『海原』No.51(2023/9/1発行)

◆No.51 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ブランコ天辺街のさみしき岬 伊藤道郎
竹皮を脱ぐや刺客の潜みいる 大池美木
くずおれる戦後の形はや暮春 大髙宏允
春日遅々ゴリラのように坐つている 大西宣子
芍薬や男ひとりになりたる日 河田清峰
花冷えやパソコンの音癌病棟 河田光江
健康のために歩いてゆく海市 こしのゆみこ
早苗取り年子の上はヤギの乳 小松よしはる
古希の友みな無冠なり啄木忌 齊藤しじみ
憲法記念日いつものご飯と味噌汁 佐藤博己
遠雷の近づいてくる駅ピアノ 重松敬子
私を改行している日永かな 白石司子
九十路ここのそじの栞よ出羽の橅芽吹く 鱸久子
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子
果て知れぬ野戦に咲いてモルフォ蝶 高木一惠
花菖蒲聞きわけのない吾といる 竹田昭江
ともだちは五月の風でまるい石 たけなか華那
青葉騒石の光と陽の光 田中亜美
あの世にはあの世の噂桜騒 田中信克
銃弾に向日葵欠けて白き闇 中内亮玄
あやとりの人差し指にある徂春 ナカムラ薫
AIに恋文書かせかげろえる 長谷川順子
風が木になる木が風になる大手毬 平田薫
草矢打つ百年先の真昼間へ 水野真由美
ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
蝶の昼モザイクかかる動画かな 三好つや子
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎
たんぽぽや余命おかしく樹木希林 森鈴
二人居てひとりの時間えごの花 茂里美絵
山に日が当たる芽吹きの樹の木霊 横地かをる

白石司子●抄出

深淵の青い鳥探す半夏かな広島サミット 石橋いろり
銀河に深く影を沈めて夜の新樹 伊藤巌
さなぎより出でてはつなつの風になる 伊藤幸
死ぬ数に入れず牡丹ゆたかなり 稲葉千尋
少年が少年いたわる花の昼 榎本祐子
鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝
白靴の写らぬ記念写真かな 小野裕三
夏蝶が来たので少し休みます 川嶋安起夫
本棚を逍遥すれば緑夜かな 河原珠美
あと何回会えるのだろうカーネーション 日下若名
果てしなく夕日が遊ぶキャベツ畑 こしのゆみこ
春雷や護憲派老いてまたも逝く 篠田悦子
春風邪にとどまっている前頭葉 清水茉紀
清明の朝の光の中に居る 関田誓炎
さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
人間を忘れた者ら野火を追う 立川由紀
雲雀の巣窮屈な靴脱ぎ捨てる 鳥山由貴子
ひばり灯って天地の回路つながったね 中村晋
残心の木遣唄沸く雪解川 並木邑人
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子
たけのこと棟梁ノコノコやってきた 長谷川順子
茅花流し軸なき僕らのおしゃべり 日高玲
みかんの花ほろほろ宮沢賢治の修羅 平田薫
白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
底なしの放心へひなあられポイポイ 堀真知子
くちなわも翁も螺旋五月来る 三好つや子
鳥巣立つ雲梯の揺れ明るく 村上友子
歯を磨くやう人戦さ鳥は恋 柳生正名
玉葱がぶらさがる軒戦はず 若林卓宣
籐椅子に父の骨格ありありと 渡辺厳太郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

くずおれる戦後の形はや暮春 大髙宏允
憲法記念日いつものご飯と味噌汁 佐藤博己
春泥や考えぬ練習つむ日本 芹沢愛子

 現在の日本への社会時評ともいうべき作品群。
 まず大髙句。戦後も七十五年を経て、かつて戦後復興とその後の高度成長、さらには低成長への屈折という時代の変化に伴い、今後どのような成長の姿があり得るのか、また物ばかりでなく精神の満足が得られるのかという様々な課題が生まれている。作者はこのような時代相を踏まえて、「くずおれる戦後の形」というフレーズを提出した。「はや暮春」は、その時代相の黄昏を憂えているように見える。こういう問題意識は、多くの人々に共有できるものだろうが、その答えは容易には見いだせていない。作者とてその一人であろう。今はその暮春の中に立ちすくむのみだが、「どうするのだ」という心の叫びだけは聞こえてくる。
 佐藤句。日本の憲法は、戦後GHQから有無を言わさず押し付けられたものだが、史上稀にみる理想的な平和憲法ともいわれた。すでに一世紀近い歴史の中で、その実践的意義について様々な議論が出てきているのも事実。しかし一般庶民にとっては、平和な日々に、いつものご飯と味噌汁さえあればそれで足りるのですという。どのような時代の中にあっても、ささやかな庶民の願いは変わらない。憲法記念日にも、ひたすら願うのはそのことのみですという。
 芹沢句。小池龍之介という僧侶が書いた『考えない練習』という本がベストセラーになった。いらいらや不安は練習で治せる、もっと五感を大切にする生活をしようというもの。この句は、その本の題名を逆説的にもじって、何事も先送りして考えない練習を積んでいる今の日本への、警世的な一句である。「春泥」は、そんな泥沼のような世相への批判となっている。

