露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す〜神戸とロシアを結ぶ点と線〜齊藤しじみ

『海原』No.46(2023/3/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第5回

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
〜神戸とロシアを結ぶ点と線〜 齊藤しじみ

 (1)神戸と西東三鬼

 背後に六甲山、前方に大阪湾に挟まれた細長い神戸は南北に坂が多い街である。俳人の西東三鬼(一九〇〇〜六二)が東京からこの街に移り住んだのは、昭和一七年一二月のこと。ミッドウェー海戦での敗北、ガダルカナル島からの全面撤退という太平洋戦争の戦局の大きな転機の年であった。神戸への転居は当時の社会情勢とは切っても切れない事情があった。いわゆる昭和一五年の「京大俳句」事件(注①)で特高警察に検挙された三鬼だが、その後起訴猶予となり、その保護観察期間が切れた時期が神戸行きと重なるのである。
 しかし、三鬼自身の言葉を借りれば「単身家を出て、神戸に流れていった」という表現どおり、東京の自宅には臨月の妻と幼い子どもを残し、横浜の歓楽街で知り合った女性を連れてのいわば四三歳の中年男の身勝手な家出であった。
 神戸という街は「頭蓋骨の要らない街」といってもいい位、物を考えないでいられる町と「自伝」の中で評した三鬼。神戸での最初の住まいは、現在の神戸市中心部のトーア・ロー
ド沿いにあったホテルだったが、今は中華会館やレストラン、クリニックなどが立ち並んでいるあたりである(写真1)。

▲写真1 三鬼が身を寄せたホテル跡

 芝居のように朱色に塗られたそのホテルがあった……同宿の人々も根が生えたようにそのホテルに居据わっていた。彼、あるいは彼女達の国籍は、日本人が十二人、白系ロシア人女一人、トルコタタール夫婦一組。エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった(注②)

 思い出多きホテル暮らしも半年余りでピリオドを打ち、三鬼は翌年昭和一八年の夏には空襲への不安を理由に六甲山の山麓に近い、ホテルから一キロあまり離れた家に引っ越した。三鬼によれば、転居先の家は明治初年に建てられた廃屋同然の異人館で、外装のペンキはボロボロ、床はプカプカしていたという。昭和二三年二月までの約四年半住んだのだが、多くの俳人が足を運び、後に仲間から「三鬼館」と呼ばれるようになった。
 俳人の鈴木六林男(一九一九〜二〇〇四)は当時の「三鬼館」に終戦まもなく訪れたことがあり、その界隈の様子について次のように表現している。

 国鉄の神戸元町駅から、三鬼の住んでいた山本通り四丁目への坂道の両側は、すっかり戦災にやられ、瓦礫が散乱していた。坂から神戸の海は丸見えであった……(略)…
…神戸の街は見事に焼けていたが、三鬼館のあるあたりから上は、まだかなり戦前のおもかげを残していた
(注③)

  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 この句は「三鬼館」で目にした一場面を題材に戦後まもなく発表した句で、三鬼の代表句の一つになる。
 文芸評論家の山本健吉は「巧まざるユーモアがある。ワシコフという舌を噛みそうな固有名詞も効果的だ」と評している。(注④)
 ワシコフが三鬼館の隣人で、実在の人物であったことを三鬼はその著作で明らかにしている。

 ワシコフ氏は私の隣人。氏の庭園は私の家の二階から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六・七歳。赤ら顔の肥満した白系露人で、日本人の細君が肺病で死んでからは独り暮しをしてゐる(注⑤)

 「三鬼館」の場所を戦後の住宅地図で推定することはそれほど難しいことではなかった。
 三鬼は別の著作で隣人が二人いたとしている。

 水洗便所の水槽の鉄蓋を開け、隣家の露人ワシコフ氏、仏人ブルム氏の分も流れ込んだ濁水を汲み出して大切に肥料にした(注②)

 昭和三二年の神戸市生田区(現在は中央区)の地図に住宅街の西端に「F・BLUM」とブルム氏の名前を見つけることができたからだ。その右隣が「KA・SONS」、そのまた右隣は「浅野」という名前が確認できる。
 また、平成三年発行の昭和俳句文学アルバム『西東三鬼の世界』(梅里書房)には作成時期は不明だが、「三鬼館」の正面からの写生図が掲載され、真ん中の「三鬼館」の左隣が「ブルム邸」、右隣が「浅野」と記されている。
 となると結論は一つ、「KA・SONS」の場所にあった家が「三鬼館」と推測されるが、隣家の「ワシコフ氏」の家らしき跡が見当たらないのは「三鬼館」の裏手にあたるのではないだろうか。
 ちなみにブルム氏の住まいだった洋館は、後に岐阜県の観光施設「明治村」に移築され、そこにはブルム氏はフランス人の貿易商と紹介されている。
 昨年九月に現地に足を運んだ私は「浅野」という表札のある戸建ての家を見つけたが、その隣は四階建てのマンション、その隣が九階建の真新しい賃貸マンションの出入り口に通じる幅一〇メートルほどの私道、そして「ブルム邸」の跡地には四階建ての雑居ビルがあった。
 「浅野」の家人に尋ねると、隣の四階建てのマンションはもともと親類が所有していたとのことである。推測すれば、マンションの私道にあたる場所が「三鬼館」、ワシコフ氏の家は、私道奥の賃貸マンションにそれぞれあたるのではないだろうか(写真2)。

▲写真2 三鬼が住んでいた洋館の跡地

 「露人ワシコフ……」の句ができた経緯について、三鬼は具体的に綴っているので引用する。

 私の隣人は六十歳位の、白系ロシア人で、彼の若い妻は日本人で肺病であった。(略)
 彼女がいつのまに死んだのか、私は知らなかった。秋の半ばころから、女の死んだ家では、夜になると、蓄音機の急調子のロシア音楽が鳴り出した。こちらの二階から見下すと、白髪の露人は、立ち上がったセパードを抱いて、狂ったように踊っていた。
 ある朝、隣人は長いサオを持ち出し異様な叫びと共に手当たりにザクロをたたき落していた。その上にはルビーのような実が散り乱れ、ほえながら走り回る犬がそれを踏み荒らした
(注⑤)。

 (2)神戸のロシア人

 三鬼がワシコフ氏を「白系ロシア人」と表現したのは白人のロシア人という意味ではない。戦前のロシア情勢を色濃く反映した当時の一般的な語句であった。
 一九一七年(大正六年)のロシア革命による帝政ロシア崩壊の影響で、革命政権による迫害などを恐れて約二〇〇万人のロシア人が難民として欧米を中心に海外に亡命したという。その亡命先の一つとして日本を選んだロシア人は正確な数は不明だが、一時的には数千人規模だったといわれている。亡命ロシア人は社会主義としての赤いソビエト政権に対立する存在として「白系ロシア人」と呼ばれた。
 亡命者の多くは神戸や横浜の港町に定住し、特に大正一二年の関東大震災の後は神戸へ移り住む人が急増したという。
 「神戸市統計書」などによれば、神戸市内在住のロシア人の数は「労農ロシア」として括られている。そのうち白系ロシア人については「( )内ハ白系ロシア人の無国籍者ナリ」という注釈が付いて、上段の「ソ連人」とは区分けされて下段に(人数)が表示されている。データの存在しない年も多いが、次のような人数の推移だった。
  昭和八年 三一(二二五)
  昭和九年 四七(三八九)
  昭和一〇年 三八(三八五)
  昭和一三年 四〇一
  昭和一四年 三一七人
  (※昭和一三年と一四年のデータはソ連人と白系ロシア人の合計と思われる)
 おそらくは神戸在住の約三〇〇人の亡命ロシア人の一人だったワシコフ氏は何の職業に就き、どのような人物だったのか。三鬼の著作からはこれ以上知ることができない。
 「神戸市史」によれば、昭和五年の在神戸ロシア人の職業のうち、最も多かったのが行商人の七八人で半数以上を占め、次に商社員の二五人、無職の一〇人、音楽家の七人、貿易商の五人、教師の四人となっている。
 青山学院大学のポダルコ・ピョートル教授は、欧米に亡命したロシア人に比べると、日本への亡命者は財産、技能、知識などの水準は高いものではなく、貧しい教育の者が多かったと分析している(注⑥)。そうであればワシコフ氏は数少ない成功者の一人だったのだろう。
 というのも当時、欧米人が多く住み、領事館も集中していた山手の住宅街の洋館に住み、大型犬を飼い、日本人の妻を娶ったことを考えると比較的余裕のある生活を送っていたことが推測されるからだ。
 三鬼の妻のきく枝は昭和二二年の夏に幼子を連れて神戸の三鬼と同居生活を送り始めたが、その随筆「遠い日々」の中で隣家のワシコフ家について触れている(注⑤)。

 (三鬼に)叱られて泣き声を聞くとワシコフ家の女中さんが窓下に来て喚きました、「小さい子供を虐待してッ。そんな親(三鬼のこと)は年とってから碌な事ないよ、うちの旦那が養子に貰っていいというよ。」

 ここに登場する旦那とはワシコフ氏のことだが、戦後も家政婦を雇うほどの経済的な余裕があったことが伺える。

 (3)ワシコフ氏は何処に

 三鬼の妻の話によれば終戦後も神戸にいたことになるワシコフ氏であるが、その後の行方を知るすべはないのだろうか。
 昭和二三年の神戸市在住の白系ロシア人は一六三人とあり、戦前に比べると半減している(注⑦)。
 東海大学の中西雄二准教授は関係者の聞き取り調査を踏まえ、戦争中から戦後の混乱期にかけて海外へ再移住した白系ロシア人が多かったことを指摘する一方で、戦後に残った白系ロシア人は海外に身寄りのない高齢者が目立ち、その多くは日本国籍を取得したとしている(注⑧)。
 後者であれば終戦後も神戸で暮らしていたワシコフ氏は地元の墓地に埋葬されている可能性が高い。
 神戸には外国人墓地があり、正式には神戸市立外国人墓地と呼ばれる。ここにはロシア人の名前が明確に書かれた墓は一六〇基以上あり、ほとんどは亡命ロシア人や一九五〇年代までに来日した者だという。神戸発祥の洋菓子「モロゾフ」の創始者ともいえるモロゾフ氏も、ここに眠る亡命ロシア人の一人である。
 墓地の調査をかつて行った青山学院大学のポダルコ・ピョートル教授は、墓碑の名前が判読できた名簿をまとめている(注⑥)。
 その名簿番号の二〇番目にロシア語で「BacLKoB(30/3/1891-10/9/1958)」という名前があった。日本語で「ヴァシコフ」と記されている。他に似た名前はなく、この人物は墓碑に刻まれた生没年からすれば、三鬼と出会った時は五四歳だったことになる。三鬼はワシコフ氏のことを「年齢は五十六・七歳」と書いていることから、年齢的にはほぼ一致している。ワシコフ氏だとすると明治三三年生まれの三鬼より九歳年上で、三鬼が六一歳で死亡する四年前の昭和三三年に六七歳で亡くなっていたことになる。
 亡命ロシア人の多くは日本で文化や生活習慣だけでなく言葉の壁にぶつかり、日本で大変な苦労を強いられたという。
 ワシコフ氏はおそらく革命で混乱の母国に別れを告げて単身、日本の地を踏んだ時は二十代半ばの青年だったと考えられる。その人生はロシア革命だけでなく、太平洋戦争には日本在住のロシア人が官憲の監視下に置かれたことも踏まえれば、激動の二十世紀の世界史に翻弄された一人だったに違いない。その境涯に思いを馳せた時、石榴の実を打ち落したワシコフ氏の発したという叫びは、宿命へのやるせない思いからの慟哭ではなかっただろうか。
 石榴はペルシャ原産で、日本には平安時代に中国から伝わったとされ、その独特の深紅の色彩から必ずしも明るい印象を与える果樹ではなく、秋の季語としても歳時記で見る限りは、何か哀しさや不安を漂わせる句が目立つ。
 散文の世界でも広島原爆を題材にした井伏鱒二の名作『黒い雨』で、疎開先からたまたま帰省していた男の子が自宅の庭で柘榴の実一つ一つに「今度帰ってくるまで落ちるな」と声をかけていたときに爆風の直撃を受けて即死したという話が母親の口から語られる一節がある。
 また、川端康成の『掌の小説』に収録されている短編「ざくろ」では、出征する幼馴染が食べ残した石榴の実を口に含む少女の揺れる心について、「ざくろの酸味が歯にしみた。それが腹の底にしみるような悲しいよろこびをきみ子は感じた」と綴られている。いずれの作品でも「石榴」は哀愁を秘めた題材として異彩を放っている。
 ワシコフ氏の庭の石榴の木は、時期は不明だが、戦後「三鬼館」の新たな家主になった中国人が「風で揺れると板塀を擦る」とワシコフ氏に苦情を言って強引に切り倒したと伝えられている。

【引用文献】
注① 京大俳句事件:昭和一五年に新興俳句運動の中核を担った俳誌「京大俳句」の編集に関与した主要俳人一五名が治安維持法違反の容疑で検挙されたもの。(『現代俳句大事典』三省堂)
注② 『神戸・続神戸』(西東三鬼著・新潮社)
注③ 『俳句』(昭和五三年一一月号・角川書店)
注④ 『定本現代俳句』(山本健吉著・角川書店)
注⑤ 『西東三鬼読本』(第29巻第5号・角川書店)
注⑥ 『白系ロシア人とニッポン』(ポタルコ・ピョートル著・成文社)
注⑦ 『新修神戸市史歴史編Ⅳ』(神戸市)
注⑧ 「神戸における白系ロシア人社会の生成と衰退」(人文地理・第56巻第6号)
 このほか、『西東三鬼自伝・俳論』(沖積舎)、『西東三鬼』(著・沢木欣一、鈴木六林男・桜楓社)、『西東三鬼全句集』(角川ソフィア文庫)、『果物の文学誌』(塚谷裕一・朝日新聞社)、『文豪たちの美味しいことば』(山口謠司・海竜社)などを参考にさせていただいた。

詩人・ラヴロック博士 小松敦

『海原』No.41(2022/9/1発行)誌面より

〈ジュゴン通信〉

詩人・ラヴロック博士 小松敦

 兜太先生と同じ一九一九年生まれのジェームズ・ラヴロック博士が、今年の夏、百三歳の誕生日である七月二十六日に他界した。博士は「地球はひとつの生命体」という「ガイア理論」の提唱者であり、レーチェル・カーソンに『沈黙の春』執筆を促したことでも知られる英国の科学者だ。その博士の九十九歳で最期の著作『ノヴァセン』を読んだ。『ノヴァセン』は人新世以降の近未来予測エッセイともいうべき書物で、ここでは細かい中身には触れないが、九十九歳でなお大胆かつ思慮深い思索がはしゃぎ回る超刺激作だ。
 博士は先生同様に、徹底的に「アンチ人間中心主義」そして「本能」の人だ。〈ことばや文字が生まれる前、人類をはじめすべての動物は直観的/直感的に思考していた〉〈人類の文明がおかしくなったのは、直観を過小評価するようになってからだ〉〈人間はいまだに原始的動物であることを理解しなければならない〉。
 博士によると、ことばは静的問題を解決するにはぴったりだが、動的システムを線形的で論理的なことばで説明するのは難しい、ましてや〈生きている対象の動きについて、それを因果論で説明することはできない〉という。博士曰く〈ガイアを説明するのが難しいのは、それが自分の内側でほとんど無意識に抱いていた情報から直観的に生まれたコンセプトだからだ〉……おや?博士、実は詩人だな、と思った。兜太先生と似たようなところがあるとは思っていたが、直観的に生まれたコンセプトをいかにことばにするか、なんて詩や俳句をつくっているみたいじゃないか。
 しかし博士は、論文と計算式は書いたが詩や俳句は書かなかったようだ。あるいはもしかすると「ガイア理論」は壮大な「詩」なのかもしれない。ちなみに、博士の書いた計算式は〈システムの仕組みを説明するように見せて、実際は起きていることを描写しているにすぎなかった〉=〈名誉あるごまかし〉だと冗談ぽく言っている。
 これまで、兜太先生から「詩は肉体」だと聞き、俳句とは「生きもの感覚」と「ふたりごころ」でつくると学んできたが、もしかして逆かもしれない。つまり、俳句にしたい物事や気持ちは、だいたい「動的なシステム」で(芭蕉の不易流行しかり)、それをことばで描こうと思ったら、たぶん「詩」にするしかないのだ。それは確かに難しい。「計算式」のような俳句、〈実際は起きていることを描写しているにすぎなかった〉=〈名誉あるごまかし〉のような俳句ばかりつくっているような気もする。
 ラヴロック博士、ありがとう。

柳生正名著『兜太再見』書評◆「再見」と「再生」 小松敦

『海原』No.40(2022/7/1発行)誌面より

書評 柳生正名著『兜太再見』
「再見」と「再生」 小松敦

 〈「兜太をどう読んできたか」。本書に記していくのは、つきつめれば、このことについてのひとつの物語である。〉との書き出しで始まる兜太との「再見」の物語は、第十一章でとりあえず終えてはいるが、〈大海原の上の道のりとでもいうにふさわしい、遙かな旅〉と著者が述べるように、本当は終わりを知らない。これからも著者のみならず読者それぞれが兜太再見の旅を続けることになるだろう。『兜太再見』は「兜太をどう読んできたか」と言いながら、兜太を〈眺める〉のではなく現前に今の兜太を「再生」し、むしろ「兜太をどう読んでゆくか」と読者に〈呼びかける〉書物であった。
 のっけからぐいぐい引き込まれる旅物語であっという間に読み終えてしまったのだが、内容は「おおかみに螢が一つ付いていた」の句末の「た」および「漢語・兜太VS.やまとことば・虚子」をめぐる第八章までの論考と、それ以降に分かれる。第九章からは時枝誠記の「言語過程説」を中心に兜太と虚子の対立と「微細な」差異を考察している。
 あとがきで〈兜太という存在も「言葉」、それも日本語という枠組みの中で捉え直したいと考えた〉というように、全編にわたって〈兜太が世界に送り出した「言葉」のありよう〉から語られており、作家の生涯を説明するような本とは一線を画し、ある種フォーマリスティックな「金子兜太論」になっている。以下、特に印象的だった箇所について記しておきたい。
  ◇
 〈第二章生きもの感覚の「た」〉において、兜太「アニミズム」の本質として「無時間」性を挙げている点が私にとっては新鮮だった。「狼生く無時間を生きて咆哮兜太」の句からマーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』を経て、ハイデガー・サルトルの実存主義的人間中心主義を超越して兜太の言葉「私はどうも死ぬ気がしない」にたどり着く。〈眼前の今に集中する命は、今という瞬間の位相では死に捉われず、「不死の存在」たりうる。〜中略〜未来における自身の死の自覚から「実存」を照らすハイデガーらと一線を画し、今は今の生のみ、という「生きもの」のまなざしこそ、兜太のオオカミが生きる「無時間」の本質ではないか。今の瞬間を断固として生き抜く命の輝きが遠吠えとなってほとばしる―そのような眼でものを見る姿勢が兜太の「アニミズム」の本質なのだ。〉と喝破するくだりに感動した。                                            
 兜太「アニミズム」のポイントはアンチ「人間中心主義」だ。隣り合わせのキーワード「ふたりごころ」の「ふたり」が「やれうつな蠅が手をすり足をする」の一茶と蠅の関係でもあるように、人間が「主」、人間以外の対象を「客」とする主客二元論=「人間中心主義」から脱し、森羅万象の関係性の中の一部として人間や社会があるとの認識が兜太の「アニミズム」であることは承知していたが、兜太「アニミズム」が「無時間」に生きること、つまり、人間が〈「時間的存在」になる以前〉の記憶をもとに〈オオカミに学んで瞬間そのものを生きる〉境地であると知って大いにうなずいた。兜太は他人に対しては「生きもの感覚」とか「アニミズム」と説明しているが、実は兜太自身が「無時間」に今この瞬間を生きることのできる「生きもの」だったのだ。そういう自分と同じような「生きもの」を「存在者」と言っているのだ。
 「生きもの」兜太は今この瞬間をどのように捉えてどのように表現するのか。その方法の一つが「おおかみに螢が一つ付いていた」に代表される切れ字としての「た」であった。確定の過去形「た」は、取り返しのつかない「事実」性を作り出し〈事実より強い効験を持つ。読者を虚構による現実世界へ引き入れてしまう〉技術であり(いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』)、明治期の言文一致運動の中で生まれたはずなのだが、俳句では一茶が「我やうにどさりと寝たよ菊の花」として先駆的に活用し、また兜太はこれをしっかりアニミズムの句として見出している(『流れゆくものの俳諧』)。
 著者は切れ字の「た」をめぐり、一茶から兜太までの遍歴を概観し、〈晩年の兜太が一茶や山頭火を自身のうちに取り込むことで血肉化した「定住漂泊」〉の〈極限の姿を示しているのが〉兜太の絶唱「最後の九句」の6句目「さすらいに入浴の日あり誰が決めた」だとし、〈この巨人最期の心のあり処が「さすらい」を「た」という決辞でまとめた一句に透けて見える。「た」は兜太の生を締めくくるのにふさわしい句末だったというべきである〉と述べているが、兜太という存在をあくまでも「言葉」と向き合い対峙する「言葉の人」として捉えたいとの著者の企図が見事に達成されている。〈それが自分のうちで兜太が生き続けていることの最大の証なのである〉との思いに強く共感した。
  ◇
 〈第九章呼びかける俳句、眺める文学〉以降では、「芸術的な言語と、芸術的でない言語の間に、一線を画することが困難」という時枝誠記の文学観が、法律用語だろうと何だろうと「言葉は区別しない」という兜太の「態度」に通底することが示される。そして、兜太の「呼びかける文学」を擁護しつつ、「花鳥諷詠」=「眺める文学」の虚子が「勅撰集」由来の刷り込みに戦略的に便乗し「無意味」導入に至る経緯が論考されているのだが、日ごろから私が感じている「作品は読者のもの」との思いを強くした。この思いは、著者が最後に述べている〈「微細な差異」〉を〈新鮮なまなざしで見詰め直すこと〉のヒントになるのではないかと思っているし、兜太との新たな「再見」と「再生」をもたらすかもしれない。   了


ご参考「WEP俳句通信 127号」(ウエップ)の特集より抜粋(敬称略)

角谷昌子:本書では、兜太の俳句ばかりでなく、現代俳句についても広く論考する。柳生氏自身が兜太という存在を日本語という枠組みの中で捉え直し、「言葉の人」としての存在感を提示したいというとの思いは、ほかの作家論と一線を画す。

岸本尚毅:「図々しさ」が俳諧の一要素と言えるかどうかについて私は所見を持ち合わせていないが、少なくとも、兜太の「直截な社会詠」の持つ一種のすがすがしい読後感が何に由来するかについて、本書は今までにない回答を示してくれた。

筑紫磐井:兜太論としては、柳生は、大概が地に足の着いた論理をたどっている。特に中心となるのは、石倉・田附の『野生めぐり』などを踏まえての秩父の風土と風俗だ。「生きもの感覚」「産土」「アニミズム」はここで一直線に重なる。

西池冬扇:『兜太再見』で一貫して流れている思想は、二項対立的価値観からの超克である。(略)残念なことに近代以降の俳句界は社会や文芸の思潮の変化には常に情報僻地的対応でその歴史を歩んできた。だが、正名氏の投げかけた課題は、今後の俳句の向かう方向を考えたとき、非常に大きい意義を有していると考える。

「見る」人と「聴く」人 佐孝石画◆第3回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

『海原』No.38(2022/5/1発行)誌面より

第3回海原賞・海原新人賞受賞作家の俳句を読む

「見る」人と「聴く」人 佐孝石画

◇鳥山由貴子特別作品「ピロピロ笛」

  動体視力わたしとアオカナブンの距離(二〇二一)

 「見る」という行為は実は不確かなものである。鳥山の句からはその曖昧さと変幻性の具現に対するこだわりを感じる。人体に付属する目は二つあり、対象に近づけば近づくほど、距離感(対象の奥に広がる世界)と焦点の混濁に惑わされる。カメラが一眼で、一つの焦点にかっちりと対象物をとらえるのとは全くの別の世界が、我々の普段目にしているものなのだ。かつて彫刻家のジャコメッティは肖像画を制作する際に、顔の最も先端にある鼻がどうしてもうまく出来ず、キャンバスの鼻を何度も削り取り、やり直しながら、「メールド(糞)、実際にはこんな風に見えない」と叫びながら制作し、ついに顔の中心部の鼻を描くことができなかった。彼女は「見る」。「アオカナブン」は一眼でもなく、二眼でもなく複眼である。カナブンと顔を突き合わせ、「見る」ことの不思議を感じながら、「動体視力」にまで彼女の思いは馳せる。

  停止線あまた誰かが鳩を吹く(二〇二一)
  ツバメノート罫線は露草の青(二〇二一)
  プラタナスの青き実わたしの垂直跳び(二〇二一)

 目に飛び込んでくる様々な風景。ぼんやり眺めるのでなく、それぞれの対象に確とピントを合わせ「見る」。白く引かれた「停止線」から、ノートに引かれた「罫線」から何かが始まる予感がする。もしかしたらこの気づきは別の世界への「入口」ではないかという予感。その入口は徐々に仄明るい光源から、明確な色彩を帯び始め、新たな異世界のメルヘンが描き出されていく。そしてその世界に自らも「垂直跳び」をしながら加わっていく。
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 良寛

 彼女は「見る」人である。人(パーソン)が仮面(ペルソナ)を語源とするように、人には仮面とその内に潜む別の顔がある。彼女のややシニカルな視点はものごとには裏表があることを前提にしたところから始まっているような気がする。

  落し穴少し欠けてる冬の月(特別作品)
  やさしさと赤いセーターちくちくす(特別作品)
  鳰を待つ夕暮色の椅子ひとつ(特別作品)

 彼女の俳句を見ていると、この世の表裏をシニカルに傍観しながら、ときにその局部を凝視し、ぼやけはじめる世界の全体像と、焦点を合わせた異世界の入口との風景の揺れ幅に酩酊する姿が見えてくる。そしてサーファーが波を見つけて嬉々としてそのライドに挑むように、俳句という小さな器をもって、異世界の前に愉悦して佇む作家の姿が見えてくる。

  手のひらに文鳥文庫二月果つ(特別作品)
  春の蠅ガラクタの中にあるひかり(特別作品)
  野遊びのようピロピロ笛を吹鳴らす(特別作品)

 前へ、先へ歩みを進めるうちに、彼女は軽やかさを纏い始めた。それは異世界を汲み取る俊敏さ、そのためらいのなさである。その俳句感覚は金子先生の言う「定住漂泊」に限りなく近づいている。

◇木村リュウジ既発表作品を読む

  冬蜂や目と目を合わせない握手(二〇二〇)

 木村さんとは会ったことがない。が、この句を手にすると、会ったような気持ちになる。悴んで動けない冬の蜂と、人見知りで目を合わせたくても俯いてしまう自分。でも、手を差し伸べてくれた右手のその温もりと、柔らかさに、胸の奥からじーんと何かが解されてくる。存在を「許される」感触。
 金子先生と会える機会がある度、俳句の明日を許されるおまじないを得るように、先生に「握手」を求めた。地方から集った海程人が先生の前で列をなす中、僕もどきどきしながら「目を合わせない握手」を待っていた。その温もりのおかげで、俳句を続けて来れた気がする。木村さんは、金子先生と握手してもらえただろうか。君と握手がしたかった。目を合わせない者同士が握手したらどんな感触がしただろうか。

