『海原』No.43(2022/11/1発行)

◆No.43 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

結界とは問われて默す餘花の雨 阿木よう子
蔓手毬記憶の向こうはいつも雨 伊藤幸
父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
帰るさのタトゥーのサーファー海に礼 榎本愛子
胸襟を開いて笑う大花火 江良修
ダリア咲くとても物欲しそうです 大池美木
八月や影という影はすかいに 大髙洋子
オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
里帰り父どっかりと夏座敷 金澤洋子
羊水の子のようにふわふわ早苗 川崎千鶴子
息継ぎのように点描のしらさぎ 川田由美子
喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
家族葬でいいねと言われ月見草 楠井収
鬼灯点しあわあわと今生 小池弘子
職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
ふるさとに言葉の篩夜光虫 高木水志
含羞の歩幅奈良町夏が逝く 遠山郁好
十薬や小さな鈴が鳴りやまぬ 中内亮玄
夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
壊れた戦車ひまわりとコキア 平田薫
セラピー犬の眼差しに似て合歓の花 船越みよ
核兵器はいらない日々草が好き 本田ひとみ
決めかねるこの世の始末古代蓮 松本千花
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
うすものや水縫うように母の指 室田洋子
少年の脱け殻あまた青葉闇 望月士郎
無所属やベランダに長茄子らし 横山隆

前田典子●抄出

冷蔵庫に入り切れぬ泪いっぱい 伊藤幸
平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
父の教えいまだに解けぬ星月夜 奥山津々子
黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
束ね損ねし漠なりからすうりの花 川田由美子
侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
絹さやの浅緑自分に恥じており 黒岡洋子
わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
車椅子の深き溝あり浜防風 佐藤美紀江
原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
家郷遠し父母という草いきれ 白石司子
大夕焼防空壕の匂ひ 鈴木千鶴子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
風ひとつごとに暮れゆく蛍かな 月野ぽぽな
田水張る粗き下絵を描きつつ 中野佑海
吾子ふいに朝日に卵透かし夏 中村晋
妻の眼の涼しく走る大活字 野口佐稔
レコードに傷あり野茨の実の苦し 日高玲
我が鬱を切る夏蝶の極彩や 藤野武
山椒の実卒寿の父のいやいや病 増田暁子
耳鳴りも木の芽張るのも君のせい千 松本千花
茄子の馬ぐにゃりとなりて父還る 松本勇二
友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
著莪の花水仕事ふと自傷のよう 宮崎斗士
ところてん日本と日本語ずれている 三好つや子
なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
先生のかるいユーモア日雷 横地かをる
賢治乗る電信棒に春の月 吉村伊紅美

◆海原秀句鑑賞 安西篤

父の日や全ては母を経由して 伊藤雅彦
 父の日は、母の日に比べて影が薄いものだが、一応六月の第三日曜ということになっている。さて、その当日、家族の一人が「そういえば今日は父の日なんだけど、どうしたものか」と呟く。なにやら触れたくないものに触れたような気もして、少し後ろめたい思いで、まあこんなことは母さんにお任せしてとばかり、母(妻か)に一任する。母の裁量なら父も否やはあるまい。

八月や影という影はすかいに 大髙洋子
 八月は、六日、九日の原爆忌、十五日の敗戦日等、戦争の悲しみに関わる日が多い。そこには、歴史的に多くの死の影が漂っているはずで、それらの影は互いにひしめき、重なり、絡み合い、影同士はすかいにもつれあって倒れこもうとしている。爆心地に近い石階では、影だけ残して蒸発してしまった遺影もある。影はいずれも柱状に直立したまま斜めに倒れようとしている。すでにして死というモノと化している一瞬だ。「はすかいに」に、凝縮された映像が浮かぶ。

オムレツのしずけさ戦車そこを通る 大西健司
 ウクライナ戦争の現実を想望した一句。朝食のオムレツを作って、さあ食べようかとしている時、不意に戦車の通過する音が聞こえてきた。敵か味方かはわからないが、まさに日常の中に戦争が紛れ込んでいる場面。或いは、戦争の日々が日常化しているともいえよう。「オムレツのしずけさ」に、息を潜めている庶民の暮らしがある。

