『海原』No.81(2026/9/1発行)誌面より
シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第9回
わが追憶の満州、熊野そして広島〈後編〉
〜俳人・安西篤の産土を辿る〜 齊藤しじみ
(三)追憶の熊野
昭和二一年九月に日本に引揚げてきた安西一家が落ち着いた先は再び生まれ故郷で、現在の三重県紀北町にある母の実家だった。安西は二学期の途中から地元の県立旧制尾鷲中学に編入学した。
しかし、満州で一年余り学校に通っていなかったことが影響して授業についていけず、加えて体調も崩したため、翌年春まで休学して自宅で療養することになった。時間を持て余した安西はたまたま家の蔵から曾祖母の蔵書と思われる歳時記や俳誌を見つけた。紙の本が簡単には手に入らない時代にあって、知的欲求を満たそうとした少年の心をとらえたのは自然感あふれる句風で知られた長野県出身の俳人・臼田亜浪(明治一二年〜昭和二六年)の俳句だった。
心澄めば怒涛ぞ聞こゆ夏至の雨 亜浪
その時の心境を安西は次のように書き留めている。
(郷里は)終日潮騒と雨の音に包まれる。少年とはいえ静臥の身には、この句の透明な境地が沁み入るように感じられた。それ以来、退屈にまかせて一人俳句らしきものを書き散らすようになった。(出典①)
その頃、大阪に単身赴任中の父から自宅に小包が届いた。中から出てきたのは「俳句の作り方」という入門本だった。著者は戦前の逓信省次官で虚子に師事した俳人の富安風生(明治一八年〜昭和五四年)だった。本といっても印刷された現物の本ではなく、まだ紙不足の時代、用済みの書類の裏紙に手書きで書かれて和綴じにされたものだった。おそらく図書館で借りた本を父が万年筆で書き写したのだろう。挟まれていた栞には「妻のこと子のこと今日も花曇」という父の自作の句も書かれていた。安西は「俳句を嗜む趣味はなかった父の人生最初で最後の句だった」と回想し、「私の俳縁はこの時に定まった」と言い切る。
俳句文学館に保管されている「俳句の作り方」の当時の本を実際に手にして見た。ページ数は約二〇〇ページもあり、全文を書き写す労力は想像に難くないボリュームだった。まさに父の愛である。安西は「一年のうちの半分が家族と離れていた父はその分だけ人一倍、子煩悩だった」と振り返る。

引揚げの翌年の昭和二二年四月に復学した安西は早速学内の文芸部の友人を誘って一緒に句会を開いたり、ガリ版刷りの俳誌を出したりするようになった。「俳句の作り方」を頭に叩き込んだ安西が学友たちの事実上の俳句の指導役を担ったという。
昭和二三年の学制改革で、旧制尾鷲中学は県立尾鷲高校になった。安西は振り返ると新制高校での一年間と旧制尾鷲中学での一年間が最も充実した楽しい学校生活だったと懐かしむ。
中高時代の安西の句が残っているので、その一部を紹介する。
朝焼や牧牛丘へ雲嘶く
熱気の夜狂える恋と蛾の描く渦
峡蒼む童話織れよ嶺の雲
蛙田の夕澄みまさる童歌
暮れ果てて寒林重し何耐える
灰色のタンカー事なし怒りの冬
春埃靴に重たし別れの刻
壁の汚点ピエロの黒き涙より
(四)追憶の広島
翌年二四年春に安西は再び熊野を離れて、今度は父の単身赴任先の広島市に母と妹それに弟の三人で引っ越した。原爆投下から四年も経っていない時期で、安西の話では「中心部周辺はまだ一面焼け野原に近い状態だった」という。

後に広島の原爆のことを詠んだ安西の句には、次の作品がある。
ヒロシマや幾皿かさね肉醤
句集「多摩蘭坂」
裸身にヒロシマの雨塗りたくる
人型の影ありし地や薄暑光
九穴は水を吸うものヒロシマ忌
句集「秋の道」
アオギリの亀裂叫びのままに裂け
聖家族骨片もなしヒロシマ忌
黒い雨浴びし蛍の行方かな
句集「素秋」
話は脱線するが、作家の松本清張(明治四二年生まれ)は昭和二一年から二三年まで毎月、九州の小倉から夜汽車で広島駅にやって来ては箒の注文を取るために周辺の雑貨店などを歩きまわっていた。当時はまだ文壇デビュー前の新聞社勤務だった清張だが、給与だけでは八人家族を養えず、会社公認の週二日の買い出し休暇を利用しての副業だった。駅前では闇市が軒を連ね、低層のバラックが建て込みはじめ、清張は復興の早さを感じたという。
安西が二年生に編入した県立広島国泰寺高校はその広島駅から二キロ余り離れた市内の中心部にあり、前身が旧制県立広島第一中学(以下広島一中)という地元では屈指の名門校だった。昭和二〇年代とはいえ、多くの生徒は大学進学を目指して受験勉強に熱心で、安西もその雰囲気に飲み込まれて、以前のように俳句をひねるような心境にはなれなかった。一時、文芸部に入部したものの、部の主流は現代詩や小説の創作で、俳句は馬鹿にされたため、すぐに退部したという。

