『海原』No.27(2021/4/1発行)

◆No.27 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

寒夕焼気分に句読点を打つ 伊藤雅彦
悼む夜は胸に花野の漂流す 伊藤道郎
マスク外せば目鼻耳持つ綿虫は 植田郁一
秋の双蝶生きんがための物忘れ 大野美代子
狐火の血筋集めるコンクール 小野裕三
秋冷や思い出せない日も生きた 柏原喜久恵
冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
膳に付くマスクホルダー年忘れ 加藤昭子
マスクして目は饒舌になりにけり 上脇すみ子
獄舎出る青年の礼りんごの香 黒岡洋子
海へ向く薔薇錆びゆくや憂国忌 黒済泰子
ひなたぼこキリトリセンのあつまるよ こしのゆみこ
着ぶくれて不要不急の人となる 齊藤しじみ
定位置や碁を打つ亡父と冬の猫 篠田悦子
晩年の居場所も決めて冬南瓜 鈴木栄司
牛蛙ここだ孝信ここだここ 鈴木孝信
荻の花役にたたないこと得意 芹沢愛子
迷いてあれば短日の魚影美し 田口満代子
冬浪に佇む君の透明度 竹田昭江
冬の虹二人並ぶと濃くなった 田中雅秀
冬ざれて標本みたいな街になる 峠谷清広
チャリ飛ばす団地老人四日かな 遠山恵子
呑み込みし言の葉ふわり冬雲雀山 新野祐子
世界史の横揺れにゐて去年今年 野口思づゑ
滝はわが身中にあり冬の虹 野﨑憲子
初秋はポストの上の忘れもの 平田薫
竹籠の編み目芳し賀状絶つ 藤原美恵子
さかりゆく母は雪山の匂い 村本なずな
白鳥来どこかで弦の切れる音 茂里美絵
虎落笛カタカナ書きの母のメモ 吉田朝子

高木一惠●抄出

皺くちゃの幸せと浮く冬至の湯 伊藤巌
限界集落婆に砦の吊し柿 伊藤道郎
嗚呼一年仕事納めは顔合わせ 江良修
囲炉裏端母の手縫いの静寂です 大沢輝一
密集のまん中に居る冬将軍 大髙宏允
九十九王子未完の森の煙茸 大西健司
他界とは地下にあるらし竜の玉 岡崎万寿
綿虫やアナログ的に主知的に 金子斐子
暮の秋小石をひとつ沈めたり 川田由美子
黄落やしみじみ介護保険料 河西志帆
ビーバーの愛しさ茶の花月夜かな 北上正枝
草氷柱正夢となる前に融け 小松敦
鳥獣虫魚木霊の語る冬の森 小宮豊和
大寒の小声の似合う夫婦かな 齊藤しじみ
大根干すわだつみの声となるまで 白石司子
五郎助に耳羽民生委員奔る すずき穂波
実南天古刹は水の照るところ 関田誓炎
音沙汰は鴎のしろさ初時雨 田口満代子
星星かたく目を瞑るササラ電車だよ たけなか華那
雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
そっと息吹けば兎になる落葉 鳥山由貴子
柿落葉老いのひとひらごといとし 中野佑海
被曝の連鎖柿の実柿の根に埋めて 中村晋
獏枕耳の奥から雨男 日高玲
言い訳がとってもきれい黄せきれい 本田ひとみ
着ぶくれて天地無用の荷となりぬ 増田暁子
梅咲いて猫の耳などうらがへす 水野真由美
真珠層いくつはがれて冬蝶へ 三世川浩司
師の声の逞し秋の一本道 村上友子
寒鴉のそのそと来る夜明け前 山内崇弘

◆海原秀句鑑賞 安西篤

寒夕焼気分に句読点を打つ 伊藤雅彦
 寒夕焼は、野の果てにいても街なかにあっても、一篇のドラマの中にいるような気分にさせられる。たとえ短い時間であれ、夕映えは一つの文体をもって訴えかける。それは大いなるものの中へ消えてゆく存在感でありながら、メリハリのある哀感の力をもつからだ。そこをしっかり確認するために、その気分に句読点を打つという。

秋の双蝶生きんがための物忘れ 大野美代子
 秋の双蝶とは、秋の陽射しの中を、二羽の蝶がもつれあうように舞い上がり舞い降りしている姿。「生きんがための物忘れ」との取り合わせは、いわば忘我の状態で蝶の舞を見ているおのれ自身ではないか。そこには忍び寄る老いの姿が重なるが、それとて嫌なことつまらないことを忘れて生きる老いの知恵なのかもしれない。蝶の舞を見つつ、そう自分に言い聞かせている。

