『海原』No.22(2020/10/1発行)

◆No.22 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

アマビエを刻して夏至の道祖神 赤崎ゆういち
もだという裸のこころほうほたる 伊藤淳子
篠の子やつんつんとする三姉妹 伊藤雅彦
行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
夏帽子フランスパン抱き鳥になる 大野美代子
どの鳩もみな首を振るカフカの忌 尾形ゆきお
はめごろしの窓二つ花粉症 奥山富江
躾糸抜いて賢母の大昼寝 川崎益太郎
数頁後には純愛青葉木菟 木下ようこ
平和とは濡れた素足を草に投げ 黒岡洋子
少年の自画像の目の深みどり 小西瞬夏
早桃捥ぐそして逢いたさ急降下 近藤亜沙美
自画像は聖五月という陰影 三枝みずほ
願いを込め隅々を拭く麦の秋 坂本久刀
セーラー服次々羽化す青水無月 すずき穂波
山独活はコロナ自粛の夜も太る 瀧春樹
雑に書くノート卯の花腐しかな 田口満代子
人形も双子ふたつの南風 竹本仰
万緑に小さき鉤裂き夏館 田中亜美
老い孔雀羽根広げたり無観客 田中雅秀
また霧が来て信号待ちの先生 遠山郁好
えごは実にマスクの視線交わらず 野田信章
象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
夕焼やニュースは今日の死を数え 藤田敦子
おはぐろ蜻蛉ふわり予言書は失せた 三世川浩司
専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
おっとりとAIの声ところてん 三好つや子
喪の家の次の雷光までの闇 武藤鉦二
教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
梅雨晴れやロミオ駿足橋わたる 吉村伊紅美

石川青狼●抄出

飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
もう鳥になれず五月の水たまり 伊藤淳子
吾子の背青蘆原に水脈を引く 川田由美子
緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
アンニュイなんて贅沢主婦に羊蹄 黍野恵
死に方にも本音と建て前糸蜻蛉 楠井収
逼迫の星降る地球水買いに こしのゆみこ
環状列石地が歌う蝦夷春蝉 後藤岑生
まだ消えぬ蛍ひかりのかたちして 小西瞬夏
早桃捥ぐそして逢いたさ急降下 近藤亜沙美
かくほどに右手はかたち失へり 三枝みずほ
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
夏の星磁石のような師の言葉 清水茉紀
鴇群れてアレを鴇色と母指せり 菅谷トシ
立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
「終わりの始まり」たぶんその続きの春だ 芹沢愛子
はくれんやくらくらとある友の死後も 十河宣洋
滝しぶき淋しい鳥が鳥を呼ぶ 鳥山由貴子
まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
仏間に沈む蘭鋳の甕自粛なる 日高玲
まばたきは更衣のようだ鶴数え 北條貢司
僕たちの敗北に似た五月闇 松井麻容子
囮鮎おれたちすることないもんね愛 松本豪
田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
梅雨コロナぽつぽつと折る傘の骨 水野真由美
ゆるくむすぶ後ろ髪に梅雨のけはい 三世川浩司
収骨や生あるものは汗ばみて 嶺岸さとし
草笛や亡父はジャージで会いに来る 宮崎斗士
卯の花にひとり食器のひかりかな 室田洋子
枇杷つるつる剝いた夕べに死すとも可 柳生正名

◆海原秀句鑑賞 安西篤

もだという裸のこころほうほたる 伊藤淳子
 蛍狩での出来事。その時の気分というか情感のようなものを書いている。おそらく蛍の光の乱舞に言葉を失って立ち尽くしているのだろう。その光の空間の素晴らしさは到底語ることは出来ない。どんなに言葉を尽くしても、語る言葉は沈黙には勝てない。その沈黙すれすれの言葉を語ろうとすれば、こころの中に渦巻いている言葉にならない裸のこころそのものを差し出すほかはない。「ほうほたる」の呼びかけが、その感動を伝える。「黙という裸のこころ」とはよく言い得たもの。

行間の三密麦の穂が痛い 大西健司
 「三密」とは、新型コロナウイルス感染症拡大期に厚生労働省が打ち出した標語で、「密閉・密集・密接」をウイルスクラスター発生の共通項として挙げたもの。「行間」とは原稿の行間だろうから、推敲の過程を書き込んだに違いない。その悪戦苦闘ぶりを、今稔り豊かな麦の穂の生育振りに喩えた。麦の穂の生い茂りは三密状態にあって、麦畑に入ると麦の穂に刺されて痛い。苦心の原稿の仕上がり同様に、嬉しい悲鳴の麦の秋。

