『海原』No.32(2021/10/1発行)

◆No.32 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

ラベンダー不意打ちの別れのことば 石橋いろり
かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
花盛り本日人間休みます 大沢輝一
青嵐肺のすみずみ波の音 大髙洋子
奔放に薔薇を咲かせて介護の日 奥山和子
陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
遺書に追伸おくやみ欄不要 河西志帆
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
補陀落へパラボラアンテナ浜昼顔 黍野恵
花あしび崩るるように母の文字 黒済泰子
滴りのの艶生命惜しまねば 関田誓炎
向日葵やヒロシマの日もぬっと咲き 竹田昭江
百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
麦の秋過疎地の景色大らかで 竪阿彌放心
紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
柳絮舞うひかりライブの只中へ 遠山郁好
プラタナスの青き実わたしの垂直跳び 鳥山由貴子
アイリスはつれなく人は縺れ合う 中野佑海
夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
胎衣壺えなつぼの出土流域青めたり 野田信章
夕立来るふと焦げ臭き父の背な 藤原美恵子
肉親の会話の余白五月闇 松井麻容子
引鳥のごちゃごちゃ先生のホイッスル 三浦静佳
麦秋をさびしき鼓手の来たりけり 水野真由美
幻聴のようにオオミズアオを見る 望月士郎
一つ家に孤食のテレビ半夏雨 森鈴
花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子

茂里美絵●抄出

神さまはとなりの木槿にいるらしい 伊藤幸
許すこと許されること寒卵 植竹利江
初蝶へ顔が横向き歩け歩け 内野修
一脚の椅子と一人の芝居夏至 大池美木
六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
鎌倉の画廊閉じらる蟇 鎌田喜代子
星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
口語体の一句が点りほうほたる 北村美都子
いち枚の戸籍をめくる朴の花 木下ようこ
薬草を手づかみで煮る蛍の夜 小池弘子
アカシアは幼い鶴の匂いする 佐々木宏
戒名は「雅秀」と田中雅秀さん追悼なりし春の星 志田すずめ
足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
紅葉燃えて明日は遺伝子組み換えて 田中信克
冷蔵庫勝手に開けていいよって仲 遠山恵子
金星に坐す地面がある青蛙 豊原清明
揺れるのが好きで蛍袋かな 中條啓子
私を脱ぎたくて居る夏の霧 中村道子
紅糸蜻蛉心ときどき擦過音 根本菜穂子
皆既月食の風よわたしは蛇の衣野﨑憲子
わが胸へ飛ぶ夏かもめ引き潮や 藤野武
ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
白壁は鬼籍の余白走り梅雨 故・武藤鉦二
青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

かき氷昼を白しと記すとき 伊藤淳子
 繊細な抒情感覚で、すでに一家をなしている作者だが、最近はその心情を知的に乾かして表現する傾向が出ている。同時発表の句に「人通るたびにしんぷる柚子の花」がある。この句などは従来の持ち味に近い。それでも「…たびにしんぷる」とまでは言わなかったような気がする。掲句にもどれば、「昼を白しと記すとき」の真昼の倦怠感が、「かき氷」という日常のオブジェによって、生の時間に目覚めさせられる。乾いたカ行音が真夏の空間に響き合う。「昼を白しと記すとき」のシ行、ラ行音の共振の韻もまた。

缶ビール生きた気もせず死ぬ気もせず 植田郁一
 作者は、現在一人暮らし。折からのコロナ禍で、他出もままならず、さりとて気ぶっせいな引き籠りも耐え難い。ままよとばかり、湯上りの缶ビールでひと時をごまかしても、毎日のことともなれば「生きた気もせず」、ましてや「死ぬ気もせず」。まことに宙ぶらりんな一日一日のうっちゃり方を繰り返す。この句には、まさにコロナ禍の蟻地獄のような現実が、リアルに詠まれているではないか。

花盛り本日人間休みます 大沢輝一
 花盛りの本日。人間を臨時休業いたしますという。そのこころは、人間としての矜持やプライドは一旦棚上げにして、一日楽しもうというものか。これは単に休養を取るということではない。人間を一時的にやめて、生きものとして生きようということではないか。それだけに、事々しく「人間休みます」と宣言したのである。それは兜太師の言われた〈生きもの感覚〉に近い。

