縦深志向 金子兜太

縦深志向 金子兜太

 十二月の東京例会で、金子皆子の『哭き木立暗いおもてを吊す月』が話題になった。渡辺八重子は「あんまり暗すぎて――。」といい、蔦悦子は「こういう内容なら、いままでさんざんみてきている俳句と変りないんですね。もう結構ですといいたい気持。」と批評した。賛成しないのである。
 弁護側は男性二人で、阿部完市と高桑弘夫。阿部は「蔦さんはそういうけれど、いままでの俳句とは、表現方法が違うんじぁないのかなあ。同じ内容かもしれないけんど、俳句としての現わしかたが違うんだなあ。」という。高桑は「情念というものですかねえ。奥にうづうづしているものですねえ。これをまともに出したいとおもうんですが、なかなかできないんだなあ。いつも思いつきで、軽味かるあじの句を作ってるんですけんど、それがたのしいんですけんど、そうしているうちに、ひょいと、とんでもない深い句――つまり、情念というやつをしとめた句ができればいいとおもってんですよ。この句にはその情念を感じますね。」とほめる。
 四人四様のおもしろさで聞きながら、私は、昨年の一月号(四十九号)で、ムードというものが、この定型詩形によって詩として定着されはじめているが、これは結構なことである。しかし、それだけにとどまると〈おムード俳句〉(村上一郎にいわせると「皮膚感覚、粘膜感覚」の俳句ということになる)でおわってしまうので、そこから存在へ沈降してゆくことを求めなければ駄目だ、と書いたことをおもいだしていた。一年間で、いささか〈縦深志向〉のふかまりありと――。
 あのとき引きあいにだした阿部完市や森田緑郎、佃悦夫は、それぞれの句集を出したが、

  ローソクもってみんなはなれてゆきむほん 阿部完市
  動かざる男らは見えはるかな球 森田緑郎
  昼寝中あかりを持たぬ木が歩ゆむ 佃悦夫

のような作品をみても、三人とも、感受したものの核を純粋に保ち、結実させようとして、熱心に自分のなかに顔を突っ込んでいることがわかる。結実の仕方や現わしかたが違うのは、個性が違うのだから当然だが、ともに、現代に鋭敏にむかいつつ、現象だけの感受におわらせようとしないところが共通しているのである。私はそのとき、阿部完市の功績は「よく消化する」ということを教えてくれたことだと喋ったが、このことは、彼が、謙虚に「どうやら、言葉と、それから意識というものが見えてきました」と話していたのに照応する。現象への情感反射や風俗批評にとどまらないで――つまり、ムードという状態での俳句形象に満足しないで――、自分の内面に潜入し、そこで一度問いかえしてみるのである。そして、表現に向って浮上する。その過程で、当初の感受はどろどろに消化されて、あたらしく結晶させられる。あらたな言葉になってゆくのである。
 これは、この一年、奥山甲子男と竹本健司の作品活動からも顕著に窺われた点である。奥山は句集『山中』をだした。三重県の山中にいて、吉田さかえとともに、「生き身の心象を、その地の生活史のスケールにおいて提示しよう」としてきたし、いまもしているのである。岡山県の山都に住む竹本の場合もそうである。二人とも、その地にふかく腰をおろし、「生活」をとうして、自分の心奥に参入してゆく。彼らにとって現代とは、なによりも、山中の生活と人人そのものなのだ。いや、そこに着眼したところに、縦深志向のはたらきをみる。

  魚暗く峠にひびく火振りの谷 奥山甲子男
  百合を背に村人若く闇越えゆく 〃
  跣の音駆け続ぐ生国畔道痩せ 竹本健司
  稗抜かねば太郎の田神輿荒れ 〃

 これは、風土という言葉に乗っかったり、甘やかされたりすることではない。いわば、〈自らの精神風土〉を築くことなのだ。二人は典型的な例だが、都市化のすすむ河内平野を拠点とする堀江末男、それとはまったく逆に、過疎化しつつある山陰の山村に暮す稲岡巳一郎にも同様の作品活動がある。

  めし冷えて雨のなかゆくわらの憂い 堀江末男
  辺境の唇開くとき高稲架鳴り 稲岡巳一郎

 群作『尼寺』を発表した西川徹郎の場合でも、北海道そのもの、そこでの生活そのものへの着眼を見おとすことはできない。その心象が尼寺であって、これは単なる北海道の風景描写とは違うのである。昨年の活動が目立った人を挙げたが、ほかにも同志向の人は多い。高桑弘夫が「情念」という言葉を語ったのも、そういう土壌があるからである。そして、蔦悦子が伝承俳句の内容と同じものを感じた事情も同じである。金子皆子の前掲作にあるものは、情念というほどの深部にいたらぬ情感の世界であるが、一般論として、縦深志向が各所で遭遇するものこそ伝統体感であって、これを伝承俳句の内容とイコールと見るのもむりはない。
 しかし、ぜひはっきりさせておきたいことは、私たちにとっては、現在という時代にたいする思考と感受の表現が本命であって、縦深志向といっても、これ抜きでは考えられないということだ。むしろ、現実との接触と葛藤のふかまりのなかで、縦深志向が呼びおこされてゆくことを知るべきである。だから、その志向の体験する伝統体感は生きている。そこには〈生きた伝統〉がある。
 それとは逆に、時代対応を回避、あるいは軽視して、いたづらに伝統に回帰してゆく志向は、おおむね伝統という名の穴を掘っているだけであって、掘りあてたものは死者、いわば〈死んでいる伝統〉にすぎない。そこで、季題という「約束」と、さらに気の弱い人は「俳諧情趣」の助けまで借りて――つまり、二重のヴェールを用意して、自らの発想をおぼろの奥におくように心掛けるのである。
 私たちにとって、季語は約束である必要がない。言葉であればよく、現に立派な、ある意味では豊熟な、頼り甲斐のある言葉である。俳諧情趣は不要。必要なのは、最短定型という屈強で、口うるさい形式だけである。(五九号)
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『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P13
初出:『海程』59号

「海原俳句、来たるべきもの」へのヒント

『海原』No.51(2023/9/1発行)に掲載された「2023年夏【第5回】兜太通信俳句祭《結果発表》」の中で、以下の選評コメントが印象的であった。

十河宣洋選評より抜粋
〈軽い作品が多くなった印象を受けた。俳句の総合誌を読んでいて、感じた甘い作品が多くなったなあという印象がここにも何となく感じる。「新鮮」な感じはするのだが「本格」「平明」の頃の勢いが見えないように思う。頭の隅に「本格・平明・新鮮」は入れておきたいと感じた。〉

柳生正名選評より抜粋
〈一応多種多様といえる。ただ、かつての海程俳句にあった、ずんと心に刺さる言葉の重量感を懐かしく思った。時事に棹さすにしてもTV映像の延長線、家族に執するにしても葛藤のない情愛の世界にとどまっていては、集団としての高齢化が否応なく進む現状で、かつての熱量を求めるのは無理なのだろうか――そんなあきらめの気分に陥らないためにも、「海原俳句、来たるべきもの」の具体像について今、もっと論議があってよい気がする。〉

「本格」・「平明」・「新鮮」、「勢い」そして「熱量」。

『海程』時代の金子兜太ほか諸氏の言葉を振り返ってみよう。
「本格」・「平明」・「新鮮」に触れ、「勢い」と「熱量」を感じさせる文章を幾つか以下に引用掲載する。当時の言論を現在に照らして読むことは「海原俳句、来たるべきもの」を考えるヒントになると思う。


平明で重いものを 金子兜太
『定型の詩法』金子兜太/海程社1970/P379
『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P9
初出:『海程』49号

縦深志向 金子兜太
『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P13
初出:『海程』59号

現代俳句の本格 金子兜太
『定住漂泊』金子兜太/春秋社1972/P225
初出:第二芸術をこえる二つの志向『毎日新聞』1972・2、俳句と前衛『共同通信』1971・6

土がたわれは 金子兜太
『定型の詩法』金子兜太/海程社1970/P389
『定住漂泊』金子兜太/春秋社1972/P232
初出:土がたわれは『俳句』1970・8

新たな前線をめざして(『海程』126号・127号での座談会)
森田緑郎、武田伸一、酒井弘司、谷佳紀、阿部完市(進行)、大石雄介

『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P157
初出:『海程』126号・127号


なお、「本格・平明・新鮮」については、『海程』十周年の頃の75号~80号(昭和46年~47年)で特集しているはずなのだが、雑誌が手元にないのでまたの機会に。
(記:「海原」小松敦)

平明で重いものを 金子兜太

平明で重いものを 金子兜太

 十一月の例会で『風の夜明け玄関にいる赤い靴』という作品が、いちばん評判がよかったと聞いた。たまたまほかに旅行していたので、その会だけ欠席したわけだが、それをきいて、なんとなく困った気がした。評判がよかったとはいっても、ただ、点がいちばんはいったということで、あとの批評はまあまあ程度らしかった。
 それでなんとなく安心した。そのころ出た海程四十七号の座談会をみていたら、終りのほうで、山下淳の発言を受けて、長友巌が『作品を読んで平明さということは軽さということにも通じるような欠陥を持っていると思うから、云々』と言っているのにぶつかって、なるほどと思った。長友のような若い作り手がこういう意見をもっていることが頼母しかったのである。そして同時に、東京例会のその作品を思いくらべてみた。
 まさに平明さと軽さの同居である。軽さといっても、この作品の場合、軽っぽさ、軽薄さというものではない。真面目で実直である。だからかえって読むほうは困るのだ。よくわかる。気持よい。夜明け、風、赤い靴――印象明瞭であって、さわやかである。しかしそれ以上になにがある。あるのは、夜明けと赤い靴のあいだに勘ぐられる思想らしきものだが、あまりに常識的にすぎて、勘ぐるだけでも恥かしくなるようなしろものである。けっきょく、なにもないと言ったほうがよい。
 その、なにもない、ということが軽さである。ところが、いや、ある。お前がいま、気持よいとか、さわやかとか言ったことが内容であって、それだけの情感を読者に喚起できれば十分ではないか――という反論がでることが予想される。それでは、それは、なにあることになるのだろうか。
 ところで、私は、現代俳句が展開しつつある〈ムードの表現〉に興味をもっている。ムードというあいまいな言葉で私が受けとっているものは、以下のような内容である。
 抒情というとき、私は二つの意味を考え、そのどちらかで使っていることは、しばしば述べてきた。一つは、〈詩の本質は抒情である〉という意味での抒情であり、いま一つは、〈情感の表現〉という程度の意味でのそれである。前者を第一の抒情、後者を第二の抒情として区別しているわけだが、第一の抒情は、くだいて言えば〈存在感の純粋衝動〉ということである。萩原朔太郎の『情動』にちかい。第二の方は、それに直結している場合もあるが、もっと日常化された情感(現象的な情感)である場合もある。一般に抒情というとき、第二の内容で考えられていることが多いと思う。いわゆるリリシズムであり、叙事に対しての抒情という受けとりかたである。
 ところが、その第二の抒情を、さらに二つに分けて考えたほうがよいと私は考えている。つまり、抒情とムードという分けかたをここでやっておきたいのである。そして、抒情というほうには、単純化していえば、〈思念〉あるいは〈想い〉が、その情感表現の底にこめられているのである。存在感といっても、それへの思念がはたらいていなければいけない。思念付き存在感、である。私はよく心情という言葉を使うが、まさに抒情の内容は心情というべきものだ。これを、〈志〉という人もいる。志に支えられた情感である。たとえば、原子公平の好きなヴァレリーの詩句がある。『風立ちぬいざ生きめやも』。
 これに対してムードというのは、思念抜き、想い抜き、志抜きの情感を言う。むしろ――ここが大事だが――そういうものを抜くことを意図したところで表現がおこなわれることである。生枠という言葉が許されるなら、生粋の情感と言ってもよいが、どうもしっくしない。要するに、想や念や志のような思索的な世界にまぎれない、いわば肉体反応的な情感の動きである。これを、皮膚感覚的、粘膜感覚的というひともいる。
 森田緑郎が私の句集を解説したなかで、私の作品の基本には『よく見ている』眼のはたらきがあるが、これからの作者たちには、『よく感じる』ことも基本になるのではないか、と比喩的に書いていたことがある。森田がばくぜんと考えていることは分る。それは見るという行為そのものにすでに感じられる濁り――つまり、見るということには、かならず何等かの意思が介入してきわしまいかということ、それによる濁り――に対して、意思のはたらきを拒絶したところでおこなわれる生粋の感性の行為、その意味での純粋感応に信頼をおくということであろう。鋭敏な戦後世代が存在の根本から問いなおそうとするすがたであると思うが、はたして、その感応、生粋なりや、と問うとき、その保証はどこにもない。ただ、既成の一切を振り払ってはだかで、ということになれば、まず思念の名で押しつぶされがちな感性を復権させるしかないのである。現に、わが国では、思想といえば感覚と反対質のように受けとられてしまう偏狭と性急さがある。私もそれにはウンザリしてきたし、いまでもしている。森田たちの志向も、その範囲で分るのである。
 九月隆世は手紙のなかにこう書いていた。『僕の作品は感覚的です。感じなくなったら僕は俳句をやめます。そんなことにならないように自分の感性を育ててゆきたい。一生美しく感じてゆきたい。』と。森田の論を支えるものも、こういう素朴な確信につうずるものであろう。そして、

  悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男 森田緑郎

  抱きたい夜樹かげは美しい火柱 九月隆世

のような作品を作るのである。森田のほうは、感じつつ、それが存在の奇怪さの知覚にまで浸みてゆく。九月のほうは詠唱となって、存在の皮膚をくすぐる。思念にいたるまえ、しかも思念の翳を潔癖に避けている状態で。
 私には、ほんとうには、この意味でのムードの表現はわかっていないのかもしれない。私は思念や志を、ある種の昆虫のように忘れることのできない男である。その意味で、抒情に傾き、惚れる。しかし、繰りかえすようだが、思念や志や想いを拒絶したところに形成しようとする感性の世界が、まったく分らないということはない。それが示す、得もいえない巧妙な現実感(存在感といえるふかさのものも多い)には、思わずひきこまれることがある。
 海程は、このムードの表現に成果を示しはじめ、すでに幾年かたっている。この成果は、現代俳句の一つの、しかし、大きな成果であると思う。ただここで、どうしても注意しておかなければならないことがある。それを抜きにしては、成果などとはとてもいえないからだ。
 それは、私が海程三十五号に、阿部完市の

  少年来る無心に充分に刺すために

を鑑賞し、かつ称揚したとき、これが『私に存在感への縦走を感じさせる』とし、その理由として次のように書いたことにかかわる。『先日、ル・クレジオという小説家が「物質的恍惚」と名づけているものが「頭をゴムのようにして子宮の粘膜にくっつけていたときの接触がもたらす快感」だと知ったが、この俳句の芯にある魅力も、そんなところにあるのではないかということである。』と。
 つまり、感性の純粋反応という場合、それはいつも、この『物質的恍惚』とつうつうで受けとられていなければダメだということなのである。この恍惚を知ることは、〈感性の肉質〉を知ることであり、これによって、思念や観念というもので荒されていた言葉の肉質(自然の質と私はいう)を回復させることなのである。感性にそっくり傾くということは、この肉質への接近抜きには意味をなさないし、そこから、存在への浸透を可能にしなければならない。感性希求――つまり志抜きの情感追求とは、そういうものでなければ意味はない。そうでなければ、文字どおりのムードに終ってしまう。純粋に感じたと思ったものが皮膚だけにすぎなかったり、存在と思ったものが風俗にすぎなかったりすることにもなる。
 冒頭にあげた赤い靴の作品に、この物質的があるだろうか。ないのである。それらしいものはあるが、本当にはない。その証拠に言葉がどれも独自の光沢を持たないで、類型の衣服をまとってゴロゴロしているにすぎないではないか。阿部の近作に、

  病院で絹を燃やしてくるしみ居り

というのがあるが、この、まるで感じばかりのものが、奇妙な肉質をもっていて、その肉質は阿部という人間の存在のなかに育っているものであることを知る。しかも、現代人の存在感一般につうじる幻妙さをもっている。
 同じようなことが前掲の森田の作品にもいえるし、淡いかたちで九月にもいえるわけだわけだが、たとえば、

  雑木山ひとつてのひらの天邪鬼 金子皆子

  ウサギ飼い身に清潔な水たまる 佃 悦夫

のような作品にもいえる。
 ここまできて誰でも気づくことは、ムード表現がじつは個の志を、思念をもっているという事実である。思念や志を拒絶するところに腰を据えながら、じつは、そのこと自体が、一個の思念や志を追求することであった、ということである。その思念するものは存在である。そして、存在そのものの感得から、その認識へとつづいてゆくものである。
 いまあげた作品の作り手たちは、その一部にすぎないが、成功作の作者には、その自覚がはっきりとみえる。阿部は日本の神々の記録を意識して読み、

  あおあおとムササビが翔ぶ脳中に

の作者・穴井太は『民話的な精神と手法を得たい』と念願している。森田は、現代の地中にまっすぐ急降下したらしい。戦中世代からの連脈のなかに自分の存在を見定めようとする酒井弘司がいる。彼等はさまざまなルートをえらび、手法を用い、そして勉強しながら、しかし、探ろうとするものは、現代のただなかにある。おのれの存在であり、それをとおしての人間そのものの存在についての認識である。私はいつもそう思っている。そして、そういう思念のはっきりした作者のものに『物質的恍惚』と、それにつつまれた存在感のおとずれを見、そのときもはや、ムード表現などと言ってはおられないものを覚えるのである。
 しかも、そうした意味でのムード表現は、俳句と短歌の、この二つの短い定型詩形によって、よりよく定着させることができるもののようにも思う。自由詩では甘く流れかねない。散文で書くこともむろんできるが、書きにくいことは事実である。寸鉄の力は、なかなか得られまい。それらのことを噛みしめながら、村上一郎が吉本隆明を論じたなかで書いた次の言葉を受けとっておきたい。
 『ふたたびいうが、人間の志というものをはなれて、抒情をいい、人間の皮膚感覚や粘膜感覚に人間の魂魄一切を解消せしめてキラキラとバタくさくて、いなかくさい詩をつくってゆくことは、糞土の垣を築くに等しい。それはもう詩とさえいえるかどうか。小説亦然り。』
 皮膚感覚でもよい。しかし、『人間の魂魄一切を解消』してしまうような結果になるものはダメだと私はいいかえたい。村上も私と同じように、志を据え、抒情を語る仲間だが、私が、ひとたびはその志を拒絶するムード表現を認めるのに対して、彼は認めないのだろう。しかし、志の拒絶が、けっして人間の魂魄一切の解消どころか、むしろその逆であること――そのための手段であることを知れば、彼は認めるかもしれない。
 問題の分れ目はそこにある。たんなるムードにとどまっているかぎり、それはダメなのである。十一月例会最高点の作は、その意味で困るのである。ムード表現の本当の意味を、このへんでじっくり探るときではないかと思う。そして、ノッペラボウのムードでなく、そこに存在の地軸がのぞき、意識の白波がひらめくものを――かのこうろこうろと泡立ちさわぐものを書きとめるべきではないか。
 長友巌ではないが、平明なものは、その泡立ちが定型のなかで煮つめられたときの澄みであり、それはけっして軽いものではないはずであった。(四九号)
――――――――――
『定型の詩法』金子兜太/海程社1970/P379
『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P9
初出:『海程』49号

現代俳句の本格 金子兜太

現代俳句の本格 金子兜太

  「第二芸術」をこえる二つの志向

 桑原武夫「第二芸術」(「世界」一九四六年十一月号)を読んだときの私の反応は、文学論としては無効、ただし、俳壇(俳句をめぐる人間関係)批判としてはかなり有効、ということであった。これはいまでも変っていない。
 文学論として無効なのは、韻文と散文の混同にある。俳句という日本語の音律形式(最短定型)がもつ特長を見失っているため、その特長が〈非散文効果〉(韻律と定型空間の象徴効果など)にあるのに、散文的な要求をつきつけるという愚行を演じてしまったのである。
 俳壇批判として有効と受けとったのは、私自身が、大方の結社俳句を第二芸術以下とみていたからで、俳壇の因循なセクト主義と第二芸術俳句とは、明らかに裏腹の関係にあった。
 現在のせいの有りていに立つ、その生ま生ましさを俳句に込める――という当然の志向を、戦後、意識して積極的に押しだすようにしたのは、その状況への反撥があったからで、伝統の名にもたれ、季題の既成情緒にもたれあっている俳句に、明確に対立しようとしたのである。その場合、桑原氏の評論が一つの刺激になっていたことは間違いない。
 むろん、そういう志向は私だけのものではなく、戦中世代を軸に広く自覚されていたわけで、一九五五年前後にみられた「社会性」論議と実作の盛り上りは、おおぜいの参加なしには考えられないことであった。そして、そのなかには、素材本位の社会風俗俳句におわったものも多多あるが、半面では、自分の内外両面の現実に深く立ち入ろうとしたものも少なくなかった。私は当時から〈本格〉という言葉を使っているが、そう言えるような詩の一義に執した営みが、その後、根強くつづけられているのである。
 その営みは二つの方向にむかっている。一つは、あくまでも現在の生の有り態に執着するもので、その表現の奥に、人間にとって普通なるものを獲得しようとする。私も含めて、社会性を尊重するものにこの志向が強いわけだが、はじめは、表現要求の過度優先から、詩形と言葉の虐使に陥る羽目となって、前衛俳句というニックネームを頂戴した。
 しかし、一九六〇年(昭和三十五年)ごろから、表現要求の十分な俳句的充足を考慮してこの詩形の特長を生かすようになった。俳句特有の〈像と韻律〉の構築に取り組み、季語以外の言葉からも、季語同様(それ以上)の象徴機能を開発しようと努めている。そして当然、その基礎に、現在に生きるものの自然観と言語観の成熟がある。ここ二、三年の作品成果を、私はかなり高く評価している。
 いま一つの方向は、有季定型を揺るぎなき伝統として、そこに不易の境地を定着させようとするものである。社会性に批判的だったもの、あるいは、現代批評を古道(そして蕉風)に立って行なおうとするものに多い志向だが、少数の作者を除いては、まだまだ古典追随であって、古典と競い立つ覚悟に欠けているし、自然観も言語観も甘い。現在執着者に風俗化の危険があるように、この不易探索者にはなま・・悟りの懸念がのこる。
 ともかく、俳句は最短定型詩としての特長発揮のなかで、これら本格の志向を生かしつつある。その点、第二芸術という評語も、しょせんは、作者たちのなかの戦後的状況の一コマにすぎなかったのである。

  俳句と前衛

 俳誌「海程」が十周年をむかえ、先日、記念大会が催されたが、同じく前衛の仕事をすすめている「俳句評論」(高柳重信主宰)は、来年が十五周年になる。また、日野草城にはじまる「青玄」(伊丹三樹彦主宰)は、さらにそれ以上の歳月をもっている。
 主として、これら全国的規模をもつ三誌をめぐって「前衛俳句」の呼称が、俳壇内外のジャーナリズムに慣用されてきたわけだが、「海程」の創刊されたころから、とくにそれが、好悪両面を含んで喧伝されはじめ、一方、前衛活動のほうは、それとは逆に、地道な充実期の道を歩みはじめていたのである。
 いま私は、俳句前衛といって、前衛俳句という言いかたを避けるわけだが、それには十分な理由がある。というのは、俳句にかける前衛活動は前衛俳句といった一つの流派(エコール)にくくられるようなものではなくて、さまざまな流派の輩出を孕みつつ(現在でも、前記三誌のほか鈴木六林男主宰「頂点」、内藤吐天「早蕨」、赤尾兜子「渦」、永田耕衣「琴座」、八木三日女「花」、桂信子「草苑」、あるいは鹿児島で発刊されている口語活用の前原誠「形象」、北海道の「氷原帯」などが、すぐ挙げられる。「氷原帯」主宰細谷源二の死は、ついこのあいだのことである)、俳句そのものの蘇生――いわば現代的蘇生――に向う、大きな模索と創造の意欲動向として捉えられるべきものだからだ。伝統形式というものは、時代とともに、そういう蘇生作業を必要とするものであって、それがないと形式は腐朽し、表現者の関心を失う。
 この理解は、水原秋桜子と山口誓子にはじまる戦前の「新興俳句運動」にも当てはまる。中心にいて、すでに物故の日野草城、西東三鬼、富沢赤黄男、細谷源二、あるいは、現在活動中の三谷昭、高屋窓秋、平畑静塔、東京三(今の秋元不死男)たちは、たしかな俳句前衛であったし、その人たちと対立しつつ自らの句風を築いていった人間探求派の作者たち(加藤楸邨、中村草田男、石田波郷たち)もまた、当時においては前衛であった。遡れば、正岡子規にもいえ、一時期の河東碧梧桐にもいえよう。いや、松尾芭蕉もまた、したたかな前衛であった。
 ただ、戦後の前衛活動と新興俳句運動とのあいだにはいささか違いがある。前者が後者を明らかに継承しつつ、なお違うところは、新興俳句運動のなかでは割れていた人間探求派と新興俳句派の作業を、緊密に繋ごうとする点であって、俳句を人間の内ふかく捉えようとしていることである。これは、それら前衛が、戦後逸早く俳句界を被った「社会性」論議をくぐって現われてきたことを見てもわかる。それに肯定的か否定的かの別はあっても、彼らは、社会性を作者の内面の問題として捉えていて、そこから、主体を強調して社会性を肯定する者と、逆にひたすら個の深層に潜ろうとする者とにわかれていたのである。むろん、社会性肯定者のなかには、素材主義に傾き、あるいはスローガン俳句におちいったものも多いわけだが、その後の前衛活動にむかったものたちは、それとは厳格に一線を画していて、その人たちは、自らの態度と表現を「本格」の語によって自戒していたのである。
 つまり、前衛活動とは、本格第一線活動といってもよく、既成俳句の腐肉を切りとって、新しい生肉を加えるための、新へのトライアルに意欲的なのである。そして、そこに、自らのスタイルを獲得し、その、いわば現代的スタイルに、さらに普遍性を確保しようとする。この十年間、新人たちは、たとえば次のようなスタイルを表出した。

  しづかなうしろ紙の木紙の木の林 阿部完市
  機械休む農夫地に降りたきや 和田悟朗
  杉倒しきて森閑と兄の寝ざま 竹本健司
  繁栄の花火繚乱死人坊 喜多唯志
  青柿打ちつづければかがやく放蕩 大石雄介

 これら新人作品をみてもわかるとおり、二つの面で、前衛活動の成果が見受けられる。
 一つは、ことばの問題である。つまり、季語(俳句の約束とされる有季定型のなかの有季)を、約束の場からおろして、一般言語のなかに置きなおし、改めて詩語としての価値を確かめることである。これは、季語を安くみることでもなく、むろん否定することでもない。むしろ逆に、季語に、習慣的な季節感しか感ずることのできない有季俳人の感性を正すことであって、物象感(季節感もその一部である)を季語に期待することなのである。
 蝶は春の季節感を体現するだけではない。蝶そのものの翅態のおもしろさがあり、複雑さがあるがゆえに、ことばとなったとき、豊富な象徴機能を発揮することができる。つまり、蝶としての、真の自然なる現われかたを物象感といい、蝶ということばに、その多彩さを期待しようとする。したがって、季語とされているもの以外のことばでも(たとえば、火山、地球、夜、鼻、窓)、物象感に富むものは、詩語として象徴機能を――それこそ季語以上に――発揮できるということでもある。
  俳句形式(最短定型)のなかでは、それらのことばが鍛えられ、厳密化される度合いが高いから、季語と同じ洗練度を、それらのことばが得てゆくにちがいない。そして、現に、前衛の作品のなかに、徐徐ながらそれは実現しつつあるわけで、それによる、既成の季語による情趣とは異なった情趣の世界が出現しつつあることも事実である。その異なった情趣にむかって前衛俳句という流派付けをすることは、いささか性急、ということになろう。
 第二は、最短定型それじたいの特色が、これまで徐徐ながら究められつつあることである。最短定型の表記空間と韻律の絡みのなかに、現代自由詩と、よしんば同一発想に立とうとも、違った興趣と感銘が創出されつつあるわけなのだ。
――――――――――
『定住漂泊』金子兜太/春秋社1972/P225
初出:第二芸術をこえる二つの志向『毎日新聞』1972・2、俳句と前衛『共同通信』1971・6

土がたわれは 金子兜太

土がたわれは 金子兜太

 「俳句は人間不在である」、あるいは、「現代俳句にいたって、ようやく人間が所在するようになった」――という言葉をよくきくが、この奇妙な断定が、私には最大の関心事なのである。私は、この「人間」にとりつかれて俳句を作るようになり、戦後は、ムキになって、とりついてきた。そして、今後も、この「人間」から離れることは絶対にできない。
 それにしても、人間不在とか人間所在とかいう言いかたは、まことに奇妙である。軽い受取り方で考えても、バカバカしいことなのである。たとえば、有季を約束とする伝承に従って作られた俳句が、有季に吸いよせられて人間が不在化した、などと言ったら、それは噴飯ものであろう。たしかに、有季の約束が、有季を金科玉条とし、季題描写に全力をかたむけてしまう結果、精力を傾けている御本人の影も形も、まことに薄曇りの日のようにかすかにしか見当らなくなることはある。しかし、それでも、やはり影も形もあるのだ。あるいは、約束のもとに相集り、楽しみつつ作り合ううちに、しだいに、風船のように、塵紙のように己れの影をまことにお粗末にしか止めることができなくなってしまったとしても、そこに人間がいないとは、誰にも言えないことなのである。
 だいいち、人間不在の文学、さては詩歌とは、それじたいが概念の矛盾だ。文学とは、すなわち人間の表現であり、その意味で、人間のものであるはずである。人間所在の俳句以外の俳句など、あるわけがない。
 にもかかわらず、依然として、人間不在の俳句、一方に、「人間のいる俳句」という受取り方を、一般にも、私のなかからも、消すことができないのは何故か。
 私は、少年期から青年期にかけて、水原秋桜子主宰の「馬酔木」誌を読んでいた。父の机の上に、あるいは、炬燵の上においてあるのを読んでいたのである。そして、加藤楸邨・石田波郷・高屋窓秋・石橋辰之助たちの俳句を知った。青年期には、全国学生俳誌と銘打って、福岡で発行されていた「成層圏」に参加したことから、竹下しづの女・中村草田男の俳句を知り、東京に出てからは、草田男を囲む句会に出席するかたわら、加藤楸邨の主宰する「寒雷」誌に投句しはじめた。
 そのまえ「成層圏」への参加を奨めてくれた、いや、私に俳句を作るきっかけ・・・・をつくってくれた――先輩の出沢珊太郎に連れられて、島田青峯の宅を訪れ、氏の主宰する「土上」誌に参加し投句した。そこで、東京三や古屋榧夫・島田洋一の俳句や文章を読み、しだいに、富沢赤黄男・西東三鬼・渡辺白泉・横山白虹・平畑静塔・篠原鳳作の作品に関心をもちはじめ、新興俳句運動というものに注目していったのである。間もなく、この人たちに弾圧があり、青峯師は獄に死んだ。私は、楸邨の「寒雷」誌以外に投句先を見出すことができなくなってしまったのだ。
 だから、もし弾圧がなかったら、自分の俳句もいまとは違ったものになっていたかもしれない、という気持はあるが、しかし、結局は、いまどおりであったろうともおもう。いずれにせよ、弾圧後の俳句界にあって、私は、楸邨・草田男の作品活動に接していたのであり、それがいちばん、自分にピッタリだとおもっていたのである。堀徹(一九四八年没)という貴重な先輩と接触できたのも、草田男を囲む句会のおかげである。
 ――つまり、裏がえしていえば、いま挙げたような作者と作品との出会いがなかったならば、私の俳句への傾斜も傾倒もなかったのではないか――いや、なかったということなのである。いま一度、私を俳句にむかって熱中させた事情が戦後にあるが、それは加速度であって、初動を決定した初期体験を無視することはできない。
 では、どういうところが、私を引きつけたのか。私は、すぐ、次のような俳句をおもいおこす。

  炎夏の扉街へひらきしが用あらず 楸邨
  その冬木誰もみつめては去りぬ 同
  会へば兄弟はらからひぐらしの声林立す 草田男
  冬空西透きそこを煙ののぼるかな 同
  百日紅ごくごく水を呑むばかり 波郷
  描きて赤き夏の巴里をかなしめる 同

 私は、いまでも、これらを、ある感動をもって思いうかべる。これ以外にもまだあるが、一つ一つが、私の〈戦時下の青春〉の日日の記憶に――そのときどきの細かい襞をさするかのように――結びついているからである。結びつくことのできる、なまなましい膚接感をもっているからである。
 それらは、私とともに息づいてくれたし、いまでも息づいているのである。私の心理や感情とおなじように、なまなましく揺れ動いていた。
 楸邨の作品には、鋭い神経のひびきがあった。それが不安感と意思との乾いた交錯を呼び、この詩人は、その表出をためらわなかった。そして、それは、思想に集約されてゆくまえの、詠嘆の渦巻をくりかえした。
 草田男には、日常心理の正確な把握があり、それの生ま生ましい言葉があった。それがいくどとなく、さまざまな位相で提示された。つまり、結実してゆく思想ではなく、ひたすらたぐられ繰りかえされる思考として、それは提示されたのである。
 波郷の作品は、日常の心情を、あらあらしく、それでいて肌理きめこまかに、書きとめていた。どちらかといえば、外向感覚に恵まれていたこの詩人は、当時、都会俳句といわれた、生活環境への新鮮な視角を築いた。
 そういうぐあいであった。ほかの作者で、いまでも記憶されるものに、

  頭の中で白い夏野となっている 窓秋
  しんしんと肺碧きまで海のたび 鳳作

のような新鮮な感受があったが、私にとって、「人生派」と呼ばれた、前記三人の作品が最適であった。人生派という渾名じたいが、生き生きとした感銘にふさわしいものとさえおもえたのである。
 むろん、一方に、いまも著名な、次のような作品があった。

 流れゆく大根の葉の早さかな 高浜虚子
 金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎

 虚子の作品には、無常観の底から見定めた流転の相が、素知らぬ顔で、しかし、じつに用意周到に書きとめられてあった。
 茅舎の作品は、意志的な生の受容が、みずみずしい充実感を形成していた。その充実ぶりは、個性というような個別性を超えて、普遍への充足ぶりを示すものでさえある。
 私は、こういう作品に引きつけられる面をもった。俳句というものは、結局、こういう姿に極まるのではないかと思うときもあった。しかし、すぐ、それではつまらない、という気持に支配された。いま、この文章を書きながらも、私は同じことを反復する。
 私なりの言葉を使ってくらべることができる。たとえば、状況・・境地・・という対照である。人生派三人の作品を状況の句・・・・といい、これら二人の作品を、境地の句・・・・という。状況の句・・・・は、自分の現在の状態に忠実に対応しつつ、その刻刻を、初い初いしく、揺れ動くままに、したがって、なまぐさく、表現してゆくのである。だから、繊細であり、不安定であり、いかにも素人くさいものなのである。
 それにくらべて、境地の句・・・・は、自分の現状ということに、それほどこだわることをしない。それは一つの現象であるという見方に傾くのである。だから、刻刻を生ま生ましく捉えることも、揺れ動く内心に追随することも
いさぎよ
潔しとしない。それよりも、充実した〈境地〉の形成を計るのである。円熟した、動かないものを築こうとするがゆえに、その表現は、一種の線の太さをもち、いかにも玄人のしぶとさを示す。
 別の説明もできる。状況の句・・・・は、生きているという今の事実(それを生活という言いかたもある)を、十分に書きとめようとし、喜怒哀楽のなまぐささや、意識や心理、感情の生きた屈折を主題とする。いわば、生に向うものなのである。それにくらべて、境地の句・・・・は、ゆるぎない、確固たるものに結実しないような、今の生の事実を、いたずらに書こうとはしない。むしろ、生まのものを剥ぎとる方向(それを、自己を切り捨ててゆく方向、という人もいる。この自己とは、生きている只今の生身の自己)にむかう。これを、死に向う、というのは誤りであろう。徒らに・・・せいに向わない、というべきなのだ。
 この対照を、生活・・伝統・・といういいかたでおこなうこともできる。状況は生活(日常と非日常の生活)のなかにあり、生活の現在に深く関わるところに表現の意義がある、と。伝承も――そして、それの精神史的結実としての伝統も――生活者に肉体化されて所在しないかぎり、今の意味をもたない。だから、むしろ、伝統を意識しない、〈伝統体感〉だけの生活表現のほうが、伝統を現在に生かして捉えていることになる、と。
 これに対して、境地に向うものは、その伝統という確実な所与――過去からの所与――を、現在において掌握してゆくことの意義を強く語るにちがいない。現在の生は不確実であり、流れてゆくものである(可能性という言葉じたいの不確実さ)から、過去の風雪に耐えて、一箇の普遍性をもって、精神的所与として現在にあるものを、探るしかない、と。
 そのほか、いろいろな対照ができるが、そうした状況の句・・・・にとって〈俳句〉は無葛藤の詩形ではない。人生派三人をみても、有季定型の約束を遊奉しつつ、その伝承内容(定型は伝統内容)を――意識的にせよ無意識的にせよ――、徐徐に変貌させていったことは、周知の事実である。草田男と楸邨が、当時、私たちに、季題は「手段」だと話してくれたことを、いまでも銘記しているし、じっさいにも、この人たちは、季題を季物として、いわば天然の物象として、ほとんど(ときには全く)季節感を無視して扱っていたのである。(戦後でも扱うことが多い)。また、定型式についても、これは草田男の場合にいちばん顕著だったが、字余り(破調といういいかたもある)にすることが多かった。しばしば「散文化」、あるいは難解という評語がきかれたのも、そういう〈長い俳句〉からくる面があったのである。もっとも、これには、現在の生きた屈折を現わそうとして、どうしても盛り沢山になり、多くを提示しようとすることになる面――そういう内容的な要請も大きく働いていたことは争いがたい。
 三人とも、有季定型と現在の生きた屈折との結合の結果えられる、ある詩的秩序の形成――それに引かれて俳句を作っていたようにおもえるし、私も、その〈奇しき詩美〉を好んでいたのである。拠点は有季定型なのだが、その拠点に持ちこんで結実させるものが、現在のもの(したがって、大いに個性的なもの)であったがために、拠点もその内容に引きずられて、徐徐ながらも、変ってゆかざるを得なかったのだ。結合といったが、双方の引き合いと和合のなかに得られる結合だから、葛藤的結合ということになる。三人にとって、俳句は、そういう状態で存在していたのであり、それが私を引きつけたともいえるのである。
 そのことは、境地の句・・・・にとっては、むしろ考えられないことなのである。有季定型の真髄に触れることが、伝統――その堅固な実質と接合することであるわけだから、有季定型がいつも優先し、いわば規範として、そこになければならない。現在の屈折の――その、あちこちに出しゃばった手や足を切りおとして、確実な胴体だけを掌握しようとするものにとって、有季定型は、揺ぎなき砦でなければならない。その堡塁に納まることによって、円熟した自己充足が得られるのだ。
 長くなったが、「人間の所在する俳句」ということの意味を、私は、そうした状況とか生活の句として受けとるのである。単純に言ってしまえば〈生きている人間の俳句〉ということだ。ぎらぎら、きょときょと、と私たちは現在を生き、未来に希望を、あるいは失望をもち、過去を誇り、あるいは大いに悔いて、いる。そのま身の人間の屈折を現わした俳句――それが「人間のいる俳句」なのである。それと対蹠的な俳句として、私は、境地とか伝統とか言ってみたが、それが比喩を多分に含んだ対照であることは、賢明の士のとくと御承知のこととおもう。
 波郷がかつて、「俳句は私小説」と言ったことがあり、戦時のふかまりのなかで、「俳句は文学ではない」といったことがある。先後関係は定かではないが、ともかく、彼が、俳句は私小説と言ったときには、市井に生きる人間の、なまなましい愛憎哀歓が主題として自覚されており、文学ではない、と言ったときには、そのなまなましさから離れて、〈境地〉の形成を望んでいたことがわかるのである。この推移は、表現者たちに、ときには周期的な繰りかえしのかたちで訪れ、おおかたは、中年から老年に向う時期のなかで、一度かぎりの曲り角として、はっきりと、訪れるものなのである。波郷の場合は早い年齢で、その転化を示したが、戦後、句集「惜命」のあたりで一度戻り、その後はっきりと〈境地〉にはいっていったようにおもう。楸邨や草田男の老年にも、その転化の兆し顕著だが、なお、それに逆らうものをみる。そこが、この詩人たちの、私にとっての魅力なのである。

 戦後も、いまも、私は、以上述べた意味での〈人間のいる俳句〉に執着しつづけている。〈境地〉への志向は、まだ遠いもののようにもおもえるが、ときに、体の弱まりを感じるとき、自分を支えるものをたやすく求めるかたちで、その志向が湧き、うっかりすると、それにむかって、ひどく傾斜してしまうことがある。
しかし、私はあくまでも〈状況〉への積極姿勢に執してゆきたい。表現ということの意義を、そこにしかおきたくない。
 その〈状況〉だが、楸邨たちの作品に見、私自身もそうであったことは、内面・・の状況、つまり、個たる自分の心情反応にとどまるていどの、即自的なものであったことだ。しかし、戦争を経た戦後、私には、外部・・の状況もひらけてきた。ひらけたということは、自然発生的に、ということではない。意識して、外部を見はじめることによって、ひらけてきたのである。したがって、そのごの私にとっての〈状況〉は、内と外の渦巻き――その葛藤と調和である。それを〈現実〉といいなおして、現実という言葉で、外部だけしかいわない、素朴なリアリズムの不毛に抗してもきた。
 とにかく、戦後の私は、俳句のなかの人間――その生き身のものの表現に、ますます熱中し、それゆえに、俳句を本気で作ってみたいとおもった。一時、俳句を捨てようとおもった時期もあったが、〈人間の俳句〉の可能性に憑かれて、再び俳句に熱中したのである。
 それには、いくつかの刺激がある。一つには、戦中体験があり、二つには、戦後逸早く属した「風」誌グループと、戦時中から投句していた「寒雷」誌と、その双方にいた同世代の作者たちの意欲がある。それから、堀徹との接触がある。第四には、桑原武夫の「第二芸術」(一九四六年十一月)を挙げなければならない。
 堀徹は一九四八年(昭和二十三年)の五月二十日、清瀬国立療養所のベッドで、喉頭結核で死んだ。行年三十四歳。それから十四年経って、遺族と友人たちの手で、遺稿集「俳句と知性」が上梓された。
 そのなかに、私も追悼文をだしているので、堀との交友や、専ら彼から得ていた影響については、いまさら触れないが、要するに、私が彼から得た文学的、人間的影響は、日を経ても拡大こそすれ、決して忘れることができないものとなっている。彼の代表的評論である、「子規に於ける写生の意味」に貴重な指摘があり、これはいまでも、私の支えである。
 堀は、この評論の最後を、子規の次の歌で結んでいる。

  渾沌が二つに分れ天となり土となるその土がたわれは

 そして、その「土がたわれは」を確認し、解示する文章を、そのまえのほうに書いていた。
 「庶民的人間性・・・・・・――全く無文化のままの肉体的・・・人間性――の唐突至極な文化への現出――俳諧――をかしみ・・・・の正体であらう。それは云ふならば、雅致・・に対する野致・・である。その時、野致・・とはあるひは非文化の同義語であるにもひとしいかも知れない。そして、同時にそれが子規の俳句の基盤にあつた。(以下略)」(傍点はすべて堀)。
 私もまた、堀から教えられつつ「庶民的人間性」、その「肉体的人間性」を、その「野致」を、子規とともに、自分のなかに確認していった。自分は「土がた」であり、終生そうありたい、とおもい、それゆえに、俳句という〈庶民〉詩の肉体をえぐりだしてみたいとおもったのである。私にとって、有季になずんできた庶民の趣味(さては日常情感)よりは、むしろ定型形成の韻律と空間がもつ肉体(ここ五年ほど、それを〈自然〉と言ったりもする)に興味がむくのは、そのためでもある。
 堀に、いま一つ貴重な言葉があった。
 「(前略)作品の全一体、その生命を生き生きと支え切る詩精神の清新さ・・・・・・・こそ問題なのだ。言ひかへるならば、それは知性の問題である。そして、知性・・とはつねにイデアの光を身にうけ、はじめて自らを成長せしめる――いはばたえざる自己救出、そのきびしいいとなみ・・・・――批評精神・・・・の謂であるにほかならない。この批評精神・・・・の裏づけを欠いたあらゆる新しさ・・・はすべて偽物だ。(以下略)」(「不器用句集覚え」傍点堀)。
 古くして、つねに新しい指摘である。私は、このみずみずしい意見を、「土がたわれ」の自覚の上に重ねて読むのである。「土がたわれ」の「知性」、すなわち「批評精神」として受けとりつつ、自らの清新な生の現在を俳句のなかにも築こうと願ったのである。
 次に、桑原武夫「第二芸術」の場合は、そうした教示ではない。一箇の刺激にとどまる。
 この啓蒙的な散文は、日本語の音律形式(とくに短定型)のもつ〈非散文効果〉(韻律と定型空間の効果ともいえる)を見事に見失っている点で、文学論としては下の下のものだが、俳句をとりまく人間関係の批判としては、まことに時宜を得たものであった。私は、ちょうど戦地から帰国した翌月に読んだわけだが、ただちに、結社組織をおもい、このなかで育まれている俳句作品の低俗さが、逆にその人間関係を温存させる因ともなっている、とおもった。純粋すぎる考えかたであって、それほどお安いものでないことは、それから二十五年にちかい体験のなかでよくわかったが、しかし、そのときは、だからこそ〈人間〉を叩き込め、その生き生きとした息ぶきで、人間関係の停滞を吹きとばせ、とおもったのである。
 そのころから〈本格俳句〉という言葉が浮かぶようになったのだが、遊技・遊芸化した俳句が露呈する低俗な生き身のすがたではなく、同じ生き身ではあるが、それの本質的な形象を打ちだしたい、というおもいに、私ははっきり向っていたのだった。
 〈境地〉に自己充足せず、さりとて、生き身の皮相に自慰せず――ということであるが、私は、この念願を、一九五三年ごろから活溌化した「社会性」論議と実作の渦中で、さらに明確にしていった。
 私はそのとき、「社会性は態度の問題」として、イズムべた付き、あるいは社会素材的考えかたによる皮相化を拒絶した。そして、態度を支えとして、内部と外部(社会)の葛藤と調和をはたすもの――その内面的営為をおこなうものを〈主体〉(社会的主体ともいった)と名付けてみた。この主体というとらえかたには、先述の、〈状況〉についての認識のひろがりが具現している。
 そして、その主体の活動――まさに、これが人間の〈状況〉といえるもの――を、いかに俳句に実現するか、その方法を求めて、私は、一九五七年(昭和三十二年)に「俳句の造型について」を、一九六一年に「造型俳句六章」を、ともに「俳句」誌上に書いた。そして、そのまえの一九五六年に「本格俳句・その序論」を「俳句研究」誌に書いて、その基礎打ちをした。
 ともかく、ここにきて、どうやら私は、状況の句・・・・本格・・的に打ちだすべく、その方法をかためることになったのである。それから、かれこれ十年経っている。
 そのあいだ、依然として、私は自分の意欲を優先させ、この詩形の特性に従うよりも、むしろ自分の意欲に従うように詩形を馴致することに専念してきた。ただ、そうは言っても、定型式の伝統は堅く、それと自分の表現内容との均衡を計るためには、さまざまな譲歩をしなければならなかったし、当然そこでは、その特性を探求し、確実に掌握することを考えなければならなかった。
 加えて、一九六〇年(昭和三十五年)あたりを境にして、有季定型への回帰(私は、伝承回帰の時期と言っている)が目立ちはじめ、その人たちや同じ関心に立つ自由詩の人たちからの批判を浴びることになった。私は、ますます詩形の特性探求に向うことになり、焦点を言葉と形式の問題にしぼってゆくことになる。
 いま、私の得ている結論は、三句体、十七拍の文語定型は、有季の約束をはずしても、独立詩形として成立可能(現在の表現要求に耐え得る)ということである。そして、将来のすがたとしては、現代書き言葉による変容を経て、新たな最短定型が展望されるわけだが、それがいかなる形をとるかは、まだわからない。わからないけれど、すくなくとも、次の一線を崩すことはできない。それは、韻律と定型空間(言葉のイメージ)の〈奇しき諧和〉を保って、〈非散文効果〉(韻文の魅力といった、韻律に傾きすぎた考えでなく、定型空間の魅力も同等に、ときには同等以上に重くみる)を十分に発揮してゆくこと――そのために最適な定型式でなければならない、ということである。そして、むろん、その場合に、和歌から連歌・連句を経て発句の独立、俳句という子規の命名にいたる、いわば詩形の伝統を、定かに見ていなければならない。その上で、長い実作努力がつづき、やがて、現代の〈主体〉にふさわしい定型詩形が構成されてゆくことになるはずである。
 そうしたかたちで、伝統詩形の現代にたいする耐久力(適応力)を信頼するについては、当然、言葉の問題が前提になる。
 それは、季語を含む広範な語群が象徴機能を開現し、獲得することである、と私はおもっている。季語を約束とする――そうした言葉への狭い配慮を捨てて、一度、季語を他の語群のなかにおいてみることなのだ。
 季語をも含む広範な語群の象徴機能――これを言うためには、季語の象徴機能じたいの変化(私は深化という)を語らなければならないが、これはすでに、楸邨や草田男の作品について書いたとき触れていることなのである。そこで私は、これらの詩人が、季語を季節感以上のものを期待しつつ使っていた、それは〈物象感〉とでもいうべきものだ、と書いた。機能として、季感よりも、もっと広く深いものを、彼らは感得していたのである。季感も、その物象感の中の一部。
 私の作品で、

  三日月がめそめそといる米の飯

というのがあるが、これができたとき、自分ではっきりと、その物象感を知ったわけだが、ここにある三日月という言葉は、三日月という物象そのものの感受によって象徴機能を得ている。よく読むと、なんとない季感があるが、それは、歳時記できめた秋ともいえるし、そうでないともいえる。夏ともいえ、冬ともいえよう。作ったときは早春の三月だ、といえば、ああなるほど、これは早春の感じだよ、という人が多いかもしれない。そのていどにしか特定季を受けとることはできないにもかかわらず、なんとない季感を感じるのは、いわば、天然の時間と人間の生活の摩擦感とでもいうべき、季感そのものが感じられているからなのではないか。どうも私はそうおもう。
 そういう例は多い。ことに、トマトや草花などのように、四季いつでも栽培されるものが増加してくると――ことに都会生活者の場合などは尚更――、そういう広いかたちの物象感以外には、あまり感応できなくなるにちがいない。また、現代生活者の天然への対応が、アルピニストや宇宙ロケットの操縦士を引きあいにだすまでもなく、一個の物体、あるいは現象として行なわれることが多くなっているとすれば、ここでも、その言葉は、物象感を象徴機能の軸とするようになろう。
 季語という呼称がもつ文化視角をないがしろにするものではなく、むしろ、その伝承を貴重とおもうものだが、さりとて、それをこの時形の約束として固定化してしまうことは、すでに狭いのである。むしろ、湖も森も、父も母も、朝も昼も夜も、そして、ビルディングもロケットも電話器も鼻も耳も――その象徴機能の開現の可能性を信じて、自由に、この詩形に参加させるべきなのだ。むろん、季語と競合させるかたちで――
 私の実作体験では、残念ながら、まだ季語の象徴機能のほうが高い場合が多いが、そのことをトクと承知の上で、私は広範な語群にいどみたいとおもっている。
――――――――――
『定型の詩法』金子兜太/海程社1970/P389
『定住漂泊』金子兜太/春秋社1972/P232
初出:土がたわれは『俳句』1970・8

新たな前線をめざして(『海程』126号・127号での座談会)

新たな前線をめざして(『海程』126号・127号での座談会)

森田緑郎
武田伸一
酒井弘司
谷佳紀
進行 阿部完市
大石雄介


■叩き台として

 阿部 さっそくだけど、この座談会の目的というか、主題というか、それを、大石さん、あんた説明してよ。
 大石 実は、名古屋で行われた二月(昭51)の同人会のすぐ後で、来年東京でやる十五周年記念大会をどういうものにするかという話が出たんです。とにかくお祭じゃあなくて、実のあるものにしようじゃないかと金子さんや編集部を中心にいろいろ案を練っているんですが、誌面の上でもそれに合わせて長期的な企画をすすめていこうということになりました。そこで、固まりつつある来年の大会の理念というか、基本的な志向あるいは認識というものをぼくなりに纏めてみると、こんな風になります。
 俳句形式とわれわれをめぐる、あるいはわれわれに関わる状況というものを考えてみると、これはひじょうに危険な、というよりむしろ末期的とさえ言えるんじゃないか。いわゆる俳壇では、伝承派はいまや季題趣味に居直ってしまったし、『俳句評論』系というか、たとえば『俳句研究』と高柳重信周辺のグループはことば遊びや観念遊戯に耽っている。そしてこの両者が退嬰の世相にのって、数やジャーナリズムをバックにこの形式を私物化しているというのが現状だと思うんです。そこではこの形式はもはや完全に遊具に堕しめられていて、人間を全面的に背負った感情や感受の直接性というものは喪失してるんですね。これはもう、言語表現の本質が失われているとさえ言えるんじゃないか、と。
 一方、われわれの方はどうかというと、海程の現段階は、いちおう阿部完市に象徴される個性多様化の路線にあると言えるんでしょうが、これを多様化と捉えうるのは、いわゆる社会性および造型という共通過程を踏んだ者たちまでで(『今日の俳句』段階)、それ以降の若手や新同人の大方には、共同の根をもっている多様性とは捉えられないんじゃなかろうか。むしろ、雑多なもの、評価基準の混乱としてしか作用していないふしがある。たがいの相対関係が見失われたばらばらな孤立状態で、せっかくの集団における場の力が有効に働いていないんじゃないか。編集者として毎月同人作品とつきあっていての印象論ですが、とにかく生きが悪いです。そこには、表現の本質とは無縁な、自己顕示のためのテクニックやスタンドプレーなどといった不毛な芽ばえさえ散見されはじめているわけで、先の高柳周辺からの悪影響を受けやすい体質さえあるんじゃないか。
 これらは結局、戦後俳句と、金子さんたちいわば海程第一世代が、この形式を人間の表現として十全に機能させようとした、社会性とか造型とかいう、あるいは近ごろの衆の詩といった努力の不当な無視や排斥、あるいは無知に由来しているというしかない。だから、この形式の現段階を正当に確認することが、この形式に生気をよみがえらせるための不可欠の要件じゃないかと思うわけです。そしてそれがまた、とりもなおさず海程という集団の立脚点を再認識することでもあり、そこからはじめて新たな前線の組み立てに向かうことができるんじゃないだろうか。なんていうかな、あらゆるエネルギーと可能性が相乗する前線というか、とにかくストレートな表現意欲に立った反遊具の前線ですね。細部には異論もあるかと思いますが、それはお話の中で示していただくとして、今日は、この来年の大会に向けての作業のかわきり・・・・として、海程というものが戦後俳句の流れの中でどのような過程を担ってきたか、そこから海程の現段階をいかに捉えるか、あるいは捉えるべきかということを、各人の体験に即して個性的に論じていただきたいわけです。結論を出すというんじゃなくて、叩き台としての問題提起という線で。それから、話が前後することにもなりますが、その上で、それを踏まえて、海外の状況への発言もお願いしたいんです。

■「社会性」との出会い

 阿部 とまあ、また大石流のえらくアクの強い言い方ですが、異論は異論として、大筋はそんなことでしょうね。で、どうでしょう海程創刊は三十七年四月ですが、戦後俳句の何かを海程が担いはじめたのは、そのずっと前に金子代表がいわゆる社会性俳句と呼ばれた一群の俳句の中に身をおいていた時、有名な「社会性は態度の問題である」という発言をした、あそこまで遡ると思うんですが。もしよかったらこのあたりから、海程の歩んだ道程といいますか、それぞれの受けとめ方を個性的に語っていただきたいんですが。
 武田 ぼくはあのころは「寒雷」の選でやっていたんですが、自分の書きたいことどっかズレがあって、いつも違う違うと思いながらやっていたわけなんです。人間探究派的な内面のパターンが肌に合わなかったんですね。だから金子さんのあの発言には注目してたんですが、まだどちらかというと、社会性推進というよりもいわゆる社会性俳句に対する批判としての面で受けとってました。あのあと、金子さんが『寒雷』の大会で「新しい俳句について」という講演をしたんですが、その時金子さんはじめて造型ということばを使ったんですね。草田男さんがただちに立って反論したりした。あの時、はっきりと新しい俳句というものの存在を実感できました。そういう時期に『寒雷』で楸邨の他に金子さんと森澄雄さんの選句欄ができたものですから金子さんの方にも投句したんですが、感覚がぴったりなんですね。それで俺の行く道はこれなんだと、眼の前が開けた感じでした。
 森田 ぼくの場合はね、そういう一つのテーゼみたいなものから海程に参加したというはっきりした気持がその当時はなかったですね。むしろ、とにかく自分の内側に閉じこもっていることができないっていうか、一種の青春感情みたいなものが鬱勃としていて、同時に安保前後ですからね、結局なんらかの意味で外側からの強い要請っていうか、そういうものへの動きと、自分の内部の動きっていうか、それとうまくリズム的にも噛みあう、そういうかたちで外へのひろがりというか、外への要求っていうものが、だんだん必然的に芽ばえてきたというかね、対現実、対社会というかたちで関わっていく、共鳴していく、そういう時には、いままでの写実的な書き方というのは、そういう自分の内面を引き出すには限界があった。なんていうか、無理があった。そういうことがあの当時見えてきた。で、自分を出すための方法としてなにか新しい表現を求めるという気持が強かったですね。そういう中で前衛俳句運動というものに傾いていったんです。そういう意味で、社会性俳句と前衛俳句がですね、自分の中ではっきり明確にしきれないままにその渦巻に入ってしまった。
 しかし、その渦巻の中で、なんらかの意味で、自分の考えているもの、あるいは内部のものを表現するにはふさわしい表現だと感じていましたね。そういう時期に、社会性俳句を脱皮したかたちで、あるいは収束の上に立ってさらに一つの発展として海程が創刊されたということだと思うんです。そういうところと自分の志向がうまくぶつかって海程へ入ったということなんです。で、入る時はね、だからもう社会性がどうとかいうよりも、いったいどんな方向に海程が動いていくのか、どういう表現を目ざしていくのか、まったく模索の段階だったわけですね。ただね、全体としてひじょうに熱っぽい勢いというものがあって、その勢いの中でなんか自分自身の動いているものがある、そういう感じでしたね。

■「社会性は作者の態度の問題である」

 阿部 谷さんももう俳句をつくってましたか。
 谷 つくってました。ぼくがはっきりおぼえているのは「造型俳句六章」ですね。これは最初から読んで、雑誌をばらばらにして一つに纏めましたからね。作りだしたのはおそらくその二、三年前だと思います。
 阿部 「造型俳句六章」を、雑誌をばらばらにして一冊にして、というようなまでの熱心な態度を示した谷さんなら、「社会性は態度の問題である」という発言というか立言というかな、そういうものに対してなんか感想があるんじゃないですか。資料で言いますと『定型の詩法』にも収っている例の『風』のアンケートですが、たとえば「(I)社会性は作者の態度の問題である。創作において作者は絶えず自分の生き方に対決しているが、この対決の仕方が作者の態度・・を決定する。社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している。」意識的・・・にというところに傍点がついてますね、あるいはですねえ、「(Ⅲ)従って、社会性は俳句性と少しもぶつからない。俳句性より根本の事柄である。ただこの態度はいずれは独自の方法を得ることとなるが、俳句性を抹殺するかたちでは行われ得ない。即物・・は重大なテーマである。」いずれ独自の方法を得ることとなる、あるいは俳句性を抹殺するかたちでは行われ得ないと、その当時まあ書かれたわけですけど。
 谷 ぼくが書きはじめたのはその発言のずっと後ですからね、社会性論議っていうものがどういうかたちで出てきたものかという歴史的な興味はなかったです、ともかく作るという興味しかなくって。しかし、態度という言葉だけは、俳句に関わったかたちではなく、むしろ自分の思想上の問題としてひどく魅力的でしたね。文学と思想、行動と態度ってのはどういう関係があるかっていう時点で考えてましたので。ところがやはり最近になってくるとね、必然的に考えざるを得ないっていう感じです。ですから、過去への新たなる問いかけとして考えますから、渦中の人たちとはちょっとずれますね。たとえば、社会性が一応前衛俳句という形で終息したような感じで、ひじょうに精算主義的に終わってしまったような感じがあるんですよ。金子さんのかたちで一応実ったにしろ、なにか俳句のその時代の徒花あだばなのような感じで扱われているでしょ。なぜそうなったかということについてはやはり疑問がありますね。ぼくにとっては、社会性というのは大きい問題と思ってますので。社会性俳句という間違いと社会性という大切なものの間で、やはり金子さんの態度っていうのはひじょうに大きな定義だった。一番自由な発言だったんじゃないかと思うんです。自分の書き方の問題として一番自由な発言だったという。
 阿部 自由の確保とでも言いますかね。
 谷 それ以外の言い方では、やはり、文学的なというよりも、むしろ政治的なことに関わりが強くなりすぎてくるんじゃないかって感じがありますね。ほかの言い方はないんじゃないかっていう。
 阿部 そうでしょうね。結果的にはというか、金子兜太の歴史を、あるいは俳句の歴史を見てみるとね、それが一番やはり妥当な言い方であったかもしれないなあって感じと、それからぼくは、これからに対する予感としての感じを持つわけだけども、大石さん、どう。
 大石 ぼくがはじめてその発言を知った時には、なにも魅力ある言葉じゃなかったですよ。社会性というのは、人間にとってあたりまえのことでしょ。その言葉がどの程度のことを指し示しているのか不明だったし。大事な意義を持っているんだと気づいたのはごくこのごろなんです。それも僕にとってというより、さっきも言ったように、毎月同人さんの作品を見ていてすごくこのごろね、生きが悪いなって感じがしだしたんです。
 阿部 誰の?
 大石 海程全体の印象。でね、社会なんて言い方ぼくは好きじゃないけど、金子さんがね「社会性は態度の問題」だと言ったその時点で指し示していた何かがね、いままたびじょうに有効ではないかという気がしだしたんです。社会ということが言われてからあの作品群が出来てきたんじゃなくって、当然ある種の作品群が自然発生的に生まれてきて、それを確認する段階で社会性なんていう言葉が出てきたんだと思うわけです。そういう作品が生まれてくる時には、それに対応したものが作者の側にあってはじめて生まれてくるんであって、そのへんを位置づける必要があったのだと思いますね。おそらくひじょうに生生しい感受とか表現意欲とかいうものが、それらの作品の一番もとにはあったと思うんです。ただそれがもとにはあっても結果的に社会性俳句と言われているものでは、ぼくの見る限りではかなり不毛なものだった。金子さんの発言は、社会性俳句と言われたものがその根に持っていた大事なものを指摘しつつ、不毛さですね、作品の上での不毛を完全に衝いている言葉だと思うわけです。当時一般にはやっぱり社会性というのは作品の上で求められたんでしょ。作者もそう思ったし受けとる側もそう思った上で社会性俳句はいいとか悪いとかいう言い方をした、それを金子さんの発言は衝いてると思うんですよ。

■現代を担う

 阿部 それぞれやはり少しづつ個性というレンズを通して「社会性は作者の態度の問題である」という言葉をみておられるように思えるんですけどね、今ぼく自身は、この社会性というのは、やっぱり一種の人と人との関わりというか、関係というか、そういうふうな関わりの中に人間が生きているという、あたりまえだということにもなりますけどね、そのことを本能的に嗅ぎとっていた、そういう言葉だとも受けとれますし、さっき谷さんが言ったように、やっぱり自由というものにひどく密接した言葉だろうとも思ってるわけなんですけどもね。で、もう少し具体的にその意義というのを掘り下げてもらいたいんだけど、まず歴史的にというか、戦後俳句史の中で、社会性俳句とか、この金子代表の発言とかはどういうところに位置してるんでしょうか。
 武田 あれじゃないかなあ、桑原の第二芸術論。
 阿部 うん。
 武田 あれに対して大方はあたふたしたり、感情的になったりしただけだったけれど、中で二つ、有効な反応というか行動があったと思うんですよ。一つは新興俳人のあらましが結集した『天狼』の創刊で、あれはやはり俳句性というものを厳格に提示しようとしたんじゃないかな。もう一つは『風』を中心に起こってきた社会性の問題。たしか二十八年ですね、角川の『俳句』で編集長の大野林火がとり上げたことで急に注目を集めたんですが、「俳句と社会性の吟味」という特集ね、そしそれが引き金を引いたんでしょうが、だいたいジャーナリズムがとり上げるのはかなり気運が熟しているときでしょ。あのときも朝鮮戦争やレッドパージによって戦後政治がまるで正反対に方向を変えた時期で、だれもが社会現象というものについてひじょうに敏感になっていた。当時作品もそれを反映していた。『風』のメンバーは、それをもっと意欲的にね、現代を盛るというか、自己の内面も含めてね、現代を書くということを積極的に展開したと思うんですね。
 阿部 まさしく新しいジャンルではあったんでしょうけどね。やっぱりぼくは、一種の政治の季節だったと思うんですよ。その中でね、金子さんだけが、「政治」って言葉を吹きとばしちゃって季節をね、人間の季節というふうに感じとれた人っていうふうに受けとれるんです、いま。
 武田 あのね、その政治っていうか、イデオロギーとか素材とかいうのは手法上の未熟さでしょ。これはハシカみたいなものでね、それよりも花鳥諷詠なんかとはちがって、この形式に現代を担わせようとした、すごく大意味があると思うんですよ。それをね、たとえば現在社会性っていうとひじょうにあの時のこと嫌がる人がいるでしょう。なんか自分の恥部に触れられるような感じで嫌がるっていうような。ほとんどみんなそうでしょ。なぜそんなに嫌がるのかしら、そこらへんがたいへん疑問なんですけどね。
 谷 その気持ち、わかるよ。ぼくが書きはじめたのはずっとおくれて造型俳句のころからなんだけど、なんかこうイメージづくりだけじゃ面白くないわけですよね。やっぱりね、サルトルあたりの「飢えた子を前にして文学はなにをなし得るか」という命題なんかにぶつかっちまうわけなんだ。そうすると社会性俳句がぼくにはひどく生生しく感じられてね、ただ、ああいう失敗はしないぞという思いはあったんだけど、やっぱりうまくいかない。二の舞なんだね。そうすると、態度でいいのか、行動までいかなくちゃだめなんじゃないかっていうところに行っちゃうんだ。そうするとね、文学の問題とズレてくるのはあきらかでね、当然に書くより旗を振っている方が正しいんで、書くなんてことはごまかしになってくるんだよ。やっぱしそこらへんのとこ通ってくると、ああいう俳句を書いていた時のことは触れられたくないっていう感じがあるんじゃないのかなあ。ただね、ぼくみたいに逆行してああいう俳句を書いてみると、むしろ態度の問題であるという正当さというものがより強く認識されてきますね。
 大石 うーん、棒ふりか、たしかにそこまでいってしまえばにがいだろうな、うん。しかそれは、谷さんだけとはいわないが、かなり特殊な例じゃないのかい。ぼくは武田さんの意見に賛成だな、やっぱり文学上の苦さでしょう。当時、大方は社会性というものを作品の上で、いわば作品に内容とか主張として受けとっていたからああいうふうな作品になったんで、これは文学的には破産するしかないですね。その苦さなんでしょう。さっきも言ったように「社会性は態度の問題」というのは、そこを正確に衝いてますね、「いずれ独自の方法を得る」だろうと、まさに用意にね。だからといってね、社会性という指摘の正当さには少しも変わりはないんで、武田さんも言ってましたけど、当時としてはああいうふうにしか書けなかったにしろ、ああいう作品を書かざるを得なかった作者の感受性とか意識とかいうものの存在を指摘したのは重大な意味を持ってますね。ところが一つなんとも解せないんだけど、同じアンケートで金子さん、「(Ⅱ)従って、作品は当初社会的事象と自己の接点に重心をかけたかたちで創作され、やがて社会的事象を通して社会機構そのものの批判に到ることになろう。ここで批判の質及び内容が問題となる。」と書いているでしょう。これ読むとまた複雑な気持になってね。それはね、表現というものが本来、己れ自身をも含めて体制というものを否定するところに成り立っているのだという意味では、社会機構の批判というのは何を言っていることにもならないわけなのに、それを改めてこう書いちまうと、これは作品の上でのことと受けとらざるをえないんで、やっぱりある内容限定をしてしまっただろうな、と思うわけです。

