『海原』No.13(2019/11/1発行)

◆No.13 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

全身のまるで黴です偽善とは 綾田節子
驟雨とは肉体昏き草いきれ 伊藤淳子
選句楽しと微笑む遺影仕出し弁当 植田郁一
土蔵の扉開けば父の蛍かな 大池美木
地のことば水のことばをほうたると 岡崎万寿
はい、この話はお終い桜桃忌 奥山富江
四万六千日やはりソースよりしょうゆ 河西志帆
蜩ややゝあって人の声する 北上正枝
さがさないで三井さんそして谷さん川蜻蛉草に素泊り 木下ようこ
梅雨寒や老老介護のルーティン 楠井収
少しずつ尿瓶に銀河流れ込む 齋藤一湖
五月雨という感情の斜面かな 佐孝石画
時の日やガラスの靴はもういらぬ 佐藤詠子
さうめんを囲めばちやんと家族かな すずき穂波
ふきのとうふたりぐらしのやさしい箱 芹沢愛子
青鷺はモディリアーニの哀愁 竹田昭江
逝きしかな天魚あまご美し星まつり 田口満代子
ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
口漱ぐ母の音して山滴る 野﨑憲子
すーっと月光生絹すずしなる友天へ翔ち 野原瑤子
夜間飛行のよう梅雨の天象儀 平田恒子
少年に馬のまなざし青水無月 船越みよ
柿の花壊れたピアノのごと望郷 増田暁子
杜の小径放熱している合歓の花 松井麻容子
清濁は併せて呑めず蜻蛉生る 松本勇二
稲の花父が遺影を抜け出す夜 三浦静佳
ラムネ玉のころっと本音反抗期 宮崎斗士
枇杷の木よ母がだんだん錆びてゆく 室田洋子
口寄せにめまとひが来て父が来て 柳生正名
ナメクジの真面目に舐めて行きにけり 横山隆

伊藤淳子●抄出

私の中のわたしを受容青れもん 安藤和子
蓮開く小さな音は風のはじまり 井上俊一
汽笛転悼 末岡睦がる小樽霧とも時雨とも 植田郁一
川鵜飛んでる寝ぐせの髪が笑っている 榎本祐子
心にも水たまりかな七変化 大髙洋子
避難勧告やら告知やらふっと青鮫 大西健司
夏柳影にせせらぎあるような 大野美代子
梅実落つ星は多感なる呪文 片岡秀樹
麦秋一枚吾が日常の隣り 金子斐子
落としものはるか梢の朴の花 川田由美子
さがさないで三井さんそして谷さん川蜻蛉草に素泊り 木下ようこ
五月雨という感情の斜面かな 佐孝石画
毛虫太る変身といい新生といい 白石司子
プールサイド蹠の吸ふゆるい水 すずき穂波
心くだけばこころ渇いてゆく朧 芹沢愛子
少しだけ余った気持ちさみだるる 高木水志
帆は沖へふと 三井絹枝さんを偲んで面影の白日傘 田口満代子
ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
犬稗の雨はきれいに指の傷 遠山郁好
雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
すでに夏雲地震に耐えたる村人よ 野田信章
雨はやや雨のにおいの立葵 平田薫
夏富士やみぞおちに磁場の広がり 藤原美恵子
片かげりふっとことばの蜆蝶 北條貢司
ゆっくりと薄暑の積まれゆく本堂 松井麻容子
新じゃがに薄皮ひとに羞恥心 嶺岸さとし
流されてなお流れない水馬 武藤鉦二
口寄せにめまとひが来て父が来て 柳生正名
一周忌オオムラサキのやわらかさ 横地かをる
また八月がくる耳打ちのごと波の如 若森京子

◆海原秀句鑑賞 安西篤

選句楽しと微笑む遺影仕出し弁当 植田郁一
 亡き兜太師の新聞俳句選をしている一場面と見てもよい。テレビでも報じられたシーンで、先生の選句風景を作者は懐かしげに思い返している。新聞社が用意してくれた松花堂弁当を開き、里芋の煮ころがしあたりから箸をつけて、ゆっくりと味わうように噛みしめる。時々目をつぶったり、大きく目を開けて覗き込んだりしながら、時間をかけて食べる。これも選句の楽しみの一つなのかもしれない。まさに「悠々」たる選句風景である。

