『海原』No.36(2022/3/1発行)

No.36 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
銀杏大樹兄サが降りてきそうな日 大沢輝一
冬の雷不穏不穏と救急車 大西政司
ちひろ好きの亡妻つまの小机柿落葉 岡崎万寿
キスをする男と男鬼胡桃 小野裕三
十三夜「月の砂漠」の眞子と圭 川崎益太郎
枯すすき名もなき咎を負うがごと 黒済泰子
おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
返り花「何とかなる」をエールとす 篠田悦子
山眠るもののけ微かな息そろう 十河宣洋
白桃や遺品のような小夜ひとつ 竹田昭江
愛みたいな初雪の日の深呼吸 たけなか華那
考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
ハミングハミング空に白い曼珠沙華 遠山郁好
蟻君ありんこ忌夫婦漫才またトチる 遠山恵子(藤本義一の忌)
フクシマに冬蝿といるふたりごころ 中村晋
夕花野みんな忘れてしまふのか 野﨑憲子
木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
秩父嶺の厚き胸板八つ頭 藤野武
人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
風花や人のかたちをなす真昼 水野真由美
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの愁思かな 村本なずな
霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
夭逝といふ綾取のまだ途中 柳生正名

藤野武●抄出

結び目にぴたりはまった今日の月 阿木よう子
初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
覚束なく逝く夫照らせ石蕗の花 榎本愛子
鍵盤に慣れる指から冬に入る 奥山和子
けはひ皆落とし物かな秋日向 川田由美子
星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
立冬の杉鋭角を貫きぬ 佐藤君子
雪虫のすだくに妻の深眠り 関田誓炎
やわらかきひき算の果て秋ほたる 芹沢愛子
時という分別箱へ木の葉かな 高木水志
着ぶくれて逃げる記憶に追いつけぬ 立川弘子
くるぶしに絡まる凩の尻尾 月野ぽぽな
終焉の日も在る筈の暦買う 東海林光代
糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
祕佛てふ闇を受け入れ里の秋 間瀬ひろ子
感情のだんだん欠けて泡立草 松井麻容子
冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
生牡蠣のかおりや末期癌のはなし マブソン青眼
仲直りのように仕上がる障子貼り 三浦静佳
セーターゆるく昼月がくすぐったい 三世川浩司
敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
よそ見しているみたいなベンチに木の実降る 村上友子
ピアノの鍵盤キーぬぐいてよりの秋思かな 村本なずな
ボーイソプラノ檸檬をきゅっと一滴 室田洋子
白鳥がくるそらいろの方眼紙 望月士郎
じゅわじゅわとしみでるヒトよ油照 森田高司
ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

冬山のようななりしてお父さん 伊藤歩
 冬山は、草木も枯れ寂とした景観。この句の「お父さん」は、定年も過ぎ、なにやらしこしこと趣味の庭仕事や俳句などにいそしんでいる人。口数は少ないが自分の世界を持っていて、結構亭主関白を張っているタイプ。現役時代の颯爽さはないが、なんとなく隠然たる権威を感じさせる。その父の風采を、「冬山のようななり」とみた。作者はそんな父に親しみとたのもしさを込めて見つめている。「お父さん」の呼びかけに心情を込めて。

綿虫が静かに降るよ名を呼ばれ 大池美木
 綿虫は秋から冬にかけて出現し、時に燐光を発しながら大量に降るように舞う。「静かに降るよ」で切れているので、「名を呼ばれ」たのは作者。呼んだのは綿虫舞う空間の奥からの声なき声ではないか。だが文脈通りに読めば、綿虫が名を呼ばれたように出現して静かに降っているとも読める。その主体の転換は、中七の切れによるものではあるまいか。

おびただしきにんげんの穴末枯るゝ 小西瞬夏
 「おびただしきにんげんの穴」とは、どんな穴をいうのだろう。人間がすっぽり入る墓穴のような大きさの穴なのか、人間があちこちに掘り尽くした大小さまざまの穴なのか。前者なら死者を意味し、後者なら人間の手による戦争や乱開発の穴となる。上中の平仮名表記で、その双方を含む世紀末的世界が滲むとみた。となると「末枯るゝ」がにわかに重い意味を持つ。それは平仮名表記がかえって具象を超えた心象に接近したからであろう。

