『海原』No.12(2019/10/1発行)

◆No.12 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

なめくじり志ん生の似顔絵ばかりかな 綾田節子
野のおおかたの時間たまって蛍袋 伊藤淳子
花馬酔木円錐のよう猜疑心 伊藤雅彦
母の日父の日私が死ぬ日私の日 植田郁一
緑陰を駆ける漆黒どですかでん 大髙宏允
梅雨寒の壁にピエロの肖像画 小野裕三
驟雨来る水面は感嘆符の林 片岡秀樹
ジャーマンアイリス嫌ひなひとから朝速達 木下ようこ
むかし花街いまひっそりと枇杷熟れる 木村和彦
自分史に傍線数多鳥雲に 楠井収
俺をうならせろと父青葉木菟 黒岡洋子
また音叉鳴るやう六月の歯痛 小西瞬夏
合歓咲いて身ぬちの水の遠くあり 佐孝石画
山背風の村眉間の暗き農夫いて 笹岡素子
青鬼灯わたしの中に棲む返事 佐藤詠子
惜春や郵便局まで歩くとす 佐藤美紀江
形状記憶シャツ葉桜に雨 竹田昭江
うぐいすの声ペン先に或る楽想 竹本仰
町を歩く今も八月六日の此処 立川弘子
相聞は穂先を撓めうわみずざくら 田中亜美
夏霧にわたしをやわらかく刻印 月野ぽぽな
静かとは青ざめている水を飲む 遠山郁好
セーターの毛玉の目立つ別れの日東 遠山恵子
山椒魚森の深部に書庫のあり 日高玲
菜種梅雨端布はぎれとりどり縫い合わす 平田恒子
波打ちぎわの少女はにかみ青あじさい 本田ひとみ
母の日は母のあくびを見て終る 松本豪
いもうとのくのいちごっこ花りんご 武藤鉦二
緑陰のギター時間は戻せない 室田洋子
お土産やっぱりマカデミアナッツ短夜 六本木いつき

佃悦夫●抄出

薫風へ阿形の あばら音立てり 綾田節子
レタス剥ぐ遠く波音聴くような 安藤和子
何度も言ったよ俺牛蛙だって 伊藤幸
青葉木菟鳴く鳩尾は深い沼 伊藤道郎
なめくじに終バス未だとも行ったとも 植田郁一
イザナミイザナギ栗の花真っ盛り 榎本祐子
春光を一人で歩く一人で食ぶ 大野美代子
ナナフシや何と闘っているのだろう 奥山和子
白象の現れそうな夏の霧 川嶋安起夫
大き緑陰少年に深睫毛 北村美都子
次の世はアテルイ目指せまむし草 坂本祥子
春月や紐を垂らした裾通る 佐々木昇一
白神山の栗の花ざわついてばかり 白井重之
石棺を出でしより蝶のひかりかな 白石司子
夏の河歴史の藻屑遣欧使節 滝澤泰斗
寺と神社行ったり来たり揚羽蝶 峠谷清広
小鳥の名草の名呼んで噴水は 遠山郁好
五月晴れ左右の足と左右の手 中内亮玄
ががんぼよすがりつくな僕は野獣派 中塚紀代子
茸山今年も独り消えてゆく 中山蒼楓
植田整いちらかさぬよう鷺の足 丹生千賀
ソフトクリーム鴉は鴉で嗤ってる 前田恵
にたーっと蝿が飛びくる柏餅 松本豪
菜の花のなか廃校のうすみどり 武藤暁美
くちびるは少女に還りさくらんぼ 武藤鉦二
李あげよう空が映りし君の瞳よ 村松喜代
梅雨入りや中也全集持ち重り 堀真知子
少年が少年を待つ青野原 横地かをる
新緑や先頭をゆくクリトリス 横山隆
麦秋の勾玉のごとぬれてゐる 吉田朝

◆海原秀句鑑賞 安西篤

緑陰を駆ける漆黒どですかでん 大髙宏允
 「どですかでん」は、黒澤明監督による一九七〇年の映画題名。中で、六ちゃんというやや知恵遅れの少年が、毎日空き地で見えない電車を走らせ、その電車の音を「どですかでん」という擬音で表現する。この句はその話を下敷きにして、緑陰を駆け抜ける漆黒の見えない電車を走らせるというイメージを句にしたもの。一句の中で題名を名指しすることで、映画の繰り広げる世界を再構築したともいえる。「どですかでん」なる擬音の効果がわからないと伝わりにくいが、有名映画だけに、映画通ならすぐピンと来る映像ではないか。「どですかでん」一発が一句のいのち。

