『海原』No.18(2020/5/1発行)

◆No.18 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬ぬくし現状維持でもう一年 東祐子
百万本の霜の花なりサンタマリア 石川青狼
橙や鼓動ことりと加齢して 伊藤淳子
かって火を焚く土葬の夜は猪眠る 植田郁一
霜柱踏むリセット出来ない君と 榎本愛子
久女の忌待っているより待たせたい 大池美木
アフガンの初日泣く子と泣く女 大髙洋子
また ひとり逝く友よ 数え日の途中 河西志帆
瞑りいるまなぶた真紅深雪晴 北村美都子
繭玉やまだ譲れない台所 金並れい子
祈りをり水鳥を数ふるやうに 小西瞬夏
膨らんださびしさ傾ぐ寒卵 佐藤詠子
霊峰の胸に寝過ごし雪女郎 佐藤千枝子
初鏡ちよっと自分にあっかんべえ 鱸久子
柔らかき女医の触診シクラメン 高橋明江
粗壁の罅に凍み入る影法師 瀧春樹
ポインセチアが強く脈打っている 月野ぽぽな
着ぶくれて独りで駄駄をこねている 峠谷清広
冬青そよごの実孤独が鳥の眼する 鳥山由貴子
反抗期了え反照の冬薔薇 並木邑人
石蕗の花今日がおっとりしています 平田薫
再発のかすかな疼き雪兎 平田恒子
音叉のよう鴨の水脈ひく逢瀬かな 船越みよ
北狐いつも手軽な雪つぶて 北條貢司
独身巡査蕎麦の咲く村に来た 三浦静佳
雪女同士気づいてユニクロにて 宮崎斗士
スキップの大きい礼者小さい礼者 村上友子
冬菊の夕映え母よ逝くのか 村本なずな
キリストを産みそうな夜寒卵 望月士郎
ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる

大沢輝一●抄出

カレンダーはがす今年が終る音 阿木よう子
山茶花や影ごと散っている日常 伊藤淳子
かって火を焚く土葬の夜は猪眠る 植田郁一
子の髪に触れてあしたの梅咲かす 榎本祐子
弟の声が旧かなの町よりす 大西健司
ポットから注ぐコーヒーよ横浜待春 大池美木
山の端の初茜よき弥陀の顔 小川佳芳
寒卵わぁと呻いてここにいる 奥野ちあき
力抜く事知らず冬木になっている 加藤昭子
枯れるとはこういうことか認知症 川崎益太郎
水鳥の小函のように眠りおり 川田由美子
落葉降る散歩の犬は陽に融けて 河原珠美
懐中電灯ときに悲しきもの照らす 三枝みずほ
見上げれば一人称の冬木かな 佐孝石画
寒の湖鳥には鳥の火種あり 佐藤詠子
村の墓地後ろに大きな冬夕焼 佐藤美紀江
寒さ急小鳥が鳴らす火打石 篠田悦子
雁の空駅へ向かうは帰るため 遠山郁好
木枯を真赤と思う別れ際 中塚紀代子
夕日受け白鳥はなだらかな斜面 根本菜穂子
ふっと魚影の蒼さ晩秋の一家族 野田信章
梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る 前田恵
あざ野良犬寒満月をかかげをり 松岡良子
凍蝶は峡に吹かれて母は無し 松本勇二
雪の夜は耳にじょうずに触れてくる 宮崎斗士
寒夕日鴉の声が刺さってる 三好つや子
キリストを産みそうな夜寒卵 望月士郎
古書店に木枯誰も気にしない 森武晴美
路面電車の先頭にいる大西日 山内崇弘
湖北行く今なら風花になれる 横地かをる

◆海原秀句鑑賞 安西篤

百万本の霜の花なりサンタマリア 石川青狼
 北海道ならではの風土感が詠みこまれている。作者の住む釧路あたりでは、雪は少ないが凜冽たる寒気が続き、地表は霜に覆われることが多い。海辺から平坦な土地が続いて、道路沿いに家々が立ち並ぶ。その間隔はゆったりとしていて、一面に霜の花が咲く。本州から来るとどこか西部劇風のエキゾチシズムを感じる。そんな霜の花園では、「サンタマリア」と祈りたいような敬虔な気配が漂うのだろう。信仰というより一つの風土賛歌だ。

