『海原』No.7(2019/4/1発行)

◆No.7 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

冬桜アルカリ性の恋をして 伊藤雅彦
突然死こんなにおしゃれ真弓の実 稲葉千尋
鬱の日の部屋の匂いの茸山 榎本祐子
両手に余る葉つきの柚子は祖母のよう 大谷菫
茨城のれんこん確か兜太と珊太 岡崎万寿
冬の月私を私が尾行する 片岡秀樹
父という木の箱舟を冬怒涛 桂凜火
合せ鏡の奥の淋しさ鳥渡る 金子斐子
穭田のしずかな呼吸褥かな 川田由美子
猫とシンクロ落葉の音を聞きながら 河原珠美
日の当たる障子平和の句のかたち 北村美都子
逆光の君のたてがみ三冬月 近藤亜沙美
極月のコンビニの客皆クラゲ 笹岡素子
晩秋や人間のまま死ぬ予定 佐々木昇一
われ凡夫海鼠の沈黙を信ず 白井重之
梟の眠りの中は多面体 白石司子
冬銀河さざ波はラップのリズム 高橋明江
一人称単数白し紙漉けり 田中亜美
愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
ドローン飛ぶ粟田口です冬紅葉 樽谷寬子
蟹割ってみて雪明かりと思う 中内亮玄
除染土の山も山なり眠りおり 中村晋
小豆粥のぷくぷく簡にして要 西美惠子
東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
造成地はっと野性の式部の実 堀真知子
蕪つやつやかつてザビエルのことなど 三世川浩司
寒夕焼切り絵の街を出られない 三好つや子
顔役のつもりの案山子担がれる 武藤鉦二
立ち読みの背中あかるい寒林 室田洋子
煮凝りやここに人間探求派 山本掌

若森京子●抄出

巣箱あり中学生の素顔あり 内野修
あっ靴の中に伝言クリスマス 大池美木
ふくろうは遠く寂しく母の部屋 小野正子
陽春のこもれびのごと蒙古斑 北原恵子
まだ秋のメモ書きほどの明るい咳 木下ようこ
どんぐりや蘊蓄聞いてポンと蹴る 黒岡洋子
まつさらなからだをしまふ長き夜 小西瞬夏
十二月八日嘘を継ぎ足し山河あり 小林まさる
小春日を脱ぐように鳩放ちけり 近藤亜沙美
蜻蛉散る刹那のひかりだったとは 佐々木香代子
セーターが青い化石のように座す 清水茉紀
寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
冬に出る幽霊もいてわが晩年 中塚紀代子
老後とは今です泡食っている木枯 丹生千賀
次の風に乗つてくつもり冬紅葉 野﨑憲子
義歯洗う冬来る瀬音身のうちに 野田信章
東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
唇の次に触れたい初氷 藤原美恵子
樹から落ちついに昏睡落葉かな 本田日出登
淋しさは神の采配とろろ汁 松岡良子
蕨折る音ほどでした親孝行 三浦静佳
失語治療えのころ草から始めます 宮崎斗士
暗中模索スズメの冬は慌し 深山未遊
蕪つやつやかつてザビエルのことなど 三世川浩司
梟は一刀彫の闇なんだ 三好つや子
鮭燻す天地にまた人葬り 柳生正名
水かきのくつろいでおり落葉期 矢野千代子
綿虫や息の根ふれし京都御所 横地かをる
自販機にオニオンスープか笹鳴か 六本木いつき

◆海原秀句鑑賞 安西篤

突然死こんなにおしゃれ真弓の実 稲葉千尋
 身近な人の突然死に直面したときの、呆然となった状態。なにか信じられないことが起こると、一瞬現実感が失われて、妙に白々とした空間に投げ出されたような気がしてくる。するとその空間に存在するものが、今までの時間の流れの中にあるものではなく、たった今そこに生まれ出たような感覚に捉われる。たまたまこの場合は、真弓の実が生っていた。それが妙におしゃれな感じだなあと作者は受け取った。突然死がもたらした衝撃で感性
が揺さぶられて、つきものが落ちたように感じたからではなかろうか。真弓の実が「こんなにおしゃれ」とは知らなかったという。それは作者自身の感性でもある。

冬の月私を私が尾行する 片岡秀樹
  冬の月の煌々と輝く中を、一人で歩いている景。月の光が後ろから射しこんでいるのか、前方に影が伸びている。その影を追って行くうちに、自分が自分自身を尾行しているような感覚になってきたのだろう。おそらく「何処へ」という自問自答のような、内面の景をそこに映し出しているのかもしれない。