自分史に傍線数多鳥雲に 楠井収
 高齢化社会になると、定年後、自分史を書いてみようと計画する人は意外に多いようだ。カルチャー教室などで指導するカリキュラムもある。「鳥雲に」という季語は、そんな境涯感を暗示する。そのなかで、特に印象深い部分に傍線を引き、自分の思い出を反芻している。それは作者の過去と現在を措定しつつ、残された余生へのひそかな期待にもつなげようとしている行為ではなかろうか。あるいは人にはいえない自分だけの、ささやかな志かもしれない。そこに、作者の晩年にかけての生きざまを賭けてみようとしているのかもしれない。

青鬼灯わたしの中に棲む返事 佐藤詠子
 鬼灯は、七~八月頃赤く熟れ、子供たちが実の中味を揉み出し、外皮だけを口に含んで「ギュッ」と鳴らして遊ぶ。「青鬼灯」は熟れる前の実を包んだもの。まだ成熟しきれない年頃ながら、思う人からのプロポーズの言葉を、切なげに期待している映像が重なる。そして、そんな「わたしの中に棲む返事」は、とっくに決まっている。もちろん「イエス」なのだ。その言葉を久しく待っているという。幼い頃からの憧れの人への思いにつながる一句。

町を歩く今も八月六日の此処 立川弘子
 作者は広島の人だから、八月六日といえば当然広島原爆の日である。町を歩いていて、「八月六日の此処」はどことも指定されていないが、爆心地に近い有名な原爆ドームの近くとか、平和記念公園の慰霊碑あたりというより、十余万人の死者を出した町中のとある場所なのかもしれない。筆者は昭和二十五、六年頃広島に在住していたのだが、当時の町中では、少し土を掘ればいたるところから遺骨が出る状態だった。いわば町全体が遺跡ともいえた。「町を歩く今も」とは、決して風化されることのない被爆の体験意識で、町中を歩いているのだろう。

相聞は穂先を撓めうわみずざくら 田中亜美
 「相聞」には、お互いの安否を問うて相手を恋い慕う思いの色合いがある。「うわみずざくら」(上溝桜)は、五月頃、ブラシのような花をつける。その花の穂先を撓めたような形が、相聞の映像だと作者は断定する。そこに作者の感性が捉えた相聞の高ぶりが見えたのだろう。「うわみずざくら」の語感にも、その高ぶりの美意識が照り映えているようにも思われる。

夏霧にわたしをやわらかく刻印 月野ぽぽな
 霧は秋の季語だが、夏にも霧は発生する。ことに高原で出会う朝の霧は、暑さを忘れさせるほどの涼味を呼ぶ。急に現れて早々と消えていくのも一つの特色だ。そんな夏霧の中へ、ふっと身を差し入れる。いやいつの間にか霧に取り巻かれていたのかもしれない。夏霧の中にひっそりと立つ「わたし」は、霧の中で「やわらかく刻印」されているかのよう。それは「わたし」の存在証明アリバイでもあるかのようだ。

静かとは青ざめている水を飲む 遠山郁好
 柔軟な知的感覚で、対象を自分の感性に鞣してゆくのが作者の持ち味。「静けさとは」でなく、「静かとは」とあえて主観的な口語調で書き出すことにより、「青ざめている水を飲む」行為を、自分の内面にシーンと落とし込むような体感として捉え返しているのだろう。

母の日は母のあくびを見て終る 松本豪
 母の日に兄弟相集って、何か母のためにとささやかなパーティを催したのだろう。しかし年老いた母は、もはや贈り物やご馳走にもあまり反応することなく、大きなあくびを一つしただけだった。兄弟たちは二の句もつげ得ず、ただ顔を見合わせているばかり。結局、母の日は、母のあくびを見ただけに終わった。