喪の明けの三日目の朝赤とんぼ 北上正枝
 大切なご主人を亡くされ、四十九日も過ぎ、喪明けして三日目の朝、ふと赤とんぼが飛んでいることに気づく。服喪中は、悲しみと雑務の中で日々過ぎてゆき、なにも目に入らなかったのだが、ようやく我に返った朝だったのかもしれない。気丈な作者だから、諸事万端に遺漏なく対応することに抜かりはなかっただろうが、その張りつめた気持ちも、一通りやり終え一息ついた朝。一匹の赤とんぼがふっと宙に浮いているのを、見るともなしに見ているうち、あらためて静かに悲しみが滲み出てきた。おそらく、その時心から泣きたかったに違いない。

職安や過呼吸ほどの白い紙 三枝みずほ
 職安に求職依頼に出かけ、求職用紙を貰う。生活がかかっているから、うまくいくかどうかは死活問題でもあり、緊張することこの上ない。その白い紙に、過呼吸する程の緊張感を感じたという。今の求職難と、そこに生きることの厳しさが、ありありと浮かび上がる。無季の句ながら、季を通じてのリアリティを感じさせる。

メロン切る独り暮しの度胸にて 篠田悦子
 メロンは果物の中でも高級な食材とされているから、一般庶民が気楽に口にするようなものではない。しかし独り暮しをしていると、たまには気晴らしにパアーッとやるかという気になるのも無理はない。それにつけても不時の出費だから、思い切りが必要になる。そこは度胸一本で行こうかとばかり、自分に気合を入れていくわけだ。たかがメロンでも、独り暮しなりの度胸が必要なのも暮しの現実感。

夏目漱石入ってゐますメロン すずき穂波
 語調と語感の楽しさと、一句全体のユーモラスな映像が軽やかに伝わってきて、いかにも夏向きの一句となった。こういう句は、意味的な解釈を拒否する。「夏目漱石」の語感から来る爽やかさと、作品そのものの軽みが相俟って、「メロン」の質感に通い合う。下五を三音の短律で切るのも、「○○メロン」と無音拍二音の停音効果との合わせ技で、中句の切れを響かせるとも言える。文脈的に読めば、漱石がメロンの中に入ってますだが、映像的には、漱石がトイレに入っていて、子規が厠から糸瓜を眺めたように、庭にメロンが転がっていると想像してみるのも面白い。すこし無理筋の評釈だが。

夫叱る夢見し後の魂迎え 中村道子
 夫を亡くして初めてのお盆を迎えた朝のこと。まだ存命中の夫を夢に見て、ついついいつもの癖で叱り飛ばしてしまったが、目覚めてみると魂迎えの朝だった。いやもうその気まずさと悔いったらありゃしないと思いつつ、念入りに魂迎えの用意に取りかかる。それは亡き夫への最後の甘えだったのかもしれない。どうか許して下さいとの思いしきり。

無所属やベランダに長茄子らし 横山隆
 長いコロナ禍で、屈託の多い日々を過ごしているうちに、なんとなく自分自身が一体何に所属して、どう動こうとしているのか、自分自身の存在根拠がどこにあるのか分からなくなっているような気がしてくる。そんな寄る辺なさを「無所属や」とし、さてその挙句は、マンションのベランダでささやかな菜園に長茄子を生らしているようと捉えた。これは悠々自適の境地と異なり、どこか意味化されないままの生のありようにも見える。時節柄、妙に親近感を覚える句だ。

◆海原秀句鑑賞 前田典子

平和なり大ひまわりが二本咲いた 井上俊一
 時世柄、ウクライナとひまわりにかかわる作品をよく目にする。作者の脳裏にもその光景はあるに違いないが、掲出句はそこからは距離を置いている。「平和」という言葉が、いま、どれほど虚しいことか。それだけに、身近な場所に咲いたひまわりの光景が、理屈抜きに新鮮だ。群生でもなく、一本でもない。「二本」の平衡感覚の静けさに、素朴な平和の実感がある。
 この句を味わいながら、本誌「海原」の柳生さんの連載論考〈全舷半舷〉で言及されている、「テレビ俳句」、「戦場想望俳句」などについて考え併せていた。かつて私は、テレビで見た作品に後ろめたさを感じて、その後、現地に確かめに行ったことも、想い出したりした。