少年の自画像の目の深みどり 小西瞬夏
自画像は聖五月という陰影 三枝みずほ
 ともに自画像を題材としているので、並べて鑑賞してみた。小西句は、「少年の自画像」とあるから、まさに少年の目の「深みどり」そのもの、モジリアーニを思わせる孤独感。三枝句は、対象となる自画像に「聖五月」のものとも見える陰影が宿っているとした。自画像は少年とは限らない。画題全体の印象が「聖五月」なのだ。清潔な季節感が瑞々しい。それぞれに爽やかな初夏の持ち味で自画像を彩っている。

老い孔雀羽根広げたり無観客 田中雅秀
 誰も居ない動物園。コロナ自粛によって閉鎖を余儀なくされている。その中で老いた孔雀が大きく羽根を広げていた。それはかつてないほどの見事なものだった。老い孔雀はせめてこの世への置き土産にと、思いっきり翼を広げたのだろう。しかし誰もみているものはない。当然無観客の檻の前。その姿も一瞬のことなのだが、それが老い孔雀にとってのたった独りの存在証明だったのかもしれない。

象番を呼んでいるのは月でした 日高玲
 象番とは、象の当番つまり飼育係のことだろう。見事な月夜に、象がいつのまにやら檻を出てしまったのか、あるいは体調不良でぐったりしているのか、とにかく象になんらかの異変が起きているのだろう。それに気づいているのは、月だけ。月は象番のいそうなところをくまなく照らし出して、急を知らせているかのよう。しかし今はなんの応答もなく、時だけが過ぎて行く。一体象はどうなるのでしょう。「月でした」という結びが、童話のエンディングを暗示する。

専門家会議鯰の出たり潜ったり 宮崎斗士
 「専門家会議」とは、内閣の新型コロナウイルス感染症対策本部の下で、医学的見地からの助言を行うために設置された部署。さまざまな議論が沸騰したという。ここでいう「鯰」の意味は定かではないが、大きな異変の元凶を象徴するものでもある。待ったなしの時間制約の下で、なんらかの対策に結びつくような提案を出さねばならない。もちろん実行は政府の責任だが、会議の帰趨はまさに「鯰の出たり潜ったり」だったことは、容易に想像がつく。

おっとりとAIの声ところてん 三好つや子
 AIの普及にともなって、その技術革新がさまざまな産業や雇用の構造に与える影響は測りしれない。ただAIは、人間のもつ知性とは本質的に違うものだから、人間の課題解決の役割がなくなるわけではない。「おっとりとAIの声」とは、そんなAIさんが出でましたという。「ところてん」がちょっと難しいが、時代の流れとともに、すんなりとおいでなすったとも受け取れる。ユーモラスな時代批評の句ではないだろうか。まともに考えれば、結構深刻なテーマだが。

教室や心の浮巣に一人居る 森鈴
 この場合の教室とは、若い学生の教室でなく、社会人向けの教養教室のような気がする。しばしばこういう教室では、友人と連れ合ったり、講師との関わりのようななんらかの絆があるものだが、個人の発意で来る人も少なくはない。定年になったり子育てが終わったりした人達の、なんらかの寄る辺を求める気持ちからだろう。とは言え年を重ねてからの教育環境の変化に、すぐには馴染めないこともままあり得る。また、長い経験の末にふと境涯感に誘われて、教室の仲間内にありながら孤独を感じることもありそうなことだ。結局は、人間の寄り合いの中での孤独感は、どうしようもないことかも知れない。とどのつまりはその人の生き方が決めるものだから(これは作者の個人的事情とは関係のない解釈)。

◆海原秀句鑑賞 石川青狼

飴かむ派なめる派糸とんぼ飛んだ 伊藤幸
死に方にも本音と建て前糸蜻蛉 楠井収
 伊藤句の「あなたは飴をかむ派?それともなめる派?」と唐突に尋ねられたら、思わず「噛む派」と答えるであろう。とにかく、のど飴を口にして味わうこともなく、カリカリと噛み砕く。「今に歯が欠けるよ」と言われたものだ。だが、ここに来て「老い」という厄介な代物に出くわし、意識して「なめる派」になってきた。老いの目安の歯、目、耳などの衰えとは無縁と思っていたのだが。作者は誰に向かって問いかけたのか。カリッと噛んだ音で、か細い「糸とんぼ飛んだ」か。楠井句は眼前の糸蜻蛉に自らを投影して、ふと自分の死に方を自問自答しているのか。はたまた家族や友に語っているのか。本音と建て前。語っているうちはまだまだ余裕の域である。自らの死に方を選択出来るならそれに越したことはない。死と直面し他人に委ねなければならない切羽詰まった死の選択だけはしたくないと思いながら、本音のところはどうなのか。

