『海原』No.9(2019/6/1発行)

◆No.9 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

毀れゆく無韻の時間ひとは花に 市原光子
ミモザ降る頃か遠国の石畳 大池美木
雲海の底兵馬俑のような原発街 大久保正義
みちのく一列海への黙禱ぬいぐるみ 岡崎万寿
海老蔵の「にらみ」風邪気味初芝居 奥山富江
一方通行路を恋猫の激走す 片岡秀樹
フクシマやスローモーションの牡丹雪 桂凜火
嘘つきだなあガーゼみたいな風邪声 木下ようこ
厳父なり犬と揃いの赤セーター 楠井収
料峭や写真の裏に母のメモ 黒岡洋子
麦を踏む残照に眼のぬれしまま 関田誓炎
立春や女性左官の鏝捌き 髙井元一
兜太忌や山齢一つ加えたり 高木一惠
雪柳君といる仮説を立てる 竹田昭江
ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
つくし野に縄文土器の湿りあり 月野ぽぽな
ピラカンサ名は成さねども友多し 寺町志津子
苔寺に慈雨楚々と降る牛横切る 中内亮玄
生しらす愛憎もまた遠い景 藤野武
涅槃西風またはじめから数へ歌 前田典子
共犯者の顔していたり花粉症 松井麻容子
陽炎グニャグニャ性悪猫くるぞ 三世川浩司
優しさうな梅のおでこにことんと愛 三井絹枝
一周忌ってまだ仮縫いのよう土筆 宮崎斗士
マスクして居留守のような昼の顔 三好つや子
さびしいは自由の同義語冬カモメ 室田洋子
牡蠣啜る寄り目の妻のあどけなき 森鈴
乙女らが酸葉噛んでるどっと水音 矢野千代子
鉄漿おはぐろの雛の首の折れやすき 山本掌
朝の自分好きになるようあさり汁 六本木いつき

若森京子●抄出

納棺師動かざるものに春の虹 赤崎ゆういち
寒三日月あうんのうんに罅割れる 石川青狼
フクシマといい沖縄といい蓮根太る 稲葉千尋
春耕の風景の中でしゃがんでいる 井上俊一
油差す細き一筋春の昼 井上広美
正確に祈る形よ白ふくろう 大髙洋子
軍靴響く饗庭野あいばの鳥の影寒し 大西健司
ドッペルゲンガー梅林に汝と吾と 尾形ゆきお
凍土ひそひそひそケルト文明史 小野裕三
海鼠切る吾が体幹のゆらぎかな 狩野康子
寒林を抜け源流へ風蒼き 刈田光児
おしゃべりはひかりの遊び花三椏 河原珠美
生き物の凹みにたまる春の雨 こしのゆみこ
寒椿胸に聖書の島育ち 小松よしはる
魚影沈みいる深海の冬の部屋 佐々木義雄
蚕豆の皮をつるりと自由市場 重松敬子
ジャーナリズム春北風は馬の匂ひす すずき穂波
ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
春愁や輪ゴムをギターのようにき 峠谷清広
いやに静か瓜盗人の乳首立つ 遠山恵子
ヒヤシンス風の少年導火線 鳥山由貴子
麦秋の彼方へ人は火事を抱き 中内亮玄
多喜二の忌雪深ければ影青く 新野祐子
足裏がうぐいす餅ねと麻酔女医 仁田脇一石
憂鬱という字の中のフィヨルドよ 北條貢司
身体中しぐれいっぱい朝の父 松井麻容子
春星はるぼしふたつ切り絵ひらけば野外劇 村上友子
春の瀞先生スープ召しあがれ 室田洋子
へその緒を戻してみたき雨水かな 山下一夫
ほのほのと鳥語で爺は雛遊び 山本掌

