『海原』No.50(2023/7/1発行)

◆No.50 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

柿の木に梯子の架かったまま空き家 有村王志
舐めてみたよ春耕あとの黒き土 伊藤幸
鉄線花背凭れのない椅子の暮し 井上俊子
ムツゴロウ少し居眠りしたそうだ 大髙宏允
樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
水底に遺棄の自転車花筏 尾形ゆきお
花筏歪みガラスに舞妓笑む 荻谷修
椿落つ口を噤んでいた者へ 片岡秀樹
さえずりの聞き倣し祖父の車椅子 狩野康子
文末は笑顔の絵文字春うらら 川嶋安起夫
春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
春日傘閉じ落丁のよう真昼 三枝みずほ
放浪を終えて野菜のみずみずし 佐々木昇一
洗濯を取り込むように春終わる 佐藤詠子
マスクとり言葉をえらぶ日永かな 鈴木栄司
夕富士の天衣素なりし花祭 高木一惠
つるばみの花美し遠く縄文期 鳥山由貴子
柚子ほどの夜神楽明かり上流に 野田信章
天も地も菜の花盛り野辺送り 疋田恵美子
花の雨忘れぬための探し物 平田恒子
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
月おぼろだんだん木綿豆腐かな 増田暁子
微熱もすこし春愁ってくすぐったい 三世川浩司
兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
パレットに油彩のもがき養花天 三好つや子
秩父銘仙母に春の手紙を書こう 室田洋子
人ひとひら桜ひとひら小さな駅 望月士郎
ずっぽりと昭和を生きて陽炎える 森由美子
九十歳天道虫の一光線 横山隆

白石司子●抄出

再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
著莪一面不安分子の潜む星 奥山和子
青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
紙のひかり初うぐいすが捲ります 川田由美子
産声のようにバラの芽ふと加齢 金並れい子
三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
言葉のように灯る紫陽花カフェテラス 小林まさる
防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
師へ抛る桜白鷺わが川音 高木一惠
塩・兵士・凍土・泥濘春逝けり 田中亜美
獅子頭重ねる花弁の平和積むごと 谷口道子
春暁の浅き眠りを野といえり 遠山郁好
さくら狩だんだん父母の透けてゆく 永田タヱ子
前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
マスク外してみんな木の芽になっている 丹生千賀
春どかと来て去る秩父師の墓前 野田信章
野焼きから人は黒衣のように出る 長谷川阿以
龍一逝く全春星を聴き取りたし 北條貢司
かたばみの花のまばたき三姉妹 本田ひとみ
木の芽張る山はひたすら水を生み 前田典子
春月のぐらり脚から眠くなる 三浦静佳
微熱もすこし春愁ってくすぐったい 三世川浩司
春の霧晴れて武甲山ぶこうはきれいな返事 室田洋子
こめかみに残り火めいて蜃気楼 茂里美絵
忘れ物して遅刻して桜 山下一夫
桜月夜ぞわりと地球傾いた 山本掌
花の夜のビル一面の室外機 山本まさゆき
自己愛のうっすら点る朧の夜 横地かをる
死んだことないから平気チューリップ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

柿の木に梯子の架かったまま空き家 有村王志
 地方の過疎化の実態を、リアルな風景として提示しながら、その現実を沈黙の抗議の形で指し示している。つい昨日まで、柿の木に登って実をとっていたのに、今日はその仕掛かり状態のまま、空き家になっていた。かつては「逃散」といわれたような突然の変貌にもなりかねない危機感である。作者はその一つの兆しを直視して、地域消滅への警鐘としたのではないか。同時発表の作に、「限界村落殺意のはしる薄氷田」がある。この問題意識の延長上に、掲句があると見てよかろう。

樹木葬の亡妻つまにひとこと花粉症 岡崎万寿
 二〇〇七年に最愛の奥様を亡くされた作者は、ほとんど毎年のように妻を偲ぶ句を作っておられ、哀悼の思いは年とともに深まるばかりのようだ。奥様は樹木葬にされたらしく、すでに十五年の歳月を経ているが、墓碑が樹木だけに身近に手入れをされ、生きている対象として日々呼びかけられている。花粉の飛び交う時期には、ひとこと花粉症で迷惑しているよと小言を言ったりする。それをしも亡妻との生々しい命の交感として、今なお心の中に生き続けているのではないだろうか。