地のことば水のことばをほうたると 岡崎万寿
 たった一人の蛍狩だろうか。時に地のことば、時には水のことばで、蛍とともに語り合ってみたいという。蛍と睦みあう景ではあるが、そのことを通して、水の霊や地の霊と語り合おうとしているかにも見えてくる。蛍の飛び交う夜景は、なにやらいのちを宿した精霊の交感の場とも思えるもの。そのやりとりを作者は、言葉以前のコトバの気配と捉えたのではないか。蛍の光は、コトバの軌跡をたどりつつ、地のことばや水のことばに触れ合っているのかも知れない。

はい、この話はお終い桜桃忌 奥山富江
 「はい、この話はお終い」とは、日頃家族や親しい友人との間で交わされる何気ない世間話の中の一台詞。その中で、ちょっとした意見や見方の食い違いが生じて、なにやら剣呑な空気を生み出しそうになっている。そんな気配を察知して、話題を切換えようとしているのだろう。桜桃忌は、平明達意な文章の達人でもあった太宰治の忌日。そんな日にぐずぐず言うのはやめましょう。どこか年配者の世間知のような台詞も詩になる一例。

さうめんを囲めばちやんと家族かな すずき穂波
 「さうめん」とは、いうまでもなく「素麺」のこと。あえて旧仮名表記をすることで、口語新仮名とは一味違った気品のようなものを感じさせる。「ちやんと家族」とは、いかにも明るくてまとまりのいい家族団欒の雰囲気が感じられる。どこかサザエさん一家を思わせるような食事風景でもある。旧仮名と話し言葉の取り合わせが、奇妙な面白さをかもし出す。

ふきのとうふたりぐらしのやさしい箱 芹沢愛子
 早春に咲くふきのとうは、いかにも二人暮らしのつましく優しげな雰囲気に通う。「ふたりぐらし」は必ずしも若い人とは限らないが、早春の季節感からすれば若夫婦とみるのが自然だろう。この句の面白さは、その「ふたりぐらし」を「やさしい箱」と喩えた点にある。「箱」ホームには、家のイメージがあって、こじんまりした温もりを感じさせる。小さな幸せが詰まっているとみてもよい。

ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
 一句全体の平仮名表記が、やわらかな情感を漂わせる。「ゆるくはぐれる」のは、その情感そのものなのであろう。「あじさい」の淡い色合いとしどけない花の姿が、「ゆるくはぐれ」るように溶け合っている。そんな「あじさいにまぎれる」のは、ある日ある時の、作者の情念の傾きによるものに違いない。

すーっと月光生絹すずしなる友天へ翔ち 野原瑤子               
 清涼な追悼句。亡き人は月光を辿って天上へと翔って逝かれた。「すーっと」「生絹すずし」と重ねる上中句節首の音韻の響き合いが、涼やかな韻律効果を用意しつつ、昇天する友の霊の光の軌道に乗って行く。かぐや姫の説話を想記するようなイメージともいえる。

少年に馬のまなざし青水無月 船越みよ
 「少年に馬のまなざし」とは、少年に向けられた馬のまなざしとも、少年自体に馬のような大きなまなざしがあるともとれる。やや後者のニュアンスに傾きつつ、おそらくはその双方向的まなざしの交差があるとみてもよい。水無月は陰暦六月の異称だが、「青水無月」は梅雨明けの山野の青々とした状態をいう。作者は秋田の人だから、その頃の風土感に息づく少年像を生なましく捉えている。

柿の花壊れたピアノのごと望郷 増田暁子
 柿の花は、梅雨の頃、屋敷に沿った道などに、黄ばんだ白い花を落とす。落とした花には古いもの新しいものが散り混じり、道に風情を添えている。柿若葉の間に小さな柿の実がつき始めている。ふと、これはたしか見たことのある景だ。そう、故郷の景に似ている。すでに離れて久しく、身寄りもいなくなったが、今も「壊れたピアノ」のように故郷への愛惜の思いは尽きない。遠きにありて思うもののかたちを、見事に言い当てている。

稲の花父が遺影を抜け出す夜 三浦静佳
 稲が穂孕み期になって、間もなく多くの花を開き始めると収穫への期待が一段と高まる。亡き父は生前、その頃になると、夜も時々稲の様子を見に出かけていたものだ。手塩にかけて育てた稲がどんな様子か、一番気にしていた父。今も皆が寝静まった夜に、遺影から抜け出して、稲を見に行っているに違いない。

