『海原』No.45(2023/1/1発行)

◆No.45 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出
鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
禁断のアラート穴に這入る蛇 石川青狼
うすもみじ花屋のオジサンに嫁がきた 伊藤幸
悼む夜を流星の弧のさしこめる 伊藤道郎
風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
今行きます曼珠沙華からコールです 大髙洋子
柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
遠太鼓スクワットする黄落期 河田清峰
田水落す月面に降り立つかな 川田由美子
人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
人間の着ぐるみを着て秋の空 小松敦
はんこたんな嫁も姑も稲架掛ける 佐藤千枝子
コスモスのをさな顔なる土性骨 ダークシー美紀
残響は霧にまみれて渓流よ 田中亜美
オオアレチノギク泣くこと黙ること 田中信克
横顔が雲だったころの青レモン 遠山郁好
ただ抱いてくれる背なから小望月 中野佑海
秋暁の後ろ歩きを見守りぬ 野口佐稔
君のおしゃべり僕のだんまり釣瓶落し 日高玲
コロッケの掌に温かき十三夜 藤野武
認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
小鳥来る誤字いっぱいの母でいい 宮崎斗士
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
虹消えてゆく硝煙のその最中さなか 茂里美絵
身ぬちにも荒野のありて蕎麦の花 矢野二十四
薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
耳朶に風シラタマホシクサの心地 横地かをる

前田典子●抄出
雲垂れ込め秋刀魚漁船の黙溜もだだまり 石川青狼
水場に小鳥不登校という翼 伊藤道郎
細身の秋刀魚こうもミサイルに脅されては 植田郁一
被曝地解除揺れつ戻りつ秋の蝶 宇川啓子
切り岸の光の中を落ちる蝉 榎本祐子
秋の風頭があって手足あり 大沢輝一
残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
月光の匂う交換日記かな 片岡秀樹
稲架解いて厚き耳たぶ持つ子かな 加藤昭子
我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
銀河濃しわが掌になにもなし 北上正枝
同期みな戦力外や新酒酌む 齊藤しじみ
曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
強情が秋に追い越されてしまう 佐々木昇一
青首大根両手に下げて妊婦来る 佐藤二千六
南あかるしかぐわしき稲の里 白井重之
曼珠沙華我魂草木南無阿弥陀 鈴木孝信
弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 中内亮玄
過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
川とんぼ舳先にやわらかい会話 本田ひとみ
目を閉じることがアトリエ長き夜の 宮崎斗士
迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
冷製スープコスモスの遠い揺らぎ 茂里美絵
眼鏡拭く雨月の失言消えるまで 山田哲夫

◆海原秀句鑑賞 安西篤

鰯雲君の御託は聞くとしよう 綾田節子
 「御託」とは、自分勝手な言い分をくどくど言い立てること。そんな厄介なものを聞いてやろうというのも、一つの市井の知恵で、向こう三軒両隣の世話役ならではのもの。「君」という呼びかけがその立ち位置を示す。作者には、そんな下町っ子の心意気がある。「まあまあ、いいからいいから」という声が聞こえて来そうだ。

風鳴りの丘秋思の捌き方 榎本祐子
 「風鳴りの丘」に立つのは作者自身で、そこで自らの「秋思の捌き方」を習得しているという。秋はことのほか、事に寄せ物を見ては、秋の淋しさを感じ、物思いにふけることが多い。そこから故知らぬ悲しみに沈湎してしまうこともある。そんな秋思をきりよく捌いていかないと、落ち込みからは抜けられそうにない。風鳴りの丘に立って、そんな秋思の捌き方が自然と体感出来そうな気がしてくるのも、自然に教わる暮らしの知恵というものかもしれない。

秋の日はクリスタル新しい靴も 大池桜子
 今年の海原新人賞作家。日常身辺の題材を、素直に自分の感性で受けとめ、同世代同士で使っている普通の言葉で呟いている書き方だ。この素直さが、この人の新鮮さとなっている。秋の日ってクリスタルだよね、だから私の新しい靴も輝いているんだね。そうなんだ、嬉しい!、とばかり靴を抱きしめる姿まざまざ。