陽炎泳ぐようやさしい語尾選ぶ 桂凜火
 「やさしい語尾選ぶ」とは、必ずしも相聞句とは限らないが、この句の前に「逢いたさのひげ根ひっぱる春の闇」があるので、やはり相聞の一連とみてもよかろう。それにしても、その心情のドライな軽快さは、とても一昔前の湿り気のある慕情とは似ても似つかぬものだ。「やさしい語尾選ぶ」に、この人らしい肌理の細やかさがあって感性の新鮮さを感じる。

とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 川田由美子
 水系の発達した我が国では、蜻蛉は古い時代から馴染みの題材であって、詩歌によく詠まれて来た。「とうすみ蜻蛉」の語感が田園風景の懐かしさを誘い、「ちちははふふむ草の風」で、産土を体感している。特に中七の平仮名表記とその語感が、その体感を匂わせてくれる。

百日紅をとこは人を斬る仕草 たけなか華那
 低成長化の管理社会に入って久しいが、その中で生まれた分断や格差は、多くの生きづらさを招いている。これは男女を問わず、働くものに負わされた宿命かもしれない。そのどうしょうもない鬱屈感を、「をとこは人を斬る仕草」で晴らそうとしているという。もちろんそれは、つかの間の憂さ晴らしにすぎないが、それでも男にはその手があっただけましだとの思いを込めて、「をとこは」と少し僻みっぽく言う。「百日紅」にシラケた思いもこめながら。

紫陽花にまだ産道の湿りあり 月野ぽぽな
 紫陽花は梅雨時に最盛期を迎える。産道は、分娩の時に胎児が通過する母体内の通路。共に湿り気の多い隠微ないのちの息遣いを感じさせる場所にある。句の狙いは「産道の湿り」にあって、あの修羅場を美しいいのちの花ひらく道のりと捉えている。やはり女性ならではの感覚といえよう。

夏シャツの鉤裂き自由からの逃走 新野祐子
 「夏シャツの鉤裂き」とは、夏の海辺でロックを楽しむ若者たちの一団を予想する。兜太師の「どれも口美し晩夏のジャズ一団」にもつながる。ただ兜太句はもっと感覚的映像なのに対し、新野句はやや観念的映像表現の匂いがする。「自由からの逃走」は、戦後ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの著書の題名でもある。掲句は、そこまで思想的なものではなくて、「夏シャツの鉤裂き」を、「自由からの逃走」と知的に見立てた感覚表現といえよう。その連想を呼ぶところが洒落ている。

花冷えのたとえば古書の薄埃 茂里美絵
 花冷えの季節感を、「古書の薄埃」に喩えたのは、意外性がありながら、言い得て妙だ。花冷えで薄く散り敷いた落花は、あたかも古書に降り積もった薄埃のように、どこか馴染み深く、しっとりと落ち着いている。その感覚は、古本屋の薄暗いどこか冷え冷えとしてうず高く積み重ねられた古本棚の、狭い通路を思わせる。

螢の夜会うほど静かに歳重ねて 若森京子
 おそらく幼馴染で、お互い意識しながら結ばれることもなく時を過ごし、同窓会あたりで毎年顔を合わせながら、いたずらに歳を重ねている。そのような清い間柄のまま、静かに時は過ぎて行く。それも一つの人生。

◆海原秀句鑑賞 茂里美絵

六月は生木の哀しみを聞くよ 大髙洋子
 読む者の心を、しんとさせ無口にさせる。六月は生命が本格的に動き出す、いわば活発な月でもある。しかし反対に自然に圧倒されて、ひるんでしまうのも人間。「生木の哀しみ」。鬱蒼とした森の中で、ふと見つけた傷ついている木。まだ若い木がまるで内臓を剥き出しにしているような姿に一瞬どきっとして立ち止まる。そっと撫でてみる。じかに伝わる若木の哀しみ。作者の、青春の傷を思い出したようにそっと撫でる。

星涼し夫の折鶴飛ぶ構え 北上正枝
 多分昭和生まれのこの男性(夫)は家族を愛し仕事も順調の、威風堂々の人生を送って来られたと推察する。そして「折鶴飛ぶ構え」と。静かに老いる心境は更にない。で、老人扱いをする周囲に腹を立てているのだ。傍で見ている作者は、夫の人間欲をユーモアとペーソスのまなざしで眺めている。この句の芯は「飛ぶ構え」。

