『海原』No.14(2019/12/1発行)

◆No.14 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

自分史にA面探すかたつむり 綾田節子
青蜥蜴どこかがうわの空でいる 伊藤淳子
フクシマの無言の更地炎天下 宇川啓子
簞笥臭い昭和の浴衣歩きだす 大髙宏允
渋谷の街をあなたは姉のように合歓 大西健司
秋の日にシーツ展げるように死す 片岡秀樹
えのころ草旅の心を湿らせる 川田由美子
三人で叱られ雨に咲く茗荷 木下ようこ
理由わけありの新玉葱の臭う夜 黍野恵
空蝉や知ったか振りの父の髭 楠井収
秋夕焼ノートひらきっぱなしです こしのゆみこ
動かない夏雲の翳空耳のカタチ 佐孝石画
不安です隙のない婿冷奴 佐藤美紀江
原爆忌セロファン色に母が座す 清水茉紀
「来年も」と言えぬさよなら敬老会 鱸久子
家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
夏闌けてわが少年の発火点 関田誓炎
くちもと見られたくない夕顔咲く 芹沢愛子
カルピスの水玉昭和の夏休み 髙尾久子
白桃や夜をスケッチするわたし 竹田昭江
さりながらデパ地下混み合う終戦日 寺町志津子
秋灯や少女水なら吸い取ろう 遠山郁好
少女らに晩夏雑草研究部 鳥山由貴子
夏蝶はいちにち線を引きなおす 平田薫
折鶴折る三つ編髪のヒロシマ忌 平田恒子
空席にハンカチのあり広島忌 望月士郎
沖縄の木々の根ぢから兵ども 望月たけし
いちにちを喃語のようにハンモック 茂里美絵
わが死後やトマト畠のアンタレス 横山隆
葦刈小舟うかうかと文字を刈る 若森京子

伊藤淳子●抄出

零余子落ち素手とは笑いあう仲間 有村王志
教会は久しく空家山桃落つ 石川修治
晩夏まとえば流木となりはじむ 伊藤道郎
僧侶兼教師のバイク麦の秋 稲葉千尋
あめんぼの波紋に雨の波紋かな 内野修
秘め事のあるかに今日のひぐらしは 大池美木
渋谷の街をあなたは姉のように合歓 大西健司
少年に渡廊下のにおいかな 菊川貞夫
立ちどまるための石段小鳥来る 北村美都子
価値観を逆さに吊す唐辛子 倉田玲子
ががんぼの溺れていたる七曜表 こしのゆみこ
夜夜の月みみたぶの曖昧な位置 小西瞬夏
君の掌を開かば零る夕月夜 近藤亜沙美
あいまいな自由を選び飛ぶトンボ 佐々木昇一
鮭のぼる一番星までのぼる 佐々木宏
まるで他郷夏河越えただけなのに 篠田悦子
父の忌の武甲山ぶこうの湿り栗の花 関田誓炎
ななかまど灯る清流に鮭葬り 十河宣洋
金魚玉我はわたしの伴走者 竹田昭江
明晰と叙情と蜻蛉翅うすし 田中亜美
記憶みな合歓の花閉ずようにかな 寺町志津子
子の呉れし風の伝言猫じゃらし 中野佑海
萩真白あなたはわたしを探せない ナカムラ薫
ヒロシマと言うとき蠅の来るフクシマ 中村晋
蛇打つは密かな儀式手を洗う 仁田脇一石
烏瓜かなしみのみを光らしめ 水野真由美
ペン先鳴ってここから先は十六夜 三世川浩司
アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
方向音痴ときどき茸狩にゆく 望月士郎
夏水仙つまりは淋し二、三人 茂里美絵