  夜という大きな鏡冬蝶来(二〇一九)
  とどかない言葉ばかりの雪の朝(二〇一九)

 「夜」という時空は一枚の鏡となり、我が身を映しながらも、受け入れることなく突き放してくる。白一色に塗り替えられた雪の「朝」もまた、「とどかない言葉」の中でくぐもる自分を眩く撥ね返す。でもその突き放し方がまた、彼にとっては優しさでもあったのだろう。

  賢治の忌雲に名前をつけてみる(二〇一九)
  寒色のペディキュアを塗る太宰の忌(二〇二〇)
  紀音夫忌や鞄の本が濡れている(二〇二一)

 賢治、太宰、紀音夫に会いたかったんだろうなと思う。彼らも「とどかない言葉」だと知っているからこそ、言葉を探し続けていた人達だったから。そんな仲間に会えるかもしれないと「海原」に投句していたんだろうと思う。

  詳しくはないけど虹の手話だろう(二〇二〇)
  耳鳴りに明日のかもめを描き直す(二〇二一)
  はじまりの台詞に吃る冬菫(二〇二一)
  まだ声を持たない嘘や実紫(二〇二二・一月掲載)

 彼の身体感覚には独自のものがあったように思う。それは視覚と聴覚の混濁。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が、蝉の声を聴いている感覚から、岩肌に水が染み入るかのごとく視覚へと変換されていくのに対し、木村の場合、「虹」が「手話」へ、「かもめ」が明日を象徴する「耳鳴り」へと、視覚から聴覚へ世界が変容していく。「冬菫」は吃音し、「実紫」は声なき「嘘」となる。彼は「聴く」人だった。「言葉が終わるところから音楽ははじまる」とドビュッシーが言うように、彼が向かっていたのは言葉の向こうにある音楽的余韻ではなかったろうか。

  過去形の空をはがしてかりん生る(二〇二一)
  立冬や赤の減りゆくボールペン(二〇二一)
  寒紅梅白紙のような空あげます(二〇二一)
  夜の秋指先という孤島あり(二〇二一)
  鈴虫は夜のすべてを読み上げて(二〇二二・一月掲載)

 海原新人賞の審査を任されてから、彼の作品にいつも注目していた。釘付けにされたといってもいい。何にそこまで惹かれるのか、海原の他の作家とは異質の何かを感じていた。言えないこと、見えないこと、手にすることができないこと、そして少し諦め切れないこと。彼の作品の魅力、それは「余白」の大きさだと。句に立ち現れる圧倒的喪失感覚。その余白の光が君の未来の光であるはずだった。皮肉にも、この世に取り残された一ファンとしての感慨が、君の俳句世界の秘密をひとつ手繰り寄せたような気がする。

シン・兜太晩年(下) 宮崎斗士

『海原』No.37(2022/4/1発行)誌面より


〈特別寄稿〉
シン・兜太晩年(下) 宮崎斗士

平成三十年(二〇一八年)九十八歳
 一月、熊谷市内の病院に入院。一旦は退院したが、二月六日誤嚥性肺炎の疑いで再入院した。二月二十日午後十一時四十七分、急性呼吸促迫症候群により逝去。享年九十八。三月二日、葬儀・告別式が熊谷市の斎場でしめやかに営まれた。戒名「海程院太航句極居士」。

 この年の一月の初旬、兜太は真夜中にトイレに立ち、そのまま朝まで便器に座っていたということがあった。38度4分の高熱を出し、すぐ入院。肺炎と診断された。その後病状は着実に快復し、無事退院したのだが、二月六日再入院のあとはもうほとんど意識が戻らなかったという。以下、晩年ずっと兜太のそばについていた篠田悦子(「海程」「海原」同人)の文章より。

 ――二月二十日。今日も先生は目を開くこともなく、お声をお出しになることもなく、特別苦しそうでもなく、口を開けてごうごう呼吸をしているばかりでした。只一つ痰を吸引するとき駄々っ子のように口を固く結んでしまいますので、そのことが意識のある証でした。こちらの呼び掛けは聞こえていらっしゃる感じはしていて、検査の数値には気がかりもありましたが、小康状態は保たれているようでしたので、私は夕方五時過ぎに病院を出ました。
 その夜です。病院から連絡を受けて、深夜零時十分に駈けつけました。先生のお顔は蒼白ですが、重い荷を下ろされたかのように穏やかで何かさっぱりとなさっていて安らかでした。揺すぶれば、今にも「よしてくれ」と言いそうなお顔でした。
 平成三十年二月二十日午後十一時四十七分、先生は急性呼吸促迫症候群にて永眠されてしまわれました。

 三月二日の告別式の喪主挨拶の際に、喪主の長男・眞土氏から「父は二、三年前から認知症を患っておりました」とのお話があった。思えば「海程」終刊もそういった状況に鑑みての金子家としては苦渋の決断だったのだろう。
 火葬のあと骨上げをさせていただけることになり、「私ごときが……」と恐れ多かった。「金子兜太の骨を拾う」という行為が自分の中で全く現実味が湧かなくて、ただただ心身が真っ白になってしまった。それでいて、そのひとときの感触や空気を今でも鮮明に思い出せるのだ。

 「海程」四月号に兜太最後の九句(一月二十五日から二月五日の間に作句)が掲載される。

  雪晴れに一切が沈黙す
  雪晴れのあそこかしこの友黙まる
  友窓口にあり春の女性の友ありき
  犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
  さすらいに雪ふる二日入浴す
  さすらいに入浴の日あり誰が決めた
  さすらいに入浴ありと親しみぬ
  河より掛け声さすらいの終るその日
  陽の柔わら歩ききれない遠い家

 兜太は亡くなる前の年から、眞土・知佳子夫婦が時にどうしても留守にせざるを得ないこともあり、熊谷市内の介護・サポート付施設「グリーンフォレストビレッジ」の一部屋をチャーターしていた。
 一句目二句目四句目といたく静かな景が描かれている。この三句目「友窓口」の「春の女性の友」が先ほどの篠田悦子
ではないかと思われる。実際篠田は足しげく施設に通っていた。そして五句目から七句目にかけて、これはおそらく施設の介護入浴サービスのことを詠んだのではと思う。六句目の「誰が決めた」……いかにも兜太らしい、キャラクターの立っている一句。そして八句目のこの「さすらいの終るその日」という措辞、やはり兜太は自らの死期をしっかりと受け止めていたのだろうか。「河より掛け声」の措辞が気になるところだ。そして九句目、この「歩ききれない遠い家」、もちろん施設から遠い熊谷の家という読みが正しいのかも知れないが、私にはこの「遠い家」、兜太の生家のような気がしてならない。まさに九十八年の生涯を一瞬にて振り返るような力をこの句に感じた。

 「海程」では、「秩父俳句道場」という一泊吟行会を定期的に開催。二〇〇八年より私がその幹事を務めていた。主宰である兜太の意向で、「海程」同人・会友以外で、広く俳壇で活躍されている方々にゲスト参加をお願いしてきた。
 道場では、ゲストの方と兜太とのフリートークの時間を毎回設け、各々の俳句活動の述懐、あらためての俳句理念などを語ってもらった。
 兜太の晩年十年間に渡る、貴重な肉声、証言の数々。兜太による様々な俳句論、人生論のアナザーサイドとしてここに提示したい。

◆「前衛」と「伝統」
筑紫磐井/私は二十二歳の時「沖」に入会した。「造形俳句」論の兜太と「諷詠」論の能村登四郎では対照的に思われるようだが、通底するところもある。当時の俳壇では前衛・伝統がバランス良く機能していた。俳句史を検証してみると、「前衛」俳句が生まれたからこそ、「伝統」は自らの本質に再び向き直る契機を与えられたのではないか。
兜太/筑紫さんの論には「余裕を持った」客観性がある。これまでは伝統・現代(前衛)などの二項対立、既成のポレミックな図式にそのまま乗っかって書いている評論ばかりだったが、筑紫さんの『定型詩学の原理』はそうした既成のポレミックな議論を超越しており、画期的だ。今日の俳句世界は動いており、伝統も現代もない。それらを包摂する生きもの感覚、「土」というところから自分はものを考えていきたい。

◆造型論について
「造型」という言葉は固くて彫刻でも使われ分かりにくいという指摘が当時からあり、今は余り使いたくない。「映像俳句」の方が良かったと思うが、今さら紛らわしい。「写生」を唱えた正岡子規は明治維新後の社会に鋭敏に反応していたため、実は「客観」と「主観」という二物対応でモノを考えている。これに対して、私の「造型」の考え方は「一元論」。すべてを取り込んで考える。明治以降の俳句の手法は近代俳句を確立した子規と現代俳句を確立した兜太に尽きる(会場拍手)。
 「造型論」にぴったりくるのは富岡鉄斎が富士山を描いた作品について小林秀雄が書いた評論がある。小林は鉄斎がこの絵を富士山を見ながら描いたのではなく、てっぺんまで登って富士山とは何かと考えた経験をもって描いたことがわかったと言っている。これは「造型論」の考え方と同じだ。(「何処から見ても決してこんな風に見ることはできない。見て写した形なのではなく、登って案出した形である」小林秀雄『鉄斎Ⅱ』)
(一般の人にとって「造型論」で俳句を作ることは適切なのか?との問いに答えて)
 論から入るのは難しいというのが私の実感。物と自分の一元化に努力して映像にまとめていくことは必要で逃げてはいけないことなのだが、考えたまま書いてしまうこともある。禅も同じだが、ある時は最高の作り方をして、ある時は安直な作り方をする。どっちでも自由自在になったらいい。年中「造型論」で作るというのは無理だし、本気でやったらダメになってしまう。作品は個性という面白さにある。

◆新興俳句運動
マブソン青眼/戦前の新興俳句運動の弾圧について、歴史的な検証が不十分ではないでしょうか。
兜太/マブソン君はフランス人だから堂々と言える。これからの俳人は政治の世界、生活という面を考えてほしいことを訴えている。戦争中に俳句がどのような状況におかれたのか?日本の俳人は余りにも無視してきた日常性の狭さがある。
 京大俳句事件に関係して私がリアルに接した唯一の人物が青峰。旧制高校から大学にかけて三年位「土上」に投句していた時、早稲田大学の講師だった青峰が検挙された。獄中で血を吐いて仮釈放された後、自宅へ見舞いに行った。青峰は
「同人の二人がリアリズムなんかを言ったおかげでこんなことになってしまった。花鳥諷詠以外の俳句は治安維持法に触れる、異端という考え方が当局にあった。アメリカナイズされた考え方は危ない」とぼそぼそ話していた記憶がある。
 リアリズムで俳句を作ろう、虚子の唱える花鳥諷詠では書きたいものが書けないということで始まった新興俳句運動だが、運動の軸になった若者が逮捕された京大俳句事件のキーパーソンと言われる人物がホトトギス同人の小野蕪子。事件の背景には虚子の姿は全く見えてこないし、蕪子が虚子のご機嫌をとろうとしたのかはっきりしない。
 個人的には、京大俳句事件で検挙された平畑静塔をどう顕彰するか、虚子以上に評価することを私の目の黒いうちにや
りたいと思っている。

◆なぜ俳句を作るか
 戦争を知っている世代が社会の中核にいる間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると怖いことになるという田中角栄元首相の言葉を私は非常に重く見ている。今の政治家は戦争体験がなく、正義感だけで抽象的な議論をして、非常に軽薄に見える。
 世の中が変われば、変わったテンポで俳句も変わるものだ。歌人は「短歌はすぐに社会問題を取り上げるが、俳句の場合
は少ない」と軽蔑するが、それは正当な形だ。思想が徐々に熟していけば一般大衆の思想現象として俳句にも表れてくる。俳句は指導性が欠けて社会に遅れてもいいと思っている。俳句や短歌で世の中を変えることができると思う人が多いが、それは間違いで馬鹿げている。
 俺が若い頃から俳句を作る上で常に考えていたことは、自分の思っていることを十分に正確に正直に詠むことができないかということだ。高邁な思想を書くのではない。このため、俳句の方法論を追求し「イメージで書けば」と提示したのが俺の「造型論」だ。上手な句を作るテクニックを考えたことはない。虚子が盛んに唱えた花鳥諷詠も方法論。「いいなあ」という句は自分の思っていることを十分に書いている句だ。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」の句も十分に書けた瞬間の充実感がある。決して最初から皆を驚かせよう、世の中を変えようという目的意識があったのではない。

◆戦争体験、そして現在
 戦争末期にトラック島にいたんだが、迎撃のため飛び立った零戦が毎日のようにグラマンの機銃掃射で撃墜されていた。
  朝はじまる海へ突込む鷗の死
 その時の光景が頭に入って日銀神戸支店に勤務していた時作った句だ。「これからは銀行を食い物にして好きなこと(俳句)をやろうと決意し、自分の人生の朝がここで始まった」という意味で、俺にとっては忘れられない句だねえ。
  戦さあるな人喰い鮫の宴あるな
 トラック島で島々をポンポン船に乗って回っていると人が海に落ちないかと鮫が頭を出しながら船の後をついてきたんだ。鮫は頭がサメているからね(笑)。
  梅咲いて庭中に青鮫が来ている
 この句もトラック島の人喰い鮫を思い出して作った。今の時代は乱暴な暴力主義がはびこっているが、俺の青春期の気配に非常に似ている感じがする。トランプ米大統領を見ると「あの男は危ない」という本能が働いてしまう。大便した拍子にうっかり核ボタンを押すのではないかと不安がある(笑)。

 その後

 そして「海程」は二〇一八年七月号にて終刊、兜太の遺志を後世に繋げるべく、同年九月「海程」の後継誌「海原」を創刊した。これは私たちの新たなる挑戦であり、また一つの正念場でもあった。
 兜太の「海程」創刊のことば「(俳句を)愛することから出発し、愛する証しとしても、現在ただいまのわれわれの感情や思想を、自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで、この愛人に投入してみたい」は、そのまま「海原」創刊の理念「俳句形式への愛を基本とし、俳諧自由の精神に立つ」に直結している。
 「海原」代表・安西篤、発行人・武田伸一、編集人・堀之内長一、私は副編集人に就任。今年二〇二一年の九月で創刊三周年を迎える。
 「海原」の歩みと並行して、多方面での兜太関連の動きもまた活発だった。各俳句総合誌にて追悼特集、各地で追悼イベント、雑誌「兜太」創刊、金子兜太の名を冠した俳句賞が複数誕生、映画『天地悠々兜太・俳句の一本道』、『金子兜
太戦後俳句日記』シリーズ刊行……。
 そして二〇一九年九月二十三日、兜太生誕百年のその日に兜太の第十五句集『百年』発行。七三六句、晩年期十年間の兜太の作品をほぼ全句収載している。
 同年の七月六日、句集『百年』発行に先立ち「兜太俳句の晩年」という公開シンポジウムが荒川区「ゆいの森あらかわ」にて開催された。パネリストは宇多喜代子、高野ムツオ、田中亜美、神野紗希の四氏。私が司会を務めた。定員の百二十名を超す大勢の方にご来場いただいた。
 そのシンポジウムの終盤、パネリストの方々に「金子兜太とは何か?」という質問を試みた。

 田中亜美「先生の父・金子伊昔紅と同じく、人を生きよと励ましてくれる〈医者〉だった」。
 神野紗希「兜太は俳人だと言うか、兜太は人間だと言うか、迷っていた。(中略)体をもって、心をもって、今、有限の時間を生きている人間として、自分が見つめられるものを見、自分が書けるものを書いた。まさに人間・兜太だった」。
 高野ムツオ「金子兜太は先生自身が言っていたように〈俺は俳句なんだ〉ということだと思います。ということは〈俺は言葉だ〉ということになります。だから、これも先生の言葉ですが〈俺は死なない〉と。俺は俳句、俺は言葉なのだから、この世から去って、俳句として生き続ける……」。
 宇多喜代子「大きな存在の、俳句が好きな人間、言葉そのものであった人間。だからあまり神格化してほしくない」。

 私としては、金子兜太とは一つの「祭」であったと思う。まさに兜太は生きているお祭のようだったな……と。兜太がそこにいるだけで場が華やぎ、活性化する。兜太が元気だということが周りの人たちをも元気にしてくれる。ますます俳句を頑張ってみようという気にさせてくれる。そして、その祭の「灯」を消さない絶やさないことが残された私たちの義務なのだろう。
 金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く「生き抜いてゆく」ことができるだろうか――。及ばずながら、私も尽力を惜しまない所存である。

  切り株は静かな器兜太の忌 斗士

(了)

〈同人誌―俳句空間―豈(第4次)64号(2021年11月1日発行)より転載〉

俳誌「合歓」の終刊と手代木啞々子 植田郁一

俳誌「合歓」の終刊と手代木啞々子 植田郁一

 手代木啞々子が新抒情主義を提唱して東京で「合歓」を創刊したのは、昭和十五年一月。しかし、日中戦争の長期化と用紙統制法などにより、その翌年には休刊せざるを得なくなった。
 さらに、啞々子には持病の喘息があり、太平洋戦争下での東京でのサラリーマン生活を続けることの困難さから、秋田県仙北郡の原野を借り受け、開拓農として移住することを決断したが、農業体験皆無の啞々子にとって、収入が全く無く、雪が吹き込む掘建て小屋での生活は想像を絶するものがあったはずである。
 しかし、戦後新設された新制中学の教師に採用され、この難局をなんとか切り抜けて、開墾との二重生活を続けることが出来たことは闇の中の一筋の光であっただろうことは、想像に難くない。
 また、東京近辺の「合歓」創刊時の仲間の勧めもあり、「合歓」を東京で印刷、鉄道便で啞々子宅に最寄りの奥羽線羽後境駅まで送付、駅からは雪道を約二十キロ、橇で啞々子宅まで運び込んだという話が、今でも古い同人の間では語り種として残っている。昭和二十年代の「合歓」は、遅刊・休刊を繰り返しながらも細々と存続。その間、後に「海程」でも活躍する若手の鈴木鴻夫・武田伸一・武藤鉦二・竹貫稔也・加賀谷洋・川村三千夫などが育っていた。
 金子兜太と手代木啞々子が急接近するのは、昭和三十九年五月、武田が企画した「秋田県現代俳句大会」の講師として兜太が秋田に赴き(原子公平・沢野みち同道)、大会の後、男鹿半島への一泊旅行に啞々子も参加したことにある。この際の兜太の講演と選評の痛快さに啞々子は惚れ、土の上に立つ啞々子の作句姿勢に兜太が共感したのである。
 この間の二人の友情を越えた信頼関係は、昭和五十七年啞々子が亡くなったときの、兜太の弔辞によく現れている。
 「あなたは私たちの俳句同人誌『海程』を支える一本の太柱でした。あなたの土とともにある真摯な俳句は、都会風な根無し草俳句になりかねない傾きにいつも反省を加えてくれました」と、兜太はその逝去を惜しんだのだった。
 そんな啞々子を真ん中に結束してきた「合歓」は、「海程」とその後継誌「海原」に対して一種の重しの役割を果たすとともに、同人を多数供給もしてきた。その目に見える成果としては、平成二十三年の加藤昭子から、兜太没による三十年の廃刊までの「海程」最後の八年間に、三浦静佳、船越みよ、佐藤君子と実に四名の「合歓」同人が立て続けに「海程新人賞」を受賞していることでも、「合歓」の存在の大きさは実証されていよう。
 そんな、「海程」「海原」とともに大きな歩みを印してきた「合歓」が、令和三年十二月号(69巻・638号)をもって、発行を支える同人数の減少によって廃刊の止むなきに至ったという。
 抗し難い時代の流れとは言え、残念なことこの上ない。

シン・兜太晩年(上) 宮崎斗士

『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

〈特別寄稿〉
シン・兜太晩年(上) 宮崎斗士

 筑紫磐井さんから今回の「豈64号・金子兜太特集」のお話を賜り、あらためて金子先生を論ずるに当たって、私にできることとは何か?をじっくりと考えてみた。何せ金子兜太論はもうすでに様々な場所、様々なコンセプトで語られており、私などの出る幕があるのだろうか……としばし逡巡。結果、「海程」の運営委員の一人として、私がごく間近で見聞きしてきた金子先生のリアルな晩年の日々をここにお伝えすることができたら、と考えた。雑誌「兜太」(藤原書店刊)第一号に書かせていただいた「“存在”ひとすじに金子兜太の生涯」のささやかな補完にもなるかと思う。
 平成二十一年、金子先生が卒寿を迎えられた頃よりの金子先生の晩年期の俳歴、その他の様々な活動の歴史を、私なりの視点で紐解いていきたい。
 以下、金子先生の呼び名を「兜太」とさせていただく。

平成二十一年(二〇〇九年)兜太九十歳
 第十四句集『日常』刊行。生前最後の句集となった。
 ――この日常に即する生活姿勢によって、踏みしめる足下の土が更にしたたかに身にしみてもきた。郷里秩父への思いも行き来も深まる。徒に構えず生生しく有ること、その宜しさを思うようになる。文人面は嫌。一茶の「荒凡夫」でゆきたい。その「愚」を美に転じていた〈生きもの感覚〉を育ててゆきたいとも願う。アニミズムということを本気で思っている。

 これは句集『日常』の後書きの一節だが、ここに「生きもの感覚」「アニミズム」という兜太の晩年期の重要なキーワードが掲げられている。
 生きもの感覚に関しては、兜太自身により「生きものを生きものとして自ずから感応できる天性」とはっきり定義づけされている。
 また、アニミズムとはもともと生物・無機物を問わない全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方だが、これは十九世紀後半イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』の中で使用し定着させたものとされている。ただ、兜太はそれを転じて「アニミズムは原郷げんきょう」である、としている。原郷、つまり故郷、ホームランドということだが、
 「人間は元々森の中に住んでいて、全てのものに神を認めていた。自然の中でお互いを神として信仰していたのである。森の暮らしの中で養われた本能の姿こそがアニミズムであると、今そういうアニミズムの時代に戻るべきではないか」
と兜太は常々語っていた。

  海とどまりわれら流れてゆきしかな 句集『早春展墓』より

 兜太はこの句を「人間は生きてゆくために〈社会〉に〈定住〉を余儀なくされているが、こころの奥ではアニミズムの原始の世界〈原郷〉に憧れて〈漂泊〉している。定住しつつ漂泊しているのが人間の今生きている姿なり」と自解している。
 また兜太は「アニミズムとは知的野生である。理屈ではなく体でわかることが大切だ」「アニミズムを生きていれば戦争なんか起こらない」ともよく語っていた。そんな折、「俳壇」二〇一一年一月号に漫画家水木しげるとの対談「ゲゲゲと俳句―生きものたちの声」が掲載される。その一節。

水木/目に見えない世界が好きなんです。
金子/すごいよね。驚くよ。虫や石ころにも命がある。大好きだし、努力はしてますが、しげるさんみたいに「おのずから」というところにはまだ行ってませんね。「おのずから」というのが怖いんだなあ。
水木/変わってますよ。
金子/まあ、変わってるということになるんでしょうね。だけど、そちらのほうがまともかもしれません。こっちが変わってるのかもしれません。普通の人は見えないんです、常識的に考えていくから。お化けだってそうで、普通の人には普通にしか見えない。

 まさにアニミズム、生きもの感覚を追求する作家二人がお互いに理解し合い認め合う名シーンではないだろうか。その意味でこの箇所、わくわくしながら読んだ覚えがある。

平成二十七年(二〇一五年)九十六歳
 一月より、東京新聞で、いとうせいこうと「平和の俳句」の選者を務める。
 ――いまのわたしたちは不安定のなかにいる。平和に不安がある。それは何故か。そして、望ましい平和とは。俳句で自由に書いてほしい。(金子兜太)
 ――平和への切実な希求、戦争の記憶、未来の私たちがあるべき姿、景色、季節の感覚。あらゆる年齢層の方々から、俳句という短詩だからこそいつでも口ずさめる鮮やかな世界を募集いたします。これは国民による軽やかな平和運動です。(いとうせいこう)

 いとうせいこう氏と生前の兜太は本当に良い関係だった。もともとは「お~いお茶新俳句大賞」の選考委員同士ということで知り合った二人。非常に呼吸が合う、ウマが合うという感じだった。
 平成十三年(二〇〇一年)に共著『他流試合―兜太・せいこうの新俳句鑑賞』が出版される。この一冊、「お~いお茶新俳句大賞」の入選句を兜太といとう氏の二人であらためて鑑賞し直すという内容で、さまざまな入選句を題材に俳句の面白さ、俳句の可能性を紐解いてゆくといった一冊である。当時、俳壇内外でも大変話題になった。
 そしてその十三年後の平成二十六年八月十五日、東京新聞に「終戦記念日対談金子兜太╳いとうせいこう」が掲載される。〈梅雨空に「九条守れ」の女性デモ〉という俳句作品、この作品のさいたま市の公民館による掲載拒否問題から始まり、「社会の問題をすぐに庶民がすくい取って読める詩が、日本の場合は俳句としてある」といういとう氏の指摘、「戦争中の自己反省、自己痛打が私に句を作らせたと同時に、私のその後の生き方を支配した」という兜太の述懐、と、どんどん二人のトークが展開していく。それで最終的に、いとう氏の「東京新聞でぜひ、何俳句と呼ぶか分からないけれども、募集してほしい。あえて戦後俳句と言っていいかもしれません」という発言。それを受けて兜太が「二人でやるとなると、ちょっと面白いと思いますよ。変なやつが二人でやってるっていうのは。」と返すという。この対談が「平和の俳句」の大きなきっかけ、大きな動きの始まりという感じになった。
 いとう氏は兜太の逝去に際し、「金子兜太の俳句には圧倒的な幻視能力と、それを言葉で解体、創作する力がある。けれども同時に、本人が持っていた山脈のごとき存在の大きさやなだらかさ、温かさやユーモアにも希有なものがあり、それは文学とは別に後世に残されるべきだ」と、俳句作品のみならず兜太の人間性をも称賛している。

同年「アベ政治を許さない」ムーブメント。
 兜太揮毫の安全保障関連法案反対のプラカード「アベ政治を許さない」が、日本中至るところのデモ活動などで盛んに掲げられる。