足首にひもじさ絡む蛇苺 篠田悦子
 高原で、さまざまな草花の研究をしていた頃の、風景がふと脳裏をよぎる。急な坂道を登ったり、長い間歩いても疲れを知らなかったあの頃。加齢と共に足腰が弱るのは自然の定め。せめて精神は若々しくありたいと思うのは万人の願いでもあろう。字面とはイメージが違う蛇苺の可愛い赤い実。足元がふっと明るくなるような。

蓮ひらく嬥歌かがひの山を雲中に 高木一惠
 その昔、自然と共に人々は素朴で正直で大らかに生きていた。春秋の豊作を祝う歌垣(宴)で、男も女も艶めいたひとときを過ごす。「蓮ひらく」の季語はそのように生きてゆく人間の本能をもさりげなく示唆している。

ひとつおきに坐る終点は海市 松本千花
 楽しかった人間関係を妨害する、悪魔のような疫病。この作品には露骨な表現はどこにもないが、しみじみとした哀しみが、読む者の心を鷲掴みにする。時には輝くように現れる、まぼろしの都。二年前のごく当たり前と思っていた普通の生活が「海市」ではなく、現実に戻ってくることを祈るのみ。

夏至すぎてたとえば蜂蜜は暗い 三世川浩司
 季節の感じ方の内容は独りずつ違って当然。夏至は昼がもっとも長く、人によってはその明るさに倦怠感を憶えるのかも知れない。夕暮れ近く最後の光の束が、蜂蜜の入った壜を照らすときの一瞬の光線が、黄金色のとろりとした液体の暗さを返って際立たせるのだ。甘美ですこし切ない雰囲気を具象化させ、読者を感動させる。

昼寝覚め年相応という難問 宮崎斗士
 俳句は短いので、言葉の決定の選択次第で、優劣が決まってしまう。この作品の場合は「難問」の鋭さ。ある年齢に達すると人はこのような想いに悩むことになる。壮年期の社会的に認められた立場では、なおさらであろう。智に働けば角が立つ、の心境。人間関係の微妙な空気に敏感になってしまう。しかし案ずるなかれ。温かい応援の視線もあるはず。あえて申すならば、世間の雑音に拘わらず堂々と歩むしかないのでは。時にはゆったりと、昼寝をすることも必要なのです。

青水無月コンタクトレンズに地球 室田洋子
 自分の言葉を見つけるのは、たやすいようで、実はとても難しい。言葉は空気の中の微塵の光のようで、それらを掴むことの出来るのは、ある意味で無心で素直な感性のなせる技なのかも知れない。「青水無月」の季語がパッと目に飛び込む。そして「地球」。大きな自然の中で、瞳にかぶせる薄いレンズの存在。すんなりとした言葉たちではあるが、大胆さも感じさせる一句。

半裂の水槽にあるこの世の端 望月士郎
 シュールな詩の一節のようで独りで楽しみたいと思える句。「半裂」「水槽」「端」の裏側にある想いとは。息苦しさや閉塞感は、今や世界中の現代人が、みな持っている心の状態。厖大なあるいは狭い世の片隅で、人々はさまざまな制約を受けながら生きている。大勢の中のひとり。世の中の端っこで。ある者は病院の中で。

蒲公英の根深し嫌いというジャンル 森由美子
 俳人の想像力の逞しさを感じる。例えば蒲公英の咲くさまを、可愛い、と思うのがフツーの感覚。この作者はたぶん物の外見に騙されないすこし立ち止まる冷静さの持ち主。そして植物にも意志があると思っているのだ。蒲公英の根は意外に頑固で見えない所で意地を張っていると。あぁこういう種類の花も、あるいは人間も嫌いなんだと改めて納得している作者のユニークさが面白い。

兜太ありき晩夏とかくたばれ夏とか 柳生正名
 「ワハハ。ばかに暑いじゃねぇか。晩夏なんぞと気取りやがって。くたばってしまえ夏さんよ」兜太先生のナマの声が聞こえそう。一見気難しそうなこの作者。「兜太ありき」に万感の想いがこもる。ジーンとしました

