『海原』No.15(2020/1/1発行)

◆No.15 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

眠れぬから寒夜の除染土と語る 有村王志
生き急ぐ音して秋のシュレッダー 安藤和子
星流る賞罰無しで生きて来し 伊藤雅彦
新老人に致死量の鰯雲 伊藤道郎
避難解除の地あかりのごとく柿たわわ 宇川啓子
颱風一過一個の空洞のよう ひと 大上恒子
捨田いま花野となりて遠見の父 加藤昭子
鬼灯や童女老いながら童女 金子斐子
精の君霧三井さんへの中帰りゆく 上脇すみ子
戦争を知らぬ年寄り夕端居 河西志帆
ドローンとぶ口車にのったふう 菊川貞夫
花鶏あとり来る少女も犬も夫の膝 北上正枝
伎芸天の耳のふくらみどつと秋 小西瞬夏
草々のほどけて秋の蛍かな 三枝みずほ
白日傘ゆくはぶりの列の向かう岸 すずき穂波
羊水に包まれている星月夜 月野ぽぽな
野性かなひかりの中で靴を脱ぐ 遠山郁好
野遊びや裸眼の夫にふと照れて 遠山恵子
巻き癖の海図の上へ青檸檬 鳥山由貴子
ミサイルのよく飛ぶ日だな夏蚊遣り 中内亮玄
雨季孕むししよ野越えの人形座 野田信章
茗荷の花悔悟のように掌の濡れて 日高玲
生はるまきに秋虹透かす三井さん 前田典子
いくつかの残像ならぶ曼珠沙華 松井麻容子
今日もコスモス八墓村を逃げ惑う 嶺岸さとし
八月とは黙って父が拾う石 宮崎斗士
妻というふっと不知火のともる 望月士郎
水滴は無くした指輪秋あざみ 諸寿子
蚊屋吊つて大和武蔵も海の底 柳生正名
黙禱とちがふ落葉ともちがふ 横山隆

伊藤淳子●抄出

春楡の洞あり初秋充満し 石川青狼
慈悲心鳥ひと声あとは風の寺 伊藤巌
母の味問うおとうとよ秋螢 伊藤幸
重心の低い遠景落し水 市原正直
乱読の軽い空間鳥渡る 市原光子
文集にひらがなあふる木の実降る 江良修
石に草に影を忘れて川蜻蛉 大沢輝一
触ってはいけないスイッチ烏瓜 奥山和子
教会の鐘を眠らせ露葎 小野裕三
蓮の実の飛んで放哉のこころ 川崎千鶴子
名を持たぬ山から時雨れ始めたり 河西志帆
狐に礼そしてあなたにお訣れを 河原珠美
固形スープゆっくり溶かす秋の虹 北上正枝
おもいあふれて青ほおずき海酸漿 黒岡洋子
秋赤城遊び心の流れ雲 小林まさる
咳止めの淡きみどりや獺祭忌 齊籐しじみ
草の花我守るため我でいる 佐藤詠子
晩秋だとおもう澎湃とおもう 白井重之
かりがねやものの遠さの胸騒ぎ 田口満代子
つくつくし次のページは捲らない 椿良松
銀杏散る蝶散る如く詫びるごとく 中内亮玄
産土を生き抜く風よ曼珠沙華 野﨑憲子
茗荷の花悔悟のように掌の濡れて 日高玲
霧の来て山わしづかむ我が胸も 藤野武
井戸って憂鬱の匂いのようだ秋 本田日出登
秋の蝶何か思い返している 本田ひとみ
今日の顔脱いで月光青く強し 松本勇二
盆帰省砂を放さぬ土踏まず 三浦静佳
蜜豆や優柔不断は生まれつき 室田洋子
夕暮のいつもの歯痛秋思とも 森鈴

