『海原』No.56(2024/3/1発行)

◆No.56 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

カラフルな呼吸たそがれどきもみじ 石川青狼
突き刺さるガザの子の「なぜ」秋夕焼 伊藤巌
寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
鵙日和蕎麦打つ男佳かりけり 大池美木
夜気みちて言葉の林ざわざわす 尾形ゆきお
小春日に背中預けて「サザエさん」 加藤昭子
熊出そう兜太先生出て来そう 川崎益太郎
古楽器の響きのごとく水澄めり 川嶋安起夫
夕顔や人追うように灯りたい 黒岡洋子
ビルとビルの隙間に落暉神の旅 黒済泰子
聞き取れぬ愛があります月に蜘蛛 佐孝石画
百日草自傷のように書く日記 佐々木宏
長生きの有耶無耶にあり茸汁 篠田悦子
指ぐるぐる麦藁蜻蛉よお久しゅう 鱸久子
月天心地上散らかっています 芹沢愛子
竜胆やすらりと立てる祖父の墓 高木水志
冬夕焼だれも知らない死後の景 董振華
銀杏ゆれ光の子らのかくれんぼ 友枝裕子
秩父急行豚草が柿が飛んで行くよ 中内亮玄
星流る地球のどこか今もゲルニカ 新野祐子
ほんと言い過ぎたよな実石榴ほじる 西美惠子
老犬が瞬きをする金木犀 平田薫
おおきにな「アレ」してもろて温め酒 藤好良
移住者の温顔集い落葉搔き 船越みよ
雪暗や母のにほひの桐箪笥 前田典子
簡単ごはん秋茄子焼いて肉焼いて 松本千花
なつかしい栞たとえば綿虫のむこう 三世川浩司
霧の街地図をひらけば人体図 望月士郎
懐かしの駄菓子のエッセイ夜長かな 梁瀬道子
取れかけのボタン嵌めけり今朝の冬岡 山本まさゆき

遠山郁好●抄出

一日中歩いた自傷冬夕焼 伊藤清雄
寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
階段の一段づつの猛暑かな 内野修
虫しぐれうしろの闇に喪服脱ぐ 榎本愛子
真っ直ぐに歩き疲れて寒の入り 大西政司
古酒新酒どちらで酔うも二日酔い 川崎益太郎
神の旅入日さしたるゴリラの背 河田清峰
午後は雨の予感秋蝶肩に来て 楠井収
うつむくと地面が見える石蕗の花 小松敦
万華鏡回す小鳥の鼓動です 三枝みずほ
秋天に今日を捧げるそして溶かす 佐孝石画
おじの名は熊蔵秋の黄泉しずか 佐々木昇一
秋の水ポーと汽笛になることも 佐々木宏
掌に宿る月光友快癒 佐藤君子
熱燗を蝶の羽根のようにつかむ 十河宣洋
極月やスタントマンの掠り傷 髙井元一
秋の日に去るもの追わずハシビロコウ 滝澤泰斗
冬曙全く白い父の姿 豊原清明
古里は兎も追えぬ基地フェンス 仲村トヨ子
ほんと言い過ぎたよな実石榴ほじる 西美惠子
父と夫同じ芋科で違うイモ 野口思づゑ
ホームランコキア紅葉に消えにけり 長谷川順子
蛍火や言葉の上からさわる悲しみ 北條貢司
指より砂シルクロードに咳ひとつ 松岡良子
蚯蚓鳴く字余り吃逆くせになる 松本千花
蜩やたとえばガラス切る呼吸 宮崎斗士
うさぎ林檎この町月の肌ざわり 望月士郎
こおろぎのよく鳴く眠剤はブルー 茂里美絵
さうですか不知火ですか僕達は 矢野二十四
青柿に敬意ありけり九十歳 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