 当時兜太は「アベをカタカナにしたのはこんな政権に漢字を使うのはもったいないから」「アベという変な人が出てきたもんだから私のようなボンクラな男でも危機感を痛切に感じるようになりました」と語っている。また当時の兜太の作品に、
  集団自衛に餓鬼のごとしよ濡れそぼつ
  朝蟬よ若者逝きて何の国ぞ
がある。
 「海程」東京例会(句会)の開催日と全国一斉デモの開日が重なったことがあり(二〇一五年七月十八日)、「海程」有志が兜太と共に句会場の大宮ソニックシティの入り口付近で「アベ政治を許さない」のシートを一斉に掲げた。その有志が例会参加者の三分の二ぐらいだったろうか……。句会場に戻ると、デモに参加しなかった方々がずっと待っていらして、参加組と不参加組とで何やら微妙な空気が漂った。
 私は参加組だったわけだが、不参加組に対して何がしかの反感があったような気がする。でもこれはいささか危ない精神状態だったかも知れない。私は昭和三十七年生まれで太平洋戦争にも学生運動にも関わっていないが、こういう全体主義的な意識の流れってやっぱりあるのだな……と今にして思い当たる。
 確かに「海程」の中でもこのムーブメントに賛否両論といった感じであった。もともと「海程」の所属メンバーの方々、兜太の戦争反対の意志は十分に理解していたわけだが、こういう形で有名になるということに抵抗を感じた方も少なからずいらしたということである。担ぎ上げられただけじゃないのか、俳句作家としての立ち位置はどうなるんだ、など様々な意見が飛び交った。
 令和に入ってから、芹沢愛子(「海程」「海原」同人)が当時を振り返り一文を物している。以下抜粋。
 ――「安全保障法制」(二〇一五年成立)に反対するため掲げられた金子先生揮毫、「アベ政治を許さない」の文字は圧倒的な力に満ちていた。当時私は率直に言えば、いかに長期政権であってもいつかは終わるのだから、「アベ政治」でいいのだろうか、と感じていた。ところが菅総理は安倍政権の路線を継承すると言い、今だに何も変わる気配もない。私はふと、この政権も含めて「アベ政治」なのではないかという事に気づいた。表記を「安倍」でなく「アベ」と直感で選んだ先生の感性。「広島」と「ヒロシマ」のような使い分けに少し似て、「アベ政治」は強権政治の象徴として用いられているのだ。
 金子先生が政権への強い不信を私たちに語ってくれたのは、二〇一三年に成立した「特定秘密保護法」についてであった。時代を遡り、先生が大学に入り句会と酒に明け暮れていた頃のこと、特高警察に拷問されて生爪をはがされた先輩の手を見て、「ぞっとしました。体が震えて、気持ちが萎縮していきました」と著書の中でも語っている。思想弾圧の嵐の中、先生が所属していた「土上」の主宰・島田青峰は獄中生活が体を蝕み自宅で血を吐いて亡くなった。「私も自由人でありたいと願いながら、強いものの影におびえ心に蓋をしてしまいました。秘密保護法は言論や思想の自由を蹂躙する悪法として名高い戦前の〈治安維持法〉みたいなもんです。こんなこすっからいやり方を許しておくわけにはいかない。これまで述べてきたように、私には体制に対する警戒心が常に念頭にあります。まさかとは思うけれど、島田青峰先生のように、もしかしたらいつ、この九十六歳の老骨がひっぱられないとも限らない。でも私は矛を収める気はない。ぎりぎり限界までやってみようと決意しています。〈アベ政治を許さない〉のプラカードは日本という国が二度とあんな馬鹿な間違いを犯さないように、という思いを込めて掲げました」。この平和への信念と熱量が金子先生を「アベ政治を許さない」ムーブメントに参加させた。それは「俳諧自由」を守る俳人としての行動でもあった。

平成二十八年(二〇一六年)九十七歳
 一月、二〇一五年度の「朝日賞」受賞。その受賞スピーチの中で兜太は「存在者」というキーワードを掲げた。
 ――私は「存在者」というものの魅力を俳句に持ち込み、俳句を支えてきたと自負しています。存在者とは「そのまま」で生きている人間。いわば生の人間。率直にものを言う人たち。存在者として魅力のない者はダメだ。これが人間観の基本です。私自身、存在者として徹底した生き方をしたい。存在者のために生涯を捧げたいと思っています。

 朝日賞を受く 二句
  炎天の墓碑まざとあり生きてきし 兜太
  朝日出づ枯蓮に若き白鷺 〃

 兜太の朝日賞受賞理由には「俳人としての根幹に反戦と前衛性を持ちながら、指導者として、決まりにこだわらない詠み方も許容し、幅広い年齢層に俳句を定着させた」ということが挙げられている。
 この兜太の一句目、あの「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」からはや七十年……。「生きてきし」の余情に弟子の胸も熱くなった。

平成二十九年(二〇一七年)九十八歳
 五月の「海程」全国大会にて、兜太は翌年(平成三十年)をもっての「海程」終刊を宣言。俳壇に波紋を呼んだ。
 ――「終刊」の第一の理由は、主に私の年齢からくるものです。第二の理由は、俳人―金子兜太―個人に、今まで以上に執着してゆきたいという思いです。
 終刊に当たって兜太は、「海程」という雑誌名を私一代で終わらせていただきたい、との意向を示した。
 「海程」終刊のニュースは、この宣言のあとすぐインターネット上、各方面にて報道され、翌日の東京新聞朝刊、朝日新聞朝刊にも掲載された。

 この前の年(平成二十八年)の秋頃、朝日新聞社内のレンタルスペースにて、緊急の「海程」運営委員会が行われた。出席したのは兜太と金子家長男の眞土氏、そして運営委員会のメンバー六名ほどだった。その席の冒頭、眞土氏の方から「海程」を終刊したい、との意向が示された。その後三時間ぐらい話し合いが続いただろうか……。その間兜太は一言も喋らなかった。眞土氏がスポークスマンとして運営委員会サイドと話し合うという図式だった。私は「海程」に入って二十年以上経っていたが、「海程」の内部であんな緊張した場面はなかった。だいたいこういう場だと兜太が緊張をいい感じで緩和してくれるのだが、とにかく兜太は一切口を開かなかったので。
 「海程」運営委員会の意向としては、できれば「海程」を継続させてほしい、その上で先生の口から後継者を指名してほしい、の二点が提示された。しかしそのいずれにも眞土氏は「父はノーと申しております」の一点張りだった。
 結局は金子家サイドの意向を全面的に受け入れるという形で委員会が終わった。解散の際に初めて兜太が私に「いろいろと大変だろうけどひとつ頼むな」とぽつりと声を掛けてくれた。それがとても印象に残っている。

同年十一月二十三日、帝国ホテル東京にて現代俳句協会創立七十周年記念大会開催。兜太は特別功労賞を受賞。

 現俳協創立七十周年記念大会、兜太が出席するかどうかが一つの大きなポイントだった。兜太の体調がいささか不安定な時期でもあった。事前に宮坂静生現俳協会長と私とカメラマンの方とで兜太の自宅へ赴き、ビデオレターを撮影。もし兜太が出席できぬ場合は、そのレターを会場にて流す手筈だった。
 果たして当日、兜太は午後五時半ごろ帝国ホテルに到着、そのまま車椅子で祝賀会場入り。体調、活力万全の様子だった。特別功労者の表彰を受けたあと、二、三十分の予定を一時間近く会場にいた。そして、帰る直前、席についたまま秩父音頭を熱唱。これがもう圧巻だった。拍手の嵐。そのあと車椅子で会場を退出することになり、その道すがら、五百数十名の集う祝賀会場が大盛り上がり。拍手、握手、抱擁、写真撮影、感謝、祝福、激励、泣いている方も大勢おられた。まさに出席者の方々の兜太への思いが爆発するひととき……どなたかが「これぞ俳人金子兜太の花道だ」とおっしゃっていた。
 そして、この日が兜太が公の場に出る最後の機会となった。
(以下、4月号掲載の「下」につづく)

〈同人誌―俳句空間―豈(第4次)64号(2021年11月1日発行)より転載〉

震災に関わる俳句を高校生とともに作ることで抵抗する 中村 晋


『海原』No.36(2022/3/1発行)誌面より

〈特別寄稿〉
震災に関わる俳句を高校生とともに作ることで抵抗する
中村 晋

陽炎や被曝者失語者たる我ら 晋

 私は、福島市在住の一高校教諭です。現在伊達市の夜間定時制高校に勤務し、国語の授業を担当しています。その傍ら、俳人としても作品を作り、2019年にはささやかながら『むずかしい平凡』という句集を自費出版しました。現在54歳。
 俳句を始めたのは1995年。2005年から金子兜太(1919〜2018)に師事し、同時に俳句を教育の場で生かすことはできないかと考えるようになりました。と、そんなときに2011年の大震災と原発事故。言葉を失うような現実に右往左往し、どう考えどう行動すべきか途方に暮れるような日々を過ごすことになりました。拙句は震災から約一か月後、ため息のように生まれた句。福島に住んでいなくとも「失語」した思いを持った方は少なくないのではと思います。
 当時、私は福島市内の夜間定時制高校に勤務していました。五月のある日、授業の余談の中で、爆発した三号機の状態がよくないことに触れると、ある生徒が激しく反応しました。
 「原発なんか全部爆発してしまえばいいんだ。こんなに汚染がひどい状況なのに、俺たちは避難させてもらえない。俺たちは経済活動の犠牲になって見殺しにされてるってことだべした。」
 私は、彼の洞察の鋭さに感服しました。しかし一方、彼らにこのようなことを絶望を語らせる大人としての不甲斐なさや大人社会への不信感を募らせてしまったことへの申し訳なさを感じたものでした。彼らに信頼される教育とは何か。若者を経済活動の犠牲にするのではなく、命そのものの尊さを実感できる教育とは何か。以来、命の尊さを生活実感から捉えなおすことを心がけてきました。そしてその一環として生徒と俳句を作ることを目標にしてきました。「俳句」によって私たちの生活の基盤を考え、できれば取り戻す。そんなことを目指し、生徒たちに震災の記憶を俳句にする指導を細々と続けてきた次第です。以下、震災後の高校生の俳句を紹介したいと思います。

放射能悲鳴のような蝉時雨 服部広幹

 2011年作。まだ福島市内の汚染度は高く、不安が生活を覆っていた時期の作品です。「シーベルト」や「ベクレル」といった耳慣れない言葉がメディアから毎日流れていました。そんな夏のある日、作者は蝉時雨の声を聞き、そこに人々の悲鳴を感じた、というわけです。放射能汚染から逃れられず、普通の生活を強いられる当時の不安が、今もリアルに感じられる句として、印象に残っています。

空っぽのプールに雑草フクシマは 菅野水貴

 2012年作。被曝を避けるため、当時、水泳の授業は行われませんでした。夏になってもプールに水は入らず、誰にも見向きもされないむなしい様子が「雑草」に象徴されています。「フクシマ」というカタカナも効いています。原発事故によって汚染されると、一瞬にしてすべてがむなしくなる、そしてそこに住む人間もこの「雑草」のように見捨てられてしまう、そんなことを思わせられるような一句。しかし、「雑草」とはいえこれもひとつの命。むなしい「空っぽのプール」にわずかながらの希望のかけらを作者は見ているのかもしれません。当時の複雑な気持ちが蘇る作品です。

被曝者として黙禱す原爆忌 髙橋洋平

 2014年作。作者は飯舘村出身の生徒。文芸部に入部してきたものの、どこか自信なさげで、引っ込み思案。文章を書いても当たりさわりのない、無難な言葉ばかり。そこで、もっと自分の体験を俳句にしてみたらいいのではないかと勧めてみました。すると彼の中からこんな句が生まれ、私も驚きました。おそらく八月の広島または長崎の記念式典をテレビで観ながら、いっしょに黙禱しているのでしょう。しかしそれは他人事ではない。自分も「被曝者」なのだという悲しみ。「被曝者」という言葉がとても重い一句です。広島、長崎、ビキニ、チェルノブイリ、そしてフクシマ。どれだけ被曝者を増やせば、核被害はなくなるのでしょうか。同時作に「無被曝の水で被曝の墓洗う」「フクシマに柿干す祖母をまた黙認」もあります。

放射能無知な私は深呼吸 髙橋琳子

 2020年作。震災から十年近く経とうとしている時期に、授業の中で記憶を振り返りながら作ってもらった作品です。震災当時まだ幼かった作者は、放射能の危険について何も知らなかった。そして、あのとき自分は思い切り深呼吸して生活してしまった、という悔いに似た思いを率直に吐露した作品。季語もなく、ぶっきらぼうな一句ですが、妙に響くものがあります。本当に危険なことが起きても、何も知らされず、危険にさらされる無辜の人びと。しかし、大事なことを隠し、人々を危険にさらす国や企業の責任は一切問われない。この一句にはそんな不条理への疑問が投げかけられているように感じます。

 震災からまもなく十一年。昨年は東京五輪も行われ、今となってはあの事故もなかったかのような錯覚に陥りますが、生徒たちとこうして俳句を通じて関わってみると、まだ心の傷というものは癒えていないと感じます。その一方で、これからは直接には震災を知らない世代が増えてくるでしょうから、記憶の風化が喫緊の課題になることとも思います。
 今、福島県では、記憶を風化させない取り組みに力を注ぎ始めました。昨年オープンした「伝承館」の存在はその一つと言えるかと思います。また、県の教育委員会が「高校生語り部事業」という試みを始めました。ただ、これらの動きに私は疑念を抱いています。結局は、国や企業、行政にとって都合の良い記憶だけが語られるに過ぎないのではないか、記憶の風化を防ぐと言いながら、実は記憶の改竄をするだけではないか、と。
 記憶を改竄されないために私たちはどう抗うべきか。

フクシマよ埋めても埋めても葱匂う 野村モモ

 2015年作。震災から数年が経過すると、だんだん震災当時の記憶も薄れ、俳句にするのが難しいと訴える生徒も増えてきました。しかしこの作品は、当時を振り返り、自分が観た映像を、「匂い」という感覚とともによく捉えなおしていると思います。埋められているのは葱ですが、しかし人間の営みの一部でもあります。この句を一読し、思わずナチスのホロコーストを連想しました。本を焼く者は人間をも焼くと言いますが、この場合は、葱を埋めるものは人間をも埋める、のではないか。こんなことを続けていると、自分たちも埋められるのではないか。そんな問いをこの句から突き付けられるようです。

除染とは改竄である冬の更地 晋

 掲句は2020年作の拙句。私としては、生活の現場や個人の実感から、小さくとも手ごたえのある言葉=俳句を子どもたちと作り続けたいと考えています。

〈認定特定非営利活動法人原子力資料情報室発行の「原子力資料情報室通信」571号(2022年1月1日)より転載。同法人のホームページアドレス 原子力資料情報室(CNIC)| 原発のない世界をつくろう。たしかな情報と市民のちからで。

〈特別寄稿に寄せて〉
小さくとも大きな力 中村晋

  牛逝かせし牛飼いも逝く被爆地冬
  落ちゆく陽へまだフクシマを耕す人
  シリウス青し未来汚した星の行方

 福島に関する句はとにかく試行錯誤の連続で、何が成功で何が失敗なのかやってみないとわからない、そんな状況はこの三句でも同じです。それを今まで俳句をやったことのない生徒たちとやろうというのですから無茶と言えば無茶。でも、生徒たちは意外と答えてくれるのです。そこに希望があると言えば言えなくもない。
 原子力資料情報室へ寄稿した拙文ですが、この二月に英訳され、インターネットで発信されました。
Resisting through Composing Haiku about the Earthquake Disaster with High School Students

「こんな文章が英語になるの?」と驚きますが、編集部がグローバルな問題と見てくれたようです。また、原発事故はエネルギーや気候変動にもかかわり、つまりそれは未来の問題でもあります。俳句という文芸も科学やグローバルな世界とつながる時代が迫っているのかもしれません。
 小さくとも大きな力がある俳句。この可能性を今後も探っていこう。そんな思いを強くしています。

蛾のまなこ赤光なれば海を戀う~金子兜太と海軍短期現役士官~齊藤しじみ

『海原』No.34(2021/12/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第4回

蛾のまなこ赤光なれば海を戀う
~金子兜太と海軍短期現役士官~ 齊藤しじみ

 三島由紀夫が割腹自殺してから五年後の昭和五十年、一人の文芸評論家が都内の自宅で日本刀で頸動脈を切って自殺をした。名前は村上一郎(享年五十四)。戦後、丸山真男など一流の知識人から一目置かれた文筆家で、特に戦前の右翼の理論的支柱だった北一輝を取り上げた著作『北一輝論』で三島に高く評価されていた。
 意外と思うが、自宅で営まれた村上の葬儀に金子兜太先生(以下・兜太)は足を運んでいる。

 部屋の奥のほうを見たら、竹内好(注①)、吉本隆明(注②)、桶谷秀昭(注③)、谷川雁(注④)、この人たちがいました。そこに私が入っていったら、竹内好さんが壁を指すんです、私の色紙がそこにぶら下がっていた。
   夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
 村上はそれを自分の部屋にぶら下げていたんだ。私にとっては涙の出るような感動でしたね。(『語る兜太』岩波書店)

 葬儀のことは兜太の日記にも記されている。

 (昭和五十年)四月一日(火)晴
 村上一郎告別式。焼場にゆく車が出るところにぶつかる……(略)……。それに集まる文士評論家というものは、なんとなく親しめない。十日会の連中のほうがずっと気軽である。村上が阪谷(注⑤)や自分に親しんでいた気持ちがわかるような気がする。(『金子兜太戦後俳句日記』白水社)

 「十日会」とは、昭和十八年九月末に海軍経理学校品川分校に入学し、翌年三月初めに卒業した補修学生十期生の同期会の名称である。兜太は東京帝国大学、村上は東京商科大学(現在の一橋大学)をそれぞれ繰り上げ卒業した直後に入学し、七百八人の同期生がいた。
 補修学生は「海軍短期現役士官制度(以下「短現」)と呼ばれる海軍独特の主計将校の養成制度に基づくものである。
 兜太が村上の死に接して特別の感情を抱いた「短現」について、私は限られた資料を調べていくうちに兜太の思想と俳句につながる水脈を紐解いていくような思いを持った。
 「短現」は、海軍の艦艇や部隊の増強に伴って、ことに人材不足が深刻化した将校クラスの少尉・中尉・大尉の主計士官を短期間に育成する目的で昭和十三年に生まれた。終戦の昭和二十年までの間、毎年大学卒・高専卒の若者を対象に募集が行われた。一期から十二期まで入学した者には新卒ではなく官公庁や大企業に勤務する者も多かった。卒業した後は「主計中尉」や「主計少尉」として国内外の海軍施設に派遣され、主に食料や衣服の調達と供給、会計などの仕事に就いた。卒業生は終戦まで約三千五百人(うち戦死者は四百八人)に上った。
 「短現」の選考試験は競争率が常に二、三十倍と言われたが、私が特に関心を持ったのは、なぜ当時の高学歴の若者に人気があったのかという点である。

 “戦時中、大学生の多くが競って海軍を志願したのは一種の国内亡命だったという説がある”

 この一文は、「短現」とは別のコースである「予備学生」という制度で昭和十七年に東京帝国大学を卒業して海軍少尉になった作家の阿川弘之のエッセイ『わたしの海軍時代』(文春文庫)の冒頭の書き出しである。
 阿川は同書の中で本音とも思える感情を次のように吐露している。

 陸軍の泥くささ、知性の欠如、粗暴と大言壮語、政治的な横車には(略)みんな大概あいそをつかしていた。(略)海軍はすこしちがうらしい。われわれに分相応の待遇を与えてくれて、そう無茶な扱いはしないらしい。

 また、「短現」の歴史や出身者の活躍を描いた『短現の研究』(市岡揚一郎・新潮社)にも同様の記述がある。

 当時の大学生にとり短現は二つの意味を持っていた。ひとつは海軍兵学校卒(略)のいわゆる本チャンでなくとも海軍士官になる道が開かれていたこと、もうひとつは短現にならない場合、一銭五厘の赤紙(召集令状)と共に一兵卒として陸軍に徴兵される運命にあったことだ。

 現に兜太は短現の志望理由を「私なりの計算が働いた」と率直に明かしている。
 
 「どうせほっといても戦争にとられるだろう。でも一兵卒は嫌だ。それならせめて士官として赴任しよう」という思惑。東大在籍時、海軍士官募集の告知を見て、一も二もなく志願を決めました。(『あの夏、兵士だった私』金子兜太・清流出版)

 十期生が入学したのは昭和十八年九月。その翌月十月からは文科系の大学生の学徒動員が始まり、激動の時代背景が重なる。
 「短現」の存在は高度経済成長期の昭和四十年代に一躍、メディアで脚光を浴びるようになった。それは「短現」の出身者が戦後、政界、官界、金融界、産業界の各界で活躍していたためで、そのことは十期出身の一部の顔ぶれを見るだけでも伺える。
 『海軍主計科士官物語 二年現役補修学生総覧』(発行・浴恩出版会)には、一期から十二期までの卒業生全員の名簿が掲載されている。名簿から昭和四十三年に発行された当時の肩書を知ることができる。兜太と同期の「十期生」のごく一部を紹介する。その後の( )内の代表的な肩書は、私が別途調べたものである。

  渥美健夫(元鹿島建設名誉会長)
  江尻晃一郎(元三井物産会長)
  川島広守(元官房副長官)
  岸昌(元大阪府知事)
  小島直記(作家)
  佐野謙次郎(元いすず自動車会長)
  住栄作(元法務大臣)
  土田国保(元警視総監)
  橋口収(元公正取引委員会委員長)
  森下泰(元森下仁丹社長)
  宮沢弘(元広島県知事)
  山下元利(元防衛庁長官)
  山本鎮彦(元警察庁長官)

 また、兜太と同じ日本銀行に籍を置いていた者を数えると十七人に上った。
 十期生の同期会が昭和五十八年に発行した私家版の箱入りの文集「滄溟」は千六百頁を超える百科事典並みの厚さがある。およそ二百人の出身者が経理学校での思い出をはじめ、配属先である内外の海軍の部署や艦船部隊での経験などを寄稿している。そこには当時を振り返って戦争に対する懐疑的な思いを吐露した者が少なくないことに気づかされる。
 卒業後に海軍の機関で軍発注先の企業の監査業務をしていたというブリヂストンタイヤの元会長の石橋幹一郎(一九二〇~九七)は「物動は軍部、役所の軋轢でうまく機能していない。ただあるものは末端や民間の大和魂だけ。それも、場合によっては投げやり的であった」と述懐している。
 また、経理学校時代に同期生同士で議論を交わした場面を回想した手記には、国連大使などを務めた外交官の西堀正弘(一九一八~二〇〇六)が登場する。手記の筆者は西堀の発言の紹介とともに自分の思いも次のように書き綴っている。

 「彼(西堀)はアメリカの持つ資源、産業力から言えば勿論、いまの米国民の戦意の昂揚からみて、『日本は絶対に勝ち目がない』というのである。私の考えは西堀に近かったが、父が貿易の仕事をしていたので、開戦の時、「馬鹿な事を始めたものだ。この戦争は三年とはもつまい」といって、対応を考えているのを知っていたからである。
 兜太も「経理学校では学生出身者が多かったせいもあって日本が勝つと思っている人はほとんどいなかった」と語っている。(再掲『あの夏、兵士だった私』)

 作家の保坂正康は『近現代史からの警告』(講談社現代新書)の中で「短現」出身者の多くが戦争時の不満や戦時下で身につけた知識を活かすかたちで戦後の高度経済成長の中心的な担い手になったと指摘している。そのうえで、各界で活躍中の「短現」出身者の取材を通してその共通する考え方について分析しているが、整理すると次のような点に集約できる。
○出身者の多くは大学教育で法律・経済・商法を学んでいたため、観念的な思考法とは一線を画していたこと。
○短現の教育は、大和魂が事態を乗り切るというような空論は排除する傾向があり、ある程度自由な空気を呼吸していた。
○戦争で逝った仲間たちに強い哀惜の念を持ち、あの程度のモノとカネで戦争に踏み切ったことへの怒りがあった。

 「短現」卒業の一カ月前には任地の希望聴取があり、南方勤務の希望者が多かったという。兜太も御多聞に漏れず、その一人で、自ら「南方の第一線希望」と口に出してしまったという。
 そして卒業時のアルバムに兜太は俳句を寄せている。兜太と同じ班に所属した同期生の一人は「滄溟」(再掲)の中で、「今や俳人として著名な金子兜太君の句が光っている」として次の句を紹介していた。

  蛾のまなこ赤光なれば海を戀う 金子兜太

 この句について、兜太は後に次のような解説をしている。

 私は山国秩父の育ちなので、あこがれは海だった。空の狭い山国を離れて、何もかも広々とした海へ。そこに青春の夢があった、と言ってよい。蛾の眼の赤光がその夢を誘っていたのだ。(『金子兜太自選自解句』角川学芸出版)

 海への憧れが結果として戦後、日銀のエリートの中では異彩を放つ兜太ならではの生き方、反戦平和思想、そして誰にもまねができない俳句の作風を培うことになった。
 俳人の夏石番矢(一九五五~)は、兜太を「身体のゲリラ」と名付け、狭く貧血気味だった俳句のジャンルをより開かれた活気あるものにしたと評価し、その原点が南の海であるとした。

 金子兜太がもしも、トラック島でなく、旧満州などの寒い地域に派兵されていたなら、その戦後の句作はかなり違ったものになっていただろう。あるいは句作を断念したかもしれない。トラック島で、裸に近い服装で生活している人々と接触があったことが、戦後の金子兜太の句作を、よりいっそう陽気でエネルギッシュなものにしたと、私は推測している。(『金子兜太の〈現在〉』春陽堂書店)

 海軍経理学校品川分校はJR品川駅南口から歩いて十分ほどの現在の東京海洋大学のキャンパス内にかつてあった。
 私は高校時代、当時は東京水産大学だったキャンパスのグラウンドに定期的に通って、サッカーの練習をした思い出がある。原稿を書き終えた後に半世紀近くぶりに足を運んだ。キャンパスの周りは高層ビルやオフィスビルが立ち並び、殺風景だった当時とは見違えるほど整備され、大手町の一角を歩いているような印象を持った。しかし、人けのない広大なグラウンドだけは雑草も目立ち、やや荒れた様子は高校生だった当時とほとんど変わりがなかった。ひょっとすると終戦当時と変わっていないのではないかとも思えてきた。
 兜太は「東京湾に突き出した埋立地に建てられた粗末な校舎」と表現した。一本の草も木もなく、冬場は品川沖から吹き付ける風が冷たかったという。「滄溟」(再掲)には二階建ての校舎を背景に卒業時の十期生の集合写真も掲載されている。ほとんどはすでに鬼籍に入っていることだろう。最前列から四列目に兜太と思われる学生の姿が目に飛び込んでくる。丸眼鏡の奥の兜太のまなこは死に場所になるかもしれない海の彼方にどのような思いを馳せていたのだろうか。
 私はキャンパスのそばの運河の水面を見つめながら、この地が兜太の出発点になったと感じないではいられなかった。

(注釈)
注①竹内好(一九一〇~七七)中国文学者。魯迅研究で知られる。
注②吉本隆明(一九二四~二〇一二)詩人、評論家。
注③桶谷秀昭(一九三二~)文芸評論家。
注④谷川雁(一九二三~九五)詩人、評論家。
注⑤阪谷芳直(一九二〇~二〇〇一)日銀出身のエコノミスト。

