『海原』No.10(2019/7/1発行)

◆No.10 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

逃げ水の先頭除染土また除染土 有村王志
夜桜や魔界の口を見たような 石橋いろり
のどかかな影がほどける猫のヨガ 市原正直
人の世に優生保護法猫の恋 伊藤巌
鬱という一つの漂泊花薊 伊藤雅彦
花雪洞寡黙な男が凭れている 井上俊一
鍬の土叩き落して被曝畑 江井芳朗
写真から天地悠々の風あはは 大髙宏允
旧かなの閑けさ野蒜青みけり 大西健司
まんなかに遺棄の自転車菜花畑 尾形ゆきお
木の芽時マイナンバーの語呂合わせ 奥山和子
ふるさとの訛を隠す3・11 奥山富江
令和元年逃げ足速い素足の子 北上正枝
若潮の滴り少年の下帯 楠井収
帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
草木瓜の花や夕日を放さない 篠田悦子
児玉さん逝くきさらぎの草の妻 芹沢愛子
鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
空っぽの本棚春満月のごと灯り 鳥山由貴子
試着室の自惚れ鏡四月馬鹿 丹羽美智子
涅槃図の裏の暗さや花の昼 野原瑤子
満開のサクラ少々の翳り 服部修一
原発禍蜜吸う蜂の無垢な刻 船越みよ
生温い目をして鴨の残りたる 堀真知子
八十路なり眼をパチクリと春ウサギ 本田日出登
父を呼ばねば届かぬ高さ朴の花 水野真由美
花かたくり師を偲ぶときふっと乱視 宮崎斗士
ものの芽や耐震工事中のスーパー 山本弥生
鳥帰るエナメル質の声出して 横地かをる

佃悦夫●抄出

産土の木の実木の家空家かな 有村王志
鴨の逆立ち魍魎の水底へ 石川青狼
足裏のざわざわ暗し花は葉に 伊藤淳子
花冷えのからだは薄き器なる 伊藤道郎
刺青のそこだけ蛇皮のつめたさよ 井上広美
枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
立春やの手とろとろ甘噛す 大沢輝一
リュウグウは遥か天蚕うすみどり 大西健司
ザクザクと花の朧を生きてきた 桂凜火
うっすらと引き潮の音花蘇枋 川田由美子
花冷えの空の明るく切手買う こしのゆみこ
葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
雪解水よく切れるナイフを洗う 笹岡素子
ランナーの手足青葉若葉かな 重松敬子
冬の蝶あるいは風葬のかたち 白石司子
奪衣婆の目に土佐水木芽吹くなり 関田誓炎
譜面より音符飛び出し野に遊ぶ 高橋明江
鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
馬酔木花房翳りの中の羽といふ 田中亜美
満天星躑躅水平器の泡動く 鳥山由貴子
花の昼大河も死者も仰向きに 中村晋
陽炎のセクシー猫ゆくもセクシー 西美惠子
桜貝親指姫の褥とも 丹羽美智子
あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
青麦のきらきらきらと物忘れ 藤野武
畦塗りの黄泉へつながるほどの照り 武藤鉦二
花ひらくなり骨片うすく在り 茂里美絵
白セーター降ってくるよな恋を待ち 梁瀬道子
蛇口からポトリと落ちる朧月 山内崇弘
浮けよ流れよ春オホーツクの溺死体 横山隆

◆海原秀句鑑賞 安西篤

夜桜や魔界の口を見たような 石橋いろり
 一読、梶井基次郎の短篇『桜の樹の下には』を連想させるような気がする。そこには、満開の桜やかげろうの生の美のうちに屍体を透視するデカタンスの心理が書かれており、桜の木の下に死が埋まっていると見たのである。掲句は、美の中にある不安や憂鬱を、梶井と同様のモチーフで見ている。それを「魔界の口」と喩えてみたのだ。どこか夜桜に吸い込まれていくような、妖しげな幻想とみてもよいだろう。

花雪洞寡黙な男が凭れている 井上俊一
 「花雪洞」は、桜の花模様をあしらった手燭、または球形のおおいをつけた灯。そんな雪洞を、寡黙な男が凭れ気味に抱えて座っている。これから始まる花見の宴に備えているのかもしれない。そのしばらくの待ち時間を、所在なげに過ごしているのだろう。「凭れている」という所作が、男の束の間の鬱屈を捉えている。軽い緊張感の高まりも感じながら。