突き刺さるガザの子の「なぜ」秋夕焼 伊藤巌
月天心地上散らかっています 芹沢愛子
星流る地球のどこか今もゲルニカ 新野祐子

 今日只今の時代の危機感を詠んだ句の一連である。いわゆる時事俳句だが、社会性俳句の現在を示す句群といえよう。
 伊藤句は、イスラエルとハマスの戦争から、一躍その焦点として浮かび上がったガザ地区で、食料やエネルギー源の不足に苦しむ人々の切実な声を、子供の素直な叫びとして捉えた。「なぜ」の後に、「私たちはこんな目に遭わなければならないの」と続く声は、秋夕焼の中に燃え続けている。
 芹沢句。今の地球での事態を巨視的に捉え、「散らかっています」と少し皮肉っぽく喩えた。子細に見れば、どうしょうもないひどさなのだが、皆でなんとかしようという動きは、まだ見えそうもない。むしろ一層ひどくなる様相を呈しつつある。月はその有様を、煌々とあからさまに照らし出しているようだ。
 新野句。ゲルニカは、ピカソの絵で有名な戦争の惨禍図。あのゲルニカのような悲劇は、今も地球のどこかで、おなじように繰り返されているに違いない。そんな過ちが、性懲りもなく繰り返されていいのかという声が、星の流れに明滅する思いを呼んでいる。

寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
百日草自傷のように書く日記 佐々木宏

 加齢に伴う孤独感と、そこに生きさらばえている人間像の句。
 稲葉句。寒昴の夜空の下、自分は流れに浮かぶ一本の藁しべのごとくはかないものだという。作者は最近、癌の宣告を受けたらしい。しかしどこか自若と受け止めている感じもする。〈ええそうよ癌だと言って柿を剥く〉とも書いているから、もはや居直っているのかもしれないし、一つの諦念に達しているのかもしれない。
 佐々木句。「百日草」というからには、まだまだ生きる気でいることはたしか。稲葉氏とはほぼ同世代ながら、状況が違う。日記を「自傷のように書く」となれば、毎日反省や繰り言ばかりを書いているわけで、なんとなく無為に過ごした日々への悔いにさいなまれていると見れなくはない。よくわかる実感で、そうして老いてゆく淋しさが噛みしめられている。そこには老いへの道筋を模索している姿が見える。

長生きの有耶無耶にあり茸汁 篠田悦子
冬夕焼だれも知らない死後の景 董振華

 九十歳台の篠田さんと五十歳台の董さんの、それぞれの世代の対照的な死生観。
 意外にも、九十歳台の方が余生に対して腹をくくっているのに対し、五十歳台は死の不安におののいている感じがある。九十五歳の時の兜太先生は、「なにも怖がることはない」と『他界』で書かれた。死が間近にあるとすれば、前述の稲葉句のように、かえって居直ることが出来るのかもしれない。
 さて篠田句。長生きの有耶無耶とは、何事も有耶無耶にする老蒙状態にあることだろうか。それでも茸汁のような滋養のあるものを頂いて生きてますという。生きることへの執念は、まだしたたかに健在しているようだ。また〈およよんと目眩橡の実落ちて跳ね〉の句では、よろめきながらも、橡の実が落ちて跳ねていくように、どこまでも生ききろうとする姿勢を隠さない。
 対する董句。死は生者にとって、誰も経験したことがないものだから、死後の景など誰も知らない。だが冬夕焼を眺めていると、死後の景とは、こういうものだろうかと想像をかきたてるものがある。自分もやがてあんな風に他界へ行くのだろうか。ふと身に染みるような思いに駆られて、身震いをする。それは、まだ中年ながら、もう一つの時間としての老いへの道筋を眺めているかのように、どこか予感のようなものにおののいているのかもしれない。