緑陰のギター時間は戻せない 室田洋子
 緑陰で、久しぶりにギターを爪弾いている。それは若き日にとった杵柄ともいえるものだが、どうにも以前のような気分に乗ってゆけない。曲はどうにか弾けても若き日の気分は戻らないのだ。失われた時間は、もう戻って来そうもない。「戻せない時間」とは、戻そうとしても戻らない時間というままならぬ時間なのだ。

◆海原秀句鑑賞 佃悦夫

青葉木菟鳴く鳩尾は深い沼 伊藤道郎
 四季のうちこれ以上の良い季節はない。森羅万象がこの時とばかり生を謳歌しているのだが、それこそ身体髪膚が響めいているといっていい。人体を神が造ったか否かはとにかくとして完全無欠にはしなかったらしい。それは神と同位の存在とはしなかった。弱点をしっかり造っている。アキレス腱しかり鳩尾しかりである。男女を問わず、これらの弱点を抱えながら生きていくばかりだ。鳩尾を“深い沼”と受け止めた感覚は鋭い。この弱点に対して文字通りなずむほかはないのかも知れぬ。

ナナフシや何と闘っているのだろう 奥山和子
 この不可思議な生き物は、何時このフォルムとして進化したのだろうか。擬態を常としながら生き永らえてきたにちがいないが、絶滅しない限りフォルムは変化していくのだろう。ナナフシも生存競争は免れ難く、強食弱肉の圏内に組み込まれているのだから、己より下位の生き物を食としながら常に闘いを強いられている。とは言うものの作者はナナフシが心を持っているかも知れぬと、ふと思ったのではなかろうか。

白象の現れそうな夏の霧 川嶋安起夫
 春、秋、冬のいずれにも霧を見るが、肌にダイレクトに、大袈裟に言えば襲うのは夏の霧である。しかし夏の霧という気象を都市部で見ることは、それほど多くはなかろう。よって本作は都市部ではなく自然条件の豊かな地での幻想と言っていい。“現れそうな”と言うのだから幻視もしていないが、白象と言えば普賢菩薩がその上に坐している姿を視ることになるかも知れない。作者にはやがて白象が確かな輪郭をもって眼前するのではないのだろうか。

次の世はアテルイ目指せまむし草 坂本祥子
 漢方薬として有用なものの名前の連想から嫌われる“まむし草”。輪廻転生を信じるとすれば“まむし草”は前世は一体何だったのだろうか。それは別としても次の世はアテルイを目指せと言う。日本列島の先住民は北へ北へと和人に追い詰められるばかりだったが、先住民の蜂起のリーダー・アテルイは敗北。以後、歴史の舞台は本州中心に軸を移していく。“まむし草よ次の世は必ずや悲劇”という冠詞なき英雄として生まれ変わって欲しいと心からの作者の叫びのように聴こえてきた。

石棺を出でしより蝶のひかりかな 白石司子
 難解な語句は一つもないが、難渋してしまいそうである。読んでの通りと言われれば読者の私の理解力の貧困を言っているようなものだが、これは事実詠ではないとすれば極めて簡単だ。野に打ち捨てられた平民の屍は別として高貴な人の屍は副葬品とともに丁重に儀式された。その石棺から何かを訴えたいのか、単純に春爛漫の現世に浮かれ出たのかは知らず、春の光を照り返しながら、別名プシケは魂の塊となって古代から現代への旅立ちとなったのか。作者のロマンの何と明るいことか。

夏の河歴史の藻屑遣欧使節 滝澤泰斗
 夏の河といえば山口誓子の“夏の河赤き鉄鎖のはし浸る”が知られているが即物に徹している。作者はむしろ『方丈記』が念頭にあったのかも知れない。夏の河底には生を何代も繰り返す藻が揺らいでいる。天正年間にローマに派遣された少年使節団も、河の藻屑のように歴史に呑み込まれてしまった。帰国して棄教したもの、節を曲げなかったものありという。先進文化に直に接した少年たちは、顧みて日本という国の長所短所を痛感したことだろう。