■作家の理論

 武田 だけどね、それが言われた当時の背景ということを考えると、対社会ということをやっぱり言わなくちゃだめなんじゃないかなあという気持が強いわけなんですよね、ほくも。
 谷 そう、金子さんだって、このころ社会性といったものを、いまは志向的日常性なんて言い方をしますけどね、やはりこの時代、社会性と言った時にはある傾向性を持った、やっぱり社会主義イデオロギーといったものにかなり傾いたものだったと思いますよ。「造型俳句六章」の中でね、たとえば〈華麗な墓原〉のパラフレーズというか、つくり方なんかを書いている、あれだってあきらかに、社会的事象に対する意識性っていう書き方でやってますから、「六章」のころにも金子さんの内部にある一つの傾向が強いんで。
 大石 そりゃぼくだって金子さんがああいうふうに書きたい気持ちはわかるよ、しかしそれはあくまで個性の問題であって、「社会性は態度の問題」というような普遍性は主張できないってこと。だからそういう意味じゃこの文章混乱してると思うんですよ。
 阿部 混乱してるというよりもね、当時、金子さんの意識にのぼっていたことは、混乱というものを含めてまさしくこのことだったわけですよ。ぼくがさっき予感と言ったのはね、この意識を支えていたものですよね。そのものが正しい方向を、金子さん自身だって気がつかないうちに指し示し得ていたと、こういうふうに結論していいんではないかというんです。
 谷 だから金子さんというのは面白いんですよね。その時の現象なんかにすごく敏感に反応しながら、自分の感性ってものをスーッと出せる人なんですね。たとえばこの社会性だって、自分の生き方に対決してるんだということを態度・・と言ってるわけでしょう。ところがそのつぎに、いま大石君があげた現象的なことを言ってしまうわけですよ。「六章」だってひじょうに意識の論理っていうか、意識のパラフレーズをしながら、一方では感覚、自分の感受性っていうものをいかに磨いていくかっていうことを書いているわけで、むしろぼくなんかこっちの方で読んだわけですよ。〈華麗な墓原〉のパラフレーズ自体はつまんないけど。
 大石 たしかに面白いなあ。金子さん、いま谷さんが言ったように、一つのことをなにか主張するでしょう、その時にその一つのことだけでなくって、その周辺のことを一緒にみんな書いちゃう。だから読み手がいいかげんなところを読むと全然逆のことになっちゃったりね、するわけで。これなんかもそういうところがあるんじゃないかな。
 阿部 ぼくはね、一人のね、少なくとも作家の書いた理論というものは、ただそれをそこに書かれた理論だけで読むっていうことはしたくないんです。そういう風な読み方をしたらひじょうに貧しいものしか書けてないですよ、作家の理論なんていうものは。その中にあとで含まれる、ふくらんでくる、あるいほふくらんできたものがどのくらい入ってきたかということが大切なことだと思うんですよね。
 森田 だからこの(Ⅱ)の社会的事象と自己の点に重心をかけたかたちで創作するっていう、金子兜太の作品ってのは、ほとんどが外と内側がはっきりとイメージとして対比されて出てくるわけでしょう。ところが不思議なことに、そういうふうにやっているうちにね、それがやがて本能的にそういうものを超えていっちゃうところがすごくあるわけですね。こういう風に文章化したものでもはみ出す部分をたえず含んでいるんで、いま読み返してみても本質的にまちがってないというところがありますね。
 阿部 金子兜太がね、そういうふうな現象にいわば振り回されながら、書きながら、しかもその根本に予感をしっかり持ちえたということですね。そのことがいまになってみれば、評価せざるを得ない、正しかったと言わざるを得ないんですね。森田さんの言うよう金子兜太という人の作品をみていると、これはいわゆる素材主義的といわれるような俳句がしぼんだあとにも逆にふくれてきている。これは私の目にははっきりと現象として見えていたと思うわけです。

■内面への歩み

 森田 それからね、金子さんの発言については、現象的なことなんですけども、海程創刊のころは「社会性は態度の問題である」という、きわめて外へむかって関わっていくという、そういう姿勢よりもね、むしろ前衛俳句運動のなんとも奇妙な熱気が残っていてね、それぞれの若さの感情をそういう表現に託していたという状態が残っていたような気がするんですよ。なんか前衛的な表現の動きの中で書かれ、あるいは考えていこうという、そういううねり・・・があったんじゃないか。そのうねり・・・が、手法として造型論のイメージにつながってしまって、社会に対する意識っていうか、表現を越えて外側へ突出していくというか、そういう意欲とか志向っていうものがあの当時見えなかったような気がするんですよ。そのかわりに、やがてイメージに意味的な過重をかけていくというようなことになっちゃったと思うんですね。あのころ「闘牛の会」っていう若い人達の会があって、そこで「造型六章」をテキストにして話し合いをしたんだけど、まちまちだったですよ。取り方によってさまざまな反応をみせてました。そういう意味でもいまあらためて「社会性は態度の問題」ってことを考えてみると、やはりもっと大きな意味を持っていたはずなんですがね。そのへんの対処の仕方がね、深部にまで浸透しないで、どっかで途中で方向が変わってきてしまってるんじゃないかということは考えますね。
 阿部 誰の方向。
 森田 全体の方向ね。イメージが意味の重さを抜けだせないとか、どうも内の存在に止まってしまって外側のエネルギーがとりこめないとか。
 阿部 いま森田さんが言われたとおりで、「社会性は態度の問題である」っていうこの言葉がね、当時私の頭からもほとんど消えていたということは事実なんですよ。それよりも「造型六章」の方がね、兜太の理論としては生生しかったわけですね。
 森田 その社会性って言った時の感じは、はじめはひじょうに漠然としてたんですよ、ぼく自身はね。概念的にとらえているというかね、そういう気持が強かったんですよ。しかしね、その後、そういうような海程全体のどろどろした経過の中でね、ぼくにその後だんだんわかってきた、固まってきたことはね、社会性ってことは、社会的関連の中で考えるとか、外側へ自分をつなげていくということはね、同時に自分自身の内側への眼っていいうか、内面というか、内部ってものを深く掘り下げていくってことになると思うんですね。そういう関連がじつはぼくの中ではひじょうに大事なんだって気がついたんですよ。自分自身を深めていくにはね。そういう態度が弱まってくると、どうも自分の中だけで作りがちである、突出していかない。そういう揺らぎの中で、やはりこの発言が外と内との関わりを強調しているような意味でね、ひじょうにぼくには強くわかってきたんだけどもね。
 阿部 私は関わりってことばをくり返すわけですけど、「社会性は態度の問題である」というのは、その関わりということを自覚するということですね。まさしく森田さんが言った自己の内面への歩み、そういうふうに私自身はとっているし、とったつもりなんですよ。外へ歩くということでは私の場合には少なくとも全然そうじゃなかったです。内面へ向かうことなんです。そうであればね、自分の内面を支えている、たとえば気分だとかあるいは自分の言葉だとかということにですね、眼が向いてくるのはあったりまえだろうと思うんですね。またたとえば、ある一定方向をその作品が持ちはじめた場合はね、まさしく関わりということを忘れたことになるんですよ。関わりってのは、いつでも関わっているわけだから。だからいまのぼくの言葉で言えば、たとえば現瞬間と言った場合には、その現在というか、うつつというかね、その時のこととりあえずうたいあげるんで、つぎの瞬間には別のものが出てこなければいけないと思う。だからこの言葉っていうのは、ぼくのいまの俳句に通用してると思うんですけどね。

■生き返ってきた言葉

 大石 とくにこのごろの阿部さんがさ、これはひじょうに重大な言葉なんだと、ぼくにもよくわかるって言うでしょ。するとただちに予想されることなんだが、なぜ阿部さんが社会性社会性って言うのか阿部作品では、あれは社会性なんてことは言えないもんだと、一番社会性というものから遠いものなんじゃないかっていう、そういう人達がいて当然だと思うし、げんにぼくにもどこかしっくりしないところがあるんですがね。けげんな顔をされたことも何度かあるんだけど。
 阿部 あのね、ようするに、社会性っていうのは、いわゆる社会性俳句とはちがうんだという、それはもういいでしょ。それから内面への歩みとかもね。だからそうい問にさらに答えるとすれば、さっき言ったようにですね、社会性というのは、人間が関わりという世界において生きている、ようするに人間の生きざまの問題なんですよ。誰だって生きざまは持ってるんだからあたりまえだと言われちゃうとそれっきりだけども。人間が自分の生きざまというものをようやく見つめはじめた時には、やっぱり違う人間になるわけですよ。ある程度俳句というものを個性的に書いてきた場合には、必ずこの問題にぶつかるはずなんです。俳句を作りながら、もしぶつからない人がいたら、それは俳句というものを単なる遊びとして作っているだけのことだろうと思うんです。少なくとも私はですね、遊びながら作っていてもいつのまにか、自分生きざまと自分の作っている俳句ということに思いたつ。そうなると、この社会性ということが、私にとってはひどく身近なものになってくるわけですね。で、なんか阿部完市というのは、夢俳句とかまぼろし俳句だとか、あるいは童話だとか、いろいろ言われますが、そのどれもが私は違っているとはとても言えないけども、ただ自分自身の覚悟としてはね、やっぱり人との関わりの中における阿部完市の生きざま、それに関わる俳句を書いているんだと、一種の結論づけをする。そうした場合、「社会性は作者の態度の問題である」といった言葉がね、ひどくズシンと感じるわけです。それでもうくやしいもんだから、自分なりにいろいろな言葉を考えるわですよ。だけど、金子さんの言葉の方にやっばりきちんと書かれていた。しかも俳句を毎日毎月見せつけられている人間としての金子兜太の言った言葉ですからね、ひどく重大なものになってきた。これは少し話が先走りますけどもね、その後の金子兜太の作り方、あるいは理論の立て方がね、それを追っかけているたとえば阿部完市個人なんかは、この路線の上を走っていると認めざるをえないわけです。くやしいけれどもこれからもこの外になかなか出られないんじゃないか、というひじょうな焦りを感じさせる、ことばだということですね。私にはひじょうに重大な発言です。ですから、あんな俳句を作っていていまさらなんだ、退行現象じゃないか、というようなことを言われるとするならば、私にとってはそうではない、まさしく現在の言葉、生き返ってきた言葉であるというべきなんです。

■全身性

 大石 阿部さんや森田さんの言われたことはそれぞれ個性的で、そのことはさすがと思うんですが、しかしね、まさにそれを態度の問題として考えている。作品上のこととしてではなく、社会性というものの認識そのものを語っていると思うんですよ。こういうと先ほどから言っていることに矛盾しているようだけど、そうじゃないんで、社会性を作品の上で主張するなとか、「社会性は態度の問題」とかいうのは、あのいわゆる社会性俳句についての発言なんで、それによって作品の上での社会のあり方が否定されたわけじゃないんです。
 だいたいもともと人間というのは社会的な存在なんで、社会性なんてことを指摘したって、それ自体は、詩論的にはなんの意味もありゃしない。問題は、この発言が俳句に対して持っている意味なんです。それを俳句の上で主張することがなぜ生産性を持ちえているのか、俳句の上で、ようするに詩論として主張されている社会性とはいったい何を指しているのか。変な言い方だけど、一番ざっくばらんな言い方をすれば、社会性なんていうのは、作品がいかに生き生きとしているかというだけの問題だと思うんです。社会性と言われたあの時点で、いままでの俳句の書き方では満足できない表現意欲の存在というのが確認されたというか、それが俳句形式の中に持ちこまれたと思うんですよ。それまでの俳句ってのは、少数の例外はありますが結局、書き手の分身を設定して、それに俳句を書かせたんですね。美意識という分身なんだけど。そこれがさらに昂じると、逆にその分身に生身の人間を合わせてしまってね、俳人格なんてのがそれでしょ。あらゆる季題派、新興俳句の大方、『天狼』の俳句性、結局みんなそういうもんでしょ。それに対してね、社会性というのは、こういった分身性を拒否した、生身の人間をまるごと背負った、いってみれば全身的な表現意欲だったと思うんですよ。だから、分身派というのは必然的にその感性が設定された分身のうちに閉ざされていることなる。これに対して、全身派というのは、そういった閉じられた感性を拒否して、ひたすら現実にむかって開いていると言えるんじゃないかな。もし「これが社会性だ」と言ってしまうと、その瞬間に感性を閉ざしてしまうことになるから、それは作品の上では永遠に規定されることなく、ただ作品に鮮度だけを保障するという、結局社会性というのは、そういう書く主体の感性のあり方についての確認、あるいは指摘なんであって、けっして感性限定じゃないわけです。だからこそ詩論として普遍性を主張できるわけ。
 ぼくはね、どんな理論であっても、俳句に関する理論が内容限定をしているものはいっさい間違いだと思うんですよ。それは作家の個性の問題であって、普遍性の問題じゃない。個性だから内容限定するのは勝手だが、普遍性は主張できない。金子さんのこの文章ってのは、一面ひどく個性的なわけですよ。でありながら一方ね、いい作品っていうものがどこに成り立っているかっていうレベルの、言ってみればそういう普遍的な意味での内容限定はしていると思うんです。このごろの海程の作品が生き生きしてないということを感じだした時ね、やっぱりぼくもここへ来たんです、この言葉に。金子さんの発言はひどくそこにつながっていると思いますね。いい作品、ばくらにとってのいい作品です、ほかの誰それ、たとえば高柳さんにとっちゃいい作品じゃないでしょう。ぼくらにとってのいい作品というもののね、共通基盤ってものをこの言葉が指摘しているんじゃないかっていう気がするんです。

■「造型俳句六章」の魅力

 阿部 例によって、えらく大石流で、ま、異論のある向きもあるでしょうが、問題提起という意味も含めて、そのへんを一種の小さいしめくくりとして次へ移ってもらいたいんですけど。要するにね、金子さんが態度といおおまかなものを打出して、いずれ独自の方法を得ることとなるといった、それが「造型俳句六章」ということなんですが、たしかに、あれしかなかったですね、あの社会性とか、前衛俳句とかの喧騒の中から、ぐいと一歩踏み出したのは。でまあ武田さんから、どんなでしたか、あれは。
 武田 それに関してはぼくはどっちかっていうと苦い思いの方が強いわけで。いわゆる造型、かたちをつくるとか、そういうところでしかとらえていなかったと思うんです。それが新しい俳句だと思い込んで、もっぱらそういうものばかり書いていたわけです。そうするとまわりがね、いわゆる伝統派ですが、そういうところから盛んに攻撃してくるわけなんですけども、それはそっちが悪いんで、こっちのやることが新しいんだと頭からきめこんじゃってね。
 森田 ぼくはね、読むたびにそれが自分のものにならないというおかしさがいつもあった。だけどたしかになんかそこにあるということがたえずあったですね。はっきり言ってね、たまらなく強要されてくるような感じがあってあまりにも明確に限定していくことがね、あるいはぼくがあいまいな部分で表出しようとしているところをなんか逆にとにかくきめつけていくってことがね、どっかでなんかを逃がしてるんじゃないかっていう感じがあったんですね。で、だから「見ることから感じることへ」なんて言ったんですよ。だけども、その感じるということね、「造型六章」の中でも〈華麗な墓原〉分析というかバラフレーズの終わりの方で、これはまったく感じであり虚無ですがと書いてあるんです。そういうところは実になんかわかるんですね。だから、ぼくには感じるってことはそういう風にきめつけておさえこむんじゃなくって、むしろ、そういう意識をとっぱずしたところにものがよく見えてくるんじゃないかという感じがしたんですね。ものが見えるっていうことは、ものとある一体感になるとか、うまく感応していくということね、そういうところがぼくにはあってね、だから感じるっていうことはもっともっと多くの何かを引き出し得る一つの方法論のような感じで受けとったんですけども、なんかそれをきめつけられてくる中でひじょうに反撥があった。だからそういう部分はたえず拒否していく、ところが拒否しながらもその中から浮き上ってくるなにか妙なところに魅かれたということですね。やっぱり金子さんの作品の方にひかれたんじゃないかなあ。
 谷 ぼくにとって俳句のテキストであり俳句の聖書でしたからね。
 阿部 それは「六章」がそうなんじゃなくって、あなたの対応の仕方がそうなっちゃってるのかもしれないね。
 谷 ええ。ともかくわからない部分というのは、自分の頭が悪いんだと思ってましたから。
 大石 はっはっは、こりゃたしかに聖書だ。
 谷 ぼくはともかくこれで書いてきてますからね。たださきほどね、〈華麗な墓原〉のパラフレーズ、こんなところつまんなかったと言いましたがね、しかし、こういうふうに分析して書いてくれてるってことは、俳句を書くときの手がかりになるわけです。それでいながら、こちらが結局やってきたことは、この感じるとか感受したものとかいう、金子さんがそこらへんのところ繰り返し繰り返し言ってるってことだけど、いうなれば感じたことをどう書くか、どう書くかということだけでずうっとやってきてますからね。果たしてこれが「造型俳句六章」の正当の読み方なのかどうかわかりませんけど。
 大石 ぼくはね、作品を書くうえでは、あまり交わるところがないんだけど、俳句形式って中でね、人間の全面的な表現というか、やっばり思想ですよね。金子さんは意識って言葉でそこんところを言っていると思うけど、自分の思想っていうものを作品に盛るというかな、いかに実現するかという、しかもエネルギッシュにね、そういう作業を進めた人がいたということには非常にうたれますね。意識と感覚との鬩ぎ合いの美というようなところにね。ただこの場合には、その思想、あるいは志向と言いますが、それが無い状態でそれを考えたら、これ全部が手法論になっちゃうわけですよ。谷さんがいま言ったようにどう書くかというね、谷さんにとって有効だったのは、いわば感じたものがあるからであってね、極端に言えば、感じたあるものがなんにも無い人間がどう書くかということばっかり考えてしまうような、そういう手法としての受け取り方がすぐされっちまうようなところがあり、現象的には非常にマイナスの面もあったと思ってるんですけど。

■ピリオドが打てる

 阿部 やっぱりこの論文はひじょうに欠陥の多い論文だと思ったですよ。それはどういうことかというと、一種の説明心理学なんですよね。説明はうまくできるんだけど本物じゃない。私が異常心理学というあの説明の学問にひじょうに反感を覚えている人間なもんだからよけいにその思いが強かったんで、カッカしたこと覚えてますよね。『未完現実』に、金子兜太への質問ってのを五、六枚書いたんです。要するにああいう分析の作業をいうのは、書かれ終わった時にすでに偽物である。これはなにも俳句だけじゃなくって、文学っていうものはそういうものなんですよ。そういう意識が非常に強かった。どうも、金子兜太っていう人のね文章ってのは理論化しすぎる嫌いがあるんだな。
 大石 図式化。
 阿部 まあねえ、ぼくもその頃ひじょうに若かったけれども、やっぱり意識の取り扱いっていうよりも、人間の心というものをね、いま大石さんが言ったように、図式的に書いちゃっていいはずないと。ところがね、少なくともね、人間の意識を俳句と関わらせてものを書いた人ってのは他にはぼくの目の中にはいなかったですね。だからね、たとえばこれはまあ話がおおげさになるけれども、フロイトという人が出てですね、人間の無意識ということをまさしく指摘したわけでしょ。フロイトの手柄ってのはね、見方によればそれだけなんですよ。あとはなんでもかんでもセックスで説明している汎性欲説なんて、これはねえ、少なくともバカバカしい話なんで。だけども無意識ってものをまさしく突いているんで、このことだけでやっぱり人間の精神を考える時に、コペルニクス的転換であると現在評価されてるわけですね。そうなると俳句と意識なんてものを、その頃持ち込んだ人他にいないんだからね、やっぱりこりゃパイオニアであっと思わざるを得ない。考えてみれば、僕がねひじょうに悪口を言った「造型六章」というもの、意識というところからもね、阿部完市には俳句の理論がその時出来はじめたとするならば、皮肉なことに一番はじめに言ったことは気分ていうことなんで、まさしく説明心理学の一部門なんですね。そしていまだにその答は消えてない。そうするとひじょうに残念だけども、一歩金子兜太に先んじられていることは確かなんで、悪口を言いながら買わざるを得ないんです。
 森田 その頃、抽象領域を書きとめるってことを考えてたんだけど、感じる快感っていうかね、抽象領域で書いているとなんかもやもやとしちゃって快感がないわけですよ。ところがね、金子さんの作品にそれがあるんだな。だからこの造型論の論理構造というのにはどこかなじめなかったけれど、イメージの定着のさせ方というか、もう一つなんていうか、抽象領域にあるそのものを見事に書きとめるという書き方の中に、ぼくは快感っていうものを、そういういままでの作品に無いものを感じてこれはうれしい、なかなかいいなあっていう感じがあったですね。
 谷 そうなんだ。いうなればこの「六章」のおかげでイメージづくりをやれたわけですよ。自分の実感というものをそれによって確かめることがずい分できているわけだよね。ともかく表現したい、いま感じている気分の世界、それを、受身からむしろ能動的な姿勢へ転換するっていうこと、こちらにとってはそれがよりどころになるわけだよね。大石君は害を受けた人間が多いんじゃないかっていうけど、ぼくにとっては武器なんだ。そのころは仲間からはずいぶん批難されたけど、自分の気持ちの中じゃこれでいいんだと確認ができるわけだよ。
 阿部 確かに意識なんて言葉があるとね、自分がつくり終えることができるわけですよ。いままでいわゆる花鳥風月みたいなね、イメーのつくり方でないといけないんじゃないかと思っていた人達もです。自分の気分でいまこう書いたんだから、これはいわゆる内部実感なんだというところで、ピリオド打てるわけですよね。「造型俳句六章」があったもんだから。ぼくなんかもふんぎりがひじょうにつきましてね、それでボコボコボコ、ばかみたいなものつくれたわけですよね。
 武田 ただね、それだから中途のところで自己満足しやすかったんじゃないかと、いま思うと。
 大石 そういうところがあるよ。
 武田 他の人がわからないと、なにを言ってんだ、てめえが程度が低いからなんだ、とね。
 阿部 本当はてめえの方がまちがってるのかもしれないけど、まちがいだって噛み切ってしまえば一種の精神安定剤みたいな作用さえあったねえ。だから危ない面は事実としてはあると思いますからね。
 大石 だからね、正当かどうかというんじゃなくて、大方は有効性のレベルで受けとっていたと思うんですよ。皆さんにはそれぞれ有効だったわけだけど、しかしマイナスの面もすごかったんじゃないですか。イメージづくという、その手法だけの悪影響っていうのは。自分があるイメージを書いたつもりになってね、これはこっちのこういう内面に対応したイメージだからということを作者が主張するわけだ、作品はなにもそんなことを主張しちゃいないのにね。たとえばいまでも「暗い海」というと、これは作者のなんとかの反映でしてというようなのが、あいかわらず海程の仲間にだっていっぱい行われてるんだから。これは主体の表現ということのはきちかえでね。
 谷 そりゃたしかにそうだが、それはやっばり読み手が悪いんでね。
 大石 そりゃそうだよ。

■方向を決める

 森田 だからね、前衛俳句が出てきたでしょ、ぼくもその中にいたんだけど、とにかくどうやって書いたかも、どんなふうに表現したかも定かでない中でできたという気があるね。でね。詩的リアリティーとか言葉としてのリアリティーがね、ひじょうに書けたっていうか、そういう感じはあったんですよ。あったとは思うけどね、金子兜太が考えていたのは、根無し草というか、いわゆる詩的な言葉が並んでいるということだけじゃない、もっとそういうものを主体の言葉として表現に定着させたいという要求があって「造型俳句六章」を書かざるを得なかったということはあるんじゃないですか。
 阿部 前衛俳句というのは、なんでもある俳句だし、なんでもない俳句なんだなあ。ようするに方向がないわけですよ。「造型俳句六章」ってのはね、まさしく一つの志向を書いてるんですね。だから、方向を決めろと言ってるわけです。しかもその方向はかなり無限定ですね。無方向じゃないんだな。広い方向と言っていいですね。そしてまさしく一種の反省であったわけですね、奇妙な書き手なんですね、あの人は。
 大石 アジテーターのような顔をしていて、しかし実際に書かれているものは現象批判であるようなところがね。
 森田 だから前衛俳句では見えなかったものが「造型俳句六章」から、なんか見えてきたという感じがあるね。
 阿部 そうね。ブルトンだっけ、自動記述っていうやつ。あれなんかの書き方で書けばいいんだ、阿部完市の作品はそうなんだと一時言われたわけです。ところがね、意識というものに、方向のない意識なんて本当はないと思う。少なくとも意識が清明なときには。混濁してるときは違いますよ。だけどもそれを言われた時、ぼくはその時点ではなんの反論もできないでニヤニヤしていただけの話なんで、いまになってみると「造型六章」でいいわけ。まああれを読んで下さい。というようなことになる面があるわけですよね。
 大石 あのね、造型論に納得できる大きな要素は、森田さんが言ったように、金子さんの作品があるからでしょ。さっき正当性って言ったけど、意識と感受の鬩ぎあいというところまでは正当性を主張できると思うんだ。だけどそこからイメージを、という段階は作家の力量というか言葉の力の問題で、論の正当性の問題じゃあない。金子さんの作品の場合は納得いく面が多いと言うだけなんだ。それを一般論として採用したら、混乱というかマイナス面が生じるのはあたりまえで、金子さんもそこのところを、あとになっていっしょうけんめい補っているでしょ。たとえば自然だとか、ことばのエロスだとか、喩の柔軟さだとか。だからこの造型論が有効に働く時には、そういうものが語られ、確保された時だけなんだよね。だから無条件に正当性を主張できるのは金子兜太一人だけさ。
 谷 だけど、社会性俳句の素材主義におちいって困っていた人間なんか、「造型俳句六章」をみて、ひじょうに助かったんじゃないですか。
 阿部 助かったと思ったかもしれないが、意識の澄みみたいなものね。透明みたいなものをあの論文からつかんでいないと、ただごたごたすることを正当づけるだけになってしまうではないですか。
 大石 意識の澄みか。それよりさっき阿部さんが言った、方向のない意識なんてないという、そのことね。
 阿部 まあそうね。造型論というのは一種の構造論でしょ。そうなると、それまでに出できた俳句の構造論ってものがあったとすれば、一番はじめはてにをは・・・・問題がありますね。それから季語、定型の問題もぼくに言わせれば同じレベルで言われていたと思うんですね。新興俳句というのも結局そのレベルじゃないですか。この造型論でやっと次のレベルに移り得たんではないかという感じがしたわけですね。これもくやしいけど認めざるを得ない。

■『海程』初期

 阿部 この俳句史的な事件だったとも言える「造型俳句六章」(昭和三十六年)はいろいろな受けとり方があったと思うんですが、その中でいちばんこれをまともに受けとめて突き進んでいったのは、なんといったって『海程』(昭和三十七年創刊)ですね。まともにというより、夢中で、と言った方がいいですかね。そして、その後で、「平明で重いものを」という金子さんの立言があるわけですが。
 大石 海程創刊から「平明で重いものを」という発言までの、その過程はどうなってるんですか、どういう問を孕んでいたんですか。今、阿部さん夢中って言ったけど、例の前衛俳句のやみくもの夢中でなくってさ、なにか方向をもった夢中なんでしょ。
 阿部 そりゃ結果的にはそんなこと言えるかもしれないけど。
 森田 そういう中で定かでないっていう感じはあったけど、存在についての志向とか考え方ってのがだんだん強まってきましたね。
 大石 海程の初期の方をみると、最初はとにかくひじょうに新鮮ですね。それがいつか、どっか海程調ってことで括られるイメージ造りや、腸詰俳句という現象や、そういう過程があるように思えるんですが。
 森田 腸結なんかも一種の存在志向なんだけども、ひじょうに現象的ですよ。社会全体にかかわっていく思いがあるんだが、それが現象的になりすぎるから、結局ああいった腸結になってくると思うんですよ。もっと単純に言えば、さっき内面といった、存在の根に深く刺さるっていうか、そういう志向を強めていく中でね、腸結俳句は解消されてくるんじゃないかっていう気があったんですよ。だけども外側への関わりを強く主張するっていうか、そういうことを強く考えていたから、それに、三十年代後半から四十年代にかかってくると、社会そのものが、現象的なものが多様化してくるしね、それをそのまま抱えこんで、存在みたいなものへ志向する、そうすれば当然腸結になってくるということが言えると思うんですよ。そういうことでは本当の存在の根がみえない、どうにかしなければいけないという気持がみんなに動きはじめてきたと思うんですね。ぼく自身はね、いま立っている位置をうたいたいとかね、自分の揺れ動いている状態みたいなものをうたいたいとか、そういうことは感じてましたよ。腸結俳句の場合には、むしろ存在の付属的な部分というか、やや解釈しきれるような部分を出してきてるっていうかね、そういうところがあって、それを消化するというのは大変な作業だと思うんだけど、あのころの海程はそういうものがごったに入ってきてるような感じがあったですね。
 大石 その腸結というやつ、森田さんの『花冠』でいうと、〈深井戸消えさかしまに見し嬰児の空〉とか〈十重の塀崩れ彼方に塀の教祖〉のあたりですか。
 森田 そうね、だけどそれは海程に入る前だった。海程に入ってからは、揺れ動いているままに自分を出したいっていうようなね、そういうことを考えていた。
 阿部 前衛俳句は海程の場合はしっぽが残っていたような感じですね。ぼくはね、前衛俳句と呼ばれた個々の作品は認めたくないわけですよ。だけどね、前衛作家グループという、一つの歴史の必然性みたいなものがある。これはね、やっぱり無きゃ駄目だったんだろうなあと思いますね。その中から海程が引き継いだというか、引き受けたものは、やっぱりその中から出てきた一種の澄みみたいなもんだと思いますね、個への澄みとでも言いますか。

(酒井弘司出席)

■疾走感

 大石 七五号で海程二千句というのをやったでしょう。あの時、出生調べみたいなことを沢山やらされたんですよ。何年の作品かわからないものをね、海程ひっくり返してはこれ何年のものだということを、谷さんと二人でね。あれやってね、海程初期の作品はものすごく傷ついてますね、のたうちまわってるって感じ。このごろの作品にはああいう感じないですね。ひどくおざなりな感じがあるわけですよ。それがあそこを抜けてきた人達、もちろん抜けられなかった人も沢山いると思うけど、抜けてきた人達はやはり何かを体験してきたと思うんです。
 阿部 やはりね、時代の必然性というものがあの時にはあったと思うんですね。いくら混沌を作り出そうとしたって、作ったってしょうがないんでね。あの時はかなり必然性をもった混沌だったと思うんですよ。だからみんなが納得してごたごたしていましたね。
 大石 ここに三周年の合同句集があってね、金子さん序を書いているけど、結局のところ「意欲――『海程』は素朴簡明な意欲のもとに創刊された。それは、いま表現したいものを、可能なかぎり俳句として書き現わしてゆきたいということ、つまり、思い切って俳句の内容を拡充してゆきたい、ということであった。」
 森田 そう、そういうこと。まさに今の自分ということだね。既成の花鳥諷詠はもちろんだが、人間探究派も前衛俳句運動も、みんな拒否したいっていう。それじゃあ何を書くのかっていうと、それがわかんねえんだよ。けども何かね。
 阿部 まさしくね、何を書くつもりだったかというようなことをみんなが模索してたわけですよ。ともかくね何でも書いちゃった。結果的に何かが書けたように思ったんだね。
 森田 自分の思いがね、そのまま躍動してゆくようなかたちで書けないかなあというよなね、生命の躍動感ですよね。とにかくいままでの書き方では、自分の持っているものが消えちゃうと、だからもっと全身で拡がっていくという。
 阿部 疾走感というかな、みんなが走り出したという感じがある。
 武田 ああ、ありましたね。創刊から一、二年はやっぱり疾走感というのがいちばんいいかもしれないなあ。とにかくいままでにないものを目指したという気持だった。
 大石 ひじょうな勢いがあっただけだというけど、方向性は持ってたわけでしょ。
 阿部 それがね、ぼくに言わせれば「造型俳句六章」ですよ。
 武田 それを各人がばらばらに受けとっていたということ。
 阿部 それでさっき言ったように、自分の意識が書けたなんていうとおかしいな、自分なりになんか自分が書けたと思うと、そこでぽんととめられたわけですよ。ピリオドが打てた。造型論のおかげでね。
 森田 そう、ぼくの例をあげるとね、〈霧の中の縄寒村の眠り病〉。初めて海程の例会に出した句で、金子さんが取ったんですよ。どうしてもこれを出してみたいっていう、そういう勢いみたいなものがあったんですね。
 阿部 そうなんだよ、やっぱり勢いにのったという感じがあるんで、ぼくはあれですよ、〈少年くる無心に充分に刺すために〉。自分でいいのか悪いのか、とにかくわからなかったんだ。あのころはね、〈先行の不安の鼡
軍歌の律〉とか〈暗い駅被弾内蔵かたまるベンチ〉なんてのを書いてたんだけど、そういうときこれがぽんと出来ちゃった。
 大石 谷さんどう。
 谷 うーん、ちょっと待って。そのころのことかなあ、鷲見流一さんのこんな句があった。〈聖書分厚く肩たたかるる熊のよう〉とか〈争議いつしか浮木のようにダム眠る〉。句会でも評判がよかったし、金子さんがほめるんだ。ところが俺にはまるでわかんないんだなあ、なにが書けてんのか。みんなの討論の内容もまるでわかんないんだ。いまから思えば、感受したものの新鮮さをすごく求めていたんだね。それがひじょうに素朴に、まじりっ気なしのものを金子さんはすぐに見つけ出していたんだ。そのころ、ぼくはまだそんな段階じゃなくて、造型論をぼくなりに理解して、イメージの造型をしていたんだ。いるつもりだったのかな。ところが金子さんは、類型感がある、こんな句をつくっちゃ駄目だ、なんてずいぶん手厳しかった。

■「平明で重いものを」

 大石 その疾走感というあたり、話を聞いているといい状態だったと思うんだが、それに対して、なんで「平明で重いもの」と言わなけりゃならなかったんですか。あのひっく返しは早すぎたんじゃないか。
 阿部 少なくとも現象的には必要だったんですよ。
 大石 現象にひきずられてはいなかったか。
 阿部 だから、それがしばらく続いてね、やっぱり一種の類型感が出てきたんですよ。
 森田 初期のころ、少年だとか湖・森・海とか、類想語っていうの、そういう時代がありましたね。それを経てですか、さっきの腸結ってかたちになったのは。
 阿部 同時かその前でしょ。ようするにあこれは一種の濾過現象だったと思いますよ。腸結を濾過していた段階でいわば透明な言葉がざーっと出始めたと思うんだなあ。
 大石 そうすると平明でなんでもない状態が現れはじめていたわけですか。
 阿部 そういうことです。それでまた例え阿部完市の俳句なんてのが出てさ、わたしゃ別に自分じゃちっとも平明だとなんか思ったことないけど。それに対する反省もあったでしょうね。それでね、この重いという言葉の中に存在という言葉が入ってくるんですね。俳句にとって詩にとって、絶対に必要な混沌さえもね、なんか振り捨てちゃって糸一筋みたいなものにみんながめがけはじめたっていうような認識が、金子さんの中にあったんじゃないですか。
 森田 初期の時代ってのはいわば青春期だから、ひじょうに浮力のある自由なことばで書いていればよかったかもしれないですよ。しかしそれがね、海程調って言われだして、やっぱりというか、いよいよ実質的な表現というか、そういうものが要求されてこなければならないという背景が当然おきてきたんじゃないかって気がするわけだ。
 大石 あそこでは(海程49号「平明で重いものを」)阿部さんの〈少年来る無心に充分に刺すために〉、森田さんの〈悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男〉、九月隆世〈抱きたい夜樹かげは美しい火柱〉などが取り上げられたんだけど、あれは、新しいものに注目しろよ、ここに新しいものが生まれつつあるんだぞということを言ったわけでしょ。
 阿部 だけども注意しろよっということです。平明というだけでは駄目だよという。
 武田 四十四年というと、阿部さんが第二回の海程賞をとってから四年ぐらい経っているでしょ。阿部さんの亜流も大分出てきたころじゃない。ふわふわしたムード的な俳句が多くなったんですよ。
 阿部 もっと言っちゃえばうわついてたっていうことですよ。それとね、感覚のもつ狭さみたいなもの、感覚っていうのはひじょうに直接的でしょ、それだけしか言えなくなっちゃうわけですよ。感覚でなく存在へっていう言い方だとぼくは受けとりましたね。
 大石 谷さんはどうだった。
 谷 今聞いていると、阿部さんや森田さんとはあのころの状況の捉え方がちがうんだな。あのころやっぱり、創刊時の傾向はマンネリとして主流をなしてはいるんだが、初期の熱気がうすれちゃってさ、たんにある類型のイメージ造りをするだけでね。それにかわる新たなる目立つ傾向としては、阿部さんのように、俺の目からみると脱け殻だけになってゆくような俳句が多かったんだよ。俺はどちらにも不満なもんだから、さっきも言ったけど、なんで社会性俳句が抹殺されたんだという感じで、積極的にそっちへ動いていた時期だった。阿部さんの俳句はたしかに新しい傾向だっだけど、森田さんが言うように海程の何かを止揚して出てきたもんだなんて、とてもじゃないが思えなかった。事実、阿部さんに対する反撥が強くなっていたと思うんだ。だからあれは、俺の大嫌いな阿部完市の俳句を認めるために書いたんだろうとしか思えなかった。金子さんは阿部さんの平明さは大切なんだ、決して軽いものじゃないんだと言ったと思う。しかし俺はね、重いものなんてのは金子さん一流の付け足しでしかないと思っていたから、あんな平明なんてとんでもないことだと思ってた。それと俺はね、あそこであげられていた阿部さんと、森田さん九月さんの作品は別だと思っていた。それを一緒くたにしてるところも不満だった。

■存在など

 酒井 ぼくはね、谷さんとはちょっとちがってね、阿部さんの作品はやっぱり金子さんと臍の緒がつながっていると思うんですよ。それはね、金子さんというのは状況における主体の表現というのをずっと進めてきているでしょう。阿部さんはそれとは一見ちがった、何か体の全体で感じる実存というか、阿部さんは気分とも言っていますが、あれがやっぱ広い意味での主体の現れだったと思うんですよ。だから金子さんは阿部さんを認めることができたんじゃないですかねえ。
 武田 ぼくはね自分に即して言うと、あのころは喩えが硬いというか、どこか頭脳操作でイメージ造りをしていたきらいがあると思うんです。海程全体にもどこかそういう感じがあったんじゃないですか。だから金子さんあの発言にはがーんとやられたですね。生粋の感性というか、人間本来の存在感の純粋衝動に立てということだと思ったですね。だからほんと目が覚めた感じだった。当時、森さんの作品はどこか不可解だったし、阿部さんはものたりないし、だからあの発言が海程にとってどういう意味をもっているかということはどうでもよかった。ともかく自分に即して受けとったですね。
 大石 そうすると受けとり方にはいろいろ幅があったわけですね。ぼくはね、やっぱり新しい感性の存在に光があてられて、あそこで海程が柔軟なふくらみを持ったっていう印象だった。ただね、さっきもちょっと言ったけど、あのスローガンみたいなやつ、とくに「平明であれよ」なんていう言い方はしちゃいけないと思うんだ。それぞれが自分に対して真っすぐであればいいんであって、なんにも平明である必要はないんだから。
 阿部 だけどそれは大石個人の読みであって、ぼくの読みは先ほど申し上げましたようなことなんで、ぼくに対するまさしく忠告としてとってるわけ。それでひどく胸に応えたもんだから、存在ということを自分なりに考えはじめて、それをなんとか盛りこんでいかないと重くならないぞと思ったわけですよ。そのことからね、言葉の自然だとか精神の季節だとか、そういうふうなことがぼくの中から出てきたんですよ。その根本はやっぱりあの時言われた存在ということでね、自分の存在とはなんなのかということから出始めたのが、ああいう一連のぼく流の存在論なんですよ。
 森田 ぼくはね、現実の中におかれている自分の生き様とか様体ね、それにかかわる意識とか、そういうものをもう少し深く書きたいということね。
 阿部 個人の個の極化。それを具体的な自分の存在の姿かもしれないと思っているから、そっちの方へ動いちゃうんですよ。
 大石 いままでの発言を聞いていると、阿部さんは自分にひきつけてるからね、平明であって軽くちゃいかんぞ、重くなくちゃいかんぞと受けとった。
 阿部 うん受けとった。
 大石 海程全体では逆に平明でない状態をね、平明にしろっていうふうに受けとった。そういう発言として働いたんじゃないかという。
 谷 俺はそう思う。
 阿部 両方あったでしょうね。
 酒井 それとあのころ、金子さんには伝統見直しの姿勢が加わりはじめていたと思うんですよ。伝承派には決して伝統は見えないんだという、それは俺たちの領分なんだというようなね。それがどこか気分としてこの平明
ということにつながってるんじゃないですか。

■誤解された〈平明〉

 大石 ところでどうですかね、この発言がその後の海程にどのように作用していったか。
 武田 ぼくはね、存在を重いものをというのがこの発言の実質だったと思うけど、それを離れて大勢たいせいはただ平明へという方向へ行っちゃったんじゃないかなあ。平明ということが、ものすごく類型的に受けとられちゃってね。
 谷 そう、わからないという言い方があるでしょ。平明っていうことをね、わからねえという俳句を駄目な俳句なんだって切っちゃう、そういう方向でもって捉えてしまった人がいると思う。わからないけどいい俳句だという、そういう言い方を許さなくなってしまうんだ。
 阿部 平明っていうのはひじょうに本物の感じがあるんだなあ。本物っていうのは平明なものなんだという感じがありますよ。
 谷 そういうね、すぐ正当論的な言い方をされるわけですよ。しかしね、平明なら本物という保証はどこにもないでしょ。難解で重くたっていいんじゃないかということが、ぼなんか反射的に出てくるんで。
 大石 俺だってそうだよ、自分の作品を平明になんていう気持はまったくないからな。ただね、あの時金子さんは言葉をよく煮つめよということを言っていたと思うけど、そのことは身にしみて受けとめてもらわなければこまるタイプが、たしかに海程には多いと思うんだ。ところが大勢は武田さんのいう通りだった。だからぼくはね、海程の現在の生き生きしてない状態がどこかこの平明というこそばに根ざしているようなところがありはしないかと思ってるんだけどね。
 阿部 あるかもしれないなあ。「平明で重いもの」っていうと、たとえば存在へっていう言い方の時、ひじょうに抽象的な感じがするわけでしょ。一種の抽象感があるもんだからね、たしかにあれ以降海程の俳句自体がひじょうに抽象的になっていったかもしれませんね。
 森田 存在へと言ったとき、阿部さんの方向が一つの路線を作ったでしょう。ところがその路線がすべてじゃないはずなのに、もう一つごちゃごちゃした部分が一向に出てこないんだよね。その部分への問いかけが一向にないまま現在になだれこんできちゃった感じがあるんですよ。だから平明というこれ、収束してないね。ずうっと続いてる感じだね。
 大石 社会性から造型論といい、それから創刊時の疾走感といい、結局、何を書くのか、何を書きたいのかという点で一貫していたと思うんだ。ところがこの平明に来てね、ひょこっと方向がひっくり返っちゃった、どう書くか、どういう書き上がり様か、ようするにスタイルだけに意識が奪われてしまったって感じなんだな。もちろんスタイルが、作者の個性に応じて多様であることは望ましいことさ。だけどね、スタイルそのものが表現意欲の対象になっちゃったんじゃこまるんだな。本末転倒さ。最初に言った、スタンドプレーやテクニック傾斜というのもこれに関わっているはずなんだ。だから、とくに若い人たちそこのところで踏み外してもらいたくないんだな。スタイルなんてのに取り憑かれたら作品は必ず腐っていくからね。
 谷 だからね、そういう意味でも社会性ということ、もちろん社会性は態度の問題だけれどね、あそこに立ち返ってね、もう一度あれをじっくり消化しなおすべき時期が来てると思うんだよ。
 大石 俺もそう思うんだ。そうでもしなきゃあの生きの悪さは脱け出せないんじゃないかとね。金子さん「衆の詩」なんて言ったのも同じ思いじゃないのかな。

■「衆の詩」

 大石 平明はこのくらいでいいですね。まあこの平明ともいくらか関係するんでしょうが、金子さん数年前に「ものと言葉」という発言をしてますね。あれはものべったりの伝承派と、ことばがクラゲのようにものから遊離している一派とを切るかたちで、ものとことばの豊かな関係に立てということだった。だからあれはそういう状況の中で論として広く一般性を主張できるものだったと思うわけです。ところが今度の「衆の詩」は、あの上に金子兜太という個性が、論としてではなくいわば肉として加わっているから、受け取る側の資質や能力に応じてその理解や評価もいろいろ違ってくると思いますね。まあ海程人は内容はもう十分承知しているわけですから、これはざっくばらんにお願いしたいんですが。
 武田 あれは初め秋田の勉強会で言われたんですね。それからこのあいだの「衆の時たたび」で敷衍拡大されたんだけど、ぼくは秋田で言われた時、ナマナマしさということだけを頭に入れてきてね、いわばその感激がずうっと続いてきてるんです。作品を作る上でもそこんとこがひじょうに有効ですね。
 大石 ぼくもね、それが本筋だと思ってるんです。こんなたるんだ作品ばかりみてるのは、俺はいやだっていう気持ちがね、金子さんの中にもあると思うんだ。
 阿部 ぼくはね、ここ三年ばかりのあいだの金子兜太という人の作品をね、特にそのことぼという点から書かされたことがあるんだけど、そうすると金子さんのことばに対する姿勢は言ってしまえばナマでなけりゃいけない、ナマナマしくなければいけないということですね。そのことが、この「衆の詩」ということばの中に書きこまれていると思うんだな。だからぼくはね、海程は現在、抽象的なことば、あるいは抽象志向の勝った作品がふえてきていると思いますから、それに対するかなり有効な発言である、少なくともぼくの場合打ちすえられる力がある、海程にとっても頂門の一針だと思うんですよ。なによりもことばのナマという言い方で言いあらわされるものを見ろと。〈夜は朝日の光り消えがち山の酒〉という句について書きながらね、こりゅやっぱり一本とられたっていう感じがしました。やっぱり一つの論としてね、海程はきちんと受けとっておかなければいけないんじゃないですか。
 森田 「衆の詩ふたたび」で喩えの動脈硬化というでしょう。喩えということは、ある意味では現実から疎外されているものをもう一度現実に返す橋渡しだと言っていいと思うんですよ。そういう喩えが動脈硬化してるっていうことは、外のものがみえなくなっている、あるいは外への働きかけが弱まっているということですね。だから、抽象的なもの観念的なものをね、日常の中へおろしていく、ことばをその中で捉え返すということがいま必要じゃないかと警告してるわけでしょ。だからね、いまの海程の置かれている状況に対する発言とも思えるんだけど、金子さん自身のね動きの中で出されてきてるんじゃないかという気もする。

■螺旋状の発展

 大石 ぼくも初めはそう思ったんだ。金子さんは一茶とひじょうに深く関わってきたでしょ、そしてとくにここ数年はその中でね、自分の創作活動をふくらませてきた。だからね、この「衆の詩」っていうのは一茶にみられる作家エネルギーのあり方というのを踏まえてることはたしかだと思うんだ。いままでのものは社会性にしろ造型論にしろ、いわば論ですね。しかしね、これだけは論じゃないと思う。金子兜太という作家体験。いわばこれが作品なわけです。ほくには金子さんの発言の中でこれが一番ぴったりくるんですよ。だから金子兜太における必然性はよくわかるんだが、はたして海程の路線に関わる問題として受けとる必要があるのか、それがはっきしなかった。しかしね、こうして座談会がここまで進んでみると、これはたしかに海程の流れに関わっているんだね。
 阿部 しかし同時にね、この「衆の詩」ってのは、金子さんの覚悟みたいなものが言われていると思いますね。それだもんだからぼくなんかは「社会性は態度の問題である」とすうっと結びつくんですよ。それでね、やっぱり来たなって思う。螺旋状の発展と言いますか、弁証法的な必然性というものを感じるんですね。
 大石 そう、ここにきてまたね、何を書くかっていう、いわば海程の本流に立ちかえった。しかもこんどはどこからという視点がえられて、いかに書くかということとも融合されている意味合いがありますね。酒井さんいかがですか。
 酒井 衆ということばはいかにも金子さんらしいですね。金子さんという人は一貫してそういうところに基本姿勢を据えてきた。決して体制的というか、貴族的な発想はしない人ですから。ぼくはね、この「衆の詩」で金子さんの論はひとまわり豊かになったと思うんですよ。以前は社会性とか主体とか言いながらも、造型論の段階では、どこかこの生身の自分というものは分離していた感じがありますね。いままでは謂うところの志向的日常にウェイトがかかっていたでしょ。それがここでは即物的日常の価値を認めることによって、いわば俳諧ということばによってその分離現象を埋めえたと思うんですよ。

■作家エネルギーの溶鉱炉

 阿部 大石さん、あんたさっきこれが一番ぴったりくるって言ったでしょ。それから酒井さんともちょっと違ってね、わたしゃあ「社会性は態度の問題」だなあ、これが原体験。その中に「衆の詩」という言い方を含められる。
 大石 そうかなあ、「社会性は態度の問題」っていうときね、やっぱりどっかに対社会というところがある。
 阿部 「衆の詩」ってのは対社会でしょ?
 大石 いや、こんどのはちょっと異質なんですよ。金子さんいままでの発言はね、とくに造型論はね、いつも図式が書いてあるわけです。こんどのやつだけはね、不思議に図式がないんですよ。もちろんひどく図式らしく書いてあるんだけど、あれはこの発言の本質じゃない。ぼくはね、どうにも図式ができないで、純動物、衆の純質としての純動物と書いてあるとこ、これはね図式化できない領域だったと思うんですよ。はじめて金子さんの中でそれが出てきたと思うんだ。
 阿部 それだったらね、あなたは純動物という言葉に惚れるべきであって、「衆の詩」っていう言葉じゃないんだよ。
 大石 題じゃなくってね、その純動物っていうところがこの発言の含んでいるエッセンスだと思ってるから。
 阿部 そうするとね、この発言によれば純動物というのは日常の非日常的な部分でしょ。ぼくはそうじゃなくてね、非日常というものを大きく包んでいる日常というもの。ぼくはね、「衆」っていうことばにそれを一番感じますね。だから日常とか衆はこわい。純動物という言い方になると、感覚的でせせこましくって、みみっちくなっちゃうんだなあ、
 谷 ぼくもね、純動物ということばは存在と同じでね、抽象的感覚的すぎるんだ。それよりも、志向的日常性ということばが具体的でわかりいい。「社会性は態度の問題である」ということにつながり、しかも社会性ということばの狭さを抜けだしたことばだと思うんだ。
 大石 純動物ってことばは、これから先はもう発言できないというところでの発言なんだがね。その言葉がきらいならね、「だからここでまとめてみますとね、衆というものの中には存在状態としての日常という形で、それこそ日常的にとらえうるものがある。同時にまことに非日常的にしかとらえられないような、もっとも本質的なもの、つまり純質がある。つまり、日常の中に自分達が日常的にとらえているものと、非日常をもった純質のの衆の内容というものとの二つがある。そして最後の目的は、非日常性をもった、日常の中の非日常的な部分であって、それが純動物だと言える。」ぼくはこれでいいと思うんだけね、それがいやなら純動物なんて言わなくともいいんですよ。日常の本質と言えばいいんです。
 阿部 結局ね、いままでは、構造的な俳句の見方をすれば、意識というものを根本においてね、それから「平明で重いもの」という、抽象っていうか、濾過作用といってしまうかね、そういうふうな動きがあったんだけど、それに対して、「衆の詩」という言い方の中には、言い方はうまくないと思いますよ正直ね、しかしひじょうに大切なことが言われてるんですよ。それはね、純動物ということばで言いあらわされるドロドロさですね。純動物なんていうとドロドロでないというふうに受けとられがちなんだけど、そうじゃなくって、純動物ということばで言われているドロドロさをね、海程の俳句というものはもう見直してみろ、忘れてはいませんか、ということなんです。まさにわたしなんかにはまたまたグサッときたんですよね。だからわたしゃあ俳句ができなくなったんです。はたして海程の中で自分のこととして、自分の肉に突き刺さった矢としてどれだけの人達が受けとめているだろうかということね。
 大石 そう、これは言ってみれば作家エネルギーの溶鉱炉の問題ですからね。これが貧弱だったりインチキもんだったりしたら、いくら作品の体裁をつくろったって駄目ですからね。だからぼくは、これ読んで中国の文化大革命を思い出したりしてね、これまともに受けとめると海程の中はごちゃごちゃになるぞと。まさに毛沢東から一番若い紅衛兵までがさ、全部を総点検してこの尺度ではかり直さなけりゃならないようなものがね、ここにはあるんですよ。ものすごく恐いものがね。
 谷 うん、もう出来上がっちゃってる年配者はしょうがないとしても、少なくとも最近出てきているような若手のね、自己閉鎖的な方向とか技術の、それも底の知れている技術に傾いた連中に対してはひじょうにきびしいだろうな。
 武田 そのへんは海程全体を包括するテーとしてよりも、作家集団ですから個人個人が受けとめるよりしかたがないでしょうね。ただぼく自身は、これ、まっとうに受けとめられないやつはおしまいだな、って感じ。
 森田 ぼくはたとえば抽象的な部分とか観念的な部分という半分はいままでの論でよくわかったんですよ。ここへきてあと半分のね、日常の中へことばをどう下ろしてゆくか、どう作用させてゆくかという部分があるんで、よくわかる。だから「衆の詩」という発言全体は新鮮な感じがするけども、この題はどうなんだろう。
 大石 はじめて金子さんの本心が出たという感じ。いままでは啓蒙の姿勢がいつもあったと思うけど、これにはそれがない。金子さんね、衆なんて言わなくても本当は人間でいいんだ、しかし「人間の詩」じゃサマにならんからって言ってたけど、この内容は日常の復権というニュアンスが強いね。
 谷 だから俺には、『現代詩手帖』のね、「日常で書く」という方がぴったりくる。
 阿部 でもそういう風に言われるとなんだなあ。衆ってのは広がりがあるわけですよ。立体的なんだ。あんたがさっき言った志向的日常性なんていうのもやっぱりだよ。
 酒井 ぼくはね、作品を書いていく上で自分に即して言えば、やっぱりその志向的日常と即物的日常のせめぎ合い、ということを大事にしていかなければと思ってるんですよ。
 谷 これは俳句だけじゃなくってさ、今日の芸術一般に目立っている、観念の自己遊離、どんどんどんどん痩せてゆく方向に対して、いかにして太るかという体験を語ってくれていると思うね。
 阿部 ぼくらはこれを踏み台にさせてもらってなんとか金子兜太という人を乗りこえたいですねえ。
 大石 ただね、この「衆の詩」を平明というところにつなげてきたら危ないと思いますね。
 阿部 平明ということはいいことだよ。
 大石 阿部さんはそうでしょうけどね、平明というのはいわば作品の到着点を語ってるんであって、経過を拒否しちゃうことになりかねないんですよ。だから平明なものなんて書くな、人にわかられる作品なんで書くなってぐらいのね、経過の重視がなけりゃいけないと思うんだけど。
 阿部 だけどあんた、経過ばっかりで終わっちゃうのが多いんだからさ、とりあえず出来てなくっちゃ、駄目だね。それでまあ「衆の詩」というのはそのへんのところで各自がそれぞれに思いをこめてもういっぺん考え直してほしいということなんですね。
 これに対する批判みたいなものももちろんあるわけですが、大方はこの内容を読まないで、あるいは読めないで、ただ衆ということばだけみて、人集め政策だとか、俺は衆じゃないぞ、エリートなんだ、とかいうひじょうに俗なレベルのことなんで、これはもう省きます。以上だいたい金子さんの発言を手がかりにして、俳壇状況というものを睨みながら海程の流れとかぼくらの体験を検討してきたわけだけど、どうですかねえ。これで最初に大石さんが言った海程集団の現段階を超えるための叩き台になってますかねえ。海程はひじょうに多士済々で、堀さんには「かたち」の論がありますし、林田先輩の、何を書かないか、反有季など、しっかり聞き学ばなければならないものが多いし、また各人の体験や受けとり方も千差万別でしょうから、それは今後の宿題にさせてもらうしかないですね。ということで、ぼくちょっとこれで失礼しますので、大石さんあと頼みます。(阿部完市退場)

■力を養う

 大石 いままでは流れというものに焦点をあててきたんだけど、角度を変えてわれわれも含めて海程の仲間たちの、いわば作り手の側のあり方といったものを、時間もないんで話題をしぼって。酒井さんどうですか。
 酒井 やっぱり海程は、とくにここで育ってきた人達には、兜太氏の影響がひじょうに強いですね。これはもちろん恵まれたことですし学ぶべきを学ぶのは当然だけど、もうひとつ、それぞれの持ちものというものを自覚して大切にしておかないと、いつまでも一人立ちできないんじゃないでしょうか。
 谷 作者生来のナチュラルな良さっていうのはたしかに大きな財産だけど、海程初期にそれだけに寄りかかったかたちで青春性の表現といったものをしていた人達は、もちろんその時点ではいい仕事をしたわけですが、大方はそこで動けなくなっちゃってますね。
 森田 心情的鮮度だけじゃ駄目だってことだね。
 大石 うん、なんて言ったらいいかな、つねに過程であるというか、つねに次を目ざすといった方法に立っている人なら、そういうことはないはずなんだがな。阿部完市とか崎原風子なんかがその典型でしょう。そういった、どこかに立とうというんじゃなくて、そのどこかを突き抜けていこうという。ここに家を建てよう、じゃなくて、ここに家を建てないぞという、志向というかそういう方法を貫いてきた人たちが、だんだんはっきり見えてきましたね。家を建てちゃうと、そこで終わっちゃってる印象。
 武田 ぼくはね、その家を建てるという、まあ一つの作風に立つということはね、それ自体は一つの成果だと思うんですよ。ただそれがね、その作者本来のものを限定しすぎてはいけないってことでしょう。その点、このあいだの新鋭特集ね、二回続いたけど、あれうますぎないかね。
 森田 うますぎる。けっこうベテランもいるようだから一概には言えないけど、あのころは表現意欲が表現に納まりきらなくて、それが作品の上に特有の軋みとかざらつきとし現れてくるものなんだが、どうもそういった印象が稀薄ですね。すっぽり納まっているて感じ。これは、俳句とはこういうもの、こう書けばいいものといった先入観があって、それが肝心の表現意欲と入れ替っちゃってるんじゃなかろうか。だから表現は多彩でも、別に個性として熟してはいないんだね。
 谷 自分をあらかじめ限定しないところで、自分をたしかめながら書いていくことが大事なんだよ。限定しちゃうとね、表現じゃあなくて、その限定したところでの報告になっちゃう。
 大石 きびしいね。まあわが身にも振りかかってくるんだからいいだろう。もうひとつ、残念かつ残酷な言い方だが、ここ数年、海程でいちばんいい仕事をしているのは、肝心の若手じゃあなくて、家木さんとか阪口さん、鷲見さんといった大先輩だと思うんだ。
 谷 いちばんおどろいたのは鷲見さんだよ。復活したと思ったら、失礼な言い方だけど、人が変わったようにすばらしい。
 大石 そう、〈河見ておれば河は確かに岸を打つ〉〈妖気なし日日パンに生き葬にも行く〉なんてね。この人たちにはね、ただ自分の気持ちというのをストレートに書いてみたい、ともかく書いてかたちを与えてみたい、それだけなんだ、というひじょうに強い意志を感じるんだ。他人を意識した見てくれなんてのは、最初からないんだろうが、作品の上にけっしてそんなものは残さないぞというね。ぼくはね、これはこの形式の根本性格だと思ってるんだ。
 谷 そういうストレートさが若手にないんだよ。人に見せるという意識に縛られているんじゃないのかな。
 大石 もちろんね、年齢というもの、とくに鍛えあげられた年齢というものの、装置としての力はひじょうに大きいと思うんだ。しかしね、ぼくらは指をくわえて見ていちゃあいけないんでね。いま現在あの人たちがああいう作品を生み出している、その力に拮抗できる力というものを、どうしたら自分の中に養うことができるかということだと思うんだ。
 その点「衆の詩」なんてのは、かっこうのヒントを与えてくれているんじゃなかろうかと思うんだけどね。
 どうもきょうは、進行の不手際で、海外への関心などをうかがうことができなかったんですが、長々とごくろう様でした。(一二六号・一二七号)


『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P157
初出:『海程』126号・127号

シリーズ・海程の作家たち《最終回》八木三日女―『紅茸』から『私語』へ(下)~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.11(2019/9/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《最終回》

八木三日女―『紅茸』から『私語』へ(下) 谷佳紀

 八木が連作を実践するようになった動機は知らない。ただ連作論は色々あろうとも動機はただひとつ、一句では書き切れない内容を連作で果たそうということだろう。前衛俳句が盛んな一時期、連作について色々議論されたことがある。八木はその実践者であったわけだ。『赤い地図』で一つの頂点を極め、次の展開を連作に求めたのだろうか。単作では書きつつある作品と自身は一対一の関係にとどまるが、連作ではその関係に前後の作品が絡み、さらに書き終えた幾つかの作品が書きつつある未完の作品に絡んでくるという複数の視点と複数の関係が生じる。その関係をどのように捉えるかという言葉の実験として魅力を感じたのかもしれない。句数の少ないものを二つあげてみる。

    川底のうた
  色街めぐるその川底の黒葡萄

  遊女の昼流るでもなきトマトのへた
  発芽の川猿に食わせる夢流す
  弥勒の指腫れて惟えり球根畑
  はがねめく帯で占う葦の女
  川の脈触れそうで三味音を断つ
  熔鋼の眼光移し思惟菩薩
  だるい運河老娼の瞳に星流れ
  竜神の予言を移し藻となる舌
  を洩れる夕焼くるわをめぐる川

    シャモのための舞台装置
  シャモはしわがれしわくちやばあさんかつかとわらう
  湖底に覚めとさかまっ青シャモの悶え
  虹を透き惨敗のシャモ木っ葉微塵
  クレーターのようなほゝえみほどけゆくファスナー
  ダムのそこびえダイヤモンドより固く誓う
  ロックフィールド渉る人無く人影ある
  けだるい反り身ゆらゆら鮎澄む里の詩人

 「川底のうた」は色街のけだるい風景を写実風に捉え、「シャモのための舞台装置」はダムに沈んだ村を戯画的に捉え悼んでいるのだろう。「シャモ」は反対運動の象徴のようだ。連作の思想をよく生かしている作品と肯定できるが、この二作品のように風景となるものはよいが、思想そのものは連作でも書けないようだ。

    時計塔
  鹿もえている赤門の空の奥
  アドバルーン乱発の森猛獣飼い
  ずいずいずいころばしげばぼうころがし
  昼も夜も会議の河の河底剃り
  風船つなぐ森に野犬の群を封じ
  鹿のかたちの夕雲時計塔揺れる
  時計塔炎上の舌雲に吸われ
  煙りつゝ秒針とまる牛のひたい
  鹿の眼の占い師密月をさゝやく

 一九六九年、東大安田講堂を占拠した全共闘の学生を排除する警察官との闘争風景を書きとめようとしているが、闘争の景をイメージにしようという意識ばかりで、闘争を感受すべき心が閉じられているため、結局景の説明にとどまっている。『紅茸』や『北海道行』のような意識の客観性や精神の深まりがない。
 私は連作を肯定も否定も出来ない。わからないのだ。ただ俳句は独立した一句が基本と思っている。そういう意味では否定派になるのだろう。八木の連作を読んで吟行句のように書かれた「川底のうた」の系列は納得できたが、「時計塔」のように事件をテーマにしたものは失敗作が多いと思った。事件そのものが圧倒的に力を持っているということもあろうが、事件を説明しなければ表現は理解されないし、説明すれば表現にならない。だからと言って説明文をつければ表現できるというものでもない。説明に頼った俳句では表現の独立性が損なわれるという、短さゆえの宿命は連作でも解消されないということであり、特別の理由がない限り連作は不要ということになる。しかし八木はそうは考えなかったらしく次の句集『石柱の賦』でも、連作とは言っていないが連作風の
作品をたくさん書いている。八木には旅行吟等一つのテーマで集中的に書く傾向があり、それも連作を好む理由なのかもしれない。
 私は連作であっても単作的に読んでしまう。連作の意味を無視して読むと、『落葉期』は安定した力で安定した作品を書き続けている句集となり私を刺激しない。とは言え単作篇の次のような作品に出会うと次への準備をしているように思えてくる。
  カーテンの波間啼き啼き啼き千鳥
  破廉恥よきぬこしどうふくずれぬよう
  吊り橋りゃんりゃん鈴虫しゃんしゃん頭昏れる
  落ちるにじむ椿じめじめ魔女の靴
  猫屋敷きちがいなすび生えつのり
  成層圏の無銭飲食ぴいちくぱあ
  三ケ日だるまになれば粉雪ふる
  みのむしないてちちよそのまたちちよぢぢよ

 八木がいらいらしているように思えるし、表現を楽しんでいるようにも思える。言葉遊びのようでもあり、イメージにならないイメージを無理やりイメージにしているようでもあり、思うままにならない感情をもてあまし悪態をついているようでもある。魅力的な作品なのだが何が原因でこのように書かせているのかと思う。安定した表現から脱皮しようという意欲がこのように書かせていると思えるのだ。
  カオスカオスと鴉過ぎゆき夏過ぎゆき
  旅の終わりの肺ばらばらに針葉樹

 句集はこの二句で終わる。「カオスカオス」と鴉にからかわれ、肺はばらばらの息苦しさ、それともばらばらになった開放感か。自然は夏の蒸し暑さから秋の澄んだ明るさへと移り、針葉樹は空を突き刺すように伸びている。俳句を書き出して以来、全力疾走を続けてきた八木は、自分が転換期に来ていると感じたのではないだろうか。
 昭和六十三年に刊行した句集『石柱の賦』は昭和四十九年から五十九年までの作品を収めているが、巻頭は昭和五十四年の「石柱の賦―ギリシャ・エーゲ航―」と題された四十九句の旅吟である。晴れ晴れと明るく旅をたっぷり楽しんでいる。それまでの三冊の句集には見られなかったゆったりした気分に満ちた旅吟である。
  梅干の種捨つエーゲ海の燦
  芥子もゆるアクロポリスに水のむ猫
  逆光のかもめもつれる無音界
  石柱に鳩降り鳩降り白拍子
  石をまわって蜥蜴神託をわする
  とかげの使者石をまわって腸に消ゆる
  獅子吠ゆる激怒のときも石のまま
  エーゲ海睦みて水虫も灼ける
  アネモネサンシャインさざれ石の八千代
  石柱また芥子噴くトルソー乳噴くごと

  大地ゲ―に捧げる血はなし草を毟る指
  黒白の魂魄ちゞれ蟻の塔

 八木は見ることを楽しみ、見て湧いてくる言葉を楽しんでいる。今まではそうではなかったと思わない。しかし今まではぎらぎらと見て、ぎらぎらと言葉にする熱中の楽しみであった。ここでは余裕がある。見て戯れ、見て遊んでいる。
 前衛俳句運動は表現領域の拡大を目指し言葉の実験を果敢に行ったが、観念先行のおびただしい反故を生み出した。しかしそこで実験された言葉のありようは伝統俳句と称される作品にも影響を与え今日実を結んでいる。八木のギリシャ・エーゲ海の作品には季語的美意識や予定調和的美意識がない。見たままを書いているような客観写生的な書き方をしているが、興味を持ち楽しんでいる心の動きが書きとめられているところは、景が単なる景でなく、心の動きが捉えた景であることを示している。「梅干の種捨つ」「アクロポリスに水のむ猫」「鳩降り鳩降り白拍子」「蜥蜴神託をわする」「激怒のときも石のまま」等、なんでもない見たままのようであるが、句を感受するときに感じられる意識と言葉の自然な繋がりは、前衛俳句という意識を強調した表現活動で言葉を試し、そこから抜けて自由になった結果を思わせる。『赤い地図』を経ることなく『紅茸』だけの活動であったならば、このような表現はなかったであろう主体性が働いた結果の表現なのである。
 『落葉期』に萌芽があり『石柱の賦』ではっきり姿を見せた表現の変化は、イメージそのものに社会批判や現状認識の意味を持たせ、イメージを書くことが表現であるという、イメージで語る姿勢から、イメージに過重な負担をかけず、日常のありふれた光景の切り取り方に思いを託し主体性を発揮する方向である。これはまかり間違うとそれまでの表現活動を否定し生活の些末主義になりかねないものだった。それは八木自身が自覚していることでもあった。