なつかしい栞たとえば綿虫のむこう 三世川浩司
懐かしの駄菓子のエッセイ夜長かな 梁瀬道子

 ふるさとの幼い頃の思い出は、当人ならではのものがあり、さりげない中に色濃い情感が漂う。
 三世川句。ある日ふと、日頃なにげなく手にしていた栞から、妙ななつかしさを感じたのだろう。おそらく作者にとって退屈な無為の時間に、ふと訪れたなつかしさが、思いがけなく栞から触発されたのではないか。それは、初冬の頃、青白い綿のように浮遊する綿虫の空間のむこうに浮かんでいるような、ただ今の時間の知覚でもあった。どうやら幼い頃、ふるさとでみたような原郷感覚に通い合うものだったのかもしれない。
 梁瀬句。こちらはもっと具体的な思い出に直結する。幼い頃、ふるさとの駄菓子屋で買った駄菓子に関わる思い出のあれこれは、今もあざやかに思い出すことが出来、それをエッセイにして書き残しておこうと思い立つ。おそらく仲間内の同人誌に、何か書いてくれと依頼されたからだろうが、いざ書くとなればさまざまな人間模様にも連なってきて、なかなかまとまらない。そのまとまらなさに沈湎している時、今は遠のいているふるさとの景につながって、懐かしさを誘うのだろう。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

うさぎ林檎この町月の肌ざわり 望月士郎
 うさぎ林檎は、お弁当などに添えられている兎の型の林檎。何故いきなりうさぎ林檎。作者は〈この町月の肌ざわり〉へのスムーズな導入を意図した。しかし兎では月に近すぎる。そこでどこか懐かしいうさぎ林檎。そして手触りでなく、肌ざわりと言った時、そのひやっとして粒だつような、それでいて艶やかな月の質感が皮膚を通して感受される。この句、海原大会の満月の秩父での作と知れば、さらに味わい深くなる。

一日中歩いた自傷冬夕焼 伊藤清雄
 何か思うことがあり、唯々自らを傷つけるように歩きまわった。そして一日が終わろうとしている。眼前に広がる冬夕焼。その冬夕焼もまた、まるで自傷のようにまっ赤に空を染めている。そんな冬夕焼と心を通わせながら佇っている。身心のバランスを保つため、ひたすら歩くこと、そしてこうして表現することは、困難を和らげる術であることを知っている。

真っ直ぐに歩き疲れて寒の入り 大西政司
 寄り道もせず、脇目も振らず、真っ直ぐに歩いて来てすっかり疲れてしまったが、嗚呼もう寒の入りかと感慨に耽る。真っ直ぐに歩くとは真っ直ぐに生きること。これまでの人生への充足感と肯定感が心地よく響く。そして結局、人間とは二足歩行の生きものであり、歩けば疲れるし、生きていれば寒の入りにも出会う。他の生きものから見れば、こんな人間の生真面目な行為は、ユーモラスに映っているかも知れない。

冬曙全く白い父の姿 豊原清明
 まだほの暗さの残る曙の中では、人は白さに対してより鋭敏になる。偶然のように冬曙に現われた父は、神々しいまでに全く白い姿だった。なぜ全く・・と言い、字余りで少しぎこちない姿と言ったのだろう。そんなことを考えながら、全くといい、姿といいその言葉が照らし出す作者の内側の声に訳もなく引き付けられた。この〈全く白い姿〉からは作者の父への思いの深さ、かなしみをも感じさせる父との歳月へのいとおしさが思われる。

秋の日に去るもの追わずハシビロコウ 滝澤泰斗
 上野動物園で、初めてハシビロコウに会った時、噂に違わず、周りの騒音にも惑わされず、瞑想の僧か哲学者のようにビクともしない。それでもハシビロコウの周章てる姿を見たいと暫く対峙してみたが無駄だった。結局、ハシビロコウにとって人間なんて眼中にないらしい。そんなハシビロコウの生態と作者の去るものを追わずの生き方との重なり具合が妙に面白い。それに秋の日も微妙な働きをしている。