◆海原秀句鑑賞 安西篤

フクシマの無言の更地炎天下 宇川啓子
 放射能に汚染された福島の土地が更地化され、炎天下に晒されている。すでにあれから八年の歳月を経ても、現実は一向に変わらない。あのときその現実に言葉を失った姿のまま、今もなおそこから抜け出せないでいるフクシマ。除染作業は進められていても、かつての街の賑わいは戻って来ない。更地になった土地、それは、言葉を失った街の表情ともいえる。そこから再び歩き出せる日はいつだろうか。作者の問いかけは続く。

簞笥臭い昭和の浴衣歩きだす 大髙宏允
 生活の洋式化の進んだ今では、洋服簞笥が主流を占めているが、それでもなお古い家なら木製の桐簞笥に和服を収納している家庭は結構ある。和服のなかでも、ことに夏の浴衣の木綿の単衣ものの味は風情があっていい。そんな風情をなつかしむのも、やはり昭和の世代ならではのもの。ふと思いついて、久しく簞笥の中に収めていた浴衣を取り出して着てみる。簞笥の臭いの立ち込めている浴衣だが、昭和という時代をまとっているかのように歩き出す。昭和世代ならではの嗅覚ともいえよう。

えのころ草旅の心を湿らせる 川田由美子
 えのころ草は、猫じゃらしとも呼ばれるイネ科の一年草。日頃の物憂さから逃れようと、小さな一人旅をしているとみたい。とある道端で、えのころ草を抜いてくるくると回しながら歩いている。おそらく、故知らぬかなしみのような気分に誘われているのではないか。そのアンニュイ「旅の心を湿らせる」のは、作者の知的倦怠感とも言えよう。「湿らせ」てその気分の中にしばらく漂う。それが、〈旅情〉というものに違いない。

秋夕焼ノートひらきっぱなしです こしのゆみこ
 見事な秋の夕焼空。これは一句ものせずばなるまいとばかり、句帖に鉛筆をはさんで家を飛び出した。ところが、その景に対面するとにわかに言葉を失って、どうにも一句の態をなさない。ノートはひらきっぱなしのまま。いわゆる「感の昂揚感」に溢れすぎてか、言葉という客観的なかたちをなさないのだ。しばらくはその感の中に浸るしかあるまい。

原爆忌セロファン色に母が座す 清水茉紀
 この場合の母は、亡き母のような気がする。「セロファン色」に「座す」という捉え方には、母の肉体感というより、母のもたらす透明な空気感のようなものが漂う。「原爆忌」を上五に据えたからには、原爆忌自体が母の忌日なのかも知れない。原爆の放射熱に、母は一瞬のうちにセロファン色に気化したと見なすことも出来よう。そのセロファン色の空間に、紛れもなく今も母が存在している。その死者としての存在感の確かさをいう。

家蜘蛛は大事左義長さんのやうだし すずき穂波
 「左義長さん」とは、言うまでもなく、かつての四国俳壇の重鎮で海程の主力同人としても著名な相原左義長氏その人。作者にとって思い出深く、大事な先達だったに違いない。「家蜘蛛」は、ハエ、ゴキブリ、ダニ等の害虫を駆除するばかりでなく、縁起物としても珍重されている。そんな家の守り神のような役割を、担っておられた左義長さん。「家蜘蛛」の「やうだし」と口語調で口ごもる捉え方が、ややためらい勝ちで、かえって親しみと懐かしさを誘う。

少女らに晩夏雑草研究部 鳥山由貴子
 晩夏の夏草は、勢いよく生い茂る。丈高く伸びた草原の中に入れば、目も眩むような草いきれに襲われよう。草いきれは雑草のとばりの中に立ちこめる。そんな草原へ少女たちが分け入って、雑草の研究調査をしている。雑草の臭いに少女たちの体臭がまじって、むせかえるようだ。「雑草研究部」とクールに表現して、かえってその事実の中の濃密な空間を暗示したともいえる。