◆海原秀句鑑賞 安西篤

ミモザ降る頃か遠国の石畳 大池美木
 ミモザの花は、どこか南国の楽園を想像させる。フランスでは、この花が咲き出すとミモザ祭が行われ、春の訪れを喜ぶという。作者には、この遠い憧れの異国を偲ぶ思いが湧き出てきたのではなかろうか。例えば、パリはモンパルナスの石畳あたりを想像しているのかもしれない。黄金色の花が穂状に群がって咲き、どこかエキゾチックな情緒を誘う。遠国に旅立った懐かしい人への思いにもつながる。

みちのく一列海への黙禱ぬいぐるみ 岡崎万寿
 三・一一の犠牲者に対する追悼句である。すでに八年の歳月が流れているのだが、被災した人々の時間は止まったままだ。「喪えばうしなふほどに降る雪よ」(照井翠)という句もあるように。掲句は、その思いを抱いて黙禱しつつ、幼くして亡くなった犠牲者のために、せめてぬいぐるみなと捧げたいとしている。「みちのく一列」とは、そんな追悼の思いを抱いた人々の一団が列をなして黙禱をしつつ、亡くなった人を偲んでいるのだ。作者の中に、「震災後」という日々は終わっていない。

フクシマやスローモーションの牡丹雪 桂凜火
 この句の作者も前句同様の思いを抱いているのだろう。「フクシマ」とカタカナ表記したことで、すでに原発被災への思いを馳せていることは明らか。「スローモーションの牡丹雪」が時間の流れを緩めながら、その一刻一刻を味わいつつ、自分自身に言い聞かせているものがある。今、何が問題でなにをなすべきなのか。いや、せずにはいられないのか。それでいて抱き合ったまま動けずにいるような思いも。「スローモーション」が、その内面の動きにも反応しているのではないか。

立春や女性左官の鏝捌き 髙井元一
 立春は陽暦二月四日か五日頃。まだ寒さは続いているものの、陽春に向けての仕事は始まっている。近頃は女性の男子労働への進出も目立つようになってきた。左官業もその一つなのだろう。まさに職人の仕事で、戦前は考えられないことだったが、今や女性左官も目立つようになってきている。そんな女性左官が鮮やかな鏝捌きを見せている。その仕上がりぶりに女性ならではのきめ細かさもあって、思わずほれぼれと見入っている立春の日。「イイネ」と作者は呟いているのだろう。

兜太忌や山齢一つ加えたり 高木一惠
 兜太先生の忌日も、はや一周忌を迎えた。先生のご逝去をまだ信じられないような思いの中にあって、否応なくその事実を確かめさせられている。はるか両神の山を望んだとき、山の齢も一つ年を加えたのだなあと思う。その思いは、兜太先生の亡くなられて以後の年輪が、さらに確かなものとして刻まれていくことにも通ずる。両神山はそのことを知っているはずだ、と作者は思う。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 この句から、三陸の大津波を連想させられた。多くの人や生き物が津波の中で、絶望的なまなざしを投げながら流されていった。そのとき、人は人の匂いを、生き物たちは生き物たちの匂いをまといつつ波間に消えていった。その匂いは瞬時の間、漂流していたに違いない。春の岬はその事実を覚えていると、作者は受け取ったのだろう。

つくし野に縄文土器の湿りあり 月野ぽぽな
 「つくし野」は、平仮名表記なので、土筆の生えている野を意味するのだろう。「縄文土器の湿り」とは、縄文土器出土の気配を感じられるような野ということで、まだ出土している状態ではあるまい。作者には、その気配が濃厚に感じられるのだろう。それが「湿り」の度合いによって次第に濃くなっていくのだ。

共犯者の顔していたり花粉症 松井麻容子
 花粉症は、スギ、ヒノキ、ヨモギなど風媒花の花粉による季節性の鼻炎。多分にアレルギー体質によって症状が違ってくる。花粉症に罹る人は、当人でなければわからない苦しみがあるわけで、咳、くしゃみ、鼻づまり、目のかゆみ等が収まらない。それはまたはた迷惑な症状でもある。それだけに同じ症状の人達は、お互いに「共犯者」のような顔をしているような感じ。ワカルワカルという表情も見えてくる。花粉症の心理感覚を捉えたところが、この句のお手柄。