さうですか不知火ですか僕達は 矢野二十四
 有明海か、八代海か漁火が明滅して、かの不知火が見える。ところでご出身はどちらですか、そうですか、同郷ですね。一見さりげない会話とも読めるが、この句にはどこの出身とも同郷とも書かれていない。実は僕達は不知火湾のあの謎めいた不知火そのものなんです。道理でお互い少し屈折していますね。そして妙に気が合いますね。なにしろ僕達は不知火ですから。一期一会の人とこんな不思議な言葉遊びをしてみたい。

父と夫同じ芋科で違うイモ 野口思づゑ
 俳諧では、芋は里芋を言い、秋の季語となっている。その里芋科で思い浮かぶのは、蒟蒻芋、タロー芋、蝦芋くらい。そう言えば不喰芋もあった。ところで結婚相手は、意識していなくても結果的にどこか父に似ていることはよくある。しかし、似ていると言っても他人。やっぱり父とはどこか違うなと思うが、そこがまた興味深いところ。イモのイメージとしては温かみ、親しみ易さ、安心感等だが、ここで言う作者のイモは、夫や父への最大限の讃辞と読める。こんな句をさらりと書く作者が羨ましい。

蛍火や言葉の上からさわる悲しみ 北條貢司
 悲しみは驚きに似ていて突然現われ、もう手に負えない。言葉でいくら宥めても、そんな時の言葉は乾いていて触れるだけで刺さるようだ。ずっと深い処にある悲しみは、言葉では到底表現できない。息を潜めて悲しみが溶けてゆくのを待つしかない。悲しみは悲しみで薄める。蛍火がまた、悲しみに触れてゆく。

寒昴われは一本の藁である 稲葉千尋
 凍てつく空に輝く昴に対して、人は確かに一本の藁のような微小な存在に思える。しかし人一人のいのちは地球より重い。以前、子規に関する本の中で、子規の「平気で生きる」という言葉に出会って強く心に残った。子規が病を得てからも病床で旺盛な食欲と句作や著作を続けられたのは、この「平気で生きる」という信念に支えられていたのではないか。さらにはものを書くことによる精神の浄化作用も生きる力に繋がった。この「平気で生きる」という言葉、そうありたいという願望と共に大切に温めている。

◆金子兜太 私の一句

蝶のように綿入れの手振り吾子育つ 兜太

 私は昭和23年、南房総の山里に生まれ、自然の中で自由に育ちました。「綿入れ」は私にとっても懐かしい言葉で、幼い頃着ていました。成人して東京で生活し、母となり娘を育てました。50歳の頃、年老いた母に会うため館山へ帰ることが多くなりました。田畑に白い八つ手の花が咲いていました。〈花八つ手自己満足の親孝行〉と作りました。兜太先生はその句を誉めて下さいました。「海程」に入会し学んだことは”宝物”です。句集『少年』(昭和30年)より。小野正子

津波のあとに老女生きてあり死なぬ 兜太

 東日本大震災の一句、下の「死なぬ」が気になり繰り返し読んでいるうちに、これは兜太先生の魂の叫びだと気づきました。先生の命に対する特別な思いと、九日も漂流し助かった老婆の命が響き合って出た「死なぬ」だったに違いない。句の型が崩れても詠みたかったこの感動がずしんと伝わりました。私が被災地を訪ねた時、荒寥の地に赤い風車が音をたてて回っていたことが忘れられない。句集『百年』(2019年)より。鎌田喜代子