髙野公一著『芭蕉の天地「おくのほそ道」のその奥』書評◆覚醒の喜び 小松敦

『海原』No.33(2021/11/1発行)誌面より

◆書評

髙野公一著『芭蕉の天地「おくのほそ道」のその奥』

覚醒の喜び 小松敦

 髙野公一氏による「おくのほそ道」研究書。私のような芭蕉初学者にはうってつけの本だと思う。前提知識や予習なしで臨んでも楽しく読める本だ。「松の事は松に習へ」のごとく「芭蕉のことは芭蕉に習へ」の心で書かれており、俳句実作者としての髙野氏が芭蕉という人間に自分を重ね芭蕉を理解しようとして書いているのがよく分かる。
 さて、私が本書で一番面白く読んだのは、本の題名にもなっている〈第3章芭蕉の「天地」〉と〈第9章天地とともにある俳諧―不易流行論の原像〉である。
 歌枕満喫の前半を終えた『ほそ道』の旅の真ん中、出羽路「三山順礼」の月山登拝で芭蕉は「天地」を体感しその本質を直観した。「日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る」の件、森敦の見解も援用しながら、それは芭蕉にとって正に「覚醒の喜び」であったと著者は語る。
 『ほそ道』は「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」から始まる。これは李白の詩にある次の対句、
  天地者万物之逆旅…①
  光陰者百代之過客…②
の②を引用しているものだが、対を成す①の方はなぜ記さなかったのか。〈その理由について、森敦は、それは便宜上の理由でもなく、不要であったためでもなかった。芭蕉は旅の初めにはその意味するところを十分に認識していなかった。しかし、旅の途中でそのことを体験的に把握した。そしてそれを、体験したまさにその場の記事に秘かに書き込んだ。それが「日月行道の雲関に入かとあやしまれ…日没て月顕る」と書かれた、まさにその場面であったと言うのである〉。李白の詩の一対の一節が旅の真ん中である月山登拝、いわば『ほそ道』のピークに据えられたのは偶然ではなく芭蕉による拘りの意匠であるという。〈言葉としては知っていたことが、その意味する本当のところを初めて知り得たと思われる、恩寵のような一瞬が、月山の芭蕉に訪れたに違いない〉。そうして出来た句が「雲の峯幾つ崩て月の山」であり、著者は〈この一句を見るに、芭蕉自身、ここに、変化するものと、その変化を受け入れている天地そのものの姿を、その全き一体として、眼前の一風景の中に、詩的なイメージとして捉え得たと確信し〉、そこから「不易流行」の世界観・俳諧観が生まれたに違いないという。
 第9章では、この月山における覚醒=「天地」の本質直観を「原体験」にして生まれたという「不易流行」について〈弟子たちの論ではなく、芭蕉自身のそれの原点を探るもの〉として考察している。
 芭蕉は「不易流行」論なるものは書き残しておらず書簡など僅かな文章で「不易」「流行」に触れているのみ。あとはほかの文章や弟子たちの言葉から理解するしかない。例えば去来「答許子問難弁」の「又その先師のよしと申さる(る)句、不易・流行自(ずから)備(は)るは勿論なり。もし二ッの内、一ッあらずんば、先師よしとの給はじ。」は重要な証言である。一句の中に「不易」も「流行」も同時に存在しないとダメだと芭蕉は言っている。しかし弟子たちは「不易流行」の何たるかを問われるとうまく説明できなかったという。著者はその説明の困難に共感し、「不易」「流行」が「絶対矛盾」で同時成立は論理的「ミッシングリンク」だと述べ、土芳『三冊子』に示される「不易と流行を同時成立させるのが風雅の誠である」との論理にも飛躍があるとの見解を示す。その上で、著者自身の理解を次のように述べている。「不易」と「流行」を〈同時的に成立させるものの根拠は一つである。それは天地である〉〈天地が永遠と変化の相であるように、俳諧もまた同じである。その変化と不変の実相を風雅の誠を究めて掴み取る。そのことによって長い詩歌の真の伝統を受け継ぎながら、新しさを拓いてゆくのである〉。一見すっきりしているが、実を言うとこの説明がよく分からない。
 ここからは私見だが、「不易」と「流行」は矛盾していないし、双方を同時成立させるのが「風雅の誠」であるとの論理も明解であると考える。「不易」とは「西行・宗祇・雪舟・利休に貫通する一なる精神(笈の小文)」であり「古人の求めたるところ(柴門の辞)」ではないか。「不易」とは「古より風雅に情ある人は、後に笈をかけ…中略…をのれが心をせめて、物の実(まこと)をしる事をよろこべり(贈許六辞)」の「物の実をしる事」であり、「見るにあり、聞くにあり、作者感ずるや句となる所は、即ち俳諧の誠なり(三冊子)」、つまり「物の見えたる光(同)」を捉えること、「物に入てその微の顕れて情感るや、句となる所也(同)」の「情感る」ことではないか。対象に交わり通い合おうとする時に対象の本質や特質に気づいて昂揚する気持ちや感動。それが「物の見えたる光」であり、芭蕉が月山で体感した天人合一の感覚だと思う。これこそが古の人々が求めてきた「物の実」であり「不易」なるものではないだろうか。
 芭蕉は「物の実」が表れていて(不易)且つ変化に富んだ新しい(流行)俳諧を作ろうと言い、それを実践する態度が「風雅の誠」つまり「高く心を悟りて俗に帰るべし(同)」だと言う。このように考えると、芭蕉や弟子たちが残した言葉は全部リンクしてくるし、現代俳句や他の芸術にとっても有意義な教えとなるだろう。金子兜太流に言えば「生きもの感覚」と「ふたりごころ」を以て日常から創れ、となるわけだが、「高悟帰俗」とは言うが易しで、俗に居ながら「物に入る」ことのできる身体をつくる必要がある。
(朔出版)

書くことの力 水野真由美◆第2回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評

『海原』No.28(2021/5/1発行)誌面より

◆第2回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評

書くことの力 水野真由美

 第2回の海原賞と海原新人賞は新型コロナウイルスの感染対策による暮らしの細部や町の姿、社会の枠組みの変化の中で生まれた。受賞後の特別作品二〇句は、この時代に何が変わり何が変わらないのか、何を変えるべきで何を変えてはならないのかを感じ取ろうとし、また考えようとする日々を生きる〈人間の存在の声〉といえる。

りんどうの花 日高玲

 日高は二〇句の季節をほぼ四等分にすることで春から冬に到る四季の巡りを編む。

  草原に仔馬を拾う遥かなり

 なつかしくて明るい春の草原の「仔馬」だが「拾う」は落ちているものを手にする行為である。親馬や飼い主がいる「仔馬」を「拾う」ことは出来ない。「仔馬」は捨てられたか放置された存在なのだ。また「拾う」は現在とも未来とも読める。それゆえこの風景を「遥かなり」という時の空間的、あるいは時間的な眼差しの方向性はかなり曖昧になる。さらに「拾う」を連体形と読めば「遥か」という時空の認識とも読めるかもしれない。「拾う」はイメージを幾重にも屈折させ、拾われた存在と拾った存在の両方に寄る辺なさを生み出す。それは「半地下に打音の響く日永かな」の密閉とも開放ともならない視点の「半地下」からもにじみ出す情感である。

  木星に土星近づく草泊

 二〇年周期という木星と土星の接近には四百年ぶりという大接近もある。それを「近づく」という。妙に親しみを感じる。惑星と惑星につき合いがあるように思えてくるのだ。その親しみに秋の季語「草泊」の風土感が説得力をもたらす。彼岸後の十日間ほど阿蘇の大草原に仮住まいの小屋を建て、家族ぐるみで飼料や肥料のための草を刈るという。野見山朱鳥に「くれなゐの星を真近に草泊」があるように広大な空間に身を置いて働いた夜の疲労には解放感も感じられる。人と人の間にも定住地とは異質な近しさが生まれるだろう。
 惑星と共に土と草と人もまた親しく近づく夜である。

  アイススケート少女に傷の組み込まれ

 「少女」の姿を形成するのは「アイススケート」「傷」の鋭さではない。逃げ場のない苦しさの「組み込まれ」である。
 一句の世界に身体を感じさせる「拾う」「近づく」「組み込まれ」を書くことで日高は目にとどまらず目の奥を感じ取らせる四季の巡りを編んでいる。

あたたかいくぼみ 小松敦

 小松の二〇句は無季の句を複数含むというだけでなく配列の方法からも時間軸を季節にゆだねていないことが分かる。

  振り向くと振り向いている青時雨

 青葉の木立から落ちる滴を時雨に見立てたのが「青時雨」だとする辞典や歳時記がある一方で、この見立てを「青葉時雨」として、「青時雨」を「綠雨」と共に「夏の雨」とする歳時記もある。「振り向くと」に切れを読むならば「振り向いている」のは「青時雨」だ。とすれば滴では動作を感じるボリュームが覚束ない。青葉の時期にさっと降っては移ってゆく雨と読みたい。そして「振り向く」ためには相手が必要だ。「いる」の共時性と気軽さに現実感がある。

  初めての人もう一人夏薊

 自分が「初めて」会う人、または初めての体験をする人がいる。あるいは自分以外にもここに来るのが、これをするのが「初めて」という人がいることに気付いたとも読める。句跨りの「もう」に時間が生まれ「初めての人」は二人になる。「もう一人初めての人」ならば説明となり気付く時間は生まれてこない。棘がある「夏薊」は質感の強さと野趣により「初めて」の不安と緊張を力づけてくれるのかもしれない。

  はまなすの花今日までの映画館

 「今日まで」を閉館の日と読みたい。「はまなすの花」は夏の浜辺に咲く。これは昔ながらの海辺の映画館なのだ。大林宣彦監督の遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」を思い出す。閉館日を迎えた映画館で若者たちが映画のなかに移動してしまい映画の歴史と戦争を体験する作品だった。海辺に限らず私が住む町でも閉館した映画館は十以上ある。「はまなすの花」は消え続ける映画館への哀悼のようだ。
 小松の世界は説明抜きで始まり、日常の言葉でぱっと掴んだ非日常へのドアノブを回す。そのドアを開く力は上五を字余りや七音ではなく句跨りとして伸ばすことで生まれているように見える。二〇句に過去形が少ないことからも一句ごとの今という時間を生きようとしているのだろう。

一枚だけの紙 たけなか華那

 たけなかの二〇句は冬のみを生きる。作品に付された短文で「苛烈な虐待を受け続けた子供」だった過去とそこに自らが俳句を書く根拠があると自己開示する。それが作品の読まれ方を深くするのか狭くするのかを問う暇はないのだろう。

  一日に一枚だけの紙ください冬の青空

 「一日に一枚」の「紙」は日用の消耗品ではない。一枚の紙で出来るのは折紙や紙飛行機を作ること、あるいはそこに何かを書いたり、描くことだろう。いずれも何かを表現する行為である。「ください」は表現への願いかもしれないが「一枚」ではない「一枚だけ」には切迫感がある。許しを求める声のようでもある。この切迫感は韻律からも感じられる。
 意味で区切るならば「一日に」「一枚だけの紙ください」「冬の青空」と五・十三・七音の二五音である。長い。金子兜太は五・七・五には伸び縮み出来るつよさがある、九・九・九の二七音までは伸びると語っていたがやはり十三音はつらい。音読すると「一日に」で軽く息を吸い、「一枚だけの紙ください」と一気に吐き出し、やや深く息を吸って「冬の青空」とゆっくり吐き出していた。中七の十三音は切迫感を生んでいるのだ。それゆえ「冬の青空」は頭上に広がっていると同時に「ください」と願う相手でもあるようだ。

  紫大根擦る夜が明けるようだ

 「紫大根」は酢に漬けると赤くなるが「擦る」だけでは紫だろう。「擦る」という現在が何時であったとしても大根の色を「夜が明けるようだ」と感じるのだ。「紫大根擦る」「夜が明けるようだ」と切りたくなる韻律と共に夜明け前の暗さを身の置き場所とする感覚を伝える直喩である。

  石ころが添い寝をする冬の菫

 五・六・六の不安定さが「添い寝」を揺らす。また「石ころ」も安定には不充分な重量である。「添い寝」は「冬の菫」にとって安らぎになる得るのだろうか。
 たけなかの二〇句は日常語と定型をゆらす韻律で得た風景としての冬を生き直しているかのようだ。書くとは自作の最初の読者として、その世界を生きることなのである。

星一つ落ちて都の寒椿―ある慰霊碑の俳句をめぐって 齊藤しじみ

『海原』No.27(2021/4/1発行)誌面より

◆シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第3回

星一つ落ちて都の寒椿――ある慰霊碑の俳句をめぐって 齊藤しじみ

 大勢の若者でにぎわう渋谷駅前のセンター街の喧騒から外れた界隈が「奥渋」と呼ばれるようになって久しい。こじんまりした店構えの飲食店をはじめブティック、ミニシアター、書店がぽつぽつと建ち並んでいる。行き交う人たちの年齢層もセンター街に比べると高めで、全体に落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 その「奥渋」のメイン通りに面した四階建てビル(二年前までは精米店)の入り口わきに高さ六〇センチほどの慰霊碑がある。私は去年夏まで通った職場が「奥渋」にあり、慰霊碑の前を通るたび足を止める人を見かけたことがないにもかかわらず、花や缶ジュースなどが絶えず供えられていたことが強く印象に残っている。

 黒の御影石の慰霊碑の正面に俳句が刻まれている。

  星一つ落ちて都の寒椿

 そして、碑側面には次の文字が書かれている。

  殉職 昭和四十六年十一月十五日
     新潟中央警察署
     中村 恒雄 警部補(享年二十一歳)

 星一つとは巡査の階級章を指す。中村警部補(死亡当時は巡査で二階級特進)が殉職したのは、世にいう「渋谷暴動」である。今からちょうど五〇年前の一九七一年の一一月一四日、沖縄返還協定に反対する過激派の「中核派」が呼びかけて約五〇〇〇人の学生らが渋谷に集結して起こした暴動であ
る。当時の新聞記事などによれば、ハチ公前や道玄坂など渋谷駅周辺のあちらこちらの路上で火炎瓶が炎上し、約三〇〇人が逮捕されたという七〇年安保闘争を象徴する事件の一つである。
 当時、中学一年生だった私は学校が渋谷に近かったことから、担任の先生から「週末は渋谷駅周辺には出かけないように」と注意を受けたり、「渋谷に革命」「機動隊せん滅」という電柱に貼られたビラを目にしたりした記憶がある。
 中村警部補は当時、新潟県警から警備の応援で派遣された機動隊員の一人で、所属する小隊はNHK放送センター周辺の警備が担当であった。当時の報道では慰霊碑の前の路上で約一五〇人の武装集団と遭遇した際に鉄パイプや角材で滅多打ちにされて意識を失ったところに、火炎瓶を投げつけられて火だるまになり、翌日全身やけどで亡くなった。同じ小隊の機動隊員の三人も火だるまになりながら、近くのパン屋に逃げ込んで火を消しとめられて助かったという話も聞く。中村警部補は新潟県の佐渡島の県立高校を卒業して警察官になってまだ三年目だった。
 慰霊碑ができたのは事件から二九年後の二〇〇〇年のことである。慰霊碑の前にある小さな交差点のマンホールの上で倒れて虫の息になった中村警部補に声をかけ続けたという近所の精米店の店主(故人)から、当時の話を聞いた渋谷警察署の署員が同僚から寄付を募り、店の軒先の一角を提供してもらうことで、慰霊碑の建立にこぎつけたという。慰霊碑に刻まれた俳句は誰の作品で、いかなる経緯をたどったのか。
 今年一月、私は中村警部補の実兄で新潟県佐渡市に住む秀雄さん宛に手紙を出した後、頃合いを見計らって電話をかけた。秀雄さんは事件の首謀犯とされる容疑者が四六年間の逃亡生活の果てに四年前に逮捕された時にテレビや新聞でしばしば登場し、その穏やかな話しぶりと顔立ちが印象に残っていた。勿論面識は全くない。
 電話に出たのは秀雄さんではなく、ご長男の長生さん(四三歳)だった。秀雄さんは去年二月に病気で亡くなっていた。七七歳だった。亡くなる前まで、四人兄姉の末っ子だった弟のことを常に気にかけて、特に去年一一月に五〇回忌を地元の菩提寺で執り行うことに思いを馳せていたという。
 長生さんは叔父にあたる中村警部補が亡くなった後に生まれたので、生前の叔父の記憶はない。
 しかし、秀雄さんから事件のことを小さい頃から聞かされて、自宅には今も中村警部補の遺影や肖像画それに制服が飾られているという。そして渋谷に慰霊碑が出来た時には都内の大学に通う大学生で、秀雄さんと一緒に完成式に出たという。卒業後は地元の佐渡に戻ったが、上京するたびに供え物を携えて慰霊碑に立ち寄り、最近では去年一〇月にも現場で手を合わせたという。
 私は秀雄さんが亡くなっていたことで、慰霊碑に刻まれた十七文字の手がかりを失ったと思い込んだが、「星一つ落ちて都の寒椿」について何かご存知のことはないかと尋ねてみた。長生さんの答えは予想外であった。
 私からの手紙を受け取った後家にある資料を見ていたところ、参考になりそうなものが見つかったという。
 それは中村警部補が亡くなった二か月後の昭和四七年二月に新潟県警が発行した内部向けの広報誌「護光」の「中村警部補追悼号」である。その中の「追悼文芸」の俳句欄に死を悼む警察官や警察職員から寄せられた一四句が掲載されているが、そのうちの一句だった。名前から推測するには柏崎警察署に勤務していた女性であろう。

  星一つ落ちて都の寒椿  佐藤とし(柏崎)
(評)犠牲となったいたましい中村警部補の魂が消えて、東都に凜とした寒椿が悼むかの如くに咲くのである。

 他の一三句には警察官を彷彿させるような文字がなく、その意味で掲句が慰霊碑に刻むのにふさわしい句であることはすぐにわかった。
 また、掲句が三〇年近く経ってから慰霊碑に刻まれることになった経緯もわかった。
 平成二二年に社団法人全国警友会連合会が発行した都道府県の警察機関紙の優秀作品を集めた冊子だった。その中に掲載された作品の一つが慰霊碑の建立に尽力した渋谷警察署の警察官の体験記だった。
 それによれば、今は亡き、警察署の女性職員が「護光」に投稿した詩を県警の承諾を得て引用することを決めたと書かれている。著者は「詩」と表現しているところから「俳句」という認識は薄かったとも思われるが、むしろ十七文字そのものが一編の詩に昇華した印象を受けたのかもしれない。

 その後、長生さんからは故郷・佐渡島にある中村警部補が眠る墓地の写真を送って頂いた。墓地は長生さんの自宅から歩いて一〇分くらいの長手岬と呼ばれる、日本海を臨む海岸段丘の高台にあるという。写真から墓石の正面には戒名の「警覚院殿恒久明道居士」の文字が刻まれているのが読み取れた。墓の正面の前方には灰色の日本海が横たわっている。風が強ければ荒波のしぶきが届きそうな距離に感じる。長生さんの話ではかつては地元の子供たちの遊び場で、泳いだりタコやナマコをとった
りしたという。
 故郷の墓が二一歳で亡くなった青年の冥福を祈る場であるのに対して、渋谷の慰霊碑は殉職という死を悼む場である。その表現として十七文字、季語の「寒椿」が際立っていることにあらためて驚きを感じてならない。

  寒椿の紅凛々と死をおもふ 鈴木真砂女
  今生の色いつはらず寒椿 飯田龍太
  寒椿落ちて火の線残りけり 加藤楸邨
  父も夫も師もあらぬ世の寒椿 桂信子

 「寒椿」は華やかな色の割にどこか不条理な死と隣合わせのイメージを抱かせるものだ。
 この原稿をほぼ書き終えた一月下旬、私は中核派の最高幹部の清水丈夫議長が半世紀ぶりに公の場に姿を見せ、記者会見をしたという記事を目にした。八三歳という清水議長は渋谷暴動で警察官が殺害されたことについても触れ、「どうしても必要な闘争だった。当時は猛烈な弾圧があり、仕方がないのではないか」と語ったことを知った。渋谷暴動の時は三〇代前半の若者だったはずの清水議長の顔写真は、普通の品の良いおじいさんにしか見えないことに違和感を覚えた。
 沖縄返還・安保闘争という当時の激動の社会情勢の中で、中村警部補の死は無謬のイデオロギーという人間が生んだ業の犠牲と言える。
 そう思うと同時に、金子兜太先生がトラック島からの復員船で、戦時中に亡くなった仲間たちのことを「非業の死」と悼んで詠んだという代表句がふと浮かんできた。

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太

俳人兜太にとって秩父とは何か⑥最終回 岡崎万寿

『海原』No.26(2021/3/1発行)誌面より

新シリーズ●第6回〈最終回〉

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 ㈥ 秩父に発した俳句と哲学

 ⑴ 兜太の思想体系とその俳句

 見るとおり俳人兜太の思想・哲学の探究は、老子・荘子からマルクス、安藤昌益、サルトル、ハイデッガーに至るスケールのもので、広くて深い。そして人生的である。
 驚くことは、それらを取り込んで、産土秩父の体験に発した自らの「土の思想」を、「アニミズム」「生きもの感覚」「定住漂泊」「天人合一」「存在者」といった、より普遍性、具体性をもった独自の思想体系にまで仕上げ、その俳句・俳論に結実させていることだ。先に取り上げた中世の安藤昌益の「土の思想」に対して、まさに現代に生きる金子兜太の「土の思想」と言えよう。
 ここでは試論として、その特徴を三つに簡明にまとめておきたい。
 第一は兜太生来の「土の思想」を、宇宙を大きな生命体と見る「アニミズム」と一体化し、進化させている点である。もともと兜太の「土の思想」自体が体験的で、「『土』をすべての生きものの存在基底」(『東国抄』あとがき)と思い定めるものだったが、その当然の発展として、宇宙すべてのものが生物・非生物を問わず、石ころまで霊魂(アニマ)を宿し流れている、というアニミズムの世界へと深まっている。
 その思想状況を知る上で、兜太が秩父を、特に「産土」と言うことをめぐって、俳人で哲学者の大峯あきらと、「俳句」(二〇一六年七月号)誌上で交された遣り取りが面白い。

大峯:僕の故郷の吉野を産土と言うのはよく分かるんだが、俳句を語るのに産土がなぜポンと出てくるのか。科学技術化した現代は産土なんて感じられなくなった時代です。恐らく現代の俳人たちはほとんど産土なんて感じは持てないのではないか。

金子:俺の場合は、四十代半ばくらいかな、……熊谷に住むようになった。熊谷から秩父まで約十キロです。そこで分かったのが「土」ということでした。産土を支えているものが土だ。その土への親しみ。土というのが自分の中で力として高まった。これがまさにアニミズムだ。いわゆる「存在」ということの体感であると、そう思ったのです。それで作った句が、〈おおかみに螢が一つ付いていた〉です。(中略)
妻の皆子と一緒に秩父を往復するようになって、土、特にふるさとの土に異常な体感を覚えました。

 ここで注視したいのは、産土の概念についての、両者のもつ感覚の違いである。大峯あきらが、現代の俳人たちの薄らいだ産土感一般で発言しているのに対して、兜太は「体感」、それも「異常な体感」という言葉で、産土・秩父の土から受ける自らの実感から語っていることである。トラック島戦場でも、産土神(お守り)に加護されたという生死の体験が、三、四回あるという。
 そして兜太はその実感的な「土の思想」が、アニミズムや生きもの同士を感じ合う「生きもの感覚」を養い、次第に俳句の映像にまで高まってきたという進化の経緯を、いくつもの著書で平明に語っている。

 土の上で、自分の考え方は次第に固まっていきました。土への思いがまず深まり、そのなかでさらに“生きもの感覚”への思いが深まっていきました。
 土の塊として、私に真っ先に立ち現れたのは、幼少年期を育った秩父という山河・山国です。この山国が私の
産土うぶすなであり、この産土の土が、私にとっての「アニミズム」、“生きもの感覚”の養いの母である、と思うようになりました。……産土の土のことを考えるプロセスのなかで、そこから生まれ、生きていった人びとは、たとえば狼とか狐とか狸とか猪とか蛇などに、だんだん重なってきます。彼らが浮かび出てくるわけです。
 彼らが浮かび出てくることによって、それが私の俳句の栄養にもなり、映像にもなってきた、とはっきり言えます。私の七十歳代から八十歳代の句集の基本には、そういった経緯があります。(『荒凡夫一茶』)

 これで、大峯あきらが対談で、「俳句を語るのに産土がなぜポンと出てくるのか」、といった疑問も氷解できよう。兜太の「土の思想」は、ここに来て明確に「土のアニミズム思想」といえるものに進化したのである。そこで作られた俳句を、兜太の七十代八十代の句集『両神』『東国抄』から、五句だけ挙げる。

  蛇来たるかなりのスピードであった(『両神』)
  春落日しかし日暮れを急がない(同)
  鳥渡り月渡る谷人老いたり(『東国抄』)
  おおかみに螢が一つ付いていた(同)
  小鳥来て巨岩に一粒のことば(同)

 これらの作品には、兜太の哲学「土のアニミズム思想」が背骨に据り、自然と人間兜太が新鮮に交流し合っている感がある。「おおかみ」の名句は後で詳述することにして、最後の「小鳥来て」の句。秩父山峡か、むしろ原始の内面風景のほうが面白い。小鳥一羽がやって来て、そこにでんと存在する巨岩に止まり、チィと一声。その「一粒のことば」のアニマと、巨岩のアニマが交感、相互貫入する一瞬のこと。それを全身で感応する兜太が、そこに居るのだ。
 第二は、その兜太の「土のアニミズム思想」を基本に、生涯の課題としてきた「自由とは何か」「人間とは何か」「どう生きるか」といった思索の成熟と重なり、一つの思想体系に融合して、「土の総思想」あるいは「土の思想体系」と言える哲学にまで、深化している点である。
 先の「兜太という俳人の今日的人間考察」で紹介した『兜太俳句日記』をもって、その到達点を再確認しておきたい。一九八九年の同じ七月、兜太六十九歳の時の日記である。

七月六日
自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日
哲学を繰りかえし嚙み確かめる。芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間を含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。季節など小さい。存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を嚙みつつ句を作れ。

七月十九日
小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

 そして俳人兜太が、己の人生課題としてきた自由(存在)論、人間(本能とエゴ)論、生き方(態度)論などが、渾然一体となって成熟していくプロセスについても、闊達自在に語り尽くしている感がある。少しダブルが兜太の生の言葉をもって、リアルに考察することにしたい。

『私の履歴書』(「日経」一九九六年七月)
 わたしの考えが、「社会性」から「存在性(そして存在)」へと移るのもこの時期(引用者注・一九六七年熊谷へ転居以降)。存在を見詰めて、〈原郷〉、〈漂泊〉とか〈定住漂泊〉、さては〈純動物〉とか〈アニミズム〉といった自己流の言葉や解釈を作り出して書きつづけたのも、この時期。ここから、小林一茶、種田山頭火、尾崎放哉への強い関心が更に育つ。

『わたしの骨格「自由人」』(二〇一二年刊)
 人間および万物の存在の美しさ……結局は存在ということの美しさ、確かさ、それがオレの求めていることになるでしょうね。さっきの自由人でありたいとか、そういうことも一緒にあるわけですけれども、根本で求めているものは何かと問われれば「存在」です。その存在をたしかに支えてくれているのが土。
 だから、土と存在というのはわたしにとってはイコール。したがって、存在の根っこは産土神秩父ということになるのですけどね。

『荒凡夫一茶』(二〇一二年刊)
 私はかつて「定住漂泊」という言葉を使いました。その時期はちょうど長年の勤めを終え、いまいる熊谷に定着したころと重なります。先ほど述べた「人間は流動的だ」という思いのなかで、妻と北海道を旅行したとき、
  海とどまりわれら流れてゆきしかな
という句をつくったころです。忘れもしません、オホーツク海岸を歩き、この句を詠んだときに「定住漂泊」という言葉が出てきたのです。……「定住漂泊」とはまさに、「流動する」人間の姿です。(中略)
 人間は“原郷”指向をもっているけれども、「定住」の生活をしなければ食べていけない、……そのために“原郷”指向はつねにうろついている。それが漂泊の姿である。

『他界』(二〇一四年刊)
 すると少しずつわかってきた。……「本能にはどうやらふたつの触角がある」らしいってことです。……普段は愚の塊ですから欲にどっぷり触れている。ところが、その本能が何かの拍子にひょいと非常に美しいものに触れる時がある。……「原郷」、アニミズムの世界というものに触れている瞬間です。(中略)
 その原郷を求める心を、わたしは「生きもの感覚」と名づけました。(中略)
 それからわたしは“自由人”という言葉を盛んに言い出し、考えるようにもなる。そして、ご承知のとおり一茶の「荒凡夫」なんていうことに注目した。自分は野暮で馬鹿な人間だけど、野暮で馬鹿な人間のままに生きたい、と言う一茶とわたしと非常に肌が合う感じがするのです。