鍬の土叩き落して被曝畑 江井芳朗
 いうまでもなく、福島の人によるフクシマ俳句である。こういう句は、当事者以外の人が書いてもさほど感興を呼ぶことはあるまい。しかし当事者の句となれば、言葉で表現されたもの以上の重みを感じざるを得ない。「鍬の土」は、被曝畑の除染土だろう。「叩き落して」には、まさにその実感ならではのものがある。「被曝畑」を、当事者以外のものが書いたとしても、後ろめたさを残すだけにちがいない。

旧かなの閑けさ野蒜青みけり 大西健司
 野蒜は道端の雑草にまじって生え、初夏には薄紫の小花をつける。若菜は摘んで浸しものにしたり、球根を焼いて食べると香ばしい。ここで「旧かなの閑けさ」としたのは、食べるときの風味よりも、地生えの立ち姿ではなかろうか。その細りとした気品の佳さを、あえて「旧かな」と喩えたのだ。

帰り花しずかに絶望しておりぬ 黒岡洋子
 この句に、避難したフクシマの未帰還の人びとを連想してみてもよい。大震災後八年の月日が過ぎたが、放射能汚染度の低減や帰還への呼びかけにもかかわらず、帰還者は二、三割程度に留まるという。まだ被災地の安全性や賑わいの復活に信がおけないのか、避難先での暮らしが定着してしまったのかはわからないが、かつての被災地の復興自体ままならないのだろう。そうなると復興の掛け声自体、空しいものにならざるを得ない。作者は、その状況に「しずかに絶望しておりぬ」と見たにちがいない。残念ながら被災地の現状はそういう状況下にある。

花菜摘む猫背の妻も景色です 小林まさる
 菜の花を摘んでいる猫背の妻、それを「景色です」と見たのは、作者の老妻に対するあらためての思いであろう。別にいいとも悪いとも言ってはいないが、菜の花の景色に溶け込んでいる妻を、悪いと見ているはずがない。見馴れた風景だが、悪くはないなと思っているにちがいない。「景色です」とおどけて見せたのは、昭和一桁族の照れ隠しがあるのではないか。

鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
 鶴にかぎらず鳥は秋に北国から渡って来て、春にまた帰って行く。今は春だから北へ帰る時期で、正しくは「帰り終えしか」というべきだろう。季語でも「鳥帰る」は春、「鳥渡る」は秋となっている。しかしこの句の持ち味は、「夜の稿」で一気に深まった。深夜原稿を書いていて、どうにか一息ついたとき、ふっと鶴はもう北国へ帰っただろうかと思いやる。一仕事終えた気持ちのゆとりが、鶴への思い、またどこか北国にいる懐かしい人への思いにもつながるような。

生温い目をして鴨の残りたる 堀真知子
 鴨は春になると北国へ帰って行くが、少数の鴨はそのまま留まっている。それを残り鴨、あるいは春の鴨という。これからの暖かい春、そして暑い夏もそのまま過ごすとなれば、本来冬鳥の鴨にとってもそれなりの覚悟が要る。まだ少し迷いがあるのか、その目は「生温い」感じとみた。それは作者の、残り鴨への気
遣いの現れともみられよう。

八十路なり眼をパチクリと春ウサギ 本田日出登
 いつの間にやら八十歳代に入ってしまった自分自身に、ちょっと驚いている図。若い頃、八十歳代といえば超高齢者の感じで、とても自分がその年齢まで生きるとは想像できなかったように思う。また現在の自分がその八十歳代に入ったという感覚自体、一向に腑に落ちない。かつて予想していたような老境についての貫禄も意識も、今は自覚できていないのが有態のところだからである。だからこの作者同様、そういわれてもなあと、眼をパチクリさせているのが実感。これはもう待ったなしの世代感覚である。「眼をパチクリと春ウサギ」は、そんな自分自身の有態に驚きあきれていることへの比喩だろう。

◆海原秀句鑑賞 佃悦夫

鴨の逆立ち魍魎の水底へ 石川青狼
 鴨は何処でも見られる馴染みの候鳥だが、餌を捉えるために尻丸出しで水底へと急転回したのだろう。水底は普段あまり関心が無いものであり、異界といってもいいだろう。何が待ち構えているのかは水底に達してみなければ判らない。魑魅魍魎の闇の世界かも知れない。餌だけに関心のある鴨にとっては底知れぬ異界だ。念のために広辞苑を索いてみると“山の怪物や川の怪物”とあるが、仏教観が投影しているのかも知れぬ。その世界から瞬く間に水面へと浮上して光を存分に浴びたことだろう。

