くの生きづらさを招いている。これは男女を問わず、働くものに負わされた宿命かもしれない。そのどうしょうもない鬱屈感を、「をとこは人を斬る仕草」で晴らそうとしているという。もちろんそれは、つかの間の憂さ晴らしにすぎないが、それでも男にはその手があっただけましだとの思いを込めて、「をとこは」と少し僻みっぽく言う。「百日紅」にシラケた思いもこめながら。

紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
 紫陽花は梅雨時に最盛期を迎える。産道は、分娩の時に胎児が通過する母体内の通路。共に湿り気の多い隠微ないのちの息遣いを感じさせる場所にある。句の狙いは「産道の湿り」にあって、あの修羅場を美しいいのちの花ひらく道のりと捉えている。やはり女性ならではの感覚といえよう。

夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
 「夏シャツの鉤裂き」とは、夏の海辺でロックを楽しむ若者たちの一団を予想する。兜太師の「どれも口美し晩夏のジャズ一団」にもつながる。ただ兜太句はもっと感覚的映像なのに対し、新野句はやや観念的映像表現の匂いがする。「自由からの逃走」は、戦後ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの著書の題名でもある。掲句は、そこまで思想的なものではなくて、「夏シャツの鉤裂き」を、「自由からの逃走」と知的に見立てた感覚表現といえよう。その連想を呼ぶところが洒落ている。

花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
 花冷えの季節感を、「古書の薄埃」に喩えたのは、意外性がありながら、言い得て妙だ。花冷えで薄く散り敷いた落花は、あたかも古書に降り積もった薄埃のように、どこか馴染み深く、しっとりと落ち着いている。その感覚は、古本屋の薄暗いどこか冷え冷えとしてうず高く積み重ねられた古本棚の、狭い通路を思わせる。

螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子
 おそらく幼馴染で、お互い意識しながら結ばれることもなく時を過ごし、同窓会あたりで毎年顔を合わせながら、いたずらに歳を重ねている。そのような清い間柄のまま、静かに時は過ぎて行く。それも一つの人生。

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
 読む者の心を、しんとさせ無口にさせる。六月は生命が本格的に動き出す、いわば活発な月でもある。しかし反対に自然に圧倒されて、ひるんでしまうのも人間。「生木の哀しみ」。鬱蒼とした森の中で、ふと見つけた傷ついている木。まだ若い木がまるで内臓を剥き出しにしているような姿に一瞬どきっとして立ち止まる。そっと撫でてみる。じかに伝わる若木の哀しみ。作者の、青春の傷を思い出したようにそっと撫でる。

星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
 多分昭和生まれのこの男性(夫)は家族を愛し仕事も順調の、威風堂々の人生を送って来られたと推察する。そして「折鶴飛ぶ構え」と。静かに老いる心境は更にない。で、老人扱いをする周囲に腹を立てているのだ。傍で見ている作者は、夫の人間欲をユーモアとペーソスのまなざしで眺めている。この句の芯は「飛ぶ構え」。

足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
 高原で、さまざまな草花の研究をしていた頃の、風景がふと脳裏をよぎる。急な坂道を登ったり、長い間歩いても疲れを知らなかったあの頃。加齢と共に足腰が弱るのは自然の定め。せめて精神は若々しくありたいと思うのは万人の願いでもあろう。字面とはイメージが違う蛇苺の可愛い赤い実。足元がふっと明るくなるような。

蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
 その昔、自然と共に人々は素朴で正直で大らかに生きていた。春秋の豊作を祝う歌垣(宴)で、男も女も艶めいたひとときを過ごす。「蓮ひらく」の季語はそのように生きてゆく人間の本能をもさりげなく示唆している。

ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
 楽しかった人間関係を妨害する、悪魔のような疫病。この作品には露骨な表現はどこにもないが、しみじみとした哀しみが、読む者の心を鷲掴みにする。時には輝くように現れる、まぼろしの都。二年前のごく当たり前と思っていた普通の生活が「海市」ではなく、現実に戻ってくることを祈るのみ。

夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
 季節の感じ方の内容は独りずつ違って当然。夏至は昼がもっとも長く、人によってはその明るさに倦怠感を憶えるのかも知れない。夕暮れ近く最後の光の束が、蜂蜜の入った壜を照らすときの一瞬の光線が、黄金色のとろりとした液体の暗さを返って際立たせるのだ。甘美ですこし切ない雰囲気を具象化させ、読者を感動させる。

昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
 俳句は短いので、言葉の決定の選択次第で、優劣が決まってしまう。この作品の場合は「難問」の鋭さ。ある年齢に達すると人はこのような想いに悩むことになる。壮年期の社会的に認められた立場では、なおさらであろう。智に働けば角が立つ、の心境。人間関係の微妙な空気に敏感になってしまう。しかし案ずるなかれ。温かい応援の視線もあるはず。あえて申すならば、世間の雑音に拘わらず堂々と歩むしかないのでは。時にはゆったりと、昼寝をすることも必要なのです。

青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
 自分の言葉を見つけるのは、たやすいようで、実はとても難しい。言葉は空気の中の微塵の光のようで、それらを掴むことの出来るのは、ある意味で無心で素直な感性のなせる技なのかも知れない。「青水無月」の季語がパッと目に飛び込む。そして「地球」。大きな自然の中で、瞳にかぶせる薄いレンズの存在。すんなりとした言葉たちではあるが、大胆さも感じさせる一句。

半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
 シュールな詩の一節のようで独りで楽しみたいと思える句。「半裂」「水槽」「端」の裏側にある想いとは。息苦しさや閉塞感は、今や世界中の現代人が、みな持っている心の状態。厖大なあるいは狭い世の片隅で、人々はさまざまな制約を受けながら生きている。大勢の中のひとり。世の中の端っこで。ある者は病院の中で。

蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
 俳人の想像力の逞しさを感じる。例えば蒲公英の咲くさまを、可愛い、と思うのがフツーの感覚。この作者はたぶん物の外見に騙されないすこし立ち止まる冷静さの持ち主。そして植物にも意志があると思っているのだ。蒲公英の根は意外に頑固で見えない所で意地を張っていると。あぁこういう種類の花も、あるいは人間も嫌いなんだと改めて納得している作者のユニークさが面白い。

兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名
 「ワハハ。ばかに暑いじゃねぇか。晩夏なんぞと気取りやがって。くたばってしまえ夏さんよ」兜太先生のナマの声が聞こえそう。一見気難しそうなこの作者。「兜太ありき」に万感の想いがこもる。ジーンとしました

◆金子兜太 私の一句

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 俳句を習い始めた頃、この句に出合い衝撃を受けました。春の訪れを全身で感覚し、しかも自由にうたい切ったところが凄いと思う。白梅が引き金となって青鮫が現れる想念はとても新鮮でした。嘗て朝日俳壇の兜太選にひかれ、その選評に頷き多くの共感を覚えました。また朝日カルチャーや読売カルチャーの教室にも参加させて頂けた金子先生のご縁に感謝いたします。句集『遊牧集』(昭和56年)より。髙井元一

黒ずみしとろろを啜る初夏兼山 兜太

 平成10年、岐阜県兼山町(現・可児市兼山)の蘭丸ふる里の森に於て、春の吟行会が催された。当時の町長は俳句に理解があり、兜太先生を招待され、海程の会員十数名も参加。掲句は素朴で郷土色豊かな土地柄に対する気持ちの良い挨拶句であると思った。句集『東国抄』(平成13年)より。【平成17年、同公園内に合併を記念して先生の句碑が建立された。〈城山に人の暮しに青あらし〉】平山圭子

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
白椿穢れなき刃の我に向く 大池美木
しんかんと老いゆく地球花の闇 北村美都子
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
満開に足のつかなくなる深さ 小松敦
春がくる骨の一挙手一投足 佐々木昇一
冬の虹古本の如母の手のひら 清水茉紀
晩節は春泥のごとひかりおり 白石司子
朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
呟きは鏡の国へ雛あられ 高木水志
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
風船売遠軽までは風に乗り 遠山郁好
蝶ボルト春愁の指遊ばせる 鳥山由貴子
カラスノヱンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
華鬘草老いて早口早足よ 野田信章
歯につきし飴のようなり春の悩み 村上豪
ひとひらのどこからかきて春愁 望月士郎
海市昏し弁当箱の隅に骨 茂里美絵
春の川この世は呼吸いきをするところ 横山隆

服部修一 選
のどかさの真ん中市電のふと悲し 石川まゆみ
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
鍵穴はなんの饒舌春疾風 大髙宏允
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
旅という終わりあるもの春夕焼 奥野ちあき
悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
野火走る男の背の四角かな 加藤昭子
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
花筏どれも船頭がいない 河西志帆
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
春眠の時の潮目の午後三時 齊藤しじみ
朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
悲しみはさざ波のごとヒヤシンス 清水恵子
物種の臍かな裏は大宇宙 すずき穂波
残された時間山椒の芽の天ぷら 髙尾久子
陽炎や君と並んで薄い僕 高木水志
桜ちりゆくひとしずくひとしずく 月野ぽぽな
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
逃散史めくれば村の陽炎えり 故・武藤鉦二
引き抜いてほいと大根渡される 森由美子

平田恒子 選
行く春の遥か先ゆくわれの影 伊藤道郎
灯台の螺旋は祈り野水仙 榎本愛子
戦さあるな餓死の島より兜太は今も 岡崎万寿
型紙の幅を継ぎ足す薄暑かな 荻谷修
カラスのエンドウ段々縺れゆく会話 奥山和子
蝌蚪の水少年の日の真顔を映し 小林まさる
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
双眸に朝のきていて真菰の芽 関田誓炎
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
長城暫し万里にかかる春の虹 董振華
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
朴の花憲法のこの声の若さ 中村晋
臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
淋しさは空腹に似て色なき風 野口思づゑ
まれびとのほとほと叩く蓴舟 日高玲
言いそびれ聞きそびれ鳥雲に入る 藤田敦子
感情が濾過されてゆく花吹雪 松井麻容子
検温の額差し出し青野めく 松本勇二
魔女狩りもかくやアネモネがすれすれ 三世川浩司

嶺岸さとし 選
海明ける笊蕎麦一枚の気分 石川青狼
原発は国家の柩鶴帰る 稲葉千尋
福寿草キリマンジャロの地図広げる 植竹利江
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
外来語辞典かかえたかたつむり 久保智恵
野焼きの匂いくすぶる恋のありやなしや 小池弘子
日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
少年の項かなしき袋掛 白石司子
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
時空越え八分音符は花の窓 蔦とく子
花は葉に処理とは棄てることでした 中村晋
長閑だな腕をついはずしたくなる 北條貢司
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
村を出る父よ真鱈を厚く切る 武藤暁美
畦塗りの黄泉へと続く鍬づかい 故・武藤鉦二
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子

◆三句鑑賞

朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
 春の月は、他の季節の月とは異なり、柔らかく滲んだ風情が特徴だ。その極みである〈朧月〉を前にした体感を〈目鼻口耳もくびこうじの交歓す〉と個性的に言い得て見事。〈朧月〉だからこそ、目と鼻と口と耳の機能の輪郭が曖昧になりすべてが溶け合い喜び合うのだ。やがて〈朧月〉とも渾然一体に。なんという恍惚感だろう。

藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
 藤棚の蔓が〈オンライン〉の画面に向かう者同士の繋がりを、藤の房の姿や匂いが〈深夜〉ゆえの心身の悦楽と倦怠を彷彿させる。〈藤棚のごとく〉の比喩が冴えると共に、現代の景を詩的に掬い取った〈深夜のオンライン〉の措辞が光る。兜太師の唱えた「古き良きものに現代を生かす」精神が掲句に確かに息づいている。

うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
 〈うまれつきぼんやりで〉ね、と優しく微笑む雅秀さんの姿と、美しい〈雪と花〉の映像とが、柔らかく重なり合う。今年四月、若くして他界された雅秀さんを、兜太師は驚きながらも温かく迎えられたことだろう。この場をお借りして、俳句のご縁で雅秀さんと出会えたことに感謝し、雅秀さんのご冥福を心からお祈りする。
(鑑賞・月野ぽぽな)

悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
 「アメリカヤマボウシ」の文字数が十七字の過半を占める贅沢な構成だがとても惹かれる。アメリカヤマボウシは日本のヤマボウシに似て、花がピンク色の実に美しい花木。作者はこの花を悲しみに結びつけた。日本の街路樹の中でも華やかに見えるこの花、もらわれて来て遠い異国を飾りたてる姿に悲しみが見えたのだろうか。

花筏どれも船頭がいない 河西志帆
 「どれも船頭がいない」という短い言葉から、花筏の「されるがまま」の様々な光景が目に浮かぶ。吹雪のごとく舞う桜、水面に浮く無数の花びら、花びらは三々五々寄り合い重なり、流されていく。作者はさらにこの句に、どこに行き着くかわからない今の社会情勢や生活に感じる、何とはなしの不安を含ませているようだ。

朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
 トランプの「ババ抜き」が下地なのだろうか。しかし私にはこの「遊び」が、どこか異界で行われる不思議な行為に思えてくる。大いなる者が、とある空間からジョーカーを取り出している。この作業は暗く孤独で、永遠に続けられているようだ。なんの目的でこの作業が行われているのか、またジョーカーが何を意味し、大いなる者が何者かは定かではない。
(鑑賞・服部修一)

古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
 夕焼は翌日の晴天の予兆である。西の空を真赤に染める豪快な夏の夕焼に比べて、春の夕焼は、はんなりと西空を染める。「古本の賑わい」とは言い得て妙である。小さな町の古本屋。時代と人の慈しみの手を経て、巡り合う一冊の本と人。時の鎮もりと、重なる「ご縁」がある。少々くすんだ本の色合いや手触りも懐かしい。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 タカの一種である差羽。秋に大群で南方へ渡る。数万の差羽の大群が岬の上昇気流に乗って舞い上がる様は、鷹柱と呼ばれる。季節の変化を人もまた、肌感覚で感じ取る。雄大な鷹の渡りの景から、新しいパジャマの用意へ、一気に日常の一齣へと視点が移る。取り合わせの意外性、ダイナミックで爽やかな世界である。

臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
 春分から少しずつ日が伸び始めると、日中の時間や気持ちにもゆとりが出来て、のびやかになる。丁寧に『千字文』を書き写してゆく。さぞ満ち足りた三日間であったことと拝察する。古代の百済系帰化人、王仁が『論語』と共に日本へ伝えた楷、行、草の『三体千字文』。習字、書道の手本として、今も書き継がれている。
(鑑賞・平田恒子)

日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
 作者の句はほぼ平易な日常語しか用いない。しかし、つい見過ごし、忘れ去りそうな、小さな掛け替えのない世界を提示してくれる。掲句は、コロナ禍の中で日々の小さな楽しみや生き甲斐が奪われてゆく危機感、喪失感を、身近なタンポポに託して表現したものだろうが、シンプルながら真に迫る危機意識の深さに驚かされる。

少年の項かなしき袋掛 白石司子
 作者はしばしば、若者・少年賛歌を詠んでおられる。この句もそうだ。果樹(葡萄?)の袋掛けはなかなかの重労働と聞く。長身で色白の少年が身を屈めるようにして懸命に作業を進めている。すっと伸びたうなじを窮屈そうに曲げながら。作者は、その様子を愛しく見守っているのだろう。「項」に焦点を当てたのがとてもよい。

蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
 「父の墓」に「蹴り上げたキャベツ」が出てくる意外性に、先ず心を掴まれた。しかも、キャベツが「戻る」などあり得ない。結局、こういうことかと考えた。父の墓に参ると、生前、父が怒りにまかせてキャベツを蹴り上げた記憶が、決まって戻ってくる、なんとも豪快な父だった―と。読ませる壺を心得た手練の句。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

気に入らない愛する君よほととぎす 有栖川蘭子
緑陰に擬態してゐるカフェテラス 有馬育代
父の日の摩る手と手のきりも無や 飯塚真弓
マカロンの列のしんがり五月蠅なす 石口光子
ジオラマにパセリ千円分の森 植朋子
薫風や市電は頭振って来る 上田輝子
緑まばゆし死にゆく母とふたり 遠藤路子
羅を着てこころ澱ませないマナー 大渕久幸
古書店のどこまでが棚花曇 かさいともこ
蟻の足凄い速さで乱れるよ 葛城広光
彫り物の青き眼の龍明易し 神谷邦男
少年茜に焼け母とゐる土手 川森基次
どくだみの匂いのぐるり黒沢家 黒沢遊公
ほうたるの川へ傾ぎぬ千枚田 坂本勝子
小便小僧をあの子と呼ぶ子青葉風 佐々木妙子
紫陽花の叢よりヒッチコックかな 鈴木弘子
主治医逝く新病棟に冴ゆる月 宙のふう
鯰憮然千のマスクにさらに憮然 田口浩
水母の傷夜の素顔に似てはずかし 谷川かつゑ
母の日の付録のように父の日来 野口佐稔
花見酒末期の水を斯くの如 平井利恵
梅雨晴間おのれの頭撫でる僧 増田天志
木蓮が好きだった津波が来るまで 松﨑あきら
毒殺す正義正論晩夏光 武藤幹
瓜漬の底に弐日ありにけり 矢野二十四
水馬に押され水馬前に出る 山本まさゆき
梅雨寒や在宅勤務に妻の影 横林一石
こども図書館ももんがスーッと飛んだよう 吉田和恵
蜃気楼彼岸のきわの迫り来る 渡邉照香
左遷さる鬼薊の群れの中 渡辺のり子

『海原』No.31(2021/9/1発行)

◆No.31 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

寂しさとう頑固のひとつ冬の岩 有村王志
五月雨は映画のあとのよそよそしさ 泉陽太郎
空気からからだ引き上げ春の蠅 伊藤歩
三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
眠るも沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
お喋りの続きは来世で花は葉に 宇川啓子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
ワクチンを待つまるで蚕室さみだるる 大上恒子
空耳のシュプレヒコール久女の忌 奥山富江
野の空席わが春愁の個室です 金子斐子
コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
若松のさかる風帰天いま 北村美都子
甘野老あまどころほろほろ嘆き唄う母 黒岡洋子
蕗味噌や黒ずむ爪の母います 佐藤美紀江
かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
木の芽山石棺の夜の湿りかな 白石司子
走り梅雨お悔み欄の歳を見る 鈴木康之
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
へそくりを隠し金魚と目の合いぬ 寺町志津子
川上に孔子の嘆き花は葉に 董振華
手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
泣き上戸アサギマダラの島に老い 本田ひとみ
暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
追伸は嗚咽のごとし花辛夷 武藤暁美
師は遠く縄文土器と麦の秋 森鈴
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵
青嵐撤退に美学は要らぬ 梁瀬道子

茂里美絵●抄出

バードウイーク蛍光ペンで目印を 石川青狼
白薔薇のブラックホールに嵌りこみ 石橋いろり
漂泊さすらいは梢にありて朴の花 伊藤淳子
廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
陽炎の中に冷たき火種ある 榎本祐子
神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
秋の空遠くにきっと笑顔あり 奥村久美子
星影を雫に変えてふところへ 奥山津々子
こいのぼり方向音痴でも愉快 小野裕三
人は陽炎あめいろの石抱きしめて 桂凜火
みんな帰った夕焼のスイッチ押す 狩野康子
再会は春の星座の燃ゆる刻 刈田光児
使わない香水がまた減っている 河西志帆
父母に会うために生まれて山笑う 楠井収
サイダーの思い続けている世界 小松敦
ラフマニノフに逃れ緑陰に溺れ すずき穂波
紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
蛍狩あすはナポリへ飛ぶと言ふ 長尾向季
花に重さ鼻くすぐってゆくうつつ 中野佑海
つちふるや一糸まとわぬ走り書き ナカムラ薫
マスク外して陽炎になっている 丹生千賀
かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
木に木の音がたまって若葉かな 平田薫
臥竜梅夕くれないの海の微熱 平田恒子
遠桜人はいつから淋しがる 松岡良子
視力なきひとの草笛ローレライ 松本節子
パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子

海原秀句鑑賞 安西篤

三密の表面張力 花は葉に 伊藤幸
 三密とは、令和二年に厚労省が掲げたコロナ対策の標語「密閉、密集、密接」のこと。葉桜の始まる頃。三密で抑圧されていた生活感は、ほとんど限界に達しようとしている。それを三密の表面張力と捉え、目一杯の臨界点のまま、花は葉に移ろうとしているというのだ。一字空けの効果が臨界点の緊張感を伝える。

コロナ禍に増えて雀斑梨の花 北上正枝
 コロナ禍のステイホームも長引くと、身だしなみや肌のお手入れもおろそかになりがちで、勢い雀斑もふえてしまう。初夏、一面に梨の花咲く里に来て、その白花の群落に身を浸し、しばし命の洗濯を試みる。さてその効果のほどは―。梨の実の雀斑模様が答えを暗示する。

若松のさかる風帰天いま 北村美都子

 本年四月二十八日に五十七歳で亡くなった田中雅秀さんへの悼句である。会津若松に在住、ご主人とともにホテルを経営しておられ、傍ら東北新潟を駆け巡って俳句行脚にいそしんだ女丈夫でもあった。遺句集となった『再来年の約束』に、北村さんが心を籠めた解説を書いている。しかし誰もが予想しなかったように、約束の再来年は果たせなかった。故人の所在地と名前を折込み、痛惜の思いで書かれた一句。

暮れ残る屋島たね爺夏ですよ 松本勇二
 たね爺とは、亡くなった関西の俳人高橋たねをさんのこと。おそらく、海程香川句会の屋島吟行ではないか。そこはたねをさんがしばしば訪れては、句会に活を入れていた場所でもある。「たね爺さんよ、いつもの屋島に夏が来ましたよ。」と呼びかける。いや呼びかけたい思い。

かげろふの更地歯ぶらしが一本 清水茉紀
 災後十年を経たフクシマの、遅々たる復興の有り様の一端を覗かせる一句。被災地には一部更地化した土地は、除染されたとはいえ本当に安全基準に達しているのか疑念は晴れない。更地化された土地は再利用されそうもなく、しらじらと空けたままかげろふが立ち、誰が落としたのか一本の歯ぶらしがあるばかり。

脚だけの手だけのロボット昭和の日 三好つや子
 かつてロボットといえば、人体模型化したものがイメージされ、その典型が鉄腕アトムだった。ところが今やロボットの導入が進んで、工場内の単純作業はロボットが処理するようになり、人間の肉体労働はほとんど代替されてしまった。加えて、その機能分化により、脚は脚だけ、手は手だけのロボットが、それぞれ流れ作業の一端を担っている。「昭和の日」は、その時代の変化への回想であろう。

原爆忌前書きも後書きも白紙 宮崎斗士
 原爆忌も、ここまで日常化したイメージで書けるのかと思わせる一句。俳句の場合、普通は前書きが主で、後書きは稀に長々と散文的事情説明となる場合が多い。原爆忌俳句で有名なのは、松尾あつゆきの「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」に付けた前書き「十五日妻を焼く終戦の詔下る」がある。掲句はそういう前書きも後書きも一切省略して、一句勝負で書かれた原爆忌俳句を指す。それこそが原爆忌俳句としてもっとも潔い態度だという。

手足濡れゆく浅き眠りよ墨流蝶すみながし 鳥山由貴子
 格調高い美意識で映像化した一句。墨流蝶すみながしとは、翅が墨を流したように見える美しいタテハ科の蝶。上句・中句の映像表現は、「墨流蝶すみながし」の具象性よりも、言葉から来る映像感覚に誘われるように「手足濡れゆく」とし、蝶のかすかな羽ばたきがしばし収まりゆく様子を「浅き眠り」と喩えた。それが 「墨流蝶すみながし」 という題材に現実感をもたらしたといえる。作者の文学的感性を感じさせられる。

野遊びの素直になるための順路 ナカムラ薫
 「野遊び」という季語は、夏井いつきの『絶滅寸前季語辞典』に収録されているように、今ではあまり使われていない季語。戦前から戦後にかけて、中流以上の家庭ではよく行われていたピクニックのことである。そんな季語をハワイ在住の作者に蘇らせてもらった。「素直になるための順路」とは、その世界に戻るには、一定の心理的な場を、順序よく踏んでいかなければなるまいということ。

 他に触れるべき句として惜しまれるものを挙げておく。

眠るも沼に降るもの花は葉に 伊藤淳子
血の味のうっすらとして木下闇 大池美木
春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
朴の花風の眉目を知っている 茂里美絵

海原秀句鑑賞 茂里美絵

廃屋へ西日は父を純化せり 伊藤道郎
 ツルゲーネフの小説『父と子』を想起するのは、穿ちすぎだろうか。父と娘の甘やかな関係、母親に対する、息子の永遠の思慕とは隔絶した意識。追い越すことが出来なくて反発した青年期。だがやがて父を追い越していく自分。その象徴として「西日」「廃屋」がある。しかし「純化せり」には、哀切的な父へのオマージュが、込められているのではあるまいか。

神棚に蠟梅の実がマチスなり 大髙宏允
 蠟梅の実を知らなかったので図鑑で調べた。五月頃には、あの透き通るような花からは思いも及ばない、長さ四センチの立派な実がなるという。上五の、神棚からはモノ。そしていきなり、マチスである。全体に微妙に、ずれた感じではあるが、どうしても立ち止まらなければいられない俳句もある。仄暗い神棚にささげる蠟梅の実。神棚とは掛け離れた艶やかな黄色の実。命そのもの。純粋的色彩の世界を創りあげたマチスを、其処に見出した作者の、イマジネーションに感服するばかり。

サイダーの思い続けている世界 小松敦
 長いスツールに腰かけてサイダーを注文する。都会の一隅の小さな店。軽い閉塞感のある雰囲気の中で飲むサイダー。プツプツと無数の気泡が喉を過ぎる。次第に、自分自身もその気泡と同化していく。見知らぬ人々の流れを、窓越しに眺めている内に、想いが広がっていく。不安、悲しみの溢れた現代の世界。サイダーと一体化して無意識にぶつぶつと呟く作者。

紅梅や悲しいときの集中力 芹沢愛子
 人生の三分の二は悲しみに包まれている、とはある作家の言葉である。人間は勝手なもので、嬉しいことにはすぐ満足して時間を引き延ばしたりはしない。悲しみも色々段階はあるが、他のことに集中して悲しみを忘れる努力をするのは、かなり重い事柄と思う。その様な時には、先程の作家の〈人が生きるということは、その三分の二は悲哀なのです〉を思い出して欲しい。あなたには、輝くような早春と紅梅が寄り添っているのだから。

春雨や僕を切り抜く音でしょう 高木水志
 もともと春雨は静かに降る。白雨のような激しさはないが、じんわり体にまとわりつく。そして「切り裂く」ではなく「切り抜く」には微妙な違いがある。春雨の透明なカーテン。折紙を丸く切り抜くように、かすかな音を立てて前へ進む作者。若い感性の捉えた、自然現象の一瞬を、するどく表現して見事。

バタフライスツール青葉が加速する 鳥山由貴子
 腰掛け部分が蝶の翅のように広がった、背もたれのない椅子。この場合、木製品と勝手に想像してしまう。いろいろに空想の広がる俳句は楽しい。つまり省略が小気味よく利いているということ。更に言えば、具象と抽象を備えた主旨が、俳句の真髄だと思う。蝶の形をした椅子から、青葉へと移行していく、こころ。春から夏へ加速していく森のざわめき。
 評論集『蝶の系譜』(高岡修著)から見つけた短歌を次に。〈丘の上を白いちょうちょが何かしら手渡すために越えてゆきたり山崎方代〉
 蝶は美しいばかりでなく、幸せも運ぶ使者なのかも。

かげろうと棲み分けており老尼僧 日高玲
 静かにゆっくりと歩を進める。まひるの空気がゆらゆらと動く。かげろうも寄り添うように動く。老尼僧と言えども、厳しい戒律とさまざまな日課のなかの日常。「かげろうと棲み分ける」の意味するもの。迷いを謝絶した柔和な表情。しかし凜とした想いが、辺りを鎮める。対極的な位置に在るかげろう。しかしその儚い自然の現象を認めた上で、この老いた尼僧はゆったりと陽炎とも共存するのだ。

パントマイムのようにいちにち花は葉に 村上友子
 俳句の世界にもコンピューター時代が来ているらしいというより、現在のコロナ禍の中、パソコンでの通信句会をせざるを得ない。便利になったが、其処に風や花の匂いはない。この作者は、それを逆手にとってゆったり暮らして居られる。街へ出ても人と人は表情や手ぶりで会話を交わす。まるでパントマイムのように。同じような日々が過ぎていく。桜が散り美しい葉桜になっても、さまざまな国ではパンデミックと戦うしかない。静かに半ば諦めのまなざしで、それらを眺める作者。

青葉冷え幽愁のくに歩こうよ 若森京子
 〈酔ふばかりであったふらんす物語荷風〉こんな断片をどこかで読んだ。永井荷風。作品に『ふらんす物語』など。若森氏の俳句には不思議な復元力がある。勇気づけられる。日本はいま正に「幽愁のくに」。このフレーズには参りましたね。まぁでも私たちはどんな時でも、前を向いて歩くしかない。さぁ歩こうよ、と。親しい仲間とひっそり個室で飲んで、酩酊の口にはマスク。そして青葉冷えの夜風に吹かれるのも、たまにはいい、か。

◆金子兜太 私の一句

酒止めようかどの本能と遊ぼうか 兜太

 金子先生が朝日俳壇の選者になる前、担当記者が掲句を私に示し、「これ、誰の句か知ってる?」と。正直に首を傾げると、今度選者になる金子兜太さんの句と教えてくれた。その担当者は酒好きうまいもの好きで「全く身に染みる句だよなぁ」と言いながら、透析しつつ先生と旅をした。先生の選者入りに反対する空気と断固闘った人。そして、私にとっての邂逅の一句となった。句集『両神』(平成7年)より。滝澤泰斗

自動車の眼玉が二つ不思議な冬 兜太

 車の前照灯を眼玉が二つと直截にとらえたインパクトある表現が気を惹く。かっと見開いたその眼玉がみている事象は何か、あるいは心のあり様だろうか。「不思議な冬」のフレーズが韻律のよさと共に忘れ難い句の存在を示している。郊外に住む私にとって車は分身の如くあり、運転あるいは同乗の機会に嘱目した自句を思い返すとき、掲句は高みにある。句集『皆之』(昭和61年)より。三木冬子

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
睦むとき冬の金魚が翻る 榎本祐子
耕すや孫と花びらついてくる 大久保正義
鉄路にも桜の余熱逢いに行く 片岡秀樹
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
話したいこといっぱいあった窓に雪 佐孝石画
頭あり早春の遺失物のよう 佐々木宏
母の忌の木に寄りかかる冬日向 管原春み
ぶらんこを乗り継ぎいつか星になろう 竹田昭江
はんの花死にたいなぁと生きたいなぁ たけなか華那
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
恋猫の無明ムミョウと哭きにけり 中内亮玄
水に声火に声三月十一日 中村晋
兜太の忌血脈のごと野草の根 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
しぐれたる葦原老いのまなこは駅 北條貢司
幼子の匂い春の虹の匂い 村松喜代
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
新雪の遠嶺くっきり喪明けかな 森由美子
春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子

服部修一 選

春は曙追いかけることばっかり 大池美木
春を想う橋から帽子飛んでゆく 大髙宏允
ぬたになる分葱再婚する分葱 こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
冬眠をしたい人間しない熊 篠田悦子
おでん鍋戦争が匂いはじめる 白石司子
サンタ来るパーテーションの向こうから 芹沢愛子
パンジーの寝言はきっとありがとう 高木水志
税務署は本屋の隣二月尽 寺町志津子
春の風蠢くものの応援歌 東海林光代
人はみなひとり春の海キラキラ 西坂洋子
春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
夢を売ります風花の窓辺にて 船越みよ
蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
風呂に浮く柚子の愛され上手かな 三浦静佳
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
草餅を食べて死などは考えず 村本なずな
セーターを着て人間がうしろまえ 望月士郎
地球儀回せば難民零れ落ち 輿儀つとむ
木履ぽっくりをはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子

平田恒子 選

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
冴え返る羽音のごとき人の流れ 伊藤淳子
明暗の境目あたり遍路かな 大髙宏允
軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
○転生は木になれるはず森に雪 北村美都子
佐渡よりの流木砂洲の天の川 黒岡洋子
ゆく春の輪ゴム見えなくなるまで飛ぶ こしのゆみこ
○本当に眠ると春の森に出る 小松敦
白鳥や言葉深追いせず眠る 芹沢愛子
末黒野にキリンの義足鳴る夜かな 竹本仰
鳥雲に入る記憶こそ鮮やか 故・田中雅秀
春の致死言葉の先に人がいる 中内亮玄
枕辺に枯露柿三個遺書はなし 野田信章
寒月下ジャングルジムという折り鶴 堀真知子
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
白鳥の千のつどへば千の鈴 松本千花
惜春の石に壊れし椅子一つ 村上豪
寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
光年やいまさらさらと春のからだ 若森京子

嶺岸さとし 選

水色のスープが刺さる浅い春 泉陽太郎
諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
○てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
はくれんへ逃れて少女拒む羽化 伊藤道郎
春の雨インド象ゆっくり通る 大池美木
ふっと声目線上げれば梅二輪 狩野康子
白さるすべり夜を散らかすのが仕事 河西志帆
深雪晴宙いっぱいに嘘をつく 後藤岑生
温かなタオルでぬぐう春の夢 小松敦
能面の嗤いが駈ける芒原 清水茉紀
何度でも握り返して春手袋 故・田中雅秀
分身として朧夜の声ひとつ 月野ぽぽな
剪定夫はるかな山も抱え居り 中村孝史
薪ストーブ爺の訛のよく燃える 前田恵
アクリルの向こう遙かを徒遍路 松本勇二
言い訳の言葉ちぐはぐ落椿 武藤暁美
○アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
永遠の紙ヒコーキを冬青空 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
木履ぽっくり をはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子

三句鑑賞

おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
 手鏡を開けて自分を映すと、鏡の自分がいろいろ話してきて、ちょっとうるさいので、黙ってもらった。実は喋っているのは自分の心なのだけれど、その様子を〈おしゃべりな鏡を閉じる〉としたユーモアのセンスが光る。どんな心の声だったのだろう。ふふっと微笑むような余韻が〈春の宵〉にやわらかく広がってゆく。

しぐれたる葦原老いのまなこは駅 北條貢司
 駅は動かず、来るものを受け入れ、去るものを見送る。列車や人々、ひいては時間さえも。〈老いのまなこは駅〉からは、何もかもを忙しく追いかけた日々は過ぎ去り、それを経験したからこそ到達し得た、全てをあるがままに受け入れて執着しない、達観の眼差しが見えた。一面の枯葦は来し方。時雨は全てを慈しむように降る。

春寒やさすらいの四肢ゆるく絞め 若森京子
 〈春寒〉の体感を〈四肢ゆるく絞め〉と掴んだ、「肉体感」とも呼びたいうぶな感性が独特で魅力的。冬の寒さとは違う春の寒さがここにある。そして〈さすらいの四肢〉から、春寒の頃、〈さすらい〉の句を此岸に置き他界された兜太師の姿が私たちの前に現れる。「定住漂泊」を生き抜いた師への渾身のオマージュである。
(鑑賞・月野ぽぽな)

春蚕ごろごろ歌の生まれるところかな 藤野武
 「ごろごろ」という語感が、十分に成熟した上蔟まぎわの蚕を思わせる。日本経済発展の一端を担ってきた蚕糸業界は、化学繊維や生活様式の変化により急速に衰退した。かつてこのような豊かな春蚕に多くの人たちが携わり、喜びの歌も生まれた。馥郁とした春蚕を前にして、作者も大いに心を動かされたのではないだろうか。

蒲公英の立ち上がり方踏まれ方 松本勇二
 路傍の蒲公英は大変だ。行き交う人々から踏みつけられては頭をもたげて立ち上がり、また踏まれる、のくりかえし。しかし作者には蒲公英に意思があるかのように、うまい立ち上がり方や、ダメージの少ない踏まれ方があるように見えた。人間にしても同じ。しかも人間には知恵も足もあり蒲公英よりはうまく対処できるはずだと。

夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
 夫婦は幾何学だ、と言っている。夫婦問題の暗喩。そこで幾何学側から夫婦問題を見ると何か分かるかもしれない。たしかに幾何学は複雑のようでも必ず解があり、規則的な幾何学模様は見方によっては美しい。深淵なる夫婦問題も案外そんなものか、と納得しそうになる。いろいろ考えているうちに、下五「しゃぼん玉ふわり」で作者本人に寄り切られた感じだ。
(鑑賞・服部修一)

軋轢が詩を孕ませて芽吹くかな 川崎千鶴子
 本来「軋轢」は人間の不和、葛藤などを意味するネガティブな言葉である。この作品の面白いところは、「軋轢」を詩を育む母胎のように捉えて、柔らかい芽吹きの中に置き合わせた味わいである。時を得て良い詩が醸し出されることを信じて、軋轢をも抱きとる包容力と懐の深さが感じられる。

寒卵つるんと筆順誤魔化して 村上友子
 寒卵がつるりと剥けて、見るからに美味しそう。滋養にもなりそう。書き物をしていると、覚えていた筈の文字が不確かで辞書を探す。一本横線が足りないかな?ならばちょこっとそれらしく足しておく。筆順は当然つるんと誤魔化しちゃった。茶目っ気たっぷりのユーモラスな描写が好もしい。

アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
 昭和三十年代、デパートなどの商業ビルの屋上には大売出しの宣伝のアドバルーンが揺れていた。ただ、強風には弱い。どこかへ飛んで行ってしまわないようにと、見張りのバイト要員が控えていたのだろう。近年では、世間の反響をうかがうために意図的に情報をリークするアドバルーン揚げもあるので要注意!
(鑑賞・平田恒子)

諦めの美学おぼろに語りましょう 伊藤幸
 一読、「諦めの美学」は「おぼろに」語るのが相応しい、と読めた。が、平凡だ。作者は「おぼろに語」るのが大好きなのではないか。「諦めの美学」だとしても朧に語らずにはいられない。「諦めの美学?だとしても、朧に語りたくて仕方ない私です。一緒に朧に語りましょう!」こんな解釈の方が魅力的ではないか。いかが?