◆海原秀句鑑賞 伊藤淳子

心にも水たまりかな七変化 大髙洋子
 心の有り様を書いて、自己の内面をさりげなく感じさせる魅力の一句である。水たまりに映るのは、空の雲だったり、人声だったり、暮らしの中のもろもろの景色なのであろう。その水たまりが、心にもあるという。感じるという。日常の暮らしの中での思いを、優しいモノローグで書き止めた。雨の中、ひときわ色を増してきた紫陽花と共に、梅雨の頃の季節感が、とても良く感じられる。

さがさないで川蜻蛉草に素泊り 木下ようこ
 「三井さんそして谷さん」の前書きのある一句である。身近な方々が亡くなって、追悼句を多く目にするこの頃である。どの句も思いが伝わってきて、故人を偲ぶばかりであるが、追悼句は故人と対で語りかけるのがいいと聞いていたので、分からないことはそのままに、この一句に惹かれた。不意に他界した谷さん。どこか覚悟というものを身にまとっていた三井さん。「さがさないで」という言葉に胸が詰まる思いである。

五月雨という感情の斜面かな 佐孝石画
 感情を五月雨と表現したところに、この感情がいかに感じやすく、多感であるかを思わせる。陰暦五月頃に降るその長雨は、多くある雨の中でも表情豊かに、古くから詩歌に詠われてきた。作者はその雨に感情を見たのである。しかも、それは平らではなく斜めであるという。屈折した思いが見てとれるが、この感情の持つ感覚はひそやかで親しい。独特な世界ながら、意識の下の思いが伝わってくる。

プールサイド蹠の吸ふゆるい水 すずき穂波
 夏のアンニュイとでもいうものを、どこかに感じさせながら、夏を見事に実感出来る一句である。プールサイドに立ったときに感じた足裏の感触。それは子供達の歓声や、なかなかのスピードで泳いでいる人影などと共に、プールからゆっくり流れ出た水である。ぴたぴたと足裏を濡らしているのだ。真っ青な空と、照りつける太陽。プールの喧騒の中で、思わぬ孤を感じさせてもいる。

ゆるくはぐれてあじさいにまぎれる 月野ぽぽな
 ゆるくはぐれるとは、どういう状態なのであろう。いつのまにか同行の人を見失ったということであろうか。この「ゆるく」という心理状態に、読み手はふっと立ち止まる。そして、あじさいの花群れにまぎれ込んだというのだ。不安感だけとも違う微妙な心の綾を、平仮名だけの二句一章のリズムで書き表した。

雨垂れをことばに桑の実はジャムに 鳥山由貴子
 雨垂れの途切れないリズミカルな音を目で追いながら、心に浮かぶ景や思いをことばに掬いとっていく。この雨垂れの言葉を受けて、桑の実をジャムにするという日常の景が、実にバランスがいい。桑の実の熟れる頃の空気感を表して、感覚の利いた一句となった。破調のように見えて、全体を十七音にまとめあげた、作者のセンスを思う。

片かげりふっとことばの蜆蝶 北條貢司
 真夏の午後である。コントラストの強い日陰を、ふっとよぎった蜆蝶を、とっさに「ことば」だ、と感じたのだ。小さな蜆蝶の青緑色の羽ばたきは、どこまでも自由である。ことばを使って何かを表現しようとするとき、一瞬に見たもの、芭蕉ではないが、ものの見えたる光りを捉えて言葉に生かしていくのであろう。実景を通して感受した思いがことばの力になるのだと思える。

ゆっくりと薄暑の積まれゆく本堂 松井麻容子
 初夏のある日。寺院にお詣りしたときの様子を丁寧に書きとめた。ご本尊を祀ってある本堂を流れている空気。じっとしていると、次第に感じてくる暑さを、積まれゆくと表現したのだ。少しずつ汗ばんでくる身体に、寺院を吹き抜ける風に乗った読経の声や、人々の静かな気配が、感じられ、薄暑を実によく感じさせている。

一周忌オオムラサキのやわらかさ 横地かをる
 この一周忌は、森下草城子さんであろう。作者は初学の時から草城子さんに師事されていて、その長い歳月の、師との思い出は尽きることが無いであろう。師を偲ぶとき、蝶の中でも大型で美しい、国蝶のオオムラサキなのだ。ふと、金子先生と草城子さんの面影がよぎる。同じ発表に「先生に未完のわたし日雷」があり、同感の思いを強くした。

