『海原』No.20(2020/7/1発行)

◆No.20 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

春琴抄閉じ春雷の中にいる 伊藤巌
誰か呼ぶふと身じろぎの花蘇枋 伊藤淳子
激論のあと春満月が重過ぎる 伊藤道郎
3・11「古里」奏ずトランペット 江井芳朗
一枚の田のそれぞれの春の鳥 大髙洋子
父母焼けて吾が名知らぬ子ヒロシマ忌 川崎千鶴子
料峭や夜という名の黒猫 河原珠美
無口なりの感染もあり蝶の島 木下ようこ
春は夕暮れ花嫁の父小さく帰る 小池弘子
ひらくたび光の曲がる雛の函 小西瞬夏
羽音めくその向こう側花の雨 近藤亜沙美
夫逝きて消えし犬鷲秋田駒 坂本祥子
葉桜という感情で夜を漉く 佐孝石画
片減りの靴に卯の花腐しかな 佐々木義雄
友逝くやコロナ籠りの花の雨 白石修章
英霊の数詞は「柱」桜散る 瀧春樹
マスクしてまばたくわれら鳥帰る 田口満代子
蕗の筋舌に残りぬ多喜二の忌 竹田昭江
春愁や自分自身に絡み酒 峠谷清広
巣ごもりの朝餉のためのみずからし 遠山郁好
どこでもない懐しい町蠅生る 鳥山由貴子
生きすぎて逝く日待ちおり啄忌 中川邦雄
揚雲雀空に絶壁はあるか ナカムラ薫
茎立す昨日を消したカレンダー 増田暁子
紫木蓮空気うごかさぬよう見上ぐ 松本勇二
休校の桜生徒を待ち切れない 三浦二三子
テレワークもっと囀りのなかへもっと 三世川浩司
躁の桜も鬱の桜も故山なり 武藤鉦二
ミモザ抱いて抱いてすべなしコロナ禍や 村上友子
桃の日や八十年の朦朧体 若森京子

遠山郁好●抄出

春なのにコロナウイルス春なのに 綾田節子
春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
嬉しさを膝に流して春の空 奥野ちあき
少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
ぞっとしました桜隠しに月光とは 小池弘子
生あれば吸気の香り青い風 小宮豊和
甲斐駒ヶ岳かいこま拳骨げんこいただく春霞 近藤守男
無表情拾ひ集めし四月かな 齊藤しじみ
北の朝深い呼吸と軽いコート 笹岡素子
卒業式みんなが狐マスクして 佐々木宏
山恋し木洩日淡し花通草 末安茂代
夢なんて照れば忘れる揚雲雀 高木一惠
わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
待つという静かな未完木の芽雨 月野ぽぽな
青空をスピーカーにして山笑う峠谷清広
春の音いつしか雨に濡れている 永田タヱ子
飛花落花たましいにある金属質 中塚紀代子
吾が町角色濃く見える老いの春 中村孝史
身辺の尖りに倦みし春の暮 丹羽美智子
義歯洗う夜滝を覗き込むように 野田信章
朧世の朧の中で白濁す 長谷川阿以
あいまいな喪失抱えしまま飛燕 藤田敦子
田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
休校のブランコ夜の渚かな 本田ひとみ
カトラリーちいさく鳴ったのは花冷 三世川浩司
ふくしま三月両膝は海に向く 武藤鉦二
ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし
疫病えやみ世に生まれ蝶の名すみながし 柳生正名
楪や父の直球受け損ね 梁瀬道子
ここから先は自由にサワガニ 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

誰か呼ぶふと身じろぎの花蘇枋 伊藤淳子
 日常にふと訪れたかすかな漂泊感を、肌理の細かい言葉の斡旋で捉えた作者の真骨頂の一句。花蘇枋は雨に濡れていたのではないか。「誰か呼ぶ」とは、花蘇枋に憑かれたように見入っていたとき、ふと誰かに呼ばれたような気がしたのだろう。それはあるかなきかの物音とも声ともつかぬものだが、作者があっと気づいたとき、花蘇枋は濡れたからだでかすかに身じろぎをしたに違いない。それは、作者にふとさずかった詩的直感の響きあいともいうべきものであった。