てのひらに軽き意志あり鳥雲に 伊藤淳子
 何かを思わず握りしめようとしたか、包もうとした瞬間だったのか、掌に意志を見たのは。自分の中の無意識、本能的なものが表出した一瞬をみごとに形象化している。「指」でなく「てのひら」、「小さき」でなく「軽き」の措辞の斡旋が、詩を生んでいるのではないだろうか。作者の柔らかな感性に拍手を贈りたい。

木履ぽっくりをはいた記憶ぽっくりがいい 若森京子
 「木履」は女児用の下駄のようだ。幼時の記憶から、翻って老いた我が身に思い至るのだが、さり気なく、洒落で死に方願望を語ってしまうおおらかさと諧謔味に、心を鷲掴みにされた。こういう心境は俄仕込みでは生まれてこないように思う。作者の辿りきた人生の豊かさと深さを想う。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

過ぎ去りし若さ照らして更衣 有栖川蘭子
蜘蛛下がる御用学者の眉尻へ 植朋子
こころの迷彩は何を隠すの夏 大池桜子
一言も発することのない泉 大渕久幸
陽炎のことなど話し蕎麦啜る かさいともこ
雨粒のたった五粒に山沈む 葛城広光
藤の房屈伸の手は地につかず 河田清峰
告白の腹にいちもつ罌粟の花 木村寛伸
梅雨寒や缶振れば鳴るドロップス 清本幸子
ポン菓子屋ポンポン春を引いてくる 後藤雅文
父の手の昏がりにほうほたる 小林育子
毛たんぽぽ言葉の襞からひらひら 小林ろば
海ばかり見てながらえてはまなす野 榊田澄子
熊野路の雨は球体雨月かな 宙のふう
春蝉鳴く今日の顔して一日かな 高坂久子
黒薔薇の蔓が寝棺の窓を這う 田口浩
夏館母は吾を吾はデグーを叱る*ペット、ネズミの仲間 立川真理
白というまばゆき坩堝更衣 立川瑠璃
青田波蝦夷百年の風の記憶 谷川かつゑ
生きてあれアカシアの花共に見む 平井利恵
花冷えのショパンすこしく前のめり 深澤格子
らいてうとふ女性ありけり青き踏む 藤井久代
こころざしこんな処に蕗の薹 藤好良
来し方の変えぬ不器用豆の飯 保子進
春惜しむ集ひに一人リアリスト 武藤幹
少しだけ親切になれる薔薇咲く 村上紀子
鳥曇海に帰れぬ水のあり 矢野二十四
花びらを着けデイケアから母帰る 吉田和恵
素っ裸おむつ一つの父の体 渡邉照香
もののけのはしゃぐ声する春嵐 渡辺のり子

『海原』No.30(2021/7/1発行)

◆No.30 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

晩年とは風を聴くこと西行忌 赤崎ゆういち
諸葛菜土鈴ですか山鳩ですか 石橋いろり
籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお
この話長くなります龍の玉 奥山富江
アンテナの多き下町クロッカス 小野祐三
気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
目借り時尖ることばをどうしよう 桂凜火
散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
笑むことも自傷のひとつマスク美人 久保智恵
背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
溺愛でなく風は摺り足してカタクリ 小林まさる
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
点滴がつづいています夢十夜 白井重之
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
耳朶柔し百態の春に惚ける 竹田昭江
三日月がさくらを静かに分けている 竹本仰
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
春雷や古き文読む母の眉間 遠山恵子
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
カラスのエンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
野卑にして優し焚火に筍焼く 藤野武
春浮雲少し動いた有精卵 村上友子
点滴と心音シンクロして透蚕 望月士郎
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子
生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名

松本勇二●抄出

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
神の留守マルクスのごと前かがみ 奥山富江
鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
春キャベツ拗ねてひとりになりたがる 河西志帆
連弾のよう夜更かしの仔猫たち 河原珠美
亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
ゆっくりと母来るように春の雪 佐藤君子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
たんぽぽを真っ直ぐに来る装蹄師 鳥山由貴子
土いじる二人のえやみ長閑なり 中村ひかり
田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
偏頭痛きざす紋白蝶までとおい 三世川浩司
白木蓮デモクラシーは錆びやすく 嶺岸さとし
畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
菜種梅雨ジャンボ滑り台の憂鬱 吉澤祥匡

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子

 時代背景は異なるが、ともにミャンマーに関わる現実を基に作ったもの。岡崎句は、竹山道雄原作市川昆監督により映画化された名作をモチーフにして、かつてのビルマの英霊に対する供養に生涯を捧げた一日本兵士の故事を思い、ミャンマーの平和の回復と歴史への鎮魂を祈る。「忘れまじビルマにさ迷うわだつみの骨」の句もある。
 佐々木句は、現在のミャンマー国軍と民主勢力との対立状況を踏まえ、軟禁状態にあるスーチー女史に草の根からの声援を送る一句。ともに時代状況に即した問題意識が熱く反映された作。

籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお

 ステイホームを余儀なくされている日常を詠んだ二句。泉句。巣籠りの日々にも、紅白入り混じった木瓜の花が日毎に彩色するように色をつけ、鬱陶しい気分を慰めてくれる。ささやかな日々の移ろいに見出した彩りが、柔らかな息遣いのように感じられる。
 尾形句は、少し当たり散らしている感じ。同時発表の「歯ぎしりやじりじり動く洗面器」の句などをみると、大丈夫かと言いたくなる。それだけ若さからくる鬱屈感が強いのかもしれない。花をみてもその優しさに癒されず、ゾンビ映画の刺激によっても発散することはない。あげくの果ては「ふて寝」と決め込んだが、それで一件落着とはいくまい。そのありのままの屈託感をぶっつけているところが面白い。

気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
 通条花は、三~四月頃、黄色の房状の花序を長く垂らして枝一面に咲く。地味な花で、いかにも気取りなく生きている感じがする。句の中で明示されているわけではないが、「風の中」には、コロナ禍の危機感に揺れる現在が暗示されているとみてもいい。作者はすでに熊本の台風禍で、抗い難い災禍を経験している。そんな時、平常心をもって柔軟に生きることを、通条花の立ち姿に見ていたのかもしれない。

散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
 池や川面に大きく枝を差し伸べた桜は、落花の頃は水面にさまざまな模様を描く。その模様の一つを仮面のようなイメージと見立てた。落花が描く仮面には、作者の潜在意識が投影されている。そこには、幼い頃の童話の世界や、身近に感じたさまざまな人の風貌のデフォルメされた映像が描き出されてくる。どちらかといえば、好ましいものというより、怖いもの、不思議なものの映像のような気もする。それは作者の潜在意識にひそむ多彩な原風景の一つに違いない。

背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
 「枝垂桜の中にいる」とは、枝垂桜を浴びるような立ち位置で見上げているのだろう。そのとき「背を青くして」立っていたという。こういう感覚的体感の捉え方は、作者の得意とするものかもしれない。あらかじめ背を青くして枝垂桜の下に入っていったのではなく、枝垂桜の中で、背が青くなった状態が続いているとみたのだ。それは枝垂桜とともにある存在感そのものではないか。

反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
 兜太師追悼の一句とみたい。ご夫妻とも反核の人であり、黒文字の花を愛しておられた。黒文字は三〜四月頃、半透明の繊細な花を開く。たしか熊谷のお庭にも咲いていたような気がする。どちらかといえば皆子夫人のイメージに近いが、兜太師にもそんな感性があった。作者は、黒文字の花のイメージに、兜太の反原爆の書の筆太な黒文字をも重ねていたのではないだろうか。

自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
 「残った人」とは、東日本大震災で生き残った人と受け取った。「海市」のイメージから、あの時の津波に生き残った人という映像が誘い出されるからだ。今年は震災後十年という節目を迎えている時でもあり、作者にその時事性が意識されたのだろう。十年を経ても「フクシマ」は終わっていない。原発禍は収まらず、廃炉は遅々として進んでいない。生き残った吾は、幸せなのかどうか。海市の中の幻のような存在なのかも。

生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名
 終活の一環として、生前墓を用意しておく。出来上がってみると、なんとなく愛着が湧いてきて、なでさすったり、亀を鳴かしてみたりするという。周知のように「亀鳴く」は虚構としての季語だが、この句のポイントはまさに「亀鳴かしたり」の仕掛けにある。この空想上のイメージを取り合わせることによって、やや大げさに言えば、日常のことばと古典的ことばとを〈異階層言語〉として組み合わせ、その相互作用によってことばを両義化しつつ、俳諧の詩的達成を目指したともいえる。こういう試みは今にはじまったことではないが、現代俳句の一つの沃野として広がっていることは確かだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
 過去に経験した自身の三月への思いか、あるいは東日本大震災への思いか。鉈の重さという比喩が作者の暗くて重い記憶を思わせる。明るく晴れやかな句が好まれがちだがこういうぐさりと来る重い句も大切にしたい。

玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
 帰宅したときいつもはあちこち向いている靴が、今日は揃えられていた。どきりとする。誰か来るのかくらいでは止まらず、誰かの死を思ってしまう作者の心配性気質が垣間見える。死は案外近いところにある。

春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
 収穫が遅れて割れてしまったキャベツ。それを契機に相続を放棄すると書く。相続放棄には様々なややこしい事情があろうが、それらをあっさりと凌駕し固執しない作者。さっぱりとした生き様が鮮やかに尾を引く。

鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
 時代劇が面白かったのは昭和の終わりの頃か。花篝の奥には鬼平犯科帳や必殺仕掛人の主人公が鋭い目つきでこちら側を見ている。虚構であるのに実感があるのは、ためらいなく言い切ったことの効果であろう。

亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
 筆者の祖母が遺してくれたジューサーが先日破壊した。作者は圧力鍋のようだ。いささか迷惑気味の口ぶりが諧謔味を呼ぶ。亀鳴く、という季語もとぼけた感じでこの句に合っている。

晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
 椿のところで切って二句一章として読んだ。晴れた日の椿は照葉樹である緑の葉の照りもあり、光り輝いていることだろう。そんな明るい日にふと子離れを決意した作者。カチンという擬音がべとつかない子離れを思わせ好感を呼ぶ。

延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
 誰と競っているのか考えた。俳句仲間か近所の奥様か。萎まないように自分を叱咤している作者である。元気で居ようとする心意気が嬉しい。延齢草の白い花弁と競っているのかも知れないが。

紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
 昔の田は紫雲英が紫の花をびっしりと咲かせていた。それを鋤き込み稲作の堆肥としていた。花冠や首飾りを女子は作っていた。大人になっても紫雲英田に来ると素直になる作者。そおっと連れて帰ればしばらく安寧の日々を過ごすことができる。

水枕母在るときの波まくら 白井重之
 母在るとき、は何時までたっても突然眼前に脳裏に蘇る。解熱のために水枕を使った作者に、波の音が聞こえて来た。母上と過ごした海辺の光景が現れたか。リズム感に支えられてどこか懐かしい一句となった。

春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
 ぎりぎりの肥後守世代だ。細い竹や木を削ったりした。買ってもらった日には何回も刃を出し入れしてワクワクしていた。作者には何十年も前の肥後守がまだ身辺にあり錆びてしまっている。春愁の重厚さが半端ない。

昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
 十代の記憶が突然現れるようになったのは六十を過ぎた頃からか。特に夢の中では顕著だ。みんな若くて目を輝かせて走り回っている。現実はどうだ。昨日何をしたか夕食は何だったか思い出せない。少し年を取った人たちの同一の思いをさっと掬い上げて見事。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 「差羽群れ舞う」は鷹柱のことか。それを見て、パジャマを新しくする契機にした。サシバからパジャマへの大きな展開は感覚優先で書いている証左であろう。

田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
 山里では上流部で川を堰き止め井手を作りそこに水を流して田に水を引いている。息急き切って流れ来る水が山の風も連れて来ると書き爽やか。農事のあれこれの中で感じた自然現象をきちんと吸い上げ一句に仕上げた。

蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
 出掛ける時玄関でぴょんぴょん跳ねる蠅捕蜘蛛。それは「私を感じている」からだ。人間の近くで生きるこの蜘蛛は人の感情を感知できるのであろう。生命力の横溢する万緑では、蜘蛛もヒトも鋭敏になってくる。

花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
 飛花落花のさなか、地上の花びらの動きに神様の一歩を感じた作者。これくらいなら他に見たことがあるだろうが「ふと」にやられた。神様は、うやうやしくでなく、何気なく足を降ろされたのだ。気取らなさが上手い。

置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
 農業従事の方が春に逝去された。筋肉を置き去りにして、と書く作者の視点に瞠目。よくぞ書いていただいた。さぞ惜しまれながらのご逝去であったことであろう。

畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
 鍬を使うのは本当にしんどい。長時間使っていると腰がこわれたと思うほど痛くなる。畝をたててジャガイモでも植えるつもりであろうか。一畝たてるごとに老いてゆく鍬は自身の老いにも繋がる。農業者は老いても限界が来るまで鍬を振り続けなければならない。農を繋いでゆく覚悟を、鍬を通じて象徴的に表した。

故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
 迷路は来し方の心象映像か。季語が後で効いてくる。

◆金子兜太 私の一句

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太

 誌上には大胆な句で、今まで「うんこ」と誰が表現しただろうか。私事だが、出産時に「うんこ」を漏らしても良いからいきみなさいと看護婦に言われた。ただし終日これを繰り返し、やっと出産できた。これは太古よりの命の始まりで、先生の母上への深い感謝と愛の迸る感銘の一句である。句集『日常』(平成21年)より。川崎千鶴子

山峡に沢蟹の華微かなり 兜太

 小生も幼少から山の沢に行き、よく蟹を取ってきたものだ。沢蟹は人里離れた奥深い辺鄙な所でひっそりと生きている。この句の沢蟹(実は兜太師ではないか)は今華やかさが僅かであり、全く地味な生き方であるが、後に世に知られ脚光を浴びて名をなすであろうことを如実に暗示している句に他ならない。私の大好きな一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。山谷草庵

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
陽のしずくを酌み交わすなり福寿草 伊藤巌
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
夢多きカプセルホテル冬霞 小野裕三
小春日を縢るよう母の数え唄 加藤昭子
パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
雪搔けば我の中にも竜が在り 佐藤詠子
白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
壮快なギブアップ風の葦野原 篠田悦子
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
母のそれからミシン奏でる冬銀河 中野佑海
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
寒灯は真昼のごとくコロナ棟 藤田敦子
おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
前の波の鎮魂歌なり 波の音 マブソン青眼
葛湯吹く母には母という順路 宮崎斗士
籠り居の耳の渚に冬青そよごの実 柳生正名
初しぐれ禿びた箒のにぎやかに 矢野千代子

服部修一 選

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
外出はポスト迄です春隣 伊藤雅彦
着信に優しい嘘と冬夕焼 榎本愛子
極月やカマボコ板が飛んでいる 榎本祐子
ともだちの少ない犬や小六月 奥山富江
小六月鏡に映らないところ 小松敦
あなたは杖をステッキと言う春野 三枝みずほ
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大旦ちょっぴり縮む車椅子 高木水志
あかんぼと目が合っているおでん 竹本仰
薔薇に雪ふとマッチ売りの少女かな 田中裕子
寒鴉あつまる街の余白かな 董振華
陽のかけら初日へ色を足しており 永田タヱ子
御慶かな隣家のポルシェ唸り出す 長谷川順子
万両の木陰お前も小心者 間瀬ひろ子
父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
人日の植木等の重さかな 村井隆行
雪は膝下尉鶲ピュッと飛ぶ 村松喜代
筍やざっくりと切る八年目 らふ亜沙弥

平田恒子 選

朽ちし生家は雪を被ったまま傾ぐ 植田郁一
小鳥来て大岩壁に身を投ず 内野修
棒読みのような書き初め飾るかな 小野裕三
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
身のほどを問われる始末酔芙蓉 黍野恵
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
句縁とは星座のごとし兜太の忌 齊藤しじみ
句の中で何度も死んで今朝の雪 佐々木昇一
君らの言葉氷柱太るがごとく純 白石司子
冬ざくら山嶺は蒼き煙 田中亜美
風船葛枯れるに触るればほろと言う 谷口道子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
歩いても歩いてもなかなか死ねない マブソン青眼
ブザー鳴る介護たとえば冬青草 宮崎斗士
なまはげ来る山のかたちの闇を負い 武藤鉦二
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
すずなすずしろ透明な箱を買いにゆく 横地かをる

嶺岸さとし 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
楤の芽や小言を増やし黄昏れる 宇川啓子
約束の帯はむらさき雪の花 北村美都子
晩年の冬耕終え一番星に触れる 白井重之
臘梅や玉砕という言葉ふと 白石司子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
ビル群に産み落とされし冬満月 藤野武
論点の違う話のように雪 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
欠餅の膨れる力恋心 松本豪
藤垂れて睡い眼の少年とをり 水野真由美
風花す二人のこころまだ下書き 宮崎斗士
枯木星みんな出口を探してる 三好つや子
手をつなぐことのためらい冬夕焼 武藤鉦二
ポインセチア谷間の深きドレスかな 室田洋子
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

◆三句鑑賞

パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
 〈パソコン〉に向かい作業をしているのだろうか。〈パソコン〉は便利な道具であるが、不具合が生ずると、たちまち悩みの種になりがち。〈遊ばれている〉には、そんな状況に一喜一憂せず、むしろそれを楽しむかのような達観の境地が見える。上質で軽やかな諧謔精神は〈寒い夜〉でさえも、命を謳歌する時に変えるのだ。

白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
 確かに白梅の白には、静かにかつ強く内面に語りかけてくる力があると思う。自分の奥底の忘れていた場所に通じる扉を開け、もしくは眠りから覚めて、ありのままの自分に近付いていけそうだ。そこではどんな自分と出会うのだろう。ふと「白梅や老子無心の旅に住む」にて俳句人生の一歩を踏み出した兜太師を思った。

おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
 まるで呟きそのままのようにうぶな質感のある掲句からは〈おでん〉のように素朴であたたかく〈海〉のように包容力のある〈妻〉の人となりが見える。また、〈おでんはさらに/つまそのもので/うみで〉と、七・七・三の句跨りが生み出す、〈海〉の波のように畳みかける抑揚が〈妻〉への思いの深さを伝えている。
(鑑賞・月野ぽぽな)

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
 言ってしまっている俳句はたいしておもしろくない、と思ってはいけない。女房子供を働かせるのは父親が甲斐性なしだからとは限らない。では、例えば昨今のコロナ禍による解雇、雇い止めにまで言い及んでいるのか。そうではなく、やはりここは、「燗」をつけるときつい口をついて出た男の慣用句、男の甲斐性なのである。

小六月鏡に映らないところ 小松敦
 鏡には大きさや遠近の具合で当然映らない「ところ」があり、これを承知のうえで作者は何か言いたかったのだろう。此の世のものでひょっとしたら鏡には映らないところがあるのではないか、と思うとなんとなく不気味。自分の心の深淵も同様。晴れ晴れとして暖かく、快適な季節感である小六月が逆にうまくマッチしている。

父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
 ほのぼのとして温かい雰囲気に惹き付けられた。「父さん」の語感が、初老の優しげなお父さんを思わせる。そんな父さんが、どうしてだか師走の風をはらんでいるのだ。この句は、寒風吹きすさぶ都会の喧噪を背景に、父さんの心象を描いたものと思える。父さんはいま充足した境地にあって、心地よい師走の風に身を任せているのである。
(鑑賞・服部修一)

冬うらら不要不急の長電話 片町節子
 コロナ禍のご時世。人と話すことも、会うことも自粛を促されている。「重症化しやすい」と言われる高齢者たちにとっては不要不急の判断は難しい。基本を守り、外出は食料の買い出しと、通院だけ。高齢者たちは健気である。生の声を交わして少し笑って、互いの消息を確かめる。電話はついつい長くなる。外は良い天気!

行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
 「行きがかり上」独身と言う。そのからりとした語り口が魅力的。親が独身の娘について、気がかりとか、先行きを心配する句は散見するが、その逆の当人の「特に理由はない。『行きがかり上』なんだから。」とさらりと書かれた作品は、珍しいと思う。しかもその手には大きな朱欒がある。何だか良いことがありそうな……。

さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
 老母に対する子の思い。会うたびに母の老いを感じて、母との残された時間を想う。一年半に及ぼうとするコロナ禍の日々なればなおさらである。「風花」にはかすかな不安と、母を思うしみじみとした優しさと情感がある。「母少し逝く」の「逝く」が独特の空気感を醸し出している。緩やかな、止めようのない時の流れがある。
(鑑賞・平田恒子)

苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
 確かに現代人のもつエネルギー量は、生活の便利さに反比例して、小さくなっているだろう。この句の面白さと手柄は、その現象を「苺ミルク」で直感した点だ。苺はそれ自体十分に甘い果物だが、それにコンデンスミルクをかけ、コテコテにして食すとは! これこそ繊細な甘さを味わう味覚エネルギーの退化に他ならない。

正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
 今や、正論で生産的な議論を成立させることはとても難しい。ところが掲句では、正論がぶつかり合っている。とても健全と思いきや、下五は「海鼠」である。正論のまっとうな議論のはずが、やはり互いに「海鼠」のように変われない、空疎な議論を展開しただけという結果に終わる。日本社会への風刺の効いた、俳味十分の句だ。

湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
 湯たんぽは、その昔には愛用していた。満タン近くまでの熱湯が揺れた時の「たぷん」という印象的な音は、今でも耳元に残っている。この句は、その懐かしさを刺激してくると同時に、「不審船がくる」という意表を突く飛躍のみごとさを持つ。湯たんぽから、夜陰に乗じて密入国する船の波音を連想するとは!
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

水晶体もさがも温むや水のなか 飯塚真弓
しゃぼんだま丸し中也の朝の歌 植朋子
ひとり卵焼き裏返す春って 大池桜子
八十八夜飽きられる前に飽きる 大渕久幸
永遠にボクでゐる君修司の忌 かさいともこ
絵手紙にありしコウノトリの地酒買う 樫本昌博
石庭に夕焼け紅鯨上陸す 葛城広光
かぶりつく金時豆パン昭和の日 小林ろば
ため息と思ふ重さや落椿 坂川花蓮
懐かしきダットサンかよ春うらら 重松俊一
たましいは歌う春満月のオブリガード 宙のふう
街ひとつ幽体離脱蜃気楼 ダークシー美紀
春の野に肩を並べる遊芸なり 田口浩
書き溜めた蝶の俳句のひらひらと 立川真理
李香蘭語る祖母居て桃の花 立川瑠璃
敵味方嗅ぎわける鼻あたたかし 谷川かつゑ
阿弖流為アテルイの一統かもな蕗を食む 土谷敏雄
わが反骨腰骨にあり青き踏む 野口佐稔
筍ややっと裸のおつきあい 平井利恵
英字新聞すっと小脇に風光る 深澤格子
蜜蜂を労るように女体かな 福岡日向子
雑踏に癒されに行く桜かな 藤好良
夫の遺産は競売物件はなごろも 松﨑あきら
紋白蝶吾の書斎を覗き去る 武藤幹
襟ぐりのタトーがのぞく竹の秋 村上紀子
残花かな風に吹かれて昼の酒 山本まさゆき
ひとひらは一つのことば花吹雪 吉田和恵
納涼の酒酌み交はす危ふさや 吉田貢(吉は土に口)
清明の気を吸ひ込めよ父の体 渡邉照香
渡り廊下の断崖ウスバカゲロウ 渡辺のり子

『海原』No.29(2021/6/1発行)

◆No.29 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
節目なき痛哭を負う三月十一日 宇川啓子
狐火の麓より湧く被曝村 江井芳朗
三月の孤独汽船の影となり 大池美木
酢のごとき日日にも微光クロッカス 尾形ゆきお
海峡を蝶飛ぶことも有事かな 片岡秀樹
涅槃図の只ならぬ密マスクせよ 加藤昭子
春の月やはりパスワードが違う 河西志帆
雪うさぎもう誰彼のなき母よ 黍野恵
春の闇少しかためにふくらんで 小松敦
ステイホームグラスに夕日を一気かな 重松敬子
石蕗咲いて気さくな刀自とおしゃべりす 関田誓炎
鉄橋の鉄うすみどり春の川 田中亜美
啓蟄を昏くぬかるむ脇の下 月野ぽぽな
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
木木の芽のその韻律に触れんとす 遠山郁好
水に声火に声三月十一日 中村晋
春風や別れは駅の肘タッチ 梨本洋子
羽後地吹雪身の輪郭の吸われゆく 船越みよ
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ
飛花落花マスクをずらす食事法 前田典子
手鞠唄指の先まで鞠にして 松本豪
家系図を読み上げるように波の輪唱カノン マブソン青眼
ドアノブしっとりと春愁のゆくえ 三世川浩司
夫婦という幾何学しゃぼん玉ふわり 宮崎斗士
鼓草みようみまねのヒップホップ 深山未遊
透明な輪投げをひとつ冬三日月 望月士郎
きさらぎの姿見という孤島あり 茂里美絵
何もない日常が好き鳥総松 森由美子
初蝶や忘れることもお弔ひ 柳生正名

松本勇二●抄出

嘘のあと柚子湯で伸ばす背骨かな 泉陽太郎
二人暮しの指の冷たさ赤蕪 伊藤淳子
春は曙追いかけることばっかり 大池美木
プレッシャーに強き青年悴めり 小野裕三
鍵盤のよう白く透く街背美鯨 桂凜火
余生という広き入口緑立つ 北上正枝
閃きの瞬間眩し寒雀 金並れい子
筋書きを言いたがる妻彼岸寒 楠井収
花菜の風を二つに割って納骨す 小林まさる
本当に眠ると春の森に出る 小松敦
目くばせはこころの瀬音海市たつ 近藤亜沙美
子をぎゅっとして春の日の終わらない 三枝みずほ
春のあらし鍋の把手のネジ締める 佐藤君子
少年の鳩尾あたり吹雪くかな 白石司子
水仙のまはり透明死にとうなか すずき穂波
氏子総代酔ふて候寒紅梅 髙井元一
菰巻きの菰焼く春の裏おもて 高木一惠
おしゃべりな鏡を閉じる春の宵 寺町志津子
小綬鶏の声の高さに励まされ 友枝裕子
春立つや昨夜の私が見つからぬ 中村ひかり
茹で過ぎと男チマチマほうれん草 中村道子
山眠る里にふかぶか錠と鍵 本田日出登
青空の奥にあをぞら初蝶来 前田典子
牛乳をなみなみおおよそ遅日ほど 三世川浩司
風光る草食系のふくらはぎ 三好つや子
冬虹の脚の届かぬ生家跡 武藤鉦二
アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
フルートの音色のひとつ諸葛菜 横地かをる
春寒やさすらいの四肢ゆるく締め 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

節目なき痛哭を負う三月十一日 宇川啓子
狐火の麓より湧く被曝村 江井芳朗
水に声火に声三月十一日 中村晋
被曝十年かすかに骨盤の歪み 本田ひとみ

 この作者四人は、被曝当時福島に在住していた。この内、三人は、今なお福島にとどまっているが、本田氏は今も埼玉に移住している。とどまるも去るも、相当に辛いこの十年だったろう。東北の人々は口が重く、誠実なだけに、自分の苦労を他者に安易に分かち合ってもらおうとはしない。国や地方公共団体に期待していても、到底復興のビジョンはみえて来なかった中、ひたすら自助、共助によって耐え抜いて来たのである。
 宇川句の「節目なき痛哭」とは、この十年の間、復興とその過程という節目が一向に見えず、ただただ痛哭の思いだけが積み重なっていった。その現実を三月十一日が来るたびに噛み締めさせられている。江井句。被曝して無人化した山村では、冬には狐が口から火を吐くといわれる鬼火が麓より湧いてくるという。それは死者の魂の訪れのようにも見えて、怖れと懐かしさの入り混じった思いで迎えている。兜太師もいうように、他界は此の世に隣り合っているような体感であったに違いない。中村句は、三月十一日の地獄絵のような阿鼻叫喚の現実を象徴的に表現したもの。「水に声」も「火に声」も断末魔の叫びそのもの。しかし十年を経た今、「水」や「火」を復興の象徴として、或いは未来へ向けての方向感として捉え返してもよくはないかとも思うがどうだろう。「まだそこまでは」という声も聞こえそうな気もするが。本田句では、被曝十年の長期にわたる避難生活が、高齢化の進展とそれに伴う心身の健康リスクをもたらしている現実を直視している。「骨盤の歪み」が「かすか」なうちはいいが、早晩取り返しのつかぬレベルに達するのは目に見えている。それを警告ではなく、現実の相の予兆と暗示している。

酢のごとき日日にも微光クロッカス 尾形ゆきお
涅槃図の只ならぬ密マスクせよ 加藤昭子
ステイホームグラスに夕日を一気かな 重松敬子
春風や別れは駅の肘タッチ 梨本洋子
飛花落花マスクをずらす食事法 前田典子

 緊急事態宣言下の日常のあれこれを詠んだ一連。尾形句。「酢のごとき日日」とは、閉塞感の中で日常が酸化し、酢のような臭気を発している状態と見立てたのではないか。そんな日日にも、清冽な水に漂うクロッカスのような、微光の差し込む瞬間もあるという。加藤句。釈迦の涅槃図をみると、まさに只ならぬほど数多の
人間や生きもの達が、過密なまでに集い寄って嘆き悲しんでいる。これではマスクをしてもらはないといけません、と訴える。涅槃図に託した三密への警告。重松句。ステイホームの日日の過ごし方。見事な夕日をグラスに取りためておき、日の暮れとともに一気飲みする。太陽から気の流れを頂く呼吸法。梨本句。感染防止対策として、親しい者同士の別れの挨拶は、接吻はもちろんハグや握手もご法度となり、もっぱら肘タッチや拳タッチが多用されるようになって来ている。春風の吹く駅頭には、就職や転勤、新入学の見送り場面があって、友人同士の肘タッチがそこここにみられる。肘タッチの着眼に、今の世相が見えて来よう。前田句。花も終わりの飛花落花の時期を迎えたが、今年は花見の宴も慎まねばならず、屋内での会食の際にもマスクして、時々マスクをずらす食事法がとられる。なんとも味気なく、会話が弾む余地もない。どの句も、リアルな実感そのものではないか。

「昭和史」の日々生きて来し龍の玉 伊藤巌
 昭和生まれでも、昭和史を生きて来たといえるのは、戦前・戦後を通じて生きて来た人々であろう。それも作者のように五十年を越す昭和のキャリアを積んだ人に限られよう。この句の「龍の玉」は、単に植物としての存在感ばかりでなく、歴史を見てきた目玉をも象徴している。句意に素材の語感がうまく適合した好例ではないか。

春の月やはりパスワードが違う 河西志帆
 デジタル化の浸透で、キャッシュレス決済が普及している。日本などは先進国の中で周回遅れといわれているほどだが、高齢者ほど適応力が乏しいから、しばしばパスワードを失念したり、入力ミスしたりすることはある。決済不能となれば一大事。春の月におぼろに照らされながら、パスワードの相違に茫然とする老い一人の姿。まさか作者が当事者というわけでもあるまいが。

家系図を読み上げるように波の輪唱カノン マブソン青眼
 作者は、二〇一九年七月から一年間、ポリネシア・マルキーズ諸島ヒバオア島で、一人暮らしをした。そこでコロナに感染し、死線をさまよう経験をしながらなんとか無事に帰国できたらしい。おそらくこの句も、その時の経験をもとに作られたものだろう。かつてポリネシア古代文明の中心地であったその島には、大規模な先祖像が残っているというから、ひねもす繰り返される波の輪唱は、その先祖像の家系図を読み上げているように聞こえたのだ。そこで彼は、無季句五百句と長編小説一篇を書いたという。凄まじい体験の所産というほかはない。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

二人暮しの指の冷たさ赤蕪 伊藤淳子
 生活の中のどんなものに焦点を当てるかが作者のセンスである。作者は「指の冷たさ」に気持ちが届いた。流石だ。頷かざるを得ない。座五の赤蕪も冷たさを増長している。筆者も二人暮しになって久しいが、これほどの詩のある生活が出来ていないことに茫然としている。

鍵盤のよう白く透く街背美鯨 桂凜火
 街の様子が鍵盤のように白く透いていると感得するには相当な気分の昂揚が必要であろう。そういう境地に至った時には、言葉が書き留められないほどどんどん溢れて出てくる。その境地から口を突いた「背美鯨」もかなり冴えている。俳句は詩であるとつくづく思う。金子先生がよく言われた「感の昂揚」を作者が体現してくれた。

閃きの瞬間眩し寒雀 金並れい子
 感性とは閃きである、などとよく喋っている。作者は豊かな感性をして、よく閃いているようだ。脳の浅い部分で閃くのでその言葉はすぐに消えてしまう、とも思っている。閃くときは脳内スパークが発生する。それゆえ十分に眩しいのであろう。寒雀も光の中にいる。

花菜の風を二つに割って納骨す 小林まさる
 納骨は誰にも辛い経験だ。正面から吹く花菜風に骨壺を抱いた作者が歩いていくのが見える。その柔らかな風は骨壺にあたり二つに分かれていく。「花菜の風を」とゆっくりと書き出すことで落ち着いた納骨風景となった。

本当に眠ると春の森に出る 小松敦
 本当に眠れていますか、と聞かれたようでドキリとする。夜中に覚め昨日今日のあれこれを一つ一つ考えてしまっている。朝日が差すまでは悪い方へしか考えが向かない。もう一度眠ろうとするが実に浅い眠りになってしまう。これは偽りの眠りなのであろう。春の森にでるような本当の眠りを経験したいものだ。掲句は言い切ることで信憑性が高まった。断定は重要な一手だ。

目くばせはこころの瀬音海市たつ 近藤亜沙美
 誰かに意志を伝えるため目配せをしたようだ。それが心中の瀬音であると書いている。自分を覗き込み、自分を分析している作者。今にも折れてしまいそうな細い細い心であるが、海市を配置して少し明るくなった。俳句で均衡を保つと心も均衡を保てるようになる。

子をぎゅっとして春の日の終わらない 三枝みずほ
 まだ小さい頃であるが「ぎゅうっとして」と母親にせがむ孫がいた。抱きしめられた孫は安堵の表情であった。子育て真っ最中の作者の日常なのであろう。具体的な動きを書くことで詩になったし明るさも増した。

水仙のまはり透明死にとうなか すずき穂波
 亡母が毎年楽しみにしていた水仙が今年も黄色く咲いている。水仙で何か言ってやろうと思っていたがやられた。そのまわりは透明なのだ。閃きや凄し。それだけで十分なのに下五の直情が句にドラマ性を持たせた。展開させるとはこういうことなのであろう。

小綬鶏の声の高さに励まされ 友枝裕子
 小綬鶏は「ちょっとこい」を連呼する。もういいでしょ、と思うくらい鳴き続ける。その声の高さに励まされる作者は幸せだ。こういう人は生きる力を何からでも貰える。元気が出る俳句を読ませていただいた。

牛乳をなみなみおおよそ遅日ほど 三世川浩司
 牛乳を注ぐ分量を「おおよそ遅日ほど」と書き新鮮。なみなみ、なのでかなりの分量と思われる。誰かにそう言って注いで貰ったのであろうが、そういうジョークをすっと受け止めてくれる相方こそ素晴らしい感性だ。

アドバルーン見張るバイトや春愁 村本なずな
 こういうアルバイトがあるのだろう。コロナ禍に翻弄される人々を尻目にこののどかさはどうだ。浮世離れした作者であるが最後に春の愁いを置いて少し世の中への配慮を見せている。

薄氷を割ること母を叱ること 室田洋子
 一昨年母を亡くした。出来ていたことが出来ないので失敗ばかりする母をよく叱った。叱ったあと、胸の奥の薄い氷がパリンと割れたような気がした。何回も何回も薄氷を割った。作者は追憶でなく現在只今薄氷を割り続けている。介護の心中を具現化して見事。

春寒やさすらいの四肢ゆるく締め 若森京子
 さすらいの四肢がじつにかっこいい。あてもなく彷徨ってしまう手足ということか。それをきつくではなくゆるく締めるのである。春が来たがまだ寒い。出て行きたい思いと自重する気持ちのせめぎ合いを楽しんでいる作者か。兜太先生の「日常に居ながら漂泊せよ」をこういうベテラン作家がひょいと思い出させてくれる。層の厚い集団で俳句をしているとこういう恩恵もある。

◆金子兜太 私の一句

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

 グアムに行ったとき、トラック島から来たというホテルの掃除婦から、「ナツヱもう一人はフミコ。ニッポンアメリカバンバン」と話しかけられました。兜太師がトラック島を去るときの「人の為に生きよう」との掲句の決意と遺骨収集の動きの鈍さ、二千万人を殺害した大東亜戦争の反省の無さが対照的に思わされます。句集『少年』(昭和30年)より。長尾向季

冬眠の蝮のほかは寝息なし 兜太

 〈海程賞〉を受賞した折に、「風土に浸透するように育つ詩情」という御評と共に頂いたご染筆のお句である。幼少の頃に過ごした山裾での自然をよく思い出すのだが蝮もよく見かけた。木洩れ日に照る沼を泳いでゆく、無気味でもあり神秘的でもある光景など忘れがたい。先生ご自身の愛着深い句を頂いたことに加えて、私の体験もお話して感謝したかった。句集『皆之』(昭和61年)より。前田典子

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選

十二月残る軟膏絞り出す 石川青狼
皺くちゃの幸せと浮く冬至の湯 伊藤巌
○ゲレンデで待てよとおとと納棺す 稲葉千尋
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
○返り花昔よかったなんて嘘 鎌田喜代子
宗谷本線鮭のふ化する駅がなくなる 佐々木宏
○いい人でいい空であれ山眠る 佐藤詠子
山の和尚きょうは銀杏洗って居り 篠田悦子
木枯が石室の夜を叩きはじめ 白石司子
鉦叩ここら地雷のあるところ ナカムラ薫
アウシュビッツ忌スープの鍋をパンでぬぐう 中村晋
白黒黄みんな肌色冬木の芽 中村道子
冬晴や国に穏やかなる死相 藤田敦子
日に月に向く枯菊をまだ刈らず 前田典子
友よ癒えよ歳晩を来てがらんどう 松本勇二
今朝もまあ平熱雪女と暮らす 宮崎斗士
羽後がごろりと母の座の大南瓜 武藤鉦二
昭和とは畳の上のカーペット 望月士郎
防波堤闇に人間灯りだす 山内崇弘
心臓のバイパス五本吊る聖夜 山谷草庵

楠井収 選

○ゲレンデで待てよとおとと納棺す 稲葉千尋
冬紅葉拾った嘘をもてあます 奥山和子
二番目の母となる日やゐのこづち 奥山富江
肩書の過去をよすがや冬夕焼 片町節子
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
膳に付くマスクホルダー年忘れ 加藤昭子
○返り花昔よかったなんて嘘 鎌田喜代子
○獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
白鳥が来ている眼鏡はずすたび こしのゆみこ
人も街も切り抜きのよう十二月 三枝みずほ
○いい人でいい空であれ山眠る 佐藤詠子
○人間を呼び捨てにする枯野かな 峠谷清広
初夢や誰も隣に座らない 遠山恵子
秋の陽やマスク忘れてめだちおり 畑中イツ子
空席あり死んだふりする冬の蝿 増田暁子
○残る鴨切手を貼ってあげようか 三浦静佳
○かなかなや私のどこか切り取り線 宮崎斗士
帰り花行ったり来たりの旅だった 村上友子
来たか元気か杖並ぶ冬日向 森田高司
新蕎麦や別れた男の食べっぷり 梁瀬道子

佐藤詠子 選

青いミューズ空想の空域の翼 阿久沢長道
寒昴呪文のようにありがとう 大髙洋子
◎冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
綿虫やアナログ的に主知的に 金子斐子
自惚れも恋のひとつや吊るし柿 河西志帆
ダイヤモンドダストいけない子どもだつた 小西瞬夏
しずかなるあなたの左脳寒の入り 近藤亜沙美
慌しく九十歳が来たり花柊 篠田悦子
我という一つの記号落葉期 白石司子
冬帝の空踏み鳴らし襲い来し 竪阿彌放心
月の舟オンライン句会してますよ 谷口道子
熊よけの鈴を子猫にあげました 田村蒲公英
鶴凜と現在未来見据えて可 蔦とく子
○人間を呼び捨てにする枯野かな 峠谷清広
豊満な角の張り方新豆腐 中内亮玄
くるっと梟うしろの正面も闇 中村晋
寒たまご君の見た夢たべている 服部修一
○残る鴨切手を貼ってあげようか 三浦静佳
存在の自由に耐えて一裸木 嶺岸さとし
○かなかなや私のどこか切り取り線 宮崎斗士

山下一夫 選

孫は腹の中で眠り牡丹鍋 井上俊子
狐火の血筋集めるコンクール 小野裕三
マンモスの影踏むあそび枯野中 刈田光児
正誤表探す旅です海鼠です 川崎益太郎
○獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
嚔や人間少しほどけたり 佐藤詠子
遠き日の友は矢車草の瞳 重松敬子
弦として吹かれるからだ芒原 芹沢愛子
雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
しぐるるや勾玉の闇始まりぬ 寺町志津子
そっと息吹けば兎になる落葉 鳥山由貴子
母の手は寒冷前線聖夜降る 中野佑海
風花や手紙抜けだす連綿体 西美惠子
高齢者という洞穴雪降りだす 丹生千賀
五体投地のライダーありし花野かな 野田信章
無患子拾ふ秘めごと洩れないよう拾ふ 長谷川順子
しきりに笑う白息二重硝子の向こう 藤野武
奥歯抜くふと荒野に佇つ狐 増田暁子
白鳥来どこかで弦の切れる音 茂里美絵
鮟鱇鍋たえず昭和という分母 若森京子

◆三句鑑賞

鉦叩ここら地雷のあるところ ナカムラ薫
 危いぞとか、悲しいねとか、一言も書いてない怖さです。戦場という名の土地など何処にもなく、みんな人の住む場所。一体どれほど埋めたのかさえ覚えてない人達と、同じ空の下で、笑顔のままの子供の手や足や命が、どれほど飛び散ったかを、その目で見て欲しい。悲しみの善良な土に紛れているその武器を、心底憎いと思う。

白黒黄みんな肌色冬木の芽 中村道子
 大坂なおみさんのPRアニメを見た。白い肌、明るい髪の色、細い腕、正直誰なのか分からなかった。配慮が足りなかったと企業側は謝罪したというが、反対にその配慮・・が起こした騒ぎだと私は思う。白に白を混ぜると白になり、白に白以外を混ぜると白にならない。これは変わらないことだから、みんな肌色‼それでいいじゃないか。

昭和とは畳の上のカーペット 望月士郎
 思わず膝を叩いた。そうだった。畳を隠すと、卓袱台の室が洋間みたいになった。女房と畳は新しい方がいいなどという男達もいなくなった。あの頃からか、使い捨てが文化的暮らしだと思い込みひた走ったのだ。海外で買ってきた土産の裏にメイドインジャパン‼、今の何処ぞの国と少し似ているが、あの畳たちは元気だろうか。
(鑑賞・河西志帆)

二番目の母となる日やゐのこづち 奥山富江
 人生の節目に際し、その決意を感じさせる一句。この方は今回継母となり、ある家庭の子供に接していくこととなった。実母は死亡したのか、離婚したのか。いずれにしても子供には罪はないのだ。今後色々困難なこともあろうが、ゐのこづちのようにしっかりとその家庭とくっつきあって過ごしていきたいとの決意なのだ。

獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
 この青年は悪事を働き、親には迷惑をかけ、結局牢獄に入る。しかしその後罪を悔い、模範的な囚人となった。刑期を終え獄舎を出る際、世話になった人々に心を込めて一礼をした。安堵とともに故郷の父母への思いが心をよぎる。リンゴの甘酸っぱい匂いのような思いなのだ。リンゴの香が句のイメージを一層膨らませている。

帰り花行ったり来たりの旅だった 村上友子
 この方の人生色々あったわけですね。この句は実際旅に出て回り道などしたことを言っているが、あと人生についても紆余曲折あったことも示唆している。だがまあ総じて幸せな人生だったなあと実感しているのだ。それは末期の床の中かもしれぬ。そうなのだ自分は晩年予期せぬ花を咲かせることが出来たのだ。帰り花が秀逸。
(鑑賞・楠井収)

我という一つの記号落葉期 白石司子
 一つの記号とは、一つの人生を表している気がした。年月を経て今の作者が伝えたいことは、口では言い尽くせない「形」なのだろう。どんな意味の記号か知りたくなる。落葉後の裸木の姿もまた生命の標の記号のようで心惹かれる。俳句も人の生き様の記号かもしれない。

寒たまご君の見た夢たべている 服部修一
 悪夢を食べるという伝説の獏を思い浮かべた。とは言え、君の見た夢がどんなのだったのか。何かに追いかけられる夢、終わらない仕事の夢……。夢は目覚めてすぐ口に出さないと忘れてしまう。慌てて話す君の素直な表情が愉しくて、滋養豊かな寒たまごごと君の夢を笑って食べた。寒中のほっこりする一片だ。

存在の自由に耐えて一裸木 嶺岸さとし
 裸木は無防備な神だと思う。何も纏わず真実のまま立ち、存在の重さを見せつけている。寒風の日、その枝は呆けたふりで踊ってるようにも見える。作者の言う存在の自由は生きる価値への自由かもしれない。この時世は自己の存在にさえ迷う自由。だが、己の立ち位置で今を生きゆく力を一裸木に重ねたのだろう。
(鑑賞・佐藤詠子)

獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
 刑務施設に収容されていた青年が出所する。十分に悔い改めたことが挙動に表れていて清々しい。巧みな情景描写である。実見は考えにくいので映像等を目にしてのことか。収容の背景には犯罪の重大、悪質、反復等があるはずで、青年期の間での矯正は容易ではなかろう。かくあれかしとの切望かなどと様々に味わうことができた。

五体投地のライダーありし花野かな 野田信章
 交通事故が起こった辺りの花野である。衝突事故もあり得るが、恐らくは急カーブをオートバイが曲がり切れなかった自損事故。大怪我や死亡であれば悲惨である。しかしなぜかほのぼのした気配がある。仏教用語「五体投地」の効果であろう。花野もまた極楽に見えてくる。その中空を舞ったライダーの幸いとか、想念が湧いた。

しきりに笑う白息二重硝子の向こう 藤野武
 「白息」までを上句として、箸が転げてもおかしい年頃の女子の寒中でのおしゃべりと見る。下句には、暖かい室内にいる作者の視点がある。「二重硝子」は、寒冷地仕様または防音であろうが、上句が象徴するものとの隔絶という二重の意味も潜んでいよう。七七七の緩いリズムが硝子の曇りまで描出しているかのようで素晴らしい。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

否定からはじまるおんな黄砂降る 有栖川蘭子
心根に龍と入れ墨涅槃西風 飯塚真弓
朧夜の起きたら虫になる話 植朋子
ニッポンを語る少女や麦青む 上田輝子
春一番くしゃくしゃのビニールが私 大池桜子
哺乳瓶の乳首が前世とや朧 大渕久幸
がまんとは人を見ること椿落つ 梶原敏子
正月や蜘蛛が真っ直ぐ下降する 葛城広光
風花に舟という舟やせていく 木村リュウジ
馬糞ボロ採りの合間にかき込む菜飯かな 日下若名
北風や尻が狡いと鼻がいう 後藤雅文
タトゥーとは哀しい曲線鳥雲に 小林育子
好物は金時豆パン多喜二の忌 小林ろば
山里の子子孫孫ししそんそんや山笑う 坂本勝子
囀や媼三人背に刺青 佐竹佐介
優しさにすこしおびえる春の雷 宙のふう
雪平に遅春の粥をまた噴かせ ダークシー美紀
酔覚めて黙りこくりし春の月 高橋靖史
鳥帰る未完のままに自画像 立川真理
妙齢の教師につぶて雪合戦 土谷敏雄
隣人は朝日浴びをり残る雪 福田博之
恋文を丁寧に折る二月かな 藤川宏樹
春は夢、夢でのみ逢ふ人もゐる 宮本より子
春灯のどれにも我を待つ灯なし 武藤幹
商いのさくらまつりに自衛隊 村上紀子
ばあちゃんの甘露煮じいちゃんの目刺 矢野二十四
アーモンドを冬の涙として噛る 山本まさゆき
家系図に嬰児を加え下萌ゆる 渡辺厳太郎
春の雷ゴッホの自画像髭もそり 渡邉照香
ねむれない吐息いつしか雪女郎 渡辺のり子

『海原』No.28(2021/5/1発行)