空席にハンカチのあり広島忌 望月士郎
 空席にひろげたハンカチが置かれている。野外の球場か運動場のような場所で、これから始まるのはアマチュア野球か運動会なのだろう。ハンカチは、一人分の席をとるために置いてある。「広島忌」としたことで、おそらく被曝して亡くなった人の席をそこに設けたのではないか。もちろん個人的な思い入れには違いないが、ひそかに亡き人の席として、ハンカチが置かれていたと見たのだろう。あるいは偶然見かけた空席のハンカチに、亡き人を偲ぶ想いを重ねてみたのかもしれない。

わが死後やトマト畠のアンタレス 横山隆
 アンタレスは蠍座の首星で、ひときわ輝きも大きい。いつも世話しているトマト畠で、そのアンタレスを見上げている。そんなとき、ふと自分の死後の景を思う。それは死後の世界ではなく、自分不在のこの世の景なのだ。死後の世界のことなど誰にもわからない。だが、今見ているこの景が、死後の自分から見られている景だとしたら、自分と世界を一つに抱擁しているような、妙に新鮮な世界との一体感を覚えるのではないか。

◆海原秀句鑑賞 伊藤淳子

あめんぼの波紋に雨の波紋かな 内野修
 沼や小川など、水面をついつい動き回っているあめんぼ。水面には、あめんぼが作りだす小さな波紋が静かに生まれては消えてゆく。その水の景色は見飽きることがない。その静かな作者の視線のなかに俄に降ってきた雨は、あめんぼの波紋をかき消して、みるみる水面を覆い尽くして、広がっていったのである。一つの景色を描写して魅力いっぱいである。やがて、水面に響く雨の音も聞こえてくるようだ。時間の経過とともに変化してゆく波紋。あめんぼの小さな波紋は、雨の波紋とともに沼の景色となった。

渋谷の街をあなたは姉のように合歓 大西健司
 人を思い、人を偲ぶとき、その思い出のなかのどこを切り取るか。作者は渋谷の街を思ったのである。あの渋谷の雑踏を気遣いながら案内してくれた人を、姉のようだと思っているのだ。忘れ難いその面影を合歓の花影に見ているのであろう。

立ちどまるための石段小鳥来る 北村美都子
 人は立ちどまるとき、何を思うのであろう。歩いていてふと止まる。そのための石段だという。石段といえば、神社、仏閣のお社が思われるが、立ち止まるときは、余程何か考え込んだとき、あるいは不意に何かを思い出したのであろうか。または心に溜まったものを整理したくて立ち止まることもあるのかもしれない。作者は、作者自身の心の動きから、その立ち止まる石段を意識したのであろう。下五の「小鳥来る」が鳥声とともに、周りの木々の佇まい、風の気配、陽のかげりなどを思わせて、作者のこころの在り方を静かに伝えている。

鮭のぼる一番星までのぼる 佐々木宏
 鮭の遡上を実際に見るまでは、あれほどに雄大で、荒々しく、どこかもの悲しい景色とは思わずにいた。北海道の作者には、季節の風物詩として、身近な景色なのかもしれない。しかし「一番星までのぼる」と感受したのは、やはり日暮れが近づいて、あたりが黄昏色になり、西の空に一番星が輝きだしたときに見る鮭たちの生命の行動力なのであろう。浅瀬に見る魚影の大きさや、ひたすら川上を目指すエネルギーに圧倒されたことを思い出す。同じ作者の〈熊出没秋の小さなくしゃみかな〉にもさりげなく風土の中の日常を感じさせている。

まるで他郷夏河越えただけなのに 篠田悦子
 一読して兜太師の最後の九句の中の一句〈河より掛け声さすらいの終るその日〉が心をよぎった。しかし、同じ言葉といえば「河」だけなのに不思議だ。なぜだろうと自問してみるに、篠田句に漂う「まるで他郷」という突き放した言い方にみる寂寥感。一句に漂う心当たりがないほどさりげない孤独感。その越えた河は、両岸に大きな土手をかかえ、水面は流れを秘めて無表情にみえるのであろう。「越えただけなのに」という静かなモノローグが、こころに沁みて響いてくる。