穭田のしずかな呼吸褥かな 川田由美子
  稲刈りの済んだ刈り株から新しい芽が萌出ている田を穭田と呼ぶ。そこには新しい稲のいのちのいきづきがある。それを「しずかな呼吸」と作者は捉える。一面の穭田は稲の新芽の温かい褥のように広がっている。「しずかな呼吸」は、幼い稲の寝息かも知れない。山裾の穭田では、山鳩や雉が穭穂を啄みにくるし、湖や川の水辺に近い穭田では、鴨などが穭穂を啄んでいる。いのちの営みの静かな広がりが始まっているのだろう。「褥」の喩えが、「呼吸」に響きあう。

日の当たる障子平和の句のかたち 北村美都子
 障子には障子紙が貼られていて、風や寒気を防ぎ明り取りの用をなす。冬の和室になくてはならないものだ。障子に仕切られた空間は、平和そのものの象徴。兜太先生が東京新聞の「平和の俳句」で最初に応募句から選んだのは、「平和とは一杯の飯初日の出」だった。同様の発想で住の空間を捉えるとすれば、掲句のようなものになるに違いない。平和はなつかしく温かいものでもある。

梟の眠りの中は多面体 白石司子
 梟は、夜は眼を爛々と開いて活動するが、昼間は眼を閉じてうつらうつらしていることが多い。だが、その眠りの中は多面体だという。梟を比喩として、人間の内面を映し出しているのではないか。なぜ梟なのか。どこか知的な、もの思う生きもののイメージがあるからだろう。そこには、さまざまな夢の姿や妄想も混在していよう。その多面体として存在するものを想像している。

一人称単数白し紙漉けり 田中亜美
  一人称単数は、人間の原単位である。そこから二人称や三人称の関係が生まれる。紙を漉くことで生まれる一枚の紙に、どんな人間関係が描き出されるのか。今のところは一人称単数だが。そんな想像をしながら紙を漉く。人間関係を、新しく生まれる紙の上の物語のように捉えるのは普通だが、人称の数で始まると見るのは、当たり前のようで意外にユニーク。作者の乾いた眼が光っている。

愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
  作者は海程創業時代からの古い仲間で、兜太先生ご夫妻にはことのほか親しくお世話になった人である。昨年亡くなられた。享年七十五。若い頃から大胆な発想をする人で、海程創業時に「ゴリラや毛虫瞬間的に丸太ン棒」という怪作(?)をものして話題を呼んだ。あれから半世紀を経て、今や掲句のような作品が生まれるのは、時代相の反映というほかはない。海程初期の同人岑伸六は「肉親の愛涸れた場に光る藁」という名句を残している。それは戦後時代の人間像の修羅を描いたものだが、谷句は、ポスト戦後の白けた気分を詠んでいるのではないか。「そこはまぁ」という曖昧な言い方に、むしろ作者の現代に対する冷徹な眼差しがあるように思えてならない。

小豆粥ぷくぷく簡にして要 西美惠子
  一月十五日(もちの日)には小豆粥を食べる風習があり、一年の邪気を払うとされている。煮立ってきた小豆粥がぷくぷくと泡を噴いている様子は、いかにも簡にして要を得ていると見た。この直感的な捉え方には、長い生活習慣の中で培われてきた身近な生活感から、小豆粥への親しみを表現したのではないか。

東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
  東京には、世にも珍しい話が残っているそうな。その一つが、古アパートの竈猫。戦前からあるいは戦後間もなくからある古アパート自体珍しいが、いまだに竈猫をやっている猫も珍しい。これを東京奇譚といわずしてなんとしょう―そんな一句だ。どこか永井荷風の世界を、現代に静止させているような句でもある。おそらく作者は、そのような古き良き時代への郷愁を書きとどめたかったのかも知れない。

◆海原秀句鑑賞 若森京子

どんぐりや蘊蓄聞いてポンと蹴る 黒岡洋子
  軽妙なエスプリの効いた一句。まず句全体が弾んでいる。季語の〈どんぐり〉の形態と質感は、中七・下五と呼応して響き合っている。〈ポンと蹴る〉の発語感は作者の精神の躍動だ。日常の機微の中での屈折を一瞬切り取った面白い句。