◆No.28 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

元朝をパンチで交わす吾家かな 綾田節子
編み方の緩き八十路の冬帽子 石川和子
ひとりという人の気配や藪柑子 伊藤淳子
人の声波紋となれり紅葉狩り 内野修
掌に新米転げ復興す 江井芳朗
裸木は歩いているよ夜と霧 大髙宏允
デリカシーとは綿虫縫って歩くこと 奥山和子
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
姫始アラビアンナイトの木馬 川崎千鶴子
初鏡おとこにはなき身八つ口 河西志帆
生け花の七種組み終え年惜しむ 金並れい子
冬銀河君との多元方程式 黒済泰子
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
兄逝きてきっぱり軒昂老椿 小松よしはる
許すとは守ることです雪明かり 佐孝石画
大気凍つ鉈目のごとく残る月 佐藤稚鬼
石蕗咲いて気さくな刀自とおしゃべりす 関田誓炎
実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大樹雪に聳え百年の孤独 十河宣洋
籠もり居を抜け出して行く風船 髙井元一
モノクロのくしゃみ三丁目に消えた 高木水志
白黒のマスクはらませ反駁す 竹内一犀
冬の沼言葉愛しく粒立つよ たけなか華那
初日記真砂女愛でたり嫌ったり 立川弘子
麦踏んでマスクの奥の二枚舌 館林史蝶
冬木に陽愛よりありふれた親切 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
前の波の鎮魂歌なり波の音 マブソン青眼
信じたし今は寒燈程の距離 山田哲夫
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

松本勇二●抄出

かしんかしん空家と老人眠る山 有村王志
大晦日の出棺母よ雪です 石川青狼
ぴんと張る歯朶黎明期の家族 石川まゆみ
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
少し硬いが噛むと十一月の味 大沢輝一
夫さする枯蟷螂の強き眼よ 大野美代子
春を待つ栞ばかりを溜め込んで 奥野ちあき
冬ぬくし柴犬三匹分の距離 奥山和子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
初御空ひよどりの木を借り助走 狩野康子
薄明や寒卵はた感嘆符 北村美都子
晩節はぎんなん踏みし所より 黍野恵
冬茜古書店にいる十五の私 小池弘子
龍の玉ひとつを空へ戻しけり こしのゆみこ
そろそろ家族が透けて来る頃です雪 佐孝石画
下手な字に落ち込む女山眠る 清水恵子
数え日の貨物列車や米研ぐよう 高木水志
故郷ふるさとや枯野を出たらまた枯野 峠谷清広
冬木立伐られ氏神あらわるる 鳥井國臣
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
大枯野老いては群れず群の中 長谷川阿以
看る人の手の甲にメモ寒昴 藤田敦子
山眠る母より父がなつかしく秋 藤盛和子
マヤ暦辿るあんかに赤きコードかな 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
しゅんしゅんと気化する歳月師走くる 増田暁子
焚火から泣き声がするわずかだが 松本豪
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
父だけが配達牛乳飲んでた冬 三木冬子
地蔵彫る夫の背中の十二月 村松喜代

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ひとりという人の気配や藪柑子 伊藤淳子
 藪柑子は、冬場の庭の片隅あたりに、真っ赤な小豆大の珠のような実をつけ、楕円形のつややかな葉の蔭から二、三粒ずつ輪になって顔をのぞかせる。そんな藪柑子が、ある時ふと身じろぎのように揺らいだのは、かすかな人の気配を感じたからであった。それは藪柑子の実のゆらぎが招いたかのようなひとりの人、「ひとりという人」とあえてくどくいうことで、たゆたうような人生の時間の流れに浮かぶ。どこか漂泊感を湛えているような気配。

裸木は歩いているよ夜と霧 大髙宏允
 「夜と霧」は、単なる霧の夜ではなく、フランクルの名著『夜と霧』を意識していよう。そこでは、人生はどんな過酷な情況にあっても生きてゆく意味があることを教えてくれる。「裸木は歩いているよ」には、すべてを失った限界状況下にある人生においてなお、生きる目的をもって進む人間像をイメージしているのではないか。そしてどんな状況にあっても、人生は生きてゆく意味があることを暗示する。それは「夜と霧」の映像から広がるものだ。

デリカシーとは綿虫縫って歩くこと 奥山和子
 デリカシーは、いうまでもなく繊細さや感覚感情のこまやかさ。そのこころは、「綿虫縫って歩くこと」と喩えている。なるほどとうなずかされてしまう。「繊細」「優雅」という定義的言葉でなく、どこか照り映えるような外来語の語感によって、景が生動してくる。縫うように歩くのを、縫って歩くと言い切って景に身をもみこんでいく。デリカシーを体感している感覚だ。

冬銀河君との多元方程式 黒済泰子
 冬は夜空が冴え渡るから、寒空に一段と星が大きく輝く。星冴ゆる空だ。「君との多元方程式」とは、そんな夜空の下で、彼との成り行きのあれこれをとつおいつ思い悩んでいる。多元方程式は二つ以上の未知数をもつものだから、彼の気持ちのよくわからない部分を推し測っているうちに、ますます難解の度が加わる。すっきりした解に届くのはいつの日のことだろう。ああとふり仰ぐ冬銀河。そこには未知の解があるに違いない。最近こういう数学用語を使った情感の句を見かけるが、この句は数少ない成功作の一つと思う。

兄逝きてきっぱり軒昂老椿 小松よしはる
 作者の実体験の一句。おそらく亡くなった兄は、作者にとってかけがえのない存在だったに違いない。周囲の人々はこもごもお悔やみや励ましの気遣いをしてくれる。その配慮に対し、「きっぱり軒昂」とは、毅然たる姿勢を示す。内心の悲しみはたとえようのないものでありながら、ぎりぎりまでの心情の溢れをせきとめている。それが悲しみの深みに耐える唯一の姿勢であり、老いたる吾の意地でもある。健気な老椿一輪の姿。

大樹雪に聳え百年の孤独 十河宣洋
 雪原に立つ一本の大樹。百年を超える風雪に耐えて、亭々と聳え立つ。あたりに他の樹木はなく、ひとり孤高を保つように立ち上がっている。作者は北海道の人だから、大雪原に立つ春楡の巨樹とみた。もっとも「百年の孤独」は、南米のノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスの代表作でもあり、宮崎県の麦焼酎にも同名の銘酒があるが、この場合は、北海道の風土とみてよかろう。しかしその名にちなんだ数々の名品があることから、一句に風格を与えていることも間違いはない。

冬木に陽愛よりありふれた親切 中村晋
 この句は、東日本大震災被災地の生活感から生まれたものとみた。災後十年を経て、ようやく冬の木に陽射しが訪れ始めた被災地。とはいえまだまだ昔の姿にはほど遠い。多くの応援メッセージを頂き、その方々の愛を有難いとは思っているものの、本当に必要だったのは、ごくありふれた小さな親切な行動だった。その積み重ねが、復興の歴史を作っている。

信じたし今は寒燈ほどの距離 山田哲夫
 信じたいものが何か明示されていないが、おそらくは懐かしさをともなう肉親や幼馴染の消息であろう。「寒燈ほどの距離」とは、まさにその心情の声がきこえてくるような距離感なのだ。寒燈は厳しい寒さの中にあるがゆえに、いのちの温かみを感じさせるものでもある。しかも「今は」という時間の設定が、作者の境涯感の中の一場面として語りかけてくるのである。

自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子
 我が国のコロナ禍への対応は、これまでのところ強権的規制ではなく、もっぱら自粛要請によってそれなりの効果をあげている。そこには日本特有の社会的同調圧力もさることながら、内在する文化の力、共同体の力が息づいているからだ。寒鯉は薄氷の張った池底にじっとしている。その姿はあたかも、自粛を守っているかのよう。「鰓呼吸」は、その寒鯉の固唾を呑むような姿を、今の人間の端的な自粛振りに重ねてみているのだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

かしんかしん空家と老人眠る山 有村王志
 丁度今朝のニュースで空家に施錠を呼びかけていた。空家窃盗が多くなっているらしい。大分県も同様に空家が増えてきているのであろう。そして老人も。かしんかしん、をオノマトペとして読んだ。山中に眠る空家と老人を思ううちに思わず口を突いたのが、かしんかしん。冬木を叩く音のようでもあり淋しく冷たい擬音であった。

大晦日の出棺母よ雪です 石川青狼
 本家の爺様の葬儀が大晦日にあり、牡丹雪が降る中を両親に連れられて行った記憶がある。釧路の雪はもっと厳しい雪だ。お棺の中の母上に「母さん雪だよ」と話しかけている作者。句にすることでその時の切なさがずっと残ることになる。

少し硬いが噛むと十一月の味 大沢輝一
 少し硬い、しかヒントがない。沢庵かスルメイカか見当がつかない。しかし作者にとっては大切な十一月の味なのである。奇妙な句であるがどこか味がある。

冬ぬくし柴犬三匹分の距離 奥山和子
 ソーシャルディスタンスという語はコロナ禍以後通常語になった。柴犬三匹分が作者のセンスで諧謔味があった。柴犬を連れて散歩中、他者との距離に気を遣う作者が見える。現在只今の日常を上手く掬い上げた。

初御空ひよどりの木を借り助走 狩野康子
 鵯は群れて楠の大木などで休んでいたりする。何かの拍子で一斉に飛び立つとその多さに驚く。まさにひよどりの木、である。そこにはエネルギーが満ちている。そのエネルギーを分けてもらい今年も元気に生きて行こうとする作者。自然の中にある、気のようなものに興味を持つ作者なのであろう。

龍の玉ひとつを空へ戻しけり こしのゆみこ
 龍の玉を見つけた時は何か嬉しい。その光沢に引き付けられ手に取った記憶は誰にでもある。一個だけ空に戻すとはどういう行為なのか。実際には空にかざしただけかも知れないが、戻すと書き詩になった。虚構であるが腑に落ちた。こういう明るい句に出会えると嬉しくなってくる。下五で句を展開させる、とはこういうことだ。

そろそろ家族が透けて来る頃です雪 佐孝石画
 雪の降る夜は静かだ。しんしんと降る雪の中いろいろなことに思いを巡らせていると頭の中が次第に澄んでくる。そういう状態で家族を思うと透けて来るように感じたのかもしれない。作者は「感が昂揚」してくる過程を書こうとしたのではないだろうか。

数え日の貨物列車や米研ぐよう 高木水志
 年の瀬の貨物列車が平常時とどう違うのか分からない。米研ぐよう、の形容でシャッシャとかシュッシュという音が聞こえはする。せわしない年末の貨物列車走行時の喩えとして、米研ぐは合っているのではなかろうか。

故郷ふるさとや枯野を出たらまた枯野 峠谷清広
 枯野を歩き切りやっと出たと思ったらまた枯野があると書いている。上五の大きな書き出しと相俟って雄大な景色が見えてくる。自虐的な句が多い作者であるが、当該句は故郷賛歌とも取れる大きく構えた一句であった。

目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
 突然目隠しをされたときにはときめく。異性間ではことさらであろう。こういう時代もあったような気がする。そのときめきに似ているのが時雨と書く。日本の時雨のイメージとはかなり遠い異国の地の時雨感が書けた。

大枯野老いては群れず群の中 長谷川阿以
 自身は群れないと思って生きているが、実際には群の中に居る。生活者として群は避けられない。大枯野をどんと据えたことで作者の矜持の堅牢さがうかがえる。それにしても、老いては群れず、はかっこいいフレーズだ。

看る人の手の甲にメモ寒昴 藤田敦子
 看護師さんの手にはよくメモが書かれている。ここでは看護師ではなく、家庭内における看る人かもしれない。寒昴の斡旋により冷たく白い手の甲が眼前に現れる。

マヤ暦辿るあんかに赤きコードかな 藤原美恵子
 マヤ文明に興味を持ちそれを辿っているという上五から、あんかへ急降下する落差に鮮度があった。四国山中で育った筆者は炭火を入れた行火の記憶がある。その後電気行火に変わって行った。そんな落差激しい二物、電気行火の赤いコードとマヤ暦は郷愁感という領域で微かにつながっている。

焚火から泣き声がするわずかだが 松本豪
 生木を焚火に入れると水分が出てくる。その時に何かしら音がする。それを泣き声と感得した。下五に、わずかだが、と書き足すユーモア溢れる表現力を称えたい。

◆金子兜太 私の一句

谷間谷間に満作が咲く荒凡夫 兜太

 今から五、六年前、「今月のこの人」というある雑誌の対談に掲載されていたこの句は、心に原郷を持ちながら、本能のまま、荒々しく、自由に、平凡に、愚を自覚しながら心の糧を俳句に求めて生きようと決心した先生が日銀時代に詠まれたものという。まさに先生!と思った一瞬の句でした。熊谷名産の「五家宝」を美味しそうに召し上がっていた写真の先生の横顔と共に土着の匂い、土の手触りを含みつつ先生のお人柄そのものとして洗練されて大好きな一句。句集『遊牧集』(昭和56年)より。北上正枝

眼鏡ばかりの電車降りれば火まみれに 兜太

 高校生の時に手に入れた『今日の俳句』と共に、手許に『暗緑地誌』が二冊あり、一冊は金子兜太と署名がある。この句集には昭和42年からの句が収録されているが、その頃に私は作句を始めた。また、昭和46年11月の伊良湖勉強会で森下草城子さんに紹介されて初めて金子先生とお話をしたが、巻末のこの句が発表された時期と重なる。こじつけが過ぎたかも知れない。だれもが忙しくしていた時代でもあった。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。若林卓宣

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選
秋惜しむ逆さに置きしマヨネーズ 大沢輝一
バラバラに手足意志持つ十三夜 大西政司
秋暑し幼ななじみという他人 奥山富江
室の花夕日は赤いとは限らぬ北村美都子
足裏にいろいろくっついて良夜小松敦
○端っこに良い子がいます冬菫佐藤詠子
十六夜の仮設派出所影動く清水茉紀
小春日の㾱車四角に畳まるる鱸久子
埋め立地を秋触われる水はなくてたけなか華那
萩の風少女はつめたいやわらかいナカムラ薫
死がこわくなって大人や秋のくれ中村晋
里芋のぬめりのように母と娘は根本菜穂子
コスモスの戦げば戦ぐほど夜明け野﨑憲子
サングサや辺野古のジュゴンうろつくよ疋田恵美子
林檎むく不安があばれだす前に藤田敦子
満月の街少年の暗い脛前田恵
○霜の夜を兜太の残党として潜む松本勇二
髪乾く途中熟柿になる途中三浦静佳
○何もない部屋に転がる月があり山内崇弘
ごうごうとわれに釘打つ夜長かな山本掌

楠井収 選
コロナ来るゆるり首折る曼珠沙華泉尚子
秋冷や風の2キロの学校道がっこみち 伊藤巌
幼児の問いは難し冬銀河 伊藤雅彦
竹の春むだ話したかったのに 大髙洋子
俺いずれどんぐりころころ待っててね 岡崎万寿
めぐみちゃんと呼ぶ声嗄れ星流る 鎌田喜代子
○軽トラだけど乗つてゆきなよ野菊 木下ようこ
酔芙蓉晩成なんぞコケコッコ 黍野恵
落蝉のふいっと飛立ち焦燥感 黒岡洋子
○端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
名月へ夫の作業着干しました 高木一惠
長き夜や亡き父を待つような母 峠谷清広
白魚や無声映画の女給B 遠山恵子
病む人が看る人を抱き小鳥来る 中村晋
吊し柿とキャラメルほどの距離である 松本千花
ぎょっとする妻の落書き白桔梗 宮崎斗士
手話の子へ茶の花ひとつずつ咲くよ 村上友子
新米と母の体重同じとは 山内崇弘
マスクした顔で別れてそれっきり 山田哲夫
○はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子

佐藤詠子 選
裏窓に来ている火星と守宮かな 石川義倫
桃吹くや言葉が軽くずれてゆく 伊藤淳子
冬蝶にもてあそばれている傘寿 伊藤雅彦
石蕗の花斜め斜めに再起する 上野昭子
冬たんぽぽ迷子のように踞る 宇川啓子
ノイズばかりを拾って秋の躰 榎本祐子
点滴に預けし利き手雁わたる 北村美都子
○軽トラだけど乗つてゆきなよ野菊 木下ようこ
優しすぎる雲にうつむく鴉かな 佐孝石画
したたかにみな古びしや冬囲い 鈴木栄司
待つことに少しもたれて秋袷 田中雅秀
朝寒や呼び捨てされるように起き 峠谷清広
落葉掃く消せぬ傷口なぞるごと 藤野武
俳句にも骨格のあり冬けやき 船越みよ
二人の耳がひとつになって夜長かな 宮崎斗士
木菟啼いて当てずっぽうの余生かな 武藤鉦二
三日月や滲んだままに投函す 村上友子
○何もない部屋に転がる月があり 山内崇弘
託老所のバス左折して時雨くる 吉田朝子
○はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子

山下一夫 選
うどん啜るみたいな会話星流る 榎本祐子
決断の途次に轢かれし秋の蛇 川崎千鶴子
うそ泣きをしてひぐらしを黙らせる 川西志帆
恋人よ落葉を紅い順に置く 木下ようこ
そこにある太陽林檎齧るなり 小西瞬夏
鴉去る私が鴉になったあと 佐孝石画
燕帰る拾い読みで終わる日々 芹沢愛子
秋を吹かれる静かに千切れながら 遠山郁好
除染とは改竄である冬の更地 中村晋
骨拾う約束の友大根引く 仁田脇一石
露の玉の中に玉ありヒツヒツフー 野﨑憲子
泡立草美しと老身立ちつくす 野田信章
レモンの時代甲高の足を憎みて 日高玲
しろい風しろい知らせがこんと来る 平田薫
○霜の夜を兜太の残党として潜む 松本勇二
バレリーナの正しき呼吸九月来る 宮崎斗士
すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
長き夜の次のページに象歩む 望月士郎
マスク越しに言ふし浮寝鳥眠いし 柳生正名
文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子

◆三句鑑賞

秋暑し幼ななじみという他人 奥山富江
 同級会の後「死ぬなよ〜」と言って手を振った。私も「死なないよ」と返した。保育園からずっと一緒だった。暗くなるまで境内で遊び、何年たってもその景色はすぐに思い出せた。戦後数年で生まれた子供達は、何処に行っても子供だらけで、上手に喧嘩して上手に仲直りをした。親戚よりも近かった。だってこんなにも悲しい。

サングサや辺野古のジュゴンうろつくよ 疋田恵美子
 絶滅危惧種のジュゴン、遠目にはちょっと太めのマーメードが、今途方に暮れています。海に住む草食のほ乳類の、そのテリトリーの海が埋め立てされるという噂を聞いたと言うんです。象と遠い親戚とはいえ、今さら陸に上ることもできません。食う道を阻み、いつも絶滅に力を貸すのが人間です。先生の「君と別れてうろつくよ」の句が心の中をかけ巡ります。懐かしいあの声と一緒に。

満月の街少年の暗い脛 前田恵
 ぶつけてこんなに痛いから、齧られたらそりゃあ痛いと思うけど、世間の親はそんなに痛くないらしい。そうそう最近誰ぞが満月に勝手に横文字の名を付けた。年寄りは無邪気にスマホで追い続け、若者はその反対側に行こうとしている。星がみんな帰っても、また此処に、痩せた月が太りにやってくる。
(鑑賞・河西志帆)

端っこに良い子がいます冬菫 佐藤詠子
 幸せになる心洗われる句。世の中集合写真等を撮る時は子に真中に居るよう言う親もいるわけだが、この親はそうではない。子に謙譲の心、犠牲の心を教えたのだ。負けるが勝ちということもあっただろう。冬菫のように小さな愛とか幸せを感じる家庭だったのでしょう。素敵な両親と子に乾杯。自戒を込めて鑑賞。

病む人が看る人を抱き小鳥来る 中村晋
 何とも哀切を感じる一句。病人はもう末期の夫。夫婦の生活はこれまで紆余曲折あった。しかしこの夫は何事も一徹の男。会社生活は勿論、家庭生活でも、また自らの闘病生活も。残していく妻を思う心も一徹。それが男のロマンなのだ。思わず妻を抱きしめる。夫婦別々のこれからの世も夫々小鳥が来るような生活が送れそう。

ぎょっとする妻の落書き白桔梗 宮崎斗士
 上中と季語の落差。白桔梗のような清楚な妻。過日夫は使い古しの子の教材に書いた妻の文字を見つけた。好きなものに異性の名。嫌いなものは夫の寝顔。いやそんな深刻なことではないかも。何と嫌いなものに納豆。好きだと共に食していたのに。夫は絶句。実は関西出身の妻は納豆が苦手。まあこの位の落ちなら救われますね。
(鑑賞・楠井収)

優しすぎる雲にうつむく鴉かな 佐孝石画
 心の美しい人の前では、自分の雑な思考や行動が恥ずかしくなる。優しすぎる雲に鴉がうつむくのは、我らと似ているかも。善悪に惑いながら皆、現実を生きている。若い頃、爽やかに語っていた夢とは違う空の下に今がある。けれど、俗世もまた良かれ。人も鴉も凜とした生き方を持つ。絹のような雲は生き物全ての憧憬だ。

待つことに少しもたれて秋袷 田中雅秀
 待つという「時間」に寄り掛かると読んだ。待つ時間は、想定外の自由でもある。時間に心を委ね、素の自分を思い出せるのだろう。秋袷には、初秋のやわらかな女性の潤いを感じる。単衣ではなく裏地のある袷の着物を用意し、移りゆく季節を静かに待つことも作者にとっての少し凭れた愉しみなのかもしれない。

はしょってはしょって草の実つけて脱稿 若森京子
 原稿を書き終えた後の開放感を目指して、筆を握る。言葉が溢れてくる。結局、省略しながら字数を整えるいつものパターン。せっかくの想いを削るのは、淋しい。ともあれ、自分の分身ができあがった。「はしょって」が、お茶目だ。そして、自分だけの言葉を最後に添える。夕暮れの部屋に草の実をそっと置くように。
(鑑賞・佐藤詠子)

レモンの時代甲高の足を憎みて 日高玲
 俗に日本人の足は幅広甲高と言われるが、欧米人との比較では幅広甲薄らしい。掲句の主体は甲高な自身の足を憎んだのか、日本人らしく甲薄なので欧米人様の甲高の足を憎んだのか。身体の目立たない箇所への拘りが少女を思わせるので前者と思う。「レモンの時代」との措辞が余すところなくその多感と輝き、香しさを伝えている。

長き夜の次のページに象歩む 望月士郎
 一読、深更まで読書にふける場面が思い浮かぶ。静まり返った書斎でふとページの向こうに象の気配を感じるのである。それほどにリアルな物語なのか、過度の集中が幻想を招いたか、あるいは入眠時幻覚か。およそ似つかわしくないシチュエーションに生身の巨体を喚起させる下五の措辞が登場して断層が生じ、そこに想念が湧く。

マスク越しに言ふし浮寝鳥眠いし 柳生正名
 「し」の韻が目を引く。二番目と三番目は若い人の口吻でよく耳にするが俳句では珍しい。接続助詞で並列とすると後には結句が続くはずである。季語「浮寝鳥」は和泉式部が「憂き寝」を掛けて涙に暮れて寝る身に例えて詠んだという。マスクも外さぬままに別れを告げられ悲嘆に暮れたが眠気には勝てないという自嘲か。深い。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

冬ぬくし大楠の産む光かな 安藤久美子
冬蝶や逸る気持ちの透けてゐし 飯塚真弓
神といっしょに野良犬の背を哄笑す 伊藤優子
下の子を肩車して火事の跡 植朋子
ポケットの除菌スプレー探梅です 上田輝子
風花って出してない手紙みたいだ 大池桜子
棚を開け隠した黒子をまた付ける 葛城広光
自画像に足され白鳥は不機嫌 木村リュウジ
人間ら日向ぼこして檻の中 黒沢遊公
校庭も風呂焚く家も冴え返る 古賀侑子
木枯をリヤカーに乗せ弟よ 後藤雅文
神様が微笑む病葉風に消えた 近藤真由美
凍て空に薬師如来のうずくまる 坂本勝子
海に出るまでの大河や春あした 重松俊一
荷をあけるや林檎の貫録祖のけむり 鈴木千鶴子
胡桃割るマザーグースの小さき部屋 宙のふう
切り絵師の鋏はなるる寒夕焼 ダークシー美紀
コロナ禍は地球の言葉お正月 立川真理
遠き友身長のびてマスクして 立川瑠璃
早梅や秩父音頭が聞こえてくる 中尾よしこ
てんてまり戦がみんな持ってった 仲村トヨ子
糸底のか細く強き雑煮盛る 平井利恵
蜜柑M新日常の軋む音 藤好良
万葉の冬月ふるさとつつがなき 増田天志
針金のハンガー撓む革コート 宮田京子
小寒や大往生の斬られ役 山本美惠子
冬木立じっとする只じっとする 横田和子
鍵のない家。柊に目礼す 吉田和恵
敗戰忌骨片くすぶる岩のくぼ 吉田貢(吉は土に口)
わが骨のもろさのかたち冬の蝶 渡辺のり子

九十九王子 大西健司

『海原』No.28(2021/5/1発行)誌面より

◆自由作品20句

九十九王子 大西健司

讃岐の人狐火の杜目指しけり
憂国や熊野中辺路木守柿
草の罠冷たく滝尻王子かな
野長瀬一族の山茶花は赤奥熊野
萍紅葉に心寄せつつ木橋過ぐ
木橋渡る庚申さんへ櫨紅葉
小広王子や狐の罠の覚めており
鹿の声聞きに水呑王子かな
狐火の杜よ伏拝王子へと
多富気王子や熊楠の宿霧晴れて
がまずみの赤が寂しい奥熊野
目箒の匂い霧降る宿小さし
つぶやきのパプリカ薪をなお焼べぬ
スペイン家具の丸み愛しき霧の宿
バジル芳し森のパン屋は冬支度
茶屋跡の山茶花那智に赤が映ゆ
慈母観音とやかの人冬の滝拝す
非日常の鯨山彦笑わない
石蕗の黄や人影しるき狼煙台
鹿の糞まだ新しき狼煙台

春愁ふふっと 桂凜火

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆自由作品20句

春愁ふふっと 桂凜火

気仙沼牡蠣語を話す牡蠣漁師
孕鹿暮れる東国うす青し
たましいの在りどころ探す鹿の舌
なすび蒔く土を優しく膨らます
輪郭なき春 靴紐堅結び
逸れてゆく日常生活水草生う
マスク越し小さく唄う隅田川
ハリネズミ抱く東京の春の闇
深海のいのち犇めく春の真夜
聞きたいことたくさんあります萱鼠
はにかみ顔喜劇役者の逝く朧
トルソーめく君と直立す花月夜
継ぎはぎの春愁ふふっと河馬のキス
みだれ髪雄ライオンのあたたかし
麝香猫の糞から旨きカフェ春愁
君は陽炎生みたての卵を洗う
切りぎしやゲルニカの木に若葉風
人相の悪い毛虫に会ってしまう
青葉風逆さまのシャツ泳ぎだす
赤い砂の惑星に棲む蜥蜴の名

眼差し 三枝みずほ

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その3〕

眼差し 三枝みずほ

どのこゑも遠し青き空ひとつ
石ころがほろほろ零れ春の川
さてもまたあなたの春野さまよへり
蛇穴を出て飴色にひかるもの
葉脈の透けて弥生の朝かな
髪結師咥えし紐の真白なり
山間の歌もて春の宮参り
手のひらの椿のほかは揺れてをり
白く濡れてゆくさくらの参道を
おおかみの眼差しがあり囀れり

『海原』No.27(2021/4/1発行)

◆No.27 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

寒夕焼気分に句読点を打つ 伊藤雅彦
悼む夜は胸に花野の漂流す 伊藤道郎
マスク外せば目鼻耳持つ綿虫は 植田郁一
秋の双蝶生きんがための物忘れ 大野美代子
狐火の血筋集めるコンクール 小野裕三
秋冷や思い出せない日も生きた 柏原喜久恵
冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
膳に付くマスクホルダー年忘れ 加藤昭子
マスクして目は饒舌になりにけり 上脇すみ子
獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
海へ向く薔薇錆びゆくや憂国忌 黒済泰子
ひなたぼこキリトリセンのあつまるよ こしのゆみこ
着ぶくれて不要不急の人となる 齊藤しじみ
定位置や碁を打つ亡父と冬の猫 篠田悦子
晩年の居場所も決めて冬南瓜 鈴木栄司
牛蛙ここだ孝信ここだここ 鈴木孝信
荻の花役にたたないこと得意 芹沢愛子
迷いてあれば短日の魚影美し 田口満代子
冬浪に佇む君の透明度 竹田昭江
冬の虹二人並ぶと濃くなった 田中雅秀
冬ざれて標本みたいな街になる 峠谷清広
チャリ飛ばす団地老人四日かな 遠山恵子
呑み込みし言の葉ふわり冬雲雀山 新野祐子
世界史の横揺れにゐて去年今年 野口思づゑ
滝はわが身中にあり冬の虹 野﨑憲子
初秋はポストの上の忘れもの 平田薫
竹籠の編み目芳し賀状絶つ 藤原美恵子
さかりゆく母は雪山の匂い 村本なずな
白鳥来どこかで弦の切れる音 茂里美絵
虎落笛カタカナ書きの母のメモ 吉田朝子

高木一惠●抄出

皺くちゃの幸せと浮く冬至の湯 伊藤巌
限界集落婆に砦の吊し柿 伊藤道郎
嗚呼一年仕事納めは顔合わせ 江良修
囲炉裏端母の手縫いの静寂です 大沢輝一
密集のまん中に居る冬将軍 大髙宏允
九十九王子未完の森の煙茸 大西健司
他界とは地下にあるらし竜の玉 岡崎万寿
綿虫やアナログ的に主知的に 金子斐子
暮の秋小石をひとつ沈めたり 川田由美子
黄落やしみじみ介護保険料 河西志帆
ビーバーの愛しさ茶の花月夜かな 北上正枝
草氷柱正夢となる前に融け 小松敦
鳥獣虫魚木霊の語る冬の森 小宮豊和
大寒の小声の似合う夫婦かな 齊藤しじみ
大根干すわだつみの声となるまで 白石司子
五郎助に耳羽民生委員奔る すずき穂波
実南天古刹は水の照るところ 関田誓炎
音沙汰は鴎のしろさ初時雨 田口満代子
星星かたく目を瞑るササラ電車だよ たけなか華那
雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
そっと息吹けば兎になる落葉 鳥山由貴子
柿落葉老いのひとひらごといとし 中野佑海
被曝の連鎖柿の実柿の根に埋めて 中村晋
獏枕耳の奥から雨男 日高玲
言い訳がとってもきれい黄せきれい 本田ひとみ
着ぶくれて天地無用の荷となりぬ 増田暁子
梅咲いて猫の耳などうらがへす 水野真由美
真珠層いくつはがれて冬蝶へ 三世川浩司
師の声の逞し秋の一本道 村上友子
寒鴉のそのそと来る夜明け前 山内崇弘

◆海原秀句鑑賞 安西篤

寒夕焼気分に句読点を打つ 伊藤雅彦
 寒夕焼は、野の果てにいても街なかにあっても、一篇のドラマの中にいるような気分にさせられる。たとえ短い時間であれ、夕映えは一つの文体をもって訴えかける。それは大いなるものの中へ消えてゆく存在感でありながら、メリハリのある哀感の力をもつからだ。そこをしっかり確認するために、その気分に句読点を打つという。

秋の双蝶生きんがための物忘れ 大野美代子
 秋の双蝶とは、秋の陽射しの中を、二羽の蝶がもつれあうように舞い上がり舞い降りしている姿。「生きんがための物忘れ」との取り合わせは、いわば忘我の状態で蝶の舞を見ているおのれ自身ではないか。そこには忍び寄る老いの姿が重なるが、それとて嫌なことつまらないことを忘れて生きる老いの知恵なのかもしれない。蝶の舞を見つつ、そう自分に言い聞かせている。

冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
 犬がいつものようにお手をして、飼い主からおやつを貰っている。その様子をみていて、犬がなにやらさびしい方の手を出しているようだという。その見立ては、「冬の犬」なればこそ成り立つ。冬の季節感に作者の心情が投影されているからだろう。お手をした犬の手に冬を感じるのは、その感触に季節のさびしさを覚えたからに違いない。犬は作者の冬の心情を推し量って、さびしい方の手を出してくれたのだ。

マスクして目は饒舌になりにけり 上脇すみ子
 今や緊急事態宣言下の街中は、マスクマスクのマスク一色。マスクから覗く目だけが、当人唯一の認識対象の窓口となる。となれば、その目がにわかに饒舌に語りかけてくるような気がする。それは相手の目からなにかを読み取ろうとする意識の照り返しでもあるのだ。目は口ほどに物をいうような色っぽいものではなく、相手の目から意図を読むという、いわば探りの目に違いない。

着ぶくれて不要不急の人となる 齊藤しじみ
 ステイホームで着ぶくれているだけでは何事も始まらず、人と会うこともままならぬとあっては語り合うこともできない。そこで今流行のオンライン句会などいかがといっても、IT旧石器時代人の多い俳壇では、浸透に時間がかかりそう。手も足も出ないとあっては、着ぶくれて不要不急の人でいるしかない。そんな現実を諷刺している。もちろん作者はそちらサイドの人ではないが。

牛蛙ここだ孝信ここだここ 鈴木孝信
 言うまでもなく、兜太師追慕の一句である。この句の
こわぶり
声風には、在りし日の師の野太い声がまざまざと再現されている。なんといっても「牛蛙」の声に擬したところがぴったり。「牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ」の兜太句もある通り、声はすれども姿をみせない牛蛙同様に、師の作者への呼びかけは、姿はみえなくとも今も鳴り響いている。師は作者の泥つき野菜のような人柄を愛していた。死してなお師の声を聞くとは、羨ましいかぎり。

迷いてあれば短日の魚影美し 田口満代子
 「迷いてあれば」というからには、何かこころにかかっている迷いがあるのだろう。まして昨今のコロナ禍の日々は、相談したり、話を聞いてくれたりする人もいないし、その機会もない。一人思い悩んで、冬の池のほとりに佇むと、短日の慌しげな日の暮れの水面に、魚影が美しい背びれを閃かせて横切った。そのとき、なにかがことりと腑に落ちたような気がしたのではないか。

冬の虹二人並ぶと濃くなった 田中雅秀
 冬の虹はめったに見ることはないが、暖かい雨が降った後など、ふっと見えることがある。珍しいことなので連れ合いにも声をかけ、二人して見ていると心なしか冬虹は一段と色濃くなって、見せ場を作ってくれたような気がしてくる。「二人並ぶと濃くなった」というぶっきらぼうな捉え方が、かえって東北の冬の虹の素朴なサービス振りを演出しているようにも思える。

世界史の横揺れにゐて去年今年 野口思づゑ
 コロナ禍は、全世界に蔓延して今なお終息の兆しをみせていない。ちょうど昨年の暮あたりは、北半球で第三波がうねり始めた頃である。作者のいるオーストラリアにあっても、その余波は及んでいたであろう。「横揺れ」という地震のような形容をもってきたのは、そのことを指している。もはやこれは世界史的な画期をなす災禍というほかはない。

竹籠の編目芳し賀状絶つ 藤原美恵子
 高齢化とコロナ禍の厳しい歳末を迎えて、年賀状もこの際欠礼しようという動きは高まっている。お正月用の縁起物の海山の幸を入れる竹籠を用意しながら、一方で儀礼的な年賀状を省略しようとする。大切なのは自分の居場所で、それはふれあいの関係性の整理によって確保しようというのだろうか。難しい選択には違いない。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

他界とは地下にあるらし竜の玉 岡崎万寿
 竜の玉は寒中、鬚状の葉の奥深くに紺碧の彩を極めて、絹の道の壁画に遺るラピス・ラズリの青はこれかと思われる。春に葉を刈りこむと花つきがよく、夏には緑色の実を結ぶ。その実が白く透けて、やがて秋麗の空の色に染まるのだ。「他界」については様々に言われるけれど、最近私は親しい人が重病かもしれぬと聴いて、現実の此の世はおしまい、まして彼の世のことなんてと、俄に思い詰めた。然りながら、俳句と共に文芸の世界に支えられて生きる限り、「他界」は存在するのだとも思う。
 作者の「俳人兜太にとって秩父とは何か」は各位必読のシリーズ。兜太先生の読書歴が『俳句日記』等で俯瞰的に辿られて、書の解説も附されている。

音沙汰は鴎のしろさ初時雨 田口満代子
 さっと来る眩しい白さ、鴎のようだ。兜太先生が「かもめは小生のなかの山中葛子の映像でもある」と述べておられるので、この音沙汰は千葉在住の大先達お二方の交情の一齣かもしれない。応仁の乱の頃、心敬の〈雲はなほさだめある世の時雨かな〉に和した宗祇の〈世にふるも更に時雨のやどりかな〉(新撰菟玖波集)の「時雨」は、芭蕉が〈世にふるもさらに宗祇のやどり哉〉と受けた頃には、元々の山野の景を超えた季語となっていた。海の鴎に、そんな象徴的な時雨の景が重なる。

星星かたく目を瞑るササラ電車だよ たけなか華那
 ササラ電車は札幌と函館の市電の線路を走る除雪専用車で、アニメ『となりのトトロ』に登場するネコバスみたいな虎猫模様の車体もある。夜更けの雪道に、竹の束(ササラ)のブラシを回転させて繰り出すと、降り積もった雪は地吹雪のように舞い上がり、星達も思わず目を瞑る!と、作者の詩情は宮沢賢治に通う。

雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
 一片の春雪を手に受けた時に、それがすぐに融けてしまうのは、わが手が温かいから則ち生きているからだ、屍であったらそのまま積もるだけなのだ、という感慨を持ったことがある。しかしそうした思念無しに、音として感得できるのが、ぽぽな俳句の真骨頂なのだと思う。高村光太郎が「言葉に或る生得の感じを持っているものによって詩は発足する」(『自分と詩との関係』)というその「生得の感じ」の持ち主のようだ。

嗚呼一年仕事納めは顔合わせ 江良修
 顔合わせだけで仕事を納めるのは官公庁の「御用納」。季語の傍題に「仕事納」がある。この習俗は昭和の末に制定された「行政機関の休日に関する法律」によるが、新型コロナに顔合わせを禁じられた一年間の感慨が籠る。

九十九王子未完の森の煙茸 大西健司
 熊野古道沿いの神社の一群が九十九王子。降雨量日本有数の紀伊山地の霊場である。森がいつまでも未完であれば自然は安泰。煙茸も頭の穴から胞子を風に靡かせて、たばこを一服楽しんでいる風情だ。
 兜太先生は『俳句日記』昭和五十九年六月九日の項に「熊野へ。那智山の大滝の見える観瀑荘別館に鞄を置き、大滝の滝壺近いところまでゆく。中村ヨシオ、谷口視哉の地元二人元気なり」と記し、夜の句会に〈大滝という欠落に似た生きもの〉を出句したが、「生きもの」では不可と反省、と記された。全句集の座五は「似た宇宙」。

ビーバーの愛しさ茶の花月夜かな 北上正枝
 茶の花が雄蕊をふんわり抱え込むように咲いて、月夜のダムから覗くビーバーみたいに可愛い。葉の間の花はお月さまのようにも見える。高一の時、母を喪ってお茶垣の陰で泣いていたら、母が愛した西条八十と蕗谷虹児の詩画集の情景に包まれた。茶の花の香りがした。

草氷柱正夢となる前に融け 小松敦
 草氷柱は流水が叢にかかって凍り、柱状となった大きなものもあるが、よく見かけるのは露が凍ってできた氷柱で、陽が差すとすぐに融けてしまう。夢で見たとおりの内容が現実になるのを正夢とすれば、目覚める頃には融けてしまう草氷柱は正夢にはなれない。なんとも儚い草氷柱をぽつりと句にして、象徴性も感じられる。

大寒の小声の似合う夫婦かな 齊藤しじみ
五郎助に耳羽民生委員奔る すずき穂波
 小声の似合う夫婦のシルエット。「大寒」の季語が効いて、寄り添う姿が浮き彫りにされ印象的だ。老いても斯くありたいが、耳が遠くなったりして現実は厳しい。電話もダメなどと、なにかと民生委員のお世話になる。委員の皆さんは冬帽目深に奔走の日々である。

獏枕耳の奥から雨男 日高玲
梅咲いて猫の耳などうらがへす 水野真由美
師の声の逞し秋の一本道 村上友子
 雨男も梅も、兜太先生を偲ぶよすがと思う。秋彼岸は先生の誕生日。近年は開花の時期が早まっていた彼岸花が、雨が多かった昨年はぴったりお彼岸に盛りを迎えた。先生の俳諧自由の一本道…出会えてよかった。

◆金子兜太 私の一句

きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 兜太

 気を入れて事をする時「きよお!」と口の中でときに声を出して言うことがある。自分の背中を押すって感じである。新緑の夜中のみずみずしさと「この汽車はゆく」の突き進む力強さは美しく、こころが躍動する。三十代の作品とあるが、先生の生きる姿勢は生涯変わらず、強靱でしなやかでいらっしゃったと。この句を胸に響かせて歩いていきたい。句集『少年』(昭和三十年)より。竹田昭江

朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太

 先生の大学時の卒論は、日本農業の将来に関することだったと聞く。それ故か、こと農業、とりわけ秩父の養蚕業に対する思いは、生涯一貫して強かったと思う。もとより、奥様への愛情はそれ以上のこと。掲句の「手中の蚕」と「妻に示す」に、これらのことが如実に込められた感銘句である。かつ、妻俳句および秩父産土俳句の基なる句と思う。不肖私もほぼ同郷、若干、農にかかわってきた者として心酔する。句集『少年』(昭和三十年)より。吉澤祥匡

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選

真実を嘘に芙蓉の咲くころに 泉陽太郎
彼岸花きのうより少し俺も老い 井上俊一
兄炎帝、弟台風の如く逝く 江井芳朗
モノクロの風針穴にすっと糸 奥山和子
自粛警察汗の下着がからみつき 黍野恵
鉄臭き校庭の水原爆忌 黒済泰子
ジュゴン鳴く工事休日大浦湾 今野修三
○秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
○蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
秋の蛇すこしおとろえ西へゆく 白井重之
棒立ちの八月母は父灯す ナカムラ薫
父の八月石鹼ひとつでぜんぶ洗う 中村晋
色鳥来さいごは早口になるニュース 根本菜穂子
賛成の人手を上げて揚雲雀 野口思づゑ
傷つけば傷から光る青檸檬 藤田敦子
寂しいと書きががんぼの脚になる 前田恵
牛膝淋しがり屋に付きたがる 三浦静佳
膝鳴って夜寒いま薬瓶からこぼれ 三世川浩司
木曜日を辿ってゆけば蝉の穴 三好つや子
曼珠沙華朱の奪われしその日 山本掌

楠井収 選

卑屈さも歳月のなか花野原 泉陽太郎
屈託の秋ジーパンの吹き曝し 伊藤雅彦
いのこずち誰も私を誘わない 奥山富江
痛けりゃ薬哀しきゃ月に吠えりゃいい 河西志帆
コロナ禍やどうもどうもと言うばかり 佐々木昇一
○蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
枇杷あまた見上げておれば主婦ら寄る 下城正臣
浮いて来いよ悪玉コレステロール すずき穂波
かしこ過ぎてあの子死んだだ葉鶏頭 遠山恵子
真葛原頭痛難聴夫源病 中村道子
穴まどひ愛するために生まれたの 野﨑憲子
ブドウの皮そっと剥ぐとき罪の匂い 藤盛和子
街中の数字よむ癖晩夏となる 北條貢司
千年後のマスク思へば蚯蚓鳴く 前田典子
親離れ子離れ蟹の横歩き 松本豪
台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
コロナ禍や全速力のかたつむり 武藤鉦二
放鳥や指の先まで秋の風 村上友子
外せるものはずし酌む酒新秋刀魚 村本なずな
えこひいき無しの先生ゐのこづち 梁瀬道子