冬の犬さびしい方の手を出して 桂凜火
 犬がいつものようにお手をして、飼い主からおやつを貰っている。その様子をみていて、犬がなにやらさびしい方の手を出しているようだという。その見立ては、「冬の犬」なればこそ成り立つ。冬の季節感に作者の心情が投影されているからだろう。お手をした犬の手に冬を感じるのは、その感触に季節のさびしさを覚えたからに違いない。犬は作者の冬の心情を推し量って、さびしい方の手を出してくれたのだ。

マスクして目は饒舌になりにけり 上脇すみ子
 今や緊急事態宣言下の街中は、マスクマスクのマスク一色。マスクから覗く目だけが、当人唯一の認識対象の窓口となる。となれば、その目がにわかに饒舌に語りかけてくるような気がする。それは相手の目からなにかを読み取ろうとする意識の照り返しでもあるのだ。目は口ほどに物をいうような色っぽいものではなく、相手の目から意図を読むという、いわば探りの目に違いない。

着ぶくれて不要不急の人となる 齊藤しじみ
 ステイホームで着ぶくれているだけでは何事も始まらず、人と会うこともままならぬとあっては語り合うこともできない。そこで今流行のオンライン句会などいかがといっても、IT旧石器時代人の多い俳壇では、浸透に時間がかかりそう。手も足も出ないとあっては、着ぶくれて不要不急の人でいるしかない。そんな現実を諷刺している。もちろん作者はそちらサイドの人ではないが。

牛蛙ここだ孝信ここだここ 鈴木孝信
 言うまでもなく、兜太師追慕の一句である。この句の
こわぶり
声風には、在りし日の師の野太い声がまざまざと再現されている。なんといっても「牛蛙」の声に擬したところがぴったり。「牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ」の兜太句もある通り、声はすれども姿をみせない牛蛙同様に、師の作者への呼びかけは、姿はみえなくとも今も鳴り響いている。師は作者の泥つき野菜のような人柄を愛していた。死してなお師の声を聞くとは、羨ましいかぎり。

迷いてあれば短日の魚影美し 田口満代子
 「迷いてあれば」というからには、何かこころにかかっている迷いがあるのだろう。まして昨今のコロナ禍の日々は、相談したり、話を聞いてくれたりする人もいないし、その機会もない。一人思い悩んで、冬の池のほとりに佇むと、短日の慌しげな日の暮れの水面に、魚影が美しい背びれを閃かせて横切った。そのとき、なにかがことりと腑に落ちたような気がしたのではないか。

冬の虹二人並ぶと濃くなった 田中雅秀
 冬の虹はめったに見ることはないが、暖かい雨が降った後など、ふっと見えることがある。珍しいことなので連れ合いにも声をかけ、二人して見ていると心なしか冬虹は一段と色濃くなって、見せ場を作ってくれたような気がしてくる。「二人並ぶと濃くなった」というぶっきらぼうな捉え方が、かえって東北の冬の虹の素朴なサービス振りを演出しているようにも思える。

世界史の横揺れにゐて去年今年 野口思づゑ
 コロナ禍は、全世界に蔓延して今なお終息の兆しをみせていない。ちょうど昨年の暮あたりは、北半球で第三波がうねり始めた頃である。作者のいるオーストラリアにあっても、その余波は及んでいたであろう。「横揺れ」という地震のような形容をもってきたのは、そのことを指している。もはやこれは世界史的な画期をなす災禍というほかはない。

竹籠の編目芳し賀状絶つ 藤原美恵子
 高齢化とコロナ禍の厳しい歳末を迎えて、年賀状もこの際欠礼しようという動きは高まっている。お正月用の縁起物の海山の幸を入れる竹籠を用意しながら、一方で儀礼的な年賀状を省略しようとする。大切なのは自分の居場所で、それはふれあいの関係性の整理によって確保しようというのだろうか。難しい選択には違いない。