 長い引用となったが、兜太の成熟した哲学・思想体系の多角的な全容をつかむには、これだけは必要だと思う。兜太自身、この時期の己の哲学について、論理的なまとめ方はしていない。むしろ俳人らしく、自己流の用語を使って、その鮮明な映像をもって俳句に表現している。

  谷間谷間に満作が咲く荒凡夫(『遊牧集』)
  存在や木菟みみづくに寄り添う木菟(『両神』)
  定住漂泊冬の陽熱き握り飯(『日常』)
  言霊の脊梁山脈のさくら(同)
  質実剛健自由とアニミズム重なる(『百年』)

 うち一句目だけ一と言。秩父の谷間のあちこちで咲く早春の花まんさくは、鮮黄のひも状のねじれた花弁が、枝先にかたまるように咲く。その様子が兜太には「ほおかぶりをして豊年満作の踊りでもやっている感じ」に見え、「荒凡夫」という言い草が、この花によく合うと思った、と言う。
 第三は、そうした兜太の哲学・思想体系が、それ独自に存在するものでなく、あくまでも己の俳句・俳論の土台、背骨となり、一体となって、作品の奥行き、風格として開花、結実している点である。それこそ「オレが俳句だ」と言い切った、俳人兜太ならではの内面の深め方であり、その哲学・思想体系の有り様だと思う。
 先に紹介した作家・歴史家の半藤一利との対談でも、ずばりこう語っている。

 結局、自分自身がどうあるのか、いや、「どういう認識のもとに、どういう哲学を持つことが一番自分を生かす道なのか」……「自分の胸の内はこうだ」ということを俳句を借りてさらけ出すことに意義を感じていたんです。(『今、日本人に知ってもらいたいこと』)

 したがって兜太の思想体系は、文字通りの構造性を持ち、俳句・俳論を上部構造として、それを支える「土の思想」全体が下部構造となり、両者は相互に深く関連しつつ弁証法的に進化する仕組みとなっている。俳人兜太はそう思考し、そう生きてきた。この兜太の思考方法については、兜太研究の第一人者である安西篤が、その著『金子兜太』でこう考察している。

 兜太は、その流れを俯瞰しつつ、問題の基底部分に目を向ける。これは兜太の発想の特色といってよいほどのものだが、つねに問題の下部構造から弁証法的に認識を展開してゆく。しかも、その認識に人間の、いや肉体の裏づけを忘れない。(中略)
 兜太の俳論は、その生き方をふくめた一貫した存立構造をもつ一つの系のように見えてくる。その系は独自の論理体系をもちながら、決して内部に閉じようとするものではなく、外部に開かれた柔構造をもつ。

 そうした思想体系の成熟の流れとあわせ、兜太の俳句も、作品としての円熟した深み、新しみや、得も言えぬ俳諧の味わいを見せている。その兜太山系にそびえる秀峰の峰々を、私なりに確認しつつ、八十代『東国抄』までの五句を挙げておこう。「おおかみ」の句が何回も登場するのは、次節への布石と見ておいてほしい。

  ぎらぎらの朝日子照らす自然かな(『狡童』)
  霧に白鳥白鳥に霧というべきか(『旅次抄録』)
  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)
  冬眠の蝮のほかは寝息なし(『皆之』)
  おおかみに螢が一つ付いていた(『東国抄』)

 ここでは朝日子、つまり太陽までも同じ生きもの同士。「土」に発したすべての存在の有り難さ、美しさ、生々しさ、無気味さ、そして孤独さが、時空を超えた詩の世界に、みずみずしく映像化されているのだ。まさしく秩父の自然児、金子兜太独自の俳句世界である。

 ⑵「おおかみ俳句」の新考察

 いよいよ兜太の生涯的名句といえる

  おおかみに螢が一つ付いていた

について、突っ込んだ考察をするところへ来た。その句碑は、兜太の産土神であり、秩父困民党軍の蜂起の地、皆野椋神社の境内に、でんと建っている。その除幕式は二〇一四年四月、兜太九十四歳の春のこと。そこでの兜太の挨拶が、この句に込めた兜太の真意をずばり語っている。

 私は運に恵まれ、守られて今日まで命ながらえております。戦地に赴くとき、母親が千人針で埋めたさらしの布に、ここ椋神社のお守りを収めて手渡してくれました。私がトラック島から生きて還り、今日まで元気でおられるのは産土の椋神社のお陰です。トラック島での日々、餓死者がつぎつぎと出てくる状況の中で、ときどき夢の中に、ボーッとかすかな光が現れます。蛍だ。皆野の蛍だと思いました。
 昔から土地の人たちは両神山りょうかみさんを敬まい、この山には狼がたくさんいたと言われています。土地の人たちが狼を龍神りゅうかみと呼ぶとも聞いていました。この句は産土への想いと私の若き日の戦場体験、この両者の上に恵まれた句です。(『語る兜太』)

 さて、小論「俳人兜太にとって秩父とは何か」の結びとして、この「おおかみ俳句」を取り上げたのは、この一句に秩父と兜太と俳句がみごとに融合し結実した、次の三つの要因を、しっかり確認しておきたいからである。
 第一に、この俳句こそ、兜太が求めてきた秩父の「土の思想」が、アニミズムの独自の哲学・思想体系として成熟し、その全人間的な円熟の上に、産土秩父の象徴として時空を超えた「おおかみ」を発見、それを己の「生」のあり方として映像化した作品だ、ということである。その必然ともいえる成り行きを、ずばりこう明言している。

 「おおかみに螢が一つ付いていた」は、まさに自分の今言った考え方が熟してきた、自分の体のものになった、そのころにできた句です。(『いま、兜太は』)

 さらにその、「おおかみ俳句」を詠んだほぼ同じ時期に、自らの内面を見据え、こうも書いている。

 そして、細君の忠告が「存在の基本は土」の思念を信念にまで高めてくれた、ということだった。その後、その信念に立って、わたしは、「生きものの存在の原始」を見届けたいと願ってきた。……
 わたしは狼を見つめてきた。「狼の生」を見定めようとしてきて、気付いてきたことがある。それは、かれの生は見事に空間のものであって、そこには時間というものがないということだった。生れ、生き、そして死ぬ、ほしいままに山河を跋渉して生き、そして死ぬ。(中略)
 わたしは、この時間意識を越えて、「狼の生の空間」を自分のなかに獲得したい、と願うようになったのです。「生そのものである生」の獲得。その限りない「自在さ」。(「〈かたち〉と自己表現」「海程」一九九七年十二月号)

 この瞬間、兜太は産土の「おおかみ」と、時空のない「生そのものである生」に同化しているのである。
 第二に、この「おおかみ俳句」が作句方法の上で、己の俳句作りの基本としてきた造型(映像)俳句を、より存在的に、秩父そのもの、いのちそのものの「生」を暗喩、映像化した、刮目すべき到達点を示していることである。
 兜太が幼少のころから、よく耳にしてきた秩父山河に生きていた狼のイメージと、トラック島戦場で、時折夢の中にかすかな光として現れていた秩父の蛍が、奇しくも、そしてみごとな配合で、存在感のある俳句表現となった。この句碑の除幕式での兜太の挨拶にあるように、その蛍と狼は産土神のお陰、いや兜太の内面では、産土神そのものであったかも知れない。
 同じ時期に書いた、先の「海程」評論で兜太はこう語っている。「感の昂揚」の大切さである。

 基本に感動の盛り上がりがあってものを掴まえたときは、素晴らしい。……「感の昂揚」を俳句作りの土とするということは、五七調最短定型の韻律と微妙に且つ十分に重なる。詩は叙情を基本とし、定型詩の韻律はとくに叙情で決まる。その叙情の質を「感の昂揚」が決めるのだ。

 兜太の「おおかみ俳句」には、この「感の昂揚」がものすごく高まった背景があったに違いない。
 第三に、この「おおかみ俳句」の作句の経緯を見ると、兜太は同じ秩父皆野の詩人・金子直一の詩集『風の言葉』の中の「狼」という長い詩を読んで、ショックを受け、その「感の昂揚」のまま、「ある日、突然、わたしの中にオオカミが跳び出してきた」(『他界』)という、秩父らしいドラマがあることである。
 その秩父ドラマの時期を、私はたぶん一九九七年十、十一月頃ではないかとみている。兜太はその内面の真実を、各所で語っている。たとえば「三田文学」(二〇〇四年冬季号)の特別企画「私の文学」で。

 それを読んでまたショックを受けた。あっこれだという感じがあって、数日後に狼が私の映像のなかに飛び出してきたわけです。
 それまで私は、秩父と狼、産土と狼という結びつきはあまり意識していなかったんです。それが彼の詩を読んでわかってきた。……その守り神から産土が出てきて、産土のなかには私がそのときははっきり想像していなかった大神、竜神のような存在があった。そういうイメージの連続で、最後は直一さんの詩の言葉によって気づかされたということになる。

 また季刊「やま かわ うみ」(二〇一二年秋)の巻頭インタビュー「金子兜太『生きもの感覚』俳句渡世」でも、その瞬間をよりリアルに、こう述べている。

 私は直一さんに私淑していましたから、直一さんの詩を読んで、ニホンオオカミというのを念頭に置くようになりましたね。(中略)
 ある日、朝起きた時、ふと目の前にオオカミが現れまして、「おおかみに螢が一つ付いていた」という句を作ったんですね。オオカミに触れた時に、なんか私の中でほおーっと明かりが灯ったっていう感じがした。オオカミと私との生々しい感覚の繋がりができたというか、繋がりを感じました。それ以後、私のなかで産土の象徴みたいな感じでオオカミが存在しています。

 ところで、この「おおかみ俳句」の初出は、「海程」一九九八年二・三月号である。同句を収めた第十三句集『東国抄』には、以来二〇〇〇年一月号まで随時発表された「狼」俳句二十句が、まとめて収録されている。うち兜太が『自選自解99句』で取り上げた三句を挙げると

  おおかみに螢が一つ付いていた
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民
  狼生く無時間を生きて咆哮

 三句目のこんな自解に、注目してほしい。

 狼は、私のなかでは時間を超越して存在している。日本列島、そして「産土」秩父の土の上に生きている。「いのち」そのものとして。時に咆哮し、時に眠り、「いささかも妥協を知らず(中略)あの尾根近く狂い走ったろう。」(秩父の詩人・金子直一の詩「狼」より)

 金子直一とのこと
 兜太の『俳句日記』には、その直一とのことが二回ほど記されている。一回目は一九七二年十月六日。秩父事件の実地調査で「途中で金子直一先生を(車に)乗せ…」と、一泊二日の同行をしている(小論第2回・96頁参照)。そのことについては『俳句専念』の「私の履歴書」の中に、こう書いている。

 秩父事件について朝日新聞「思想史を歩く」に書く機会を得たのも縁。秩父から信州佐久を、郷里の作家金子直一氏と歩くことができ、秩父の人と山影がわたしの体に染みた。

 二回目は直一氏逝去の報である。「一九九一年十月二十七日雨、かなり強く一日中金子直一氏死去のこと千侍より。」
 次は、兜太著『中年からの俳句人生塾』(二〇〇四年刊)の中でのこと。「アニミズム」の項で、根っからの「自由人」だった、先にも書いた旧制水戸高校時代の出沢珊太郎先輩と長谷川朝暮先生などに続いて、「その秩父に、これもなつかしい日本人の一人、金子直一氏がいた」と、突然、直一が登場している。本を書きながら、ふっと浮かんだのだろうか。

 (彼は)高校の英語教師で、小説や詩を書いていたが、「岩に対す」という詩が思い出される。氏にとって、「岩は土のもと」だから、「岩こそわれらのはじめのふるさと」だった。「われらは土より出でて土に帰る」しかし「ついに岩に帰る」ことはないから「岩にあこがるるなり」。「われら生ぐさきゆえ/岩に向かいてこころ驚くなり。/谷川のしぶきに濡るる/大いなる岩に向かいて涙するなり。」

 見るように兜太にとって直一という秩父の詩人は、同郷の親戚筋というだけでなく、心通う「忘れえぬ人々」の一人であったのである。生き方の基本点で、不思議に秩父人らしい共通項がある。

 ① 二人とも秩父皆野生まれの東大卒。本職でない文学への強烈な志向をもち、生涯を貫いている。しかもその志向の原点も終点も秩父。その山河と人間、「土」「岩」「狼」にあった。
 ② 二人とも郷土史の秩父困民党事件について、熱い関心をもち真剣に調査、研究を続け、兜太は俳句と評論、直一は詩と小説(「一茶の花」「土蔵」「総理と金」など小説集三冊)を残している。肝要なことは二人とも、権威にまつろわぬ、その抗う精神を、自らのものとしていたことだ。
 つまり金子直一という名前は、俳人の間ではあまり知られていなかったが、兜太にとっては人間として「ひそかに尊敬」「私淑」「信愛していた詩人」であったのである。その直一の詩「狼」がヒントとなって、兜太の「おおかみに螢が一つ付いていた」という名句が誕生しようとは――兜太は「運命です」と言うに違いない。

 筑紫磐井評論のこと
 「海原」二〇一九年十二月号に、俳人・評論家で「兜太TOTA」の編集長でもある筑紫磐井の特別論考「兜太は何故おおかみの句を詠んだか――兜太文学の本質と秘密」が掲載(「藍生」同年九月号より転載)され、新鮮な話題を呼んでいる。私自身、ちょうど小論の執筆準備中であり、むさぼり読んだ。そして二つの面で有難く参考にした。
 一つは、直一のその「狼」詩の全容があきらかとなり、兜太がなぜ「ショック」を受け、感動し、「おおかみ俳句」誕生の切っかけとなったかが、感覚的に鮮明となってきたことだ。少し長いので一章、終章を割愛して、行を詰めて紹介させていただく。

けわしい岩肌の目にしみる山の、/そのどこかにむかし狼がいたという。

おおかみ、またはりゅうかみ。/竜のあおい鱗を/山犬のきびしい姿体によろい、/耳までさけた口は常にうえ、/いささかも妥協を知らず、/他をうたがい、己れをうたがい、/それゆえ他をくらい/自れをくらい、/青土色の孤独となって、/あの尾根近く狂い走ったろう。

岩ひだに滴る滔々の清水に/しばらく狂気をしずめたろう。深い、もっと深い/真実の谷はどこにあるのか。/けわしい、もっとけわしい/山そのものと言うべき高所はどこにあるのか。

こらす瞳は血の如く悲しみ、/怒らす牙は山てんの星を映したろう。けれどもついに空しかった。牙はボロボロの骨片と化し、/瞳は焦点を二度とむすばぬ――

 ――私も感動のまま、この詩を繰り返し読むうちに、その狂い走る狼の映像とともに、「山影情念」の真直ぐで強情な秩父人たちの表情や、貧しさのあまり蜂起した秩父困民党の人びとの姿が、次々に重なり浮かんできた。そしてこの直一の詩は「狼」を詠みながら、その真意の底に、同じ産土に狼とともに耐え生きてきた秩父人そのものを、表現しているのではないか、とも感じた。
 兜太が産土の自覚を深めるなかで、はっと気づいて、この直一の詩集を読み、イメージを連続させ、ある朝、ふっと狼の映像が飛び出し、この「おおかみ俳句」に結実したという経緯が、生々しい感覚で分かってきた気がする。
 そう言えば秩父の狼たちは、明治政府によって軍馬保護のためみじめな犠牲にされた。困民党も同様、明治政府によって惨い弾圧、処刑にされ、秩父ではその事件を口にすることさえ憚られた。秩父の狼も困民党も抗い、そして消滅させられたのである。その孤独さ。
 筑紫評論で参考になった二つ目は、直一没後七年目の「文芸埼玉」第六十号(一九九八年十二月)に、兜太が「人間として親愛」する直一の、奇行と「反骨」如実のエピソードを綴った、「金子直一粗描」という回想録を書いていることを、長い抜粋を交えながら紹介されているところだ。
 「とにかく承知していることをすべて書いて、金子直一という人間が存在していたことを世に伝えたい」というのである。反骨の秩父人同士、なるほど兜太らしい、懇ろな心遣いだと思う。
 最後になったが、筑紫評論の本命は次の言葉である。

 言いたいことは、直一の「狼」はこうした秩父事件以来の反骨の精神が生み出したものであり、また兜太の狼の句は、直一の「狼」の思想を引き継いだものに違いないと言うことである。

 その通りだと思う。小論でもその真実を、さまざまなデータをもって証明してきた。
 そこで残る問題は、筑紫評論が、兜太が直一の「狼」詩を読み、あ、これだと「おおかみ俳句」を作ったのは、一九九六年五月、日本詩歌文学館賞受賞の折、訪れた北上市の高橋盛吉市長が、たまたま直一の教え子だったことから、語り合いが進み「直一の再認識」をしたことが、その切っかけだった、と推定している点である。
 話は面白いが、兜太にとって「忘れえぬ人」だった金子直一について、そうした推定の前提として、「なぜならば、直一はすでに平成三年に亡くなって記憶から薄れていたにもかかわらず」という、判断を据えていることは、いかがなものか。
 そうした偶然の可能性を否定するつもりはないが、しかし兜太の「産土の自覚」の深化の中で、秩父―産土―「龍神」―直一―「狼」詩(抗い滅びていった狼のイメージの獲得)―「おおかみ俳句」といった意識の自然の流れ、その必然といえる過程がありうることも、十分に想像できる。小論はむしろその可能性を、実証的に探求してきた。
 いずれにせよ、近くその時期のことが記された『金子兜太戦後俳句日記』第三巻が刊行されるので、その機会を楽しみに待ちたい。
 全体として筑紫評論が、俳人兜太の存在を正確に、そして興味深く探る上で、積極的な意味をもっていることは言うまでもない。筑紫評論に刺激され、句集『東国抄』を改めて読み直した俳人もいる。これを機会に兜太の俳句論、人間論が、さらに活発化することを願っている。
 筑紫評論は冒頭に、この兜太の「おおかみ俳句」が、俳句総合誌「俳句」(二〇一九年五月号)で、その俳人アンケートで、平成俳句のベストテン中、飛びぬけて第一位を占めていたことなどを紹介し、「平成の俳壇は金子兜太によって築かれたように見える」と称賛している。

 この現代俳句の巨匠であり、秩父の自然児、自由人であり続けた金子兜太が、他界の後も時を超えた存在となって、これからの時代に生き親まれ続けることを、真剣に興味いっぱい見届けたい、と切に思う。 (完)

果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 齊藤しじみ

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

◆シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第2回

果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島 齊藤しじみ

 今から十八年前の私事だが、鮮明に記憶に残っている思い出がある。転勤族の私は当時、松山で暮らしていた。初心者向けの俳句教室で、まだ全国区では無名だった講師の夏井いつきさんから俳句の手ほどきを受けていた。何がきっかけなのかは思い出せないのだが、金子兜太先生(以下・兜太)の掲句に魅かれて、刊行まもない「金子兜太集」全四巻を近所の書店で衝動的に買い求めた。その晩、自宅で麦酒を飲みながらお目当ての句が掲載されたページをめくった。正直、真夏にふさわしく、麦酒のホップが心地よく脳裏に染み渡るようなイメージが湧きあがった。

  果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島

 この句が初めて世に出たのは「俳句」(昭和三十五年十月号)誌で、兜太は中年に一歩足を踏み入れた四十一歳だった。その同じ年の五月に福島、神戸、長崎と九年半に及ぶ地方支店での生活にピリオドを打ち、日本銀行本店に転勤してまもない時期であった。
 私はこの句に出会ってから果樹園の存在が気になっていたが、去年十月、暑さが一段落着いた頃を見計らって、果樹園探しを思い立った。場所は生前、兜太が語っていた内容から推測できる。

 長崎から東京に移り、杉並区今川町(旧称沓掛)に住む。あちこちに梨の果樹園があって、沓掛の旧称を懐かしんでいた。四十代はじめの頃で、俳句専念を決め(略)、夏の果樹園の葉づれの下に、シャツ一枚で、気負って立っている自分の姿を思い描くことがあった。ここは実りを待つ孤島、と。(『金子兜太自選自解99句』角川学芸出版)

 また、兜太は俳人の池田澄子さんとの対談の中で、次のように語っている。

池田 この果樹園というのは杉並区にあったんですって?梨園が。
金子 あったんだ、沓掛町に。五郎という犬を連れて歩いたんだよ。
池田 それを知らなかったときには、「果樹園」って言われたら、広い大梨園かな、葡萄園かなとね、いろいろ想像していました。
金子 そのとおりです。そこから来る想像の句ですね。
 (『金子兜太×池田澄子』ふらんす堂刊)

 右記の話をまとめると、昭和三十五年、兜太の自宅があった杉並区今川町(旧称沓掛町)周辺の梨園ということになる。
 まずは当時の住宅地図から兜太の自宅を探し出すことから始めた。都立中央図書館で検索した昭和三十年代の杉並区の地図は複数あったが、個人の名前まで記載されているのは昭和四十四年の「杉並区全図」(公共施設地図株式会社編)だけだった。そこに昭和三十六年発行の「文藝年鑑」の文化人名簿から兜太の自宅住所を調べて、先の住宅地図と照合すると、該当の番地に「金子」という姓の戸建ての住宅を見つけることができた(実際には兜太は昭和四十二年の時点では杉並区から埼玉県熊谷市に転居)。
 そのことを兜太のご長男の眞土さんに尋ねようと住宅地図のコピーを郵送した後に電話でお話を伺った。眞土さんの話では自宅は当該の場所で間違いないが、周辺に梨園があったかどうかはっきりした記憶はないという。
 しかし、長崎から連れてきた五郎という名の秋田犬の散歩コースは自分と父(兜太)も同じだったということで、眞土さんは「コース沿いに開けた畑があった。あるとすればこの辺り」として可能性のある場所を地図上から教えてくれた。昭和四十四年の地図では、周辺に果樹園を示す地図記号はなく、確証は得られない。私は当時と現在の住宅地図を手に周辺で二日間にわたって聞き込みを行った。
 現地は環状八号線から百メートルほど離れた閑静な住宅街で、兜太の自宅跡には建売の瀟洒な分譲住宅が立ち並んでいた。跡地の住宅に住む中年の女性に話を聞いたが、「日銀の社宅があったことは知っていますが、金子兜太という俳人は知りません」とのこと。今から六十年前のことなので、すくなくとも六十代後半以降の世代でなければ、当時の記憶はないだろう。
 眞土さんが梨畑の可能性のあるとした場所の近くに住む七十代後半の男性は「昭和三十年に梨園があった記憶はないが、あなたの言う場所はきっと梅林だと思う。詳しくはSさんに聞くしかない」と教えてくれた。
 Sさんは大邸宅に住む住民の名前だった。地図では眞土さんの話にあった散歩コースに自宅の敷地が面した家でもある。Sさんの家のチャイムを鳴らし、「戦後の郷土の歴史を調べている者?です」と名乗ると、六〇代半ばと思しき、商社マン風さわやか系半ズボン姿の長身の男性が門のところまで出てきてくれた。
 Sさんは終始、軽妙な語り口で約四十年前に亡くなった父親が自宅周辺一帯に畑を持っていたことを明かしてくれた。昭和三十九年までは桃畑だったが、それ以降は梨畑、昭和五十六年からは梅園をやっていて、地元の農協に出荷していたことも教えてくれた。私は頃合いを見つけて、手にした画帳に貼り付けた「果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島」という句を見せ、今川にあった梨畑が句の題材になったことを伝えた。
 Sさんは兜太の名前を知らなかったが、「このあたりで梨畑と言えば、私の家の梨畑ですよ。小さいときにはよく梨を捥いで食べましたよ」と笑顔で話してくれた。
 兜太の自宅から約百五十メートルは離れたところにある果樹園の跡地はすでに住宅が軒を連ね、梨畑の面影は全く残っていない。Sさんの後に訪ねた町内会の班長を務めるという森茉莉(鴎外の長女)似の女性からは「昔はSさんの家と道路を挟んだ場所に梨の無人の販売所があったので買いに行っていました」という話も聞くことが出来た。
 Sさんの話のとおりであれば、兜太が句を詠んだ昭和三十五年当時はまだ桃畑であり、その後、梨畑、梅林に代わったことになる。勝手な推測を許していただければ、現地の複数の住民が梅しか思い出せないことでわかるように半世紀前の記憶はあいまいになるのも仕方ないことであるが、結果としては「果樹園」であり続けたことには違いない。俳句が創作である以上、徹底的に事実関係を追求すること自体は意味がない。
 ちなみに杉並区の農業の歴史をたどると、昭和三十年代半ば頃は果樹の内訳では裁判面積では「桃」が断トツに多く、次に「梨」となっているが、その後、栽培に手間がかかる「桃」は労働力不足から急速に減少し、やがて「梅」に取って代わったとの記述がある(「杉並区農業のあゆみ」杉並区編昭和五十年)。

 実は当の兜太は昭和四十年には句の「果樹園」は梨畑であると明言している。

 五年ほどまえ、いま住んでいるところに引っ越したばかりのときできた。(略)この近辺、いまも果樹園が一つある。梨の木で、花の時期、袋をかぶった実の時期と、それぞれに特徴があるが、私は、実の時期の重なり合った葉と、その下にいて触れる強い太陽の匂いが好きだ。(略)シャツ一枚の身軽な気持と、緑の果樹園は、私を解放してくれる。果樹園が自分の城のように思え、城主のように自由になる。(『今日の俳句』金子兜太著・光文社)

 兜太が「梨畑」と明言していると言っても、「果樹園」が桃や蜜柑や葡萄であっても俳句の読み手が自由にイメージを抱くことは許される。
 私は「桃」と仮定すれば、戦後十五年しか経っていない時期、兜太が戦争体験をしたトラック島とだぶらせて「孤島」、兵士としての「俺」、そして見た目が南国的な色彩を持つ「桃」を連想しても不思議でないと思う。
 その一方で、「梨」と仮定しても、「幸水」と「豊水」の二品種が全盛の今でこそ店頭で姿を見かけることがなくなったが、何だかごつごつとした手触りが特徴の赤梨「長十郎」が兜太の朴訥としたイメージが重なり合うと感じる。
 勝手にそんな表層的なイメージに思いを巡らせていたが、『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)の昭和三十五年の記述を読むうちに、私は当時の兜太の心の葛藤を滲ませた句という解釈もできるのではないかと思わずにはいられなかった。
 それは作家・杉森久英(一九一二〜一九九七)の存在である。杉森は戦前、兜太の母校の旧制熊谷中学の教師を務め、戦後は直木賞受賞の流行作家として「天皇の料理番」など数多くの評伝を世に出したが、日記からは兜太と親交のあったことが伺える。兜太はその杉森から励まされた言葉を次のように書き記している。

八月六日(土)
 夕方、松の屋で杉森先生を囲む座談会。(略)先生の話で―飲屋での―銀行も俳句も辞めるな。どちらからもはみ出した男、あゝいう大きな人物がいるといわれるような、そん
な男になるのが一番よいのではないかと言われたが、非常にありがたく、また我が意を得た。

 当時の兜太は東京帝大卒と言っても仕事に一歩も二歩も距離を置いており、働き盛りの年齢にもかかわらず出世街道から外れていた。働き方改革の言葉など存在しない時代、上司や同僚たちは高度経済成長を支える日銀のブランドとプライドを背負って日夜仕事一辺倒の生活を送っていたはずだ。さりとて「俳句専念」を決意してもプロ俳人として大成できるかどうかわからない不安の中、他人には打ち明けられない中年男としての焦燥感があったはずだ。
 実際、兜太は当時の葛藤を正直に吐露している。

