『海原』No.30(2021/7/1発行)

◆No.30 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

晩年とは風を聴くこと西行忌 赤崎ゆういち
諸葛菜土鈴ですか山鳩ですか 石橋いろり
籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお
この話長くなります龍の玉 奥山富江
アンテナの多き下町クロッカス 小野祐三
気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
目借り時尖ることばをどうしよう 桂凜火
散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
笑むことも自傷のひとつマスク美人 久保智恵
背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
溺愛でなく風は摺り足してカタクリ 小林まさる
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
点滴がつづいています夢十夜 白井重之
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
耳朶柔し百態の春に惚ける 竹田昭江
三日月がさくらを静かに分けている 竹本仰
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
春雷や古き文読む母の眉間 遠山恵子
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
カラスのエンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
野卑にして優し焚火に筍焼く 藤野武
春浮雲少し動いた有精卵 村上友子
点滴と心音シンクロして透蚕 望月士郎
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子
生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名

松本勇二●抄出

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
神の留守マルクスのごと前かがみ 奥山富江
鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
春キャベツ拗ねてひとりになりたがる 河西志帆
連弾のよう夜更かしの仔猫たち 河原珠美
亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
ゆっくりと母来るように春の雪 佐藤君子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
たんぽぽを真っ直ぐに来る装蹄師 鳥山由貴子
土いじる二人のえやみ長閑なり 中村ひかり
田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
偏頭痛きざす紋白蝶までとおい 三世川浩司
白木蓮デモクラシーは錆びやすく 嶺岸さとし
畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
菜種梅雨ジャンボ滑り台の憂鬱 吉澤祥匡

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミャンマーよ「ビルマの竪琴」祈るなり 岡崎万寿
アウンサンスーチーよは野の土筆 佐々木香代子

 時代背景は異なるが、ともにミャンマーに関わる現実を基に作ったもの。岡崎句は、竹山道雄原作市川昆監督により映画化された名作をモチーフにして、かつてのビルマの英霊に対する供養に生涯を捧げた一日本兵士の故事を思い、ミャンマーの平和の回復と歴史への鎮魂を祈る。「忘れまじビルマにさ迷うわだつみの骨」の句もある。
 佐々木句は、現在のミャンマー国軍と民主勢力との対立状況を踏まえ、軟禁状態にあるスーチー女史に草の根からの声援を送る一句。ともに時代状況に即した問題意識が熱く反映された作。

籠り居に日毎彩さす木瓜の花 泉尚子
花をみてゾンビ映画をみてふて寝 尾形ゆきお

 ステイホームを余儀なくされている日常を詠んだ二句。泉句。巣籠りの日々にも、紅白入り混じった木瓜の花が日毎に彩色するように色をつけ、鬱陶しい気分を慰めてくれる。ささやかな日々の移ろいに見出した彩りが、柔らかな息遣いのように感じられる。
 尾形句は、少し当たり散らしている感じ。同時発表の「歯ぎしりやじりじり動く洗面器」の句などをみると、大丈夫かと言いたくなる。それだけ若さからくる鬱屈感が強いのかもしれない。花をみてもその優しさに癒されず、ゾンビ映画の刺激によっても発散することはない。あげくの果ては「ふて寝」と決め込んだが、それで一件落着とはいくまい。そのありのままの屈託感をぶっつけているところが面白い。

気取り無く生きる通条花の風の中 柏原喜久恵
 通条花は、三~四月頃、黄色の房状の花序を長く垂らして枝一面に咲く。地味な花で、いかにも気取りなく生きている感じがする。句の中で明示されているわけではないが、「風の中」には、コロナ禍の危機感に揺れる現在が暗示されているとみてもいい。作者はすでに熊本の台風禍で、抗い難い災禍を経験している。そんな時、平常心をもって柔軟に生きることを、通条花の立ち姿に見ていたのかもしれない。