一枚の田のそれぞれの春の鳥 大髙洋子
 山間の棚田の中の一枚の田に訪れた春の鳥。「それぞれの」とあるからには、春の鳥が思い思いに自分の田と決めて、一枚ずつ田に舞い降りているのかも知れない。それほど多くの群れではなかったのか、一枚ずつの田の配分に事欠くことはなかったのだろう。「田のそれぞれの春の鳥」としたとき、峡の棚田の安らかな平和を感じたのではないか。穏やかな庶民の暮らしが見えて来る一句。

春は夕暮れ花嫁の父小さく帰る 小池弘子
 春の夕暮れ、その日最愛の娘の結婚式と披露宴も滞りなく終えた父親が、やっと肩の荷を下ろした思いで帰ってゆく。その背中は妙に淋しげで、小さく曲がっていた。おそらく、これが花嫁の父親像の典型的な姿ではないか。結婚式は春と秋がシーズンといわれているから、秋の夕暮れもあり得よう。だが秋だと花嫁の父はなかなか建前から逃れることが出来ず、小さく帰るわけには行かないような気もする。春の夕暮れなればこそ小さい父に戻るのだ。

葉桜という感情で夜を漉く 佐孝石画
 花の後の葉桜は、どこか感情のざわめきのようなものを覚える。花の宴の後に来る空しさの気配とともに、突然強い風がシャワーを伴って吹き募ることがある。葉桜はその感情のざわめきで、夜を和紙のように漉いてゆくと捉えた。さすがに越前和紙、若狭和紙等の本場に住む作者ならではの感性である。加えて作者は書家でもあり、和紙の質感に精通している人。「葉桜という感情」で夜の帳を漉いてゆくという表現が、この人ならではの重い実感に支えられているこというまでもない。

友逝くやコロナ籠りの花の雨 白石修章
 「コロナ籠り」とは、全国的緊急事態宣言によって外出自粛が行われ、自宅待機を余儀なくされている状態をいうのだろう。こういう閉塞感の中にあっては、気力を失い、病が嵩じて亡くなられる方も多くなる。その中に親しい友がいた。おそらく死去の報を前に、駆けつけることもかなわず、ただ茫然と花の雨を見つめているばかり。「コロナ籠り」という異常事態の中にあって、花の雨が友の死の悲しみを染み通らせてゆく。

生きすぎて逝く日待ちおり啄木忌 中川邦雄
 作者は、今老人ホームで静かに余生を過ごしておられる。大きな施設というし、ご夫婦での入居だからそれなりに豊かな日々を楽しまれておられるのではないかと想像していたが、この句から伝わってくるものは、やがて来る死を待ちつつ無為の日々を送る老いの姿である。そこには「生きすぎ」たとするやや自己韜晦の味も感じられるものの、啄木忌と取り合わせたことで、一気にそんな生きざまを肯い得ない作者の心意気に触れた気がする。弱冠二十六歳で火花のような生涯を終えた啄木を、美しい星のように見上げつつ、対照的な幕引きの時を迎えようとしている一人の老いの姿の中に。

紫木蓮空気うごかさぬよう見上ぐ 松本勇二

 紫木蓮は、花弁が中ほどから外へ開く端正な六弁の花で、大ぶりの葉がついている。大木にはならないが二~三メートルほどには達する。花は深い紅紫色で、庭木としても美しい。作者はその咲きぶりに魅せられつつ、花のかたちの見事さをいつまでもそのまま保ってほしいとの思いをこめて、「空気うごかさぬよう」にそっと見上げた。この心遣いが紫木蓮の花の完璧な姿を保証している。