◆共鳴20句〈12月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

川嶋安起夫 選
少々の事背負いて立ちぬ晩夏光 上野昭子
独身のしづかに食みし茸飯 鵜飼春蕙
書くことも祈りのかたち八月来 榎本愛子
晩夏の農夫半分はすでに虫 大沢輝一
よく眠る駱駝のこぶに揺れる月 奥山和子
樹齢三百年黙読と涼風の私語 刈田光児
海の子の背中にきこゆ波しぶき 北原恵子
忘れ掛けの思い出の鎖は朝顔 日下若名
がに股のまま乾くジーンズ敗戦忌 黒済泰子
宵闇の都バスは廻り道せぬか こしのゆみこ
炎昼や処刑のように干す軍手 鈴木栄司
あるようでない持ち時間桐一葉 高橋明江
○あれも秋燈沖ゆく舟に一つづつ 立川由紀
秋立つやパン一切れが置き去りに 谷口道子
敬老日マニキュア紅を赤に変へ 友枝裕子
日焼して畑舞台の大往生 梨本洋子
○銀やんま空のひろさを言いにくる 平田薫
砂利道の素足の痛み敗戦忌 深山未遊
母を叱り自責する日のこぼれ萩 村松喜代
シャッター街盆提灯の点々と 矢野二十四

小池弘子 選
きょーと夜汽車は青春の声兜太の忌 有村王志
子は母の誉め言葉待つ蝉時雨 石田せ江子
かまきりの生まれてこぼる右左 内野修
雨垂れの跡を辿れば道おしえ 大西政司
あの星は叔父たち四人終戦日 大谷菫
夜濯ぎや人に小さな舞台裏 桂凜火
老ゆるとはぼんやり暮す茄子の花 北上正枝
秋祭り神馬うとうと出番待つ 日下若名
真っ直ぐに生きた恋した曼珠沙華 倉田玲子
箱庭を一またぎして女房かな 黒岡洋子
兵役の果てぬ今生蟻の列 齊藤しじみ
○トマト噛むその混沌を得るために 佐孝石画
○あれも秋燈沖ゆく舟に一つづつ 立川由紀
老いたとは思わぬことに秋青空 中村孝史
老いる事それも楽しみ万年青の実 中村道子
チワワ似の積雲西へタヱ子ゆく 服部修一
虹の根を探していまも帰らぬ子 平田恒子
山の端に迎火父母ちちはは猫きんぎょ 藤野武
今朝の秋マニキュアの赤塗ってみる 松田英子
天曇るしづけさ紫蘇の実のこぼれ 水野真由美

小松敦 選
夕焼の缶入りスープを贈ります 安藤久美子
鉛筆に月の光の重さかな 榎本愛子
癒ゆる夏水底に火を焚くように 川田由美子
舟虫が動くと変わる世界地図 河西志帆
鈴虫の想いを綴る硝子ペン 北村美都子
輪転機かうもりの空剥がれゆく 三枝みずほ
○生き方の目次のように夏木立 佐藤詠子
小言は続くエンゼルトランペット たけなか華那
黒揚羽湖にさざなみよみがへる 田中亜美
海群青二百十日を沈めたか ナカムラ薫
可惜夜の夏蚕しぐれと流離いぬ 並木邑人
山葡萄色の家族を追熟す 根本菜穂子
自生とは意志道端のフリージア 野口思づゑ
吊革の片腕西日の野を這って 日高玲
○銀やんま空のひろさを言いにくる 平田薫
星月夜背に真新し蔵書印 藤田敦子
浮塵子と目があうことごとく乱視 三世川浩司
手話荒々プールサイドの少女かな 村上友子
にんげんの流れるプール昼の月 望月士郎
かたつむり体を太くしてのぼる 横地かをる

