『海原』No.58(2024/5/1発行)

◆No.58 目次

◆海原秀句 同人各集より

安西篤●抄出

地震の地をゲリラと化して鰤起し 石川和子
葱刻みこんなに平凡な自由 大髙洋子
黙とうが日常となり冬薔薇 奥山和子
液状化現象寒灯傾ぐ家・家・家 刈田光児
雪虫や音符入りたる唱歌の碑 河田清峰
初旅を促すやジャズ風の三線 黒済泰子
山は柿色夫に久しく物申さず 小池弘子
履歴書を放り榾火を返してる 後藤雅文
雪うさぎ望郷ってこんな気分 小林ろば
家系図の未完に終り蝉氷 小松敦
紙面繰るたび冬の日を傷つける 三枝みずほ
母眠る林檎の匂いがする雪です 佐孝石画
多喜二忌やかべに能面うきあがる 清水茉紀
地吹雪や瓦礫に仮設避難所に 菅原春み
猫と夜の吹雪の音を抱きしめる 鈴木修一
頬伝ふ黒い涙よ降誕祭 戦い止まず ダークシー美紀
柚子ふたつ繃帯上手の祖母と母 高木一惠
ラップ少年ガザは壊れた冬のまま 田中信克
寒鯉うごけば寒鯉の水うごく 月野ぽぽな
真っ白なノートの中で日向ぼこ 峠谷清広
水澄むと御納戸色の父よぎる 遠山郁好
冬の月無辜の民とは祈る民 中村晋
風花の炊き出しに立つ料理長 野口佐稔
木守り柿限界集落と呼ばれる地 疋田恵美子
鳥が来るまで一本の冬木なり 平田薫
切り取り線に沿って長生きして小春 宮崎斗士
私に笑窪がありて寒日和 深山未遊
冬の蜂無神論者の眼をしてる 室田洋子
能登の地震海猫が鳴く稚が泣く 森鈴
鬼やんま空中停止という底意 森由美子

日高玲●抄出

初鏡乾物のような私が居る 綾田節子
田を植えて夜学のように灯る家 有村王志
柿を取る空の青さに深入りし 内野修
淡き影曳きて寄り来る浜焚火 榎本祐子
寒卵などと言って老婆のうす笑い 大久保正義
日の出かな山の上からお寒いなもし 大野美代子
冬籠り身体に石を飼っている 奥山和子
人影が人影として飲む葛湯 小野裕三
引き出しに藁茫茫と生えにけり 葛城広光
雪虫や音符入りたる唱歌の碑 河田清峰
翳る日の足裏しずめし龍の玉 川田由美子
臘梅の香やぎざぎざの父に触る 木下ようこ
そらみみの音のふえゆくふゆすみれ こしのゆみこ
冬眠中白地に白き文字のごと 小松敦
紙面繰るたび冬の日を傷つける 三枝みずほ
木守柿窓にともりて不屈なり 重松敬子
寒林に白きは死して叫ぶ木ぞ 鈴木修一
おみなえしこれから大人になる老女 芹沢愛子
雪だるまの家族それっきり痩せて たけなか華那
ふるさとに放つ兎を折りにけり 立川瑠璃
水澄むと御納戸色の父よぎる 遠山郁好
筆始平和と濃く書くずぶとく書く 中村晋
冬山の樹相ゆたかに吾を満たす 野田信章
鳥が来るまで一本の冬木なり 平田薫
石蕗の花傾きがちな母の正座 堀真知子
精霊は邑のやぐらにどんど焼き 松本勇二
地域猫とパンケーキほど日向ぼこ 三世川浩司
木の葉髪どこにも行けぬ廊下がある 宮崎斗士
冬の蜂無神論者の眼をしてる 室田洋子
着ぐるみを新らしくしてお正月 望月士郎