◆海原秀句鑑賞 安西篤

星流る賞罰無しで生きて来し 伊藤雅彦
 定年後の第二の人生を穏やかに送っている人の境涯感が見える。そろそろ年貢の納め時かなと思って、自分の人生を振り返っているのだろう。学生時代から会社員生活を通して賞罰ともになく、人に迷惑をかけることも、かけられることもなかった。平々凡々ではあっても無事な人生を送れたのは、有難いことと言わなければなるまい。「星流る」がやや歌謡曲調だが、ふと人生をふりかえるきっかけを作ってくれたとはいえそうだ。

新老人に致死量の鰯雲 伊藤道郎
 「新老人」とは、老人になりたての人ぐらいに押えておいていいだろう。では「老人」とは何歳からを指すのだろうか。俳人大牧広氏は七十五歳説を唱えていた。老化には、個人差があるので一概には決めがたいが、一般的にはその辺が目安となろう。作者は客観的に老人になりたての人を想定している。老人は、いやおうなく死を予感する。鰯雲を致死量相当のものと見たのは、そんな死への予感に通ずるものだろう。

ドローンとぶ口車にのったふう 菊川貞夫
 個人用ばかりでなく産業用にもよく使われるようになった小型の無人飛行機ドローン。自動操縦ばかりかドローン自体が自立的に判断して動くことも可能になっているらしい。大空をわが物顔に飛び交うようになると、持ち主の意のままにならないこともありそうな気がする。便利で面白いという口車に乗って始めたのはいいが、使いこなせない現代人の悲喜劇。ドローンのとびざまにも、そんな無機質な感覚の仕掛けがあるような気がする。

草々のほどけて秋の蛍かな 三枝みずほ
 夏の間に草がびっしりと茂りあって、密生した叢となった庭の一隅。草々が固く結ぼれて、濃い茂みを作っている。やがて秋が来て、時間とともに空間にも微妙な翳りを感じるようになる。そのあるかなきかのゆらぎの中から秋の蛍がこぼれるように舞い出てきた。ゆらぎは、「草々のほどけ」るような動きによるのだろう。秋蛍はそこから生まれたとも見えたのだ。やわらかく繊細な感性の働きが見えてくる。

野遊びや裸眼の夫にふと照れて 遠山恵子
 ある春の日、久しぶりに夫とともに野遊びに出かけた。夫は眼鏡をかけているのだが、その日は好天でもあり、野の緑を目の保養にと眼鏡をはずしている。近眼の人が眼鏡をはずすと、物を確かめるように見つめないと見分けにくい。日頃見慣れている妻であっても、野遊びの中の妻は、にわかに生き生きと見えたのかもしれない。夫の妙にしげしげとした視線に、ふと照れいる妻。それも春の陽気に誘われた初々しい情感なのかもしれない。

巻き癖の海図の上へ青檸檬 鳥山由貴子
 海図は、精度を維持するために特別に作られた丈夫な紙を使用している。その紙を場所をとらずに保管するために、巻いて丸い筒に入れておく。だから海図は巻き癖がついていて、見るときは広げて四隅を押えないといけない。その文鎮代わりの重しに、青檸檬を一隅に置いたのだろう。青檸檬の香りが、どこか遠い海からの香りのように感じられる。梶井基次郎の短編『檸檬』のような不安感を忍ばせながら、海図の未知の世界が広がる。

雨季孕むししよ野越えの人形座 野田信章
 人形劇の一座が、人形や舞台道具を車に積んで、町から町へと移動してゆく。季節は梅雨も近い初夏。旅芸人にとっては、蒸し暑い日々だ。「雨季孕むしし」とは、人間にとっても人形にとっても、湿り気を帯びた肢体を抱えて、気だるげにのろのろと旅を続けている様子をいう。作者は俳句と旅の大好き人間で、どこへでも飄然と立ち現れては、寸鉄人を刺すような句と評を大声でわめいてはふっと姿を消す。あたかも漂泊の旅を続ける人形一座の興行主のようでもある。