近藤亜沙美 選
人であることに行きつき落葉踏む 有村王志
万緑の奥へ白馬を隠しおき 刈田光児
花はちす祈りをうすべにと思う 北村美都子
父さんは真水ときどき霧になる 小林ろば
○トマト噛むその混沌を得るために 佐孝石画
○生き方の目次のように夏木立 佐藤詠子
八月の悲しい入り日かなかなかな 重松敬子
私にも影一つだけヒロシマ忌 竹本仰
白樺の林立灰白色の脳 田中亜美
手花火は少しかなしい隠し事 ナカムラ薫
産土に還る空蝉にもなれず 藤田敦子
独り居の素手満月に濡らしゐる 前田典子
足元から暮れゆく軋み蕺草どくだみ 三木冬子
黒き羽根落とし晩夏の一樹なり 水野真由美
逡巡はその空蝉に置いてきた 三好つや子
人恋し真夏が白く光るから 森武晴美
木槿はさざなみ水を買う日常 茂里美絵
竹落葉さらさら齢を重ねたい 森由美子
風媒の風甘きとき稲の花 柳生正名
みみず鳴くざりざりとため息錆びて 山本掌

◆三句鑑賞

書くことも祈りのかたち八月来 榎本愛子
 八月といえばまずは終戦のこと。またお盆の時期でもあります。悲惨な戦災で亡くなった方々への追悼、父母・祖父母、先祖への報恩感謝、そして平和への願い。それらの「祈り」は合掌のかたちだけでなく、私たちにおいては「書く」ことによってでもあり得る、否、あらなければならないということに気づかせてくれる一句。

あれも秋燈沖ゆく舟に一つづつ 立川由紀
 「あれも」……その前景にはどんな秋燈が目に映っていたのでしょうか、私たちにいろいろと想像させてくれます。それも「秋」の燈火ですから、これも人それぞれに様々な感慨をもたらすことでしょう。そうした豊かな含み、詩的情緒をはらんだ美しい句だと感じました。
 「一つづつ」の表記は、沖の小舟の形まで浮かぶよう。

シャッター街盆提灯の点々と 矢野二十四
 今や人影なく寂しいばかりのシャッター街ですが、灯されている盆提灯からは、それを灯している方々や、かつてはその街でいきいきと活躍していた方々の面影まで想像されます。
 しかし、それらも「点々と」……時の流れとともに次第に消え去っていくのでしょうか。
(鑑賞・川嶋安起夫)

子は母の誉め言葉待つ蝉時雨 石田せ江子
 歴史にもしも?はないが、あの時どうして叱ってしまったのか、誉めてやるべきだったと後悔の念にかられる一句に出会った。親も子も懸命な筈に違いなく、つい暴言を吐いて子供を傷つけている。
 蝉時雨の樹の下でベソをかいている子供が、かつての我が子とオーバー・ラップして悩ましいことだ。

トマト噛むその混沌を得るために 佐孝石画
 トマト噛むその行為の裏に、混沌から逃げるのではなく果敢に立ち向かう作者がいる。下五が反転して更にトマトを強く噛むのだ。水面に映る己に恋して死に、水仙の花に化したというナルキッソスのように……。自虐の中から答えを掴もうとする、およそ花鳥風詠とは程遠い俳句詩なのではと思いたい。

老いたとは思わぬことに秋青空 中村孝史
 鑑賞子も八十を迎えた時(三年前)、寂しくなったことを覚えている。耳が遠くなり耳鼻科で診てもらい「年相応の老化です」と笑いながら宣告。揚句の上五中七に続く「に」に何とも勇気づけられる。歳月と共に老化した肉体は戻りはしない。ならば作者のように開き直り、青空を見上げながら生きようではないか。
(鑑賞・小池弘子)

夕焼の缶入りスープを贈ります 安藤久美子
 川上未映子さんの小説『黄色い家』の最終段落〈それは胸にちょくせつ流れこんでくるような夕焼けで、それはもう思いだせなかったはずの、思いだすこともなかったはずの懐かしい色になり、かたちになり、声になっていった。〉が甦る。身体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生され、繋がり合い、動き出す、そのざわめきに驚く。

黒揚羽湖にさざなみよみがへる 田中亜美
 黒揚羽は「使者」だと思う。黒揚羽はいつも自然を装ってとても大切なことを伝えにくる。そして必ず、無意識に伝わる。湖のさざなみはその証だ。黒揚羽のメッセージを受け取った人の心のふるえが湖面を揺らす。頭がおかしいと思われるかもしれないが本当だ。嘘だと思う人は、他の「黒揚羽」の句を読んでみればきっと分かる。