敗戦忌働く虫を見ていたり 大沢輝一
 「敗戦忌」と「働く虫」との取り合わせによって、まず浮かび上がるものは、戦争によって多くの無辜の民に強いられた犠牲や不幸のことだろう。平穏な日々の暮らしと働く日常さえあれば、それだけで十分幸せだった人々。作者のまなざしは、今働いている虫たちにその人々の姿を重ねて、彼らの日々寧かれと願う祈りをこめているのだ。

柩おろし野菊の中の人を呼ぶ 大西健司
 遺体の埋葬を、野菊咲く草原の一角で行っている景。柩をおろし、最後のお別れに故人の名を呼んでいるところだろう。おそらく「御覧なさい。こんなに野菊が咲いて見送っていますよ。どうぞ、やすらかにお眠りください」と呼びかけているのではないか。心を込めた野辺送りの、素朴な華やぎすら見えてくる。地方ではまだ土葬も残っているので、こういう場面がみられよう。

人生に余白などなし穴まどい 小林まさる
 この句でいう人生の余白とは、年を経て仕事の第一線から退き、余生を何事にも煩わされず、気ままに過ごそうとする時期を指しているのではないか。ところがその時を迎えてみると、そんな余白といえるようなゆとりのあるものではなく、なにやら追い込まれたような、穴まどいにも似た不安な日々を送る破目になりがち。そんな老いの有態を、「穴まどい」と詠んだのかも知れない。

認知症野菊のままに逝きし母 増田暁子
 晩年に認知症を患った母は、野菊のような童女の印象のまま逝去したという。これは痴呆からくる幼児返りによるものだろうが、時には愛らしく思えることもあるらしい。介護する娘の立場からすれば、すべての時がそうだったとはいえないにせよ、老いた母へのあわれみとも重なって、野菊の印象を思い出の中に、強く刻印したのだろう。母ももって瞑すべしとはいえまいか。

鬼灯二つ明るい返事をもらう 室田洋子
 幼馴染の久しぶりの手紙のやりとりを予想する。「鬼灯二つ」とあるからには、女性同士の親友関係で、昭和時代に女学生の間で流行した友情以上恋愛未満の「エス」という関係なのかも知れない。そんな情感を匂わせているのが、「鬼灯」の質感だ。若き日には、もう少し隠微だった情感も、熟年の今は、懐かしい青春の思い出として、明るい口調の返事の中に蘇ってきたのだ。勿論こちらもそんな調子の手紙を出したはず。

霧の駅ひとりのみんな降りて霧 望月士郎
 今年の金子兜太賞を受賞し、今最も乗っている人の一人といえよう。その取材領域は広いが、題材の斬新さばかりでなく、この句のような人間存在の本質的在りようを風景の中に見出すこともある。霧の駅から降りてきた「みんな」は、皆一人ひとりなのに、「霧」という空間に「みんな」とともにゾーニングされていく。それは印象的な風景に囲い込まれたコンセプト的風景にも見えてくる。

薔薇の花束提灯のようにかざす兄だった 夜基津吐虫
 回想の中の今は亡き兄ではなかろうか。今回の作品はすべて戦争回想句である。それも沖縄戦への回想のように思える。作品は亡き兄から聞いた生なましい見聞や記録から取材したものだろう。戦後を生きた兄が、沖縄戦に関わる何らかの顕彰を受け、記念の薔薇の花束を提灯のように高く掲げている景とみた。それは作者自身の誇りでもあったに違いない。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

残暑かな私素直にくたびれる 大西宣子
 立秋も過ぎて、涼しさを感じ始めたものの、真夏に戻ったような暑さは耐え難い。若ければ存分に汗をかきつつやり過ごせる。作者は九十二歳の方。この作品を秀句とした決めては、「素直にくたびれる」という理屈抜きの、内発的な表出にあった。年齢を知った上での迷いはあったが、このお齢でなければ生まれないものであることを、大切にしたいと思った。一人称の句だが、わざわざ「私」を入れたのも、むしろ自然な効果があった。