佐藤詠子 選

思い出にあおられて返事する月 市原正直
心外ということふっと蜥蜴鳴く 伊藤淳子
黒揚羽私はそれを待つだけです 宇田蓋男
白山の名月ラップしておこう 大沢輝一
秋思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
手土産のように広がる鰯雲 小野裕三
佛飯の新米乳房の白きかな 狩野康子
豊作だってぎゅっと雑巾絞る姉 佐々木宏
少女趣味という趣味捨てず蛍草 芹沢愛子
夕暮がとんぼの体軽くする 十河宣洋
我が影の千々に乱れて曼殊沙華 竹内一犀
逃げるように歩く癖あり秋暑し 峠谷清広
美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
冬めいて己の肉を感じおり 中村孝史
白鳥来るねむったふりをする田面 丹生千賀
曼珠沙華大地にルビを振っている 松井麻容子
はつふゆの風に栞を挟みけり 水野真由美
後ろ指差された心地黒揚羽 室田洋子
よく晴れて言葉と小鳥とりかえに 望月士郎
秋風を指一本で掴まえる 茂里美絵

山下一夫 選

竜淵に潜む安らぎ緩和ケア 石川まゆみ
朝ドラに軍歌懐メロのごと秋の雲 伊藤巌
夏蝶の昏さよ古き手紙のよう 伊藤淳子
訃は岬青い夜長に漂える 伊藤道郎
秋黴雨かけられる鍵は全部掛け 奥山和子
捕虫網補修している自由かな 小野裕三
夕闇のふいに笑窪のお茶の花 川田由美子
海ほおずき母にも好きな子のありて 黒岡洋子
酸漿とうはくちびるのあはひかな 小西瞬夏
ひとはひとにふれ秋の野に入る 三枝みずほ
○秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
死角からちょろちょろ出てくる氷旗 すずき穂波
返信を待つ間のゆらぎ鳥渡る 田口満代子
林檎剥く部屋の重心うつりゆく 月野ぽぽな
翔べない白鳥秋のカーテン翻る 鳥山由貴子
秋草のさぁっと強迫神経症 堀真知子
おのを叩き星座を叩きハカ踊る マブソン青眼
柚子だんだん黄色にそんな別居中 宮崎斗士
ああ今朝も平熱ですね小鳥来る 室田洋子
見回してわたしもいない芒原 望月士郎

◆三句鑑賞

自粛警察汗の下着がからみつき 黍野恵
 一般市民が正義を振りかざす時、それは凶器にも近い。スーパーの入口で、マスクをしろ‼と怒鳴っていたのは普通のおじいさんだった。その形相を見て、いやな汗が垂れた。あの暗い時代も、市民を監視していたのは市民だ。「自分から進んで自分の行動を慎むこと」それを強く求められている私達。怪我と弁当は自分持ち。

蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
 忘れないでと言わなければ、忘れてしまうのが怖い。海が陸を取ろうとして襲ってきたかの様な、あの映像。沢山の瞳の中に残った悲しみや恐怖は、次の新しいものに押し流され、過去よりも遠くなってゆく。今日も震度6強が襲った。復興などとはますます遠く、あの日あれからあのままの此処を捨てずに、人々は生きている。

父の八月石鹼ひとつでぜんぶ洗う 中村晋
 八月に特別な意味などないと言える日が来るのだろうか。マラリアとデング熱に罹り、終戦の前に還ってきたという父のことを、こんなにも知らなかったことに、今気づく。家族揃って、石鹼ひとつで足りた時代を過ぎても、シャンプー等には触れもせず、まるで石鹸しか信じていない様だった。あの節くれだった掌も、父の八月も、ここからは見えない。
(鑑賞・河西志帆)

かしこ過ぎてあの子死んだだ葉鶏頭 遠山恵子
 夭折の子を思う母の慟哭。この子は確かに頭が良かったのだ。勉強も頑張った。それだけに親の期待は大きく、したがって反動も大きい。賢過ぎたと思うしかないのだ。この「だだ」という素朴な方言が、より一層悲しみを誘う。葉鶏頭の葉の色々な色への移ろいが母の悲しみを助長する。

街中の数字よむ癖晩夏となる 北條貢司
 いや実はこれに似た方、私の身近におられるんです。テニス友達でメンバーの車のナンバーを諳んじていて、誰が来場か即座に当てます。何か心に屈託をもっておられるのか、何か一芸に秀でたいとか、人と同じことをするのを嫌うとか。そういう生き様で季節は移ろい夏も過ぎていく。これも人生ですね。

外せるものはずし酌む酒新秋刀魚 村本なずな
 酒好きな私にとっては堪らない一句。外せるものをみな外して酌む。身につけているもの、色々な憂いも。ちょっと艶な感じもあるが、そんなことはこの際超越した感あり。酒はやはり冷酒でしょうか。また、この新秋刀魚が季節感プンプンで良し。中年の男のロマンを感じさせる一句。
(鑑賞・楠井収)

思い出にあおられて返事する月 市原正直
 多忙な日々の中で、返信できないままのメールがたまっていく。夜ふと、スマホを開くと仲間との写真が。無邪気で飾らない笑顔がある。会えずにいる大切な人たちとの思い出がたくさん溢れてくる。日常に少し疲れていた心が、だんだん柔らかく膨らんできた。満月のように。きっと、普段着のような言葉で返事をしたのだろう。

秋思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
 ほくそ笑んでしまう句。秋思と言えば、少し物悲しいセンチメンタルをイメージ。ため息をついて物思いにふけても、答えの出ないことが多い。変わらない毎日、変わらない関係、もどかしさを誰かにわかってもらいたいのに、変わらない現実。ゆったりと漂う海月の足を引っ張って、承認欲求を満たしたくなる本音に大いに共感。

手土産のように広がる鰯雲 小野裕三
 鰯雲の空は、ぽこぽこしていてその不思議な様は、どこか滑稽でもある。作者は鰯雲を見て、広げた手土産のようだと。納得である。家族が集まりわくわくしながら手土産の大きな包みを開け、はしゃぐ声が聞こえる。コロナ禍で、親族や友人がなかなか集まることができない今、この句のような日常の幸せを待ちたい。
(鑑賞・佐藤詠子)

朝ドラに軍歌懐メロのごと秋の雲 伊藤巌
 ドラマでは戦時のサインとしてよく軍歌が流される。心ある人は筋に関わらず胸が痛むであろう。昨年は朝ドラ「エール」が好評を博したが、主人公の業績に軍歌もあり毎朝よく流れていた。上八中八のリズムと措辞に鬱屈が滲み出ており、「秋の雲」の斡旋が慨嘆をより効果的に伝える。抑制の利いた大人な態度とも言え少し憧れる。

酸漿とうはくちびるのあはひかな 小西瞬夏
 酸漿を鳴らす遊びを知る世代も少なくなったろう。種抜きがまず難関。なんとかクリアできても鳴らせなかった。口の中で果皮の空洞に息を吹き込み球体にした上で舌と唇で押しつぶして鳴らす。秘訣を探ろうと母や従姉や小母らの唇をじっと見つめていたものである。古典的仮名遣いがその艶めかしさを余すところなく彷彿させる。

柚子だんだん黄色にそんな別居中 宮崎斗士
 「そんな別居中」と言われてもというところだが、「柚子」について連想を巡らせていると、未熟な柚子は別居の原因となった諍い、熟しつつあるのは心境又は関係の変化の暗喩に見えてきた。柚子の軽い黄色に希望的観測という突っ込みも浮かび、にやりとさせられる。取り合わせが確かな技巧に裏打ちされており素晴らしい。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

どこか楽しげ木の葉に葉の香壺春堂 飯塚真弓
父母にそれぞれの恋シクラメン 石塚しをり
銀杏落葉踏みしめ向かう湯灌かな 植朋子
開戦日赤ペンで書く一句かな 梅本真規子
イブに別れって洒落てるなんて言う 大池桜子
鮟鱇を食ふて経年劣化かな 大渕久幸
雪の日の歩き方伝受して笑う 梶原敏子
原っぱで雲形定規投げるんや 葛城広光
花八手栞代わりの帯失くす 木村リュウジ
神の手を滑り落ち双子座流星群 日下若名
枯野道不可視の空の果て恋えり 工藤篁子
残しおく田畑二町歩生姜酒 古賀侑子
女坂パンツに紅葉はいってる 後藤雅文
ピック投げる最後の恋であるように 近藤真由美
飛ぶことを忘れて歩く冬の蠅 坂川花蓮
おちこちの山もおととも眠りけり 坂本勝子
はがゆくもまっすぐ生きて憂国忌 重松俊一
落花生割るたび心のはみ出しぬ 宙のふう
大綿虫おおわた湧いて集合時間に遅れます ダークシー美紀
二〇二〇恐れ苛ち着ぶくれて 髙橋橙子
電飾のよすがに青き聖かな 高橋靖史
安寧なドア一枚や春の闇 立川由紀
コロナ禍や鍋に逃げ込む安らかさ 保子進
12月8日からの喪失でがらし茶 松﨑あきら
重ね着を嫌う老母の反抗期 村上紀子
十二月八日の記事が減ってきた 山本美惠子
春の泥あばら骨よりほどけるか 吉田貢(吉は土に口)
言の葉の海に漂う炬燵かな 吉田もろび
洞窟に蒼白冬眠の日本兵 渡邉照香
狼よわたしの腐臭嗅ぎつけて 渡辺のり子

◆追悼  近藤守男 遺句抄

遠蛙問わず語りの妻のめし
暮の春微醺の浮漂ぶいの浮沈かな
啓蟄の穴を拝借涙壺
子規病みてそれからが子規しじみ蝶
立春や摩文仁の丘に「ハブ注意」
草の根の蟻んこわんさ嬥歌かな
天道虫愚直の軌跡かえりみず
ヒント得て物理学者の立ち泳ぎ
青鷺翔つ夜明の水辺帰農かな
鮎解禁むかし米とぎ子守唄
メロンパン信長公記曝書して
蝉の声大言海に漂えり
繭を日に透かしていれば鳴るサイレン
敦盛草流人の墓碑に吾が姓
里曳きのをなごの木遣歌御柱祭きやりおんばしら
ポケットの団栗こぼす子の昼寝
園児皆永久歯秘め運動会
嫁ぐ娘と良夜の富士にハーモニカ
新走り小股にはさみ小海線
眼と声の大きくなりぬ妻のマスク
(日高玲・抄出)

守男さんを悼む 日高玲

 近藤守男さんが昨年二〇二〇年七月に八十七歳で、逝ってしまわれました。この二、三年は体調不良で句会を欠席されていましたが、年賀状に、ご夫妻でゴルフを楽しむお元気そうな写真が映っていたので幸いと思っておりました。ところが、今年一月になって、昨年夏、転倒から体調を崩し、肺炎を誘発してしまい、との訃報を頂き、愕然としました。
 今、『海程多摩』のアンソロジーを繰ってみますと、自己紹介として、昭和九年六月五日東京府滝野川区に誕生とあります。「僕は名門音羽幼稚園卒業なんですよ」の声がよみがえります。昭和二十年四月戦災で秋田県能代市に疎開。昭和二十七年三月に上京。『海程』四〇五号(平成十六年八月号)より投句、とありますが、それ以前に、近藤さんの創作は俳諧の連歌(連句)から始まります。きっかけとなったのは、知人で、現在NHKカルチャー町田教室「連句講座」講師の佛渕健悟氏から連句の楽しみを教わったことでした。やがて東明雅主宰の「猫蓑会」に入会し、ますます連句の楽しさに嵌っていきます。一方で、開講して間がないNHK青山教室の金子兜太俳句講座に参加し、金子先生の魅力に惹かれて、海程に入会します。その後は「東京例会」は勿論のこと、「多摩句会」に「秩父道場」にと、海程の同人として俳句の創作に励み、生涯の楽しみとされたのでした。
 守男さんの作品は、家族への想いや日常景を生真面目に活写したものが多いのですが、リアリズムの奥には、ロマンティシズムが潜んでいて、独特の俳味が滲んできます。掲句の「遠蛙」や「眼と声の」「ヒント得て」のとぼけた味。「草の根」の田舎人のロマンティシズム。独特な感覚の利いた「メロンパン」等。
 思えば長い年月、私共夫婦は「守男さん」と雅号で呼び習わし、俳諧の連衆として、座を共にし旅を共にしました。金子兜太俳句講座に、空席がまだあるから遊びに来ないかと誘って頂き、やがて一緒に海程に入会。初心の頃には、守男さんご贔屓の旗亭に句友たちと集い、批評をしたり未熟を嘆いたりと、二度と無い楽しい時代を過ごすことができました。本当に淋しくなりました。

りんどうの花 日高玲

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原賞受賞 特別作品20句

りんどうの花 日高玲

草原に仔馬を拾う遥かなり
清明の鳥のたちまち流れゆく
半地下に打音の響く日永かな
夜更かしの水飲む舌のおぼろなり
白アスパラ喉のくぼみの脈打って
メジロ二羽感情移入せぬとあり
原っぱに貴石埋もれてさみだるる
龍の這う不易の水をいさかいぬ
滝の音やがて微塵となるレモン
ぬか漬けの甕に秋の蚊クロニクル
木星に土星近づく草泊
鹿の目よ棕櫚の葉音に眠られぬ
優雅なる野生のしぐさ鮭の葬
旅の終りりんどうの花象りて
言葉ひとつ白桃の蜜滴りぬ
我を通す童子の悲鳴白鳥来
アイススケート少女に傷の組み込まれ
ひと寄りて絹の冷気のさまよえる
鶴を飼う時雨の軒に宿りして
雪原に晒す老女の微笑なり

あたたかいくぼみ 小松敦

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原新人賞受賞 特別作品20句

あたたかいくぼみ 小松敦

月白の匂い始める部屋を出て
ひらがなの丘に枯葉の海望む
ふたりとも青の体温焼りんご
あたたかいくぼみに違う生きものと
住んでいる体の中に陽炎える
もう少し待って羽化したての右手
レモン汁ぱっとあかるくなった顔
振り向くと振り向いている青時雨
初めての人もう一人夏薊
はまなすの花今日までの映画館
夕凪の階段なんの笑顔かな
青岬夏から夏へ出す手紙
からっぽの海辺に落ちていた小壜
きらめいているのも知らず蝸牛
温かな肌に目覚める卵かな
冬蛹だんだん世界できあがる
流氷期語りかけても咲きません
搭乗を待つ魂等エアポート
旅人を追いかける声春障子
手の届くところにいつもひらひらと

一枚だけの紙 たけなか華那

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原新人賞受賞 特別作品20句

一枚だけの紙 たけなか華那

蒸気時計が叫ぶ父に最後の冬
一日に一枚だけの紙ください冬の青空
寒月 ナツメ灯点すだけの部屋
運河にハスゴオリ愛に致死量がある
枯渇する魂ENTERキーをさがす
雨氷林背ぶるいして風はくる
響き渡る凍裂トドマツの遺言
冬の教科書オールドローズは風
紫大根擦る夜が明けるようだ
盲目の犬の心音初雪なのです
窓をたたく冬の蜂心臓はここだよ
ビワは咲いたあなたはわたしを殴れない
石ころが添い寝をする冬の菫
鳩が辺に並ぶ落葉のない小学校
蜜柑をもむひとりがいいのはスネてる証拠
捻りこむ命の芯地吹雪を行く
流れつく異邦の欠片此処から冬
顕れるものみな昏し砕氷船
空が混じって冬野がすこし横
冬日差しぼんやり生命の影ぼうし

春野 三枝みずほ

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その2〕

春野 三枝みずほ

罫線に沿うもう青空に追いつけない
塗りつぶす文字や焦げ臭い鉛筆
手のひらをはなれ睦月の光とは
オルゴール開けば立春核家族
水すこし零れ二月の巻き貝は
曲線の交わるところ青き魚
明るさの連なる声や黄水仙
陽だまりの窪みにうさぎ涅槃西風
春泥を弾む生まれたてのことば
仰向けに春野おおかみ来るころか

白い深淵 佃悦夫

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆自由作品20句

白い深淵 佃悦夫

かいつぶり女院大の字に寝たるか
白梅や秤に揺らぎ残りおり
人外にもっとも遠くニオ寝落つ
水神も兎も寝るをはじめたる
一瞬は蝶本道を外れたり
白梅を手折り祖は渡来人かと
陽炎を真っ向から毟りたり
白百合の骨肉覚めいたりけり
白蝶の動脈刺すことはかどりて
白蝶の発条が顔にもぶつからむ
本流は草矢で埋まる夜中かな
菜畑の涯にかならず面人
草はらの夏は千手の突き刺さむ
鳰鵺にもっとも近いようだ俺
青垣を造りつづける白鳥か
深淵を往ったきりなる鉦叩
かまど神冬稲妻と相対死
冬の陽の血眼本尊まで届く
寒鴉人に非ずと喚きおり
大寒というエメラルド破損せり

果無山脈 大西健司

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

◆自由作品20句

果無山脈 大西健司

忍手の男無患子こぼれおり
果無や絵馬堂にがまずみの赤
熊野晩秋心許なき竹の杖
杯に甘露の水や那智は秋
茶屋跡の石蕗果無山が見ゆ
毀誉褒貶雲取越の緋連雀
雲取越や傀儡師霧の道辿る
木沓鳴る道や芳し煙茸
縋る杖なく箸折峠すがれ虫
それぞれの秋湯の峰に滾る水
果無の郷や目箒匂いけり
こともなき十一月や杖磨く
毒消しを探す果無山は秋
無限宇宙はてなし坂の木守柿
とがの木や中辺路に兄探しおり
大斎原野﨑憲子の真言や
溲瓶忍ばせ大先生は冬熊野
有精卵翳す近露冬はじめ
狐火や古道はずれの厩跡
讃岐の人狐火の杜目指しけり

『海原』No.26(2021/3/1発行)

『海原』No.26(2021/3/1発行)

◆No.26 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母が来るリュックありったけの十月 綾田節子
白秋や被爆ピアノの喫茶室 石川まゆみ
未完なる冬の俳句に尾行さる 市原光子
みぞおちの苦いくらがり鳥渡る 伊藤淳子
竹の春むだ話したかったのに 大髙洋子
銀杏を拾う秘密を分かつため 片岡秀樹
白湯冷ましつつ洎夫藍の真昼濃し 川田由美子
鶴渡る短い童話書けそうな 北上正枝
曼殊沙華全部ひそひそ話かな 小松敦
銀杏散る詩を口ずさむはやさにて 三枝みずほ
切り岸は父の背であり夕野分 佐藤君子
十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
エスプレッソに男の匂ひ小鳥来る すずき穂波
芋虫のひんやり鼓動つまみあぐ 高橋明江
銀色のおりがみに顔ゆがんで冬 月野ぽぽな
ハロウィンの渋谷細身の托鉢者 董振華
倒立の少女に火星冬支度 遠山郁好
和菓子屋灯り金木犀のカルテット 中野佑海
除染とは改竄である冬の更地 中村晋
ブーケトス継ぐに樺太鱒遡上 並木邑人
小春日やただ三食を作りて過ぐ 西坂洋子
里芋のぬめりのように母と娘は 根本菜穂子
コロナ禍や秋夜繰り出す基地の兵 疋田恵美子
舞茸の歯ざわりミステリアスな家族 本田ひとみ
コロナ禍やアマビエの絵も夏のシャツ 三木冬子
点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎
ポインセチア感情過多で電話魔で 森鈴
文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子
亡母を訪う旅の途中の一位の実 横地かをる
貴腐ワインふと私の死に化粧 若森京子

高木一惠●抄出

死ぬ気のしない聲の幻二月来る 有村王志
立冬の月を取り込む換気かな 石川青狼
栗ご飯コロナ禍だけど雨だけど 石橋いろり
優しさは昨夜の氷柱もういない 泉陽太郎
伊勢型紙流星の色放ちけり 稲葉千尋
どこも消毒柿何連も何連も 奥山和子
穭田や最終章の序章かも 川崎益太郎
熟柿透く孤独の果てるところまで 河原珠美
俺っぽくない証明写真木の実落つ 楠井収
受話器より病状淡々やもり消ゆ 黒済泰子
日あたりのよい友といてレノンの忌 こしのゆみこ
そこにある太陽林檎齧るなり 小西瞬夏
レノン忌ややけにあかるいな人が 三枝みずほ
十二月大石小石がごろごろ 鈴木孝信
このきのこ毒と決めつけ妻頼もし 鈴木修一
鳥渡る会釈のように腹を見せ 十河宣洋
草もみじ僕の指紋を忘れない 高木水志
芋虫のひんやり鼓動つまみあぐ 高橋明江
ハロウィンの渋谷細身の托鉢者 薫振華
あらがわずしかと暮らせり紅葉山 中村孝史
蛇眠る朽ち葉のぬくみまつろわせ 根本菜穂子
石切唄石の聞き入る秋の暮 野﨑憲子
泡立草美しと老身立ちつくす 野田信章
若者の手足が欲しい高原キャベツ 服部修一
無口で淋しきスイッチのあり鰯雲 藤野武
発想を飛ばしなさいと声小六月 三木冬子
葱の列真っ直ぐ父のいる限り 武藤暁美
稲ぐるま小回りの利く母が居た 武藤鉦二
すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

母が来るリュックありったけの十月 綾田節子
 母が久しぶりに田舎から訪ねて来た。おそらくは新居を構えた娘の家を見がてら、娘夫婦としばらくぶりの対面の時間を楽しみたいという気持ちからだろう。時は十月、収穫期の故郷の幸を、ありったけリュックに詰め込んで、勇んでやってきたに違いない。「リュックありったけ」にその意気込みが伝わる。肝っ玉母さんを思わせるような、古き良き時代の親子像が浮かび上がる。

未完なる冬の俳句に尾行さる 市原光子
 この句を読んで、俳句つくりなら誰しも、アルナアと腑に落ちるものを感じるにちがいない。昨日あたりから仕掛かったままの句がひっかかって、なかなかまとまらない。ままよとばかり外に出て、他のことに気を紛らわせようとしても、その一句に尾行されているかのように頭を離れない。そこでまた鉛筆をなめることになるのだが、相変わらず完成することのない袋小路に入ったまま。

鶴渡る短い童話書けそうな 北上正枝
 鶴渡るは鶴来ると同様、秋シベリアから渡来する鶴の群れ。鶴は家族や仲間たちと一緒に来るから、たどり着いたばかりの鶴たちの所作に、どこか長旅の思い出やこれからの仲間同士の暮らしの話題がたえないような感じ。その鶴の群れの鳴き声に、作者は短い童話のヒントがもらえそうな気がしたという。それは、作者のアニミスティツクな共感から呼びさまされた創作意欲にちがいない。

十六夜の仮設派出所影動く 清水茉紀
 福島の被災地は、もう十年になろうとしているのに、未だ復興の歩みは遅々としている。この句の景でも、かつての駐在所が仮設派出所のままで、おそらくは巡回の頻度も少なく、派出所に人影が動くことも稀なのではないか。十六夜の月が、まさにいざよう感じでおづおづと上るとき、ふと仮設派出所に人影が動いた。それはその地域にとってのささやかな救いの影とも見えたのだろう。

和菓子屋灯り金木犀のカルテット 中野佑海
 おそらく作者地元の老舗とみられる和菓子屋が、珍しく夜まで店を開いていたのだろう。店の前に金木犀が四本ほど並んでいて、店の灯りに唱和するかのように、花をつけている。その有様を「金木犀のカルテット」としたのだ。そのカルテットを、あたかも老舗への応援歌を奏でているように見立てている。それは作者自身の思い入れをも映し出しているのではないか。

除染とは改竄である冬の更地 中村晋
 この句も、被災地フクシマの現実を詠んでいる。原発被害による放射能の除染は遅々として進んでおらず、更地にしたことだけで除染作業は終わったかのように、表面を取り繕って事足れりとしている。それはまさに、除染という名の改竄であると作者は告発する。福島在住の人ならではの現場感覚だ。今の日本の社会の現実を見据えた社会性俳句である。

ブーケトス継ぐに樺太鱒遡上 並木邑人
 ブーケトスとは、花嫁がウエディングブーケを未婚の女性に投げることで、受け取った女性は次に結婚ができるといわれている。つまり幸せのお裾分けをすること。樺太鱒は秋に産卵のため川を遡上するとき、魚体を婚姻色に染めて雄を誘う。句意としては、ブーケトスの縁起を引き継ぐように、樺太鱒は川を遡上しているよというもの。ブーケトスを樺太鱒の遡上と取り合わせて、季節の祝婚歌とした一句。

舞茸の歯ざわりミステリアスな家族 本田ひとみ
 舞茸は、風味豊かで歯ざわりもよく、炒め物、ソテー、てんぷらなど、多彩な料理の食材として広く使われる。何にでも合わせられるし、他の食材の引き立て役にもなる。ミステリアスな家族と舞茸の歯ざわりは、一見何の関係もないように見えるが、どこか融通無碍に合わせられる舞茸のような家族とみれば、それこそミステリアスなまでに平和な家族関係とも見られよう。

ポインセチア感情過多で電話魔で 森鈴
 ポインセチアは、十二月頃、茎の先の緑の苞葉が鮮紅色に変わり、美しい観葉植物となる。猩々木の名もある通り、真紅の葉の激しいまでの存在感は、冬の花の中でも抽んでている。掲句は、ポインセチアに喩えられる現代風女性像の一典型を描いている。即ち「感情過多で電話魔」、どこか小悪魔的な女性像は、社会人女性の中によく見られるものかもしれない。

文庫本ほどのジェラシー秋桜 梁瀬道子
 「文庫本ほど」といわれても、五百頁を越す大著もあれば、百頁そこそこの薄手のものもあって、「ジェラシー」の程度を推し量るのは難しい。だが「秋桜」とあるからには、まあ二百頁か、せいぜい二百五十頁までの標準本とみてよいだろう。川柳の「女房の妬くほど亭主もてもせず」というところながら、女房からすれば到底許せないところまで来ているのかもしれない。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

死ぬ気のしない聲の幻二月来る 有村王志
発想を飛ばしなさいと声小六月 三木冬子
 天下の魁の梅の便りと共に兜太先生の忌日を迎える。先生九十五歳の談話「私はどうも死ぬ気がしない」は著書の標題ともなった。わが座右の『戦後俳句日記』にも御声は満ちているが、やはり肉声は格別である。

立冬の月を取り込む換気かな 石川青狼
 発想を飛ばす…換気換気と心がけても、作者の在地では生やさしいものではなかろう。新型コロナ禍のそんな現場に古典的な詞華「月」を取り込んだ。巧まずにそれができる俳諧精神。日頃の鍛錬の賜物と思われる。

熟柿透く孤独の果てるところまで 河原珠美
 樹上の熟柿に目白の番いが来て、毎日少しずつ実を啜り、やがて啄む影が透けて見えるようになり、とうとう皮一枚、はらりと地に落ちた。

穭田や最終章の序章かも 川崎益太郎
あらがわずしかと暮らせり紅葉山 中村孝史
 小林秀雄が古希の心情を「死は問題として現れるのではない、手応えのある姿をしている。世の移り変わりより、我身の変化の方に切実なものがある。」(講演「生と死」)と話している。然りとしても如何ともし難し。眼を転ずれば、穭田も紅葉山も終章の今を精一杯生きている。

葱の列真っ直ぐ父のいる限り 武藤暁美
稲ぐるま小回りの利く母が居た 武藤鉦二
 高く盛土した葱の畝の列に、畑主の丹精の跡が見える。刈り稲を稲架のある畦まで運ぶ稲ぐるま。でこぼこ道をうまく回して、よく働く母上がいた。私の母も敏捷な人だったが、頑張りすぎて三十代で逝ってしまった。

石切唄石の聞き入る秋の暮 野﨑憲子
 作者が高松市の石の資料館(庵治石が名高い)で聴いた石切唄は哀切な調べだったというが、「見たか聞いたか山寺名所/慈覚大師の開山だ」など、職人が各地を移動して全国に広めたようだ。建築家の隈研吾が角川武蔵野ミュージアムの外観に石を選んだのは、古代からの信仰対象である「聖なる岩」を復活させる為とか。高千穂町の天岩戸の近くには石切場の跡があるそうで、天鈿女命を踊らせたのも石切唄だったか。石に尋ねてみたい。

すすきかるかやたましいが過呼吸 室田洋子
 過呼吸するのが「たましい」とまで思い入れて、現つを生きる苦しみを詠んだのかもしれないが、若山牧水の〈吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ〉を心とした想夫恋の句とも解される。
 実は「かるかや」で先ず思い浮かべたのは懐かしい石童丸と苅萱道心の物語で、説教節や浄瑠璃に登場する「かるかやどうしん」の音の響きに、仏法で名告り合いを禁じられた父子の話が重なって、ずっと心に残って来た。苅萱の穂は花薄のように美しくはないけれど…。

草もみじ僕の指紋を忘れない 高木水志
 草の葉はそれぞれの葉脈がそれぞれに指紋を持つように紅葉してゆく。そこに掲句の作者の自意識も見えると、千葉句会の山中葛子評を伺い、読みの深さに感服した。草紅葉と親しく交感する作者の立ち位置は、〈不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心〉の啄木に似ているようで、大きく異なると思う。「僕を忘れない、僕も忘れない」と、この交情を忘れないで。

日あたりのよい友といてレノンの忌 こしのゆみこ
レノン忌ややけにあかるいな人が 三枝みずほ
 ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノンが撃たれて亡くなったのは一九八〇年十二月八日。太平洋戦争開戦日の三十九年後である。一昨年、中国武漢で最初に確認された新型コロナウイルス感染者の発症日も十二月八日だったとか。――想像してみて、みんなが全世界を共有しているって――「イマジン」の歌詞が蘇る。

点訳の童話がひらく星月夜 望月士郎
 月の無い夜に満天の星が輝いて見える星月夜。点字の表は一見星月夜のようでもある。新月を前にした師走半ば、双子座流星群を見ようと半纏にくるまりベランダに出たり入ったり。月が出ると星影が薄れるのを実感した。宮城道雄の箏曲「春の海」は歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ作曲されたが、七歳の頃に失明したというから、ほとんど想像の海を奏でたのであろう。そんな世界に少しでも近づきたくて、『スーホの白い馬』や『もみの木』等々、寝しなに童話の朗読を聴いて感動した。光を知らぬ読み手にも、この星空が輝きますように!
 俳句はどうか。時に幽玄の境を見せる星月夜の詩韻に迫るにはどうすればいいか考えた。写生と言い具象化と言い、結局は常と変わらぬのだと思い至ったが、只今の逼塞の世では、果敢な心情吐露よりも、連句で言えば人情抜きの「場の句」の類をこの星月夜は好むのではないか。兜太先生の〈おおかみに螢が一つ付いていた〉も場の句である。きっと星月夜になれると思う。

◆金子兜太 私の一句

差羽帰り来て伊良湖よ夏満ちたり 兜太

 平成15年、「海程」の全国大会が伊良湖で行われた、その時兜太師が作られたのが掲句。風光明媚な伊良湖岬にこの句を句碑として残そうと、さっそく石さがしがはじまった。ある夏の暑い一日、故森下草城子氏、故北川邦陽氏、故山口伸氏を乗せて私は運転手として同行、岡崎の石工団地や石屋を何軒か訪ねまわる。そして無事に平成17年に句碑が完成した。差羽の句とともに忘れられない思い出です。句集『日常』(二〇〇九年)より。井上俊一

洋上に硫黄島見ゆ骨の音も 兜太

 この句はまさに、ミャンマー・オークデビジャンへの慰霊の旅に重なる。そこは、父が銃創と破傷風により戦病死した野戦病院があった森。未だ紛争地域であるため近づくことは許されず、森を遥かに望むシッタン河の竹の吊り橋から遙拝した。吊り橋は心細く揺れ、軋みつつ音を立てた。それは父たちの骨の音だったのだ。その骨は未だ帰ってきていない。句集『百年』(二〇一九年)より。谷口道子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎選
○秋風を咥え手足の自由律 市原光子
隧道の中の滴り独り者 榎本祐子
黒い雨滲んだ産道蝉絶唱 大上恒子
少年を覗けば蛍袋かな 小西瞬夏
八月の真白き紙に感電す 三枝みずほ
夏草の指先午後の余白かな 佐孝石画
塩狩峠夕日も汽車も半ズボン 佐々木宏
葛藤の端っこに来る赤とんぼ 佐藤詠子
蚯蚓鳴く胎内という真暗がり 白石司子
秋の蝶顕つやその戸を閉めてより 田中亜美
遠まわりをして花野に濡れにゆく 月野ぽぽな
水面から忘れはじめる遠かっこう 遠山郁好
六月のぐずぐず赤ちゃんの重さ ナカムラ薫
無医村と知りて緑を濃く思う 中村孝史
流星の舳先に腕を組み少女 水野真由美
○模型屋に時の種あり天の川 三好つや子
少年の刺し合う視線夏運河 村本なずな
言ふなれば独り身のプロ冷奴 柳生正名
九月の図書館何故か耳たぶやわらかき 山内崇弘
あの世とは水平感覚つくつくし 若森京子

加藤昭子選
○秋風を咥え手足の自由律 市原光子
ペン先になかなか死なぬ夜の蟻 榎本愛子
○蚯蚓鳴く聞き流すのも思いやり 江良修
人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
みかんの花考えたことない母との距離 黒岡洋子
少年の水になりゆく平泳ぎ 佐々木香代子
烏揚羽父なる森のくろを被て 篠田悦子
這う母とカサブランカを見ておりぬ 清水茉紀
八月をたどる折鶴ひらくよう 芹沢愛子
今日生きる作法の一つ草を引く 髙井元一
青柿のまだという明るい期待 高橋明江
書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
○小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
○炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
○月明り水色の声だけ掬う 松井麻容子 
父の名をマスクの中で秋彼岸 松本勇二
母の目に力まだまだ茄子が咲く 宮崎斗士
○模型屋に時の種あり天の川 三好つや子
老いも海月も流るるという遊び 武藤鉦二
母を看てそのあと金魚見て駅へ 望月士郎

董振華選
○蚯蚓鳴く聞き流すのも思いやり 江良修
夕凪にサーカス小屋の仄として 大髙洋子
さらさらさら秋の水リハビリの掌に 大谷菫
八月の雲と語りて幾十歳いくとせか 岡崎万寿
蜻蛉のひとふるえして向きを変え 川嶋安起夫
鬼灯が真っ赤な嘘を吐き出した 後藤岑生
胸像の胸襟開く残暑かな 齊藤しじみ
夜の金魚凶器のように愛のように 佐孝石画
親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
叱声は控えています花むくげ 鈴木栄司
雨音の途絶えし闇の蚊喰鳥 関田誓炎
明り消し住処たちまち虫しぐれ 田中怜子
凸凹と育つ夫婦の晩夏光 中野佑海
○小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
○月明り水色の声だけ掬う 松井麻容子
かいつぶり奈落覗いてきた白目 松本勇二
死にどころはどこでもいいよ波音あらば マブソン青眼
狗尾草母と哀しくくすぐり合う 望月士郎
生き方のこだわり捨てて半夏生 森由美子
秋茄子や夫が猫背に厨ごと 柳ヒ文

室田洋子選
さらば夏 帽子を投げてみたけれど 伊藤幸
白さるすべり氏神に見す肢体かな 稲葉千尋
まず笑えそして一人で夏を越せ 大野美代子
歩み寄る露草の色生きるいろ 刈田光児
今すっと流れゆく冷え草の絮 北上正枝
滝しぶき嗚呼ときれいになる眼 北村美都子
秋茜耐えるおとこは夫である 小池弘子
てのひらに檸檬の匂う別れかな 近藤亜沙美
天性の農夫凜々しく夕端居 佐藤紀生子
雲流るるか夏果ての樹々くか 鈴木修一
ため息は肺にいいのよ草の絮 すずき穂波
マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
夫に作るサラブレッドの瓜の馬 高橋明江
濁流を語りし時に遠花火 舘林史蝶
ぽっかりと花野にわたし置いてきた 月野ぽぽな
遠き日の夢の瘡蓋破れ蓮 寺町志津子
○炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
はつなつの鷹に逢ひたし拗れたし 松本千花
晩夏光母はアンネと同い年 村松喜代
無花果熟れ乳房満ちくる心地して 森鈴

◆三句鑑賞

隧道の中の滴り独り者 榎本祐子
 独特な視線を感じる。隧道は昏くて気味の悪い異界。天城隧道を歩いたことがある。ひんやりとした暗闇に心拍数が上がる。水の豊かな森の隧道は滴りが落ちてくることがよくある。滴りが首筋を伝うときなどなんとも言えぬ恐怖が身を過る。闇にひとり放りだされる恐怖。その恐怖の感覚は、明りが氾濫する都会の孤独にも通じる。

黒い雨滲んだ産道蝉絶唱 大上恒子
 黒い雨裁判があった。国はいまだ被爆者を救済しようとせず、その姿勢に憤りを感じる。「黒い雨滲んだ産道」は被爆二世の誕生を言っているのであろう。この凄まじい表現は被爆した母子のかなしき怒り。そして戦後、差別という過酷な人生を強いられた被爆者たちの声は「蝉絶唱」という胸揺さぶる措辞で締めくくられる。

少年を覗けば蛍袋かな 小西瞬夏
 少年と蛍袋の取り合わせは新鮮。蛍袋は風に揺られて清楚で夢見るよう。しかし、雨風に翻弄される日も。少年はと言えば森羅万象何にでも興味、関心を持つ。そして阿修羅像のごとく様々な表情を見せ、時に走れメロスのように友情と非情を知る。少年期という一瞬だからこそ、光と影にとても敏感。蛍袋は少年を秘めている。
(鑑賞・伊藤道郎)

人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
 作者は花野に立っている様に感じた。いろいろな花が咲き誇る中で、身の回りを過ぎて行った人達を思い起こしている。離れて暮らしている人、亡くなった人を一人一人思い出し心を寄せている時間の経過が、一マス空けに表出されていると思う。一本摘み、又一本摘み花束となる。花束の重さが作者の優しい心根のように思える。

母の目に力まだまだ茄子が咲く 宮崎斗士
 「目力」という言葉がある。目に精気があることは生きて行く気持ちが強いということだ。母は老いて、もしかしたら病床にあるかも知れない。歩けなかったり、喋れなかったりとしても、目はしっかり作者を見つめてくれる。「まだまだ」が上五・下五に掛かり母の気丈さに安堵する。無駄花が無いという茄子の花が前向きで良い。

母を看てそのあと金魚見て駅へ 望月士郎
 朝の介護の景と受け取った。出勤前、母親の面倒を見る。身体介護となると大変と思う。思いやる気持ち、言葉は母にとって、今日一日を心穏やかに過ごす力となる。母を看た後、金魚の世話。情景を淡々と描いてあるが、その分介護に慣れてしまった時間の長さを思わずにいられない。次の句にも引かれた。〈狗尾草母と哀しくくすぐり合う〉
(鑑賞・加藤昭子)

小さくともたしかな言葉トマトの花 中村晋
 地位が低くて、言うことも重んじられない。それでも確かな存在感を示している。上五と中七のズバリとした断定は作者の自信たっぷりとした姿が目に浮かぶ。また、黄色い小さなトマトの花は至って地味な印象であるが、よく見ると五枚の花弁を星型に開いてまぶしく感じられる。上の措辞が季語とよく響き合っていて巧妙。

生き方のこだわり捨てて半夏生 森由美子
 七月の上旬、丁度半夏の時期に咲く半夏生は、虫媒花として、より目立ち、魅力的な花にするため、葉を白くしているのである。何事も完璧を求めてきた作者だが、ある時それは不可能だと、ふと気づいた。やはり成り行きに任せて、内気で気儘に生きていく方がずっと楽しい。半夏生のように「情熱を内に秘めて」生きる。

秋茄子や夫が猫背に厨ごと 柳ヒ文
 日本では、旬を迎え美味しくなる「秋茄子は嫁に食わすな」という封建的な家族制度の中から生まれた言葉がある。また、一般的な認識では、男の人はあまり家事を手伝わない、厨事はなおさらである。しかし、我が家では違う。料理を手伝う夫は不器用かもしれないが、自慢の愛妻家である。夫にかける視線に夫婦愛をよく感じとる。
(鑑賞・董振華)

夫に作るサラブレッドの瓜の馬 高橋明江
 お盆の精霊馬。お迎えは早く我が家に帰って来られるよう胡瓜を馬に見立てて作り、彼の世に戻る時はゆっくり茄子の牛で。明江さんはご主人にサラブレッドの瓜の馬を作られた。「これに乗って早く早く帰って来て」ご主人への深い愛情。サラブレッドが何とも素敵でかっこいい。ちょっとの俳味も。

炎天をくちゃっと洗いマスク干す 丹生千賀
 コロナ禍の夏、誰もが経験した日常。とにかく毎日マスク。どこに行くのも何をするにも。それまでも冬や花粉の時期はしていたが、真夏はつらかった。涼しい素材を色々試してみたがやっぱり暑くてうっとうしいのだ。そして洗うのが面倒臭い。くちゃっと洗いに実感がこもる。炎天をも洗ってしまいたい。コロナの収束を祈る。

晩夏光母はアンネと同い年 村松喜代
 調べたら、今年九十一歳になる私の母も同い年だった。「アンネの日記」は娘もその娘も愛読していたので皆で驚いた。遠い歴史の中の人物だと思っていた聡明そうな額の大きな瞳の少女は、今も生きて何の不思議も無かったのだ。あの恐ろしい悲惨な戦争ナチスの迫害が無ければ。晩夏光は挽歌。母も村松さんの母上も健やかなご長寿を。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

すこーんとこぐ自転車や秋の暮 有栖川蘭子
幸せなり方しゃらり落葉かな 飯塚真弓
冬麗や女に戻れぬので笑う 植朋子
ロードバイク部屋に飾りて小春かな 梅本真規子
白冬薔薇ならわたしを好きなはず 大池桜子
人参抜くもれなく嘘がついてくる かさいともこ
小春日やほうびに違いないと書く 梶原敏子
疑うと窪でパジャマを着る私 葛城広光
穴惑い昨日の僕と出くわしぬ 木村寛伸
山茶花ほっここは泣いてもいいベンチ 木村リュウジ
紅葉且つ散る白髪混りのポニーテール 日下若名
押印の不要に押印文化の日 後藤雅文
屋根に霜空き家に隣るごみ屋敷 榊田澄子
八月の厄介なわたし捨てにゆく 宙のふう
解体は看取りのように菊師の子 立川真理
着ぶくれて形骸となる詩の破片 立川瑠璃
紅葉且つ散る人間のままでいる 谷川かつゑ
被爆地に住み何処かが冷える 中尾よしこ
ラ・フランス歪な頭の君が好き 仲村トヨ子
学校は大きな吃り冬の空 福岡日向子
囲はれの鸚鵡の窓に小鳥来る 藤井久代
見えない傷深く少女初雪 松﨑あきら
来年は来ぬかも知れぬ小鳥来る 矢野二十四
会計士の黒縁眼鏡焼さんま 山本まさゆき
穂芒やわたしを離れぬ無鉄砲 山本美惠子
祭太鼓が防災無線でやって来た 吉田和恵
やつがくんだ。一角獸がてゐる 吉田貢(吉は土に口)
納骨の現場に届くメールかな 渡辺厳太郎
宵闇や泉下のに吾子かぐはしき 渡邉照香
わが咎を石打つところ大花野 渡辺のり子