◆海原秀句鑑賞 安西篤

地震の地をゲリラと化して鰤起し 石川和子
液状化現象寒灯傾ぐ家・家・家 刈田光児
能登の地震海猫が鳴く稚が泣く 森鈴

 能登地震の現場感を、その想望感をも含めて書いた句。
 「地震の地」。十二月から一月頃の漁期に鳴る雷は、あたかも鰤の大群を呼び寄せるかのように大漁の前兆となるという。まだ被災の復興が遅れ、港も漁船も整備されていない中、ゲリラのように雷鳴を響かせては、出漁を促している。その空しい雷鳴に応えるのはいつか。
 「液状化現象」とは、地震の際に地下水位の高い砂地盤が振動により液体状になる現象で、これにより大きな建物や構造物が埋もれ、倒れ、下水道管のような地下の構造物が浮き上がったりする。今回の地震では、その影響で多くの家々が、傾き、倒れ、折り重なるように寒灯をつけたまま倒壊した。その様子を「家・家・家」と叫ぶように捉えたのである。
 「能登の地震」
では、その惨状に、海猫は鳴き、赤子の火のつくような泣き声がいつまでも続く。この句は現場の絶望感をその鳴き声、泣き声に託している。鰤起しの呼び掛けに始まり、被災の状況に声を失い、鳴き声や泣き声に続く現場感は、今も続いているのだ。

黙とうが日常となり冬薔薇 奥山和子
冬の月無辜の民とは祈る民 中村晋

 被災地の外で、被災した人々の無事を祈る句。
 「黙祷」は、被災地の人々のご無事と復興の早からんことを祈るもの。そんな日々を送るうちに、黙祷が日常のルーチンワークになっていた。冬薔薇の、寒さにもめげず健気に咲く花の風情にも支えられながら、現地の人々へ思いをはせる黙祷が、いつの間にやら暮らしのリズムとなっている。作者の祈りの日々は続く。
 「冬の月」の「無辜の民」とは、罪なき民、平凡な日々をひたすら生き抜く民。それは今日という日の平穏を祈る民でもある。報われることのない祈りであったとしても、目の前の現実に時間をかけて取り組み続けようとする人々、決してあきらめない人々の祈りなのだ。そのことを被災地の人々から教えられている。

葱刻みこんなに平凡な自由 大髙洋子
 葱を刻むときの軽快なリズムと音から、何か開かれてゆくような気配と気分を味わっている。それをごく日常的な直感で、「こんなに平凡な自由」と言ってみたのだ。言葉の概念的な定義というより、ほとんど体感的な解放感の語彙のような気がしてならない。この体感の底には、日々の生活の拠点を奪われた被災地の人々への忖度があったのかもしれない。

雪うさぎ望郷ってこんな気分 小林ろば
 作者は北海道の人だから、「雪うさぎ」を広闊と広がる雪原の中に見出しているのではないか。それ故に大らかな風土への愛着が一入身に沁みる。「望郷ってこんな気分」という時の、作者の誇りがましい姿が浮かぶ。「雪うさぎ」というなかなか見ることのない生きものが飛び出してくるあたりに、作者の”おたから感”が宿る。「こんな気分」は、晴れ渡る大地に、雪うさぎとともに伸びをしている作者なればこそといえよう。

多喜二忌やかべに能面うきあがる 清水茉紀
 小林多喜二の忌日は一九三三年二月二十日。行年三十歳。今さら言うまでもなく、今や歴史的存在となっている作家。その忌日に、能の面が浮き上がるというイメージ。能面は、般若面か翁面か迷うところだが、時に応じ両極性をもち、そのいずれでもあるような気がする。政治活動家としての般若面と母思いの優しさをもつ翁面は、ともに多喜二像にふさわしい。その可逆的な浮遊感に、作者の心を反映した多喜二像が浮き上がるのだろう。

柚子ふたつ繃帯上手の祖母と母 高木一惠
 「柚子ふたつ」には、祖母と母の田舎暮らしのたたずまいが見えてくる。柚子の木に、故郷の庭の景とそこに佇んでいる祖母と母の像が仮託されている。それは柚子のようになつかしく、温かな色合いを持ち、幼い頃のちょっとした怪我への対応などは、実に手早く繃帯の手当も上手なものだった。おそらく、今は亡き祖母と母の記憶が、故郷の庭の景とともに瞼に浮かび上がってくるのではないか。柚子の質感がその情感に通い合う。