春竜胆ひとりひとりが気流かな 川田由美子
 竜胆は多年草で、晩秋に花が咲く。掲句は「春竜胆」だから、まだ芽吹いたばかりの草花なのだろう。「ひとりひとり」は、竜胆を擬人化したものとも、あるいは竜胆の草原を人々が三々五々歩いている景とも読める。句の味わいとしては、その双方を重層的に読み込んでいると見てもよいだろう。「気流」はその二つの命の混然とした意識の流れのようにも見える。川田さんの句には、時々こんな直感的な映像が立ち上がってくる。

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 具体的な景は見えず、ただ三月の陽射しの光を浴びて立っている。身体は空間との相互作用によって動かされ、そのことによって精神のはたらきが生まれる。それは内と外を区別する感応なのだが、今の作者は、光まみれになることで区別の意識が働かず、自分自身外界の光の中に溶け込んでいる。それゆえに自身の存在を意識し得ないような、光まみれの交感に身を委ねているのだろう。

マスクとり言葉をえらぶ日永かな 鈴木栄司
 長いコロナ禍からようやく解放の兆しが見えてきたので、久しぶりにマスクをとって話をしようとする。マスク無しに話をするのも久しぶりのせいか、なにやら改まった場に引き出されたような感じで、ついつい言葉を選びながら発言してしまう。折しも時は春の日永。身辺の物の動きからも、日永の暮らしに入ったことを、自分自身にも言い聞かせながら、言葉を選んでいるのだろう。

柚子ほどの夜神楽明かり上流に 野田信章
 昨年十二月二十八日に、七十四歳で亡くなられた宇田蓋男氏追悼の五句のうちの一句。宇田氏在住の宮崎県延岡では、毎晩のように夜神楽が演じられている。作者は宇田氏とともにその高千穂神楽を見に行ったのだろう。その時の体験から、柚子ほどの夜神楽明かりを川の上流に目指しながら歩いた思い出を句にした。「柚子ほど」という喩が、ほのぼのとした宇田氏の印象と重なって、夜神楽の明かりに映えていると見たのだ。

花の雨忘れぬための探し物 平田恒子
 花の雨は、桜の花に降る雨で、花の風情を深めるとも言われている。一方、年とともに物忘れは多くなり、日がな一日物探しに費やすことが増えてくる。そんな時、探し物になりそうな大切なものをあらかじめ確かめておく。それは「起き伏しの不確かな日々風信子」への備えとしておくことにもつながる。作者は日々のよろこびを味わい尽くすために、先々忘れぬための大切な物を花の雨降る日にも探しておこうとしている。

兜太先生春が大きな椅子になる 宮崎斗士
 今年三月、秩父で行われた兜太祭での一句かもしれない。先生が亡くなられて五年になるが、今も秩父へ行けば、あの山河に先生が臨在する息吹を感じるに違いない。やがて春になり、山河には金縷梅や山茱萸の花が咲く。春は先生に大きな椅子を用意してくれているようにも見えてくるという。そういわれれば、たしかに先生の魂は、秩父の山河に満ち満ちて、その大きな胡坐の中に、私たちをすっぽりと包んで下さっているような気がしてくる。兜太先生を偲ぶに相応しい大きな句だ。

九十歳天道虫の一光線 横山隆
 九十歳は、卒寿である。その年に達しての感慨の一句であろう。「天道虫の一光線」とは、その生涯を振り返って過ぎ越し方を一望しているのではないか。「天道虫」は自分自身のこと。はるけくも来つるものかなとは思っても、本人にしてみればいつの間にやらやって来ましたということではないか。先のことは「死んだことないから平気チューリップ」というから、まったく気にもしていない。人生百年時代を楽しみながら生きている人。

◆海原秀句鑑賞 白石司子

再会は春の濃霧の抱擁なり 石川青狼
 春といえば出会いと別れの時節であるが、この句の「再開」をそんなありきたりなものとさせていないのは、季語「春の濃霧の」の斡旋にあると思う。春の夜のぼうっとした朧ではなく、奥行があり何となく冷たい感じの「霧」、しかも「濃霧」であるから、その再開はもう会うことの叶わぬ人、つまり、いまは亡き父か母と考えていいだろうか。言葉を必要としない「抱擁」は作者の内部の現実、超現実であったのかもしれない。