雪の賦 北村美都子

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆特別作品30句
 第21回現代俳句協会年度作品賞佳作

雪の賦 北村美都子

直線のひしめきてビル群に雪
雪暗や河口に途絶え街の音
姿見の奥のあおあお雪が来る
雪の夜の薬包ふたつひとりずつ
子規の句の雪の深さとなりにけり
降る雪の降るままにここ母のくに
雪襖みつめくれしを炉火と呼ぶ
子狐のおはなし小米雪ささささ
雪無限母の部屋より数え唄
樅の木の雪の降る日は雪の木に
深慮ここに雪を被きし樅一樹
生月はまた永逝のとき六花
葬の門雪踏みひらき踏みかため
回廊に佇むは誰 霏々と雪
奥の間に黙の坐せる雪の真夜
うつばりや累代のこえ雪の声
縄文の雪とよもせる火焔土器
雪しまく土偶のまなこ瞠らせて
地吹雪の止むや一村あたらしく
切り岸の地層ありあり雪霽るる
雪折に止まりて鴉落ちつかず
山ふたつ抜けるトンネル雪の花
雪晴の平野を描き鳶の輪
歎声のいまし雪嶺夕映えて
芳書一通病中見舞雪月夜
雪後の天より点滴の滴・滴・滴
読みさしの詩集一篇風花す
病み抜きし頰剃られおり牡丹雪
春雪や諸手を合わせ洗う箸
ゆきやまに稜線われに心電図

(現代俳句協会『現代俳句』二〇二〇年十月号より転載)

手の影 三枝みずほ

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆第2回海原金子兜太賞受賞第一作〔3回連作・その1〕

手の影 三枝みずほ

青空の深さ声帯が震える
縄跳びや冬の虹立ち上がるまで
人体の散らばらぬよう焚火へ手
硝子戸に星の息づく漱石忌
指紋まで差し出す冬のタッチパネル
液晶に照らされる街冬の雨
呼吸器もろとも寒風が真正面
寒鴉群がる空よ詩が長い
身体の軸となる黒きセーター
手の影はやがてさみしいおおかみへ

『海原』No.25(2021/1/1発行)

『海原』No.25(2021/1/1発行)

◆No.25 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

まんじゅしゃげ心の隅に原野あり 阿木よう子
夏蝶の昏さよ古き手紙のよう 伊藤淳子
タクト振り止まず白鳥鳴き止まず 植田郁一
鹿の目に山の空気の吸われたり 大髙洋子
本日は単身赴任のバッタかな 奥野ちあき
愁思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
反論は十数えてから涼新た 奥山富江
風はおる君にぞっこん花芒 加藤昭子
雁渡し私のどこかが鳴りました 河原珠美
生き恥をどすんと曝す榠樝の実 北上正枝
水底から水面仰ぎて原爆忌 楠井収
鉄臭き校庭の水原爆忌 黒済泰子
晴れた日の鯨の余暇の過ごし方 小松敦
鹿の眼やゆるく窪んだ空ひとつ 三枝みずほ
雑念も時に祈りか曼珠沙華 佐藤詠子
蜘蛛の巣の向うにドローン天高し 篠田悦子
ハンガーに我かけておく鵙日和 白石司子
返信を待つ間のゆらぎ鳥渡る 田口満代子
頬杖の置きどころなしこの秋思 竹田昭江
美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
地下水が噴き出す蛇口中村忌 鳥井國臣
石棺に少年の骨つづれさせ 鳥山由貴子
タクト振りはじむ月下の枯蟷螂 野﨑憲子
じいちゃんの案山子に錆びた鉄兜 平田恒子
ちちろ鳴く女いつでも刺客です 松井麻容子
検温から始まる順路紅葉寺 三浦静佳
マスクはずす朝の緑道をセキレイと 三世川浩司
置き手紙に「遠くへ」とだけすすきの穂 宮崎斗士
見回してわたしもいない芒原 望月士郎
彼岸花囲むソーラーパネルの田 森武晴美

高木一惠●抄出

何から省こう麻畑暮れてゆく 伊藤淳子
生国へ訃を届けんと鳥帰る 植田郁一
配膳を下げる女を見て慰む 宇田蓋男
捕虫網補修している自由かな 小野裕三
欠伸からうまれたお前しじみ蝶 桂凜火
曼珠沙華愛しき女優自死選び 川崎千鶴子
葡萄房とりどり歌仙一と巻きの 北村美都子
なめくじり夢で生業けっとばす 黍野恵
青蛙家族みたいに棲みついて 木村和彦
海ほおずき母にも好きな子のありて 黒岡洋子
素ぴん勝負コスモスの道の駅 小泉敬紀
秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
豊作だってぎゅっと雑巾絞る姉 佐々木宏
独り身の息子に仔猫良夜かな 志田すずめ
少女趣味という趣味捨てず蛍草 芹沢愛子
ハイリゲンシュタット朝露踏まぬやう 田中亜美
星祭り疎水の水の確かさよ 田中雅秀
曼珠沙華死ぬ時も弱音吐くだろう 峠谷清広
水面飢え馬のすべてを映す秋 遠山郁好
電線の隙間に痺れ白き月 中内亮玄
コロナ禍の裂け目に嵌まる泥鰌かな 並木邑人
じいちゃんの案山子に錆びた鉄兜 平田恒子
月への坂道徘徊の友上りしか 船越みよ
美しきもの見つけよと父秋の雲 前田典子
葛の花の遠さが好きだ透きとおる 松本千花
鷹柱もっと遠くを見ておかな 松本勇二
台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
つくつくし流砂のなかの白い石 茂里美絵
俳諧に自由しからずば枝豆 柳生正名
引き際は野葡萄のごと野にはにかむ 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

まんじゅしゃげ心の隅に原野あり 阿木よう子
 人間の心の世界は、多層構造をなしている。もちろん年齢や経験の深さ、生い立ち、個性によってもさまざまだが、この場合の「心の隅」とは、その人のよって立つ心の原風景のようなものではないか。「まんじゅしゃげ」は、その原風景に咲く花に違いない。兜太師の〈曼珠沙華どれも腹出し秩父の子〉のような原風景ともいえる。おそらく作者の心の基層にある「原野」なのだ。

タクト振り止まず白鳥鳴き止まず 植田郁一
 「宮川としを逝く」の前書がある。宮川は、海程創業期以来の同人で、古賀政男賞を受賞したプロの作曲家。今年の六月、食道がんで亡くなった。享年八十六。亡くなる直前まで、仕事をし続けたという。出身が旧日本領の樺太だったから、今は帰らぬ故郷である。掲句の「白鳥」は、その故郷に棲息していた白鳥をイメージしているのだろう。亡き人のタクトはいつまでも「振り止まず」、白鳥はいつまでも「鳴き止まず」。そこに追悼の想いが内籠もる。植田の今月の五句はすべて宮川への追悼句で占められている。その中の〈夢の望郷岸を離れる流氷に〉は、宮川生前の句集『離氷』にちなんだものである。

本日は単身赴任のバッタかな 奥野ちあき
 作者は北海道江別市の人。江別は札幌のベッドタウンだから、札幌勤務の会社員が多く住んでいる。その中には本州から来た単身赴任者も多い。彼等を「バッタ」に喩えているのは、多分に皮肉を込めた見方であろう。同時発表の句に、〈秋晴れの大群となるわたし達〉がある。ここにも大量の食害をなすバッタの大群を、無為徒食する「わたしたち」と予想している。「本日は」には、バッタに変身したおのれの、諧謔味豊かな挨拶ぶりが見られよう。作者は才気煥発の四十代。

雁渡し私のどこかが鳴りました 河原珠美
 「雁渡し」は、秋も深まり雁が北方から渡ってくる頃、野面を吹き渡る北風をいう。「私のどこかが鳴りました」とは、その「雁渡し」の風音に響き合うように、自分のからだのどこかが音をたてたというのだ。その音は、意識的に自分がたてた音ではなく、無意識のうちにからだのどこからか立ち上がってきた音のようだ。季節の移ろいとともに、からだが何かに反応してたてた物音のようでもあった。

ハンガーに我かけておく鵙日和 白石司子
 この句の第一感としては、いつも出かけるとき着ている洋服がハンガーにかけられている景が浮かぶ。いつの間にやらハンガーにかかっている服は、自分自身の影のようにも見えて来る。ああそれならこの際、いつも建前で生きている自分はハンガーにかけておき、本当の自分自身はハンガーから抜け出して、大いに羽を伸ばそうか、外は鵙の鳴くよきお日和だから。

美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
 「美しき樹形のような」「言葉」とは、大らかでのびやかな、はりのある言葉なのだろう。それにしても美しい樹形のようなという形容句の見事さはどうだろう。この直喩によって、読者のさまざまな過去の記憶のなかから、自分を貫いていった樹形のベストワンを取り出し、相手から聞いた見事な言葉に重ねて捉え返すのである。さらにこのような言葉を吐く「」とは、連れ合いかごく親しい友人のような気のおけない間柄。だからこそ、思いがけないほどの言葉の衝撃を受けたともいえよう。

置き手紙に「遠くへ」とだけすすきの穂 宮崎斗士
見回してわたしもいない芒原 望月士郎
 芒原二題。「遠くへ」とだけ書かれた置き手紙は、感情にまかせて衝動的に家出したからかもしれない。とはいえ「遠くへ」には、家のしがらみから遠く離れた世界へ逃れたいという離郷のこころや漂泊への想いがこもっていよう。それは決してあこがれ出づるものではなく、ひたすら彷徨う思いのなかにある。「すすきの穂」は、そんな心情を受ける季語としてピタリと決まっている。
 さて、芒原へ来てみたが、そこには誰もいない。誰もいないばかりか、「わたしもいない」。となれば「見回して」いる「わたし」は誰なのか。「わたしがわたしである」ところの自己同一性には、もともと不安定な要素があった。「わたし」は、「本当のわたし」を求めるという「自分探し」の在りようを模索しているのだろう。その答えはまだ出ていない。

愁思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
頬杖の置きどころなしこの秋思 竹田昭江
 愁思二態。「海月の足を掴むよう」とは、掴みどころのない漠然とした哀しみ、故知らぬ悲しみのような得体の知れぬものの在りどころを求めている「愁思」。対する「秋思」の方は、「頬杖」に支えられつつも、その「頬杖」の「置きどころ」がないという。中野信子の新著『ペルソナ』の表紙に、崩れた頬杖に顔を乗せている著者自身の写真があり、本の帯には「心の闇を愛でよ」とある。ふと掲句に通底するものを感じた。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

何から省こう麻畑暮れてゆく 伊藤淳子
 通気性の良い簡素な麻衣は、古来、綿よりも庶民に重宝されてきたが、化学繊維の登場で栽培農家も減少一途。そんな麻の畑が作者の視野に暮れてゆく。新型コロナ禍の逼塞感の中で、私なども妙に終活を意識したりするが、兜太先生の愛弟子の「省こう」の措辞が深い。万葉集に〈庭に立つ麻手刈り干し布さらす東女を忘れたまふな〉と、都へ帰る恋人に贈った常陸娘子の別れの歌がある。二人の逢瀬はきっと、丈高い麻畑の日暮れだった。

生国へ訃を届けんと鳥帰る 植田郁一
 初鴨が水飛沫を響かせて妻問いに励んでいる。春には家族を増やして帰るのだけれど、ヒマラヤを越えてゆくアネハヅルの渡りの壮絶さを論外としても、親子無事に生国の地を踏むのは大変だ。人間界も葬祭の為の帰郷が多い。それも叶わず、空ゆく鳥に訃報を届けてと願う。

葡萄房とりどり歌仙一と巻きの 北村美都子
 三十六歌仙に擬えて、発句から挙句まで長短三十六句を並べた連句の歌仙形式は、芭蕉が整えて『猿蓑』に新風を結実させた。俳諧宇宙の趣向を凝らした一巻、葡萄なら評判のマスカットか。私は種のある甲斐路が好き。

引き際は野葡萄のごと野にはにかむ 若森京子
 野葡萄は食べられないが、初秋に白や紫、碧色の小さな実をつけて愛らしい。「野にはにかむ」とは、なんという瑞々しさ。こんな引き際に憧れる。

水面飢え馬のすべてを映す秋 遠山郁好
 連句の師眞鍋呉夫の〈草束子ほどけ流るる月夜かな〉は「牛馬冷す」晩夏の景だが、秋水を詩心鋭く描きとった佳句を前に、馬の「すべて」に拘った。なまじ馬への思い入れが強くて、果たして「すべて」を映すことができるのかしらと立ち止まってしまった。作者の感得したものを真っ直ぐに受けとめられぬ曖昧気質、要注意。

つくつくし流砂のなかの白い石 茂里美絵
 昔愛読した山川惣治の『少年ケニア』に、流砂が恐竜の世界へと導く話が出て、怖ろしくも不思議な流砂の存在に惹かれた。法師蟬の声が呼び込んだ流砂は生々流転の輪廻の流れ。白い石は個なる存在と思われる。季語も流砂も儚い取り合わせだが、白い石は案外堅固だ。

ハイリゲンシュタット朝露踏まぬやう 田中亜美
 大事な耳の疾患と失恋に自死を思いつめて弟に宛てた「ハイリゲンシュタットの遺書」に、ベートーヴェンは「人との社交の愉しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく感激しやすい性質をもって生まれついている」と自身の性情を記している。絶望の果てに、交響曲「田園」がウィーン郊外にある此処で作られた。ハイリゲンシュタット…地名が醸す情趣を想うが、俳句にこれを入れると残りは僅か。独文専攻の作者は実際に楽聖の散策路を辿って「朝露踏まぬやう」を得たのであろう。この地に寄り添う作者の有り様も揺るぎなく伝わる。

俳諧に自由しからずば枝豆 柳生正名
コロナ禍の裂け目に嵌まる泥鰌かな 並木邑人
 漢文調の「しからずば」が、米国独立戦争開始時に発せられたパトリック・ヘンリーの「われに自由を与えよ、しからずんば死を」を想起させる柳生作品は、「自由無き俳諧なら捨てて、枝豆でも食しておれ」というのか、自由無しでも「枝豆があれば結構」なのか聊か迷うが、何れにしても俳諧への強い想いを俳諧を以て表した感。その枝豆が定番の庶民の居酒屋が疫禍に遠ざけられて、並木作品の泥鰌にも、客足途絶えて大地震の裂け目のような現場でもがく人々の姿が重なる。今は養殖が頑張る泥鰌鍋だが、冬耕の鍬にかかった泥鰌を篠笹に刺して、畦で待つ私に渡してくれた父の笑顔を忘れない。

捕虫網補修している自由かな 小野裕三
 捕虫網を繕っていて、ふと、「捕虫」という、自由を縛する行為に加担するわが身に気付いて、「自由」に詠嘆が籠る。所詮は人間の天下。そのことを承知しつつ、自由への真心を抱えた「自由かな」であろう。

秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
 蒼く張りつめた空には筋肉があり、上下左右かるがると舞い始めた蝶はまるで空に操られるかのようだ。秋蝶は約束のように来て、空の誘いに身を任せる。太陽に迫る天体望遠鏡の映像に、支配者の素顔を覗き見したような、逃げ出したい気持ちになる私も、実は秋の人だ。

台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
 台風一過、決まって爽やかな秋天に恵まれたのに、この頃は温暖化のせいか、かの「天晴れ」感が薄くなった。諸処の被害、友人知人の安否も気にかかり報道に釘付けの数日を経て、どうやら大丈夫そうと空を見上げたら、雲がひとひら浮かんでいた。多くの句会を束ねる作者はとりわけ台風の行方に気を揉んだであろう。群雲でなく雲はひとつ。明るく光っていたはずだ。

◆金子兜太 私の一句

豹が好きな子霧中の白い船具 兜太

 作品は、金子家の一人息子の眞土少年を中心に、家族三人で神戸港の埠頭を散策している和やかな雰囲気の情景が描かれている。この作品を読んで図らずも、三十年前に仕事の関係で神戸市郊外のホテルに宿泊し、翌朝ホテルの窓から広ーい港湾内に多くの船が停泊している光景に感動し、時間を忘れて眺めていたことが懐かしく思い出された。『金子兜太句集』(昭和36年)より。刈田光児

春の河原に人間もくと原始なり 兜太

 先生はサインの折りに句を書かれることもあり、「君にはこれだよ、決めてあるんだ」と〈果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島〉の御句を。また私の海程賞受賞の際の色紙には〈海とどまりわれら流れてゆきしかな〉の御句を。そして「やっと宿題を済ませた気分だよ」と。懐かしい御言葉のかずかず。掲句は、その受賞特集号の、東国抄の中から。「もく」とルビを振る先生のお背中が、私には見えてくる。句集『東国抄』(平成13年)より。村上友子

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎選
麦秋や長女は木綿の匂いして 加藤昭子
夏布団まざまざとある手足首 こしのゆみこ
○白靴より砂の零るる独語かな 小西瞬夏
僕という嘘がはじまる白雨かな 佐孝石画
緑夜かな身体がこころの荷物となり 芹沢愛子
くらやみの太古の民ら椎匂う 田口満代子
水平のさびしさのあり花うばら 竹田昭江
六月の部屋のまま若者逝けり たけなか華那
○遠いものばかりを夏至の耳拾う 月野ぽぽな
○独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
夏煮えて酸っぱい雨の降るバス停 中内亮玄
みんないて青野に翼つけてもらう ナカムラ薫
孫で子で父で祖父であり花火 藤野武
かりがねや開けつ放しといふ平和 前田典子
蚤の市海夕焼の叩き売り 三浦静佳
夏蝶の来て電柱の傾けり 水野真由美
角ひかる葛切ふうっと未明のにおい 三世川浩司
○螢呼ぶ母はいつしか水になり 武藤鉦二
○悲しんだ身体の残る昼寝覚 村本なずな
青岬母の声して耳のかけら 望月士郎

加藤昭子選
物音に影あり風の凌霄花 伊藤淳子
心音の直下に春の谷のあり 内野修
解き放つ揚羽窓より海が見ゆ 大西健司
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
ハンカチが白いもう空をわすれそう 三枝みずほ
てのひらって案外重いんです緑雨 佐孝石画
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
逃水を小舟のように亡父ちちが行く 清水茉紀
戦ぐ夜の胸底に鳴くこおろぎよ 関田誓炎
雨の鹿目に万緑の詩が写る 十河宣洋
○ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
○遠いものばかりを夏至の耳拾う 月野ぽぽな
○家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
父の日やルビを振るごと家事習ふ 中神祐正
原爆忌造花のやうな式辞かな 前田典子
八月という永遠の立ちくらみ 三好つや子
○螢呼ぶ母はいつしか水になり 武藤鉦二
すべりひゆ膝の関節錆びている 室田洋子
滑莧まなざしはときに絡むよ 茂里美絵
定位置に風なる夫の来て涼し 森由美子

董振華選
栗の花胸に微熱があるような 大西宣子
十月の並木蠢く物落ちて 荻谷修
蟻の列その先の石その下の穴 小野千秋
○白靴より砂の零るる独語かな 小西瞬夏
老いてなお細身に丈る立葵 小松よしはる
遠雷やブルーシートの家に座す 清水茉紀
スケボーの虹の高さへ翻る 鱸久子
東京のあいまいな空かたつむり 芹沢愛子
○ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
響きあう東塔西塔春夕焼 樽谷寬子
○家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
破片焚く唇は八月の赤 ナカムラ薫
逃散をひとまず怺え断髪す 並木邑人
鷺一羽青田に降りる涼しさよ 畑中イツ子
髪洗う渚は群れ鳥のひかり 船越みよ
酒蔵の酵母ぷくぷく夏至る 増田暁子
短夜や宵っ張りの癖老いてなお 松本節子
蕗の糸たどりてやがて母の膝 深山未遊
くちなしの夜半よは壮年のぬかに雨 山本掌
青年のあをき旋毛や雲の峰 吉田朝子

室田洋子選
糸偏や夕焼けは青春の傷跡 阿久沢長道
皇帝ダリア旅を予定しているよ 伊藤淳子
異国訛りの英語で売られハンカチーフ 小野裕三
大津絵の地獄ぞんざい西瓜切る 片岡秀樹
捥ぎたての走り出しそう茄子の馬 鎌田喜代子
どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
夏ぐみ食ぶ夕べの二人貧しきや 小池弘子
小さき耳見せてはならぬところてん こしのゆみこ
紫陽花や手に群青の診察券 佐々木義雄
青簾はじめて夫の髪を切る 高木一惠
夏の霧櫂を放したのはわたし 竹田昭江
○独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
ふいに逝き眩しさ残す麦藁帽 永田タヱ子
夏蝶や何があったのその落胆 西美惠子
踊子草ドガの絵の隅にいる男 松岡良子
かなぶんの不意のブローチ外れない 松田英子
昼寝覚しきりにオランダ通詞など 三世川浩司
○悲しんだ身体の残る昼寝覚 村本なずな
ねぎ坊主岡本太郎かの子の子 森由美子
若返ることはなけれど更衣 梁瀬道子

◆三句鑑賞

六月の部屋のまま若者逝けり たけなか華那
 現代の都会の片隅を切り取った一句。若者がどのような背景で逝ったのかは句からは不明だが、「六月の部屋のまま」とあるから突然に逝ったのであろう。しかも、都会で独りひっそり暮らしていて「六月の部屋」を遺言のようにして逝った。そこにはまだ若者の呼吸の痕がある。「六月の部屋」は現代の若者の孤独極まる景だ。

独語満ちゆく自室水のないプール 鳥山由貴子
 こころ塞ぐときや悔いの鎖に束縛されるとき、溜息にまじり独語が溢れ来る。そして時間とともに独語はこころに沈殿する。金魚鉢の金魚が浮いてパクパクするように作者はだんだんと泥濘にはまる。空気の澱んだ部屋は水のないプールのようだ。ただ風と落葉だけが舞うプール。そう、プールは作者のこころの内なのだ。

夏煮えて酸っぱい雨の降るバス停 中内亮玄
 いきなり「夏煮えて」と来る。この措辞が詠む者の心に突き刺さる。日本特有の重い湿気を帯びた暑さ。そして「酸っぱい雨」と続けば、余りの蒸し暑さに心も身体も折れそうなほどの不快感を表出する。時折混みあったバスの車内で半乾きの噎せるような匂いに悩まされるこ
とがある。作者の鼓動は乱れ酸っぱさを増してくる。
(鑑賞・伊藤道郎)

心音の直下に春の谷のあり 内野修
 一読、吊橋の真ん中に立っている作者が見えた。一歩ずつ足元を確かめながら渡る。心臓がバクバクしている。眼下には春になり、緑濃い草木がたっぷり。吊橋の揺れと心音の緊張感が作者を楽しませ、谷の深さや緑の美しさが旅の思い出になったことだろう。

父の日やルビを振るごと家事習ふ中神祐正
 本来なら「父の日」は家族から崇められる最大のイベントだと思うが、掲句は家事を習うと言う。テレビCMのように退職後の夫が料理を習う情景が浮かぶ。奥さんから一つ一つ教わることも円満の秘訣と思うし、ルビを振ると言う措辞にほのぼのとした様子が伝わって来る。

すべりひゆ膝の関節錆びている 室田洋子
 加齢と共に足、腰は悲鳴を上げる。サプリメントに頼る日常だが、すぐに効きめがあるとは確信出来ない。草むしりしていると立ち上がりや移動の際、膝の痛さを覚えるのだろう。膝の違和感を錆びたと捉えたところに納得。滑莧の茎や葉は多肉で潰すと粘りがあり、錆との対比が面白い。
(鑑賞・加藤昭子)

ジャガ芋の花の白さの流浪かな 田口満代子
 ジャガイモの原産地は南米で、のちに欧州へ伝えられた。最初は観賞用植物とされたが、やがて食物として庶民に広めた。江戸時代に日本に渡来し、栽培されるようになった。花は薄紫やピンク、白などあり、清楚でとても綺麗だ。作者はジャガイモの白い花を人に見立て、まさに住む場所を定めず、各地を彷徨い歩いていると詠嘆。

家ごとに雨の音です青くるみ 遠山郁好
 作者は「胡桃」をわざわざ「くるみ」としている。なぜ仮名に拘ったのか、恐らく漢字で表現すると、青の感触を損なわれること。雨の音が偏りなく、世の全ての家に行き渡っている。勿論、宙から俯瞰するのではなく、窓から見える景から連想している。口語の「です」の表現も「くるみ」と響きあい、句の柔らかさを感じさせる。

くちなしの夜半よは壮年のぬかに雨 山本掌
 梅雨の時、しとしと降る雨に気分が沈みがちだが、突然どこからともなく清涼剤のようないい香りが漂ってきて、思わずその香りの元を探してしまう。静まり返る夜半の梔子の香気がより澄み切っている。それと額を打つ雨が相まって、梔子の花言葉のように「とても幸せ」な気分になる。「壮年」のとろり感とのバランスが佳し。
(鑑賞・董振華)

どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
 放課後、校舎の裏の片隅で好きな彼に告白したのだろうか。そして彼の返事は残念ながら…うつむいて立ちすくす私。ふと目が合ったのはどくだみの真っ白な花。鮮やかな白花は大きな瞳のようだ。ああ見られてしまったとその場を走り去った。青春のほろ苦い思い出。「跨げば思い出す」に何とも言えない可笑しみと切なさ。

夏の霧櫂を放したのはわたし 竹田昭江
 遠い夏の日すべてを隠してしまう霧の中、櫂を流されてしまった。でも本当はわたしが手を放したのよ、ふふふ。そんな声が聴こえる。フランス映画のような倦怠感とナルシズムを感じさせる大人の句。芹沢愛子さんの〈あなたが櫂を失くしたという芒原〉この句と相聞のようでもあり、どちらもとても素敵。

若返ることはなけれど更衣 梁瀬道子
 更衣は四季のある日本の大切な行事だ。同じ温度でも春の服と秋の服は違う。取り掛かるまで面倒なのだが結構楽しい。でも昨年まで似合っていた服がどうもしっくりこないことがある。年をとったのだ。きれいなお姉さんだっておばさんになる。「若返ることはなけれど」に深く実感。ちょっと悲しく笑ってしまう。この俳味が好き。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

無月なり伝わらないから手に触れる 有栖川蘭子
父の肺より十六夜の水を吸う 飯塚真弓
東京の孤独とか言いたくない月 大池桜子
秋思断つべくズブロッカのお湯割り 大渕久幸
遡上する鮭ボクサーの面構え かさいともこ
彼岸花黄泉平坂よく照らせ 梶原敏子
水銀のように団扇の光る面 葛城広光
良夜かな背中に文字を書く遊び 木村リュウジ
焼き茄子のお尻モウロクしています 後藤雅文
吾の地図の山の辺りの銀河かな 近藤真由美
春めくは佳人の涙と思うかな 齊藤建春
梳く髪の先までいのち蔦もみじ 坂本勝子
硝子切引いて抜き取る秋景色 佐竹佐介
ざわつく枯葉スカラ座前に吹き溜まる 鈴木千鶴子
孤高といふ厄介なもの寒椿 宙のふう
横這ひに愚図つてゐたる秋の雷 ダークシー美紀
あたりまえを無くした年を去年と言おう 立川真理
七十億の世界は一つマスクして 立川瑠璃
ストレス禿鏡の奥の初雪 谷川かつゑ
金木犀なんのかんのと友老いて 半沢一枝
割印に紙の段差や神の留守 福田博之
後悔の口の苦さよ酸漿よ 藤井久代
コロナは風邪だ。風だ、街吹っ飛んだ 藤川宏樹
この宙から言葉の宙へ夜長人 藤好良
秋刀魚焼く無頼の過去をけむにして 武藤幹
北斎とボサノヴァを聴く夜長かな 山本まさゆき
ジャズ調のダニーボーイや秋夕焼 山本美惠子
オレオレと昔の仲間稲光 横林一石
天道蟲帽子に乘つて海わたる 吉田貢(吉は土に口)
地球いま挽歌漂ふ風の色 渡邉照香

『海原』No.24(2020/12/1発行)

『海原』No.24(2020/12/1発行)

◆No.24 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

山彦を吸い込んでいる父の声 奥山津々子
人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
黒揚羽刻を透かし彫るように 金子斐子
丸髷の背中侘し気獺祭忌 上脇すみ子
足裏が目覚めずにいる水の秋 北上正枝
明易し老老介護の息遣い 楠井収
糸とんぼ君との今日の空気感 黒済泰子
聞き耳をたてたるごとく萩さくよ こしのゆみこ
熱帯夜アンモナイトの時間帯 小松敦
さよならの言葉の楕円梅雨の駅 佐々木義雄
這う母とカサブランカを見ておりぬ 清水茉紀
巣籠りのからす団扇のありどころ 鈴木孝信
蝦夷えみしらの土葬の丘や桐の花 鱸久子
マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
今日生きる作法の一つ草を引く 髙井元一
黙祷もせず消毒する8月の教室 たけなか華那
遠き日の夢の瘡蓋破れ蓮 寺町志津子
不要不急の沼のあたりが秋ですよ 遠山郁好
ボクたちの不自然な距離青柿落つ 鳥山由貴子
書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
友引におろす半襟萩の風 丹羽美智子
豪雨禍三日蟹より赤きものを見ず 野田信章
牛蛙のトロンボーンソロ昭和の森 長谷川順子
軽き齟齬秋の肌感覚崩れ 藤原美恵子
ことばあり風蘭ほどの考え事 北條貢司
秋うらら蛇の目になるコンタクト 三好つや子
合歓の花地層はつねに藍色で 村上友子
無花果熟れ乳房満ちくる心地して 森鈴
合歓の花坊さん裏木戸開けてくる 山谷草庵
あの世とは水平感覚つくつくし 若森京子

石川青狼●抄出

日雷舞妓になったというメール 石川義倫
一隻が海のファスナー開くかな 市原正直
闇になおおもて隠して踊りの輪 伊藤巌
白さるすべり氏神に見す肢体かな 稲葉千尋
脳天にシャワー一匹の鮭のつもり 井上俊子
大器晩成と煽てられしが灸花 宇川啓子
木の葉降る身はよろけたり糺すまい 宇田蓋男
トンボのように尻尾を立てて留まりたい 大久保正義
COVID-19白旗に見える夏 大沢輝一
岬へと当てずっぽうの径灼ける 小野裕三
仏壇に重み一房黒葡萄 川崎益太郎
戦争の事を喋って嫌われて 河西志帆
滝しぶき嗚呼ときれいになる眼 北村美都子
旅人として故郷の清水手で掬う 木村和彦
秋茜耐えるおとこは夫である 小池弘子
胸像の胸襟開く残暑かな 齊藤しじみ
蝦夷梅雨や紙ナプキンで鼻をかむ 笹岡素子
親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
秋よ天衣無縫の子をうみたくなる 白井重之
風の音朝に残し蝉の羽化 白石司子
雲流るるか夏果ての樹々くか 鈴木修一
蛇老いてつひに叶はぬ更衣 高木一惠
みづうみは放電をして睡蓮 田中亜美
夏鳥の真言を聴くステイホーム 並木邑人
雷青々と天地激越に抱擁す 藤野武
撓る蛾のまっ白という狂気 前田恵
摘んだマンゴー一個で満腹満潮見る マブソン青眼
ピーマン鈴生りふるさとに帰れない 三浦静佳
蝉時雨止んで石段現れる 横地かをる
七十五年目われ潮枯れの背泳ぎす 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

人想う一本 いつしか草の花束 柏原喜久恵
 一見相聞句のようだが、熊本の水禍を思えば追悼句とみても差し支えあるまい。亡き人を偲びつつ、草の花を摘み花束を作っている。「人想う一本」とは、この一本はあの人のために、この一本はこの人のためにと、一本一本に想いをこめつつ花束を作る。それが「いつしか草の花束」になっていた。花束は幾人かの人達への思いを束ねて、その一人ひとりへの思いの彩りをそのまま映し出している。やがて小さなかなしみの華やぎとなって、流れに投じられるのだろう。一拍の字明けが情感を湛える。

黒揚羽刻を透かし彫るように 金子斐子
 夏の日を黒い翅に受けて舞い出る黒揚羽は、強い陽射しの中を透かし彫るように、夏の空間に舞い出る。その時、黒い羽は鋭利な刃物のように空間を切ってゆくと見たのだ。おそらく厳密にいえば、彫る感じより切り出す感じの方が強いのではないかと思うが、「透かし彫る」としたことで、切り出すニュアンスが加わったのではないか。このあたりの作者の言語感覚は見事なものというほかはない。あたかも扇をひらひらと投げかけるような優雅さが、そこに加わったと見てもよい。

糸とんぼ君との今日の空気感 黒済泰子
 糸とんぼは、体が細く青みを帯びた色あいで、翅に透明感がある。なんとなくはかない清潔感があって、その存在自体が、空間を浄化してゆくような気配を漂わせる。久しぶりに会った恋人同士。どこかまだ幼さの残る年頃だろうか。幼馴染の中高年同士ともとれる。爽やかな気分で出会い、とりとめのない会話を交し合った後、またの日を約束して清くわかれるのだろう。それが「今日の空気感」だった。あるいは、これから始まる今日の空気感かもしれない。糸とんぼは、その清めの合図のようでもある。

マスクしてみんな匿名きつねのかみそり 芹沢愛子
 コロナ禍発生以来、街中マスク一色となった。マスクによって人々は皆覆面化したのだ。覆面によって表情を消し、匿名化したともいえる。なにやらおぞましい無表情の街。きつねのかみそりは彼岸花と同じ秋の花。六弁のオレンジ色の花で、花の実体感もさることながら語感からくる怪しげな感じが、マスクの奥にひそむ得体の知れない匿名感に響く。

黙祷もせず消毒する8月の教室 たけなか華那
 8月の教室とはどういう教室かわからないが、社会人向けの夏の臨時講座かも知れない。「8」とアラビア数字を使っているところから、講座の臨時性を感じさせる。「黙祷」とは風水害の犠牲者の出た地域での通過儀礼かもしれない。それがコロナ禍発生以後、黙祷の前に先ず「消毒」することから始まった。こういう非日常の新たな生活習慣に着目して、ニューノーマルといわれる事態をリアルに見据えた一句となったのだ。

ボクたちの不自然な距離青柿落つ 鳥山由貴子
 「ボクたち」とは、どういうボクたちなのだろう。「不自然な距離」との相対感からすれば、お互いに意識しあうギゴチナサのようなものを感じる。加えて「青柿落つ」とは、熟さないまま落ちて行く果実だから、そこに「ボクたち」の青春性が浮かび上がってくる。一方で現在のコロナ禍から強いられた「不自然な距離」とも見られなくはない。あるいはその双方を含む距離感なのかもしれない。それがソーシャルディスタンスと呼ばれる距離感なのだろう。

書くという感情夜のかたつむり ナカムラ薫
 深夜一人原稿に向かうとき、書くという感情だけが先立ちながら、一向に稿が進まないことはよくある。「夜のかたつむり」がその辺りの情況を照らし出している。遅々として進まぬ原稿にたいして、書こう、書かねばという感情だけが先走ってゆく。それは銀色の筋を引きながら進むかたつむりのような稿の動きともみられよう。

友引におろす半襟萩の風 丹羽美智子
 暦の六曜の一つ友引は、友を引くとして葬儀にはふさわしくないが引越しや結婚式には良い日柄とされている。半襟とは、和服の襦袢に縫い付ける襟のこと。さすがに年配者らしい教養で、友引の日に新しい半襟をおろして着付ける。なにがなし人を待つともなく待つ風情で庭に出ていると、折りしも萩の花咲く時期で萩の匂いを風が運んでくる。友引の日なればこそおろした半襟に、吹き寄せるかのような萩の風。静かな老いの時間が流れる。
牛蛙のトロンボーンソロ昭和の森 長谷川順子
 「昭和の森」とは、具体的に昭和公園の森をイメージしてもよいが、おそらくは「昭和時代の森」を重ねているのではなかろうか。疾風怒濤の昭和時代の音を、重低音の牛蛙の鳴き声のトロンボーンソロのように聞いている。もちろん昭和の歴史は、戦争と無残な敗北に終わる二十年までと、戦後の復興から高度成長へ向かうそれ以後とでは曲調が一変するわけだが、これもジャズのようなトロンボーンソロの変調演奏とみれば、納得がいく。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

日雷舞妓になったというメール 石川義倫
雷青々と天地激越に抱擁す 藤野武
 石川句。日雷は降雨を伴わない雷で旱の前兆ともいわれる。平穏な日常の生活圏へ、突然メールが届く。その内容は衝撃的な「舞妓になりました」とのこと。白昼夢のような予期しない伝言に、雷が脳天に落ちたような衝撃であったのだ。「舞妓さん」との接点がない私には、舞妓になるための条件も一人前になるための修行の何たるかも想像はつかないがドラマチックな一句。
 藤野句。突然の雷。天と地が揺らぐような青々とした雷光と雷鳴とともに激しい雨が降り出した。「激越」の一語は作者の押さえきれない感情の高ぶりでもある。その高ぶりを包み込む人知を超えた自然の力を感じたのか。
〈生を区切られし義兄あにに浜ゆり燃えやまぬ〉の義兄への思いを切々と詠んだ五句の一句であるが屹立している。

COVID-19白旗に見える夏 大沢輝一
夏鳥の真言を聴くステイホーム 並木邑人
 大沢句。新型コロナウイルス感染症の正式名称が今年の2月に「COVID-19(コヴィッドナインティーン)」に決定した。その時期からこの夏まで感染が終息しない。人類がこのウイルスに白旗を挙げているように見えるのだ。だが、白旗を挙げても終息とはならない。
 並木句。耳を澄ませば夏鳥の鳴き声。夏鳥は春から初夏に南方から渡ってきて繁殖し、秋に南方へ去る鳥だ。ツバメは春の彼岸ごろに来て子を育て、秋の彼岸ごろに帰る。カッコウやホトトギス、とくにヨシキリなどはその鳴き声が「ギョギョシ」と鳴くので行行子とも呼ばれ俳人には馴染みがある。とにかくコロナ禍のために自粛を強いられステイホーム中。夏鳥の鳴き声が真言(マントラ)のように心地よく聞こえ、作者の心に沁みてきたのだ。差し詰め般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦ぎゃていぎゃていはらぎゃてい」のように聞こえてきたか。作者自身も唱えていたのかも知れない。いつまで「家に居ようよ」となるのであるか。

親の顔見たいだけなの芋虫飼う 篠田悦子
撓る蛾のまっ白という狂気 前田恵
 篠田句。よく悪さをする子供を見かけると、つい「親の顔が見てみたい」と口に出てしまう。掲句はそうではない。植物の葉に丸々と太った芋虫を発見。周りの人は気持ち悪いし、害虫だから駆除しようと言うのだが、作者は芋虫が将来どんな蝶に変身するのか、どんな親であったのか楽しみとばかりに「顔見たいだけなの」と期待と愛情を込めて飼っているのだ。もちろん、行儀がよく躾がしっかりしているので親御さんの顔を見てみたい子供と芋虫との取り合わせの妙もある。
 前田句。まっ白い蛾が白昼、木の周りを乱舞していたか。蛾は灯取虫、火蛾とも呼ばれるように灯火に狂ったように飛んでいるが、掲句のイメージは夜より白昼の乱舞と見たい。蝶は美しく、蛾は醜いダークな存在である。まして、まっ白な蛾はどこか毒々しく魔力を持っているような感じがする。妖艶に撓うように飛んでいるのか。それが大群をなして木の周りを乱舞している様は狂気であろう。作者の頭の中も真っ白になってしまったか。

旅人として故郷の清水手で掬う 木村和彦
ピーマン鈴生りふるさとに帰れない 三浦静佳
 木村句。故郷を飛び出してから長い歳月が過ぎてしまった作者。何度も帰ろうと思っていたが、いざという決心が鈍ってしまっていた。意を決しての帰郷であり、すでに旅人として訪ねるような心境なのであろう。子供のころ遊び場であった清水湧く場所に出かけ、懐かしく清水を掬う。たちまち幼い頃の自分に帰っていたか。
 三浦句。ピーマンの収穫量の多い産地は、温暖な気候を持つ地域で、茨城、宮崎、高知の県名が上位に上がる。作者のふるさとの家では畑で野菜を栽培して、特に夏にはピーマンが鈴生りになるのか。いつもなら帰郷して両親の元に兄弟家族が集まり楽しく食卓を囲んでいるのだが、今年はコロナ禍で「ふるさとに帰れない」のだ。

脳天にシャワー一匹の鮭のつもり 井上俊子
 作者は鮭の遡上を間近で見たのであろうか。段差のある川上へ懸命にジャンプしながら遡上する姿は涙ぐましく感銘を覚える。頭から強めのシャワーを浴びているとまるで一匹の野性の鮭になったような気分なのだ。脳天から肢体を流れるシャワーに身を委ねて、しばし歓喜の声を上げていたのかもしれない。爽快さが伝わる。

岬へと当てずっぽうの径灼ける 小野裕三
〈管理人に駄洒落の多きバンガロー〉の句などから、家族でキャンプへ出かけた時の連作であるか。キャンプ地から岬へのプチ探検。簡単な地図だけ持って子供たちと目的地の岬へと出発。とにかく当てずっぽうに歩き出す。天気が良すぎてうだるような暑さとなり、径は灼けるようだ。もっと緻密な計画をしておけばと少々後悔しながらも、解放感を存分に味わっているのだ。そしてついに岬が見えてきた。一気に軽快な足取りになる。

七十五年目われ潮枯れの背泳ぎす 若森京子
 戦後七十五目の今、「われ」に課せられたものを問う。

◆金子兜太 私の一句

雪の吾妻山あずまよ女子高校生林檎剝く 兜太

 「九四歳の荒凡夫」の収録で来福。収録終わり頃、女子高生が林檎を上手に剝き「福島自慢の林檎、放射能検査済です。安心して召し上がって下さい」と。兜太先生は一切れ、二切れと頷きながらゆっくり味わっていらっしゃった。帰り道「若い人に辛い言葉を使わせる世の中はいかんなぁ」と、風評被害で苦しむ福島を気遣って下さった。冷たい風の中、吾妻山は福島をしっかり抱いていました。句集『百年』(二〇一九年)より。宇川啓子

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太

 その人を伝うるに選句眼を以てす。たとえば、選に入りせば喜びに浸る。それに裏付けられし句業の中で句を探す。われ百パーセントの句でなく、「俳句界の傑作」に思いを馳せる。すると掲げし二句を得る。前句は誰もが興奮せど五七五の壁あり、三句体の幅を広く持ちて成らす。後句は当時の出産事情と絡ませ長寿を活かす。かような句から「存在者・金子兜太」が浮かび上がる。前句『暗緑地誌』、後句『日常』より。鈴木孝信

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤道郎 選
飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
もう鳥になれず五月の水たまり 伊藤淳子
全身で桜を家に閉じ込めるコロナ禍 奥山富江
耳朶悲鳴眼鏡補聴器夏マスク 川崎益太郎
枇杷熟るる小鳥の時間貰いけり 河原珠美
花嫁の小さき頭痛や鳥帰る 木下ようこ
青梅ぽとりクラスで透明な俺 黍野恵
○平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
とり絞めてその黄昏のがらんどう 小池弘子
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
白鷺は抜き書きめきし夕まぐれ 田口満代子
風熄めば風の少年蘆を噛む 遠山郁好
○滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
白詰草姉さんという青い空 平田薫
都市封鎖ナマハゲマスク雄叫びを 藤盛和子
また羽音アジサイを淡水源として 三世川浩司
夕顔やひとり言とは微かな旅 宮崎斗士
巣ごもりの折り紙どこかに棘少し 村上友子
あいまいに笑う少年川蜻蛉 横地かをる