我が恋は今どの辺り式部の実 川崎益太郎
 下五の「式部の実」に、源氏物語を匂わせるところが憎いところである。読者をその物語に預けて、その恋のさまざまを想像させておくのだから。そして、「我が恋は」と、とぼけた位置から言ってのける。しかし、自身の言いたい的は外さない、ユーモラスな姿勢に魅かれた。

曼珠沙華空は端から塗りはじめよ 佐孝石画
 空の色と曼珠沙華といえば、〈つきぬけて天上の紺曼珠沙華〉(山口誓子)が思い浮かぶが、紺と赤の取り合わせた句柄が硬質的である。この自然の描写と、掲出の句の画との枠の違いということはあるが、趣が全く異なる。「空は端から塗りはじめよ」と言われた途端、画は自然の空になって、生々しく何かの気配が生まれ始まる。曼珠沙華は抽象的な不可思議な存在感を生み出し、「よ」の命令形が更に謎を深めてゆく。

弦そつと弾く秋雪払ふやう 田中亜美
 もっとも表したいことがあるときは、ピアニッシモにするのだ、と聞いたことがある。「そっと弾く」も、初雪にはない趣の「秋雪」も、ピアニッシモの気配だ。繊細な弦の音色の余韻のなかに、一瞬の緊迫感のひびきがある。書かれているのは、弦とそれを弾く指であるが、読者は、弾かれたひとひらの雪を、無意識のうちに眼前にして、その感触や表情に誘い込まれている。喩の力の強みや、方法論を持つという姿勢への思いを深く持った。

つくつくぼうしひりひりと今できること 遠山郁好
 ひらがな書きが、スローモーションのように「今」へと集約させてゆく。あのつくつくしの鳴き様には、限られた時間への命の切実さや、何かを急き立てるような感じを受ける。その響きの厳しさに触発されて、作者自身の「今」という時間への思いが喚起されたように思う。「ひりひりと」をどう捉えるか。こころの奥底から自然に沸き上がって得た、言葉を超える、真実の心情を表して動かしがたい。

歯磨きの母の背骨の寒露なり 豊原清明
 日々、見慣れている「歯磨きの母」の日常の姿を、ふと眼にして切り取ったところに新鮮味を感じた。「背」ではなく、「背骨」、とした描写に、豊かだった母の老いゆく姿に抱く寂寥感が出ている。しかし、さびしいとは言わず、「寒露なり」と詠嘆する。思慕とも甘美とも思える母への視線が、たじろぐほどに純である。

馬肥ゆる国境線は海の上 鳥山由貴子
 世情に敏感になり、「国境線」をつい戦争に引きつけて見てしまいがちだったが、読み返して「海の上」や「国境線」に心が及ぶとき、人類の壮大な歴史が思われた。「馬肥ゆる」の馬も、約五千年前の小さな動物から大型化へと進化し、旧石器時代に人類とかかわり出したという。その馬が肥える季節。国境線の下の海は、ゆたかな潮流が繰り広げられている。戦争のことを意識下におきながらも、それを超えた、自然と人類との、いのちの営為の普遍性を得ていて感銘を受けた。

過疎の村田水落とすもマスクして 根本菜穂子
 規制が少し緩んできたとはいえ、まだまだマスクをしてないと不安である。その不安は日本の隅々にまで浸透していて、過疎の村までその心理状況がゆきわたっている。しかも、見渡す限り新鮮な大気につつまれた田んぼ。水を落とすのは多分一人ではないだろうか。深刻な社会詠だが、諧謔性の帯びた作品として印象的である。

迢空忌だんだん怖い葉っぱの面 三好つや子
 普通、葉っぱを見るときは、自然の風景のなかの種類、色彩などの形態であったり、季節の移り変わりに応じた変化など、ゆたかな美しさに魅かれる。この句の場合は、見る側の脳裏に記憶していた葉っぱへのイメージがふっと湧き出てきたようだ。この日は釈迢空の忌日。民族学的視線が、葉を憑代のような面として見た。一枚の葉への畏れに襲われた一瞬をとらえた感覚が鋭い。