やや殺伐とした学校生活の中で、安西は同じクラスに心休まる一人の親友ができた。記憶では「オオハタ」という名前だった。彼の頬の片側にはケロイドの痕があった。顔にケロイドの痕が残る同学年の男子生徒は少なくなかったという。安西の学年は昭和二〇年八月の原爆投下時の広島一中の一年生にあたり、高校には一中出身者が一〇〜二〇数人いたと見られる。実は彼らは原爆による数ある惨劇の中で今も語り継がれる当事者たちだった。
今の広島国泰寺高校と同じ場所にあった広島一中は爆心地から約九〇〇メートルという近い距離になる。昭和二〇年八月六日は夏休み返上で三〇七人の一年生が勤労動員で登校していた。原爆の投下で校舎が全壊し、校外で作業中の者も含めて二八八人の生徒がほぼ同時期に亡くなった。安西は「オオハタ」が一九人いた生存者の一人だったのではないかと話す。
生き残った生徒たちの体験談「倒壊校舎脱出手記」は昭和二二年に当時の学校長の手でまとめられている。
私は広島平和記念資料館でその手記に掲載されている名前をたどったが、「オオハタ」の名前はなかった。
ただ、投下当日にその生存者のほかに学校を欠席した一年生が一三人いた。あくまでも私の推測だが、「オオハタ」はその一人ではないだろうか。
安西は在学中に彼から一度も被ばくの体験を聞くことはなかったものの、彼が一度だけ「自分は長く生きられない」と漏らした言葉が今も記憶に残っている。そして卒業してから数年して風の便りで彼が死んだことを知ったという。
当時の生存者の一年生の一人に原邦彦という人物がいた。卒業から二〇年余り経って学友たちの生きた証を残したいと思い立った原は原爆症も含めて犠牲になった一年生の生徒たちの遺族宛に手紙を出し、回収できた約一八〇人分の返事をまとめ、昭和四九年に「ゆうかりの友」という本を発行している。私は「オオハタ」の遺族が含まれていないかどうか目を通したが、そこにも名前はなかった。原は発行の翌年に肺がんで亡くなった。四三歳の働き盛りだった。
原邦彦は自らの被爆体験をもとにした小説「夏の花」を著した作家の原民喜(明治三八年〜昭和二六年)の兄の息子、つまり甥にあたる。民喜の実家は市内中心部で軍御用達の縫製業を明治時代から営んでいた。実家で被爆した民喜はその数か月後に自らの体験を俳句に詠んでいる。
日の暑さ死臭に満てる百日紅 原民喜(出典②)
話を元に戻すが、安西は卒業から六〇年経った平成二三年、「海程」の全国大会が広島で開かれた折に時間を見つけて広島国泰寺高校に一人で立ち寄った。その時、親友「オオハタ」の死を初めて自分の目で確認した。
今年五月の大型連休明けに私は広島市を訪ねた。季節的に修学旅行の中高生が多い時期で、特に広島平和記念資料館周辺は制服姿の生徒たちであふれ、館内は見学するにもなかなか身動きできないような混雑状態だった。
優曇華の糸伸びてくる爆心地
句集「秋の道」
広島国泰寺高校はその資料館から歩いて一〇分もかからない距離にある。正門そばには原爆で亡くなった生徒・教職員を悼んで昭和二三年に建立された慰霊碑「追憶の碑」がある。
当時のGHQ(連合国最高司令官総司令部)が碑に原爆の名を使うのを禁じたと言われている。ちなみに原民喜の小説「夏の花」も原題は「原子爆弾」だったが、GHQの検閲に配慮して改題されたという。
慰霊碑のそばの名録碑には原爆やその後の原爆症で亡くなった広島一中の全学年の生徒三五三人の名前が刻まれている。その名録碑の名前をあいうえお順に辿っていくと一年生の中に「大畠章司」という名前があった。
慰霊碑を抜け曲舞いの黒揚羽
句集「素秋」
安西は彼が亡くなった具体的な時期の記憶がなかったが、この名録碑ができたのは「追憶の碑」より一〇年後の昭和三三年なので、親友「大畠」は二〇代半ばまでに亡くなったことになる。