黙読の聖書愛する花蜜柑 小野裕三
 一句を読み下しつつ、この上ない「花蜜柑」の配合に魅かれた。「黙読」「聖書」「愛」という、ある意味、スケールの大きくて深い世界を、繊細で清やかな精神世界へと馴染ませてくれる、無垢な気配の「花蜜柑」である。様々に深まる「黙読」の姿が、清々しく表出された。
 「詩人たるもの、聖書一冊ぐらい読み込んでいることが常識」との塚本邦雄の講演での強い口調を想い出す。作者は、既に身についた聖書を、折々、愛読しているようだ。

侵攻NO!ここから先は春野です 北村美都子
戦争に届かぬ語彙力牛蛙 芹沢愛子
 ほんとうに歯がゆい思いが募る二句に全く共感です。「侵攻NO!」と叫びたい程の気持。「春野」という自然に愛しさをも感じない殺伐とした境地が耐えられない。人間として当たり前のことを取り戻して欲しいとの訴えが通じる語彙力が欲しい。恃みの牛蛙もはっきりしない。このもどかしさを、こうして「語彙力」を超えた、「俳句力」を発揮されていることで救われる気がする。

わたくしの日傘さしたるモネ夫人 こしのゆみこ
 日傘をさして歩いているとき、ふっとクロード・モネの絵のなかの、モネ夫人が思い出されたのだろうか。夫人がさしている日傘を、「わたくしの日傘」と言いつつも、絵の中のモネ夫人になりきっているように想えて楽しい。絵から閃いたインスピレーションが、何の違和感もなく作品化されて伝わってくる。ずらす表現力がセンスよく発揮されている。そんな作者像が魅力的だ。

原爆忌音なく回るデジタル時計 清水茉紀
 アナログの時計は、時間の前後などを少し考える余裕があったり情緒も動く。デジタルは音もなく時間の数字だけが表示される。その不気味さが、突然の原爆投下にどこかで通じるような気がする。すべて人間が生み出した所産だということに、危機感や怖さを感じさせられる。

水さげて妣訪う小昼夏つばめ 竹田昭江
 「水さげて」「小昼」「夏つばめ」の響きあいが快い。母を亡くした寂しさなどは、既に克服して久しい様子がうかがえる。しかし母を恋う気持ちは齢をとっても変わらない。下げている水も軽く、いそいそと墓参を楽しんでいるようだ。

首灼けて茂吉『赤光』諳ずる 田中亜美
 茂吉の歌集『赤光』は、十七歌集あるうちの、三十二歳の頃の第一歌集で、強烈な印象をもつ連作を巻頭にした構成で、八三四首収められている。茂吉自身は、「写生のままの表現だ」と主張はしているものの、読者には難解なところがある。それ故の魅力も捨てられない。
 掲出句の作者田中さんは何度も味読していて、諳じられる程らしい。集中、何かにつけ「赤」の色彩を帯びた何首かが出てくるが、「首灼けて」と『赤光』とを色彩で結びつけているのではないと思う。「首灼け」るほどの炎天下を、ひたすら目的地へ向かいつつ迫ってくる、心理的なものが、諳じさせているような気迫を感じる。「首灼けて」の斡旋が「茂吉『赤光』」に適っている。

友の訃や紙魚しろがねに走る夜 水野真由美
 不意の訃に接したその日の夜、故人を偲ぶ思いで、その人にかかわる著書を開いたとき、不意に紙魚が出てきて「しろがねに走」った。ひょっとしたら久しく会ってなかったのかもしれないし、著書も長く閉じたままだったようだ。それだけに鮮烈に現れた生命感と、作者にとっての故人の存在感がこころに沁みる。

