『海原』No.42(2022/10/1発行)

◆No.42 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

母の日をモナリザのよう手を組んで 綾田節子
戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
山桜桃記憶の外の負の記憶 奥山和子
老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
からすうりの花白濁の家族写真 川田由美子
麦秋や噛めば噛むほどごはん粒 北上正枝
やわらぎは保健室のよう金魚玉 楠井収
今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
極太の赤ペン添削梅雨夕焼け 黒済泰子
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
うずくまるかたちは卵みどりの夜 三枝みずほ
どしゃぶりの電柱まるごと師の言葉 佐孝石画
徘徊は自由心太自由 鱸久子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
津波跡の明日葉明日に壁なくて 竹本仰
聖農の墓蕺菜の香のきつく 竪阿彌放心
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
夭折に遅れる永き日の木馬 鳥山由貴子
蛍火つーと草の根照らす妻の忌へ 野田信章
鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
ぞわわぞわわと大百足虫疑念も少し 藤野武
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
人混みに独りを創る日傘かな 武藤幹
青葉渦から戦闘ドローンがまた一機 村上友子
噴水にどしゃぶりのきて笑い合う 望月士郎
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴
音読の合間あいまよ遠蛙 横地かをる

大西健司●抄出

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
海峡を渡る蝶なり無国籍 石川青狼
百合の香や弦音高く矢を放つ 泉尚子
そうしてさ無人駅の虹の手話 伊藤清雄
切岸に孤高の野山羊聖五月 榎本愛子
ひとやとも茅花あかりの仮住まい 榎本祐子
尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
東京を蝕む夜の巣箱かな 小野裕三
カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
天道虫飼つて時々寂しがる 小西瞬夏
黒南風や絵馬いっせいに鳴り止みぬ 小松敦
君というこころの余韻夕立くる 近藤亜沙美
一行をはみ出しここからは燕 三枝みずほ
橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
海をゆく蹄の音の霞みおり 白石司子
馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
産土の神の水辺に茗荷の子 関田誓炎
踏青やママはタトゥーが嫌いです 芹沢愛子
強情や鹿一頭が野に残る 十河宣洋
とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
静けさや手長蝦釣る雨の池 髙井元一
石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
かきつばた仮想の生と瘡蓋と 田中亜美
用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
本ひらく若葉へ船を出すように 遠山郁好
廃線をたどる麦笛吹くように 鳥山由貴子
短夜や8ビートな喧嘩して 中野佑海
星と妻と私との位置愛しかり 藤野武
Tシャツをはみ出て誰の腕ですか 堀真知子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

戦記のごと蛍のむくろ一つ置く 大西健司
 蛍狩りに来て、蛍を捉えようと悪戦苦闘している内に、気が付くと足下に蛍のむくろが落ちていた。自分が叩き落としたものかどうかは定かでないが、おそらくこの蛍狩りの最中に、人間どもの手によって犠牲になったのだろう。いわば人間のエゴイズムの犠牲となった蛍に違いない。にわかに気づくと、妙に粛然たる気持ちになって、やや高い土の上に蛍のむくろを置き、蛍狩り戦記の犠牲者として弔いたい気分になったのではないか。束の間の蛍の命への心の通い合いを詠んでいる。

沖縄忌ジュゴン黙って消えにけり 岡崎万寿
 沖縄海域におけるジュゴンの生息環境は、きわめて厳しい状況にあるという。戦争や戦後の基地建設、埋め立てによる再開発等によって、ジュゴンの生息環境はますます窮迫し、絶滅の危機に瀕しているらしい。沖縄忌は、昭和二十年六月二十三日、日本軍が摩文仁岬において壊滅した日に当たる。この戦いで多くの民間人が犠牲になったが、戦後約八十年の歴史の中で、ジュゴンもまたあの時の沖縄の人々同様絶滅の危機に直面していることを、戦争の悲劇とともに告発しているのではないか。