生はるまきに秋虹透かす三井さん 前田典子
 三井さんが亡くなって、多くの追悼句が誌面に登場した。こんな人気者だったのかと改めて気づかされたものだ。生前の三井さんは、独特の個性をもった不思議な人という印象だったが、決して華やかにアッピールするタイプではなく、むしろひっそりといつも裏方に廻って影から支えてくれるような人だった。「生はるまきに秋虹透かす」とは、そんな三井さんの、柔らかで透明感のある感性を的確に捉えたものといえよう。

妻というふっと不知火のともる 望月士郎
 妻というものは、夫にとって時に不知火の火のように不思議な、謎めいた火の明滅を起こすもの。それも「ふっと」突然に起こる。ところが夫の方は、火を起こす経路が妻にとって掌を指すように明らかなものと暗に示唆している。となれば所詮夫は妻に対して勝ち目はない。とはいえそんな夫婦のありようこそが、夫婦円満の秘訣ともいえる。掲句はそんな予定調和の結論を導かずに、その過程のスリリングな場面を映像化してみせたのだ。

◆海原秀句鑑賞 伊藤淳子

春楡の洞あり初秋充満し 石川青狼
 春楡は大木が多く、ごつごつした幹に、いかにも年輪を感じさせる洞を抱えている。その情景だけを描写して季節の移ろいを感じさせる一句である。洞に初秋が満ちている、というこの季節感は、秋が短い北海道の澄んだ空気と、光が良く語られている。春楡の春は、季節とは関係ないが、それでも文字として一句の中に生かされていて、春から夏を過ぎて秋へとの自然の移ろいがスケール大きく充ちている。

重心の低い遠景落し水 市原正直
 実りの秋である。稲を刈る前に流す田の水音は、秋もいよいよ深まったことを感じさせる。どこまでも広がっていく稲田の風景を、実った稲穂の重たさをして、重心が低いと感受したのであろう。重心という身体のバランス感覚で、遠景を表した作者の、自然を感じる目、その確かさを思う。稲刈りがいよいよ近くなった頃、田から引いてゆく水音は、秋の季節の終わりを告げているのだ。農家の方々の収穫の時が訪れている。

乱読の軽い空間鳥渡る 市原光子
 およそ、学者、文筆家などを除いて、普通は好き好きに読書に親しんでいると思う。あれこれ本を読んでいるときに感じるふとした手応えや深読みの嬉しさなど、いろいろ乱読の楽しみ方があり、自分ひとりの喜びでもある。そのさまざまな合間の時間を軽い空間と感受したのであろう。読書にはぴったりの鳥渡る季節である。秋の澄んだ空気が感じられ、渡ってくる鳥影が見えるようだ。

石に草に影を忘れて川蜻蛉 大沢輝一
 川蜻蛉は美しい種類が多いというが、一般的にはおはぐろとんぼであろうか。河原などを飛び交っている風情は、夏もそろそろ盛りを過ぎたことを感じさせる。あのどことなく弱々しい飛び方で、日陰を好んで飛んでいる様子を、影を忘れてと表現したのであろう。石に草に少し飛んではちょっと止まっている様子は、ひそやかであるが、確かな生命力が感じられる。

狐に礼そしてあなたにお訣れを 河原珠美
 『狐に礼』とは昨年七月に亡くなった三井絹枝さんの句集名である。『狐に礼』の命名には私も相談に与っていたのでそれからの歳月を思うばかりである。訣れは不意に訪れて悲しさや、淋しさや言葉に言い表せないが、「あなたにお訣れを」という柔らかい言い回しが作者の個性をよく表している。あたたかい言葉を書ける人である。哀悼の滲む揚句の他にも「コンビニはかつて小鳥屋晩夏光」「台風一過セキレイの速歩き」など、いずれも日常の景色を書いて素敵だ。