十二月八日火の芯となる折鶴か 三枝みずほ
 十二月に入って、テレビでにわかに開戦時の歴史を回顧する特集番組が組まれた。対米戦争に成算のなきまま突入せざるを得なかったのは、当時の国民感情や陸軍中堅層の意向に抗えず、徒らに引き返すべき時を失った政治の責任であることを痛感させられる。それは今日にも通ずる教訓だ。「火の芯となる折鶴」に、その象徴的映像をみた。火達磨となった平和の象徴としての折鶴だろうか。歴史の転換点に燃えるもの。

石積みの力学美しき鷹渡る 重松敬子
 「石積み」は、古城や長堤の石積みで、その力学的構成はまさに見事なオブジェとも見られる。そのオブジェの上を鷹が渡って行く。「美しき」はその景観への賛歌に違いないが、やや決まり文句と見られなくはない。だが「力学美しき」としたことで、型通りの形容句を脱した。月並みの景に生命力の重い矢を射込んだとはいえまいか。

考や妣かとおはぐろ蜻蛉追いにけり 樽谷宗寬
 考は亡父、妣は亡母。亡き両親を偲びつつ、池面を低く飛ぶ二匹のおはぐろ蜻蛉を目で追っている。やがて蜻蛉は空高く舞い上がって見失われるのだが、作者は亡き父母の行方のように、その飛び去った軌跡を追い求めている。ある日、ふと訪れた亡き父母への慕情。

木犀の気流に乗れば会えますか 服部修一
 木犀は仲秋の頃、細かい十字の花からやや甘い感じの芳香を放つ。久しく会わない人、それは想い人に限らず、懐かしき師や友、あるいは亡き人であってもいい。そんな会いたい人に、木犀の香りの気流に乗れば会えますかと呼びかける。そのおずおずとした語感に、抑制された情感、思いの丈が籠っている。

すすき原抜けては人の顔になる 平田恒子
 すすき原を抜けたら、人間の顔になったという。ならば、すすき原では何の顔だったのだろう。そこはすすき原にふさわしい生きものの顔。例えば狐とか山犬、あるいは鹿だったかもしれない。そして全力で疾走、やっと抜けて息弾ませながら、人間の顔に戻ったという。人心地ついたところだろう。その表情が、すすき原での心細さや怖ろしさを物語る。

人質のようコスモスのよう施設の母 松本千花
 老人施設に母を預けている。程度の差こそあれ認知症を抱えているが故の措置で、高齢化社会の直面している現実に他ならない。その母の姿を、「人質のよう」でもあり、「コスモスのよう」でもあると見ている。やがては自分自身にも及ぶことと知りながら、その現実をあわれとも、さびしいとも受け止めているのだろう。「コスモス」の揺れが、心のざわめきのかなしさを伝えている。

霧の駅から運命線にのりかえる 望月士郎
 この句も一つの境涯感と見られよう。「運命線」は手相の中の運勢を表す線。それを「霧の駅から」としたのは、茫漠とした生涯の先行きを、もはや運勢にまかせるほかはないと見たのだ。一種の諦念であって、意志的な選択ではあるまい。今やこういう句が多くなってきたのは、大きくいえば、日本社会の先行きに不透明感が覆いつつあるからともいえる。その現実にどう対処すればよいのか、おそらく誰にも正解はあるまいが、一人ひとりの生き方の中で問われている課題ではあろう。

◆海原秀句鑑賞 藤野武

初霜や腑に落ちぬ音が聴きたい 石川青狼
 軽やかな表現の中に、突き上げるような思いが伝わってくる句。予想どおりに淡々と過ぎてゆく今という情況に、作者はどこか認めがたい(あるいは妥協しがたい)ものを感じているのだろう。そんな現状を打ち破り、乗り越えてゆくために、(「初霜」という季節の節目で)何か納得がいかない音、胸に落ちない(尋常でない)音がして欲しい(聴きたい)、と(すら)思うのだ。それは喪失感と表裏?「聴きたい」という口語表現が切実。