著莪一面不安分子の潜む星 奥山和子
 一日で枯れてしまうが、新しい花を次々と咲かせる一面の著莪の花。「胡蝶花」の別名通り胡蝶の舞うような美しい眼前の景から中七・下五への飛躍は兜太師の言われる「創る自分」の想像力によるもので、種を作らないにもかかわらず根茎を伸ばして広がる「著莪」から、「不安分子」の潜む星、地球を連想したのである。

青き踏む足裏より青き環流 川崎千鶴子
 「青き踏む」、「青き環流」の「青」のリフレインが青色の持つ爽快感、解放感、安息などを強く印象づけているが、地球全体にわたるような大気や海流の循環を意味する「環流」をもってきたところがこの句の眼目である。青々と萌え出た草を踏むことでそのパワーは作者の足裏より全身へ、いや、地球規模の大きな流れへとイメージを広げていけば、まだまだ大丈夫!というような元気が湧いてくる。

三月の光まみれの不在感 黒岡洋子
 終わりと始まりの時期である「三月」の中でふと作者は「不在感」を抱いたのだと思うが、中七「光まみれの」をどのように解釈すればいいだろう。希望、栄誉、美などの象徴でありながらも「影」を連想させる「光」、また、「汚いと感じられる物が一面にくっついている状態」を表す「まみれ」から考えれば、明と暗が表裏一体である、永遠ではないものに対する作者の空虚感みたいなものを一句全体から味わえばいいだろうか。

水菜洗ふ水汚さるるものとして 小西瞬夏
 洗うという行為からすれば清めるものとしての「水」であるが、洗われる方からすれば「汚さるるものとして」の「水」であり、単なる発想の転換のようであるけれども、透明感のある「水」、「水」の繰り返しがその汚れを余計に際立たせ、もしかしたら此の世にあるもの全てが汚されるために存在しているのかもしれないと思わせるような句だ。また「水汚さるるものとして水菜洗う」ではなく、「水菜洗う水汚さるるものとして」の倒置法の活用が説明的でなく詩的な表現にさせている。

言葉のように灯る紫陽花カフェテラス 小林まさる
 梅雨を代表する花で何となく淋しげな雰囲気の漂う紫陽花であるが、そんな月並な表現ではなく「言葉のように灯る」としたところがこの句の発見、また、開放的なカフェテラスという場の設定も斬新。時として刃ともなる言葉であるが、我々を優しく照らしてくれるようなものもたくさんある。

防衛論湿気るし蠅生れるし すずき穂波
 この句から社会性は「俳句性を抹殺するかたちでは行なわれ得ない。即物﹅﹅は重大なテーマである」という兜太師の言葉を思った。ロシアのウクライナ侵攻により浮上してきた社会的事象「防衛論」を「湿気る」と捉え、不快な虫の代表ともいえる「蠅」を即物的に「生れる」とし、そのふたつの事柄を助詞「し」で並列することで作者の「社会的な姿勢」が窺われるのである。また「し」の脚韻も効果的で強調効果のみでなく他を予想させる。

春暁の浅き眠りを野といえり 遠山郁好
 「春暁の浅き眠り」は「春眠暁を覚えず」、「春はあけぼの」に通じる春の朝の心地よさを想像させるが「野といえり」の場面の転換が野趣的で広くのびやかな感じを抱かせる。また「という」ではなく「といえり」の完了存続の助動詞「り」がそういえば春の明け方の浅い眠りを「野」と言っていたなと我々を妙に納得させてしまう。

前線と呼ぶな桜は母だろう 仁田脇一石
 「前線」といえば美しい桜の開花を待ち望む人達は「桜前線」を先ず想像するかもしれない。しかし作者は戦闘の第一線を思ったのである。また、「桜は母だろう!前線と呼ぶな」と倒置法を活用した句だと考えれば、「母から生まれた者たちがお互いに闘い合ってどうするのだ」という悲痛な叫びさえもこの句から聞こえてくるのである。

死んだことないから平気チューリップ 横山隆
 年齢と共にまわりの人がいなくなり淋しくなるが、確かに我々は「死んだことない」のである。しかし素直に「平気」とはなかなか言えない。この作品の次に「九十歳天道虫の一光線」があり、俳句と共にある人生も悪くないなと思う。色とりどりの明るいチューリップとの取り合せも効果的だ。