散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
 池や川面に大きく枝を差し伸べた桜は、落花の頃は水面にさまざまな模様を描く。その模様の一つを仮面のようなイメージと見立てた。落花が描く仮面には、作者の潜在意識が投影されている。そこには、幼い頃の童話の世界や、身近に感じたさまざまな人の風貌のデフォルメされた映像が描き出されてくる。どちらかといえば、好ましいものというより、怖いもの、不思議なものの映像のような気もする。それは作者の潜在意識にひそむ多彩な原風景の一つに違いない。

背を青くして枝垂桜の中にいる こしのゆみこ
 「枝垂桜の中にいる」とは、枝垂桜を浴びるような立ち位置で見上げているのだろう。そのとき「背を青くして」立っていたという。こういう感覚的体感の捉え方は、作者の得意とするものかもしれない。あらかじめ背を青くして枝垂桜の下に入っていったのではなく、枝垂桜の中で、背が青くなった状態が続いているとみたのだ。それは枝垂桜とともにある存在感そのものではないか。

反核のひと黒文字の黄を愛し 野田信章
 兜太師追悼の一句とみたい。ご夫妻とも反核の人であり、黒文字の花を愛しておられた。黒文字は三〜四月頃、半透明の繊細な花を開く。たしか熊谷のお庭にも咲いていたような気がする。どちらかといえば皆子夫人のイメージに近いが、兜太師にもそんな感性があった。作者は、黒文字の花のイメージに、兜太の反原爆の書の筆太な黒文字をも重ねていたのではないだろうか。

自らを「残った人」と言う海市 平田恒子
 「残った人」とは、東日本大震災で生き残った人と受け取った。「海市」のイメージから、あの時の津波に生き残った人という映像が誘い出されるからだ。今年は震災後十年という節目を迎えている時でもあり、作者にその時事性が意識されたのだろう。十年を経ても「フクシマ」は終わっていない。原発禍は収まらず、廃炉は遅々として進んでいない。生き残った吾は、幸せなのかどうか。海市の中の幻のような存在なのかも。

生前墓さすつたり亀鳴かしたり 柳生正名
 終活の一環として、生前墓を用意しておく。出来上がってみると、なんとなく愛着が湧いてきて、なでさすったり、亀を鳴かしてみたりするという。周知のように「亀鳴く」は虚構としての季語だが、この句のポイントはまさに「亀鳴かしたり」の仕掛けにある。この空想上のイメージを取り合わせることによって、やや大げさに言えば、日常のことばと古典的ことばとを〈異階層言語〉として組み合わせ、その相互作用によってことばを両義化しつつ、俳諧の詩的達成を目指したともいえる。こういう試みは今にはじまったことではないが、現代俳句の一つの沃野として広がっていることは確かだ。

◆海原秀句鑑賞 松本勇二

身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
 過去に経験した自身の三月への思いか、あるいは東日本大震災への思いか。鉈の重さという比喩が作者の暗くて重い記憶を思わせる。明るく晴れやかな句が好まれがちだがこういうぐさりと来る重い句も大切にしたい。

玄関に靴が揃えて誰が死か 宇田蓋男
 帰宅したときいつもはあちこち向いている靴が、今日は揃えられていた。どきりとする。誰か来るのかくらいでは止まらず、誰かの死を思ってしまう作者の心配性気質が垣間見える。死は案外近いところにある。

春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
 収穫が遅れて割れてしまったキャベツ。それを契機に相続を放棄すると書く。相続放棄には様々なややこしい事情があろうが、それらをあっさりと凌駕し固執しない作者。さっぱりとした生き様が鮮やかに尾を引く。

鬼平も梅安もいる花の闇 加藤昭子
 時代劇が面白かったのは昭和の終わりの頃か。花篝の奥には鬼平犯科帳や必殺仕掛人の主人公が鋭い目つきでこちら側を見ている。虚構であるのに実感があるのは、ためらいなく言い切ったことの効果であろう。

亀鳴くや圧力鍋を遺されて 木下ようこ
 筆者の祖母が遺してくれたジューサーが先日破壊した。作者は圧力鍋のようだ。いささか迷惑気味の口ぶりが諧謔味を呼ぶ。亀鳴く、という季語もとぼけた感じでこの句に合っている。