実柘榴や酸つぱいままの通学路 石川まゆみ
 「通学路」というのは、おそらく小学生の通学路。もちろん作者が幼いときに通った路。その傍には柘榴の木があって、たわわに実をつけている。「酸つぱいまま」が上手いと思う。幼いということは、未熟ではあるが純で、愛おしいもの。そして通学路での出来事一つ一つが、(もはや二度と手にできない)何ものにも代えがたいものに思えるのだ。作者はそれを「酸つぱい」と感受する。今でも胸の中の通学路は「酸つぱいまま」にある。「実柘榴」が美しい。

星がシュルンとモミの木の入荷です 河原珠美
 絵本や童話のひとこまを見るような楽しさ。とにかく「シュルン」という擬態語が素敵。星が「シュルン」と流れ(あるいは輝き)、それが何かの合図でもあったかのように「モミの木」が、どさりと入荷した。あふれる樅の香り。華やぐ店先。もうすぐクリスマス。

糸屑とかパン屑とか秋の木洩日 鳥山由貴子
 ごくごくありふれた日常を、詩に昇華した。「糸屑」が服についているよ、とか「パン屑」が床に落ちましたよ、とかいった、日常のきわめて些細なことどもが、秋の透明な「木洩日」のもとに置かれて、とても大切な、珠玉のように感じられるのだ。ゆったりとした時間の中で、豊かに暮らす人間の姿が見えてくる。やわらかな感性。

だぶつくものなんにもなくて枯野かな 丹生千賀
 「枯野」を表現するに、「だぶつくものなんにもなく」とは、とても個性的。この措辞によって、無駄なものがすっきり削ぎ落とされた枯野が、鮮明に浮かんでくる。そんなシンプルなあり様は、作者にとって一つのあるべき姿なのかもしれない。そう考えるとこの句、作者の自画像にも見えてくるのだが。

神の旅実家に寄りたい神もいて 野口思づゑ
 やおよろずの神がいるという日本には、様々な神がいて、なかにはかなり人間くさい、決して立派とは言えないような方もいるのだ。陰暦十月、出雲に集うために旅をするという「神の旅」でも、そのついでに「実家に寄りたい」と思う神がいてもおかしくない。このぎすぎすした世の中で(とりわけ身動き取れないコロナ禍で)こんな(ゆったりした)心の余裕に、私達は、ほっと和み、なぜか喝采したくなるのだ。上質なウイット。「実家に寄りたい」に、妙なリアリティーがある。

冒険の日暮れは特に牛膝 松本勇二
 日が暮れるまで夢中になって遊んで、服に牛膝をいっぱいつけた少年(一人ぐらいは少女が混ざっている)一群の姿が目に浮かぶ。作者の少年時代の一光景にちがいない。「日暮れ」によって「冒険」の質が明瞭になる。でも子供たちは今、コンピューターゲームなどに夢中になっていて、この句の世界とはやや趣を異にする、というのが一般的な見方かもしれない。しかし注意深く辺りを見回してみれば、自転車でわざわざ遠くの公園まで出かけて行って遊んでいる一団や、キックスクーターの二人組が歩道を漕いでいる姿を見かけることもあるのだ。人間の本質はそう変わっていないのかもしれない。子供は(ときに大人も)自分の限界を超えたい、限界を広げたいという欲求に駆られる時がある。きっと「冒険」とはホモサピエンスの本質なのだ。そして今でも「冒険」は色あせない。この句の世界は単なるノスタルジーにあらず。私がこの句に魅かれる所以。

敗戦忌その名つぶやくたび笹舟 宮崎斗士
 「その名」とは、「敗戦忌」という名称そのものであり、同時に戦争で亡くなられたり傷つかれたりした方々の、具体的な名前でもあるのだろう。まことに頼りなげな「笹舟」は、戦争に翻弄されたそうした人々を象徴し、また、誰も脅かさず傷つけぬ、のどかなる平和の喩でもあると受けとれる。

ながさきの鰯雲美し死なめやも 横山隆
 「死なめやも」について、「め」は意志を表し、「やも」は反語と私は解釈した(文法が不得手なので自信はない)。(キリシタンの弾圧や原爆など)様々な苦難を乗り越えてきた「ながさき」の空に今、悲しみを癒すように「鰯雲」が美しい。ああもう死んでもいいと、ふと思う。『死のうか…』『いやいやまだ死なぬ。生きよう』と自問する。平仮名表記の「ながさき」が立体感を生む。こういう句を見ると、つくづく俳句という詩形の底力を感じる。