切り取り線に沿って長生きして小春 宮崎斗士
 「切り取り線に沿って長生き」とは、おのれの過ぎ来し方を顧みて、いつのまにやら長生きしてしまったおのれの足取りを、決して溌溂たるものではなくなんとなく生きさらばえてきたような、どこかひ弱な切り取り線の上を辿ってきたように振り返っている。とはいえ、今の自分は、そのような後ろめたさを抱えつつも、小春日和の温とさの中にいる。これも一つの幸せというべきか。その後ろめたさのリアルな境涯感が、伝わってくる句だ。
 今回は、能登地震関連の作品が多かった。もちろん、文学作品としての新鮮さや芸術性が問われるのは言うまでもないが、普段は見えなかったもの、見ようともしなかったことを掘り起こせば、社会的詩心を取り戻し、お互いの心の距離を近づけることになるだろう。

◆海原秀句鑑賞 日高玲

初鏡乾物のような私が居る 綾田節子
 年齢を重ねるたびに、日々、己が姿を鏡に映すことを避け、必要最小限にしていたなあ、と今更ながら気が付く。若い頃には、それなりにふっくらと瑞々しかった頬はすっかり干乾びて、修業中の仏陀のような皮膚となった。それにしても初鏡の季を配して、乾物のようなとはドッキリする喩。自己諧謔が見事にきまり、噛みしめるとおかし味が、乾物のように滲みだしてくる。作者の飾らない強烈な個性が余すところなく現れた。

日の出かな山の上からお寒いなもし 大野美代子
 涼しさをわが宿にしてねまるなり 芭蕉はねまるということばをいつ知ったのだろう。尾花沢の土地を訪ねて、土地の人との交流の中で知った言葉であったろう。風土と離れ難く生きている言葉。掲句にもお寒いなもしが軽やかに使われていて、じんわりとしみだす思いの他に深い味わい。山の上から朝日が昇る。今朝もお天道様が祝祭のように自分に挨拶をしてくれる、その有難味。

冬籠り身体に石を飼っている 奥山和子
 誰に強いられたわけでもないが、いつからか身体の中で石を育てていることに気が付いた。その石が、冬を迎えるごとに育って、それなりの大きな存在となってきたみたいだ。冬の厳しい山家暮らしの中では、強い気持ちがなければ冬を越してはいけまい。もちろん、生活に愛惜の念を持っているに決まっているが、逃げることもできないこの日々の暮らし。冬籠りの暮らし。

引き出しに藁茫茫と生えにけり 葛城広光
 引き出しを開けると、藁が何ヘクタールも生えている景が出てきた、という面白い発想に魅了される。当然だが、藁は生えるものではない。言ってみれば収穫の後の残留物。引き出しの中に、気が付いたら生えていたのか、何をたくらんで藁を生やしたのか、などと考えたら作者の罠に嵌ってしまうかもしれないが、藁の持つ清潔な香りや感触が働いて、清浄な感覚が伝わるから不思議。

臘梅の香やぎざぎざの父に触る 木下ようこ
 臘梅は梅よりもやや早く開花する。その香は、かなり濃厚。香りの重力で現実が歪むということはあるのだろうか。正倉院の至宝、香木蘭奢待は織田信長によって切り刻まれたが、信長が香を聞いた時の記録は「信長公記」にあるのだろうか。マドレーヌを紅茶に浸した時の香りで蘇った失われた記憶。花橘の香りが昔の恋人を鮮やかに思い出させたとか、香りは曲者だ。ぎざぎざの父に蘇るものとは。香りをめぐり作者の独特な視点が光る。