十二月八日嘘を継ぎ足し山河あり 小林まさる
  真珠湾奇襲攻撃によって勃発した第二次世界大戦、そして戦後を生き抜いてきた作者の中七の措辞に感慨深いものがある。長い年月の間には自分の信念を曲げねばならぬことも多々あった。しかし下五の〈山河あり〉の発語に重みを感じ救われる。故郷の緑の山河はいつも変わらず身も心も包み込んでくれた。一人の生きざまを語るのに最短詩型の強みと力を思う。

小春日を脱ぐように鳩放ちけり  近藤亜沙美
 小春日の陽だまりから急に鳩が飛び立つ様子を〈小春日を脱ぐように〉と表現する作者に繊細な感性を思う。〈逆光の君のたてがみ三冬月〉の言葉の斡旋にも若々しいエネルギーを感じる。両句に流れる詩のエネルギーは作者独自のものであろう。

セーターが青い化石のように座す 清水茉紀
  青いセーターを着た男女は、美しい空気の中で生き生きと生活をしていた。あの人類の悲劇ともいえる一瞬の事故から死の世界へ、その姿のまゝ静止してしまったのだ。青い化石の様に座す姿は、現在の福島の姿を象徴している。色の無い映像の中に青い化石がとてももの悲しい。

愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
  私が海程に入った頃、谷さんは好作を次々と発表されて私には眩しい存在だった。結社誌になった時、一時海程を離れ、個人誌「ゴリラ」を発行し、数年経って再び海程に戻って来た。仲人をされた先生は大変嬉しそうだった。マラソン・ランナーの健康そのものだったが、昨年末あっという間に先生を追う様に逝ってしまった。〈命は消えてもそこはまぁ紅葉です〉と言っている様だ。

義歯洗う冬来る瀬音身のうちに 野田信章
  神から与えられたかけがえのない肉体も加齢によって次第に使い古され、加工物に頼らねばならない悲しい現実に直面する。しかし自然の摂理の中に身を晒し、何度目の季節がめぐってきたのであろう。人生ってこんなものだ。この十七文字によって一種の達観した気持ちで納得させられた。

東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
  まず一句から永井荷風の「濹東綺譚」を思った。玉の井の娼婦街ではなく、昭和初期の黄ばんだ映画のシーンを想起させてくれる。東京の下町風景が頭をよぎる追懐の世界である。

樹から落ちついに昏睡落葉かな 本田日出登
  〈昏睡〉の措辞から自然と人間を一体化させ「生と死」を詩として昇華させている。〈山柿の或る日すとんと水の闇〉自然の静けさの中、山柿となった作者の精神の動きが波紋を拡げ、人間の儚さ、切なさがこの簡明な一句に滲み出ている。

蕪つやつやかつてザビエルのことなど 三世川浩司
  まず〈蕪つやつや〉の語彙から何故ザビエルが思い浮かんだのか疑問を持つ。きっと蕪の真白い艶と質感のイメージから作者の心はキリスト教に飛躍したのか、それは作者の人生経験、智識、天性の情感、詩性あらゆる作者の持つ精神模様が働いたに違いない。そして一句としての成立に、視覚的、音感的に、最初に渡来してキリスト教を布教したスペイン人のザビエルという人物を選んだ。読者の私は、この一句にある色彩感、世界観に共鳴しただけだ。

失語治療えのころ草から始めます 宮崎斗士
 料理をする時、薬味を加えて思わぬ新しい味覚にめざめる瞬間がある。この作者の句にはいつも新しい覚醒がある。新人類の薬味と言おうか、現代人の明るさがあり、一句における心の屈折にも明るさが漂う。作者の天性ともいえる薬味であろう。これは比喩のうまさであろう。〈バレリーナ老いの一瞬風花す〉〈無言といういちばんの嘘冬牡丹〉。失語性も、バレリーナの老いも、いちばんの嘘も色彩豊かな、それは庶民の明るさである。

水かきのくつろいでおり落葉期 矢野千代子
  落葉期の黄金に輝く静かな湖畔の陽だまりに、ひとかたまりの水鳥が、羽根をふくらませ眼を閉じて休んでいる。まるで一枚の絵をみる様だ。「我々は水に入れば、水面下で休むことなく一生懸命、水かきを動かしているんだよ」と言っている様だ。最近、私は手紙の末尾に必ず「お互いにゆっくり生きましょうね」と挨拶がわりになっている。残された時間を大切に、との心情だ。