加藤昭子 選
父の額へ吾額合わす花の冷え 石川青狼
夜の空気かすかに濡れて青無花果 伊藤淳子
○行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
ことごとく健脚たるや蟻の列 片町節子
死の中に夕暮れのあり冷奴 河西志帆
○緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
北国の闇の分厚し蛍烏賊 北村美都子
数頁後には純愛青葉木菟 木下ようこ
夾竹桃父の死に場所だったろうか 白井重之
セーラー服次々羽化す青水無月 すずき穂波
人の群れゆく春の鹿より無表情 芹沢愛子
世間向けの真面目な顔で蚊をつぶす 峠谷清広
読み人知らずかげろうの痒そうな 遠山郁好
まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
病む母にどくだみの花星のごと 間瀬ひろ子
田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
ダム底にゆらぐ分校にいにい蟬 武藤鉦二
○卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
○教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
研ぎ物師傍らに涼しさ置き 茂里美絵

董振華 選
芒種かな無言で豆腐ハンバーグ 伊藤歩
音消してすでに漂流橡の花 伊藤淳子
篠の子やつんつんとする三姉妹 伊藤雅彦
定住漂泊光と闇のはざま生く 上野有紀子
○行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
三密で竦んでいない蛙鳴く 大西政司
瀑布の裏は悲しきまでに透きとおる 金子斐子
○平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
沙羅咲いて母の居た日に入り浸る 竹田昭江
万緑に小さき鉤裂き夏館 田中亜美
フクロウの鳴きつぐ森の闇匂う 椿良松
○滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
青田整い鷺は片足どこに置く 丹生千賀
七月や師越へ親越へ我白寿 丹羽美智子
風紋のような守宮のきれいな瞳 三浦二三子
専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
○卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
流れ星全米デモが海超える 望月たけし
○教室や心の浮巣に一人居る 森鈴

室田洋子 選
草城子青田の中を自転車で 浅生圭佑子
春キャベツ不要不急の顔でいる 有村王志
朧です棺の父のはにかむよう 石川青狼
妻の裸つつききれいと言う五月 伊藤巌
とにかく生きて厚手の布団入れ替える 宇田蓋男
卯の花ぱっとさざなみみたいな便りだ 大髙洋子
投函のふり向き際に春の虹 柏原喜久恵
麦秋や時のほこりにまみれながら 金子斐子
○緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
逝きし夫ささぶねの揺れ大きい靴 久保智恵
訪ねれば双子出てくる柿若葉 小林花代
願いを込め隅々を拭く麦の秋 坂本久刀
ばあちゃんって私のことね広いバラ園 髙尾久子
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
桐の花上昇気流を待ちかまえ 田中雅秀
また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
囮鮎おれたちすることないもんね 松本豪
神経は薔薇のつぼみの中にある 茂里美絵
新緑のピンクのスニーカー買う 山内崇弘
さう来たか朝のトマトの断面 横山隆

◆三句鑑賞

青梅ぽとりクラスで透明な俺 黍野恵
 青春性あふれる一句。現代の少年の切なき景が映しだされる。少年期という誰もが通過する甘酸っぱい時期。「クラスで透明な俺」にはこの時期特有の孤立感が漂う。群れ合い、じゃれ合い過ごすことが多い少年期にふと襲い来る孤立感は透明な気持ちにさせる。否、透明だからこそ孤立感を産む。「青梅ぽとり」が効いている。

とり絞めてその黄昏のがらんどう 小池弘子
 昭和の背を色濃く映し出す。戦後しばらく生きることは食べることだった。鶏は一番身近にいる食べもの。僕たちは身近な生き物を食べて生きていることを肌で目で実感していた。鶏は頸を切られても走り回っていた。そして静かになった後の虚ろと何とも言えぬ後ろめたさ。「黄昏のがらんどう」が生に切り込む一句に仕上げた。

また羽音アジサイを淡水源として 三世川浩司
 薄暮の中の淡い景か。紫陽花を「アジサイ」とカタカナ表記にしたのが成功している。さて、羽音は鳥か虫か……。ゆったりとした蝶のような微かな羽音が次第に幻聴なのかも知れぬと詠むものに感じさせる羽音。そのいのちの水がアジサイという発想は詠むもののこころにさざ波を起こす。詩情豊かな一句に仕上がった。
(鑑賞・伊藤道郎)

父の額へ吾額合わす花の冷え 石川青狼
 五句共、父上への追悼句。今まで何度も人の死に会い、顔や髪の毛を撫でる行為を見て来たが、額を合わすというのは初めて。もう息子として抱きしめることも出来ないという哀しみ。父への感謝、額を通じて最後の父への孝心のような気がする。花冷えの季語が美しく哀しみを誘う。

田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
 自分も農家なので一読、親しさを覚えた句。大家族で暮らしていた頃が思い出されたのだろう。機械化が進んだ現在は、田植も稲刈りも多くの人出を必要としない。炎天にお湯の様に沸いた田の中を、這いつくばって草取りしていた親達。隣近所の結いの繋がりも薄くなった淋しさを思う。

卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
 卯の花の白さ、食器も多分白いのだろう。句またがりの中七の切れが巧み。「ひとり」「ひかり」の措辞が耳に心地良く清潔感が漂う。たっぷりと花をつけた卯の花を見ながらのランチだろうか。日射しに映える食器の美しさに、どこか淋しさを感ずるのは私だけだろうか。
(鑑賞・加藤昭子)

沙羅咲いて母の居た日に入り浸る 竹田昭江
 「沙羅の花」は釈迦入寂の「沙羅双樹」とは別の木である。白い花弁に黄色の蕊を持ち、咲いてもその日のうちに落ちてしまう一日花。また、花の形が椿に似ていることから、「夏椿」ともいう。上五の季語がよく利いている、夏椿の白い花が咲き、母がまだ健在していたあの日あの時に戻りたい、母への深い思いを感じさせる。

フクロウの鳴きつぐ森の闇匂う 椿良松
 梟は普段穏やかで大人しい気質である為、人間から非常に親しまれる一方、日本と中国では、梟は母親を食べて成長すると考えられていた為、「不幸鳥」と呼ばれる。また、夜行性である故、人目に触れる機会は少ないが、冬夜の森と言えば幽深なるイメージで、「梟が鳴き継ぐ」によって、更に森の闇を深め、静寂感を際立たせる。

卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
 日本の古歌には光のようとも雪のようとも詠われる「卯の花」。旧暦の四月(卯月)頃に咲くことから、この名があり、夏の到来を感じさせる代表的な花である。季語と「ひとり食器のひかり」との取り合わせはリズムが整い、一人暮らしであっても光る。寂しさの中に前向きな姿勢を感じさせ、充実した一人暮らしが見てとれる。
(鑑賞・董振華)

朧です棺の父のはにかむよう 石川青狼
 春の夜、棺に眠る父。長い人生を家族のために必死に働いて来た。大変な時代ご苦労も多かったことと思う。そして昭和の父は無口で怖い存在だったかもしれない。でも今その顔は安らかでまるではにかんでいるようだ。誠実に生きた幸福な大往生。残された家族も幸せ。「朧です」が優しい。父への深い感謝と愛情が胸に沁みる。

訪ねれば双子出てくる柿若葉 小林花代
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
 双子ってとても魅力ある存在だ。小説や詩や短歌、もちろん俳句でもよく詠まれる。掲句は二句とも女の子の双子と思う。訪いに明るく出て来た同じ顔をした女の子達。軽い驚きと嬉しさ。艶やかに輝く柿若葉がぴったり。「人形も双子」ちょっとミステリアスで素敵。抱いている少女達も双子。ふたつの南風が心地よくさわやか。

また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
 これは金子先生だ。例会の帰り道何度か駅までご一緒した。俳句の話や他愛もないお喋りをしながらわいわい歩いた。皆、先生といるのが嬉しく楽しかった。晩年は杖をついていらしたが、姿勢がよくすっと立つ信号待ちの先生が鮮やかに浮かぶ。でも「また霧が」消してしまう。
(鑑賞・室田洋子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

霊界だっぺ父の色情因縁は夏 荒巻あつこ
永吉のうねる歌詞かな野分まえ 飯塚真弓
八月は鵺を葬る匂いして 植朋子
鳥渡るハンドソープを買う列に 大池桜子
媼らが「ジジ抜き」するや秋の昼 大山賢太
秋淋し役人妻が髪ほどく 岡村伃志子
豹の足電車の床からぬっと出る 葛城広光
山法師きのうおととい映し出す 木村リュウジ
夏休み忍者学校手裏剣部 後藤雅文
秋暑し底なし沼の歎異抄 小林育子
吾のいない地球ひまわり揺れている 近藤真由美
煉瓦塀崩れて竹の春溢る 佐竹佐介
全天を送り火として逝きし彼 島﨑道子
やわももの触れたとこから腐りゆく鈴木弥佐士
大利根はふところ深し鮭遡上 五月女文子
梅雨冷を纏ふて影の蠢きぬ 宙のふう
ほろほろと崩れてぬくき蛇の衣 ダークシー美紀
別の日は別の顔する菊人形 立川真理
ピザ届くけもの道よりにゅっと月 谷川かつゑ
捨案山子倒されたまま寝息して 仲村トヨ子
汗光るわたしは黒人女性です 野口佐稔
原爆忌名札垂らして非戦闘員 福田博之
甚平に下駄つつかけて五歳かな 藤井久代
銀河は葬列おとうとよ光れ 増田天志
夏はいつも角のパン屋のガラスから 山本まさゆき
蝉殻を付けて表彰台に立つ 吉田和恵
かたつむりみどりの井戸のあたりかな 吉田貢(吉は土に口)
重陽や背すじ伸ばして卵巻く 吉田もろび
実石榴や女児女生徒に変はるころ 渡邉照香
とぐろ巻く髪をなだめて熱帯夜 渡辺のり子

◆宮川としを遺句抄(植田郁一・抄出)

 皿売りが仕舞い忘れた霧一枚
 行間は荒塩サハリンからの遺書
 望郷の指先で立つ寒たまご
 上野駅春の握手が落ちている
 駅弁を棺のように持つ老人
 踏み消されてからは吸殻も木枯しの仲間
 霧はとぎ汁母の小言が流れ着く
 老母逝く天の一波地の一波
 いまも湖底に曲り続ける父のレール
 霧撲てば父の怒りがはねかえる
 雪崩のようにああ上野駅人を消す
 ひとすじの後悔が行く雨の竿売り

  兄一勢逝く
 掌の雪の水に還りし音を聴く
 秋刀魚のしっぽはわが経歴のそれだな
 ダイヤモンドダストいま誰れかの臨終
 病葉ゆえ音を立てたりしないのです
 蕎麦打ちの骨の太さよ眼の細さよ
 他人の葬列遠い書棚を少し動かす
 うつむけばうつむく影を誰れもがもつ
 まだ生きてあのカラフトの雪を踏む

頑張り抜いた生涯 植田郁一

 9月10日、海程創刊時からの仲間宮川さんが12月3日87歳の誕生日を待たず亡くなり暗澹たる思いは今も脳裡から離れないでいる。宮川さんは作曲家として数多くの作品を残し、「俳句交信」を主宰発行、作詩・作曲家として「古賀政男賞グランプリ」を受賞するなど活躍、後進の指導にも精力的に当っていた。
 食道癌の大手術を受けたが屈せず活動の手は緩めることなく、懸念された転移が肝臓に認められるも怯まず、何事にも前向きの精神を崩さなかった。その精神力は持って生まれたもので、六人兄弟の四男として樺太(サハリン)で生まれ12歳で終戦、お父さんは既に亡く、敗戦によって引揚げるなどの辛苦は想像を絶する。幸い長兄勢一さん(俳名・園一勢)がおり、従軍先の北支から引揚げ北海道に居住、二年後引揚げた宮川さんは兄宅に同居することになった。一勢さんは山田緑光、星野一郎らと細谷源二を擁して「氷原帯」を発行。宮川さんは一勢さんから俳句の指導を受け忽ち頭角を現して同人となり、氷原帯賞にも輝いた。しかし作曲家への夢は捨てきれず上京、仕事を転々としながら苦学、その間「海程」へ入会、海程集を経ずして15号で同人に推挙された。のちに園、山田、星野の各氏も同人参加。父親代りでもあった一勢さんが亡くなり、山田、星野両氏は海原集作家になったことを思うと、宮川さん兄弟も当然その席にあるべき作家であった。
 宮川さんは東京例会の案内葉書、事前投句された作品を謄写印刷を担当、しかも無償で引受けられた。また「海程」28号発行を前に大山編集長が困っていた。作品合評を依頼した原稿が締切を過ぎても届かない。素早く宮川さんが買って出た。二人で今夜中に書き上げ、明日大山さんへ届けることになった。宮川さんは率先して身を挺する人でもあった。
 宮川さんはいま流氷がぶつかり合って出来た氷原の上を歩いているに違いない。少年の頃氷原の果てに興味を持ち、その先は濃紺な海が大河のように流れ、反射的に振り返り、もし氷原が岸から離れたらと心配で急いで帰ったという。宮川さん、もう帰る心配も戻る必要も無い。私のほうから行くから待っててくれ。そして流氷をカクテルにして一緒に飲もうよ。――。

『海原』No.23(2020/11/1発行)

◆No.23 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

水禍後ポツリ婆語るよう子守唄 伊藤幸
鵜の木に鵜じっとしている流離さすらい 伊藤淳子
殖栗ふぐりぶら下げ荒ぶ被曝畑 江井芳朗
老いたかな夏葱きざむ軽き嫉妬 大野美代子
雲母虫「菜根譚」に停まりぬ 片町節子
コロナ禍のわが晩節の濃紫陽花 金子斐子
百物語きみの出番はあるのかな 河原珠美
師系とは一本の滝 滝真白 北村美都子
木苺の花なんでもない今日に礼 黒岡洋子
青嵐や迷宮という君の余韻 近藤亜沙美
青葉風付箋はときに飛べない鳥 三枝みずほ
行者にんにくウポポイに血が騒ぐかな 坂本祥子
業平忌五感を濡らす私雨 重松敬子
土嚢と辷る足弱へ泥泥藪蚊群れ 下城正臣
峽に虹木地師こけしの目を入るる 鱸久子
短夜の伽のはざまにLINEかな すずき穂波
緑雨かな僧の目をして黒猫よ 関田誓炎
辻辻に醤の匂ひ虹渡る 髙井元一
ステイホーム小道にずらり土竜塚 高木一惠
生きるとはこんなものかな海月かな 高木水志
眼裏は記憶の影絵竹落葉 高橋明江
汀女の忌音たてぬよう匙つかう 遠山恵子
ふいに逝き眩しさ残す麦藁帽宮 永田タヱ子
音階の半音ずれてコロナの日々 服部修一
七夕は雨人声のさわさわ滲む 藤野武
かりがねや開けつ放しといふ平和 前田典子
感情を因数分解夏のれん 松井麻容子
塩壺に星の匂ひの山の夏 水野真由美
八月の影ひとつずつ人立てて 望月士郎
柚子坊のまるい感情ねむたそう 横地かをる

石川青狼●抄出

桐の秋麻薬もありの処方箋 阿木よう子
晩節の山菜ほどよき村に住む 有村王志
口述筆記少し乱雑ねこじゃらし 市原光子
看取られないところを終いの住処とは 植田郁一
眠いかと聞かれウンと螢です 大沢輝一
開け放つ仏間揚羽のそよぎおり 大西健司
トマトもぐ子育て世代支援かな 奥野ちあき
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
どくだみを跨げば思ひ出す失恋 木下ようこ
じき爪を噛む癖それって含羞草 楠井収
木苺の花なんでもない今日に礼 黒岡洋子
愛こそはすべて連結部の蛇腹 小松敦
ハンカチが白いもう空をわすれそう 三枝みずほ
始祖鳥もかく啼きいしか夜を青鷺 佐々木香代子
蠅叩くさよならヒット打つように 佐々木宏
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
読みきった後の波だち夏鴎 田口満代子
夏草や僕たちは通り雨なんだろう たけなか華那
熱帯夜とろりとろりとろりめくる 月野ぽぽな
夕焼や遊んで遊んでいた昭和 峠谷清広
かなかなかなかなかなの木の縛られて 遠山郁好
明日から休校黄蝶のように手を振り合い 中村晋
不知火海しらぬい五月牡蠣立ち食いの僧もいて 野田信章
ここからは風の領分ねじ花ほわっ 平田薫
待合室に×のそこここ梅雨の蝶 三好つや子
八月や牛に曲芸など要らぬ 武藤鉦二
翅ほどの骨片蛍に渡される 茂里美絵
曲がった胡瓜ほめて育ててなかったか 山内崇弘
濃あじさい渇きていだく昼の闇 山本掌
あじさいやその感情にまた会ひし 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

水禍後ポツリ婆語るよう子守唄 伊藤幸
 今年の熊本の水禍を詠んだ一句だろう。天災を免れることは難しいが、災難を語り継ぐのはいつも、その体験をしたか身近に聞いていた古老の役割である。この句の「婆」も、孫をあやしながら子守唄の中で、かの水禍で亡くなった人々や村の様子を折込み、唄い聞かせているのだろう。それが婆にとっての亡き人々への供養でもあり、忘れ得ぬ出来事の記念の想いに違いない。

百物語きみの出番はあるのかな 河原珠美
 百物語とは、夏の涼を楽しむために怪談を一人ひとり語り、話が一つ終わるとろうそくの火を一つずつ消して、怖さをあおりつのらせていく遊びのこと。この句の「きみ」とは作者が最近亡くされた最愛のご主人と思われる。もし逢えるものなら、化けてでも出てきてほしい気持ち。だから百物語の中にかの「きみ」の出番はあるのかな、いやあってほしいという一句。ユーモラスな言葉の裏にひそむ痛切な思い。

師系とは一本の滝 滝真白 北村美都子
 あらゆる芸術や芸の世界には、引き継がれてきた師系というものがある。それは一本の滝のように連綿として流れ、しかもその師系ならではの祖師からの教えを受け継いで、門流を育てて行く。それが一つの系譜を作っていくのだ。その姿を「一本の滝」に喩えた。あえて下五を分かち書きにして一拍置くことにより、「滝真白」の印象を鮮明にし、「師系」の純粋さを強調した。それは作者の「師系」へのこだわりでもあったに違いない。

青葉風付箋はときに飛べない鳥 三枝みずほ
 青葉風吹く森のような公園か、行きつけの野外の木陰で本を読む。読み疲れて少しうとうととしていると、取り落とした本に挟んだ付箋が、風にかすかにふるえていた。それは本から飛び立とうとした付箋が、飛び立てないままもがいている鳥のようにも見えて来る。おそらく、本に触発された作者のイメージは、うつぼつとして行き場を見失っている状態なのかもしれない。それも若さ故の倦怠感アンニュイなのだろうか。

土嚢と辷る足弱へ泥泥藪蚊群れ 下城正臣
 作者も熊本の人だから、やはり水禍に見舞われたときの体験を詠んだものだろう。それも被災者ならではの実感をリアルに詠んでいる。泥水の浸入を防ぐために積んだ土嚢と、崩れた泥に足をとられている足弱な老人や婦女子たち。その足をめがけて、泥まみれの藪蚊が襲いかかる。「足弱へ泥」「泥藪蚊群れ」と読んでも、「足弱へ泥泥」「藪蚊群れ」と読んでも、状況のすさまじさを捉え得る。まさに現場の臨場感まざまざの一句。

眼裏は記憶の影絵竹落葉 高橋明江
 作者は、近年眼を患っておられ、次第に視力を失いつつあるという。この句の「眼裏は記憶の影絵」とは、視力確かなときの記憶を、影絵のようにおのが眼裏にとどめておこうとすること。しかしその記憶すら、竹落葉のように、次第に剥がれ落ちていくのを如何にせん。衰え行く視力を、いのちの証のように記憶にとどめておきたいという切なる願い。

音階の半音ずれてコロナの日々 服部修一
 コロナ禍で、日常の流れが微妙にコロナ以前とは違ってきている。おそらくこれは、世界的にも共通することではないか。「ニューノーマル」とは、コロナとともにある新たな常態をどう生き抜くかが課題。「音階の半音」の「ずれ」とは、その新たな常態にいささかの違和感を覚えながら、「コロナの日々」とどう折り合いをつけて生きていくかを求めようとしている。それは、覚悟というほどのものではなく、微妙な違和感を包み込むような、音階なら半音程度のずれを常態として受け止めているような、そんな現実を直視している態度とも思われる。

感情を因数分解夏のれん 松井麻容子
 暑い最中、出入り口に掛けられた暖簾はいかにも涼しげで、ほっとする感じを呼ぶ。大方は目の粗い麻布が多いが、涼しげな模様をあしらった木綿地のものもある。一方「感情を因数分解」するとは、いろいろな感情を要因別に分解した上で、その積となるとまた別種の感情になったり、より大きな乗数効果を発揮したりする。多様な夏のれんの薄い透き通るような感情のひるがえりや模様の重なりから、不意に滲み出る感情の多様性を喩えているようだ。モダンでお洒落な夏のれん感覚。

塩壺に星の匂ひの山の夏 水野真由美
 塩壺の塩を見つめていると、細やかながら星型の結晶の砕片のようにも見えて来ることがある。ところどころに苦汁のかたまりがあって、薄い茶色の塊を作っていたりする。塩壺は必需品だから、台所の手近な場所に置かれていよう。ことに夏は、塩分の摂取は欠かせない。山場の暮らしならなおさらに。そんな日常を一瞬のうちに詩に昇華させたのが、「星の匂ひ」であろう。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

桐の秋麻薬もありの処方箋 阿木よう子
 桐の秋は、大きな桐の葉が音をたてて落ち、秋になったと思うこと。勢い盛んに栄えたものが凋落して行く様子の例えとしても使われるが、掲句は人生の秋の兆しを暗示していよう。病気治療の一環として、痛みを和らげる医療用の麻薬を使用する場合もあるとの処方箋が出されたのだ。「麻薬もあり」との医師の言葉に、桐の葉が音をたて落ちたような気持ちがしたのであろうか。

看取られないところを終いの住処とは 植田郁一
 〈是がまあつひの栖か雪五尺一茶〉の帰郷当時の「つひの栖」の捉え方は現代の生活事情と随分隔たりがあるように感じる。一茶の覚悟は当時の日常的な環境であり、植田句は現代の看取りの姿を浮き彫りにする。家族、知人らには「終いの住処」である自宅を指しながら、最後の看取りの場所は実際には何処か判らないとの諦観であるか。かつては「終いの住処」の自宅で家族に看取られていたが、現在は自宅で看取られるのは難しい時代でもある。芭蕉の「おくのほそ道」の一文、「旅を栖」として「旅に死せる」は漂泊人の本懐であろうが現実はどうか。「住処とは」には自虐的皮肉も込められているようだ。

開け放つ仏間揚羽のそよぎおり 大西健司
客のごとく亡夫むかえる夏座敷 狩野康子
孝行の質を問うかな盆の月 佐藤詠子
 大西句。いつもは閉め切っている仏間も、久々の好天気となり窓を開け、空気の入れ替えをしていた。淀んだ空気が漂っていたが、いっきに新鮮な空気を吸い込み、一緒に揚羽蝶も舞い込んできたのだ。開け放たれた仏間を軽やかにひらひらそよぐ揚羽は、まるで勝手知ったる空間のように気ままに飛び回りひらりと消えていった。
 狩野句。盆も近づき襖や障子を取り払い、風通しをよくして簾をかけたり、亡き夫が座っていた夏物の座布団を出し、すっかり夏らしい座敷となり、まるでお客様をお迎えするように迎えたのだ。少々可笑し味を添えながら、亡き夫への思いがほのぼのと伝わってくる。
 佐藤句。お盆、実家に家族が集まる。夜にはテーブルを囲み亡き人を偲びながら話題が親孝行の話となったか。なかなか寝付かれず、盆の月を仰ぎながら「孝行の質」を自問自答。悔いることのみか、まだ時間があるのか。

眠いかと聞かれウンと螢です 大沢輝一
翅ほどの骨片蛍に渡される 茂里美絵
 大沢句。作者が子供のころ、両親に連れられ蛍狩りへ出かけたのであろうか。いつもならそろそろ寝る時間なのか目をこすると、父から「眠いか」と聞かれ「ウン」と答えた瞬間、蛍が光った。そして次々と合図したように明滅し始め、幻のような暗闇の扉が開いた。
 茂里句。最愛の人の骨片は、脆く薄く、翅のような軽さであったのだ。掬うように一片一片丁寧に骨箱へ納める。温もりの残った骨箱を抱えながら家への帰還。その夜、まるで骨片が翅を付けたかのように蛍が現れ、光り消えて行った。蛍へ渡された逝く人の命の灯である。

明日から休校黄蝶のように手を振り合い 中村晋
待合室に×のそこここ梅雨の蝶 三好つや子
 中村句。コロナ禍で明日から休校を余儀なくされた子供たち。下校時に、先生や友だちへ手を振り合い別れて行く。黄蝶のように、明るく元気な明日の希望の手だ。
 三好句。あらゆる病院や施設などの待合室には、三密を防ぐ目的で椅子に×印がそこここに貼られている。なんとも不思議な光景であるが、皆んな間を空けて座っている。まさか梅雨の時期までにはコロナが終息するものと思っていたが、未だに闘っているのが現状だ。何故か×印のそこここに梅雨の蝶がいるようにも見えてくる。

熱帯夜とろりとろりとろりめくる 月野ぽぽな
かなかなかなかなかなの木の縛られて 遠山郁好
 月野句。熱帯夜だ。「とろりとろりとろり」と眠気を催しているがなかなか寝落ちない。「えい」とばかりタオルケットをめくり、ベッドから起き上がり水分補給。気分をリセットするも、まだ寝付けないのだ。「とろり」の薄皮を一枚一枚捲るような息苦しい皮膚感覚でもあるか。
 遠山句。「かなかな」の鳴き声が頭から一気に読み下され、どこまでが鳴き声で、どこからが「かなかな」の蜩なのか謎解きのようで、作者はくすっと笑っているか。/かなかなかな/かなかなの木の/縛られて/の詠みが浮かび/かなかな/かなかなかなかなの木の縛られて/の「かな」の一語が鳴き声と呼び名の両方を兼ねて混在し、「かなかな」の声に包まれる。いや、呪縛されているのだ。仮名文字の「かな」を連綿体で書き連ねて、句と文字が一体化していくような心地よさを覚える。

濃あじさい渇きていだく昼の闇 山本掌
あじさいやその感情にまた会ひし 横山隆
 山本句。ひと雨降るごとに、色を濃く鮮やかにする紫陽花が、雨を渇望している真昼間の闇の陰影。
 横山句。今は亡き人が愛情込めて育てていた紫陽花への思いが、今年も見事に咲いてくれた。その人の思いの「その感情」にまた会えた喜びと、作者の感情との融合。

◆金子兜太 私の一句

街は野へ野は街に消え夜明けの記者 兜太
 この句は、先生の初来道の折の作と思われる。ちょうど私は転勤族だったためお会いできなかったが、「北海道九句」という前書きがあり、十勝の名を使った句もある。広大な十勝平野と風土の捉え方の的確さ、そして「夜明けの記者」に見られる生の言葉の力によって、豊かに生き生きと表現、スケールの大きい句になっている。改めて先生の力量に教えられた作品である。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。加川憲一

園児らは五月の小鳥よく笑うよ 兜太
 掲句は、宮崎市の真栄寺こども園と鹿児島県志布志市の西光寺こども園に句碑が建立されています。先生はお寺との御縁が深く、この二つのお寺は、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の句碑がある千葉県我孫子市の真栄寺と兄弟寺。先生は子供たちとの出合いを大切にされ、子供たちもとても先生が好きで、お出でになるとすぐ囲いができます。そんなとても微笑ましい光景にたびたび出合えたなつかしい俳句です。平成20年5月、句集未収録作品。永田タヱ子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選
○空想はうすい塩味豆の花 伊藤淳子
バラと生きバラと逝く母新ウイルス 伊藤雅彦
終息を祈りて均す春の土 稲葉千尋
口紅水仙キスまでの距離4センチ 大池美木
清明の光行き交う封鎖都市 小野裕三
力抜くことも教える子供の日 上脇すみ子
機嫌よく眠るみどり児夏立つ日 北上正枝
虹の根を潜って黄泉の妻に会いに 木村和彦
ハンカチの花さらりと本音言えそうな 黒済泰子
バンクシーの影なぞりたき聖五月 齊藤しじみ
電子辞書訛りを打てば遠雷す 坂本祥子
白鳥の梯団沖へ群青へ 鱸久子
知性的に芽木野性として草原 十河宣洋
春手袋百済観音に会いたし 樽谷寬子
泣き足りなくて春の落葉を搔き集め 遠山郁好
五月の空アウシュビッツの青い壁 鳥山由貴子
きれいな鳥と春暁分かち合い自粛 中村晋
終戦日永久におわらぬ砂時計 茂里美絵
合掌にはびるの匂ふ忌野忌 柳生正名
蜘蛛を見て蜘蛛に見られている夫よ らふ亜沙弥

市原正直 選
乱筆のような終生躑躅燃ゆ 市原光子
清潔に流れる言葉若葉色 奥野ちあき
木の芽雨一粒ずつ検品す 奥山和子
○八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
風光る自転車の錆脳の錆 神林長一
菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
耕運機峡の真昼を裏返す 金並れい子
麦の秋たたんだままの青写真 黒済泰子
水を束ねて一枚の田に落とす 小池弘子
○呼吸濃き色となりたるあやめかな こしのゆみこ
己が顔脱いで一息青葉騒 小林まさる
影喰いの少年跳ねる青葉騒 佐孝石画
○栗の花ことばは朝の水たまり 関田誓炎
炎天にかじられているお父さん 峠谷清広
八重桜手術の傷の盛り上がり 仁田脇一石
上昇志向の話疲れる犬ふぐり 三浦静佳
赤ん坊の拳夏への扉です 三浦二三子
落丁のまた乱丁の夏の蝶 望月士郎
大あくび皐月の青さ食い切れず 森田高司
乳歯むぐむぐ新樹ざわっと濡れている 吉田朝子

伊藤巌 選
ぼうたんと語りて光の中にいる 石田せ江子
少年は夏の匂いを落として行った 伊藤幸
淵に座す十薬昏き白を見て 伊藤道郎
灯をすくい昏きに消ゆる春の雪 榎本愛子
夜の蟇考える事に慣れてくる 奥山和子
日常の襞そのままに花菜漬 狩野康子
風信子噂は背中合わせが楽し 黍野恵
春の海に背く身体は光の束 三枝みずほ
かげろふを歩く足裏が重たい 清水茉紀
陽光に紛れる春耕一打かな 須藤火珠男
初夏はつなつのノートにはさむ鴎かな 田口満代子
人消えて青空群れている夏野 月野ぽぽな
戸惑いのかすかな隙を鷺が舞う 遠山郁好
疫病の町恋猫になりすます 日高玲
石人石馬空の匂いがする四月 平田薫
薔薇一輪立てるすべてが雨の中 前田典子
欲はなく空になりきる朴の花 三浦二三子
折鶴の中の水音ふくしま忌 武藤鉦二
夜ふたつ蛍しずかに縫い合わす 望月士郎
○水底の晴やかなれば燕来る 横地かをる

川田由美子 選
○空想はうすい塩味豆の花 伊藤淳子
せりせりと初夏の草食家族です 大沢輝一
若葉かぜ主語なきいのちも混じるよ 大髙宏允
○八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
あの滝は恐竜の子の滑り台 木村和彦
白魚や姉に静かな反抗期 黒済泰子
○呼吸濃き色となりたるあやめかな こしのゆみこ
夏の野のくぼみ少しの水を欲る 小西瞬夏
かたつむり緑の風の訃が届く 小山やす子
僕のリハビリ寒梅のよう少し優雅 齋藤一湖
棺の兄子馬のように撫でられる 佐々木宏
枯野原父母という遠汽笛 白石司子
○栗の花ことばは朝の水たまり 関田誓炎
もしかして君はともだち夏来る 高木水志
夕焚火こころの乾くまで居らむ 松本悦子
青田風旅の一座が来たような 松本勇二
夏夕べ橋に木霊の立ちもどる 水野真由美
清潔なあめんぼ水輪ごと掬ふ 柳生正名
○水底の晴やかなれば燕来る 横地かをる
巣作りは仮縫のごと涅槃の風 若森京子

◆三句鑑賞

バンクシーの影なぞりたき聖五月 齊藤しじみ
 謎の英国人画家バンクシーは神出鬼没に鼠の絵と言葉を発信し物議を醸してきた。コロナ禍の五月、彼は一枚の絵を病院に寄贈した。バットマンやスパイダーマン人形に目もくれず、マントを翻す看護士人形をかざしている男の子の絵だ。ウイルスと闘う看護士こそ真のヒーローと称え、医療従事者へ感謝を表したのだ。聖五月を配した作者の想いが見える。

春手袋百済観音に会いたし 樽谷寬子
 仏像が美しいと気づいたのは、修学旅行で奈良法隆寺の百済観音を見た時だ。三月に東京博物館で百済観音の特別公開の予定だったが、コロナで潰えた。外出自粛は、人だけでなく、会いたい仏像にも絵画にも会えない。今は薬師如来三尊像に救いを求めたい。春手袋は柔らかな印象の季語だが、コロナ対策必須アイテムでもある。

終戦日永久におわらぬ砂時計 茂里美絵
 終戦日には戦争と平和について考えさせられる。戦後七十五年たっても永久にこの命題に対峙していかねばならない。静かに砂が落ちていく様は戦争の記憶を表しているのか。あるいは平和な時間を表しているのか。逆に連綿と零れ続けている戦争の火種を表しているのか。いずれにしても、心に刻みたい句。
(鑑賞・石橋いろり)

乱筆のような終生躑躅燃ゆ 市原光子
 乱筆とは、まさに無我夢中に、エネルギッシュに多忙をこなしてきた一人の人生を思わせる。躑躅の画数の多い漢字のありさまも、花弁のもみくちゃに咲くさまに、これまでの行為の濃密さを想像させる。しかも「燃ゆ」の一語で、それらを自嘲することはあっても、だからこそ現在があることを肯定している。

麦の秋たたんだままの青写真 黒済泰子
 一面に麦畑のひろがる光景は、まさに青春の一幕だ。原風景だ。稲の穂が頭を垂れて老成を思わせていれば、麦のそれはまっすぐ天を指して、青年の直情を抱かせる。たたんだままの青写真は、以前から企画していた行動か。希望からその後の実行を、予感させてくれるが、予感のままで終わらせてほしくない。

乳歯むぐむぐ新樹ざわっと濡れている 吉田朝子
 草田男の〈万緑の中や吾子の歯生え初むる〉を連想させるが、この句はすでに乳歯あり、離乳のころか。むぐむぐ・濡れているが新鮮だ。それは、乳歯はもちろん新樹の瑞々しさも合体させた讃歌で、この児の将来は大樹になれと期待している親のまぶしいまなざしも濡れている。
(鑑賞・市原正直)

ぼうたんと語りて光の中にいる 石田せ江子
 何度も口ずさんでみる。句の中へすっきりと気持ちよく入ってゆく。さらりと書かれているが、一つ一つの言葉が注意深く選ばれている。「ぼうたんと語りて」それだけで、あとは何も言わない。だが至福の時に居る作者が見えてくる。「光の中にいる」もいいなと思う。簡潔な表現だからこそ画けた世界だと思う。

陽光に紛れる春耕一打かな 須藤火珠男
 一幅の絵を見るようだ。平凡な譬えだが、鮮明な映像が浮かび離れない。土に親しみ、時に這いずり回るような苦労を知る人でなければ、春耕一打は言えない。凍てついた土が解け、そこへ打ちこむ鍬の手ごたえ。さあ春だ、目を覚ませ……。そんな作者の気合が伝わって来る。陽光に解き放たれた喜びがそこにある。

欲はなく空になりきる朴の花 三浦二三子
 朴の花というと何時も見上げるという感じが浮かぶ。白い、空にむかってゆったりと開いている花。「欲はなく空になりきる」なるほどそうだと納得、まさに朴の花、いやこれからは朴の花を見るたびにそう感じながら見上げるだろう。深い空をバックに咲く花はまさに空になりきっているに違いない。
(鑑賞・伊藤巌)

白魚や姉に静かな反抗期 黒済泰子
 「姉」を成長期の子どもと読んでも、齢を経た大人と読んでもよい。「姉」に「静かな反抗期」が訪れたのだ。「白魚」と「姉」に宿命的なものを感じる。白魚は生まれながら「白」を、姉は「姉」を生きる。逃れたい思い、逃れられない思いとは、何だろうか。静かに収斂してゆく存在の翳り。そこからは誰も逃れられない。

僕のリハビリ寒梅のよう少し優雅 齋藤一湖
 含羞のように挟み込まれた「僕の」と「少し」によって、作者の実際の手ざわりが加わった。「リハビリ」は機能の回復をたどる道のり。ゆるやかな営みの反芻を「優雅」と表した。寒中のモノクロームの風景のなかに、ぽつりぽつりと開く円らな一輪。その一輪のように、一輪の優雅さのように、際立つ生命が見えてくる。

巣作りは仮縫のごと涅槃の風 若森京子
 つがいの、子育ての栖。「仮縫のごと」とは、素材を集めつつとりあえずの形に仕上げられたものということだろうか。そのひとかけらずつに懸けられた尊さを思う。「巣」とは「仮」のもの。やがてほどかれ巣立ちをむかえる、束の間の共棲のなかにあって、個は個を縫い上げてゆく、涅槃の風に包まれながら。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

木下闇たまに優しくしてくれし 有栖川蘭子
母という唯一確かなる夏野 飯塚真弓
紅薔薇の好きな人にはわかるまい 植朋子
アイスティーもう味もなく溶けた別れ 大池桜子
形代を流すメニューにない料理 大渕久幸
鉄棒にひぐらし蹴って落としけり かさいともこ
百合の花聞かずにいれば諦めた 梶原敏子
リモコンを芝生の上に忘れたる 葛城広光
ほたるがりふたりそろってひとぎらい 木村リュウジ
夏盛り馬臭かろうが我も獣 日下若名
工場の旋盤に錆梅雨曇 工藤篁子
陽炎の向こうは昭和ついてゆく 小林ろば
満月をルパンのように手に入れる 近藤真由美
花も人も街も有耶無耶海霧ガスかぶり 榊田澄子
一鍬の忽ち田水落しけり 坂本勝子
脳内の蝿の羽音が漏れる耳 鈴木弥佐士
無花果の熟れて裂けたる昏さかな そらのふう
合歓の花母いつまでも母の貌 立川由紀
水着など伸びはしないぞ痩せたのだ 土谷敏雄
揚羽追えば二軒続きの空き家かな 野口佐稔
目に映る海里の程や鑑真忌 福田博之
掴む蹴る嬰児やや遊泳の宇宙なう 藤川宏樹
遠雷や青き昔の亀裂縫う 保子進
地球てふパンドラの箱春の闇 藤好良
空蝉や柱時計に螺子の穴 矢野二十四
砂に混じる花火のかけら昼の雨 山本まさゆき
沖縄忌集めし記事のひりひりと 山本美惠子
反戦の一つの形なめくぢり 吉田和恵
堕天使や凍てし蘇酪チーズを瓦礫に挿す 吉田貢(吉は土に口)
跳び箱に怯えし記憶いわし雲 渡辺厳太郎

『海原』No.22(2020/10/1発行)

◆No.22 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

アマビエを刻して夏至の道祖神 赤崎ゆういち
もだという裸のこころほうほたる 伊藤淳子
篠の子やつんつんとする三姉妹 伊藤雅彦
行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
夏帽子フランスパン抱き鳥になる 大野美代子
どの鳩もみな首を振るカフカの忌 尾形ゆきお
はめごろしの窓二つ花粉症 奥山富江
躾糸抜いて賢母の大昼寝 川崎益太郎
数頁後には純愛青葉木菟 木下ようこ
平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
少年の自画像の目の深みどり 小西瞬夏
早桃捥ぐそして逢いたさ急降下 近藤亜沙美
自画像は聖五月という陰影 三枝みずほ
願いを込め隅々を拭く麦の秋 坂本久刀
セーラー服次々羽化す青水無月 すずき穂波
山独活はコロナ自粛の夜も太る 瀧春樹
雑に書くノート卯の花腐しかな 田口満代子
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
万緑に小さき鉤裂き夏館 田中亜美
老い孔雀羽根広げたり無観客 田中雅秀
また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
えごは実にマスクの視線交わらず 野田信章
象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
夕焼やニュースは今日の死を数え 藤田敦子
おはぐろ蜻蛉ふわり予言書は失せた 三世川浩司
専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
おっとりとAIの声ところてん 三好つや子
喪の家の次の雷光までの闇 武藤鉦二
教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
梅雨晴れやロミオ駿足橋わたる 吉村伊紅美

石川青狼●抄出

飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
もう鳥になれず五月の水たまり 伊藤淳子
吾子の背青蘆原に水脈を引く 川田由美子
緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
アンニュイなんて贅沢主婦に羊蹄 黍野恵
死に方にも本音と建て前糸蜻蛉 楠井収
逼迫の星降る地球水買いに こしのゆみこ
環状列石地が歌う蝦夷春蝉 後藤岑生
まだ消えぬ蛍ひかりのかたちして 小西瞬夏
早桃捥ぐそして逢いたさ急降下 近藤亜沙美
かくほどに右手はかたち失へり 三枝みずほ
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
夏の星磁石のような師の言葉 清水茉紀
鴇群れてアレを鴇色と母指せり 菅谷トシ
立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
「終わりの始まり」たぶんその続きの春だ 芹沢愛子
はくれんやくらくらとある友の死後も 十河宣洋
滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
仏間に沈む蘭鋳の甕自粛なる 日高玲
まばたきは更衣のようだ鶴数え 北條貢司
僕たちの敗北に似た五月闇 松井麻容子
囮鮎おれたちすることないもんね愛 松本豪
田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
梅雨コロナぽつぽつと折る傘の骨 水野真由美
ゆるくむすぶ後ろ髪に梅雨のけはい 三世川浩司
収骨や生あるものは汗ばみて 嶺岸さとし
草笛や亡父はジャージで会いに来る 宮崎斗士
卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
枇杷つるつる剝いた夕べに死すとも可 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

もだという裸のこころほうほたる 伊藤淳子
 蛍狩での出来事。その時の気分というか情感のようなものを書いている。おそらく蛍の光の乱舞に言葉を失って立ち尽くしているのだろう。その光の空間の素晴らしさは到底語ることは出来ない。どんなに言葉を尽くしても、語る言葉は沈黙には勝てない。その沈黙すれすれの言葉を語ろうとすれば、こころの中に渦巻いている言葉にならない裸のこころそのものを差し出すほかはない。「ほうほたる」の呼びかけが、その感動を伝える。「黙という裸のこころ」とはよく言い得たもの。