私を改行している日永かな 白石司子
AIに恋文書かせかげろえる 長谷川順子

 デジタル時代ならではの表現方法を使った作品。
 アナログ時代の文章なら、「私を改行」は、とても通じなかったに違いない。春の日永の一日。ふと、気分を変えて別の事に取り組もうとする。それを一日の時の流れの中での「改行」と捉えた。改行して新たなワードフレーズが始まるように、時の流れが変わる。パソコン上で、一日の日記を下書きするかのよう。
 「AIに恋文書かせる」は、確かに沢山の恋文を検索させて気の利いた一文を選べば、手軽に量産できよう。だがそれで、心情が本当に伝わるのだろうか。貰った相手も逆検索できるわけだ(陰に声あり「そうかあの手で来たか」)。下五の「かげろえる」は、その恋の行方を暗示しているようだ。

ゆうがおは電話いきなり切られた顔 宮崎斗士
みみたぶのように金魚と雨の午後 望月士郎

 海原の新感覚派の句。「ゆうがお」が、「電話いきなり切られた顔」とは、いわれてみてあっと驚く。夕暮れに花開き、翌朝にはしぼんでしまう夕顔。電話を一方的にいきなり切られてしまったショックは、しばらくは収まるまい。それは朝のゆうがおの表情。切られたのは電話だが、その表情には傷跡が残っている。
 みみたぶの句。大きな出目金が、みみたぶのような尾鰭をひらめかせて泳いでいる。ちょうど雨の午後、家の中は皆出払っていて、金魚がひとり留守番然と控えている。よくある景ながら、その空間に澱む倦怠感アンニュイがなんともやり切れない。金魚としては知ったことではなく、雨の午後の中に、ひっそりと浮かんでいるばかり。

青葉騒石の光と陽の光 田中亜美
ともだちは五月の風でまるい石 たけなか華那

 石を素材にして夏の季節感を詠む、異色の知的感性。
 田中句には、光の射影構造がある。今現に与えられている光の、青葉の一群を照らし出す仕組み。それは「石の光」と「陽の光」として捉えられた。「陽の光」は自然の陽光。「石の光」はその自然光を受けた反射光。それによって、「青葉騒」は青葉の渦となった。
 たけなか句。この「ともだち」は、おそらく幼馴染の同性の友だろう。「ともだち」の平仮名表記がそのことを暗示する。久しぶりに出会った印象だ。「五月の風」の爽やかさと、「まるい石」の懐かしさ。石蹴りをしたり、川の水切りをした「まるい石」が、二人の絆のように思い返される。「ともだちは」は、「おっ、ともだち」の感じ。

あやとりの人差し指にある徂春 ナカムラ薫
 ハワイ在住の作者だが、時々珍しい季語でチャレンジしてくる。「徂春」は、「行く春」のこと。歳時記によると、行く春は、過ぎ去る春をめぐり流れる時間として捉えるもので「春の暮」の過ぎ去る時を空間的に捉える季語や、「春惜しむ」の人の心を捉える季語とは風合いが異なるという。「あやとりの人差し指にある」という風情は、異国から指し示す郷愁を孕んでいるともいえよう。その郷愁は、「あやとり」によって幼き日へ帰っていく。

風が木になる木が風になる大手毬 平田薫
 花つきのいい大手毬が風にゆれている様は、盛り上がるような美しさに揺れる。その揺れざまを、「風が木になる木が風になる」と繰り返す。その繰り返しは擬人化をともなうようで、どこかなまめかしい。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