なつやすみ白紙に水平線一本 望月士郎
 平仮名書きの「なつやすみ」はまだ低学年のお子さんの夏休みであろう。「白紙に水平線一本」は、そのお子さんにとっての夏休みの「喩」かもしれない。でも、まず、白紙をひろげ、緊張と期待感の「水平線一本」をひく親子の様子も見えてくる。この一本をどう配分して過ごすか。「線一本」ではなく、「水平線一本」と見立てたところに、空や海を味方に夢や解放感がひろがる。

◆金子兜太 私の一句

炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太

 この句には「朝日賞を受く」の前書きがある。幸運にも、私はその受賞式(平成28年1月)に参加し、兜太一代の名スピーチを聴くことが出来た。感動のあまり一同思わず聴き入っていた。感動の背景にはトラック島戦場体験に裏打ちされた兜太の人間観があった。その記憶と重なり、この俳句は生きている。「これでよかったんだ」という感慨がある。句集『百年』(2019年)より。岡崎万寿

麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人 兜太

 丈高い麒麟の脚の細さに美しい恵みよと、兜太先生の健康的で純粋な純心を感じ感銘いたしました。夏の人の解釈は読む方の解釈でよいと思いますが、素敵な方を想像したり、麒麟のように理知的な群を抜く殿上人かもしれません。佐藤鬼房全国大会で、兜太先生の賞状を胸に兜太先生との写真が瀟洒な此の句とともに座右の銘として大切な宝になりました。句集『詩經國風』(昭和60年)より。蔦とく子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
五月雨の全景として山羊一頭 伊藤道郎
柳絮飛ぶ打たれるための左頬 榎本祐子
韮の花まだまだ伸びる影法師 川田由美子
行間に仏法僧のいる真昼 久保智恵
聖五月落っこちていた靴底は 小松敦
鉛筆の書き味に似て春目覚め 佐孝石画
曖昧なきりとり線や風光る 清水恵子
ひろしま忌人形の眼のガラス玉 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
止息して海鼠のかたち梅雨来る 瀧春樹
黒き函並ぶ都心や春の暮 田中亜美
母の亡き最初の母の日の日差し 月野ぽぽな
ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
豆飯の豆の多すぎ老後なり 前田典子
傍線のような一日髪洗う 三浦静佳
野に老いて父のはみだす草朧 水野真由美
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
たんぽぽや少女狙撃手絮吹いて 柳生正名

高木水志 選
瓦礫に立つ陽炎は死者たちの未来 石川青狼
他人事だった自由なからだ夏の潮 桂凜火
うりずんや基地と墓群を夜が吹く 河西志帆
緑陰や仕掛け絵本のように風 河原珠美
はこべらや天地無用の箱軽し 黒岡洋子
同類の匂いはなちて夏の潮 こしのゆみこ
胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
苦瓜は憤怒のかたち太き雨 重松敬子
まなこ澄み君は梟だったのか 篠田悦子
白桃すするジェノサイドの幻聴 清水茉紀
初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
毛たんぽぽ吹けば生国消えていく 十河宣洋
クロッカスから地球の呻き声 たけなか華那
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虹色の五月と言い孤独死のはなし ナカムラ薫
幽霊銃ゴーストガン解体すれば猫柳 松本千花
カワセミの青き閃光必ずもどる 松本勇二
音もなく常世へと散りえごの花 水野真由美
日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
春ゆうやけ原風景の犬ふりむく 望月士郎

竹田昭江 選
戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
虫喰いのような記憶や亀の鳴く 榎本祐子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
目礼の後のひかりや藤の花 佐孝石画
憲法記念日一輪車は難しい 佐藤博己
黒南風や完熟という壊れ方 佐藤美紀江
青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
○剪定されすぎた樹木です僕は 芹沢愛子
○着るように新緑の母家に入る 月野ぽぽな
虚弱体質烏柄杓をはびこらす 鳥山由貴子
君の心に走り書きして春落葉 中野佑海
宥すとは窓あけること花は葉に 中村晋
サザエさんち今日も揺れてる昭和の日 中村道子
○噴水の向う側から来る伏線 並木邑人
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青葉木菟寓話をしまう食器棚 日高玲
何の荷を下したのだろ柳絮飛ぶ 藤田敦子
満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
君の死後という摘草が終わらない 宮崎斗士
地球船みんないるかい子どもの日 森田高司