新緑や先頭をゆくクリトリス 横山隆
 なんと大胆な、なんとおおらかな女性観よ。万物すべて噎せ返るような、それでいて官能をいっせいに呼び覚ます新緑の季節よである。“華麗な墓原女陰あらわに村眠り”(兜太)と女性の肉体の最も敏感な部分を直截に言っている先蹤があるが、横山句とは作句時の時代状況も年齢も違う。その違いは横山は己れの肉体の衰えを痛感しているのかも知れない。それにしてもウーマンリブではないが女性の自己主張を“先頭をゆく”と強調していて止まない。下五“クリトリス”はあるいは最初にして最後の語彙となるかも知れない。これは私の偏見にして管見のせいかも知れないが。
麦秋の勾玉のごとぬれてゐる 吉田朝子
 麦畑が最も輝かしいのは初夏である。青空と黄金色の穂波の麦畑は望郷の念を刺戟すること大である。“勾玉のごとぬれてゐる”と比喩した対象物は何物なのか作者以外には分からないが、恣意な想像を許されるなら若い女性であろうか。胎内にあって胎児は羊水に遊弋して、まさにぬれているのだが、その胎児のように、現世にあって新鮮に輝いている。これほどの生きていることの讃歌はない。生の営みが神である自然の力に左右されつつ人智を超えて掲句のような世界が顕ちあらわれる。この“勾玉”は永却に濡れ続く。

◆金子兜太 私の一句

どれも口美し晩夏のジャズ一団 兜太

 平和と自由の象徴のジャズに託し、奏者との一体化を「どれも口美し」と瑞々しく捉えた。その解放された高揚感は晩夏のひかりの中へ。日比谷公園、おそらく野外音楽堂に満ちていた。それは希求していた自由を手にした歓びでもある。戦後の風景を淡彩に叙した。この斬新さに魅了される。美しいリリカルな句、と思う。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。田口満代子

華麗な墓原女陰あらわに村眠り 兜太

 寒雷から海程への歩みを確定させてくれたのが師の『定型の詩法』である。その中で「造型俳句」というものが態度の確保された手法であることを学んだのがこの句の成立について述懐された一文である。このことを体感的にも確かめたくて句の生まれた野母半島は三回訪れた。この自然風土にあっての精神風土の形成かとその後の私の歩みにとっては信念ともなった。『金子兜太句集』(昭和36年)より。野田信章

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
 〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


尾形ゆきお 選
産土の木の実木の家空家かな 有村王志
夜桜や魔界の口を見たような 石橋いろり
足裏のざわざわ暗し花は葉に 伊藤淳子
鬱という一つの漂泊花薊 伊藤雅彦
花冷えのからだは薄き器なる 伊藤道郎
写真から天地悠々の風あはは 大髙宏允
○帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
桜満開突然闇に引き込まれ 髙橋一枝
○鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
悔恨や雪に埋もれし花馬酔木 田中亜美
空っぽの本棚春満月のごと灯り 鳥山由貴子
陽炎のセクシー猫ゆくもセクシー 西美惠子
○あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
青麦のきらきらきらと物忘れ 藤野武
○鳥類の天にエレベーターの柩 北條貢司
生温い目をして鴨の残りたる 堀真知子
塔炎上祈りの色としてフリージア 村上友子
○蛇口からポトリと落ちる朧月 山内崇弘
浮けよ流れよ春オホーツクの溺死体 横山隆

十河宣洋 選
一匙ほどの春愁いきなりドア軋む 安藤和子
抱卵の明るさノート横書きに 市原光子
癌告知差し当って野を焼こう 伊藤幸
○リュウグウは遥か天蚕うすみどり 大西健司
花冷えの舫解くよう接吻す 片岡秀樹
間引菜を茹でる圧倒的自由 狩野康子
妻逝けば夫はすぐ散る桜かな 川崎益太郎
桜の下でくみたてている戦闘機 河西志帆
踏青やわたくしも色無きたましい 佐孝石画
○まなざしはやさしいことば初桜 月野ぽぽな
満開や首までひたひたと桜 中内亮玄
○あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
断捨離せず夫の恋文持ちてそろ 疋田恵美子
だるまさんが転んだらしい春炬燵 藤原美恵子
蝶の昼人肌ほどの幼なじみ 増田暁子
木の芽時紙の鍵盤わたしの音 宮崎斗士
さえずりか先生からの耳打ちか 室田洋子
花ひらくなり骨片うすく在り 茂里美絵
朝寝して転げ落ちるよ地球から 山内崇弘
3・11ひとりになれば一行書く 若森京子