◆海原秀句鑑賞 高木一惠

他界とは地下にあるらし竜の玉 岡崎万寿
 竜の玉は寒中、鬚状の葉の奥深くに紺碧の彩を極めて、絹の道の壁画に遺るラピス・ラズリの青はこれかと思われる。春に葉を刈りこむと花つきがよく、夏には緑色の実を結ぶ。その実が白く透けて、やがて秋麗の空の色に染まるのだ。「他界」については様々に言われるけれど、最近私は親しい人が重病かもしれぬと聴いて、現実の此の世はおしまい、まして彼の世のことなんてと、俄に思い詰めた。然りながら、俳句と共に文芸の世界に支えられて生きる限り、「他界」は存在するのだとも思う。
 作者の「俳人兜太にとって秩父とは何か」は各位必読のシリーズ。兜太先生の読書歴が『俳句日記』等で俯瞰的に辿られて、書の解説も附されている。

音沙汰は鴎のしろさ初時雨 田口満代子
 さっと来る眩しい白さ、鴎のようだ。兜太先生が「かもめは小生のなかの山中葛子の映像でもある」と述べておられるので、この音沙汰は千葉在住の大先達お二方の交情の一齣かもしれない。応仁の乱の頃、心敬の〈雲はなほさだめある世の時雨かな〉に和した宗祇の〈世にふるも更に時雨のやどりかな〉(新撰菟玖波集)の「時雨」は、芭蕉が〈世にふるもさらに宗祇のやどり哉〉と受けた頃には、元々の山野の景を超えた季語となっていた。海の鴎に、そんな象徴的な時雨の景が重なる。

星星かたく目を瞑るササラ電車だよ たけなか華那
 ササラ電車は札幌と函館の市電の線路を走る除雪専用車で、アニメ『となりのトトロ』に登場するネコバスみたいな虎猫模様の車体もある。夜更けの雪道に、竹の束(ササラ)のブラシを回転させて繰り出すと、降り積もった雪は地吹雪のように舞い上がり、星達も思わず目を瞑る!と、作者の詩情は宮沢賢治に通う。

雪ひとひら音ひらひら皮膚に消ゆ 月野ぽぽな
 一片の春雪を手に受けた時に、それがすぐに融けてしまうのは、わが手が温かいから則ち生きているからだ、屍であったらそのまま積もるだけなのだ、という感慨を持ったことがある。しかしそうした思念無しに、音として感得できるのが、ぽぽな俳句の真骨頂なのだと思う。高村光太郎が「言葉に或る生得の感じを持っているものによって詩は発足する」(『自分と詩との関係』)というその「生得の感じ」の持ち主のようだ。

嗚呼一年仕事納めは顔合わせ 江良修
 顔合わせだけで仕事を納めるのは官公庁の「御用納」。季語の傍題に「仕事納」がある。この習俗は昭和の末に制定された「行政機関の休日に関する法律」によるが、新型コロナに顔合わせを禁じられた一年間の感慨が籠る。

九十九王子未完の森の煙茸 大西健司
 熊野古道沿いの神社の一群が九十九王子。降雨量日本有数の紀伊山地の霊場である。森がいつまでも未完であれば自然は安泰。煙茸も頭の穴から胞子を風に靡かせて、たばこを一服楽しんでいる風情だ。
 兜太先生は『俳句日記』昭和五十九年六月九日の項に「熊野へ。那智山の大滝の見える観瀑荘別館に鞄を置き、大滝の滝壺近いところまでゆく。中村ヨシオ、谷口視哉の地元二人元気なり」と記し、夜の句会に〈大滝という欠落に似た生きもの〉を出句したが、「生きもの」では不可と反省、と記された。全句集の座五は「似た宇宙」。

ビーバーの愛しさ茶の花月夜かな 北上正枝
 茶の花が雄蕊をふんわり抱え込むように咲いて、月夜のダムから覗くビーバーみたいに可愛い。葉の間の花はお月さまのようにも見える。高一の時、母を喪ってお茶垣の陰で泣いていたら、母が愛した西条八十と蕗谷虹児の詩画集の情景に包まれた。茶の花の香りがした。

草氷柱正夢となる前に融け 小松敦
 草氷柱は流水が叢にかかって凍り、柱状となった大きなものもあるが、よく見かけるのは露が凍ってできた氷柱で、陽が差すとすぐに融けてしまう。夢で見たとおりの内容が現実になるのを正夢とすれば、目覚める頃には融けてしまう草氷柱は正夢にはなれない。なんとも儚い草氷柱をぽつりと句にして、象徴性も感じられる。