老いは来る紙魚のよう刺客のように 川崎千鶴子
 人間も生き物である以上、生まれ、育ち、盛りの時期を過ぎて、いのちの消滅を迎えるのは、自然の成り行きと言わざるを得ない。不老不死は望むべくもないが、老後の時間が長期化していることも事実である。老いの行程は、必ずしも楽なものではなく、むしろどう耐えていくかの重荷を背負うもの。しかも老いは、紙魚のように忍び寄り、刺客のように不意を襲うのだ。そうなると正面から戦えるものではなく、いかにうまく付き合っていくかの問題となる。この比喩が個性的だ。ここでは、その入り口に立った人の、途方に暮れた立ち姿と見たい。

今しかない今をうたたね田水張る 黒岡洋子
 この句の本意は、残された時間は多くなくやるとすれば今しかないのに、うたたねをしていたずらに時を空費している己への自省の念を詠んでいるように思える。やや筆者自身の身に引き付けた読みかも知れないが、これも一つの境涯感の風景と読めなくはない。すでに田水は張って、田植えに取り掛かる用意が出来ているというのに、一向に腰が上がらないのも、老い故だろうか。その刻々の時間意識自体、一つの生命現象には違いない。

徘徊は自由心太自由 鱸久子
 すでに九十代半ばに達している作者の、自由闊達な生きざまを書いた一句。「徘徊は自由」とは、兜太先生の「俳諧自由」をもじったもの。年を取ると眠りが浅くなり、夜中に目覚めて徘徊することもある。作者は、それなら起きて自由に徘徊してやろうという。兜太先生もそうしていたらしい。「心太自由」は、ちょっと難しいが、イメージからすると排便のことか。兜太先生は晩年、土スカトロジーに親しい糞尿譚をやたら句にしていた。さすがに作者は、そこは慎ましく「心太」とぼかしたが、なんとも奥ゆかしい(?)自由さではないか。

黄金週間黒いマスクの一家族 芹沢愛子
 五月の黄金週間、コロナ禍の最中ながら、二年越しのコロナ疲れに、ウクライナ疲れも重なって来たので、久しぶりの連休は家族連れの短い旅行に繰り出したのではないか。さりとて、感染対策に気を抜くわけにもいかず、全員黒マスクで物々しくバスに乗り込む。そんな一家のささやかな癒しのひと時を、かけがえのないものとして愛おしんでいる。黄金と黒の対照に緊張感を宿しながら。

母の日や忘れものした時の顔 滝澤泰斗
 この場合の「顔」は、母の日の主役の母の顔ではないだろうか。日頃一家のために献身している母は、自分がお祝いの当事者であることなど、ころりと忘れているから、子供たちは示し合わせてひそかに母の喜びそうなものを用意し、当日、何食わぬ顔で集まって、食事時に出し抜けに母にプレゼントする。「忘れものした時の顔」とは、その時の母の、あっと驚く表情ではないか。

鳥ぐもり瓦礫の下のぬいぐるみ 平田恒子
蘭鋳は淋しい言葉食べ尽くす 松井麻容子
水仙花密かに夜のスクワット 森鈴

 この三句では、日常のさりげない暮らしの断片から、なにやらショートエッセイ風の物語的世界が広がる。
 「鳥ぐもり」の句。震災による瓦礫の下に、ぬいぐるみの人形が落ちていて、被災の爪痕を生々しく残している。被災地の復興未だしの中、鳥ぐもりの空は一向に晴れそうにない。
 「蘭鋳」の句。小さな金魚鉢に一匹の蘭鋳がいて、いつも独り口を動かしている。どうやらその淋しい言葉は食べ尽くしたようと見立てた。自画像の投影だろうか。
 「水仙花」の句。夜の水槽で、水仙が花を開き、根茎は節々から不定根を水中に広げている。その姿は、寒さの中、花の矜持を保つかのように、密かにスクワットを試みているかのようにも見える。

◆海原秀句鑑賞 大西健司

尽くし過ぎですか薔薇は薔薇でしょう 大池桜子
 「尽くし過ぎですか」と言われても困るんですがってこたえたくなる。桜子さんの同人としてのスタートを飾る一句は私の思う彼女らしい句だ。薔薇は薔薇、私は私そんなところだろう。私らしく生きる、これからのありようを語っているように思える。やはり薔薇を持ってくるあたり素晴らしい。華やかに活躍してほしい。