遠山郁好 選
どこまでを途中と言うかクローバー 伊藤淳子
春飛魚にひとつの言葉のせてみる 上原祥子
枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
○立春やの手とろとろ甘噛す 大沢輝一
○リュウグウは遥か天蚕うすみどり 大西健司
白魚大漁そして一気に改元へ 金子斐子
花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
肉球の感触とめどなき春愁 近藤亜沙美
草木瓜の花や夕日を放さない 篠田悦子
児玉さん逝くきさらぎの草の妻 芹沢愛子
○鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
日本の傷に向かって蛙鳴く 豊原清明
満天星躑躅水平器の泡動く 鳥山由貴子
猫見上げる空はたゆたゆ春が来た 中島まゆみ
○鳥類の天にエレベーターの柩 北條貢司
とねりことねりこ唱えて眠くなりにけり 水野真由美
畦塗りの黄泉へつながるほどの照り 武藤鉦二
思い断ち切っても赤花常磐万作 村上友子
○蛇口からポトリと落ちる朧月 山内崇弘
ゆめやゆめうつつやゆめやうすべにの 山本掌

松井麻容子 選

まだそこに昨日がありて桜騒さくらざい 伊藤淳子
○立春やの手とろとろ甘噛す 大沢輝一
花冷えの夜は孤独死など思う 木村和彦
○帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
ははの忌の白蝶森に逃がしけり 小西瞬夏
他者という表面張力青き踏む 佐孝石画
囀りに目覚め包丁どれ使う 佐藤紀生子
ランナーの手足青葉若葉かな 重松敬子
草青むアルパカと同じ背の少女 芹沢愛子
○まなざしはやさしいことば初桜 月野ぽぽな
うしろの正面花の殺意が近すぎる 中塚紀代子
この海のすこしむこうの春の海 平田薫
水温になるまで眠る朧月 藤原美恵子
脇役のいつしか主役冬すみれ 松本悦子
持ち歩く心臓へ降る桜蘂 松本勇二
鷗の仕事春あけぼのを告げること マブソン青眼
花かたくり師を偲ぶときふっと乱視 宮崎斗士
ふりむけばひかりほどけるせりなずな 矢野千代子
青嵐乳房その他に溺れるな らふ亜沙弥
白昼や引き潮のごと雛の部屋 若森京子

◆三句鑑賞

葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
 「情念」という言葉自体、すでにかなりの湿り気を帯びている気がするが、それが「水びたし」なのだ。何か味の濃い漬物にさらに醬油を足して出されたようなボリューム感(?)を感じる。この乾いた時代にこのように葉桜を描いているのはかえって魅力的だが、「水びたしの情念」に浸っているのは葉桜ではなく、たぶん作者なのだ。

青麦のきらきらきらと物忘れ 藤野武
 「老人力」ではないが、物忘れを肯定的に捉えている所にまず心惹かれた。一面の麦畑に光が当たって輝いているように、物忘れをしてもこのように明るくいられるのなら、した方もされた方も救われるのではないか。きらきらきらの擬態語がミラーボールの乱反射のようにも思われ、散乱する記憶の暗喩として新鮮に感じた。

鳥類の天にエレベーターの柩 北條貢司
 「鳥類の空」ではなく、「鳥類の天」である。作者は北海道の方なのでなるほどと思った。一読他愛もない句にも思えるが、映画「鳥」のワンシーンみたいに、多数の鳥が乱舞している不吉な空の下、ビルのシースルーエレベーターがいっきに昇っていく映像が頭から離れない。「柩」という喩えも上手い。「鳥葬」という言葉をなぜか連想した。
(鑑賞・尾形ゆきお)

桜の下でくみたてている戦闘機 河西志帆
 平和ボケしている日本を突き放して見ている。花に浮かれている一見平和に見える私たちの生活であるが、目を転じてみれば、戦闘機どころか様々な武器が日本でも製造されている。日本の武器製造所はどこ?などと呆けてはいられないよと。作者の想いが見事に日本人の心理を活写した。

蝶の昼人肌ほどの幼なじみ 増田暁子
 やわらかい時間の楽しさを感じる。幼なじみとの交歓の楽しい時間が作り上げるひと時が作者の宝物の時間である。幼なじみは近くに居そうでなかなか居ないものである。しかも、人肌という楚辞の中に作者と幼なじみとの関係が伝わってくる。何を言っても受け止めてくれる。そんな関係が見えてくる。