大寒の小声の似合う夫婦かな 齊藤しじみ
五郎助に耳羽民生委員奔る すずき穂波
 小声の似合う夫婦のシルエット。「大寒」の季語が効いて、寄り添う姿が浮き彫りにされ印象的だ。老いても斯くありたいが、耳が遠くなったりして現実は厳しい。電話もダメなどと、なにかと民生委員のお世話になる。委員の皆さんは冬帽目深に奔走の日々である。

獏枕耳の奥から雨男 日高玲
梅咲いて猫の耳などうらがへす 水野真由美
師の声の逞し秋の一本道 村上友子
 雨男も梅も、兜太先生を偲ぶよすがと思う。秋彼岸は先生の誕生日。近年は開花の時期が早まっていた彼岸花が、雨が多かった昨年はぴったりお彼岸に盛りを迎えた。先生の俳諧自由の一本道…出会えてよかった。

◆金子兜太 私の一句

きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 兜太

 気を入れて事をする時「きよお!」と口の中でときに声を出して言うことがある。自分の背中を押すって感じである。新緑の夜中のみずみずしさと「この汽車はゆく」の突き進む力強さは美しく、こころが躍動する。三十代の作品とあるが、先生の生きる姿勢は生涯変わらず、強靱でしなやかでいらっしゃったと。この句を胸に響かせて歩いていきたい。句集『少年』(昭和三十年)より。竹田昭江

朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太

 先生の大学時の卒論は、日本農業の将来に関することだったと聞く。それ故か、こと農業、とりわけ秩父の養蚕業に対する思いは、生涯一貫して強かったと思う。もとより、奥様への愛情はそれ以上のこと。掲句の「手中の蚕」と「妻に示す」に、これらのことが如実に込められた感銘句である。かつ、妻俳句および秩父産土俳句の基なる句と思う。不肖私もほぼ同郷、若干、農にかかわってきた者として心酔する。句集『少年』(昭和三十年)より。吉澤祥匡

◆共鳴20句〈1・2月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

河西志帆 選

真実を嘘に芙蓉の咲くころに 泉陽太郎
彼岸花きのうより少し俺も老い 井上俊一
兄炎帝、弟台風の如く逝く 江井芳朗
モノクロの風針穴にすっと糸 奥山和子
自粛警察汗の下着がからみつき 黍野恵
鉄臭き校庭の水原爆忌 黒済泰子
ジュゴン鳴く工事休日大浦湾 今野修三
○秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
○蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
秋の蛇すこしおとろえ西へゆく 白井重之
棒立ちの八月母は父灯す ナカムラ薫
父の八月石鹼ひとつでぜんぶ洗う 中村晋
色鳥来さいごは早口になるニュース 根本菜穂子
賛成の人手を上げて揚雲雀 野口思づゑ
傷つけば傷から光る青檸檬 藤田敦子
寂しいと書きががんぼの脚になる 前田恵
牛膝淋しがり屋に付きたがる 三浦静佳
膝鳴って夜寒いま薬瓶からこぼれ 三世川浩司
木曜日を辿ってゆけば蝉の穴 三好つや子
曼珠沙華朱の奪われしその日 山本掌

楠井収 選

卑屈さも歳月のなか花野原 泉陽太郎
屈託の秋ジーパンの吹き曝し 伊藤雅彦
いのこずち誰も私を誘わない 奥山富江
痛けりゃ薬哀しきゃ月に吠えりゃいい 河西志帆
コロナ禍やどうもどうもと言うばかり 佐々木昇一
○蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
枇杷あまた見上げておれば主婦ら寄る 下城正臣
浮いて来いよ悪玉コレステロール すずき穂波
かしこ過ぎてあの子死んだだ葉鶏頭 遠山恵子
真葛原頭痛難聴夫源病 中村道子
穴まどひ愛するために生まれたの 野﨑憲子
ブドウの皮そっと剥ぐとき罪の匂い 藤盛和子
街中の数字よむ癖晩夏となる 北條貢司
千年後のマスク思へば蚯蚓鳴く 前田典子
親離れ子離れ蟹の横歩き 松本豪
台風一過答えのような雲がひとつ 宮崎斗士
コロナ禍や全速力のかたつむり 武藤鉦二
放鳥や指の先まで秋の風 村上友子
外せるものはずし酌む酒新秋刀魚 村本なずな
えこひいき無しの先生ゐのこづち 梁瀬道子