 私は三十代後半で俳句に専念することを決心しました。(略)「あいつは勤めながら俳句をやって結構うまくやっている。すこしズルイじゃないか」。在職中もそんな声がありました。(略)あいまいな姿勢では、何をやっても道は開けません。私が俳句の世界で曲がりなりにもやってこれたのは、「死んで生きる」ぐらいの覚悟でいたからです。(『人間・金子兜太のざっくばらん』金子兜太著・中経出版)

 そのことを知って、「果樹園がシヤツ一枚の俺の孤島」の句に思いを馳せると、果樹園とは俳句の世界であり、その果樹園を他人の評価を気にせずに堂々と生きていくのだという兜太の気高く、力強い孤高感が伝わってくるのである。

《本シリーズは随時掲載します》

俳人兜太にとって秩父とは何か⑤ 岡崎万寿

『海原』No.25(2021/1/1発行)誌面より

新シリーズ●第5回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 (承前)

 ⑵ 土の自由人――俳人兜太の哲学考

 思想・哲学といっても、兜太の場合そんなに難しい話ではない。まず兜太が旧制水戸高校生だった頃の、ある読書のエピソードから始めよう。
 ある時、柔道部の先輩から「おい兜太、高校生になったら、この三冊だけは読んでおけ」と、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、西田幾多郎の『善の研究』、そして倉田百三の『出家とその弟子』を挙げられたそうだ。
 それから七十数年たったある日、兜太はその水戸での講演で、「学生の頃に読んだ本についてしゃべってくれ」と頼まれた。そこでとっさに浮かんだのが、その三冊。読み直してみた。そして、その講演で話した読後感を、「『純粋経験』という洗礼」と題するエッセイで語っている。ここでは『善の研究』にしぼって紹介しよう。

 読み直していちばん役に立ったのは、『善の研究』だった。いまでもまことに印象的でしたねえ。
 青年期の私に、思想とは何かということを教えてくれた貴重な本であったと思います。基本の概念は、純粋経験。純粋な感覚から出発した経験の世界。既成概念のまったくない世界。自分だけにある世界。そこから出発して、それを思想として深めていくことが大事だと、西田は言うわけです。(中略)
そういう時代だったから、自分の純粋経験から出発してすべてを考えろという『善の研究』は、バイブル以上の力があったんですなあ。以来、私の純粋経験は、「良い、悪い」を判断する物差しとなった。これが今でも自分を律している考え方の基本です。(『悩むことはない』所収・二〇一三年刊)

 なるほど、と思う。二つの意味で、秩父の自然児で自由人の兜太らしい言葉である。一つは、戦時下の当時、いわゆる「皇国史観」がうるさく横行していた世相だっただけに、自分の「純粋経験」からすべてを判断するといった姿勢は、時代に抗う自由の精神であったこと。二つは、自らの思想を選択する方法として、「純粋な感覚から出発した経験の世界」を据えたことは、秩父に育ち、土の上に立つ知的野性を憧れ、自由人を目指す兜太の生き方に、まさにぴったりのものだったことである。
 そのように兜太は、当時の学生たちに人気のあった『善の研究』の「純粋経験」については、学び己れの方法論としたが、それでは西田哲学自体についてはどうだったのか。そこには兜太流の選択があった。

 では、私は西田幾多郎を尊敬したかというと、しなかった。あのややこしい弁証法の真髄を究めたか? まさか。俺は弁証法を弄するようになってからの西田幾多郎は嫌いなんだ。(前掲書)

 つまり兜太は、いかなる東西の秀れた思想家・哲学者であろうと、一つの学風に心酔し受け売りするようなことは、皆無だった。『俳句日記』をみても旺盛な読書家で、幅広く多様な古今の書物を読んでいるが、この自らの「純粋経験」に照らして選択し、自分の頭で考えて吸収すべき思想・哲学は、生涯を通じて吸収し、わがものとして肉体化している。
 ここが俳人兜太の思想家としてのすごいところだと思う。今回、刊行された『俳句日記』や関連する書籍を大観して、私は自由人兜太の思想・哲学の中に溶け込み一体となっている古今東西の思想・哲学は、結局、五つに絞られ総括されていることを確認した。小論のテーマに即して簡潔に、データをもってそのポイントを概観してみよう。

 ①は、先にも取り上げた古代中国の老子・荘子の老荘思想である。よく「無」「空」といわれる、「無為自然」の真の自由への道を教えている。青年兜太は秩父の人びとの貧しい暮らしを見ながら、精神の放浪を感じ、その思想に早くから興味をもっていた。そして――。

一九七一年(十一月三日・52歳)
サッパリと眼がさめる。……思想の体系はある。しかし、それを貫ぬく〈生活〉の心底が、なお不十分であったわけだが、やっと決ってきた。そして、〈毅然たるもの〉の根は、〈無〉の体認である。

一九七四年(五月七日・54歳)
夜明け、「無と空」のところの新しい書きかたが開ける。……やはり、自分の方法でなければダメで、そのときのなめらかさ、さわやかさを知れ。

『二度生きる』(一九九四年刊・74歳)
私が田舎っぺだからできたのだと思います。土にくっついて生きてきた人間は、いい意味のニヒリストです。帰るべき、立つべき土があると思うと、徹底して虚無になれます。すると徹底して新しいものが生まれてくるのです。老子が言うように、虚から有が生まれるのです。

 小論の㈡でふれた処女作「白梅や老子無心の旅に住む」から、この時点で五十数年、兜太は相変わらず無と空を語りつづけている。老子、荘子のこのタオの世界は、俳人兜太にとって、魅力ある人生的なテーマであったのである。
 ②は、このところ、また新たに読者を広げている大著『資本論』を書いた、一九世紀のドイツ人経済学者、思想家のカール・マルクスの思想体系、マルクス主義である。兜太が敗戦の翌年(一九四六)十一月、復員帰国して秩父に帰る途中、東京のバラック建ての本屋で最初に手にしたのが、古ぼけた岩波文庫のリャザノフ著『マルクス・エンゲルス伝』だった、という。
 兜太の『わが戦後俳句史』によると、このマルクスとの出会いは感動的だったようだ。

 私は文庫本を読みつづけて読了しました。その読了のところに、マルクスの墓に記念碑を建てることにマルクスの娘たちが強硬に反対し、エンゲルスもベーベルもそれを認めたこと、そしてエンゲルスの遺骸は火葬に付せられ、その灰を納めた骨壺は海に沈められた、という数行があったのです。この数行が私の涙腺を刺激し、さらに脳髄ふかく突き刺さりました。
 この感動はおもいだすだに鮮(あら)たなもので、翌年二月、とにかく一応日銀に戻って、と気持を決めたときも蘇ってきました。そして、こんな句が湧くようにとびだしてきたものです。
  死にし骨は海につべし沢庵たくあん

 マルクス伝から青年兜太が受けたこの強烈な感銘は、先に述べた兜太の「純粋体験」に強くふれ合うものがあったからに違いない。そこで兜太は、マルクスの、その思想というより人間的なもの、つまり「行動における自己犠牲と思想における自己中心(集中)」といった志向を受けとっているようだ。
 それが後年の『俳句日記』になると、マルクスの科学的社会主義の「自由と公正、民主主義と個性の発展」といった、その真髄をつかんだ内容で記述がいっそう明瞭となっており、驚かされる。

一九六七年(一月二十日・47歳)
要するに独占資本主義文化(芸術、倫理、道徳)の軽薄さに、自分がグズグズ拘泥していたということを朝、皆子と喋っていて気付く。何んというマルキスト。はっきり対決しているはずなのに、思わず巻きこまれようとしていた。いけない。はっきり対決することによって批判の自由な振舞い(その自然児ぶり)があり得るではないか。

同年(十一月二十五日)
その自由をより享受し得る条件は〈自由競争〉の資本主義より、公平を眼目とする社会主義にあり、とも思い、やっとほっとする。ときどき頭を整理しておかないといけないのが辛い。

一九九二年(二月六日・72歳)
現俳常任幹事会で、村井氏がマルクス経済学はつぶれましたね、というから、とんでもない、これから大事になる、と答えておく。資本主義肥大に伴う矛盾(醜悪なエゴ)露呈に対して、「社会主義」の精神と施策が必要。

 こうした「自由な社会主義」の精神については、フランスのサルトルも、兜太と同様、先の世界大戦で出征、戦場と捕虜生活の惨い体験を経て、作家、思想家として積極的にコミットしており、理想と現実の間で苦悩しながらも、生涯かけて追求している。
 また今日、グローバル化した世界資本主義が、貧困と格差拡大、地球環境の破壊、新型コロナウイルスによるパンデミックなど、危機的にその矛盾を顕在化しているもとで、「自由な社会主義」への新たな期待が広がっているのも事実である。
 しかし、兜太が『俳句日記』に記している、このマルクス経済学についての発言は、一九九一年八月にソ連が崩壊し「マルクス主義は終わった」というキャンペーンが、世界を覆っている最中のことだけに、改めて兜太が自らのものとした思想の確かさとその勇気に、感銘を新たにする思いであった。
③は、江戸中期に秋田藩で生まれ、医者で思想家として、特に戦後、一般に知られるようになった安藤昌益のスケール壮大な「土の思想」である。戦後GHQの一員として来日した日本生れのカナダ人外交官で、歴史家のE・H・ノーマンが、一九五〇年に刊行した『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』(岩波新書)によって、その条件が開かれ世界的に有名となった。
 兜太も早速その本を読み、先の「純粋経験」の感応を鋭くそそられたようだ。『中年からの俳句人生塾』で、こう書いている。

 復員した私のけた頭を、いく冊かの本が泉のように潤してくれたのだが、その一冊にE・H・ノーマンの『忘れられた思想家』(岩波新書)があって、わたしはここで語られる安藤昌益に甚く惹かれた。そして、かれが、「朋友を求むることなかれ、而も友に非らずといふことなし」といい、弟子が注記して、この世の中に「人は万万人にして一人なれば誰をか朋友と為さん。万万にして一人乃(すなわち)朋なり。故に朋友に非らざる人無きなり(云々)」と記すのを知って、出澤先輩や長谷川先生の自由人像を思い出していたものだった。

 ここで兜太は、初めて知った安藤昌益の特異な思想にひどく魅了され、その自由人ぶりを旧制高校の頃に憧れた先輩、教師たちの自由人像と、思いをダブらせている。さらに続く次の文章は、昌益思想の根幹にふれる部分である。
 
 「転定は自然の進退退進にして無始無終、無上無下、無尊無賤、無二にして進退一体(いったい)なり、故に転定に先後有るに非らざるなり。惟(ただ)自然なり」――「転定」は「天地」という文字を書きかえたもので、「これによってその聖性を剝奪した」と、研究者安永寿延氏は書いていた。

 ここで登場している安永寿延は、戦後の昌益研究者で一九七六年に平凡社選書の『安藤昌益』を公刊している。この兜太の一文は、その本を読んでの見解であり、ノーマンの本から四半世紀後のこと、兜太の昌益研究の執念を伺うものである。
 ここで昌益の「土の思想」の特徴を、その大著『自然真営道』から二点に絞って要約しておこう。
 一点は、「自然」の根源を「土」と位置づけ、そこから宇宙のすべてが発生し、「無始無終」に自己運動をしているという「土活真」の思想である。その「活真」とは活きた真実性、つまり先の兜太が引用した「自然の進退退進」として自ら運動する宇宙の存在、エネルギーのこと、その自然と人間とは調和し、「天人一体」であると説いている。
 二点は、この自然・人間の世界は皆平等、「互性妙道」の法則性をもち、上下、貴賤、男女の差別は本来無く、土を耕し食物を得る「直耕」をもって、思想の中核としている。そして汗する農民からの搾取は「不耕貧食」であって、それを正当化する既存の宗教・イデオロギーの「聖性を剝奪」し、理想の「自然世」を目指そうと言う、徹底した変革の思想である。
 それが十八世紀の江戸・享保の時代に、奥州秋田にあって町医者で暮らしをたて、周囲の敬信を集めつつ身の安全を守り、その制約の中でよくぞと言える、日本思想史に残る独特の先駆的思想を構築し草稿にしている。その昌益の思想をアニミズムと受け取り、親しく自由人と呼んでいるところが、兜太的だと思う。
 ④は、二十世紀後半、日本でも圧倒的な人気を博した、フランスの先に述べた世界的な作家・思想家のサルトルの思想である。『俳句日記』などで、兜太はわがことのように多く語っている。

一九六四年(十一月十日・45歳)
サルトルのノーベル文学賞辞退について……よくぞ賞を拒否したものだ。小生の場合など、チンピラの賞でも、とても出来まい。サルトルという男の思想と精神を、改めて見直す気持。

一九六六年(十月三日・47歳)
サルトル「知識人の役割」は思考力ということについて教わる。……道徳論ではなく純理論として、知識人の「精神」を語る。

一九七五年(三月十三日・55歳)
昨夜……電話があり、「定住漂泊」に感銘したこと。あのなかの「無」は、生と死を超脱した「無」かどうか、の質問があったことを思い出す。サルトルの「即自的存在」と老子の「無」を重ねて説明しておいたが、そこに「純動物」をおく。

「兜太大いに語る」(「俳句界」二〇一一年九月号)
それに、私はサルトルの実存主義の影響を強く受けているから、彼のアンガージュ性(意思的実践的社会参加)という考えが私の中にあって、態度という言葉をつくらせたのではないでしょうか。社会性とは、生きている人間が、積極的に社会に向かって参加することだと。

 サルトルは先の大戦で歴史に翻弄された自らの体験から、二度と自由を蹂躙されないため、「アンガージュマン(社会参加)」の文学を提唱し、実行した。それは大きな反響をよび、兜太もわが生き方として大いに共鳴している。

 自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。(『存在と無』)

 人間存在の究極の自由に賭けた、サルトルの言葉である。
 ⑤は、サルトル(一九〇五~一九八〇)と並んで二十世紀最大の哲学者の一人と言われる、南ドイツ生れの実存主義哲学者、マルティン・ハイデッガー(一八八九~一九七六)の思想である。
 ハイデッガーが第一次世界大戦に観測兵として出征した体験をもち、戦後社会の不安と絶望を見つめる中で、死を人間存在の中心におき、「現存在(ダーザイン)」を存在の意味を考える出発点とする、独自の実存哲学を論じている。兜太は、その人間存在、人間そのものを洞察したハイデッガーの思想と、長年真剣に取り組んでいる。

一九七四年(七月二十五日・54歳)
欠勤して、一日読書。……夜、筋をかためる。日中は、「存在」と「存在者」について、ハイデッガーとサルトルのものを調べる。

一九八三年(七月十三日・63歳)
昨日、今朝と、ハイデッガーの「現存在」という基本概念が私なりに分ってきた気持。それにしてもこの語宜し。秩父の踊、句の思い出のなかにうかぶ〈人間〉。〈人間そのもの〉。
一時半から嵐山の国立女性教育会館講堂、県中学校長夏季研究大会で一時間半喋る。「俳句と郷土」。秩父音頭のことなど。

同年(七月十六日)
浦和の市民会館へ。県民大学開校式に当っての講演「地域文化の活気」。二日前同様、秩父音頭の由来と俳句の雰囲気、そして、〈基底的〉ということ。つまり〈人間そのもの〉〈土〉〈ふるさと〉ということ。今回はハイデッガーの「現存在」は出さず。

 ここでハイデッガーが説く「現存在」とは、「気づいたらすでに現実に存在しているのがわれわれだ」と言うこと。その「存在者」たるわれわれ人間がどう「存在」するか、どのような生き方をしているかを論じる、少し小難しいハイデッガーの哲学の話を、ふるさとの秩父音頭や句会の様子などと結んで、楽しそうに講演しているところが、いかにも兜太らしい。テープが残っていれば、聞いてみたいところである。

(次号へつづく)

俳人兜太にとって秩父とは何か④ 岡崎万寿

『海原』No.24(2020/12/1発行)誌面より

新シリーズ●第4回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

㈤ 産土から――「土の思想」の深化

⑴ 妻・皆子と秩父の「土」

 金子兜太の句集には、ふるさと秩父の句と並んで、いわゆる愛妻句が多い。兜太自身、堂々その姿勢を述べている。

 四百句(『現代俳句全集』のための自選句)を書き抜いてみたら、秩父の句にはじまり、秩父の句に戻る結果になってしまった。(中略)
 私には、妻ということばを読みこんだ句が多く、妻俳句をたどることによって、自分史が書けるようにもおもっているほどである。(飯田龍太等編『現代俳句案内』)

 そうした数多の妻俳句の中から、ここでは兜太の生涯的な作品だと思う三句を、私なりに挙げる。

  朝日煙る手中の蚕妻に示す(『少年』)
  夕狩ゆうがりの野の水たまりこそ黒瞳くろめ(『暗緑地誌』)
  雪の夜を平和一途の妻抱きいし(『百年』)

 一句目。兜太はトラック島から帰国した翌一九四七年四月、同じ秩父・野上町の眼科医の娘塩谷みな子(後日、俳号皆子)
と結婚した。この句は、皆野町の実家で初夜を過ごし、翌朝、二人で晩春の畑径を歩いてその途中、親戚の農家の飼屋に立ち寄ったときの作である。
 当時、養蚕は「おこさま神さま」と言われた秩父農家の大事な生業。その蚕を掌に包んで「これが秩父だよ」と、新妻に示した。この「妻に示す」という表現が、この句の眼目である。「蚕を示すことが、妻への親しみの証であり、これからの生活への意思表明でもあった」(『現代俳句案内』)と、兜太は言っている。「朝日煙る」、なんとも清新で生命感に満ちた抒情の秀句だと思う。
 二句目について、これが愛妻句であることは『金子兜太戦後俳句日記』(第二巻)を読んで、初めて判った。その全文を紹介する。

 一九九三年(三月二十九日・73歳)
 結局、いまにして思えば、小生を支えてくれたのは、〈土〉と〈妻・皆子〉だった、と。
  夕狩の野の水たまりこそ黒瞳
 この句は皆子をうたったもの。二人で家族をつくりあげてゆくという基本作業があったこと。いつの日か、『むしかりの花』(皆子第一句集)の句を挙げつつ、二人の来し方を書いてみたい、と思い定めている。

 この句の初出は「寒雷」一九六八(昭43)年六月号である。確かに同年三月二十一日の『俳句日記』には、「毎日新聞の句の題を“暮狩ゆうがり”とほぼ決め、一寸したひらめきあり」と記入し、翌二十二日には「車中、茂吉の『万葉秀歌』。〈古代的声調〉ということについて考える」と書いている。
 その前年の七月に兜太は、妻・皆子の「土の上にいないと、あなたは駄目になります」という、つよい希望に応じて、秩父に近い熊谷に転居した。そして日夜、秩父の「土」を感じつつ、土と親しみ土に根を据えて、人間と自然を見定める暮らしに変わった。それは俳人兜太にとって、人生の大きな節目となる出来事だったのである。その時期、兜太は感謝をこめ、俳句で「皆子をうたったもの」だろう。
 しかしこの句が、兜太の妻俳句だという理解は、一般には薄かったと思う。兜太の「自句自解」(『中年からの俳句人生塾』『自選自解99句』など)でも、そうは書いていない。たとえば――。

 わが家は、北武蔵の野の一隅にあり、散歩もする。そして、夕暮れどきの野に、水たまりが「黒瞳」のように見受けられたこともあった。夕空を映していたのだろう。私は若い頃「万葉集」の「朝猟に今立たすらし夕猟に今立たすらし」の歌句に惚れて、朝猟夕猟の語を覚えていた。そして、野の水たまりに「黒瞳」のようだと感応したあと、これこそ夕猟(狩)のときに見受けられたものだろう、と思ったのである。夕狩に立つ人たちを見送る黒瞳。(『自選自解99句』)

 兜太のこと、『俳句日記』に書いたその句の内意は、妻・皆子にも話していないのではないか。それは含羞というより、兜太という男の美学かも知れない。
 三句目。兜太は妻・皆子の遺句集『下弦の月』(二〇〇七年刊)の「あとがき」で、見合いで「一目惚れ」し、結婚五十九年に及ぶ二人の生活・活動を軸に、皆子の全人生を温かくまとめている。そして「妻逝きて十一年」の二〇一六年、妻が秩父から運んで植えた花梨の実の熟す頃、「妻よまだ生きてます武蔵野に稲妻」の句で結ぶ、連作「亡妻つまと平和 十二句」を発表している。掲句はその一句。
 抱きしめる「平和一途の妻」、その皆子自身にも戦時体験があり、長兄(陸軍軍医)はシベリア抑留、従兄はフィリッピン沖で戦死している。その傷みをたおやかな感性で受けとめ、第三句集『山樝子』(二〇〇二年刊)の「あとがき」で述べている。

 戦死した従兄たちのことは、現在の私の感性の中に涙と共に立ち上り、思いや土の匂いを手渡してくれるのです。(中略)私の来し方の歴史の中には、広島や長崎に原爆が落とされた日のこともまざまざとあり、冷静に語り継ぐべき責任をも、しきりに覚える昨今です……。


  戦争いくさ遠くに青年よ青麦の穂よ 皆子

 さきの句集『下弦の月』の「花恋抄」の一句である。
 二十代中頃の戦場体験から、生涯かけて反戦平和一筋を通した俳人兜太が、最晩年に当たって亡き妻へおくる純白な愛の連作が、秩父の自然に裏打ちされた「平和の俳句」であったことに、私はしみじみ熱いものを感じる。
 さて、これを夫婦の絆と呼ぼうか、私は兜太、皆子の句集や文章を読み込む中で、二人の、人間にとって最も肝要な三つの点で、ふるさと秩父に根ざした太い共通項があることを発見した。
 一つは、いのちの原郷としての産土・秩父の土の上に立つ人間観である。先にも取り上げた半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中で、兜太は「女房がいなかったら、現在の私はなかったというくらい大袈裟な言い方もできます」と、手放しの妻礼賛の話をしている。妻が他界して五年余の春である。

 今でも、皆子という女は土そのものだったような気がします。透明感のある土の神のような。(中略)おのずから彼女の体には秩父の土がしみ込んでいる。そこで育ったいのちがそのまま、丸々生きている、そういう印象でしたね。だから土のよき理解者、産土のよき理解者という感じでした。

 そのことを証明するかのような、皆子のエッセイがある。「海程」昭和五十五(一九八〇)年四月号に載った、「日常を」である。

 それはすべて斜めの景色なのです。山人の話の中に「和でころがるべえ」とゆう生活くらしの表現がありました。あの山々にかこまれて立ってみますと、その言葉のぬくもりは、手垢のつかぬ、みんなの言葉として充分に人の想いを充たしてくれるものがありました。素直で土の斜面にさからわぬ人々のくらしの言葉が此の上なく美しい。土の匂いもしみ込んで、時の流れの音もしみ込んでなつかしいものでした。

 二つは、秩父で育った冴えた感性で、ともに俳句を詠み、俳句をもって生きる力とした生き方である。先の半藤一利との対談集で、兜太は続けて語っている。

 私の女房も結婚間もないころから俳句をはじめまして、感性がいいんだな。澄んでいて、すばらしくデリケートで、私より俳句の資質があったんじゃないかな。

 作句の動機は、「夫との対話を持つため」だった、という。同時に、勤めの日銀でも、俳壇でも、文字通りの波乱万丈だった夫・兜太を支えて、長い社宅暮らしの不快にも耐え、並はずれの苦労を続けた皆子にとって、俳句は生きる支えともなっていた。
 句歴四十年の一九八八(昭63)年に出版した第一句集『むしかりの花』から、その新鮮で芳醇ないのちの驚きをとらえた、皆子の俳句世界を紹介しよう。

  新緑めぐらし胎児あこ育ててむわれとうと
  土に終るひとりの神楽風の顔
  むしかりの白花白花しろはなしろはなオルゴール

 この年、皆子は現代俳句協会賞を受賞した。
 三つは、なにより人間の自由と平和を願い、時代、文化への批判の目を確かに、個人の生きる価値観を共有していたことである。これも兜太の語り口で聞いてみよう。

 私たちのいいところは、二人の間でいつも闊達な会話がなされていたことです。……妻の関心は、私の立身出世ではなく、むしろ、生きるとは何か、神とは何か、人間とは何か、といった類のことに置かれています。ですから、私たち夫婦の会話も自ずからそのような話題に進展しました。
(中略)
 私たち夫婦に共通した理想とは、一言で言えば、一家を築くことです。……一人一人が平等で、個が確立した、親愛に満ちた家です。(中略)
 夫婦の間で同じ価値観を持ち、日頃から闊達な会話ができたことは、結果的に、私の人生にとって大きなプラスでした。(『二度生きる』一九九四年刊)

 「そうでしたよ」といった、俳人皆子にとっては珍しく硬質な一句を、句集『山樝子』から挙げておこう。

  天人合一心身精霊秋草に 皆子

 こう共通項を並べると、二人はまこと理想の夫婦像そのものであったかに見える。しかし、それぞれ個性的な人間同士、複雑な面もある。長い歳月の中では矛盾や多少の葛藤、幾つかの修羅場もあったかも知れない。兜太自身、妻の他界後のエッセイ「霧の白粥」で、「ほぞを嚙む」思いでこう書いている。

 鈍感もいいところだった。……私は、そうした話をするときの妻の置かれていた苦労の日常に、ひどく鈍感だったから、恵まれたき日の回想を夫に語ることによって、自分の辛さをいやそうとしていたことに、ほとんど気が付いてはいなかったのである。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』)

 だが――。これから紹介する兜太の『俳句日記』には、知的で率直な信頼に満ちた夫婦像のすばらしさが、正直、胸を打つものがある。ユーモアさえ感じる。

 三月四日(一九七〇年・50歳)
 ついに「梨の木」を書きあげ、さっぱりした気分。……帰って皆子に読ませると彼女夢中で読む。ほめてくれる。珍しいことだ。はじめからほめられたのは。
 四月七日
 角川書店から、蛇笏賞推せん依頼がこず……小生アウトロー――と悲観的になる。皆子にいうと、「自分のもの」に集中して、啓蒙とか民衆とかいうことは忘れたほうがよい、といわれ、やっと眼が――本当にさめる。春のいたずらである。
 四月二十二日(一九七一年・51歳)
 夜明け、うとうとしながら、出版ジャーナリズムがシャクにさわり、俳句関係でも、どこでも、〈陰〉から、次第につぶされつつあるのではないか、という不安がつのり……しかし起きて皆子と話すうち、不安一切が消え、とにかく一茶と小説に集中しろ、と思い定めて、明るくなる。気分闊達。
 九月十七日(一九七二年・52歳)
 一茶略評伝に入る。午前、いま一度はじめ部分(文化句帖まで)読み直し、皆子にも読んでもらう。彼女の指摘事項十以上。夜、修正。
 一月二十七日(一九七三年・53歳)
 戦記か一茶かで、皆子と話し合う。皆子「一茶をやるべし。俳人としての仕事と評価を確定し。退職後散文へ」。小生「戦記やりたし。……戦記で散文の方法を掴み、「困民党」のように、仕事の幅を作りたし。(俳人が書く小説の意味)……」。
 八月九日
 「わが俳句観」終り、一・五枚、書き直す。皆子「まれにみる不出来ね」。指摘正当。直してすっきり。
 十月十一日(一九七五年・55歳)
 皆子「あなたは俳句に徹底しなさい。富士30句はよかった。あのスケールはほかにはない。碧梧桐をまずやりなさい。その上に立って散文を書きなさい。スケールの大きい記録より畸人伝がむいています」――これは頂門の一針。いい意見だった。
 十月十八日
 皆子、「俳句研究」十一月号を読んで、小生の悪口ばかりだと、イライラしながらはいってくる。チラチラ覗くと、えげつない……小生をぶったたくための特集号の感がある。
 十月十九日
 皆子の「怪物になれ」の言に元気付き、「俳句研究」への寄稿を停止……することを決めて、サッパリする。
 一月三十日(一九七九年・59歳)
 「ふるさと」(NHK放送予定)を、〈原点〉と考える自分の思考のあいまいさを責めているうちにほぐれる。〈ふるさとの翳〉、〈ふるさとの土〉。皆子と喋るうちに構想さらに固まる。伹し、〈ふるさとと血〉に来て議論となる。
 十月十五日(一九八三年・63歳)
 皆子「秩父事件」より、小生の戦時戦後史をゆっくりまとめよ、という。小生もそうおもい定める。