若林卓宣 選
鼻眼鏡の妻と眼の合う春の昼 綾田節子
変体仮名の古書店閉づや藤の雨 石川和子
ひまわりを三本買いし昭和の日 桂凜火
桜苗植えて余生を青空に 金並れい子
待つという愚かさが好き春夕焼 小池弘子
○兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
花散れば散ったで酒がまたうまい 佐々木昇一
新樹光這い這いの子が立ち上がる 高橋明江
「麦畑」世を黄に染めしゴッホかな 永田和子
海に母苺に母ゐるランチかな 西美惠子
青芝を傷つけラジコンの戦車 根本菜穂子
○向日葵の種蒔く頃となっている 服部修一
青麦の空が破れる音がする 藤田敦子
夏落葉ひっくり返してみる手紙 堀真知子
交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
○朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
桐の花母の呼ぶ声から逃げる 森鈴
さみしくて雨になりたいかたつむり 輿儀つとむ
夜桜や亡母の古羽織ちょいと借り 吉村伊紅美

◆三句鑑賞

ハンカチの花のざわめき幻肢痛 鳥山由貴子
 実際に聞こえる音、手にとって見ることができるものと、そうではない幻との境はどこにあるのだろう。この作者にとってそれは極めてあいまいであり、幻のほうがリアルであったりするのかもしれない。ハンカチのような白いがく片がざわめく音が聞こえるということ、なくなった身体の一部が痛むということ。それらが言葉にされることで、言葉にしか表現し得ない世界が見えてくる。

六十兆の細胞分裂遠花火 藤原美恵子
 人間の体の細胞分裂と遠花火の出会い。なぜか奇妙な実感がある。たしかにそれは、自分の体で起こっていることでありながら、まるで遠花火のように遠くで美しく弾けては消えていくものである。「の」以外は漢字で生物の教科書に出てくるような書きぶりも、味わい深い。

朧夜のポストに重なり合う手紙 望月士郎
 ポストに投げ込まれた手紙がカサリと立てる音が聞こえてくるようだ。それ以外は何の音も聞こえない夜である。手紙は黙っているが、さまざまな思いが何層にも重なって届けられるのを待っている。「重なり合う」という描写は当たり前のようでいて、その思いの厚みと重さを客観的に表現し得ている。朧夜のポストだからこその実景であり心象風景でもある。
(鑑賞・小西瞬夏)

胡瓜揉むよう戦争しない力 三枝みずほ
 胡瓜揉みは、胡瓜を薄くスライスして塩を振り、手で揉んで、出てきた水分を絞り、甘酢や三杯酢等で和えて食べる料理だ。僕も揉んでみた。胡瓜から、たくさんの水分が出てきて、だんだん柔らかくなって気持ちが良かった。胡瓜を揉む、優しい力。日々の暮らしの中に、平和への深い祈りが籠められていると思う。

初蝶の産土こんなに水が照る 関田誓炎
 「初蝶の産土」に惹かれた。作者は秩父にお住まいだとのこと。この句の産土は、兜太先生と同じ山国秩父のことだろう。秩父谷にひらひらと蝶が舞い、川の水は春の光に照らされて眩しく見える。山国の厳しい冬が終わり、春の訪れを実感する作者のふるさとを想う気持ちが感じられる。

日永とはぽつんと椅子がある老母 宮崎斗士
 春の温かな光の中で、年老いた母がのんびりと椅子に座っている。そんな情景を思い浮かべた。更に「ぽつんと椅子がある」の「ぽつんと」について考えていると、今は椅子に座れなくなった母を詠んでいるのではないかと思えてきた。作者の、母との時間を大切にする思いや、母に対する敬愛の念が伝わってきて、胸がいっぱいになる。
(鑑賞・高木水志)

戦争を画面で観てます昭和の日 有村王志
 テレビをつければウクライナの悲惨で非人道的な映像が流れる。地球で起こっている戦争である。観ているという表現で、心の痛みを無力感を表している。「昭和の日」の制定された意味や由来はいろいろあるが、昭和は太平洋戦争という大きな犠牲を出した時代でありその傷痕は今も残っている。