晴れた日の椿カチンと子離れす 久保智恵
 椿のところで切って二句一章として読んだ。晴れた日の椿は照葉樹である緑の葉の照りもあり、光り輝いていることだろう。そんな明るい日にふと子離れを決意した作者。カチンという擬音がべとつかない子離れを思わせ好感を呼ぶ。

延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
 誰と競っているのか考えた。俳句仲間か近所の奥様か。萎まないように自分を叱咤している作者である。元気で居ようとする心意気が嬉しい。延齢草の白い花弁と競っているのかも知れないが。

紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
 昔の田は紫雲英が紫の花をびっしりと咲かせていた。それを鋤き込み稲作の堆肥としていた。花冠や首飾りを女子は作っていた。大人になっても紫雲英田に来ると素直になる作者。そおっと連れて帰ればしばらく安寧の日々を過ごすことができる。

水枕母在るときの波まくら 白井重之
 母在るとき、は何時までたっても突然眼前に脳裏に蘇る。解熱のために水枕を使った作者に、波の音が聞こえて来た。母上と過ごした海辺の光景が現れたか。リズム感に支えられてどこか懐かしい一句となった。

春愁い錆びて残れる肥後守 末安茂代
 ぎりぎりの肥後守世代だ。細い竹や木を削ったりした。買ってもらった日には何回も刃を出し入れしてワクワクしていた。作者には何十年も前の肥後守がまだ身辺にあり錆びてしまっている。春愁の重厚さが半端ない。

昔よりきのうが遠しヒヤシンス 竹田昭江
 十代の記憶が突然現れるようになったのは六十を過ぎた頃からか。特に夢の中では顕著だ。みんな若くて目を輝かせて走り回っている。現実はどうだ。昨日何をしたか夕食は何だったか思い出せない。少し年を取った人たちの同一の思いをさっと掬い上げて見事。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 「差羽群れ舞う」は鷹柱のことか。それを見て、パジャマを新しくする契機にした。サシバからパジャマへの大きな展開は感覚優先で書いている証左であろう。

田水引く山から風も連れて来る 中村真知子
 山里では上流部で川を堰き止め井手を作りそこに水を流して田に水を引いている。息急き切って流れ来る水が山の風も連れて来ると書き爽やか。農事のあれこれの中で感じた自然現象をきちんと吸い上げ一句に仕上げた。

蠅捕蜘蛛が私を感じている万緑 藤野武
 出掛ける時玄関でぴょんぴょん跳ねる蠅捕蜘蛛。それは「私を感じている」からだ。人間の近くで生きるこの蜘蛛は人の感情を感知できるのであろう。生命力の横溢する万緑では、蜘蛛もヒトも鋭敏になってくる。

花散り敷く神がふと地に降ろす足 藤原美恵子
 飛花落花のさなか、地上の花びらの動きに神様の一歩を感じた作者。これくらいなら他に見たことがあるだろうが「ふと」にやられた。神様は、うやうやしくでなく、何気なく足を降ろされたのだ。気取らなさが上手い。

置き去りの筋肉農夫春を逝く 前田恵
 農業従事の方が春に逝去された。筋肉を置き去りにして、と書く作者の視点に瞠目。よくぞ書いていただいた。さぞ惜しまれながらのご逝去であったことであろう。

畝ごとに老いゆく鍬の覚悟かな 武藤鉦二
 鍬を使うのは本当にしんどい。長時間使っていると腰がこわれたと思うほど痛くなる。畝をたててジャガイモでも植えるつもりであろうか。一畝たてるごとに老いてゆく鍬は自身の老いにも繋がる。農業者は老いても限界が来るまで鍬を振り続けなければならない。農を繋いでゆく覚悟を、鍬を通じて象徴的に表した。