かって火を焚く土葬の夜は猪眠る 植田郁一
 やはり兜太師の秩父を連想させる一句。昔、秩父地方では、土葬が一般的だった。近隣の人々が相集ってお弔いをし直会なおらいの酒宴をする。そこで温めあう絆が亡き人への供養にもなる。「火を焚く」とは、夜に入っての篝火か焚火のような集いの火なのだろう。酒宴は夜を徹して行われたのかも知れない。三々五々帰ってゆく頃には、裏山で猪も眠っているに違いない。冒頭の「かって」には、そんな古き良き時代への郷愁を滲ませている。

アフガンの初日泣く子と泣く女 大髙洋子
 アフガンの情勢は今なお不透明である上、中村医師の死がどのような形で受け継がれるのかも定かではない。そんなアフガンに新しい年が訪れても、「泣く子」や「泣く女」は絶えない。それは紛れもない現実ながら、なればこそ忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さが求められるのではないか。中村医師はそう言っている。「天共に在り」(中村哲著)の「初日」と受け止めたい。

祈りをり水鳥を数ふるやうに 小西瞬夏
 祈りにはさまざまな形があるのかもしれないが、「水鳥を数ふるやうに」祈るとは、祈りの中にいくつかの対象があって、その一つ一つにいのちの言葉をこめていこうとしているのではないだろうか。兜太師は、親しい亡き人の名を毎朝称え続けていたという。おそらく作者はその事実を意識しながら、祈りの幾つかを数え上げていたに違いない。「祈り」は水鳥のいのちを得て、生なましく立ち上がって来るのだ。

冬青そよごの実孤独が鳥の眼する 鳥山由貴子
 冬青はモチノキ科の常緑樹で、春に四弁の小花を開き、赤い球形の実を結ぶ。作者は孤独な思いを抱いているとき、なにやらその赤い実をつまんでみようかといわんばかりの鳥のまなざしになった。いやそんな気がしてきたのだ。それもこれも心の中の孤独感ゆえ。作者の孤心がなせる渇望感でもあろうか。「そよご」の語感が切ない。

石蕗の花今日がおっとりしています 平田薫
 おっとりしている今日とは、忙しい日々の中にふと訪れた余暇とその時間をゆっくり味わっている心のゆとりを指すのだろう。この場合の「石蕗の花」は、庭の片隅に咲いている地味な花。たしかな存在感というより、ひっそりとその位置を得ている姿。「おつとりしています」という擬人化した在り方が、如実に物語っている。

北狐いつも手軽な雪つぶて 北條貢司
 北狐は、北海道、南千島、サハリンに棲息する。寒い時期は餌を求めて人里近くに来ることもある。そんなとき、いつも手軽に作った雪つぶてで追い払おうとする。それは北狐への親しみを込めた挨拶のようにも受け取れる。「いつも手軽な雪つぶて」には、軽いアニミスティックな親近感が漂う。

独身巡査蕎麦の咲く村に来た 三浦静佳
 村の駐在所に、独身の巡査がやってきた。ちょうど蕎麦の花の咲く頃で久しぶりの独身巡査の到来に、村の中は少しばかり色めき立ったのだろう。蕎麦の花が満開なので、村をあげての歓迎ぶりもさこそと思われる。「蕎麦の咲く村に来た」というぶっきら棒な言い方が、いかにもひなびた村にやってきたお巡りさんの雰囲気にふさわしい。

スキップの大きい礼者小さい礼者 村上友子
 都市化と核家族化の進んだ近頃では、新年の挨拶回りの行事も少なくなったようだが、かつては近所や親類縁者を回って正月の挨拶をするという習慣があった。連れ立って挨拶に歩く一団は家族や友人が多く、その中には子供たちもいるから、お年玉やご馳走への期待でスキップをして歩く者もいよう。その中の大きな背のものは大きなスキップ、小さな背のものは小さなスキップをして歩く。その軽やかな喜びが、もろに出ている風景。

ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる
 おそらく夫婦か恋人同士のふたりなのだろう。生活の中の弾みを感じさせる師走である。「リズムのような十二月」とは、ふたりいればこその暮らしのリズムなのだ。
 この他、「初鏡ちょっと自分にあっかんべえ(鱸久子)」「反抗期了え反照の冬薔薇(並木邑人)」「音叉のよう鴨の水脈ひく逢瀬かな(船越みよ)」「雪女同士気づいてユニクロにて(宮崎斗士)」等遜色のない佳吟があった。