 削ればみんな無くなってしまうように思うので、あえて書きおろし句集のようになってしまった。

 という二〇〇一年に刊行された句集『私語』のあとがきは本音であろう。『私語』を読んでいると六十歳を過ぎた八木の生活、旅行、社会活動を俳句で追いかけているような気分になる。では退屈したかというととんでもない、まったくその逆である。掲載句数が二千句は超えていると思われる句集に熱中した。今回この一文を書くために読み返してみても退屈しなかった。『紅茸』が世の中を若さで跳ね回っているなら、『私語』は色々なことをやってきたがまだまだ元気な老人が世の中をじっくりと引き寄せているのである。外貌は変化したが本質は変わっていない。
  裸のくに裸のひとを飢餓襲う
  焼却場の裏は名月消えどころ
  赤子抱けばあひるいちいち叫んでゆく
  風鈴や脳に隙間のあるらしく
  葉櫻をくらいくらいと通りぬけ
  宙吊り男日永女像の黴洗い
  ごみ箱の蓋をぱたんと後の月
  春風の尻尾クッキー焼く香り
  元旦の計あり吊橋に止り
  湯呑みいつも落伍者と共にあり
  身をよじてホース墓原縫いゆけり
  ばあさんやほおずきが火をつけた
  河豚屋まで地下をくゞるか陸橋か
  自分という軍用語あり梅日和
  盗みたしコアラの眠る刻なども
  春の小川に沿いゆき宝石店もろもろ
  兜虫とうとう勝った反戦派
  大観音月見草などぱっぱと吐く
  天体望遠鏡見てきてとんぼ返りする
  艶聞あり枝豆のゆで加減
  宗教のはじめや水を分ち合う
  防毒マスクの事件記者春霞みをり
  ほうき星とんでゆくのは越中ふんどし
  わさび田に濡れてもどって激論する
  梅雨晴れの海がふくらみ織女の胸
  見つむれば芭蕉の「死」の字「花」そっくり
  相合傘の老人に梅雨おしまい
  冬の銀行ホームレスには庇貸す
  絵日記に金魚のあぶくばかり画き
  受験子の大波越える靴大き
  バイク暴走村よごし村おこし君ら
  ダリのパンガリガリ食べたい夜の秋
  コーランも禅問答もない日記
  休暇果つ作文上手の問題児
  ビルの隙間窮屈々々大満月
  初潮の子逃げてしまって小豆飯
  器量よき桃もぎくれし日焼婆

 大急ぎでふっ飛ばしつつ抜書きしたが、二千句以上の中からの引用なのだからこれでも微々たる句数なのだ。八木本人が語っているように、選句しようとすればみんな消してもよいように思える。だが孫の絵日記なのだろうか、あぶくばかりの絵日記の天真爛漫な力強さ、相合傘で恥じらいながらも嬉しそうな老人の生き生きとした姿、貧乏人には優しくない銀行が知らないところで役に立っているという皮肉、芭蕉の書のカタログで「死」の字を探してみたら本当に「花」そっくりであった。芭蕉の風雅を思わぬところで引き出した八木の風雅を思う。「日焼婆」の逞しさとやさしさ。読者に感じる能力があればどんどん感じてのめり込んでゆけるこれらの作品は反故にもなるし宝にもなる。
 『私語』は感性の柔らかさがなければ読めない句集であり、惚れ込んでしまうととことん惚れ込む句集である。そういう見事さがある句集だ。
 八木は実験精神に富み様々な形で表現を試みてきたが、それによって表現が崩れることがなかった。いまなおその精神は旺盛である。「削ればみんな無くなってしまうように思う」という八木の自戒は、その精神が横溢していることの現れであろう。
(シリーズ「海程の作家たち」は本号で最終回となります)

シリーズ・海程の作家たち《第五回》八木三日女―『紅茸』から『私語』へ(上)~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第五回》

八木三日女―『紅茸』から『私語』へ(上) 谷佳紀

 一九五六年(昭和三十一年)に刊行された八木三日女の第一句集『紅茸』はいま読み直してみても新鮮だ。知性豊かで礼儀正しい進取の気概に溢れた女性が医師となり、結婚し、子を産み育てつつ、社会人として活躍するさまが気持ちよく響いている。
  濃き霧のぐんと迫りて呼吸苦し
  ねつとりと髪首筋に秋病
  鶯や疊冷たき着替への間

 女性の生活感覚や肉体を感じさせるこれらの表現は、すでに完成された文体を持っているが、あえて言うならばここから感じ取れる女性の情感は八木ならずとも書けるものであり書かれているとも思う。
  からびたる土の白さや手鞠つく
  きらめきて高きに迷ふ散りいてふ
  霊泉の道しるべあり秋の旅

 描写のうまさが際立つこれらの作品も多くの先人がいる。秀作であっても八木ならではと思わない。
  芋の軸捨てたるごとく干す如く
  歳の市の道まつくらで皆通る

 となるとどうだろう。八木の個性が垣間見えるこれらの作品を書くのは力量だけでは難しい。「芋の軸」の写生の見事さは「甘草の芽のとびとびのひとならび高野素十」を思い出すが、高野がこのように景を切り取るという構成意識に集中し他の一切を切り捨てたが故に生じた永遠に変化しない真空のような空間、そういう意味において不毛の空間を作り上げたのに対し、「捨てたるごとく干す如く」と八木が捉えた芋の軸は日の光の中でもぞもぞとうごめき、空気感をも捉えた熱い心、ヒューマニズムの精神さえ伝わってくる。「歳の市」も年の瀬のせわしさを描写しているだけのようだが、冷えた闇に漂うぬくもり、孤独ではない闇、人と人のつながりのある闇がある。
 大阪女子高等医学専門学校の学生であった八木は、昭和二十年二十一歳で鈴木野風呂の「京鹿子」に投句を開始したが、その年に精神科教授として赴任した平畑静塔にも師事、平畑の影響がその後の八木を決定した。前述の作品に平畑の影響があるのかわからないが、その後の
  海に向つて上げたし凧は丘に向く
  朧夜の襲ひごつこは止してをけ
  イースト菌生きてゐる穴ぶつぶつと
  地虫の窓覗く巨大な影となり

 から読み取れる社会意織や表現技法に見られる対象物の把握の仕方は平畑の影響によるものだろう。
  向日葵がのけぞりテリヤ通したり
  閻王の口のほとりの秋の蝿
  颱風裡馬の黄尿は地を流れ
  倒れたる生木が虹に縛さるゝ

 このような作品を書き出す頃から八木の個性がはっきりしてくる。対象物をそのまま捉え具体化しようとする観察力、曖昧なところをいささかも残さない、という意識を通して現れる情の具体感は、自立精神に富んだ女性の生き方そのままと思える明瞭さがある。平畑が指導できるのはここまで、この先は八木自身が切り開かねばならない。学びの時代は終わったことを告げている作品でもある。
  紅茸を蹴りて血統正しき身
  紅き茸禮讃しては蹴る女
  毒茸を踏むサンダルが燃ゆるかと
  毒茸を踏みての後を見ざりけり

 この尋常ならざる女性の雄雄しさ美しさは類を見ない。口紅は真っ赤、着物も真っ赤、と思えるほど毒々しい赤が渦巻いている。ところがこの狂乱の景を捉えている八木の意識は冷静である。あくまでも対象となっている女人の狂乱であり、感嘆しつつも写生の手を止めない画家、見落としの無いように観察を続ける科学者のように冷静である。ここまで対象の女人に心を燃やしつつ冷静でいられるという表現姿勢は、女性性に踏み込んだ表現となっても崩れることがない。
  初釜や友孕みわれ瀆れゐて
  例ふれば恥の赤色雛の段
  香水や姙むを怖れ死を怖れず
  蛸を揉む力は夫に見せまじもの

 法律上は男女平等であっても男性社会での女性差別はなくならない。女性は性の奉仕者であり色々な禁忌に閉じ込められ、女性であるということだけで瀆れとされる場合さえある。そういった誰もが知っているが語ろうとしない禁忌を明るみにし、女性性の自立宣言の如く書き切ることにより、生命の継続を女性が担っていることや、感受性の豊かさ細やかさを謳い上げている表現は、女性を性の対象としか見ない社会に対する抗議でもあり、一方では性を大切にし、誇りとしている二重の表現になっている。ではこれらの表現を促したのは女性解放運動という社会思想の観点からなのかと言えば、与謝野晶子を崇敬している八木に無縁の思想であるはずはなく、戦後の民主主義思想も影響を与えているだろうが、思想というより、戦後社会の民主主義という熱気を受けた表現姿勢が書かせたように思われる。「蛸を揉む力は夫に見せまじもの」という恥じらいには「初釜や友孕みわれ瀆れゐて」と傲然と言い切る挑戦的強さがない。主婦の生活を守るという従来の女性意識とも違う。社会によって形成された女性意識がおのずとこのように書かせているのであり、その上で妻の立場を楽しんでいるおおらかさと、何事にも積極的な女性賛歌というものを感じるのである。

  股の間の産声芽木の闇へ伸び

 には出産した瞬間を表現するという表現意識の激しさと女性の喜びが伝わってくるが、ここにも事物を観察して把握するという姿勢があり、情に入り込み情そのものを書こうという姿勢は見受けられない。
 このように社会意識を持ちつつも個の感性を表現の基礎に置き、女性であることを意識しつつも、(それ故にと言うべきなのだろう)情にのめりこまない表現姿勢は、女性が社会に積極的に進出した戦後という時代を象徴するような女性俳句であり、俳句の新たな展開に無縁であるはずがない。八木が前衛俳句の旗手となるのは必然であると言えるような印象である。
 一九六三年(昭和三十八年)に刊行された『赤い地図』はその成果だ。
 『紅茸』において八木の社会的意識が濃厚な作品を見てきたが、それらは八木が社会を把握する意識、自己確認をしているかのような、社会における女性の位置が反映している社会意識であった。『赤い地図』ではそのような自己確認の作業は終えたあとの、社会における自己という姿勢を明確にした表現になる。その象徴とも思える作品が句集冒頭に掲げられる。

  なめくじに塩ふるわざを祖先より

 なめくじに塩をふるという行為を従来の女性俳人が書いたなら台所仕事の描写になるか、嫌悪感をあらわにした感情のほとばしりとして表現されるだろう。それを八木は女性史の一齣として提示する。また次のような作品はどうであろう。

  ビキニ遠方二児が二児共反抗期

 子育てに頭を悩ませている光景だが、ビキニは日本の遠方であり、そこで行われた水爆実験は日本人には直接的な危険はない、しかし第五福竜丸事件を引き起こしたように遠方であってもよそ事ではありえないし、しかも実験そのものが人類の危機でもあるという認識の中で捉えた二児の反抗期は、社会意識そのものを語るモンタージュとなっている。このように八木の表現は日常そのものが社会と直結しているのであることを示す表現へと転換する。ただここで八木は大きな困難に直面した。
 前衛俳句にもいろいろあるが、八木は社会そのものをイメージとして表現しようと試みる。それは私ではなく私たち、我ではなく我々という位置に立とうというものであった。女性という個の位置からの表現がすでに社会批判にまで達していた八木の表現の延長上にあるこの方向は自然なものであったが、いざ表現に向かおうとすると簡単でない。
 女性という立場で表現をしていたときは、意識しようとしまいと自己の日常や家庭の日常からの表現が可能であった。しかしそれは私であり我からの表現であり、私たちや我々でない。日常そのままは個に立脚しているが、社会は個そのものでない。個を私たちという立場で捉えかえしをした上でなければ表現できなくなるのだ。社会意識の観点から見ればそれほどに違いがないように思える私と私たちであるが、表現においてまるで違ってくる。個を抹消し女性を抹消し私たちとか社会とかという新しい人格を作るようなものである。八木の表現から女性性は急速に失われる。
  あざらしの悲鳴に似たる声を真似
  あざらしの愛咬鈍い太陽よ
  あざらしの気むづかしきは仰向けに
  あざらしの沈思黙考型もある

 という、あざらしを人間に置き換えればよい単純なカリカチュア、
  ソプラノと稲妻型の痛覚と
 という、感覚だけに頼る、今までの八木にはなかった表現方法で書かれた作品が現れる。
  木犀のにおう祈りにつぶれる胎児
  憩いおれば奴隷の踊星汲むよ
  肌で嗅ぐ薔薇かぼそく長いセレナーデ
  ウランを平和へ河鹿死んでも合掌する
  あくびを殺すそこに任務の鳩仕舞われ
  多面鏡の祭囃子に溺れいる
  機械眠れば海が泣きおり足うらに

 このような作品を見せられても八木が言いたいことはわかるが表現として受け入れられない。
  ぬっぺらぼうの顔顔顔とゆがむ化石
  贋桜かむりパチンコ・ランデブー
  山頂に喫泉よじれ日本海
  橋立や日矢の扇を股の間に
  犬も鶏も汚れ雪にもならぬ雨
  馬煤け傍の貨車より濃くなれず
  足踏みの洗濯岩がいとしくなる
  銀座明るし針の踵で歩かねば

 これぐらいに書かれれば納得できるが、しかしこれらのほとんどは『紅茸』で見てきた表現方法を踏襲し、個の抵抗意識を一般化した社会意識である。表現態度は変わったが方法に変化がない。

  満開の森の陰部の鰓呼吸

 この作品をめぐる読者の読み方と八木が説明する、作品が生まれる過程の乖離は象徴的な出来事であった。この作品を支持した読者は、女性器をイメージし、女性の性そのものを語った大胆な作品と受け止めたのだが、八木は作品の背景について次のように説明した。

 私が近郊の水族館にいつたのは随分以前のことだつた。水族館は小高い丘にその背後と側面をすつかり覆われていた。丘には満開の桜の花がこんもりと森をかたちづくつていた。(中略)私はそれから再び、彼の魚達の前に佇つて、鰭の奥にひそむその呼吸を眼をみはつて長い長い間みつめていたのである。(雑誌「俳句」昭和三十六年八月号・俳句誕生)

 桜の丘の水族館を見物したときのイメージがこのような作品になったというのである。この自句自解は作品の支持者をがっかりさせたが、発想の動機はどうであれ女性の性を表現したと受け止めたければそのように受け止めればよい。女性の性そのものを書いたという理解は成り立つのだから。しかし八木にとって思いもしなかった読み方であることも理解できる。桜の美しさに秘められている隠微な姿を鰓呼吸というモンタージュによって比喩し、イメージ俳句風に書いた写生俳句なのだ。
 八木は情感そのものをイメージにしようとしない。ところが「満開の」作品は、「満開の森」とか「鰓呼吸」という、八木の目と、八木とは無関係に言葉そのものに備わった情感が分かちがたいもののように重なってしまった。そこに作者と読者の乖離が生まれる原因になったが、これは特殊な例である。桜に過剰に反応する日本人という感じもする。
 八木は景と社会のつながりを意識しデフォルメするという、眼の働きと意識でイメージを生み出す。その最もよい例が次の作品である。

  黄蝶の危機ノキ・ダム創ル鉄帽ノ黄

 句集の中ごろにあるこの作品はダム工事現場を高いところから俯瞰した光景だと思える。
 ふらふらと頼りなげにダム工事現場の上空を飛ぶ蝶、私たちが高いところから下を眺めたときに感じる引きずり込まれるような危機感と蝶の飛び方の危うさが重なって、落ちはしないかと思う危機感、はるか下に小さく動く現場の労働者とそれにもかかわらず鮮やかに映えている黄色の鉄帽、これら幾つもの視点を同時に提示し、読み手を混乱させ、読み手が混乱を整理し描かれている画像を読み取った結果、そこに映し出された景は、これぞ写生の極致と思えるような立体的な像を結び、点々と散らばる黄色が戦慄的な美しさで迫ってくる。カタカナ表記も画像の静けさや黄色の景を鮮やかにする効果をもたらす。この作品をもって八木の前衛俳句は完成したとさえ私には思える。ただこの作品は光景を再構成して切り取るという、八木が初心者時代に習得した写生の前衛俳句への応用の完成であり、表現の重要な要素として追求していた批評性は薄い。「危機ノキ」は批評性を担う重要な語なのだが、感覚的であり批評性という内実は薄い。見下ろしている遠方の蝶を視覚的にも感覚的にも抽象化し、蝶の形を「キ」と書いた言葉遊びの面白さと批評性の薄さがつり合ってこの表現は成立した。
 この薄さを埋めるように批評性の強い作品、また感覚の面白さや言葉の連環の面白さを求めて八木はさまざまな表現を試みる。
  融け合う蛸一つ買いたし顔探す
  漏電する旅人ネオンら遥か下界
  君のメガネ野獣を写しやさしく曇る
  爆音に鳩はひろげる火傷の軍手
  えんえんと鎖引きずり草花摘み
  さすらいのさまよいの匙豆腐すべる
  ドライアイスけむるよ消された者たちよ

 このように表現は自在に活動するが、これらの作品を書きつつ八木の意識は一つの方向を目指していた。

  マラソンの足扇形に滝の使徒か

 であり、「北海道行」という前書きのある旅行吟である。
  霧の空港ボスも黄色い傘さすよ
  もろこし棲む大きな牛小屋小さな家
  ツンドラゆく鶴より細く首延べて
  菱ぎちぎちと星つぶす夜をこめて
  涙より透明な湖沈むトルソー
  湖はデスマスク原生林を熱い鋸
  古鏡火事は牡鹿の瞳の奥に
  いらだちの種牛のそこのいらくさ

 「紅き茸禮讃しては蹴る女」を書いた頃は写生が抵抗精神と一体化していたが、「マラソンの足扇形に滝の使徒か」はマラソンランナーの精神性と八木の精神性を一体化し具象化したような激しいが静かな光景となり、「北海道行」はその精神性がさらに深められた作品になった。八木の目は外部と内部、景と心を同時に見るようになったのである。
 句集『赤い地図』はここで終わる。次の句集、一九七四年(昭和四十九年)に刊行した『落葉期』は「連作篇」と「単作篇」に分かれた句集になる。
(次号の最終回へつづく)

《八木三日女略歴》ーーーーーー
 一九二四〜二○一四。大阪府堺市生まれ、本名ミチ子。大阪女子高等医学専門学校卒、眼科医。同医専に精神科教授として在任していた平畑静塔に師事。関西前衛俳句を代表する女性俳人として活躍した。一九六五年「海程」同人。「海程」23号の同人スケッチに「インドシナ系の美人。小粒ながらピリリと辛い。『紅茸』『赤い地図』の二句集、戦後俳句に鋭く影響す」とある。前年の一九六四年、同人誌「花」を創刊、発行人を務める。句集『紅茸』『赤い地図』『八木三日女句集』『落葉期』『石柱の賦』『私語』『八木三日女全句集』。
 次号は「八木三日女論」の後半を紹介(最終回)。
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シリーズ・海程の作家たち《第四回》「命」―北原志満子の俳句~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.9(2019/6/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第四回》

「命」―北原志満子の俳句 谷佳紀

 北原の俳句の個性を語ろうとすると困ってしまう。どこにでもいる女性の健康な声、時たま見せる生活の疲れ、とくに最近は高齢になられているので孤独感を強めているようだが、それらが蜿蜒と表現されているのみで、女性であることを強調しているわけでもないし、特異な感性があるわけでもない。台所はたびたび書かれているが、生活の一部分であるというだけのことで、ここに着目をして生活を謳い上げているわけでもない。境涯俳句のように悲憤慷慨をしているわけでもなく、自己の生活に特別な意味を見出そうともしない。生活に充足しつつも親しい縁者や友が世を去り、一人取り残されている淋しさを嘆いているが、それで健康を害するやわな精神の持ち主ではないようだ。初期には馬が多いとか、現在は猫が頻出するという素材の好みはあるようだが、それも行動範囲が狭いためのようであり、気持ちが穏やかに反応するものを反応するままに書いているということであって、テーマにしているわけではなさそうだ。
 と書いて気づいたのだが、北原は俳句を書いていると心が穏やかになり落ち着くのではないだろうか。力強い表現とか独特の表現とかで心を高ぶらせる俳人や、表現の面白さで感心させられる俳人はたくさんいるが、その表現で読み手の心を穏やかにする俳人となるとどうだろうか。北原の作品を読んでいると気持ちが柔らかくなってくるような感じがする。俳句を書いているときの穏やかな気持ちがそのまま伝わり、読み手の気持ちをも穏やかにしているのではないだろうか。北原の俳句はそういう俳句なのではないかと思う。
 北原は大正六年(一九一七年)佐賀県生まれ、今年九十一歳である。昭和十五年二十三歳で結婚するが三年後に夫は戦病死。昭和十九年夫の一周忌を済ませた後に鎌倉に転居していた実家に戻る。子供はいない。昭和二十年佐賀に引き上げ現在にいたる。昭和五年国語担任教師の訓育で俳句に親しみ、昭和十二年二十歳の頃より俳句を本格的に書き出すが、初期作品として句集で読み得るのは昭和二十年からである。現在一人暮らし。ただし家族として猫(野良猫を含む)が数匹いる。というのが簡略な経歴となる。
  早蕨や厨の土間は昼も冷ゆ
  麦刈って畦のつばなに風つよし
  すかんぽの穂にもこごみて夕べかな

 第二句集の『花神現代俳句北原志満子』に収められた初期作品(二十年―二十三年)最初の三句であるから、終戦の年の作品と思われるがはたしてどうなのだろう。季節は早春や初夏である。もしそうなら戦争はまだ終わっていない。それにしては静かすぎる。二十一年以後の作品なのかもしれない。期間内の作品を編集して並べてあると読んだ方が良いようだ。
  法師蟬お日はあわれの暑さかな
は終戦の玉音放送を聞いての作品と読めるが、この作品とても敗戦の悲憤慷慨はどこにもなく暑さゆえの虚脱感が濃厚という、いつの時代の作品であってもおかしくない。いずれにしろ初期作品からは戦争の面影を見ることができない。俳人としての出発はここからだということなのだろう。
 その姿勢は最初の句集『北原志満子句集』を見ればなおはっきりする。この句集は昭和二十二年から始まっているが、前掲の初期作品の素直な感覚世界をも切り捨てた意志の強さを感じる作品に満ちている。
  稲刈って星しろがねと降りそそぎ
  蚕豆の花びっしりと人泣けり
  裏切りしごと秋風の髪荒し
  鶏の眼の金環冴えて初時雨
  なめくじのあとの銀色旅こいし

 句集で「昭和二十二年―二十七年」としてまとめられている最初の五句である。戦後の食糧難の中での母との二人暮らし、生活に苦労が多いはずだがそんな嘆きを見せようとしない。「稲刈って星しろがねと降りそそぎ」という澄んだ空気を感じさせる豪快な夜景、「鶏の眼の金環冴えて初時雨」の「金環」で感じられる鶏のたくましさと鋭い季節感。胆大小心という言葉があるが、その言葉がぴったりするような、対象を一気にとらえる力強い感性と、景色を内面の景に昇華する行き届いた眼差しが調和した生命力が感じられる表現になっている。
 ただこの後、戦後の俳句は社会性俳句、前衛俳句と、激動の時代へと突入する。生活の中で見える景色、動物や植物に向けていた眼が、その延長という感じで北原の表現にも入り込んできた。ただその影響は「昭和二十八年―三十三年」の作品群の中では目立たない。
  夜の汽笛瞼は尖る葦ばかり
  滝の如き夕立殊に機関車に
  クレーンが摑む涼しき松丸太

 これらは社会的素材に意識を向けようとしている作品と思われるが、「尖る」「殊に」「摑む」という形容でどうにかその意識を表しているのであり、まだ真正面から向き合っていない。むしろ次のような作品に北原の変化が美しく働いているのではないだろうか。
  ねずみの死春の畳に頬つけて
  耕牛おそろし打たれて上眼づかいする

 「ねずみの死」は単なる写生のように見えるが、「春の畳に頬つけて」という悼みの感情は写生ではとらえがたい情愛に満ちている。それは「初期作品」にある「大寒の蹠きよく鼠の死」と比較してみればよく分かる。「蹠きよく」にも情の働きは顕著だが、それ以上に眼の働きが強い。しかし「頬つけて」は逆である。いたわりの心がなければとらえきれない情があり、眼の働きを上回っている。しかもこの情は、家族とか友情という親近者への個的な情というよりも、社会への心の開きがとらえた一般的大衆的な情であろう。「耕牛」における「上眼づかいする」は、牛の従順さの裏にある怒りや恨みの感情、牛というものは油断できないぞというような警戒心、これらが入り混じった複雑な感情に満ちている。この感情に北原の社会意識政治意識の反映を読み取っても良いのではないだろうか。
 社会性俳句という範疇で語るならば、北原の社会性とはこの程度のものともいえる。もちろん「この程度のもの」でよいのである。
  工場出づ枯れしものみなやわらかく
  ネオンに濡れうからの数の柿を買う
  風の青桃少年工に窓曇り

 悪くはないが平凡、北原の良さがない。北原は反応する人であり、意識する人でない。身辺の出来事に言葉が反応してついてくるのであり、言葉を意識してとらえ言語化する表現者ではない。そういう意味ではこの時期からのしばらくの期間は、北原の世界ではない世界で表現活動を行うことになってしまったとも言える。とはいえ、意識を全く無視した表現活動はあり得ないし、言葉というものは意識化を促すものでもある。北原の表現世界とは違う言葉のありようであっても、季語に愛着を持ちつつも季語に閉じこもるという姿勢を持たない表現世界は、どこかで社会というものを意識化せずにはおかないだろうから、時代背景からしても必然であり、その結果として反応する言葉をとらえ返すきっかけになっているのではないだろうか。おそらくその成果の一つが次のような作品と思える。
  村の浴場の残す一灯田水の音
  干すシャツよりも雪白かれと遥かな声
  少年ひとりで切傷愛す杏林
  生きることは賑やか夜業散らかって

 身辺の出来事に感じるまま反応するままでは決してとらえられない、題材を身辺から広げようとする社会意識、イメージを作る構成意識があり、その結果として、生活に反応する肌の温もりで作品を読ませるのではなく、現実の景でありつつも構成された景の美しさが作品を読ませている。もちろん私達はこんなややこしいことを思って読んでいないし読む必要もない。もしそんなことを考えさせながら読むような作品ならばつまらないに決まっている。一灯がつくる明るさと闇の暗さ、シャツと雪の白さは心を開放し、ナルシスを思わせる自己愛の甘酸っぱさ、そして生き生きとした生活風景、これらを一瞬にして読みとり感受するだけである。
  エプロンに卵かかえて夏至通過
  草が枯れ空に落書あるごとし
  えんぴつとげば草刈る音す夜の製図
  夢に過ぎし蛇や一日不器用に
  木の橋ありかしこき農馬たちは消え
  青葦に水満ち昼のねずみの瞳
  鶴を見ず鶴を瞼の旅寝かな
  昼の湯浴みの皆子志満子に芒の朱

 第一句集はこのような作品で終わっている。昭和四十年から五十年の作品である。力を感じる。しかしものたりない。この程度だったのかという感じがする。おとなしいというか、言葉というピースを表現内容に合わせて組み立てているような、ジグソーパズルを完成させているようなところがある。北原も『北原志満子句集』をまとめてみて心機一転の気持ちになったのかもしれない。ここまでは習作期とでもいうかのように第二句集である『花神現代俳句北原志満子』所収の「『北原志満子句集』以降」で、それまでのおとなしさをかなぐり捨てたかのように緊迫感のある作品を書き出す。
  麦秋の光量に夫ありし母たちよ
  猫葬り五月かーんと残りけり
  突然に芋虫の怜悧なあゆみあり
  夜涼の三人笑えば遠く岩を感じ
  枕につけた耳は友達冬の雨
  月の葱畑涙という字も折れて
  霜に覚めにんげんとねこひびきもつ
  ひもじい猫たち冬も可憐な内臓もち
  岸に上がって遂に白鳥のだみ声

 昭和五十一年から五十四年の作品からの抜粋だが、どの作品にも個性があり、他の作品にはない特徴があり、社会性とか前衛に影響されつつも、もうそれには惑わされない自己の表現を確立した安定感に満ちている。とくに「夫ありし母たちよ」という戦病死した夫を思い起こしつつ、子宝に恵まれなかった己れの淋しさ。活動しているときは意識することのない耳が寝る時には存在感を持つ肉体の不思議さ。美しい姿に似合わない白鳥のだみ声。いずれも地味な表現だが心情をとらえる確かさがなければ書けない作品だ。そして猫の俳句。もうこの頃から北原と猫は切り離せない関係になっている。すでに猫俳句はいくつも書いているのだが、猫がお好きなのだという程度の目立つものではなかった。それが猫を書けば心と言葉は自在に反応するようになる。それは猫を扱うことに馴れたということではなく、言葉との関係において意識でも心でも反応しうるようになり、その結果、生活の大きな部分を占める猫との関係が思うがままに書けるようになったということだろう。だからこそ逆に、テーマとしての社会性や前衛俳句にとらわれることなく、生活の中で触れ合うものを相手にするだけで素材は十分だということになったのかもしれない。
 この頃から目に触れるまま、感じるままには何でも書くが、イメージを作る、イメージを書くという表現を思わせるものでも、北原が見たまま感じたままのような、生活風景のようになる。一見したところ表現態度の後退のように思えるところもあるが、それは大きな間違いだ。体質に合わないものを見極めたとか、表現への自信とかであり、自然でもあり当然でもあるだろう。イメージを構成するという意識が表現体験の中でいつの間にか消え失せたとしか思えないほど自然な消え方である。
  細るばかりの老母に春の濁り川
  山路なる青蛙はつれて帰りたし
  ごきぶりの自然死は白き紙にとる
  朝月に猫が草噛む草世界
  雑草の穂絮みな翔べ没り日は華
  猫には猫の大事な手足曼珠沙華
  金盞花の瞳束ねて鳥想う
  われの時間のなか韮が咲き猫あるき
  痛む手を使って痛むかすみ草
  疲れては水中の蜷の世をのぞく
  満面に冬景色あて昼の飯
  かなぶんを今日の光として放つ

 昭和五十五年から六十三年の作品から選んでみた。これらの作品と今までの作品を比べると、初期作品が素朴な感性だけであり、のちの作品が言葉を絞りだそうと苦労していることがよく分かる。ここには大げさなこと、わざとらしいことは何もない。見たこと思ったことの呟きがあるだけだ。それでいながらその呟きが何の障害もなく沁み込んできて、静かな時間、生命の時間を共有する。自然と日常が行き来し、誰でも書けそうな言葉や想いのようでありながら、このように感じてこのように書けるのは北原以外にはあり得ないのだ。例えばごきぶりであろうと自然死を寿ぎ、さらりと取り去る手際の良さ。曼珠沙華の華やかな色と形をとらえつつ、静かに命を見つめている透徹した心情。枯れた死の世界である冬景色を明るい澄明な生の世界に転換した北原の生命力。イメージで書こうとすれば間違いなく観念的になるであろう命が、日常の命となって表現されている。
 ここまで北原の作品を追ってきたがまだ昭和の終わりである。平成十六年に刊行された句集「つくしの抄」を語り終えるまで、十五年間の作品が残っている。しかしもう書き終えたという感がある。この後も命を、観念や宗教的形而上的なものとして扱うことなく、日常の起居と共にある親しさでとらえ、営々と書き続けている。そこに変化があるとすれば、年齢の深まりとともに柔軟性を増し、ときには類型といわれかねない似た表現を繰り返しつつも表現を楽しんでいる。身内や友人の死、さらには子供でもあり、身内でもあり、友人でもある猫の死を次々と見送り、独りになった淋しさを嘆きつつ、それでもお体は元気なのだなと思うような伸びやかな作品を書き続けている。
 そもそも北原の作品について書いてみようと思い立ったことが間違いだったのかもしれない。句集を何度読んでも核になるテーマは単純。説明を要する事柄ではない。書き出せば何とかなると思ってここまで書いたが息が切れた。読んで味わえばよい、性に合うか合わないかで十分という思いを消せなかった。ということで、閉まりのない結果になるが平成元年以降の作品および『つくし野抄』から私の好きな作品を少々選んで終わりにする。

  野の青へ猫十分に食べて出る
  風花やわが知りつくす野のうねり
  じゅず玉は夢寐にも晴れて光るなり
  自転車で散る中学生はあめんぼう
  僧ひとり春の小さな畑を出ず
  葉つき大根すこし無念に横たわり
  白露という日の雑巾を新しく
  秋の菓子夫を亡くした友ばかり
  ”雨は妹“という詩よ夏雨の厨
  猫にする小さき和解草の花
  タオルケット四つに畳み今日が見ゆ
  拭き込みしゴムの厚葉も初景色
  遺影の母にピンクのカーネーション和む
  会う毎に新涼を言う平和つづけ
  初しぐれそれぞれの地へ投函す
  野分あと翁の冴えて在しけり
  唐辛子熟れてますます独りかな
  春残雪当然のごと人逝くや
  膝に来る仔猫にありし夕心
  青き地球の小暗きニュース寒明ける

  老のひと日におやつの時間草青む
  春隣野良猫のらに魚煮る遊びかな

〈「しろ」12号より/二〇〇八年八月十日発行〉

《北原志満子略歴》ーーーーーー
 一九一七〜二○一五。佐賀県生まれ、本名シマ。佐賀県立神埼高等女学校(旧制)卒。一九五一年、「寒雷」同人、一九六二年、「海程」同人(四号より)。一九七九年、第三回「海隆賞」受賞。一九八五年、「佐賀新聞」俳壇選者。一九九六年、佐賀県芸術文化功労賞受賞。句集『北原志満子句集』(海程戦後俳句シリーズ)、『北原志満子』(花神現代俳句6)、『つくし野抄』。金子兜太先生は、北原志満子の俳句について、「ぼくが北原作品を好むのは、素地の健康さにある。なんだ他愛ない、と思われるだろうが、他愛ないことが大事である」と述べている(「寒雷」一九六二年七月号)。
 次号は最終回として、八木三日女を予定。
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二つのベクトル―垂直方向と水平方向―藤野武◆第4回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

『海原』No.48(2023/5/1発行)誌面より

第4回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

二つのベクトル―垂直方向と水平方向― 藤野武

 対照的な個性をした二人の作家の作品を読んで、その豊かな才能に魅せられたことを、最初に強調しておきたい。
 ところで、これらの作品を鑑賞するにあたって私は、金子兜太先生の俳論を手がかりにした。

◇川田由美子の「叙情」

 私はつねづね、川田俳句を特徴づけるものは、叙情だと思っている。まず川田の叙情を考える。
 兜太師は次のように述べる。

『〈抒情〉だが、一般的には、これはおおむね二とおりの意味に使われている。一つは〈感情の純粋衝動を書く〉という本質的な意味。いま一つは〈情感本位に書く〉という現象的な意味。私は、はじめの感情の純粋衝動を書くという本質的な意味のほうを、真の〈抒情〉と考え、これが〈詩〉の本質だと確信している』『その〈情〉、つまり〈感情の純粋衝動〉とは、〈存在感〉への純粋反応である』(『俳句短詩形の今日と創造』北洋社発行)。

 川田の叙情とは、(単に情緒的なるものではなく)まさにこの「存在感への純粋反応」たる叙情である。

  夕こがらし生家に母の被膜かな
「母の被膜」という、生理的、感覚的な把握によって、母の纏い纏っていた(存在することの)逃れがたき悲しみや、それゆえの愛おしさが表現される。生きること在ることに、川田はなによりも深い眼差しを向け心震わせる。まさに「存在」が川田の「叙情」の核になっていると言える。
  ちちははの形代として朝の虫
  ある筈の荒織りの声黒南風に (海原33号)
 そもそも在るということの中には、無いということが入れ子細工のように組み込まれているのだ。だから人間という生きものの在り様を凝視すれば、同時に欠落を観ることにもなる。川田は「形代」といい「ある筈」といい、その無きもの、欠落した存在に鋭く感応する。これが大きな特徴だ。

 また川田句で存在と並んで私が注目するのは「自然」。
  枯芙蓉からから風に産毛あり
  ロゼットに海流のあお目深なり
 風に「産毛」を感じ、密生するタンポポの葉に「海流のあお」を見るなど、やわらかな感性で、自然のもろもろに耳を澄まし心通わせる。自然に依拠して「存在」の真に迫る。
  とうすみ蜻蛉ちちははふふむ草の風 (32号)
  雪割草ひさかたという一隅を (40号)

 「ふふむ」といって自然の(いのちの)循環を暗示する。「ひさかたという一隅」では(自然の)優しい光に永遠なるものを見る。このように川田は、自然の中にいのちの再生や循環をも見ているのだ。川田句の優しさの所以である。

  根のようなり胸静もりて冬の梢
  ひかりも声も澪曳き剥がる冬の石
  野の指とまれ蠟梅は今ひとりかな

 さらに、川田の視線は自己の内面に深く降りてゆく。そこで純なる結晶を掬い取る。「根のようなり」「澪曳き剥がる」「今ひとり」はみな、川田の内面の(思いの)喩にちがいない。とにかく豊かで純な心象世界。
 川田句を総じて見ると、(自然といい人間といい)存在を凝視し深く掘り下げ造型する。この垂直方向へのベクトルが大きな特徴なのだ。そしてやわらかで純な感性の、(時間と空間の)重層的で奥行きのある俳句は生まれる。

◇大池桜子の「自由」

 大池の作品は、現代の空気感にあふれている。
 大池俳句の特徴であるこの「現代の空気感」を考えるにあたって私は、兜太師の『感性時代の俳句塾』(一九八八年・集英社刊)を手がかりにする。
 この著書で師は当時(八〇年代)の「言語情況」について、時代を牽引していた糸井重里氏、野田秀樹氏等の仕事をとり上げ検証する。彼等の作品に共通する傾向として、言葉の遊戯化、褻の暴露の解放感、短言による飛躍、韻文や感性への傾き等々を指摘する。師はそれらを産む背景に、都市化による時間喪失現象やポスト構造主義があると考えた。そこから彼等の作品の「無執着」「身軽さ」「自由さ」「自己の無自己化」「共時性の横走り」等が生まれたと推論する。師は彼らの作品に(瞬く間の陳腐化の危うさを感じつつも)捨てがたい魅力と大いなる可能性を、どこか感じていたと私は思う。師は斯く当時の言語情況を大掴みする。さて、現在の言語情況だが、(師の洞察から)さらに一歩進んでいるように見える。さらなる「身軽さ」「自由さ」等々。これが現代の(文化的・社会的)空気感の底にあるものだと考える。
 そしてこの「軽さ」「自由さ」が、大池作品の空気感の内実だと私は推測する。これがとても新しく魅力的。

  わたくしのそっくりさんがいる二月
  やっぱりデザートも頼む猫の恋

 個人的なありふれた日常の出来事を、「自由に軽々と」主観に傾いて拾い上げる。少し浮遊した世界は、いかにも現代の気分に充ちている。対象を(深く)掘り下げてゆくというより、表層を漂う感じ。ベクトルは水平方向に働く。
  君が子どもみたいで小手毬の花
  擬似彼氏あてラインに咲かせるパラソル (32号)
  桃の花やさしい男に慣れてない

 この青春性。センスのいいユーモア。批評性もある。
 いかにも明るい日差しのような若者の日常や気分が、軽やかな感性で描かれる。しなやかな感受。高明度の詩性。
 しかし私はここで少し立ち止まる。
  毎朝通るぶらんこだけの公園
  春ってかなしいピアノの音がする

 私はこれらの句に「孤独感」を強く感じるのだ。「ぶらんこだけ」で、ほかに何もない公園。毎朝通る。捉えどころなきこのさびしさ。
  蝶の昼写真立てがたおれてる
  夢で見る風船今日も切ない赤

 そしてこの漠然とした「不安感」。「蝶」の覚束なさ。夢の「風船」の胸がしめつけられる「赤」。崩れそうな日常。この孤独感や不安感の底流にあるのは時代の「閉塞感」?抵抗し難い大きな流れに流されそうになる無力な、個の存在を敏感に直感的に感じているのだろう。この感受によって大池の俳句空間は微妙に屈折し、作品は個人的な表白(呟き)から踏み出し普遍化し、鋭く私たちの心に刺さる。大池俳句の明るさの裏側には翳るものがうずくまっている。
  卒業式全然詩なんてないんだ
  若葉過剰一体どうなってるのかな (31号)

 そして、窒息しそうな空気に、魂は叫ぶ。「一体どうなってる」。

俳人金子はるを訪ねて(下)―秩父山峡に生きる兜太の母―石橋いろり

『海原』No.48(2023/5/1発行)誌面より◆特別寄稿

俳人金子はるを訪ねて(下)
―秩父山峡に生きる兜太の母―  石橋いろり

▲はるさんの百歳を寿ぐ金子兜太先生の弟千侍氏の色紙
(皆野町の壺春堂にて)

◆◇ヤマブ味噌蔵句会

 兜太の句碑が秩父に集中して建立されているが、そもそもは伊昔紅の句碑が先に建立されていた。その立役者がヤマブ味噌の創業者の新井武平だった。秩父の味噌醤油製造業のヤマブ味噌は県下に販売網を広げていた。商工会長などの要職についていた初代が秩父音頭家元の碑建立の発起人代表もしていた。秩父の活性化・秩父音頭の普及という大志を共通言語にして、伊昔紅と武平は昵懇の間柄となり、昭和四十三年味噌工場の敷地内に伊昔紅の句碑を建立することとなった。
  味噌つきや負はれて踏みし日の記憶 伊昔紅(秩父ばやし)
 その後武平は、伊昔紅の門下となり、句作を開始。後日、武平は次の句を詠んでいる。 
  師の句碑を神とし念じ味噌造る 武平(呟醪けんろう
 毎年、味噌搗句碑記念句会が持たれ、以後味噌蔵句会と名打って四回おこなわれた。メンバーは、伊昔紅を主座に、千侍、七彩会などと盛会だった。句会の模様は、武平の遺句集『呟醪』の金子千侍の序文から知ることができた。
 第一回……昭和四十六年七月四日
 第二回……昭和四十七年六月二十五日
 第三回……昭和四十八年十一月二十三日
 第四回……昭和四十九年十月十三日
 初回から第四回まではるも伊昔紅に寄り添うように毎回参加していたそうだ。句稿は入手することが叶わなかったが、手帳に六月二十五日の第二回の味噌搗句碑会に五句出したものが残っていた。そのうちの三句。
 2 抱卵の燕ささやき交替す はる
 3 板前が空樽洗ふ黴る前 はる
 3 不如帰御客も覗く橋普請 はる

 この数字は得点なのかもしれない。
 生憎、伊昔紅が体調を崩したことで、句会は四回までで、その後は千侍に引き継がれ、長年句会は続いた。会場はヤマブで、その準備・接待は二代目郁夫の弟隆治の妻伊都子と郁夫の妻和子が一切取り仕切り、はるは武平の妻むめに離れの茶室に招かれ話をするのを楽しんでいたそうだ。むめ逝去の昭和四十五年七月に詠んだ
  病みきりて静かに逝きぬ合歓の花 はる
 この句を短冊にして、今も壺春堂に掲げてあることからも、佳き親交があったことが推察される。
  花冷やもろみつぶやく仕込蔵 武平(呟醪)
 掲句はヤマブ敷地内に句碑として建立されている。
 蓑山山頂に伊昔紅先生の秩父音頭歌碑建つ
  薫風や師の歌碑の今日除幕 武平(呟醪)
 金子伊昔紅先生
  薫風や米寿迎へし師や悠ゝ 武平(呟醪)
  割込んで小さく踊りはじめけり 武平(呟醪)

 伊昔紅逝去後も、変わらず千侍を師に味噌蔵句会を継続し、兜太の記念碑を多数建立した。初代のみならず秩父への思いを引き継いだ二代目郁夫氏、現在社長の藤治氏よりの有形無形の尽力を得ている。現在もヤマブホームページに兜太句碑や壺春堂記念館(兜太・産土の会)にリンクが張られている。草葉の陰で感謝しておられるはずだ。
 皆野町観光協会の「金子兜太句碑巡りの旅」のリーフレットで句碑が紹介されている。
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民 兜太(壺春堂)
  裏口に線路が見える蚕飼かな 兜太(皆野)
  夏の山国母いて我を与太という 兜太(円明寺)
  山峡に沢蟹の華微かなり 兜太(萬福寺)
  おおかみに螢が一つ付いていた 兜太(椋神社)
  僧といて柿の実と白鳥の話 兜太(円福寺)
  よく眠る夢の枯野が青むまで 兜太(ヤマブ味噌)
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子 兜太(水潜寺)
  日の夕べ天空を去る一狐かな 兜太(天空の里)
  猪が来て空気を食べる春の峠 兜太(長生館)
  谷間谷間に満作が咲く荒凡夫 兜太(宝登山神社)
  ぎらぎらの朝日子照らす自然かな 兜太(総持寺)
  舞うごとし萩の寺いま夕暮れて 兜太(洞昌院)

◇◆はると秩父音頭

 伊昔紅は金子社中の頭として秩父音頭の歌詞と振り付けとを練り上げ、日本中に伝播させていった。その渦中にいたはるにとっても「秩父音頭」は生活の一端であり、切っても切れないものになっていたと思う。
 秩父音頭の様々なイベントに金子社中は参加していた。
○明治神宮遷座十周年(紀元二千六百年の記念式典)でのお披露目
 昭和五年十一月三日。全国より選ばれた神事舞の一つとして秩父豊年踊りとして出演。その後、昭和二十五年、豊年踊りが埼玉県の代表民謡と認定され、以後「秩父音頭」と改名され、県下小学校の体育の実技として教えられた(金子千侍「踊神」)。
○秩父音頭歌碑の建立
 皆野町美の山(蓑山)に建立されたこの歌碑には秩父音頭の歌詞が刻まれた。
  一目千本
  万本咲いて
  霞む美の山
  花の山

 この副碑には伊昔紅の文の并書に由来が書かれていた。

 この地方の古い盆歌を編曲して、けい節の調べを加え、歌舞伎の流れを汲むといわれるこの踊の正しい型を温めて、宛転たる表情を与えたものが、今の秩父音頭である。昭和五年十一月選ばれて、明治神宮遷座十周年祭に出演奉仕してから、星霜二十五年を経て、秩父音頭も漸く全国的に愛好されるようになった。この盛名を今日かち得たものは、即ち金子社中であり、不肖伊昔紅その主催者たるの故を以て、家元碑を建設して戴いた。まことに感激に堪えない。
 昭和二十九年十一月三日 文化の日
                 伊昔紅 文并書

  時雨れては松より青き踊の碑 伊昔紅(秩父ばやし)

 この「一目千本」の句碑建立式典に招待された伊昔紅とはるのにこやかな写真が「秩父音頭」に収められており、夫妻にとっての秩父音頭の重みを窺い知ることができた。
 句碑の隣には、捩り鉢巻を巻いた伊昔紅の堂々たる銅像も建立され、今も秩父を望見している。この銅像建立に際して百五十名を超える個人・企業の寄付によることが銅像脇の碑に刻まれている。また金子社中の後継となった金子千侍の第二句集『踊神』のあとがきに秩父音頭の全貌が具さにまとめられていた。
○ラジオで秩父音頭放送
  冴え返へるわが掛声の何処へゆく 伊昔紅
  秩父新聞(45年1月25日号)より。
○NHKうた祭出演
  欅落葉ふる下に待つ踊の出 伊昔紅(秩父音頭)
○大阪万博
 万博にははる自身は参加せず留守番だったのだが、心は共にあったはず。はるの「俳句雑記」には、
 八月八日出発九日、十日、十一日出演、十二日帰宅す
とあった。
  蜩や万博出演いよよ明日 はる
  万博の出演長し百日紅 はる

○秩父音頭の替え歌
 皆野町では、古くから町を挙げて秩父音頭の普及を目指して替え歌を公募していた。学校でも力を入れ作詞するよう指導していたそうだ。はるの昭和四十九年五月二十六日の覚え書きノートには「句碑十周年記念献歌」と副題が添えられているものがあり、はるオリジナルの秩父音頭と思える歌詞が見つかった。
  ハーアエー
  おらが隣りじゃよいむこ貰った
  医者ではくらくで大工で左官
  うすのめも切る小石もかける
  わるい事にはエサシがすきで
  農の五月もその六月も
  くくりづきんにかみこの着物
  腰にモチつぼ手に竿さして
  うらの小山へちょっくらちょっとのぼる
  トロンコトッキントン ヒーヒャロトキー

 節をつけて唄ってみると、なるほど秩父音頭。
 この詞の肝は一行目と二行目であろう。大工で左官のフレーズは、憶測であるが、千侍の『寒雷』初掲載の句
  大工左官焚火の煙に顔つくる 千侍(絹の峠)
に感化されたかもしれない。掲句は千侍が敷地内に自宅を建設した昭和四十五年当時の句ということで、はるにとっても、大工・左官が日常の中で触れていたということもあるだろう。ただ昔はなんでも家の修繕は自前でこなした時代だったと考えると、伊昔紅の一面を表現したのかとも思える。伊昔紅をおどけたように描写していると解釈すれば、諧謔性があり、夫婦間の温かい心の通いあいがあったことが感じられる。
○秩父音頭の歌手吉岡儀作への追悼句も残している。
  冴え返るその声ばかりいきいきと はる( 54年6月号)
 コロンビアレコードに音源がありYOUチューブで聴ける。

◆◇はるの句

 秩父には馴染のある鳥や植物と交歓しつつ詠んでいる。
○想夫恋の句
  春愁や杖に馴染まぬ夫に踪き はる(49年9月号)
  濡縁に夫が爪剪る菊日和 はる(50年2月号)
  なやらひの声張る夫の腰ささふ はる(52年5月号)
  夫の日日悠悠自適石蕗咲かす はる(52年2月号)

(昭和五十二年伊昔紅没後)
  石蕗咲けど夫の座空し香捧ぐ はる(53年2月号)
  一人居の玻璃戸に寄れば夜の蟬 はる(53年12月号)
  法筵は亡夫の好みし鮎料理はる(54年1月号)
  後れ咲く白芍薬は亡夫のもの はる(57年10月号)
  鰯雲夫の墓まで腰曲げて はる(60年2月号)

 苦難の中、はるはなぜ実家に戻らなかったのか。理由は、実家が没落したからだけではなく、伊昔紅がとても優しかったからと伝わっている。句の中にそれが読み取れる。
○旅に出て詠んだ句
 伊昔紅とは温泉や琵琶湖、奈良、京都、倉敷、伊勢路なども巡った。伊昔紅の心遣いが見える。
  魞の風かほる琵琶湖の橋渡る はる(48年9月号)
○壺春堂庭先の榠樝
  亡き夫が形見の榠樝捥ぎてけり はる(55年2月号)
  榠樝の実欲りし人の名しるし置く はる(56年2月号)

○祭の句・秩父音頭
  見てゐしがいつしかおどる輪の中に はる(51年12月号)
  山梔子の咲けば稽古の祭笛 はる(53年10月号)

○諧謔味・ユーモア性
  柿投げて二階の患者手にうける はる(秩父新聞46年)
  無尽講誰彼欠けしちちろ虫 はる(46年12月号)
  春炬燵昼餉の後の夫蝦寝 はる(46年7月号)
  自転車に干大根のをどりゆく はる(55年4月号)

◇◆妻を想う伊昔紅の句

  鏡台に向ひて今朝の栗を置く 伊昔紅(秩父ばやし)
  老夫婦団扇ひとつを隔て寝る 伊昔紅(秩父ばやし)
  菜を漬けて老妻足の冷えかこつ 伊昔紅(秩父ばやし)
  筍を煮るさへ妻のかくし味 伊昔紅(秩父音頭)
  犬ふぐりおばば年金貯めてをり 伊昔紅(秩父音頭)

◆◇母を想う兜太の句

  狼が笑うと聞きて母笑う 兜太(百年)
  山国や老母虎河豚のごとく 兜太(両神)
  母さんの涼しい横顔黒潮来 兜太(百年)

◇◆「鶴」の句に見る季語の使用頻度数

 「梅雨」が十五回、「榠樝」「笹鳴き」が七回。他は平均して一回から三回だった。
 「梅雨」が多いのは、兜太の言う秩父が山影の地であることからか。秩父の年間日照時間、雲の張り出している時間の長さに因るのかもしれない。
  夫の腰迂闊に起てず梅雨炬燵 はる49年11月号)
  梅雨満月思はず落す蔵の鍵 はる(54年11月号)
  裏山に鳴くは狐か梅雨の果 はる(59年9月号)

◆◇伊昔紅遺句集『玉泉』

 伊昔紅亡きあと昭和五十六年九月に、紺桔梗の布張りの表紙に『玉泉』と刻印された遺句集が上梓された。因みにこの『玉泉』の出版記事は朝日新聞同年九月二十一日号に千侍の写真入りで掲載されている。
 千侍が編集委員長となり、七人の侍の手を借りて作成された。親交のあった水原秋櫻子、石塚友二、篠田悌二郎、及川貞、牧ひでを、加藤楸邨、草間時彦などの玉稿と伊昔紅の薫陶を受けた百人余の作品が収められた。その中には金子家の面々(はる・兜太・皆子・千侍・律子・洸三)の句作も収められている。友二が序文を書き、跋文には兜太が「親たるもの八十五歳までは生きる義務があるということなど」を寄せていた。
 編集後記には千侍ら編集委員の言葉が添えられていた。
 謹んで弟子たちの作品集『玉泉』を伊昔紅先生の御霊前に捧げます
 『玉泉』より
 杜鵑 金子はる
  老人のまた重ね着や戻り梅雨
  榠樝の実欲りし人の名しるし置く
  艶拭きの手先のぬくみ笹鳴ける
  杜鵑夫は日課の小太刀握り
  蔵閉めて立待月と顔合す
  元朝に生れて夫や米寿たり
  蟷螂が夫の位牌の辺にあそぶ
  春雪の積む間もあらず日射しけり
  掌に受けて重き包や寒卵
  春分は母の忌の年となる

◇◆一句入魂のノート

 晩年のはるは、出不精を決め込んでいた。
  籠りゐてけさ気づきける花榠樝 はる(57年9月号)
 居間にいて庭の樹々を見ながら、細い罫線のB5のノートに隙間なく自分の句を清書していた。美文字で一句一句清書してあった。あの数十冊に及ぶノートを手にし、これは精神統一して認めた「写経」ではないかと感じた。

 百二歳まで俳句をずっとノートに書いていました。私の小さいときは、あれほど俳人嫌いだったおふくろです。(今、日本人に知ってもらいたいこと)

 このノートの存在により、はるの余生が俳句と共にあったと確信した。このことは夫が「俳句を生涯捨てない覚悟」と言い切った思いが胸奥にあったのかもしれない。或いは夫と息子たちが生涯手放さなかった俳句を自分も身近に置くことで満たされたのかもしれない。
 いや、純粋に俳句が好きだったからなのだろう。

◆◇百四歳ではるは他界

  母逝きて与太な倅の鼻光る 兜太(日常)
 気力体力で負けることなく、天寿を全うしたはる。秩父の滋味豊かな風土の中で俳句を詠み続けたはる。はるを訪ねて、改めて兜太のこの句が沁みてくる。
  母よりのわが感性の柚子熟るる 兜太(日常)

〈後記〉

 はるが俳句を詠んでいたということを岡崎万寿氏から伺い「兜太に俳句を禁止したはるが俳句を詠んでいた?」という疑念が端緒を開くこととなりました。いかにせん、はるの句集があるわけではなく、資料集めが作業の大部分を占めました。折しもコロナ蔓延の頃と重なったため図書館利用も制限がかかり不便なこともありました。
 しかしながら、調べるにあたって、多くの方のご協力を得ることができ、少しずつはるのデータが、まるで繭玉のように大きく育っていってくれたことで、なんとか纏めることができました。
 『鶴』の現主宰の鈴木しげを氏。ヤマブ味噌の現社長新井藤治氏。小川町の文化財審議委員の吉田稔氏。熊谷女学校の取材をして下さった石田せ江子氏。お孫さんの金子真土氏。金子医院の金子桃刀氏。塩谷容氏(鰻の吉見屋店主)。兜太産土の会のスタッフ(菊池政文氏・根岸茉莉氏・榎本順江氏・山本令子氏・須田真弓氏)。東京多摩現俳協の大森敦夫氏、また安西篤先生、岡崎万寿氏にアドバイスをいただけたことは大きな指針となり、なんとか脱稿することができました。
 遅ればせながら、皆様に深く感謝を申し上げます。

シリーズ・海程の作家たち《第三回》堀葦男と前衛俳句および言葉と季語~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.8(2019/5/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第三回》

堀葦男と前衛俳句および言葉と季語 谷佳紀

  ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒

 十代後半、写生に馴染めなかった私は、意識がそのまま言葉になっているような前衛俳句に、訳が分からないまま感心していたような記憶がある。その頃に堀葦男の名前とともにこの作品も覚えたはずだ。その後批判精神が旺盛になるにつれて、否定したり肯定したり、今になっても半々だ。
 「黒」という観念にとらわれその観念を書き流しているだけのように思える。しかしぶつかり合って言葉が流れているようなスピード感、それを支えている熱気、一見理知的に見えながらも理知を押しのけて湧き上がってくる息づかいの激しさは、抽象絵画のように何かを比喩した黒を書いているだけの意味の塊のようであり、抽象絵画のように情念を言葉として吐き出しているような生命の流れを眼前に見せる。
 「黒」という意味性の強い色のイメージにとらわれると意味の塊のようでつまらないが、韻律に乗って流れる「黒」の力強さにとらえられると「黒」そのものが具象として感受できる表現。この二つのはざまで私の思いは揺れるのだが、堀葦男という俳人が展開した前衛俳句は、このはざまで否定され肯定される典型的な作品ではなかろうか。

  奇異な雨の大暗黒を銀行占む
  燈を遮る胴体で混み太る教団
  愛も無力河口黄昏に砂塵あげる
  起きていた鏡ぼく真っ黒に存在して
  見えない階段見える肝臓印鑑滲む
  沼いちめん木片かわき拡がる慰藉
  ある日全課員白い耳栓こちら向きに
  沖へ急ぐ花束はたらく岸を残し
  すべてが去りすべてが在り浮桟橋の動揺
  全部途中の眼と手足轢死者のほかは
  海へ散る課員稜線の松のように
  顔の激流暗緑となり遅れる者ら
  箱のような俺 中流で回転する

 堀の第一句集『火づくり』は一九六二年(昭和三十七年)に刊行された。堀の名を高くした前衛俳句とされる作品のほとんどがこの句集にある。「ぶつかる黒」およびここにあげた作品もそうである。
 さて、これらの作品と「ぶつかる黒」は対照的である。「ぶつかる黒」は動的であり表現されている意味が情的である。意味性の強い言葉で構築されているが、とことん抽象であり、韻律の軽快さが読み手の心中を駆け巡り、具体的な感情や景を導き出す力を持っている。ラッシュアワーやデモ行進、オートメーション工場の製品の流れ、それこそ黒という意識の流れでもよい。読み手の感情や意識に応じた景を導き、それによって表現を理解する手掛かりにする仕組み、つまり韻律がその仕掛けの役を担い、抽象でありながら具象を感じさせる表現で韻律なくして読めない。
 一方、「奇異な雨」その他の作品の景は抽象化されたり、デフォルメされたりしているが具体的であり、容易にイメージ化することができる。主題を明確にする意図のもと言葉の意味性を生かしたイメージの表現になっている。イメージと言葉の意味は一つであり、読み手によってイメージが異なるという恐れはほとんどない。韻律の有無や相違はイメージに影響を与えない。韻律がよく働いている作品、韻律はあまり関係ない作品と様々だが、概ね韻律は脇役であり、堀の意識が生み出した韻律というよりは、定型詩という形式が生み出す韻律のようである。
 その一方で「流れる黒」も「奇異な雨」その他の諸作品も言葉の表情は同じように見える。主題意識が強く、言葉は合理的に分類構築され、言葉の意味を最大限に活用している。情の迸るままという危うさはない。書かれているイメージの意味を読み取れば表現の役割は終了する。
 おそらく堀はイメージが表現の核心であると考えている。自身が抱えている社会への関心や問題意識を明らかにする表現はイメージを書ききることであるとイメージに集中している。だが言葉の意味で形成するイメージ、意識や言葉が図式化され不分明なものが捨象されている表現は、不易流行でいうならば流行に偏りすぎているのではないか。俳句史を語る時には欠かせない作品であっても、読み継がれていく作品、影響を与えて行く表現であり続けるのだろうか。表現の肯定要素がそのまま否定要素になる、相反する性格がこれらの作品に付きまとっているように思える。「海へ散る課員稜線の松のように」「顔の激流暗緑となり遅れる者ら」に感じられる抒情が他の作品にもあれば様子がかなり違ってきただろう。
 そういう懸念をはらんだ作品に対して以下の作品をあげてみたい。
 
    太陽の専制・アメリカ(四句)
  ぬくしかたし若く確かな牡牛の頸
  旭はビル連峯に鐘の古塔は影の見方
  孤影かきまわすバスの湯に水突き立て
  「顧客選択権保留し」厚いテキ焼く店

    太陽の専制・メキシコシティ闘牛(二句)
  がくんと前肢大定型の死へ折る牛
  鰤のように牡牛ひきずり二流の馬

        (以上、句集『火づくり』)

    赤道草原(四句)
  天澄むと野猿禿鷹沼ふちどる
  河馬に乗る河馬湖船にうずく黒乳房
  愛の極みの黒人夫婦河馬など見ず
  故障ラヂオのごとき夜の蟬椅子寄せ合う

        (以上、句集『機械』)

 いずれも海外へ出かけた時の作品である。「太陽の専制」には多少抽象性があるが、「赤道草原」には抽象の影がなく徹底して具象である。そして両方とも景をそのまま言葉で書き写そうという執念に満ちている。
 「ぬくし」と断定し「かたし」とさらに強調し、なぜそのような断定と強調が必要か、その理由を明らかにすべく「若く確かな」とこれまたダメ押しの説明をして「牡牛の頸」と書きとめる。言葉に言葉を重ね、決定的な「頸」を突き付ける。その言葉の重なりを確実なものにする韻律も鈍く力強い重さでぐいぐい押してゆく。
 日本の風呂とは違い西洋のバスタブは何とも侘しい。トイレットと一緒というのも奇妙な感じだ。殺風景で温かみに乏しいバスにお湯を張り温度調節をする。「孤影かきまわすバスの湯に」という哀感を淡々と叙述した後に突如屹立する「水突き立て」。蛇口から落下する氷柱のような水の柱。ミズ・ツキ・タテという詰まった言葉の響きは孤影の響きでもあり、「水突き立て」を立体化する。
 有色人種である堀が、「顧客選択権を保留」されて入店したステーキ屋で居心地の悪い思いをしつつ、分厚いステーキに圧倒されている様子が映画の一場面のように浮かび上がってくる。事実を散文のように書き流しているだけだが、「顧客選択権保留し」という一文は鋭い彫刻刀で彫りこまれた文字のように尖り、この散文性が心を押し隠している堀の心を露わにしている。これは散文のような韻文であり、韻律の働きがなければ人種差別の状況報告でしかない表現になってしまう。
 アフリカの大地に繰り広げられるおおらかな性の営み。河馬の大きな図体とその尻、黒人女性の大きな乳房と恍惚とした表情、河馬も女性も彫刻のような立体感がある。
 この彫刻のような立体感は、これらの諸作品に限らない堀作品の特徴でもあり、言葉に言葉が重なってゆく重層感は、対象にのめりこんだ無意識を引き出すかのように働く韻律を得て、大きな彫刻作品が完成したような力強さがある。
 ただ問題はこの韻律が表現に伴って派生する自然発生の韻律、俳句経験の韻律のように感じられることだ。短詩形における韻律の役割にはさほど注意を向けていないように思われる。
 俳句という定型を支えているものは、五七五もしくは十七文字という文字数にあるのではなく、韻律の働きが根本にあると私は思っている。五七五で書かれた標語が時代を映す鏡として歴史に残ろうと俳句ではない。もちろん季語の有無を言っているのではない。標語の韻律とは標語に必要な調子を持っているが、それは俳句が俳句であるための韻律とは違う。五七五が生み出す韻律は単純でほとんど同じようでありながら、表現そのものを支配し、表現によってすべて違う、ということは論理で説明できなくとも俳句そのものが証明している。だが堀はその韻律を経験で活用するだけだったように思われる。
 堀の俳論集に『俳句20章―若き友へ―』がある。俳句を志す若者に向けて書いた入門書を兼ねた堀の俳句観をまとめた書だが、そこで『「かたち」で書く』ということをしきりに強調している。ところがこの『「かたち」で書く』ということ、懇切丁寧に解き明かし、色々な俳句を例にあげて具体的な説明を心がけているが、結局のところ私にはよく理解できない。山口誓子の意識を写生に生かした構成法に触発されて考えを深めた内面の形象化をさすらしいが、論を読むより堀の作品そのものを見たほうがよほど分かりやすいと思える。すでに述べたように彫刻や浮き彫りを思わせる言葉の構築、奥行きのある絵画的景、そのような立体感のあるイメージが堀の特徴であり、写生説の平面から、眼と心の働きを統一したイメージの立体像を「かたち」としてとらえていることは間違いがないように思える。しかしこの「かたち」というものに韻律がどのようにかかわってくるかは語られていない。そこのところを堀に解き明かしてもらいたかったが、韻律がイメージを活性化させるものであり、韻律なくして言葉の自由は得られないということは、「奇異な雨の大暗黒を銀行占む」よりも「顔の激流暗緑となり遅れる者ら」のほうが内面をより具体化しているし、この作品よりも、上司として部下を支配しつつ思いやっている複雑な心情が具体的に書かれている「海へ散る課員稜線の松のように」の方に抒情性が強く社会への広がりがあるように思える。「孤影かきまわすバスの湯に水突き立て」は単に孤独であるというのではなく、心中を鋭く突きさす「水突き立て」という荒々しさは異国を旅行中の生活者の疲れが背景に感じられる具体感があり、「河馬に乗る河馬湖船にうずく黒乳房」には言葉を分厚く積み重ねてゆくことによって得られる言葉のおおらかさと強さを感じるのである。このわずかな例を見ても韻律が働くということは表現の要であると言えると思うのだが、その韻律について堀はどのように考えていたのだろう。
 このように堀の作品に私は前衛俳句の頂点を見つつも同時に弱点も見てしまうのだが、堀はその弱点に気付かずに晩年を過ごしたように思えてならない。そのため前衛俳句の絶頂期に刊行された「火づくり」と、その勢いを持って書かれた多くの作品が収録されている「機械」以後の堀に私は興味を持てない。佳品がないというのではない。たくさんの作品を書き、発表し、活躍している。

    エル・サルバドルにて
  コーヒー林眼鏡いつしか火山灰よなぐもり
  コーヒー林深し黙って歩く人ら
  太平洋硬し夏の日噛み入るに

    メキシコ・シティにて
  朝から逢引アカシヤ落葉掃かれつつ
    インド曼荼羅
  牛の眼のどれも穏やか洪水村
  少女愉しげ仏弟子のごと繰棉機ジンに坐し
  粗衣の高官足の爪には酷暑の垢

        (以上、句集『残山剰水』)

 見る物すべてに自然に感応しようとするがごときの抒情の発露は、自然に親しみ人情に親しみ解放された情感が豊かに息づいている。まるで「太陽の専制」等の諸作に見られた熱気ある抒情を、穏やかな安らぎの抒情に置き換えたような落着きを持って表現を楽しんでいる。

  花辛夷わが歯いくつか亡びつつ
  燕来る巻き立つ濤の肚透きて
  友らまたくせもの揃い海鞘膾ほやなます

        (以上、句集『山姿水情』)

 肉体は老いても精神のたくましさを見せている。

  鬼わめくこの世ながらも冬桜
  木影みな縦縞となり水温む
  流れては泊りわれらもゆりかもめ
  伊吹山模糊と雪野に寺多し
  雪富士やここは茶山に隠れつつ

    2月9日病床
  浅春ベッド管と数字に取りまかれ
    2月13日病床
  長滝ややがて花みずきよく決まる
  漂客に点滴隣の寺に春の句座

 遺句集『過客』からの最後の八句である。「鬼わめくこの世ながらも」という社会のとらえ方、「木影みな縦縞となり」という眼の働き、ここには前衛俳句の闘士であった堀の姿が見える。「管と数字に取りまかれ」と現状を嘆きつつも笑いがあり、季節感をあざやかにとらえている。だがこれらの作品を肯定したところで、堀が全身全霊を傾けていた前衛俳句の迫力に及ばない。堀の新たな展開は、堀の俳句生活を豊かにしたかもしれないが、私が堀について何かを書きたくなるような「何か」が見えてこない。
 反対に、晩年の作品のほうが抒情豊かであり、人間性がよくあらわれ、表現も確かだ。前衛俳句の堀よりこちらの堀のほうが本来の堀なのではないかという見方もできる。そうなのかもしれない。そのような見方に反対はしないし、人生と俳句を楽しんでいる姿に野暮は言うなと思う。しかし前衛俳句のトップに立った俳人なのである。とりあえず今は野暮を言わせてもらう。