行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
 「三密」とは、新型コロナウイルス感染症拡大期に厚生労働省が打ち出した標語で、「密閉・密集・密接」をウイルスクラスター発生の共通項として挙げたもの。「行間」とは原稿の行間だろうから、推敲の過程を書き込んだに違いない。その悪戦苦闘ぶりを、今稔り豊かな麦の穂の生育振りに喩えた。麦の穂の生い茂りは三密状態にあって、麦畑に入ると麦の穂に刺されて痛い。苦心の原稿の仕上がり同様に、嬉しい悲鳴の麦の秋。

少年の自画像の目の深みどり 小西瞬夏
自画像は聖五月という陰影 三枝みずほ
 ともに自画像を題材としているので、並べて鑑賞してみた。小西句は、「少年の自画像」とあるから、まさに少年の目の「深みどり」そのもの、モジリアーニを思わせる孤独感。三枝句は、対象となる自画像に「聖五月」のものとも見える陰影が宿っているとした。自画像は少年とは限らない。画題全体の印象が「聖五月」なのだ。清潔な季節感が瑞々しい。それぞれに爽やかな初夏の持ち味で自画像を彩っている。

老い孔雀羽根広げたり無観客 田中雅秀
 誰も居ない動物園。コロナ自粛によって閉鎖を余儀なくされている。その中で老いた孔雀が大きく羽根を広げていた。それはかつてないほどの見事なものだった。老い孔雀はせめてこの世への置き土産にと、思いっきり翼を広げたのだろう。しかし誰もみているものはない。当然無観客の檻の前。その姿も一瞬のことなのだが、それが老い孔雀にとってのたった独りの存在証明だったのかもしれない。

象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
 象番とは、象の当番つまり飼育係のことだろう。見事な月夜に、象がいつのまにやら檻を出てしまったのか、あるいは体調不良でぐったりしているのか、とにかく象になんらかの異変が起きているのだろう。それに気づいているのは、月だけ。月は象番のいそうなところをくまなく照らし出して、急を知らせているかのよう。しかし今はなんの応答もなく、時だけが過ぎて行く。一体象はどうなるのでしょう。「月でした」という結びが、童話のエンディングを暗示する。

専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
 「専門家会議」とは、内閣の新型コロナウイルス感染症対策本部の下で、医学的見地からの助言を行うために設置された部署。さまざまな議論が沸騰したという。ここでいう「鯰」の意味は定かではないが、大きな異変の元凶を象徴するものでもある。待ったなしの時間制約の下で、なんらかの対策に結びつくような提案を出さねばならない。もちろん実行は政府の責任だが、会議の帰趨はまさに「鯰の出たり潜ったり」だったことは、容易に想像がつく。

おっとりとAIの声ところてん 三好つや子
 AIの普及にともなって、その技術革新がさまざまな産業や雇用の構造に与える影響は測りしれない。ただAIは、人間のもつ知性とは本質的に違うものだから、人間の課題解決の役割がなくなるわけではない。「おっとりとAIの声」とは、そんなAIさんが出でましたという。「ところてん」がちょっと難しいが、時代の流れとともに、すんなりとおいでなすったとも受け取れる。ユーモラスな時代批評の句ではないだろうか。まともに考えれば、結構深刻なテーマだが。

教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
 この場合の教室とは、若い学生の教室でなく、社会人向けの教養教室のような気がする。しばしばこういう教室では、友人と連れ合ったり、講師との関わりのようななんらかの絆があるものだが、個人の発意で来る人も少なくはない。定年になったり子育てが終わったりした人達の、なんらかの寄る辺を求める気持ちからだろう。とは言え年を重ねてからの教育環境の変化に、すぐには馴染めないこともままあり得る。また、長い経験の末にふと境涯感に誘われて、教室の仲間内にありながら孤独を感じることもありそうなことだ。結局は、人間の寄り合いの中での孤独感は、どうしようもないことかも知れない。とどのつまりはその人の生き方が決めるものだから(これは作者の個人的事情とは関係のない解釈)。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
死に方にも本音と建て前糸蜻蛉 楠井収
 伊藤句の「あなたは飴をかむ派?それともなめる派?」と唐突に尋ねられたら、思わず「噛む派」と答えるであろう。とにかく、のど飴を口にして味わうこともなく、カリカリと噛み砕く。「今に歯が欠けるよ」と言われたものだ。だが、ここに来て「老い」という厄介な代物に出くわし、意識して「なめる派」になってきた。老いの目安の歯、目、耳などの衰えとは無縁と思っていたのだが。作者は誰に向かって問いかけたのか。カリッと噛んだ音で、か細い「糸とんぼ飛んだ」か。楠井句は眼前の糸蜻蛉に自らを投影して、ふと自分の死に方を自問自答しているのか。はたまた家族や友に語っているのか。本音と建て前。語っているうちはまだまだ余裕の域である。自らの死に方を選択出来るならそれに越したことはない。死と直面し他人に委ねなければならない切羽詰まった死の選択だけはしたくないと思いながら、本音のところはどうなのか。

緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
仏間に沈む蘭鋳の甕自粛なる 日高玲
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、自粛を強いられている現在。いつまで続くのか不安な毎日である。季節は春から夏へ移行し、すでに木々は新緑となり、いつもなら気持ちに弾んだ心持があるのだが、今までに経験したことのない夏を体験。河原句は緑雨そのものが「鳥籠」となり作者を包む。そしてひたすら目を閉じ眠るだけの自粛生活を送っているのだ。日高句は自粛している「場」を「仏間」に身を置き、作者の心の深淵を「蘭鋳の甕」の中で揺蕩う。刻々と染み入る時空の狭間。

立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
梅雨コロナぽつぽつと折る傘の骨 水野真由美
 コロナの感染予防対策として「3密」「ソーシャルディスタンス」など耳慣れない言葉が登場。特に3密(密閉・密集・密接)は座の文学といわれる俳句にはもっとも基底にある。コロナ禍により新たな形の「座」が生まれるであろうが、やはり同じ空間に触れあっている皮膚感覚のあるその地の「座」の存在が基盤であろう。鈴木句はソーシャルディスタンスの自然なアイテムに登場した「日傘」。日傘を人除けに意識して使おうと表に出たが知人と会い、立ち話となり「つひに日傘を閉じ」てしまうことに。なんとも言えぬ切実な思いに俳味が覗く。水野句は単刀直入に、梅雨まで持ち越したコロナの鬱陶しさと苛立ち、不安感が入り混じり、傘の骨を折り畳む音が直に手から「ぽつぽつ」と体に、こころにジワリ
と沁みてくるのだ。得体の知れぬ音の響きを聞く。

まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
まばたきは更衣のようだ鶴数え 北條貢司
 新野句の「まばたき」に、ふと病床のベッドに横たえている姿が浮かんできた。少し開けた窓から心地よい風が顔に届く。外はすっかり青葉がまばゆい季節を迎えている。話すことも出来ぬ状態で、アイコンタクト。その「まばたきは肯定」は生きている証でもあるのだ。静謐な空気が漂うような一刻である。若いカップルが織りなすドラマチックな明るい場面などいろいろ想像できる。北條句を目にして、井出都子の〈鶴を数えるとてもやわらかな洗濯〉が浮かんできた。井出句はタンチョウを数えているうちにふわふわな感覚の洗濯をしている心持の句で、北條句は鶴を数える瞬間瞬間のまばたきが真新しい更衣をしているような感覚を持った感性の機微。

かくほどに右手はかたち失へり 三枝みずほ
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
 書家石川九楊著『河東碧梧桐表現の永続革命』は目から鱗の衝撃であった。著書の中で―俳句から俳句へではなくて、俳句の下層に現に存在する俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かったことによって、近代においてただひとり碧梧桐は俳句の臨界を前へと押し広げた。―の文は圧巻。今回、多くの同人の自筆の俳句を読み、一人一人の顔を想像しながら楽しませて頂いた。三枝句の「かく」は「書く」「描く」「搔く」ほどに右手が形を失ってゆくのだ。無心の境地でもないが一心不乱に「かく」ことで、右手が無意識に運筆しているような感覚の冴えた心境か。書家でもある佐孝は、内面から迸る言葉の肉声を手掴みしたい衝動に駆られたか。例えば言葉を書字へ移す時の手に伝わる感触、言葉と書字が一体化する手触り感を包む空間は、「花は葉」に移ろう自然の営みの刹那に触れているような感覚なのであろうか。

田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
 祖父母、父母から受け継いだ田畑。炎天が続き植田の水が湯のように沸きだすその田に入って田草を取っているのか。子供のころ見ていた風景が突然現れ、皆んな揃っていた頃の風景をしみじみと思い出している。感傷的でもあるが、近頃彼岸此岸が身近に感じて、軽々と往還出来るような心境の齢になってきたのかも知れない。

◆金子兜太 私の一句

逢うことが便ち詩とや杜甫草堂 兜太
 平成7年、金子先生を団長とする現俳訪中団一行二十名、四川省訪問。杜甫草堂を会場に日中詩人、俳人による合同句会が開催された。四川省の参加者十名、自作の漢俳を披露。熱気に包まれた。当時中国に漢俳という詩型が生まれて十五年。内陸のこの地までこれほど漢俳が浸透していたとは、と先生、大そう喜ばれた。掲句は戴安常の漢俳を受けての一句。句集『両神』(平成7年)より。大上恒子

梨の木切る海峡の人と別れちかし 兜太
 昭和40年8月、金子兜太師は皆子夫人同行で、青森の「暖鳥」俳句大会特別選者として来県、故徳才子青良師の感化を受け、会友として参加した頃であった。下北半島の尻屋崎へ吟行した折の句。伝統を主体的に取り込む表出の見事さと、俳句の力強さを感じた思い出の一句なのである。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。須藤火珠男

◆共鳴20句〈7月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選
燕となり原発の街さ迷えり 大久保正義
富士山をまるめて飛ばすしゃぼん玉 鎌田喜代子
「死ぬまでが賞味期限」に山笑ふ 川崎千鶴子
合歓の花「宮城まり子」を知らず咲く 川崎益太郎
○少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
ラファエロの仄暗さ残照の菜の花 黒岡洋子
花の夜の坩堝の中に耳打ちす 小西瞬夏
マスク越し鮮度の落ちる立ち話 齊藤しじみ
樹液垂る山の心拍地の鼓動 十河宣洋
マスクなし一揆の如く土筆立つ 髙井元一
土に生き土に帰る身霾 高橋明江
春愁や自分自身に絡み酒 峠谷清広
大きくならはってうれしゅうて桜 梨本洋子
筆先にコロナウイルス春怒濤 野﨑憲子         
逝く春の骨片としての還える 平田恒子
よく眠るテレビ会議が青むまで 松本勇二
まだ生きてあのカラフトの雪を喰む 宮川としを
辛いことは鉛筆で書け安吾の忌 宮崎斗士
伊予の海に河ぶつかりて鳥雲に 山本弥生
甘藷で見えぬ道路米兵の服ちらほら 輿儀つとむ

市原正直 選
春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
鳥雲に入る手のひらの水たまり 伊藤淳子
囀りや伸びて縮んで生き急ぐ 榎本祐子
リュックサックいていますよ枯木山 奥山富江
逃げ水の取材に行ったきりでした 片岡秀樹
マネキンの腕の虚空や更衣 片町節子
採血の管のいくつよ春の雷 楠井収
ひらくたび光の曲がる雛の函 小西瞬夏
気配してセンサーが点く沈丁花 佐々木義雄
月おぼろ台車響ける石畳 菅原春み
人生はぜんぶ足し算日向ぼこ すずき穂波
○わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
待つという静かな未完木の芽雨 月野ぽぽな
フクロウと秘かに同じ闇にいる 椿良松
残る蜂老醜互いに気にならず 中川邦雄
揚雲雀空に絶壁はあるか ナカムラ薫
枝々に雪を咲かして記紀の峰 疋田恵美子
○揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
初蝶が来て撥ね上がる天秤棒 武藤鉦二
ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし

伊藤巌 選
地卵は岳父の気配の山暮らし 有村王志
忙殺はすでに言い訳目借時 石川青狼
水音のどこか錆色春一番 伊藤淳子
内耳蒼く沖の暗さを捉えけり 大西健司
自粛とや荒れ霜さえ詩を宿し 狩野康子
上流は杜甫住むところ花筏 神田一美
竹挽きのノコの切れ味三鬼の忌 神林長一
まんさくや言葉の角を風が揉む 黍野恵
清明の落ち水地図にない小川 佐々木香代子
○フクシマや春キャベツまっ二つに母 清水茉紀
みんな蒸発したような午後冬たんぽぽ 芹沢愛子
破船描き足すきさらぎの鳥瞰図 鳥山由貴子
水張って村がますますひかりだす 服部修一
記紀の峰深雪に獣道のあり 疋田恵美子
雪柳あったところに石を帰す 平田薫
人と人と距離狂ふまま四月尽 前田典子
ハナミズキごしの陽を丁寧にあるく 三世川浩司
盤寿吾に二上山陵冬日照る 矢野千代子
夕陽のシャワー静かに怒りデモの散会 輿儀つとむ
○春の山やさしくなって降りて来る 横地かをる

川田由美子 選
山椒の芽みんなのお伽話かな 大髙洋子
地層暗く獏の眠りのひずむ春 大西健司
ふらここや八十路は風のようなもの 金子斐子
○少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
姉よりも先に来ていて青き踏む こしのゆみこ
亡母在れば花菜に雨の咀嚼音 小林まさる
花は葉に書架の崩れ落つように 佐孝石画
早春や木にも星にも水の音 佐々木宏
病みゆくように夜へ傾ぎて紫木蓮 佐藤稚鬼
さくら餅塩味仄か汗の母 篠田悦子
○フクシマや春キャベツまっ二つに母 清水茉紀
○わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
点眼やじわりと春の田に滲みる 丹生千賀
○揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
白鳥来寡黙な沼を抱くように 船越みよ
いつか会える皆たんぽぽの絮になり 本田ひとみ
風よりもしづかな姿勢柿の花 水野真由美
○春の山やさしくなって降りて来る 横地かをる
白鳥引きし水際のなまなまし 若森京子

◆三句鑑賞

土に生き土に帰る身霾 高橋明江
 季語の「霾」は「つちふる」や「つちぐもり」「ばい」と読む。この場合、下五とすれば、つちぐもりになるだろう。大風に吹き上げられた土砂や黄砂が降り積もることを言う春の季語。この世に生を受け、地道に土に根差した生き方をし、死後は土に帰る身であると達観している作者。生きている上で目を瞑りたいような困難もあったであろう。「土に」「土に」と霾の「つち」のリフレインが実に重厚に響いてくる。

大きくならはってうれしゅうて桜 梨本洋子
 作者は長野の方。長野でこういう言い方をするのだろうか?関西出身の方なのだろうか?いずれにしても、桜咲く入学あるいは卒業の頃。孫か親戚の子の成長を寿ぐ喜びがあふれている。最後に桜を一つ置いたところが句を一点にまとめあげてる。方言がいい。

よく眠るテレビ会議が青むまで 松本勇二
 コロナ禍でリモートワークに切り替わった所も多かっただろう。テレビ会議の場合、手もち無沙汰な待ち時間がどうしてもできてしまう。眠気も起こるだろう。それどころか、夢まで見ているのだ。あるいは作者は、リモートワークという熱気の伝わらない媒介を通じての試みに抗っているのかもしれない。
(鑑賞・石橋いろり)

 新型コロナ禍のせいか、この頃何か説明のつかぬ不安が満ちている。だからか、ぼくの選句はそれを打ち払いたいとする傾向になった。俳句は抒情の短詩でありたい。カタチにしがたい心象風景が表出されると面白い。

人生はぜんぶ足し算日向ぼこ すずき穂波
 作者は、人生を前向きに歩んで来られた方かと思う。時に失敗することもあれば、それは学習することであり、次への一歩の足し算になる。社会性、人間関係の善悪も、清濁併せ呑んで人生が出来る。日向ぼこは来し方を三省するひとときになっている。

揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
 雲雀の声が、空高くから聞こえて来たのは伊東静雄の詩。同時に歌手の美空ひばりが現れる。絵本は純情の世界。余白は余った空間ではなく、そこへさらなる読者の創意を描かせる舞台。鑑賞は読者に作者以上の解釈を期待している。

ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし
 大ぶろしきには、大げさな言動の解釈もあるが、ここは素直に青葉とルノアールの絵の柔らぎの交感と読めた。二物衝撃でなく、二物配合で、青葉のためにふろしきを解いた。まぶしい色彩が解かれる。
(鑑賞・市原正直)

水張って村がますますひかりだす 服部修一
 この豊かさ、平和とはこういうものだと思う。水張って。冬が終わり、田植えを待つばかりの水田、その広がり、まさに鏡のよう。深く空を映しこれからの命の営みに備えているようだ。人々の笑顔が見える。厳しい農作業が待っている。でも働けるってこんなにも嬉しいものだ、そんな唄が聞こえて来るようだ。

盤寿吾に二上山陵冬日照る 矢野千代子
 盤寿、八一歳は今の日本では年寄りとは言えないかもしれない。でも作者には感慨深いものがある。万葉集の大津皇子、大伯皇女姉弟の悲話。その大津皇子の御陵のある二上山に冬陽、大和平野のどこから見ても二上山は端正で美しい。そして気持ちが静まる。自分もあの山のようでありたい。そんな思いが伝わって来る。

夕陽のシャワー静かに怒りデモの散会 輿儀つとむ
 慰霊の日に読まれる平和の詩にはいつも心打たれる。そして戦場となり四人に一人の犠牲者を出した沖縄の現状をいかに受け止めるかをいつも問われる。そうしたことを背景に、デモが行われている。静かに怒り、に込められた作者の想いが痛い。繰り返し、繰り返し諦めるわけにはいかない。沖縄のデモ、想い……。
(鑑賞・伊藤巌)

姉よりも先に来ていて青き踏む こしのゆみこ
 「先に来ていて」の言葉からは待合わせの場面が見えてくるが、そこに繋がる「青き踏む」の季語のスケールがその場面から大きくはみ出している。そこには作者が物語を生むための境界、結界が張られているようだ。姉と自分という存在の対峙、過去から未来に繋がる時空。そこから放たれ、作者は今、春の野に踏み出している。

点眼やじわりと春の田に滲みる 丹生千賀
 「や」の切字によって、点眼をしている作者が見えてくる。目薬がじんわりと行き渡ってゆく時の、かすかなひりつき感。清涼感が薄い膜となって作者を包みこんでゆく。その一瞬を契機に、作者は潤む眼で「じわりと春の田に滲み」ている己の姿を見たのではないだろうか。作者を滲みこませている「春の田」。そのうれしさ。

田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
 「さわさわ」とそよぐ田に分け入り「さわさわ」と繁る草を搔き寄せてゆく。そこに、人生を生き老いをたどる今の感触を得たのだろう。あちらこちら果てしもなく湧いてくる草を前にするように、「手さぐり」で進んでゆくしかない老いというもの。「さわさわ」の乾いた響きが、不確かに自分を透かしてゆく、老いの姿を感じさせる。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

芥子の花女の加工され易き 有栖川蘭子
蟻の列皆が小さき餌を持つ 齋貴子
自由なる妃にめだか差し出せり 植朋子
蛇よプライドって自分を守るため 大池桜子
短夜やトイレの壁にアンモナイト 大渕久幸
偵察の蜂ラケットで打ち殺す かさいともこ
あおろうのういろうわたし盆霞 葛城広光
寒色のペディキュアを塗る太宰の忌 木村リュウジ
土間のある暮らし燕と住む暮らし 後藤雅文
卯の花腐しウェブ会議の憂鬱 小林育子
おーっと若葉わーっと青葉水甘し 小林ろば
散らかした羽根などいつか霧は立つ 近藤真由美
昼顔や無印といふ個性なり 坂川花蓮
梅雨晴間ボディブローのよう省略語 島﨑道子
先頭は鼻利く者か蟻の列 五月女文子
ほうたるや闇に眠れぬ目がふたつ ダークシー美紀
生涯一度の父への反抗竹皮脱ぐ 髙橋橙子
デンデラ野ビールを家に置いてきた 谷川かつゑ
松蝉が仰向けでいること平和 千葉芳醇
ステイホーム五十集いさばふれくる虚子忌かな 土谷敏雄
新緑に包まれ柔らかい握手 中尾よしこ
青蛙戦争知らぬ肉食派 仲村トヨ子
絶滅危惧種てふはまばうの生真面目さ そらのふう
権力なき暴力痛し夏の空 福田博之
魂魄の浮遊か黒揚羽の息 増田天志
その児を救えなかった私達茅花流し 松﨑あきら
帰るたび義父の目高の増えてをり 山本まさゆき
上野驛かひこふところにばばら離散 吉田貢(吉は土に口)
シヴァ神の踊る街這ふ青大将 渡邉照香
にんげんは幻視にすぎず紫木蓮 渡辺のり子

『海原』No.21(2020/9/1発行)

◆No.21 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

蕗の葉煮る高倉健の味のして 綾田節子
紅枝垂れ病む肩に触れ背中に触れ 伊藤巌
木の芽雨一粒ずつ検品す 奥山和子
八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
孕み猫ぬっとコロナ禍のシャッター街 楠井収
茶髪のひとりは百日紅にもたれ 久保智恵
鏡の間にいるごとき春マスクマスク 黒岡洋子
コロナ禍の白透き通るガーゼかな 三枝みずほ
放心に色ありにけり青葉騒 佐孝石画
棺の兄子馬のように撫でられる 佐々木宏
黒ぶどう山と盛られてステイホーム 重松敬子
葉ざくら一本仮設住宅撤去跡 清水茉紀
蒼海を来てネモフィラの風となる 鈴木修一
じゃがいもの花に亡母ははいてむせぶなり 関田誓炎
顔無しの息ひそめゆく春の闇 高木一惠
走り書きほどのさみしさ麦黄ばむ 田口満代子
青葉騒だから押韻なのだから 田中亜美
ムスカリムスカリ母のハミングの聞こゆ 田中雅秀
夕焼けや切株のラジオより漫才 寺町志津子
春眠深し釈迦の掌中かもしれぬ 董振華
五月闇犯人のように独り言 峠谷清広
そうか柳絮になろう外出自粛 遠山郁好
蟻地獄脱ぎ捨てられし靴の数 鳥山由貴子
男去り鉄筋居並ぶ皐月闇 中野佑海
田水張る光源として人はあり 藤野武
オランダ屋敷四葩咲くときおんな声 増田暁子
花水木やわらかい言葉だけ残す 松井麻容子
著莪の花自粛を自粛したくなる 水野真由美
落丁のまた乱丁の夏の蝶 望月士郎

遠山郁好●抄出

頓挫する日常亀の鳴いており 浅生圭佑子
青芒村の存亡透かしおり 石川和子
母の日は昨日のつづきミシン踏む 石橋いろり
「お〜い伸よ!」五月の空より兜太の声 井上俊一
麦青む静かに青む手足です 大沢輝一
疲れます人人みんな深海魚 岡崎万寿
青葉風直線だけで描く身体 奥山和子
朧ろげな友よ朧の長電話 桂凜火
白南風や掬えるほどに澄む月日 川田由美子
霾風に振りむく逐われいるごとく 北村美都子
菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
呼吸濃き色なりたるあやめかな こしのゆみこ
水を張り田は湖のまま我れ白し 後藤岑生
ラテ色に夏めく風の眼指は 近藤亜沙美
床に臥す銀河が我を揺さぶり来 齋藤一湖
葉にふれる風よはなればなれです 三枝みずほ
月光下吾歩まねば刻凍てる 佐藤稚鬼
祖の家や真面目に酸っぱい夏みかん 篠田悦子
栗の花ことばは朝の水たまり 関田誓炎
知性的に芽木野性として草原 十河宣洋
朝の蠅朝の光に手を洗うよ 中村晋
水に書く文字積りゆくステイホーム 並木邑人
水脈と水脈ぶつかるところ夏の星 根本菜穂子
夫摘みしサラダ菜春の雪みどり 長谷川順子
田水張る仏間に風を入れてから 松本勇二
真意言う指もて広げブラインド 三浦静佳
花いばら胸中急な雨に遭う 三浦二三子
夏夕べ橋に木霊の立ちもどる 水野真由美
髪洗う空中ブランコが見える 望月士郎
空耳の耳朶のあたりを春という 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

八月やしゅっぽと消えた縄電車 川崎千鶴子
 作者は広島の人なので、原爆忌を詠んだ句とみて差し支えあるまい。あの日、被爆地で無心に縄電車をして遊んでいた子供たちが、一瞬の閃光とともに「しゅっぽと消えた」。縄電車は発車しようとしていたところなのだろう。「しゅっぽ」の擬音が、子供たちの声で発せられた瞬間に、一切が消えたのだ。平和な日常が不意に断ち切られた事実をありのままに書いている。歴史の哀しみを伝える言挙げせぬリアリティの力。

孕み猫ぬっとコロナ禍のシャッター街 楠井収
 コロナ禍によって、各地の商店街は軒並みシャッター街と化した。アーケード付きの商店街だろうから、灯の消えたシャッター街は昼なお暗いゴーストタウンと化している。人通りの絶えたその街へ、ぬっとばかり一匹の孕み猫が登場した。死んだような空間に、生きもののいのちが現れたのだ。それもやがて生まれるいのちをも宿しながら。「ぬっと」にいのちの生なましさがある。

鏡の間にいるごとき春マスクマスク 黒岡洋子
 今や街中に溢れているマスクの群れは、街全体の表情を一色に掩っている。どちらを見てもマスクマスクで人の判別も難しい。あたかも童話の鏡の間にいる気分のようで、一向に落ち着かない。その不安にはいささかの苛立ちも混じっている。下五「マスクマスク」のリフレインは、単に景としての描写ばかりでなく、やり切れない気分の語感をも捉えている。

棺の兄子馬のように撫でられる 佐々木宏
 亡くなった兄を棺の中に収めて見送るとき、集った人々はこもごも亡き兄の頭や頬を撫でて別れを惜しむ。あたかも牧場の子馬を愛おしげに撫でる所作のように。それはまた在りし日の兄が子馬を撫でていた所作そのものでもある。作者は北海道の人だから、おそらく牧場で兄とともにしていた所作を、兄との思い出とともによみがえらせていたに違いない。

顔無しの息ひそめゆく春の闇 高木一惠
 「顔無し」とは、水木しげる作「げげげの鬼太郎」に出てくるのっぺら棒の大型の紙の妖怪だ。特に悪さをするわけではないが、ひょっこり現れては、人を驚かす。そんな「顔無し」が、春の闇の中で息をひそめて隠れている。誰か来たら、びっくりさせられるようなそんないたずらっぽい春の闇がうずくまっているような気がする。なにか面白い仕掛けがありそうな夜気。

青葉騒だから押韻なのだから 田中亜美
 青葉騒が吹き抜けてゆく森の中。その葉騒の繰り返す音が、いつのまにやらある韻律を持っているように聞きなしている。「青葉騒だから」に重ねて「押韻なのだから」と、自分に言い聞かせるように言う。「なのだから」と言いさしたまま口をつぐんで、そこから広がるものを読者に投げ返している。あるいは、そこから先は内面での推敲の世界に籠もるのかも。青葉騒にその気配だけを伝えている。

夕焼けや切株のラジオより漫才 寺町志津子
 夏の夕焼けの森の中で、ひと時の休息をとっている。おそらく伐採作業でもしているのだろうか。切株に携帯ラジオを置いて、聞くともなしに聞いていると、ラジオから漫才の声が聞こえてくる。静かに流れてゆく時間に、ユーモラスな声と話題が、夕焼けのひと時を和ませる。疲れた体から、くすりと笑い声が洩れる。

春眠深し釈迦の掌中かもしれぬ 董振華
 いかにも大陸的なスケールの大きい、寓話性に富む一句。中国の『西遊記』を思わせる世界。こういう持ち味は作者ならではのものかも知れない。「春眠深し」と夢の世界に誘っておいて、「釈迦の掌中」へと飛躍する。一句は「春眠」という季語の体感を書いている。それを日本人ならさまざまな春眠の微妙なアスペクト(相貌・表情)で書くのだが、作者は、おめず臆せず言葉の寓話的体感一発で書く。そのあっけらかんぶりがなんとも魅力的だ。

そうか柳絮になろう外出自粛 遠山郁好
 コロナ禍による外出自粛で、一時街中は火の消えたような閉塞感に蓋われた。そんなある日、ふと外をみると、柳の絮が軽やかに飛んでいる。「そうか、あの柳絮になろう」、いやなりたいと思う。そうなれば、外出自粛のうっとおしさも少しは紛れよう。もちろんイメージの上でのことにすぎないが、「そうか」といううなずき方に、その鬱屈の深さが測られる。

オランダ屋敷四葩咲くときおんな声 増田暁子
 長崎の名所オランダ屋敷。「おんな声」とは、歌謡曲「長崎物語」で唄われた「じゃがたらお春」を連想させる。四葩咲く雨の日のおんな声に、お春の望郷の思い止み難い哀しみに通ずるものを感じている。「よひらさく」という語感の響きが、柔らかく繊細なおんな声に通い合う。実在のお春は、ジャカルタで幸せな生涯を送ったらしい。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

祖の家や真面目に酸っぱい夏みかん 篠田悦子
 大振りでごつごつの手触り、朴訥そのものの夏みかん。特に昔のそれは、今よりずっと酸っぱくて、捥がれないまま裏庭に落ちて転がっていたりした。その夏みかんを、真面目に酸っぱい・・・・・・・・とは言い得て妙。でもこの句の良さはそれだけではない。上五に祖の家と置くことで、先祖代々の篤実で生真面目な暮し振りが、金色に実る夏みかんの映像と共にこころ豊かに伝わる。ふるさとへの思いの厚さが、作者らしい卒直な切り口で鮮やかに描かれている。

花いばら胸中急な雨に遭う 三浦二三子
胸中急な・・・・と畳みかけるように始まるこの句、徒ならぬ気配を漂わせている。特にこの句の中で、胸中・・の一語が微妙な陰影を落とす。例えば、ずぶ濡れのどうしようもないわたしと、それを傍観者のように茫然と眺めているもう一人の自分が存在するような複雑なイメージ。そして然りげなく添えられた花いばらも想像をひろげる。まるで一篇の物語のプロローグの一行のような「胸中急な雨に遭う」に魅せられる。

菫買ったらうす暗がりもついて来た 黍野恵
 菫といえば星菫派に代表されるような可憐な花。その菫にうす暗がりを感じた作者。そのうす暗がりは、すみれが本来持っていたものか。それとも、花々で噎せ返るような花屋の片隅に潜んでいたものか。いずれにしても、すみれ色をした小さな生き物のようなうす暗がり・・・・・。そのうす暗がりが家まで付いて来たのなら、すみれと一緒に育ててみましょう。

真意言う指もて広げブラインド 三浦静佳
 真意はその反応や影響を思うとなかなか告げられないものだ。真意を告げる時の、自分の戸惑いを相手に見られているような気がして、何かに触れていなければいられないような居た堪れなさを感じることがある。それがブラインドの隙間に指を入れて広げる行為につながる。それが真夏のある日の光景と思えば、作者のこころのありようが一層強く想像されて切ない。

朝の蠅朝の光に手を洗うよ 中村晋
 東日本大震災以来、作者の中に棲み、知己のごと、分身のごとく時々顔を出す蠅。この句、今がコロナ禍でなかったら、平和な家族の一日の始まりの光景であったはず。でも今はこの蠅、感情の翳のように漂うものと読めてしまう。ただこの句、どこにもコロナ禍とは書かれていないから、そのまま日常詠と受け取っても十分魅力的だ。朝の蠅、朝の光と朝のリフレイン。その朝の光を切って飛ぶ蠅の羽音と蠅のもつ僅かな屈折感。そして呼びかけるような手を洗うよ・・・・・。どれも新しい今日の始まりと未来を予兆させる。敢えてそう読みたい。

田水張る仏間に風を入れてから 松本勇二
 田植前の水張田は空や木々やまわりの様々を映して殊更美しい。作者は、田に水を張る前に一見脈絡のなさそうな、仏間に風を入れると言う。しかしこう書かれて違和感はない。むしろ、そうすることが自然であるかのように思わせる生活に根差した真実が見える。水張田と仏間に纏わるそれぞれの人の思いを十分に想像させて、心に響く。作者の誠意や佇まいまではっきり見える。季節感濃く、簡明で味わい深い句。それにしても水と風は似合う。

白南風や掬えるほどに澄む月日 川田由美子
 梅雨が明けてさわやかな白南風の中に身を置くとき、震えるように繊細で透明な感性は、過ぎし月日を掬えるほどに澄むと感受した。歳月と言わず月日がいい。これまでの月日に耳を澄ませて、それらを包み込むよう純粋に肯定できる作者のこころに惹かれる。月日へのオマージュと優しい目差が感じられる。前を向き生きるせいの眩しさと共に。

夏夕べ橋に木霊の立ちもどる 水野真由美
 夏の夕べは、いつでもハッとするほど青く吸い込まれそうになる。そこには数多の哀歓を秘めた追憶のしるべのように橋が架かっている。そして異界とを自由に往来することができる。もちろん人ばかりでなく、深い夏の木々の精霊たちも。そう言えば、さっき去って行ったばかりの木霊が、迷子のようにふわふわ立ち戻って来ている。暫くは、この想像の翼に乗って遊んでみる。

葉にふれる風よはなればなれです 三枝みずほ
 風はいつも素っ気なく、もどかしいほどよそよそしい。そして通り過ぎるもの。風にはいつも疎外感が漂う。風とはそういうものだと解っていても、はなればなれですと言いたい作者。だけど人はそんな風が好き。きっと何かを運んで来てくれると信じ。だから、ときには風よなどと呼びかけたりする。が、相変わらず風は風であり、ひとのこころには寄り添ったりはしない。葉にふれる風の手って一体何色でしょうか。

◆金子兜太 私の一句

原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 兜太

 高校の時、詩歌に造詣の深い音楽の先生から「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」は「作者の強い反戦の思い」と教わった。私達生徒は、リズム感あるフレーズを始終口にした。長じて海程入会三年目の平成23年、広島で全国大会があり、師を川崎千鶴子さんと平和公園(爆心地)をご案内した。慰霊碑の前で静かに佇まれた師。ご自身の句が平和に役立つよう常に願っておられた師との郷土でのかけがえのない思い出と共に大切にしている句である。句集『少年』(昭和30年)より。寺町志津子

霧の村石をうらば父母散らん 兜太

 金子先生が熊谷の新居に移られた折に、今は亡き先輩と共に先生宅に訪問しました。その帰り際に上掲「短冊」を頂く。以上は半世紀も前の昔のことですが、それ以来我が家の「家宝」として大事にしています。先生が育った秩父は山峡―なので霧が深い―山国を出ることなく暮らす老父母への愛情―を句にされたものと鑑賞。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。本田日出登

◆共鳴20句〈6月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選

二・二六雪の話をするふたり 伊藤巌
大夕焼仙台空襲と見間違う 江井芳朗
春隣日矢の音叉のカフェテラス 榎本愛子
トゥーンベリ柳の芽の弾けるよ グレタさん 大上恒子
亡妻つま呼べば草田男碑あり枯木径 岡崎万寿
冬柏ざわざわざわと逢瀬かな 尾形ゆきお
義理の兄「よかばってん」と根深汁 片町節子
涅槃西風過去がだんだん丸くなる 北上正枝
官邸へ直進の犀夏の月 今野修三
オルガンの余韻棲みつく冬たんぽぽ 芹沢愛子
○煮凍りや真顔で「どなた」と仰せらる 中村道子
どの道も杳杳として3・11忌 並木邑人
水引いて小箱大箱りんご箱 服部修一
静かな看取り日溜りの冬の蜂 船越みよ
木星の匂いね新しい布団 前田恵
霞む比叡山ひえい影絵のように友病んで 増田暁子
堅雪や一茶にながき訴訟事 村本なずな
水温む気化してしまった昨日のこと 森鈴
ふらここやガーゼのように泡立つ日 茂里美絵
恐竜はほとほと滅びふきのたう 柳生正名

市原正直 選

薄氷をこわす音して密事 榎本祐子
鉄骨のぶつかる響き冬夕焼 川嶋安起夫
野火走る乳出す草を舐めてゆく 河西志帆
着ぶくれて悪党がいる父がいる 佐々木宏
伏せし本に背骨一本ありて冬 佐々木義雄
木の芽風あめ玉二つ分の欲 佐藤詠子
指紋なき白き雛の手夜に入る 竹田昭江
野遊びのみんなが消えた野が消えた 椿良松
とあるページ引裂くきさらぎの直情 鳥山由貴子
○煮凍りや真顔で「どなた」と仰せらる 中村道子
コロナショック顔半分の春マスク 西美惠子
あお向けの海に雲雀を放ちたる 藤田敦子
玄関に咳ひとつだけ置いてくる 松井麻容子
他界から出てきた足か春炬燵 松本勇二
姿見を出たがるしっぽ雛の夜 三好つや子
○雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
○花明り人みちあふれている無人 望月士郎
こわれものの形あきなう梅まつり 茂里美絵
遮断器の棹の弾みも初景色 梁瀬道子
恋猫の一目散という汚れ 横地かをる

伊藤巌 選

髪濡れしまま沈丁を深く嗅ぐ 大池美木
青の熊野に備中鍬というものを 大西健司
道問われ示す芽吹きのうすみどり 狩野康子
げんげ田の水がふくらむ急がねば 河西志帆
春宵ほろほろ見知らぬ犬と道連れに 河原珠美
春夕焼なんにもしない手を洗う 北上正枝
梅よ、師の逝きし日の吾の生れし日の 北村美都子
いちじくの若葉冷たき手を探す 木下ようこ
しんしんと空しみじみと大根煮ゆ 篠田悦子
少年に風青々と原野来る 中内亮玄
冬霧がときどきたずねてくるカモメ 平田薫
浅き春手の濡れしまま人迎ふ 松岡良子
芽木とわれひとつの影となりゆけり 水野真由美
立木生う春田となれぬまま九年 嶺岸さとし
あおさ採り岩に張りつく母の影 武藤暁美
○雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
○花明り人みちあふれている無人 望月士郎
○種袋はらからの息やわらかい 矢野千代子
なりゆきの静かに終ひ冬河口 横山隆
○美濃紙折り母の寝嵩を憶う冬 若森京子

川田由美子 選
舞うように種を蒔く人山の畑 石川義倫
誰かく影より淡くあめんぼう 伊藤淳子
アフガンは青し柩は白し冬 稲葉千尋
病状にやわらかな揺れ薄氷 宇川啓子
ベビーカー春と並んでやって来る 奥村久美子
LPに落とす針先蝶生まる 片岡秀樹
失われし鑑真の眼の春の星 佐々木香代子
月あがる素朴が嬉し三月は 関田誓炎
やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
墓洗う一番明るい影つれて 舘林史蝶
青き踏む体のうろが軋みけり 中内亮玄
雪柳わたしも揺れていいですか 中條啓子
春の野に入口ぽろんと置いてきた ナカムラ薫
眠る星ひとつぶ呑むや夢深き 藤盛和子
白鳥は栞であった春隣 北條貢司
太陽の程よき重さ野遊びは 宮崎斗士
白葱やただ一行の母の文 武藤暁美
梟棲む父の分厚き日記かな 武藤鉦二
○種袋はらからの息やわらかい 矢野千代子
○美濃紙折り母の寝嵩を憶う冬 若森京子

◆三句鑑賞

官邸へ直進の犀夏の月 今野修三
 コロナ禍で、国のリーダーの資質の重要性をこれほど感じたことはない。今はカケ・トモ・桜問題は置いておいて、国民はコロナ危機への知恵のなさに怒っているのだ。犀は国民であり、もしかしたら、兜太先生のスピリットかも。犀の重量感と勢いがこの句の真骨頂。夏の月は迷う所。

水引いて小箱大箱りんご箱 服部修一
 作者は颱風銀座の異名を持つ宮崎県の方。ここ二年の大豪雨の実景であろう。地域や時間を限定せずとも普遍性がある。豪雨の後の広く散乱した家財。否、カメラを遠景からズームインしていき最後にりんご箱に焦点が合うことで、リアリティが増すようにも読み取れる。シンプルな素材を効果的にリフレインしたとこがうまい。

堅雪や一茶にながき訴訟事 村本なずな
 一茶の生い立ちを辿ると句柄とは程遠い骨肉の争いが横たわっていた。父親の遺書を頼みに北信濃の実家の遺産分与を十年に及ぶ訴訟の末勝ち取った。同じ長野出身の作者には身近な題材であり、堅雪は肌感覚の季語なのだろう。一度融けかかった雪が冷え込んで凍りつき堅くなった雪。人間関係の雪解けも難儀だ。季語がうまく嵌まった。
(鑑賞・石橋いろり)

コロナショック顔半分の春マスク 西美惠子
 コロナショックは令和二年の事件として、歴史に残るから、この句は将来名句になるかもしれない。この時期コロナ禍に関連してマスクの作品が多く見られたが、マスクは冬の季語だということを忘れた季重ねが散見された。マスクしたご婦人の年齢を当てさせるコマーシャルがあった。顔の下半分の手入れが悪いと老け顔になるという化粧品の宣伝。マスク美人の多いこの頃、マスクをはずした時のまたちがうショックが恐ろしい。

雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
 同時に、蕪村の〈斧入て香におどろくや冬こだち〉を思い出させる。斧の音を響かせるのは俗界との結界を求めたこころ。孤独というより自尊独歩の生きざまを鼓舞させる。

こわれものの形あきなう梅まつり 茂里美絵
 梅まつりの頃はまだまだ寒いが、その縁日で骨董もどき古道具類を並べた露店の様子が見えてくる。かって実用だった物の陳列は、一部に欠損などあってもなつかしい文化・思い出のかたまりである。それは古くなったから駄目でなく、むしろ熟成の慈味が出てくる。梅まつりという新たな季節の先ぶれは、こわれものと自虐する晩成のひとりを励ましている。
(鑑賞・市原正直)

げんげ田の水がふくらむ急がねば 河西志帆
 故郷の春・営みがぱっと浮かんでくる。水がふくらむいそがねば……、ああそうだったなとしみじみ思う。長い厳しい冬を過ごす地方の春は一気にやってくる。雪解けを待ちきれないように、梅、桜が開き、田にはれんげの花。そして田打ち、田植え……、そう春を喜んでばかりはいられない。厳しい辛い日々もやってくる。

立木生う春田となれぬまま九年 嶺岸さとし
 田圃は一年遊ばせると、原野に帰る。草ぼうぼうになるばかりか保水力が無くなり、復元は大変な作業になる。3・11からもう九年、いまだ原発の廃炉、除染の見通しも立たない田圃には、草どころか木が生え育っている。今はもう春田の時期。一番活気づく命の季節でもあるのに……。目をそらせないテーマがますます増えていく。

雪晴や切字の如き斧の音 武藤鉦二
 厳しい自然、大地に深く根を張ったような句に魅かれる。雪晴れの朝、ピーンと張りつめた空気、山仕事の緊張感が伝わって来る。斧を振るうたびに飛び散る木っ端、あたりに新鮮な木の香りが広がる。波郷の句に読まれた切字とは違った鋭い感じがいい。こんなふうに切字が使えたらとも思う。谺のように何時までも残る斧の音。
(鑑賞・伊藤巌)

誰か咳く影より淡くあめんぼう 伊藤淳子
 通りすがりの誰か、あるいは記憶の中の誰かだろうか。幽かなしわぶきの気配。作者の意識の中に影のように開き消えていった何か、それは作者の意識のまたたきそのものかもしれない。影より淡い、あめんぼうのような自意識。やさしさ、あきらめ、かなしみの影が見えてくる。

やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
 「やまとことのは」は、いわゆる「大和言葉」ではない。「やまと」と「ことのは」が、合わせ鏡となって見えてくる。作者は遠く倭の国にまで思いを馳せているのだろうか。永々と積み重ねられてきた人の営み、戦、歴史。全てが溶け合い、今、美しい風土となり作者の前に立ち現れる。手から手へ、心から心へと受け継がれた「ことのは」は、風土を湛えた多層のグラデーションである。

春の野に入口ぽろんと置いてきた ナカムラ薫
 春の野のやさしさ、春の訪れとともにやわらかくなってゆく心持ちが、「ぽろん」の音から感じられた。「入口」は、作者が春の野を踏みしめたその一歩、春の野に迎え入れられた最初の感触のようなものと受け取った。その「入口」が遠く定かでなくなるほどに、作者は春の野に包まれている。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

菖蒲葺くアルコール消毒の香り甘く 有栖川蘭子
夕焼けは私が沈むナルシシズム 泉陽太郎
葬儀する父のするめの役終わる 荒巻あつこ
燃えるのよ花も至誠もすべからく 飯塚真弓
時々サングラスをかけ独裁者 植朋子
てふの仲一時も縛るもの無き 鵜川伸二
この薔薇の門をくぐれば帰れない 大池桜子
雪渓や仮面護ろうとする本能 大渕久幸
尻振って狩する構え春の猫 かさいともこ
赤ん坊耳だけ大きくつくられて 葛城広光
乳飲み子に男の眼玉さくらんぼ 木村寛伸
八十八夜乱筆乱文恋しくなる 木村リュウジ
父母の墓抱く山より初音して 清本幸子
春の夢ずーと笑っている私 後藤雅文
ジャスミンと鉄線絡み合う無口 小松敦
桃咲いて李白の一村現れる 重松俊一
蟻落ちる子供の手より地獄へと 鈴木弥佐士
飛行機の影また過る茶摘かな ダークシー美紀
忘れればいいんだふわぁと終える春 たけなか華那
きのうより強い蚊のいる寝屋に行く 立川真理
ホームステイ晴れときどきチンアナゴ 谷川かつゑ
太陽の匂いがします更衣 千葉芳醇
桜の実終生脇役で光る 中尾よしこ
心折れふらここに乗る強く漕ぐ 仲村トヨ子
祖国といふとき梧桐のはにかみ 深澤格子
初鳴きの染み込んでゆくシャッター街 保子進
青空という拘束郭公は破る 松﨑あきら
春の燈やあまたの奈落ありといふ 武藤幹
隠元豆煮染める窓に海せまり 吉田貢(吉は土に口)
夜光虫父にまばゆき癌の点 渡邉照香

『海原』No.20(2020/7/1発行)

◆No.20 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

春琴抄閉じ春雷の中にいる 伊藤巌
誰か呼ぶふと身じろぎの花蘇枋 伊藤淳子
激論のあと春満月が重過ぎる 伊藤道郎
3・11「古里」奏ずトランペット 江井芳朗
一枚の田のそれぞれの春の鳥 大髙洋子
父母焼けて吾が名知らぬ子ヒロシマ忌 川崎千鶴子
料峭や夜という名の黒猫 河原珠美
無口なりの感染もあり蝶の島 木下ようこ
春は夕暮れ花嫁の父小さく帰る 小池弘子
ひらくたび光の曲がる雛の函 小西瞬夏
羽音めくその向こう側花の雨 近藤亜沙美
夫逝きて消えし犬鷲秋田駒 坂本祥子
葉桜という感情で夜を漉く 佐孝石画
片減りの靴に卯の花腐しかな 佐々木義雄
友逝くやコロナ籠りの花の雨 白石修章
英霊の数詞は「柱」桜散る 瀧春樹
マスクしてまばたくわれら鳥帰る 田口満代子
蕗の筋舌に残りぬ多喜二の忌 竹田昭江
春愁や自分自身に絡み酒 峠谷清広
巣ごもりの朝餉のためのみずからし 遠山郁好
どこでもない懐しい町蠅生る 鳥山由貴子
生きすぎて逝く日待ちおり啄忌 中川邦雄
揚雲雀空に絶壁はあるか ナカムラ薫
茎立す昨日を消したカレンダー 増田暁子
紫木蓮空気うごかさぬよう見上ぐ 松本勇二
休校の桜生徒を待ち切れない 三浦二三子
テレワークもっと囀りのなかへもっと 三世川浩司
躁の桜も鬱の桜も故山なり 武藤鉦二
ミモザ抱いて抱いてすべなしコロナ禍や 村上友子
桃の日や八十年の朦朧体 若森京子

遠山郁好●抄出

春なのにコロナウイルス春なのに 綾田節子
春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
嬉しさを膝に流して春の空 奥野ちあき
少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
ぞっとしました桜隠しに月光とは 小池弘子
生あれば吸気の香り青い風 小宮豊和
甲斐駒ヶ岳かいこま拳骨げんこいただく春霞 近藤守男
無表情拾ひ集めし四月かな 齊藤しじみ
北の朝深い呼吸と軽いコート 笹岡素子
卒業式みんなが狐マスクして 佐々木宏
山恋し木洩日淡し花通草 末安茂代
夢なんて照れば忘れる揚雲雀 高木一惠
わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
待つという静かな未完木の芽雨 月野ぽぽな
青空をスピーカーにして山笑う峠谷清広
春の音いつしか雨に濡れている 永田タヱ子
飛花落花たましいにある金属質 中塚紀代子
吾が町角色濃く見える老いの春 中村孝史
身辺の尖りに倦みし春の暮 丹羽美智子
義歯洗う夜滝を覗き込むように 野田信章
朧世の朧の中で白濁す 長谷川阿以
あいまいな喪失抱えしまま飛燕 藤田敦子
田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
休校のブランコ夜の渚かな 本田ひとみ
カトラリーちいさく鳴ったのは花冷 三世川浩司
ふくしま三月両膝は海に向く 武藤鉦二
ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし
疫病えやみ世に生まれ蝶の名すみながし 柳生正名
楪や父の直球受け損ね 梁瀬道子
ここから先は自由にサワガニ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

誰か呼ぶふと身じろぎの花蘇枋 伊藤淳子
 日常にふと訪れたかすかな漂泊感を、肌理の細かい言葉の斡旋で捉えた作者の真骨頂の一句。花蘇枋は雨に濡れていたのではないか。「誰か呼ぶ」とは、花蘇枋に憑かれたように見入っていたとき、ふと誰かに呼ばれたような気がしたのだろう。それはあるかなきかの物音とも声ともつかぬものだが、作者があっと気づいたとき、花蘇枋は濡れたからだでかすかに身じろぎをしたに違いない。それは、作者にふとさずかった詩的直感の響きあいともいうべきものであった。

一枚の田のそれぞれの春の鳥 大髙洋子
 山間の棚田の中の一枚の田に訪れた春の鳥。「それぞれの」とあるからには、春の鳥が思い思いに自分の田と決めて、一枚ずつ田に舞い降りているのかも知れない。それほど多くの群れではなかったのか、一枚ずつの田の配分に事欠くことはなかったのだろう。「田のそれぞれの春の鳥」としたとき、峡の棚田の安らかな平和を感じたのではないか。穏やかな庶民の暮らしが見えて来る一句。

春は夕暮れ花嫁の父小さく帰る 小池弘子
 春の夕暮れ、その日最愛の娘の結婚式と披露宴も滞りなく終えた父親が、やっと肩の荷を下ろした思いで帰ってゆく。その背中は妙に淋しげで、小さく曲がっていた。おそらく、これが花嫁の父親像の典型的な姿ではないか。結婚式は春と秋がシーズンといわれているから、秋の夕暮れもあり得よう。だが秋だと花嫁の父はなかなか建前から逃れることが出来ず、小さく帰るわけには行かないような気もする。春の夕暮れなればこそ小さい父に戻るのだ。

葉桜という感情で夜を漉く 佐孝石画
 花の後の葉桜は、どこか感情のざわめきのようなものを覚える。花の宴の後に来る空しさの気配とともに、突然強い風がシャワーを伴って吹き募ることがある。葉桜はその感情のざわめきで、夜を和紙のように漉いてゆくと捉えた。さすがに越前和紙、若狭和紙等の本場に住む作者ならではの感性である。加えて作者は書家でもあり、和紙の質感に精通している人。「葉桜という感情」で夜の帳を漉いてゆくという表現が、この人ならではの重い実感に支えられているこというまでもない。

友逝くやコロナ籠りの花の雨 白石修章
 「コロナ籠り」とは、全国的緊急事態宣言によって外出自粛が行われ、自宅待機を余儀なくされている状態をいうのだろう。こういう閉塞感の中にあっては、気力を失い、病が嵩じて亡くなられる方も多くなる。その中に親しい友がいた。おそらく死去の報を前に、駆けつけることもかなわず、ただ茫然と花の雨を見つめているばかり。「コロナ籠り」という異常事態の中にあって、花の雨が友の死の悲しみを染み通らせてゆく。

生きすぎて逝く日待ちおり啄木忌 中川邦雄
 作者は、今老人ホームで静かに余生を過ごしておられる。大きな施設というし、ご夫婦での入居だからそれなりに豊かな日々を楽しまれておられるのではないかと想像していたが、この句から伝わってくるものは、やがて来る死を待ちつつ無為の日々を送る老いの姿である。そこには「生きすぎ」たとするやや自己韜晦の味も感じられるものの、啄木忌と取り合わせたことで、一気にそんな生きざまを肯い得ない作者の心意気に触れた気がする。弱冠二十六歳で火花のような生涯を終えた啄木を、美しい星のように見上げつつ、対照的な幕引きの時を迎えようとしている一人の老いの姿の中に。

紫木蓮空気うごかさぬよう見上ぐ 松本勇二

 紫木蓮は、花弁が中ほどから外へ開く端正な六弁の花で、大ぶりの葉がついている。大木にはならないが二~三メートルほどには達する。花は深い紅紫色で、庭木としても美しい。作者はその咲きぶりに魅せられつつ、花のかたちの見事さをいつまでもそのまま保ってほしいとの思いをこめて、「空気うごかさぬよう」にそっと見上げた。この心遣いが紫木蓮の花の完璧な姿を保証している。

桃の日や八十年の朦朧体 若森京子
 桃の日は、いうまでもなく三月三日の雛祭の日にあたり、女児のいる家庭では雛人形を飾り、美しく装ってお祝いの宴を開く。恵まれた家庭に育ち、豊かな才能を存分に発揮してきた作者にとって、一年の中のひときわ輝かしい一日であったに違いない。その作者も八十年の歳月を経て、ようやく若き日の輝きも茫々たる往時の中に、朧に霞んでみえる。そのとき、自分の八十年の生涯は、墨絵の朦朧体のような朧な輪郭をまとっているようにさえ見えて来る。おのれを遠い風景のように抱え込んだ命の灯りと見ている境涯感ではないか。

 折りしもコロナ問題に世界中が巻き込まれている中にあって、「テレワークもっと囀りのなかへもっと」(三世川浩司)、「ミモザ抱いて抱いてすべなしコロナ禍や」(村上友子)ような意欲作があったことを付け加えておきたい。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
 待っていた春がやって来て、妻は春の花の名を指折り数えはじめる。やがてそれが十指に余り両手に溢れる。そんな妻の仕草を慈しみ深く見守る人。その時、妻の表情がぽおっと灯ったように明るく見えた。祈りにも似た今日一日の安堵と幸せに、しみじみ浸る刻。なんと誠実で、愛あふれる句だろう。人の美しき本質を見るようだ。春はしみじみいい。

北の朝深い呼吸と軽いコート 笹岡素子
 北国の人の春の訪れに対する感受は深く鋭敏。しかし、この句には、どこにも春とは書かれていない。ときに春を言うとき春という言葉の概念に束縛され、新鮮な春が伝わらないこともあるが、この句は違う。北の朝、深い呼吸、軽いコートを提示するだけで、長い冬からの解放の喜びを伝えようとする作者の率直な言葉、物への接近が功を奏した。まだ浅き春の人懐かしさと澄み、それを全身で感じようとしている作者の眩しさ。

青空をスピーカーにして山笑う 峠谷清広
 こんな山笑うは他にあったでしょうか。とにかく、手放しで笑う山を書き切った。スカーッとこの抜け感。単純明快な映像は印象も鮮明。雲一つない、どこまでも続く響き渡るような青い空、その青空がスピーカーになり山の笑い声を、春を、わんわん拡大拡散し、時には耳障りなほど、そこらじゅうに満ち満ちる。雪国にまた春が来た。どこか戯画的で、一茶を思わせる直截は魅力的。

嬉しさを膝に流して春の空 奥野ちあき
 この作者も北国の人。そう思うと春への思いは、私などと比べようもなく深いはず。何か嬉しいことがあったのでしょう。それを膝に感じていることが、とてもユニークで新鮮。正座している膝に春の空が映って流れてゆく。嬉しいことと一緒に。ことさら人に告げることもなく、ひとりで、さりげなく喜びを噛み締めている。ああいいなあ。感じとることの優しさを春の空が祝福する。

夢なんて照れば忘れる揚雲雀 高木一惠
 夢なんてと多少の屈折と共に始まり、照れば忘れると大胆な展開に引き込まれ、そして結句の突き放つような明るさの揚雲雀に救われる。雲雀野の空へ向かって帽子を抛り上げるような、書くことによる自己解放の句でもある。また、今世界を席捲する疫病禍を一場の春夢と捉えれば、そんな夢なんて太陽が照りつければ、やがて忘れるという力強いメッセージとも読め、この句に惹かれる。

わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
 火入れ前の火種を造ることに視点を置いて書かれたこの句。予言者の神聖な儀式のようでもある。宿命のようなごうのようなわが影。その影を束ねる行為に人間存在の重さと寂寥を思う。再生のための野焼、その跡からは、どこからか野太い声が聞こえてくる。

春の音いつしか雨に濡れている 永田タヱ子
 春の音ってどんな音だろう。水の風の木々のそして空の擦過音。生き物たちの暮らしの音。ひかりにも音が。それらの全ての春の音に耳を傾けるとき、春の音と私は、いつしか雨に濡れている。いつしか・・・・に長い人生の歳月を感じ、この星の悠久の時をも思う。簡明にして深くリリカルなこの句に出合うとき澄明な感動が訪れる。

休校のブランコ夜の渚かな 本田ひとみ
 緊急事態宣言による一斉休校により、人影のない校庭の使われないブランコ。その無人のブランコ、人恋しさで微かに揺れ軋む。その音を聞いた作者。その時、離れて暮らす故郷への思いが、夜の渚と共にひたひたと甦る。休校のブランコと夜の渚の二つの物語の重なりが、この作品をより深化させ、その想いを厚くさせる。

春なのにコロナウイルス春なのに 綾田節子
 今は春まっ只中なのに、ウイルス禍が世界中に蔓延している。花々が咲き乱れ、眠っていた生き物が目覚める春だというのに。今はそれらと交感することも出来ず、素通りするだけ。春なのに・・・・の繰り返しは実感であり、こころからの声。しかしこのウイルス、紫外線と湿度に弱いと聞く。今は信じよう。全身で季節を感じられる日が来ることを。

疫病えやみ世に生まれ蝶の名すみながし 柳生正名
 新型コロナウイルスという疫病えやみ世に遭遇してしまった。自然界の複合的要素と人為的要素によって引き起こされる疫病。こんな疫病世と知らずに生き物は生まれる。もちろん蝶も。その中で作者は、すみながしという蝶に注目した。蝶の名は染色の墨流しから来ていて、粋ではあるが、墨が流れる様はウイルスに汚染されてゆく地図のようにも見える。また、蝶の赤い口吻は気味のよいものではなく、そう言えば蝶の飛ぶさまは病み上がりのようでもある。疫病はつねに文明の在り方を問い続ける。過去の感染症の記憶を感情でなく科学で理解しなければと思う。

◆金子兜太 私の一句

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太
 掲句と兜太先生を教えてくれたのは、故徳才子青良先輩であった。この句で兜太先生を知り、「海程」の会員となった記念の句である。1962年8月、先生は「寒雷」青森支部俳句大会特別選者として初めての来県。大会の翌日竜飛崎吟行をし、朝の暗い岬に立ちタバコの火を点し岩肌が赤く燃えたという。私は先生の心が燃えたと読み取り、思い出深い一句である。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。後藤岑生

ほぐれたりひぐらしが湧くよ 兜太
 五・五・三の破調ですが、繰り返し読んでいますと十七音の呼吸で体に入ってきます。「ほぐれたり」の語感にどこか懐かしい響きが、また「湧くよ」という先生独特の捉え方に時間的経過と美しい感覚の世界が立ち上がってきます。新同人になった年の全国大会で先生から出身地を訊ねられ「長野県伊那です」「そうだ伊那の顏だ。伊那は君の様な顔容の人が多い」緊張の糸がほぐれた一瞬でした。句集『日常』(平成21年)より。横地かをる

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
レタスほど晩節明るい夕べかな 有村王志
ベロ焼いてヘロヘロしている大みそか 石川義倫
水仙の波間よ日暮の重さくる 伊藤淳子
七草粥姉がおととを叱りし日よ 宇田蓋男
強引がちょっと嬉しい鎌鼬 奥山和子
寛容であることに尖る牡蠣フライ 桂凜火
遠き死近き死あり風花す 金子斐子
煤逃げの上手な娘わたくし似 川崎千鶴子
待春のかたちで眠る猫に添う 河原珠美
柚子もぐや子に従えば晴れてくる 金並れい子
雪降りて村たべさせるねむらせる こしのゆみこ
息継ぎが足りない雲から雪となる 佐孝石画
北風や兜太残党のくちびるぶ厚い 白井重之
梅咲いてスマホに写る青き鮫 鈴木康之
冬虹の低し集落は小さし 田中雅秀
煤逃げ誘う路線バスの灯りかな 谷口道子
麦を踏む軽さよ無印むじのスニーカー 董振華
慈雨は母老木も母噛みしめる 野口思づゑ
十方じっぽうのあまたのや兜太の忌 疋田恵美子
如月の美童の犬歯見え隠れ 日高玲

奥山和子 選
柚子湯かな年寄りは年寄りが嫌い 宇田蓋男
最終列車乗ってしまった嫁が君 奥山津々子
いたわるしかない冬のキュウリ一本 柏原喜久恵
野水仙私というは小さきふち 川田由美子
困ったひとだ無花果の重さかな 木下よう子
ピカソノフクロウガヒロシマヲアルイタ 白石司子
初鏡ちょっと自分にあっかんべえ 鱸久子
初春や人のかたちのうちに会う 髙尾久子
蝿叩き離さぬ魚屋あり立冬 野田信章
○白うさぎ医師にすこしの嘘をつき 長谷川順子
道の端に手袋片方指す真闇 藤田敦子
まだ曲にならない音符冬銀河 船越みよ
雪を着る針葉樹林肩がない 堀真知子
よく喋る縄文土偶冬の月 松井麻容子
白菜を割って寂しい顔ふたつ 松本勇二
雪の夜は耳にじょうずに触れてくる 宮崎斗士
他界から片掌を出して八重椿 村上豪
ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる
母さんは嘘ばかりつく春の昼 らふ亜沙弥
掴みたる分だけでいい年の豆 若林卓宣

佐々木宏 選
冬北斗吾を爆弾と云う父の 伊藤幸
アフガンは青し柩は白し冬 稲葉千尋
非戦派や焼芋で臍あたためる 榎本祐子
冬林檎猫になりきる喧嘩して 奥野ちあき
ここはむかし子宮だつた雪だつた 小西瞬夏
冬花火年に一度の遺書を書く 菅原春み
なまはげ一匹怪しき出所名乗りけり 鈴木修一
ザリガニの髭が絡まる今朝の春 高木水志
冬の蠅男が唇を舐める 鳥山由貴子
孫が子を産む九月かーんと塔そびえ 野田信章
○白うさぎ医師にすこしの嘘をつき 長谷川順子
トローチのだんだん細り墓掃除 畑中イツ子
一族にひとつの便座去年今年 藤原美恵子
耳たぶは寒夜のさな寛容かな 北條貢司
みみず鳴くまだまだこの世は神秘的 松本節子
マフラーぐるぐる血糖値ひくいはず 三世川浩司
○葱を掘る忌日も老いも後ろより 武藤鉦二
凍蝶やひたすらスマホの少年や 村上友子
白菜が炎のかたち夜のウォーキング 山内崇弘
アスパラガス甘い仕事です明日も 六本木いつき

芹沢愛子 選
廃炉遥か初日を隠す防潮堤 伊藤巌
山茶花や影ごと散っている日常 伊藤淳子
谷の木木月に釣られて動きけり 内野修
セーターの葉っぱ取り合って別れかな 大久保正義
春の月まん中という柔らかさ 奥村久美子
飼いならすように寒紅引きにけり 小野裕三
国家にも方向音痴時雨けり 片岡秀樹
冬銀河その奥に詩を汲みにゆく 北村美都子
やれやれ夜明けときどき鳴いて梟 小池弘子
走り去る者の清潔焚火の 遠山郁好
真夜中の鏡砕氷船が過ぐ 鳥山由貴子
大晦日の手と話すまだ働ける 西美惠子
雨音のもの忘れして雪になる 丹生千賀
白鳥の村の少女の平和論 本田ひとみ
美容室着いて来たのは北狐 前田恵
神を信じるしかない島よ崖しかない マブソン青眼
雪女同士気づいてユニクロにて 宮崎斗士
○葱を掘る忌日も老いも後ろより 武藤鉦二
アフガンで死なせし大根煮くばかり 柳生正名
冬の薔薇くずれ母に抱かれたよう 若森京子

◆三句鑑賞

ベロ焼いてヘロヘロしている大みそか 石川義倫
 日常の他愛無い一コマ。実に滑稽だ。想像するだけで作者の本性が垣間みえる。餅でも焼いてつまみ食い。大晦日をヘロヘロしながら皆の邪魔になりながら煤逃げしているのか。笑みが思わず零れる普通の人間の。安堵感のある魅かれる句だ。

麦を踏む軽さよ無印むじのスニーカー 董振華
 子供の頃、二毛作で麦畑はいっぱいあった。麦踏みはあまり記憶がない。藁のストローでのシャボン玉のほうが記憶に強い。無印のスニーカーは実際にあるようだ。その軽さも連想させて今風の若者の句に。実際の麦踏みの力の入れ具合はわからないが。「麦を踏む軽さ」の表現が気持ちよくて素敵な句になった。

十方じっぽうのあまたのや 兜太の忌 疋田恵美子
 先生の「おう」は何回聞いたことだろう。この一言を聞くことの為にだけ各地から参集した海程人は数多に違いない。わたしもその一人だが。また、今号に
年齢は七掛け八掛け兜太の忌 深山未遊
という句も掲載されていた。「女は七掛け、男は八掛け」これもよく聞いた覚えがある。それにつけても兜太残党の我ら。「兜太の忌」が沁みる。
(鑑賞・大西政司)

白菜を割って寂しい顔ふたつ 松本勇二
 田舎に住んでいると手に入る白菜はたいてい一玉単位である。「えいや」と二つ割にして、切り口を眺める。絹のような繊維が年輪の様に連なって瑞々しく美しい。さてこれをどうしよう。子供らも巣立った家庭では使い切るのは大変である。覗き込む二人の顔が、切り口の顔に重なる一瞬の寂しさが心を打つ。

他界から片掌を出して八重椿 村上豪
 幾層にも重なった少しもったりした花びらが、艶艶の深緑の奥から覗く。「なにも怖がることはない。あの世には懐かしい人たちが待っている」。花々はまるで誘うように手を伸ばして来る。両手ではなくまだ片手なので、引き込まれるにはもう少し間がありそう。それまでこの世でもうひと踏ん張りである。

まだ曲にならない音符冬銀河 船越みよ
 キーンと澄んだ寒空に散らばる星々の煌きを何に例えるかは作者の感性。四分音符、八分音符、それぞれの瞬きと大きさに置き換えられた音符は春の訪れに際して、どんな音楽になるのだろう。壮大な交響曲や優しいセレナーデ。楽団はすでにチューニングを始めているかもしれない。想像は何処までも膨らんで楽しい。
(鑑賞・奥山和子)

マフラーぐるぐる血糖値ひくいはず 三世川浩司
 血糖値が低いと冷や汗やふるえ等の症状があらわれ、場合によっては意識障害から昏睡状態も見られることがあるという。「マフラーぐるぐる」。このマフラーのあり様に、なにか血糖値の低い状態を見て取ったのであろう。やや滑らかさを欠くリズムは、その暗示に有効に作用しているように感じる。それにしても、マフラーから血糖値へは、なかなか飛べない。すぐれた感性というか卓越したわざ、力量を思う。

冬北斗吾を爆弾と云う父の 伊藤幸
 親は子どもにいろいろな願いを持つ。しかし、子どもはそうした願いとは別に自立の道を、時には大胆に歩み出す。爆弾とはこうした乖離やはらはら感のことであろう。インパクトの強いことばを巧みに使いながら、冬北斗と父親の凜とした姿勢をうまく重ね合わせた。

冬林檎猫になりきる喧嘩して 奥野ちあき
 先日、読んだ本に「分かる/分からないをX軸、おもしろい/おもしろくないをY軸に四つの象限を書くと、多くの詩は分からなくておもしろいという象限に存在している」とあった。俳句は、どうなのであろう。この句はどの象限に入るのだろう。いずれにしても、良質・好句と思う。洒落たフレーズが光る。
(鑑賞・佐々木宏)

やれやれ夜明けときどき鳴いて梟 め奴  小池弘子
 梟が身近にいない者はイメージで作る。題材として梟はいかにも魅力的なので佳句も多いが、「梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る/前田恵」を秀句に選んで大沢輝一氏が「真実の冬の夜」と評した。小池さんのこの句も「真実の冬の朝」としてすんなりと心に響いた。過去の句「青葉木菟まるいちいさい何もいらない」も大好き。

神を信じるしかない島よ崖しかない マブソン青眼
 昨年からフランスのマルキーズ諸島に単身移り住んだ作者。一年中気温二七度の島の暮しは無季句になると、俳句の可能性に期待していたが、病院はおろか酸素ボンベ一つ無い島でコロナウイルスに感染してしまった。今は快方に向かったと聞くが本当に辛くて怖かったという。「崖しかない」は絶唱。背景を知らずとも胸に迫る句。

アフガンで死なせし大根煮くばかり 柳生正名
 医師中村哲さんの死は衝撃的だった。その死を惜しみ業績を称える追悼句が多い中、「死なせし」との捉え方に瞠目した。失われた命の大きさに、ジャーナリストとして、日本人としての無力さを感じている。〈死にたれば人来て大根煮きはじむ〉と死を突き放したような下村槐太の句を踏まえ、「煮くばかり」と心情を込めている。
(鑑賞・芹沢愛子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春のうみ天使の羽の腐乱臭 泉陽太郎
柚子風呂に老いぼれといふ真正面 鵜川伸二
寒夜の訃とおき怒濤と思いけり 上田輝子
滲ませて言えない言えない春の月 遠藤路子
亀鳴けり方言がかわいいとかって 大池桜子
宅配で届くユーウツ春の蝶 かさいともこ
木の芽時閑職の椅子逆さまに 葛城広光
白つつじ愛想笑いを午後という 木村リュウジ
あさり飯藍色多き江戸古地図 工藤篁子
密閉密集密接句会おぼろ 黒沢遊公
花冷えや夜勤ナースの付け睫 黒済泰子
言葉遅き子ポケットから青蛙 小林ろば
チューリップ理由をきこうとして笑う 小松敦
丹念に手洗いをして雛の前 榊田澄子
疫禍の春キリコの街を見るごとし 佐々木妙子
花冷えの立方体の狡猾さ 島崎道子
蛍烏賊食みて眠れば腹光る 鈴木弥佐士
肩痩せて桜隠しのしんしんと そらのふう
白樺若葉足を止めて長まれよ たけなか華那
こんな世に放り出されて行行子 立川真理
水温む情死のように箸浮かび 谷川かつゑ
野遊びはポルトガル人の匂いがする 松﨑あきら
ウイルス百態ガバリゴブリと三鬼の忌 松本千花
言魂ことだまの人を離るる余寒かな 武藤幹
体操の受業に昔蛇を見た村 上紀子
ドンキホーテ飛沫に向かい草矢射る 森本由美子
夫とゐるは開花の誤差の如きもの 山本まさゆき
猫四匹散らばりねむる處暑の家 吉田貢(吉は土に口)
人様のいのちの重み佗助よ 渡邉照香
砂時計ひとつぶ詰まり啄木忌 渡辺のり子

『海原』No.19(2020/6/1発行)

◆No.19 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬落暉海に浮かんでいる享年 大沢輝一
沈丁花ぽろぽろ鬼の泣く話 奥山和子
回教徒冬の霧へと歩み去る 小野裕三
泥の海より車引き出す夜明けかな 金澤洋子
風評の不連続音春疾風 刈田光児
男手の無くて弥生のおろしがね 木下ようこ
春の星花文字を読むように 久保智恵
末黒野を行くちちははに影がない 小西瞬夏
掃きこぼす満天星の花街路灯 近藤守男
春の砂洗ったばかりの言葉かな 佐藤詠子
金縷梅が音立てて咲く師の墓域 篠田悦子
おぼろ夜の抽斗ひきだしアンモナイトの化石 清水茉紀
マスクして大群衆のひとりとなる 白石司子
父帰る樹齢百年梅の花 鈴木康之
初蝶来めしひの姉のかぶくかな 髙井元一
やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
人去りてあしびの花に次の雨 竹田昭江
嘴のやうなるマスク花ミモザ 田中亜美
野遊びのみんなが消えた野が消えた 椿良松
白鳥は帰りミルクの賞味期限 遠山郁好
ひなあられ光を玉にしてこぼす 中内亮玄
春の野に入口ぽろんと置いてきた ナカムラ薫
煮凍りや真顔で「どなた」と仰せらる 中村道子
春光のソナタ形式にて老女 日高玲
廃炉まで死なぬ耕しの鍬一本 船越みよ
老優のほほえみ冬のしゃぼん玉 本田ひとみ
死んだ気がしないと兜太蕗の薹 深山未遊
しあわせの形状記憶ミモザ咲く 室田洋子
ど忘れのように父いる潮干潟 望月士郎
無観客にて蝶生まれ白墨折れ 柳生正名

遠山郁好●抄出

逃げ場ない夜は蜆の水覗く 伊藤歩
誰かく影より淡くあめんぼう 伊藤淳子
冬の谷岩の凹みに水死せり 内野修
春九十歳あと十年は背負い投げ 大内冨美子
蟷螂や五郎丸さんのルーティン 金澤洋子
耕読舎こうとくしゃと名付けし納屋や吊し雛 神田一美
涅槃西風過去がだんだん丸くなる 北上正枝
青年は脱皮途中に陽炎える 金並れい子
沖見尽くして二月のきれいな顔 三枝みずほ
春の砂洗ったばかりの言葉かな 佐藤詠子
病める子よ雪女郎は語らない 下城正臣
両手で受ける遍路のお鈴波の音 鱸久子
歩いているこころが葉っぱっぽくて小春 芹沢愛子
何処までも僕の肉体冬の空 高木水志
やまとことのは葱美しき水辺かな 田口満代子
白鳥飛べば散華のよう私 田村蒲公英
日に九里けふは葛城山かつらぎ猪駆ける 樽谷寬子
苔清水見えぬ眼冷やす老博徒 遠山恵子
野兎は少年火薬庫までの距離 鳥山由貴子
にわとりもりらの真昼をたそがれて ナカムラ薫
霾ぐもりひりひりひりと手を洗う 丹生千賀
芹を摘むまもなく風がとどきます 平田薫
手鞠花ことばと息をまるく出す 北條貢司
木星の匂いね新しい布団 前田恵
鰯の頭生物兵器かもしれぬ 松本豪
陽炎それからやすみがちな本屋 三世川浩司
掌の雪のようです眠る君 森由美子
須磨恋したいやきの餡はみ出して 矢野千代子
冬ひと日心澄まねば筆を置く 山田哲夫
一番三番テーブルに水春疾風 六本木いつき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

回教徒冬の霧へと歩み去る 小野裕三
 回教徒は、今ではイスラム教徒(ムスリム)と一般的に呼ばれている中東地域の人々。独特の服装に特色がある。男女とも、胴長の上からすっぽりかぶる黒っぽい衣装で、女性は特に顔を隠すスカーフ状のものを用いる。作者の在住する国際都市ロンドンあたりでは、よく見かける民族衣装かもしれない。そんな秘密めかした姿は、冬の霧の中にまぎれこむのにふさわしい。ロンドンは霧の多い街。霧に消えていく幻想性が生まれよう。

泥の海より車引き出す夜明けかな 金澤洋子
 作者は岩手の人だから、この句は東日本大震災を回想したものかもしれない。やはり岩手の俳人照井翠に「喉奥の泥は乾かずランドセル」がある。照井句は直接遺体を詠んでいるので、その迫真性には及ばないかもしれないが、照井句にはない景としての臨場感や時間の流れも見えて、夜明けとともに浮かび上がった被災地の惨状を浮き彫りにしている。

父帰る樹齢百年梅の花 鈴木康之
 今年は兜太先生生誕百年の年に当たるので、あるいはこの句のモチーフにも、それが意識されているのかもしれない。そうだとすれば、「父帰る」は師父としての兜太師が他界から帰ってくる日が含意され、「梅の花」は「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の庭の梅ともみられよう。当然「樹齢百年」は生誕百年を祝う挨拶が込められるとみてよい。そう読めるところが面白い。

人去りてあしびの花に次の雨 竹田昭江
 馬酔木の花の群落に、一団の人々が集まっている。つい今しがたまで小雨があったが、人々の鑑賞中は雨も上がっていた。やがて人々が去ると、思い出したように次の雨が降ってきた。それは偶然のことに違いないが、馬酔木鑑賞の一団へのサービスのような、こころ憎いもてなしのようにも見える。

ひなあられ光を玉にしてこぼす 中内亮玄
 雛飾りの美々しさもさることながら、ひなあられのおこぼれにあずかる時の待ち遠しさもまた心弾むもの。作者の住む福井あたりでは、女の子をもつ家庭なら今なお大きな年中行事となっていよう。ひなあられをお供えするとき、その幾粒かがこぼれ落ちた。あっと思った瞬間、ひなあられは「光を玉にして」こぼれ落ちたという。ひなあられに家族への思いが凝縮されている。

春光のソナタ形式にて老女 日高玲
 ソナタ形式とは、器楽形式の一種で、主要主題を持ち、提示部・展開部・再現部からなり、序奏や結尾部(コーダ)を付けることもある。人生をこのようなソナタ形式に則って過ごせる老人は、人生の勝者といってよいだろう。こんな人はざらにはいないが、稀にはいる。女流俳人なら、中村汀女、星野立子、細見綾子などが挙げられる。そういう人達の人生は、老いてなお春光の中に馥郁と香るような余生を送るのである。

老優のほほえみ冬のしゃぼん玉 本田ひとみ
 老優としゃぼん玉の取り合わせといえば、やはり昭和の映画全盛時代の老優が思い浮かぶ。ましてその「ほほえみ」ともなれば、滋味溢れる老け役笠智衆あたりが典型的なものだろう。孫たちの吹くしゃぼん玉の行方を目で追いながら、頬に深い皺を刻んで微笑む。そこには、苦労多かった人生を言挙げせず、ひたすら耐え忍んで生きてきたいぶし銀のような表情がある。しゃぼん玉は、そんな定めなき余生の行方を見ているようだ。

死んだ気がしないと兜太蕗の薹 深山未遊
 兜太師は生前『私はどうも死ぬ気がしない』という著書を書き、「いのちは死なない、「他界」に移るだけ」と述べておられた。おそらく今頃他界でも「どうも死んだ気がしない」と嘯いておられよう、蕗の薹が芽を出すこの時期に。師の命日も近い頃合。師のやや甲高い塩辛声のようにも響いてくる。親しみをこめた追悼の一句だ。

しあわせの形状記憶ミモザ咲く 室田洋子
 ミモザの花は、どこか南国の楽園の花を想像させるところがある。そこは、なぜかしあわせの宿る花園で、過ぎ越し人生のどこかで花開いていたような気がするものだ。ことに亡き肉親や愛する人々との日々は何ものにも代えがたい。そんなしあわせの日々の記憶が、ミモザの花を見るたびに甦るという。この句の「形状記憶」というメカニカルな表現は、作者の中で多年牢乎として棲みついている思い出なのだろう。

無観客にて蝶生まれ白墨折れ 柳生正名
 折からのコロナ禍問題で、さまざまなイベントが無観客で開催されている。そんな世相を風刺しながら、季節の生活感を巧みに織り込んだ一句。蝶が生まれても、外出自粛の折から見る人とてない。学校の黒板に問題を書いても、休校が続いては解を書く生徒とていない。すべては無観客のまま営まれるほかはない。季節の表情の裏に広がる自然社会現象の空しさを捉えている。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

陽炎それからやすみがちな本屋 三世川浩司
 陽炎が立った。カミュの「異邦人」然り、人は一見、何の因果関係もない自然現象を理由に、しばしば自分の行為を正当化することがあるらしい。近頃の本離れの社会状況ばかりでなく、確かに陽炎自体、人を幻惑し、懶惰な気分にさせる。そして何より、この句の読み手を誘い込むような韻律にすっかり取り憑かれてしまい、そもそもこの本屋は最初から存在したのかさえ疑わしくなる。さっきまで鄙びた町の小さな本屋の主人の佇まいまではっきり見えていたはずなのに。

須磨恋したいやきの餡はみ出して 矢野千代子
 神戸淡路大震災のあと、作者はじめ関西の方々のお世話になり、海程全国大会で須磨に泊まったことがある。須磨は源氏物語や歌枕、そして様々な歴史上の地でもあり、その景と共に忘れ難い。この句、作者は全く日常的な鯛焼の餡のはみ出すことから、突然のように須磨が恋しいと言う。何の脈絡もなさそうな、遠いと思われていた二つの物の衝撃により新しい風景が見える。そのインパクトは大きい。そして今、ご自宅のある須磨を離れて暮らしておられる作者の、「須磨恋し」と衷心からの卒直な言葉に共鳴し、心が揺さぶられる。

耕読舎こうとくしゃと名付けし納屋や吊し雛 神田一美
 晴耕雨読からの命名でしょうか。職を退かれてからの悠々自適の生活が覗われる。耕読でなく耕読がいい。飄飄として。また今年も耕しの季が到来した。納屋には吊し雛が飾られている。この句では、中七ので大きく切れているが、単なる雛祭の頃の季節感だけに終わらず、実際に納屋には吊し雛が一吊り下がっていると読みたい。作者の充実した日々に艶も加わって。

手鞠花ことばと息をまるく出す 北條貢司
 旅をしていて、例えば、会津や紀州や秩父の鄙びた場所の道端や家の前の畑に、なにげなく咲いていた手鞠花は忘れられない。存在感のある大きな花なのに、取り分け主張するでもなく、然りげ無く咲く手鞠花が好きだ。純白で清らで抱えると何かもの言いたげに微かに揺れ、ふっと言葉を洩らすことがある。またその白さから生まれる陰影とその手おもりに耐えかねるような愁いから、まあるい息を吐く。そんな手鞠花が好きで、一本育てている。

蟷螂や五郎丸さんのルーティン 金澤洋子
 ラグビーの五郎丸さん、ゴールポストを前にキックするまでの独得のルーティンは、テレビを通して今も鮮明に残る。私はなんとなくフランシスコ・ザビエルの肖像画を思い浮かべていたが、それはちょっと陳腐だった。この句を見て、そうだ蟷螂だと共鳴してしまう。そのちょっとした気付きに共感し喜び合うのも俳諧の楽しみの一つ。この句の季語と切れ字の働きは大きい。それにしても、一途な者の仕草って、時に滑稽に見える。蟷螂も人もおかしな動物だなといとおしくなる。

掌の雪のようです眠る君 森由美子
 長く患われたご主人様を看取られた作者。最期は作者のてのひらで雪が解けるよう静かに永い眠りにつかれた。戻らない人と時への喪失感、物そのものに触れようとする感性が、今も切れるような悲しみと共にてのひらに残る。万感の思いで逝く人に献げる絶唱。

一番三番テーブルに水春疾風 六本木いつき
 透明であることを証明するため、無色無臭の水は透明なグラスに入れられ、そっけなく、ことんとテーブルに置かれている。ただそれだけ。一番三番とテーブルを番号で呼ぶのは、明らかに水を供する側の目線。それがこの句を一層クールにさせる。その時、まるでインスピレーションのように春の疾風が光と共にやって来た。それを眩しい程の若さと潔さでさっと切り取り、この句を提示した。これから何が始まろうとしているのか。今、一番三番のテーブルには水だけが置かれている。

今回の投句の中で、新型コロナウイルスに関する多くの句に出会った。

鰯の頭生物兵器かもしれぬ 松本豪
 ウイルスが拡がり始めた当初、感染源はどこかなどと盛んに詮索され、コウモリいやセンザンコウではないかとか、研究室からの生物兵器の流出説など、フェイクニュース擬いのものまで拡散された。鰯の頭は、節分に柊に挿す厄除けのおまじないだが、生物兵器かもしれぬと言われると反応してしまう。今は何を信じていいのか、いつ安寧は訪れるのか。

霾ぐもりひりひりひりと手を洗う 丹生千賀
 今はただ流言飛語に惑わされず、不要不急の外出を避け、作者の言うようにひりひり手を洗うことぐらいしか出来ない。ひりひり手を洗うと、折しもこの霾ぐもりの中、ひりひりこころが痛む。人類と感染症との戦いは、果てしなく続く宿命だと聞く。ウイルスとうまく共生する道を探るしかない。しかし今は、このウイルスに効く治療薬とワクチンを、ひたすら待つばかりだ。

◆金子兜太 私の一句

暗黒や関東平野に火事一つ 兜太

 師・金子兜太に、私を繋げた一句です。俳句でもと模索しているさなか、この句に出合いました。浮かんだ景は――上りの夜行列車。関東平野に差し掛かったあたり。真っ暗闇にぽっと火。「火事だ」禍々しくも美しい。不遜だが、その火に希望も見える。窓に映る顔、沈黙と葛藤と静寂。――窓に映るその男の声が聞こえたように思いました。これが俳句か、と衝撃でした。そして「私の師はこの人・金子兜太」と決めた一瞬でした。句集『暗緑地誌』(昭和47年)より。鱸久子

男鹿の荒波黒きは耕す男の眼 兜太

 昭和58年10月、俳句を学びたいと思い立って、八郎潟畔の句会の門を叩いた。その夜の会場は、「海程」同人の舘岡誠二さん宅。句会の室に、全紙の大きさで掲げられていたのが挙句。句の中の黒きのように、墨痕鮮やかな大字、男鹿の荒波が聴こえて来るような気がした。俳句を始めようとした日に出会ったこの句に励まされて、今日まで俳句を作って来た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。竪阿彌放心

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
インドのようで寝相のようで日向ぼこ 宇田蓋男
血痕の理由は知らず蜜柑食う 江良修
もち肌の老師おはこをひとくさり 大西健司
あかあかと在ろうよ晩年からすうり 小池弘子
烏瓜手繰ればはしゃぐユートピア 小林まさる
○山眠る身体脱ぎ捨てた色だ 佐孝石画
小春日の孤独という語愛おしむ 末