◆金子兜太 私の一句

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 俳句を習い始めた頃、この句に出合い衝撃を受けました。春の訪れを全身で感覚し、しかも自由にうたい切ったところが凄いと思う。白梅が引き金となって青鮫が現れる想念はとても新鮮でした。嘗て朝日俳壇の兜太選にひかれ、その選評に頷き多くの共感を覚えました。また朝日カルチャーや読売カルチャーの教室にも参加させて頂けた金子先生のご縁に感謝いたします。句集『遊牧集』(昭和56年)より。髙井元一

黒ずみしとろろを啜る初夏兼山 兜太

 平成10年、岐阜県兼山町(現・可児市兼山)の蘭丸ふる里の森に於て、春の吟行会が催された。当時の町長は俳句に理解があり、兜太先生を招待され、海程の会員十数名も参加。掲句は素朴で郷土色豊かな土地柄に対する気持ちの良い挨拶句であると思った。句集『東国抄』(平成13年)より。【平成17年、同公園内に合併を記念して先生の句碑が建立された。〈城山に人の暮しに青あらし〉】平山圭子

◆共鳴20句〈7・8月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

月野ぽぽな 選
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
白椿穢れなき刃の我に向く 大池美木
しんかんと老いゆく地球花の闇 北村美都子
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
満開に足のつかなくなる深さ 小松敦
春がくる骨の一挙手一投足 佐々木昇一
冬の虹古本の如母の手のひら 清水茉紀
晩節は春泥のごとひかりおり 白石司子
朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
呟きは鏡の国へ雛あられ 高木水志
藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
風船売遠軽までは風に乗り 遠山郁好
蝶ボルト春愁の指遊ばせる 鳥山由貴子
カラスノヱンドウ星の暗号すべて愛 野﨑憲子
華鬘草老いて早口早足よ 野田信章
歯につきし飴のようなり春の悩み 村上豪
ひとひらのどこからかきて春愁 望月士郎
海市昏し弁当箱の隅に骨 茂里美絵
春の川この世は呼吸いきをするところ 横山隆

服部修一 選
のどかさの真ん中市電のふと悲し 石川まゆみ
○身の奥に鉈の重さの三月来 伊藤道郎
鍵穴はなんの饒舌春疾風 大髙宏允
春キャベツ割れて相続放棄する 大野美代子
旅という終わりあるもの春夕焼 奥野ちあき
悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
野火走る男の背の四角かな 加藤昭子
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
花筏どれも船頭がいない 河西志帆
延齢草先に萎んだほうが負け 小池弘子
春眠の時の潮目の午後三時 齊藤しじみ
朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
悲しみはさざ波のごとヒヤシンス 清水恵子
物種の臍かな裏は大宇宙 すずき穂波
残された時間山椒の芽の天ぷら 髙尾久子
陽炎や君と並んで薄い僕 高木水志
桜ちりゆくひとしずくひとしずく 月野ぽぽな
メーデーや二番目に好きな人と行く 遠山恵子
逃散史めくれば村の陽炎えり 故・武藤鉦二
引き抜いてほいと大根渡される 森由美子

平田恒子 選
行く春の遥か先ゆくわれの影 伊藤道郎
灯台の螺旋は祈り野水仙 榎本愛子
戦さあるな餓死の島より兜太は今も 岡崎万寿
型紙の幅を継ぎ足す薄暑かな 荻谷修
カラスのエンドウ段々縺れゆく会話 奥山和子
蝌蚪の水少年の日の真顔を映し 小林まさる
古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
双眸に朝のきていて真菰の芽 関田誓炎
冬の翡翠隠れ水脈あり不戦なり 高木一惠
長城暫し万里にかかる春の虹 董振華
差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
皿廻しきっと雲雀が墜ちてくる 鳥山由貴子
朴の花憲法のこの声の若さ 中村晋
臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
淋しさは空腹に似て色なき風 野口思づゑ
まれびとのほとほと叩く蓴舟 日高玲
言いそびれ聞きそびれ鳥雲に入る 藤田敦子
感情が濾過されてゆく花吹雪 松井麻容子
検温の額差し出し青野めく 松本勇二
魔女狩りもかくやアネモネがすれすれ 三世川浩司