さえずりか先生からの耳打ちか 室田洋子
 先生との愛の交感、と思いたい。声が大きくて明瞭な兜太先生の話が思い出される。多分作者もその辺を言いたいのであろうと見当をつけて読んだ。その先生の声が聞こえたのである。ある時ふっと。耳を澄ましてみたがもうその声は何処かへ消えてしまった。夢か幻聴か、そうではない。先生が来たのだ。
(鑑賞・十河宣洋)

枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
 枯れ草に日が射し、黄金色に変わるとき、そこに風が吹き、枯れ草も人も全てを溶かし、自然と同化する様は、懐かしく神々しくさえある。感動を率直な言葉で韻律に乗せ、こんなに端正で美しい世界を開示し、しかも、ものの真髄に触れるこの作品。しみじみ作者の佇まいを思い、俳句形式の恩寵を思わずにはいられない。

花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
 慈しみ愛しむ、なんと日常の淡々と豊かなことか。花菜の黄の弾むような明るさを摘み取る妻。その妻と過ごした歳月を「猫背の妻も景色」と言う作者の妻への優しい眼差しは、これまでの全てを包み込む親愛と慈愛に満ち溢れている。そして結びの、少し照れて、幼く付け足したように置かれたは、この句を一層魅力的にする。

肉球の感触とめどなき春愁 近藤亜沙美
 丸く盛り上り、ただ柔らかいだけでなく、不思議な手触りの桃色の肉球を春愁と感受した作者に惹かれる。その肉の下に鋭い爪を隠していることなど考えず、いつまでも触れていていいのだろうか。溺れそうな遣り切れなさを、とめどなき春愁と言う作者。つぎつぎ押し寄す春愁に身を浸す自分を美しいと思うことにする。
(鑑賞・遠山郁好)

花冷えの夜は孤独死など思う 木村和彦
 花冷えの皮膚感覚にくる空気感が死を連想させる。身体を包む淋しさやなんとなくの悲しさ。夜の花明かりの淡さから、孤独死にたどり着いたのか。桜と死は近い世界で、色々なこの世ではない世界を思い描くことに魅了される。孤独死はやや重い言葉だが、下五の「など思う」の「など」の曖昧さが全体的な軽さを出している。

水温になるまで眠る朧月 藤原美恵子
 朧月に温度を感じるということにまず、驚いた。月の距離感や質感を感じることはあっても温度のことを考えたことがあまりなく「水温になるまで」の導入がぐっときた。なるまで眠るという時間の経過の表現に、作者の優しさが伝わってくる。朧月のもつ独特のふんわりとした感じがうまく表現されていると思う。

青嵐乳房その他に溺れるな らふ亜沙弥
 青嵐の躍動感やドラマ性のある上五から、中七下五の強烈な表現がすごい。ガツンときた。「その他」に色々な想像、妄想を搔き立てられる。溺れるなと言われれば、溺れてしまいたくなる。その甘美な世界に浸ってみたい気持ちになる。どこか自堕落になりたい、でもギリギリで許されない世界。とても魅力的な世界観。
(鑑賞・松井麻容子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

仮の世に夫に焼かれし鮎置かる 有栖川蘭子
北斎の神妙美人画蟹を吸う 飯塚真弓
口説くための蛾の鱗粉の胸の奥 泉陽太郎
人の名をいくつも忘れ蕗を煮る 上田輝子
つれづれに鰻を食みてひと日果つ 上野有紀子
ネクタイを選ぶ母よ夏の恋人 大池桜子
手を振るは帰らぬ人か花は葉に 大渕久幸
人間の魅力は矛盾夏はじめ 荻谷修
女医さんの風呂に手織りの鶴がいた 葛城裸時
青嵐修司とハツは同じ墓 木村リュウジ
すこし濡れついにびしょ濡れ水鉄砲 工藤篁子
清水汲む少女の腕に緋のタトゥー 黒済泰子
色丹たんぽぽ北方気質な母 小林ろば
ブロンズの小さな裸夏の窓 小松敦
怠慢な安心だった麦枯るる 近藤真由美
牡丹切り海に流れる五月かな 齊藤建春
閉架書庫ふつと蛍の匂ひせり 三枝みずほ
沼杉の根っこも木だねぽたぽた歩く たけなか華那
猫じゃらしガキ大将に追われてた 仲村トヨ子
若き日を肴に飲んで梅雨寒し 野口佐稔
赴任してもう渾名付く五月かな 松尾信太郎
水母うふっと貧乏人はみな善人 松﨑あきら
白雨やむ誰も拾わぬキーホルダー 松本千花
形代に息吹きかけて余生かな 丸山初美
黴の香に労われ遺品整理かな 武藤幹
毛虫焼くときもしずかな薬指 望月士郎
ひと夏の密室に死し蝸牛 山本幸風
皐月闇嗅げば六波羅蜜寺かな 吉田貢 (吉田貢の吉は土に口)
韮は明日もきっと韮です元気です 吉田もろび
夏燕貴様と俺はまだ米寿 渡辺厳太郎