◆金子兜太 私の一句

とび翔つは俺の背広か潟ひとひら 兜太

 金子先生は昭和39年6月、秋田県男鹿半島の旅をした。二日目「寒風山かんぷうざん」の頂上近くの緑地を歩いた。日本海と日本第二の八郎潟の干拓を眺望。先生は完成間近い広大な干拓地を見て背広を脱ぎ、青い空に放り飛ばした。前掲の句を声高く唱え、まさに一瞬のドラマであった。先生は四十代半ば。俳句一生の大志を抱いた作品と思う。傍らには皆子夫人と武田伸一、武藤鉦二らが居た。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。舘岡誠二

堀之内長一たんぽぽまみれかな 兜太

 「海程全国大会in熊谷」の開催が決まり、下見のため先生と関係者四人で荻野吟子記念館へ。車を止めてから堀之内さん篠田さんが威勢よく土手を登って行きました。菜の花やたんぽぽが一面に咲き乱れていました。先生は足腰が弱って休憩所で待つことに。二人が降りて来ず、先生はそのうち怒ってしまい、「あの二人の仲はできている」とカンカンでした。降りてきたら先生は何もなかったようにケロッとしていました。程なくして〈老いらくの恋などといま昼寝かな〉を発表。先生は天才です。天晴でした。句集『百年』(二〇一九年)より。長谷川順子

◆共鳴20句〈12月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

伊藤歩 選

大切なものに距離置く水引草 石川和子
黒牛の全重量に虻まわる 稲葉千尋
肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
てのひら肩幅私の寸法の秋草 川田由美子
寝落つとき沼の匂ひす二日月 木下ようこ
日常という渚くるぶしに白露 小池弘子
シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
蟬時雨震える身体溶かしてよ 高木水志
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
夜の迷路ヒマワリと人間ひと入れ替わる 鳥山由貴子
穴惑いフクシマを問い嫌われる 中村晋
ごめんねの一語野に萩満ちており 藤原美恵子
ふたりしずか触れることばの衣かな 北條貢司
八月の水を飲むとき石拾うとき 本田ひとみ
梨喰らう充電している前頭葉 松井麻容子
刈り入れや黄泉の家族が二三人 松本勇二
白木槿散り敷く未完の私小説 村上友子
蜉蝣にされて誰かの記憶の川 望月士郎
コロナ禍や机上は我の浮巣のよう 森鈴
一日やタンポポ綿毛吹いただけ 横山隆

中内亮玄 選

書きとめる仏の言葉秋薔薇 伊藤歩
缶ビールせめてコップや皿並べて 植田郁一
元気な人ランニングシャツ着て朝死なむ 宇田蓋男
刻刻としずかにくるう虫の声 大髙宏允
月光を濯ぎ静かなる窪地 北上正枝
初月夜童貞すてた村に棲む 白井重之
宅配の箱の行き交ふ星月夜 菅原春み
日傘のまま返す御辞儀や影もまた 田中裕子
○マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
とんぼうの次々そこに座りなさい ナカムラ薫
オンライン授業そびらに林檎むく 根本菜穂子
秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
浜のシャワー女人達ヴェヒネゆるりと泡分け合う マブソン青眼
塩素臭いよカゲロウは昼へただよう 三世川浩司
韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
トルソーの一体月の踊り場に 望月士郎
炊立ての淋しらに白曼珠沙華 柳生正名
老母歩めば秋の川音ついてくる 輿儀つとむ
烏賊を干す島に青空みな集め 若林卓宣

望月士郎 選

祖母の家へ祖父夜這ひせし涼夜かな 石川まゆみ
麩のようなひと日風船蔓かな 加藤昭子
訃報あり金魚のひれは夜を知らず 故・木村リュウジ
夕立のはじまりを聞くもう一人 小松敦
ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
回転落下たちまちに蘭鋳となり 中井千鶴
ムヒカさんと同じクボタで春耕す 新野祐子
こころなどみえないけれど心太 丹生千賀
人体を拡げるように白シーツ 藤田敦子
ぽっくりを失くした記憶敗戦忌 松田英子
○後ろ手に屍を隠す金魚売り 松本千花
キリストのふっと微笑む飛込台 松本勇二
鳥だった頃の名残に胡瓜曲がる 三浦二三子
ずいぶん芒ずいぶん物理がきらい 三世川浩司
夫婦という一足す一足す柚子ひとつ 宮崎斗士
蛍袋に遠吠えの二、三匹 三好つや子
子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
空耳は耳鳴よりも星流る 柳生正名
で。百年後わたしはまた白壁の前に立つ 横山隆