佐藤詠子 選

思い出にあおられて返事する月 市原正直
心外ということふっと蜥蜴鳴く 伊藤淳子
黒揚羽私はそれを待つだけです 宇田蓋男
白山の名月ラップしておこう 大沢輝一
秋思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
手土産のように広がる鰯雲 小野裕三
佛飯の新米乳房の白きかな 狩野康子
豊作だってぎゅっと雑巾絞る姉 佐々木宏
少女趣味という趣味捨てず蛍草 芹沢愛子
夕暮がとんぼの体軽くする 十河宣洋
我が影の千々に乱れて曼殊沙華 竹内一犀
逃げるように歩く癖あり秋暑し 峠谷清広
美しき樹形のようなの言葉 遠山郁好
冬めいて己の肉を感じおり 中村孝史
白鳥来るねむったふりをする田面 丹生千賀
曼珠沙華大地にルビを振っている 松井麻容子
はつふゆの風に栞を挟みけり 水野真由美
後ろ指差された心地黒揚羽 室田洋子
よく晴れて言葉と小鳥とりかえに 望月士郎
秋風を指一本で掴まえる 茂里美絵

山下一夫 選

竜淵に潜む安らぎ緩和ケア 石川まゆみ
朝ドラに軍歌懐メロのごと秋の雲 伊藤巌
夏蝶の昏さよ古き手紙のよう 伊藤淳子
訃は岬青い夜長に漂える 伊藤道郎
秋黴雨かけられる鍵は全部掛け 奥山和子
捕虫網補修している自由かな 小野裕三
夕闇のふいに笑窪のお茶の花 川田由美子
海ほおずき母にも好きな子のありて 黒岡洋子
酸漿とうはくちびるのあはひかな 小西瞬夏
ひとはひとにふれ秋の野に入る 三枝みずほ
○秋蝶来る空の筋肉の中に 佐孝石画
死角からちょろちょろ出てくる氷旗 すずき穂波
返信を待つ間のゆらぎ鳥渡る 田口満代子
林檎剥く部屋の重心うつりゆく 月野ぽぽな
翔べない白鳥秋のカーテン翻る 鳥山由貴子
秋草のさぁっと強迫神経症 堀真知子
おのを叩き星座を叩きハカ踊る マブソン青眼
柚子だんだん黄色にそんな別居中 宮崎斗士
ああ今朝も平熱ですね小鳥来る 室田洋子
見回してわたしもいない芒原 望月士郎

◆三句鑑賞

自粛警察汗の下着がからみつき 黍野恵
 一般市民が正義を振りかざす時、それは凶器にも近い。スーパーの入口で、マスクをしろ‼と怒鳴っていたのは普通のおじいさんだった。その形相を見て、いやな汗が垂れた。あの暗い時代も、市民を監視していたのは市民だ。「自分から進んで自分の行動を慎むこと」それを強く求められている私達。怪我と弁当は自分持ち。

蛇穴に入るを復興とは言わず 清水茉紀
 忘れないでと言わなければ、忘れてしまうのが怖い。海が陸を取ろうとして襲ってきたかの様な、あの映像。沢山の瞳の中に残った悲しみや恐怖は、次の新しいものに押し流され、過去よりも遠くなってゆく。今日も震度6強が襲った。復興などとはますます遠く、あの日あれからあのままの此処を捨てずに、人々は生きている。

父の八月石鹼ひとつでぜんぶ洗う 中村晋
 八月に特別な意味などないと言える日が来るのだろうか。マラリアとデング熱に罹り、終戦の前に還ってきたという父のことを、こんなにも知らなかったことに、今気づく。家族揃って、石鹼ひとつで足りた時代を過ぎても、シャンプー等には触れもせず、まるで石鹸しか信じていない様だった。あの節くれだった掌も、父の八月も、ここからは見えない。
(鑑賞・河西志帆)

かしこ過ぎてあの子死んだだ葉鶏頭 遠山恵子
 夭折の子を思う母の慟哭。この子は確かに頭が良かったのだ。勉強も頑張った。それだけに親の期待は大きく、したがって反動も大きい。賢過ぎたと思うしかないのだ。この「だだ」という素朴な方言が、より一層悲しみを誘う。葉鶏頭の葉の色々な色への移ろいが母の悲しみを助長する。