固形スープゆっくり溶かす秋の虹 北上正枝
 この日常感は主婦ならではと思わされる一句である。少し前までは、普通にスープをとるのは実に手間のかかることであった。きれいに捌いた鶏の殻。そこへセロリ、パセリなど香味野菜を入れ、時間をかけてことこと煮出すのである。しかし今は固形スープの素を溶かしただけで、簡単にスープが出来上がる。このキューブの溶けゆく時間、そのゆっくりの様子、少しはかない時間を書きとめた。その配合に淡く消えてゆく秋の虹が実にいい。

かりがねやものの遠さの胸騒ぎ 田口満代子
 何か心配事など、こころ穏やかでない予感を、ものの遠さの中に感じる作者である。このものの遠さという少し抽象的な言い方は、読み手それぞれの距離感覚にかかっていて、視覚を感覚的に捉えているのであろう。その遠さはまた、時間をありありと感じさせるので、ある種の不安だったり、心配事だったりするのであろうか。雁の渡る季節である。冬が近づいて何か落ち着かない気持ちと、雁の声との配合が見事だ。

霧の来て山わしづかむ我が胸も 藤野武
 霧が湧いてきてみるみる山を覆い尽くし、あたり一面真っ白になる様子を「山わしづかむ」と表現した。この荒々しい一語でスケールの大きな景色を見事に作者のものにしている。それは、山国の人でなければ、実感できない、山への愛着に他ならない。そして「我が胸も」と表現したこの硬質の叙情に朝な夕な山影と共に暮らしている作者のシルエットが見えるようだ。我が胸は常に何かを考え、何かを思い何かを感じているのであろう。その胸にも霧が来ているのだ。

今日の顔脱いで月光青く強し 松本勇二
 今日の顔とはどんな顔であろう。一日働いた顔、充実している顔、少し疲れた顔。あるいは嬉しかったり、苦しかったり、さまざまな喜怒哀楽の中での一日であったのであろう。その一日が終わったのだ。その終わったことを脱ぐと表現した。このインパクトのあるフレーズで、一句に強い、深い手応えを感じさせている。月の光が煌々と照っている様子を青くと表現し、そして強くと実感したのである。この力強い表現は、また明日からの充実した生活を思わせている。

◆金子兜太 私の一句

死にし骨は海に捨つべし沢庵嚙む 兜太

 この句は私が海程新人賞を頂いた時と言いたいが、それからだいぶ年月が経ってから頂いた「色紙」に記された句である。その時から、忘れられない一句になっている。何故この句なのか、それは私に対する兜太先生の励ましであると思った。どちらかというと、中だるみでサボリ気味の私への「もっと死ぬ覚悟でやれ」という一句である。そして今もその思いは変わらない。句集『少年』(昭和30年)より。稲葉千尋

母の歯か椿の下の霜柱 兜太

 赤い椿の下の力強く土を持ち上げる霜柱。おそらくは山国の、ザクザクとした霜柱を「母の歯か」と気づくその感覚の鋭さ、新鮮さは私の思う金子先生そのものである。佳き母はこの自然の中のどこにでも居られる。母と子の関係の充分な満足感が伝わる。美しく大きな句と思う。私事だが二週間前母を亡くした。広げられたお骨の中から「これは歯ですね」と教えられ、初めて具体的に泣けた。句集『日常』(平成21年)より。木下ようこ