また八月がくる耳打ちのごと波の如 若森京子
 年々歳々繰り返し訪れる歳月だが、八月は特別である。八月が示すのは、六日の広島であり、九日の長崎であり、八月十五日の終戦の日である。それは最早、大きな声で叫ぶのではなくて、戦後七十四年。一人ひとりの思いの中に、しっかりと刻まれ、互いの思いを確かめ合っているのであろう。ある年齢以上の人々が持っている深い感慨は消えることは無い。

◆金子兜太 私の一句

定住漂泊冬の陽熱き握り飯 兜太

 わが郷土はご存知の通り、東日本大震災・原発の原子炉水素爆発事故により、避難せざるを得ない生活に見舞われました。家族で七年もの漂泊生活を送り、冬の陽の熱さ、温かい握り飯の美味しさ、有難さを実感持って味わいました。兜太先生のずばりとした感情表現を身に付けようと努力しているところです。帰還して畑作やら盆踊りに興じ、「原郷」として、人生漂泊に親しんでおります。句集『日常』(平成21年)より。江井芳朗

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太

 傾斜地を好み群集して咲く曼珠沙華は、計画性があり、咲き終わると次の年の斜面の高さを定めて葉を伸ばす。緻密さを秘めて兜太師に相応しい。そこを天真爛漫に行動する子供達は人間力が強い。兜太師も精力的である。最近この句は、戦後東亰の小石川行舎から秩父に帰還時のものと知った。衣料不足をものともせぬ秩父の子の勇健さにも触れた、多面性の句と思われてきた。句集『少年』(昭和30年)より。成井惠子

◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

尾形ゆきお 選
朧夜の吽形物を言いたげに 石川和子
ガラス質の少女駈け出し夏兆す 市原光子
歯車が歯車を押し弥生かな 小野裕三
死者たちを蓄えし闇薪能 片岡秀樹
子等が来て家中鯉が泳ぎけり 川崎千鶴子
花の冷え青のとけだす硝子玉 小西瞬夏
鳥帰る沼も私も穴だらけ 佐々木宏
夢に原発雨はプラチナの鎖 清水茉紀
麦の秋「みんなの体操」一人でして 田中雅秀
○はつなつの乳房はやわらかい半島 月野ぽぽな
冴え返る開かない窓が多い街 峠谷清広
麦秋の彼方へ人は火事を抱き 中内亮玄
○どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
○卯の花腐し髪梳くように浪費して 日高玲
不眠症金魚は朝の夕陽である 北條貢司
読み聞かせのような雨音青ぶどう 宮崎斗士
緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
○花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
石の下蟻の体臭どっとくる 山内崇弘
頰杖もけむりとなりて五月病 若森京子

十河宣洋 選
千島桜制限時間いっぱいです 石川青狼
麦を踏む鳥の目付きの農婦です 大沢輝一
水戸納豆粘っこさそれ兜太の「戦記」 岡崎万寿
鈴懸の実よ連綿と記憶の鈴よ 金子斐子
恋文のやうにハンカチの花ひろふ 川崎千鶴子
蜥蜴くすくす妹ぢやあるまいし 木下ようこ
麦の秋わいせつにしてとおいまひる 小池弘子
刃物屋の奥に吊られし春の昼 小西瞬夏
真夜中の浅蜊あの世と交信す 佐藤君子
鯉に口髭男に尻毛花に酌む 瀧春樹
「巴里は燃えてるか」病的な顔夜と霧 瀧澤泰斗
○はつなつの乳房はやわらかい半島 月野ぽぽな
初蝶の浮力液体のよう綺麗 丹生千賀
○卯の花腐し髪梳くように浪費して 日高玲
老いて朧の手斧削りの光たち 藤野武
春の病棟中庭に眼がいっぱい 前田恵
刻一刻の充実感やさるすべり 宮川としを
○花馬酔木われなまぬるき舌を持ち 茂里美絵
ぐずる子に高目のカーブ土用波 梁瀬道子
○たちまち夏泣いてばかりじゃ青になる らふ亜沙弥