風おこる刈田渾身のオーケストラ 森田高司
 さしずめ、そのシンフォニーの楽章は第四楽章のクライマックスだろうか。収穫を終えた安堵と歓喜にあふれた交響曲の響きが聴こえてくる。おのずと、刈田になるまでをさかのぼっての、壮大なスパンの、自然と共にした、人の営みの織り成すシンフォニー想像される。ゆたかな気分で立つ森田さんが宮沢賢治に見えたりもする。

◆金子兜太 私の一句

白椿老僧みずみずしく遊ぶ 兜太

 大日如来像で有名な、奈良の円成寺に遊んだときの作とあります(「金子兜太自選自解99句」)。参詣された日、円成寺の守番の老僧の話に「おうおう、うんうん」と耳を傾けていらっしゃる先生のお声が聞こえてくるようです。やがて純朴なお人柄の老僧と、青年期の運慶作の大日如来像を前にしての会話は、「みずみずしく」の言葉から、愉快に、聡明に、若々しく、お堂を満たして……。句集『詩經國風』(昭和60年)より。柏原喜久恵

骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ 兜太

 ダケカンバは、薪ストーブを使用していた頃、母がその樹皮を利用して火をつけていた。鮭は食卓をよく賑わす。北海道に住む私にとってはいずれも身近なもの。しかし、「骨の鮭」などと思いを巡らすことはまったくなかった。そのような中、この句に出合う。参ってしまった。対象をわしづかみする力、そして直截な表現に圧倒される。句集『早春展墓』(昭和49年)より。佐々木宏

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

泉陽太郎 選
躓いた石が声出す暑さかな 大西宣子
麻服を着て見殺しにしていたり 小野裕三
太陽はふくらみ止まず水羊羹 狩野康子
ゆうれいの痛がる足にまだ軍靴 河西志帆
黴の花抱き人形の捨ててある 小西瞬夏
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
生い立ちに嘘一つまみレモン水 佐藤千枝子
ありばい崩し宇治金時にスプーン入れ 白石修章
水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
夢に愛妻寝首に汗の目覚めかな 瀧春樹
太ってぬくい茄子に諸事情 たけなか華那
梅雨冷や胸元に置く黒真珠 月野ぽぽな
十字切る兵士に天使来ぬ夏野 長谷川阿以
いつまでも嘘つく玉ねぎ剥いている 藤田敦子
錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
いいぞちょこまか人さし指を天道虫 三世川浩司
夫と厨にタバスコちょっと冷奴 村松喜代
手紙を書くときおり蛍狩りにゆく 望月士郎
涼しさはマチスの横向きの女体 山谷草庵
ウロコ雲猫の欠伸に負ける夫 らふ亜沙弥

刈田光児 選
紫蘇を揉む言の葉訪ねゆきて香 石塚しをり
犬に寄り人に寄る犬春の道 内野修
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
近江上布のおくるみ蓮の花開く 大西健司
口実をひとつ選んで水澄まし 奥山和子
少年のきれいな喉元蛍の夜 加藤昭子
みずすまし水の表裏を黙食す 狩野康子
夏風邪や義理人情のすたれた世 佐々木昇一
真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
老生のわれと遊びて源五郎 関田誓炎
わが生の各駅停車梅を干す 竹田昭江
旅に折る鶴のほどけし原爆忌 立川由紀
八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
鉄線花私語の鎮もるジャズ喫茶 平田恒子
白あじさい淋しい時はパンを焼く 本田ひとみ
目礼の距離美しく梅雨あがる 嶺岸さとし
花馬酔木やっぱり暗くなる序章 茂里美絵
ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
ウクライナ国花は向日葵潜む兵 山田哲夫
ががんぼや書き損じたる撥ね払い 横地かをる

すずき穂波 選
銀河に合図水洗いのワイシャツ 有村王志
飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
戦争が饒舌になる交差点 大西政司
七夕や人生の橋かけたるか 河田光江
源五郎静かに途方に暮れたり 木下ようこ
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
○夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
しばらくは白い靴を磨く 笹岡素子
送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
東北の雨より白し神隠し 遠山郁好
ごった煮の老人ホーム昼寝覚 中川邦雄
たっぷりと墨摩るように六月来 中野佑海
この村の青い蛙とよき湿り 服部修一
螢狩わたしの無口は軽い罠 深山未遊
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
心太突けば戦がしゃしゃり出る 渡辺厳太郎