◆共鳴20句〈11月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

北上正枝 選
歳月やためらい傷のよう八月 安藤和子
髪撫でることも悔恨カーネーション 石川青狼
子猿ゐる青葉若葉の揺りかごに 内野修
茅の輪くぐるギリシャの空を想いけり 大髙宏允
疲弊の吾を放り上げたし天の川 大西恵美子
オムライス一口あげるから緑雨 奥山和子
向日葵に攻められ音楽室は空っぽ 小野裕三
水母水母黒くてらてらの空母 黒岡洋子
少しずつ尿瓶に銀河紛れ込む 齋藤一湖
○聞き役の母に首振る扇風機 齊藤しじみ
心くだけばこころ渇いてゆく朧 芹沢愛子
○雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
すいーと来てわたしに止まれ糸蜻蛉 野原瑤子
○鬼灯市二十才はたちであった妻とはぐれ 日高玲
父さんの輪郭の濃し夏木立 松井麻容子
虚構から鎌首もたげ烏蛇 松本勇二
花筵みんな昭和の四角い名 三浦静佳
草笛や一人旅とは不思議な箱 宮崎斗士
梅雨の月卑弥呼の不眠の褥かな 村本なずな
退屈しそうでしない青水無月 茂里美絵

峠谷清広 選
夏木立軍服脱げない兄のいる 有村王志
米寿にも初恋はあるすべりひゆ 安藤和子
汗みどろの発光体はバス・ルームへ 石橋いろり
廃駅は夕焼の焦げ痕ですよ 伊藤道郎
私も調味料ですサングラス 奥野ちあき
短夜のファスナーが噛む二人の距離 黍野恵
少女ひたすら夏空に試されて 小西瞬夏
○聞き役の母に首振る扇風機 齊藤しじみ
幸せも時には淋し風鈴の音 新城信子
さうめんを囲めばちやんと家族かな すずき穂波
包丁を噛みて離さぬ南瓜かな 瀬古多永
ふきのとうふたりぐらしのやさしい箱 芹沢愛子
江戸団扇写楽のあごが風を生む 新田幸子
梅雨寒や君いるだけで嬉しかった 藤野武
柿の花壊れたピアノのごと望郷 増田暁子
家族というシナリオのまま新茶汲む 宮崎斗士
見えていて見えない息子昼花火 三好つや子
余生にも宿題があり梅漬ける 武藤暁美
枇杷の木よ母がだんだん錆びてゆく 室田洋子
五月闇作業のように食事する 森武晴美

平田薫 選
シャツを干す両脇紋白蝶である 石川青狼
浮葉片寄るかの文体のやわらか 伊藤淳子
蓮開く小さな音は風のはじまり 井上俊一
水無月やぷかぷか膝に水溜めて 榎本祐子
分校に蝿叩きあり備品です 大沢輝一
わが海に網降す日よ花ざくろ 大髙宏允
昼寝たっぷり夜はたっぷり河馬の夢 柏原喜久恵
朴咲けり裏庭の象帰るらし 木下ようこ
バッタになる肘も拳も敷きこんで 久保智恵
一粒の雨より軽き夏の蝶 近藤亜沙美
被災地の短かき夏に石を積む 舘林史蝶
ポインセチアぎりぎり愛と呼べるもの 遠山恵子
まったらしのスニーカー水蜜見っけ 中井千鶴
見上げれば青の染み込む氣比松原 中内亮玄
敗戦忌父の解説負けたのみ 中神祐正
守宮来て薄桃色の口開く 中條啓子
田植機と蛙のオセロ寝て待とう 中野佑海
そやな千代紙折つて鶴飛ばそ 野﨑憲子
○鬼灯市二十才はたちであった妻とはぐれ 日高玲
筋肉寝て筋肉立ちて春めくよ 北條貢司

森田高司 選
全身のまるで黴です偽善とは 綾田節子
驟雨とは肉体昏き草いきれ 伊藤淳子
緑陰の深みに嵌る介護かな 上野昭子
炎天に本音さらして迷子です 宇川啓子
梅雨いとど亡き父いつも縁側より 江井芳朗
麦秋一枚吾が日常の隣り 金子斐子
風鈴の励ますように偶に鳴る 上脇すみ子
縄文の文字描きつつ飛ぶ蛍 川崎益太郎
弔いや春雨はけもののにおい 清水茉紀
擬宝珠咲く地主のように石のすそから 鈴木玲子
まだ星の匂いの残る草を引く 月野ぽぽな
木に雨の降る日は誰とかくれんぼ 遠山郁好
○雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
誰彼に見せたる蛍死して朝 中神祐正
海を見て朝をはじめる合歓の花 ナカムラ薫
ひなたぼこ深みにはまりニルヴァーナ 野口思づゑ
軽トラに泥つきゴボウのごと眠る 藤田敦子
荒梅雨や骨の名いくつ言へますか 前田典子
ナメクジの真面目に舐めて行きにけり 横山隆
蚊帳吊し人の匂いの青い遺書 若森京子