カメノテの塩茹穿る梅雨晴間 河田清峰
 やはり新同人の清峰さんの味のある句に注目。
 なんと言ってもカメノテが秀逸。地方都市に住む者の強み、こんな題材なかなか無いだろう。カメノテ穿るなんて書けない。何ともいえないリアリティが愛おしい。
 縁側だろうか、屋外だろうか。一杯やりながらほじほじやっているのだろう。梅雨の晴れ間のひととき、少しべたつく潮風を感じながらの至福の時間。そういえば海辺の小さいスナックで、突出しに出された磯物に困惑した記憶が甦ってくる。それは小さな巻き貝。カメノテよりも小さいやつをちまちまと穿ったことを思い出す。
 素敵な一句に乾杯。

ハンモック上野のシャンシャンみたいにさ 綾田節子
 何とも楽しい句だ。最初読んだときわざわざ上野なんて書かなくてもと思ったが、やはり余計なことは書かず楽しいリズムで「上野のシャンシャンみたいにさ」と書ききった良さだろう。「みたいにさ」が実に愛らしい。
 上五のハンモックへと戻っていくのだろうが、いそいそとハンモックを吊しながら呪文のように呟くのだろう。
 何ともいいなあ、シャンシャンみたいにおもいっきりごろごろするんだろうな。羨ましいことです。

馬糞海胆食べて黄昏れやうかしら すずき穂波
 こちらもおなじく「黄昏れやうかしら」が何とも良い。
 軽やかに響いてくるのが実に愛らしい。実際のところ広辞苑などには物思いにふけるというふうには出ていないが、いつしか一般的にはこのように使われているのでそのように読みたい。たぶん一人で馬糞海胆を堪能しながら、ちょっと黄昏れてみようかしらなんて呟いて飲んでいるんだろうな。節子さんの「みたいにさ」と同じく「やうかしら」が実に素敵。でも馬糞海胆とこう書かれると優雅さよりユーモアと感じてしまうのは何故。

人形の抜けた目さがす木下闇 阿木よう子
 なにこの不気味な導入部。木下闇にポツンと人形が置かれていたら怖いだろうな。そのうえ目が無いとなると勘弁して欲しい。そしてその目を探しているのだ。何だこれは、ここから何が始まるのだろうか。しかしやはりこれは作者の内面に潜む何かなのだろう。不思議な世界観に心引かれる。

とある日の二階のベッド梅雨鯰 ダークシー美紀
 一転こちらは明るい世界が広がる。広がるがやはりこちらも不思議な世界。何なのこの梅雨鯰って、しかも二階のベッドにとなると例によって妄想癖が動き出す。
 私の詮索だとある日の旦那さんの姿態。どたっと寝転がっているのだろう。口髭でもあるのかな。ベッドと一体になっているのだろうなどなど何とも失礼しました。
 読み手を楽しくさせてくれる仕掛けに溢れた句。

橡咲いて河向うより昼のポー 篠田悦子
 昼のポーって何なのから始まって、いつしかとりこになっている。エドガー・アラン・ポーとかいろいろと考えていると、ふっと浮かんできたのが少女漫画のポーの一族。内容はよく知らないが壮大な物語が動き出す。
 でも何なんだろうこの不思議なポーは。ポーがこの句のすべて。秀逸。

用心棒みたいな猫へ青嵐 峠谷清広
 一昔前だと家猫も気儘に外を歩いていた。そこには縄張りがあり、ボス猫の存在があった。この句の用心棒みたいな猫の存在ももちろんあった。凄みのある風体に幾多の戦いを経てのあまたの傷痕。猫好きにはたまらない一句。そんな猫が青葉の中に眼光鋭く蹲っているのだ。
 青嵐がよく似合う。

石塊も木っ端も遺品震災忌 瀧春樹
 地震で怖いのは火事に津波。あとかたもなく想い出を奪い去ってしまう。あとに残るのは残骸のみ。作者は、日々の暮らしの痕跡である石塊や木っ端も遺品という。
 建物の破片かも知れない木っ端や、庭先にあったのかも知れない石塊に思いを寄せている。遠くにあって映像で見るのみだが、その残酷さを痛切に思う。この夏も酷暑に豪雨、各地で頻繁におこる地震。常に災害は身近なところにあり、他人事ではないだけにこの句が身に染みる。