陽炎グニャグニャ性悪猫くるぞ 三世川浩司
 陽炎の中に包まれつつある感覚だろうか。日差しが強まってくるとゆらゆらと蒸気が立ち上って、その中にあるものが揺らいで見える。そんな場所には、「性悪猫」が来そうな予感がする。それは空間の質的な変化のようにも思われて、何か一大事とまではいえないまでも、日常の中の違和感のような軽い異変が感じられる。その予感を「性悪猫くるぞ」と言ってみた。言われるとそんな気がしてくる。「陽炎グニャグニャ」が、いかにもいたづらっぽい語感で「性悪猫」の歩き姿にも響く。

◆海原秀句鑑賞 若森京子

正確に祈る形よ白ふくろう 大髙洋子
 祈る形には色々あるであろう、そこに作者の魂が入っているかいないかで、形には関係なく〈白ふくろう〉の措辞によって作者の心模様が見え、祈りの自然な姿が現れている。〈かいつぶり只シンプルな片思い〉この軽妙な一句にも、〈かいつぶり〉の措辞によって中七、下五の作者の姿が見える。季語の効用が一句を支えている。

ドッペルゲンガー梅林に汝と吾と 尾形ゆきお
 〈ドッペルゲンガー〉ドイツ語から始まる哲学的な一句。梅林に幻覚現象により自分の姿を視覚し、そしてまた汝と吾と。自分と相手を客観視している。この実験的な語意と音感は不思議な世界を梅林に投影し創造している。〈僧のごと鬱の日の冬木立〉二句から作者の鬱々とした心の深淵を覗き見たようだ。実験的な作句意欲に共感した。

凍土ひそひそひそケルト文明史 小野裕三
 少しプライドが高く、未だに階級制度が渾然とあり、ビートルズや斬新なファッションがある反面、古典文学、伝統文化が生活の根底に流れ、どんよりと太陽の少ないイギリスに住む作者は〈ひそひそひそ〉と人声の様な、妖精の様な、時流の様なオノマトペを一句に詠んでいる。〈ケルト文明史〉の想定外の厖大な空気に圧倒され呆然とする作者の姿が見える様だ。

海鼠切る吾が体幹のゆらぎかな 狩野康子
 得体の知れない形態の海鼠を切る時の心のゆらぎを〈体幹のゆらぎ〉と具現化している。宮城に住む作者は大きな被害を体験し〈体幹のゆらぎ〉の発語がリアルに響いてくる。〈言葉短かし子の部屋の奴凧〉淡々と親子の心情を書いているが、親子の絆として奴凧がクローズアップされる。あの大災害から一層家族の絆は強く結ばれているのであろう。

寒林を抜け源流へ風蒼き 刈田光児
 清漣を見る様な清々しい一句。〈源流へ風蒼き〉のフレーズは青春そのものだ。他に〈北帰行少女無心に梳る〉〈体内に抒情部屋ある名残雪〉このロマン溢れる抒情の部屋をこの作者にずっと持続して欲しいと願う。

ひとはひとの匂いを漂流春岬 竹本仰
 〈ひとはひとの匂い〉の措辞に現世に生きる人間を彷彿とさせる。その匂いが漂流した〈春岬〉。この春の岬は豊潤な岬の様でもあり、また現世から異界への浄土なのかも知れない。〈夜の海のようだ肺へも月あかり〉この心象風景は前句とは対照的に自分の内なる魂に問いかける捉え方。しかし僅かの月あかりを感じている。僧侶でもある作者は絶えず現世から異世へと往還する精神の動きがあり、作者の仏教思想とも思える二句だ。