桃の日や八十年の朦朧体 若森京子
 桃の日は、いうまでもなく三月三日の雛祭の日にあたり、女児のいる家庭では雛人形を飾り、美しく装ってお祝いの宴を開く。恵まれた家庭に育ち、豊かな才能を存分に発揮してきた作者にとって、一年の中のひときわ輝かしい一日であったに違いない。その作者も八十年の歳月を経て、ようやく若き日の輝きも茫々たる往時の中に、朧に霞んでみえる。そのとき、自分の八十年の生涯は、墨絵の朦朧体のような朧な輪郭をまとっているようにさえ見えて来る。おのれを遠い風景のように抱え込んだ命の灯りと見ている境涯感ではないか。

 折りしもコロナ問題に世界中が巻き込まれている中にあって、「テレワークもっと囀りのなかへもっと」(三世川浩司)、「ミモザ抱いて抱いてすべなしコロナ禍や」(村上友子)ような意欲作があったことを付け加えておきたい。

◆海原秀句鑑賞 遠山郁好

春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
 待っていた春がやって来て、妻は春の花の名を指折り数えはじめる。やがてそれが十指に余り両手に溢れる。そんな妻の仕草を慈しみ深く見守る人。その時、妻の表情がぽおっと灯ったように明るく見えた。祈りにも似た今日一日の安堵と幸せに、しみじみ浸る刻。なんと誠実で、愛あふれる句だろう。人の美しき本質を見るようだ。春はしみじみいい。

北の朝深い呼吸と軽いコート 笹岡素子
 北国の人の春の訪れに対する感受は深く鋭敏。しかし、この句には、どこにも春とは書かれていない。ときに春を言うとき春という言葉の概念に束縛され、新鮮な春が伝わらないこともあるが、この句は違う。北の朝、深い呼吸、軽いコートを提示するだけで、長い冬からの解放の喜びを伝えようとする作者の率直な言葉、物への接近が功を奏した。まだ浅き春の人懐かしさと澄み、それを全身で感じようとしている作者の眩しさ。

青空をスピーカーにして山笑う 峠谷清広
 こんな山笑うは他にあったでしょうか。とにかく、手放しで笑う山を書き切った。スカーッとこの抜け感。単純明快な映像は印象も鮮明。雲一つない、どこまでも続く響き渡るような青い空、その青空がスピーカーになり山の笑い声を、春を、わんわん拡大拡散し、時には耳障りなほど、そこらじゅうに満ち満ちる。雪国にまた春が来た。どこか戯画的で、一茶を思わせる直截は魅力的。

嬉しさを膝に流して春の空 奥野ちあき
 この作者も北国の人。そう思うと春への思いは、私などと比べようもなく深いはず。何か嬉しいことがあったのでしょう。それを膝に感じていることが、とてもユニークで新鮮。正座している膝に春の空が映って流れてゆく。嬉しいことと一緒に。ことさら人に告げることもなく、ひとりで、さりげなく喜びを噛み締めている。ああいいなあ。感じとることの優しさを春の空が祝福する。

夢なんて照れば忘れる揚雲雀 高木一惠
 夢なんてと多少の屈折と共に始まり、照れば忘れると大胆な展開に引き込まれ、そして結句の突き放つような明るさの揚雲雀に救われる。雲雀野の空へ向かって帽子を抛り上げるような、書くことによる自己解放の句でもある。また、今世界を席捲する疫病禍を一場の春夢と捉えれば、そんな夢なんて太陽が照りつければ、やがて忘れるという力強いメッセージとも読め、この句に惹かれる。

わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
 火入れ前の火種を造ることに視点を置いて書かれたこの句。予言者の神聖な儀式のようでもある。宿命のようなごうのようなわが影。その影を束ねる行為に人間存在の重さと寂寥を思う。再生のための野焼、その跡からは、どこからか野太い声が聞こえてくる。