◆海原秀句鑑賞 大沢輝一

寒卵わぁと呻いてここにいる 奥野ちあき
 北海道は、妻と初夏の道東を定年旅行をした思い出の地。冬の北海道。あの雪の凄さ、ホワイトアウト、ささら電車等は体験したことがない。また零下何十度という極寒の生活。ダイヤモンドダストもまたしかり。掲句、希少価値となった「寒卵」という滋養が濃く滋味溢れた卵と「ここにいる」日常の一コマとの二物衝撃の句。ここに。今ここにいる―と強調する作者。自然界への畏れと恐れ、土着人としての郷土愛を描く。この技量の凄さ。

力抜く事知らず冬木になっている 加藤昭子
 朝は朝星、夜は夜星を戴いて働く日本人。町・村問わず同様だった。良く言えば、勤勉家。少しくらい休めばよいのに、でも職場に出かける。そういう時代だった昭和―を思う。推察するに作者も昭和人。そういう人々を見ていた。否、その人だったと言えよう。少し揶揄した、少し批判気味な目で書いている。

枯れるとはこういうことか認知症 川崎益太郎
 老境。それは人間の避けることが出来ない加齢と共にやってくる。また、生長の終わりごろに出てくる認知症という病気。悲惨でさえある。作者は、このことを、自然体で素直に書く。深刻な問題を書く。「こういうことか」なんと含蓄のある表現。口語なのも良い。作者と共に私も認知症にならないよう、留意したい。

懐中電灯ときに悲しきもの照らす 三枝みずほ
 昔は提灯、ローソク次に懐中電灯が夜道の必携帯品。現在では災害時に欠くことの出来ない必需品。大小あわせて二つ以上備品として各家庭にある懐中電灯。掲句は、今様の緊急時の懐中電灯であろう。地震・洪水・土砂崩れ・噴火と災害が頻繁に発生する日本災害列島「ときに悲しきもの照らす」言い得て妙。

寒さ急小鳥が鳴らす火打石 篠田悦子
 「火打石」とは懐かしい語だ。昔、白っぽい石(石英)と同じ石や鉄と打ち合わせて“ちりちり”と火花を出して遊んだことがある。きっと作者は、火打石の火花の音から“小鳥”という世界に辿りついたのでしょう。寒さが急に来た夕べの一ときの景をうまく掴まえた。「からすからす呑み込んだ小石火打石」沢野みち、こと金子皆子の句を思い出した。

梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る 前田恵
 静かな静かな冬の夜。物音ひとつしない夜。家族も皆んな寝た頃。何のためだかは不明。ゆっくりと墨を磨る作者が見える。煩わしい日常生活者。そのことから掛け離れた至福の時間なのでしょう。ひたすら墨を磨っているのだ。半紙を机上に乗せる。何を書くのであろうか。森では梟が小気味よく鳴いている。真実の冬の夜。

凍蝶は峡に吹かれて母は無し 松本勇二
 凍蝶は、凍ったようにじっとしている冬の蝶の一つと理解している。この「凍蝶」が峡の寒風に吹かれているのだ。生前の母の擬態のようでさえある。優しくて温かかった母の懐、よく叱られた思い出と記憶が作者に甦る。凍蝶への憐憫のこころと母への思い―が見えてくる。「母は無し」に母恋しの追慕感を一歩抜け出ていて、現実との葛藤が垣間見えてくる。

寒夕日鴉の声が刺さってる 三好つや子
 驚くほど大きな寒の夕日が今見える。飛ぶ鳥は鴉以外見えない。鴉しか飛ばない冬の空。日昼、街で漁りに漁る鴉。塒にでも帰るのだろう。近年渡り鳥の鴉も混ざり日本には三種類いるといわれる鴉。嫌われものの鴉。こんな鴉の声が作者には、寒夕日に刺さっているとどきっとする表現。嫌な鴉、しゃないわという鴉、どちらに見えるのだろうか。日暮と鴉、夕日の赤と鴉の黒の対比のみではない気がするのだが…。

古書店に木枯誰も気にしない 森武晴美
 掲句は、二句一章のスタイル。古書店に木枯が居ることのがポイント。古書店があっても、そこに古書店があることさえ人々は気にかけない。そんな忙しない日常の旦暮、嫌な時代になってしまったと嘆く作者。木枯が居ようが入ろうが気にしない、少しは気にして欲しいと願う。寂しい情景、夕暮感が描けている。町の片隅に灯る古書店、木枯がいる古書店―を大事にしたい風景の一つなのだ。