星月夜背に真新し蔵書印 藤田敦子
 宇宙の闇を光の粒が埋めつくしている。満天の星の下に私の気持ちも厚く煌めき静かに覚醒している。そんな夜分だからこそ、この蔵書印は図書館の分類用背ラベルではなくて、やはり「蔵書印」なのだ。最近新たに誰かの所有物になったことを真新しく誇るその背は、星月夜のフォースの力で人の背中にメタモルフォーズする。
(鑑賞・小松敦)

人であることに行きつき落葉踏む 有村王志
 私も五十を過ぎてから思うのだが、これまで生きてきたこの様々な経験値と、身につけたあらゆる処世術を持って、もう一度若返り人生をやり直せないものかと。人はその未完ゆえ中々人であることに行きつけない。人は人であると自覚した時、人生の晩秋に散り落ちたその落葉を、確信を持って踏むのであろう。存在確認のように。

万緑の奥へ白馬を隠しおき 刈田光児
 この句を読んだ瞬間、私の脳裏に東山魁夷の「緑響く」の絵画が浮かんだ。濃密な緑色の針葉樹の鋭角的なシルエットが、シンメトリーに広がる心象風景の中に一頭の白馬が存在するこの絵、〈万緑の奥へ白馬を隠しおき〉という表現と重なった。作者にとってこの白馬は、内側に脈々と培われた美しき詩魂であるに違いない。

竹落葉さらさら齢を重ねたい 森由美子
 私の母も去年の十二月で九十三歳になった。母と再び暮らし始めてもう九年、母も年老いたが私も同じく年を取った。竹の葉は稀に稲穂状の花をつけるが開花後多くは枯死する。枯れてなお風に吹かれさらさらと音を立て揺れ散る竹落葉のように、時の流れに身を委せさらさら齢を重ねたい、作者の願望が私にも身につまされる。
(鑑賞・近藤亜沙美)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

眠さうな金魚へ零す冬のパン あずお玲子
納豆搔いて病める時もまた夫婦かな 有栖川蘭子
思春期といふ裸像ありすすきの穂 石鎚優
底知れぬ悪を語りて秋の夜 井手ひとみ
父怯み母向かいあひ冬の水 伊藤治美
ビートルズの最後の新曲小鳥来る 植松まめ
秋天や惚れなくなって惚けてきた 鵜川伸二
ポインセチア滅びゆくものを詠う 大渕久幸
哲の忌や死の谷に麦青むべし 押勇次
極月の頼まれて出る家族葬 かさいともこ
心配はかけてなんぼよ天高し 梶原敏子
行き暮れて露の野の一人の人を 北川コト
決心はその場しのぎの片時雨 木村寛伸
火薬筒むくろじ一つしのばせて 小林育子
夜長して人生訓の栞挟む 齊藤邦彦
さびしくば風船葛解いてみよ 佐々木妙子
福岡に大丸のある刈田かな 佐竹佐介
ボール一つ取り合う本能天高し 塩野正春
わたくしを許さぬわたし菜の花黄 宙のふう
数え日や老若男女旅人われら 立川真理
想い出を噛むと森永キャラメル冬 谷川かつゑ
露の道けさの命のたふとしや 平井利恵
真面目にならいつでもなれる吾亦紅 福岡日向子
ジプシーのリズムに乗れず秋扇 福田博之
身に入むや縄張追はるる猫の背 藤井久代
熟柿吸う甦る母の叱責 保子進
小鳥来る広げたままの新聞紙 松岡早苗
指導者が祟り神になってゆく厳冬 松﨑あきら
虫すだく一匹ぐらいあらわれよ 路志田美子
若き日の思い違いよ水澄めり わだようこ

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