いやに静か瓜盗人の乳首立つ 遠山恵子
 日常の中の小さな事件。しかしこの一行には人間の本能、生態が内包されている。盗人からすれば〈いやに静か〉に感じたであろうし、〈乳首立つ〉で異常事態が肉体に反応したのであろう。〈蛇笏忌や目玉の乾く街に居て〉〈「幸せ」って声に出さなきゃ百日紅〉この二句も日常で触れる作者独自の情感の流れがあり、後句の〈百日紅〉の季語は上手い。

ヒヤシンス風の少年導火線 鳥山由貴子
 〈ヒヤシンス風の少年〉とは最近よく見る中性的美少年を想像する。しかしその子が導火線となる危機感を孕んでいる日常感。〈春の風邪石灰石の貨車過る〉春の風邪は陽気の中で長引き、案外厄介なものだ。その喩として〈石灰石の貨車過る〉が実に上手く前句と同様危機感を独自の感性で日常の中で掬い上げている。

多喜二の忌雪深ければ影青く 新野祐子
 金子先生がお好きだった〈多喜二の忌〉は兜太忌と同じ二月二十日だ。季重ねだが中七、下五の表現が一句を深くしている。他の〈啓蟄や尹東柱ユンドンジュの詩よみがえる〉〈安らぎは非武装地帯鳥帰る〉〈母の忌の薄日の中の菜飯かな〉〈放射能なお積む沃土霾ぐもり〉、どれも智と情のバランスがよく、全五句にチェックした。

足裏がうぐいす餅ねと麻酔女医 仁田脇一石
 このコミカルな日常を捉えた一句、大変頰笑ましい景が眼に浮かぶ。手術前の緊張感を和らげるための女医の愛情も感じる。他に〈百円の春よ会議の吹かれけり〉百均の店が流行る昨今、〈百円の春〉と潔く言い切る大胆さ、会議はどうにでもなれと、ふて腐る気質が現代人らしい一面を見る。

ほのほのと鳥語で爺は雛遊び 山本掌
 〈まなかいのほの青みゆく雛の夜〉で始まる雛まつりの五句は、作者から醸し出されるみやびの世界である。〈鉄漿おはぐろの雛の首の折れやすき〉〈遠流すべし鉄漿おはぐろの雛のほほえみ〉年増の雛も混り、宴をしている。ほのほのと酔いどれ爺の姿が時をすりのぼって愉しく伝わってくる。

◆金子兜太 私の一句

果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太


 私が金子兜太先生が海程人であると認識し偉大であると感じた一句。それまでの私は、俳句も「海程」も金子兜太でさえも、知らなかった。しかし、この句に出会い「俺の」の自由性に感動した。俳句が楽しくできそうな瞬間だった。金子兜太先生や「海程」の諸先輩や皆様に刺激を受けてきた。その中でも金子兜太先生は断トツである。『金子兜太句集』(昭和36年)より。奥野ちあき

「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街 兜太

 港に近い街の片隅のガード下、霧笛の響きがやるせない。石原裕次郎出演の映画の一場面を見るようだ。汚い落書きやビラがところ狭しと書きなぐられ貼りめぐらされている、そのなかに、吃音矯正のビラにこころを惹かれた。自身が若干の傾向を隠し持っているためか、体とこころの乖離を体験しアイデンティティの回復を果たせぬまま、日々を漂流している体制のなかの少数派の立場を思いやって考えているのか、このままでは終わらせないストーリーの続きを感じさせる組立てを見せる作品だ。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。竹内義聿