路面電車の先頭にいる大西日 山内崇弘
 F鉄道で電車の運転士をしていた経歴の私。暑い日の西日は酷く辛かった。掲句は、路面電車と先頭にいる西日を詩にしたもの。作者が路面電車の前にいて―大西日―と読めるが、私は強弁と言われても一句一章としてアニミズムの感じで「先頭に大西日」と読みたい。ジリジリと灼きつく西日奴と言う男がいる、そう読みたい。路面電車(機械)と大西日(自然)との攻めぎ合いと見たい。映像がよく見えてくる。

◆金子兜太 私の一句

霧に白鳥白鳥に霧というべきか 兜太
 昭和49年10月、皆子夫人と共に九州入りの折、当時三歳の長男と三人で九重レークサイドホテルで出迎え、同人になって初の出会い。ホテルの前の山下湖に白鳥三羽が悠然と遊ぶ夕景が今も目に浮かぶ。掲句は、ここでの作品。「白鳥・九重」と題した23句のなかの一句。茫漠たる大自然のなか、日銀という組織を離れた胸中は自然回帰かなど懐かしい一句。句集『旅次抄録』(昭和52年)より。有村王志

確かな岸壁落葉のときは落葉のなか 兜太
 平成29年、金子先生から戴いた色紙に記された句。かすかな春の気配と共に、先生の優しい励ましが深く心に沁みた。この句は先生が日銀福島支店勤務の暮らしの中で、自己確認の心意を込めてつくられたという。どんな状況でも、淡々と受け止め、諦めず、想像力を働かせ、切り抜けて行こうと、今あらためて、この句を噛み締めている。句集『少年』(昭和30年)より。本田ひとみ

◆共鳴20句〈3月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
涅槃図に素手のわたしをすべらせる 稲葉千尋
背を向けて警官立つは余所事なり 宇田蓋男
二番手が足長蜂に刺されけり 内野修
○個人的な事です月を齧っている 榎本祐子
文化の日左折ばかりの道選ぶ 江良修
紅葉して若い会話の空続く 大西宣子
兜太師やこんこん眠り枯野まで 奥山津々子
われもこう風の慚愧の息ずかい 黍野恵
生鱩ごりりごりりと母の刻 久保智恵
虎落笛夜の瘡蓋を剥がしおり 白石司子
花梨の実兜太の豪傑笑いかな 鱸久子
○絶筆は帆影めきしか鳥渡る 田口満代子
赤チョーク黄チョーク粉塵秋了はる 田中亜美
彫刻のイサム神めくわれもこう 永田タヱ子
病葉を抱く君なら嫁がせる 並木邑人
ひまわりの四、五本西を向いている 服部修一
猫が来て地球を丸くまるくせり 舛田傜子
末枯れの故山乱行とも言えぬ 武藤鉦二
メメント・モリうすくれないの薔薇の棘 山本掌
○つるうめもどき遥か炎上の城ありて 若森京子

奥山和子 選
あんパンのへその胡麻まで菊日和 市原正直
○個人的な事です月を齧っている 榎本祐子
土へスコップ骨盤は冬木の芽 狩野康子
へその緒が寒がっている箱のなか 河西志帆
眠るため木を探しゆく十二月 こしのゆみこ
秋耕や泥まみれペニスで放尿す 佐藤稚鬼
夕凪や白拍子のよう猫がくる 芹沢愛子
しづかさや白鳥がゐて重き湖 髙井元一
月光に打撲ベルリンの壁崩壊 田中亜美
釣鐘人参後ろ手は鳥に似て 遠山郁好
若水汲む一茶ぼしゃぼしゃ粥を炊く 遠山恵子
白障子あたりいちめん明るいフェイク ナカムラ薫
島影風影火影人影秋の蛇 野﨑憲子
沼ふっと舌出したよう葛の花 平田薫
○定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
ロールキャベツはもっと煮込め雨の鵙 三浦二三子
遊ぶとき傾ぐ体や冬木の芽 水野真由美
○釣瓶落しとはワンピース脱ぐように 宮崎斗士
柘榴割れ暗峠くらがりとうげまでとばし読み 矢野千代子
図書館の人それぞれが積乱雲 山内崇弘