おみなえしこれから大人になる老女 芹沢愛子
 年相応という言葉に合わせようと、人生、長年努力はするものの、大人になりきれないところ、いつまでも柔らかいこだわりなどは、誰にでもあるものだが、掲句の老女はそんな半端な範疇ではない人だろう。存在するようで無い、無いようで在るような老女。山野で鮮やかに咲く、嫋やかでありながら、しぶといおみなえしの花の姿が、この老女と思いのほかに響く。

雪だるまの家族それっきり痩せて たけなか華那
 子供が作ったのか、ずらっと並んでいる雪だるまのご一統様が、気温が上がるとともに融けだして、いつしかすっかり小さくなってしまった、雪だるまの景色を考えているうちに、それっきり痩せて、の措辞が引っ掛かる。雪だるまの家族から、いつしか人間の家族の情景として、その姿が浮かんで来る仕掛けになっている。家族という夢のような儚い姿が浮かぶ。

冬山の樹相ゆたかに吾を満たす 野田信章
 たっぷりと堂々とした作品の韻律に、圧倒される。いつも眺めている山の樹木が、冬季となれば、厳しい寒さや強風に堪えてひたすら立っている。その木々の相貌をつぶさに見取り、吾を満たす、とゆったりとした措辞に迷いなく収斂していく。祈りにも似た樹木との交感。

地域猫とパンケーキほど日向ぼこ 三世川浩司
 気がつくと、町や公園をのんびり歩いている猫がめっきり減ってしまった。大きな公園に器用に棲みついていた野良たちはどこに行ってしまったのか。野良に付けられた地域猫という呼称によって、都会の野良はその存在をどうにか許されているようだ。冬日の中で寄ってくる猫のほのぼのと温かい生きものの感触。パンケーキの喩が、ささやかながら温かい生きもの同士の関わりを優しく暗示しているようだ。日向ぼこの季がよく響く。

着ぐるみを新らしくしてお正月 望月士郎
 熊モンやガチャピンのような着ぐるみを着る仕事の人が、新年を迎えるに当たって、一年間さんざん働いて薄汚れてしまった着ぐるみを、雇い主に新調してもらったということなのかな、と思っていると、その奥から別な姿が覗く。世間様はもちろん、家族にでさえ、常日頃より自我の上っ面に、仮面や着ぐるみを付けるように穏便に暮らす、ということは誰にでもある。そんな着ぐるみを新しくしてお正月。お正月の季がおかし味を増幅させる。

◆金子兜太 私の一句

朝はじまる海へ突込む鷗の死 兜太

 兜太師は神戸勤務が三年経過したころ俳句専念を決心されました。魚をとるため海へ突っ込む鴎とトラック島で撃墜された多くの零戦。生きる営みと兵士の死。「朝はじまる」「死んで生きる」の想いを神戸港の埠頭で噛み締められた一句。私は若きころ、神戸の海岸通りのビルで霧笛と潮の匂いを感じながら外国航路の船会社に勤務していました。この句をみて、懐かしさと衝撃を受けた一句です。『金子兜太句集』(昭和36年)より。増田暁子

河より掛け声さすらいの終るその日 兜太

 先生が最後に詠まれた九句中「さすらい」の語を用いたものが四句。施設と自宅との往来を「さすらい」と表現されていたそうで、先行三句は「入浴」と関係する日常風景で自嘲の気配。だがこの句には真顔が覗き「定住漂泊」が濃厚である。「川」ではなく「河」、「呼び声」ではなく「掛け声」、破調であるところなどが妙味と考える。お尋ねしてみたいが今生では果たせない。句集『百年』(2019年)より。山下一夫