街中の数字よむ癖晩夏となる 北條貢司
 いや実はこれに似た方、私の身近におられるんです。テニス友達でメンバーの車のナンバーを諳んじていて、誰が来場か即座に当てます。何か心に屈託をもっておられるのか、何か一芸に秀でたいとか、人と同じことをするのを嫌うとか。そういう生き様で季節は移ろい夏も過ぎていく。これも人生ですね。

外せるものはずし酌む酒新秋刀魚 村本なずな
 酒好きな私にとっては堪らない一句。外せるものをみな外して酌む。身につけているもの、色々な憂いも。ちょっと艶な感じもあるが、そんなことはこの際超越した感あり。酒はやはり冷酒でしょうか。また、この新秋刀魚が季節感プンプンで良し。中年の男のロマンを感じさせる一句。
(鑑賞・楠井収)

思い出にあおられて返事する月 市原正直
 多忙な日々の中で、返信できないままのメールがたまっていく。夜ふと、スマホを開くと仲間との写真が。無邪気で飾らない笑顔がある。会えずにいる大切な人たちとの思い出がたくさん溢れてくる。日常に少し疲れていた心が、だんだん柔らかく膨らんできた。満月のように。きっと、普段着のような言葉で返事をしたのだろう。

秋思とは海月の足を掴むよう 奥山和子
 ほくそ笑んでしまう句。秋思と言えば、少し物悲しいセンチメンタルをイメージ。ため息をついて物思いにふけても、答えの出ないことが多い。変わらない毎日、変わらない関係、もどかしさを誰かにわかってもらいたいのに、変わらない現実。ゆったりと漂う海月の足を引っ張って、承認欲求を満たしたくなる本音に大いに共感。

手土産のように広がる鰯雲 小野裕三
 鰯雲の空は、ぽこぽこしていてその不思議な様は、どこか滑稽でもある。作者は鰯雲を見て、広げた手土産のようだと。納得である。家族が集まりわくわくしながら手土産の大きな包みを開け、はしゃぐ声が聞こえる。コロナ禍で、親族や友人がなかなか集まることができない今、この句のような日常の幸せを待ちたい。
(鑑賞・佐藤詠子)

朝ドラに軍歌懐メロのごと秋の雲 伊藤巌
 ドラマでは戦時のサインとしてよく軍歌が流される。心ある人は筋に関わらず胸が痛むであろう。昨年は朝ドラ「エール」が好評を博したが、主人公の業績に軍歌もあり毎朝よく流れていた。上八中八のリズムと措辞に鬱屈が滲み出ており、「秋の雲」の斡旋が慨嘆をより効果的に伝える。抑制の利いた大人な態度とも言え少し憧れる。

酸漿とうはくちびるのあはひかな 小西瞬夏
 酸漿を鳴らす遊びを知る世代も少なくなったろう。種抜きがまず難関。なんとかクリアできても鳴らせなかった。口の中で果皮の空洞に息を吹き込み球体にした上で舌と唇で押しつぶして鳴らす。秘訣を探ろうと母や従姉や小母らの唇をじっと見つめていたものである。古典的仮名遣いがその艶めかしさを余すところなく彷彿させる。

柚子だんだん黄色にそんな別居中 宮崎斗士
 「そんな別居中」と言われてもというところだが、「柚子」について連想を巡らせていると、未熟な柚子は別居の原因となった諍い、熟しつつあるのは心境又は関係の変化の暗喩に見えてきた。柚子の軽い黄色に希望的観測という突っ込みも浮かび、にやりとさせられる。取り合わせが確かな技巧に裏打ちされており素晴らしい。
(鑑賞・山下一夫)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