春の音いつしか雨に濡れている 永田タヱ子
 春の音ってどんな音だろう。水の風の木々のそして空の擦過音。生き物たちの暮らしの音。ひかりにも音が。それらの全ての春の音に耳を傾けるとき、春の音と私は、いつしか雨に濡れている。いつしか・・・・に長い人生の歳月を感じ、この星の悠久の時をも思う。簡明にして深くリリカルなこの句に出合うとき澄明な感動が訪れる。

休校のブランコ夜の渚かな 本田ひとみ
 緊急事態宣言による一斉休校により、人影のない校庭の使われないブランコ。その無人のブランコ、人恋しさで微かに揺れ軋む。その音を聞いた作者。その時、離れて暮らす故郷への思いが、夜の渚と共にひたひたと甦る。休校のブランコと夜の渚の二つの物語の重なりが、この作品をより深化させ、その想いを厚くさせる。

春なのにコロナウイルス春なのに 綾田節子
 今は春まっ只中なのに、ウイルス禍が世界中に蔓延している。花々が咲き乱れ、眠っていた生き物が目覚める春だというのに。今はそれらと交感することも出来ず、素通りするだけ。春なのに・・・・の繰り返しは実感であり、こころからの声。しかしこのウイルス、紫外線と湿度に弱いと聞く。今は信じよう。全身で季節を感じられる日が来ることを。

疫病えやみ世に生まれ蝶の名すみながし 柳生正名
 新型コロナウイルスという疫病えやみ世に遭遇してしまった。自然界の複合的要素と人為的要素によって引き起こされる疫病。こんな疫病世と知らずに生き物は生まれる。もちろん蝶も。その中で作者は、すみながしという蝶に注目した。蝶の名は染色の墨流しから来ていて、粋ではあるが、墨が流れる様はウイルスに汚染されてゆく地図のようにも見える。また、蝶の赤い口吻は気味のよいものではなく、そう言えば蝶の飛ぶさまは病み上がりのようでもある。疫病はつねに文明の在り方を問い続ける。過去の感染症の記憶を感情でなく科学で理解しなければと思う。

◆金子兜太 私の一句

無神の旅あかつき岬をマツチで燃し 兜太
 掲句と兜太先生を教えてくれたのは、故徳才子青良先輩であった。この句で兜太先生を知り、「海程」の会員となった記念の句である。1962年8月、先生は「寒雷」青森支部俳句大会特別選者として初めての来県。大会の翌日竜飛崎吟行をし、朝の暗い岬に立ちタバコの火を点し岩肌が赤く燃えたという。私は先生の心が燃えたと読み取り、思い出深い一句である。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。後藤岑生

ほぐれたりひぐらしが湧くよ 兜太
 五・五・三の破調ですが、繰り返し読んでいますと十七音の呼吸で体に入ってきます。「ほぐれたり」の語感にどこか懐かしい響きが、また「湧くよ」という先生独特の捉え方に時間的経過と美しい感覚の世界が立ち上がってきます。新同人になった年の全国大会で先生から出身地を訊ねられ「長野県伊那です」「そうだ伊那の顏だ。伊那は君の様な顔容の人が多い」緊張の糸がほぐれた一瞬でした。句集『日常』(平成21年)より。横地かをる

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

大西政司 選
レタスほど晩節明るい夕べかな 有村王志
ベロ焼いてヘロヘロしている大みそか 石川義倫
水仙の波間よ日暮の重さくる 伊藤淳子
七草粥姉がおととを叱りし日よ 宇田蓋男
強引がちょっと嬉しい鎌鼬 奥山和子
寛容であることに尖る牡蠣フライ 桂凜火
遠き死近き死あり風花す 金子斐子
煤逃げの上手な娘わたくし似 川崎千鶴子
待春のかたちで眠る猫に添う 河原珠美
柚子もぐや子に従えば晴れてくる 金並れい子
雪降りて村たべさせるねむらせる こしのゆみこ
息継ぎが足りない雲から雪となる 佐孝石画
北風や兜太残党のくちびるぶ厚い 白井重之
梅咲いてスマホに写る青き鮫 鈴木康之
冬虹の低し集落は小さし 田中雅秀
煤逃げ誘う路線バスの灯りかな 谷口道子
麦を踏む軽さよ無印むじのスニーカー 董振華
慈雨は母老木も母噛みしめる 野口思づゑ
十方じっぽうのあまたのや兜太の忌 疋田恵美子
如月の美童の犬歯見え隠れ 日高玲