緑雨は鳥籠眠るだけの自粛 河原珠美
仏間に沈む蘭鋳の甕自粛なる 日高玲
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、自粛を強いられている現在。いつまで続くのか不安な毎日である。季節は春から夏へ移行し、すでに木々は新緑となり、いつもなら気持ちに弾んだ心持があるのだが、今までに経験したことのない夏を体験。河原句は緑雨そのものが「鳥籠」となり作者を包む。そしてひたすら目を閉じ眠るだけの自粛生活を送っているのだ。日高句は自粛している「場」を「仏間」に身を置き、作者の心の深淵を「蘭鋳の甕」の中で揺蕩う。刻々と染み入る時空の狭間。

立ち話つひに日傘を閉じにけり 鈴木孝信
梅雨コロナぽつぽつと折る傘の骨 水野真由美
 コロナの感染予防対策として「3密」「ソーシャルディスタンス」など耳慣れない言葉が登場。特に3密(密閉・密集・密接)は座の文学といわれる俳句にはもっとも基底にある。コロナ禍により新たな形の「座」が生まれるであろうが、やはり同じ空間に触れあっている皮膚感覚のあるその地の「座」の存在が基盤であろう。鈴木句はソーシャルディスタンスの自然なアイテムに登場した「日傘」。日傘を人除けに意識して使おうと表に出たが知人と会い、立ち話となり「つひに日傘を閉じ」てしまうことに。なんとも言えぬ切実な思いに俳味が覗く。水野句は単刀直入に、梅雨まで持ち越したコロナの鬱陶しさと苛立ち、不安感が入り混じり、傘の骨を折り畳む音が直に手から「ぽつぽつ」と体に、こころにジワリ
と沁みてくるのだ。得体の知れぬ音の響きを聞く。

まばたきは肯定青葉まばゆき刻 新野祐子
まばたきは更衣のようだ鶴数え 北條貢司
 新野句の「まばたき」に、ふと病床のベッドに横たえている姿が浮かんできた。少し開けた窓から心地よい風が顔に届く。外はすっかり青葉がまばゆい季節を迎えている。話すことも出来ぬ状態で、アイコンタクト。その「まばたきは肯定」は生きている証でもあるのだ。静謐な空気が漂うような一刻である。若いカップルが織りなすドラマチックな明るい場面などいろいろ想像できる。北條句を目にして、井出都子の〈鶴を数えるとてもやわらかな洗濯〉が浮かんできた。井出句はタンチョウを数えているうちにふわふわな感覚の洗濯をしている心持の句で、北條句は鶴を数える瞬間瞬間のまばたきが真新しい更衣をしているような感覚を持った感性の機微。

かくほどに右手はかたち失へり 三枝みずほ
肉声とはどんな手触り花は葉に 佐孝石画
 書家石川九楊著『河東碧梧桐表現の永続革命』は目から鱗の衝撃であった。著書の中で―俳句から俳句へではなくて、俳句の下層に現に存在する俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かったことによって、近代においてただひとり碧梧桐は俳句の臨界を前へと押し広げた。―の文は圧巻。今回、多くの同人の自筆の俳句を読み、一人一人の顔を想像しながら楽しませて頂いた。三枝句の「かく」は「書く」「描く」「搔く」ほどに右手が形を失ってゆくのだ。無心の境地でもないが一心不乱に「かく」ことで、右手が無意識に運筆しているような感覚の冴えた心境か。書家でもある佐孝は、内面から迸る言葉の肉声を手掴みしたい衝動に駆られたか。例えば言葉を書字へ移す時の手に伝わる感触、言葉と書字が一体化する手触り感を包む空間は、「花は葉」に移ろう自然の営みの刹那に触れているような感覚なのであろうか。