銀河に深く影を沈めて夜の新樹 伊藤巌
 音感を伝える音節からすれば七・七・五、意味を伝える文節からすれば十四・五の破調であるが、兜太師の言われる「音節と文節がどこかに軋みを残しつつも、それがかえって魅力となっている」句。例えば、「夜の新樹銀河に深く影沈め」と倒置法を活用すれば定型に落ち着くが、上五に遡行するため「銀河に深く影を沈め」は「夜の新樹」の説明っぽくなってしまう。「沈めて」と「て」で軽く切ることで間が生まれ、深く影を沈めているのは夜の新樹のみでなく他にも、と想像が広がってくる。

さなぎより出でてはつなつの風になる 伊藤幸
 幼虫から成虫に移る途中の休眠状態の「さなぎ」が地上に出て風になるという、実から虚へと想像力を羽ばたかせた句であるが、静から動、暗から明への解放感がまさに清々しい「はつなつの風」なのである。また、意図的な「となる」ではなく、自然推移的な変化の結果を示す「になる」としたことで、目に見えぬ風と一体化した姿もうかがえる。それは作者の願望なのかもしれない。

鴎かもめみんなが春の言葉です 大沢輝一
 呼びかけのような「鴎かもめ」のリフレインが、海原を自由に飛翔する姿を印象づける役割を果たし、中七・下五へと続くことで、鴎に触発された作者が、人間も物もまわりにあるもの全てをやさしい春の言葉として受け止めていることが伝わってくる。「みんな」「です」の口語調も一句を明るいものとさせている。

夏蝶が来たので少し休みます 川嶋安起夫
 原因・理由を示す接続助詞「ので」であるが、説明的にさせていないのは季語「夏蝶」の斡旋にある。気力や体力を養うための休みはもちろん必要だけれども、そうはいかない場合もある。でも、大型で美しくインパクトのある夏蝶がやって来たので、少しくらいなら許されるかなと思わせるような句だ。

あと何回会えるのだろうカーネーション 日下若名
 導入部「あと何回」が、作者との関わり合いを想像させ、最後にカーネーションにたどりつくので、その会いたい人は母と考えていいだろうか。上六であるが、「何度」ではなく、「何回」としたことで、今後も規則的に継続、反復することが予測されるのである。会える時間を大切にして欲しいと思う。

果てしなく夕日が遊ぶキャベツ畑 こしのゆみこ
 上五「果てしなく」が、時間的、空間的な広がりをまずイメージさせる。そんな広大なキャベツ畑の中を夕日がゆったりと遊んでいるような景が見えてくるのであるが、日常から離れ、解放感に浸っているのは作者自身なのかもしれない。

さえずりや回想という乗り物ゆれ 芹沢愛子
 「回想」を「乗り物」と言い換えたのがこの句のすばらしさである。明るくなごやかなはずの囀りの声に触発されて作者は過去を回想し、時空を超えて行き来する乗り物のようだと感じたのである。「ゆれ」は作者の心象と考えたい。

人間を忘れた者ら野火を追う 立川由紀
花吹雪なべて戦場埋め尽くせ 野﨑憲子

 害虫を駆除するための「野火」を「戦火」となぞらえ「人間を忘れた者ら」が追うとし、眼前を舞う花吹雪に対し「なべて戦場埋め尽くせ」と命令調で叫ぶ、それは兜太師の言われる「自分を社会的関連のなかで考え、解決しよう」とする「態度」であって、「社会性は俳句性と少しもぶつからない」のである。

雲雀の巣窮屈な靴脱ぎ捨てる 鳥山由貴子
 地表に巣をつくり、飛び立つときは鳴きながら真っ直ぐに空に舞い上がる雲雀、いや、作者、あるいは誰かの巣立ちと考えていいだろうか。地上を歩くには必要であるが、ときには窮屈でもある靴。そんなもの全てを脱ぎ捨てて自由な大空へ!

ひばり灯って天地の回路つながったね 中村晋
 「ひばり灯って」という明るい切り口であるが、一句全体からは大切な人との別れなど重いものを想像させる。「天地の回路つながっ」て充足感が得られただろうか。

茅花流し軸なき僕らのおしゃべり 日高玲
 高校生と接する機会も多く「軸なき僕らのおしゃべり」に共感。個で行動することもできず楽しそうに群れているが、何かトラブルがあると「軸なき」なのだ。それが茅花の花穂を吹き渡る熱を孕む南風「茅花流し」と合う。