佐々木宏 選
スクラムを押すごと全山紅葉す 石川青狼
寒気まとって影のひとつは水の音 伊藤淳子
倦怠や沼をみにきて馬をみる 尾形ゆきお
夏の人体空を飛ぶのも仕事です 小野裕三
先生の口真似すれば木の実降る 河原珠美
狗尾草の祖母の接吻頰へ鼻へ 下城正臣
ときどき蛍ときどき金魚になる姉妹 芹沢愛子
鮭の声鹿の声こだます雪来るや 十河宣洋
○絶筆は帆影めきしか鳥渡る 田口満代子
素直さのいくつか梨のぶら下がる 中内亮玄
鶴来ると村は静かな箱となる 中塚紀代子
霧の巣となる父おごそかに礼す ナカムラ薫
死後のごとく気ままな旅の柿を食ぶ 日高玲
凍蝶の省略というしなやかさ 藤野武
朴落葉たった一人のお弔い 本田ひとみ
○父の余白泡立草で埋めつくす 松井麻容子
○定住や時折り鹿のように鳴き 松本勇二
○釣瓶落しとはワンピース脱ぐように 宮崎斗士
赤といふ赤押し寄せ一面の赤 柳生正名
○つるうめもどき遥か炎上の城ありて 若森京子

芹沢愛子 選
聞き役のままの八十路や石蕗の花 伊藤雅彦
流人のように耳がさびしい曼珠沙華 榎本愛子
親鸞忌小さなパンの小さな声 大髙宏允
泡立草ほどの背丈で痩せている 大髙洋子
ここにしか生きられず臘月のもぐら 久保智恵
友が逝き拳の中で芒ゆれ 後藤岑生
初雪や昨日の続きじゃない栞 佐藤詠子
戸締りの後の独りに竈馬 篠田悦子
友死すと葡萄の種を口に忘れ 下城正臣
あの人がまた来てるよと小鳥たち 鈴木修一
狐狸来たる納屋に小さな音楽隊 十河宣洋
紛争の世界の裏に鹿眠る 高木水志
ジャンヌ・モローと青年ふたり秋桜 中條啓子
入り日受く枯葉はみんな歌を持ち 中村孝史
冬銀河瞬き毎に次の我 藤原美恵子
寒月に撥ね返されるオデコかな 堀真知子
○父の余白泡立草で埋めつくす 松井麻容子
ファーブルの帽子くしゃくしゃ秋出水 三好つや子
ホスピスへ去るひとの手の林檎の香 村本なずな
小春日和に俳句好きだと言えぬまま 六本木いつき

◆三句鑑賞

文化の日左折ばかりの道選ぶ 江良修
 こういう気分はよくわかる。「左折」はすいすいと止まることなしに進むことができる。たまにはこんな日も。まして「文化の日」。美術館にでも、いや俳人としては、吟行でも。余裕の一日なのだから。共感しきりである。憲法記念日や建国記念日ではきつすぎて、やはり「文化の日」がすとんと落ちる。

花梨の実兜太の豪傑笑いかな 鱸久子
 先生のお宅の庭に花梨の木があって、愛でて撫でている。そんな景をテレビで見たか、あるいは話で聞いたか、目に浮かんで来る。そのお庭を見たいと若森さんや江良さんと訪れたことが懐かしい。早や三回忌も過ぎた。それにしても、先生の豪傑笑いが懐かしい。花梨の実が先生の顔にも見えてくる。

ひまわりの四、五本西を向いている 服部修一
 一読、子規の鶏頭の句を下敷きにしていると思われる。四、五本では寂しい気もするが、リズムがいい。また、ひまわりは漢字で「向日葵」。東を向く奴の中に西を向いているのがいる。「西」は西方浄土であり、ひまわりの溢れる生命に対して「死」をも連想させる。即吟の体だが簡単に作句したのではないだろう。
(鑑賞・大西政司)

へその緒が寒がっている箱のなか 河西志帆
 干して、桐の箱の中に大切に収めるのはいつ頃からある風習なのか。あの世へ行くとき、それを握って行けば道に迷わないとも言われているが、自分のは何処にあるのかわからない。いつの間にか忘れられ、からからと干乾びた音をさせ、実家の箪笥に眠っているのかと思うとちょっと可笑しい。

白障子あたりいちめん明るいフェイク ナカムラ薫
 貼りたての障子。木枠に囲まれた、真白な四角い和紙の一つ一つが冬日を透かす。妙に明るいその桝群をフェイクと捉える作者の柔軟な発想が楽しい。今、地球規模で起こっているこの災害が、全てフェイクであって欲しいと願っているのは私だけではあるまい。

島影風影火影人影秋の蛇 野﨑憲子
 本体でない影の部分に焦点をあて、読み手を幽玄の舞台に誘う。日が落ちて、島の全てが闇の中に沈む頃、僅かな炎の揺らぎに、風の囁きに誘われた人々を縫うように蛇が登場する。まだ穴に入る前の冷たい体の触感が、微かに生臭さを伴って体験させられる。実体のないものに酔わせられる一句。
(鑑賞・奥山和子)