 ところで、いろいろと訳のわからないことを好き勝手に書かせていただきましたが最終回です。ありがとうございました。

◆金子兜太 私の一句

霧の車窓を広島馳せ過ぐ女声を挙げ 兜太

 戦後の組合活動の関係で、先生が何度か広島を訪れた時の句である。広島駅前に、数人の女性が佇んでおり、その中に顔半分がケロイド状で、それを隠すようにするきれいな女性がいた。先生はその姿を忘れられなかった。汽車が走り出す後まで「きゃー」という声が上がるという幻覚。先生はその女性の夢を何度も見たという。かつて夫と降り立った広島駅での出来事と思うと、同じ女性としてひしひしと悲しみが迫ってくる。句集『少年』(昭和30年)より。〈著書『あの夏、兵士だった私』(平成28年)の中に自句自解あり)石川和子

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 この句が難解と思う人も多いようだが、兜太先生の句で好きな句ベストスリーの一つだ。俳句をする前から、ダリなどシュールレアリスム的作風の絵が好きだったが、この句はそのような絵になる句だと思った。この句を絵にしたら、タイトルは「早春」だ。早春になった喜びの気分を表現する俳句として、この句は私には大変新鮮な句である。句集『遊牧集』(昭和56
年)より。峠谷清広

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

小西瞬夏 選
春水の言葉に両手差し入れる 榎本祐子
西東忌前後左右の他人かな 小野裕三
しっかり呼吸巣箱に粗漉しのひかり 川田由美子
未草こころは足からは遠い 河西志帆
晩春のこだまを入れる鞄かな こしのゆみこ
蓋閉まらないほど入れて春の夢 小松敦
花見上げ奥へ奥へと僕等つながれ 佐孝石画
清明や戦地の夢は冷たい顔 豊原清明
揺れること立つこと鳥の巣を抱く樹 中村晋
どこかで又ちひさな渦巻きたねをの忌 野﨑憲子
四郎四郎と呼ばう島あり睦月かな 野田信章
天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
チューリップ画をかくように戦をして 平田薫
切株や戦死者靴を天へ向け マブソン青眼
戦火また四月の橋に足をかけ 水野真由美
ブランコ最下点またふるい魚群くる 三世川浩司
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
鳥雲に君は前しか見ていない 室田洋子
消印は 三月十一日海市 望月士郎
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

高木水志 選
人類の未来世紀へ届けよ薔薇 石川青狼
出来ぬこと幾つも増えてクロッカス 伊藤巌
春雨は古典よ魚になる途中 大沢輝一
蝙蝠のスープ静謐な春のこと 大西健司
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
やや無口とか人間の種袋 小松敦
雨の輪のかさなりあひて死生観 三枝みずほ
まっさらな今日を燃やして夜の桜 佐孝石画
不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
喪失という繰りかえし春の雪 芹沢愛子
みづいろは大地テラの頬笑みしやぼん玉 高木一惠
風の私語水の私語ある春彼岸 竹田昭江
シェルターに産声響く春三日月 田中信克
余寒この瓦礫の中に瓦礫の墓碑 中村晋
内なる死干潟に満ちて遊女塚 並木邑人
崩壊の土来年も咲くよ菫 野口思づゑ
キエフ春泥おかあさんこわいです 野﨑憲子
桜もう風の軽さに漂いぬ 茂里美絵
○木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名

竹田昭江 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
清明の縞馬フォンタナの切れ目 石川まゆみ
げんげげんげどこを曲がりてわれに今 伊藤道郎
畳まれて国旗の色の紙風船 小野裕三
○変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
雲雀落つ父と永眠との間 木下ようこ
いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
土筆野に朝日清浄なりしかな 関田誓炎
めつぶるは睡魔のなごり白山吹 田口満代子
友情は黄泉につづけり花きぶし 田中亜美
丸描けばいずれも目玉春の闇 田中裕子
山道の菫見るまでのリハビリ 谷川瞳
蛇穴を出たらミサイル飛んできた 峠谷清広
苧環の咲いて出雲の雲遊び 遠山郁好
たんぽぽの絮毛吹こうと誘われる 中村道子
全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
ひとり花見つぶやくことも我が浮力 村上友子
地球儀は地球にいくつシャボン玉 望月士郎
山椒の実遠回りには訳があり らふ亜沙弥