◆三句鑑賞

髪撫でることも悔恨カーネーション 石川青狼
 カーネーションという季語の斡旋で作者の中の亡き母や亡き妻の在りし日の思い出が感じられる。悔やんでも悔やみきれない後悔の念は誰しもの思いに通じるものがある。作者の哀しみが私自身の経験と重なり合って切ないくらい伝わって心に沁みた。

雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
 二句一章の句に音と味を盛り込んだ美味しそうな句。感覚が効いていて愉しい。桑の実ジャムは軽井沢などの大きなスーパーに期間限定で置いてあるようだ。雨垂れを言葉のリズムに喩えて濃紫のジャムをたっぷりと味わう。ジャムはもとよりわたし好みの句とともに何ともローカルな幸せなひとときか。

退屈 しそうでしない青水無月 茂里美絵
 俳句十七音の上五のあとひとマス明けるという技法はあちこちで見かけるし失敗例も多々あると思う。効果的に使われないと何とも陳腐なものになりかねない。この句の場合、退屈の後の空間が何とも絶妙で読み手に様々な想像力を駆り立ててくれる。季語の斡旋の巧みさかも知れない。作者の幸せな一日が始まりそうで。
(鑑賞・北上正枝)

私も調味料ですサングラス 奥野ちあき
 自分が調味料とは新鮮で面白い比喩表現だから採った。ただし、この調味料という比喩の解釈は難しい。サングラスだから季節は夏だ。夏は街の匂いが濃くなる季節。調味料とは匂いのことではないかと解釈した。作者の塩っぱい汗の匂いかもしれない、あるいは甘い香水の匂いかもしれない。いろいろと想像してしまう楽しい句。

幸せも時には淋し風鈴の音 新城信子
 平凡な句に見えるかもしれないが、「幸せも時には淋し」は人間心理の複雑さを示している表現だと思う。幸せなのは良いことだろう。しかし、幸せが続くと退屈で淋しくなってしまうのも本当だ。人間というのは面倒くさい生き物だ。普通なら爽やかな夏の風景として使われる風鈴だが、この句では淋しい金属音として聞こえる。

梅雨寒や君いるだけで嬉しかった 藤野武
 三井さんと句会でよく一緒になった。彼女とお喋りするのが楽しみだった。彼女とお喋りすると心が暖かくなったものだ。彼女はいわゆる「癒し系」の人だった。「君いるだけで嬉しかった」は私も同じ気持ちだ。しかし、彼女はもういない。もっともっとお喋りしたかった。残念だ。梅雨寒は作者の淋しい気持ちだろう。
(鑑賞・峠谷清広)

蓮開く小さな音は風のはじまり 井上俊一
 風の強い夜、風の終わる音を聞きたいと思ったがいつしか寝入ってしまい、翌朝残念に思ったことがある。作者は風の始まりを聴き留めている。蓮の花のひらく小さな音がそれだと。人の暮らしのまわりにあるものに、自然を宇宙を受け取る感性。それは暮らしの中にある事象一つひとつへの誠実な向き合い方でもあるのだろう。