金魚玉我はわたしの伴走者 竹田昭江
 「我」は「わたし」である。しかし敢えて私のなかで区別している我とわたし。「わたし」は現し身である自分自身であろう。そして、それを支えている、あるいは励ましているもう一人の自分が「我」なのであろうか。わたしは自由であり、我が儘であり、快楽的でもある。しかし伴走者である「我」は常に理性的であり、付き添って一緒に走りながら、「わたし」を補助している。ある時は励まし、ある時は慰め、あるいは叱咤激励し、喜んで抱きしめてもくれる。自分自身を深く愛し、冷静に見つめる作者が見える。上五に置かれた金魚玉が一句を風情ある様子にしている。

萩真白あなたはわたしを探せない ナカムラ薫
 下五に置かれた「探せない」が単に見つけ出せないというだけでなく、探し求めても得られないと思わせられるのは、真っ白に咲き乱れている萩の花の配合だからであろうか。現在、ハワイ在住の作者は、金子先生から学んだ俳句を彼の地に根付かせるべく、自宅で句会を持つなどして、積極的に活動している。「あなた」と「わたし」が持っている愛しさ、喜び、淋しさ、もしくは重たさまでも、綯い交ぜにして、彼の地の文化、歴史、習慣のなかで暮らしているのだ。この句のほかに〈てのひらへせせらぎひとつ夜の桃〉があり、この本格の一句のうつくしさを思う。

アキアカネの空ふと和紙の手触りです 宮崎斗士
 この句の注目は「和紙の手触り」であろう。作者の感覚は、第二句集『そんな青』の兜太師の帯文に顕著であるが、それから五年。その個性に歳月がもたらしたもの、それが和紙の手触りかと思う。作者は常に、自分の個性で言葉を発信し続けており、群れをなして飛び続ける赤とんぼと、上質の和紙に感じられる独特の風合いとの、二物配合は、秋そのものを感じさせて独自である。同じく〈新刊の雲が並んで梅雨の明け〉〈口調いまも柔らかい雨敗戦忌〉のこれらの句も、作者を感じさせてくれる。

◆金子兜太 私の一句

おおかみに螢が一つ付いていた 兜太

 狼は古くから大神おおがみとも呼ばれ、山や里の民から恐れられると同時に敬われた。土着の民の心を拠りどころとし、アニミズムに心を寄せる師が、狼を自己のアイデンティティー(自己同一性)とした句であるとわたしは思う。現実には絶
滅した狼は師の中で力強く生きている。真冬に猛々しく出現する狼は大神でもあり、夏の姫なる螢を「かんざし」にしているとは、なんと象徴的であろうか。句集『東国抄』(平成13年)より。吉村伊紅美

秋赤城真っ赤に酔ってはぐれ鳥 兜太

 今は亡き小堀葵氏をリーダーとした群馬樹の会が、先生をお招きし先生の大好きな侠客、大前田英五郎の墓を見てから赤城温泉での一泊勉強会。私に「お前さん英五郎のイメージにそっくりだね、この句お前さんだよ」と言われた時
の先生のご機嫌なお顔と、仲間の羨む顔が想い出されます。句集『遊牧集』(昭和56年)より。小林まさる

◆共鳴20句〈10月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

尾形ゆきお 選
○レタス剥ぐ遠く波音聴くような 安藤和子
木瓜は実に身辺徐々に液化して 伊藤淳子
花馬酔木円錐のよう猜疑心 伊藤雅彦
蝙蝠も無惨も食って髭面兜太 岡崎万寿
梅雨寒の壁にピエロの肖像画 小野裕三
○驟雨来る水面は感嘆符の林 片岡秀樹
白象の現れそうな夏の霧 川嶋安起夫
忘却という弾力や五月の空 佐孝石画
蝶の昼無人の家の多すぎて 菅原春み
鷗指揮せんと薄暑の灯台へ 鈴木修一
○消毒液に浸すてのひら半夏生 すずき穂波
暗緑へ鹿追い込んで父と居る 十河宣洋
はんざきやふいに後からくる怒り 寺町志津子
セーターの毛玉の目立つ別れの日 遠山恵子
除染土に死にどころなし青嵐 中村晋
茸山今年も独り消えてゆく 中山蒼楓
山椒魚森の深部に書庫のあり 日高玲
にたーっと蝿が飛びくる柏餅 松本豪
○平成果つ立夏のシャドウボクシング 柳生正名
新緑や先頭をゆくクリトリス 横山隆