倦怠や沼をみにきて馬をみる 尾形ゆきお
 倦怠、倦怠感。ストレス社会であり、だれでもが抱える日常であろう。それはそれとして、私は「沼をみにきて馬をみる」というフレーズに魅かれた。やさしい言葉でやさしそうに書かれているが、巧みにずらしが行われている。うまいと思う。あれこれ深読みせずに、書かれている通りに楽しみたい。

先生の口真似すれば木の実降る 河原珠美
 先生の思い出は、小中高、大学を間わずたくさんある。あだ名をつけたり、仕草のまねをして喜んだものである。ここでは口真似である。どんな口調、トーンだったのであろうか。いずれにしても「木の実降る」ということであるから、心温まるほほえましい師弟関係であったのであろう。

赤といふ赤押し寄せ一面の赤 柳生正名
 深みゆく秋の移ろいであろうか。赤の繰り返しにより抽象度は高い。いま北海道では新型コロナウイルスの感染拡大が問題となっている。ウイルスは目に見えず、どこまで感染が広がっているかと考えると不安は大きい。ふと私の中で、ウイルスとこの赤が重なる。北の地は、もう一面が赤くなっているのかもしれない。
(鑑賞・佐々木宏)

戸締りの後の独りに竈馬 篠田悦子
 普通の言葉であるがままを書いただけなのに、強く心に訴えてくるのはなぜだろうか、と以前から篠田さんの句に感じていたことをこの句でも思った。自分と竈馬を、もう一人の自分が見ている。そしてしみじみと、「独り」を感じる時間が、「戸締りの後」であることの自然さ。日常と隣り合わせの言いようもない寂寥感。

友死すと葡萄の種を口に忘れ 下城正臣
 葡萄の種を口から出すのを忘れるという些細なことから、作者の茫然自失している様子と寂しさが伝わってくる。同じように友を思う句、「友が逝き拳の中で芒ゆれ/後藤岑生」は「拳」という言葉に友との思い出や無念さが込められ、喪失感が感覚的に描かれている。境涯句が多い中でも、この二句の個性に惹かれた。

あの人がまた来てるよと小鳥たち 鈴木修一
 井の頭自然文化園の飼育員さんに、「象のはな子は自分に度々会いに来る人をすべて覚えていましたよ」とお聞きしたことがある。他にライオン舎の句もあるのでここは動物園かも知れない。大きな檻の中から見物人を見ておしゃべりをしている小鳥たち。絵本のようで可愛いらしいが、「あの人」も「小鳥たち」も少し寂しい。
(鑑賞・芹沢愛子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

幻想は無限大です睦月です 飯塚真弓
戦争を私は知らない除夜の鐘 泉陽太郎
日本が端っこの地図晦日蕎麦 植朋子
ジャガイモめく夫は平和のシンボル 上野有紀子
亡き夫の鉛筆ころがす仔猫かな 遠藤路子
天気予報は雪こころ予報は吹雪 大池桜子
悔しさに罵詈雑言や霜柱 小田嶋美和子
ぐみの実がサウナの床に転がって 葛城広光
竹馬に乗りて天下を睥睨す 金子康彦
人日や文庫に糊のにおいして 木村リュウジ
銅鏡の奥に狐火ひそむらん 黒済泰子
霜柱踏む繊細すぎる君と 小林育子
冬の朝見知らぬ人の煙立つ 小松敦
枯芭蕉底ひに水の音すなり ダークシー美紀
しゃがんだら仏の座の花凍っていた たけなか華那
母知るや化粧ケースに春の嵐 立川真理
春雷や一千ボルトの動詞降る 立川瑠璃
花びら餅ほんとうは酒豪だった父 中尾よしこ
いましがた凍蝶の翅傾いた 仲村トヨ子
アフガンに凍星昇る地に祈り 野口佐稔
金柑や難しき顔たまにして 福田博之
天と地はきらり時雨に繋がれる 増田天志
蜜柑に種ふとアンシャンレジーム 松﨑あきら
万両たわわ大きな耳の虚言癖 松本千花
枯草や根っこは地を抱く息潜め 松本孜
焚火あと噂話うわさばなしの熱のこる 武藤幹
てふてふまふやながさきさかのさき 吉田貢(吉は土に口)
熊の胃のぶら下がりたる盤石よ 吉田もろび
着膨れて高齢者の新米です 渡辺厳太郎
神がかる父にこの世の大旦 渡邉照香

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