花冷えのからだは薄き器なる 伊藤道郎
 人間の記憶ほど曖昧なものはないが、今年の桜どきは気温の上下がはなはだしく、そのためもあって桜を堪能できたのは珍しいことではあるまいか。人体は一つの器と作者も言う。“器なる”と断定は避けてはいるものの、この比喩は適切といえよう。気温が高ければ厚き器と言ってもいるが、花冷えの季節の人体の自覚はまさに“薄き器”に違いない。原因“花冷え”結果“薄き器”という書き方は決して斬新とはいえまいが、比喩で生きた一句である。

枯れ草の美し日あり風ありて 内野修
 折口信夫ではないが“ほう”と声を挙げたくなる世界だ。誰も枯草などに心を奪われはしないものに“美し日あり”と自然の営為を見過ごさない作者。風に靡く平々凡々たる景に美を見出している。“枯れ草”は、ほんの自然の片隅で己の在りようを訴えている。作者は誇張も主張もせず淡々と書くばかりだが、作者の人生観がその根底にあると言ってもいい。この手法は独自のものがあり、厭味など無縁の人柄のように思ったりした。

花冷えの空の明るく切手買う こしのゆみこ
 とある一日のある時のことの報告である。どのような切手かは読者の想像に任せている。少しも力みがなく邪心もない。それが“空の明るく”と言わしめた所以である。空気の冴えた天空の明るさを存分に浴びて、ふと切手を買ったのだが、作者の姿の輪郭がくっきりと印象された。この“切手”は青空飛翔へのパスポートになったかも知れぬ。
葉桜や水びたしの情念であった 佐孝石画
 情念――硬い言葉をあえて使っている。これ以外の言葉は考えられなかったのだ。歳時記の常識を粉砕してしまう中七だ。“葉桜や”と常套手段に見せてどんでん返しを喰らわせている。“水びたしの情念”とは一体何なのか。濡れた情感、その持ち主の豊潤な肉体にも思いが及ぶ。作者の住む北陸の季節の“水びたし”の水がこんこんと湧き上ったに違いない。

鶴はもう渡り終えしか夜の稿 田口満代子
 鶴引く、あるいは鶴帰ると歳時記は言う。春が近づいて北帰行する冬の天使は続々と群れを成す。作者は深更に及んで机上の原稿に思いあぐねているかも知れない。天空はるかの聴こえないはずの優美な鶴の羽搏きや啼き声を確認したことであろう。季節の移ろいは寸分狂わず(最近はそうと言い切れないが)運行しているのだが、天空の鶴と地上の作者の姿が濃いものになっている。

花の昼大河も死者も仰向きに 中村晋
 東日本大震災の死者への鎮魂と読める。シェークスピアのオフェリアのように花飾りをしてはいないが死者は他界を目指して行く。春爛漫を欺くかのような屍を幻視、いや実体験であろう。それにしても死者は自分の意思で仰向けになって天上界に訴えているのだろう。

陽炎のセクシー猫ゆくもセクシー 西美惠子
 陽炎をセクシーと受け止めた感性は斬新だろう。それも猫の行く景もまたセクシーだという、作者の手柄としたい。春昼のアンニュイをセクシーの二語で畳み込んでいるのは面白いではないか。猫自身、わが輩はセクシーであるなどと少しも思ってはいない。猫の知ったことではないのだ。

あまねく光りよ弥生讃岐の糸車 野﨑憲子
 即、南無大師遍照金剛を想起した。自然界の神は平等である。怒る時もあるし慈愛の時もある。この一句は弥生という季節の讃歌であるが、地上界に遍く光を降り注ぐ太陽を“光りよ”と讃嘆する。この光無くして生物は一日も生きられぬ。人間もこの糸車もともに光を浴びているのだが“讃岐の”と特定して縁の浅からぬ弘法大師が顕現した。女人が代々引き継いできた糸車自身は決して語るわけではないものの作者にはきっと聴こえているのではないか。その紡いだ糸で織り上がったのは胎蔵界曼陀羅図以外には考えられないと、ひそかに思った。

 ほかにも桂凜火、白石司子、鳥山由貴子、丹羽美智子、武藤鉦二、茂里美絵、山内崇弘、梁瀬道子、横山隆の作品にも触れたかったが紙数が尽き、割愛せざるを得ないことになったのは残念である。