故郷は迷路ばかりよ苗代寒 山本弥生
 迷路は来し方の心象映像か。季語が後で効いてくる。

◆金子兜太 私の一句

長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太

 誌上には大胆な句で、今まで「うんこ」と誰が表現しただろうか。私事だが、出産時に「うんこ」を漏らしても良いからいきみなさいと看護婦に言われた。ただし終日これを繰り返し、やっと出産できた。これは太古よりの命の始まりで、先生の母上への深い感謝と愛の迸る感銘の一句である。句集『日常』(平成21年)より。川崎千鶴子

山峡に沢蟹の華微かなり 兜太

 小生も幼少から山の沢に行き、よく蟹を取ってきたものだ。沢蟹は人里離れた奥深い辺鄙な所でひっそりと生きている。この句の沢蟹(実は兜太師ではないか)は今華やかさが僅かであり、全く地味な生き方であるが、後に世に知られ脚光を浴びて名をなすであろうことを如実に暗示している句に他ならない。私の大好きな一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。山谷草庵

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
陽のしずくを酌み交わすなり福寿草 伊藤巌
冬富士を背骨となしてより無敵 伊藤道郎
夢多きカプセルホテル冬霞 小野裕三
小春日を縢るよう母の数え唄 加藤昭子
パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
雪搔けば我の中にも竜が在り 佐藤詠子
白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
壮快なギブアップ風の葦野原 篠田悦子
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
母のそれからミシン奏でる冬銀河 中野佑海
目かくしのときめきに似て時雨かな ナカムラ薫
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
寒灯は真昼のごとくコロナ棟 藤田敦子
おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
前の波の鎮魂歌なり 波の音 マブソン青眼
葛湯吹く母には母という順路 宮崎斗士
籠り居の耳の渚に冬青そよごの実 柳生正名
初しぐれ禿びた箒のにぎやかに 矢野千代子

服部修一 選

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
外出はポスト迄です春隣 伊藤雅彦
着信に優しい嘘と冬夕焼 榎本愛子
極月やカマボコ板が飛んでいる 榎本祐子
ともだちの少ない犬や小六月 奥山富江
小六月鏡に映らないところ 小松敦
あなたは杖をステッキと言う春野 三枝みずほ
○実むらさき吹奏楽部ではピッコロ 芹沢愛子
大旦ちょっぴり縮む車椅子 高木水志
あかんぼと目が合っているおでん 竹本仰
薔薇に雪ふとマッチ売りの少女かな 田中裕子
寒鴉あつまる街の余白かな 董振華
陽のかけら初日へ色を足しており 永田タヱ子
御慶かな隣家のポルシェ唸り出す 長谷川順子
万両の木陰お前も小心者 間瀬ひろ子
父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
水澄んで散歩のように逝きしかな 三浦静佳
人日の植木等の重さかな 村井隆行
雪は膝下尉鶲ピュッと飛ぶ 村松喜代
筍やざっくりと切る八年目 らふ亜沙弥

平田恒子 選

朽ちし生家は雪を被ったまま傾ぐ 植田郁一
小鳥来て大岩壁に身を投ず 内野修
棒読みのような書き初め飾るかな 小野裕三
冬うらら不要不急の長電話 片町節子
係恋や父でも兄でもない冬木 加藤昭子
行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
身のほどを問われる始末酔芙蓉 黍野恵
皺寄ったシーツの窪み憂国忌 小松敦
句縁とは星座のごとし兜太の忌 齊藤しじみ
句の中で何度も死んで今朝の雪 佐々木昇一
君らの言葉氷柱太るがごとく純 白石司子
冬ざくら山嶺は蒼き煙 田中亜美
風船葛枯れるに触るればほろと言う 谷口道子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
歩いても歩いてもなかなか死ねない マブソン青眼
ブザー鳴る介護たとえば冬青草 宮崎斗士
なまはげ来る山のかたちの闇を負い 武藤鉦二
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
すずなすずしろ透明な箱を買いにゆく 横地かをる