 見るように、日常の夫婦の会話にしては、感心するほど対等で知的な中味である。兜太という「怪物」(皆子)の性格や仕事ぶりをよく承知の上で、大局とポイントを掴んだ適確なアドバイスをしている。兜太にはまたとない人生の相談相手であったことが、よく判る。
 読みながら、兜太の『俳句日記』にも、敬意を込めて八ヵ所ほど登場しているフランスの作家・思想家のジャン=ポール・サルトルと、その生涯の伴侶で作家・評論家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの関係が、戦後の私たち学生の憧れであったことを、兜太・皆子夫妻と、微笑ましく思いを重ねている。 (この項つづく)

俳人兜太にとって秩父とは何か③ 岡崎万寿

『海原』No.23(2020/11/1発行)誌面より

新シリーズ●第3回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

(承前)

  ⑵ 秩父事件研究史上の俳人兜太の存在

 したがって、その「秩父困民党」の文章には、秩父人兜太の内なるロマンと躍動感が、熱く伝わってくるものがある。

 椋神社竜勢打ち上げのあと、私は蜂起農民の行動経路を追って、秋の秩父路を辿った。そして、小鹿坂峠の札所二十三番音楽寺の庭から秩父市を一望した。武甲山は山肌をあらわに迫ってくる。
 農民たちは、この寺の銅鐘を乱打して山を駆けおり、荒川を越えたという。音色美しいこの名鐘を知っていての作戦だったにちがいない。その鐘声はいまも、彼らの声なき声となって秋天にのこっている。その声に耳を傾けようとするのは、私が同郷人のためだろうか――。

 秋たけなわの明治十七(一八八四)年十一月一日、その音楽寺の名鐘を打ち鳴らしときの声を上げながら、秩父農民たちは一斉蜂起したのである。映画「草の乱」(神山征二郎監督・二〇〇四年公開)のシーンにも見た、白鉢巻きに白だすき、「世直し」に立ち上がった農民の心意気であろう。下吉田の椋神社から、武装した農民軍がぞくぞく行動を開始した。
 蜂起に参加した農民は、秩父を中心に埼玉、群馬、長野、静岡各県からも加わり約一万人(蜂起時は三千人)。郡都大宮郷をはじめ秩父一円にわたる規模で、悪徳高利貸の家を打ちこわし、証書を焼きすて、困民解放の公約を果たした。一般庶民にたいしては、農民の軍にふさわしい気配りをしていたことが、エピソードに残っている。
 そして後半戦。十一月四日に皆野本陣を解体して、十石峠を通り長野県南佐久へ進出。九日の戦闘で壊滅するまでの十日間、困民党軍はその反権力の旗を下ろすことはなかった。
 その「革命ロマンチズム」のみごとさを、同じ秩父出身の歴史学者、井上幸治は、名著『秩父事件自由民権期の農民蜂起』(一九六八年刊)で、こう述べている。

 わたくしは郷土の屈辱の歴史を書くつもりはない。わたくしは秩父事件が自由民権運動の最後にして最高の形態であり、これがわがふるさとの事件であったことを誇りと思っている。(中略)
 たんなる百姓一揆ならば、一発の銃声で四散し、刀剣がきらめくと逃走するのが例であるのに、秩父のばあいは農民が「倒れてのちやまん」の態度である。そのために西南の役以来の変事となった。
 その理由は、武器からいうと、二五〇〇挺という銃をもっている点である。組織という点からみると、党中に総理・副総理・会計長をおき、人員を隊に編成し、進退離合に統一的指揮があり、規律も行届いている。さらに決死隊を編成し、秩父全郡境を前哨線としている。

 また一九八三年十一月、埼玉会館主催の秩父事件シンポジウムの基調報告「秩父事件の基礎問題」(前掲『秩父学入門』所収)で、井上幸治はその結びに、こうも秩父事件研究の困難さを語っている。

 十一月九日未明、信州の東馬流には秩父から八四名の農民が参加し、一〇名ばかり戦死しております。……秩父事件に参加したなかに、こういう限界点までつきあう農民があったこと、その事態をどう解釈するか、なまなかの努力ではとりくめず、わたくしじしん、迷いに迷っているしだいであります。

 碩学の井上幸治さえ、その解明の難しさを語っている。
 ①なぜ山国秩父で、こうした農民集団による歴史的大事件が起こったのか。②その強靱な行動エネルギーは、どこに発したものか。③その組織的な農民軍を支えた意識・思想は、なんだったのか。
 その解明のキーワードは、当時の秩父農民衆のもつ意識・思想の問題にあると思う。兜太自身、同じ秩父出身で郷土史研究者・中沢市朗との「対談秩父事件の源流をたどる」(中沢市朗『秩父事件探索』所収・一九八四年刊)の中で、こう指摘している。

 民衆史の基本は、民衆の意識の問題にしぼられてくると僕は思っている。そうなりますと、なぜ秩父におきたかという基本に、その当時の西北秩父の農民意識の問題がクローズ・アップしてくる。

 この農民意識の問題からの秩父事件解明へのアプローチは、参加した秩父農民を人間の視点で吟味することであり、人間を知り人間を詠むことを生き方の基本としてきた俳人兜太にとって、まさに打ってつけの文学の課題でもあった。
 そして、「秩父山河」(『金子兜太集』第三巻)で兜太が強調している「秩父は特殊である。その特殊のおもい」を込めた、独自の探究でもあった。秩父ならではの秩父困民党事件の特殊性を、秩父人の目で俳人兜太が考察する面白さに、私は思わぬ興奮を覚えた。
 ここでは出来るだけリアルにコンパクトに、兜太が語る秩父事件の特殊性について、三つの点から要約してみよう。
 一点は、当時「負債山積の悲況」と言われた秩父の借金農民たちが、「借金からの自由」(借金十年据置、四十年賦返済)を求めて、村落共同体の耕地(集落)単位、村単位に組織化され、借金党、困民党と呼ばれる独自の行動集団に結集したことである。そこに知的野性をもつ「在地オルグ」(村と耕地の組織者)たちの、身を挺した活動があったことは言うまでもない。兜太は、その底辺の組織化に着眼している。

 これは単なる百姓一揆でもなく、自由党起事件でもない。もっとユニークなものということである。借金農民の抵抗活動が、おのずから生み出した〈党行動〉――いわば、同じ目的で集まり、相談しつつ行動するうちに形成された組織的集団であって……(「秩父困民党」)

 ここで簡単に、その経済的背景にふれる。養蚕農家がほとんどの秩父では、明治十年代、その繭・生糸の好、不況で、暮らしが大きく浮沈していた。明治十三、四年は好景気で、やれ地芝居、花火、ばくちと、わずかに潤った。だが同十六年以降、政府の(松方)デフレ政策も加わり、繭などの大暴落で状況は一変した。高利貸のあくどい取立てで、破産・逃亡に追いこまれる負債農家が続出していた。
 「惨野の流民」とも言われた。そこで動きだしたのが、先の耕地農民の組織化である。かれらは各地で山村集会を開き、借金年賦返済などを相談し、高利貸や警察署・郡役所へ幾度となく合法的な請願運動を繰り返した。しかし、対応は冷酷、無視そのものだった。憲法も普通選挙もなく、生きる手段は――蜂起だった。
 好況時の一時いっときの光、一転して暗鬱きわまる借金地獄、そこから大いなる光芒をみんなで求める蜂起へ。――まさしく光と暗、耐忍と激発という秩父人特有の「山影情念」の世界そのものではないか。兜太は事件に参加した、ある古老の言葉を紹介している。

 「秩父の人間つうなあ、一度肚をきめると、それぁ真直ぐで強情なもんですよ」――彼はいくどか言った。(「秩父山河」)

 二点に、そうした耕地農民を主体とした、秩父困民党の底辺からのうねりが、秩父自由党を介して全国的な自由民権運動と結合し、「板垣さん(退助・自由党総理)の世直し(立憲政体の設立)」の思想を自分なりに取り込み、蜂起の旗じるしとしたことである。
 もともと困民党の組織化は、二年前に発足した秩父自由党員の働きかけによって広がったものである。ユニークなのは、その自由党員が困民党員であることも多かった。秩父人同志である。「自由困民党」と言う人もいた。ただ現実には、秩父自由党員の半数以上は蜂起には参加していない。
 興味深いのは、蜂起に参加した秩父困民党員の意識の高さである。吉田椋神社の副祠官・田中千弥が書き残した民衆史料『秩父暴動雑録』には、かれらが語っていた自由党の「世直し」の思想が、「暴徒のことば」として、こう記録されている。驚くほど端的である。

 ①オソレナガラ、天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ。(筆者注・「天朝様」とはここでは薩長藩閥政府のこと)
 ②板垣公ト兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安楽ナラシムベシ。

 ただ、この言葉などをもって、秩父事件全体を評価する向きもあるが、兜太は参加農民の意識・思想の問題として、ありのままもっと複雑に、情念の屈折を見透している。先に挙げた中沢市朗との対談で、こう語っている。

 自由党の思想というのは、基本的にはヨーロッパからの輸入思想の影響が非常に強い。……それを秩父農民はそのままのかたちでは、吸収していない。屈折があり、大きな変形さえある。そこに秩父農民の意識の特殊性というか独自性のようなものがあって、おもしろいわけですね。

 かれらにとって自由党の「自由」は、切実な「借金からの自由」であり、行動へのオプティミズムであった。自由党も困民党も、情念を支える「〈おらが党〉のイメージ」(兜太)が強かった。
 そして三点に、その頃、秩父・西谷を中心に中庭蘭渓の教える民衆宗教・みそぎ教が、済世救民の世直しの教義として、自由党とも結びついて、秩父農民のあいだにかなり広がり、影響力をもっていたことである。
 中庭蘭渓は宗教者のまま、明治十五年に自由党に入党した、秩父自由党草分けの党員である。医者でもあり、潔癖で人間的にも秀れた人物であったようだ。兜太はその先覚者の役割を重く見て、先の中沢市朗との対談でこう強調している。

 私はこの教えの影響は予想以上に大きかったと考えてますね。(中略)当時の民衆が政治に感じていた悪を、蘭渓は鋭く感受する能力をもっていたから、自由党の反政府主義とはすこし質の違った、いわば底辺的動機のなかからの独自の反政府主義を身につけていったのではないかな。そういうかたちで、革新の側に禊教がはたらいていった。

 そこに、秩父農民の意識分析のスポットをあてたのは、兜太の慧眼だと思う。宗教に裏打ちされた民衆の意識は、時として思わぬエネルギーを見せるものである。
 以上、兜太が解明している秩父事件の三つの特質について述べてきた。なるほど「秩父の抗う心」と言われた参加農民の意識状況は、重層構造をもち、極めて強靱で楽天性、行動性をもっていたことが理解できる。ところで、先に紹介したように先学の井上幸治は、歴史学者として秩父事件に参加した農民衆の「倒れてのちやまん」の態度を、「どう解釈するか……迷いに迷っている」と、正直に語っていた。そこに秩父事件研究の一つのネックがあったことは、研究者たちの共通認識でもあったと思う。
 そこで考える。俳人兜太の秩父人らしいアプローチである、秩父事件の三つの特殊性の解明は、結果として、そのネックに照明をあて扉を開く、重要な鍵となるものではないのか。歴史の目で、私はそう評価したいのである。
 もちろんこの評価は、秩父事件の主役だった在地オルグをはじめ耕地農民衆を中心に、事件の基本線をまとめたもので、蜂起に参加し指導した秩父自由党員や困民党員、耕地農民という多様多彩な群像の人間ドラマを、単色化し軽くみるものでは、全くない。
 兜太自身、事件のプロセスにあった、たとえば秩父自由党の困民党軍総理・田代栄助や会計長・井上伝蔵と、在地困民党主流との「ある漢たる割れ目」(兜太)に注目し、その解明に興味をふくらませていた。
 つぎに、そうした秩父事件の全容解明とあわせて、俳人兜太は当然のことながら、当時の秩父地方における俳諧・俳句文化の広がり状況や、とりわけ事件関係者の俳句作品について、その発掘、研究、鑑賞を深める努力を鋭意続けている。その成果は「農民俳句小史―農民のなかの俳句・俳句のなかの農民」(『ある庶民考』所収)や、前掲の「私のなかの秩父事件」などの中でまとめられている。
 ここでは、先に登場した神官・田中千弥と、その俳句門下でもあった困民党軍会計長・井上伝蔵の二人の俳句を通じて、秩父事件とかかわるその内面や背景についての、兜太の穿った考察を探ってみよう。

  岩も木も物いふやうぞ散るもみじ 千弥
  横しまに荒ぶる風の木の葉かな 千弥
  岩根木根こととひやみぬけさの霜 千弥


 神官・田中千弥(俳号・菅廼舎義村すがのやぎそん)が書き残した『田中千弥日記』から三句挙げる。当時、秩父地方は俳諧、連歌、和歌といった民衆文化が盛んで、千弥はその「秩父だに全体の俳句ボス」(兜太)的存在であった。その門下には、井上伝蔵はじめ数名の秩父事件の主力の名が並んでいる。兜太の鑑賞は深い。そのまま引用しよう。

 一句目。蜂起には批判的だったこの神官も、借金農民の鬱屈した心意から目をそむけることはできなかったのである。
 二句目。蜂起農民の大宮郷占拠のとき詠い……「横しまに荒ぶる」という言いかたに、憎しみも嫌悪の情もなく、むしろ「こまった連中だ」といった、どこか親しいものの大あばれに渋面をつくっている人の心理がのぞくのも、納得できます。
 三句目。「こととひ」は、石間村に進出した憲兵によるものだが、「岩根木根」に農民が喩えられていて、農民の維新政府への「こととひ」ととれないこともありません。そんなあいまいさを残しているところに、むしろ、千弥の心理の複雑さを見るおもいがあるのです。

  人の気も仏となしぬ盆三日 伝蔵
  おもかげの眼にちらつくやたま祭 伝蔵
  想いだすことみな悲し秋の暮 伝蔵

 蜂起軍の会計長を務めた井上伝蔵が、事件後、伊藤房次郎という変名で潜行していた北海道での俳句(俳号・柳蛙)である(森山軍治郎『民衆精神史の群像』、小池喜孝『秩父颪』より)。伝蔵は下吉田村の生糸問屋の次男坊で素養があり、秩父自由党に属し困民党を育てた一人で、事件当時三十一歳。逃亡中の欠席裁判で死刑の判決を受けたが捕らず、北海道を転々として、代書業などで家庭ももち、ついに六十五歳で北見に没した。映画「草の乱」の主役でもある。

 一句目。「人の気」への感受のただならぬ鋭さ……背後に、遠く深く、秩父の仲間たちへの思いがこめられていて、だから「仏となしぬ」が無気味なくらいにありありと伝わるわけです。

 二、三句目には、兜太の個別の鑑賞はないが、全体として潜行中の井上伝蔵の「内面の修羅」をとらえた、次の兜太の鑑賞には、人間考察の深淵を見る思いがする。

 感性の明るい人が内閉と耐忍のなかに意思を貫こうとするとき、そこには、それこそ、はた目には分らぬ内面のたたかいがあるものです。明るく感じやすいだけに、自分に対して厳格になり、内面の修羅をふかめます。伝蔵という人は、そういう人であり、そういう内面のたたかいのなかで、三十五年を生きとおした男とおもう。(「私のなかの秩父事件」)

 最後に、俳人兜太が秩父事件の考究に集中して取り組んでいた一九七〇年代に、同じ心意で作句した俳句作品について、私見を加え鑑賞、考察しておこう。第五句集『早春展墓』(一九七四年刊)の末尾の「山峡賦」(21句)に収められた、次の二句に注目したい。

  山峡に沢蟹のはな微かなり
  沢蟹・毛桃喰い暗らみ立つ困民史

 一句目について、兜太は『金子兜太自選自解99句』(二〇一二年刊)で、「私には郷里の大事件として十分な関心があり、文章も書き、ときどき訪れることもあったのだが」と、そのモチーフを感動のまま書いている。

 その山峡はじつに静かだった。その沢で出会う紅い沢蟹も。しかしその静けさが、かえってそのときの人々の興奮と熱気を、私に伝えて止まなかったのである。

 この兜太自解で、秩父山峡の沢蟹を「紅い沢蟹」と表現していることに、私は着目する。言うまでもなく沢蟹は生息場所により紫褐色にも、朱赤色などにも変化する。だが兜太が秩父谷で「出会」ったのは「紅い沢蟹」だった。私にはその「紅い沢蟹」が、なにか秩父事件で散った数多の農民たちの魂とも、化身とも見えてならない。沢蟹たちは鋏をもち、あぶくも出す。「はな微かなり」は、その弔意とも読める。
 二句目。沢蟹も毛桃も食べる貧窮した秩父の農民たち。その困民党員らの「暗らみ立つ」姿に、この句のポイントがあると思う。暗鬱の秩父谷から一条の光芒を求めて立ち上がる。そこに秩父農民たちの根性があった。人間としての誇りと祈りがあったのである。兜太は、その「困民史」に同郷人としての篤い心情を寄せている。
 加藤楸邨の「寒雷」で、兜太の出征前からの盟友であった俳人牧ひでをは、その著『金子兜太論』(一九七五年刊)の末尾の「作品の鑑賞」で、この「沢蟹・毛桃」の句を挙げ、こう結んでいる。

 ここで私は初めて秩父と金子の内面をつかんだようだ。
 ……衆のつきることをしらないエネルギーと山影の情念を、山峡の沢蟹と毛桃に、光の明暗におのが心根をすりつけてうかがう。
 ……そこに、反骨の風土的器量を探るとき収束をいそがない爽やかさが金子の生きざまにおいて逆に見えてくるのである。「喰い暗らみたつ困民史」。まさに俳句における人間探究派の正統を位置づけるものである。
 それは、関東平野と山陵風土の中で存在を詩眼で喰いつぶし背負いたつ存在者である金子兜太のおもいのいさぎよさ、粘着力、剛毅さにほかなるまい。
 抵抗を示しつづけた詩業は特定のイデオロギーにもとづくものではない。山影風土が生んだ日本文化の稀有の必然であった。

 以上、述べてきた秩父事件に関する研究・調査、評論、俳句の総ては、秩父人兜太にとって、己の生きざまに欠かせない文学的課題であった。私はその全体を、広く俳人兜太の輝く俳業の一つとして、積極的に評価したいのである。
(次号へつづく)

『始原の俳句―兜太・芭蕉そして空海について』野﨑憲子(菊池寛記念館文芸講座2020/9/12講演)

『始原の俳句―兜太・芭蕉そして空海について』野﨑憲子
(菊池寛記念館文芸講座2020/9/12講演)

野﨑憲子さんによる「菊池寛記念館 文芸講座」2020年9月12日講演の原稿です。
PDFでご覧ください。

俳人兜太にとって秩父とは何か② 岡崎万寿

『海原』No.22(2020/10/1発行)誌面より

新シリーズ●第2回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 ㈢ 父・伊昔紅と俳人兜太の原質形成

 ⑴『俳句日記』にみる父子の肉体感

 見てきた通り兜太は、秩父人としての野性、剛直、男気をたっぷりもった、父・伊昔紅を敬愛していた。「人間としてまっとうであれ、それが父の唯一の教育方針だった」(『二度生きる』)。中学四年も終わる頃、将来の進路の相談で、医者は継ぎたくない、高校(旧制)は文科にゆきたいと話したときのことを、『俳句日記』(第二巻)でこう記している。

 一九八一年(九月十日)
 起きぬけに毎日新聞『教育の森』からいわれている「私を育てた一言」を書く。父の「やりたいようにやれ」。自由人への導きの言として書きおさめて満足。

  往診の靴の先なる栗拾う 伊昔紅
  この峡の水上にゐる春の雷 伊昔紅

 兜太は「わが愛句鑑賞」として、『遠い句近い句』を一九九三年に出版したが、その冒頭に父・伊昔紅の俳句五句を挙げている。一句目には「昭和前期の山国開業医の日常がにじんでいる」と、二句目には「ゴロゴロ鳴りだした春雷に対しても客観的ではない。こいつも秩父もん、の心情がはたらいて、“水上にゐる”などと擬人化するのである」と、秩父人ならではの鑑賞を加えている。
 そして父亡き後、これら伊昔紅の俳句について、講演などで自在に語っていた。

 一九九二年(四月二十一日)
 大宮ルミネで、「伊昔紅の春の句」を一時間半喋る。「この峡の水上にいる春の雷」からはじめる。


  元日や餅で押し出す去年糞 伊昔紅
  長寿の母うんこのようにわれを産みぬ 兜太
  野糞を好み放屁親しみ村医の父 兜太

 いやはや、この父にしてこの子ありの句である。この肉体感、スカトロジー(糞尿愛好趣味)は、当時の農山村の村落共同体では、ごく自然な日常の暮らしそのものでもあった。兜太は『中年からの俳句人生塾』(二〇〇四年刊)で、こう述べている。

 自分はスカトロジーである……なぜそうなったのか、と自問してみると、山国育ち、しかも糞尿が農家の肥料として大いに使われていた時代の育ち、ということが浮かぶ。少青年期のわたしは、おとなたちの糞尿談を含むヘソから下の話を毎日聞いていた。日常会話に欠かせない材料であり、それもユーモラスに語られていたのである。

 秩父人を自称する兜太と父・伊昔紅は、裸踊りといいスカトロジーといい、まこと肉体的同体感ぴったりの父子であった。しかしそれは、あくまで秩父人としての肉体に発した同体感であって、理屈ではない。思想や生き方の上では、戦後になっても変わらない「父の好戦いまも許さず夏を生く」(『日常』)の面もあった。
 さて兜太の『俳句日記』は、そうした父・伊昔紅と長男・兜太との内面をふくむ暮らしの綾を、実にリアルにドラマチックに書きとめている。父子の体温が、じんわり伝わってくるようだ。

 二月十九日(一九六七年・歳)
 上棟式で熊谷へ。……秩父から父と千侍、儀作氏来てくれて儀作氏の音頭と父のハヤシで、大いに踊る。夕陽赤し。


 八月七日(一九六九年・49歳)
 千侍から電話で、父が血便を出し、ショック状態にあるから、すぐきてくれとのこと。自動車でゆく。……輸血中。点滴中。血圧88。

 八月九日
 父、快復歩調。血圧130。ただ頑固で、なにをやりだすか心配。

 一月一日(一九七〇年・50歳)
 父より電話。小生の昨年末速達した校歌(筆者注・兜太は秩父市立皆野中学校の校歌を作詞)がついたらしい。父、よろこんでくれ、讃めてくれる。……うれしい。なんとない自信と不安がはっきりし、久しぶりに、こうした率直な意見交換が父とのあいだにできたことがうれしい。

 五月二十九日(一九七七年・57歳)
 父の米寿の祝いをかねた七彩会主催、句碑建立記念句会。出席。十三年ぶりとか言われる。

 五月三十日
 昨夜、父を小用につれてゆき、男根をもっていてやると、小便をした。その男根もしっかりしていて、小生並みで、母が小さくなったと心配するのは見当ちがいだ。母は、かたくなっているときだけしか知らないのではないか。

 九月三十日
 今朝四時半、父死す。八十八歳。一人の男の一生が――こうして気張り、こうして老いてゆく、その姿が――手にとるようにおもいだされる。自分の心構えもかたまってくる。〈鑑〉ができた。

 十月一日
 父、火葬。……『ある庶民考』を棺に入れる……二時間で焼ける。骨白く、美し。壺にいれた骨を手で撫でる風習に従う。これはなつかしいことだ。

 まことに最後まで、肉体感の濃密な父子関係であったと思う。

  ⑵「風土は肉体なり」の実相

 兜太はよく語っていた。「しかし、伊昔紅がいなければ今日の私はいません。これははっきりしています。」(『語る兜太』)そして、こうも言っている。

 私の場合は、俳句づくりでも特殊な人間でね、私自身が俳句なんですよ。私は埼玉県の秩父盆地で生まれました。山国ですな。そこで育っていく過程の中で、私の体の中に、俳句と言える要素が染み込んでしまったんですね。(「コムウェア」(二〇一一年九月号)

 この「私自身が俳句なんです」という表現は、二〇〇九年二月、兜太が「正岡子規国際俳句大賞」を受賞した際に述べた言葉である。

 しかも考えてみますと(生まれは)一九一九(一句一句)年ということで、生まれながらにして俳句しかできない男です。(中略)私自身が俳句なんです。(『人間金子兜太のざっくばらん』二〇一〇年刊)

 また最晩年の著『のこす言葉 金子兜太 私が俳句だ』(二〇一八年刊)も、題名自体そうだが、先の「コムウェア」の引用文によると、この俳人兜太による自己確認とも言える「私自身が俳句」という言葉は、なんと秩父で父・伊昔紅のもとでの生い立ちに発したものであることが、よく判る。
 そしてそれは、秩父での生長過程で、兜太の体の中に「俳句と言える要素が染み込んでしまった」ためだと言う。「身に染み込んでしまった」とは、兜太の表現でいえば「肉体化」したこと。つまり秩父での幼少期に持ち前の資質に加え、俳句づくりの元となる要素が、兜太の体の中に俳句的体質となって肉体化していった、ということである。
 それは何か。具体的に兜太は三つを挙げている。兜太の言葉で、その実相に迫りたい。

 ① 一つは俳句の五・七・五のリズム感である。あの「秋蚕あきご仕もうて 麦き終えて」の秩父音頭は、父・伊昔紅が一九三〇年の明治神宮遷座十周年を記念して、それまでの野卑で猥雑だった秩父豊年踊りを、歌詞も踊りも新たに作り直し、世に出したものである。その由来について、兜太は「秩父音頭再生由来」と題して『秩父学入門』(清水武甲編・一九八四年刊)に載せ、こう結んでいる。

 私が秩父をおもうとき、そのときの人々のいかにも人間くさい息吹が甦ってくる。そして、秩父が〈ふるさと〉として私の体のなかにしみこんでくるのも、そんなときである。

 その秩父音頭の歌と踊りの練習を、兜太の家の庭に集って、毎晩のように大小の太鼓、笛やかねも使い、にぎやかに続けていた。奉納が終わったあとも、数年間そうだったようだ。少年兜太はそれを聞きながら寝たり、また子どもたちと七七七五音の歌詞に慣れ親しんで、大いに唄ったり踊ったりもした。