白花黄花津軽豊かな胸である 藤野武
 兜太師の「人体冷えて東北白い花盛り」を思わせるが、物理的ともいえる師の句に対し、どちらかといえば心理的。「白花黄花」が一句を印象明瞭なものとさせ、「豊かな胸である」の断定が津軽の包容力を感じさせる。

◆金子兜太 私の一句

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太

 この句から希望と元気をもらっている。曼珠沙華の真っ赤な色と秩父の大地を駆け回る腹出し子らの逞しい生命力。激動の昭和、子供達の未来に師の温かい眼差しが注がれている。あるがままの運命を背負い「戦よあるな」と師の怒髪が天を衝く。禅僧のようにゆったりと茶を全身に沁みわたらせ、眼鏡の奥の細い目から童心をちらり、ユーモアたっぷりの兜太節、そこにはよく生きた証の顔がある。句集『少年』(昭和30年)より。樽谷宗寬

わが世のあと百の月照る憂世かな 兜太

 「花唱風弦かしょうふうげん 俳句をうたう」この兜太句を作曲して、歌った衝撃は忘れられない。それまでも自作の句をメゾソプラノの私が歌い、作曲家でギタリストと演奏をかさねていた。が、兜太俳句の凄まじい、その言葉の腕力﹅﹅﹅﹅﹅は、歌い手の心身に膨大なエネルギーを迫る、と体感。「百の月はだな、三日月や満月、月の形のいろいろだ」と兜太先生。上野奏楽堂で聴いていただけたのもうれしい。『金子兜太全句集』収録の未刊句集『狡童』より(サブタイトルは「詩経国風によせて」)。山本掌

◆共鳴20句〈6月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

木下ようこ 選
熱下がるまではこべらを摘みにけり 石川和子
雨音や撫でてから切る韮の束 伊藤歩
大枯野ヒトは部品を取り替える 大沢輝一
煮凝りって妙な震え独裁者 大髙宏允
○還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
中途からずるい音する冬林檎 小野裕三
桜蘂降るしっかり残る和紙の皺 北上正枝
春菊に花愛妻が夢に立つ 瀧春樹
あっほらいまたんぽぽの絮彼女だろ 竹本仰
五、六人雀隠れのお弔い 遠山郁好
○夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
ヒールを這い上る絨緞の記憶 日高玲
柚子の黄いろが内がわにいっぱい 平田薫
兜太忌やみかんの種から芽が出てきた 藤野武
○白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
恋はいいから春をください普通の春 松本千花
流氷や置いてきたものみな光る 松本勇二
文机はわたしの港ヒヤシンス 宮崎斗士
胸びれに尾ひれのふれて春の宵 望月士郎
まだ知らない筋肉もありお雛さま 茂里美絵

十河宣洋 選
山国の父の座標の切株です 有村王志
黙祷のどこを断ちても白さざんか 伊藤道郎
○ステージ4妻の言葉はシクラメン 稲葉千尋
春愁い消される「ゲン」の記憶かな 川崎益太郎
雪の樅集中力として幹は 北村美都子
看りて帰り雪のひとひらは私 黒岡洋子
雪解けやアイヌ史語る女子高生 黒済泰子
黒板は緑イタチがいなくなったから 佐々木宏
春はやて武士の顔した犬がゆく 佐藤詠子
空飛ぶ車「おーいおーい」とつくしん坊 鈴木千鶴子
子猫抱きわたしふわっと浮く感じ 高橋明江
○夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
菜の花やむくむく御洒落始める気 中野佑海
水になれただ早春の水になれ 野﨑憲子
たらの芽を落とすブーメランのような枝 疋田恵美子
条件反射的反論寒いなぁ 松本千花 
わたくしの瞳に棲んでる犬ふぐり 三浦二三子
早蕨がグーを出すからパーを出す 望月士郎
大根干す北斗七星の右隣 森岡佳子
日捲り晦日あっあっあっあああ 森田高司

滝澤泰斗 選
ブチャは雪焦げた戦車と痩せた犬 綾田節子
二月二十日檄文のような星屑 石川青狼
その昔戦犯と言われし父のさくら咲く 泉尚子
梅咲けばそこに師が居る兜太の忌 伊藤巌
中村哲てつさんは野の白梅の白だった 伊藤道郎
○ステージ4妻の言葉はシクラメン 稲葉千尋
菜の花忌きな臭くなる日本海 上野昭子
水を引く朝の光を鴨は引く 内野修
春耕や地球に爪立て揺り起こす 漆原義典
○還らざるものらへ流木立てておく 大西健司
今すでに「戦前」なりしか多喜二の忌 岡崎万寿
皮手袋情死のように重ねられ 桂凜火
梅咲けり憤怒のように火のように 佐孝石画
異次元の少子対策山笑う 佐藤二千六
白ナイル青ナイル春光老身を射ぬく すずき穂波
大腿骨ごつんごつんと雪を割る 十河宣洋
ちちははを天に並べて梅真白 月野ぽぽな
山笑う埋めては掘って埋める除染 中村晋
二番手を誇る北岳雪の晴 梨本洋子
野は冬の水照りウクライナ耐えてあり 野田信章