田水沸く皆んなそろっていた頃の 松本勇二
 祖父母、父母から受け継いだ田畑。炎天が続き植田の水が湯のように沸きだすその田に入って田草を取っているのか。子供のころ見ていた風景が突然現れ、皆んな揃っていた頃の風景をしみじみと思い出している。感傷的でもあるが、近頃彼岸此岸が身近に感じて、軽々と往還出来るような心境の齢になってきたのかも知れない。

◆金子兜太 私の一句

逢うことが便ち詩とや杜甫草堂 兜太
 平成7年、金子先生を団長とする現俳訪中団一行二十名、四川省訪問。杜甫草堂を会場に日中詩人、俳人による合同句会が開催された。四川省の参加者十名、自作の漢俳を披露。熱気に包まれた。当時中国に漢俳という詩型が生まれて十五年。内陸のこの地までこれほど漢俳が浸透していたとは、と先生、大そう喜ばれた。掲句は戴安常の漢俳を受けての一句。句集『両神』(平成7年)より。大上恒子

梨の木切る海峡の人と別れちかし 兜太
 昭和40年8月、金子兜太師は皆子夫人同行で、青森の「暖鳥」俳句大会特別選者として来県、故徳才子青良師の感化を受け、会友として参加した頃であった。下北半島の尻屋崎へ吟行した折の句。伝統を主体的に取り込む表出の見事さと、俳句の力強さを感じた思い出の一句なのである。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。須藤火珠男

◆共鳴20句〈7月号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

石橋いろり 選
燕となり原発の街さ迷えり 大久保正義
富士山をまるめて飛ばすしゃぼん玉 鎌田喜代子
「死ぬまでが賞味期限」に山笑ふ 川崎千鶴子
合歓の花「宮城まり子」を知らず咲く 川崎益太郎
○少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
ラファエロの仄暗さ残照の菜の花 黒岡洋子
花の夜の坩堝の中に耳打ちす 小西瞬夏
マスク越し鮮度の落ちる立ち話 齊藤しじみ
樹液垂る山の心拍地の鼓動 十河宣洋
マスクなし一揆の如く土筆立つ 髙井元一
土に生き土に帰る身霾 高橋明江
春愁や自分自身に絡み酒 峠谷清広
大きくならはってうれしゅうて桜 梨本洋子
筆先にコロナウイルス春怒濤 野﨑憲子         
逝く春の骨片としての還える 平田恒子
よく眠るテレビ会議が青むまで 松本勇二
まだ生きてあのカラフトの雪を喰む 宮川としを
辛いことは鉛筆で書け安吾の忌 宮崎斗士
伊予の海に河ぶつかりて鳥雲に 山本弥生
甘藷で見えぬ道路米兵の服ちらほら 輿儀つとむ

市原正直 選
春の花十指数えて妻灯る 伊藤巌
鳥雲に入る手のひらの水たまり 伊藤淳子
囀りや伸びて縮んで生き急ぐ 榎本祐子
リュックサックいていますよ枯木山 奥山富江
逃げ水の取材に行ったきりでした 片岡秀樹
マネキンの腕の虚空や更衣 片町節子
採血の管のいくつよ春の雷 楠井収
ひらくたび光の曲がる雛の函 小西瞬夏
気配してセンサーが点く沈丁花 佐々木義雄
月おぼろ台車響ける石畳 菅原春み
人生はぜんぶ足し算日向ぼこ すずき穂波
○わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
待つという静かな未完木の芽雨 月野ぽぽな
フクロウと秘かに同じ闇にいる 椿良松
残る蜂老醜互いに気にならず 中川邦雄
揚雲雀空に絶壁はあるか ナカムラ薫
枝々に雪を咲かして記紀の峰 疋田恵美子
○揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
初蝶が来て撥ね上がる天秤棒 武藤鉦二
ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし

伊藤巌 選
地卵は岳父の気配の山暮らし 有村王志
忙殺はすでに言い訳目借時 石川青狼
水音のどこか錆色春一番 伊藤淳子
内耳蒼く沖の暗さを捉えけり 大西健司
自粛とや荒れ霜さえ詩を宿し 狩野康子
上流は杜甫住むところ花筏 神田一美
竹挽きのノコの切れ味三鬼の忌 神林長一
まんさくや言葉の角を風が揉む 黍野恵
清明の落ち水地図にない小川 佐々木香代子
○フクシマや春キャベツまっ二つに母 清水茉紀
みんな蒸発したような午後冬たんぽぽ 芹沢愛子
破船描き足すきさらぎの鳥瞰図 鳥山由貴子
水張って村がますますひかりだす 服部修一
記紀の峰深雪に獣道のあり 疋田恵美子
雪柳あったところに石を帰す 平田薫
人と人と距離狂ふまま四月尽 前田典子
ハナミズキごしの陽を丁寧にあるく 三世川浩司
盤寿吾に二上山陵冬日照る 矢野千代子
夕陽のシャワー静かに怒りデモの散会 輿儀つとむ
○春の山やさしくなって降りて来る 横地かをる