青鬼灯恋ともちがう文を書く 清水茉紀
 飯島晴子の「恋ともちがふ紅葉の岸をともにして」の「恋ともちがふ」は正真正銘恋の句と思う。掲句は「青鬼灯」のあの未熟感と、文という情緒を以て紛れもなく初々しい表情の恋の句である。夏から秋にかけての季節の移ろい、心の移ろいの微妙な心情が詠まれている。

満場一致なんじゃもんじゃの散る夕べ 本田ひとみ
 なんじゃもんじゃの木を初めて見た時の印象は正に「なんじゃ」という感じで、後に「ヒトツバタゴ」と知る。満場一致のあやうさを声高でなくさっと掬い上げて納得させるには、威圧感の不思議なこの木しかないとすんなり思わせる。そして、柔らかな表現に高揚感と終末を漂わせる力量が満ちている。
(鑑賞・竹田昭江)

兄弟に従兄弟らまざる素足かな こしのゆみこ
 素足でいるのは、寛いでいるからだろう。しかも兄弟だけでなく従兄弟もまざっている。近いところの人であっても、話し上手がいたり、聞き上手がいたり。お盆で帰省して久し振りに会ったのだろう。飲みながらの話は楽しい。畳の上ならなおさら寛げるだろうし。「素足」が色々と句を広げてくれているのはうれしいことだ。

交番に人気ひとけのなしや月見草 松田英子
 警察署、消防署、自衛隊というところは、元来、暇であれば暇であるほどいいと思っている。有事の際には必要となるので、訓練だけは一生懸命やってもらって欲しいが、あとはゆっくりと休んで欲しいと思っている。見ている人は少ないけれど、月見草はけなげに咲いている。「交番に人気のなしや」は、通常の仕事の範疇。

桜咲きましたよベッドの向き変える 三浦静佳
 お父さまをでしょうかお母さまをでしょうか病人をお世話されていることは大変なこと。あるいは看護とか介護とかお仕事をされているのかも知れない。さりげない物言いがいい。冬が厳しければ厳しい程、春の訪れの喜びは大きい。「桜咲きましたよ」と聞くだけで、明るい気持ちになる。「ベッドの向き変える」が、秀逸です。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

わかった私が悪かった大夕立 有栖川蘭子
ビルの谷ペルソナ吐いて炎暑かな 有馬育代
蝮谷白い帽子が落ちている 淡路放生
しろがねの南風に青鈍の鳩たちよ 飯塚真弓
雀隠れもう先生の一周忌 石口光子
卯の花腐し落ちるところまで落ちる 大渕久幸
夢ひと夜邪馬台国へ螢狩 岡田ミツヒロ
手の影をスプンで運ぶ半夏雨 川森基次
町の名は白南風基地の街佐世保 古賀侑子
老人は歯磨きをしてサクランボ 後藤雅文
青水無月メメント・モリと呟けり 小林育子
マンゴーを切って太陽取り出した 小林ろば
蕃茄トマトにはハーブ妬けさす青さあり 齊藤邦彦
星涼し烏の骸晒しある 佐竹佐介
口先の民主主義夏の火縄銃 島﨑道子
シクラメン舌やはらかに嘘を言ひ 宙のふう
青野を食む獣と草を分けあふて 立川真理
天体は遠い過去形流れ星 立川瑠璃
舌打ちは生きてるあかし青大将 千葉芳醇
暑き日やヴァットの上の母の乳房ちち 藤玲人
権現の楠からどさと大暑かな 深澤格子
死にたいと思わなくなる噴井かな 福岡日向子
冷房は無い必要だったのは空だ 松﨑あきら
お咎めの墓に吹かれて蛇の衣 村上紀子
青年の傾斜凩は緩まず 村上舞香
土手あざみ莊子譜を編み去りにけり 吉田貢(吉は土に口)
白南風やそのまま行けそうな昼寝 吉村豊
白鳥の背のやはらかき誘ひかな 路志田美子
安眠と危篤の狭間木下闇 渡邉照香
髪洗う背なに原罪やどるかな 渡辺のり子

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