◆金子兜太 私の一句

被曝の人や牛や夏野をただ歩く 兜太

  先の東日本で発生した大地震と巨大津波、福島第一原発の事故は、被害が甚大で深刻な事態を引きずったままだ。一部の地区で、原発避難指示は解除されたが帰還者は少ないようだ。原発の事故によって、荒れた田畑や野原をただうろうろと歩くことしかできない人や牛の物寂しい姿を描いて、被曝の悲惨さ、むなしさを呟くように書きとめたもので、読む者の心に沁みてくる。「海程」(平成23年8・9月合併号)より。関田誓炎

林間を人ごうごうと過ぎゆけり 兜太

  父と一つ違いの先生の、明晰で磊落な人柄に海程の最大の魅力を感じていた。海程なればこそ私のような者が俳句を続けられたのだと感謝しかない。今世この地に生を受けた我々は、それぞれが様々な荷を負い、出会い別れて生きてゆく。まさに「ごうごうと」だ。更に時空を超えてこの地この林間に生きた幾多の時代の人の姿をも思わせる、この句の詩の力に圧倒されて止まない。『暗緑地誌』(昭和47年)より。藤原美恵子

◆共鳴20句〈1・2月合併号同人作品より〉〇印は2選者の共選句

榎本祐子 選
冬瓜をことこと煮ると宇多喜代子 伊藤道郎
ふと現実ときどき新聞休刊日 宇田蓋男
秋の蝶こつんとあたる辞書の文字 川田由美子
谺ことだま生唾をのむ晩秋 久保智恵
蟻ん子が枯れ葉に乗った朝です 釈迦郡ひろみ
秋雨をなめてみること牧水忌 白井重之
丸腰で生きねば夏野に夕日吊り 関田誓炎
乳ふさはふたつ先祖の月あかり 竹本仰
採血のさなかに雁の句の浮かぶ 田中雅秀
体に雨の音が眠って青葉かな 故・谷佳紀
姥百合や声つつぬけの丘の寺 樽谷寬子
○あきらめのあかるさ昼顔の真昼 月野ぽぽな
冬夕焼珈琲の湯気みたいに泣く 豊原清明
なでしこに流れる時間明日咲きます 中島まゆみ
露草に小さな客のありにけり 服部修一
ふたりで磨いた月夜の滑り台 堀真知子
白せきれい少女は雨を考える 本田ひとみ
ジョロウグモ八瀬やせで天寿を全す 矢野千代子
カサコソと走る老人星集め 山内崇弘
一泊は榠櫨の実です夢中です 若森京子

加藤昭子 選
○長蛇の列顎を突き出す鮭となり 石川青狼
絵手紙や半分は秋半分は村 大髙洋子
他人行儀な礼あけびの実重し 桂凜火
遠雷やこころざしなど書き足して 故・児玉悦子
○菊を焚く昼のこめかみ煙るなり 小西瞬夏
○目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
見開きに反戦のうた木の実降る 白石司子
鬼やんまカクッと眠るわが岸辺 田口満代子
体調は夜明けの渚九月来る 武田美代
○気が合って秋の水底歩くよう 遠山郁好
夜学子のことばの礫飢えているな 中村晋
石のベンチにあうらのえくぼ三尺寝 野田信章
秋霖や冷えて泣きたくなる山家 松本勇二
黙祷の沈黙を這う浜昼顔 三浦静佳
銀河とはこころの奥の濯ぎ水 宮川としを
木の実降る推敲ふっとこの手応え 宮崎斗士
○風を挿すことのはじまり秋桜 三好つや子
○文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
歩かねばひかがみ亡ぶ山竜胆 若森京子

佐孝石画 選
セーターの毛玉未読の書を重ね 市原光子
片空はどこかが錆びて返り花 伊藤淳子
諦めた色ありそうな曼珠沙華 小野裕三
純情をふりほどきゆく野分かな 河西志帆
影のなき人行き交える片かげり 北村美都子
私の後ろに触れる秋の雨 こしのゆみこ
○目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
漂鳥よ席ゆずられし水の秋 田口満代子
桃剝いてどしゃ降りの夜の淑やかさ 竹本仰
藻の色を帯びし雑踏ジャズ流れ 田中亜美
蜻蛉はすでに雨を散らした虹なのだ 故・谷佳紀
どのくらい泳げば水になれるだろう 月野ぽぽな
はじまりのおわりの金木犀のにおい 平田薫
無心なるものほど高し鷹柱 松本勇二
木犀の散りつくすまで師を待てり 水野真由美
添え乳の転た寝のよう草の花 深山未遊
○風を挿すことのはじまり秋桜 三好つや子
十薬の花の勢いパン焦がす 武藤暁美
薄紅葉句碑の太文字から川音 茂里美絵
隠れ耶蘇絶えて千枚田の穭 柳生正名