川田由美子 選
山椒の芽みんなのお伽話かな 大髙洋子
地層暗く獏の眠りのひずむ春 大西健司
ふらここや八十路は風のようなもの 金子斐子
○少しだけ声が聞きたい春満月 河原珠美
姉よりも先に来ていて青き踏む こしのゆみこ
亡母在れば花菜に雨の咀嚼音 小林まさる
花は葉に書架の崩れ落つように 佐孝石画
早春や木にも星にも水の音 佐々木宏
病みゆくように夜へ傾ぎて紫木蓮 佐藤稚鬼
さくら餅塩味仄か汗の母 篠田悦子
○フクシマや春キャベツまっ二つに母 清水茉紀
○わが影も束ね野焼の火を造る 瀧春樹
点眼やじわりと春の田に滲みる 丹生千賀
○揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
白鳥来寡黙な沼を抱くように 船越みよ
いつか会える皆たんぽぽの絮になり 本田ひとみ
風よりもしづかな姿勢柿の花 水野真由美
○春の山やさしくなって降りて来る 横地かをる
白鳥引きし水際のなまなまし 若森京子

◆三句鑑賞

土に生き土に帰る身霾 高橋明江
 季語の「霾」は「つちふる」や「つちぐもり」「ばい」と読む。この場合、下五とすれば、つちぐもりになるだろう。大風に吹き上げられた土砂や黄砂が降り積もることを言う春の季語。この世に生を受け、地道に土に根差した生き方をし、死後は土に帰る身であると達観している作者。生きている上で目を瞑りたいような困難もあったであろう。「土に」「土に」と霾の「つち」のリフレインが実に重厚に響いてくる。

大きくならはってうれしゅうて桜 梨本洋子
 作者は長野の方。長野でこういう言い方をするのだろうか?関西出身の方なのだろうか?いずれにしても、桜咲く入学あるいは卒業の頃。孫か親戚の子の成長を寿ぐ喜びがあふれている。最後に桜を一つ置いたところが句を一点にまとめあげてる。方言がいい。

よく眠るテレビ会議が青むまで 松本勇二
 コロナ禍でリモートワークに切り替わった所も多かっただろう。テレビ会議の場合、手もち無沙汰な待ち時間がどうしてもできてしまう。眠気も起こるだろう。それどころか、夢まで見ているのだ。あるいは作者は、リモートワークという熱気の伝わらない媒介を通じての試みに抗っているのかもしれない。
(鑑賞・石橋いろり)

 新型コロナ禍のせいか、この頃何か説明のつかぬ不安が満ちている。だからか、ぼくの選句はそれを打ち払いたいとする傾向になった。俳句は抒情の短詩でありたい。カタチにしがたい心象風景が表出されると面白い。

人生はぜんぶ足し算日向ぼこ すずき穂波
 作者は、人生を前向きに歩んで来られた方かと思う。時に失敗することもあれば、それは学習することであり、次への一歩の足し算になる。社会性、人間関係の善悪も、清濁併せ呑んで人生が出来る。日向ぼこは来し方を三省するひとときになっている。

揚雲雀絵本にたっぷりある余白 平田恒子
 雲雀の声が、空高くから聞こえて来たのは伊東静雄の詩。同時に歌手の美空ひばりが現れる。絵本は純情の世界。余白は余った空間ではなく、そこへさらなる読者の創意を描かせる舞台。鑑賞は読者に作者以上の解釈を期待している。

ふろしきを青葉に解くルノアール 望月たけし
 大ぶろしきには、大げさな言動の解釈もあるが、ここは素直に青葉とルノアールの絵の柔らぎの交感と読めた。二物衝撃でなく、二物配合で、青葉のためにふろしきを解いた。まぶしい色彩が解かれる。
(鑑賞・市原正直)