三浦静佳 選
夜遊びを胎教と言う朧かな 石川和子
ふるさとの山に横顔ある遅日 伊藤歩
能代は雪降らず吹雪かずぶっかける 植田郁一
実朝忌石段ふいにこわくなる 尾形ゆきお
大江氏逝く隣りで妻は寝ています 今野修三
日脚伸ぶ帰り道です寄り道です 佐藤博己
耕して湯船ひつぎと思ひけり 髙井元一
雪降るや故郷の時刻表をもつ 高木水志
愛嬌とは服の皺々と春の風 董振華
老人と春風溜まるイートイン 根本菜穂子
顔認証して湯豆腐に口を焼く 日高玲
○白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
刺の無きこともさみしき薔薇の束 前田典子
梟の鳴く夜暗号を読み解く 前田恵
春の昼掃除ロボット座礁中 嶺岸さとし
大根干す同級生の曲る腰 森鈴
仁王像その臍あたり冬ざるる 梁瀬道子
つぎはぎの土器らささやくやうな東風 山谷草庵
葬後の明るい家具と亡き母の食器 夜基津吐虫
日脚伸ぶ新製品の耳搔き器 渡辺厳太郎

◆三句鑑賞

熱下がるまではこべらを摘みにけり 石川和子
 幼い頃、小鳥の擂り餌用に、祖母とはこべを摘んだ。昨今、人は発熱に敏感となり自分の身体と気持ちをゆらゆら見つめ不安をつのらせる。けれどどんな時であっても作者ははこべらを摘めばきちんと本来の自分に戻れるのだ。大丈夫、はこべらを摘めば。その安心感。はこべらという植物のゆかしさが句に奥行きを与えている。
 
ヒールを這い上る絨緞の記憶 日高玲
 その絨緞はオペラの演奏会場のそれのようだったのか、それとも倒れた椅子や結束バンド(!)が散らばる薄い擦り切れた絨緞だったのか。ともあれ、その時ハイヒールをはいていたのだ。這い上る、という言葉が素晴らしい。美しいふくらはぎを感じさせる。その記憶は永く永く女性の人生を楽しませ、苦しませ、強く生きさせる。

胸びれに尾ひれのふれて春の宵 望月士郎
 むっちりとした春の宵。豊かな尾びれが胸びれに触れる。何となまめかしいその曲線。と楽しみつつも、え、尾ひれ? 尾ひれってつきがちですよね、この頃。ポーッとしていれば自分の大切な胸びれに無断で尾ひれが触れちゃったりもする今の時代だけど、それでも変わらずに美しく、哀しい大人の春の宵であるなぁ、とか大妄想。惹かれます。
(鑑賞・木下ようこ)

山国の父の座標の切株です 有村王志
 切株がいくつもある光景。造材の現場の風景である。切株を見ながら父が育てた樹木を思っている。その切株から父の顔や背中が見える。
 父は頑固な山の人だった。木を愛し木を育て、木と過ごした人である。切株の座標は原点でもあった。

夕焼けのような花束のような約束 中内亮玄
 心に沁みる夕焼けである。一生忘れたくない、そんな印象を持つ夕焼け。花束を幾つも貰ったような夕焼けが自分とあたりを包んでいる。そんな気持ちのような約束。
 どんな約束と聞くだけ野暮。大切な自分の行く末を決める大切な約束である。大きな約束がでんと胸に響いてきた。そんな印象を受けた。

菜の花やむくむく御洒落始める気 中野佑海
 御洒落始める気がいい。この「気」が菜の花と作者に掛かって気持ちよく読める。
 春である。菜の花が咲き始めている。いちめん黄色の染まる気配。まさにむくむくである。それを見ている自分もむくむくと湧いて来たのである。御洒落をして出かけたい。出かけなくてもいい。御洒落して皆を驚かそうという悪戯心が楽しい。
(鑑賞・十河宣洋)