◆追悼  三井絹枝 遺句抄

小春日が流れてきます汲んでおこう(『狐に礼』より)
諦めのひゅう葡萄の木の匂う
川とんぼ私のおなかに耳をあて
二月には遠くへ抜けて鳥になり
月光と降る羽衣わたしははだか
姉さんの白鳥の透き通る声
長閑だねえ朝霧と夫入れ替わり
みずうみすう哀れ蚊の鳴く声かな
狐に礼しみじみ顔のゆがみけり
淡雪は古風ですねえ 先生
幼子二人に一つの枕薄紅梅(「海程」「海原」より)
古書店の帰り冬鳥とほうよう
淋しさもほろりと抜けし木のほとけ
蚊に刺され小さな水黽できました
一夜汲み二夜風汲み花すすき
陽炎の小さな花屋はじめます
白い梅ふしぎそうに皆年をとり
初鶯手に乗せて湯に入ります
風蘭のかたえ歩いてゆく恋や
彼岸寺ほそほそ一人言咲く
(野原瑤子・佐藤美紀江抄出)

絹枝さんありがとうさようなら  森岡佳子

 絹枝さんとは双方の娘が小学校入学時から仲良しになったので、母親同士も自然に付き合いが始まりました。ちょうど四十年になります。その間、たくさんの優しさと楽しい思い出をいただきました。寂しさとともに心からのありがとうの気持ちでいっぱいです。
 絹枝さんを最初に俳句の道に誘ったのは私で、NHKテレビの俳句の時間を一緒にしたことから始まりました。絹枝さんの俳句の乳母は私、なんて自慢したりもしました。渋谷の区民講座で楠本憲吉氏に教わり、次いで朝日カルチャーセンターの金子兜太先生に学び、「海程」で独自の個性を開花させました。
 絹枝さんに連れられて、よく行った吟行のことは忘れられません。中でも玉原高原の一泊吟行は、初めて経験する句会の緊張感と兜太先生を間近にできる喜び。そして句会の後の兜太先生を囲んでの談笑の時間。先生と秩父音頭を一緒に踊ったこと。また、満天の星の感動や翌日の自然観察の時間など、こんな得難い珠玉の体験ができたのも、みんな絹枝さんに誘われたからのお陰です。
 二年前の六月、急遽手術を受ける事態になるまで、病気のことは隠し通していましたが、病状は一進一退を繰り返しつつ、今年二月初めには外出できるくらいに元気でした。三月末で治療をやめる決心をされ、七月に入ると点滴ももう要らないと止められたそうです。七日の誕生日までは難しいとの医師の予測に、五日、長女が急遽七十二歳の誕生日を開きました。そして、翌六日午後六時半、娘さんたちも気づかないうち、静かに息を引き取られたそうです。常々「静かに煙のようにこの世から消えたいの」と言っておられたとおりの旅立ちでした。
 実は亡くなる一カ月ほど前の六月六日に、三井さんがご自宅に招いてくださり、一緒に俳句を作る時間がありました。その時に作られたものが最後の作品となりました。
  種はひとつぶ神様になり風蘭のよう
  蜘蛛の頭は人形のよう動きし
  七夕の日までは待てずしおれて
  後ろから雀のようほと泣きし
  うれしいなあ辛いこともなくなり七夕むかえ

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