奥山和子 選
柚子湯かな年寄りは年寄りが嫌い 宇田蓋男
最終列車乗ってしまった嫁が君 奥山津々子
いたわるしかない冬のキュウリ一本 柏原喜久恵
野水仙私というは小さきふち 川田由美子
困ったひとだ無花果の重さかな 木下よう子
ピカソノフクロウガヒロシマヲアルイタ 白石司子
初鏡ちょっと自分にあっかんべえ 鱸久子
初春や人のかたちのうちに会う 髙尾久子
蝿叩き離さぬ魚屋あり立冬 野田信章
○白うさぎ医師にすこしの嘘をつき 長谷川順子
道の端に手袋片方指す真闇 藤田敦子
まだ曲にならない音符冬銀河 船越みよ
雪を着る針葉樹林肩がない 堀真知子
よく喋る縄文土偶冬の月 松井麻容子
白菜を割って寂しい顔ふたつ 松本勇二
雪の夜は耳にじょうずに触れてくる 宮崎斗士
他界から片掌を出して八重椿 村上豪
ふたりいてリズムのような十二月 横地かをる
母さんは嘘ばかりつく春の昼 らふ亜沙弥
掴みたる分だけでいい年の豆 若林卓宣

佐々木宏 選
冬北斗吾を爆弾と云う父の 伊藤幸
アフガンは青し柩は白し冬 稲葉千尋
非戦派や焼芋で臍あたためる 榎本祐子
冬林檎猫になりきる喧嘩して 奥野ちあき
ここはむかし子宮だつた雪だつた 小西瞬夏
冬花火年に一度の遺書を書く 菅原春み
なまはげ一匹怪しき出所名乗りけり 鈴木修一
ザリガニの髭が絡まる今朝の春 高木水志
冬の蠅男が唇を舐める 鳥山由貴子
孫が子を産む九月かーんと塔そびえ 野田信章
○白うさぎ医師にすこしの嘘をつき 長谷川順子
トローチのだんだん細り墓掃除 畑中イツ子
一族にひとつの便座去年今年 藤原美恵子
耳たぶは寒夜のさな寛容かな 北條貢司
みみず鳴くまだまだこの世は神秘的 松本節子
マフラーぐるぐる血糖値ひくいはず 三世川浩司
○葱を掘る忌日も老いも後ろより 武藤鉦二
凍蝶やひたすらスマホの少年や 村上友子
白菜が炎のかたち夜のウォーキング 山内崇弘
アスパラガス甘い仕事です明日も 六本木いつき

芹沢愛子 選
廃炉遥か初日を隠す防潮堤 伊藤巌
山茶花や影ごと散っている日常 伊藤淳子
谷の木木月に釣られて動きけり 内野修
セーターの葉っぱ取り合って別れかな 大久保正義
春の月まん中という柔らかさ 奥村久美子
飼いならすように寒紅引きにけり 小野裕三
国家にも方向音痴時雨けり 片岡秀樹
冬銀河その奥に詩を汲みにゆく 北村美都子
やれやれ夜明けときどき鳴いて梟 小池弘子
走り去る者の清潔焚火の 遠山郁好
真夜中の鏡砕氷船が過ぐ 鳥山由貴子
大晦日の手と話すまだ働ける 西美惠子
雨音のもの忘れして雪になる 丹生千賀
白鳥の村の少女の平和論 本田ひとみ
美容室着いて来たのは北狐 前田恵
神を信じるしかない島よ崖しかない マブソン青眼
雪女同士気づいてユニクロにて 宮崎斗士
○葱を掘る忌日も老いも後ろより 武藤鉦二
アフガンで死なせし大根煮くばかり 柳生正名
冬の薔薇くずれ母に抱かれたよう 若森京子