十河宣洋 選
兄みな逝く浮木の日本菜種梅雨 有村王志
○レタス剥ぐ遠く波音聴くような 安藤和子
桜散る家族が歩くスピードで 伊藤歩
母の日父の日私が死ぬ日私の日 植田郁一
南瓜煮る生きてるかぎり白い雲 大野美代子
声明のなかの肉欲蝶の昼 尾形ゆきお
○驟雨来る水面は感嘆符の林 片岡秀樹
吊っておく芒の原のフライパン 菊川貞夫
夕立来て薄暮の醒めてゆく速度 近藤亜沙美
巧言令色性感帯はこの辺り 今野修三
夏とろり遠近両用メガネはいずい 佐々木宏
約束は屹立ゆれてチューリップ 鈴木栄司
静かとは青ざめている水を飲む 遠山郁好
薔薇の香に浮かぶ身体や洗いたて 中野佑海
合歓の花ゆうべ二人の息合いし ナカムラ薫
○かなしみの尖る形か鶴を折る 仁田脇一石
たくさん泣いてたくさん笑つて青葉潮 野﨑憲子
夜毎の闇記憶に溜めこむ白牡丹 増田暁子
木の葉見よはじめての木を見よ仔猫 マブソン青眼
馬耕繰るごとくに父の車椅子 武藤鉦二

遠山郁好 選
なめくじに終バス未だとも行ったとも 植田郁一
緑陰を駆ける漆黒どですかでん 大髙宏允
きつねのてぶくろ咲ききって山へ帰る 大谷菫
藤の房地に触れ色々ありがとう 小山やす子
惜春や郵便局まで歩くとす 佐藤美紀江
白神山の栗の花ざわついてばかり 白井重之
石棺を出でしより蝶のひかりかな 白石司子
○消毒液に浸すてのひら半夏生 すずき穂波
うぐいすの声ペン先に或る楽想 竹本仰
町を歩く今も八月六日の此処 立川弘子
相聞は穂先を撓めうわみずざくら 田中亜美
ががんぼよすがりつくな僕は野獣派 中塚紀代子
○かなしみの尖る形か鶴を折る 仁田脇一石
蛇いちごその笑顔すら言い訳だ 宮崎斗士
緑陰のギター時間は戻せない 室田洋子
花菜漬君うっすらと来て座る 茂里美絵
○平成果つ立夏のシャドウボクシング 柳生正名
麦秋の勾玉のごとぬれてゐる 吉田朝子
お土産やっぱりマカデミアナッツ短夜 六本木いつき
青嵐いまは箪笥に夫のたてがみ 若森京子

松井麻容子 選
キャンバスよりはみ出す一人遠夏野 安藤和子
八月や鉛筆で書く平和論 稲葉千尋
青嵐見えない象をなでている 上原祥子
老犬に雨来る匂い葱坊主 榎本愛子
今日もまたボーッと生きて梅雨に入る 大西恵美子
レモンをぎゅっサラダいよいよ白南風に 河原珠美
揚羽蝶風読むように手招きす 小山やす子
姉のぐち妙に明るい苺ジャム 佐々木宏
撫子や言いたいことがあるのです 清水恵子
はなびらの軽さも君の不在かな 芹沢愛子
短夜や再生ボタン何度も押す 田中雅秀
夏蝶の記憶からもう消えた僕 椿良松
友逝けり耳朶の淋しき夏帽子 董振華
はつなつの淋しさいちまいの湖 中村晋
弟は口八丁や水鉄砲 丹羽美智子
一身に魚影濃くあり晩夏光 日高玲
声帯は昼の梟要介護 北條貢司
蒸し鰈疲れ切ったるふくらはぎ 森由美子
六月の円を正しく描くあそび 横地かをる
寝台になめくじを飼うその後 らふ亜沙弥