◆共鳴20句〈4月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句


大西健司 選
○もう人を愛さず鶏頭の立っている 榎本祐子
○父という木の箱舟を冬怒涛 桂凜火
合せ鏡の奥の淋しさ鳥渡る 金子斐子
独白は毒吐く軋みきりぎりす 黍野恵
霜の夜の妻抱くように位牌拭く 木村和彦
○嚔する寸前異界にちょっと寄る こしのゆみこ
鼬通り過ぐ風の音を残し 白石司子
残菊に淋しさ残る夕化粧 新城信子
凍蝶のぬかるみにゐる影淡し 菅原春み
犂牛くろうしや月山丸ごと冬眠す 鱸久子
○無防備なたましひの列ラガー果つ すずき穂波
○寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
◎愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
一人の仮設に百も柿干す祖母を許す 中村晋
○東京奇譚古アパートの竈猫 日高玲
大根炊く夫の寡黙を手で量り 藤田敦子
○黄落の靴ひもギュッと立ち直る 本田ひとみ
行く秋の海の匂いの遺品かな 武藤鉦二
○蓮の実飛ぶもう一駅歩こうよ 室田洋子
○野火恍惚と師よ存分にさようなら 若森京子

片岡秀樹 選
北風を来てたそがれが現住所 伊藤淳子
冬桜アルカリ性の恋をして 伊藤雅彦
銃眼あり石蕗の黄の際立てり 大西健司
冬銀河正しい位置にアキレス腱 奥山和子
山眠る夜へと綴る筆記体 小野裕三
○父という木の箱舟を冬怒涛 桂凜火
○嚔する寸前異界にちょっと寄る こしのゆみこ
小春日を脱ぐように鳩放ちけり 近藤亜沙美
蜻蛉散る刹那の光だったとは 佐々木香代子
下駄箱に並ぶ上履き開戦忌 新宅美佐子
○無防備なたましひの列ラガー果つ すずき穂波
◎愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
冬銀河回転木馬に鞭を打つ 鳥山由貴子
○東京奇譚古アパートの竃猫 日高玲
○黄落の靴ひもギュッと立ち直る 本田ひとみ
顔役のつもりの案山子担がれる 武藤鉦二
○蓮の実飛ぶもう一駅歩こうよ 室田洋子
○煮凝りやここに人間探求派 山本掌
やたら母は枯蓮の真似をする らふ亜沙弥
凍蝶一頭いまからプライベートです 若森京子

桂凜火 選
○もう人を愛さず鶏頭の立っている 榎本祐子
よく晴れた空と風と掌の木の実 黒岡洋子
煙突が白蝶を吐く震災忌 小西瞬夏
父母という白い季節に会いにゆく 佐孝石画
人の手に人の淋しさ冬夕焼 佐藤詠子
流星群兜太の星に旗を振る 釈迦郡ひろみ
瞼にて文字打つ詩人寒北斗 すずき穂波
ゆきずりの径なり茶の花日和なり 関田誓炎
大停電闇を踏み抜き木の実降る 十河宣洋
願わくはわが空欄に冬すみれ 竹田昭江
ふたりいつも違う夜にいて初時雨 竹本仰
○寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
ほんとうは雪は星になりたかったの 月野ぽぽな
失語のよう我に汚れた冬の窓 鳥山由貴子
蟹割ってみて雪明かりと思う 中内亮玄
戦のにおいサンタ淋しき眉と髭 船越みよ
無言といういちばんの嘘冬牡丹 宮崎斗士
骨になった魚うつくし寒茜 茂里美絵
なまはげを解いて見事な恵比須顔 山谷草庵
○野火恍惚と師よ存分にさようなら 若森京子

日高玲 選
突然死こんなにおしゃれ真弓の実 稲葉千尋
ちょろぎ齧りいて分骨の喉仏 大高俊一
銅鏡を鎮め菱の実の匂う 大西健司
ざくっと齧る新しきことば黒うさぎ 桂凜火
銀杏黄落あちこちリンパ押してみる 北上正枝
母の角部屋秋の観覧車の隣り 木下ようこ
冬草に人は無声の映画なり 久保智恵
まつさらなからだをしまふ長き夜 小西瞬夏
セーターが青い化石のように座す 清水茉紀
われ凡夫海鼠の沈黙を信ず 白井重之
冬沢の犇めく暁の鹿若し 関田誓炎
漂鳥よ葱のしろさの片しぐれ 田口満代子
◎愛は消えてもそこはまぁ紅葉です 故・谷佳紀
鯉は鳥に近づき椿でしたか 平田薫
唇の次に触れたい初氷 藤原美恵子
淋しさは神の采配とろろ汁 松岡良子
鮭燻す天地にまた人葬り 柳生正名
○煮凝りやここに人間探求派 山本掌
自販機にオニオンスープか笹鳴か 六本木いつき
名刺交換かすかに枯蘆すれる音 若森京子