◆金子兜太 私の一句

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太

 団塊世代の学生運動の、何にでも「ナンセンス ナンセンス」連呼の中で、兜太俳句との出会いは目から鱗とはまさに言い得た感動で、それは当時出していた個人誌を「無神」と改題。先生に認知頂いたくらいである。その五○号では、巻頭に先生から「ムシン応援歌」を、活字ではなく推敲の跡のあるままの、率意の書を戴いている。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。市原正直

粉屋がく山を駈けおりてきた俺に 兜太

 ”皇太子妃に民間の女性”その父上の煩悶。この句は戦後の一大ニュースに想を得られたのか御尋ねすると、師は煙に巻いて仕舞われるのでしたが……。男性が慟哭するほどの事態、それを受けとめる俺、俺の胸は疼く、内なる痛みを伴って。五七五にピタリと嵌った言葉は読み手の想像力をかきたてる余裕を持ち、大胆な作品だと感嘆いたします。指針としたい一句です。句集『金子兜太句集』(昭和36年)より。東海林光代

◆共鳴20句〈5月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

稲葉千尋 選
人間ヒトに生まれ人間ヒトの途中屠蘇を酌む 伊藤幸
柩車停め霧の琵琶湖を見せている 植田郁一
まっさらのままでもいいね初暦 江良修
柚子ふたつ近づくこれも晩年か 大髙洋子
繰り返す昭和の戦前雑煮食う 岡崎万寿
灯台の冬月トウシューズの鈍色 川田由美子
減量のボクサーみたい臘梅かぐ 木下ようこ
No・warジャーッと鍋にゴーヤーチャンプルー 黒岡洋子
○かかはるとめんだうになる暖炉のやう すずき穂波
初日記月との出会いいつもシャイ 遠山郁好
ウクライナフクシマ雪を積む切株 中村晋
黒手袋はめて原爆資料館 長尾向季
焼き芋が卓上にある齢かな 疋田恵美子
初しぐれピアノを棄てた森の奥 日高玲
でも先生僕は落葉をつかまえる 平田薫
外交の握手墓碑の群は凍り 前田典子
一葉忌いちばんいい顔が泣き顔 宮崎斗士
日捲りの最後の一枚レクイエム 森田高司
黄を宿すマザーテレサの冬薔薇 森武晴美
美辞麗句きっぱりやめて寝正月 渡辺厳太郎

大髙宏允 選
そのほかをたいせつにして雪つもる こしのゆみこ
雪霙十七音の鐘を打て (スズタリ・修道院) 小松よしはる
声だれにとどくのですか雪虫 三枝みずほ
父と雪山いつも何気なく座る 佐々木宏
乱読の如き夜景や東京冬 篠田悦子
○白わびすけぽっと点りて少年性 芹沢愛子
たましひのえにしの雑煮一家族 ダークシー美紀
梟の眼の全景未来の吾 立川由紀
存在のないようで在る冬青空 田中裕子
枯野ゆく風の呪文を聴きながら 月野ぽぽな
愚かさの濃度を加え今年酒 董振華
懐しはかなしいに似て兎に 遠山郁好
○夜爪切るとき寒鯉のくらき淵 鳥山由貴子
抱き損ねた形に桜寒々し 中内亮玄
火の鳥やおかしな谷間から狼 野﨑憲子
イエスの心よりきよらかか大氷柱 マブソン青眼
充分に大根じゅうぶんに巨塔 茂里美絵
○昏睡をチューブにつなぎ霜のこゑ 柳生正名
履歴書を枯野明りに書いている 山下一夫
吾が死後は宇宙の深山に遊ぶべし 夜基津吐虫

野口思づゑ 選
素因数分解とは鮟鱇吊られけり 綾田節子
七分は待てないナマコがきてしまう 泉陽太郎
室咲きや粛粛と夫婦を努める 井上俊子
「のろのろ元気」九十歳の年賀状 大西宣子
黙食やわざとぶりこを鳴らす父 加藤昭子
サクマドロップ白きミントの氷点下 佐藤千枝子
水澄むや楷書のごとしわが生活くらし 佐藤稚鬼
着ぶくれて今日何も彼も大雑把 篠田悦子
海光をはるかに大根漬けにけり 菅原春み
○かかはるとめんだうになる暖炉のやう すずき穂波
いま書ける言葉を探し新小豆 菫振華
笹鳴きや母ゆっくりと回れ右 根本菜穂子
弾を抜いた言葉でおおでまりと言えり 北條貢司
綿虫に好かれるタイプ心配性 松本千花
戸籍謄本われにはあらず鰯雲 マブソン青眼
一瞬にして遺品よ母の羽根布団 三浦静佳
1月は影がかしこいこの部屋でさえ 三世川浩司
芋虫のそれは淋しい太り方 三好つや子
キーウに凍月続くお笑い番組 森武晴美
亡き人に無性に腹の立つ夜長 森由美子