水張って村がますますひかりだす 服部修一
 この豊かさ、平和とはこういうものだと思う。水張って。冬が終わり、田植えを待つばかりの水田、その広がり、まさに鏡のよう。深く空を映しこれからの命の営みに備えているようだ。人々の笑顔が見える。厳しい農作業が待っている。でも働けるってこんなにも嬉しいものだ、そんな唄が聞こえて来るようだ。

盤寿吾に二上山陵冬日照る 矢野千代子
 盤寿、八一歳は今の日本では年寄りとは言えないかもしれない。でも作者には感慨深いものがある。万葉集の大津皇子、大伯皇女姉弟の悲話。その大津皇子の御陵のある二上山に冬陽、大和平野のどこから見ても二上山は端正で美しい。そして気持ちが静まる。自分もあの山のようでありたい。そんな思いが伝わって来る。

夕陽のシャワー静かに怒りデモの散会 輿儀つとむ
 慰霊の日に読まれる平和の詩にはいつも心打たれる。そして戦場となり四人に一人の犠牲者を出した沖縄の現状をいかに受け止めるかをいつも問われる。そうしたことを背景に、デモが行われている。静かに怒り、に込められた作者の想いが痛い。繰り返し、繰り返し諦めるわけにはいかない。沖縄のデモ、想い……。
(鑑賞・伊藤巌)

姉よりも先に来ていて青き踏む こしのゆみこ
 「先に来ていて」の言葉からは待合わせの場面が見えてくるが、そこに繋がる「青き踏む」の季語のスケールがその場面から大きくはみ出している。そこには作者が物語を生むための境界、結界が張られているようだ。姉と自分という存在の対峙、過去から未来に繋がる時空。そこから放たれ、作者は今、春の野に踏み出している。

点眼やじわりと春の田に滲みる 丹生千賀
 「や」の切字によって、点眼をしている作者が見えてくる。目薬がじんわりと行き渡ってゆく時の、かすかなひりつき感。清涼感が薄い膜となって作者を包みこんでゆく。その一瞬を契機に、作者は潤む眼で「じわりと春の田に滲み」ている己の姿を見たのではないだろうか。作者を滲みこませている「春の田」。そのうれしさ。

田草取りさわさわ手さぐりで老いて 藤野武
 「さわさわ」とそよぐ田に分け入り「さわさわ」と繁る草を搔き寄せてゆく。そこに、人生を生き老いをたどる今の感触を得たのだろう。あちらこちら果てしもなく湧いてくる草を前にするように、「手さぐり」で進んでゆくしかない老いというもの。「さわさわ」の乾いた響きが、不確かに自分を透かしてゆく、老いの姿を感じさせる。
(鑑賞・川田由美子)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

芥子の花女の加工され易き 有栖川蘭子
蟻の列皆が小さき餌を持つ 齋貴子
自由なる妃にめだか差し出せり 植朋子
蛇よプライドって自分を守るため 大池桜子
短夜やトイレの壁にアンモナイト 大渕久幸
偵察の蜂ラケットで打ち殺す かさいともこ
あおろうのういろうわたし盆霞 葛城広光
寒色のペディキュアを塗る太宰の忌 木村リュウジ
土間のある暮らし燕と住む暮らし 後藤雅文
卯の花腐しウェブ会議の憂鬱 小林育子
おーっと若葉わーっと青葉水甘し 小林ろば
散らかした羽根などいつか霧は立つ 近藤真由美
昼顔や無印といふ個性なり 坂川花蓮
梅雨晴間ボディブローのよう省略語 島﨑道子
先頭は鼻利く者か蟻の列 五月女文子
ほうたるや闇に眠れぬ目がふたつ ダークシー美紀
生涯一度の父への反抗竹皮脱ぐ 髙橋橙子
デンデラ野ビールを家に置いてきた 谷川かつゑ
松蝉が仰向けでいること平和 千葉芳醇
ステイホーム五十集いさばふれくる虚子忌かな 土谷敏雄
新緑に包まれ柔らかい握手 中尾よしこ
青蛙戦争知らぬ肉食派 仲村トヨ子
絶滅危惧種てふはまばうの生真面目さ そらのふう
権力なき暴力痛し夏の空 福田博之
魂魄の浮遊か黒揚羽の息 増田天志
その児を救えなかった私達茅花流し 松﨑あきら
帰るたび義父の目高の増えてをり 山本まさゆき
上野驛かひこふところにばばら離散 吉田貢(吉は土に口)
シヴァ神の踊る街這ふ青大将 渡邉照香
にんげんは幻視にすぎず紫木蓮 渡辺のり子

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