嶺岸さとし 選

○ひとひらの雪の軽さとなりし母 石川青狼
苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
楤の芽や小言を増やし黄昏れる 宇川啓子
約束の帯はむらさき雪の花 北村美都子
晩年の冬耕終え一番星に触れる 白井重之
臘梅や玉砕という言葉ふと 白石司子
◎冬の光鳥の飛翔に推敲なし 中村晋
風花やわが乏しらの髪散らし 野田信章
○象死んで檻を放たる蝶の昼 日高玲
ビル群に産み落とされし冬満月 藤野武
論点の違う話のように雪 藤原美恵子
正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
欠餅の膨れる力恋心 松本豪
藤垂れて睡い眼の少年とをり 水野真由美
風花す二人のこころまだ下書き 宮崎斗士
枯木星みんな出口を探してる 三好つや子
手をつなぐことのためらい冬夕焼 武藤鉦二
ポインセチア谷間の深きドレスかな 室田洋子
○湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
自粛とは寒鯉に似て鰓呼吸 若森京子

◆三句鑑賞

パソコンに遊ばれている寒い夜 木村和彦
 〈パソコン〉に向かい作業をしているのだろうか。〈パソコン〉は便利な道具であるが、不具合が生ずると、たちまち悩みの種になりがち。〈遊ばれている〉には、そんな状況に一喜一憂せず、むしろそれを楽しむかのような達観の境地が見える。上質で軽やかな諧謔精神は〈寒い夜〉でさえも、命を謳歌する時に変えるのだ。

白梅や内なる扉開く気配 重松敬子
 確かに白梅の白には、静かにかつ強く内面に語りかけてくる力があると思う。自分の奥底の忘れていた場所に通じる扉を開け、もしくは眠りから覚めて、ありのままの自分に近付いていけそうだ。そこではどんな自分と出会うのだろう。ふと「白梅や老子無心の旅に住む」にて俳句人生の一歩を踏み出した兜太師を思った。

おでんはさらに妻そのもので海で 藤野武
 まるで呟きそのままのようにうぶな質感のある掲句からは〈おでん〉のように素朴であたたかく〈海〉のように包容力のある〈妻〉の人となりが見える。また、〈おでんはさらに/つまそのもので/うみで〉と、七・七・三の句跨りが生み出す、〈海〉の波のように畳みかける抑揚が〈妻〉への思いの深さを伝えている。
(鑑賞・月野ぽぽな)

熱燗や女房子供を働かせ 石川義倫
 言ってしまっている俳句はたいしておもしろくない、と思ってはいけない。女房子供を働かせるのは父親が甲斐性なしだからとは限らない。では、例えば昨今のコロナ禍による解雇、雇い止めにまで言い及んでいるのか。そうではなく、やはりここは、「燗」をつけるときつい口をついて出た男の慣用句、男の甲斐性なのである。

小六月鏡に映らないところ 小松敦
 鏡には大きさや遠近の具合で当然映らない「ところ」があり、これを承知のうえで作者は何か言いたかったのだろう。此の世のものでひょっとしたら鏡には映らないところがあるのではないか、と思うとなんとなく不気味。自分の心の深淵も同様。晴れ晴れとして暖かく、快適な季節感である小六月が逆にうまくマッチしている。

父さんは師走の風をはらんでる 松井麻容子
 ほのぼのとして温かい雰囲気に惹き付けられた。「父さん」の語感が、初老の優しげなお父さんを思わせる。そんな父さんが、どうしてだか師走の風をはらんでいるのだ。この句は、寒風吹きすさぶ都会の喧噪を背景に、父さんの心象を描いたものと思える。父さんはいま充足した境地にあって、心地よい師走の風に身を任せているのである。
(鑑賞・服部修一)

冬うらら不要不急の長電話 片町節子
 コロナ禍のご時世。人と話すことも、会うことも自粛を促されている。「重症化しやすい」と言われる高齢者たちにとっては不要不急の判断は難しい。基本を守り、外出は食料の買い出しと、通院だけ。高齢者たちは健気である。生の声を交わして少し笑って、互いの消息を確かめる。電話はついつい長くなる。外は良い天気!