◆金子兜太 私の一句

潮かぶる家に耳冴え海の始め 兜太

 「海程」創刊、という前書きのある句。昭和三十七年四月が創刊である。創刊に対する強い決意が窺われる句である。〈潮かぶる〉に、これから起こるであろうことを予感し、〈耳冴え〉に、冷静に対応し、各種の困難に立ち向かう決意があふれている。「海程」という海の始まりである。この後の昭和六十年に、主宰誌へという新たな潮をかぶることになる。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。川崎益太郎

海とどまりわれら流れてゆきしかな 兜太

 夫人を伴って、オホーツク海を旅した折に詠まれたといわれる掲出句。海は原初のままの姿でそこにとどまるが、現実のわれらは人間社会の日々に帰ってゆくよりほかないと書く。作者特有の情感が、不変の大自然・海という悠久のいざな存在に、人界の摂理を切なく響かせ、その造語「定住漂泊」へと誘う。〈海程海隆賞北村美都子君〉の為書とともに、兜太先生より賜った真筆の一句である。句集『早春展墓』(昭和49年)より。北村美都子

◆共鳴20句〈5月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


大西健司 選
空耳と思いこんでる霜夜かな 伊藤淳子
ペンギンの足のようなる愛探す 榎本祐子
流星群灯をつけるとなお淋し 大久保正義
冬の灯の静寂母の手縫いです 大沢輝一
○猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
凍蝶の翅より影の剝落す 片岡秀樹
ついに言いそびれて冬の鵙となる 北村美都子
◎遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
野は枯れて鴉のねぐら火の匂い 篠田悦子
和箪笥に広がってゆく母の枯野 白石司子
○図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
ラガー等に雪よふはりと浮く巨石 田中亜美
野水仙何処までとはただ遠く 遠山郁好
冬空に越えられぬ坂海鵜低く 仁田脇一石
お降りや雨戸の軋む家族写真 日高玲
おけら火や人間という遠い青 藤野武
○鷹匠のまず天網を指し示す 松本勇二
大晦日錆びたる戦車に犬眠る マブソン青眼
ポインセチア或いは幻聴かもしれず 茂里美絵
逢うことは暇乞いだよ枇杷の花 山口伸

片岡秀樹 選
数え日やメモ一つ消しひとつ足す 伊藤巌
師は谷を谷は師を見る霧の村 大髙宏允
君の靴は遠い日の舟冬の虹 大西健司
石蹴りのような日常実南天 川田由美子
○冬の蜂なり人体という音叉 久保智恵
振り子のような小鳥のような初日記 近藤亜沙美
◎遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
ケンケンパケンケンパッパ冬北斗 菅原春み
○図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
○さっきまで山羊といたような空白 遠山郁好
○雪つむ木々書体も文体も肉体 中村晋
○なまはげの湧き出て星の余る村 丹生千賀
柊の花より零れ母の影 野﨑憲子
荻の穂の白い高さを矜恃という 平田薫
○鷹匠のまず天網を指し示す 松本勇二
くるぶしの寂しさ枇杷の花咲きぬ 水野真由美
エッシャーの絵を出られない煮凝よ 三好つや子
正月の風呂正月の月愛でつ 村田厚子
定位置は定位置のまま花八手 山下一夫
死ぬ理由どれにしやうか目白飼ふ 横山隆

桂凜火 選
ビー玉のなかでとがって冬の魔女 阿木よう子
強がりの渚冬の波尖らせて 伊藤幸
一月の景は背後の白けむり 伊藤淳子
九条危うし白菜漬が酸っぱいぞ 宇川啓子
流星群熊野へ蒼き馬奔る 大西健司
飼い慣らす数多の怒りみぞれ雪 加藤昭子
嘘でしょう訃報突き当たって冬木 北村美都子
一人というしあわせな不安雪兎 黒岡洋子
夢を喰ふけものや夜を着ぶくれて 小西瞬夏
あの人もこの人も舟冬の雷 佐孝石画
かんかんに雪を計っている雪おんな 白井重之
人日の十指に沼の湿りかな 白石司子
冬至粥無聊という平安 十河宣洋
雑煮食う辺野古が土砂で埋まる中 滝澤泰斗
耳たぶはつめたいやわらかい雫 月野ぽぽな
冬のサボテン好きなことだけして暮れる 鳥山由貴子
言吃るわれに凩の日溜り 野﨑憲子
雪割草闘志というも仄明かり 村上友子
寒牡丹あえかにあえぐあかつきの 山本掌
化学反応みたいにふたり春着で 六本木いつき