遠山郁好 選
令和元年五月一日当番医 江良修
蓬の精かな少年が立っている 大髙洋子
少しずつ結晶化する青嵐 奥山和子
母を看て時々椿落ちにけり 加藤昭子
楠若葉さびしい小鳥お断り 河原珠美
昼過ぎの夏蝶舌のしづもれり 小西瞬夏
春の日のおとがいとなる高架橋 佐孝石画
こでまりや伝西行の戻り橋 鈴木孝信
夏衣来てかく軽薄の僧となる 竪阿彌放心
短命な初蝶といる君といる 椿良松
夏蝶来て目じりのあたり闇匂う 董振華
○どくだみやわが身中の灰かぐら 長尾向季
遺影の君はすこし上向きすいかずら 野田信章
緑の夜湖心へ伸びる長い足 日高玲
夢に兜太夏雲をやわらかく抱きて 藤野武
瞼ぬらして青葉を泳ぐ園児たち 本田ひとみ
新樹ざわめき遠い昔がまだ苦い 間瀬ひろ子
貧血なるほどクロアゲハがひんやり 三世川浩司
磯巾着ふわりふわりと認知症 森由美子
遠蛙群青いろの村だった 横地かをる

松井麻容子 選
病む友にいま会いたいと鰹煮る 東祐子
鬱の日はそっと蕗味噌癒しかな 泉尚子
「考える人」の筋肉風光る 市原正直
シーッ、蓮の眠りを醒まさないで 伊藤幸
蝸牛迷わぬ人は不仕合せ 伊藤雅彦
退屈しのぎに川は流れる河口から 宇田蓋男
とことこと牛に朧がついてくる 大沢輝一
花の昼鬼女の柩を誰担ぐ 大西健司
饒舌な通夜の客たち梅白し 奥山富江
春昼や人魚のように回想す 近藤亜沙美
無造作に空になりきり花水木 佐孝石画
万緑や私の中の癇癪玉 重松敬子
いつまでもはぐれ風船見えている 竹本仰
スコールの森のどこかに非常口 ナカムラ薫
この微熱額紫陽花にうつそうか 根本菜穂子
おーいおーい欅若葉よおーいおーい 平田薫
緑陰に来し方うつくしい老婆 本田ひとみ
こでまりの連絡網を回します 室田洋子
行く春や僕の行方とちがふやうだ 横山隆
○たちまち夏泣いてばかりじゃ青になる らふ亜沙弥

◆三句鑑賞

歯車が歯車を押し弥生かな 小野裕三
 二月から三月へ移る季節感を歯車で表現したところにまず心ひかれた。作者はイギリス在住らしいので、ビッグ・ベンの歯車を想像して書かれたのかもしれない。だとするとロンドンの都会的な三月が思い浮かぶが、一方で芥川龍之介の「歯車」も連想したりして、不安なものも感じた。「歯車」という語感が誘う面白い句だ。

冴え返る開かない窓が多い街 峠谷清広
 詩は批判であるという立場からすると、採らざるをえない句。パターン化された、プラモデルめく家ばかり建ち並ぶ街が増える一方で、開かない窓(空家)ばかりが増えて廃虚化しつつある街も多いのではないか。「サイレントマジョリティ」という言葉もなぜかこの句から連想した。孤絶という意味で通底していると思う。

緑さす鏡の中の長い廊下 室田洋子
 個人的には京都の三十三間堂にあるような社寺の長い廊下をどうしても連想してしまう。たぶん作者のご自宅にある廊下なのであろうが、それが家の中ではなく鏡の中にあるのだ。すると実在の廊下が象徴性を帯びて、それが家族の歴史のみならず、作者の内面まで意味しているものに思われ、非常に心ひかれた。
(鑑賞・尾形ゆきお)

千島桜制限時間いっぱいです 石川青狼
 北海道に住む者なら意味は明快。小中学校でも北方領土は教える時代である。日本の外交の下手さ加減が招いた戦後処理の一つである。北方領土からの引揚者に残された時間は制限時間一杯どころか、越えているのである。日本で桜が一番遅く開花する地方の叫びである。千島桜の置き方が上手い。

麦の秋わいせつにしてとおいまひる 小池弘子
 誰かさんと誰かさんが麦畑、という直接的な猥褻ではないのである。麦秋の芳しい雰囲気、香りというのではなく、肌で感じる芳しさである。麦畑を渡ってくる風や太陽の光、すべてが芳しい。あの芳しさは、何かありそうな期待感を持たせる。そう、爽やかな猥褻観である。

刻一刻の充実感やさるすべり 宮川としを
 人生を楽しむというより、達観した。そんな想いのする作品。百日紅の花言葉は「雄弁」「愛嬌」「不用意」「あなたを信じる」「潔白」など。ここまで書くと意味は自明。自画像である。今までやって来たことの反省や思い出。良かったことばかりではないが、充実感が湧いてくる。酒を飲みながらの回想でもある。
(鑑賞・十河宣洋)