 ところで本筋から離れるが、ここで無季ということについて考えてみたい。
 無季俳句を推進した俳人が季語を肯定し有季俳句を積極的に書くようになると、季語俳人は有季俳句の優越性を宣伝し、無季俳句は若気のいたりであるかのように語るが、何と単純な反応だろうか。
 そもそも季語を否定し、季語を排除し、季語を使わない無季俳句を書き続けることは不可能である。もしそれを貫こうとするならば、同じ生活を繰り返し書くか、同じ観念を書き続けるしかない。つまり類型化する。そんな表現は表現者として表現活動を続けることは不可能ということだ。なぜならば生活の言葉を失うからだ。季語に戻らざるを得ない。季語に戻ってはじめて本来の活動ができる。
 季語といえども言葉である。しかも言語表現において欠かせない言葉、私たちの生活を支えている多くの言葉というより、ほとんどの言葉が季語として扱われている。俳句では季語であっても、俳句を離れた日常では言葉であり、生活に欠かせない生活語なのである。季語を排除した表現は生活を排除するに等しく、一時的には可能であっても、持続するものでないことは説明するまでもなく明らかなことだ。言葉であるが季語、季語であるが言葉、この二重性に有季に溺れまいとする俳人は向きあい、対峙しているのである。
 季語という言葉は明治の末年に荻原井泉水と大須賀乙字が使い始めたのだそうだ。それまでは季題という言葉しかなかった。なぜ季題を季語と言い換えたのか、その理由を知らないが推測はできる。季題とは和歌の伝統を受け継いだ貴族の美意識を約束事としたものである。自然を反映しているが自然そのものでない。ところが正岡子規が写生説を唱え、写生を俳句の基本に据えた時、美意識でとらえた自然である季題では、自然そのものをそのままとらえようとする写生意識を濁らせる。そこで季語と言い換えた。美意識ではなく見たまま感じたままの自然、それが季語なのだ。これは季題の美意識を否定した革命的なまったく新しい言葉、単なる言い換えではなく思想の転換を促す言葉でもあった。しかし季語と言い換えることにより季題の美意識が消滅することはない。すでに言葉に付与されている思想をその言葉から排除することは不可能であり、季語という言葉の中に季題は吸収され、自然でもあり美意識でもある言葉になった。
 このように季語という言葉を得て季題は更新されたが、俳句は季語に制約される表現であり続ける。それに疑問を持ち、表現の自由を求め、表現の領域を拡大しようとする表現者が現れるのは当然だ。しかもそういう表現者は実験精神に溢れている。新興俳句、社会性俳句、前衛俳句と様々な表現を試みる。無季俳句とこれらの表現運動が結びつき、無季俳句を書くためにこれらの表現運動があるかのようになってしまうし、これらの表現運動が表現領域の拡大のため無季俳句を必要ともする。そして無季俳句を積極的に推進しようという意識は有季俳句の否定、有季俳句を否定しないまでも表現意識は無季俳句へと向かう俳句運動となる。しかしそのような無季俳句の推進者もいつしか有季俳句に戻る。有季俳句しか興味のない俳人は無季俳句の敗北を嗤い有季俳句の優越を説く。
 だがそんな単純なことではない。季語は季題としての長い歴史を持ち、私たちの精神と生活を支配し豊かなイメージを生み出す言葉になっている。季語として更新されたために約束としての美から解放され、生活すべてを包括する自由も得た。
 季語は繰り返し耕され繰り返し肥料を施された豊かな土地なのである。名句とされる果実をたくさん生みだしているし、生み続けている。無季俳句はどうか。恋の句ならば書けるだろうという程度の、未開拓の痩せた荒れ地である。しかもほとんどの土地は季語に奪われている隅っこの狭い陽のあたらない土地でしかない。実績もない。そんな土地を耕して直ちに果実を得るなど夢物語である。少々の能力があれば果実を得られる季語という土地と、天才でも難しい無季という土地での勝負は明らかだ。それでも表現の可能性を求める俳人は無季を耕し続ける。そのうちに少しは無季の果実を得る。その一方で生活は季語と無関係でいられるはずはなく、季語の新しい活用に気づくようにもなる。無季によって見えてくる有季、才能が豊かであればあるほど、有季の緑野に開拓地を見ることができる。それは季語に新しい姿を付与することでもある。新しい表現は無季に限定されないものとなり無季の開拓にこだわる必要がなくなる。有季俳句に埋没し、有季俳句の範疇でしか表現を試みない俳人より、無季俳句を実践し言葉の実験を試みた俳人のほうが、季語を客観的に把握し可能性を見出す。そのようにして無季俳句と積極的にかかわってきた俳人も有季俳句を主とする俳人に戻ってゆく。これは後退ではなく当然の行動なのだ。現在も活躍している金子兜太、阿部完市の名をあげるまでもなく、無季俳句を積極的に開拓してきた俳人が、季語をより豊かにしていることは有季俳句しか見えない俳人には気づかないことなのかもしれない。

 言葉と季語は切り離せない。季語を否定する俳人であろうと、季語を否定しないが無季を積極的に推進する俳人であろうと、言葉である季語なしで表現はできない。積極的に季語意識を受け入れて活用する姿勢に転じようと、季語も言葉なのだと、季語意識よりも言葉の普遍性を強調しようと、季語に戻るのは必然だ。繰り返すが、季語思想の受け入れを拒否し季語とされる言葉を排除すれば、その言語世界はいびつにならざるを得ない。季語は原罪のようなものであり、いびつな言葉世界から正常な言葉世界に戻るには、原罪を受け入れるしかないのである。ただそこにはやはり表現者の覚悟を見たい。堀の態度は自然の成り行きという感じでものたりないのだ。

〈資料〉
句集『火づくり』昭和37年12月1日・十七音詩の会
句集『機械』昭和55年5月1日・海程新社
句集『残山剰水』昭和55年9月1日・海程新社
句集『山姿水情』昭和56年8月1日・海程新社
句集『朝空』昭和59年5月25日・現代俳句協会句集『過客』平成8年4月15日・天満書房
評論『俳句20章―若き友へ―』昭和53年9月20日・海程新社

〈「しろ」11号より/二〇〇八年三月十日発行〉

《堀葦男略歴》ーーーーーー
 一九一六〜一九九三。東京生まれ、大阪府箕面市に住む。東京大学経済学部卒。大阪商船を経て社団法人日本綿花協会、同専務理事。一九六二年、第10回現代俳句協会賞受賞。長く「海程」同人会長を務める。「火星」顧問、電通「一粒句会」講師。句集『火づくり』『堀葦男句集』『機械』『残山剰水』『山紫水情』『朝空』、遺句集『過客』。評論集『俳句20章―若き友へ―』。
 堀葦男論では、第一回の林田紀音夫論に続き、谷佳紀氏の季語論が展開されている。次号は、北原志満子を予定。
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シリーズ・海程の作家たち《第二回》気合い―阿部完市の俳句~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.7(2019/4/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第二回》

気合い―阿部完市の俳句 谷佳紀

 どうしてこのように書けるのか阿部完市の俳句は不思議な俳句だ。金子兜太なら彼我の差は世界のトップランナーと市民ランナーの違い、同じ道を蹴って走っていると思えるが、阿部は地面から浮いて走っているとしか思えない。発想がまるで違う、言葉との付き合い方がまるで違う。
 無意味の代表句と言えば
  甘草の芽のとびとびのひとならび 高野素十
を真っ先に思い浮かべるが、この表現が無意味と言われるのも、書かれている事柄がつまらないからであって景色そのものは鮮やかだ。いまさら言うまでもなく、高野素十を典型とするホトトギス俳句の無意味というものは、主張心情等によって何かを物語るという「意味」に対する、それらを排し何も物語ろうとしない「無意味」であって、眼に映じた景色は間違いなくあるという意味では無意味ではない。ところが阿部はどうだろうか。たまたま手元にあった海程二〇〇八年一月号を開いてみたら次の五句があった。
  ぽんぽん時計のように二月尽
  花木槿稽古してわれらわれら
  ゆえに越前竹人形は男
  魚は絵何の魚の絵西北西
  きのう鶏あした鶏故に鶏

 最初の二句は読み取るに困難ではない。しかし後の三句はどうだろう。高野素十の無意味は無邪気だが、この無意味は読み手に何かを伝えようとする論理的もしくは説明的文体であるが故に、読み手を小馬鹿にしているように思える。もちろんそうではなく阿部が真剣であることとは韻律の強さや気合いが物語っている。そう、気合いである。とは言っても、感じ取れない者には気合いなどはどこにもないわけだが、この気合いに遊びはない。それがなんであるかは不分明だが、それはまさに「このように言わなければならない何かである」と語り得ない何かを語っている。言葉という真剣を振るっているのであり、言葉と遊んでいるのではない。しかし読み手にとって無意味としか思えない。
 それは前衛俳句の行き詰まりを打開するかのように現れた坪内稔典の遊び、
  三月の甘納豆のうふふふふ
の遊びとは全然違うものである。この遊びは無意味というよりも、むしろ無意味であることを価値づけて誇っている。それによって遊びが際立ち、俳句形式の自在さを生かした表現になっている。
 前衛俳句の生真面目な意味過剰、政治性や社会性をイメージとして書きとめようとする熱気を揶揄するかのように現れ衝撃を与えた遊び、坪内の「私は俳句で遊びますよう」と遊びを宣言した文字通りの遊びであるが故の無意味と対照的な阿部の真面目な無意味、この真面目の本質には明らかに前衛俳句の精神が息づいている。
 阿部は前衛俳句のイメージ過剰、イメージを描くために道具化された言葉を否定したが、前衛俳句の根底にある言葉への無意識の信頼は、言葉しかないという意識した確信とともに強化され、言葉は生と同質同量のものであるという認識は深まっている。このような阿部の表現に遊びなどは入る余地がない。
 坪内の遊びはその後多くの人々を俳句にひきつけた。短いが故に不自由な形式と思われていた俳句形式において、言葉というものが自在に変化し、短いが故に論理性を超越した言葉を楽しめるという発見、それを新鮮に感じる新たな俳人を生み出した。坪内の「遊び」は大きな潮流になったが、一見その潮流の先駆者であるように思える阿部の遊びらしきものは、別格として認められているものの奇異な景色のままなのは、そこには遊びの要素は全くなく、使命感とも言い得る前衛俳句の精神を維持し続けているからだ。
  星空行く船と私矢印もち (『絵本の空』)
  町への略図にある三日月と白いバス
  波がとおし町がとおしと南の知人
  夏終る見知らぬノッポ町歩き
  栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
  いもうとと飛んでいるなり青荷物 (『にもつは絵馬』)
  葉月をとおるたとえば日本騎兵隊
  あおあおと何月何日あつまるか
  水漬く私を妹らみつけるたちまち景色

 前衛俳句の精神とは、イメージの力によって社会のあらゆる状況をとらえようと試み、そのような力を持った自己を表現の中に実現しようとした行為である。ホトトギスの俳句が自己と表現を切り離したのに対し、自己と表現の一体化を求めた。しかし前衛俳句はあまりにもイメージに価値を置きすぎた。イメージを描けばそれが実現できるかのように思い、イメージを描くことが目的化してしまった。
 イメージとは何であろう。私達はイメージそのものを媒介物なしに受け入れようとはしない。絵画なら何も考えることなしに画面を受け入れてしまえても、言葉によるイメージはそれを画像に置き換え、その画像を読み解き文章化して、何が書かれているのかを了解した上で受け入れる。つまり意味として受け入れる。言葉によるイメージはイメージとして自立せず意味の奴隷になっている。前衛俳句の多くが政治社会等、その時代の状況を読み取れるものであっても、その結果の表現がシュプレヒコールと紛うようなものになったのは、社会に対し自分の思いを発信したいという思いの強さであり、その方法としてイメージを過信したというイメージ体験の未熟さが大きかった。
 阿部はイメージ万能の表現の危険性にいち早く気づいたが、イメージでなければ何があるのか、やはりイメージしかないと思ったと思う。阿部の名を高めた『絵本の空』や『にもつは絵馬』を読めばそれは明らかだ。ただそのイメージは意味として理解し得る思想信条感情という思い、つまり今まで書かれてきた前衛俳句の、容易に日常レベルの意味に転嫁できるイメージではなく、心の奥底に隠れていて言語にしなければ気がつかない、日常レベルでは意味として受け止められず、わけが分からないが感じることができる何か、それを追及した結果のイメージであった。精神科医として日々接している患者の言葉体験はその核心の大きな力になっただろう。
 阿部が「無意味」とは言わず「非意味」と言い、それを強調したのも意味を否定したからではない。言葉には意味がある。しかも伝達できればそれで充分な記号レベルのものから、何が何だか分からないが感じ取れるものなど、同じ言葉であってもさまざまに言葉の様相は変化する。そのような言葉が発している意味を否定して言葉は成立しない。さらに意味が単一のものなら我々の世界にあるさまざまな言葉による形式、小説・短歌・俳句・詩、がなぜ同時に存在しているのかが分からない。阿部がこのように考えたのかどうかは知らないが、短歌も書いたことがあり、謡に馴染み、さらに精神科医として言葉に深くかかわっていた阿部には、言葉というものが形式や発信者によって全く違う姿で現れるということを理解していただろう。前衛俳句末期の高柳重信によって仕掛けられた言葉論争は、誹謗中傷に満ちた結末はともかくとして阿部を大いに刺激しただろう。
 阿部が「非意味」とお題目のように唱えたのも、「非意味」という何かを言葉に発見したからではない。もしそういうものが言葉にあり、それを目的化した表現、「非意味」が俳句表現であるというならば、イメージ万能の「意味」に陥った前衛俳句と同じ轍を踏むことになる。「非意味」ということによって俳句言語によって書き表される「意味」の質的転換を図ったのである。だが阿部がその意図を極めるには大きな障害があった。五七五という形式である。
 阿部が非意味という言葉で説明できるイメージを書いている間はそれほどの問題は生じなかったが、五七五という整然とした数字によって支配された形式は鉄かコンクリートのように硬すぎた。阿部の非意味には常に「気分」という用語がくっついている。気分とは、そうとしか言いようがないからそう言っているだけで、もやもやとして何となく感じ取っているが何となく不分明な、意識と無意識の境界線にある心の姿や肉体感覚というもののようだ。このような心の姿は意識としてとらえられる心の姿と違って整然としていない。整然としていないが故に意味という言葉ではとらえられず、非意味という反意語を用いて語るしかなかった。「非意味と気分」は分けようとしても分けられない一対の言葉なのである。
 五七五という音数、数字による形式の支配は曖昧でない。流れる気分を五で止め、七で止め、また五で止める。止めるたびに言葉は確定し、段ボール箱を積み上げるように言葉を積み終えたところで表現は完了する。これでは流れるまま、形をなさないままの気分は消し飛んでしまう。
 五七五という音数は絶対なものか。破調という言葉がある。だがこれは五七五を絶対とするが故の破調であり、音数を揺るがすものでない。しかし指を折って数えれば五七五であっても、句またがりその他言葉はさまざまな形で言葉の塊を形成する。私達は音数そのものよりも、音数律によって表現を読み取っている。しかもその音数律というものも曖昧で、むしろ韻律感覚と言ったほうが良いほどである。五七五の韻律というよりも、五七五を象徴とする韻律感覚が俳句形式だと理解する方が、言葉の自在さを生かせる。五七五という音数律から大きく外れた表現でも俳句として受け入れられるというのも、そのような共通の韻律感覚があるからだ。もちろんこれは表現する者、表現を読む者の言語体験によって大きく左右されるものであるから、否定し拒否する者もいるが、受け入れる者がいて、その共感が広がりを持ち、違和感を払拭すれば受け入れられる韻律に化す。このように五七五は韻律としてさまざまに変化し、新しい表現を獲得する。これが俳句という形式なのだ、という理解は成り立つ。
 阿部の俳句の変化を読み取って行くとこのような過程が想像でき、俳句は韻律そのものとなったが、このことが阿部の俳句を変えてゆく。
 阿部の非意味と気分は意味を主体とするイメージを否定するための実践だったが、非意味と気分も、そう言わざるを得ない意識、摑みどころのない意識のイメージを表現するものであって、それを非意味と言ったところで常に意味に言い換えようという欲求を生み出し、気分という防衛線の中で意味に言い換えられるイメージであった。阿部が音数律として五七五を取り扱っているうちはさほどの問題は生じなかったが、韻律という、五七五という物の状態から見れば抽象化であり、阿部の肉体感覚や意識においては実態に即した具象化である韻律に形式を集中したとき、言葉の自立化というべきか、イメージを拒否するような言葉、言葉そのものが言葉そのものでありたいと願うかのように出現する言葉、阿部が直感としか言いようがない言葉が生まれてきた。
 阿部完市という人物を他者は、阿部完市というイメージを持ち、そのイメージと阿部完市という人物を一致させて阿部完市と付き合っている。今までの言葉ならこれを容認した。ところが新しい言葉である阿部完市はイメージを否定して阿部完市だけで他者の前に立たせようとする。それは他者も自己もない阿部完市そのものを認識しろと要求するようなものである。それを求められても他者は阿部完市ではないし、イメージがなければ阿部完市を認識できないから、いまさらイメージを取っ払えと言われても困惑するだけだ。しかし言葉はそれを要求する。同じことが鶏にも要求され、鶏が鶏というイメージではなく、鶏という言葉そのものを主張し、しかもそれは現実の鶏でもあるとも主張する。そうなると現実の鶏と言葉の鶏はどのように対応するのか。言語論の鶏ならとりあえず現実の鶏に対応させればよいが、阿部の鶏は絶対を要求しているから解決はあり得ない。発語者である阿部においても説明は困難である。このような言葉の要求は阿部の言語体験、韻律感覚から出てくるものだけに、阿部の感覚なのか、言葉の側の自律性なのか判然としないほど阿部そのものであり、阿部はそのような言葉のあらわれを「直観」としか言いようがない。阿部はこのような表現意識にまで到達した。

  きのう鶏あした鶏故に鶏

 それ故にこの表現から私が読み取れるのは、鶏のイメージではなく、「きのう」「あした」「故に」という言葉に込められた阿部の感情であり、「鶏」はそのために必要とした表現上の手続きのように見えてくる。もちろんこれは誤読だが、誤読によって「鶏」が鶏のイメージとしてではなく、わけがわからないが阿部はこのように鶏を書きたかったのだという思いを直観し、鶏という言葉を思いつつ鶏を感じ、鶏への心の傾きが伝わってくるのである。

〈「しろ」12号より/二〇〇八年八月十日発行。初出は俳誌「つぐみ」№79〉

《阿部完市略歴》ーーーーーー
一九二八〜二○○九。「海程」4号より参加。一九七○年、第17回現代俳句協会賞受賞。二○○九年、第9回現代俳句大賞受賞。句集に『無帽』『絵本の空』『にもつは絵馬』『春日朝歌』『純白諸事』『阿部完市全句集』『軽のやまめ』『地動説』『水売』。評論集に『俳句幻形』『俳句心景』『絶対本質の俳句論』。誰もまねできない独特の韻律と言葉が織りなす俳句世界は、今も愛好者が多い。
次号は、堀葦男を予定。
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シリーズ・海程の作家たち《第一回》巡礼・林田紀音夫~ 谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.6(2019/3/1発行)誌面より
~ 谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第一回》

巡礼・林田紀音夫 谷佳紀

 林田紀音夫の表現世界は暗い。戦争体験や戦後の結核療養所生活、それによる失職と生活苦、さらには誕生してまもなくの子を亡くしていることなどが影響しているのだろうが、生活環境が変わってくれば表現も変わってくるのが自然である。ところが職を得て生活が安定し長女誕生と言う喜びを得てから、死やその周辺のイメージに固執するようになる。となればこれは性格や生活環境が大きく影響しているにしても、自分の表現世界はここに限定すると決めた意志によるものだと思わざるを得ない。実際に作品を見てゆくと、自ら表現の世界を狭めていったとしか思えない軌跡を辿っている。林田は自省力が並外れて強い人なのだろう。性格と生活そして表現体験が林田の思念を左右し、徐々に一定の方向に表現を導き意志を決定させたものと思える。
 一九六一年に刊行された最初の句集『風蝕』は、次のような美しい作品で始まっている。
  あぱーとにひそと飯食ひあたたかし
  たちむかふ山脉あはれ葱の花
  樹の下の夕ぐれみんな乳房もつ
  飴なめて花下の愁ひのいづこより
  人待てる椅子やはらかに暮春かな
  筍の空を発破のこだま駛す

 派手ではない。飛躍した言葉もない。淡々とした叙述は韻律に支えられ、静かだがしっとりした叙情が輝いている。真昼の輝きはないが、夕暮れの落着いた日ざしが感じられる穏やかさがあり、感傷的であっても決して暗くない。ところがこれらの作品は後の林田の選集に選ばれることがなかった。
 林田の選集は一九七〇年刊のシリーズ版と一九七八年刊の全集版がある。シリーズ版は第二句集『幻燈』としてまとめられる作品を書きつつあるときの選集であり、全集版は『幻燈』刊行後の選集である。この間わずかに八年間だが選句の傾向が大きく変化している。
 一番目立つのは『風蝕』には労働者という視点を強く打ち出した連作「吹田操車場二十一句」と「製鋼一〇句」がある。シリーズ版にはそれぞれから五句と二句選ばれているが全集版ではすべて削除された。
  信号掛若さ制へて硝子の中(吹田操車場)
  貨車も仲間暗き風雨を敵として
  救はれぬ色ばかり連結手渇いて来る
  仮眠四時間硝子一重に貨車ひびき
  構内にシャツ干す純白はあきらめ
  悪食の平炉を馴らし毛孔ひらく(製鋼)
  手が低く這う製鋼の冷めた部分

 選ばれなかった作品も少し揚げてみたい。
  傍観者に貨車の重量次々消ゆ(吹田操車場)
  日差しふんだんに操車場鉄の秩序
  倶に白シヤツ連結手には日が弾け
  貨車の牛も突放されて同じ速度
  製鋼所ごと加熱され眼窩くもる(製鋼)
  火葬より濃く稼動する炉の人体
  製鋼クレーン錆びた胃の腑を抽出する

 これらの連作は夕ぐれや月光の中でしか書かない受身の姿勢の林田が、突然変異したかのように、生の躍動感を捉えようとし積極的姿勢の力技で書いた作品群となっている。選集に選ばれなかった作品にその傾向が特に顕著である。「火葬」という語が生の力強さとして使われ、「錆びた胃の腑」も同じく積極的イメージとして捉えている。ところが、これらの外に向っている視線、陽光を浴びている作品群は、第二句集『幻燈』の諸作を書きつつあったときのシリーズ版ではまだ肯定されていたのだが、『幻燈』を刊行した二年後の全集版では姿を消したのである。目指す方向とは異質な表現と判断したのだろうか。さらに選句を見てみる。
    シリーズ版で選ばれ全集版で削除された作品
  一夜来し紫陽花の辺の濡れゐたる
  鴉ども梅雨このごろの米とぼしき
  川波をあきらかに見し珈琲のむ
  薬罐より出でたる白湯の咽喉をこす
  洟拭きしあと天国を希ひけり

    シリーズ版では削除されたが全集版で選ばれた作品
  なほ焦土蹠冷たく橋を越ゆ
  人妻の乳房のむかし天の川
  狛犬にそびらの虚空のぞかるる
  鬼灯の赤しと跼むことなしに
  雲雀より高きものなく訣れけり

    両方の選集で選ばれている作品
  月光のをはるところに女の手
  歳月や傘の雫にとりまかる
  風の中唾ためて貨車見すごせる
  汚されし川が朝より流れをる
  木琴に日が射しをりて敲くなり

 これらの作品は句集『風蝕』の始まりから類別に五句目までを自動的に抜き出したものである。前にあげた選集で選ばれなかった作品とともに見てみるとその違いが鮮明に見えてくる。すでに見たように日常性があっても感傷的叙情を湛えた作品は削除されている。日常性そのものが表現の発想となり、景をなし、しかも感傷的叙情に侵されていない作品が戦後シリーズで選ばれている。しかしこのような作品も全集版では削除されることになり、代わりに日常性よりも内面性を重視し抽象性が高く感傷的でない叙情的作品が全集版になって選ばれる。日常性を内面より捉えその結果抽象性が高い作品、一般的に林田の作品として評価が高い作品は両方の選集に選ばれている。そしてこのような作品系列がペシミズムというレッテルを林田に貼り付けることになる。しかしどうしてこれらの作品がペシミズムなのだろう。女性の手の美しさは絶唱だ。退屈をもてあました何気ない動作であっても日の光に輝いている木琴の音の透明感はすがすがしい。残りの三句の生活感は誰もが感じるちょっとした疲れである。散文的韻律が本来の俳句の韻律の華々しさと対照的に陰々としているため、疲労感を強調して受け止められたのだろうかとも考えてみたが、それも無理だ。林田が学んだ日野草城や下村槐太等の新興俳句系列の韻律であり、定型の韻律だ。レッテルで読むとそのように読めてしまうのだろうとしか思えない。療養所俳句も生活俳句も、多くの俳人のように定型と季語を利用して叫べば療養所俳句になり生活俳句になったのだが、呟きで書き続けたためペシミズムになった。
 『風蝕』は林田紀音夫の名を高めた。同色で彩られているようでありながら細かな色合いに彩られている多様な作品は、社会的俳句さらには前衛俳句という運動に連帯し、社会を内面化した視点から捉えようという姿勢のもと、時代の重苦しさを引き受けるように書かれた、林田特有の表現を実現しているのだった。
  乳房嵩なし死者の形に落着けば
  黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

 この作品には事物を正確に観察し正確に書き取ろうとする冷静な目が働いている。
 句集の最期、両方の選集に選ばれている作品を四句あげてみる。
  引廻されて草食獣の眼と似通う
  消えた映画の無名の死体椅子を立つ
  低い融点の軍歌がざぶざぶ来る
  洗つた手から軍艦の錆よみがえる

 これらは内面の告白でもあり、社会の告発でもあり、両面から読み取れる表現になっている。決して自己に閉じこもっていない。閉じこもりはむしろ第二句集『幻燈』になってからが顕著だ。しかし『幻燈』の暗さは林田の意識的操作によるもので、家庭生活とはまったく無縁である。表現の根底は日常性が豊かであり暖かな呼吸が感じられる。
 『幻燈』は誕生した長女を主題にした句集のようなものだが、なぜか幼女は常に死と隣り合わせの薄明か闇の世界に置かれてしまう。
  ねむる子の手に暗涙の鈴冷える
  砂深く幼女が父の悲しみ掘る
  象へ手を出す幼女壊れた日差しのび
  手花火の童女の背後壊れぬ闇
  綾とりの母子茫々と暗くなる

 なぜ愛する子をこのような世界で包むのかとあきれるが、この暗さは林田の表現思想であり、林田でなければ書かれたであろう家庭の平安を、「暗涙」「哀しみ」という一語でひっくり返してしまった。しかし表現を丁寧に読めば、愛児を見る目は優しさに満ちている。幼女や家庭の暖かさに表現では同化できない林田が気の毒になるぐらい、幼女を慈しみ、一緒に遊んでいる父親の姿が見え、日常生活においては仲の良い父子であることをうかがわせる。暗さは生活を観念でひっくり返した虚構の世界である。
  青年よりパンジーと根の土を買う
  星はなくパン買つて妻現われる
  米洗う手の歳月を粗末にする
  産院のなまあたたかい廊下で滑る
  銀行が石となる夜の雨に濡れる

 このように幼女以外の作品をみると、慎ましやかな穏やかな家庭生活がうかがえるのである。一見平凡と思える「石」という語も、心情で語られた具象性を持っている。これは日常を具象として感じ取れる力がなくては捉えられないものであろう。
 つまり林田の表現の根底には常に日常の具体性がある。ところがこの具体性に林田は安住できず抵抗せずにいられない。抽象化思念化しようとする。ここまでは大方の表現者は誰でもそうだといえる。ところが林田はこの先が独特である。言葉の飛躍を極度に排した散文性と散文的韻律。無季俳句への極度のこだわり。自己模倣と非難されかねない同一の言葉の多用と似かよったイメージの作品群。これらの特徴は林田の定型観と季語観を抜きにしては考えられないほど限定的であり不自然である。私は林田の定型観や季語観を知らない。しかし作品を読めば推測できる。それぐらい徹底した実践をしているからだ。
 言葉は、発する「場」、もしくは書き留める「場」なくして発することも書き留めることも出来ない。場を形式と言い換えることが出来る。日常の話し言葉も話し言葉という形式であり場である。それは書き言葉である散文でも小説という形式、随筆という形式があって書けるのであり、これらに使用される言葉の現れ方はみな違う。話し言葉をそのまま小説で使おうとしても小説にならない。小説の言葉に加工した話し言葉にせざるを得ない。そういう意味で俳句形式の言葉が散文の言葉と違うのは場=形式が違うのだから当然である。しかも形式は言葉の感じ方や意味を微妙に変える。それはあたかも染色の際、同じ材料でも媒染剤の使い方で色合いが変化するようなものである。俳句の言葉は畸形であるという必要はない。畸形と感じるのは散文を標準とするからで、散文の言葉は日常の使い慣れた言葉に近いから自然な感じがするが、俳句の言葉は日常と離れているから不自然な感じがするだけなのである。ところが林田は俳句形式の言葉を極力散文に近づけようとした。俳句を書きつつ俳句の言葉を拒否したのである。俳句形式は散文の意味性からかけ離れている。切れはその装置であり、言葉の格闘技的な飛躍によって表現世界を獲得している。それを別な視点から見れば、読み手の感性に読み取りの大部分を任せた曖昧な表現であるということになる。この二面性を林田は嫌った。書かれていることを確実に読み取れる表現、いかなる読み手であろうとも読みに揺れが生じない表現を求めた。そうであれば飛躍のない意味の連続性を表現手段にしている散文的な書き方に徹するしかない。これは季語の排除にも通じる。
 季語は季題でもあり、季語と季題は一体化している。つまり季節の観念であり、季節感であり、季節であり、季語に分類されてしまったなんでもない言葉であったりする。筑紫磐井氏によれば季語という言葉は明治末年に荻原井泉水と大須賀乙字が使い始めて、新傾向俳句運動の広がりとともに一般化した言葉であるという。一方、季題はもともと王朝文化の美の観念と季節感が一体化し、連歌・連句・俳諧という変遷を経て定着した観念としての季節感、美意識である。約束であり自然とともにあるが自然そのものではない。ところが、季題が季語と言い換えられたことにより混乱が生じてしまった。言葉と自然現象の結びつきが強まり、季題という観念の美意識は軽視され、季節のものなら何でも季語になった。しかし季節感さえあればなんでも季語だと、季語として登録するときには軽視した季題という観念、美意識も季語に加わったままだから季題の作用は季語にも作用する。観念の季節と自然の季節がごちゃ混ぜになってしまった。例えばトマトが季題であれば、トマトの季節は観念としての自然、美意識であり、夏と限定してもなんら問題はない。そういう美意識を私たちは共有しましょうと約束しただけのことである。しかし自然であるならば、年中出回っているのにどうして夏なのかということになる。雪月花という古くからの季語は季題の作用が強く働き、トマトのような新しい季語は自然の作用が強く働く。南国と北国の季節のずれも季題であれば問題にならないが、季語という自然でもあるために問題になる。さらには歳時記によって類別される季節が違うものまである。季語は俳句の要だと言われながらでたらめに近い混乱状態である。正岡子規以前は季題であるため混乱はおきようがない。「そういう約束になっている」でよいのだ。しかし写生ということになれば自然現象が問題になってくるのは避けられず、季題の変質、季語という言い換えと混乱はいずれ生じるものであった。とは言え俳人は俳句観や表現の内容に応じて意識しないまま使い分けているから実作の場での混乱はない。季語があれば俳句であるかのように活用されている。
 林田も季語が単なる自然現象であり、美意識と言う観念を持っていない無化された言葉であったならば問題にしなかったであろう。しかし季語をどのように無化しようと試みても無化できるものでない。美意識が強いか自然が強いかの差はあれ、作者の意図を超えた美を作り出す。俳句では季語は表現以前にすでに季語なのである。書き終えた俳句の内容によって季語になったり普通の言葉になったりするのでない。季語は季語であり、その美を表現者は利用しているのであり、その美は表現以前に美として決定されているという観点から見れば、表現者は季語に支配されていると言ってもよい。これもまた俳句の特徴であり、活用によっては表現を大きくする力なのだが、勝手に表現を支配してしまうという困った言葉でもある。特に林田のように言葉を自己の管理下におき、勝手な働きを許さない表現者にとって、表現以前に美を持っている季語は許せない言葉である。林田が無季俳句しか書かないと決意したときの無季俳句は、季語からの開放という、表現の自由、表現領域の拡大を目指したのではない。表現者の意図を忠実に実現するための無季俳句なのである。もともと季語の使用が少ない林田も療養所時代までは季語をそれなりに使っているが、療養所を退所してまもなく、ほとんど季語を使わなくなった。もうこのころには考慮していたのだろう。
 『風蝕』の最後の抄「風葬」で文語表記から口語表記に変わっている。表記方法の変更というのは時には表現思想の変更になるのだが、林田の場合はそれまでの表現に合わせた、内容にふさわしい表記に移ったに過ぎないような印象である。
  鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
 は林田の名を不動のものにしたが、療養所から退所してまもなくの作品であるから『風蝕』の前半に位置し、文語表記時代に書かれている。ここで表現されている死には観念性がない。情緒的であり通俗的だとも言える。それは「鉛筆」という語がいささかも抽象化されておらず、鉛筆=消しやすいというイメージの常識と飛躍のない通俗的連想を利用して提示された「遺書」であり、さらに「忘れ易からむ」と鉛筆に絡めた蛇足に等しい説明を加えて書かれているという、徹底した説明文に仕上げ、ここまで書いたならわからない読み手はいないはずだというぐらい具体化することにより、逆に遺書の存在が鮮明になるという思いがけない表現を実現した。しかも鉛筆と遺書という組み合わせは意外でありつつも、読み終えてみれば抵抗なく情にしみこみ違和感がない。ここで使われた言葉や組み合わせは決して滑らかなものでないし内容もそうなのだが異物を感じさせない。これは情そのものが表現動機であり、観念が存在しないからと思われる。林田は戦争でそして療養所で死というものになじみ、死は生活の一部で情に溶け込んでいたということを示している。句集では
  顔洗ふときにべとつく雨の音
  月になまめき自殺可能のレール走る
  鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
  鏡裡の顔以上たり得ず木の葉髪
  いづれは死の枕妻寐し月明に

 と作品は並んでいる。いずれも情が濃厚にあるが個人の情に終始し、人とのつながりの意識がない。一方、
  舌いちまいを大切に群集のひとり
 は句集の後半「風葬」の抄で書かれている。ここには群集の中にあっての孤独と同時に、群集とつながっている自分を熱く意識している林田がいる。情は社会意識とともにあり、情の質が変化した。「鉛筆の遺書」のような甘さはなく、輪郭が明確な映像がある。「舌いちまい」の暖かさに命は燃え、死の影はない。
  夜の重みで失速する河押される胸
  ラーメン舌に熱し僕がこんなところに
  舌いちまいを大切に群集のひとり
  ペンキの赤が落ちない襤褸を風呂で着る
  競艇のない日の湖で何が釣れる

 「風葬」の抄はこの五句で始まっている。「鉛筆の遺書」を書いたころは「死」は生活の中にあり、それゆえに死は情に溶け込んでいたが、情であったがゆえに観念として林田を支配していない。療養所を退所したが、生きるため生活の再建のための就職活動の困難さは、遠のいた情としての死にこだわる余裕を与えなかったということもある。それに吹田操車場二十一句を書く意欲があったように、社会という外部状況に反応する姿勢があり、内面に閉じこもる意思もなかった。口語表記に変わるときも死の観念は姿を現していない。このころの林田には社会に向って積極的に発言する意欲があった。孤独だが社会意識が強い。無季俳句の前途になんら問題はなかった。
 ところが長女の誕生で明瞭になるのだが、林田の社会意識は家庭を断ち切ったところにある。家庭は社会と別の宇宙を作っている。したがって家庭の外では「しゅう」という意識を持つのだが、家庭に入ったとたんに「孤」になる。孤は純粋を目指し観念にとらわれて身動きできなくなる。
 皮肉である。生活が安定し長女が誕生し家庭の幸せにつつまれたときに「死」は林田に取り付いた。さらに皮肉なことには、林田が手に入れた表現手法は「死」に取り付かれた林田をますます「死」に縛り付ける力として働いた。
  ねむる子の手に暗涙の鈴冷える

 昭和三十九年秋に長女を得て、そのちいさな存在が、私の俳句に新しいテエマをもたらした。ただ、ずっと以前にひとり亡くしているだけに、生命の脆さ・はかなさが意識されてならなかった。そのために、世のめでたさとは別のところで、嬰児から幼児への生育を見ることが多く、愛すべき存在というよりは、怖いもの・危ういものを培うような切なさにしばしば捉えられた。

 全集版に添えられた「自作ノート」のこの一文に疑問はない。生命を手にしたとたんに死も手にしてしまった。しかも意識を忠実に捉えることを目的にした表現は死を拒否できない。幼女=生命は死の観念を誘発する。幼女と死は一つのものになってしまった。
  傘濡れて立つ一隅に日々親しむ
  河に落暉を見て吊皮の触れあう他人
  熔接の火を星空の暮しへ足す
  鉄骨を組み全天の錆あつめる
  石油罐音たて苦さつのる軍歌

 幼女を捉えなければ死を捉えずに表現できた。しかし『風蝕』では孤独であっても集に連帯する生命が燃えていたが、『幻燈』では孤独は孤独に終始し、集は無関係な「他人」になっている。こうなると悪循環だ。
 表現は心を開放する。名句が出来ればうれしい。実力以上の作品がまぐれで書けることもあり、そこには定型の力が働いている。季語信奉者なら思いがけない季語の働きもある。ところが林田は「まぐれ」とか「思いがけない」という作品の書き方を拒否している。林田の表現は設計図の読み取り作業のようなものだ。その設計図に定型の「切れ」や、俳句の宿命としての季語が紛れ込んでいれば、表現者の混乱、番狂わせが生じ、思いがけない事態になる可能性があり、そこから転機が生まれるということもありうるが、そんな余地はどこにもない。崖の一本道を歩いているようなもので、林田に取り付いた観念は林田を支配してしまう。崖の道に枝道はない。林田自身が閉ざしている。表現者としての矜持は表現の余地を狭め、表現を観念に導いた。表現は心を開放するものとならず観念を提示するものになってしまった。表現の喜びは林田から消え去り、苦さだけが残った。それでも書き続ける。何という意志の強さだろう。
 『幻燈』以後の句集はない。全集版に『幻燈』以後(昭和48―51年)として少々残されているだけだ。そのためやむを得ず『幻燈』以後の作品を知るため手持ちの海程のバックナンバーから作品を拾うことにした。作品をパソコンに入力しつつ私のこのような行為を林田は喜ばないだろうと思った。頻出する似かよった言葉、類想句のおびただしさは、雑誌への作品発表は試作品を試す場であり、あれこれ試作しつつ完成品になるべき作品を発見しようとしているのだろうと思わせるものであった。しかし自己模倣と批判されかねない作品の頻出は、表現手段の厳格さとテーマの狭さ故に、避けられるはずがない。二句集でも目立つ特徴でもある。さらに作業を進めているうちに、林田は荒れ狂うたましいを鎮めるために念仏を唱え御詠歌を歌っているような気がしてきた。ままならぬ表現ではなく、ままならぬ自身の心に苦しんでいるように思えた。こういった作品を、バックナンバーという雑然とした状態で読まれることを忌避したい気持ち、句集という精選した場で読んでもらいたいという気持つを持つのではないか、という思いが伝わってくるのだった。あえて最後の作品をあげてみる。
     一九九七年 三二九号
  巡礼の鈴の幾夜か夢寐に聞く
  向日葵の日を失えば見殺しに
  空缶を並べて薄暗い卒塔婆
  空缶のいくつ冥土へ連らなる色

           三三〇号
  深爪を切っていよいよ夜に向う
  渚まで数歩数十人の翳
  何処をどう歩いて海のこがらしか
  杖をひく軟骨いずれ寂寞と

           三三一号
  日箭幾条のさびしさか午前午後
  木の葉草の葉さらに残照他人ごと
  枯葉枯枝みな兵爨の彼の日より
  取りとめもない雨終の小糠雨

 三三一号で林田の作品は終えている。この最期の三号分十二句は偶然のことだろうが林田の作品テーマが全部そろったと思えるようなものになった。しかしかつてのような苦しみの様子は薄れ、言葉の粘り気が消え、さらさらとした穏やかな言葉になっている。茫漠とした空間に放下した影がゆったり歩んでいるような静けさである。晩年には草花も少し姿を見せるようになったが、それでも季語臭さを消すように、草花の情にもたれないように注意している。結局林田は意志を貫いた。表現の静けさは年齢によるものなのだろうか、それとも死をまもなく迎える安堵なのだろうか。「死」もさらさらになった。
     一九九七年 三三八号
  午後になる炊き出しの湯気ひとの息
  瓦礫また瓦礫テレビのそのつづき
  薄明の身を苛んで余震の揺れ
  廃屋のやがて瓦礫の夜の弱震
  洗顔の水何ごともなく消える

  巡礼の海山の恩そらんじる
 この六句は記念号のため、発表済み作品からの自選作品で、最後の自選である。阪神淡路大震災の作品は吹田操車場二十一句を思わせるような外部に目を向けた息吹が伝わってくる。そして感傷的な言い方であるが、自選最後の作品は林田自身が日常を巡礼していたようなものであったと自覚していたかのように読めるのである。

〈資料〉
句集『風蝕』昭和三六年六月、一七音詩の会刊(現代一〇〇名句集8・東京四季出版の再録版を使用)
句集『幻燈』昭和五十年八月(牧羊社刊)
戦後俳句作家シリーズ18林田紀音夫句集(海程戦後俳句の会一九七〇年刊)
 *文中でシリーズ版と表記
現代俳句全集6 林田紀音夫集(立風書房・一九七八年刊)
 *文中で全集版と表記
海程八九号〜三三一号・三三八号掲載の林田紀音夫作品。(但し、百七〇号及び二七六号〜三〇四号は欠本のため未詳)
現代俳句の展開43・現代俳句と読み 現代俳句協会青年部
 *筑紫磐井氏の発言(現代俳句協会 一九九九年刊)

〈「しろ」6号より/二〇〇五年十二月十五日発行〉

《連載にあたって》編集部ーーーーーー
 谷佳紀氏が急逝した。ただ呆然とするのみである。谷氏は「海程」初期からの同人であったが、俳句の可能性に挑み続けた作品群とともに、歯切れのいい率直な批評と鑑賞で俳句仲間を魅了してきただけに、返す返すも残念でならない。
 谷氏は二○○四年から二○一三年にかけて個人俳句誌『しろ』を19冊刊行した。「自分の問題は自分で解決するしかない」(1号のあとがき)との信念からで、自身の俳句だけではなく、多くの優れた俳句作家論を執筆している。谷氏の追悼と多くの方々に読んでいただきたいとの思いから、「海程の作家たち」と題して、何人かの作家論をシリーズで紹介することにした。
 無季俳句の実践で著名な林田紀音夫(一九二四〜一九九八)論は、「しろ」6号(二○○五年)に発表。なお、翌二○○六年に『林田紀音夫全句集』(富士見書房)が発刊されたことを付記しておく。次号は、阿部完市を予定。
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俳人金子はるを訪ねて(上)―秩父山峡に生きる兜太の母―  石橋いろり

『海原』No.47(2023/4/1発行)誌面より◆特別寄稿

俳人金子はるを訪ねて(上)
―秩父山峡に生きる兜太の母―  石橋いろり

 皆さんはご存知だろうか。金子兜太師の御母堂金子はるさんも俳句を詠まれていたことを(以後、すべて敬称略)。
  夏の山国母いて我を与太という 兜太『皆之』
 与太と呼びながらも、母の大らかな愛が滲み出ている掲句を愛吟する人は多い。この句のせいか、はるが俳句をよすがにしていたことを知る人は少ないかもしれない。
 *「夏の山国」の句の表記は、句集ではなく句碑や絵葉書などに書かれたものを採用した。

▲はるさんの百歳を寿ぐ皆野町から届いた賀状(皆野町の壺春堂にて)

◆◇はるの生い立ち

 はるは、明治三十四年三月、埼玉県小川町の濱田篤蔵・さくの間に生まれた。篤蔵は小鹿野町出身。繭で財をなし秩父鉄道(上武鉄道)を創設した柿原万蔵の経営する柿原商店に職を得た。その後、小川町の支店長に抜擢され、小川絹の買継商で財をなしたそうだ。篤蔵は比較的若く逝去し、六歳上の兄篤雄が後を継いだ。
 一方、母のさくは小川町の穀物商中村孫七の四人の子の一人で、兄篤雄は、東京の中学を卒業後、銀行員を経て、柿原商店の仕事の傍ら小川町の議員にトップ当選し小川町の政財界で活躍。はるは、地元の尋常小学校卒業後、多分寄宿舎を持つ熊谷の女学校に学んだらしいが、定かではない。嫁ぐまでは、家で花嫁修業し学問も母さくに叩き込まれたという。高い教育水準の環境にあったようだ。
 兄篤雄が、宇都宮連隊で伊昔紅と意気投合。こうして、はると伊昔紅の縁が結ばれ、はる十六歳の時、山を越えて秩父に嫁いできた。はるの婚儀で余った資金を社寺に寄付したことが記録に残っているほど、当時のはるの実家は富裕な家で、女中さんを一人連れての嫁入りだったそうだ。

▲金子伊昔紅・はる夫妻(美の山公園の秩父音頭歌碑の前で)〈一目千本万本咲いてかすむ美の山花の山〉(金子伊昔紅句集『秩父音頭』(昭和49年)所収の写真)

◇◆秩父に嫁いで――壺春堂の句会

 兜太の父・伊昔紅の医院「壺春堂」は、今も皆野町に当時の俤を残しており、皆野町初の国の文化財登録がされている。主屋は幕末から明治にかけて建てられ、屋根裏で養蚕をしていた大きな農家。
 皆野を流れる荒川に親鼻橋が架けられたのが、明治三十五年。その折に壺春堂は宿として造りかえられた。それより前には、二艘の和舟が親鼻の渡しとして、往来の手段となっていた。現在の橋より少し下流にあったそうだ。親鼻橋開通により往来が増えることを見据えて、宿として造りかえたという。壺春堂の現在の入り口から入った庭の部分に簡単な厨と、母屋との渡しが架けられ、二階に料理が運ばれたそうだ。
 昭和元年には、伊昔紅によって住居兼医院に改築された。現在の土間手前半分に待合室と薬局、奥を台所とし、裏口を設けていた。六部屋のうち待合室隣を診察室とし、奥座敷南側を客間(獅子の間)として句会場として利用し、他の四部屋が生活空間だった。祖父母、三人の小姑と三人の連れ子の大家族。熾烈な因習の中、小姑や姑にいじめられた。伊昔紅の学資を稼ぐために働きに出てくれていた小姑だっただけに、伊昔紅は庇うこともできなかったようだ。はるはきつい状況で実家も没落し、孤立無援でひたすら耐え抜いた。
  塀白く俯向き堪える夜の母 兜太『金子兜太句集』
 この「塀白く」の白の残像が、この句の深い闇を一層際立たせており、「塀」の持つ遮蔽的かつ連続性が果てなき苦境を暗示している。兜太は母の姿を真近で見続け、母への哀切の情が募り封建的家族制度に異論を抱くようになったという。大学での専攻を経済学としたのも、秩父の暮らしを救いたい、とした兜太の反骨の精神が礎にあったのかもしれない。
 秩父の俳壇を牽引してきた伊昔紅の元には、養蚕や畑仕事をしている知的好奇心に飢えた若衆が集まってきていた。句会の様子は兜太自身の述懐にある。

 天井の煤けた我が家の広間に次々に男たちが集まってきました。その内の一人が各人が選んだ句を読み上げます。楽しそうな大声には時に冗談もまじり、そのつど部屋中に笑いがまき起こります。こんな雰囲気さえそれまでの句会ではありえなかった事でした。 『二度生きる』

 そのうちに酒が入ると、全然違うことで取っ組み合いになって、障子は破るわ、襖は破るわ、毎回めちゃくちゃにして帰るんで…… 金子兜太・半藤一利『今、日本人に知ってもらいたいこと』

 句会の終わりに必ず酒と饂飩を出した。粉を捏ねて、二十人近い人の饂飩を出すのは、重労働だっただろう。
  麺棒抱えて嫁ぎし母の長寿かな 兜太『百年』
 この『二度生きる』の引用には、刮目すべき記述が続く。

 小学生だった私は横にいてそれを聞いています。他にも、母や出戻りの叔母たち、近所のおばさんたちまでが半分暇つぶしに集まってきて、並んで聞いていました。

 金子家にいて、はるは、兜太がそうであったように習わぬ経の如く俳句に親しんでいたことがわかる。兜太には、人に非ずと書く俳人の道に進むことを戒め、医院を継いでほしいと願ったのだ。しかし、はるの中で俳句への興味の種は育くまれていたのだ。正確には四十四年春から、はるは俳句を始めていた。「俳句雑記」と題した手帳が三冊あり、そこに俳句を始める覚悟と取れる言葉があった。

 昭和四十四年春より少しづつ俳句の勉強に入る。
 秋主人病気全快
 千鹿谷鋼泉から本格的にはじめる

◆◇新聞に掲載されたはるの句

 昭和三十九年、秩父新聞の一月二十五日号に、宝登山神社の神域に伊昔紅の句碑建立の記事が掲載された。
  たらちねの母がこらふる児の種痘 伊昔紅
 五月二十四日の除幕式には、石塚友二ら俳句界の有名人も含め一三〇人が参加したと秩父新聞六月五日号にあった。
 はるの句は伊昔紅句碑五周年句会にはなかったのだが、六周年の記念句会に初めてはるの句が掲載されていた。
 『秩父新聞四十五年六月十五日号』
  また一つ京の土産やはもの味 金子はる

 伊昔紅翁の講評があり、そのあと句碑建立を撮影した八ミリによってしのび、昨年大病を病んだとは思えぬほど元気な翁の健康を祝した。翁八十一歳。
 『埼玉民報四十五年六月二十日号』
  長旅によごれし足袋や白あやめ 金子はる

 七彩会の会員が呼びかけ、特に今年は愛妻はる夫人や、毎月先生宅で開いている”馬酔木”の会員等も参加……。
 この両句、”はもの味”と”長旅に”が、はるの誌上初出の句となった。翌年、秩父新聞に掲載されたのが、
  温泉土産の粽を夫と朝餉にす はる(6月25日号)
 また、伊昔紅先生叙勲記念句会でのはるの句は、
  柿投げて二階の患者手にうける はる(11月15日号)
 はるの手帳には叙勲の日のことが詳細に記されていた。

 昭和四十六年十一月十二日国立劇場にて伝達式あり文部省より。車で宮場へ。拝謁。主人勲五等瑞宝章受章。豊明殿(230坪)
  豊明殿共にあやかる菊日和 はる
  賜謁の朝しまる鼻緒やささ鳴ける 〃
  山茶花や並ぶ受賞者寫絵に 〃

 この頃から、俳句は喧嘩で終わる苦々しいものから日常を詠う楽しいものとして、また、記憶に刻みたいものを形として留める手段として、はるの中で芽生えていったようだ。

◇◆『鶴』への投句の経緯

 『鶴』に投句したのは何故なのか。伊昔紅は『馬酔木』、兜太・千侍は『寒雷』。昭和三十七年には兜太が『海程』を創刊していたのだが……。多分、家族と同じ土俵に上りたくなかったのではないだろうか。『馬酔木』ほど耽美的ではなく、『寒雷』ほど人間探求的でない。両方の要素を合わせ持ち日々の生活を題材にする『鶴』がはるには合っていたのかもしれない。伊昔紅が友人水原秋櫻子を通して、石田波郷(元鶴主宰)、石塚友二(当時主宰)と知遇を得ていた。壺春堂にも出入りがあり、それを裏付けるように、壺春堂の襖には三人の直筆の短冊が今も並べて貼られている。

◆◇『鶴』主宰の石塚友二との関係性

  思いきやまかりて一夜雛の間 友二『石塚友二句集』
 これは、壺春堂の襖の友二の短冊で、昭和十八年春、浅賀爽吉の出征送別会に壺春堂に泊まった時の挨拶句。浅賀爽吉とは、伊昔紅の門下の七人の侍の一人であり、「鶴」秩父支部の会員でもある(七人の侍とは秩父七彩会の母体で、浅賀爽吉・潮夜荒・江原草顆・黒沢宗三郎・村田柿公・渡辺浮美竹・紅梓の事。余談になるが、皆野駅前の鰻の吉見屋の先代が潮夜荒で、伊昔紅の信頼篤く、多くの貴重な色紙などが二階の広間に展示してある)。
 この時、秩父は月後れの雛祭りだった。この時のことを友二は『秩父ばやし』の跋文で「調度品が志那色一色の座敷に、床しくも立派な雛壇が飾られ、優雅な古代雛達と共に一夜を明かした」と述懐していた。
 また、『石塚友二句集』(「鶴」七百号記念刊行)には、
  壺春堂先生も座に菊膾 友二
が掲載されていた。友二との関係性は、伊昔紅の句集『秩父ばやし』の跋文「壺春堂翁と私」で友二が縷縷述べており、その後記で伊昔紅は、

 「この句集を編むに当って、秩父人と最も友好接触の深い石塚友二氏が、刊行の一切を引き受けて下さったこと、更に暢穆達意の跋文を以て、巻末に千鈞の重みを加え得たことを深く感謝いたします」

と謝辞を述べていた。
 また、それから九年後に上梓された伊昔紅の第二句集『秩父音頭』の序文「縁に因みて」も友二が書いており、その間も交誼があったことがわかる。その序文で、友二は、医師伊昔紅・金子元春は山本周五郎の赤ひげ先生を彷彿すると描写していた。
 こうして、夫の絶対的信頼を得ている友二の人となりをはるも十分知った上で友二を師に選んだのだ。

◇◆『鶴』への投句と特選句

 はるは、俳句誌『鶴』に四十六年三月から十五年間殆ど欠稿なく投句した。掲載句以外に毎月五句ずつ投句したとすれば、九百句程作句していたことになる。投句はすべて、はるのノートに克明に記録されており、掲載句にはきちんと入選の「入」が付記されていた。

 親父が死んだ後、母親は投句中心に始めたんだけど、巻頭句つまり優秀作だな、これにはなったことがなかった。 『日本人に知ってもらいたいこと』

 兜太のこの述懐はいささか事実と異なる。俳句を始めたのは、伊昔紅没年の五十二年ではなく四十四年春から。四十六年三月の『鶴』三一号が初掲載なので、投句は四十五年十二月には済ませていたはずだ。
 『鶴』の巻頭句「特選句」に選ばれている。
  白木蓮や牛小舎飼屋抽ん出てはる(47年7月号)
 主宰の友二の特選句の句評も寄せられていた。

 牛小舎は兎も角、飼屋といへば、多く二階建ての高い家屋のやうである。その、牛小舎を控えた飼い屋を抽ん出た木蓮だから、大木ぶりも自ら想像出来ようといふものである。また従ってその花の豊かさをも。そして、中天に枝を拡げてその豊かに咲き誇る木蓮の花の、紫でなく白であることが、この句を頓にも匂ひ高いものとしてゐる。牛小舎飼屋の前景も効果的だ。(『鶴』47年7月号)

◆◇伊昔紅とはるの関係

 夫は一回り上の丑年だった。
  豆を撒く共に丑年老夫婦 はる(48年5月号)
 医師で、秩父音頭や秩父文壇を牽引していたカリスマ的な伊昔紅に尊敬の念を抱いていたのだろう。小姑達が出ていき、子育ても終わり、三十七年、兜太は『海程』を創刊。翌年千侍が金子医院を継ぎ病院を開業した。
 還暦を迎える頃になると、生活は落ち着いてきたようだ。
  元日の生みたて玉子夫の掌に はる(49年9月号)
  朝日煙る手中の蚕妻に示す 兜太『少年』

 兜太が妻皆子に大事そうに蚕を見せたように、はるは、元日に生みたて玉子を夫の掌に渡している。玉子のぬくもりごと手渡したのだろう。一年で最も寒い季節の寒中の玉子は特
に滋養豊かという。正確には小寒から立春までを寒中と言う
ので、「寒卵」を季語に立てなかったのかもしれない。
  元朝に生れ来て夫や米寿たり はる(54年4月号)
 掲句から、元日が伊昔紅の誕生日だったことがわかる。そう考えると、
  蕗の薹掌にのせ妻の誕生日 伊昔紅『秩父音頭』
との相聞歌ではと紐解きたくなる。
 俳句作りにおいては、夫を師とし作品のチェックを受けたこともあるようで、それは手帳にもノートにも、その痕跡があり、夫の評価、◎、〇、△などが付記されていた。
〈次号の(下)につづく〉

*本稿は「海程多摩第二十一集」(2022年)に掲載された同一タイトル「俳人金子はるを訪ねて」を入稿した、2022年7月以降に入手した資料を参照しつつ、加筆・修正したものです。

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す〜神戸とロシアを結ぶ点と線〜齊藤しじみ

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第5回

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
〜神戸とロシアを結ぶ点と線〜 齊藤しじみ

 (1)神戸と西東三鬼

 背後に六甲山、前方に大阪湾に挟まれた細長い神戸は南北に坂が多い街である。俳人の西東三鬼(一九〇〇〜六二)が東京からこの街に移り住んだのは、昭和一七年一二月のこと。ミッドウェー海戦での敗北、ガダルカナル島からの全面撤退という太平洋戦争の戦局の大きな転機の年であった。神戸への転居は当時の社会情勢とは切っても切れない事情があった。いわゆる昭和一五年の「京大俳句」事件(注①)で特高警察に検挙された三鬼だが、その後起訴猶予となり、その保護観察期間が切れた時期が神戸行きと重なるのである。
 しかし、三鬼自身の言葉を借りれば「単身家を出て、神戸に流れていった」という表現どおり、東京の自宅には臨月の妻と幼い子どもを残し、横浜の歓楽街で知り合った女性を連れてのいわば四三歳の中年男の身勝手な家出であった。
 神戸という街は「頭蓋骨の要らない街」といってもいい位、物を考えないでいられる町と「自伝」の中で評した三鬼。神戸での最初の住まいは、現在の神戸市中心部のトーア・ロー
ド沿いにあったホテルだったが、今は中華会館やレストラン、クリニックなどが立ち並んでいるあたりである(写真1)。

▲写真1 三鬼が身を寄せたホテル跡

 芝居のように朱色に塗られたそのホテルがあった……同宿の人々も根が生えたようにそのホテルに居据わっていた。彼、あるいは彼女達の国籍は、日本人が十二人、白系ロシア人女一人、トルコタタール夫婦一組。エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった(注②)

 思い出多きホテル暮らしも半年余りでピリオドを打ち、三鬼は翌年昭和一八年の夏には空襲への不安を理由に六甲山の山麓に近い、ホテルから一キロあまり離れた家に引っ越した。三鬼によれば、転居先の家は明治初年に建てられた廃屋同然の異人館で、外装のペンキはボロボロ、床はプカプカしていたという。昭和二三年二月までの約四年半住んだのだが、多くの俳人が足を運び、後に仲間から「三鬼館」と呼ばれるようになった。
 俳人の鈴木六林男(一九一九〜二〇〇四)は当時の「三鬼館」に終戦まもなく訪れたことがあり、その界隈の様子について次のように表現している。

 国鉄の神戸元町駅から、三鬼の住んでいた山本通り四丁目への坂道の両側は、すっかり戦災にやられ、瓦礫が散乱していた。坂から神戸の海は丸見えであった……(略)…
…神戸の街は見事に焼けていたが、三鬼館のあるあたりから上は、まだかなり戦前のおもかげを残していた
(注③)

  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 この句は「三鬼館」で目にした一場面を題材に戦後まもなく発表した句で、三鬼の代表句の一つになる。
 文芸評論家の山本健吉は「巧まざるユーモアがある。ワシコフという舌を噛みそうな固有名詞も効果的だ」と評している。(注④)
 ワシコフが三鬼館の隣人で、実在の人物であったことを三鬼はその著作で明らかにしている。

 ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の家の二階から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六・七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本人の細君が肺病で死んでからは独り暮しをしてゐる(注⑤)

 「三鬼館」の場所を戦後の住宅地図で推定することはそれほど難しいことではなかった。
 三鬼は別の著作で隣人が二人いたとしている。

 水洗便所の水槽の鉄蓋を開け、隣家の露人ワシコフ氏、仏人ブルム氏の分も流れ込んだ濁水を汲み出して大切に肥料にした(注②)

 昭和三二年の神戸市生田区(現在は中央区)の地図に住宅街の西端に「F・BLUM」とブルム氏の名前を見つけることができたからだ。その右隣が「KA・SONS」、そのまた右隣は「浅野」という名前が確認できる。
 また、平成三年発行の昭和俳句文学アルバム『西東三鬼の世界』(梅里書房)には作成時期は不明だが、「三鬼館」の正面からの写生図が掲載され、真ん中の「三鬼館」の左隣が「ブルム邸」、右隣が「浅野」と記されている。
 となると結論は一つ、「KA・SONS」の場所にあった家が「三鬼館」と推測されるが、隣家の「ワシコフ氏」の家らしき跡が見当たらないのは「三鬼館」の裏手にあたるのではないだろうか。
 ちなみにブルム氏の住まいだった洋館は、後に岐阜県の観光施設「明治村」に移築され、そこにはブルム氏はフランス人の貿易商と紹介されている。
 昨年九月に現地に足を運んだ私は「浅野」という表札のある戸建ての家を見つけたが、その隣は四階建てのマンション、その隣が九階建の真新しい賃貸マンションの出入り口に通じる幅一〇メートルほどの私道、そして「ブルム邸」の跡地には四階建ての雑居ビルがあった。
 「浅野」の家人に尋ねると、隣の四階建てのマンションはもともと親類が所有していたとのことである。推測すれば、マンションの私道にあたる場所が「三鬼館」、ワシコフ氏の家は、私道奥の賃貸マンションにそれぞれあたるのではないだろうか(写真2)。

▲写真2 三鬼が住んでいた洋館の跡地

 「露人ワシコフ……」の句ができた経緯について、三鬼は具体的に綴っているので引用する。

 私の隣人は六十歳位の、白系ロシア人で、彼の若い妻は日本人で肺病であった。(略)
 彼女がいつのまに死んだのか、私は知らなかった。秋の半ばころから、女の死んだ家では、夜になると、蓄音機の急調子のロシア音楽が鳴り出した。こちらの二階から見下すと、白髪の露人は、立ち上がったセパードを抱いて、狂ったように踊っていた。
 ある朝、隣人は長いサオを持ち出し異様な叫びと共に手当たりにザクロをたたき落していた。その上にはルビーのような実が散り乱れ、ほえながら走り回る犬がそれを踏み荒らした
(注⑤)。

 (2)神戸のロシア人

 三鬼がワシコフ氏を「白系ロシア人」と表現したのは白人のロシア人という意味ではない。戦前のロシア情勢を色濃く反映した当時の一般的な語句であった。
 一九一七年(大正六年)のロシア革命による帝政ロシア崩壊の影響で、革命政権による迫害などを恐れて約二〇〇万人のロシア人が難民として欧米を中心に海外に亡命したという。その亡命先の一つとして日本を選んだロシア人は正確な数は不明だが、一時的には数千人規模だったといわれている。亡命ロシア人は社会主義としての赤いソビエト政権に対立する存在として「白系ロシア人」と呼ばれた。
 亡命者の多くは神戸や横浜の港町に定住し、特に大正一二年の関東大震災の後は神戸へ移り住む人が急増したという。
 「神戸市統計書」などによれば、神戸市内在住のロシア人の数は「労農ロシア」として括られている。そのうち白系ロシア人については「( )内ハ白系ロシア人の無国籍者ナリ」という注釈が付いて、上段の「ソ連人」とは区分けされて下段に(人数)が表示されている。データの存在しない年も多いが、次のような人数の推移だった。
  昭和八年 三一(二二五)
  昭和九年 四七(三八九)
  昭和一〇年 三八(三八五)
  昭和一三年 四〇一
  昭和一四年 三一七人
  (※昭和一三年と一四年のデータはソ連人と白系ロシア人の合計と思われる)
 おそらくは神戸在住の約三〇〇人の亡命ロシア人の一人だったワシコフ氏は何の職業に就き、どのような人物だったのか。三鬼の著作からはこれ以上知ることができない。
 「神戸市史」によれば、昭和五年の在神戸ロシア人の職業のうち、最も多かったのが行商人の七八人で半数以上を占め、次に商社員の二五人、無職の一〇人、音楽家の七人、貿易商の五人、教師の四人となっている。
 青山学院大学のポダルコ・ピョートル教授は、欧米に亡命したロシア人に比べると、日本への亡命者は財産、技能、知識などの水準は高いものではなく、貧しい教育の者が多かったと分析している(注⑥)。そうであればワシコフ氏は数少ない成功者の一人だったのだろう。
 というのも当時、欧米人が多く住み、領事館も集中していた山手の住宅街の洋館に住み、大型犬を飼い、日本人の妻を娶ったことを考えると比較的余裕のある生活を送っていたことが推測されるからだ。
 三鬼の妻のきく枝は昭和二二年の夏に幼子を連れて神戸の三鬼と同居生活を送り始めたが、その随筆「遠い日々」の中で隣家のワシコフ家について触れている(注⑤)。

 (三鬼に)叱られて泣き声を聞くとワシコフ家の女中さんが窓下に来て喚きました、「小さい子供を虐待してッ。そんな親(三鬼のこと)は年とってから碌な事ないよ、うちの旦那が養子に貰っていいというよ。」

 ここに登場する旦那とはワシコフ氏のことだが、戦後も家政婦を雇うほどの経済的な余裕があったことが伺える。

 (3)ワシコフ氏は何処に

 三鬼の妻の話によれば終戦後も神戸にいたことになるワシコフ氏であるが、その後の行方を知るすべはないのだろうか。
 昭和二三年の神戸市在住の白系ロシア人は一六三人とあり、戦前に比べると半減している(注⑦)。
 東海大学の中西雄二准教授は関係者の聞き取り調査を踏まえ、戦争中から戦後の混乱期にかけて海外へ再移住した白系ロシア人が多かったことを指摘する一方で、戦後に残った白系ロシア人は海外に身寄りのない高齢者が目立ち、その多くは日本国籍を取得したとしている(注⑧)。
 後者であれば終戦後も神戸で暮らしていたワシコフ氏は地元の墓地に埋葬されている可能性が高い。
 神戸には外国人墓地があり、正式には神戸市立外国人墓地と呼ばれる。ここにはロシア人の名前が明確に書かれた墓は一六〇基以上あり、ほとんどは亡命ロシア人や一九五〇年代までに来日した者だという。神戸発祥の洋菓子「モロゾフ」の創始者ともいえるモロゾフ氏も、ここに眠る亡命ロシア人の一人である。
 墓地の調査をかつて行った青山学院大学のポダルコ・ピョートル教授は、墓碑の名前が判読できた名簿をまとめている(注⑥)。
 その名簿番号の二〇番目にロシア語で「BacLKoB(30/3/1891-10/9/1958)」という名前があった。日本語で「ヴァシコフ」と記されている。他に似た名前はなく、この人物は墓碑に刻まれた生没年からすれば、三鬼と出会った時は五四歳だったことになる。三鬼はワシコフ氏のことを「年齢は五十六・七歳」と書いていることから、年齢的にはほぼ一致している。ワシコフ氏だとすると明治三三年生まれの三鬼より九歳年上で、三鬼が六一歳で死亡する四年前の昭和三三年に六七歳で亡くなっていたことになる。
 亡命ロシア人の多くは日本で文化や生活習慣だけでなく言葉の壁にぶつかり、日本で大変な苦労を強いられたという。
 ワシコフ氏はおそらく革命で混乱の母国に別れを告げて単身、日本の地を踏んだ時は二十代半ばの青年だったと考えられる。その人生はロシア革命だけでなく、太平洋戦争には日本在住のロシア人が官憲の監視下に置かれたことも踏まえれば、激動の二十世紀の世界史に翻弄された一人だったに違いない。その境涯に思いを馳せた時、石榴の実を打ち落したワシコフ氏の発したという叫びは、宿命へのやるせない思いからの慟哭ではなかっただろうか。
 石榴はペルシャ原産で、日本には平安時代に中国から伝わったとされ、その独特の深紅の色彩から必ずしも明るい印象を与える果樹ではなく、秋の季語としても歳時記で見る限りは、何か哀しさや不安を漂わせる句が目立つ。
 散文の世界でも広島原爆を題材にした井伏鱒二の名作『黒い雨』で、疎開先からたまたま帰省していた男の子が自宅の庭で柘榴の実一つ一つに「今度帰ってくるまで落ちるな」と声をかけていたときに爆風の直撃を受けて即死したという話が母親の口から語られる一節がある。
 また、川端康成の『掌の小説』に収録されている短編「ざくろ」では、出征する幼馴染が食べ残した石榴の実を口に含む少女の揺れる心について、「ざくろの酸味が歯にしみた。それが腹の底にしみるような悲しいよろこびをきみ子は感じた」と綴られている。いずれの作品でも「石榴」は哀愁を秘めた題材として異彩を放っている。
 ワシコフ氏の庭の石榴の木は、時期は不明だが、戦後「三鬼館」の新たな家主になった中国人が「風で揺れると板塀を擦る」とワシコフ氏に苦情を言って強引に切り倒したと伝えられている。