朴咲けり裏庭の象帰るらし 木下ようこ
 私は雉鳩が鳴くと、ああ父が来ていると思う。作者もまた朴の花が咲くのを見て、裏庭に象がいると思う。それは掛替えのない人であろう。象を見るのではなく全身で感じ取っているのだ。そして「帰るらし」と、そのことを受け入れている。故人へ寄せる思いが深いところまで迫ってくる追悼句。人への眼差しでもあるだろう。

鬼灯市二十才はたちであった妻とはぐれ 日高玲
 人が物語を好むのは、果たせなかった思いをその中に読み取りたいからかもしれない。これは夫恋の物語。自分を置いて逝ってしまった夫への懐かしさを書いているようにも読める。鬼灯市の人混みの中ではぐれたのは今の私ではなくまだ二十才だった頃の私でしょ、しょうがない人ねえ、と。取り戻すことのできない時間がある。
(鑑賞・平田薫)

梅雨いとど亡き父いつも縁側より 江井芳朗
 改めて自分らしさは、日常の積み重ねであることを教えられる。長雨の中で、ふと目が行ってしまう縁側。父との暮しの声もきっと聞こえていることだろう。だからこそ「いつも」が素敵だ。家族は、時間を超えて記憶の中で成長していくものだと予感させられる句だ。

ひなたぼこ深みにはまりニルヴァーナ 野口思づゑ
 うらやましいなと引き込まれた。ひなたぼこに、少しずつ身を委ねていく様がはっきりと見えてくる。宇宙からの光を浴びてゆったりと浮遊し始める自分自身と対面することは至福の時でもあろう。「はまり」が素敵だ。そんな至福の相方が、ロックバンドのニルヴァーナとは驚愕であり、原点なのかと勝手に想像してしまう句だ。

軽トラに泥つきゴボウのごと眠る 藤田敦子
 育てることは、命と向き合うこと。わがままは通用しない。軽トラの泥からは、一日の仕事を終えた息遣いが凝縮され光っている。関わる者や道具、大地や天候それらがぶつかり補完し合う中で、やるべきことをやりとげた充実感と明日への願いが、込められた姿がゴボウであろう。やっぱりついた泥は、生きている。素敵な句だ。
(鑑賞・森田高司)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

赤蜻蛉たしかに滅びの光かな 有栖川蘭子
堪忍や熾烈に抛る曼珠沙華 飯塚真弓
おとこがまだ何かのために死ねた夏 泉陽太郎
黄の絵具使い果して夏逝けり 上田輝子
緑蔭に投げキッスのごと風立てり 上野有紀子
きれぎれの喧騒か声か渋谷秋色 大池桜子
病院にあかんべえする暮の秋 大山賢太
気楽は寂しい冬瓜煮転がす 荻谷修
腰の曲らぬ百歳を疎む秋 梶原敏子
苺汁鎖かたびらを動かす ぽ 葛城広光
大花野長い鉛筆持っていく 木村リュウジ
栗ごはん隣は一家離散とや 黒済泰子
銀杏散る何者でもないわたくしへ 小林育子
ペルソナの手を引かれゆく夜店かな 小松敦
日まわりの影蘇る爆心地 重松俊一
新月のめぐり来る時熱を出す ダークシー美紀
ぼさっと懐こい曼珠沙華の間隔 たけなか華那
名の川のいくつが壊れ藤村忌 立川真理
何すべく事なく病めり冬の月 立川瑠璃
毛穴からオキシトシンや菊人形 谷川かつゑ
穴惑う老いのあまたやキャッシュレス 野口佐稔
台風や土足禁止の避難場所 福田博之
廃仏毀釈乗り越えた塔秋の 空保子進
流れ星アンモナイトをなぞる指 増田天志
怪しげな父持つ娘穴まどい 松﨑あきら
他界とは秋夕焼のつづらおり 松本千花
四本のウオッカ買ひて冬構へ 武藤幹
照紅葉ときおり空を挑発す 森本由美子
天高しナイフ刺すごと投函す 山本まさゆき
落ち胡桃少年の翳を標とし 吉田和恵

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