◆三句鑑賞

霜の夜の妻抱くように位牌拭く 木村和彦
 奥様を亡くされたのだろう、あまりに哀切な妻恋の五句が胸を衝く。特に掲句は、「妻抱くように」と書かれているだけに、その切なさは半端ではない。愛おしい思いを胸に位牌を黙然と拭いている、老境の男性の切ない背中が見えてくる。また四句目の一人分の米を研ぐ様など本当に身につまされる。

一人の仮設に百も柿干す祖母を許す 中村晋
 祖母の行為を許すという、そんな切なさに遠く福島の空を思い浮かべている。独りぼっちの仮設住宅に暮らす祖母は、今も昔のように柿を剥き、干している。集落の中での暮らしのひとこまを忘れられずに今もなお。作者はそれを許すという。仮設住宅が未だに残る現実が重く響いてくる。

野火恍惚と師よ存分にさようなら 若森京子
 先生の追悼、追憶の句が溢れているが、あからさまな句はどれもこれも好きになれない。しかし、この句は素直に共鳴できる。「存分にさようなら」深い思いを振り切るように独白している。師との美しい別れを演出するのに「野火恍惚」とはあまりに切ない。凜とした先生の姿が思われる。
(鑑賞・大西健司)

北風を来てたそがれが現住所 伊藤淳子
 「北風を来て」が作者の来歴、「たそがれ」が現在位置を示す。無論、客観的なものではなく、作者自身の自己認識の反映である。「北風を来て」には、逆境の中で風雪に耐え抜いてきた凜とした来し方が、「たそがれ」には晩年の穏やかな諦念と自足が看取される。美しい佇まいである。

冬桜アルカリ性の恋をして 伊藤雅彦
 自身も相手も傷つける、身を焦がすような溶け合う恋を「酸性の恋」と呼ぼう。「アルカリ性の恋」は、そのような狂熱とは対極にある。温泉の湯質にたとえるなら、酸性はヒリヒリする刺激的な恋、アルカリ性はトロトロでリラックスできる恋と言えよう。若い時分なら破滅的な酸性の恋もいいが、中高年なら後者が理想だ。「冬桜」の措辞が効いている。

やたら母は枯蓮の真似をする らふ亜沙弥
 母の老いに直面し、子である私達は少なからずショックを受ける。狼狽え、眼を逸らしたくなることもしばしばだ。作者はその当惑を、やたら母が「枯蓮の真似をする」と書く。絶妙の比喩である。深刻な状況をふわっとユーモラスに受けとめる心の余裕、それこそ俳諧が私達の人生に齎してくれる効能の最たるものであろう。
(鑑賞・片岡秀樹)

寒月や抽象といふ石切場 田中亜美
 日常の猥雑の中で日々を過ごすことはある意味豊かで芳醇な時間だ。しかし、一方でその猥雑の中から何かの原石を掘り起こすような「抽象」への試みは、とても静謐で透明で孤独な時間である。思索の石切場で石を切り出す作業に没頭する者に「寒月」の光が寡黙な随伴者のように降り注ぐという詩的世界に感銘を受けた。

失語のよう我に汚れた冬の窓 鳥山由貴子
 大きな失敗でもあったのだろうか。拭いきれない悔恨の喩として「我に汚れた冬の窓」。しかもそれは「失語のよう」にあるという。弁解はできない。謝罪もしようがない。ただ、自己の中にある悔恨を見つめている。そう、この句に心を掴まれたのは、明らかな負の記憶に正面から向かい合う作者の姿勢に心ひかれたからである。