三好つや子 選
こがらしに顔を預けてきたところ 石川まゆみ
道行に落葉を降らす役目かな 榎本祐子
取箸が親鳥のやう薬喰 河田清峰
ゲルニカの女足の先からしばれる 笹岡素子
消えゆく機影あれは冬こだま 佐々木宏
前頭葉に居すわっている冬の霧 佐藤君子
野遊びのつゞきのようにちらし寿し 重松敬子
○白わびすけぽっと点りて少年性 芹沢愛子
裸木を編み込むように復興す 舘林史蝶
○夜爪切るとき寒鯉のくらき淵 鳥山由貴子
産土へ冬銀河渋滞してる 西美惠子
雪ばんば未生以前に別れたきり 野﨑憲子
あれは蓋男氏十二月のキリギリス 服部修一
命日の卵買ひ足す寒さかな 前田典子
ぱっかんと割れて新年髭を剃る 松本勇二
腹式呼吸ゆっくりロウバイから明ける 三世川浩司
梟に顔のない日がときどきある 茂里美絵
○昏睡をチューブにつなぎ霜のこゑ 柳生正名
レコードのB面が好き雪女 梁瀬道子
時雨るるや燃えさしの身を終電車 矢野二十四

◆三句鑑賞

柚子ふたつ近づくこれも晩年か 大髙洋子
 この句、拝見して直ぐに柚子湯が浮かんだ。そして濃厚なエロスを感じた。乳房に近づく柚子ふたつ、男には書けないこの句。中七の「近づくこれも」が晩年を否定しているようにも思える。作者を知らずに批評するのは恐いが、柚子ふたつ近づく嬉しさとも採れる。

繰り返す昭和の戦前雑煮食う 岡崎万寿
 人間て何て馬鹿なんだろうとつくづく思う。また同じ過ちを繰り返そうとしている、そしてそれを美化する人の多いこと。中七の「昭和の戦前」が作者を読者を悲しくさせることよ。季語の雑煮食う作者の現実、繰り返す戦前の現実味を肌に感じている。

灯台の冬月トウシューズの鈍色 川田由美子
 灯台と冬月、いつもよく見ている白い灯台に冬の月トウシューズとの取り合わせ、この感覚は作者の普段はバレリーナかもしれないと思ったり、またバレーを教える人かもと思ったりしている。トウシューズの鈍色は冬の月でもある。見事な感覚である。
(鑑賞・稲葉千尋)

そのほかをたいせつにして雪つもる こしのゆみこ
 壊しては建てる都会の人工物はダークトーンで、音もなく降り続ける雪の白さの美しさ、神秘さとはほど遠い。その風景こそ、人類の知恵の結晶のはずなのに。美の追究者には穢れた精神の産物に映っているのであろう。

愚かさの濃度を加え今年酒 董振華
 作者は最近、「兜太を語る」を上梓し、兜太から大きな影響を受けた十五名の方々に取材し、師と弟子たちが人間的に深い絆を持っていたかを明らかにされた。その董さんの句として味わうと、たいへん共感が湧いてくる。死の直前まで平和を訴えつづけ、生き物感覚の俳句を作り続けてきた兜太先生は、人間の愚かさを直視し、自分に接する者をとことん心を開いて対応した。作者は昨年来の世界の混乱とその愚かさを深く憂慮している。

吾が死後は宇宙の深山に遊ぶべし 夜基津吐虫
 重い病気をかかえる作者は、日々死を意識して暮らしている。死に直面したとき、人は初めて死後の世界を思いやる。フロリダ州の精神科医ブライアン・ワイス博士のトラウマの催眠治療によれば、人は何度も生まれ変わり、自分の課題を繰り返すという。宇宙の深山に遊ぶことを想う人は、既に課題をクリアーしているだろう。
(鑑賞・大髙宏允)