◆共鳴20句〈3月合併号同人作品より〉
〇印は2選者の共選句 ◎印は3選者の共選句

田中信克 選
草の実飛ぶ方向もITも音痴 綾田節子
選ぶメス選ばれぬオスあんこう鍋 泉陽太郎
○死亡記事読む沢庵の歯形かな 市原正直
鶏頭がお告げのように立っている 榎本祐子
穴惑誰かがあとをついてくる 大西健司
臆病な貨車十月の石運ぶ 小野裕三
長き夜人ひとりずつの穴を掘る 桂凜火
小鳥来る吾子の一日巻き戻す 川田由美子
○青の時代少年にも秋刀魚にも 小林ろば
秋の水ポーと汽笛になることも 佐々木宏
鉦叩見ていて見えないものばかり 菅原春み
黄落や裏から入る孔子廟 ダークシー美紀
勾玉のゆらり音ある十三夜 竹田昭江
釣瓶落し海を呑み干す赤ん坊 野﨑憲子
鰡がとぶ今日は空を見ただろうか 平田薫
寒暁や聖母マリアに乳の泌み 藤田敦子
思春期のしかめっ面で熟柿吸う 村本なずな
てのひらに小さな丘がありて冬 茂里美絵
賀茂茄子やぷりっと叱言撥ね返す 森由美子
鯛焼を割る湯気のなか武甲山 柳生正名

藤田敦子 選
○死亡記事読む沢庵の歯形かな 市原正直
なぐり書のよう抗癌剤秋ふかし 稲葉千尋
小春日和罪人のよう膝並ぶ 上野昭子
虫しぐれうしろの闇に喪服脱ぐ 榎本愛子
真っ直ぐに歩き疲れて寒の入り 大西政司
○逃水と此処で働くと決めた 河西志帆
感情線あなたへ柿を剝いている 後藤雅文
黒葡萄熟れて兵士の墓ふえて 小西瞬夏
立冬のあさがお罪を負うように 佐々木香代子
君たちのきれいな背中冬の虹 白石司子
朝が来る鎖骨のあたり水の秋 遠山郁好
白鳥の降るように来て積りたる 丹生千賀
返り花答えが欲しいわけじゃない 平田恒子
しずかなる爆破映像雁の棹 松本勇二
不登校という鳥も来る秋の海 三浦二三子
◎案山子なのにいつでも何となく迷子 宮崎斗士
ときどきは時雨を連れて私す 三好つや子
身に入むや鏡中の人と拭く鏡 望月士郎
夜長の湯手足のばして死のかたち 森由美子
柿かじる師は生き続く山脈よ 柳ヒ文

松本千花 選
要するにあなたは元気熟し柿 泉陽太郎
○一日中歩いた自傷冬夕焼 伊藤清雄
いろんな圏外があって空っ風 大池桜子
ひとつ捨てひとつ拾って昼の月 奥山和子
冬薔薇女の名前欲しがりぬ 小野裕三
独楽止まる一身上の何かある 河西志帆
その晩の空気を読めり牡蠣フライ 木下ようこ
○青の時代少年にも秋刀魚にも 小林ろば
いち抜けた園児のはしゃぐ林檎狩り 齊藤しじみ
結び目の強さはもろさ秋の暮 三枝みずほ
葱下げてわたしがあるいている迷路 清水茉紀
鶏頭に飛びつく光濡れていた 高木水志
帰って行く妻ありったけの秋つめて 舘林史蝶
父と夫同じ芋科で違うイモ 野口思づゑ
二人はいつもインゲン豆を選っている 服部修一
○日向ぼこよき腹具合パラグアイ 嶺岸さとし
◎案山子なのにいつでも何となく迷子 宮崎斗士
紅葉且散るぶた にくになる絵本 柳生正名
わかったわかったコスモスの駅で降りた 横山隆
心中のよう霧の町ぬけて霧 渡辺のり子