横地かをる 選
青葉騒たわいないこと復唱す 石川青狼
庭の木に交信の水撒きにけり 鵜飼惠子
○サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
青芝に雨降りやすき椅子を置く こしのゆみこ
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
白樺はおとうさん優しい夏の雨 たけなか華那
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
野の薔薇の満開になる逢いに来い 仁田脇一石
空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
豊かなる時間に触れる茅花流し 平山圭子
アガパンサス夫は身体を空にして 松田英子
姫女苑群生独りぼっちかな 松本勇二
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
○白雨きて二人半分ずつさかな 望月士郎
妻の背の日ごと胡瓜の曲り癖 山田哲夫

◆三句鑑賞

夏鳶や足が離れてからの海 三枝みずほ
 なぜか、かなり急峻な崖が浮かぶ。下に海、上に空。真夏の日差しが照りつける。崖の中ほどの出っ張りに鳶がいる。あたりを見渡している。しばらくすると、ふわっと飛び上がり、瞬く間に空の点となる。その鳶の足である。足が離れるその瞬間。離れるのは果たして鳶の足なのだろうか。夏の海へと。

水鉄砲は初めて触れる模造銃 芹沢愛子
 真夏の公園。子供たちは汗だくになって元気に飛び回っている。その手には水鉄砲。最近の水鉄砲は高性能だ。滑り台の影に身を隠し、あるいはまたジャングルジムの上から全景を眺める。そして、命中。自分も思い出す。あれは快感であった。間違いなく。でも模造銃、その通りだ。紛れもなく模造銃であった。

錆払う橋に爆弾を掛ける前 マブソン青眼
 交通の要所、戦略的要所である橋。破壊しなければならない。そのための爆弾を仕掛ける。間違いは許されない。その設置のためであろう、まずは丁寧に橋の錆を払う。実害はなにもない。だから、今まで放置されていた錆。橋は久しぶりに錆を払われる。そしてつるりと綺麗になった鉄骨に、爆弾はしっかりと固定される。
(鑑賞・泉陽太郎)

真上から夏至の太陽ロックンロール 篠田悦子
 今日から夏という空から、ロックの王様、エルヴィス・プレスリーが太陽に乗ってやって来た。強烈な心象の一句。一九五〇年後半から世界的に流行したロックンロールは、日本へも上陸し、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス等の歌手が活躍した。令和の今でも夏に入ると、苗場山麓に於てロックの祭典が開催される。

八重葎薙ぎてゴシック体に生き 並木邑人
 アカネ科八重葎は、原野に自生し蔓をからめながら一面に生い茂る雑草。草類の茂る原野は小さな生き物の住処であり天国である。一句を読むと自ずとウクライナの戦争地へ思いが及ぶ。原野を戦車が縦横に走り回り、草を薙ぎ倒し、虫を踏み殺す。戦車の通った跡はゴシック体の文字の様。生き残る草に明日への希望の光が射る。

ハシビロコウよりもかそけき墓洗ふ 柳生正名
 絶滅危惧種に指定されているハシビロコウは、ちょっとやそっとで動かない鳥として知られる。一句は、この珍鳥を比較対象にして墓を洗っている情景。墓を洗うという行為は、日常と少し離れた位置に在り、この時はご先祖様とかそけき会話を可能にする。一方のハシビロコウはひとり瞑想の世界に耽っている。俳諧味の句。
(鑑賞・刈田光児)

飯すえるよう今更子育てを問う 井上俊子
 「飯饐える」の喩が独創的。「饐えた飯は水で洗って食べる」というから子育てを顧み、過去を丁寧に洗い出し、気持ちを立て直す。いじめ、フリースクール等、複雑怪奇な現代にあって、子を躾け一人前にするのは、並大抵のことではない。酸っぱくほろ苦い自責の念が伝わるが、決して捨てずに有難く全てを頂くのだ、ご飯も我が子も。