行きがかり上独身の手の朱欒 木下ようこ
 「行きがかり上」独身と言う。そのからりとした語り口が魅力的。親が独身の娘について、気がかりとか、先行きを心配する句は散見するが、その逆の当人の「特に理由はない。『行きがかり上』なんだから。」とさらりと書かれた作品は、珍しいと思う。しかもその手には大きな朱欒がある。何だか良いことがありそうな……。

さよならの度母少し逝く風花 柳生正名
 老母に対する子の思い。会うたびに母の老いを感じて、母との残された時間を想う。一年半に及ぼうとするコロナ禍の日々なればなおさらである。「風花」にはかすかな不安と、母を思うしみじみとした優しさと情感がある。「母少し逝く」の「逝く」が独特の空気感を醸し出している。緩やかな、止めようのない時の流れがある。
(鑑賞・平田恒子)

苺ミルク退化する人間ひとのエネルギー 伊藤幸
 確かに現代人のもつエネルギー量は、生活の便利さに反比例して、小さくなっているだろう。この句の面白さと手柄は、その現象を「苺ミルク」で直感した点だ。苺はそれ自体十分に甘い果物だが、それにコンデンスミルクをかけ、コテコテにして食すとは! これこそ繊細な甘さを味わう味覚エネルギーの退化に他ならない。

正論のぶつかり合って海鼠かな 船越みよ
 今や、正論で生産的な議論を成立させることはとても難しい。ところが掲句では、正論がぶつかり合っている。とても健全と思いきや、下五は「海鼠」である。正論のまっとうな議論のはずが、やはり互いに「海鼠」のように変われない、空疎な議論を展開しただけという結果に終わる。日本社会への風刺の効いた、俳味十分の句だ。

湯たんぽのたぷんと不審船がくる 望月士郎
 湯たんぽは、その昔には愛用していた。満タン近くまでの熱湯が揺れた時の「たぷん」という印象的な音は、今でも耳元に残っている。この句は、その懐かしさを刺激してくると同時に、「不審船がくる」という意表を突く飛躍のみごとさを持つ。湯たんぽから、夜陰に乗じて密入国する船の波音を連想するとは!
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

水晶体もさがも温むや水のなか 飯塚真弓
しゃぼんだま丸し中也の朝の歌 植朋子
ひとり卵焼き裏返す春って 大池桜子
八十八夜飽きられる前に飽きる 大渕久幸
永遠にボクでゐる君修司の忌 かさいともこ
絵手紙にありしコウノトリの地酒買う 樫本昌博
石庭に夕焼け紅鯨上陸す 葛城広光
かぶりつく金時豆パン昭和の日 小林ろば
ため息と思ふ重さや落椿 坂川花蓮
懐かしきダットサンかよ春うらら 重松俊一
たましいは歌う春満月のオブリガード 宙のふう
街ひとつ幽体離脱蜃気楼 ダークシー美紀
春の野に肩を並べる遊芸なり 田口浩
書き溜めた蝶の俳句のひらひらと 立川真理
李香蘭語る祖母居て桃の花 立川瑠璃
敵味方嗅ぎわける鼻あたたかし 谷川かつゑ
阿弖流為アテルイの一統かもな蕗を食む 土谷敏雄
わが反骨腰骨にあり青き踏む 野口佐稔
筍ややっと裸のおつきあい 平井利恵
英字新聞すっと小脇に風光る 深澤格子
蜜蜂を労るように女体かな 福岡日向子
雑踏に癒されに行く桜かな 藤好良
夫の遺産は競売物件はなごろも 松﨑あきら
紋白蝶吾の書斎を覗き去る 武藤幹
襟ぐりのタトーがのぞく竹の秋 村上紀子
残花かな風に吹かれて昼の酒 山本まさゆき
ひとひらは一つのことば花吹雪 吉田和恵
納涼の酒酌み交はす危ふさや 吉田貢(吉は土に口)
清明の気を吸ひ込めよ父の体 渡邉照香
渡り廊下の断崖ウスバカゲロウ 渡辺のり子

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