山本まさゆき 選
○一日中歩いた自傷冬夕焼 伊藤清雄
人だから雪吊りの縄ゆるめてしまう 井上俊子
山猫かピアノの上のどんぐりは 榎本愛子
満天の星です輪切石焼いも 大髙洋子
秋風の真中にいる仏の手 大西宣子
盆栽の紅葉まっかに岩木山 尾野久子
猪避けの網に下がりし瓜二つ 河田光江
○逃水と此処で働くと決めた 河西志帆
ふるさとの赤い電車や鷹渡る こしのゆみこ
頭だけ新品になる冬に入る 小松敦
冬近しアゲハの幼虫角を出す 髙尾久子
七五三有袋類から人類へ 滝澤泰斗
鍵束を持たされしごと新日記 東海林光代
ひとり居てふたりの色の暖炉かな 丹生千賀
ハンカチーフ干す両神のギザギザに 堀真知子
簡単ごはん秋茄子焼いて肉焼いて 松本千花
○日向ぼこよき腹具合パラグアイ 嶺岸さとし
◎案山子なのにいつでも何となく迷子 宮崎斗士
老人が発芽している鵙日和 三好つや子
蔓先にいろんなわたし烏瓜 山田哲夫

◆三句鑑賞

思春期のしかめっ面で熟柿吸う 村本なずな
 思春期特有の愁いや迷い。そして不機嫌な表情。眉間に皺を寄せて口を固くきゅっと結んで。ところがその口に、熟れてぐじゅぐじゅになった柿の甘い汁が届いてしまう。いくらしかめっ面をしてみても、美味しいものには敵わない。そんなユーモラスな戸惑いも想像される。この子への愛情も垣間見えて温かい。好句だと思う。

てのひらに小さな丘がありて冬 茂里美絵
 小さくて優しく、どこか懐かしい世界。掌を見つめていると、中央の窪みを囲む母指球などの膨らみが、ふと丘のように見えてくる。季節は冬。掌の温もりと空気の冷たさが切ないコントラストとなり、その小さな面積に、故郷の町や畑を囲む丘の景色が浮かんではまた消えてゆく。写生的で幻想的。しかも美しい一句である。

賀茂茄子やぷりっと叱言撥ね返す 森美子
 京野菜の瑞々しい姿を見事に捉えた。はちきれそうな丸さと新鮮さが「ぷりっと撥ね返す」というフレーズに凝縮されている。しかも「撥ね返す」のは「叱言」。これがなんとも小気味よい。嘱目写生が一瞬で抒情的訴えに切り替わるダイナミズムがここにある。夏の季節感がその効果を上げている。ユーモラスでユニーク。
(鑑賞・田中信克)

逃水と此処で働くと決めた 河西志帆
 今回は「なんとなく迷子の案山子」や「罪を負うような朝顔」の現状への居心地の悪さに共鳴し、とても惹かれた。この句も「逃水」の不確かさは、通ずるところかもしれない。しかし作者は、遠くにありもしない水たまりが光り、足元がゆらぐような炎天の中で、両足を踏みしめ決意を新たにする。この力強い結句に賛美を送りたい。

感情線あなたへ柿を剝いている 後藤雅文
 「感情線」である。掌に濃いのか、途切れているのか、わからないが、ベクトルは確実に「あなたへ」向いている。一回剝いて恩着せがましいのか、黙って何十年も剝いているのか、どちらにしてもなかなかのプレッシャーだ。このドンと置かれた「感情線」に、気づいて欲しい褪め切らぬ思いが窺える。それぞれの鑑賞がある一句。

不登校という鳥も来る秋の海 三浦二三子
 「不登校」は以前、「登校拒否」と言われていた。それでいいと思う。学校なんて、命がけでいくところではないと、かつて現場に立った者として思う。具体的に今は他の選択肢も多い。生きやすい場所を見つけることが大事だと思う。孤高を選んだ寂しさはあるが、群を離れた鳥も人もしづかに包み込む、やさしい秋の海である。
(鑑賞・藤田敦子)

ひとつ捨てひとつ拾って昼の月 奥山和子
 白くひっそりとした昼の月は不思議だ。ふと昼の月に気づくと、淋しくなったり、逆にそっと見守られているようで安心することもある。心配事はひとつ無くなっても、またどこからか現れる。そんな毎日に寄り添ってくれる昼の月だ。「ひ」の頭韻も心地よく響いてくる。