送り人のように蕨の首洗う 佐々木宏
 「送り人」とは納棺師のこと。採ってきて、くたっとなったワラビに人間、それも沢山の人の遺体を想った。一つ一つ労わりながらその(蕨)首を洗う行為に、戦争の悲惨な翳が過り、銃後の人々の心情に寄り添っている作者。昨年、二〇二二年の春の重苦しい空気が漂う。

ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
 外国人にとって日本語は他国語に比べ難易度の高い言語という。若者言葉なんぞは、この国の我々ですら理解不能なときもある。目まぐるしく変化する現代の言語社会を言語学者金田一春彦氏は「歓迎すべき変化」と肯定する。一方、日本の国家は、相も変わらず鈍。民衆の変化にもはや国家は対応しきれておらず、ズレが生じている。滑稽・諧謔味の「ところてん」に情致が加わり、一句の余韻は哀愁のジャパンの感。
(鑑賞・すずき穂波)

サルビアやわたしの中の確かな火 大池美木
 サルビアの花は赤、白、紫などがあり、作中のサルビアは目の醒めるような赤い花ではないかと感じる。「確かな火」具体的には表記されていないが、作者のゆるぎない思いを推し量ることも出来る。今の世界の殺伐とした時代を生きているわたしたち、平和への願いをつよくされたのかも知れない。読者の想像を誘う余白がある。

葱の種いやというほど反抗期 中野佑海
 子どもは成人になるまで二度の反抗期を迎えるという。「いやというほど」イヤの連続は第一反抗期の特徴といえる。イヤイヤをいっぱい言って駄々をこねるのは成長期の大切な課程。親も長い目でみてあげることが出来ればいいのでしょうが、いい加減にしてという気持ちになってしまう。子どもとの緊張感がみえるよう。

空梅雨や机上に渇く地図の旅 半沢一枝
 旅に出ることの楽しさ、よろこびは日常とは違い高揚感が伴う。コロナ禍の旅行が戻ってきたとは言うものの海外旅行はいうまでもなく国内の旅も気が引けるというもの。そんな折、机に拡げた地図の上での旅を心の渇きにも似た思いでひとり試みている。虚しさがただよう。いつの日か必ずとの思いを空梅雨が静かに支えている。
(鑑賞・横地かをる)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
「アイタシ」と打電ひたすら啄木鳥 有馬育代
青檸檬アリバイのごと文字を置く 安藤久美子
秋澄むや足音はいつしか羽音 飯塚真弓
昔の事ばかり自慢す羽抜鶏 石口光子
しじみ蝶心臓の朱は見せざりき 石鎚優
十月やパンの匂いの腕を抱く 井手ひとみ
墓標みな木の十字架や草の花 植松まめ
ぎんなんの音きこえたようなめざめ 遠藤路子
生身魂朴念仁と笑ひ合ひ 岡田ミツヒロ
吊るされて鮟鱇の目の潤む かさいともこ
人間の証明写真八月尽 川森基次
黄落やピザ窯乗せ来るキッチンカー 清本幸子
かなかなや母の手は小さき日溜り 小林育子
秋夕陽黒雲押しのけ見事に落つ 小林翕
複眼の乾坤を鬼やんまかな 佐竹佐介
雁渡し晩年は子に頼らざる 髙橋橙子
霧は善を戻らぬ日日へ連れていく 立川真理
顔見知りの菊人形に誘わるる 立川瑠璃
意地を張る相手もいなくおでん酒 谷川かつゑ
水切り石翔んでとんでいわし雲 中尾よしこ
萩の雨あては股旅唄などを 深澤格子
秀でたるものなき日々を馬肥ゆる 福岡日向子
草の花夫と吾とに学生時代 藤井久代
クイーンにキングならべる良夜かな 藤川宏樹
花野裂くアウシュヴッツの線路ゆく 三嶋裕女
祭神の縁起さまざま新走り 村上紀子
日向ぼこ水平線の揺ぎかな 村上舞香
家がいいと言いし母と十三夜 吉田もろび
凍土も縁者も彼方骨拾ふ 渡邉照香
大花野わたしの棺の窓かしら 渡辺のり子

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