室咲きや粛粛と夫婦を努める 井上俊子
 大切に丹精込めて育てる室咲の花。長年生活を共にしてきた夫婦も努力無しではお互いに心地よい関係ではいられない。政治家には使用禁止用語にしたい「粛粛」の言葉が本来の意味で生きている。努めておられるのはお二人共に、というより作者の方、かもしれないが平穏な暮らしが感じられる。

戸籍謄本われにはあらず鰯雲 マブソン青眼
 日本国籍戸籍を持つある事情を抱えていた知人は「日本人以上に日本人」と言われ褒められた気がしたが、実は日本人ではないのに、の意味だったと気づいた。青い眼をお持ちの作者も、日本語や俳句など日本人以上に日本人と何度も言われたに違いない。けれど戸籍はお持ちでない。それ故どんな経験をされてきたのだろうか。

キーウに凍月続くお笑い番組 森武晴美
 報道番組でキーウの惨状を見る。心が痛み惨憺たる気持ちになる。なのにその後のお笑い番組では、さっきの侵略への怒りはケロッと忘れ、笑っている自分がいる。一年以上続くウクライナの悲劇なのに、いつしか人ごととなり、傍観者の目になっている。そんな普通の人間の良心の呵責がちくりと表現されている。
(鑑賞・野口思づゑ)

裸木を編み込むように復興す 舘林史蝶
 葉がすっかり落ち、寒々と枯れた木から、地震や台風などにずたずたにされた家、橋、道路が浮かび、心に迫ってくる。復興までの道程は長くてつらいが、死んだような裸木にいつしか芽が出て伸びるように、前を向いて歩んでいけば、きっと元通りになるはず。そんな作者の強い思いが句にあふれ、しみじみと魅せられた。

あれは蓋男氏十二月のキリギリス 服部修一
 イソップ物語のアリとキリギリス、どっちが幸せ?と聞かれ、無邪気にアリと答えていた子が、社会人になりさまざまな経験を重ねるうちに、キリギリスのほうが幸せかも、と思うときがあるのではないだろうか。生前の蓋男氏にお会いしたことはないが、この句を通して、俳句をこよなく愛した豊かな人生を追想でき、感慨深い。

梟に顔のない日がときどきある 茂里美絵
 神話では知恵を授ける鳥として、また福を呼ぶ縁起のよい鳥として親しまれている梟。首が270度も回るので、からだを正面に向けたまま、背後を見渡すことができる。四方八方に不穏な空気が漂う現代、聡明なこの鳥はあらゆる方向に目を向けねばならず、正面に顔がないのだ。油断できない世相をみごとに捉え、共鳴した。
(鑑賞・三好つや子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

花吹雪く真中に息を置いてきし あずお玲子
春深しこれから生まれる好きなひと 有栖川蘭子
病魔よ和め春暁に居座るな 飯塚真弓
飢ゑ行かば野鯉の奔る春野かな 石鎚優
友達ではいられませんと春の文 井手ひとみ
雪柳母にひとつも返してない 伊藤治美
春の鳥ことんと手紙いま行きます 遠藤路子
譜面台小さくたたみ卒業す 大浦朋子
宮益坂中村書店前穀雨 大渕久幸
犀星忌異郷に母を死なしめし 勇次つま
供へれば亡夫喋り出すか黄水仙 小田嶋美和子
古時計ちくたくボンボン海明ける かさいともこ
花吹雪これなら前へ進めるわ 梶原敏子
荒れ野めくちちははの家額の花 小林育子
じゃが芋に乳歯のような芽がピッピッ 小林ろば
戦士たち初夏の水辺に映る夢 近藤真由美
かげろえば人であること忘れます 宙のふう
誠実な獏が苺の山盛りを 立川真理
手鏡に他人のような十九の春 立川瑠璃
恋はランダムな雨びしょ濡れの桜 谷川かつゑ
全小説講演いのちはここに大江去る 平井利恵
夜桜の不可侵領域まで少し 福岡日向子
老羸に新しき服蝦夷四月 松﨑あきら
六連の戦車に似たる田植機よ 村上紀子
向日葵の正面に立つという勇気 村上舞香
初桜プチ整形に迷いおり 横田和子
鷄さばく戰さ歸りの父のもだ 吉田貢(吉は土に口)
鼓笛隊水仙を吹く子につづく 路志田美子
春の波中学生の一人称 渡邉照香
蜃気楼のしずく君のあおいシャツ 渡辺のり子

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