森武晴美 選

新盆の骨箱にのるハンチング 石川青狼
黙祷も握手もせずに八月過ぐ 井上俊一
稲妻を吸って吐き出す桜島 上脇すみ子
驟雨美し父母亡き家の息遣い 河原珠美
祭果て一人ひとりの橋渡る 黒岡洋子
原色を塗り重ねゆくヒロシマ忌 白石司子
靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
スケボーの影ガリガリと炎天へ 遠山郁好
フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
鬼百合の花のいつまで火を追はむ 仁田脇一石
小鳥来よ師は一本の大けやき 船越みよ
老老介護むらさきしきぶの花に雨 本田ひとみ
ポケットにねじ込む秋思ハローワーク 三好つや子
杖置いて母よ花野へ出掛けましょう 村松喜代
プールより人いっせいに消え四角 望月士郎
カンカン帽ひょいと浮かせて別れかな 森由美子
がちやがちやと暫く僕でなくて俺 柳生正名
彷徨の母空を舞う赤とんぼ 輿儀つとむ
どこまでも母手を振りぬかなかなかな 横地かをる

◆三句鑑賞

肉体の檻に青鳩長き声 桂凜火
 二つの事柄のみを提示した句の形が、簡潔で力強いです。人にはそれぞれ固有の体質があり、誰しもそれに制限されて生きていると思っているので、「肉体の檻」という措辞に共感しました。近くの森から聞こえてくる青鳩の低くけだるい獣めいた声が、不自由な身のやるせなさを一層際立たせていると思います。

日常という渚くるぶしに白露 小池弘
 軽装で庭に出たら、素足に草の露がかかったのでしょうか。その時詩想が浮かんだのかもしれません。「渚」とは、波が打ち寄せてくる所、五感に波のような刺激を受けて、それを言語化する日常。句作に励む充実した毎日が思われます。畳み掛けるような破調のリズムのループが、句の内容によく合っています。

シーツ干す秋のバイオリンのため息と 十河宣洋
 風にひるがえる白いシーツとその爽やかな香り、バイオリンのしなやかな調べ。視覚、嗅覚、聴覚を刺激する気持ちの良い句でした。シーツは撓み、バイオリンの音色も、「バイオリン」という言葉も撓んで響き合います。北海道の長い冬の訪れを前にした、貴重で穏やかな秋のひとときを味わう心地です。
(鑑賞・伊藤歩)

マスクという顔の国境すさまじや 峠谷清広
 世の中の風景は、こんなに劇的に変わるものかと驚いている。マスクをしていない者とすれ違う時の、人々の群れのあの非難がましい目つき。そこには理性的な、あるいは知性的な判断というものはなく、ただ感情的嫌悪が何よりも優先されるようだ。人間の有り様に寒々とする今日、マスクを顔の「国境」とは見事な風刺。

秋澄めり白神山しらかみ越えの鉦ひびく 船越みよ
 全国大会の折、振り返ると武藤鉦二さんがいた。何度もお会いしているが、忘れていたら申し訳ない。「お久しぶりです、福井の中内亮玄です」と、改めて挨拶すると「何よ?知ってるよお、有名人だもん」と、いたずらっぽく笑った、あの笑顔。原生林広がる白神山地を、悠々と飛び越えてゆく武藤鉦二が見える。

韮の花嫉妬ってふと語尾に出る 宮崎斗士
 映像鮮やか、状況鮮やか、叙情鮮やか、全て鮮明。掲句に登場する人物の台詞まで聞こえてきそうだ。斗士俳句を追う者は常に二番煎じ、全て画竜点睛を欠く作品となろう。「海程流」とか「海原流」というのではない、工場長くらいの軽い表現では、彼の力を十分に表現できない。ゆえに、海原「関東四天王」の一角と呼ぶ。
(鑑賞・中内亮玄)