葱下げてわたしがあるいている迷路 清水茉紀
迷うことがあり、不安定な気分に陥ることは誰にでもあることだろう。作者は葱を下げている。買い物の帰りだろうか。迷路に迷い込んだ辛さの中でも、今日の献立を考え、明日の家族の予定を気にしているのだ。上五の「葱下げて」がとても気になり、心打たれた。

わかったわかったコスモスの駅で降りた 横山隆
 「昨日はコスモスの駅で降りた。」「えっ、昨日は快速に一駅乗ってT駅で降りて、駅ビルで買い物をしたじゃない。」こんなやり取りを身近な方となさったのでしょうか。それから作者は気づく。コスモスの駅が気持ち良かったなら、それでいいじゃないかと。そして「わかったわかったコスモスの駅で降りた」とおっしゃったのでしょう。
(鑑賞・松本千花)

頭だけ新品になる冬に入る 小松敦
 多くの製品は一部が修復不能になっただけで廃棄される運命にある。それは人間の死も同じだ。頭だけ新品になったのは銅像の類か自身のことか。自身のことだと、あたかもサイボーグのようだが、決して遠い未来のことではないだろう。初冬の風と光と都会の喧噪の中、微かな違和感とともに、新しい頭部がその生涯を刻み始める。

日向ぼこよき腹具合パラグアイ 嶺岸さとし
 パラグアイというとサッカーワールドカップの相手国だったことを思い出すが、ブラジルとアルゼンチンという大国に挟まれた内陸の小国の歴史は、時には戦争で人口の半分以上を失うような壮絶なものであったと聞く。日系移民が苦難の歴史を刻んだ国でもある。長い時を経てようやく訪れた、空腹でも飽食でもない満ち足りた時間。とにかく今はこの時を味わうのだ。

蔓先にいろんなわたし烏瓜 山田哲夫
 一つの蔓にぶら下がった、たくさんの烏瓜。同じものは一つもない。「いろんなわたし」とは、人生の分岐点のそれぞれの先にあったはずの自分かもしれないし、現在の自分の多面性なのかもしれない。自分のことを全て知り尽くすことは多分難しいが、どんな自分であっても慈しみたいものである。
(鑑賞・山本まさゆき)

◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出

我がエゴをためつすがめつ師走かな 有栖川蘭子
手袋を履いた履いたと津軽弁 石口光子
「毎日が遺言だ」とや寒落暉 石鎚優
晴れ女のわれも打たれる霰かな 植松まめ
永遠の無垢として無知海鼠嚙む 大渕久幸
枯れざるは無頼の流儀作家死す 岡田ミツヒロ
ドリップの南のかほり冬木立 小野地香
冬夕焼け手繋ぎのふたり囚われて 遠藤路子
雪国の雪も夕日も皆無口 かさいともこ
妻病みぬ然れば七草多めの粥 樫本昌博
マフラーのわたしを解けば風になる 北川コト
余震なお七草粥の煮こぼれる 木村寛伸
秋の暮点となるまで二人行く 工藤篁子
寄り添えば身のうちに次々枯野 小林育子
ウクライナクリスマスソングが流れてる 近藤真由美
人死んで人の集まる焚火かな 重松俊一
空爆へどんとの猛り届かざる 鈴木弘子
悴みて産土流離するごとく 高橋靖史
返り来るは吾が声ばかりひめゆりの塔 立川真里
短調を好んで弾くや冬林檎 福井明子
告げずには終わらぬ恋に冬菫 福岡日向子
冬凪やきゅうに西側南側 福田博之
喇叭らっぱ水仙死んでも放しませんでした 藤川宏樹
無口に潔く生きた者たちコタンの雪 松﨑あきら
座禅草山の心音数えてる 向田久美子
山茶花や隙間時間に恋をして 横田和子
片ひざで青丹でてこい花歌留多 吉田もろび
輝度上げよ吾をおもふ母に夏の月 路志田美子
キッチンに亡母の顔して冬林檎 わだようこ
春雷やゲームのごとく母は死す 渡邉照香

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