骨になった魚うつくし寒茜 茂里美絵
 「骨になった魚うつくし」と「寒茜」の取り合わせと読むのがわたしは好きだ。もちろん「うつくし寒茜」とも読めるように仕組まれていてその重層構造がこの句の魅力だとも思う。魚は「老人と海」のカジキを思わせるが、私はむしろささやかな食卓の鰈くらいを想像した。まるで生き切ったものの清潔な美しさとしての骨である。
(鑑賞・桂凜火)

まつさらなからだをしまふ長き夜 小西瞬夏
 酸素供給のためカプセルに入って休息するサラリーマンか、壊れた部品を養生し眠っているサイボーグなのか。保冷箱に物を納めるような「しまふ」の言葉に現代人のからだ感覚が伝わる。「まつさら」の措辞、秋の季語が白の色彩や乾燥した清潔な空気感を暗示する。疲労感を孕む現代人のナルチシズムが淡々と表現されて新鮮な感触。

冬沢の犇めく暁の鹿若し 関田誓炎
 夜明けの光が未だ深く届かない半ば凍てついた沢に若い鹿が群れて水を飲んでいる。薄暗の鹿のからだからは湯気が立っている。敏感に動く鹿の耳や漆黒の大きな目、柔らかい四肢の動きなどが想像される。「犇めく」の語から力強い命の表情が伝わる。冬の季が利いているからこそ、十七音に凝縮されたこの美しい景が生きてくる。

鯉は鳥に近づき椿でしたか 平田薫
 「鯉・鳥・椿」この三つの言葉の取り合わせから醸される「をかし」の感覚がたまらなく楽しい。実景として、池の鯉が餌の近くを泳いでいる水鳥に近寄ることはあるだろう。自然の表情の中に自ずと存在する「をかし」を捉え、「椿でしたか」と言うのは鯉なのか作者なのか。やや「をかし」が過ぎているが、この椿への飛躍こそ独特。
(鑑賞・日高玲)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

日向ぼこ埃みたいに隅が好き 綾田節子
煮凝りや信ずるに値するものとして 有栖川蘭子
春の雨に怨みの歌をうたいます 泉陽太郎
かわたれの底に眠るあなたは春 上野有紀子
亡骸と二人寝る間の寒さかな 大西恵美子
父の日や「正しい父」は額の中 岡村伃志子
懐炉持ち全身唇な感覚 葛城裸時
書き損じばかりの便箋木の芽雨 川嶋安起夫
青き踏む証明写真撮る顔で 木村リュウジ
不揃いのセーター親父バンド燃ゆ 黒済泰子
寒桜また夜の人たちが来る 小松敦
お正月静かな海へ舟を出す 近藤真由美
どの人もマスク近未来はそこに 三枝みずほ
水仙や夜空を見ない大人たち 高木水志
柔ら陽に風ほろ苦く兜太の忌 高橋靖史
水仙傾ぐΩオームのかたちで猫がいる たけなか華那
てのひらに感情線もち卒業す 立川真理
魂を抜いて塵芥捨案山子 土谷敏雄
久女の忌才女厨に落着けず 中川邦雄
亀鳴くや村と基地の出入口隣る 仲村トヨ子
また木陰で昼寝隣のニート 野口思づゑ
芽吹き雨誰の為でもなき時間 宏州弘
春を聴く水琴窟に妻傾ぎ 藤好良
くちびるに野生ふつふつアイヌ葱 前田恵
みぞおちに獅子眠らせる冬銀河 増田天志
ぼぉーっと生きてる最初はタンポポ 松﨑あきら
立春大吉パパがいるから怪我をする 松本千花
ひとり灯して白梟に囲まれる 望月士郎
初桜廃炉作業の人らにも 山本きよし
鳥雲に入る黙秘覚えし十三歳 渡邉照香

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