ポリキポリキ老人歩く蝉しぐれ 篠田悦子
 ポリキポリキという奇妙な音がします。外は騒がしい蝉しぐれですから、これは身体の中から聞こえてくるのでしょう、歩くと鳴る老人音です。ポキという骨の折れちからるような音と、それに対抗するようにリキ=力を思わせる音がしのぎを削りつつ一つになっています。自虐と諦観と力強い呑気が感じられます。

炎天に水飲む地球内生命 高木一惠
 系統樹の一番上にぶらさがるヒトという奇妙な果実。ちかごろこのヒトは「地球にやさしい」というキャッチコピーの下に延命活動を始めました。地球にやさしくするというヒトの立ち位置の尊大さに気付くこともなく。「地球に嫌われないように」でしょう。どうやら地球内生命であることを忘れているようです。

子のみらいシャボン玉のかぜおなら 森田高司
 シャボン玉とおならという、口から出るものと尻から出るものの球体空気つながりを導線に、子の未来に想いを馳せます。漢字、ひらがな、カタカナの表記の仕方が通常とずれていて、特に「みらい」によって希望的歴史軸から逸脱したアンニュイが漂います。この薄さ、儚さ、柔らかさはどうしたものでしょう。
(鑑賞・望月士郎)

靴は皆出船のかたち梅雨晴間 鱸久子
 そうそうと手を叩いた句。爪先を前にきれいに並んだ形は、出航を待つ船にそっくり。子供靴やブーツもあって何とも賑やか。玄関はまるで風待ち港。梅雨晴れの外出を、今か今かと待っている。風待ち港であった牛深の、ハイヤ節が聞こえてきそうな、明るさが感じられる。

夏の月頷くことは接続詞 竹田昭江
 話し上手は聞き上手とか。会話を持続するには、話し手よりも聞き手が大事。「そうそう」と頷いてくれたら、うれしくなって次へと繋がります。命の電話の相談員の方は、ずっと聞き続けられるのだそうです。否定せず、励まさず、頷きひたすら聞く。命の接続詞でもある頷き。夏の月がやさしい。

フクシマの更地の白さ韮の花 中村晋
 東日本大震災から十年、熊本地震から五年。その復興には温度差があり、更地で残っている所がまだまだあります。白く広がるこの地にも、笑顔の語らいがあったはずです。元の楽しい生活が、一日も早く戻ることを、願ってやみません。繁殖力の強い韮の白い花を思いながら、熊本の地から「負けんばい」のエールを送ります。
(鑑賞・森武晴美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

うっせーわ母を教育芋煮会 荒巻熱子
少しずつ朽ちれば怯えず霜の夜 有栖川蘭子
小三治の並べし枕都鳥 有馬育代
前期高齢枝豆をてんこ盛 石口光子
まだわたし綿虫のように生きている 井手ひとみ
甲殻に神去月の吾子隠す 植朋子
綿虫や信じきれないのが病 大池桜子
十人兄弟の九番目小鳥来る 大渕久幸
老人に巻耳なもみがいつぱい付いていた 押勇次
荒縄に縛られて咲く冬の薔薇 かさいともこ
ワカメ干す真ん中辺りで寝てみるか 葛城広光
神無月誘われたので行くソワレ 川森基次
竹の春ロボットと歌うイマジン 日下若名
バンクシーの枯れたひまわり地球の日 重松俊一
風呂吹の面取りは母ゆずりかな 五月女文子
秋深しダリの時計の二十五時 宙のふう
老画家に柚子を貰いて別れたり 田口浩
名山の眠り給ふや麓の葬 立川真理
泣く時は白鳥のよう後向く 立川瑠璃
枝豆の一さや三粒褒めらるる 土谷敏雄
銀漢やマクラの小三治さっと立つ 野口佐稔
奥羽なり降りて軸足陰を持つ 福井明子
身に余る恋木犀が匂いはじめる 福岡日向子
食卓にジェンガ崩れて林檎在り 福田博之
熟柿吸うコロナ死の記事斜めに見て 保子進
夜干しのシャツに朝日文化の日だよー 松﨑あきら
秋の日の原発見ゆる乗馬かな 山本まさゆき
深山舞茸一子相伝のごと孫へ 吉田もろび
銃のくに菊は刀をあきらめし 路志田美子
葱きざむほどのなみだでひと想う 渡辺のり子

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