安西には今でも忘れられない印象的な思い出がある。それは普段目立たない大人しい性格の大畠が生徒会の会長選挙に立候補したことだった。弁も達者でなく、結果は予想通りの落選だった。立候補したのはこの世に生きた証を残しておきたかったのではないかと安西は今になって思う。卒業後、安西は上京したため、大学に進学せずに地元に残った大畠との関係は断ち切れてしまったが、付き合いを続けておくべきだったと悔やむという。
広島で私がもう一か所足を運んだのは高校時代の安西が住んでいた広島湾に近い住宅地だった。八〇年近く前のことで、自宅の跡地は正確には特定できないが、安西が語った「庭を掘ると人の骨が出てきた」という周辺地域だけでも見ておきたかった。実は安西が語った話を裏付けるような体験談がある。
被爆体験をもとにした漫画「はだしのゲン」の作者の中沢啓治(昭和一四年〜平成二四年)は、安西が広島に来る二年前の昭和二二年の夏のことだが、原爆ドームの近くの川に飛び込んだ時に川の底に無数の白い人骨が積み重なって川下に続いているのを目撃し、「髑髏(しゃれこうべ)の川」と例えた。
安西の自宅があった地域は直線距離で原爆ドームより南へ四キロほど離れた広島湾の河口に近い京橋川という川沿いの埋め立て地になる。原爆投下後に広島一中から南の方向に避難する途中に京橋川の橋を渡った生き残りの一年生の証言がある。
橋の倒れた欄干に座りまして川面をずっと見ていますと、黒焦げの死体が、すうっと瀬戸内海(広島湾)のほうへ流れていくんですよね(中略)次から次へと流れてくるんですから。あのときの状況と言ったら、死体というよりか、材木の黒い丸太ん棒という感覚ですよね。
(出典③)
橋の上から人が落ちる日ヒロシマ忌
句集「素秋」
その橋から一キロほど下流あたりが安西の住んでいた地域である。私は広島平和記念資料館を後にして、戦前の市内の簡単な地図を頼りに一時間余りをかけて歩いて該当地域にたどり着いた。戦後八一年経った今となっては無論当時の面影もなく、界隈は住宅が建て込み、地表の多くはアスファルトやコンクリートで覆われていた。それでも私はそこに安西少年の姿を思い浮かべないわけにはいかなかった。

軍人としての戦争体験を俳句に昇華させ、戦後の自らの考え方や行動それに生き方にも意識的に取り込んでいった師の兜太。
それとは対照的に愛弟子の安西は少国民としての満州での体験、そして戦後間もない熊野や広島での少年時代の日々を心の中に沈殿させていった印象を受ける。
朝鮮からの引き揚げ者で安西と同じ年齢の作家の五木寛之は同じ引揚者の山田洋次監督の映画作品について「常に異邦人の視線がある」と指摘したことがある。
安西の俳句の中にも兜太とは異なり、情念や土着とは一線を画した異邦人が見つめるような一種冷めた句風を感じる句が少なくない。
産土はいつも痣色夕焼雲
句集「素秋」
「痣」は他人には決して自発的にさらすものではない。満州、熊野、広島という「産土」は夕焼雲のような郷愁をまといながら、安西の追憶の中に静かにそして根を張りながら存在し続けている。
(あとがき)
その後の安西一家のことに触れておきたい。父の栄は黒部ダムの建設工事が始まった昭和三一年に富山県の工事事務所で心臓まひで倒れて亡くなった。五三歳の働き盛りだった。当時大阪の三井銀行船場支店の新人行員だった安西は知らせを受け山奥の現場に駆け付けた。
母のとよ子は三一年前に九二歳で亡くなった。
兄と同じ広島国泰寺高校に進み、明朗活発で学校の人気者だったという二つ違いの昭子は八年前に八四歳で亡くなった。満州生まれの九つ下の弟の「実」は健在で、今回誌面で紹介した安西の少年時代の俳句を今も大切に記録していた。
また、安西には満州に母子で渡った時に熊野の祖母に預けられたもう一人の弟「徹」がいた。四つ下の徹は昭和一四年に腸捻転のため四歳で亡くなった。その際、満州から一時帰国した安西は、棺にすがりついて号泣する母と憔悴し切った祖母の姿が今も目に焼き付いているという。

【出典】
①現代俳句の断想(安西篤 海程社)
②原民喜 死と愛と孤独の肖像(梯久美子 岩波新書)
③原子野を生き延びて(兒玉光雄 広島大学文書館)
【取材協力】
下村優(広島平和記念資料館)、前田京香(舞鶴引揚記念館)、下高呂元成(広島国泰寺高校)、広島市立中央図書館
※敬称略
【参考】
『半生の記』(松本清張 新潮文庫)
『軍都の風景と占領の影 松本清張の戦前・戦後』(北九州市立松本清張記念館)
『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房)
『ゆうかりの友』(広島県立一中被爆生徒の会)
『小説集夏の花』(原民喜 岩波文庫)
『広島一中国泰寺高百年史』(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会編)
『異端の被爆者 二二度のがんを生き抜く男』(横井秀信 新潮社)
『被爆者・ヒロシマからのメッセージ』(兒玉光雄)
『はだしのゲン自伝』(中沢啓治 教育史料出版会)
『一寸先は闇』(五木寛之・佐藤優 幻冬舎新書)
















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