日高玲 選
老老に猫と猫付く嫁菜咲く 内野修
動かねば影が先行く冬耕もん 大沢輝一
孤独癖父は兎になっている 大髙洋子
ホイアンの予言書綿虫がいっぱい 大西健司
○猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
羽ばたきは鈍色の針冬野道 川田由美子
はたと止む吹雪に耳を攫われし 北村美都子
○冬の蜂なり人体という音叉 久保智恵
朝焼けや生命のように粉雪舞い 故・児玉悦子
◎遠く白山思慮深き筋肉である 佐孝石画
子狸の死の晒されて羽後落暉 佐々木香代子
小鳥来る人のことばの苦しきとき 篠田悦子
○さっきまで山羊といたような空白 遠山郁好
○雪つむ木々書体も文体も肉体 中村晋
○なまはげの湧き出て星の余る村 丹生千賀
築地塀ひらり冬陽は猫になり 三世川浩司
真冬なりすうっと高し何もなし 三井絹枝
寒に入るトイプードルの二割引き 三好つや子
ドローンを追う黒猫のと雪割草 村上友子
お布団を出られない戦争がゐた 柳生正名

◆三句鑑賞

冬の灯の静寂母の手縫いです 大沢輝一
 ぶっきらぼうに「母の手縫いです」と独白する作者の思いの深さがしみじみ伝わってくる。具体的に手縫いの何かは書かれてはいないが、形見の品だろうか。たとえば母の大切にしていた着物とか。片づけの最中にでも出てきたのだろうか。それとも母の手縫いのような静寂とでもいうのだろうか。冬の夜の寂しさがあまりに重い。

大晦日錆びたる戦車に犬眠る マブソン青眼
 大晦日という日本的なものにそぐわない、戦車という破壊兵器の存在。しかもそれは錆びているという。過去の遺物というのだろうか。街角に放置された戦車が違和感なくそこにある。傍らに眠る犬の存在が救いとなり、どこか異国の街角の、ごく普通の日常光景のように思えてくる。「犬眠る」が実に効いている。

逢うことは暇乞いだよ枇杷の花 山口伸
 伸さんももう九十歳を超えたのだろうか。逢うことは暇乞いとはあまりに重く響く。そんなこと言わずにまた逢いましょうよ。そんなふうに言いたくなる。たとえ内容は重くとも、このように伸さんらしく飄々と書かれると、まだまだ余裕だなと思ってしまう。地味な枇杷の花が来し方を思わせ、伸さんの笑顔が浮かんでくる一句だ。
(鑑賞・大西健司)

冬の蜂なり人体という音叉 久保智恵
 人間の身体は、共鳴体である。私達の精神が、ともすれば孤独の洞窟に各々を閉じ込める傾向を持つのに対し、私達の身体は、踊りや歌、宴や祭によって、あるいは性や創造の営みによって、絶えず世界や他者と共鳴しようとする。冬の蜂、ここではそれは閉ざされた闇を開口する一条の刺激であり、共鳴の端緒となる羽音であろう。

振り子のような小鳥のような初日記 近藤亜沙美
 「初」日記が私達に実感させるのは、一年間という時間である。それは、一方で「振り子のよう」に、正確に反復される機械的なものであり、他方で「小鳥のよう」に、偶然恩寵的にもたらされる一回限りの固有性を持つ。そのような単調さと、ささやかな幸福から成り立つ日々を、作者は日記に愛おしげに綴っていくのである。

図書館はむささびの翔ぶ森のよう 芹沢愛子
 図書館は「知の森(ナレッジ・フォレスト)」によく喩えられる。この句の手柄は、それを「むささびの翔ぶ森」としたことにある。世の中には調べ物をするならネットで充分、と考える人がいるが、他人が張ったリンクを辿るだけでは知的な創造には程遠い。書架から書架へ、むささびのように翔ぶ自由、真の知の快楽を、この作者は知っている。
(鑑賞・片岡秀樹)