若林卓宣 選
○花冷えのどこかに銃口あるような 有村王志
うしろの正面にいます春の蝶 市原正直
蕗の煮物のとりとめのない日常 宇田蓋男
ヒヤシンスきょうはさみしい音を買う 大髙洋子
もうよせよあの八月がやって来る 奥村久美子
豆ごはん並べてやさしき時間かな 柏原喜久恵
順繰りの人生と母日向ぼこ 金澤洋子
お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
目刺焼く格好付けるなと言ったでしょ 楠井収
○Tシャツが白くて空がやはらかい 小西瞬夏
初夏の少女ブランコをゆらしている 笹岡素子
夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
戦争を観ているビール注いでいる 瀧春樹
ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
騙されるふりの優しき万愚節 長尾向季
食べることねること桜さくらかな 平田薫
○追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
落ちて割れた氷柱を蹴って難民か マブソン青眼
○ヒヤシンス泣くのも笑うのも体操 宮崎斗士
親に物言わぬ子となる木の芽時 梁瀬道子

◆三句鑑賞

天皇誕生日きれいにとれた鯛の骨 長谷川順子
 天皇を句に詠むときに感じるちょっとした抵抗感。天皇という存在を畏れ多いものとしてしまう無意識の何かと、それと同時にその何かを否定しようとする意識。「きれいに」でまずは天皇誕生日を言祝ぎながらも「鯛の骨」という、ひっかかりや違和感を持ち出し、もしかしたら最上級の風刺なのではないか、と思わせる。

消印は 三月十一日海市 望月士郎
 胸が苦しくなるような悲しみを、美しく表現された。一時空けを含めての句の姿がビジュアルとして、句の意味を超えたものを醸し出している。「消印は」と始まり空間がある。ここにあの津波からのあらゆる出来事が省略されていながらも、たしかに見えてくる。「は」という助詞を使いながらそのあとは散文としては続かない。韻文の律を持ちつつ、ぼんやりとした映像を見せる。「海市」という季語が十分に働いているからだろう。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 「木のやうな人」とあり、なんとなくそれっぽい人を想像する。「と」のあとにくるのは何だろうという期待を裏切られるよろこびとして「木の人」がやってきた。「木の人」とは?にイメージを遊ばせる朝のアンニュイな時間がたっぷりとやってくる。
(鑑賞・小西瞬夏)

変えていいルール早春の白線引く 桂凜火
 ルールは本来、人々が安全で平和に暮らしていくためにあるもので、小学生の時、みんなで試行錯誤しながら遊びのルールを変えていったことを思い出す。作者が思っている「変えていいルール」はわからないが、僕は、まだ寒さが残る時期に、ここから春ですよと白線を引き、宣言する作者の未来に向けた気持ちや清々しさを感じた。

不燃性家族そのうち一人たんぽぽ化 すずき穂波
 家族の様子を「不燃性家族」、一人「たんぽぽ化」と表現したところが面白い。たんぽぽと言えば、僕は先ずその絮を思い浮かべる。閉塞感が漂っている家族の中で、一人明るく逞しく育ち、希望を抱いて飛び立とうとする姿が「たんぽぽ化」なのではないか。

木のやうな人と木の人と朝寝 柳生正名
 不思議で魅力的な句。人の暮らしは、昔から木と共にあった。僕にとって、木とは、大地に根をはり、太陽に向かって枝・葉を広げ、風雪に耐えながら、たくさんの生き物を育んで生きているものだ。「木のやうな人」は、そうした木のように歳月を重ねた人だと思う。「木の人」は、木の精霊のことだろうか。日常生活の中で、こんな朝寝ができるなんて素敵だ。
(鑑賞・高木水志)

いつかつかう箱うつくしく春の家 こしのゆみこ
 「つ」の連鎖の韻律が奏でる心地良さ、表記の端正さ、うつくしくの趣がすっと見えてきた。「いつかつかう」の言の葉が胸に響いて、きめ細かく生きるおりふしのやさしさに触れる感触、それは春の家。箱に千代紙を貼って大切にしたのはいつのことだったのか、今も何入れるでもない箱を大事にしている。