◆三句鑑賞

ベロ焼いてヘロヘロしている大みそか 石川義倫
 日常の他愛無い一コマ。実に滑稽だ。想像するだけで作者の本性が垣間みえる。餅でも焼いてつまみ食い。大晦日をヘロヘロしながら皆の邪魔になりながら煤逃げしているのか。笑みが思わず零れる普通の人間の。安堵感のある魅かれる句だ。

麦を踏む軽さよ無印むじのスニーカー 董振華
 子供の頃、二毛作で麦畑はいっぱいあった。麦踏みはあまり記憶がない。藁のストローでのシャボン玉のほうが記憶に強い。無印のスニーカーは実際にあるようだ。その軽さも連想させて今風の若者の句に。実際の麦踏みの力の入れ具合はわからないが。「麦を踏む軽さ」の表現が気持ちよくて素敵な句になった。

十方じっぽうのあまたのや 兜太の忌 疋田恵美子
 先生の「おう」は何回聞いたことだろう。この一言を聞くことの為にだけ各地から参集した海程人は数多に違いない。わたしもその一人だが。また、今号に
年齢は七掛け八掛け兜太の忌 深山未遊
という句も掲載されていた。「女は七掛け、男は八掛け」これもよく聞いた覚えがある。それにつけても兜太残党の我ら。「兜太の忌」が沁みる。
(鑑賞・大西政司)

白菜を割って寂しい顔ふたつ 松本勇二
 田舎に住んでいると手に入る白菜はたいてい一玉単位である。「えいや」と二つ割にして、切り口を眺める。絹のような繊維が年輪の様に連なって瑞々しく美しい。さてこれをどうしよう。子供らも巣立った家庭では使い切るのは大変である。覗き込む二人の顔が、切り口の顔に重なる一瞬の寂しさが心を打つ。

他界から片掌を出して八重椿 村上豪
 幾層にも重なった少しもったりした花びらが、艶艶の深緑の奥から覗く。「なにも怖がることはない。あの世には懐かしい人たちが待っている」。花々はまるで誘うように手を伸ばして来る。両手ではなくまだ片手なので、引き込まれるにはもう少し間がありそう。それまでこの世でもうひと踏ん張りである。

まだ曲にならない音符冬銀河 船越みよ
 キーンと澄んだ寒空に散らばる星々の煌きを何に例えるかは作者の感性。四分音符、八分音符、それぞれの瞬きと大きさに置き換えられた音符は春の訪れに際して、どんな音楽になるのだろう。壮大な交響曲や優しいセレナーデ。楽団はすでにチューニングを始めているかもしれない。想像は何処までも膨らんで楽しい。
(鑑賞・奥山和子)

マフラーぐるぐる血糖値ひくいはず 三世川浩司
 血糖値が低いと冷や汗やふるえ等の症状があらわれ、場合によっては意識障害から昏睡状態も見られることがあるという。「マフラーぐるぐる」。このマフラーのあり様に、なにか血糖値の低い状態を見て取ったのであろう。やや滑らかさを欠くリズムは、その暗示に有効に作用しているように感じる。それにしても、マフラーから血糖値へは、なかなか飛べない。すぐれた感性というか卓越したわざ、力量を思う。

冬北斗吾を爆弾と云う父の 伊藤幸
 親は子どもにいろいろな願いを持つ。しかし、子どもはそうした願いとは別に自立の道を、時には大胆に歩み出す。爆弾とはこうした乖離やはらはら感のことであろう。インパクトの強いことばを巧みに使いながら、冬北斗と父親の凜とした姿勢をうまく重ね合わせた。