嶺岸さとし 選
海明ける笊蕎麦一枚の気分 石川青狼
原発は国家の柩鶴帰る 稲葉千尋
福寿草キリマンジャロの地図広げる 植竹利江
○散る桜水面に落とす仮面かな 川崎益太郎
○肩紐はづれ白木蓮がすごい 木下ようこ
外来語辞典かかえたかたつむり 久保智恵
野焼きの匂いくすぶる恋のありやなしや 小池弘子
日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
紫雲英田の素直な自分連れ帰る 佐藤千枝子
水枕母在るときの波まくら 白井重之
少年の項かなしき袋掛 白石司子
野梅黄昏晩節はもう当てずっぽう すずき穂波
時空越え八分音符は花の窓 蔦とく子
花は葉に処理とは棄てることでした 中村晋
長閑だな腕をついはずしたくなる 北條貢司
挿木してわが影日々にあたらしき 前田典子
蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
村を出る父よ真鱈を厚く切る 武藤暁美
畦塗りの黄泉へと続く鍬づかい 故・武藤鉦二
初夢の翼の痕がむず痒い 森由美子

◆三句鑑賞

朧月目鼻口耳もくびこうじの交歓す 鈴木孝信
 春の月は、他の季節の月とは異なり、柔らかく滲んだ風情が特徴だ。その極みである〈朧月〉を前にした体感を〈目鼻口耳もくびこうじの交歓す〉と個性的に言い得て見事。〈朧月〉だからこそ、目と鼻と口と耳の機能の輪郭が曖昧になりすべてが溶け合い喜び合うのだ。やがて〈朧月〉とも渾然一体に。なんという恍惚感だろう。

藤棚のごとく深夜のオンライン 田中亜美
 藤棚の蔓が〈オンライン〉の画面に向かう者同士の繋がりを、藤の房の姿や匂いが〈深夜〉ゆえの心身の悦楽と倦怠を彷彿させる。〈藤棚のごとく〉の比喩が冴えると共に、現代の景を詩的に掬い取った〈深夜のオンライン〉の措辞が光る。兜太師の唱えた「古き良きものに現代を生かす」精神が掲句に確かに息づいている。

うまれつきぼんやりでいて雪と花 故・田中雅秀
 〈うまれつきぼんやりで〉ね、と優しく微笑む雅秀さんの姿と、美しい〈雪と花〉の映像とが、柔らかく重なり合う。今年四月、若くして他界された雅秀さんを、兜太師は驚きながらも温かく迎えられたことだろう。この場をお借りして、俳句のご縁で雅秀さんと出会えたことに感謝し、雅秀さんのご冥福を心からお祈りする。
(鑑賞・月野ぽぽな)

悲しみの果てはアメリカヤマボウシ 小野正子
 「アメリカヤマボウシ」の文字数が十七字の過半を占める贅沢な構成だがとても惹かれる。アメリカヤマボウシは日本のヤマボウシに似て、花がピンク色の実に美しい花木。作者はこの花を悲しみに結びつけた。日本の街路樹の中でも華やかに見えるこの花、もらわれて来て遠い異国を飾りたてる姿に悲しみが見えたのだろうか。

花筏どれも船頭がいない 河西志帆
 「どれも船頭がいない」という短い言葉から、花筏の「されるがまま」の様々な光景が目に浮かぶ。吹雪のごとく舞う桜、水面に浮く無数の花びら、花びらは三々五々寄り合い重なり、流されていく。作者はさらにこの句に、どこに行き着くかわからない今の社会情勢や生活に感じる、何とはなしの不安を含ませているようだ。

朧からジョーカー取り出す遊びかな 重松敬子
 トランプの「ババ抜き」が下地なのだろうか。しかし私にはこの「遊び」が、どこか異界で行われる不思議な行為に思えてくる。大いなる者が、とある空間からジョーカーを取り出している。この作業は暗く孤独で、永遠に続けられているようだ。なんの目的でこの作業が行われているのか、またジョーカーが何を意味し、大いなる者が何者かは定かではない。
(鑑賞・服部修一)

古本の賑わいのよう春夕焼 佐藤詠子
 夕焼は翌日の晴天の予兆である。西の空を真赤に染める豪快な夏の夕焼に比べて、春の夕焼は、はんなりと西空を染める。「古本の賑わい」とは言い得て妙である。小さな町の古本屋。時代と人の慈しみの手を経て、巡り合う一冊の本と人。時の鎮もりと、重なる「ご縁」がある。少々くすんだ本の色合いや手触りも懐かしい。