全面的にひまわり咲かそうウクライナ 服部修一
 三月十日の東京大空襲で被災した私は、毎日報道されているウクライナの惨状が痛くて震える。国花のひまわりを「全面的に」こそ世界平和を希求する大きな声であり「咲かそう」と停戦への積極的な行為を示している。麦が青々と風にたなびき、ひまわりが太陽の下で大きく咲く日が一日も早くと願うばかりである。

追い返すつもりの猫を待つ日永 松本千花
 まったくと言いながら待っている気持ちは可笑しくも分かる。きっと日本猫で黒猫に違いないと確信すらして。我が家にも猫が居て実に気儘であるが、その気儘が気に入っている。「追い返すつもり」と待っていると、ふと寂寥を感じるのは日永のせいか。犬より猫の句が圧倒的に多いのは、気配の生きものだから、と思う。
(鑑賞・竹田昭江)

お達者で遍路に渡すわらび飯 金並れい子
 歩き遍路をしていると、お接待を受けることがよくあり、いただいた気持ちとして納札をお渡しする。「よくお参りくださいました」と言われると、頭が深くさがる。「遍路は歩いてこそ」と言う寂聴さんのポスターを見かけると、そうとも思うが、都合もある。「お達者で」と言われると、益々元気になれるような気がする。

夕虹や今日も出来ない逆上り 佐藤美紀江
 公園なんかでよく見かける風景。子であろうか、孫であろうか、まさかの本人であろうか。鉄棒の出来ない年齢になってから知ったのだが、鉄棒に腹をくっつけたまま太紐で縛れば逆上りは出来る。やがて夕虹のなか、その少女は(勝手に決めつけているが)何の助けも、誰の助けもなく、逆上りが出来ていると思う。

ふるさとの満開の桜を浴びる 月野ぽぽな
 春には桜、夏にはひまわり、秋には紅葉を撮っている写真の好きな人が私の近くにいる。中でも桜には贔屓の木があり、毎年撮っている桜の写真を見せてくれる。「満開の桜を浴びる」のだから桜を好き過ぎてどころではない。環境なのか、日本人の血なのか。「墓石に映りながら散る」桜も気になってしょうがないようだ。
(鑑賞・若林卓宣)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

食卓に色違いの箸茗荷筍 有栖川蘭子
青梅や母のゐぬ間に紅して 有馬育代
石屋から出て来る白い羽抜鶏 淡路放生
企画書と寝ぬべき頃かな明易し 飯塚真弓
蟻ころす部室のかたすみ資本論 遠藤路子
殺めたる豚の血の色端居して 大渕久幸
れんぎょうの花よおとなの反抗期よ かさいともこ
夏蜜柑力を入れて産みました 後藤雅文
こんなにもたんぽぽ咲いていて痛い 小林ろば
夕焼けや余生青でもよかろうか 近藤真由美
丸裸謀反役なるチャップリン 齊藤邦彦
蜘蛛の囲にぶらさがってみるゆれてみる 宙のふう
ミロ愛す花と女とかたつむり 髙橋京子
父の日やひと日娘になりにけり 立川真理
人は生く泰山木の花咲かせ 立川瑠璃
蕨狩り上飛ぶブルーインパルス 土谷敏雄
古火鉢に目高飼い初む七十なり 原美智子
鯨幕の外で踊るよ顔なき人 樋口純郎
跨線橋のつしのつしと積乱雲 深澤格子
さみどりやかの道裸眼でゆくことに 福井明子
揚羽蝶前頭葉にフラグが立つ 福岡日向子
レコードを脇に抱へる夕立かな 福田博之
新緑や夫を病いを悪自慢 藤川宏樹
限界団地内公園文字摺草ほっ 松﨑あきら
海難を悼む島の灯走り梅雨 村上紀子
低速で檸檬つぶしていく指よ 村上舞香
虹立つも國家を主語とするなかれ 吉田貢(吉は土に口)
みちのくにそろりそろりと祭りあり 吉田もろび
剃髪の母大海のごと笑ひをり 渡邉照香
白薔薇や獅子座のおとこ所望する 渡辺のり子

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