竹内一犀 選
○長蛇の列顎を突き出す鮭となり 石川青狼
バッタ跳ぶもの言うわれらのさびしさに 伊藤淳子
ぬくめ酒こつんこつんと二人の会話 井上俊一
木の実落つ無呼吸のごと更けて雨 榎本愛子
人形の愛され汚れゆく 秋 榎本祐子
秋の蚊を叩くひとりがこわくなる 尾形ゆきお
手花火のカゲおれじいちゃん似だって 黍野恵
○菊を焚く昼のこめかみ煙るなり 小西瞬夏
くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
鵙の贄風鳴りのごと父の声 白石司子
地すべり遠景琺瑯質の赤とんぼ 十河宣洋
○あきらめのあかるさ昼顔の真昼 月野ぽぽな
○気が合って秋の水底歩くよう 遠山郁好
午後の視線へ吹き寄せられる蜆蝶 成井惠子
独り居のこゑ響きをり南瓜切る 前田典子
骨たちがうなづく秋の連結音 宮川としを
母と娘のあわいに波紋ぬなわ舟 武藤暁美
○文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
曼珠沙華父の罠なら逢いに行く 茂里美絵
蛇は穴へ半透明な息置きて 六本木いつき

◆三句鑑賞

蟻ん子が枯れ葉に乗った朝です 釈迦郡ひろみ
 いつも地面を忙しく歩き回っている蟻。今朝、そんな蟻の一匹がまるで船にでも乗っているように枯れ葉に乗っているのを見つけた。今日という日の始まりがいつもと違うような気にさせてくれる小さな出会い。「蟻ん子」と親しみを込めた眼差しも温かく、朝ですと言い切って、何気ない出来事にも仕合せを見出す作者の豊かさがある。

ふたりで磨いた月夜の滑り台 堀真知子
  夜が更け静まり返り、月の光が降り注ぐ公園に二人がやって来た。ふたりは無言のまま只ひたすらに滑り台を磨く。ぴかぴか、つるつるに。完璧だ。ようやく二人は顔を見合わせてにっこりと笑った……。もしかしたら、この句はふたりで歩いてきた人生の比喩かもしれないが、わたしには素敵な一冊の絵本だ。

カサコソと走る老人星集め 山内崇弘
  カサコソと枯葉の擦れる様な侘しい擬音。老人の乾いた皮膚をも感じさせる。が、ここでの老人は落葉掃きなどしているのではなく、何かしら願いを託したくなるような瞬く星を集めているのだ。しかも走って。大方が共有している言葉のイメージ、想いへの軽い捩れがあり、それによって現れる世界観が楽しい。
(鑑賞・榎本祐子)

くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
 唇を肉片と書かれるとあまりに生めかしく、「口」では感じ取れないリアルさがある。それに加えて、自分を暗渠と表現したことに驚いた。体内を通る水量はどの位だろうか。無季の句だが、暗渠という措辞に農家の私は、すぐに稲の刈り入れ前の季節を思った。大胆な句の形に引かれた。

体調は夜明けの渚九月来る 武田美代
  夜明けの渚と九月の取り合わせに魅かれる。体調の比喩が波打際であるという感受。とてもさわやかで音楽のような感覚が身を包むのだ。「九月来る」という季語が明るさを生み出していると思う。作者の生活のスタンスがとても上手に表現されていて、自分もそこにいるような感覚だ。

文重ねゆくよう母が紫蘇を摘む 武藤鉦二
  一読、紫蘇の匂いに包まれる。文を重ねゆくようという比喩が鮮やかだ。肉親への手紙、子供への思いを書き留める様に、一枚ずつ丁寧に摘む紫蘇の葉を、手の平に重ねてゆく実直な仕事ぶり。思い出の中の母親への思慕が見えてくる。いつまでも残しておきたい風景だ。
(鑑賞・加藤昭子)