どこか楽しげ木の葉に葉の香壺春堂 飯塚真弓
父母にそれぞれの恋シクラメン 石塚しをり
銀杏落葉踏みしめ向かう湯灌かな 植朋子
開戦日赤ペンで書く一句かな 梅本真規子
イブに別れって洒落てるなんて言う 大池桜子
鮟鱇を食ふて経年劣化かな 大渕久幸
雪の日の歩き方伝受して笑う 梶原敏子
原っぱで雲形定規投げるんや 葛城広光
花八手栞代わりの帯失くす 木村リュウジ
神の手を滑り落ち双子座流星群 日下若名
枯野道不可視の空の果て恋えり 工藤篁子
残しおく田畑二町歩生姜酒 古賀侑子
女坂パンツに紅葉はいってる 後藤雅文
ピック投げる最後の恋であるように 近藤真由美
飛ぶことを忘れて歩く冬の蠅 坂川花蓮
おちこちの山もおととも眠りけり 坂本勝子
はがゆくもまっすぐ生きて憂国忌 重松俊一
落花生割るたび心のはみ出しぬ 宙のふう
大綿虫おおわた湧いて集合時間に遅れます ダークシー美紀
二〇二〇恐れ苛ち着ぶくれて 髙橋橙子
電飾のよすがに青き聖かな 高橋靖史
安寧なドア一枚や春の闇 立川由紀
コロナ禍や鍋に逃げ込む安らかさ 保子進
12月8日からの喪失でがらし茶 松﨑あきら
重ね着を嫌う老母の反抗期 村上紀子
十二月八日の記事が減ってきた 山本美惠子
春の泥あばら骨よりほどけるか 吉田貢(吉は土に口)
言の葉の海に漂う炬燵かな 吉田もろび
洞窟に蒼白冬眠の日本兵 渡邉照香
狼よわたしの腐臭嗅ぎつけて 渡辺のり子

◆追悼  近藤守男 遺句抄

遠蛙問わず語りの妻のめし
暮の春微醺の浮漂ぶいの浮沈かな
啓蟄の穴を拝借涙壺
子規病みてそれからが子規しじみ蝶
立春や摩文仁の丘に「ハブ注意」
草の根の蟻んこわんさ嬥歌かな
天道虫愚直の軌跡かえりみず
ヒント得て物理学者の立ち泳ぎ
青鷺翔つ夜明の水辺帰農かな
鮎解禁むかし米とぎ子守唄
メロンパン信長公記曝書して
蝉の声大言海に漂えり
繭を日に透かしていれば鳴るサイレン
敦盛草流人の墓碑に吾が姓
里曳きのをなごの木遣歌御柱祭きやりおんばしら
ポケットの団栗こぼす子の昼寝
園児皆永久歯秘め運動会
嫁ぐ娘と良夜の富士にハーモニカ
新走り小股にはさみ小海線
眼と声の大きくなりぬ妻のマスク
(日高玲・抄出)

守男さんを悼む 日高玲

 近藤守男さんが昨年二〇二〇年七月に八十七歳で、逝ってしまわれました。この二、三年は体調不良で句会を欠席されていましたが、年賀状に、ご夫妻でゴルフを楽しむお元気そうな写真が映っていたので幸いと思っておりました。ところが、今年一月になって、昨年夏、転倒から体調を崩し、肺炎を誘発してしまい、との訃報を頂き、愕然としました。
 今、『海程多摩』のアンソロジーを繰ってみますと、自己紹介として、昭和九年六月五日東京府滝野川区に誕生とあります。「僕は名門音羽幼稚園卒業なんですよ」の声がよみがえります。昭和二十年四月戦災で秋田県能代市に疎開。昭和二十七年三月に上京。『海程』四〇五号(平成十六年八月号)より投句、とありますが、それ以前に、近藤さんの創作は俳諧の連歌(連句)から始まります。きっかけとなったのは、知人で、現在NHKカルチャー町田教室「連句講座」講師の佛渕健悟氏から連句の楽しみを教わったことでした。やがて東明雅主宰の「猫蓑会」に入会し、ますます連句の楽しさに嵌っていきます。一方で、開講して間がないNHK青山教室の金子兜太俳句講座に参加し、金子先生の魅力に惹かれて、海程に入会します。その後は「東京例会」は勿論のこと、「多摩句会」に「秩父道場」にと、海程の同人として俳句の創作に励み、生涯の楽しみとされたのでした。
 守男さんの作品は、家族への想いや日常景を生真面目に活写したものが多いのですが、リアリズムの奥には、ロマンティシズムが潜んでいて、独特の俳味が滲んできます。掲句の「遠蛙」や「眼と声の」「ヒント得て」のとぼけた味。「草の根」の田舎人のロマンティシズム。独特な感覚の利いた「メロンパン」等。
 思えば長い年月、私共夫婦は「守男さん」と雅号で呼び習わし、俳諧の連衆として、座を共にし旅を共にしました。金子兜太俳句講座に、空席がまだあるから遊びに来ないかと誘って頂き、やがて一緒に海程に入会。初心の頃には、守男さんご贔屓の旗亭に句友たちと集い、批評をしたり未熟を嘆いたりと、二度と無い楽しい時代を過ごすことができました。本当に淋しくなりました。

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