【引用文献】
注① 京大俳句事件:昭和一五年に新興俳句運動の中核を担った俳誌「京大俳句」の編集に関与した主要俳人一五名が治安維持法違反の容疑で検挙されたもの。(『現代俳句大事典』三省堂)
注② 『神戸・続神戸』(西東三鬼著・新潮社)
注③ 『俳句』(昭和五三年一一月号・角川書店)
注④ 『定本現代俳句』(山本健吉著・角川書店)
注⑤ 『西東三鬼読本』(第29巻第5号・角川書店)
注⑥ 『白系ロシア人とニッポン』(ポタルコ・ピョートル著・成文社)
注⑦ 『新修神戸市史歴史編Ⅳ』(神戸市)
注⑧ 「神戸における白系ロシア人社会の生成と衰退」(人文地理・第56巻第6号)
 このほか、『西東三鬼自伝・俳論』(沖積舎)、『西東三鬼』(著・沢木欣一、鈴木六林男・桜楓社)、『西東三鬼全句集』(角川ソフィア文庫)、『果物の文学誌』(塚谷裕一・朝日新聞社)、『文豪たちの美味しいことば』(山口謠司・海竜社)などを参考にさせていただいた。

詩人・ラヴロック博士 小松敦

『海原』No.41(2022/9/1発行)誌面より

〈ジュゴン通信〉

詩人・ラヴロック博士 小松敦

 兜太先生と同じ一九一九年生まれのジェームズ・ラヴロック博士が、今年の夏、百三歳の誕生日である七月二十六日に他界した。博士は「地球はひとつの生命体」という「ガイア理論」の提唱者であり、レーチェル・カーソンに『沈黙の春』執筆を促したことでも知られる英国の科学者だ。その博士の九十九歳で最期の著作『ノヴァセン』を読んだ。『ノヴァセン』は人新世以降の近未来予測エッセイともいうべき書物で、ここでは細かい中身には触れないが、九十九歳でなお大胆かつ思慮深い思索がはしゃぎ回る超刺激作だ。
 博士は先生同様に、徹底的に「アンチ人間中心主義」そして「本能」の人だ。〈ことばや文字が生まれる前、人類をはじめすべての動物は直観的/直感的に思考していた〉〈人類の文明がおかしくなったのは、直観を過小評価するようになってからだ〉〈人間はいまだに原始的動物であることを理解しなければならない〉。
 博士によると、ことばは静的問題を解決するにはぴったりだが、動的システムを線形的で論理的なことばで説明するのは難しい、ましてや〈生きている対象の動きについて、それを因果論で説明することはできない〉という。博士曰く〈ガイアを説明するのが難しいのは、それが自分の内側でほとんど無意識に抱いていた情報から直観的に生まれたコンセプトだからだ〉……おや?博士、実は詩人だな、と思った。兜太先生と似たようなところがあるとは思っていたが、直観的に生まれたコンセプトをいかにことばにするか、なんて詩や俳句をつくっているみたいじゃないか。
 しかし博士は、論文と計算式は書いたが詩や俳句は書かなかったようだ。あるいはもしかすると「ガイア理論」は壮大な「詩」なのかもしれない。ちなみに、博士の書いた計算式は〈システムの仕組みを説明するように見せて、実際は起きていることを描写しているにすぎなかった〉=〈名誉あるごまかし〉だと冗談ぽく言っている。
 これまで、兜太先生から「詩は肉体」だと聞き、俳句とは「生きもの感覚」と「ふたりごころ」でつくると学んできたが、もしかして逆かもしれない。つまり、俳句にしたい物事や気持ちは、だいたい「動的なシステム」で(芭蕉の不易流行しかり)、それをことばで描こうと思ったら、たぶん「詩」にするしかないのだ。それは確かに難しい。「計算式」のような俳句、〈実際は起きていることを描写しているにすぎなかった〉=〈名誉あるごまかし〉のような俳句ばかりつくっているような気もする。
 ラヴロック博士、ありがとう。

柳生正名著『兜太再見』書評◆「再見」と「再生」 小松敦

『海原』No.40(2022/7/1発行)誌面より

書評 柳生正名著『兜太再見』
「再見」と「再生」 小松敦

 〈「兜太をどう読んできたか」。本書に記していくのは、つきつめれば、このことについてのひとつの物語である。〉との書き出しで始まる兜太との「再見」の物語は、第十一章でとりあえず終えてはいるが、〈大海原の上の道のりとでもいうにふさわしい、遙かな旅〉と著者が述べるように、本当は終わりを知らない。これからも著者のみならず読者それぞれが兜太再見の旅を続けることになるだろう。『兜太再見』は「兜太をどう読んできたか」と言いながら、兜太を〈眺める〉のではなく現前に今の兜太を「再生」し、むしろ「兜太をどう読んでゆくか」と読者に〈呼びかける〉書物であった。
 のっけからぐいぐい引き込まれる旅物語であっという間に読み終えてしまったのだが、内容は「おおかみに螢が一つ付いていた」の句末の「た」および「漢語・兜太VS.やまとことば・虚子」をめぐる第八章までの論考と、それ以降に分かれる。第九章からは時枝誠記の「言語過程説」を中心に兜太と虚子の対立と「微細な」差異を考察している。
 あとがきで〈兜太という存在も「言葉」、それも日本語という枠組みの中で捉え直したいと考えた〉というように、全編にわたって〈兜太が世界に送り出した「言葉」のありよう〉から語られており、作家の生涯を説明するような本とは一線を画し、ある種フォーマリスティックな「金子兜太論」になっている。以下、特に印象的だった箇所について記しておきたい。
  ◇
 〈第二章生きもの感覚の「た」〉において、兜太「アニミズム」の本質として「無時間」性を挙げている点が私にとっては新鮮だった。「狼生く無時間を生きて咆哮兜太」の句からマーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』を経て、ハイデガー・サルトルの実存主義的人間中心主義を超越して兜太の言葉「私はどうも死ぬ気がしない」にたどり着く。〈眼前の今に集中する命は、今という瞬間の位相では死に捉われず、「不死の存在」たりうる。〜中略〜未来における自身の死の自覚から「実存」を照らすハイデガーらと一線を画し、今は今の生のみ、という「生きもの」のまなざしこそ、兜太のオオカミが生きる「無時間」の本質ではないか。今の瞬間を断固として生き抜く命の輝きが遠吠えとなってほとばしる―そのような眼でものを見る姿勢が兜太の「アニミズム」の本質なのだ。〉と喝破するくだりに感動した。                                            
 兜太「アニミズム」のポイントはアンチ「人間中心主義」だ。隣り合わせのキーワード「ふたりごころ」の「ふたり」が「やれうつな蠅が手をすり足をする」の一茶と蠅の関係でもあるように、人間が「主」、人間以外の対象を「客」とする主客二元論=「人間中心主義」から脱し、森羅万象の関係性の中の一部として人間や社会があるとの認識が兜太の「アニミズム」であることは承知していたが、兜太「アニミズム」が「無時間」に生きること、つまり、人間が〈「時間的存在」になる以前〉の記憶をもとに〈オオカミに学んで瞬間そのものを生きる〉境地であると知って大いにうなずいた。兜太は他人に対しては「生きもの感覚」とか「アニミズム」と説明しているが、実は兜太自身が「無時間」に今この瞬間を生きることのできる「生きもの」だったのだ。そういう自分と同じような「生きもの」を「存在者」と言っているのだ。
 「生きもの」兜太は今この瞬間をどのように捉えてどのように表現するのか。その方法の一つが「おおかみに螢が一つ付いていた」に代表される切れ字としての「た」であった。確定の過去形「た」は、取り返しのつかない「事実」性を作り出し〈事実より強い効験を持つ。読者を虚構による現実世界へ引き入れてしまう〉技術であり(いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』)、明治期の言文一致運動の中で生まれたはずなのだが、俳句では一茶が「我やうにどさりと寝たよ菊の花」として先駆的に活用し、また兜太はこれをしっかりアニミズムの句として見出している(『流れゆくものの俳諧』)。
 著者は切れ字の「た」をめぐり、一茶から兜太までの遍歴を概観し、〈晩年の兜太が一茶や山頭火を自身のうちに取り込むことで血肉化した「定住漂泊」〉の〈極限の姿を示しているのが〉兜太の絶唱「最後の九句」の6句目「さすらいに入浴の日あり誰が決めた」だとし、〈この巨人最期の心のあり処が「さすらい」を「た」という決辞でまとめた一句に透けて見える。「た」は兜太の生を締めくくるのにふさわしい句末だったというべきである〉と述べているが、兜太という存在をあくまでも「言葉」と向き合い対峙する「言葉の人」として捉えたいとの著者の企図が見事に達成されている。〈それが自分のうちで兜太が生き続けていることの最大の証なのである〉との思いに強く共感した。
  ◇
 〈第九章呼びかける俳句、眺める文学〉以降では、「芸術的な言語と、芸術的でない言語の間に、一線を画することが困難」という時枝誠記の文学観が、法律用語だろうと何だろうと「言葉は区別しない」という兜太の「態度」に通底することが示される。そして、兜太の「呼びかける文学」を擁護しつつ、「花鳥諷詠」=「眺める文学」の虚子が「勅撰集」由来の刷り込みに戦略的に便乗し「無意味」導入に至る経緯が論考されているのだが、日ごろから私が感じている「作品は読者のもの」との思いを強くした。この思いは、著者が最後に述べている〈「微細な差異」〉を〈新鮮なまなざしで見詰め直すこと〉のヒントになるのではないかと思っているし、兜太との新たな「再見」と「再生」をもたらすかもしれない。   了


ご参考「WEP俳句通信 127号」(ウエップ)の特集より抜粋(敬称略)

角谷昌子:本書では、兜太の俳句ばかりでなく、現代俳句についても広く論考する。柳生氏自身が兜太という存在を日本語という枠組みの中で捉え直し、「言葉の人」としての存在感を提示したいというとの思いは、ほかの作家論と一線を画す。

岸本尚毅:「図々しさ」が俳諧の一要素と言えるかどうかについて私は所見を持ち合わせていないが、少なくとも、兜太の「直截な社会詠」の持つ一種のすがすがしい読後感が何に由来するかについて、本書は今までにない回答を示してくれた。

筑紫磐井:兜太論としては、柳生は、大概が地に足の着いた論理をたどっている。特に中心となるのは、石倉・田附の『野生めぐり』などを踏まえての秩父の風土と風俗だ。「生きもの感覚」「産土」「アニミズム」はここで一直線に重なる。

西池冬扇:『兜太再見』で一貫して流れている思想は、二項対立的価値観からの超克である。(略)残念なことに近代以降の俳句界は社会や文芸の思潮の変化には常に情報僻地的対応でその歴史を歩んできた。だが、正名氏の投げかけた課題は、今後の俳句の向かう方向を考えたとき、非常に大きい意義を有していると考える。

「見る」人と「聴く」人 佐孝石画◆第3回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

『海原』No.38(2022/5/1発行)誌面より

第3回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

「見る」人と「聴く」人 佐孝石画

◇鳥山由貴子特別作品「ピロピロ笛」

  動体視力わたしとアオカナブンの距離(二〇二一)

 「見る」という行為は実は不確かなものである。鳥山の句からはその曖昧さと変幻性の具現に対するこだわりを感じる。人体に付属する目は二つあり、対象に近づけば近づくほど、距離感(対象の奥に広がる世界)と焦点の混濁に惑わされる。カメラが一眼で、一つの焦点にかっちりと対象物をとらえるのとは全くの別の世界が、我々の普段目にしているものなのだ。かつて彫刻家のジャコメッティは肖像画を制作する際に、顔の最も先端にある鼻がどうしてもうまく出来ず、キャンバスの鼻を何度も削り取り、やり直しながら、「メールド(糞)、実際にはこんな風に見えない」と叫びながら制作し、ついに顔の中心部の鼻を描くことができなかった。彼女は「見る」。「アオカナブン」は一眼でもなく、二眼でもなく複眼である。カナブンと顔を突き合わせ、「見る」ことの不思議を感じながら、「動体視力」にまで彼女の思いは馳せる。

  停止線あまた誰かが鳩を吹く(二〇二一)
  ツバメノート罫線は露草の青(二〇二一)
  プラタナスの青き実わたしの垂直跳び(二〇二一)

 目に飛び込んでくる様々な風景。ぼんやり眺めるのでなく、それぞれの対象に確とピントを合わせ「見る」。白く引かれた「停止線」から、ノートに引かれた「罫線」から何かが始まる予感がする。もしかしたらこの気づきは別の世界への「入口」ではないかという予感。その入口は徐々に仄明るい光源から、明確な色彩を帯び始め、新たな異世界のメルヘンが描き出されていく。そしてその世界に自らも「垂直跳び」をしながら加わっていく。
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 良寛

 彼女は「見る」人である。人(パーソン)が仮面(ペルソナ)を語源とするように、人には仮面とその内に潜む別の顔がある。彼女のややシニカルな視点はものごとには裏表があることを前提にしたところから始まっているような気がする。

  落し穴少し欠けてる冬の月(特別作品)
  やさしさと赤いセーターちくちくす(特別作品)
  鳰を待つ夕暮色の椅子ひとつ(特別作品)

 彼女の俳句を見ていると、この世の表裏をシニカルに傍観しながら、ときにその局部を凝視し、ぼやけはじめる世界の全体像と、焦点を合わせた異世界の入口との風景の揺れ幅に酩酊する姿が見えてくる。そしてサーファーが波を見つけて嬉々としてそのライドに挑むように、俳句という小さな器をもって、異世界の前に愉悦して佇む作家の姿が見えてくる。

  手のひらに文鳥文庫二月果つ(特別作品)
  春の蠅ガラクタの中にあるひかり(特別作品)
  野遊びのようピロピロ笛を吹鳴らす(特別作品)

 前へ、先へ歩みを進めるうちに、彼女は軽やかさを纏い始めた。それは異世界を汲み取る俊敏さ、そのためらいのなさである。その俳句感覚は金子先生の言う「定住漂泊」に限りなく近づいている。

◇木村リュウジ既発表作品を読む

  冬蜂や目と目を合わせない握手(二〇二〇)

 木村さんとは会ったことがない。が、この句を手にすると、会ったような気持ちになる。悴んで動けない冬の蜂と、人見知りで目を合わせたくても俯いてしまう自分。でも、手を差し伸べてくれた右手のその温もりと、柔らかさに、胸の奥からじーんと何かが解されてくる。存在を「許される」感触。
 金子先生と会える機会がある度、俳句の明日を許されるおまじないを得るように、先生に「握手」を求めた。地方から集った海程人が先生の前で列をなす中、僕もどきどきしながら「目を合わせない握手」を待っていた。その温もりのおかげで、俳句を続けて来れた気がする。木村さんは、金子先生と握手してもらえただろうか。君と握手がしたかった。目を合わせない者同士が握手したらどんな感触がしただろうか。

  夜という大きな鏡冬蝶来(二〇一九)
  とどかない言葉ばかりの雪の朝(二〇一九)

 「夜」という時空は一枚の鏡となり、我が身を映しながらも、受け入れることなく突き放してくる。白一色に塗り替えられた雪の「朝」もまた、「とどかない言葉」の中でくぐもる自分を眩く撥ね返す。でもその突き放し方がまた、彼にとっては優しさでもあったのだろう。

  賢治の忌雲に名前をつけてみる(二〇一九)
  寒色のペディキュアを塗る太宰の忌(二〇二〇)
  紀音夫忌や鞄の本が濡れている(二〇二一)

 賢治、太宰、紀音夫に会いたかったんだろうなと思う。彼らも「とどかない言葉」だと知っているからこそ、言葉を探し続けていた人達だったから。そんな仲間に会えるかもしれないと「海原」に投句していたんだろうと思う。

  詳しくはないけど虹の手話だろう(二〇二〇)
  耳鳴りに明日のかもめを描き直す(二〇二一)
  はじまりの台詞に吃る冬菫(二〇二一)
  まだ声を持たない嘘や実紫(二〇二二・一月掲載)

 彼の身体感覚には独自のものがあったように思う。それは視覚と聴覚の混濁。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が、蝉の声を聴いている感覚から、岩肌に水が染み入るかのごとく視覚へと変換されていくのに対し、木村の場合、「虹」が「手話」へ、「かもめ」が明日を象徴する「耳鳴り」へと、視覚から聴覚へ世界が変容していく。「冬菫」は吃音し、「実紫」は声なき「嘘」となる。彼は「聴く」人だった。「言葉が終わるところから音楽ははじまる」とドビュッシーが言うように、彼が向かっていたのは言葉の向こうにある音楽的余韻ではなかったろうか。

  過去形の空をはがしてかりん生る(二〇二一)
  立冬や赤の減りゆくボールペン(二〇二一)
  寒紅梅白紙のような空あげます(二〇二一)
  夜の秋指先という孤島あり(二〇二一)
  鈴虫は夜のすべてを読み上げて(二〇二二・一月掲載)

 海原新人賞の審査を任されてから、彼の作品にいつも注目していた。釘付けにされたといってもいい。何にそこまで惹かれるのか、海原の他の作家とは異質の何かを感じていた。言えないこと、見えないこと、手にすることができないこと、そして少し諦め切れないこと。彼の作品の魅力、それは「余白」の大きさだと。句に立ち現れる圧倒的喪失感覚。その余白の光が君の未来の光であるはずだった。皮肉にも、この世に取り残された一ファンとしての感慨が、君の俳句世界の秘密をひとつ手繰り寄せたような気がする。

シン・兜太晩年(下) 宮崎斗士

『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より


〈特別寄稿〉
シン・兜太晩年(下) 宮崎斗士

平成三十年(二〇一八年)九十八歳
 一月、熊谷市内の病院に入院。一旦は退院したが、二月六日誤嚥性肺炎の疑いで再入院した。二月二十日午後十一時四十七分、急性呼吸促迫症候群により逝去。享年九十八。三月二日、葬儀・告別式が熊谷市の斎場でしめやかに営まれた。戒名「海程院太航句極居士」。

 この年の一月の初旬、兜太は真夜中にトイレに立ち、そのまま朝まで便器に座っていたということがあった。38度4分の高熱を出し、すぐ入院。肺炎と診断された。その後病状は着実に快復し、無事退院したのだが、二月六日再入院のあとはもうほとんど意識が戻らなかったという。以下、晩年ずっと兜太のそばについていた篠田悦子(「海程」「海原」同人)の文章より。

 ――二月二十日。今日も先生は目を開くこともなく、お声をお出しになることもなく、特別苦しそうでもなく、口を開けてごうごう呼吸をしているばかりでした。只一つ痰を吸引するとき駄々っ子のように口を固く結んでしまいますので、そのことが意識のある証でした。こちらの呼び掛けは聞こえていらっしゃる感じはしていて、検査の数値には気がかりもありましたが、小康状態は保たれているようでしたので、私は夕方五時過ぎに病院を出ました。
 その夜です。病院から連絡を受けて、深夜零時十分に駈けつけました。先生のお顔は蒼白ですが、重い荷を下ろされたかのように穏やかで何かさっぱりとなさっていて安らかでした。揺すぶれば、今にも「よしてくれ」と言いそうなお顔でした。
 平成三十年二月二十日午後十一時四十七分、先生は急性呼吸促迫症候群にて永眠されてしまわれました。

 三月二日の告別式の喪主挨拶の際に、喪主の長男・眞土氏から「父は二、三年前から認知症を患っておりました」とのお話があった。思えば「海程」終刊もそういった状況に鑑みての金子家としては苦渋の決断だったのだろう。
 火葬のあと骨上げをさせていただけることになり、「私ごときが……」と恐れ多かった。「金子兜太の骨を拾う」という行為が自分の中で全く現実味が湧かなくて、ただただ心身が真っ白になってしまった。それでいて、そのひとときの感触や空気を今でも鮮明に思い出せるのだ。

 「海程」四月号に兜太最後の九句(一月二十五日から二月五日の間に作句)が掲載される。

  雪晴れに一切が沈黙す
  雪晴れのあそこかしこの友黙まる
  友窓口にあり春の女性の友ありき
  犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
  さすらいに雪ふる二日入浴す
  さすらいに入浴の日あり誰が決めた
  さすらいに入浴ありと親しみぬ
  河より掛け声さすらいの終るその日
  陽の柔わら歩ききれない遠い家

 兜太は亡くなる前の年から、眞土・知佳子夫婦が時にどうしても留守にせざるを得ないこともあり、熊谷市内の介護・サポート付施設「グリーンフォレストビレッジ」の一部屋をチャーターしていた。
 一句目二句目四句目といたく静かな景が描かれている。この三句目「友窓口」の「春の女性の友」が先ほどの篠田悦子
ではないかと思われる。実際篠田は足しげく施設に通っていた。そして五句目から七句目にかけて、これはおそらく施設の介護入浴サービスのことを詠んだのではと思う。六句目の「誰が決めた」……いかにも兜太らしい、キャラクターの立っている一句。そして八句目のこの「さすらいの終るその日」という措辞、やはり兜太は自らの死期をしっかりと受け止めていたのだろうか。「河より掛け声」の措辞が気になるところだ。そして九句目、この「歩ききれない遠い家」、もちろん施設から遠い熊谷の家という読みが正しいのかも知れないが、私にはこの「遠い家」、兜太の生家のような気がしてならない。まさに九十八年の生涯を一瞬にて振り返るような力をこの句に感じた。

 「海程」では、「秩父俳句道場」という一泊吟行会を定期的に開催。二〇〇八年より私がその幹事を務めていた。主宰である兜太の意向で、「海程」同人・会友以外で、広く俳壇で活躍されている方々にゲスト参加をお願いしてきた。
 道場では、ゲストの方と兜太とのフリートークの時間を毎回設け、各々の俳句活動の述懐、あらためての俳句理念などを語ってもらった。
 兜太の晩年十年間に渡る、貴重な肉声、証言の数々。兜太による様々な俳句論、人生論のアナザーサイドとしてここに提示したい。

◆「前衛」と「伝統」
筑紫磐井/私は二十二歳の時「沖」に入会した。「造形俳句」論の兜太と「諷詠」論の能村登四郎では対照的に思われるようだが、通底するところもある。当時の俳壇では前衛・伝統がバランス良く機能していた。俳句史を検証してみると、「前衛」俳句が生まれたからこそ、「伝統」は自らの本質に再び向き直る契機を与えられたのではないか。
兜太/筑紫さんの論には「余裕を持った」客観性がある。これまでは伝統・現代(前衛)などの二項対立、既成のポレミックな図式にそのまま乗っかって書いている評論ばかりだったが、筑紫さんの『定型詩学の原理』はそうした既成のポレミックな議論を超越しており、画期的だ。今日の俳句世界は動いており、伝統も現代もない。それらを包摂する生きもの感覚、「土」というところから自分はものを考えていきたい。

◆造型論について
「造型」という言葉は固くて彫刻でも使われ分かりにくいという指摘が当時からあり、今は余り使いたくない。「映像俳句」の方が良かったと思うが、今さら紛らわしい。「写生」を唱えた正岡子規は明治維新後の社会に鋭敏に反応していたため、実は「客観」と「主観」という二物対応でモノを考えている。これに対して、私の「造型」の考え方は「一元論」。すべてを取り込んで考える。明治以降の俳句の手法は近代俳句を確立した子規と現代俳句を確立した兜太に尽きる(会場拍手)。
 「造型論」にぴったりくるのは富岡鉄斎が富士山を描いた作品について小林秀雄が書いた評論がある。小林は鉄斎がこの絵を富士山を見ながら描いたのではなく、てっぺんまで登って富士山とは何かと考えた経験をもって描いたことがわかったと言っている。これは「造型論」の考え方と同じだ。(「何処から見ても決してこんな風に見ることはできない。見て写した形なのではなく、登って案出した形である」小林秀雄『鉄斎Ⅱ』)
(一般の人にとって「造型論」で俳句を作ることは適切なのか?との問いに答えて)
 論から入るのは難しいというのが私の実感。物と自分の一元化に努力して映像にまとめていくことは必要で逃げてはいけないことなのだが、考えたまま書いてしまうこともある。禅も同じだが、ある時は最高の作り方をして、ある時は安直な作り方をする。どっちでも自由自在になったらいい。年中「造型論」で作るというのは無理だし、本気でやったらダメになってしまう。作品は個性という面白さにある。

◆新興俳句運動
マブソン青眼/戦前の新興俳句運動の弾圧について、歴史的な検証が不十分ではないでしょうか。
兜太/マブソン君はフランス人だから堂々と言える。これからの俳人は政治の世界、生活という面を考えてほしいことを訴えている。戦争中に俳句がどのような状況におかれたのか?日本の俳人は余りにも無視してきた日常性の狭さがある。
 京大俳句事件に関係して私がリアルに接した唯一の人物が青峰。旧制高校から大学にかけて三年位「土上」に投句していた時、早稲田大学の講師だった青峰が検挙された。獄中で血を吐いて仮釈放された後、自宅へ見舞いに行った。青峰は
「同人の二人がリアリズムなんかを言ったおかげでこんなことになってしまった。花鳥諷詠以外の俳句は治安維持法に触れる、異端という考え方が当局にあった。アメリカナイズされた考え方は危ない」とぼそぼそ話していた記憶がある。
 リアリズムで俳句を作ろう、虚子の唱える花鳥諷詠では書きたいものが書けないということで始まった新興俳句運動だが、運動の軸になった若者が逮捕された京大俳句事件のキーパーソンと言われる人物がホトトギス同人の小野蕪子。事件の背景には虚子の姿は全く見えてこないし、蕪子が虚子のご機嫌をとろうとしたのかはっきりしない。
 個人的には、京大俳句事件で検挙された平畑静塔をどう顕彰するか、虚子以上に評価することを私の目の黒いうちにや
りたいと思っている。

◆なぜ俳句を作るか
 戦争を知っている世代が社会の中核にいる間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると怖いことになるという田中角栄元首相の言葉を私は非常に重く見ている。今の政治家は戦争体験がなく、正義感だけで抽象的な議論をして、非常に軽薄に見える。
 世の中が変われば、変わったテンポで俳句も変わるものだ。歌人は「短歌はすぐに社会問題を取り上げるが、俳句の場合
は少ない」と軽蔑するが、それは正当な形だ。思想が徐々に熟していけば一般大衆の思想現象として俳句にも表れてくる。俳句は指導性が欠けて社会に遅れてもいいと思っている。俳句や短歌で世の中を変えることができると思う人が多いが、それは間違いで馬鹿げている。
 俺が若い頃から俳句を作る上で常に考えていたことは、自分の思っていることを十分に正確に正直に詠むことができないかということだ。高邁な思想を書くのではない。このため、俳句の方法論を追求し「イメージで書けば」と提示したのが俺の「造型論」だ。上手な句を作るテクニックを考えたことはない。虚子が盛んに唱えた花鳥諷詠も方法論。「いいなあ」という句は自分の思っていることを十分に書いている句だ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」の句も十分に書けた瞬間の充実感がある。決して最初から皆を驚かせよう、世の中を変えようという目的意識があったのではない。

◆戦争体験、そして現在
 戦争末期にトラック島にいたんだが、迎撃のため飛び立った零戦が毎日のようにグラマンの機銃掃射で撃墜されていた。
  朝はじまる海へ突込む鷗の死
 その時の光景が頭に入って日銀神戸支店に勤務していた時作った句だ。「これからは銀行を食い物にして好きなこと(俳句)をやろうと決意し、自分の人生の朝がここで始まった」という意味で、俺にとっては忘れられない句だねえ。
  戦さあるな人喰い鮫の宴あるな
 トラック島で島々をポンポン船に乗って回っていると人が海に落ちないかと鮫が頭を出しながら船の後をついてきたんだ。鮫は頭がサメているからね(笑)。
  梅咲いて庭中に青鮫が来ている
 この句もトラック島の人喰い鮫を思い出して作った。今の時代は乱暴な暴力主義がはびこっているが、俺の青春期の気配に非常に似ている感じがする。トランプ米大統領を見ると「あの男は危ない」という本能が働いてしまう。大便した拍子にうっかり核ボタンを押すのではないかと不安がある(笑)。

 その後

 そして「海程」は二〇一八年七月号にて終刊、兜太の遺志を後世に繋げるべく、同年九月「海程」の後継誌「海原」を創刊した。これは私たちの新たなる挑戦であり、また一つの正念場でもあった。
 兜太の「海程」創刊のことば「(俳句を)愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を、自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい」は、そのまま「海原」創刊の理念「俳句形式への愛を基本とし、俳諧自由の精神に立つ」に直結している。
 「海原」代表・安西篤、発行人・武田伸一、編集人・堀之内長一、私は副編集人に就任。今年二〇二一年の九月で創刊三周年を迎える。
 「海原」の歩みと並行して、多方面での兜太関連の動きもまた活発だった。各俳句総合誌にて追悼特集、各地で追悼イベント、雑誌「兜太」創刊、金子兜太の名を冠した俳句賞が複数誕生、映画『天地悠々兜太・俳句の一本道』、『金子兜
太戦後俳句日記』シリーズ刊行……。
 そして二〇一九年九月二十三日、兜太生誕百年のその日に兜太の第十五句集『百年』発行。七三六句、晩年期十年間の兜太の作品をほぼ全句収載している。
 同年の七月六日、句集『百年』発行に先立ち「兜太俳句の晩年」という公開シンポジウムが荒川区「ゆいの森あらかわ」にて開催された。パネリストは宇多喜代子、高野ムツオ、田中亜美、神野紗希の四氏。私が司会を務めた。定員の百二十名を超す大勢の方にご来場いただいた。
 そのシンポジウムの終盤、パネリストの方々に「金子兜太とは何か?」という質問を試みた。

 田中亜美「先生の父・金子伊昔紅と同じく、人を生きよと励ましてくれる〈医者〉だった」。
 神野紗希「兜太は俳人だと言うか、兜太は人間だと言うか、迷っていた。(中略)体をもって、心をもって、今、有限の時間を生きている人間として、自分が見つめられるものを見、自分が書けるものを書いた。まさに人間・兜太だった」。
 高野ムツオ「金子兜太は先生自身が言っていたように〈俺は俳句なんだ〉ということだと思います。ということは〈俺は言葉だ〉ということになります。だから、これも先生の言葉ですが〈俺は死なない〉と。俺は俳句、俺は言葉なのだから、この世から去って、俳句として生き続ける……」。
 宇多喜代子「大きな存在の、俳句が好きな人間、言葉そのものであった人間。だからあまり神格化してほしくない」。

 私としては、金子兜太とは一つの「祭」であったと思う。まさに兜太は生きているお祭のようだったな……と。兜太がそこにいるだけで場が華やぎ、活性化する。兜太が元気だということが周りの人たちをも元気にしてくれる。ますます俳句を頑張ってみようという気にさせてくれる。そして、その祭の「灯」を消さない絶やさないことが残された私たちの義務なのだろう。
 金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く「生き抜いてゆく」ことができるだろうか――。及ばずながら、私も尽力を惜しまない所存である。

  切り株は静かな器兜太の忌 斗士

(了)

〈同人誌―俳句空間―豈(第4次)64号(2021年11月1日発行)より転載〉

俳誌「合歓」の終刊と手代木啞々子 植田郁一

俳誌「合歓」の終刊と手代木啞々子 植田郁一

 手代木啞々子が新抒情主義を提唱して東京で「合歓」を創刊したのは、昭和十五年一月。しかし、日中戦争の長期化と用紙統制法などにより、その翌年には休刊せざるを得なくなった。
 さらに、啞々子には持病の喘息があり、太平洋戦争下での東京でのサラリーマン生活を続けることの困難さから、秋田県仙北郡の原野を借り受け、開拓農として移住することを決断したが、農業体験皆無の啞々子にとって、収入が全く無く、雪が吹き込む掘建て小屋での生活は想像を絶するものがあったはずである。
 しかし、戦後新設された新制中学の教師に採用され、この難局をなんとか切り抜けて、開墾との二重生活を続けることが出来たことは闇の中の一筋の光であっただろうことは、想像に難くない。
 また、東京近辺の「合歓」創刊時の仲間の勧めもあり、「合歓」を東京で印刷、鉄道便で啞々子宅に最寄りの奥羽線羽後境駅まで送付、駅からは雪道を約二十キロ、橇で啞々子宅まで運び込んだという話が、今でも古い同人の間では語り種として残っている。昭和二十年代の「合歓」は、遅刊・休刊を繰り返しながらも細々と存続。その間、後に「海程」でも活躍する若手の鈴木鴻夫・武田伸一・武藤鉦二・竹貫稔也・加賀谷洋・川村三千夫などが育っていた。
 金子兜太と手代木啞々子が急接近するのは、昭和三十九年五月、武田が企画した「秋田県現代俳句大会」の講師として兜太が秋田に赴き(原子公平・沢野みち同道)、大会の後、男鹿半島への一泊旅行に啞々子も参加したことにある。この際の兜太の講演と選評の痛快さに啞々子は惚れ、土の上に立つ啞々子の作句姿勢に兜太が共感したのである。
 この間の二人の友情を越えた信頼関係は、昭和五十七年啞々子が亡くなったときの、兜太の弔辞によく現れている。
 「あなたは私たちの俳句同人誌『海程』を支える一本の太柱でした。あなたの土とともにある真摯な俳句は、都会風な根無し草俳句になりかねない傾きにいつも反省を加えてくれました」と、兜太はその逝去を惜しんだのだった。
 そんな啞々子を真ん中に結束してきた「合歓」は、「海程」とその後継誌「海原」に対して一種の重しの役割を果たすとともに、同人を多数供給もしてきた。その目に見える成果としては、平成二十三年の加藤昭子から、兜太没による三十年の廃刊までの「海程」最後の八年間に、三浦静佳、船越みよ、佐藤君子と実に四名の「合歓」同人が立て続けに「海程新人賞」を受賞していることでも、「合歓」の存在の大きさは実証されていよう。
 そんな、「海程」「海原」とともに大きな歩みを印してきた「合歓」が、令和三年十二月号(69巻・638号)をもって、発行を支える同人数の減少によって廃刊の止むなきに至ったという。
 抗し難い時代の流れとは言え、残念なことこの上ない。

シン・兜太晩年(上) 宮崎斗士

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

〈特別寄稿〉
シン・兜太晩年(上) 宮崎斗士

 筑紫磐井さんから今回の「豈64号・金子兜太特集」のお話を賜り、あらためて金子先生を論ずるに当たって、私にできることとは何か?をじっくりと考えてみた。何せ金子兜太論はもうすでに様々な場所、様々なコンセプトで語られており、私などの出る幕があるのだろうか……としばし逡巡。結果、「海程」の運営委員の一人として、私がごく間近で見聞きしてきた金子先生のリアルな晩年の日々をここにお伝えすることができたら、と考えた。雑誌「兜太」(藤原書店刊)第一号に書かせていただいた「“存在”ひとすじに金子兜太の生涯」のささやかな補完にもなるかと思う。
 平成二十一年、金子先生が卒寿を迎えられた頃よりの金子先生の晩年期の俳歴、その他の様々な活動の歴史を、私なりの視点で紐解いていきたい。
 以下、金子先生の呼び名を「兜太」とさせていただく。

平成二十一年(二〇〇九年)兜太九十歳
 第十四句集『日常』刊行。生前最後の句集となった。
 ――この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。

 これは句集『日常』の後書きの一節だが、ここに「生きもの感覚」「アニミズム」という兜太の晩年期の重要なキーワードが掲げられている。
 生きもの感覚に関しては、兜太自身により「生きものを生きものとして自ずから感応できる天性」とはっきり定義づけされている。
 また、アニミズムとはもともと生物・無機物を問わない全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方だが、これは十九世紀後半イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』の中で使用し定着させたものとされている。ただ、兜太はそれを転じて「アニミズムは原郷げんきょう」である、としている。原郷、つまり故郷、ホームランドということだが、
 「人間は元々森の中に住んでいて、全てのものに神を認めていた。自然の中でお互いを神として信仰していたのである。森の暮らしの中で養われた本能の姿こそがアニミズムであると、今そういうアニミズムの時代に戻るべきではないか」
と兜太は常々語っていた。

  海とどまりわれら流れてゆきしかな 句集『早春展墓』より

 兜太はこの句を「人間は生きてゆくために〈社会〉に〈定住〉を余儀なくされているが、こころの奥ではアニミズムの原始の世界〈原郷〉に憧れて〈漂泊〉している。定住しつつ漂泊しているのが人間の今生きている姿なり」と自解している。
 また兜太は「アニミズムとは知的野生である。理屈ではなく体でわかることが大切だ」「アニミズムを生きていれば戦争なんか起こらない」ともよく語っていた。そんな折、「俳壇」二〇一一年一月号に漫画家水木しげるとの対談「ゲゲゲと俳句―生きものたちの声」が掲載される。その一節。

水木/目に見えない世界が好きなんです。
金子/すごいよね。驚くよ。虫や石ころにも命がある。大好きだし、努力はしてますが、しげるさんみたいに「おのずから」というところにはまだ行ってませんね。「おのずから」というのが怖いんだなあ。
水木/変わってますよ。
金子/まあ、変わってるということになるんでしょうね。だけど、そちらのほうがまともかもしれません。こっちが変わってるのかもしれません。普通の人は見えないんです、常識的に考えていくから。お化けだってそうで、普通の人には普通にしか見えない。

 まさにアニミズム、生きもの感覚を追求する作家二人がお互いに理解し合い認め合う名シーンではないだろうか。その意味でこの箇所、わくわくしながら読んだ覚えがある。

平成二十七年(二〇一五年)九十六歳
 一月より、東京新聞で、いとうせいこうと「平和の俳句」の選者を務める。
 ――いまのわたしたちは不安定のなかにいる。平和に不安がある。それは何故か。そして、望ましい平和とは。俳句で自由に書いてほしい。(金子兜太)
 ――平和への切実な希求、戦争の記憶、未来の私たちがあるべき姿、景色、季節の感覚。あらゆる年齢層の方々から、俳句という短詩だからこそいつでも口ずさめる鮮やかな世界を募集いたします。これは国民による軽やかな平和運動です。(いとうせいこう)

 いとうせいこう氏と生前の兜太は本当に良い関係だった。もともとは「お~いお茶新俳句大賞」の選考委員同士ということで知り合った二人。非常に呼吸が合う、ウマが合うという感じだった。
 平成十三年(二〇〇一年)に共著『他流試合―兜太・せいこうの新俳句鑑賞』が出版される。この一冊、「お~いお茶新俳句大賞」の入選句を兜太といとう氏の二人であらためて鑑賞し直すという内容で、さまざまな入選句を題材に俳句の面白さ、俳句の可能性を紐解いてゆくといった一冊である。当時、俳壇内外でも大変話題になった。
 そしてその十三年後の平成二十六年八月十五日、東京新聞に「終戦記念日対談金子兜太╳いとうせいこう」が掲載される。〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉という俳句作品、この作品のさいたま市の公民館による掲載拒否問題から始まり、「社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある」といういとう氏の指摘、「戦争中の自己反省、自己痛打が私に句を作らせたと同時に、私のその後の生き方を支配した」という兜太の述懐、と、どんどん二人のトークが展開していく。それで最終的に、いとう氏の「東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません」という発言。それを受けて兜太が「二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。」と返すという。この対談が「平和の俳句」の大きなきっかけ、大きな動きの始まりという感じになった。
 いとう氏は兜太の逝去に際し、「金子兜太の俳句には圧倒的な幻視能力と、それを言葉で解体、創作する力がある。けれども同時に、本人が持っていた山脈のごとき存在の大きさやなだらかさ、温かさやユーモアにも希有なものがあり、それは文学とは別に後世に残されるべきだ」と、俳句作品のみならず兜太の人間性をも称賛している。

同年「アベ政治を許さない」ムーブメント。
 兜太揮毫の安全保障関連法案反対のプラカード「アベ政治を許さない」が、日本中至るところのデモ活動などで盛んに掲げられる。

 当時兜太は「アベをカタカナにしたのはこんな政権に漢字を使うのはもったいないから」「アベという変な人が出てきたもんだから私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりました」と語っている。また当時の兜太の作品に、
  集団自衛に餓鬼のごとしよ濡れそぼつ
  朝蟬よ若者逝きて何の国ぞ
がある。
 「海程」東京例会(句会)の開催日と全国一斉デモの開日が重なったことがあり(二〇一五年七月十八日)、「海程」有志が兜太と共に句会場の大宮ソニックシティの入り口付近で「アベ政治を許さない」のシートを一斉に掲げた。その有志が例会参加者の三分の二ぐらいだったろうか……。句会場に戻ると、デモに参加しなかった方々がずっと待っていらして、参加組と不参加組とで何やら微妙な空気が漂った。
 私は参加組だったわけだが、不参加組に対して何がしかの反感があったような気がする。でもこれはいささか危ない精神状態だったかも知れない。私は昭和三十七年生まれで太平洋戦争にも学生運動にも関わっていないが、こういう全体主義的な意識の流れってやっぱりあるのだな……と今にして思い当たる。
 確かに「海程」の中でもこのムーブメントに賛否両論といった感じであった。もともと「海程」の所属メンバーの方々、兜太の戦争反対の意志は十分に理解していたわけだが、こういう形で有名になるということに抵抗を感じた方も少なからずいらしたということである。担ぎ上げられただけじゃないのか、俳句作家としての立ち位置はどうなるんだ、など様々な意見が飛び交った。
 令和に入ってから、芹沢愛子(「海程」「海原」同人)が当時を振り返り一文を物している。以下抜粋。
 ――「安全保障法制」(二〇一五年成立)に反対するため掲げられた金子先生揮毫、「アベ政治を許さない」の文字は圧倒的な力に満ちていた。当時私は率直に言えば、いかに長期政権であってもいつかは終わるのだから、「アベ政治」でいいのだろうか、と感じていた。ところが菅総理は安倍政権の路線を継承すると言い、今だに何も変わる気配もない。私はふと、この政権も含めて「アベ政治」なのではないかという事に気づいた。表記を「安倍」でなく「アベ」と直感で選んだ先生の感性。「広島」と「ヒロシマ」のような使い分けに少し似て、「アベ政治」は強権政治の象徴として用いられているのだ。
 金子先生が政権への強い不信を私たちに語ってくれたのは、二〇一三年に成立した「特定秘密保護法」についてであった。時代を遡り、先生が大学に入り句会と酒に明け暮れていた頃のこと、特高警察に拷問されて生爪をはがされた先輩の手を見て、「ぞっとしました。体が震えて、気持ちが萎縮していきました」と著書の中でも語っている。思想弾圧の嵐の中、先生が所属していた「土上」の主宰・島田青峰は獄中生活が体を蝕み自宅で血を吐いて亡くなった。「私も自由人でありたいと願いながら、強いものの影におびえ心に蓋をしてしまいました。秘密保護法は言論や思想の自由を蹂躙する悪法として名高い戦前の〈治安維持法〉みたいなもんです。こんなこすっからいやり方を許しておくわけにはいかない。これまで述べてきたように、私には体制に対する警戒心が常に念頭にあります。まさかとは思うけれど、島田青峰先生のように、もしかしたらいつ、この九十六歳の老骨がひっぱられないとも限らない。でも私は矛を収める気はない。ぎりぎり限界までやってみようと決意しています。〈アベ政治を許さない〉のプラカードは日本という国が二度とあんな馬鹿な間違いを犯さないように、という思いを込めて掲げました」。この平和への信念と熱量が金子先生を「アベ政治を許さない」ムーブメントに参加させた。それは「俳諧自由」を守る俳人としての行動でもあった。

平成二十八年(二〇一六年)九十七歳
 一月、二〇一五年度の「朝日賞」受賞。その受賞スピーチの中で兜太は「存在者」というキーワードを掲げた。
 ――私は「存在者」というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。存在者とは「そのまま」で生きている人間。いわば生の人間。率直にものを言う人たち。存在者として魅力のない者はダメだ。これが人間観の基本です。私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を捧げたいと思っています。

 朝日賞を受く 二句
  炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太
  朝日出づ枯蓮に若き白鷺 〃

 兜太の朝日賞受賞理由には「俳人としての根幹に反戦と前衛性を持ちながら、指導者として、決まりにこだわらない詠み方も許容し、幅広い年齢層に俳句を定着させた」ということが挙げられている。
 この兜太の一句目、あの「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」からはや七十年……。「生きてきし」の余情に弟子の胸も熱くなった。

平成二十九年(二〇一七年)九十八歳
 五月の「海程」全国大会にて、兜太は翌年(平成三十年)をもっての「海程」終刊を宣言。俳壇に波紋を呼んだ。
 ――「終刊」の第一の理由は、主に私の年齢からくるものです。第二の理由は、俳人―金子兜太―個人に、今まで以上に執着してゆきたいという思いです。
 終刊に当たって兜太は、「海程」という雑誌名を私一代で終わらせていただきたい、との意向を示した。
 「海程」終刊のニュースは、この宣言のあとすぐインターネット上、各方面にて報道され、翌日の東京新聞朝刊、朝日新聞朝刊にも掲載された。

 この前の年(平成二十八年)の秋頃、朝日新聞社内のレンタルスペースにて、緊急の「海程」運営委員会が行われた。出席したのは兜太と金子家長男の眞土氏、そして運営委員会のメンバー六名ほどだった。その席の冒頭、眞土氏の方から「海程」を終刊したい、との意向が示された。その後三時間ぐらい話し合いが続いただろうか……。その間兜太は一言も喋らなかった。眞土氏がスポークスマンとして運営委員会サイドと話し合うという図式だった。私は「海程」に入って二十年以上経っていたが、「海程」の内部であんな緊張した場面はなかった。だいたいこういう場だと兜太が緊張をいい感じで緩和してくれるのだが、とにかく兜太は一切口を開かなかったので。
 「海程」運営委員会の意向としては、できれば「海程」を継続させてほしい、その上で先生の口から後継者を指名してほしい、の二点が提示された。しかしそのいずれにも眞土氏は「父はノーと申しております」の一点張りだった。
 結局は金子家サイドの意向を全面的に受け入れるという形で委員会が終わった。解散の際に初めて兜太が私に「いろいろと大変だろうけどひとつ頼むな」とぽつりと声を掛けてくれた。それがとても印象に残っている。

同年十一月二十三日、帝国ホテル東京にて現代俳句協会創立七十周年記念大会開催。兜太は特別功労賞を受賞。

 現俳協創立七十周年記念大会、兜太が出席するかどうかが一つの大きなポイントだった。兜太の体調がいささか不安定な時期でもあった。事前に宮坂静生現俳協会長と私とカメラマンの方とで兜太の自宅へ赴き、ビデオレターを撮影。もし兜太が出席できぬ場合は、そのレターを会場にて流す手筈だった。
 果たして当日、兜太は午後五時半ごろ帝国ホテルに到着、そのまま車椅子で祝賀会場入り。体調、活力万全の様子だった。特別功労者の表彰を受けたあと、二、三十分の予定を一時間近く会場にいた。そして、帰る直前、席についたまま秩父音頭を熱唱。これがもう圧巻だった。拍手の嵐。そのあと車椅子で会場を退出することになり、その道すがら、五百数十名の集う祝賀会場が大盛り上がり。拍手、握手、抱擁、写真撮影、感謝、祝福、激励、泣いている方も大勢おられた。まさに出席者の方々の兜太への思いが爆発するひととき……どなたかが「これぞ俳人金子兜太の花道だ」とおっしゃっていた。
 そして、この日が兜太が公の場に出る最後の機会となった。
(以下、4月号掲載の「下」につづく)

〈同人誌―俳句空間―豈(第4次)64号(2021年11月1日発行)より転載〉

震災に関わる俳句を高校生とともに作ることで抵抗する 中村 晋


『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

〈特別寄稿〉
震災に関わる俳句を高校生とともに作ることで抵抗する
中村 晋

陽炎や被曝者失語者たる我ら 晋

 私は、福島市在住の一高校教諭です。現在伊達市の夜間定時制高校に勤務し、国語の授業を担当しています。その傍ら、俳人としても作品を作り、2019年にはささやかながら『むずかしい平凡』という句集を自費出版しました。現在54歳。
 俳句を始めたのは1995年。2005年から金子兜太(1919〜2018)に師事し、同時に俳句を教育の場で生かすことはできないかと考えるようになりました。と、そんなときに2011年の大震災と原発事故。言葉を失うような現実に右往左往し、どう考えどう行動すべきか途方に暮れるような日々を過ごすことになりました。拙句は震災から約一か月後、ため息のように生まれた句。福島に住んでいなくとも「失語」した思いを持った方は少なくないのではと思います。
 当時、私は福島市内の夜間定時制高校に勤務していました。五月のある日、授業の余談の中で、爆発した三号機の状態がよくないことに触れると、ある生徒が激しく反応しました。
 「原発なんか全部爆発してしまえばいいんだ。こんなに汚染がひどい状況なのに、俺たちは避難させてもらえない。俺たちは経済活動の犠牲になって見殺しにされてるってことだべした。」
 私は、彼の洞察の鋭さに感服しました。しかし一方、彼らにこのようなことを絶望を語らせる大人としての不甲斐なさや大人社会への不信感を募らせてしまったことへの申し訳なさを感じたものでした。彼らに信頼される教育とは何か。若者を経済活動の犠牲にするのではなく、命そのものの尊さを実感できる教育とは何か。以来、命の尊さを生活実感から捉えなおすことを心がけてきました。そしてその一環として生徒と俳句を作ることを目標にしてきました。「俳句」によって私たちの生活の基盤を考え、できれば取り戻す。そんなことを目指し、生徒たちに震災の記憶を俳句にする指導を細々と続けてきた次第です。以下、震災後の高校生の俳句を紹介したいと思います。

放射能悲鳴のような蝉時雨 服部広幹

 2011年作。まだ福島市内の汚染度は高く、不安が生活を覆っていた時期の作品です。「シーベルト」や「ベクレル」といった耳慣れない言葉がメディアから毎日流れていました。そんな夏のある日、作者は蝉時雨の声を聞き、そこに人々の悲鳴を感じた、というわけです。放射能汚染から逃れられず、普通の生活を強いられる当時の不安が、今もリアルに感じられる句として、印象に残っています。

空っぽのプールに雑草フクシマは 菅野水貴

 2012年作。被曝を避けるため、当時、水泳の授業は行われませんでした。夏になってもプールに水は入らず、誰にも見向きもされないむなしい様子が「雑草」に象徴されています。「フクシマ」というカタカナも効いています。原発事故によって汚染されると、一瞬にしてすべてがむなしくなる、そしてそこに住む人間もこの「雑草」のように見捨てられてしまう、そんなことを思わせられるような一句。しかし、「雑草」とはいえこれもひとつの命。むなしい「空っぽのプール」にわずかながらの希望のかけらを作者は見ているのかもしれません。当時の複雑な気持ちが蘇る作品です。

被曝者として黙禱す原爆忌 髙橋洋平

 2014年作。作者は飯舘村出身の生徒。文芸部に入部してきたものの、どこか自信なさげで、引っ込み思案。文章を書いても当たりさわりのない、無難な言葉ばかり。そこで、もっと自分の体験を俳句にしてみたらいいのではないかと勧めてみました。すると彼の中からこんな句が生まれ、私も驚きました。おそらく八月の広島または長崎の記念式典をテレビで観ながら、いっしょに黙禱しているのでしょう。しかしそれは他人事ではない。自分も「被曝者」なのだという悲しみ。「被曝者」という言葉がとても重い一句です。広島、長崎、ビキニ、チェルノブイリ、そしてフクシマ。どれだけ被曝者を増やせば、核被害はなくなるのでしょうか。同時作に「無被曝の水で被曝の墓洗う」「フクシマに柿干す祖母をまた黙認」もあります。

放射能無知な私は深呼吸 髙橋琳子

 2020年作。震災から十年近く経とうとしている時期に、授業の中で記憶を振り返りながら作ってもらった作品です。震災当時まだ幼かった作者は、放射能の危険について何も知らなかった。そして、あのとき自分は思い切り深呼吸して生活してしまった、という悔いに似た思いを率直に吐露した作品。季語もなく、ぶっきらぼうな一句ですが、妙に響くものがあります。本当に危険なことが起きても、何も知らされず、危険にさらされる無辜の人びと。しかし、大事なことを隠し、人々を危険にさらす国や企業の責任は一切問われない。この一句にはそんな不条理への疑問が投げかけられているように感じます。

 震災からまもなく十一年。昨年は東京五輪も行われ、今となってはあの事故もなかったかのような錯覚に陥りますが、生徒たちとこうして俳句を通じて関わってみると、まだ心の傷というものは癒えていないと感じます。その一方で、これからは直接には震災を知らない世代が増えてくるでしょうから、記憶の風化が喫緊の課題になることとも思います。
 今、福島県では、記憶を風化させない取り組みに力を注ぎ始めました。昨年オープンした「伝承館」の存在はその一つと言えるかと思います。また、県の教育委員会が「高校生語り部事業」という試みを始めました。ただ、これらの動きに私は疑念を抱いています。結局は、国や企業、行政にとって都合の良い記憶だけが語られるに過ぎないのではないか、記憶の風化を防ぐと言いながら、実は記憶の改竄をするだけではないか、と。
 記憶を改竄されないために私たちはどう抗うべきか。

フクシマよ埋めても埋めても葱匂う 野村モモ

 2015年作。震災から数年が経過すると、だんだん震災当時の記憶も薄れ、俳句にするのが難しいと訴える生徒も増えてきました。しかしこの作品は、当時を振り返り、自分が観た映像を、「匂い」という感覚とともによく捉えなおしていると思います。埋められているのは葱ですが、しかし人間の営みの一部でもあります。この句を一読し、思わずナチスのホロコーストを連想しました。本を焼く者は人間をも焼くと言いますが、この場合は、葱を埋めるものは人間をも埋める、のではないか。こんなことを続けていると、自分たちも埋められるのではないか。そんな問いをこの句から突き付けられるようです。

除染とは改竄である冬の更地 晋

 掲句は2020年作の拙句。私としては、生活の現場や個人の実感から、小さくとも手ごたえのある言葉=俳句を子どもたちと作り続けたいと考えています。

〈認定特定非営利活動法人原子力資料情報室発行の「原子力資料情報室通信」571号(2022年1月1日)より転載。同法人のホームページアドレス 原子力資料情報室(CNIC)| 原発のない世界をつくろう。たしかな情報と市民のちからで。

〈特別寄稿に寄せて〉
小さくとも大きな力 中村晋

  牛逝かせし牛飼いも逝く被爆地冬
  落ちゆく陽へまだフクシマを耕す人
  シリウス青し未来汚した星の行方

 福島に関する句はとにかく試行錯誤の連続で、何が成功で何が失敗なのかやってみないとわからない、そんな状況はこの三句でも同じです。それを今まで俳句をやったことのない生徒たちとやろうというのですから無茶と言えば無茶。でも、生徒たちは意外と答えてくれるのです。そこに希望があると言えば言えなくもない。
 原子力資料情報室へ寄稿した拙文ですが、この二月に英訳され、インターネットで発信されました。
Resisting through Composing Haiku about the Earthquake Disaster with High School Students

「こんな文章が英語になるの?」と驚きますが、編集部がグローバルな問題と見てくれたようです。また、原発事故はエネルギーや気候変動にもかかわり、つまりそれは未来の問題でもあります。俳句という文芸も科学やグローバルな世界とつながる時代が迫っているのかもしれません。
 小さくとも大きな力がある俳句。この可能性を今後も探っていこう。そんな思いを強くしています。

蛾のまなこ赤光なれば海を戀う~金子兜太と海軍短期現役士官~齊藤しじみ

『海原』No.34(2021/12/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第4回

蛾のまなこ赤光なれば海を戀う
~金子兜太と海軍短期現役士官~ 齊藤しじみ

 三島由紀夫が割腹自殺してから五年後の昭和五十年、一人の文芸評論家が都内の自宅で日本刀で頸動脈を切って自殺をした。名前は村上一郎(享年五十四)。戦後、丸山真男など一流の知識人から一目置かれた文筆家で、特に戦前の右翼の理論的支柱だった北一輝を取り上げた著作『北一輝論』で三島に高く評価されていた。
 意外と思うが、自宅で営まれた村上の葬儀に金子兜太先生(以下・兜太)は足を運んでいる。

 部屋の奥のほうを見たら、竹内好(注①)、吉本隆明(注②)、桶谷秀昭(注③)、谷川雁(注④)、この人たちがいました。そこに私が入っていったら、竹内好さんが壁を指すんです、私の色紙がそこにぶら下がっていた。
   夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
 村上はそれを自分の部屋にぶら下げていたんだ。私にとっては涙の出るような感動でしたね。(『語る兜太』岩波書店)

 葬儀のことは兜太の日記にも記されている。

 (昭和五十年)四月一日(火)晴
 村上一郎告別式。焼場にゆく車が出るところにぶつかる……(略)……。それに集まる文士評論家というものは、なんとなく親しめない。十日会の連中のほうがずっと気軽である。村上が阪谷(注⑤)や自分に親しんでいた気持ちがわかるような気がする。(『金子兜太戦後俳句日記』白水社)

 「十日会」とは、昭和十八年九月末に海軍経理学校品川分校に入学し、翌年三月初めに卒業した補修学生十期生の同期会の名称である。兜太は東京帝国大学、村上は東京商科大学(現在の一橋大学)をそれぞれ繰り上げ卒業した直後に入学し、七百八人の同期生がいた。
 補修学生は「海軍短期現役士官制度(以下「短現」)と呼ばれる海軍独特の主計将校の養成制度に基づくものである。
 兜太が村上の死に接して特別の感情を抱いた「短現」について、私は限られた資料を調べていくうちに兜太の思想と俳句につながる水脈を紐解いていくような思いを持った。
 「短現」は、海軍の艦艇や部隊の増強に伴って、ことに人材不足が深刻化した将校クラスの少尉・中尉・大尉の主計士官を短期間に育成する目的で昭和十三年に生まれた。終戦の昭和二十年までの間、毎年大学卒・高専卒の若者を対象に募集が行われた。一期から十二期まで入学した者には新卒ではなく官公庁や大企業に勤務する者も多かった。卒業した後は「主計中尉」や「主計少尉」として国内外の海軍施設に派遣され、主に食料や衣服の調達と供給、会計などの仕事に就いた。卒業生は終戦まで約三千五百人(うち戦死者は四百八人)に上った。
 「短現」の選考試験は競争率が常に二、三十倍と言われたが、私が特に関心を持ったのは、なぜ当時の高学歴の若者に人気があったのかという点である。

 “戦時中、大学生の多くが競って海軍を志願したのは一種の国内亡命だったという説がある”

 この一文は、「短現」とは別のコースである「予備学生」という制度で昭和十七年に東京帝国大学を卒業して海軍少尉になった作家の阿川弘之のエッセイ『わたしの海軍時代』(文春文庫)の冒頭の書き出しである。
 阿川は同書の中で本音とも思える感情を次のように吐露している。

 陸軍の泥くささ、知性の欠如、粗暴と大言壮語、政治的な横車には(略)みんな大概あいそをつかしていた。(略)海軍はすこしちがうらしい。われわれに分相応の待遇を与えてくれて、そう無茶な扱いはしないらしい。

 また、「短現」の歴史や出身者の活躍を描いた『短現の研究』(市岡揚一郎・新潮社)にも同様の記述がある。

 当時の大学生にとり短現は二つの意味を持っていた。ひとつは海軍兵学校卒(略)のいわゆる本チャンでなくとも海軍士官になる道が開かれていたこと、もうひとつは短現にならない場合、一銭五厘の赤紙(召集令状)と共に一兵卒として陸軍に徴兵される運命にあったことだ。

 現に兜太は短現の志望理由を「私なりの計算が働いた」と率直に明かしている。
 
 「どうせほっといても戦争にとられるだろう。でも一兵卒は嫌だ。それならせめて士官として赴任しよう」という思惑。東大在籍時、海軍士官募集の告知を見て、一も二もなく志願を決めました。(『あの夏、兵士だった私』金子兜太・清流出版)

 十期生が入学したのは昭和十八年九月。その翌月十月からは文科系の大学生の学徒動員が始まり、激動の時代背景が重なる。
 「短現」の存在は高度経済成長期の昭和四十年代に一躍、メディアで脚光を浴びるようになった。それは「短現」の出身者が戦後、政界、官界、金融界、産業界の各界で活躍していたためで、そのことは十期出身の一部の顔ぶれを見るだけでも伺える。
 『海軍主計科士官物語 二年現役補修学生総覧』(発行・浴恩出版会)には、一期から十二期までの卒業生全員の名簿が掲載されている。名簿から昭和四十三年に発行された当時の肩書を知ることができる。兜太と同期の「十期生」のごく一部を紹介する。その後の( )内の代表的な肩書は、私が別途調べたものである。

  渥美健夫(元鹿島建設名誉会長)
  江尻晃一郎(元三井物産会長)
  川島広守(元官房副長官)
  岸昌(元大阪府知事)
  小島直記(作家)
  佐野謙次郎(元いすず自動車会長)
  住栄作(元法務大臣)
  土田国保(元警視総監)
  橋口収(元公正取引委員会委員長)
  森下泰(元森下仁丹社長)
  宮沢弘(元広島県知事)
  山下元利(元防衛庁長官)
  山本鎮彦(元警察庁長官)

 また、兜太と同じ日本銀行に籍を置いていた者を数えると十七人に上った。
 十期生の同期会が昭和五十八年に発行した私家版の箱入りの文集「滄溟」は千六百頁を超える百科事典並みの厚さがある。およそ二百人の出身者が経理学校での思い出をはじめ、配属先である内外の海軍の部署や艦船部隊での経験などを寄稿している。そこには当時を振り返って戦争に対する懐疑的な思いを吐露した者が少なくないことに気づかされる。
 卒業後に海軍の機関で軍発注先の企業の監査業務をしていたというブリヂストンタイヤの元会長の石橋幹一郎(一九二〇~九七)は「物動は軍部、役所の軋轢でうまく機能していない。ただあるものは末端や民間の大和魂だけ。それも、場合によっては投げやり的であった」と述懐している。
 また、経理学校時代に同期生同士で議論を交わした場面を回想した手記には、国連大使などを務めた外交官の西堀正弘(一九一八~二〇〇六)が登場する。手記の筆者は西堀の発言の紹介とともに自分の思いも次のように書き綴っている。

 「彼(西堀)はアメリカの持つ資源、産業力から言えば勿論、いまの米国民の戦意の昂揚からみて、『日本は絶対に勝ち目がない』というのである。私の考えは西堀に近かったが、父が貿易の仕事をしていたので、開戦の時、「馬鹿な事を始めたものだ。この戦争は三年とはもつまい」といって、対応を考えているのを知っていたからである。
 兜太も「経理学校では学生出身者が多かったせいもあって日本が勝つと思っている人はほとんどいなかった」と語っている。(再掲『あの夏、兵士だった私』)

 作家の保坂正康は『近現代史からの警告』(講談社現代新書)の中で「短現」出身者の多くが戦争時の不満や戦時下で身につけた知識を活かすかたちで戦後の高度経済成長の中心的な担い手になったと指摘している。そのうえで、各界で活躍中の「短現」出身者の取材を通してその共通する考え方について分析しているが、整理すると次のような点に集約できる。
○出身者の多くは大学教育で法律・経済・商法を学んでいたため、観念的な思考法とは一線を画していたこと。
○短現の教育は、大和魂が事態を乗り切るというような空論は排除する傾向があり、ある程度自由な空気を呼吸していた。
○戦争で逝った仲間たちに強い哀惜の念を持ち、あの程度のモノとカネで戦争に踏み切ったことへの怒りがあった。

 「短現」卒業の一カ月前には任地の希望聴取があり、南方勤務の希望者が多かったという。兜太も御多聞に漏れず、その一人で、自ら「南方の第一線希望」と口に出してしまったという。
 そして卒業時のアルバムに兜太は俳句を寄せている。兜太と同じ班に所属した同期生の一人は「滄溟」(再掲)の中で、「今や俳人として著名な金子兜太君の句が光っている」として次の句を紹介していた。

  蛾のまなこ赤光なれば海を戀う 金子兜太

 この句について、兜太は後に次のような解説をしている。

 私は山国秩父の育ちなので、あこがれは海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の夢があった、と言ってよい。蛾の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ。(『金子兜太自選自解句』角川学芸出版)

 海への憧れが結果として戦後、日銀のエリートの中では異彩を放つ兜太ならではの生き方、反戦平和思想、そして誰にもまねができない俳句の作風を培うことになった。
 俳人の夏石番矢(一九五五~)は、兜太を「身体のゲリラ」と名付け、狭く貧血気味だった俳句のジャンルをより開かれた活気あるものにしたと評価し、その原点が南の海であるとした。

 金子兜太がもしも、トラック島でなく、旧満州などの寒い地域に派兵されていたなら、その戦後の句作はかなり違ったものになっていただろう。あるいは句作を断念したかもしれない。トラック島で、裸に近い服装で生活している人々と接触があったことが、戦後の金子兜太の句作を、よりいっそう陽気でエネルギッシュなものにしたと、私は推測している。(『金子兜太の〈現在〉』春陽堂書店)

 海軍経理学校品川分校はJR品川駅南口から歩いて十分ほどの現在の東京海洋大学のキャンパス内にかつてあった。
 私は高校時代、当時は東京水産大学だったキャンパスのグラウンドに定期的に通って、サッカーの練習をした思い出がある。原稿を書き終えた後に半世紀近くぶりに足を運んだ。キャンパスの周りは高層ビルやオフィスビルが立ち並び、殺風景だった当時とは見違えるほど整備され、大手町の一角を歩いているような印象を持った。しかし、人けのない広大なグラウンドだけは雑草も目立ち、やや荒れた様子は高校生だった当時とほとんど変わりがなかった。ひょっとすると終戦当時と変わっていないのではないかとも思えてきた。
 兜太は「東京湾に突き出した埋立地に建てられた粗末な校舎」と表現した。一本の草も木もなく、冬場は品川沖から吹き付ける風が冷たかったという。「滄溟」(再掲)には二階建ての校舎を背景に卒業時の十期生の集合写真も掲載されている。ほとんどはすでに鬼籍に入っていることだろう。最前列から四列目に兜太と思われる学生の姿が目に飛び込んでくる。丸眼鏡の奥の兜太のまなこは死に場所になるかもしれない海の彼方にどのような思いを馳せていたのだろうか。
 私はキャンパスのそばの運河の水面を見つめながら、この地が兜太の出発点になったと感じないではいられなかった。

(注釈)
注①竹内好(一九一〇~七七)中国文学者。魯迅研究で知られる。
注②吉本隆明(一九二四~二〇一二)詩人、評論家。
注③桶谷秀昭(一九三二~)文芸評論家。
注④谷川雁(一九二三~九五)詩人、評論家。
注⑤阪谷芳直(一九二〇~二〇〇一)日銀出身のエコノミスト。