目覚めとは眩しき傾斜秋の風 近藤亜沙美
  目覚めの際のあやうい感覚を見事にとらえている。目覚めとはいわばあの世からこの世に戻ってくる行為でもあり、その境界には未知の時空の襞が続く。そのおぼろげな境界をあたかも峠のトンネルを潜り抜けるように、この世へと漂着していく感覚。その先には出口の光があり、その漂流感覚として「傾斜」を見たのだろう。

藻の色を帯びし雑踏ジャズ流れ 田中亜美
  「色」とあるが、それは水中で眼を開きながら泳ぐ際の危げな視覚を想起させ、その水中感覚を「藻の色」とあえて視覚に限定することで、暗緑のベールの向こうの藻のごとき拘束感覚までも引き寄せてくる。「上海五句」とあるが、異郷の地が自我と圧倒的他者との浸透圧について再認識させたろう。また、「ジャズ」とアジアの中に西洋的なものを混在させ、眩惑感を更に増幅させる。

はじまりのおわりの金木犀のにおい 平田薫
  「はじまりのおわり」とは非常に難解な謎かけだ。五感のうち嗅覚はもっとも時間的。その感覚は知覚したと同時に霧散するきわめて刹那的なもの。「金木犀のにおい」に断片的に想起させられた様々な自分史が明滅していくその感覚を直感的にとらえた。その直感は死生観にも通じるものであるだろう。
(鑑賞・佐孝石画)

バッタ跳ぶもの言うわれらのさびしさに 伊藤淳子
  本来、直截に偽ることなく心情を表現すべきが我々表現者であるが、時として、他者の目や比較に捕らわれ、又、常識に埋没することもある。しかし、兜太的表現者にとって通念に捕らわれることは足枷でしかない。この足枷を自ずから外し、力強く未来へ飛翔することにより、真の表現者となり得る。

くちという肉片と我という暗渠と 佐孝石画
人間には口づけをする為の唇と、自我という他者より察知できない腹がある。他のアニマルは唇を噛むか。アニマル同志が腹を探り合うか。ロボットは口を尖らすか。ロボットは腹を割るか。人間とアニマルとロボットとの関係性において新たなアニミズムを思う。

午後の視線へ吹き寄せられる蜆蝶 成井惠子
  いじめと不登校を経験した午後の視線にいた少年俳人・小林凜の〈蜆蝶我の心の中で舞え〉を彷彿とさせる。着想の起点はどうであれ、ここに表出された十七文字は純粋に造型的俳句として鑑賞に足る。視と蜆に蜆蝶の目目目……を感じて止まない。
(鑑賞・竹内一犀)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

水揚げの修羅場をあそぶ海鼠かな 飯塚真弓
初雪や三つの恋を弔う日 泉陽太郎
鶏さばく父の在りたる大晦日 齋貴子
冬すみれ麒麟の空にあこがれる 上田輝子
サヨナラを告げては食みぬ蕨餅 上野有紀子
幸せかと聞く人嫌い石蕗の花 大池桜子
闇汁の阿鼻叫喚を掬いけり 金子康彦
施錠する校舎の扉寒オリオン 川嶋安起夫
牡丹雪鏡に溜まる独り言 木村リュウジ
馬小屋の深く静かな聖夜かな 日下若名
名シェフと出会い大根冥利かな 黒済泰子
蠟梅やひっそりと生き方変える 小林育子
鰊漬けあふれる愛を食べていた 小林ろば
水槽のこちらの暮らし小六月 小松敦
吐く息のあつまるかたち冬薔薇 三枝みずほ
生きざまは擬態にあらず冬囲い 鈴木栄司
柿すだれかつて蚕飼の櫓かな 高橋靖史
冬の月ラッコは自分の石を持つ たけなか華那
母よりもわが身大きく冬芽越え 立川真理
けあらしや亡父の貌が描けない 立川由紀
猪鍋囲む今にも墜ちそうな村に居て 舘林史蝶
求愛する鴨もいて沼にぎにぎし 椿良松
山の講の大鋸おほがに神が降りてくる 中神祐正
綿虫の流れにさからう勇気かな 畑中イツ子
木菟言うソンナトコロニモウイナイ 松﨑あきら
極月の結露の窓にMと書く 松本千花
消印の町に粉雪降るころか 望月士郎
抜けそこねたLINEグループしろばんば 山本幸風
うす氷バギッと踏んで登校す 吉田和恵
狐火やシリアの石鹸匂ふ夜 渡邉照香



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