今すでに「戦前」なりしか多喜二の忌 岡崎万寿
 昨年末のテレビ番組「徹子の部屋」のゲストだったタモリ氏が語っていた……2023年は『新しい「戦前」がくるんじゃないか』と思う……を踏まえてかどうかともかく、作者同様「戦前」の雲行きを疑わない。時事俳句は詩情から離れるが、こういう句は貴重だと思う。

山笑う埋めては掘って埋める除染 中村晋
 東北新幹線、あるいは、東北道を北上して福島に入ると、黒っぽいフレコンバックが所狭しと並ぶ光景が目に入る。前の句同様に、国は、行政は何をやっているのか。原発の安全性が担保していないのに、新たな原発再稼働を決める政府を山も笑っている。

二番手を誇る北岳雪の晴 梨本洋子
 山好きにとって霧ヶ峰高原から見る360度の大パノラマ程わくわくする場所はない。特に、そこから見る富士山から手前の北岳、甲斐駒の南アルプスラインは見飽きることがない。小説「マークスの山」と共に永遠なれ。信州出身の一人としてこの句の出会いに感謝します。
(鑑賞・滝澤泰斗)

夜遊びを胎教と言う朧かな 石川和子
 友人に誘われて夕食に出たり、お仲間でカラオケだったり、妊婦でも出掛けることはあるだろう。世代の違いもあって身体を案じる母に、「胎教だってば〜」と躱すあたり「心配しなくていいよ」との気持ちがちゃんと伝わっているのだ。季語が母の気持ちをよく表している。筆者、妊婦だった頃を思い出してしまった。

白菜の一枚一枚にふむふむ 堀真知子
 ふむふむに惹かれた。四分の一とか半分とかにカットされてない一個の白菜を剥いでいる作者。白菜の葉は美しいし観察している姿が想像できて愉しい。また、ふむふむは調理の具材ともとれる。読み手が自在に想像できて優しく柔らかな句になっている。

仁王像その臍あたり冬ざるる 梁瀬道子
 山門の両脇にしかめっ面をして歓迎してくれる仁王様。夏は風通しよくて涼しげなのだが、冬は気の毒だ。仁王像全体が冬ざれているのだろうが、臍あたりと焦点化している上手さ。もしかして作者の心を反映していないだろうか。彼岸でもお盆でもない冬ざれの時期に山門をくぐる。大切な人との訣れが作者に冬ざれの感を強く抱かせたのかも知れない、などと読みを広げてしまう。
(鑑賞・三浦静佳)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

また君が踏んでしまいぬ落椿 あずお玲子
花筵をみなのあうら酔ふてをり 有馬育代
辛くともくゆる夜の日本酒おぼろ 飯塚真弓
骨董市でピエロに会釈され青葉 石鎚優
魚捌く手の匂い嗅ぐ春うらら 井手ひとみ
遅き日や悲憤の切れ目どこにも無い 伊藤治美
大杉の影を透かして植田かな 扇谷千恵子
マスクとれば口といふもの喋り出す 岡村伃志子
蟬待たな栴檀緑深めたる 押勇次
艶話芥川にも有る夏野 かさいともこ
椎の花裏参道は畑の中 古賀侑子
狐面はずせば狐宵宮かな 小林育子
草笛を吹き鳴らしつつ逝くもよし 佐竹佐介
惜春の坩堝人間に死はありや 清水滋生
わたくしの内なる異国ほうほたる 宙のふう
「父の日」の父に賜る海苔弁当 立川真理
春驟雨過ぎ我が道の天に向く 藤玲人
薔薇愛でるために使わぬ指のあり 福岡日向子
悪玉は伝説となり立版古 福田博之
春宵の画家の来し方風の径 藤井久代
山繭の糸つむぐ安曇野日和 増田天志
あのベンチが見えるここに勿忘草 松﨑あきら
新涼や空と身体の境なし 村上舞香
花茨猫の嫉妬は本に尿 横田和子
蔓草の赤黒きさね淀に浮き 吉田貢(吉は土に口)
新緑に肌色明るく親族集合 吉田もろび
パンドラの胸に不死身の蛇タトゥー 路志田美子
薫風を高僧の列木霊すだまの讃 渡邉照香
ずぶ濡れの森ずぶぬれの足桜桃忌 渡辺のり子
柿若葉ひかりと影がくすくすと わだようこ

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