◆三句鑑賞

花馬酔木円錐のよう猜疑心 伊藤雅彦
 猜疑心を円錐に喩えているところが上手いと思った。円錐はその先が尖っているので、外に向ければ他者を傷つけ、内に向けば自傷する凶器となる。まさに猜疑心そのものだ。花馬酔木もよく効いていると思う。この花は不思議な花で、後悔や嘆きなどのマイナス感情と結びついてよく書かれている。有毒なのでそのせいだと思う。

セーターの毛玉の目立つ別れの日 遠山恵子
 一読してドラマを感じさせる句だと思った。そしてこの別れはやはり男女の別れと読みたい。このセーターの毛玉は後悔とか、自分や相手の欠点とか、もろもろのわだかまりとかの暗諭として読めるが、ここは実景と受け取った方が面白い。やはり毛玉だらけのセーターなんか着ていたら女に逃げられるよな。俺も気をつけよう。

山椒魚森の深部に書庫のあり 日高玲
 どうしても「満開の森の陰部の鯉呼吸」を連想する。森の深部(陰部)と魚のイメージが重なるあたりよく似ていると思う。ところでこの書庫は実在の森の図書館か、それとも脳内にある記憶の暗諭か。ちなみに八木三日女作のそれは、以外にも実景の水族館であったそうだ。何か深い思索に誘われそうな句で、つい選んでしまった。
(鑑賞・尾形ゆきお)

吊っておく芒の原のフライパン 菊川貞夫
 不思議な風景。フライパンと芒の関係はない。このアングルで写真を撮る。モノクロの新鮮な写真になりそうである。写真のポイントはフライパンである。その向こうの芒原が風に戦いでいる風景がぼんやりとある。台所から見た芒原の風景である。毎日、窓から見ている。日常の風景のなかに、ふっと意識した風景。

巧言令色性感帯はこの辺り 今野修三
 作者の心の余裕を見る。性感帯をどう取るかは読み手の問題。そのまま取ってもいい。でも、人の心を擽る物言いなどと取ることも面白い。その場合、風刺の効いた一句。おもてなしなどと言う擽りのキャッチコピーの裏が見えてくる。私が中学一年生の時、帰りの会で先生が、子曰巧言令色鮮仁と黒板に書いたのが今でも鮮明である。

薔薇の香に浮かぶ身体や洗いたて 中野佑海
 ナルシスト?。でも、新鮮な明るさを感じる。健康な女性。西洋の物語や神話を感じる。バラの香りをさせて俎板の上に乗る鯉のような印象もある。洗いたての一語が新鮮な不思議な世界へ読者を引き寄せる。これを、バラの香りの中で産湯を使っているという読みもあるがそれではつまらない。
(鑑賞・十河宣洋)

藤の房地に触れ色々ありがとう 小山やす子
 藤の花には人との別れの思い出がある。「藤の房地に触れ」に続く「色々ありがとう」は、偶然がまるで必然のようにさらりと書かれていて見事だ。藤の句ではないが、例えば芭蕉の「さまざまの事思い出す桜かな」にはどこか作意が感じられるが、この句にはそれがなく、作者の素のこころが直に伝わって来て惹かれる。

消毒液に浸すてのひら半夏生 すずき穂波
 消毒液に手を浸すのは、例えば病院や介護施設等か。一つの読みは、白濁の消毒液に浸す手がまるで半夏生草のようだと驚くこと。もう一つは、介護の日々の消毒液の中の手を見て、もう半夏生かという感慨。初めに具体的な半夏生草のイメージを提示し、次に時候の半夏生に無理なく導くことに成功。作者の季語の使い方巧み。