髙野公一著『芭蕉の天地「おくのほそ道」のその奥』書評◆覚醒の喜び 小松敦

『海原』No.33(2021/11/1発行)誌面より

◆書評

髙野公一著『芭蕉の天地「おくのほそ道」のその奥』

覚醒の喜び 小松敦

 髙野公一氏による「おくのほそ道」研究書。私のような芭蕉初学者にはうってつけの本だと思う。前提知識や予習なしで臨んでも楽しく読める本だ。「松の事は松に習へ」のごとく「芭蕉のことは芭蕉に習へ」の心で書かれており、俳句実作者としての髙野氏が芭蕉という人間に自分を重ね芭蕉を理解しようとして書いているのがよく分かる。
 さて、私が本書で一番面白く読んだのは、本の題名にもなっている〈第3章芭蕉の「天地」〉と〈第9章天地とともにある俳諧―不易流行論の原像〉である。
 歌枕満喫の前半を終えた『ほそ道』の旅の真ん中、出羽路「三山順礼」の月山登拝で芭蕉は「天地」を体感しその本質を直観した。「日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る」の件、森敦の見解も援用しながら、それは芭蕉にとって正に「覚醒の喜び」であったと著者は語る。
 『ほそ道』は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」から始まる。これは李白の詩にある次の対句、
  天地者万物之逆旅…①
  光陰者百代之過客…②
の②を引用しているものだが、対を成す①の方はなぜ記さなかったのか。〈その理由について、森敦は、それは便宜上の理由でもなく、不要であったためでもなかった。芭蕉は旅の初めにはその意味するところを十分に認識していなかった。しかし、旅の途中でそのことを体験的に把握した。そしてそれを、体験したまさにその場の記事に秘かに書き込んだ。それが「日月行道の雲関に入かとあやしまれ…日没て月顕る」と書かれた、まさにその場面であったと言うのである〉。李白の詩の一対の一節が旅の真ん中である月山登拝、いわば『ほそ道』のピークに据えられたのは偶然ではなく芭蕉による拘りの意匠であるという。〈言葉としては知っていたことが、その意味する本当のところを初めて知り得たと思われる、恩寵のような一瞬が、月山の芭蕉に訪れたに違いない〉。そうして出来た句が「雲の峯幾つ崩て月の山」であり、著者は〈この一句を見るに、芭蕉自身、ここに、変化するものと、その変化を受け入れている天地そのものの姿を、その全き一体として、眼前の一風景の中に、詩的なイメージとして捉え得たと確信し〉、そこから「不易流行」の世界観・俳諧観が生まれたに違いないという。
 第9章では、この月山における覚醒=「天地」の本質直観を「原体験」にして生まれたという「不易流行」について〈弟子たちの論ではなく、芭蕉自身のそれの原点を探るもの〉として考察している。
 芭蕉は「不易流行」論なるものは書き残しておらず書簡など僅かな文章で「不易」「流行」に触れているのみ。あとはほかの文章や弟子たちの言葉から理解するしかない。例えば去来「答許子問難弁」の「又その先師のよしと申さる(る)句、不易・流行自(ずから)備(は)るは勿論なり。もし二ッの内、一ッあらずんば、先師よしとの給はじ。」は重要な証言である。一句の中に「不易」も「流行」も同時に存在しないとダメだと芭蕉は言っている。しかし弟子たちは「不易流行」の何たるかを問われるとうまく説明できなかったという。著者はその説明の困難に共感し、「不易」「流行」が「絶対矛盾」で同時成立は論理的「ミッシングリンク」だと述べ、土芳『三冊子』に示される「不易と流行を同時成立させるのが風雅の誠である」との論理にも飛躍があるとの見解を示す。その上で、著者自身の理解を次のように述べている。「不易」と「流行」を〈同時的に成立させるものの根拠は一つである。それは天地である〉〈天地が永遠と変化の相であるように、俳諧もまた同じである。その変化と不変の実相を風雅の誠を究めて掴み取る。そのことによって長い詩歌の真の伝統を受け継ぎながら、新しさを拓いてゆくのである〉。一見すっきりしているが、実を言うとこの説明がよく分からない。
 ここからは私見だが、「不易」と「流行」は矛盾していないし、双方を同時成立させるのが「風雅の誠」であるとの論理も明解であると考える。「不易」とは「西行・宗祇・雪舟・利休に貫通する一なる精神(笈の小文)」であり「古人の求めたるところ(柴門の辞)」ではないか。「不易」とは「古より風雅に情ある人は、後に笈をかけ…中略…をのれが心をせめて、物の実(まこと)をしる事をよろこべり(贈許六辞)」の「物の実をしる事」であり、「見るにあり、聞くにあり、作者感ずるや句となる所は、即ち俳諧の誠なり(三冊子)」、つまり「物の見えたる光(同)」を捉えること、「物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所也(同)」の「情感る」ことではないか。対象に交わり通い合おうとする時に対象の本質や特質に気づいて昂揚する気持ちや感動。それが「物の見えたる光」であり、芭蕉が月山で体感した天人合一の感覚だと思う。これこそが古の人々が求めてきた「物の実」であり「不易」なるものではないだろうか。
 芭蕉は「物の実」が表れていて(不易)且つ変化に富んだ新しい(流行)俳諧を作ろうと言い、それを実践する態度が「風雅の誠」つまり「高く心を悟りて俗に帰るべし(同)」だと言う。このように考えると、芭蕉や弟子たちが残した言葉は全部リンクしてくるし、現代俳句や他の芸術にとっても有意義な教えとなるだろう。金子兜太流に言えば「生きもの感覚」と「ふたりごころ」を以て日常から創れ、となるわけだが、「高悟帰俗」とは言うが易しで、俗に居ながら「物に入る」ことのできる身体をつくる必要がある。
(朔出版)

書くことの力 水野真由美◆第2回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評

『海原』No.28(2021/5/1発行)誌面より

◆第2回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評

書くことの力 水野真由美

 第2回の海原賞と海原新人賞は新型コロナウイルスの感染対策による暮らしの細部や町の姿、社会の枠組みの変化の中で生まれた。受賞後の特別作品二〇句は、この時代に何が変わり何が変わらないのか、何を変えるべきで何を変えてはならないのかを感じ取ろうとし、また考えようとする日々を生きる〈人間の存在の声〉といえる。

りんどうの花 日高玲

 日高は二〇句の季節をほぼ四等分にすることで春から冬に到る四季の巡りを編む。

  草原に仔馬を拾う遥かなり

 なつかしくて明るい春の草原の「仔馬」だが「拾う」は落ちているものを手にする行為である。親馬や飼い主がいる「仔馬」を「拾う」ことは出来ない。「仔馬」は捨てられたか放置された存在なのだ。また「拾う」は現在とも未来とも読める。それゆえこの風景を「遥かなり」という時の空間的、あるいは時間的な眼差しの方向性はかなり曖昧になる。さらに「拾う」を連体形と読めば「遥か」という時空の認識とも読めるかもしれない。「拾う」はイメージを幾重にも屈折させ、拾われた存在と拾った存在の両方に寄る辺なさを生み出す。それは「半地下に打音の響く日永かな」の密閉とも開放ともならない視点の「半地下」からもにじみ出す情感である。

  木星に土星近づく草泊

 二〇年周期という木星と土星の接近には四百年ぶりという大接近もある。それを「近づく」という。妙に親しみを感じる。惑星と惑星につき合いがあるように思えてくるのだ。その親しみに秋の季語「草泊」の風土感が説得力をもたらす。彼岸後の十日間ほど阿蘇の大草原に仮住まいの小屋を建て、家族ぐるみで飼料や肥料のための草を刈るという。野見山朱鳥に「くれなゐの星を真近に草泊」があるように広大な空間に身を置いて働いた夜の疲労には解放感も感じられる。人と人の間にも定住地とは異質な近しさが生まれるだろう。
 惑星と共に土と草と人もまた親しく近づく夜である。

  アイススケート少女に傷の組み込まれ

 「少女」の姿を形成するのは「アイススケート」「傷」の鋭さではない。逃げ場のない苦しさの「組み込まれ」である。
 一句の世界に身体を感じさせる「拾う」「近づく」「組み込まれ」を書くことで日高は目にとどまらず目の奥を感じ取らせる四季の巡りを編んでいる。

あたたかいくぼみ 小松敦

 小松の二〇句は無季の句を複数含むというだけでなく配列の方法からも時間軸を季節にゆだねていないことが分かる。

  振り向くと振り向いている青時雨

 青葉の木立から落ちる滴を時雨に見立てたのが「青時雨」だとする辞典や歳時記がある一方で、この見立てを「青葉時雨」として、「青時雨」を「綠雨」と共に「夏の雨」とする歳時記もある。「振り向くと」に切れを読むならば「振り向いている」のは「青時雨」だ。とすれば滴では動作を感じるボリュームが覚束ない。青葉の時期にさっと降っては移ってゆく雨と読みたい。そして「振り向く」ためには相手が必要だ。「いる」の共時性と気軽さに現実感がある。

  初めての人もう一人夏薊

 自分が「初めて」会う人、または初めての体験をする人がいる。あるいは自分以外にもここに来るのが、これをするのが「初めて」という人がいることに気付いたとも読める。句跨りの「もう」に時間が生まれ「初めての人」は二人になる。「もう一人初めての人」ならば説明となり気付く時間は生まれてこない。棘がある「夏薊」は質感の強さと野趣により「初めて」の不安と緊張を力づけてくれるのかもしれない。

  はまなすの花今日までの映画館

 「今日まで」を閉館の日と読みたい。「はまなすの花」は夏の浜辺に咲く。これは昔ながらの海辺の映画館なのだ。大林宣彦監督の遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」を思い出す。閉館日を迎えた映画館で若者たちが映画のなかに移動してしまい映画の歴史と戦争を体験する作品だった。海辺に限らず私が住む町でも閉館した映画館は十以上ある。「はまなすの花」は消え続ける映画館への哀悼のようだ。
 小松の世界は説明抜きで始まり、日常の言葉でぱっと掴んだ非日常へのドアノブを回す。そのドアを開く力は上五を字余りや七音ではなく句跨りとして伸ばすことで生まれているように見える。二〇句に過去形が少ないことからも一句ごとの今という時間を生きようとしているのだろう。

一枚だけの紙 たけなか華那

 たけなかの二〇句は冬のみを生きる。作品に付された短文で「苛烈な虐待を受け続けた子供」だった過去とそこに自らが俳句を書く根拠があると自己開示する。それが作品の読まれ方を深くするのか狭くするのかを問う暇はないのだろう。

  一日に一枚だけの紙ください冬の青空

 「一日に一枚」の「紙」は日用の消耗品ではない。一枚の紙で出来るのは折紙や紙飛行機を作ること、あるいはそこに何かを書いたり、描くことだろう。いずれも何かを表現する行為である。「ください」は表現への願いかもしれないが「一枚」ではない「一枚だけ」には切迫感がある。許しを求める声のようでもある。この切迫感は韻律からも感じられる。
 意味で区切るならば「一日に」「一枚だけの紙ください」「冬の青空」と五・十三・七音の二五音である。長い。金子兜太は五・七・五には伸び縮み出来るつよさがある、九・九・九の二七音までは伸びると語っていたがやはり十三音はつらい。音読すると「一日に」で軽く息を吸い、「一枚だけの紙ください」と一気に吐き出し、やや深く息を吸って「冬の青空」とゆっくり吐き出していた。中七の十三音は切迫感を生んでいるのだ。それゆえ「冬の青空」は頭上に広がっていると同時に「ください」と願う相手でもあるようだ。

  紫大根擦る夜が明けるようだ

 「紫大根」は酢に漬けると赤くなるが「擦る」だけでは紫だろう。「擦る」という現在が何時であったとしても大根の色を「夜が明けるようだ」と感じるのだ。「紫大根擦る」「夜が明けるようだ」と切りたくなる韻律と共に夜明け前の暗さを身の置き場所とする感覚を伝える直喩である。

  石ころが添い寝をする冬の菫

 五・六・六の不安定さが「添い寝」を揺らす。また「石ころ」も安定には不充分な重量である。「添い寝」は「冬の菫」にとって安らぎになる得るのだろうか。
 たけなかの二〇句は日常語と定型をゆらす韻律で得た風景としての冬を生き直しているかのようだ。書くとは自作の最初の読者として、その世界を生きることなのである。

星一つ落ちて都の寒椿―ある慰霊碑の俳句をめぐって 齊藤しじみ

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第3回

星一つ落ちて都の寒椿――ある慰霊碑の俳句をめぐって 齊藤しじみ

 大勢の若者でにぎわう渋谷駅前のセンター街の喧騒から外れた界隈が「奥渋」と呼ばれるようになって久しい。こじんまりした店構えの飲食店をはじめブティック、ミニシアター、書店がぽつぽつと建ち並んでいる。行き交う人たちの年齢層もセンター街に比べると高めで、全体に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 その「奥渋」のメイン通りに面した四階建てビル(二年前までは精米店)の入り口わきに高さ六〇センチほどの慰霊碑がある。私は去年夏まで通った職場が「奥渋」にあり、慰霊碑の前を通るたび足を止める人を見かけたことがないにもかかわらず、花や缶ジュースなどが絶えず供えられていたことが強く印象に残っている。

 黒の御影石の慰霊碑の正面に俳句が刻まれている。

  星一つ落ちて都の寒椿

 そして、碑側面には次の文字が書かれている。

  殉職 昭和四十六年十一月十五日
     新潟中央警察署
     中村 恒雄 警部補(享年二十一歳)

 星一つとは巡査の階級章を指す。中村警部補(死亡当時は巡査で二階級特進)が殉職したのは、世にいう「渋谷暴動」である。今からちょうど五〇年前の一九七一年の一一月一四日、沖縄返還協定に反対する過激派の「中核派」が呼びかけて約五〇〇〇人の学生らが渋谷に集結して起こした暴動であ
る。当時の新聞記事などによれば、ハチ公前や道玄坂など渋谷駅周辺のあちらこちらの路上で火炎瓶が炎上し、約三〇〇人が逮捕されたという七〇年安保闘争を象徴する事件の一つである。
 当時、中学一年生だった私は学校が渋谷に近かったことから、担任の先生から「週末は渋谷駅周辺には出かけないように」と注意を受けたり、「渋谷に革命」「機動隊せん滅」という電柱に貼られたビラを目にしたりした記憶がある。
 中村警部補は当時、新潟県警から警備の応援で派遣された機動隊員の一人で、所属する小隊はNHK放送センター周辺の警備が担当であった。当時の報道では慰霊碑の前の路上で約一五〇人の武装集団と遭遇した際に鉄パイプや角材で滅多打ちにされて意識を失ったところに、火炎瓶を投げつけられて火だるまになり、翌日全身やけどで亡くなった。同じ小隊の機動隊員の三人も火だるまになりながら、近くのパン屋に逃げ込んで火を消しとめられて助かったという話も聞く。中村警部補は新潟県の佐渡島の県立高校を卒業して警察官になってまだ三年目だった。
 慰霊碑ができたのは事件から二九年後の二〇〇〇年のことである。慰霊碑の前にある小さな交差点のマンホールの上で倒れて虫の息になった中村警部補に声をかけ続けたという近所の精米店の店主(故人)から、当時の話を聞いた渋谷警察署の署員が同僚から寄付を募り、店の軒先の一角を提供してもらうことで、慰霊碑の建立にこぎつけたという。慰霊碑に刻まれた俳句は誰の作品で、いかなる経緯をたどったのか。
 今年一月、私は中村警部補の実兄で新潟県佐渡市に住む秀雄さん宛に手紙を出した後、頃合いを見計らって電話をかけた。秀雄さんは事件の首謀犯とされる容疑者が四六年間の逃亡生活の果てに四年前に逮捕された時にテレビや新聞でしばしば登場し、その穏やかな話しぶりと顔立ちが印象に残っていた。勿論面識は全くない。
 電話に出たのは秀雄さんではなく、ご長男の長生さん(四三歳)だった。秀雄さんは去年二月に病気で亡くなっていた。七七歳だった。亡くなる前まで、四人兄姉の末っ子だった弟のことを常に気にかけて、特に去年一一月に五〇回忌を地元の菩提寺で執り行うことに思いを馳せていたという。
 長生さんは叔父にあたる中村警部補が亡くなった後に生まれたので、生前の叔父の記憶はない。
 しかし、秀雄さんから事件のことを小さい頃から聞かされて、自宅には今も中村警部補の遺影や肖像画それに制服が飾られているという。そして渋谷に慰霊碑が出来た時には都内の大学に通う大学生で、秀雄さんと一緒に完成式に出たという。卒業後は地元の佐渡に戻ったが、上京するたびに供え物を携えて慰霊碑に立ち寄り、最近では去年一〇月にも現場で手を合わせたという。
 私は秀雄さんが亡くなっていたことで、慰霊碑に刻まれた十七文字の手がかりを失ったと思い込んだが、「星一つ落ちて都の寒椿」について何かご存知のことはないかと尋ねてみた。長生さんの答えは予想外であった。
 私からの手紙を受け取った後家にある資料を見ていたところ、参考になりそうなものが見つかったという。
 それは中村警部補が亡くなった二か月後の昭和四七年二月に新潟県警が発行した内部向けの広報誌「護光」の「中村警部補追悼号」である。その中の「追悼文芸」の俳句欄に死を悼む警察官や警察職員から寄せられた一四句が掲載されているが、そのうちの一句だった。名前から推測するには柏崎警察署に勤務していた女性であろう。

  星一つ落ちて都の寒椿  佐藤とし(柏崎)
(評)犠牲となったいたましい中村警部補の魂が消えて、東都に凜とした寒椿が悼むかの如くに咲くのである。

 他の一三句には警察官を彷彿させるような文字がなく、その意味で掲句が慰霊碑に刻むのにふさわしい句であることはすぐにわかった。
 また、掲句が三〇年近く経ってから慰霊碑に刻まれることになった経緯もわかった。
 平成二二年に社団法人全国警友会連合会が発行した都道府県の警察機関紙の優秀作品を集めた冊子だった。その中に掲載された作品の一つが慰霊碑の建立に尽力した渋谷警察署の警察官の体験記だった。
 それによれば、今は亡き、警察署の女性職員が「護光」に投稿した詩を県警の承諾を得て引用することを決めたと書かれている。著者は「詩」と表現しているところから「俳句」という認識は薄かったとも思われるが、むしろ十七文字そのものが一編の詩に昇華した印象を受けたのかもしれない。

 その後、長生さんからは故郷・佐渡島にある中村警部補が眠る墓地の写真を送って頂いた。墓地は長生さんの自宅から歩いて一〇分くらいの長手岬と呼ばれる、日本海を臨む海岸段丘の高台にあるという。写真から墓石の正面には戒名の「警覚院殿恒久明道居士」の文字が刻まれているのが読み取れた。墓の正面の前方には灰色の日本海が横たわっている。風が強ければ荒波のしぶきが届きそうな距離に感じる。長生さんの話ではかつては地元の子供たちの遊び場で、泳いだりタコやナマコをとった
りしたという。
 故郷の墓が二一歳で亡くなった青年の冥福を祈る場であるのに対して、渋谷の慰霊碑は殉職という死を悼む場である。その表現として十七文字、季語の「寒椿」が際立っていることにあらためて驚きを感じてならない。

  寒椿の紅凛々と死をおもふ 鈴木真砂女
  今生の色いつはらず寒椿 飯田龍太
  寒椿落ちて火の線残りけり 加藤楸邨
  父も夫も師もあらぬ世の寒椿 桂信子

 「寒椿」は華やかな色の割にどこか不条理な死と隣合わせのイメージを抱かせるものだ。
 この原稿をほぼ書き終えた一月下旬、私は中核派の最高幹部の清水丈夫議長が半世紀ぶりに公の場に姿を見せ、記者会見をしたという記事を目にした。八三歳という清水議長は渋谷暴動で警察官が殺害されたことについても触れ、「どうしても必要な闘争だった。当時は猛烈な弾圧があり、仕方がないのではないか」と語ったことを知った。渋谷暴動の時は三〇代前半の若者だったはずの清水議長の顔写真は、普通の品の良いおじいさんにしか見えないことに違和感を覚えた。
 沖縄返還・安保闘争という当時の激動の社会情勢の中で、中村警部補の死は無謬のイデオロギーという人間が生んだ業の犠牲と言える。
 そう思うと同時に、金子兜太先生がトラック島からの復員船で、戦時中に亡くなった仲間たちのことを「非業の死」と悼んで詠んだという代表句がふと浮かんできた。

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太

俳人兜太にとって秩父とは何か⑥最終回 岡崎万寿

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

新シリーズ●第6回〈最終回〉

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 ㈥ 秩父に発した俳句と哲学

 ⑴ 兜太の思想体系とその俳句

 見るとおり俳人兜太の思想・哲学の探究は、老子・荘子からマルクス、安藤昌益、サルトル、ハイデッガーに至るスケールのもので、広くて深い。そして人生的である。
 驚くことは、それらを取り込んで、産土秩父の体験に発した自らの「土の思想」を、「アニミズム」「生きもの感覚」「定住漂泊」「天人合一」「存在者」といった、より普遍性、具体性をもった独自の思想体系にまで仕上げ、その俳句・俳論に結実させていることだ。先に取り上げた中世の安藤昌益の「土の思想」に対して、まさに現代に生きる金子兜太の「土の思想」と言えよう。
 ここでは試論として、その特徴を三つに簡明にまとめておきたい。
 第一は兜太生来の「土の思想」を、宇宙を大きな生命体と見る「アニミズム」と一体化し、進化させている点である。もともと兜太の「土の思想」自体が体験的で、「『土』をすべての生きものの存在基底」(『東国抄』あとがき)と思い定めるものだったが、その当然の発展として、宇宙すべてのものが生物・非生物を問わず、石ころまで霊魂(アニマ)を宿し流れている、というアニミズムの世界へと深まっている。
 その思想状況を知る上で、兜太が秩父を、特に「産土」と言うことをめぐって、俳人で哲学者の大峯あきらと、「俳句」(二〇一六年七月号)誌上で交された遣り取りが面白い。

大峯:僕の故郷の吉野を産土と言うのはよく分かるんだが、俳句を語るのに産土がなぜポンと出てくるのか。科学技術化した現代は産土なんて感じられなくなった時代です。恐らく現代の俳人たちはほとんど産土なんて感じは持てないのではないか。

金子:俺の場合は、四十代半ばくらいかな、……熊谷に住むようになった。熊谷から秩父まで約十キロです。そこで分かったのが「土」ということでした。産土を支えているものが土だ。その土への親しみ。土というのが自分の中で力として高まった。これがまさにアニミズムだ。いわゆる「存在」ということの体感であると、そう思ったのです。それで作った句が、〈おおかみに螢が一つ付いていた〉です。(中略)
妻の皆子と一緒に秩父を往復するようになって、土、特にふるさとの土に異常な体感を覚えました。

 ここで注視したいのは、産土の概念についての、両者のもつ感覚の違いである。大峯あきらが、現代の俳人たちの薄らいだ産土感一般で発言しているのに対して、兜太は「体感」、それも「異常な体感」という言葉で、産土・秩父の土から受ける自らの実感から語っていることである。トラック島戦場でも、産土神(お守り)に加護されたという生死の体験が、三、四回あるという。
 そして兜太はその実感的な「土の思想」が、アニミズムや生きもの同士を感じ合う「生きもの感覚」を養い、次第に俳句の映像にまで高まってきたという進化の経緯を、いくつもの著書で平明に語っている。

 土の上で、自分の考え方は次第に固まっていきました。土への思いがまず深まり、そのなかでさらに“生きもの感覚”への思いが深まっていきました。
 土の塊として、私に真っ先に立ち現れたのは、幼少年期を育った秩父という山河・山国です。この山国が私の
産土うぶすなであり、この産土の土が、私にとっての「アニミズム」、“生きもの感覚”の養いの母である、と思うようになりました。……産土の土のことを考えるプロセスのなかで、そこから生まれ、生きていった人びとは、たとえば狼とか狐とか狸とか猪とか蛇などに、だんだん重なってきます。彼らが浮かび出てくるわけです。
 彼らが浮かび出てくることによって、それが私の俳句の栄養にもなり、映像にもなってきた、とはっきり言えます。私の七十歳代から八十歳代の句集の基本には、そういった経緯があります。(『荒凡夫一茶』)

 これで、大峯あきらが対談で、「俳句を語るのに産土がなぜポンと出てくるのか」、といった疑問も氷解できよう。兜太の「土の思想」は、ここに来て明確に「土のアニミズム思想」といえるものに進化したのである。そこで作られた俳句を、兜太の七十代八十代の句集『両神』『東国抄』から、五句だけ挙げる。

  蛇来たるかなりのスピードであった(『両神』)
  春落日しかし日暮れを急がない(同)
  鳥渡り月渡る谷人老いたり(『東国抄』)
  おおかみに螢が一つ付いていた(同)
  小鳥来て巨岩に一粒のことば(同)

 これらの作品には、兜太の哲学「土のアニミズム思想」が背骨に据り、自然と人間兜太が新鮮に交流し合っている感がある。「おおかみ」の名句は後で詳述することにして、最後の「小鳥来て」の句。秩父山峡か、むしろ原始の内面風景のほうが面白い。小鳥一羽がやって来て、そこにでんと存在する巨岩に止まり、チィと一声。その「一粒のことば」のアニマと、巨岩のアニマが交感、相互貫入する一瞬のこと。それを全身で感応する兜太が、そこに居るのだ。
 第二は、その兜太の「土のアニミズム思想」を基本に、生涯の課題としてきた「自由とは何か」「人間とは何か」「どう生きるか」といった思索の成熟と重なり、一つの思想体系に融合して、「土の総思想」あるいは「土の思想体系」と言える哲学にまで、深化している点である。
 先の「兜太という俳人の今日的人間考察」で紹介した『兜太俳句日記』をもって、その到達点を再確認しておきたい。一九八九年の同じ七月、兜太六十九歳の時の日記である。

七月六日
自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日
哲学を繰りかえし嚙み確かめる。芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間を含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。季節など小さい。存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を嚙みつつ句を作れ。

七月十九日
小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

 そして俳人兜太が、己の人生課題としてきた自由(存在)論、人間(本能とエゴ)論、生き方(態度)論などが、渾然一体となって成熟していくプロセスについても、闊達自在に語り尽くしている感がある。少しダブルが兜太の生の言葉をもって、リアルに考察することにしたい。

『私の履歴書』(「日経」一九九六年七月)
 わたしの考えが、「社会性」から「存在性(そして存在)」へと移るのもこの時期(引用者注・一九六七年熊谷へ転居以降)。存在を見詰めて、〈原郷〉、〈漂泊〉とか〈定住漂泊〉、さては〈純動物〉とか〈アニミズム〉といった自己流の言葉や解釈を作り出して書きつづけたのも、この時期。ここから、小林一茶、種田山頭火、尾崎放哉への強い関心が更に育つ。

『わたしの骨格「自由人」』(二〇一二年刊)
 人間および万物の存在の美しさ……結局は存在ということの美しさ、確かさ、それがオレの求めていることになるでしょうね。さっきの自由人でありたいとか、そういうことも一緒にあるわけですけれども、根本で求めているものは何かと問われれば「存在」です。その存在をたしかに支えてくれているのが土。
 だから、土と存在というのはわたしにとってはイコール。したがって、存在の根っこは産土神秩父ということになるのですけどね。

『荒凡夫一茶』(二〇一二年刊)
 私はかつて「定住漂泊」という言葉を使いました。その時期はちょうど長年の勤めを終え、いまいる熊谷に定着したころと重なります。先ほど述べた「人間は流動的だ」という思いのなかで、妻と北海道を旅行したとき、
  海とどまりわれら流れてゆきしかな
という句をつくったころです。忘れもしません、オホーツク海岸を歩き、この句を詠んだときに「定住漂泊」という言葉が出てきたのです。……「定住漂泊」とはまさに、「流動する」人間の姿です。(中略)
 人間は“原郷”指向をもっているけれども、「定住」の生活をしなければ食べていけない、……そのために“原郷”指向はつねにうろついている。それが漂泊の姿である。

『他界』(二〇一四年刊)
 すると少しずつわかってきた。……「本能にはどうやらふたつの触角がある」らしいってことです。……普段は愚の塊ですから欲にどっぷり触れている。ところが、その本能が何かの拍子にひょいと非常に美しいものに触れる時がある。……「原郷」、アニミズムの世界というものに触れている瞬間です。(中略)
 その原郷を求める心を、わたしは「生きもの感覚」と名づけました。(中略)
 それからわたしは“自由人”という言葉を盛んに言い出し、考えるようにもなる。そして、ご承知のとおり一茶の「荒凡夫」なんていうことに注目した。自分は野暮で馬鹿な人間だけど、野暮で馬鹿な人間のままに生きたい、と言う一茶とわたしと非常に肌が合う感じがするのです。

 長い引用となったが、兜太の成熟した哲学・思想体系の多角的な全容をつかむには、これだけは必要だと思う。兜太自身、この時期の己の哲学について、論理的なまとめ方はしていない。むしろ俳人らしく、自己流の用語を使って、その鮮明な映像をもって俳句に表現している。

  谷間谷間に満作が咲く荒凡夫(『遊牧集』)
  存在や木菟みみづくに寄り添う木菟(『両神』)
  定住漂泊冬の陽熱き握り飯(『日常』)
  言霊の脊梁山脈のさくら(同)
  質実剛健自由とアニミズム重なる(『百年』)

 うち一句目だけ一と言。秩父の谷間のあちこちで咲く早春の花まんさくは、鮮黄のひも状のねじれた花弁が、枝先にかたまるように咲く。その様子が兜太には「ほおかぶりをして豊年満作の踊りでもやっている感じ」に見え、「荒凡夫」という言い草が、この花によく合うと思った、と言う。
 第三は、そうした兜太の哲学・思想体系が、それ独自に存在するものでなく、あくまでも己の俳句・俳論の土台、背骨となり、一体となって、作品の奥行き、風格として開花、結実している点である。それこそ「オレが俳句だ」と言い切った、俳人兜太ならではの内面の深め方であり、その哲学・思想体系の有り様だと思う。
 先に紹介した作家・歴史家の半藤一利との対談でも、ずばりこう語っている。

 結局、自分自身がどうあるのか、いや、「どういう認識のもとに、どういう哲学を持つことが一番自分を生かす道なのか」……「自分の胸の内はこうだ」ということを俳句を借りてさらけ出すことに意義を感じていたんです。(『今、日本人に知ってもらいたいこと』)

 したがって兜太の思想体系は、文字通りの構造性を持ち、俳句・俳論を上部構造として、それを支える「土の思想」全体が下部構造となり、両者は相互に深く関連しつつ弁証法的に進化する仕組みとなっている。俳人兜太はそう思考し、そう生きてきた。この兜太の思考方法については、兜太研究の第一人者である安西篤が、その著『金子兜太』でこう考察している。

 兜太は、その流れを俯瞰しつつ、問題の基底部分に目を向ける。これは兜太の発想の特色といってよいほどのものだが、つねに問題の下部構造から弁証法的に認識を展開してゆく。しかも、その認識に人間の、いや肉体の裏づけを忘れない。(中略)
 兜太の俳論は、その生き方をふくめた一貫した存立構造をもつ一つの系のように見えてくる。その系は独自の論理体系をもちながら、決して内部に閉じようとするものではなく、外部に開かれた柔構造をもつ。

 そうした思想体系の成熟の流れとあわせ、兜太の俳句も、作品としての円熟した深み、新しみや、得も言えぬ俳諧の味わいを見せている。その兜太山系にそびえる秀峰の峰々を、私なりに確認しつつ、八十代『東国抄』までの五句を挙げておこう。「おおかみ」の句が何回も登場するのは、次節への布石と見ておいてほしい。

  ぎらぎらの朝日子照らす自然かな(『狡童』)
  霧に白鳥白鳥に霧というべきか(『旅次抄録』)
  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)
  冬眠の蝮のほかは寝息なし(『皆之』)
  おおかみに螢が一つ付いていた(『東国抄』)

 ここでは朝日子、つまり太陽までも同じ生きもの同士。「土」に発したすべての存在の有り難さ、美しさ、生々しさ、無気味さ、そして孤独さが、時空を超えた詩の世界に、みずみずしく映像化されているのだ。まさしく秩父の自然児、金子兜太独自の俳句世界である。

 ⑵「おおかみ俳句」の新考察

 いよいよ兜太の生涯的名句といえる

  おおかみに螢が一つ付いていた

について、突っ込んだ考察をするところへ来た。その句碑は、兜太の産土神であり、秩父困民党軍の蜂起の地、皆野椋神社の境内に、でんと建っている。その除幕式は二〇一四年四月、兜太九十四歳の春のこと。そこでの兜太の挨拶が、この句に込めた兜太の真意をずばり語っている。

 私は運に恵まれ、守られて今日まで命ながらえております。戦地に赴くとき、母親が千人針で埋めたさらしの布に、ここ椋神社のお守りを収めて手渡してくれました。私がトラック島から生きて還り、今日まで元気でおられるのは産土の椋神社のお陰です。トラック島での日々、餓死者がつぎつぎと出てくる状況の中で、ときどき夢の中に、ボーッとかすかな光が現れます。蛍だ。皆野の蛍だと思いました。
 昔から土地の人たちは両神山りょうかみさんを敬まい、この山には狼がたくさんいたと言われています。土地の人たちが狼を龍神りゅうかみと呼ぶとも聞いていました。この句は産土への想いと私の若き日の戦場体験、この両者の上に恵まれた句です。(『語る兜太』)

 さて、小論「俳人兜太にとって秩父とは何か」の結びとして、この「おおかみ俳句」を取り上げたのは、この一句に秩父と兜太と俳句がみごとに融合し結実した、次の三つの要因を、しっかり確認しておきたいからである。
 第一に、この俳句こそ、兜太が求めてきた秩父の「土の思想」が、アニミズムの独自の哲学・思想体系として成熟し、その全人間的な円熟の上に、産土秩父の象徴として時空を超えた「おおかみ」を発見、それを己の「生」のあり方として映像化した作品だ、ということである。その必然ともいえる成り行きを、ずばりこう明言している。

 「おおかみに螢が一つ付いていた」は、まさに自分の今言った考え方が熟してきた、自分の体のものになった、そのころにできた句です。(『いま、兜太は』)

 さらにその、「おおかみ俳句」を詠んだほぼ同じ時期に、自らの内面を見据え、こうも書いている。

 そして、細君の忠告が「存在の基本は土」の思念を信念にまで高めてくれた、ということだった。その後、その信念に立って、わたしは、「生きものの存在の原始」を見届けたいと願ってきた。……
 わたしは狼を見つめてきた。「狼の生」を見定めようとしてきて、気付いてきたことがある。それは、かれの生は見事に空間のものであって、そこには時間というものがないということだった。生れ、生き、そして死ぬ、ほしいままに山河を跋渉して生き、そして死ぬ。(中略)
 わたしは、この時間意識を越えて、「狼の生の空間」を自分のなかに獲得したい、と願うようになったのです。「生そのものである生」の獲得。その限りない「自在さ」。(「〈かたち〉と自己表現」「海程」一九九七年十二月号)

 この瞬間、兜太は産土の「おおかみ」と、時空のない「生そのものである生」に同化しているのである。
 第二に、この「おおかみ俳句」が作句方法の上で、己の俳句作りの基本としてきた造型(映像)俳句を、より存在的に、秩父そのもの、いのちそのものの「生」を暗喩、映像化した、刮目すべき到達点を示していることである。
 兜太が幼少のころから、よく耳にしてきた秩父山河に生きていた狼のイメージと、トラック島戦場で、時折夢の中にかすかな光として現れていた秩父の蛍が、奇しくも、そしてみごとな配合で、存在感のある俳句表現となった。この句碑の除幕式での兜太の挨拶にあるように、その蛍と狼は産土神のお陰、いや兜太の内面では、産土神そのものであったかも知れない。
 同じ時期に書いた、先の「海程」評論で兜太はこう語っている。「感の昂揚」の大切さである。

 基本に感動の盛り上がりがあってものを掴まえたときは、素晴らしい。……「感の昂揚」を俳句作りの土とするということは、五七調最短定型の韻律と微妙に且つ十分に重なる。詩は叙情を基本とし、定型詩の韻律はとくに叙情で決まる。その叙情の質を「感の昂揚」が決めるのだ。

 兜太の「おおかみ俳句」には、この「感の昂揚」がものすごく高まった背景があったに違いない。
 第三に、この「おおかみ俳句」の作句の経緯を見ると、兜太は同じ秩父皆野の詩人・金子直一の詩集『風の言葉』の中の「狼」という長い詩を読んで、ショックを受け、その「感の昂揚」のまま、「ある日、突然、わたしの中にオオカミが跳び出してきた」(『他界』)という、秩父らしいドラマがあることである。
 その秩父ドラマの時期を、私はたぶん一九九七年十、十一月頃ではないかとみている。兜太はその内面の真実を、各所で語っている。たとえば「三田文学」(二〇〇四年冬季号)の特別企画「私の文学」で。

 それを読んでまたショックを受けた。あっこれだという感じがあって、数日後に狼が私の映像のなかに飛び出してきたわけです。
 それまで私は、秩父と狼、産土と狼という結びつきはあまり意識していなかったんです。それが彼の詩を読んでわかってきた。……その守り神から産土が出てきて、産土のなかには私がそのときははっきり想像していなかった大神、竜神のような存在があった。そういうイメージの連続で、最後は直一さんの詩の言葉によって気づかされたということになる。

 また季刊「やま かわ うみ」(二〇一二年秋)の巻頭インタビュー「金子兜太『生きもの感覚』俳句渡世」でも、その瞬間をよりリアルに、こう述べている。

 私は直一さんに私淑していましたから、直一さんの詩を読んで、ニホンオオカミというのを念頭に置くようになりましたね。(中略)
 ある日、朝起きた時、ふと目の前にオオカミが現れまして、「おおかみに螢が一つ付いていた」という句を作ったんですね。オオカミに触れた時に、なんか私の中でほおーっと明かりが灯ったっていう感じがした。オオカミと私との生々しい感覚の繋がりができたというか、繋がりを感じました。それ以後、私のなかで産土の象徴みたいな感じでオオカミが存在しています。

 ところで、この「おおかみ俳句」の初出は、「海程」一九九八年二・三月号である。同句を収めた第十三句集『東国抄』には、以来二〇〇〇年一月号まで随時発表された「狼」俳句二十句が、まとめて収録されている。うち兜太が『自選自解99句』で取り上げた三句を挙げると

  おおかみに螢が一つ付いていた
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民
  狼生く無時間を生きて咆哮

 三句目のこんな自解に、注目してほしい。

 狼は、私のなかでは時間を超越して存在している。日本列島、そして「産土」秩父の土の上に生きている。「いのち」そのものとして。時に咆哮し、時に眠り、「いささかも妥協を知らず(中略)あの尾根近く狂い走ったろう。」(秩父の詩人・金子直一の詩「狼」より)

 金子直一とのこと
 兜太の『俳句日記』には、その直一とのことが二回ほど記されている。一回目は一九七二年十月六日。秩父事件の実地調査で「途中で金子直一先生を(車に)乗せ…」と、一泊二日の同行をしている(小論第2回・96頁参照)。そのことについては『俳句専念』の「私の履歴書」の中に、こう書いている。

 秩父事件について朝日新聞「思想史を歩く」に書く機会を得たのも縁。秩父から信州佐久を、郷里の作家金子直一氏と歩くことができ、秩父の人と山影がわたしの体に染みた。

 二回目は直一氏逝去の報である。「一九九一年十月二十七日雨、かなり強く一日中金子直一氏死去のこと千侍より。」
 次は、兜太著『中年からの俳句人生塾』(二〇〇四年刊)の中でのこと。「アニミズム」の項で、根っからの「自由人」だった、先にも書いた旧制水戸高校時代の出沢珊太郎先輩と長谷川朝暮先生などに続いて、「その秩父に、これもなつかしい日本人の一人、金子直一氏がいた」と、突然、直一が登場している。本を書きながら、ふっと浮かんだのだろうか。

 (彼は)高校の英語教師で、小説や詩を書いていたが、「岩に対す」という詩が思い出される。氏にとって、「岩は土のもと」だから、「岩こそわれらのはじめのふるさと」だった。「われらは土より出でて土に帰る」しかし「ついに岩に帰る」ことはないから「岩にあこがるるなり」。「われら生ぐさきゆえ/岩に向かいてこころ驚くなり。/谷川のしぶきに濡るる/大いなる岩に向かいて涙するなり。」

 見るように兜太にとって直一という秩父の詩人は、同郷の親戚筋というだけでなく、心通う「忘れえぬ人々」の一人であったのである。生き方の基本点で、不思議に秩父人らしい共通項がある。

 ① 二人とも秩父皆野生まれの東大卒。本職でない文学への強烈な志向をもち、生涯を貫いている。しかもその志向の原点も終点も秩父。その山河と人間、「土」「岩」「狼」にあった。
 ② 二人とも郷土史の秩父困民党事件について、熱い関心をもち真剣に調査、研究を続け、兜太は俳句と評論、直一は詩と小説(「一茶の花」「土蔵」「総理と金」など小説集三冊)を残している。肝要なことは二人とも、権威にまつろわぬ、その抗う精神を、自らのものとしていたことだ。
 つまり金子直一という名前は、俳人の間ではあまり知られていなかったが、兜太にとっては人間として「ひそかに尊敬」「私淑」「信愛していた詩人」であったのである。その直一の詩「狼」がヒントとなって、兜太の「おおかみに螢が一つ付いていた」という名句が誕生しようとは――兜太は「運命です」と言うに違いない。

 筑紫磐井評論のこと
 「海原」二〇一九年十二月号に、俳人・評論家で「兜太TOTA」の編集長でもある筑紫磐井の特別論考「兜太は何故おおかみの句を詠んだか――兜太文学の本質と秘密」が掲載(「藍生」同年九月号より転載)され、新鮮な話題を呼んでいる。私自身、ちょうど小論の執筆準備中であり、むさぼり読んだ。そして二つの面で有難く参考にした。
 一つは、直一のその「狼」詩の全容があきらかとなり、兜太がなぜ「ショック」を受け、感動し、「おおかみ俳句」誕生の切っかけとなったかが、感覚的に鮮明となってきたことだ。少し長いので一章、終章を割愛して、行を詰めて紹介させていただく。

けわしい岩肌の目にしみる山の、/そのどこかにむかし狼がいたという。

おおかみ、またはりゅうかみ。/竜のあおい鱗を/山犬のきびしい姿体によろい、/耳までさけた口は常にうえ、/いささかも妥協を知らず、/他をうたがい、己れをうたがい、/それゆえ他をくらい/自れをくらい、/青土色の孤独となって、/あの尾根近く狂い走ったろう。

岩ひだに滴る滔々の清水に/しばらく狂気をしずめたろう。深い、もっと深い/真実の谷はどこにあるのか。/けわしい、もっとけわしい/山そのものと言うべき高所はどこにあるのか。

こらす瞳は血の如く悲しみ、/怒らす牙は山てんの星を映したろう。けれどもついに空しかった。牙はボロボロの骨片と化し、/瞳は焦点を二度とむすばぬ――

 ――私も感動のまま、この詩を繰り返し読むうちに、その狂い走る狼の映像とともに、「山影情念」の真直ぐで強情な秩父人たちの表情や、貧しさのあまり蜂起した秩父困民党の人びとの姿が、次々に重なり浮かんできた。そしてこの直一の詩は「狼」を詠みながら、その真意の底に、同じ産土に狼とともに耐え生きてきた秩父人そのものを、表現しているのではないか、とも感じた。
 兜太が産土の自覚を深めるなかで、はっと気づいて、この直一の詩集を読み、イメージを連続させ、ある朝、ふっと狼の映像が飛び出し、この「おおかみ俳句」に結実したという経緯が、生々しい感覚で分かってきた気がする。
 そう言えば秩父の狼たちは、明治政府によって軍馬保護のためみじめな犠牲にされた。困民党も同様、明治政府によって惨い弾圧、処刑にされ、秩父ではその事件を口にすることさえ憚られた。秩父の狼も困民党も抗い、そして消滅させられたのである。その孤独さ。
 筑紫評論で参考になった二つ目は、直一没後七年目の「文芸埼玉」第六十号(一九九八年十二月)に、兜太が「人間として親愛」する直一の、奇行と「反骨」如実のエピソードを綴った、「金子直一粗描」という回想録を書いていることを、長い抜粋を交えながら紹介されているところだ。
 「とにかく承知していることをすべて書いて、金子直一という人間が存在していたことを世に伝えたい」というのである。反骨の秩父人同士、なるほど兜太らしい、懇ろな心遣いだと思う。
 最後になったが、筑紫評論の本命は次の言葉である。

 言いたいことは、直一の「狼」はこうした秩父事件以来の反骨の精神が生み出したものであり、また兜太の狼の句は、直一の「狼」の思想を引き継いだものに違いないと言うことである。

 その通りだと思う。小論でもその真実を、さまざまなデータをもって証明してきた。
 そこで残る問題は、筑紫評論が、兜太が直一の「狼」詩を読み、あ、これだと「おおかみ俳句」を作ったのは、一九九六年五月、日本詩歌文学館賞受賞の折、訪れた北上市の高橋盛吉市長が、たまたま直一の教え子だったことから、語り合いが進み「直一の再認識」をしたことが、その切っかけだった、と推定している点である。
 話は面白いが、兜太にとって「忘れえぬ人」だった金子直一について、そうした推定の前提として、「なぜならば、直一はすでに平成三年に亡くなって記憶から薄れていたにもかかわらず」という、判断を据えていることは、いかがなものか。
 そうした偶然の可能性を否定するつもりはないが、しかし兜太の「産土の自覚」の深化の中で、秩父―産土―「龍神」―直一―「狼」詩(抗い滅びていった狼のイメージの獲得)―「おおかみ俳句」といった意識の自然の流れ、その必然といえる過程がありうることも、十分に想像できる。小論はむしろその可能性を、実証的に探求してきた。
 いずれにせよ、近くその時期のことが記された『金子兜太戦後俳句日記』第三巻が刊行されるので、その機会を楽しみに待ちたい。
 全体として筑紫評論が、俳人兜太の存在を正確に、そして興味深く探る上で、積極的な意味をもっていることは言うまでもない。筑紫評論に刺激され、句集『東国抄』を改めて読み直した俳人もいる。これを機会に兜太の俳句論、人間論が、さらに活発化することを願っている。
 筑紫評論は冒頭に、この兜太の「おおかみ俳句」が、俳句総合誌「俳句」(二〇一九年五月号)で、その俳人アンケートで、平成俳句のベストテン中、飛びぬけて第一位を占めていたことなどを紹介し、「平成の俳壇は金子兜太によって築かれたように見える」と称賛している。

 この現代俳句の巨匠であり、秩父の自然児、自由人であり続けた金子兜太が、他界の後も時を超えた存在となって、これからの時代に生き親まれ続けることを、真剣に興味いっぱい見届けたい、と切に思う。 (完)

果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 齊藤しじみ

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第2回

果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 齊藤しじみ

 今から十八年前の私事だが、鮮明に記憶に残っている思い出がある。転勤族の私は当時、松山で暮らしていた。初心者向けの俳句教室で、まだ全国区では無名だった講師の夏井いつきさんから俳句の手ほどきを受けていた。何がきっかけなのかは思い出せないのだが、金子兜太先生(以下・兜太)の掲句に魅かれて、刊行まもない「金子兜太集」全四巻を近所の書店で衝動的に買い求めた。その晩、自宅で麦酒を飲みながらお目当ての句が掲載されたページをめくった。正直、真夏にふさわしく、麦酒のホップが心地よく脳裏に染み渡るようなイメージが湧きあがった。

  果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島

 この句が初めて世に出たのは「俳句」(昭和三十五年十月号)誌で、兜太は中年に一歩足を踏み入れた四十一歳だった。その同じ年の五月に福島、神戸、長崎と九年半に及ぶ地方支店での生活にピリオドを打ち、日本銀行本店に転勤してまもない時期であった。
 私はこの句に出会ってから果樹園の存在が気になっていたが、去年十月、暑さが一段落着いた頃を見計らって、果樹園探しを思い立った。場所は生前、兜太が語っていた内容から推測できる。

 長崎から東京に移り、杉並区今川町(旧称沓掛)に住む。あちこちに梨の果樹園があって、沓掛の旧称を懐かしんでいた。四十代はじめの頃で、俳句専念を決め(略)、夏の果樹園の葉づれの下に、シャツ一枚で、気負って立っている自分の姿を思い描くことがあった。ここは実りを待つ孤島、と。(『金子兜太自選自解99句』角川学芸出版)

 また、兜太は俳人の池田澄子さんとの対談の中で、次のように語っている。

池田 この果樹園というのは杉並区にあったんですって?梨園が。
金子 あったんだ、沓掛町に。五郎という犬を連れて歩いたんだよ。
池田 それを知らなかったときには、「果樹園」って言われたら、広い大梨園かな、葡萄園かなとね、いろいろ想像していました。
金子 そのとおりです。そこから来る想像の句ですね。
 (『金子兜太×池田澄子』ふらんす堂刊)

 右記の話をまとめると、昭和三十五年、兜太の自宅があった杉並区今川町(旧称沓掛町)周辺の梨園ということになる。
 まずは当時の住宅地図から兜太の自宅を探し出すことから始めた。都立中央図書館で検索した昭和三十年代の杉並区の地図は複数あったが、個人の名前まで記載されているのは昭和四十四年の「杉並区全図」(公共施設地図株式会社編)だけだった。そこに昭和三十六年発行の「文藝年鑑」の文化人名簿から兜太の自宅住所を調べて、先の住宅地図と照合すると、該当の番地に「金子」という姓の戸建ての住宅を見つけることができた(実際には兜太は昭和四十二年の時点では杉並区から埼玉県熊谷市に転居)。
 そのことを兜太のご長男の眞土さんに尋ねようと住宅地図のコピーを郵送した後に電話でお話を伺った。眞土さんの話では自宅は当該の場所で間違いないが、周辺に梨園があったかどうかはっきりした記憶はないという。
 しかし、長崎から連れてきた五郎という名の秋田犬の散歩コースは自分と父(兜太)も同じだったということで、眞土さんは「コース沿いに開けた畑があった。あるとすればこの辺り」として可能性のある場所を地図上から教えてくれた。昭和四十四年の地図では、周辺に果樹園を示す地図記号はなく、確証は得られない。私は当時と現在の住宅地図を手に周辺で二日間にわたって聞き込みを行った。
 現地は環状八号線から百メートルほど離れた閑静な住宅街で、兜太の自宅跡には建売の瀟洒な分譲住宅が立ち並んでいた。跡地の住宅に住む中年の女性に話を聞いたが、「日銀の社宅があったことは知っていますが、金子兜太という俳人は知りません」とのこと。今から六十年前のことなので、すくなくとも六十代後半以降の世代でなければ、当時の記憶はないだろう。
 眞土さんが梨畑の可能性のあるとした場所の近くに住む七十代後半の男性は「昭和三十年に梨園があった記憶はないが、あなたの言う場所はきっと梅林だと思う。詳しくはSさんに聞くしかない」と教えてくれた。
 Sさんは大邸宅に住む住民の名前だった。地図では眞土さんの話にあった散歩コースに自宅の敷地が面した家でもある。Sさんの家のチャイムを鳴らし、「戦後の郷土の歴史を調べている者?です」と名乗ると、六〇代半ばと思しき、商社マン風さわやか系半ズボン姿の長身の男性が門のところまで出てきてくれた。
 Sさんは終始、軽妙な語り口で約四十年前に亡くなった父親が自宅周辺一帯に畑を持っていたことを明かしてくれた。昭和三十九年までは桃畑だったが、それ以降は梨畑、昭和五十六年からは梅園をやっていて、地元の農協に出荷していたことも教えてくれた。私は頃合いを見つけて、手にした画帳に貼り付けた「果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島」という句を見せ、今川にあった梨畑が句の題材になったことを伝えた。
 Sさんは兜太の名前を知らなかったが、「このあたりで梨畑と言えば、私の家の梨畑ですよ。小さいときにはよく梨を捥いで食べましたよ」と笑顔で話してくれた。
 兜太の自宅から約百五十メートルは離れたところにある果樹園の跡地はすでに住宅が軒を連ね、梨畑の面影は全く残っていない。Sさんの後に訪ねた町内会の班長を務めるという森茉莉(鴎外の長女)似の女性からは「昔はSさんの家と道路を挟んだ場所に梨の無人の販売所があったので買いに行っていました」という話も聞くことが出来た。
 Sさんの話のとおりであれば、兜太が句を詠んだ昭和三十五年当時はまだ桃畑であり、その後、梨畑、梅林に代わったことになる。勝手な推測を許していただければ、現地の複数の住民が梅しか思い出せないことでわかるように半世紀前の記憶はあいまいになるのも仕方ないことであるが、結果としては「果樹園」であり続けたことには違いない。俳句が創作である以上、徹底的に事実関係を追求すること自体は意味がない。
 ちなみに杉並区の農業の歴史をたどると、昭和三十年代半ば頃は果樹の内訳では裁判面積では「桃」が断トツに多く、次に「梨」となっているが、その後、栽培に手間がかかる「桃」は労働力不足から急速に減少し、やがて「梅」に取って代わったとの記述がある(「杉並区農業のあゆみ」杉並区編昭和五十年)。

 実は当の兜太は昭和四十年には句の「果樹園」は梨畑であると明言している。

 五年ほどまえ、いま住んでいるところに引っ越したばかりのときできた。(略)この近辺、いまも果樹園が一つある。梨の木で、花の時期、袋をかぶった実の時期と、それぞれに特徴があるが、私は、実の時期の重なり合った葉と、その下にいて触れる強い太陽の匂いが好きだ。(略)シャツ一枚の身軽な気持と、緑の果樹園は、私を解放してくれる。果樹園が自分の城のように思え、城主のように自由になる。(『今日の俳句』金子兜太著・光文社)

 兜太が「梨畑」と明言していると言っても、「果樹園」が桃や蜜柑や葡萄であっても俳句の読み手が自由にイメージを抱くことは許される。
 私は「桃」と仮定すれば、戦後十五年しか経っていない時期、兜太が戦争体験をしたトラック島とだぶらせて「孤島」、兵士としての「俺」、そして見た目が南国的な色彩を持つ「桃」を連想しても不思議でないと思う。
 その一方で、「梨」と仮定しても、「幸水」と「豊水」の二品種が全盛の今でこそ店頭で姿を見かけることがなくなったが、何だかごつごつとした手触りが特徴の赤梨「長十郎」が兜太の朴訥としたイメージが重なり合うと感じる。
 勝手にそんな表層的なイメージに思いを巡らせていたが、『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)の昭和三十五年の記述を読むうちに、私は当時の兜太の心の葛藤を滲ませた句という解釈もできるのではないかと思わずにはいられなかった。
 それは作家・杉森久英(一九一二〜一九九七)の存在である。杉森は戦前、兜太の母校の旧制熊谷中学の教師を務め、戦後は直木賞受賞の流行作家として「天皇の料理番」など数多くの評伝を世に出したが、日記からは兜太と親交のあったことが伺える。兜太はその杉森から励まされた言葉を次のように書き記している。

八月六日(土)
 夕方、松の屋で杉森先生を囲む座談会。(略)先生の話で―飲屋での―銀行も俳句も辞めるな。どちらからもはみ出した男、あゝいう大きな人物がいるといわれるような、そん
な男になるのが一番よいのではないかと言われたが、非常にありがたく、また我が意を得た。

 当時の兜太は東京帝大卒と言っても仕事に一歩も二歩も距離を置いており、働き盛りの年齢にもかかわらず出世街道から外れていた。働き方改革の言葉など存在しない時代、上司や同僚たちは高度経済成長を支える日銀のブランドとプライドを背負って日夜仕事一辺倒の生活を送っていたはずだ。さりとて「俳句専念」を決意してもプロ俳人として大成できるかどうかわからない不安の中、他人には打ち明けられない中年男としての焦燥感があったはずだ。
 実際、兜太は当時の葛藤を正直に吐露している。

 私は三十代後半で俳句に専念することを決心しました。(略)「あいつは勤めながら俳句をやって結構うまくやっている。すこしズルイじゃないか」。在職中もそんな声がありました。(略)あいまいな姿勢では、何をやっても道は開けません。私が俳句の世界で曲がりなりにもやってこれたのは、「死んで生きる」ぐらいの覚悟でいたからです。(『人間・金子兜太のざっくばらん』金子兜太著・中経出版)

 そのことを知って、「果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島」の句に思いを馳せると、果樹園とは俳句の世界であり、その果樹園を他人の評価を気にせずに堂々と生きていくのだという兜太の気高く、力強い孤高感が伝わってくるのである。

《本シリーズは随時掲載します》

俳人兜太にとって秩父とは何か⑤ 岡崎万寿

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

新シリーズ●第5回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 (承前)

 ⑵ 土の自由人――俳人兜太の哲学考

 思想・哲学といっても、兜太の場合そんなに難しい話ではない。まず兜太が旧制水戸高校生だった頃の、ある読書のエピソードから始めよう。
 ある時、柔道部の先輩から「おい兜太、高校生になったら、この三冊だけは読んでおけ」と、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、西田幾多郎の『善の研究』、そして倉田百三の『出家とその弟子』を挙げられたそうだ。
 それから七十数年たったある日、兜太はその水戸での講演で、「学生の頃に読んだ本についてしゃべってくれ」と頼まれた。そこでとっさに浮かんだのが、その三冊。読み直してみた。そして、その講演で話した読後感を、「『純粋経験』という洗礼」と題するエッセイで語っている。ここでは『善の研究』にしぼって紹介しよう。

 読み直していちばん役に立ったのは、『善の研究』だった。いまでもまことに印象的でしたねえ。
 青年期の私に、思想とは何かということを教えてくれた貴重な本であったと思います。基本の概念は、純粋経験。純粋な感覚から出発した経験の世界。既成概念のまったくない世界。自分だけにある世界。そこから出発して、それを思想として深めていくことが大事だと、西田は言うわけです。(中略)
そういう時代だったから、自分の純粋経験から出発してすべてを考えろという『善の研究』は、バイブル以上の力があったんですなあ。以来、私の純粋経験は、「良い、悪い」を判断する物差しとなった。これが今でも自分を律している考え方の基本です。(『悩むことはない』所収・二〇一三年刊)

 なるほど、と思う。二つの意味で、秩父の自然児で自由人の兜太らしい言葉である。一つは、戦時下の当時、いわゆる「皇国史観」がうるさく横行していた世相だっただけに、自分の「純粋経験」からすべてを判断するといった姿勢は、時代に抗う自由の精神であったこと。二つは、自らの思想を選択する方法として、「純粋な感覚から出発した経験の世界」を据えたことは、秩父に育ち、土の上に立つ知的野性を憧れ、自由人を目指す兜太の生き方に、まさにぴったりのものだったことである。
 そのように兜太は、当時の学生たちに人気のあった『善の研究』の「純粋経験」については、学び己れの方法論としたが、それでは西田哲学自体についてはどうだったのか。そこには兜太流の選択があった。

 では、私は西田幾多郎を尊敬したかというと、しなかった。あのややこしい弁証法の真髄を究めたか? まさか。俺は弁証法を弄するようになってからの西田幾多郎は嫌いなんだ。(前掲書)

 つまり兜太は、いかなる東西の秀れた思想家・哲学者であろうと、一つの学風に心酔し受け売りするようなことは、皆無だった。『俳句日記』をみても旺盛な読書家で、幅広く多様な古今の書物を読んでいるが、この自らの「純粋経験」に照らして選択し、自分の頭で考えて吸収すべき思想・哲学は、生涯を通じて吸収し、わがものとして肉体化している。
 ここが俳人兜太の思想家としてのすごいところだと思う。今回、刊行された『俳句日記』や関連する書籍を大観して、私は自由人兜太の思想・哲学の中に溶け込み一体となっている古今東西の思想・哲学は、結局、五つに絞られ総括されていることを確認した。小論のテーマに即して簡潔に、データをもってそのポイントを概観してみよう。

 ①は、先にも取り上げた古代中国の老子・荘子の老荘思想である。よく「無」「空」といわれる、「無為自然」の真の自由への道を教えている。青年兜太は秩父の人びとの貧しい暮らしを見ながら、精神の放浪を感じ、その思想に早くから興味をもっていた。そして――。

一九七一年(十一月三日・52歳)
サッパリと眼がさめる。……思想の体系はある。しかし、それを貫ぬく〈生活〉の心底が、なお不十分であったわけだが、やっと決ってきた。そして、〈毅然たるもの〉の根は、〈無〉の体認である。

一九七四年(五月七日・54歳)
夜明け、「無と空」のところの新しい書きかたが開ける。……やはり、自分の方法でなければダメで、そのときのなめらかさ、さわやかさを知れ。

『二度生きる』(一九九四年刊・74歳)
私が田舎っぺだからできたのだと思います。土にくっついて生きてきた人間は、いい意味のニヒリストです。帰るべき、立つべき土があると思うと、徹底して虚無になれます。すると徹底して新しいものが生まれてくるのです。老子が言うように、虚から有が生まれるのです。

 小論の㈡でふれた処女作「白梅や老子無心の旅に住む」から、この時点で五十数年、兜太は相変わらず無と空を語りつづけている。老子、荘子のこのタオの世界は、俳人兜太にとって、魅力ある人生的なテーマであったのである。
 ②は、このところ、また新たに読者を広げている大著『資本論』を書いた、一九世紀のドイツ人経済学者、思想家のカール・マルクスの思想体系、マルクス主義である。兜太が敗戦の翌年(一九四六)十一月、復員帰国して秩父に帰る途中、東京のバラック建ての本屋で最初に手にしたのが、古ぼけた岩波文庫のリャザノフ著『マルクス・エンゲルス伝』だった、という。
 兜太の『わが戦後俳句史』によると、このマルクスとの出会いは感動的だったようだ。

 私は文庫本を読みつづけて読了しました。その読了のところに、マルクスの墓に記念碑を建てることにマルクスの娘たちが強硬に反対し、エンゲルスもベーベルもそれを認めたこと、そしてエンゲルスの遺骸は火葬に付せられ、その灰を納めた骨壺は海に沈められた、という数行があったのです。この数行が私の涙腺を刺激し、さらに脳髄ふかく突き刺さりました。
 この感動はおもいだすだに鮮(あら)たなもので、翌年二月、とにかく一応日銀に戻って、と気持を決めたときも蘇ってきました。そして、こんな句が湧くようにとびだしてきたものです。
  死にし骨は海につべし沢庵たくあん

 マルクス伝から青年兜太が受けたこの強烈な感銘は、先に述べた兜太の「純粋体験」に強くふれ合うものがあったからに違いない。そこで兜太は、マルクスの、その思想というより人間的なもの、つまり「行動における自己犠牲と思想における自己中心(集中)」といった志向を受けとっているようだ。
 それが後年の『俳句日記』になると、マルクスの科学的社会主義の「自由と公正、民主主義と個性の発展」といった、その真髄をつかんだ内容で記述がいっそう明瞭となっており、驚かされる。

一九六七年(一月二十日・47歳)
要するに独占資本主義文化(芸術、倫理、道徳)の軽薄さに、自分がグズグズ拘泥していたということを朝、皆子と喋っていて気付く。何んというマルキスト。はっきり対決しているはずなのに、思わず巻きこまれようとしていた。いけない。はっきり対決することによって批判の自由な振舞い(その自然児ぶり)があり得るではないか。

同年(十一月二十五日)
その自由をより享受し得る条件は〈自由競争〉の資本主義より、公平を眼目とする社会主義にあり、とも思い、やっとほっとする。ときどき頭を整理しておかないといけないのが辛い。

一九九二年(二月六日・72歳)
現俳常任幹事会で、村井氏がマルクス経済学はつぶれましたね、というから、とんでもない、これから大事になる、と答えておく。資本主義肥大に伴う矛盾(醜悪なエゴ)露呈に対して、「社会主義」の精神と施策が必要。

 こうした「自由な社会主義」の精神については、フランスのサルトルも、兜太と同様、先の世界大戦で出征、戦場と捕虜生活の惨い体験を経て、作家、思想家として積極的にコミットしており、理想と現実の間で苦悩しながらも、生涯かけて追求している。
 また今日、グローバル化した世界資本主義が、貧困と格差拡大、地球環境の破壊、新型コロナウイルスによるパンデミックなど、危機的にその矛盾を顕在化しているもとで、「自由な社会主義」への新たな期待が広がっているのも事実である。
 しかし、兜太が『俳句日記』に記している、このマルクス経済学についての発言は、一九九一年八月にソ連が崩壊し「マルクス主義は終わった」というキャンペーンが、世界を覆っている最中のことだけに、改めて兜太が自らのものとした思想の確かさとその勇気に、感銘を新たにする思いであった。
③は、江戸中期に秋田藩で生まれ、医者で思想家として、特に戦後、一般に知られるようになった安藤昌益のスケール壮大な「土の思想」である。戦後GHQの一員として来日した日本生れのカナダ人外交官で、歴史家のE・H・ノーマンが、一九五〇年に刊行した『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』(岩波新書)によって、その条件が開かれ世界的に有名となった。
 兜太も早速その本を読み、先の「純粋経験」の感応を鋭くそそられたようだ。『中年からの俳句人生塾』で、こう書いている。

 復員した私のけた頭を、いく冊かの本が泉のように潤してくれたのだが、その一冊にE・H・ノーマンの『忘れられた思想家』(岩波新書)があって、わたしはここで語られる安藤昌益に甚く惹かれた。そして、かれが、「朋友を求むることなかれ、而も友に非らずといふことなし」といい、弟子が注記して、この世の中に「人は万万人にして一人なれば誰をか朋友と為さん。万万にして一人乃(すなわち)朋なり。故に朋友に非らざる人無きなり(云々)」と記すのを知って、出澤先輩や長谷川先生の自由人像を思い出していたものだった。

 ここで兜太は、初めて知った安藤昌益の特異な思想にひどく魅了され、その自由人ぶりを旧制高校の頃に憧れた先輩、教師たちの自由人像と、思いをダブらせている。さらに続く次の文章は、昌益思想の根幹にふれる部分である。
 
 「転定は自然の進退退進にして無始無終、無上無下、無尊無賤、無二にして進退一体(いったい)なり、故に転定に先後有るに非らざるなり。惟(ただ)自然なり」――「転定」は「天地」という文字を書きかえたもので、「これによってその聖性を剝奪した」と、研究者安永寿延氏は書いていた。

 ここで登場している安永寿延は、戦後の昌益研究者で一九七六年に平凡社選書の『安藤昌益』を公刊している。この兜太の一文は、その本を読んでの見解であり、ノーマンの本から四半世紀後のこと、兜太の昌益研究の執念を伺うものである。
 ここで昌益の「土の思想」の特徴を、その大著『自然真営道』から二点に絞って要約しておこう。
 一点は、「自然」の根源を「土」と位置づけ、そこから宇宙のすべてが発生し、「無始無終」に自己運動をしているという「土活真」の思想である。その「活真」とは活きた真実性、つまり先の兜太が引用した「自然の進退退進」として自ら運動する宇宙の存在、エネルギーのこと、その自然と人間とは調和し、「天人一体」であると説いている。
 二点は、この自然・人間の世界は皆平等、「互性妙道」の法則性をもち、上下、貴賤、男女の差別は本来無く、土を耕し食物を得る「直耕」をもって、思想の中核としている。そして汗する農民からの搾取は「不耕貧食」であって、それを正当化する既存の宗教・イデオロギーの「聖性を剝奪」し、理想の「自然世」を目指そうと言う、徹底した変革の思想である。
 それが十八世紀の江戸・享保の時代に、奥州秋田にあって町医者で暮らしをたて、周囲の敬信を集めつつ身の安全を守り、その制約の中でよくぞと言える、日本思想史に残る独特の先駆的思想を構築し草稿にしている。その昌益の思想をアニミズムと受け取り、親しく自由人と呼んでいるところが、兜太的だと思う。
 ④は、二十世紀後半、日本でも圧倒的な人気を博した、フランスの先に述べた世界的な作家・思想家のサルトルの思想である。『俳句日記』などで、兜太はわがことのように多く語っている。

一九六四年(十一月十日・45歳)
サルトルのノーベル文学賞辞退について……よくぞ賞を拒否したものだ。小生の場合など、チンピラの賞でも、とても出来まい。サルトルという男の思想と精神を、改めて見直す気持。

一九六六年(十月三日・47歳)
サルトル「知識人の役割」は思考力ということについて教わる。……道徳論ではなく純理論として、知識人の「精神」を語る。

一九七五年(三月十三日・55歳)
昨夜……電話があり、「定住漂泊」に感銘したこと。あのなかの「無」は、生と死を超脱した「無」かどうか、の質問があったことを思い出す。サルトルの「即自的存在」と老子の「無」を重ねて説明しておいたが、そこに「純動物」をおく。

「兜太大いに語る」(「俳句界」二〇一一年九月号)
それに、私はサルトルの実存主義の影響を強く受けているから、彼のアンガージュ性(意思的実践的社会参加)という考えが私の中にあって、態度という言葉をつくらせたのではないでしょうか。社会性とは、生きている人間が、積極的に社会に向かって参加することだと。

 サルトルは先の大戦で歴史に翻弄された自らの体験から、二度と自由を蹂躙されないため、「アンガージュマン(社会参加)」の文学を提唱し、実行した。それは大きな反響をよび、兜太もわが生き方として大いに共鳴している。

 自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。(『存在と無』)

 人間存在の究極の自由に賭けた、サルトルの言葉である。
 ⑤は、サルトル(一九〇五~一九八〇)と並んで二十世紀最大の哲学者の一人と言われる、南ドイツ生れの実存主義哲学者、マルティン・ハイデッガー(一八八九~一九七六)の思想である。
 ハイデッガーが第一次世界大戦に観測兵として出征した体験をもち、戦後社会の不安と絶望を見つめる中で、死を人間存在の中心におき、「現存在(ダーザイン)」を存在の意味を考える出発点とする、独自の実存哲学を論じている。兜太は、その人間存在、人間そのものを洞察したハイデッガーの思想と、長年真剣に取り組んでいる。