差羽群れ舞う日は新しいパジャマ 遠山郁好
 タカの一種である差羽。秋に大群で南方へ渡る。数万の差羽の大群が岬の上昇気流に乗って舞い上がる様は、鷹柱と呼ばれる。季節の変化を人もまた、肌感覚で感じ取る。雄大な鷹の渡りの景から、新しいパジャマの用意へ、一気に日常の一齣へと視点が移る。取り合わせの意外性、ダイナミックで爽やかな世界である。

臨書する日永三日を千字文 梨本洋子
 春分から少しずつ日が伸び始めると、日中の時間や気持ちにもゆとりが出来て、のびやかになる。丁寧に『千字文』を書き写してゆく。さぞ満ち足りた三日間であったことと拝察する。古代の百済系帰化人、王仁が『論語』と共に日本へ伝えた楷、行、草の『三体千字文』。習字、書道の手本として、今も書き継がれている。
(鑑賞・平田恒子)

日常というタンポポが閉じてゆく 佐藤詠子
 作者の句はほぼ平易な日常語しか用いない。しかし、つい見過ごし、忘れ去りそうな、小さな掛け替えのない世界を提示してくれる。掲句は、コロナ禍の中で日々の小さな楽しみや生き甲斐が奪われてゆく危機感、喪失感を、身近なタンポポに託して表現したものだろうが、シンプルながら真に迫る危機意識の深さに驚かされる。

少年の項かなしき袋掛 白石司子
 作者はしばしば、若者・少年賛歌を詠んでおられる。この句もそうだ。果樹(葡萄?)の袋掛けはなかなかの重労働と聞く。長身で色白の少年が身を屈めるようにして懸命に作業を進めている。すっと伸びたうなじを窮屈そうに曲げながら。作者は、その様子を愛しく見守っているのだろう。「項」に焦点を当てたのがとてもよい。

蹴り上げたキャベツが戻る父の墓 松本勇二
 「父の墓」に「蹴り上げたキャベツ」が出てくる意外性に、先ず心を掴まれた。しかも、キャベツが「戻る」などあり得ない。結局、こういうことかと考えた。父の墓に参ると、生前、父が怒りにまかせてキャベツを蹴り上げた記憶が、決まって戻ってくる、なんとも豪快な父だった―と。読ませる壺を心得た手練の句。
(鑑賞・嶺岸さとし)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

気に入らない愛する君よほととぎす 有栖川蘭子
緑陰に擬態してゐるカフェテラス 有馬育代
父の日の摩る手と手のきりも無や 飯塚真弓
マカロンの列のしんがり五月蠅なす 石口光子
ジオラマにパセリ千円分の森 植朋子
薫風や市電は頭振って来る 上田輝子
緑まばゆし死にゆく母とふたり 遠藤路子
羅を着てこころ澱ませないマナー 大渕久幸
古書店のどこまでが棚花曇 かさいともこ
蟻の足凄い速さで乱れるよ 葛城広光
彫り物の青き眼の龍明易し 神谷邦男
少年茜に焼け母とゐる土手 川森基次
どくだみの匂いのぐるり黒沢家 黒沢遊公
ほうたるの川へ傾ぎぬ千枚田 坂本勝子
小便小僧をあの子と呼ぶ子青葉風 佐々木妙子
紫陽花の叢よりヒッチコックかな 鈴木弘子
主治医逝く新病棟に冴ゆる月 宙のふう
鯰憮然千のマスクにさらに憮然 田口浩
水母の傷夜の素顔に似てはずかし 谷川かつゑ
母の日の付録のように父の日来 野口佐稔
花見酒末期の水を斯くの如 平井利恵
梅雨晴間おのれの頭撫でる僧 増田天志
木蓮が好きだった津波が来るまで 松﨑あきら
毒殺す正義正論晩夏光 武藤幹
瓜漬の底に弐日ありにけり 矢野二十四
水馬に押され水馬前に出る 山本まさゆき
梅雨寒や在宅勤務に妻の影 横林一石
こども図書館ももんがスーッと飛んだよう 吉田和恵
蜃気楼彼岸のきわの迫り来る 渡邉照香
左遷さる鬼薊の群れの中 渡辺のり子

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