青嵐いまは箪笥に夫のたてがみ 若森京子
 作者には、これ迄箪笥を詠んだ秀句がいくつもある。その愛着ある箪笥の中にいま夫のたてがみが在るという。長い歳月を共に過ごして来た人とその日々を鬣が象徴する。今を肯いつ昔日へのオマージュ。青嵐の中での作者の衒いのない感動は真っ直読者に伝わる。作者の心情、そして青嵐の言葉の美しさに今さらながら魅せられる。
(鑑賞・遠山郁好)

姉のぐち妙に明るい苺ジャム 佐々木宏
 中七の妙に明るいが効いている。表記の「ぐち」が軽い雰囲気を出している。下五の苺ジャムの色彩と質感がぐっと迫ってくる。姉のぐちは愚痴なのかのろけなのかちょっとした自慢なのか。明るくて甘い雰囲気のうまく出した苺ジャム。季語がぴったりときていると思う。

夏蝶の記憶からもう消えた僕 椿良松
 記憶からもうの「もう」にはっとさせられる。憶測で消えたと思っているのか、確実に消えているとわかっているのか。夏蝶に誰かを重ねているのだろうけど、消えるが曖昧で、認知症や加齢などか、それとも「なかったことに」いうイマドキの消え方なのだろうか。消えた僕がどーんときていて句に厚みを出している。夏蝶との距離感が絶妙に上手い。切ない余韻です。

弟は口八丁や水鉄砲 丹羽美智子
 取り合わせが妙に面白い。本来口八丁は話しの上手なことを意味しているが、一般的なニュアンスではやや胡散臭さが出てくる。褒めているのか、やや皮肉っぽく言っているのか。下五の水鉄砲の躍動感がくすっと笑える。水鉄砲の明るい雰囲気がいい。きっと愛すべき弟さんなんだろう。句全体から愛を感じる。
(鑑賞・松井麻容子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
水すまし光の時間座標に在り 阿久沢長道
哀しみがいとま与えず日の盛り 飯塚真弓
夏祭り心の隅の不発弾 泉陽太郎
コーンスープの温みもて灯火親しむ 上野有紀子
ワンテンポずれるアピール法師蝉 大池桜子
座布団に顔を埋めたまま秋思 大渕久幸
浜木綿やルーチン替える度胸なく 荻谷修
夏おわるわれに野心の足りなきこと かさいともこ
参観日紙の時計を持っている 葛城広光
大蜈蚣鎖帷子纏ひけり 金子康彦
晩夏光スパゲッティの少し焦げ 木村リュウジ
片陰の凱旋門に座る旅 日下若名
ゲートルに花の刺繍や敗戦忌 工藤篁子
空蝉や未生のことば抱くかに 黒済泰子
樹木葬に詳しい友とかき氷 小泉裕子
蜉蝣のゆっくり過る親の家 小林育子
手花火の夜を円くして亡ぶ 小松敦
秋天や淵のにごりに影映す 斉藤栄子
死児を負い直立不動原爆忌 榊田澄子
桃二つ内裏のごとく座らせて 佐々木妙子
露を置く郵便受けの一封書 ダークシー美紀
花氷ゆっくり細るあれはわたし たけなか華那
佳き人の呼ぶ声がする蜻蛉つり 立川真理
校舎いくつ希望と秋思の窓をもつ 立川瑠璃
手に空蝉なんか哀しいカステーラ 中尾よしこ
八十路なり一度はビキニ着たかった 仲村トヨ子
男だけ緑林に居て生臭し 野口佐稔
滝壺の底に獣骨あまたなり 増田天志
花氷あたしは明日どこにいる 松本千花
鐘樓や蟻それぞれに雨を嗅ぐ ●田貢(●は土に口)

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