ビー玉のなかで尖って冬の魔女 阿木よう子
 ビー玉の中にいる魔女って小さすぎて可愛い。と思うのだが、いやいやその魔女「尖っている」というのだから安心ならない。やはり魔女は何かしでかすかもしれぬ。しかも冬の魔女ときたら雪女……氷の女王……。いろいろな想像が生まれるピリリと辛い句に魅了された。またこの魔女、少し苛立つ作者の分身とも読め楽しめた。

あの人もこの人も舟冬の雷 佐孝石画
 「あの人もこの人も舟」の導入にまず心を掴まれた。何にも説明されないが海に浮かぶ大小の船のような人々を思うことができる。そして「冬の雷」の取り合わせによって、雷だけでなく、たちまち船の揺らぎ、海の波立ち、風のざわめきまでも加わる。その景の中で、孤独より連帯をみようとしている作者の視線に心ひかれた。

雑煮食う辺野古が土砂で埋まる中 滝澤泰斗
 テレビで映し出される辺野古に土砂が入れられる光景を複雑な思いで見た人は多いと思う。「雑煮食う」安心を沖縄の犠牲の上に贖っている後ろめたさのような気持ちに共鳴できた。映像と現実を「埋まる中」と接合したことで、時間軸と空間軸をうまく飛び越えた点に着目したい。
(鑑賞・桂凜火)

猪に影を踏まれて三ヶ日 奥山和子
 大都会でも意外なほど身近なところに野生動物は生息しているが、都会人はひたすら拒絶しながら暮らしている。作者は飼い犬を守るため、鎌で蝮をぶった切るようなこともあるらしい。一瞬の迷いが犬の命に係わる、そんな日常感覚。作品にたびたび登場する猪や鹿や蛇。野生生物への奥行ある生命感覚が命への共感を醸し出す。

朝焼けや生命のように粉雪舞い 故・児玉悦子
 今年二月に九十一歳で逝去された作者。掲句は一月に投句された作品となっている。作者は晩年、横浜市から故郷信州に居を移し農事に勤しんだと伺った。死を前にして万象が命に満ち満ちていると、この様にまざまざと感じられる。そのことに感激する。「山肌の落日の美追いにけり」の句もあり。

子狸の死の晒されて羽後落暉 佐々木香代子
 農事に携わるものにとっては狐狸は害獣であろう。駆除の果てには狸の子も混じるのか。「子」の一字がより哀れを呼ぶ。「羽後」の地名が利いている。小さな生命が土地の暗がりの中に溶けるように消滅していくが、その刹那、祝祭のような落日に染められていく。哀れにも美しく命のあり様を詠った。「羽後落暉」の硬い語感が響く。
(鑑賞・日高玲)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

春北風お辞儀の角度は自由です 綾田節子
ロマンチックタック目借時なる蛙かな 飯塚真弓
ポケットに絡まるイヤホン朧かな 大池桜子
ブッチャーの涙草餅いただきぬ 大渕久幸
春深む本にアジられ眠れぬ夜 荻谷修
少しずつ慣れるあだ名やライラック 木村リュウジ
卯の花腐しgジーを感じる昼下り 日下若名
老桜に洞老人に虚ろあり 黒沢遊公
身をたたく雨だけを雨だと思ふ 三枝みずほ
転倒は段差二センチ自失せり 菅谷トシ
薯の芽を搔き春愁に無頓着 鈴木栄司
よく眠る兜太をつつく百千鳥 高橋靖史
あれだべさ雪塊かっぽんかっぽん流れてさ たけなか華那
わが足の危ふき処飛花落花 立川弘子
心象に寅さんの土手あやめ咲く 立川真理
朝帰り不機嫌そうに蛇出づる 館林史蝶
身を浄む若水血脈走るなり 中川邦雄
ジャズの香と夜桜我をたどる指 中野佑海
蛞蝓の蹲りし跡形となり 中村セミ
被曝ざくらの心音満ちる夜の森 野口佐稔
生きてるつてどこか恥づかし蛇穴に 野口思づゑ
裏山の懸巣さよなら離農する 前田恵
忘るるは慰めに似て春の雲 松本千花
風に乗り囀り届く獄舎かな 武藤幹
たんぽぽのわた吹く柔らかい自虐 望月士郎
積年の花の冷え沁む女体かな 森本由美子
危険な恋あきらめられず青蜥蜴 横林一石
うわーんと羽音が沸いてる花菜畑 吉田和恵
野遊びに小刀を持つ祖母なりき 吉田もろび
母といふ幻知つてゐる桜 渡邉照香

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