一九七四年(七月二十五日・54歳)
欠勤して、一日読書。……夜、筋をかためる。日中は、「存在」と「存在者」について、ハイデッガーとサルトルのものを調べる。

一九八三年(七月十三日・63歳)
昨日、今朝と、ハイデッガーの「現存在」という基本概念が私なりに分ってきた気持。それにしてもこの語宜し。秩父の踊、句の思い出のなかにうかぶ〈人間〉。〈人間そのもの〉。
一時半から嵐山の国立女性教育会館講堂、県中学校長夏季研究大会で一時間半喋る。「俳句と郷土」。秩父音頭のことなど。

同年(七月十六日)
浦和の市民会館へ。県民大学開校式に当っての講演「地域文化の活気」。二日前同様、秩父音頭の由来と俳句の雰囲気、そして、〈基底的〉ということ。つまり〈人間そのもの〉〈土〉〈ふるさと〉ということ。今回はハイデッガーの「現存在」は出さず。

 ここでハイデッガーが説く「現存在」とは、「気づいたらすでに現実に存在しているのがわれわれだ」と言うこと。その「存在者」たるわれわれ人間がどう「存在」するか、どのような生き方をしているかを論じる、少し小難しいハイデッガーの哲学の話を、ふるさとの秩父音頭や句会の様子などと結んで、楽しそうに講演しているところが、いかにも兜太らしい。テープが残っていれば、聞いてみたいところである。

(次号へつづく)

俳人兜太にとって秩父とは何か④ 岡崎万寿

『海原』No.24(2020/12/1発行)誌面より

新シリーズ●第4回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

㈤ 産土から――「土の思想」の深化

⑴ 妻・皆子と秩父の「土」

 金子兜太の句集には、ふるさと秩父の句と並んで、いわゆる愛妻句が多い。兜太自身、堂々その姿勢を述べている。

 四百句(『現代俳句全集』のための自選句)を書き抜いてみたら、秩父の句にはじまり、秩父の句に戻る結果になってしまった。(中略)
 私には、妻ということばを読みこんだ句が多く、妻俳句をたどることによって、自分史が書けるようにもおもっているほどである。(飯田龍太等編『現代俳句案内』)

 そうした数多の妻俳句の中から、ここでは兜太の生涯的な作品だと思う三句を、私なりに挙げる。

  朝日煙る手中の蚕妻に示す(『少年』)
  夕狩ゆうがりの野の水たまりこそ黒瞳くろめ(『暗緑地誌』)
  雪の夜を平和一途の妻抱きいし(『百年』)

 一句目。兜太はトラック島から帰国した翌一九四七年四月、同じ秩父・野上町の眼科医の娘塩谷みな子(後日、俳号皆子)
と結婚した。この句は、皆野町の実家で初夜を過ごし、翌朝、二人で晩春の畑径を歩いてその途中、親戚の農家の飼屋に立ち寄ったときの作である。
 当時、養蚕は「おこさま神さま」と言われた秩父農家の大事な生業。その蚕を掌に包んで「これが秩父だよ」と、新妻に示した。この「妻に示す」という表現が、この句の眼目である。「蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、これからの生活への意思表明でもあった」(『現代俳句案内』)と、兜太は言っている。「朝日煙る」、なんとも清新で生命感に満ちた抒情の秀句だと思う。
 二句目について、これが愛妻句であることは『金子兜太戦後俳句日記』(第二巻)を読んで、初めて判った。その全文を紹介する。

 一九九三年(三月二十九日・73歳)
 結局、いまにして思えば、小生を支えてくれたのは、〈土〉と〈妻・皆子〉だった、と。
  夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
 この句は皆子をうたったもの。二人で家族をつくりあげてゆくという基本作業があったこと。いつの日か、『むしかりの花』(皆子第一句集)の句を挙げつつ、二人の来し方を書いてみたい、と思い定めている。

 この句の初出は「寒雷」一九六八(昭43)年六月号である。確かに同年三月二十一日の『俳句日記』には、「毎日新聞の句の題を“暮狩ゆうがり”とほぼ決め、一寸したひらめきあり」と記入し、翌二十二日には「車中、茂吉の『万葉秀歌』。〈古代的声調〉ということについて考える」と書いている。
 その前年の七月に兜太は、妻・皆子の「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という、つよい希望に応じて、秩父に近い熊谷に転居した。そして日夜、秩父の「土」を感じつつ、土と親しみ土に根を据えて、人間と自然を見定める暮らしに変わった。それは俳人兜太にとって、人生の大きな節目となる出来事だったのである。その時期、兜太は感謝をこめ、俳句で「皆子をうたったもの」だろう。
 しかしこの句が、兜太の妻俳句だという理解は、一般には薄かったと思う。兜太の「自句自解」(『中年からの俳句人生塾』『自選自解99句』など)でも、そうは書いていない。たとえば――。

 わが家は、北武蔵の野の一隅にあり、散歩もする。そして、夕暮れどきの野に、水たまりが「黒瞳」のように見受けられたこともあった。夕空を映していたのだろう。私は若い頃「万葉集」の「朝猟に今立たすらし夕猟に今立たすらし」の歌句に惚れて、朝猟夕猟の語を覚えていた。そして、野の水たまりに「黒瞳」のようだと感応したあと、これこそ夕猟(狩)のときに見受けられたものだろう、と思ったのである。夕狩に立つ人たちを見送る黒瞳。(『自選自解99句』)

 兜太のこと、『俳句日記』に書いたその句の内意は、妻・皆子にも話していないのではないか。それは含羞というより、兜太という男の美学かも知れない。
 三句目。兜太は妻・皆子の遺句集『下弦の月』(二〇〇七年刊)の「あとがき」で、見合いで「一目惚れ」し、結婚五十九年に及ぶ二人の生活・活動を軸に、皆子の全人生を温かくまとめている。そして「妻逝きて十一年」の二〇一六年、妻が秩父から運んで植えた花梨の実の熟す頃、「妻よまだ生きてます武蔵野に稲妻」の句で結ぶ、連作「亡妻つまと平和 十二句」を発表している。掲句はその一句。
 抱きしめる「平和一途の妻」、その皆子自身にも戦時体験があり、長兄(陸軍軍医)はシベリア抑留、従兄はフィリッピン沖で戦死している。その傷みをたおやかな感性で受けとめ、第三句集『山樝子』(二〇〇二年刊)の「あとがき」で述べている。

 戦死した従兄たちのことは、現在の私の感性の中に涙と共に立ち上り、思いや土の匂いを手渡してくれるのです。(中略)私の来し方の歴史の中には、広島や長崎に原爆が落とされた日のこともまざまざとあり、冷静に語り継ぐべき責任をも、しきりに覚える昨今です……。


  戦争いくさ遠くに青年よ青麦の穂よ 皆子

 さきの句集『下弦の月』の「花恋抄」の一句である。
 二十代中頃の戦場体験から、生涯かけて反戦平和一筋を通した俳人兜太が、最晩年に当たって亡き妻へおくる純白な愛の連作が、秩父の自然に裏打ちされた「平和の俳句」であったことに、私はしみじみ熱いものを感じる。
 さて、これを夫婦の絆と呼ぼうか、私は兜太、皆子の句集や文章を読み込む中で、二人の、人間にとって最も肝要な三つの点で、ふるさと秩父に根ざした太い共通項があることを発見した。
 一つは、いのちの原郷としての産土・秩父の土の上に立つ人間観である。先にも取り上げた半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中で、兜太は「女房がいなかったら、現在の私はなかったというくらい大袈裟な言い方もできます」と、手放しの妻礼賛の話をしている。妻が他界して五年余の春である。

 今でも、皆子という女は土そのものだったような気がします。透明感のある土の神のような。(中略)おのずから彼女の体には秩父の土がしみ込んでいる。そこで育ったいのちがそのまま、丸々生きている、そういう印象でしたね。だから土のよき理解者、産土のよき理解者という感じでした。

 そのことを証明するかのような、皆子のエッセイがある。「海程」昭和五十五(一九八〇)年四月号に載った、「日常を」である。

 それはすべて斜めの景色なのです。山人の話の中に「和でころがるべえ」とゆう生活くらしの表現がありました。あの山々にかこまれて立ってみますと、その言葉のぬくもりは、手垢のつかぬ、みんなの言葉として充分に人の想いを充たしてくれるものがありました。素直で土の斜面にさからわぬ人々のくらしの言葉が此の上なく美しい。土の匂いもしみ込んで、時の流れの音もしみ込んでなつかしいものでした。

 二つは、秩父で育った冴えた感性で、ともに俳句を詠み、俳句をもって生きる力とした生き方である。先の半藤一利との対談集で、兜太は続けて語っている。

 私の女房も結婚間もないころから俳句をはじめまして、感性がいいんだな。澄んでいて、すばらしくデリケートで、私より俳句の資質があったんじゃないかな。

 作句の動機は、「夫との対話を持つため」だった、という。同時に、勤めの日銀でも、俳壇でも、文字通りの波乱万丈だった夫・兜太を支えて、長い社宅暮らしの不快にも耐え、並はずれの苦労を続けた皆子にとって、俳句は生きる支えともなっていた。
 句歴四十年の一九八八(昭63)年に出版した第一句集『むしかりの花』から、その新鮮で芳醇ないのちの驚きをとらえた、皆子の俳句世界を紹介しよう。

  新緑めぐらし胎児あこ育ててむわれとうと
  土に終るひとりの神楽風の顔
  むしかりの白花白花しろはなしろはなオルゴール

 この年、皆子は現代俳句協会賞を受賞した。
 三つは、なにより人間の自由と平和を願い、時代、文化への批判の目を確かに、個人の生きる価値観を共有していたことである。これも兜太の語り口で聞いてみよう。

 私たちのいいところは、二人の間でいつも闊達な会話がなされていたことです。……妻の関心は、私の立身出世ではなく、むしろ、生きるとは何か、神とは何か、人間とは何か、といった類のことに置かれています。ですから、私たち夫婦の会話も自ずからそのような話題に進展しました。
(中略)
 私たち夫婦に共通した理想とは、一言で言えば、一家を築くことです。……一人一人が平等で、個が確立した、親愛に満ちた家です。(中略)
 夫婦の間で同じ価値観を持ち、日頃から闊達な会話ができたことは、結果的に、私の人生にとって大きなプラスでした。(『二度生きる』一九九四年刊)

 「そうでしたよ」といった、俳人皆子にとっては珍しく硬質な一句を、句集『山樝子』から挙げておこう。

  天人合一心身精霊秋草に 皆子

 こう共通項を並べると、二人はまこと理想の夫婦像そのものであったかに見える。しかし、それぞれ個性的な人間同士、複雑な面もある。長い歳月の中では矛盾や多少の葛藤、幾つかの修羅場もあったかも知れない。兜太自身、妻の他界後のエッセイ「霧の白粥」で、「ほぞを嚙む」思いでこう書いている。

 鈍感もいいところだった。……私は、そうした話をするときの妻の置かれていた苦労の日常に、ひどく鈍感だったから、恵まれたき日の回想を夫に語ることによって、自分の辛さをいやそうとしていたことに、ほとんど気が付いてはいなかったのである。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』)

 だが――。これから紹介する兜太の『俳句日記』には、知的で率直な信頼に満ちた夫婦像のすばらしさが、正直、胸を打つものがある。ユーモアさえ感じる。

 三月四日(一九七〇年・50歳)
 ついに「梨の木」を書きあげ、さっぱりした気分。……帰って皆子に読ませると彼女夢中で読む。ほめてくれる。珍しいことだ。はじめからほめられたのは。
 四月七日
 角川書店から、蛇笏賞推せん依頼がこず……小生アウトロー――と悲観的になる。皆子にいうと、「自分のもの」に集中して、啓蒙とか民衆とかいうことは忘れたほうがよい、といわれ、やっと眼が――本当にさめる。春のいたずらである。
 四月二十二日(一九七一年・51歳)
 夜明け、うとうとしながら、出版ジャーナリズムがシャクにさわり、俳句関係でも、どこでも、〈陰〉から、次第につぶされつつあるのではないか、という不安がつのり……しかし起きて皆子と話すうち、不安一切が消え、とにかく一茶と小説に集中しろ、と思い定めて、明るくなる。気分闊達。
 九月十七日(一九七二年・52歳)
 一茶略評伝に入る。午前、いま一度はじめ部分(文化句帖まで)読み直し、皆子にも読んでもらう。彼女の指摘事項十以上。夜、修正。
 一月二十七日(一九七三年・53歳)
 戦記か一茶かで、皆子と話し合う。皆子「一茶をやるべし。俳人としての仕事と評価を確定し。退職後散文へ」。小生「戦記やりたし。……戦記で散文の方法を掴み、「困民党」のように、仕事の幅を作りたし。(俳人が書く小説の意味)……」。
 八月九日
 「わが俳句観」終り、一・五枚、書き直す。皆子「まれにみる不出来ね」。指摘正当。直してすっきり。
 十月十一日(一九七五年・55歳)
 皆子「あなたは俳句に徹底しなさい。富士30句はよかった。あのスケールはほかにはない。碧梧桐をまずやりなさい。その上に立って散文を書きなさい。スケールの大きい記録より畸人伝がむいています」――これは頂門の一針。いい意見だった。
 十月十八日
 皆子、「俳句研究」十一月号を読んで、小生の悪口ばかりだと、イライラしながらはいってくる。チラチラ覗くと、えげつない……小生をぶったたくための特集号の感がある。
 十月十九日
 皆子の「怪物になれ」の言に元気付き、「俳句研究」への寄稿を停止……することを決めて、サッパリする。
 一月三十日(一九七九年・59歳)
 「ふるさと」(NHK放送予定)を、〈原点〉と考える自分の思考のあいまいさを責めているうちにほぐれる。〈ふるさとの翳〉、〈ふるさとの土〉。皆子と喋るうちに構想さらに固まる。伹し、〈ふるさとと血〉に来て議論となる。
 十月十五日(一九八三年・63歳)
 皆子「秩父事件」より、小生の戦時戦後史をゆっくりまとめよ、という。小生もそうおもい定める。

 見るように、日常の夫婦の会話にしては、感心するほど対等で知的な中味である。兜太という「怪物」(皆子)の性格や仕事ぶりをよく承知の上で、大局とポイントを掴んだ適確なアドバイスをしている。兜太にはまたとない人生の相談相手であったことが、よく判る。
 読みながら、兜太の『俳句日記』にも、敬意を込めて八ヵ所ほど登場しているフランスの作家・思想家のジャン=ポール・サルトルと、その生涯の伴侶で作家・評論家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの関係が、戦後の私たち学生の憧れであったことを、兜太・皆子夫妻と、微笑ましく思いを重ねている。 (この項つづく)

俳人兜太にとって秩父とは何か③ 岡崎万寿

『海原』No.23(2020/11/1発行)誌面より

新シリーズ●第3回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

(承前)

  ⑵ 秩父事件研究史上の俳人兜太の存在

 したがって、その「秩父困民党」の文章には、秩父人兜太の内なるロマンと躍動感が、熱く伝わってくるものがある。

 椋神社竜勢打ち上げのあと、私は蜂起農民の行動経路を追って、秋の秩父路を辿った。そして、小鹿坂峠の札所二十三番音楽寺の庭から秩父市を一望した。武甲山は山肌をあらわに迫ってくる。
 農民たちは、この寺の銅鐘を乱打して山を駆けおり、荒川を越えたという。音色美しいこの名鐘を知っていての作戦だったにちがいない。その鐘声はいまも、彼らの声なき声となって秋天にのこっている。その声に耳を傾けようとするのは、私が同郷人のためだろうか――。

 秋たけなわの明治十七(一八八四)年十一月一日、その音楽寺の名鐘を打ち鳴らしときの声を上げながら、秩父農民たちは一斉蜂起したのである。映画「草の乱」(神山征二郎監督・二〇〇四年公開)のシーンにも見た、白鉢巻きに白だすき、「世直し」に立ち上がった農民の心意気であろう。下吉田の椋神社から、武装した農民軍がぞくぞく行動を開始した。
 蜂起に参加した農民は、秩父を中心に埼玉、群馬、長野、静岡各県からも加わり約一万人(蜂起時は三千人)。郡都大宮郷をはじめ秩父一円にわたる規模で、悪徳高利貸の家を打ちこわし、証書を焼きすて、困民解放の公約を果たした。一般庶民にたいしては、農民の軍にふさわしい気配りをしていたことが、エピソードに残っている。
 そして後半戦。十一月四日に皆野本陣を解体して、十石峠を通り長野県南佐久へ進出。九日の戦闘で壊滅するまでの十日間、困民党軍はその反権力の旗を下ろすことはなかった。
 その「革命ロマンチズム」のみごとさを、同じ秩父出身の歴史学者、井上幸治は、名著『秩父事件自由民権期の農民蜂起』(一九六八年刊)で、こう述べている。

 わたくしは郷土の屈辱の歴史を書くつもりはない。わたくしは秩父事件が自由民権運動の最後にして最高の形態であり、これがわがふるさとの事件であったことを誇りと思っている。(中略)
 たんなる百姓一揆ならば、一発の銃声で四散し、刀剣がきらめくと逃走するのが例であるのに、秩父のばあいは農民が「倒れてのちやまん」の態度である。そのために西南の役以来の変事となった。
 その理由は、武器からいうと、二五〇〇挺という銃をもっている点である。組織という点からみると、党中に総理・副総理・会計長をおき、人員を隊に編成し、進退離合に統一的指揮があり、規律も行届いている。さらに決死隊を編成し、秩父全郡境を前哨線としている。

 また一九八三年十一月、埼玉会館主催の秩父事件シンポジウムの基調報告「秩父事件の基礎問題」(前掲『秩父学入門』所収)で、井上幸治はその結びに、こうも秩父事件研究の困難さを語っている。

 十一月九日未明、信州の東馬流には秩父から八四名の農民が参加し、一〇名ばかり戦死しております。……秩父事件に参加したなかに、こういう限界点までつきあう農民があったこと、その事態をどう解釈するか、なまなかの努力ではとりくめず、わたくしじしん、迷いに迷っているしだいであります。

 碩学の井上幸治さえ、その解明の難しさを語っている。
 ①なぜ山国秩父で、こうした農民集団による歴史的大事件が起こったのか。②その強靱な行動エネルギーは、どこに発したものか。③その組織的な農民軍を支えた意識・思想は、なんだったのか。
 その解明のキーワードは、当時の秩父農民衆のもつ意識・思想の問題にあると思う。兜太自身、同じ秩父出身で郷土史研究者・中沢市朗との「対談秩父事件の源流をたどる」(中沢市朗『秩父事件探索』所収・一九八四年刊)の中で、こう指摘している。

 民衆史の基本は、民衆の意識の問題にしぼられてくると僕は思っている。そうなりますと、なぜ秩父におきたかという基本に、その当時の西北秩父の農民意識の問題がクローズ・アップしてくる。

 この農民意識の問題からの秩父事件解明へのアプローチは、参加した秩父農民を人間の視点で吟味することであり、人間を知り人間を詠むことを生き方の基本としてきた俳人兜太にとって、まさに打ってつけの文学の課題でもあった。
 そして、「秩父山河」(『金子兜太集』第三巻)で兜太が強調している「秩父は特殊である。その特殊のおもい」を込めた、独自の探究でもあった。秩父ならではの秩父困民党事件の特殊性を、秩父人の目で俳人兜太が考察する面白さに、私は思わぬ興奮を覚えた。
 ここでは出来るだけリアルにコンパクトに、兜太が語る秩父事件の特殊性について、三つの点から要約してみよう。
 一点は、当時「負債山積の悲況」と言われた秩父の借金農民たちが、「借金からの自由」(借金十年据置、四十年賦返済)を求めて、村落共同体の耕地(集落)単位、村単位に組織化され、借金党、困民党と呼ばれる独自の行動集団に結集したことである。そこに知的野性をもつ「在地オルグ」(村と耕地の組織者)たちの、身を挺した活動があったことは言うまでもない。兜太は、その底辺の組織化に着眼している。

 これは単なる百姓一揆でもなく、自由党起事件でもない。もっとユニークなものということである。借金農民の抵抗活動が、おのずから生み出した〈党行動〉――いわば、同じ目的で集まり、相談しつつ行動するうちに形成された組織的集団であって……(「秩父困民党」)

 ここで簡単に、その経済的背景にふれる。養蚕農家がほとんどの秩父では、明治十年代、その繭・生糸の好、不況で、暮らしが大きく浮沈していた。明治十三、四年は好景気で、やれ地芝居、花火、ばくちと、わずかに潤った。だが同十六年以降、政府の(松方)デフレ政策も加わり、繭などの大暴落で状況は一変した。高利貸のあくどい取立てで、破産・逃亡に追いこまれる負債農家が続出していた。
 「惨野の流民」とも言われた。そこで動きだしたのが、先の耕地農民の組織化である。かれらは各地で山村集会を開き、借金年賦返済などを相談し、高利貸や警察署・郡役所へ幾度となく合法的な請願運動を繰り返した。しかし、対応は冷酷、無視そのものだった。憲法も普通選挙もなく、生きる手段は――蜂起だった。
 好況時の一時いっときの光、一転して暗鬱きわまる借金地獄、そこから大いなる光芒をみんなで求める蜂起へ。――まさしく光と暗、耐忍と激発という秩父人特有の「山影情念」の世界そのものではないか。兜太は事件に参加した、ある古老の言葉を紹介している。

 「秩父の人間つうなあ、一度肚をきめると、それぁ真直ぐで強情なもんですよ」――彼はいくどか言った。(「秩父山河」)

 二点に、そうした耕地農民を主体とした、秩父困民党の底辺からのうねりが、秩父自由党を介して全国的な自由民権運動と結合し、「板垣さん(退助・自由党総理)の世直し(立憲政体の設立)」の思想を自分なりに取り込み、蜂起の旗じるしとしたことである。
 もともと困民党の組織化は、二年前に発足した秩父自由党員の働きかけによって広がったものである。ユニークなのは、その自由党員が困民党員であることも多かった。秩父人同志である。「自由困民党」と言う人もいた。ただ現実には、秩父自由党員の半数以上は蜂起には参加していない。
 興味深いのは、蜂起に参加した秩父困民党員の意識の高さである。吉田椋神社の副祠官・田中千弥が書き残した民衆史料『秩父暴動雑録』には、かれらが語っていた自由党の「世直し」の思想が、「暴徒のことば」として、こう記録されている。驚くほど端的である。

 ①オソレナガラ、天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ。(筆者注・「天朝様」とはここでは薩長藩閥政府のこと)
 ②板垣公ト兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安楽ナラシムベシ。

 ただ、この言葉などをもって、秩父事件全体を評価する向きもあるが、兜太は参加農民の意識・思想の問題として、ありのままもっと複雑に、情念の屈折を見透している。先に挙げた中沢市朗との対談で、こう語っている。

 自由党の思想というのは、基本的にはヨーロッパからの輸入思想の影響が非常に強い。……それを秩父農民はそのままのかたちでは、吸収していない。屈折があり、大きな変形さえある。そこに秩父農民の意識の特殊性というか独自性のようなものがあって、おもしろいわけですね。

 かれらにとって自由党の「自由」は、切実な「借金からの自由」であり、行動へのオプティミズムであった。自由党も困民党も、情念を支える「〈おらが党〉のイメージ」(兜太)が強かった。
 そして三点に、その頃、秩父・西谷を中心に中庭蘭渓の教える民衆宗教・みそぎ教が、済世救民の世直しの教義として、自由党とも結びついて、秩父農民のあいだにかなり広がり、影響力をもっていたことである。
 中庭蘭渓は宗教者のまま、明治十五年に自由党に入党した、秩父自由党草分けの党員である。医者でもあり、潔癖で人間的にも秀れた人物であったようだ。兜太はその先覚者の役割を重く見て、先の中沢市朗との対談でこう強調している。

 私はこの教えの影響は予想以上に大きかったと考えてますね。(中略)当時の民衆が政治に感じていた悪を、蘭渓は鋭く感受する能力をもっていたから、自由党の反政府主義とはすこし質の違った、いわば底辺的動機のなかからの独自の反政府主義を身につけていったのではないかな。そういうかたちで、革新の側に禊教がはたらいていった。

 そこに、秩父農民の意識分析のスポットをあてたのは、兜太の慧眼だと思う。宗教に裏打ちされた民衆の意識は、時として思わぬエネルギーを見せるものである。
 以上、兜太が解明している秩父事件の三つの特質について述べてきた。なるほど「秩父の抗う心」と言われた参加農民の意識状況は、重層構造をもち、極めて強靱で楽天性、行動性をもっていたことが理解できる。ところで、先に紹介したように先学の井上幸治は、歴史学者として秩父事件に参加した農民衆の「倒れてのちやまん」の態度を、「どう解釈するか……迷いに迷っている」と、正直に語っていた。そこに秩父事件研究の一つのネックがあったことは、研究者たちの共通認識でもあったと思う。
 そこで考える。俳人兜太の秩父人らしいアプローチである、秩父事件の三つの特殊性の解明は、結果として、そのネックに照明をあて扉を開く、重要な鍵となるものではないのか。歴史の目で、私はそう評価したいのである。
 もちろんこの評価は、秩父事件の主役だった在地オルグをはじめ耕地農民衆を中心に、事件の基本線をまとめたもので、蜂起に参加し指導した秩父自由党員や困民党員、耕地農民という多様多彩な群像の人間ドラマを、単色化し軽くみるものでは、全くない。
 兜太自身、事件のプロセスにあった、たとえば秩父自由党の困民党軍総理・田代栄助や会計長・井上伝蔵と、在地困民党主流との「ある漢たる割れ目」(兜太)に注目し、その解明に興味をふくらませていた。
 つぎに、そうした秩父事件の全容解明とあわせて、俳人兜太は当然のことながら、当時の秩父地方における俳諧・俳句文化の広がり状況や、とりわけ事件関係者の俳句作品について、その発掘、研究、鑑賞を深める努力を鋭意続けている。その成果は「農民俳句小史―農民のなかの俳句・俳句のなかの農民」(『ある庶民考』所収)や、前掲の「私のなかの秩父事件」などの中でまとめられている。
 ここでは、先に登場した神官・田中千弥と、その俳句門下でもあった困民党軍会計長・井上伝蔵の二人の俳句を通じて、秩父事件とかかわるその内面や背景についての、兜太の穿った考察を探ってみよう。

  岩も木も物いふやうぞ散るもみじ 千弥
  横しまに荒ぶる風の木の葉かな 千弥
  岩根木根こととひやみぬけさの霜 千弥


 神官・田中千弥(俳号・菅廼舎義村すがのやぎそん)が書き残した『田中千弥日記』から三句挙げる。当時、秩父地方は俳諧、連歌、和歌といった民衆文化が盛んで、千弥はその「秩父だに全体の俳句ボス」(兜太)的存在であった。その門下には、井上伝蔵はじめ数名の秩父事件の主力の名が並んでいる。兜太の鑑賞は深い。そのまま引用しよう。

 一句目。蜂起には批判的だったこの神官も、借金農民の鬱屈した心意から目をそむけることはできなかったのである。
 二句目。蜂起農民の大宮郷占拠のとき詠い……「横しまに荒ぶる」という言いかたに、憎しみも嫌悪の情もなく、むしろ「こまった連中だ」といった、どこか親しいものの大あばれに渋面をつくっている人の心理がのぞくのも、納得できます。
 三句目。「こととひ」は、石間村に進出した憲兵によるものだが、「岩根木根」に農民が喩えられていて、農民の維新政府への「こととひ」ととれないこともありません。そんなあいまいさを残しているところに、むしろ、千弥の心理の複雑さを見るおもいがあるのです。

  人の気も仏となしぬ盆三日 伝蔵
  おもかげの眼にちらつくやたま祭 伝蔵
  想いだすことみな悲し秋の暮 伝蔵

 蜂起軍の会計長を務めた井上伝蔵が、事件後、伊藤房次郎という変名で潜行していた北海道での俳句(俳号・柳蛙)である(森山軍治郎『民衆精神史の群像』、小池喜孝『秩父颪』より)。伝蔵は下吉田村の生糸問屋の次男坊で素養があり、秩父自由党に属し困民党を育てた一人で、事件当時三十一歳。逃亡中の欠席裁判で死刑の判決を受けたが捕らず、北海道を転々として、代書業などで家庭ももち、ついに六十五歳で北見に没した。映画「草の乱」の主役でもある。

 一句目。「人の気」への感受のただならぬ鋭さ……背後に、遠く深く、秩父の仲間たちへの思いがこめられていて、だから「仏となしぬ」が無気味なくらいにありありと伝わるわけです。

 二、三句目には、兜太の個別の鑑賞はないが、全体として潜行中の井上伝蔵の「内面の修羅」をとらえた、次の兜太の鑑賞には、人間考察の深淵を見る思いがする。

 感性の明るい人が内閉と耐忍のなかに意思を貫こうとするとき、そこには、それこそ、はた目には分らぬ内面のたたかいがあるものです。明るく感じやすいだけに、自分に対して厳格になり、内面の修羅をふかめます。伝蔵という人は、そういう人であり、そういう内面のたたかいのなかで、三十五年を生きとおした男とおもう。(「私のなかの秩父事件」)

 最後に、俳人兜太が秩父事件の考究に集中して取り組んでいた一九七〇年代に、同じ心意で作句した俳句作品について、私見を加え鑑賞、考察しておこう。第五句集『早春展墓』(一九七四年刊)の末尾の「山峡賦」(21句)に収められた、次の二句に注目したい。

  山峡に沢蟹のはな微かなり
  沢蟹・毛桃喰い暗らみ立つ困民史

 一句目について、兜太は『金子兜太自選自解99句』(二〇一二年刊)で、「私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが」と、そのモチーフを感動のまま書いている。

 その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

 この兜太自解で、秩父山峡の沢蟹を「紅い沢蟹」と表現していることに、私は着目する。言うまでもなく沢蟹は生息場所により紫褐色にも、朱赤色などにも変化する。だが兜太が秩父谷で「出会」ったのは「紅い沢蟹」だった。私にはその「紅い沢蟹」が、なにか秩父事件で散った数多の農民たちの魂とも、化身とも見えてならない。沢蟹たちは鋏をもち、あぶくも出す。「はな微かなり」は、その弔意とも読める。
 二句目。沢蟹も毛桃も食べる貧窮した秩父の農民たち。その困民党員らの「暗らみ立つ」姿に、この句のポイントがあると思う。暗鬱の秩父谷から一条の光芒を求めて立ち上がる。そこに秩父農民たちの根性があった。人間としての誇りと祈りがあったのである。兜太は、その「困民史」に同郷人としての篤い心情を寄せている。
 加藤楸邨の「寒雷」で、兜太の出征前からの盟友であった俳人牧ひでをは、その著『金子兜太論』(一九七五年刊)の末尾の「作品の鑑賞」で、この「沢蟹・毛桃」の句を挙げ、こう結んでいる。

 ここで私は初めて秩父と金子の内面をつかんだようだ。
 ……衆のつきることをしらないエネルギーと山影の情念を、山峡の沢蟹と毛桃に、光の明暗におのが心根をすりつけてうかがう。
 ……そこに、反骨の風土的器量を探るとき収束をいそがない爽やかさが金子の生きざまにおいて逆に見えてくるのである。「喰い暗らみたつ困民史」。まさに俳句における人間探究派の正統を位置づけるものである。
 それは、関東平野と山陵風土の中で存在を詩眼で喰いつぶし背負いたつ存在者である金子兜太のおもいのいさぎよさ、粘着力、剛毅さにほかなるまい。
 抵抗を示しつづけた詩業は特定のイデオロギーにもとづくものではない。山影風土が生んだ日本文化の稀有の必然であった。

 以上、述べてきた秩父事件に関する研究・調査、評論、俳句の総ては、秩父人兜太にとって、己の生きざまに欠かせない文学的課題であった。私はその全体を、広く俳人兜太の輝く俳業の一つとして、積極的に評価したいのである。
(次号へつづく)

『始原の俳句―兜太・芭蕉そして空海について』野﨑憲子(菊池寛記念館文芸講座2020/9/12講演)

『始原の俳句―兜太・芭蕉そして空海について』野﨑憲子
(菊池寛記念館文芸講座2020/9/12講演)

野﨑憲子さんによる「菊池寛記念館 文芸講座」2020年9月12日講演の原稿です。
PDFでご覧ください。

俳人兜太にとって秩父とは何か② 岡崎万寿

『海原』No.22(2020/10/1発行)誌面より

新シリーズ●第2回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 ㈢ 父・伊昔紅と俳人兜太の原質形成

 ⑴『俳句日記』にみる父子の肉体感

 見てきた通り兜太は、秩父人としての野性、剛直、男気をたっぷりもった、父・伊昔紅を敬愛していた。「人間としてまっとうであれ、それが父の唯一の教育方針だった」(『二度生きる』)。中学四年も終わる頃、将来の進路の相談で、医者は継ぎたくない、高校(旧制)は文科にゆきたいと話したときのことを、『俳句日記』(第二巻)でこう記している。

 一九八一年(九月十日)
 起きぬけに毎日新聞『教育の森』からいわれている「私を育てた一言」を書く。父の「やりたいようにやれ」。自由人への導きの言として書きおさめて満足。

  往診の靴の先なる栗拾う 伊昔紅
  この峡の水上にゐる春の雷 伊昔紅

 兜太は「わが愛句鑑賞」として、『遠い句近い句』を一九九三年に出版したが、その冒頭に父・伊昔紅の俳句五句を挙げている。一句目には「昭和前期の山国開業医の日常がにじんでいる」と、二句目には「ゴロゴロ鳴りだした春雷に対しても客観的ではない。こいつも秩父もん、の心情がはたらいて、“水上にゐる”などと擬人化するのである」と、秩父人ならではの鑑賞を加えている。
 そして父亡き後、これら伊昔紅の俳句について、講演などで自在に語っていた。

 一九九二年(四月二十一日)
 大宮ルミネで、「伊昔紅の春の句」を一時間半喋る。「この峡の水上にいる春の雷」からはじめる。


  元日や餅で押し出す去年糞 伊昔紅
  長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太
  野糞を好み放屁親しみ村医の父 兜太

 いやはや、この父にしてこの子ありの句である。この肉体感、スカトロジー(糞尿愛好趣味)は、当時の農山村の村落共同体では、ごく自然な日常の暮らしそのものでもあった。兜太は『中年からの俳句人生塾』(二〇〇四年刊)で、こう述べている。

 自分はスカトロジーである……なぜそうなったのか、と自問してみると、山国育ち、しかも糞尿が農家の肥料として大いに使われていた時代の育ち、ということが浮かぶ。少青年期のわたしは、おとなたちの糞尿談を含むヘソから下の話を毎日聞いていた。日常会話に欠かせない材料であり、それもユーモラスに語られていたのである。

 秩父人を自称する兜太と父・伊昔紅は、裸踊りといいスカトロジーといい、まこと肉体的同体感ぴったりの父子であった。しかしそれは、あくまで秩父人としての肉体に発した同体感であって、理屈ではない。思想や生き方の上では、戦後になっても変わらない「父の好戦いまも許さず夏を生く」(『日常』)の面もあった。
 さて兜太の『俳句日記』は、そうした父・伊昔紅と長男・兜太との内面をふくむ暮らしの綾を、実にリアルにドラマチックに書きとめている。父子の体温が、じんわり伝わってくるようだ。

 二月十九日(一九六七年・歳)
 上棟式で熊谷へ。……秩父から父と千侍、儀作氏来てくれて儀作氏の音頭と父のハヤシで、大いに踊る。夕陽赤し。


 八月七日(一九六九年・49歳)
 千侍から電話で、父が血便を出し、ショック状態にあるから、すぐきてくれとのこと。自動車でゆく。……輸血中。点滴中。血圧88。

 八月九日
 父、快復歩調。血圧130。ただ頑固で、なにをやりだすか心配。

 一月一日(一九七〇年・50歳)
 父より電話。小生の昨年末速達した校歌(筆者注・兜太は秩父市立皆野中学校の校歌を作詞)がついたらしい。父、よろこんでくれ、讃めてくれる。……うれしい。なんとない自信と不安がはっきりし、久しぶりに、こうした率直な意見交換が父とのあいだにできたことがうれしい。

 五月二十九日(一九七七年・57歳)
 父の米寿の祝いをかねた七彩会主催、句碑建立記念句会。出席。十三年ぶりとか言われる。

 五月三十日
 昨夜、父を小用につれてゆき、男根をもっていてやると、小便をした。その男根もしっかりしていて、小生並みで、母が小さくなったと心配するのは見当ちがいだ。母は、かたくなっているときだけしか知らないのではないか。

 九月三十日
 今朝四時半、父死す。八十八歳。一人の男の一生が――こうして気張り、こうして老いてゆく、その姿が――手にとるようにおもいだされる。自分の心構えもかたまってくる。〈鑑〉ができた。

 十月一日
 父、火葬。……『ある庶民考』を棺に入れる……二時間で焼ける。骨白く、美し。壺にいれた骨を手で撫でる風習に従う。これはなつかしいことだ。

 まことに最後まで、肉体感の濃密な父子関係であったと思う。

  ⑵「風土は肉体なり」の実相

 兜太はよく語っていた。「しかし、伊昔紅がいなければ今日の私はいません。これははっきりしています。」(『語る兜太』)そして、こうも言っている。

 私の場合は、俳句づくりでも特殊な人間でね、私自身が俳句なんですよ。私は埼玉県の秩父盆地で生まれました。山国ですな。そこで育っていく過程の中で、私の体の中に、俳句と言える要素が染み込んでしまったんですね。(「コムウェア」(二〇一一年九月号)

 この「私自身が俳句なんです」という表現は、二〇〇九年二月、兜太が「正岡子規国際俳句大賞」を受賞した際に述べた言葉である。

 しかも考えてみますと(生まれは)一九一九(一句一句)年ということで、生まれながらにして俳句しかできない男です。(中略)私自身が俳句なんです。(『人間金子兜太のざっくばらん』二〇一〇年刊)

 また最晩年の著『のこす言葉 金子兜太 私が俳句だ』(二〇一八年刊)も、題名自体そうだが、先の「コムウェア」の引用文によると、この俳人兜太による自己確認とも言える「私自身が俳句」という言葉は、なんと秩父で父・伊昔紅のもとでの生い立ちに発したものであることが、よく判る。
 そしてそれは、秩父での生長過程で、兜太の体の中に「俳句と言える要素が染み込んでしまった」ためだと言う。「身に染み込んでしまった」とは、兜太の表現でいえば「肉体化」したこと。つまり秩父での幼少期に持ち前の資質に加え、俳句づくりの元となる要素が、兜太の体の中に俳句的体質となって肉体化していった、ということである。
 それは何か。具体的に兜太は三つを挙げている。兜太の言葉で、その実相に迫りたい。

 ① 一つは俳句の五・七・五のリズム感である。あの「秋蚕あきご仕もうて 麦き終えて」の秩父音頭は、父・伊昔紅が一九三〇年の明治神宮遷座十周年を記念して、それまでの野卑で猥雑だった秩父豊年踊りを、歌詞も踊りも新たに作り直し、世に出したものである。その由来について、兜太は「秩父音頭再生由来」と題して『秩父学入門』(清水武甲編・一九八四年刊)に載せ、こう結んでいる。

 私が秩父をおもうとき、そのときの人々のいかにも人間くさい息吹が甦ってくる。そして、秩父が〈ふるさと〉として私の体のなかにしみこんでくるのも、そんなときである。

 その秩父音頭の歌と踊りの練習を、兜太の家の庭に集って、毎晩のように大小の太鼓、笛やかねも使い、にぎやかに続けていた。奉納が終わったあとも、数年間そうだったようだ。少年兜太はそれを聞きながら寝たり、また子どもたちと七七七五音の歌詞に慣れ親しんで、大いに唄ったり踊ったりもした。

 私が小学生のころでした……秩父音頭の歌は「七七七五」でしょ。五七調、七五調は、日本書紀以来の古い叙情形式の基本です。それが私の耳から、頭の中に染み込んで、やがては体に染み込んだわけです。これが一番大きかったと思います。(前掲「コムウェア」)

さらに俳人兜太にとっては、この五七調は秩父音頭のリズムであるとともに、村落共同体としてのふるさと秩父から湧きでてくる、庶民の韻律でもあったようだ。

 どうやら、五七調は私には〈ふるさと〉として感じられている。(中略)山仕事や養蚕のきつい労働があり、それだけに助け合う親しさがあった。そうした良き日日の村落共同体としての〈ふるさと〉が、私の身体のなかにしみこんでいて、五七調はそこから湧きでてくるもののようにおもえてならないのである。(『俳句の本質』一九八四年刊)

 ② 二つは、まるごと人間を詠む俳句づくりの基本と面白さを体得していたことである。村医者で自転車で山坂を往診していた父・伊昔紅は、戦時色のただよう昭和初期から、広い自宅で秩父音頭の練習とともに、句会を開き俳句にも情熱をそそいでいた。
 独協中学で同級生だった水原秋櫻子が主催する俳誌「馬酔木あしび」の秩父支部であるが、その句会の模様が、少年兜太にとって何とも面白いものだったようだ。句会は月、一、二回。山国で知識に飢えた三、四十代の男性たち二、三十人が、自転車をころがし、歩いて峠を越えて夜の句会に集ってきていた。
 彼らは学歴無用で、意外とおもえるほど知的野性をもち、詩的刺激をもとめていた。仕事は山仕事、木こり、こんにゃく畑を耕す、川漁で鮎をとったりする人、猪や鹿を撃つ猟師などいろいろ。毎日働いて汗を流し、そこから人間臭い俳句を作っていた。
 兜太は興味いっぱい、そうした人間そのものを詠む句会を覗いていた。そして後年、こう人生的に振りかえっている。

 どうも秩父というところは、人間そのものがみんな俳諧みたいなんです。……貧しい地帯の人たちというのはその行動形態自体が諧謔、滑稽なんですね。……だから私のなかにある俳句の始まりはもともと諧謔、滑稽です。俳句がしみついていたということは、イコールそれがしみついていたということですね。(「三田文学」二〇〇四年冬季号)
 私が子ども時代に憧れた俳人は、そういう知的野性を持った山の人たち。そこでの生の俳句体験が、私を俳句にのめりこませた原因になりました。(『あの夏、兵士だった私』)


 ③ そして三つ目は、天上、地球上のあらゆるものにたまを感じるアニミズム、兜太の言う「生きもの感覚」である。そのアニミズムの体質を、兜太は「秩父が与えてくれた“生きもの感覚”」と受けとり、自著『荒凡天一茶』(二〇一二年刊)でこう述べている。

 “生きもの感覚”は、基本を、豊かな土の世界のなかで幼年期を過した人間のたいへんな収穫なのではないか、と思っています。“生きもの感覚”に満ち満ちた知的野性の男たちのことが、いま私のイメージのなかにあります。ですから“生きもの感覚”は、本物の野性と、五七五の形式が結びついて、そこに育つという思いがあります。

 そして自らの体に肉体化したアニミズムについて、ビビッドな実感で具体的に自作を例に、こう解明している。

  おおかみに螢が一つ付いていた
 これが私のアニミズムの代表的な句なんですが……秩父は私の産土うぶすな。その原郷を思い浮べるときには、必ずニホンオオカミが現れ、どこからともなく現れたオオカミをよく見ると、蛍の光が輝いている。そんな命の営みの光景が、私のアニミズムの世界。「蛍」は霊魂の象徴で、生物・無機物を問わず、すべてのものの中に霊魂が宿っているとい
うのが、私の考え方です。(『あの夏、兵士だった私』)

 兜太はよく「風土は肉体なり」とか、「私は俳句です」とか言っていた。見るとおり、なるほど秩父での幼少期、その人間が形成される過程で、俳句づくりの基本となる要素が日常的に自らの肉体化し、「俳句人間」となりきった兜太ならではの言葉だと言えよう。

  ㈣ 山影情念と兜太の中の秩父事件

  ⑴ 秩父人兜太の人生課題

  山影情念狼も人も俯伏き 兜太
  困民党ありき柿すだれの奥に 兜太

 第十五句集『百年』からの二句である。この遺句集には、なぜか山影、狼、秩父困民党にかかわる俳句が多い。
 一句目は「山影十二句」中の一句。「山影情念」という言葉は、ふるさと秩父の重畳たる山影に発した兜太の造語で、そのフィルターを通過すると秩父の風土も人間も、暗く鬱屈した、それでいて一条の光芒を求めて止まない情念の世界に導びかれる。その空間では、イメージの狼も人間も、みんな俯伏きなのだ。
 二句目は、明治十七(一八八四)年の秋、紅葉の秩父山峡で暴発した、借金農民たちの困民党事件への親しみをこめた、ふるさとの歴史回想の句である。ちょうど柿の季節、農家の軒先には市場にも出す産物の干柿が、すだれのように垂れ下がっている。そしてその「奥に」という表現に、事件にかかわる何かがありそうだ。家人の相談か謀議か――想像力がそそられる。
 ところで今日、「山影情念」という言葉を、なにかポエジー感覚で軽く捉える向きもあるが、そうではない。兜太の幼少期からの体感に根ざしたこの言葉は、光と闇の溶けあった複雑で、もっと暗鬱で、耐忍的行動的で、自らをふくむ秩父人特有の内面性を表現したものである。
 そしてそれは、ほとんどが農民の秩父人が一斉蜂起した困民党事件と、兜太の中では深く重なり合った言葉であった。朝日選書『思想史を歩く』上巻(一九七四年刊)所収の「秩父困民党」で、兜太はその情念をこめて書いている。

 私は山影情念ということばで、山国住民の内ふかくわだかまる、暗鬱で粘着的な実態を窺うのだが、それはだから、光には敏感だった。開明の空気は、内なる暗と外なる明の対照をより鮮やかにしていったから、見えてきた光(外からの、あるいは外への)が理不尽に閉ざされたときの暗部の激発は、誰も妨げるものではなかったのだ。しかし日頃は、わずかな光でも、遠い峠の上の薄明を望むように、それを頼りに耐えるしかなかった。粘り強く、剛毅に。(中略)俳句作りの私が、困民党にふかい関心をもつのも、やはりそれが一条の光として、秩父育ちの私の山影情念に射しこむからにちがいない。

 こうして山影情念の秩父人として成長しつつあった兜太は、旧制中学四年のときに、古老からの聞き書きをもとに困民党事件にかんする一文を、校友雑誌に発表している。「はじめて秩父困民党という言葉に触れたときは、なんともいえぬ新鮮な感銘をおぼえた」(「秩父困民党―山畠や蕎麦そばの白さもぞっとする一茶」『定住漂泊』所収・一九七二年刊)そうだ。
 昭和十年当時は、大事件後の徹底した弾圧のもとで、以来、秩父の農民たちはかたくなに口を閉ざし、「秩父暴動」「暴徒」という言葉だけが、もっぱらだった。そんな中で、少年兜太の内面には、早くもリベラルな反骨性が育っていたのである。
 それから長い歳月がたち、秩父を離れた兜太は俳人として、衆知の存在感を広げた。しかし兜太の中には、秩父人の血がいつも熱く流れていた。一九七六年十一月、秩父市中央公民館で行われた「秩父事件九十二周年記念集会」での講演で、こう語っている。

 離れている私の身体からだが、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく……私の存在の根っこのところに、デンと座っているような感じが、秩父事件を通じて殊にふかく受けとれていたように思われるのです。(「私のなかの秩父事件」『ある庶民考』所収・一九七七年刊)

 その時、兜太は五十七歳。秩父事件の一文を発表した十六歳から、四十一年たっていた。秩父では関係者・研究者たちの努力もあって、一九五四年十一月から最初の「秩父騒動七十周年記念集会」が開かれるなど、秩父事件の顕彰・研究の運動が次第に活発化していた。
 兜太が本腰を入れて、発酵してきた秩父事件の研究・調査に取り組んだのは、一九七〇年代に入ってからである。一九六七年に熊谷に転居し、秩父連峰を望み見ながら産土・秩父の土への認識を、新たにしていた。
 小林一茶の研究を手がかりに、自らの存在の原点にかえって、秩父の農民衆の生きざまを探り、そこに自己の内面に蟠るきずなの深さを照らし出してみたかった。まずその兜太の『俳句日記』をめくってみよう。

 十一月四日(一九七一年・52歳)
 書棚の本の位置を……一茶関係は机上に集約し、棚には、秩父困民党関係と県、市の資料を集中し、その横に戦記関係と戦争小説中参考になるものを集める。


 九月二十二日(一九七二年・52歳)
 車中、困民党、居眠り。降りたとたんに、テーマひらめく。「原点」とは何か。自由党と困民党の接点はどこか、徳川↓明治への経済変化と山村農民の経営形態(小作農化でなく小営農の副業喪失による貧困化――がよいと思う)。


 九月二十三日
 一日、「秩父事件資料」を読む。秩父事件、筋は見えているが〈独自のポイント〉がつかめない。

 九月二十四日
 一日、「秩父事件資料Ⅰ」。経済的背景研究の要あり。……小作料問題も出ないほど土地が少ないのだ。商品経済丸浸り下の困窮。それゆえの複雑さ。

 九月二十九日
 昼、朝日を訪ね、……旅程打合わせ。「内なる困民党」を軸にして下さい、というところが気に入る。

 十月一日
 朝八時に起きて、秩父事件資料から抜き書き。蜂起までの動きと後の動きが、系統的に頭に入っていないと、想像力も働かない。

 十月六日
 途中で金子直一先生を乗せ……志賀坂峠を越える。神流かんな川は河相よし。思えば、明治十七年十一月五日夜六時から冷雨で、翌六日、神ヵ原から白井まで困民党も雨のなかを歩いている。丁度いいじゃあないかと直一先生。……夜霧の武道峠を越えて、千鹿谷へ。

 十月七日
 快晴。西谷の谷を三本上る。石間いさまの谷がよい。大田部近く、広々と秩父の山山を眺望し、〈開明〉と〈暗鬱〉をおもう。あと吉田椋神社から小鹿坂峠音楽寺。そこで写真。

 十月十六日
 七時に起き、一気にまったく憑かれたように一部を書き上げてしまう。……二部、事実を追いまわして難渋するが、山影情念と侠気にきて、軽快となる。得意のところだ。

 十一月一日
 秩父の人間が、秩父農民を語れずしてどうなるか、持ち帰る。

 十一月二日
 やっと、(秩父)山地農民の特性として、①耕地②行動性③土と死――継続と断絶。

 十一月二十一日
 朝日の安間氏から電話で、困民党終了への謝辞。評判よしの言、うれしい。小生も満足感あり。

 以上の『俳句日記』は、先に引用した『思想史を歩く』の「秩父困民党」(「朝日」四回連載)を、ちょうど執筆する舞台裏の記録である。気付くことは「秩父の人間が、秩父農民を語れずしてどうなるか」と、秩父事件をわがこととして、実に丹念に資料にあたり実地を調査し、考えぬき、実証的総合的に解明しようとしていることだ。
 たえず事件の「原点」とは何かを確め、〈独自のポイント〉を探り、「内なる困民党」を捉えようとしている。まさに秩父人なるわが生き方として、体ごと困民党事件と取り組んでいる感がある。
(この項つづく)

俳人兜太にとって秩父とは何か① 岡崎万寿

『海原』No.21(2020/9/1発行)誌面より

新シリーズ●第1回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 つなぎに

 金子兜太が九十八歳で他界してから、間もなく二年になる二〇二〇年一月十九日の日本経済新聞は、文化時評「いま輝く俳人兜太の『現役大往生』」の大見出しで、こう書き出している。
 この世を去ったあと、これだけ惜しまれる俳人はちょっといない。
 その通りと思いながら、金子兜太インタビューの著『わたしの骨格「自由人」』(聞き手・蛭田有一・二〇一二年刊)をめくってみた。

 後世がどう評価するかというのは後世に任せればいい。……偉そうに見えるけど、わたしの自由人たるゆえんじゃないかな。
 自由の俳人だったと言われればうれしいですよ。俳句そのものみたいなやつだったと言われてもうれしいですし。それから、俳句以外にとりえのないやつだったと言われてもうれしいです。

 わたしが秩父のああいうところで育ったから俳句になったんですけど、違う環境におかれたらわかりませんね。そういう点で本当に親の恩を感じますね。それから、風土の恩、秩父の恩、産土神の恩というのは感じるな。

 また『いま、兜太は』(青木健編・二〇一六年刊)では、こうもふるさと秩父を強調している。

 まったくそのとおり。俺から秩父っていうふるさとを除いたら、ほとんどゼロに近いね。間違いなく、秩父というのが根底です。

 小論はここから、そうした俳人兜太と産土・秩父との、希有とも言える濃密な一体関係の考察に入る。それは刊行された『金子兜太戦後俳句日記』第一、二巻を流れる、兜太ならではの興味深い第三の特徴といえる(第一、二の特徴については「海原」10・11・12、17・18・19号に)。
 まず、その好個な一文を『俳句日記』から。

 一九七七年(四月十七日)
 全集の自句自解に着手。〈からだ〉ということ、秩父(風土)との同体感ということ。〈からだ〉その存在を考え、〈自在〉にいたる。〈自在〉〈自在〉。

 テーマは、秩父ありて俳人兜太とその「土の思想」あり。そのため、あえて独立した論考としている。

 ㈠ 秩父と同体感の青年兜太

 俳人兜太の原点が、①産土・秩父と、②出陣したトラック島戦場体験にあることは、広く知られるようになった。しかしその「原点」なるものの捉え方が、今なお常識論の域にとどまってはいないか。
 兜太がそのトラック島戦場について、想像を絶する人間の極限体験の真実を、リアルに語り伝えたいと、小説「トラック島戦記」の執筆に二十二年もの歳月を投じていた、という隠れた事実は、『俳句日記』を中心に既に述べた。では秩父と兜太については、原点というに相応しい内容で、理解が深まっているだろうか。小論の問題意識は、そこにある。
 たとえばその判りやすい事例として、一九四三年秋、青年兜太が戦地へ出征するに当たって秩父強石こわいしの旅館で開かれた、壮行会の模様をどう見るかについて、少し立ち入って分析してみよう。そこでよく引用されるのが、兜太の俳句の師である加藤楸邨の「金子兜太といふ男」と題した、次の文章である。

 川にさし出た古い座敷は渦巻くやうな熱気で誰も彼も熱のかたまりのやうな集まりであった。そのうちに一人黙り、二人黙って、一同しいんとひとつの踊りに見とれてしまった。伊昔紅・兜太父子が踊り出したからである。しかもその踊りはすっかり着物をぬいで生れたままの姿なのである。父も子も声を合はせ、足どり手ぶりを合はせて、二本の白熱した線のやうに踊りつづけるのだった。
 私はずい分多くの若者を戦場に送ったが、こんなにふくらみのある明るい、それでいてかなしさの滲透した壮行は前にも後にもまったく経験したことがない。(「俳句」一九六八年九月号)

 今もって感動的なシーンだと思う。死地ともなる戦場へ赴くわが子への体ごとの餞として、秩父人らしく原初の姿で秩父音頭を踊りつづける父・伊昔紅(本名・元春)。その父の切なる想いを受けとめ、ともに丸裸で踊りまくる兜太。この純粋素朴な親子の心情は、私も同様、いたく胸を打たれる。
 だがしかし、俳人兜太の全人間的な評価が改めて問われる今日、そうした戦場へ向かう美談的な父子のエピソードだけに終わらせてよいものだろうか。そうした一面的な評価が今なお残っているが、それは戦後の兜太の生き方とも違うと思う。
 青年兜太は先にも紹介したが、トラック島からの引揚船上で、「自分に戦争参加の口実をつくって、むしろ積極的に戦争に参加していたという、そういう曖昧あいまいな生きざま」を「船酔い」だった、「二度と船酔いはすまい」(『わが戦後俳句史』)と、真剣に自省し自己痛打して、戦後の反戦平和の生きざまを確かと定めている。文字通り、そんな生涯を貫いた。
 師・楸邨がいたく感動し、戦後までしばしばその強烈な印象をエッセイにしている(最初は「寒雷」一九四三年十一月号「秩父の夜」)、その壮行会での伊昔紅・兜太父子の一糸纏わない秩父音頭踊りも、敗戦後に兜太が深刻に自己省察している、その「船酔い」の一つではなかったのか。いや、その象徴的な行為であったと思う。
 現に兜太自身、作家・半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』(二〇一一年刊)の中で、率直にこう語っている。

 戦争というのは、やはりすごい高揚感があるんですよ。俺なども勇ましく出征するという気持ちだったから、裸踊りをしたこともあったな。(中略)踊りながら死んでもいいと思いました。民族のためにいのちを捧げる。もしも勝利すれば、秩父の連中は豊かになる。そういう馬鹿みたいなことを思ってたんだよ。

 見るとおり、「踊りながら死んでもいい」と思うほど、戦争への高揚感があったようだ。兜太は自ら語っているように、少年の頃からリベラル志向が強く、旧制水戸高校の頃は先輩や教師たちの「自由人」ぶりに憧れ、それが誘引となって俳句に熱中している。東大生の頃は「感性の化物」みたいに、俳句だけに頭を突っこみながら、「オレは最後の自由人だ」と豪語さえしていた。
 それがどうして、大学の半年繰り上げ卒業が近づくにつれて「戦争に反駁しつつ戦闘を好み、血みどろな刺戟に身を置くことを望んだ。トラック島は好むところであった」(『少年』後記)と書くほど、心境が大きく動いたのか。「民族の防衛」といった大義名分だけで、そんなに高揚する兜太ではない。もっと内発的心情的に青年兜太を突き動かす、何物かがあったはずだ。――それがふるさと秩父だ、と私は思う。
 最晩年のインタビューで、兜太自身こう語っている。

 郷里の秩父は、養蚕で生活する町でした。それが昭和恐慌で繭の値段が暴落し、皆貧乏になった。郷里に帰ると集落の人が言うわけです。「兜太さん、戦争に行って勝ってくれ、そうすりゃわしらは楽になるだろう」と。学校にいるときには、戦争はくだらんと思っているのに、郷里の人に言われると妙に雄々しい気持ちになって、この郷里の人をなんとか救いたいと思う。敵地に行く以上は第一線で戦いたいと希望して、トラック島になったのです。(『金子兜太私が俳句だ』二〇一八年八月刊)

 これが兜太の本音だと考える。つまり好戦への内面の変化の中心は、なにより秩父にあった。その人間臭い村落共同体の貧しい秩父である。
 先の兜太壮行会の模様を感動的に書いた加藤楸邨エッセイは、戦後二十三年たって俳句総合誌「俳句」の〈特集・現代の作家〉の中で、兜太の作家論として書かれたもので、なぜ兜太が進んで戦争に参加したのか、父子で壮行の裸踊りをしたのか、その内面や背景にまで言及する文章ではなかった。
 むしろ戦時中、その感動の直後に主宰誌「寒雷」に書いた「秩父の夜」(前記)のほうが、秩父人ならではの雰囲気が立ち上っている感がある。

 伊昔紅氏はひよいと腰を低くして両手をひろげ、鷺の翔つやうな形で踊りはじめた。それはまことに素朴な繰り返しであった。然し、伊昔紅氏の老いた顔は何か宙を追ふやうに緊張し手の一拍足の一投はきりりきりりとすさまじい気魄が籠ってゐた。私は息を飲んだ。兜太はこれもぢっと父の横顔を凝視してゐる。……
 「よし、俺も踊る」。さういって兜太が立った。

 その壮行会の折に、こんな句が詠まれている。
  鵙の舌焔のごとし征かんとす 楸邨
  秋の灯に溢れし友よ今ぞ征かむ 兜太

 壮行の秩父の宿で、伊昔紅が家元である秩父音頭を、秩父人そのものの伊昔紅・兜太父子が生まれたままの姿でうたい、踊る――加藤楸邨が、「それは実にすさまじい瞬間であった」、私は「あふれくる泪をぢっとかみしめてゐた」と感激したのは、その秩父人の生身の心情のこもる、肉体もろともの表現ではなかったのか。
 ちなみに「オール読物」の二〇〇六年二月号に載った小沢昭一と金子兜太との対談「愉快、愉快!尿瓶健康のすすめ」(『悩むことはない』文庫版所収)では、こんなやり取りがはずんでいる。

 小沢 お別れの宴席で、お父様と二人で素っ裸で踊り狂ったという。……皆、感動したそうですが……裸が基調の父子なんですね(笑)。
 金子 その通り、その通り。秩父っていう山国自体が、そもそも裸暮らしが中心なんです。

 ここで肝要なことは、兜太の戦争参加とその壮行会での裸踊りの背景にあるものが、育ったふるさと秩父全体のひどい貧しさにあったことである。

 少青年期を通じての記憶といえば、山国の暮らしの「貧しさ」ばかりといってよい。昭和初期の農村不況は、わずようさんかな畑作と養蚕、山仕事で暮らすこの山里にも深刻だった。開業医(引用者注・兜太の父は村医者)の生活にもそれは端的にひびいていて、とにかく現金収入がなかった。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』二〇〇七年刊)

 それほど秩父は貧しかった。秩父人の大方が、戦争で貧乏から抜け出せると思っていた。兜太には理屈でなく、そんな秩父人たちの心情への肌のふれ合う同体感があったのだ。つまり出征する兜太は、肉体ごと秩父人であったのである。

 ㈡ 俳句にみる兜太と秩父と戦争

 金子兜太と産土・秩父との同体感は、俳句作品を分析すればさらに鮮明となる。

 白梅や老子無心の旅に住む(昭12)

 この句は兜太にとって、文字通りの第一作であり、「兜太の俳句開眼」(安西篤)の句でもあった。そして「この一句が一生、私を俳句と別れられなくしてしまった」(『語る兜太』)と、兜太は言う。まさに俳人兜太にとって、人生的な作品である。
 それは旧制水戸高校一年(十八歳)の時である。兜太は、自由人として尊敬していた一年先輩の出沢珊太郎に強く勧誘され、水高句会に顔を出した。そこで「お前も句を作れ」と言われて困ったが、「よしやってみるか」ということで、即興的にひねったのが、この一句であった。
 意外に好評で、珊太郎から絶賛されたそうである。それですっかり自信を得て、以後、俳句のとりこになったのが正直な経緯のようだ。
 兜太はその処女作の偶然の出来栄えに、含羞もあって、今だに、それはちょっと前に読んでいた北原白秋の詩(筆者注・「老子は幽かに坐ってゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為。」)の本歌取りなんですよ、と謙虚である。『金子兜太自選自解99句』(二〇一二年刊)でも、こう書いている。

 時は二月、偕楽園の梅の季節。そこで、白梅と老子を結びつけた。確かに北原白秋の詩で、老子の旅に触れた作品を読んだばかりだった。

 この句について、安西篤が名著『金子兜太』(二〇〇一年刊)で「兜太の俳句開眼であった」と捉えているのは、鋭い洞察だと思う。その後に展開する兜太俳句の特徴である独自のリズム感と、スケールの大きい内面の映像化が、処女作にしてみごとに表現されているからである。
 では、この句の背後にある、青年兜太の内面とは何か。なぜここで、古代中国の思想家・老子なのか。――そこからふるさと秩父と兜太との同体化した繋がりが見えてくるのである。
 まず兜太は、俳人・池田澄子との対談集『兜太百句を読む』(二〇一一年刊)で、その当時の自分の気持ちをこう語っている。

 それから高校に入る頃特にですね。私は漂泊者とか放浪者とかいう者の句が好きだった。だもんだから山頭火と放哉、読んでたんですよ。作らないけど読んでた。それからそれに釣られて老子、荘子、老荘の思想っていうのにおぼろげな興味を持っていた。そんなことが土台にあったんでしょうな。(中略)
 その時自分の気持がね、そういう放哉とか山頭火に憧れる、あるいは老子、老荘の考えに憧れるというところがあったわけです。当時、田舎の連中はみんな戦争やりたくてしようがなかったんだ。戦争で生活が楽になると思ってるわけだ、貧乏だったからね。それで、学校で勉強していると、一部の学生ですけど、戦争はよくないと思っていた。私もそっちの方にかぶれてたからね、矛盾を感じていた。……つまりそういう心というか精神というか、精神状態が放浪状態にあったということかな。時勢に対する割り切りができなくて、……

 少し長い引用になったが、水戸で詠んだ兜太の処女句の背景、その内面に、十五年戦争下の秩父の人びととの、こんな複雑な情感の揺れがあったのである。兜太が老子、荘子の思想に興味をもち憧れを抱いたのも、そうした「精神の放浪状態」のもとで、青年らしく人間の真実のあり方を模索してのことだった。
 ここで言う老子、荘子の〈タオ〉という思想は、時間・空間を超え、自然と一体となった、したがって「無心にして無為」という真の自由、ありのままの自己のあり方を探究するものである。老子は自由な漂泊者といわれている。まさしく「老子無心の旅に住む」の世界である。いつか線画で見たことがある、牛に乗った老子の映像が浮ぶ。
 先の対談集で、池田澄子が「これは定住漂泊ということですよね」と、その第一作から今日まで続く「はてしない旅」の表現に、感心していた。その通り、それから四十五年余たった『兜太俳句日記』でも、老荘思想にかかわるこんな記述が見られる。

 一九八三年(五月三十一日・63歳)
  一茶。読書を、『詩経国風』と『荘子』に集中することを決める。一茶のおかげを消化しないといけない。
 一九八九年(七月十九日・69歳)
  小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

 述べてきたように、兜太の第一作の背景には、ふるさと秩父が原郷意識としてどんと坐っているのである。
 続いて兜太の初期の作品(第一句集『少年』・補遺『生長』所収)で、トラック島戦場へ出征する以前の、秩父と戦争にかかわる作品の中から、戦争への意識の変化を感じさせる俳句を、三態に分類して、簡潔に鳥瞰してみよう。

 ①蛾のまなこ赤光なれば海を恋う(昭15)
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(昭17)
  山脈のひと隅あかしのねむり(昭17)

 いずれも学生時代、秩父に帰った際に詠んだ兜太の佳吟・代表句である。そこには青年特有の清潔な抒情感とロマンチズムが、秩父の風土にふれ、いきいきと表出されている。秩父の自然児・兜太ならではの視点やモチーフが、きらり光っている。これらの第一態の句では、戦争へのただならぬ空気はまだ言葉には出ていない。
 一句目。秩父で寝起きしている土蔵の窓に、灯火をもとめて蛾が飛び込んできた。大きな真っ赤な眼、それを「赤光」と見たてた。斎藤茂吉の歌集『赤光』に因んだ閃きだろう。それに喚起されて山国育ちの青年の夢、「海を恋う」の淡い心情が広がる。
 二句目。曼珠沙華のいっぱい咲く畑径を、腹丸出しで走る秩父の子どもたち。「どれも」である。オレもそうだった。その「親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句」(『いま兜太は』)だという。この肉体的同体感。
 三句目。夕陽を受けて一角だけ赤くなった秩父盆地。桑を食べ蚕がねむる刻だ。養蚕農家の疲れた情景が浮ぶ。懐かしいふるさとよ。
 いずれも山国秩父の素朴な日常を詠む、澄んだ感性の句である。そこへ、国を挙げての戦争の現実が迫っていた。

 ②日日いらだたし炎天の一角に喇叭鳴る(昭15)
  富士を去る日焼けし腕の時計澄み(昭16)
  霧の夜のわが身に近く馬歩む(昭17)

 これらを作句した昭和十五(一九四〇)年には、戦争への国民総動員の体制がしかれ、翌十六(一九四一)年十二月には太平洋戦争が勃発する。そんな時代相が、これらの作品に滲んでいる。この時期、大学生で俳句に熱中していた兜太は、「自由人」でありたし、されど国民と秩父あげての好戦的雰囲気に、内面の苦悩と鬱屈感が続いていた。そうした青春の体感を詠んだのが、第二態といえる句群である。
 一句目。東京の本郷あたりでの作だろうか。そんな世相への青年の鬱々した多感な心情を、「日日いらだたし」とずばり表現する。「喇叭」はその頃よく耳にした、陸軍の行進ラッパか。しかも炎天下である。
 二句目。大学一年のとき、東富士の裾野で正科として軍事教練が行われた。ゲートルを巻き歩兵銃を持って十日間、軍隊さながらの演習で顔も腕も真っ黒に日焼けした。それが終了し、なじんできた富士よさらばの感懐を、「日焼けし腕の時計澄み」と具象している。しかし長く厳しかった教練に関しては一語もなく、ただ青年の健康で清潔な腕と時計をぐいと示すだけ。批評性を感じさせる。
 三句目。山国秩父での作。当時、秩父にも炭馬、耕馬がたくさん飼われ、道でよく出会った。ある霧ふかい夜、身近かに馬の体温を感じながら並ぶように歩いた。生きもの同士である。それに馬たちも、軍馬として戦場へ次々と動員されている時世、「わが身」と重ね、何とも言えぬ親しみをしみじみと感じるのだ。