貧血なるほどクロアゲハがひんやり 三世川浩司
 自らの体に起こった現象を感覚を信じ、果敢に言葉に置き換えた。なるほどから結びのひんやりに続く一行は、体験した人でなければ書けない微妙で鋭敏、凄みさえ感じられる。定型からずれてはいるが、貧血が徐々に進み、クロアゲハが現れ、次第にひんやりと感じられるまでの一連の変化は、こう書かざるをえなかった。
   
春の日のおとがいとなる高架橋 佐孝石画
 頤と高架橋。うん?瞬時に頬杖をしている人を想像し楽しくなった。そうなると、橋脚か腕か。腕が何本もあって愉快。もしかしたら、頬杖をしているのは人ではないかも知れない。春の日特有のなんとない気怠さ、顎でなく頤がその気分を誘う。そして無機質な高架橋がきて、やっぱり春愁かも知れないと思いつつ、頬杖してる。

夢に兜太夏雲をやわらかく抱きて 藤野武
 金子先生が他界されて時々夢を見る。夢で先生は金子先生であり、兜太先生やましてや兜太ではない。ご子息が「父は反骨の人であった」と言われたが、加えて弱音や困難な状況の人への視線は愛溢れるヒューマニストであった。今頃は夏雲を抱いて笑っているだろうか。そろそろ兜太先生とお呼び出来るような気がする。
(鑑賞・遠山郁好)

スコールの森のどこかに非常口 ナカムラ薫
 激しいスコールの中、必死にどこかの非常口を探す。走ったり、時に歩いたり。スコールの森は現代社会を表現しているように思う。ここではないどこかに行きたい、癒されたい、激しい社会の中から解放されたいという象徴が非常口に繋がっていく。非常口は日常生活の中でよく目にするものだが、妙に甘美な想像力を搔き立てる。森と非常口の取り合わせが面白い。好きな世界。

「考える人」の筋肉風光る 市原正直
 ロダンの「考える人」を見て筋肉に着目したのが面白い。いつも「考える人」が何を考えているか、ということを考えていた。あの筋肉質な身体の曲線美に初めて気付かされた。季語の風光るが句に拡がりを持たせていてそのうち立ち上がるのではという躍動感も感じる。

病む友にいま会いたいと鰹煮る 東祐子
 日常生活の中のふとした瞬間に病んでいる友人を思い出して会いたいという気持ちを募らせる。中七のいま会いたいというストレートな表現がすごく心に沁みた。鰹煮たり、何かしら動いている方が落ち着くのだと思う。日常の中での友人への想い、作者の人柄が出ているやさしい世界だと思う。
(鑑賞・松井麻容子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

朝ぐもりわからないので会いに行く 有栖川蘭子
幕下の同郷力士浮いてこい 石口光子
快晴の空埋め尽くす蛾の紋様 泉陽太郎
短夜の土器の欠片のくぼみかな 大渕久幸
目の語る事を読み取る青葉騒 荻谷修
コーヒーの花白き夏故郷捨つ かさいともこ
紙の裏北海道が刷ってある 葛城広光
独り言は下書きのよう青胡桃 木村リュウジ
湧き水に今際の鰻浸される 日下若名
生涯が墓碑に一行蝉しぐれ 工藤篁子
雨響く今年は咲かぬ紫陽花に 小泉裕子
カタカナで綴る感情原爆忌 小林育子
水飲んで人間の血を薄めるよ 小松敦
をさなごの文字なき世界夏の星 三枝みずほ
遺骨今露の丹波に帰りけり 坂本勝子
皿で反る反骨の水貝 たけなか華那
尊徳像残し閉校きりぎりす 土谷敏雄
何処に夫よ泳ぎたいこの雲海 中谷冨美子
ゴミ袋二匹の蟻を出してやる 野口佐稔
暑気払ひスマホ苦手な同世代 半沢一枝
人よりも組織大事や菊の花 平井利恵
場末なり筍悪知恵のよう曲がる 福田博之
更衣去年は妻と笑ってた 藤好良
遠くより読経響くや蝉の穴 増田天志
わめく子に柔和なる女医カーネーション 松尾信太郎
聖書を燃やせ原爆を使った日 松﨑あきら
身の内にふりむく誰か草いきれ 望月士郎
海坂藩藤沢周平夏朝餉 ●田貢(●は土に口)
鬼灯で鍛える根気羽後日暮れ 吉田もろび
大蚯蚓の遺骸をよけて僧の列 渡邉照香

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