冬林檎猫になりきる喧嘩して 奥野ちあき
 先日、読んだ本に「分かる/分からないをX軸、おもしろい/おもしろくないをY軸に四つの象限を書くと、多くの詩は分からなくておもしろいという象限に存在している」とあった。俳句は、どうなのであろう。この句はどの象限に入るのだろう。いずれにしても、良質・好句と思う。洒落たフレーズが光る。
(鑑賞・佐々木宏)

やれやれ夜明けときどき鳴いて梟 め奴  小池弘子
 梟が身近にいない者はイメージで作る。題材として梟はいかにも魅力的なので佳句も多いが、「梟の鳴く夜ゆっくり墨を磨る/前田恵」を秀句に選んで大沢輝一氏が「真実の冬の夜」と評した。小池さんのこの句も「真実の冬の朝」としてすんなりと心に響いた。過去の句「青葉木菟まるいちいさい何もいらない」も大好き。

神を信じるしかない島よ崖しかない マブソン青眼
 昨年からフランスのマルキーズ諸島に単身移り住んだ作者。一年中気温二七度の島の暮しは無季句になると、俳句の可能性に期待していたが、病院はおろか酸素ボンベ一つ無い島でコロナウイルスに感染してしまった。今は快方に向かったと聞くが本当に辛くて怖かったという。「崖しかない」は絶唱。背景を知らずとも胸に迫る句。

アフガンで死なせし大根煮くばかり 柳生正名
 医師中村哲さんの死は衝撃的だった。その死を惜しみ業績を称える追悼句が多い中、「死なせし」との捉え方に瞠目した。失われた命の大きさに、ジャーナリストとして、日本人としての無力さを感じている。〈死にたれば人来て大根煮きはじむ〉と死を突き放したような下村槐太の句を踏まえ、「煮くばかり」と心情を込めている。
(鑑賞・芹沢愛子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春のうみ天使の羽の腐乱臭 泉陽太郎
柚子風呂に老いぼれといふ真正面 鵜川伸二
寒夜の訃とおき怒濤と思いけり 上田輝子
滲ませて言えない言えない春の月 遠藤路子
亀鳴けり方言がかわいいとかって 大池桜子
宅配で届くユーウツ春の蝶 かさいともこ
木の芽時閑職の椅子逆さまに 葛城広光
白つつじ愛想笑いを午後という 木村リュウジ
あさり飯藍色多き江戸古地図 工藤篁子
密閉密集密接句会おぼろ 黒沢遊公
花冷えや夜勤ナースの付け睫 黒済泰子
言葉遅き子ポケットから青蛙 小林ろば
チューリップ理由をきこうとして笑う 小松敦
丹念に手洗いをして雛の前 榊田澄子
疫禍の春キリコの街を見るごとし 佐々木妙子
花冷えの立方体の狡猾さ 島崎道子
蛍烏賊食みて眠れば腹光る 鈴木弥佐士
肩痩せて桜隠しのしんしんと そらのふう
白樺若葉足を止めて長まれよ たけなか華那
こんな世に放り出されて行行子 立川真理
水温む情死のように箸浮かび 谷川かつゑ
野遊びはポルトガル人の匂いがする 松﨑あきら
ウイルス百態ガバリゴブリと三鬼の忌 松本千花
言魂ことだまの人を離るる余寒かな 武藤幹
体操の受業に昔蛇を見た村 上紀子
ドンキホーテ飛沫に向かい草矢射る 森本由美子
夫とゐるは開花の誤差の如きもの 山本まさゆき
猫四匹散らばりねむる處暑の家 吉田貢(吉は土に口)
人様のいのちの重み佗助よ 渡邉照香
砂時計ひとつぶ詰まり啄木忌 渡辺のり子

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