 ③過去はなし秋の砂中に蹠埋め(昭18)
  秋幮の父子に日の出の栄満ち来(昭18)
  冬山を父母がそびらに置きて征く(昭19)

 これら三態目の句になると、過去は過去として、参戦への気持ちの上での割り切りが感じられる。山本五十六元帥の国葬(昭和十八年六月五日)の頃までは、「国の喪や身にまつわりて蠅ひとつ」という句でみるように、個人的には「先見の明」があった山本五十六に尊敬の念を持ちつつも、「身にまつわりて蠅ひとつ」と、戦争への不快感を隠していない。
 それが同年九月頃になると、「入隊を前に父と千葉県白浜にゆく・八句」(『少年』)「(同じく)南総に遊ぶ・十七句」(『生長』)でみるように、よほどの感の高揚があってか、二句目「父子に日の出の栄満ち来」を始め、計二十五句もの俳句を詠んでいる。幼少の頃、父と毎夏きていた南総への久方ぶりの、そしてそれが最後となるかも知れない二人旅であった。
 兜太が秩父のおおかたの好戦的気分を、すべて我がものとしたのは、一九四三(昭和十八)年六月から九月頃までの時期か。秩父人同士の父子の同体感は、いちだんと深まり合っていたようだ。
 その直後に、先に述べた奥秩父での父子もろともの秩父音頭裸踊りの壮行の宴となるわけである。
(つづく)

新シリーズ◆これからの掲載内容
 ㈢父・伊昔紅と俳人兜太の原質形成
  『俳句日記』にみる父子の肉体感/「風土は肉体なり」の実相
 ㈣山影情念と兜太の中の秩父事件
  秩父人兜太の人生課題/秩父事件研究史上の俳人兜太の存在
 ㈤産土から――「土の思想」の深化
  妻・皆子と秩父の「土」/土の自由人――俳人兜太の哲学考
 ㈥秩父に発した俳句と哲学
  兜太の思想体系とその俳句/「おおかみ俳句」の新考察

カルチャーセンターと金子兜太 齊藤しじみ

『海原』No.21(2020/9/1発行)誌面より

シリーズ:十七文字の水脈を辿って 第1回

カルチャーセンターと金子兜太 齊藤しじみ

 JR新宿駅西口の改札を出て西の方角の都庁方面につながる地下道。かつてはホームレスが寝場所として占有し、すえた臭いが日夜を通して漂い、太陽光が遮られた薄暗かった記憶がある。今は天井の照度が増して一定の明るさが保たれているが、かえって無機質な空気が充満している気分になる。
 金子兜太(敬称略・以下兜太)もかつてこの地下道を定期的に三十年余りにわたって歩き、「どこやらの都市の大下水道をゆく感じ」と比喩したことがある。
 改札から徒歩にして三、四分程度、距離にして四百メートルほどの長さの地下道を抜けると右側に五十二階建ての新宿住友ビルを右手に仰ぐことになる。昭和四九年の完成当時は高さ二百メートルを超える超高層ビルの草分けと呼ばれた。このビルの48階の朝日カルチャーセンターの教室で、兜太は90歳を超えるまで人生の約三分の一にあたる三十三年間の長きにわたり、俳句教室の講師を続けた。
 兜太の俳句教室が初めて開かれたのは昭和五三年四月七日(金)。日本銀行を退職してから四年目の五九歳の時である。
 『金子兜太戦後俳句日記第2巻』(白水社)には、兜太は講座初日のことを「何故十七文字か、何故季題か、と率直な質問あり」と淡々と書き留めている。
 後年、兜太はこの俳句教室から自分の運が開けたと後に述懐したと聞くが、朝日カルチャーセンター講師としての姿はほとんど知られていない。
 その教室の一期生が「海程」同人で平成四年に「海程賞」を受賞した伊藤淳子(敬称略・以下伊藤)だ。
 私が十六年前に「海程」に入会してから、そう遅くない時期には、女性のベテラン陣の一人として伊藤の存在感の大きさを感じていたが、カルチャーセンターの一期生であったことを知ったのは数年前のことだった。そのことに興味を持った私はカルチャーセンターの講師時代の兜太の思い出についていつかは話を聞いてみたいと思っていた。昨年五月三日、新宿住友ビルで待ち合わせた後、近くのレストランで二時間にわたって話を聞いた。街路樹の緑がまぶしい祝日の午後とあって、店内はおしゃべりに興じる人たちであふれていた。
 昭和七年生まれの伊藤は当時四六歳。それまで俳句を作ったこともない初心者で、都内に住む専業主婦だった。兜太の教室に通ったきっかけは偶然だった。一人娘が大学を卒業する年で、これから自分のために何か習おうとカルチャーセンターの広告に目を通したとき、当時朝日新聞の俳句欄の選者で名前だけは知っていた加藤楸邨の俳句教室がまず先に目に入り、特に深い考えはないまま申し込んだという。
 しかし、満員だったため、キャンセル待ちをしていたところ、カルチャーセンターの担当者から電話がかかってきて「金子兜太という俳人の俳句講座が始まる」と勧誘を受けた。兜太の名前を聞くのはこの時初めてだった伊藤は思わず「どのような方ですか」と尋ねると、「楸邨先生のお弟子さん。何よりも人柄がいい」との触れ込みだった。
 初回の講座が伊藤にとって写真でも見たことがなかった兜太との初対面だった。教室に現れたのが二人の男性。二人のうちスーツ姿で決めた案内役のカルチャーセンターの社員を元銀行マンの兜太と一瞬思い込んだ。当の兜太は腕まくりしたノーネクタイのワイシャツ姿で、豪放磊落な印象はその後も変わらなかった。
 兜太は『語る兜太』(岩波書店)の中で当時の教室の雰囲気を自ら語っている。

 「中流階級の主婦が多い。それぞれに知的好奇心が旺盛で、みんなきらきらしてましたよ。爽快でしたな。(略)ここで私が「感覚でやってください」と言ったものだから、女性には支持されたけれど、男性はみな面くらってしまった」

 伊藤の言葉を借りれば、「兜太はざっくばらんで真面目な性格。ざっくばらんでも不真面目な人は嫌いだった私の性格にぴったり合った」という。
 月に四回の講義では受講生が事前に提出した兼題二句がコピーされ、教材として無記名で配られた後、一句ずつ批評を受けた。受講生の中で最も若かった伊藤は兜太の講義の様子を次のように話す。

 「開講当初は男女が半々で受講生が十五人と少なかったので、ひとり一人の作品について丁寧に時間をかけて批評してくれました。受講生の多くが初心者だったせいか、辛辣なコメントは一切なく、その点、先生は割り切っていたのだと思います。講義は終始、冗談一つも出ない真面目な内容で、放談めいたところはありませんでしたが、その頃から話を聞く者を飽きさせない卓越した話術を持っていました」

 受講生が毎回提出した兼題二句と自由作一句については、兜太が赤ペンで添削して返却された。その紙を伊藤はすべてノートに張り付けて大事に保管してある。今となっては現代俳句史として貴重な兜太直筆の記録でもある。兜太は句の出来具合の優劣順に「◎⦿〇P✓」と評価を付けた上で、必要に応じて一口コメントを添えている。

 上の写真は、伊藤に見せてもらった兜太の添削である。その跡に伊藤は兜太の俳句指導の考え方を強く感じるという。決して自分好みの俳句に導くようなことはなく、その意味で受講生一人ひとりの感性を尊重する教師としての兜太。
 当初は毎週金曜日の午前十時半から二時間の講座で、前半の一時間は受講生が事前に提出した句の批評の後、後半は俳句にかかわるテーマに基づいた講義だった。
 講義をメモした伊藤のノートも見せてもらったが、そこには数々の俳人の名前、俳句作品、兜太が評したコメントが事細かに記載され、言葉を拾って見てもレベルの高さが伝わってくる。
 兜太は定例の教室や特別講座としてテーマを掲げた単発の講座も持った。数例のテーマを列挙すれば、「戦後の俳論」、子規「俳諧大要」、「虚実転変の妙」、楸邨句集「颱風眼」、「流れゆくものの俳諧」、「山頭火を読む」、「現代俳句の流れ」、「俳諧史・一茶」など多岐にわたり、講義内容がその後、本として出版されたケースも少なくない。
 昭和五四年六月十五日(金)の日付の兜太の日記(前掲)には次のような記述がある。

 「朝日CCへ。講義で「五七調形式」が俳句の俳句たるゆえん。いま一つ、〈俳句の哲学〉はなにかという求めがあるはずだが、自分はそれを〈俳諧〉から〈自然〉へのみちと考えている、と話す」

 一期生の三十二人の受講生たちが昭和五五年にまとめたアンソロジー「新遊羽しゆう」に兜太は一文を寄せている。兜太調を彷彿させるユニークな文章である。

 「この「朝カル」にて、俳句について駄弁をろうしてまいりました。われながら駄弁でありますが、不思議にも受講の人たちに恵まれて、大過なく打ち過ぎ、あまつさえ、おもいもかけぬ秀作、奇作、珍作の数数に包囲攻撃され、かつ護衛されて、今日にいたりました」

 伊藤は「特に俳句がうまくなろうとも思わなかったが、先生(兜太)の魅力に次第に引き込まれて毎週通うことがリズムになっていた」と振り返る。
 「海原」代表の安西篤は、その著作『金子兜太』(海程新社)の中で兜太とカルチャーセンターの受講生との関係を次のように評している。

 「受講生のふれ合いに、これまでの既成俳人とは異なる新鮮な反応を感じていたようである。(略)彼女らの取組み方は真面目であり、その感性は豊かで、知性も良質であった。なによりも初心者としての素直さがあり、兜太の言うことを「焼け砂に水が吸い込むように」わかってくれたという」

 講義が終わる時間帯は昼食時であったため、次第に一部の受講生たちは新宿住友ビルのレストラン街の店で、兜太と一緒にサンドウイッチや寿司(余談:痛風を患わってからはイクラと卵を抜いたという)をつまむことが多かったという。
 伊藤の話では、兜太が俳壇のエピソードを披露するなど、雑談が多かったという。
 また、俳句総合誌に掲載された兜太に関する記事も話のネタになり、あるときは兜太を批判する記事に触れると、「あの野郎!」と口にしたこともあったという。昼食の時の様子を兜太は「日記」(前掲)の中で時折綴っている。

 「昭和五十七年十月二十三日(金)昼食を婦人たちと。コーヒーも飲む。やはり、なぜ小生が朝日新聞選者になれないのか、という疑問が大きいようだ。林火さん亡きあと、稲畑さん(ホトトギス)がなったことが不満であり、不審ママらしい。そこで、れいのごとく、ジャーナリズム(特に三大新聞)と俳句認識、ジャーナリズムの安全主義などを話す」

 兜太が担当する講座は、三年目からは月三回の入門科のほか、三年目を迎えた受講生が通う月一回の研究科が設けられた。その後、兜太の人気に支えられて、伊藤の話では多い時には研究科は教室いっぱいの七、八十人の受講生が集まるまで膨れ上がったという。
 兜太自身の多忙の影響で平成に入ってからは徐々に講座数が減り、最終的に残ったのは伊藤の通う研究科だけだったという。その研究科も平成二三年九月に兜太の胆管がんの手術を理由に講座休止を知らせる封書が受講生に突然届いたまま二度と開かれることはなく、三十三年間に及ぶ俳句教室の歴史は幕を閉じた。
 一期生で最後まで通い続けた唯一の受講生になった伊藤は今あらためてカルチャーセンターで接した兜太の存在の大きさを思い出すという。

 「俳句の指導者という存在にとどまらず、みんなに平等で飾らないという自然体の人間性が魅力でした。途中で私が「海程」に入会した後も受講生出身であることから、いろいろと気を遣っていただいた優しさをお持ちでした」

 教える立場の兜太が伊藤たちの受講生たちをどう見ていたのか直接語った言葉を知ることができる。海程二十五周年記念の座談会(昭和六二年九月)での発言である。

 「受講者に接して驚いたんだが、海程の集まりで接しているひとたちのかなりの部分よりも知的水準が高いひとたちが結構いるんだな。中高、初老の女性方の中にね。それでおっと思った。(略)カルチャーに接していてやっと衆の姿が見えてきた。それも良質の衆だね。表現というものを正しく求めることが出来る衆というものがわかってきた」(「海程」昭和六二年十二月号)

 私はこの原稿を書き終えた後の八月に新宿住友ビルに足を運んだ。私も大学四年生の時に朝日カルチャーセンターの作文教室に通う受講生の一人だった。今からちょうど四十年前の昭和五五年のことだ。兜太の俳句教室が開かれていた同じ四十八階で、将来へのぼんやりした不安と夢を抱えながら青春時代の一コマを過ごした。当時、今の私と同じ年齢の兜太が「大下水道」と称した地下道を歩いていたことに思いを馳せると、勝手ながら奇縁を感じないではいられなかった。

《本シリーズは随時掲載します》

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察③ 岡崎万寿

『海原』No.19(2020/6/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿

《3回連載・その3》

㈤ 兜太は「煽られた」のか
  ――長谷川櫂「解説」への疑問

 『金子兜太戦後俳句日記』には、兜太と同じ朝日俳壇選者の長谷川櫂が「解説」を書いている。その労に感謝しながら、第一巻、二巻を通じて指摘されている、兜太の社会性俳句運動にかかわる問題点について、私の疑問を述べておきたい。
 長谷川櫂の俳論は、俳人には珍しいスケールの大きい視座を、特徴としている。かつて東日本大震災(3・11)のさいの発言も、そうだった。私は共感して、次の一文を引用したことがある。

 実際(新聞の俳壇や歌壇の投稿作にみられるように)、多くの一般の人たちが震災を作品にしている。天皇から民草まで、みなが歌を詠む万葉集以来の日本の伝統は今なお生きていると感じる。日本人の心の底で眠っていたものが今、掘り起こされているともいえる(「日経」二〇一一年4月28日付夕刊)。

 今回の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻の解説「社会性と前衛」の中でも、そんな卓見を発見した。

 俳句にかぎらず人類の詩歌はすべて社会性、政治性を備えている。社会性がないようにみえるのは自覚しないだけである。
 それは言葉自体が発生したときから社会性と政治性を備えていたからである。対象を把握するにしても意思疎通をはかるにしても、言葉には自己と他者の関係がすでに生じている。これこそ言葉が本然的にもつ無自覚な社会性であり政治性である。人類のすべての詩歌は言葉のDNAである社会性と政治性をそのまま受け継いだ。
 日本語の詩歌も『古事記』『万葉集』以来、社会性と政治性を一貫してもちつづけてきた。


 しかし、同『俳句日記』第一巻の解説「兜太の戦争体験」に書かれている次の一文は、残念ながら、こうした長谷川櫂の視座広く説得力のある論考とは、どうしても読めない。少し長いが、俳人兜太の人間考察の基本にかかわる、重要な問題提起であるので、そのまま引用したい。

 まず「昭和の兜太」は社会性俳句と前衛俳句の旗手であった。……どちらも戦後、解放されたマルキシズム(マルクス主義)に煽られて俳句の世界にたちまち燃え広がった。
 日記のはじまる一九五七年(昭和三十二年)といえば第二次世界大戦の終結から十二年、世界中が自由主義陣営と社会・共産主義陣営の東西冷戦の渦中にあった。日本国内ではそれを反映して、自民党と社会党を左右両極とした対決が思想・政治・経済だけでなくあらゆる分野で展開していた。いわゆる六〇年安保闘争が沸き起こるのはその三年後である。この左右対決の構図はすべての日本人を巻き込んだ。兜太も例外ではなかった。むしろもっとも強烈なあおりを受けた一人とみるべきだろう。


 ここで述べられている戦後世界の政治論、歴史論に立ち入ることは、兜太の人間考察の俳論の範囲を超えるので、あえて触れない。だが、超大国のアメリカとソ連の冷戦時代とはいえ、「世界中」、「すべての日本人を巻き込」み、まして自立、自由であるべき文化(俳句)まで、米・ソの二色で図式的に色分けしてしまう二極分化観は、当時の現実とも違うし、今日の国際政治学や近・現代史学の到達点からみても、かなり強引すぎるのではないか。
 長谷川櫂は現在、俳句界を代表するリーダーの一人である。この文面を読んで、首を傾げる人も少なくないと思う。まして「社会性は作者のの問題」と、どんなイデオロギーでも自らの生き方に溶かし込み、肉体化しない限り、頑固に動じない信条をもった、兜太のことである。「解説」で書いているような、「マルキシズム」の「もっとも強烈なあおりを受け」ることが、人間的にも、現実的にもあり得るだろうか。
 長谷川櫂の「煽られ」論のウィーク・ポイントは、こんな人間の尊厳にもかかわる問題を、何の実証も、論証もなしに一方的に断言していることだ。事実を見ても、兜太の社会性の俳句、俳論は、配転先の神戸から始まっている。日銀での労組活動を理由に、当時吹き荒れていたレッド(共産主義者・同調者)・パージの煽りを受け、十年間の地方勤務の冷や飯を食わされている最中だった。煽られたのは「マルキシズム」でなく、米占領下の不当なレッド・パージによるものだった。時代背景が、丸で違っているのである。
 したがってと言おうか、長谷川櫂「解説」は、第一巻の「兜太の戦争体験」では、引用した「煽られ」論をあれほど述べていたのに、第二巻の肝心の「社会性と前衛」では、その強調が消えている。
 そればかりか、先に書いた兜太の主張する「態度の問題」を評価し、「この点で兜太は社会性俳句運動の中では異端の存在だったといわなければならない」と、第一巻「解説」と正反対ともとれる結論となっている。重要なので全文を紹介する。

 ただし兜太自身はイデオロギー俳句、マルクス主義俳句に距離を置いていた。「社会性は作者のの問題」と書いていたとおり、兜太はイデオロギーに拠る拠らぬにかかわらず、社会に対する自覚と態度が俳句の社会性を生み出すと考えた。いわばイデオロギー以前の問題としてとらえていたのであり、この点で兜太は社会性俳句運動の中では異端の存在だったといわなければならない。

 見るとおり、社会性俳句運動の「煽られ」論は、兜太に関しては事実上、破綻している。だが、運動の「旗手」だった兜太を、その「異端者」に変えるだけでは、問題は片付かない。そんな「異端者」が、社会性俳句運動の旗手として、人望を集めることはあり得ないことだからである。
 また第二巻「解説」で、「その二つを過去の実績(筆者注・社会性俳句と前衛俳句運動の旗手だったこと)として今や称賛を浴び、公の社会に受け入れられてゆく兜太の姿である」と書いていることとも、矛盾してくる。その矛盾は、画一的な冷戦史観と、「社会性俳句はマルクス主義俳句」といった単純な断定の枠組みに、人間兜太をはめ込もうとする無理から生じたものだが、ここではそのことを指摘するにとどめる。
 その反面、第二巻「解説」が、こうした社会性俳句運動の積極面として、「社会性俳句運動は俳句の対象を広げるとともに、俳句の無自覚な社会性、政治性への自覚を促すことになった」と評価する着眼点を、大いに多としたいと思う。
 二つ目の問題点として、第二巻「解説」の次の文章も看過できない内容である。

 社会性俳句運動は政治的行動に直結していたこと。いいかえれば、兜太には文学と政治、俳句作品と政治的メッセージの明確な境界がなかった。この姿勢が晩年、安保法案反対運動のために肉太の書体で「アベ政治を許さない」と揮毫する、政治的行動へ兜太を駆りたてることになる。

 はたして、そうだろうか。私は、兜太くらい政治(思想)と文学(俳句)との境界線を、明確にし筋を通してきた俳人
(文化人)は少ないと思う。その実証として、三つを挙げる。
 一つは、先ほどまで述べ、長谷川「解説」も認めている「社会性は態度の問題だ」という信念である。これはもう文句の
ないところ。たとえば『証言・昭和の俳句』(上)でも、こう論じている。その俳句姿勢は、終生変わっていない。

 そうならないと文芸論にならないと思ったんですよ。……私の場合はそのままイデオロギーを持ち込むことを全く拒絶していたんです。

 二つは、自らの自由を確保しつづけるため、一定の制約を受ける政治組織には、決して参加しなかったことである。作家の半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中でも、自信をこめて、こう語っている。

 コレも私の自慢なんですが、私は党派には属さないで、一人でやった。これが唯一の自慢なんですよ。

 三つは、戦後の反戦平和の主張と行動が、あるイデオロギーに発したものでなく、トラック島での生死の戦場体験に発した、「非業の死者に報いたい」という一念によるものだったことである。

 私は反戦主義者ですから、戦争は悪と思っているわけです。これは体験から発してそう思うようになっているんです。自分が戦争をしてきた、その生な体験から(『人間・金子兜太のざっくばらん』)。

 以上、生の資料をもって、兜太がいかに俳人として、俳句と政治的行動を直結させることを、自ら拒絶し、明確すぎる境界線を示していたかについて述べた。先入観や実証性のない人間批評は、お互い避けたいものと思う。
 最後に残った問題は、先の安保法案反対の市民運動のかつてない広がりの中で、作家の澤地久枝の依頼で揮毫した「アベ政治を許さない」の書が、長谷川「解説」があえて挙げるほど、俳句と政治との境界線のない政治的行動であったか、どうかの評価である。
 その当時の兜太の内面については、近く刊行される『金子兜太戦後俳句日記』(第三巻)に、どう記されているか、興味のあるところだが、専門俳人といえども、自由と民主主義、平和を支える主権者の一人である。市民の権利としての表現の自由にかかわる問題で、そんな「境界線」をつけるべきことか、どうか。私は次に挙げる『俳句日記』(第二巻)「解説」の理解ある文面からみて、それは長谷川櫂のペンの走りすぎに思えてならない。

 なぜ兜太は社会性の自覚が必要と考えたか。俳人にかぎらず人々の社会性の無自覚こそが昭和の戦争を許したと考えていたからだろう。

 また『俳句日記』(第一巻)「解説」でも、肯定的にこう結んでいる。

 兜太は若い世代は戦争について大いに語り、行動すべきだと考えていた。地球上で起こっている戦争を自分のこととして考えることのできる「地球人としての想像力」に希望を託していたのではなかったか。

 全く同感である。その「地球人としての想像力」をもって最晩年にいたるまで兜太は、遺句集『百年』でみるようなスケールと批評性のある俳句を、詠み続けている。

 果てしなく枯草匂う祖国なり
 原爆忌被曝福島よ生きよ
 朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ


 そうした作品にも込められた、その若者はじめ市民へのが戦争につながる安保法案反対の市民運動の熱気と結んで、あの気迫と人間味あふれる兜太ならではの「アベ政治を許さない」の書となったものと思う。事実、この書(プラカード)は、市民運動の共同のシンボルとなって、全国いたるところで、長期間にわたって掲げられた。まさしく俳人兜太の、時代に記録される貴重な書となったのである。

 それは、「境界」うんぬんの次元のことではなく、もっぱら人間としての俳人兜太の見識の問題である。
(3回連載・了)

第1回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評〈各作家の心に響いた八句 茂里美絵〉

『海原』No.18(2020/5/1発行)誌面より

第1回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評
各作家の心に響いた八句 茂里美絵

 乾き 小西瞬夏

  秋蝶のかすかな脚がふれし母
  風が出て囮のこえの潤むとき
  ランボオや使いきれざる息白し
  雪聖夜汲みたる水の平らかに

 俳句は韻文詩型であり、季語の有する喚起力に加え、異次元の空間へ読み手を誘う。その一方で季語に頼りすぎない独特の世界をも構築する。透明な金平糖のようにキラキラして読む者の脳や皮膚を、ちくちく刺激する感触が、この作者の特質であるが、この四句は底知れず静かである。一句目は、上五中七の叙述によって、初老の母の嫋やかなイメージが浮かび上がる。二句目の囮。鳥か獣の不安が風、潤む、の表記でより鮮明になる。三句目。三十七歳の若さでこの世を駆け抜けたランボオ。激しくかつその無念さを、使いきれざる息白しと。「息白し」が特にいい。四句目。雪の降る聖夜の静けさを、雪と水があたかも呼応している景に結び付け、更に静寂が深まる。
  冬霞死者だんだんに進みつつ
  人形の眠る函の中 冬日

 五句目。人は誰しもこのような命終を迎えたいのではなかろうか。できれば苦しまず、冬霞の彼方へ、愛する者たちの待っているところへ。短詩型は、その余白に様々な想像をはたらかせる楽しみを含む。六句目の人形、日本であれば当然雛人形を想う。祭も終わり函へそっと仕舞う。春なのに、その陽射しが冬日のように指を刺す。一字明けが利いている。
  春の雷いきなり夜の匂ひかな
  耳を向けると春蝉の翅の乾き

 七句目も八句目も共に自然へ眼を向ける作者。ざわつき始める樹木。人間や動物たちの生命力を、その鼓動を見つめる。「夜の匂ひ」にそれらを集約している。そして、春蝉の翅の乾きを、眼ではなく耳で感じる鋭敏でかつ瑞々しい感性。自身の羽化登仙も夢見ているようで楽しい。

 白い地図帳 水野真由美

  約束を言葉にさるとりいばらの実
  食みをれば鹿となりけり霧の底
  男老ゆ木霊らの夢に見られつつ
  兜太亡き空の木目をなぞりゆく

 貴重な本、あるいは絶版になった蔵書も有する作者。従って知識も豊富になる反面知りすぎる苦しみもあるかとも想像する。土の匂いも漂う静かな句群。一句目。決意を必要とするとき、人はあえて声に出して自分に誓う。季語の斡旋も巧みである。二句目。自然界と融合することを表現するその抒情性。食事どき鹿と一体化してもぐもぐ食べる。それも霧の底で。三句目と四句目は、我々誰しもが感じる兜太思慕の想いであろう。そして老いてもなお、秩父に漂う精霊たちに見守られている師の姿を思い浮かべて安心する。すでに他界へ移られた金子兜太師。空の一点を見つめる作者。「空の木目」をどのように解釈するかは難しいが、作者の想いの深さを緻密に述べていると思いたい。
  冬麗の少し焦がしてパンの耳
  風花を老いたる猫と嗅ぎをりぬ

 五句目は良き日常性。暖かくさりげない。穏やかな冬の陽射しに目を奪われて朝食のパンを焦がすのは良くあること。静かに、遠い過去へ揺りもどされているひととき。六句目、風花を嗅いでいるのは長年共に暮らす猫と。そこが面白い。
  水を抱く手にかさなりて枯木星
  きさらぎの月のひかりに地図開く

 七句目。水を抱く、のは意識であり手ではない。平凡に書けば水仕事。だがその漣そのものが枯木星の光となる。八句目。きさらぎの中で地図を開く。並々ならぬ旅立ちの気配が見え隠れする。そして出発。一巡して一句目へ還る構図。

 留守にして 室田洋子

  さえずりや冷たい頬に触れながら
  空席がふたつ並んでクレマチス
  女郎蜘蛛さびしさは黄色が似合う
  愛よりもAI信じて心太

 悲しみの事実を、ひかりで濾過する表現力は天賦の才能と言うべきか。加えればそれらの叙述によって却って悲しみの底が深くなる。日常的次元の中で、その視線に入ってきたものを直感的に「詩」にしてしまう。ことさらに難しい言葉をあえて使わず、やわらかな風がふっと読み手の頬を撫でていくような情感。一句目と二句目。二年前に最愛の夫と、恩師でもある兜太師を亡くす。冷たい頬とふたつの空席。しかしクレマチスのきっぱりとした色彩に今後の作者の心根を思う。三句目もまず色彩で読み手の心に訴える効果。黄色はやはり淋しい色にも思える。ゴッホの「ひまわり」の絵も確かに孤独感を呼び覚ますし。四句目。正確無比な人工知能の方が感情である愛よりも信用できると。逆説であると信じたい。
  十六夜を猫に抱かれて泣いており
  たっぷりと行間あけて木の実降る

 五句目「猫に抱かれて」という心情。十六夜の細いひかり。涙腺を刺激するその弱弱しい針。六句目。文字から目を離し外を眺める。ときおり落ちる木の実。絶妙な隙間感。まるで地軸がゆったりと刻をきざむ音のように。
  秋の蝶ちょっとこの世を留守にして
  まがっても曲がってもまだ鰯雲

 七句目。すっと心が空っぽになる瞬間は誰でもある。秋の蝶の季語と中七下五言葉がぴったり読み手に伝わる。八句目の、深刻ぶらない、そして想いをつめ込みすぎない措辞が読む者の心を鷲掴みにする。明るさに包みこまれた悲しみとでも言おうか。だから結語が正に胸を衝く。

 水を汲む 三枝みずほ

  雨音の遠く花野にソルフェージュ
  ねこじゃらしどちらが先に泣くだろう
  秋星と触れ合いながら子の寝言
  身体しかなくて砂時計また返す

 幻視、幻聴に頼らず素直な写生句とも読めるから、大方の共感を得ることになる。抽象に凭れ過ぎない明るいひたむきさは、作者の特質であると同時に、若さの故とも思う。一句目のソルフェージュの軽やかな響き。雨音を音楽になぞらえ花野は更に広がる。ねこじゃらしの二句目。想像は読み手に任せられる。三句目は秋星の登場で、睦み合う母子の姿が影絵となる。四句目。破調の効果であろう。日常の中でふっと虚無の世界を覗く。無季であるが想いの強さの方が勝る。
  くしゃみひとつそれでも空のあかるい日
  並べられ体温よりもつめたい椅子
  残業のブルーライト冬の水飲み干す
  凍つる夜の羽音として終電車

 「俳句は一行の詩だが詩の一行ではない」伊丹三樹彦の言葉である。つまり詩の断片ではないから十七文字で完成させなければならない難しさがある。しかし考え方を変えれば、心に感じたことを俳句形式に乗せ、あとは読み手に任せるとなれば、作者と読者の共同作業となり、案外楽しい世界が広がるのでは。くしゃみの句は読み手を楽しくさせる。六句目。体温より椅子の方が冷たいという常識を飛び越え、オフィスの冷たい空気を椅子に託すのだ。七句目。仕事に疲れた人の姿が浮き彫りになる。「冬の水飲み干す」が抜群。最後の句はとても美しい。凍つる夜、羽音、終電車、言葉のつながりが自然でやわらかく、思わず作者を慈しむ気持ちになる。

 孵ろうか 望月士郎

  春の闇そっとたまごを渡される
  触りにくるさくらさくらと囁いて
  抱卵期握手にやわらかな隙間
  ヒロシマと記す卵の内壁に

 作品と向き合い読み手は勝手に会話を交わす。間違った会話でもいいのである。「ナゾ」という余韻をただ堪能すれば良いのだから。理知と理知がぶつかり合うと、思いがけない諧謔が生まれたりする。私の偏見かも知れないが、主に男性俳人にそれを感じる。二十句のうち十三句が「卵」。理屈ぬきに伝わってくるそのフシギ。卵はいのちの源の象徴であるから等とキザな解釈は、もっとも嫌う作者でもある。一句目と二句目。呆れるほど率直で何やら暖かい空気が漂ってくる。特に一句目は謎めいた大人の感想を読み手は感じる。俳句は絵画や音楽と違って言葉で表現するから、やはり「コトバ」が重要。三句目はその言葉の働きが最高の形を作っている。「抱卵期」と「握手」と「隙間」何やら微笑ましい。四句目
に突然現れる、ヒロシマ。卵の内壁にその都市の名前を刻むのだ。何となく分からないようで何となく分かる。
  ぼんやりとガーゼに滲み出す日の丸
  良夜かな妻とまあるいもの支え
  黄身白身かきまぜている雪女
  雪だるま溶けて帽子屋にひとり

 五句目は前句、ヒロシマと通底しているように思う。更に現在の日本への痛烈な皮肉とも。ガーゼ越しの日の丸。自国に対する想いの薄さを指摘している等という野暮な感想を許されよ。六句目と七句目。仲良しの夫婦。こうした生活の続くことを願うのみ。最後句は、ゆるやかな因果関係が自然で現代風なお洒落な作品。微妙な曲線や直線を図面に描くことを、なりわいとする作者ならではの、思いがけない結語に、ただただ脱帽。とにかく、「帽子屋」がいい。
 以上、各作家から心に響いた八句を選ばせていただいた。

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察② 岡崎万寿

『海原』No.18(2020/5/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿
《3回連載・その2》

 ㈢ 兜太の「戦争とトラック島」俳句の展開

 兜太は二十六歳のとき、トラック島で敗戦を迎えた。『わが戦後俳句史』(岩波新書・一九八五年刊)は、「八月十五日の朝焼け」から始まっている。

  椰子の丘朝焼しるき日日なりき
  海に青雲あおぐも生き死に言わず生きんとのみ

 敗戦の日から翌日にかけて、どうしようもない喪失感と、変な安堵感の入り交じった胸中を詠んだ、三句中の二句である。俳人兜太の「わが戦後」は、ここから始まっている。
  兜太のもつ抒情原質の生きた作品だが、私はとくに二句目に注目する。それまでの自然体のまま詠んできた「トラック島」俳句が、「少し変わって」(兜太)、「生きんとのみ」と、早くも戦後への出直しの意志を強烈に感じさせるからである。
 こうした生を見つめ何があろうと生きる、という自らの意志に裏打された俳句が、兜太の戦後俳句のスタートから、その形成、発展過程のポイントポイントで、肉体ごと雄々しく表現されているのである。兜太の生命力、俳句力というものか。

  水脈みおの果て炎天の墓碑を置きて去る(『少年』)
  死にし骨は海に捨つべし沢庵たくあん噛む(同)
  朝はじまる海へ突込む鷗の死(『金子兜太句集』)
  わがうみあり日蔭真暗な虎があり(同)

 ここに一本の流れが見られる。トラック島で餓死した非業の死者たちに酬いたいという一念が、兜太の戦後の基本的な生き方となり、表現欲求となって、時どきの感動のモチーフで映像化されたものだ。一句一句に兜太がいる。
 一句目は、一九四六年十一月、帰国する引揚船上で作られた名句である。兜太の想いは篤い。「置きて去る」の語調に、並ならぬ意志がこめられている。
 二句目は、翌一九四七年五月の作。すでに日銀に復職し結婚していた。「死にし骨」とは自らの骨である。「なすべきことのためには、自分を捨てなければならない」という、切り立つ心情を詠んでいる。「日銀の近代化」を求める組合運動への志向も見え始める。
 三句目は、一九五六年七月に発表した神戸港での作。腹を決めて「俳句専念」を決意した、転機の名句である。その時期、兜太は献身した組合運動が、一九五〇年のレッドパージのあおりを受けて頓挫し、以後十年におよぶ地方支店生活(福島、神戸、長崎)を余儀なくされていた。「海へ突込む鷗の死」には、トラック島で海軍戦闘機・零戦ぜろせんが、米軍機に撃墜されて海へ突っ込む景のイメージと重なる。
 そして四句目は、兜太が社会性俳句の方法論として「造型俳句六章」を発表した一九六一年、山中湖畔での作。「わがうみ」は兜太の内面風景で、そこに黒々と伏せ待機している虎がいるのだ。六〇年安保後の文化反動の嵐の中、「やってやるぞ」という、御しがたい意欲が暗示されている。自画像でもあろう。
 さて、第十五句集『百年』の刊行によって、そうした兜太俳句の流れは、より総体的、俯瞰的に鑑賞し、考察することが可能となった。その中で、「戦争とトラック島」関連の俳句は、戦時のトラック島体験に発した、一条の水脈のように、反戦と平和、人間の自由への強烈な信条を胸に、えんえんと絶えることなく、むしろ最終章『百年』で開花、結実している感が強い。
 青年兜太が、戦地から石鹸に詰めて大事に持ち帰り、公表した俳句は、句集『少年』と未刊句集「生長」に載せた百二十四句だが、帰国後は、「戦争とトラック島」の視野を広げて、沖縄戦、ベトナム戦争、そしてヒロシマ・ナガサキの原爆と、忍び寄る戦争への危機感を詠んだ作品をふくめ、その数は百六十句。合わせて二百八十四句に及ぶ。
 帰国後のそうした俳句を句集別にみると、『少年』八句、『金子兜太句集』二十七句、『蜿蜿』一句、『暗緑地誌』二十四句、『狡童』一句、『旅次抄録』一句、『遊牧集』一句、『詩經國風』一句、『皆之』八句、『両神』三句、『東国抄』九句、『日常』十七句、そして『百年』三十六句と続く。
 途中、一句ずつ、あるいはゼロの句集が続いているが、その間、先に述べた散文表現の「トラック島戦記」に打ち込んでいた時期と重なる。興味のある数値だと思う。うち私の感銘する『日常』までの五句と、『百年』から五句を挙げる。

  わが戦後終らず朝日影長しよ(『狡童』)
  麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな(『詩經國風』)
    紀州勝浦に、トラック島最終引揚げの戦友たち集る
  みな生きてた湾口に冬濤の白さ(『皆之』)
    悼 千葉玄白
  銃弾浴び薯をつくりて青春なりき(『東国抄』)
  飢えの語に身震いするよ春鴉(『日常』)
  戦争や蝙蝠こうもり食らいうえとありき(以下『百年』)
  青春の「十五年戦争」の狐火
  狂いもせず笑いもせずよ餓死の人よ
    朝日賞を受く
  炎天の墓碑まざとあり生きてきし
  戦さあるな人喰い鮫のうたげあるな

 最後の句の宴をする人喰い鮫は、兜太が好きな青鮫である。青鮫にちなんで、イメージによる兜太五十代の名句がある。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)

 白梅の咲く早春の朝。庭中が海底のような、まるで命を運んでくる感じの蒼い空気につつまれる中を、何匹もの精悍な青鮫が悠々と泳いでいるではないか。春が来た。いのち満つ、と兜太は咄嗟に感受し、この一句が生まれたそうだ。なぜ青鮫か、聞かれても自分でもよく分からなかったという。
 ところが後日、ニューヨークでのある賞の選考会で、アメリカ人の選考委員が、それは「トラック島で見た青鮫ではないか」と評した。それを聞いて兜太は、「あっ、そうか」と思わず納得したことを、自著『他界』(二〇一四年刊)で述べている。トラック島大環礁の外には青鮫がわんさといて、撃沈され海へ投げ出された日本兵の死体を、宴のように喰らいまくっていたと聞く。
 兜太の「トラック島戦場体験」は、無意識の深層心理のひだにまで、しっかり記録されていたのである。

 ㈣ 「なすべきは我にあり」の内面史

 これから特徴の第二に入る。その兜太の『戦後俳句日記』は、日記といいながら、人間にとって最も肝要な、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった基本テーマと体当りした、すさまじいばかりの自己(人間)探求の記録である。
 それが、まだ俳句人生の展望が見えにくい三十歳代にはじまる第一巻から、現代俳句協会会長、朝日俳壇選者となり俳句界の頂点に立った七十歳代前半までの第二巻を通じて、その「なすべきは我にあり」の自省と自己進化の姿勢は、変わっていない。兜太という人間の太さと人間臭さに感心しながら、簡潔にその特徴的な個所の紹介と解明を進めよう。

三月十八日(一九六七年・47歳)
 小生の目的は何か。〈人間〉を知ること。椎名麟三のいうような〈人間の自由〉探求はまだ空々しい。そのためにいまの虚偽と虚栄のベエルを、ひんめくること。

十一月二十五日
 車中、子規のことを読みながら、また何を目的に生きるか――と考えはじめ、やはり〈自由〉だ、自由に生きるということだ、と思い定める。これを妨げるもの〈非人間者〉と闘い、これによって人に迷惑をかけない、また物質だけでなく〈精神〉〈心奥〉の自由を第一としたい。

一月一日(一九六八年・48歳)
 考えていたことは〈自由〉ということ。この言葉がまだうとうとしている早朝に突然訪れ、そして離れない。人間を考えることは、それのエゴ(広く肉体的欲求まで含めて)の自由を考えることに等しい。人間はエゴイスティックで、従って、人間関係は〈不確実〉なものだ。その〈自由〉。

十二月二十三日
 現状をみると、雑文書き、小名誉欲、小権力、小思考――それにとりつかれていた自分が浅間しく思える。組合に踏みきったときのように、第二の踏みきりをやる時機にきているし、……必ず、やりとげる。

一月四日(一九七〇年・50歳)
  〈人間〉そのままのすがたか、エゴイズムとは別の面を示すことを知るべきである。迂闊に人間不信を語ることに恥しさをかんじる。

四月二十九日(一九七二年・52歳)
 何をやっているのか、何をやるか、――を問いなおす。〈寛厳〉を考え、いまの現象的な風潮を〈人間的に問いかえす〉こと(特に〈自由〉とは〈他を侵さざるものなること〉)を確認する。

五月五日
 自由のために、というが、自分だけの自由(個の道)と、他のための自由(革新への道)がある、と思い、その双方に足をかけているあいまいさが自分を辛くしていることを、あらためて知る。

一月一日(一九七六年・56歳)
 ここにあらためて決意す。こんどは〈大ぼらふき〉で終りたくない。それにしても、助平根性をおこすな。〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉。

四月十七日
 この頃思うことは、一切の経歴や過去の生き方を抜きにして、裸かの、今の一人の男として、はたして自分は〈立派〉といえるか、ということ。これをおもうとき、いちじるしく不安になり、妙に人の目が気になる。修業修業。自然自然。

十二月二十六日
 ①なぜ他人に拘泥するか。結局おのれの覇権意識とそれに伴う末梢的強気にすぎない。
 ②自分のやること、理論を一と筋にかためて、自らを恃すべし。
 ③自分に太く徹して、右顧左眄するな。

 ここで第一巻は終わっている。『俳句日記』ながら、ここまでで、兜太の「自由論」は、ほぼ定まってきたといえそうだ。一九七六年元旦の日記、「〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉」ということばで、その基本線が要約されていると思う。それは兜太の、波瀾万丈の時代を生き抜く生き方、人生哲学でもあるといえよう。
 この間の兜太の句集の中から、私なりに「人間の自由」のモチーフを感じさせる作品を、三つ挙げる。

  無神の旅あかつき岬をマッチで燃し(『蜿蜿』)
  林間を人ごうごうと過ぎゆけり(『暗緑地誌』)
  髭のびててっぺん薄き自然かな(『狡童』)

 この『狡童』という第六句集名は、「ずるい、美貌、剛情」という三意から、「煩悩具足の、まだまだ青くさい自分のことを言いたかった」と、「あとがき」で述べている。
 同じく第三句集『蜿蜿』の「後記兜太教訓集」では、自らの目標としている「人間の自由」について、その時点でのまとめとして、こう書き記している。

 私は、今までも、これからも、〈自由〉を求める。肉体の自由か精神の自由かと言った、小賢しい区別はしない。それらすべての自由を願う。そして、自分の自由が他から侵されるときは自由を守るために闘うことも辞さない。その代わり、他の自由を侵すことは絶対にない。本当の自由とは、自分が絶対に自由であるとともに、他の自由も絶対に侵してはならないものと思う。

 そしてトラック島戦場で見た、人間の赤裸々な「エゴの本能」についても、「自由論」との関係で、続けてこう考察を深めている。

 それだけに、自由の実現は、エゴを馴致することのできる精神の成熟を待つしかないと思う(中略)私は、エゴの赤裸々な振舞いを、人間臭くて美しいとさえ思いつづけてきた。

 こうして、第七句集『旅次抄録』(一九七七年刊)の「後記」では、「いつの日か、自信をこめて、〈自由人宣言〉をやってやろうとおもっている」と、あえて言明しているのである。まことに兜太である。

 さらに、『俳句日記』第二巻ではどうか。私は、兜太という俳人の、人間として、俳人としての一段の成熟過程を見るようで、感激しながらむさぼり読んだ。その到達点は、一九八九年七月十八日の『俳句日記』の、次のくだりである、と思う。

 芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間も含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。……存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を噛みつつ句を作れ。

 先に述べた、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった兜太の厳しい自己(人間)探求は、当然の流れとして、④自分の俳句、自分の存在、そしてそれを〈天然と一体化〉する、自らの思想・哲学をしかと確認するところまで発展している。自省と自己進化といった生き方の基本姿勢は、もちろん変わっていない。第二巻では、その心境を軽妙に記録している。

二月十六日(一九八二年・62歳)
 小倉八十の手紙で、ふと、〈ふたりごころ〉の第一は、自分を見るこころ〈自己客観化〉と気付く。この余裕のない現代人。

七月十二日
 寄居夏期大学での講演チラシに、「野太く素朴な庶民の精神を大事と見る」ということばを小生の紹介に付したという。それをおもいだす。ズケズケした存在感。ズバズバ吐きだす俳句。

三月二十二日(一九八四年・64歳)
 わが戦後俳句史に関連して、〈立身出世主義〉、〈利己と権力意識〉のことを話し合う。

七月三日(一九八九年・69歳)
 『雁』の一日一句に集中してゆく。これを軸に、自分の思想ということを詰めてゆきたい。承知しているつもりで、なこと多し。利己と権力、本能と自然じねん、土と存在、などなど。

七月六日
 冨士田元彦からいわれた一日一句を励行している。自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日
 哲学を繰りかえし噛み確かめる。(以下は67頁に引用)

七月十九日
 小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

一月二日(一九九〇年・70歳)
 俳壇覇権主義をおろかしく思いつつ、どこかでこだわっている我が身のばかばかしさ。よい仕事をせよ。

一月三日
 こころの持ち方がすこし崩れている。歳末多忙なせいか。現象的になっている。じっくりと取り戻せ。〈自由〉。〈こだわらない〉。〈旅の恥はかき捨て〉。〈霊力〉などと自分に言う。

三月二日
 何故俳句を、と問われて、〈笑いながらこころのことが話せるから。人間万事、色と欲のことも承知の上で〉と。

七月十七日
 朝、皆子と話しながらまとめる。人間の自由と純正を志向する姿勢こそ一流。それを達成し、あるいは達成せんとして姿勢を崩さぬ者は一流の人物。達成をもとめつつ迷いふかき者は二流。達成をもとめない者は三流。

七月十八日
 自由とは、本性のままにあり得ることで、善悪不問、価値多様でよいわけだが、しかし、性善に傾けて(志向して)、自分を置き他を見ることのほうが本当の自由と見る。純正であることが自由の第一義と見る。むろん、善悪両面を承知した「さめた目」に立ってのこと。

十二月二十七日
 「なすべきは我にあり」。この語、あれこれと俳壇思惑のあと、突如湧く。これなる哉。へたへたぐずぐずの対他意識を捨てよ。

十二月二十二日(一九九三年・73歳)
 そのとき、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」が出てくる。それも無人の秋暮の野の寂蓼として出てくる。〈わが俳道〉などという想念なしに景として。そして〈気力〉と〈目的〉を呼びおこして〈空しさ〉を抑え込む。〈気〉を呼び込むことは僅かながら出来てきた。〈目的〉は不熟。長く〈目的〉を見失っていた自分に気付く。

十二月二十九日
 朝、虚しい気分が湧いては消え、湧いては消えしていたが、朝食のあとにわかにシャンとして、〈超越〉の語が出てくる。俳壇風景など小さい、と思う。それより自分の目的を見定めよ、と。

 この『俳句日記』第二巻の時期の俳句も収めた、第十二句集『両神』の後記で、兜太は自らの俳句観について、こう述べている。

 俳句は、どどのつまりは自分そのもの、自分の有りていをそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。……同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鰯や、むろん人間やと、周囲の生きものとを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。……これからの自分の課題はこの「天人合一」にあり、と以来おもいつづけている。

 そうした、成熟しても人間臭く自在な兜太の俳句を、私なりに三つ挙げる。

  人間に狐ぶつかる春の谷(『詩經國風』)
  牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ(『皆之』)
  酒止めようかどの本能と遊ぼうか(『両神』)

 一句目は、郷里の秩父での作。あたかも春。人間も狐も一緒。アニミズムの親しみと交感がみられる。二句目は、熊谷の家の近くで鳴き続ける牛蛙ら。兜太も愉快に「ぐわぐわ」。オノマトペが生きている。三句目、痛風四回で酒を止める。しかし、ある程度は本能を自由にしておかないと、長つづきしない。余裕余裕と、にんまり。人間兜太の成熟感が、作品にもたっぷり表現されている、と思う。
(次号へつづく)

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察① 岡崎万寿

『海原』No.17(2020/4/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿
《3回連載・その1》

はじめに

 金子兜太生誕百年を記念して、二〇一九年九月、第十五句集『百年』が刊行された。帯文の、兜太のことば
 「俺は死なない。この世を去っても、俳句となって生き続ける」
が、なんとも嬉しい。燻し銀のような声で、じんわりと心へ伝わってくる。
 同じ頃、待望の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻(一九七七〜九三年)も出版され、いよいよ兜太という俳人の全人間が、全作品・書籍とともに奥行をもって考察され、理解され親しまれる状況となってきた。兜太研究に関する基本文献が、ほぼ出揃ったといえる。
 そんななか、創刊されたブックレット『朔』一号の「特集金子兜太句集『百年』を読む」に載った、俳人、作家たちの数々のことばの中で、私は他界した兜太のこれから、に期待するといった少し奇妙な発言に、目を止めた。

 私は時折、令和時代の金子兜太、ということを考えます。……大きな足跡を残した金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く生き抜いていくことができるでしょうか。金子兜太の俳句とその功績はこれからの俳人にどういった影響を与え、継承されていくのでしょうか。(宮崎斗士)

 そう、生身の人間だからこそ言葉が朽ちない。……死後、成長する俳人だろうと思います。優れた作家は死後も成長するんですね、存在していた時以上に。金子さんはそういう一人になるだろうと、そういう予感がいたします。(宇多喜代子)

 この「令和の時代に生きる兜太」「死んでも成長する兜太」といった、未来志向のことばが、光って見える。そうあってほしい。小論は、その未来志向で、『金子兜太戦後俳句日記』の解析を中心に、俳人兜太という人間そのもの、俳句と生き方そのものに肉迫したいと思う。
 六十一年間、全三巻に及ぶ同『俳句日記』は、そのための好個の基本データである。その第一巻、二巻を流れる特徴の第一は、小説「トラック島戦記」を書き上げたい、異常とも言える兜太の執念である。先の小論「俳人兜太のトラック島戦場体験の真実」(「海原」10・11・12号)で書いたように、その格闘は、第一巻(一九五七〜七六年)で十八年かけても終わっていない。では、第二巻ではどうなのか。
 特徴の第二は、人間の極限状態といえる「死の戦場」体験と、その深刻な自己検討に発した、戦後の俳人兜太の生き方である。それは、〈心奥〉の自由を求め、人間のもつ本能、欲望、エゴイズムを率直に見つめつつ、「なすべきは我にあり」と、透徹した自己省察と自己進化、成長を重ね、ダイナミックに時代を生き抜いた、俳人兜太の知られざる内面史である。
 俳人兜太とは何者か。興味津津、考察を深めてゆきたい。

㈠ 兜太の「トラック島戦記」追考

 『俳句日記』第二巻でも、俳人兜太の小説「トラック島戦記」を書く熱意は、依然続いている。その主な部分だけ、紹介することにしよう。それ自体、みごとな日記文学だと思う。

 二月二十八日(一九七七年)
 どうしても戦記を、の執念もえるばかり。怨念にちかい。……当面戦記に徹すべし。
 七月八日
 皆子曰く「戦記を書いているときがいちばん楽しそう」と。気分楽しく、文章苦渋。
 七月十四日
 戦記。……とにかくこれをやらなければ話にならない。朝から蒸し暑いが、気力をこめる。
 七月十六日
 俳諧と戦記。戦記完成まではこの二本に絞る。
 七月二十日
 戦記。どうも稚拙におもえて、途中直したりして、すすまない。かたくなっているせいだ。それと、新興俳句事件
など、新に加えたせいもある。
 八月十五日
 敗戦の日。わが戦記いつ成るや。焦らず、しかし持続的に書きつづけよ。願わくば、せめて成るまででも環境に変化なきことを、父母妻子孫、すべて健康であれかし。
 九月三十日(父死す)
 十二月三十一日
 しかし散漫。……以後「戦記」を主題として、集中方式をとらないと、まとまったことはできないとおもう。
 五月八日(一九七八年)
 はやく戦記に着手したい。なによりも私自身の〈人間のために〉、一刻も早く書きたい。
 八月三日
 朝焼。しきりに「椰子の丘朝焼しるき日日なりき」をおもいだしている。のってきた。この大朝焼は合図のごとし。戦記再開。
 九月十六日
 戦記。……かるい不安もわいたりするが、なんのなんの。戦記のあと、読売の選と一茶季語集の下書き。このほうはあまり気がのらない。
 十一月三十日
 戦記に戻る。まだ雑事はあるが、戦記に集中すれば余暇でやれるていどのこと。戦記と俳論(時評)、一茶(一茶季語集)だけをやること。
 四月四日(一九七九年)
 一茶、戦記、中山道、秩父事件、秩父路の線をやりぬけば、〈死者に酬いる〉自分なりの生きざまが見えてくる。
 九月六日(一九八〇年)
 さて、おれはなにをやるかと考えてしまう。中山道が終ったら、歳時記をやりながら、秩父の日常記録をやる。そして戦記をやり、秩父事件におよぶ。――そんな展望をおっかなびっくり固めながら、「国民文学」とは何かとおもっている。

 見るとおり、一九七九年、八〇年の『日記』では、「トラック島戦記」はいくつもの並立する当面の課題の一つとなっている。そして、事実上の終わりとなったのは、一九八〇年十月二十九日、筑摩書房の編集者から「戦記」の草稿を読んで、「先生らしくない文章」(ゆるい文章)と評されたことだったようだ。その後の『日記』で、兜太はこう書いている。

 十一月四日(一九八〇年)
 筑摩井崎氏より手紙。小生電話して、秩父事件を先にやることを伝える。戦記は〈方法〉をかためなければ繰りかえしになる。そのあと、軽い落胆、不安。戦記をやはりやるべきだったかなどと軽い惑い。

 こうして、一九五八年十一月以来、兜太三十九歳から六十一歳までの、丸二十二年間に及ぶ小説「トラック島戦記」(筆者注・『日記』では途中から「環礁戦記」と変わったが、小論では統一してそのままのタイトルを用いる)の執筆、取り組みは、強烈な書きたい意欲と予想外の難行との鬩ぎ合いの中で、ここで実際上の終末となっている。
 年譜を見ても、この当時、兜太は朝日カルチャーの講義開始(一九七八年)、「海程」秩父道場開始(一九七九年)、第一回俳人訪中団参加(一九八〇年)、現代俳句協会会長就任(一九八三年)、「わが戦後俳句史」海程連載開始(一九八四年)など、ますます多忙を極めている。それでも兜太の中では、トラック島は終わっていなかった。

 十月二十三日(一九八三年)
 そこで話した「戦後の試行錯誤は〈死者に酬いる〉ことを生き方の根柢にしたところからはじまる」という線にやはり執してゆかねば、とおもい、「わが戦後俳句史」とともに「環礁戦記」をと決める。自分で納得できる生き方を、と改めておもう。
 十二月二十五日(一九八五年)
 来年の計画を練る。……小生自身「環礁戦記」に未練もある。しかし、いまの時期、昭和三十六年以降十五年間の俳句と自分に取組むべきかもしれぬ。迷う。

 兜太にとって、「トラック島戦記」とは、なにより自分自身の〈人間のために〉、自らの〈生きざま〉として、精魂をこめた人生的なものだったのである。そのために、二十二年という膨大な時間とエネルギーが投入されている。
 したがってその草稿が未完成、未発表に終わっても、その過程での、生死の戦場体験にもとづく赤裸々な人間考察の反芻、深化は、それからの兜太独自の人間観、俳句観、世界観の展開に、色濃く反映されていることは間違いない。そのことは四章で述べる。

㈡ 人間の極限体験をした表現者

 ここで私は、「トラック島戦記」に執念を燃やし続けた兜太の生きざまを、さらに深く真っ当に理解するため、同じく、第二次世界大戦中、アウシュヴィッツで人間の極限状態を体験した、ユダヤ系イタリア人作家プリーモ・レーヴィの古典的名著『これが人間か』を、改めて読み返した。そして兜太との意外な共通項を発見して、驚いた。
 レーヴィの生まれは、兜太と同じ一九一九年。ナチス・ドイツの強制収容所に送られたのも、兜太のトラック島赴任と同じ一九四四年。そのトラック島戦場は、米軍の包囲作戦で補給路を断たれ、極端な飢餓状態に追い込まれ、軍人軍属四万人のうち八千人が、ほとんど餓死している。うち兜太率いる土建の民間部隊が、もっともひどかった。アウシュヴィッツではユダヤ人をはじめ百六十万人が、ガス室で、無惨に死んだ。
 レーヴィは化学技術者ということもあって、僥倖にも生還した一人である。『これが人間か』は、次の詩から始まっている。

 これが人間か、考えてほしい/泥にまみれて働き/平安を知らず/パンのかけらを争い/他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。
 考えてほしい、そうした事実があったことを。/……そして子供たちに話してやってほしい。

 兜太とレーヴィは、二十歳代中頃に、人間が人間でなくなる異常な極限状態を体験し、その生ま生ましい体感、記憶を自らの肉体に刻み込み生還した、数少なくない表現者である。生き残った自分はなにをなすべきか。生涯かけて自問自答し、それを自らの人生の課題としている。そこに共通する三つの特徴を挙げると――。
 一つは、戦争とファシズムによる、こうした超非人間性への体ごとの告発、警告である。

 兜太 戦争体験というものはフィクションじゃない。我々生き延びてきているものには、語り伝える義務がある。(『語る兜太』)

 レーヴィ 「他人」に語りたい、「他人」に知らせたいというこの欲求は、解放の前も、解放の後も、生きるための必要事項をないがしろにさせんばかりに激しく、私たちの心の中で燃えていた。(同著・序)

 二つは、生き残り生還した自己への、微妙なこだわりである。

 兜太 こちらは主計(筆者注・食糧調達の担当官)として、あと何人死んでくれたら、この芋で何人生きられるかとさいないう計算をしてしまう。自己嫌悪に苛まれました。(『のこす言葉 金子兜太』)

 レーヴィ この生き残りの問題は、アウシュヴィッツ強制収容所から解放された後も、レーヴィの心の中でわだかまりとして残った。……死ぬまでそうするのである。(訳者解説)

 三つは、戦後二人とも、表現者としての仕事と並行して、戦場及び強制収容所体験の語り部となって、広く訴え続けたことである。

 「戦争法案」反対で高揚した二〇一五年を頂点とする、兜太の語り部活動は周知のこと。『金子兜太戦後俳句日記』第二巻では、早くも一九八九年四月、国学院大学で自治会主催の講演「危機の時代に生きる学生に望むこと――私の戦争体験と俳句」について、話をしている。
 レーヴィも、「強制収容所について語るのを義務と考え、中学校、高校からの講演の依頼を受けると断らずに出かけ」たそうである。
 『これが人間か』の初版は一九四七年十月だが、強制収容所に関する考察の集大成ともいうべき評論集『溺れるものと救われるもの』の出版は、一九八六年四月。つまり、彼が自死する一年前まで書き綴っている。「若い読者に答える」で語る次のことばは、彼の信念でもあったろう。

 ファシズムは死んだどころではなかった。ただ身を隠し、ひそんでいただけだ。

 兜太とレーヴィの生涯と、その表現を見ると、普通では想像を絶する、人間破壊の悲劇を体験した人間でないと、本当には分からない、人間の尊厳をかけたあるものが確かに存在する。そこから湧き立つ表現意欲は、尋常ではない。兜太が二十二年間にわたり執念を燃やした、「トラック島戦記」が、その顕著な一例であろう。
 最終章の句集『百年』には、そうした惨い戦場体験を抱き、終生語り尽くしたい兜太の内面が、俳句作品として重く立ち並んでいる。

 昭和通りの梅雨を戦中派が歩く
 雨期の戦場雑踏の街旦暮かな
 戦さあるなと逃げ水を追い野を辿る
 南溟の非業の死者と寒九郎

 今日、金子兜太という表現者の人間と俳句、評論、エッセイを論じ、鑑賞する場合、この新しいデータにもとづく視点が、新鮮に求められていると、私は思う。
(次号へつづく)

《誌上シンポジウム》 金子兜太最後の句集『百年』を読む

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。

《誌上シンポジウム》 金子兜太最後の句集『百年』を読む

2019年9月28日、文京シビックセンター・小ホール(東京都文京区春日)において、「金子兜太最後の言葉、最後の句集」と題する催しが開かれた。内容は、次のとおりである。

◇第一部映画「天地悠々兜太・俳句の一本道」上映
◇第二部河邑厚徳監督スピーチ「最後の言葉について」
◇第三部最後の句集『百年』を読む
 ① 「海原」安西篤代表のスピーチ―宮崎斗士によるインタビュー形式
 ② 「海原」会員のパネリストによるシンポジウム
   司会:宮崎斗士
   パネリスト:小松敦/高木一惠/遠山郁好/柳生正名(五十音順)
 《発言内容》
  1 句集『百年』共鳴句(注目句)5句の鑑賞
  2「金子兜太最後の九句」に関してのコメントおよび鑑賞
  3 句集『百年』全体を通しての感想や総評

 今回は、4名のパネリストに当日の発言内容をコンパクトにまとめていただいた。名付けて《誌上シンポジウム》である。
 各パネリストが読み解く句集『百年』の魅力、多彩な世界の広がりと深さを味わっていただきたい。
<発言1> 「他界」としての『百年』  小松敦
<発言2> 新たに開かれた道で  高木一惠
<発言3> 韻律と映像、そして幻想  遠山郁好
<発言4> 「生きもの」としての尊厳  柳生正名

■金子兜太最後の九句(二○一八年一月二六日〜二月五日)
 雪晴れに一切が沈黙す
 雪晴れのあそこかしこの友黙まる
 友窓口にあり春の女性の友ありき
 犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
 さすらいに雪ふる二日入浴す
 さすらいに入浴の日あり誰が決めた
 さすらいに入浴ありと親しみぬ
 河より掛け声さすらいの終るその日
 陽の柔わら歩ききれない遠い家

■金子兜太句集『百年』十五句抄
 昭和通りの梅雨を戦中派が歩く
 初富士と浅間山あさまの間青し両神山りょうがみ
 裸身の妻の局部まで画き戦死せり
 三月十日も十一日も鳥帰る
 被曝の人や牛や夏野をただ歩く
 雲は秋運命という雲も混じるよ
 白寿過ぎねば長寿にあらず初山河
 干柿に頭ぶつけてわれは生く
 オリオン出づ百歳までは唯の歳
 死と言わず他界と言いて初霞
 朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ
 戦さあるな人喰い鮫のうたげあるな
 妻の墓に顔近づけてわが足長蜂あしなが
 まず勢いを持てそのまま貫けと冬の花
 秩父の猪よ星影と冬を眠れ
(句集『百年』の帯に記された十五句をもとに、パネラーの選句と重ならないように選出/編集部)

​金子兜太第十五句集『百年』
出版社:朔出版
発行:2019年9月23日
編集:「海原」俳句会・句集『百年』刊行委員会

「他界」としての『百年』  小松敦

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

「他界」としての『百年』  小松敦

◆『百年』より五句鑑賞

 果てしなく枯草匂う祖国なり

 果てしなく枯れている。でも、果てしなく枯草のいい匂いがしている。むんむんと匂う枯れ草の匂い、土の匂い。その匂いをかぐ人間として、私はこの句の世界に引きずり込まれる。枯草は、また生えてくる。果てしなく青々とした大草原になる。そしてそんな土地が私の祖国なのだ。もしかすると、祖国であってほしいと願う希望かもしれないが、「なり」と断定し強く信じている。
 「祖国」という言葉には過去から現在まで連面と命をリレーしてきた歴史を感じる。たった十七音の韻律に、壮大なスケールの空間と時間が枯草の生命感とともに出現する。これが、兜太の「生きもの感覚」だ。産土秩父の猪や狼だけでなく。あらゆる命やものごと、自然やその上に構築された社会、過去・現在・未来も共存する、そういうパースペクティブの世界認識が、兜太の「生きもの感覚」であり、アニミズムである。だから、「生きもの感覚」でいると、「他界」も「この世界」も混然一体となる。
 兜太は「生きもの感覚」のことを近接した既成概念「アニミズム」とも称しているが、これは自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって、タイラーの定義や原始信仰を指しているものではなくむしろ〈アニミズムを生む人間の生な感覚『荒凡夫一茶』177頁〉のことを指す。
 また、「生きもの感覚」は、俳句の素材のことを言っているのではない。何を俳句に書くのかではなく、どう俳句を書くのか、という態度に必要な感覚である。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べていたのと同様に、俳句をつくる者の生き方そのものを指す。
 そしてくれぐれも誤解しないでほしいのは、兜太の「生きもの感覚(アニミズム)」や「他界」は、宗教とかスピリチュアルとかオカルトの話ではなく、リアルな世界と存在の話であるということだ。最近の人類学で主流の「多自然主義」を先取りしているし、この「生きもの感覚」や「他界」の思想を、リアルに哲学しているところがすごい。たとえば、95歳で出版したまさに『他界』という本で兜太はこんな考察を記している。
 〈ふと「今」を生きる人間にとって、他界は「未来」にあると閃きました。その未来は、わたしたちが予知できない手つかずの領域なはずです、本来は。だが、ちょっと待てよ、と青鮫を通して思えてきたのです。結局、わたしたちが想像している未来は、過去の経験や感情を通して思い描かれた、「時」の写し絵ではないのか。さらに言うなら、その過去とは、時の試練を経てもなお風化せず、わたしたちの心の奥底で静かにしぶとく棲息し続けてきた記憶です。『他界』199頁〉
 どうだろう。兜太のいのちは「他界」に行った。しかしその「他界」はどこにあるかというと、わたしたちの記憶にあるのだ。
 〈過去、現在、未来の「時」の同化。これこそいのちに段差のないアニミズムの世界ではないか。『他界』202頁〉
 「他界」とは過去、現在、未来の「時」の同化であり、記憶であり、「生きもの感覚(アニミズム)」の世界である。というのが兜太95歳に肉体化した思想であり、『百年』の世界である。

 散ることなし満開の桜樹に寝て

 「散ることなし」が力強い。寝て、まで読むと、散ることがないのは、寝ている者だとわかる。散ることのない花万朶。太平洋戦争のイメージが重なる。肉体は散ったかもしれない。現在と過去、桜木と人間、生と死が一体となって、魂は決して散ることがない、という安心感を覚える。

 山百合群落はげしく匂いわが軽薄

 山百合の横溢な生命力の中にあってはどんなに強い思いも軽々しく薄っぺらくなってしまうと自己を客観視する。客観視というのは自分ではない誰かの視線だ。誰だ。山百合の視線だ。山百合群落に心を寄せているうちに山百合になって己を見た。「人間中心」ではない。これも「生きもの感覚」に通じる。

 新聞紙夏の狐へとんでゆく

 新聞紙がとんでゆく。薄毛の夏の狐に対する愛情とも感じる。この時作者は「新聞紙」に「成っている」。「情(ふたりごころ)」が極まると対象に成りきり対象の視線を得る。誤解を恐れずに言えばそれはシャーマン的な技。アントナン・アルトーがタラウマラ族に触れて「器官なき身体」に覚醒したのと似ている。それは、「生きもの感覚(アニミズム)」と「情(ふたりごころ)」の実践であり、若き頃に理論付けようとした造型俳句論では未分化だった兜太作句の奥義である。
 積極的に対象に「成ってみよう」。違う世界が見えてくる。違う俳句が生まれるだろう。

 動きなし山人の晩夏の総て

 動きなし、が強く決まっている。せせこましく動くものはいない。晩夏の暗緑の森に暮らす山人はこの森と同化している。山人は晩夏の山そのものであり総てだ、という感覚。
 物や自然や動物や人間が分け隔てなく入れ替わったり同化したりする世界が、おとぎ話ではなく目の前の日常にある。

◆「金子兜太最後の九句」より一句

 さすらいに入浴ありと親しみぬ

 現在・過去・未来、記憶のさすらい。現実の中にいながらにして原郷を求める「定住漂泊」を最後まで実践している兜太。「入浴あり」がリアルである。
 我々も日々さすらっていると思う。昨日の失敗を後悔し、明日の試験を心配する今、気分はそんなにすぐれないかもしれない。過去や未来と繋がって、今がある。だからこそ、今のリアリティに、原郷に漂泊しよう。今この時の豊かさを知ろう。そうやって俳句が生まれることを兜太は他界してもなお教えてくれる。

◆「他界」としての『百年』

 この句集『百年』は、他界とこの世界、現在・過去・未来が混然一体となった句集だ。それはそのまま金子兜太晩年の日常であり「生きもの感覚(アニミズム)」そのものである。
 「生きもの感覚」は世界を慈しむ。記憶は語り継がれ、魂は連綿と滅びることなく、育まれる。だから兜太は「死なない」のである。