 私が小学生のころでした……秩父音頭の歌は「七七七五」でしょ。五七調、七五調は、日本書紀以来の古い叙情形式の基本です。それが私の耳から、頭の中に染み込んで、やがては体に染み込んだわけです。これが一番大きかったと思います。(前掲「コムウェア」)

さらに俳人兜太にとっては、この五七調は秩父音頭のリズムであるとともに、村落共同体としてのふるさと秩父から湧きでてくる、庶民の韻律でもあったようだ。

 どうやら、五七調は私には〈ふるさと〉として感じられている。(中略)山仕事や養蚕のきつい労働があり、それだけに助け合う親しさがあった。そうした良き日日の村落共同体としての〈ふるさと〉が、私の身体のなかにしみこんでいて、五七調はそこから湧きでてくるもののようにおもえてならないのである。(『俳句の本質』一九八四年刊)

 ② 二つは、まるごと人間を詠む俳句づくりの基本と面白さを体得していたことである。村医者で自転車で山坂を往診していた父・伊昔紅は、戦時色のただよう昭和初期から、広い自宅で秩父音頭の練習とともに、句会を開き俳句にも情熱をそそいでいた。
 独協中学で同級生だった水原秋櫻子が主催する俳誌「馬酔木あしび」の秩父支部であるが、その句会の模様が、少年兜太にとって何とも面白いものだったようだ。句会は月、一、二回。山国で知識に飢えた三、四十代の男性たち二、三十人が、自転車をころがし、歩いて峠を越えて夜の句会に集ってきていた。
 彼らは学歴無用で、意外とおもえるほど知的野性をもち、詩的刺激をもとめていた。仕事は山仕事、木こり、こんにゃく畑を耕す、川漁で鮎をとったりする人、猪や鹿を撃つ猟師などいろいろ。毎日働いて汗を流し、そこから人間臭い俳句を作っていた。
 兜太は興味いっぱい、そうした人間そのものを詠む句会を覗いていた。そして後年、こう人生的に振りかえっている。

 どうも秩父というところは、人間そのものがみんな俳諧みたいなんです。……貧しい地帯の人たちというのはその行動形態自体が諧謔、滑稽なんですね。……だから私のなかにある俳句の始まりはもともと諧謔、滑稽です。俳句がしみついていたということは、イコールそれがしみついていたということですね。(「三田文学」二〇〇四年冬季号)
 私が子ども時代に憧れた俳人は、そういう知的野性を持った山の人たち。そこでの生の俳句体験が、私を俳句にのめりこませた原因になりました。(『あの夏、兵士だった私』)


 ③ そして三つ目は、天上、地球上のあらゆるものにたまを感じるアニミズム、兜太の言う「生きもの感覚」である。そのアニミズムの体質を、兜太は「秩父が与えてくれた“生きもの感覚”」と受けとり、自著『荒凡天一茶』(二〇一二年刊)でこう述べている。

 “生きもの感覚”は、基本を、豊かな土の世界のなかで幼年期を過した人間のたいへんな収穫なのではないか、と思っています。“生きもの感覚”に満ち満ちた知的野性の男たちのことが、いま私のイメージのなかにあります。ですから“生きもの感覚”は、本物の野性と、五七五の形式が結びついて、そこに育つという思いがあります。

 そして自らの体に肉体化したアニミズムについて、ビビッドな実感で具体的に自作を例に、こう解明している。

  おおかみに螢が一つ付いていた
 これが私のアニミズムの代表的な句なんですが……秩父は私の産土うぶすな。その原郷を思い浮べるときには、必ずニホンオオカミが現れ、どこからともなく現れたオオカミをよく見ると、蛍の光が輝いている。そんな命の営みの光景が、私のアニミズムの世界。「蛍」は霊魂の象徴で、生物・無機物を問わず、すべてのものの中に霊魂が宿っているとい
うのが、私の考え方です。(『あの夏、兵士だった私』)

 兜太はよく「風土は肉体なり」とか、「私は俳句です」とか言っていた。見るとおり、なるほど秩父での幼少期、その人間が形成される過程で、俳句づくりの基本となる要素が日常的に自らの肉体化し、「俳句人間」となりきった兜太ならではの言葉だと言えよう。

  ㈣ 山影情念と兜太の中の秩父事件

  ⑴ 秩父人兜太の人生課題

  山影情念狼も人も俯伏き 兜太
  困民党ありき柿すだれの奥に 兜太

 第十五句集『百年』からの二句である。この遺句集には、なぜか山影、狼、秩父困民党にかかわる俳句が多い。
 一句目は「山影十二句」中の一句。「山影情念」という言葉は、ふるさと秩父の重畳たる山影に発した兜太の造語で、そのフィルターを通過すると秩父の風土も人間も、暗く鬱屈した、それでいて一条の光芒を求めて止まない情念の世界に導びかれる。その空間では、イメージの狼も人間も、みんな俯伏きなのだ。
 二句目は、明治十七(一八八四)年の秋、紅葉の秩父山峡で暴発した、借金農民たちの困民党事件への親しみをこめた、ふるさとの歴史回想の句である。ちょうど柿の季節、農家の軒先には市場にも出す産物の干柿が、すだれのように垂れ下がっている。そしてその「奥に」という表現に、事件にかかわる何かがありそうだ。家人の相談か謀議か――想像力がそそられる。
 ところで今日、「山影情念」という言葉を、なにかポエジー感覚で軽く捉える向きもあるが、そうではない。兜太の幼少期からの体感に根ざしたこの言葉は、光と闇の溶けあった複雑で、もっと暗鬱で、耐忍的行動的で、自らをふくむ秩父人特有の内面性を表現したものである。
 そしてそれは、ほとんどが農民の秩父人が一斉蜂起した困民党事件と、兜太の中では深く重なり合った言葉であった。朝日選書『思想史を歩く』上巻(一九七四年刊)所収の「秩父困民党」で、兜太はその情念をこめて書いている。

 私は山影情念ということばで、山国住民の内ふかくわだかまる、暗鬱で粘着的な実態を窺うのだが、それはだから、光には敏感だった。開明の空気は、内なる暗と外なる明の対照をより鮮やかにしていったから、見えてきた光(外からの、あるいは外への)が理不尽に閉ざされたときの暗部の激発は、誰も妨げるものではなかったのだ。しかし日頃は、わずかな光でも、遠い峠の上の薄明を望むように、それを頼りに耐えるしかなかった。粘り強く、剛毅に。(中略)俳句作りの私が、困民党にふかい関心をもつのも、やはりそれが一条の光として、秩父育ちの私の山影情念に射しこむからにちがいない。

 こうして山影情念の秩父人として成長しつつあった兜太は、旧制中学四年のときに、古老からの聞き書きをもとに困民党事件にかんする一文を、校友雑誌に発表している。「はじめて秩父困民党という言葉に触れたときは、なんともいえぬ新鮮な感銘をおぼえた」(「秩父困民党―山畠や蕎麦そばの白さもぞっとする一茶」『定住漂泊』所収・一九七二年刊)そうだ。
 昭和十年当時は、大事件後の徹底した弾圧のもとで、以来、秩父の農民たちはかたくなに口を閉ざし、「秩父暴動」「暴徒」という言葉だけが、もっぱらだった。そんな中で、少年兜太の内面には、早くもリベラルな反骨性が育っていたのである。
 それから長い歳月がたち、秩父を離れた兜太は俳人として、衆知の存在感を広げた。しかし兜太の中には、秩父人の血がいつも熱く流れていた。一九七六年十一月、秩父市中央公民館で行われた「秩父事件九十二周年記念集会」での講演で、こう語っている。

 離れている私の身体からだが、秩父の山河と人々の内奥につながってゆく……私の存在の根っこのところに、デンと座っているような感じが、秩父事件を通じて殊にふかく受けとれていたように思われるのです。(「私のなかの秩父事件」『ある庶民考』所収・一九七七年刊)

 その時、兜太は五十七歳。秩父事件の一文を発表した十六歳から、四十一年たっていた。秩父では関係者・研究者たちの努力もあって、一九五四年十一月から最初の「秩父騒動七十周年記念集会」が開かれるなど、秩父事件の顕彰・研究の運動が次第に活発化していた。
 兜太が本腰を入れて、発酵してきた秩父事件の研究・調査に取り組んだのは、一九七〇年代に入ってからである。一九六七年に熊谷に転居し、秩父連峰を望み見ながら産土・秩父の土への認識を、新たにしていた。
 小林一茶の研究を手がかりに、自らの存在の原点にかえって、秩父の農民衆の生きざまを探り、そこに自己の内面に蟠るきずなの深さを照らし出してみたかった。まずその兜太の『俳句日記』をめくってみよう。

 十一月四日(一九七一年・52歳)
 書棚の本の位置を……一茶関係は机上に集約し、棚には、秩父困民党関係と県、市の資料を集中し、その横に戦記関係と戦争小説中参考になるものを集める。


 九月二十二日(一九七二年・52歳)
 車中、困民党、居眠り。降りたとたんに、テーマひらめく。「原点」とは何か。自由党と困民党の接点はどこか、徳川↓明治への経済変化と山村農民の経営形態(小作農化でなく小営農の副業喪失による貧困化――がよいと思う)。


 九月二十三日
 一日、「秩父事件資料」を読む。秩父事件、筋は見えているが〈独自のポイント〉がつかめない。

 九月二十四日
 一日、「秩父事件資料Ⅰ」。経済的背景研究の要あり。……小作料問題も出ないほど土地が少ないのだ。商品経済丸浸り下の困窮。それゆえの複雑さ。

 九月二十九日
 昼、朝日を訪ね、……旅程打合わせ。「内なる困民党」を軸にして下さい、というところが気に入る。

 十月一日
 朝八時に起きて、秩父事件資料から抜き書き。蜂起までの動きと後の動きが、系統的に頭に入っていないと、想像力も働かない。

 十月六日
 途中で金子直一先生を乗せ……志賀坂峠を越える。神流かんな川は河相よし。思えば、明治十七年十一月五日夜六時から冷雨で、翌六日、神ヵ原から白井まで困民党も雨のなかを歩いている。丁度いいじゃあないかと直一先生。……夜霧の武道峠を越えて、千鹿谷へ。

 十月七日
 快晴。西谷の谷を三本上る。石間いさまの谷がよい。大田部近く、広々と秩父の山山を眺望し、〈開明〉と〈暗鬱〉をおもう。あと吉田椋神社から小鹿坂峠音楽寺。そこで写真。

 十月十六日
 七時に起き、一気にまったく憑かれたように一部を書き上げてしまう。……二部、事実を追いまわして難渋するが、山影情念と侠気にきて、軽快となる。得意のところだ。

 十一月一日
 秩父の人間が、秩父農民を語れずしてどうなるか、持ち帰る。

 十一月二日
 やっと、(秩父)山地農民の特性として、①耕地②行動性③土と死――継続と断絶。

 十一月二十一日
 朝日の安間氏から電話で、困民党終了への謝辞。評判よしの言、うれしい。小生も満足感あり。

 以上の『俳句日記』は、先に引用した『思想史を歩く』の「秩父困民党」(「朝日」四回連載)を、ちょうど執筆する舞台裏の記録である。気付くことは「秩父の人間が、秩父農民を語れずしてどうなるか」と、秩父事件をわがこととして、実に丹念に資料にあたり実地を調査し、考えぬき、実証的総合的に解明しようとしていることだ。
 たえず事件の「原点」とは何かを確め、〈独自のポイント〉を探り、「内なる困民党」を捉えようとしている。まさに秩父人なるわが生き方として、体ごと困民党事件と取り組んでいる感がある。
(この項つづく)

俳人兜太にとって秩父とは何か① 岡崎万寿

『海原』No.21(2020/9/1発行)誌面より

新シリーズ●第1回

俳人兜太にとって秩父とは何か 岡崎万寿

 つなぎに

 金子兜太が九十八歳で他界してから、間もなく二年になる二〇二〇年一月十九日の日本経済新聞は、文化時評「いま輝く俳人兜太の『現役大往生』」の大見出しで、こう書き出している。
 この世を去ったあと、これだけ惜しまれる俳人はちょっといない。
 その通りと思いながら、金子兜太インタビューの著『わたしの骨格「自由人」』(聞き手・蛭田有一・二〇一二年刊)をめくってみた。

 後世がどう評価するかというのは後世に任せればいい。……偉そうに見えるけど、わたしの自由人たるゆえんじゃないかな。
 自由の俳人だったと言われればうれしいですよ。俳句そのものみたいなやつだったと言われてもうれしいですし。それから、俳句以外にとりえのないやつだったと言われてもうれしいです。

 わたしが秩父のああいうところで育ったから俳句になったんですけど、違う環境におかれたらわかりませんね。そういう点で本当に親の恩を感じますね。それから、風土の恩、秩父の恩、産土神の恩というのは感じるな。

 また『いま、兜太は』(青木健編・二〇一六年刊)では、こうもふるさと秩父を強調している。

 まったくそのとおり。俺から秩父っていうふるさとを除いたら、ほとんどゼロに近いね。間違いなく、秩父というのが根底です。

 小論はここから、そうした俳人兜太と産土・秩父との、希有とも言える濃密な一体関係の考察に入る。それは刊行された『金子兜太戦後俳句日記』第一、二巻を流れる、兜太ならではの興味深い第三の特徴といえる(第一、二の特徴については「海原」10・11・12、17・18・19号に)。
 まず、その好個な一文を『俳句日記』から。

 一九七七年(四月十七日)
 全集の自句自解に着手。〈からだ〉ということ、秩父(風土)との同体感ということ。〈からだ〉その存在を考え、〈自在〉にいたる。〈自在〉〈自在〉。

 テーマは、秩父ありて俳人兜太とその「土の思想」あり。そのため、あえて独立した論考としている。

 ㈠ 秩父と同体感の青年兜太

 俳人兜太の原点が、①産土・秩父と、②出陣したトラック島戦場体験にあることは、広く知られるようになった。しかしその「原点」なるものの捉え方が、今なお常識論の域にとどまってはいないか。
 兜太がそのトラック島戦場について、想像を絶する人間の極限体験の真実を、リアルに語り伝えたいと、小説「トラック島戦記」の執筆に二十二年もの歳月を投じていた、という隠れた事実は、『俳句日記』を中心に既に述べた。では秩父と兜太については、原点というに相応しい内容で、理解が深まっているだろうか。小論の問題意識は、そこにある。
 たとえばその判りやすい事例として、一九四三年秋、青年兜太が戦地へ出征するに当たって秩父強石こわいしの旅館で開かれた、壮行会の模様をどう見るかについて、少し立ち入って分析してみよう。そこでよく引用されるのが、兜太の俳句の師である加藤楸邨の「金子兜太といふ男」と題した、次の文章である。

 川にさし出た古い座敷は渦巻くやうな熱気で誰も彼も熱のかたまりのやうな集まりであった。そのうちに一人黙り、二人黙って、一同しいんとひとつの踊りに見とれてしまった。伊昔紅・兜太父子が踊り出したからである。しかもその踊りはすっかり着物をぬいで生れたままの姿なのである。父も子も声を合はせ、足どり手ぶりを合はせて、二本の白熱した線のやうに踊りつづけるのだった。
 私はずい分多くの若者を戦場に送ったが、こんなにふくらみのある明るい、それでいてかなしさの滲透した壮行は前にも後にもまったく経験したことがない。(「俳句」一九六八年九月号)

 今もって感動的なシーンだと思う。死地ともなる戦場へ赴くわが子への体ごとの餞として、秩父人らしく原初の姿で秩父音頭を踊りつづける父・伊昔紅(本名・元春)。その父の切なる想いを受けとめ、ともに丸裸で踊りまくる兜太。この純粋素朴な親子の心情は、私も同様、いたく胸を打たれる。
 だがしかし、俳人兜太の全人間的な評価が改めて問われる今日、そうした戦場へ向かう美談的な父子のエピソードだけに終わらせてよいものだろうか。そうした一面的な評価が今なお残っているが、それは戦後の兜太の生き方とも違うと思う。
 青年兜太は先にも紹介したが、トラック島からの引揚船上で、「自分に戦争参加の口実をつくって、むしろ積極的に戦争に参加していたという、そういう曖昧あいまいな生きざま」を「船酔い」だった、「二度と船酔いはすまい」(『わが戦後俳句史』)と、真剣に自省し自己痛打して、戦後の反戦平和の生きざまを確かと定めている。文字通り、そんな生涯を貫いた。
 師・楸邨がいたく感動し、戦後までしばしばその強烈な印象をエッセイにしている(最初は「寒雷」一九四三年十一月号「秩父の夜」)、その壮行会での伊昔紅・兜太父子の一糸纏わない秩父音頭踊りも、敗戦後に兜太が深刻に自己省察している、その「船酔い」の一つではなかったのか。いや、その象徴的な行為であったと思う。
 現に兜太自身、作家・半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』(二〇一一年刊)の中で、率直にこう語っている。

 戦争というのは、やはりすごい高揚感があるんですよ。俺なども勇ましく出征するという気持ちだったから、裸踊りをしたこともあったな。(中略)踊りながら死んでもいいと思いました。民族のためにいのちを捧げる。もしも勝利すれば、秩父の連中は豊かになる。そういう馬鹿みたいなことを思ってたんだよ。

 見るとおり、「踊りながら死んでもいい」と思うほど、戦争への高揚感があったようだ。兜太は自ら語っているように、少年の頃からリベラル志向が強く、旧制水戸高校の頃は先輩や教師たちの「自由人」ぶりに憧れ、それが誘引となって俳句に熱中している。東大生の頃は「感性の化物」みたいに、俳句だけに頭を突っこみながら、「オレは最後の自由人だ」と豪語さえしていた。
 それがどうして、大学の半年繰り上げ卒業が近づくにつれて「戦争に反駁しつつ戦闘を好み、血みどろな刺戟に身を置くことを望んだ。トラック島は好むところであった」(『少年』後記)と書くほど、心境が大きく動いたのか。「民族の防衛」といった大義名分だけで、そんなに高揚する兜太ではない。もっと内発的心情的に青年兜太を突き動かす、何物かがあったはずだ。――それがふるさと秩父だ、と私は思う。
 最晩年のインタビューで、兜太自身こう語っている。

 郷里の秩父は、養蚕で生活する町でした。それが昭和恐慌で繭の値段が暴落し、皆貧乏になった。郷里に帰ると集落の人が言うわけです。「兜太さん、戦争に行って勝ってくれ、そうすりゃわしらは楽になるだろう」と。学校にいるときには、戦争はくだらんと思っているのに、郷里の人に言われると妙に雄々しい気持ちになって、この郷里の人をなんとか救いたいと思う。敵地に行く以上は第一線で戦いたいと希望して、トラック島になったのです。(『金子兜太私が俳句だ』二〇一八年八月刊)

 これが兜太の本音だと考える。つまり好戦への内面の変化の中心は、なにより秩父にあった。その人間臭い村落共同体の貧しい秩父である。
 先の兜太壮行会の模様を感動的に書いた加藤楸邨エッセイは、戦後二十三年たって俳句総合誌「俳句」の〈特集・現代の作家〉の中で、兜太の作家論として書かれたもので、なぜ兜太が進んで戦争に参加したのか、父子で壮行の裸踊りをしたのか、その内面や背景にまで言及する文章ではなかった。
 むしろ戦時中、その感動の直後に主宰誌「寒雷」に書いた「秩父の夜」(前記)のほうが、秩父人ならではの雰囲気が立ち上っている感がある。

 伊昔紅氏はひよいと腰を低くして両手をひろげ、鷺の翔つやうな形で踊りはじめた。それはまことに素朴な繰り返しであった。然し、伊昔紅氏の老いた顔は何か宙を追ふやうに緊張し手の一拍足の一投はきりりきりりとすさまじい気魄が籠ってゐた。私は息を飲んだ。兜太はこれもぢっと父の横顔を凝視してゐる。……
 「よし、俺も踊る」。さういって兜太が立った。

 その壮行会の折に、こんな句が詠まれている。
  鵙の舌焔のごとし征かんとす 楸邨
  秋の灯に溢れし友よ今ぞ征かむ 兜太

 壮行の秩父の宿で、伊昔紅が家元である秩父音頭を、秩父人そのものの伊昔紅・兜太父子が生まれたままの姿でうたい、踊る――加藤楸邨が、「それは実にすさまじい瞬間であった」、私は「あふれくる泪をぢっとかみしめてゐた」と感激したのは、その秩父人の生身の心情のこもる、肉体もろともの表現ではなかったのか。
 ちなみに「オール読物」の二〇〇六年二月号に載った小沢昭一と金子兜太との対談「愉快、愉快!尿瓶健康のすすめ」(『悩むことはない』文庫版所収)では、こんなやり取りがはずんでいる。

 小沢 お別れの宴席で、お父様と二人で素っ裸で踊り狂ったという。……皆、感動したそうですが……裸が基調の父子なんですね(笑)。
 金子 その通り、その通り。秩父っていう山国自体が、そもそも裸暮らしが中心なんです。

 ここで肝要なことは、兜太の戦争参加とその壮行会での裸踊りの背景にあるものが、育ったふるさと秩父全体のひどい貧しさにあったことである。

 少青年期を通じての記憶といえば、山国の暮らしの「貧しさ」ばかりといってよい。昭和初期の農村不況は、わずようさんかな畑作と養蚕、山仕事で暮らすこの山里にも深刻だった。開業医(引用者注・兜太の父は村医者)の生活にもそれは端的にひびいていて、とにかく現金収入がなかった。(『酒止めようかどの本能と遊ぼうか』二〇〇七年刊)

 それほど秩父は貧しかった。秩父人の大方が、戦争で貧乏から抜け出せると思っていた。兜太には理屈でなく、そんな秩父人たちの心情への肌のふれ合う同体感があったのだ。つまり出征する兜太は、肉体ごと秩父人であったのである。

 ㈡ 俳句にみる兜太と秩父と戦争

 金子兜太と産土・秩父との同体感は、俳句作品を分析すればさらに鮮明となる。

 白梅や老子無心の旅に住む(昭12)

 この句は兜太にとって、文字通りの第一作であり、「兜太の俳句開眼」(安西篤)の句でもあった。そして「この一句が一生、私を俳句と別れられなくしてしまった」(『語る兜太』)と、兜太は言う。まさに俳人兜太にとって、人生的な作品である。
 それは旧制水戸高校一年(十八歳)の時である。兜太は、自由人として尊敬していた一年先輩の出沢珊太郎に強く勧誘され、水高句会に顔を出した。そこで「お前も句を作れ」と言われて困ったが、「よしやってみるか」ということで、即興的にひねったのが、この一句であった。
 意外に好評で、珊太郎から絶賛されたそうである。それですっかり自信を得て、以後、俳句のとりこになったのが正直な経緯のようだ。
 兜太はその処女作の偶然の出来栄えに、含羞もあって、今だに、それはちょっと前に読んでいた北原白秋の詩(筆者注・「老子は幽かに坐ってゐた。/はてしもない旅ではある、/無心にして無為。」)の本歌取りなんですよ、と謙虚である。『金子兜太自選自解99句』(二〇一二年刊)でも、こう書いている。

 時は二月、偕楽園の梅の季節。そこで、白梅と老子を結びつけた。確かに北原白秋の詩で、老子の旅に触れた作品を読んだばかりだった。

 この句について、安西篤が名著『金子兜太』(二〇〇一年刊)で「兜太の俳句開眼であった」と捉えているのは、鋭い洞察だと思う。その後に展開する兜太俳句の特徴である独自のリズム感と、スケールの大きい内面の映像化が、処女作にしてみごとに表現されているからである。
 では、この句の背後にある、青年兜太の内面とは何か。なぜここで、古代中国の思想家・老子なのか。――そこからふるさと秩父と兜太との同体化した繋がりが見えてくるのである。
 まず兜太は、俳人・池田澄子との対談集『兜太百句を読む』(二〇一一年刊)で、その当時の自分の気持ちをこう語っている。

 それから高校に入る頃特にですね。私は漂泊者とか放浪者とかいう者の句が好きだった。だもんだから山頭火と放哉、読んでたんですよ。作らないけど読んでた。それからそれに釣られて老子、荘子、老荘の思想っていうのにおぼろげな興味を持っていた。そんなことが土台にあったんでしょうな。(中略)
 その時自分の気持がね、そういう放哉とか山頭火に憧れる、あるいは老子、老荘の考えに憧れるというところがあったわけです。当時、田舎の連中はみんな戦争やりたくてしようがなかったんだ。戦争で生活が楽になると思ってるわけだ、貧乏だったからね。それで、学校で勉強していると、一部の学生ですけど、戦争はよくないと思っていた。私もそっちの方にかぶれてたからね、矛盾を感じていた。……つまりそういう心というか精神というか、精神状態が放浪状態にあったということかな。時勢に対する割り切りができなくて、……

 少し長い引用になったが、水戸で詠んだ兜太の処女句の背景、その内面に、十五年戦争下の秩父の人びととの、こんな複雑な情感の揺れがあったのである。兜太が老子、荘子の思想に興味をもち憧れを抱いたのも、そうした「精神の放浪状態」のもとで、青年らしく人間の真実のあり方を模索してのことだった。
 ここで言う老子、荘子の〈タオ〉という思想は、時間・空間を超え、自然と一体となった、したがって「無心にして無為」という真の自由、ありのままの自己のあり方を探究するものである。老子は自由な漂泊者といわれている。まさしく「老子無心の旅に住む」の世界である。いつか線画で見たことがある、牛に乗った老子の映像が浮ぶ。
 先の対談集で、池田澄子が「これは定住漂泊ということですよね」と、その第一作から今日まで続く「はてしない旅」の表現に、感心していた。その通り、それから四十五年余たった『兜太俳句日記』でも、老荘思想にかかわるこんな記述が見られる。

 一九八三年(五月三十一日・63歳)
  一茶。読書を、『詩経国風』と『荘子』に集中することを決める。一茶のおかげを消化しないといけない。
 一九八九年(七月十九日・69歳)
  小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

 述べてきたように、兜太の第一作の背景には、ふるさと秩父が原郷意識としてどんと坐っているのである。
 続いて兜太の初期の作品(第一句集『少年』・補遺『生長』所収)で、トラック島戦場へ出征する以前の、秩父と戦争にかかわる作品の中から、戦争への意識の変化を感じさせる俳句を、三態に分類して、簡潔に鳥瞰してみよう。

 ①蛾のまなこ赤光なれば海を恋う(昭15)
  曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(昭17)
  山脈のひと隅あかしのねむり(昭17)

 いずれも学生時代、秩父に帰った際に詠んだ兜太の佳吟・代表句である。そこには青年特有の清潔な抒情感とロマンチズムが、秩父の風土にふれ、いきいきと表出されている。秩父の自然児・兜太ならではの視点やモチーフが、きらり光っている。これらの第一態の句では、戦争へのただならぬ空気はまだ言葉には出ていない。
 一句目。秩父で寝起きしている土蔵の窓に、灯火をもとめて蛾が飛び込んできた。大きな真っ赤な眼、それを「赤光」と見たてた。斎藤茂吉の歌集『赤光』に因んだ閃きだろう。それに喚起されて山国育ちの青年の夢、「海を恋う」の淡い心情が広がる。
 二句目。曼珠沙華のいっぱい咲く畑径を、腹丸出しで走る秩父の子どもたち。「どれも」である。オレもそうだった。その「親しみから思わず、それこそ湧くように出来た句」(『いま兜太は』)だという。この肉体的同体感。
 三句目。夕陽を受けて一角だけ赤くなった秩父盆地。桑を食べ蚕がねむる刻だ。養蚕農家の疲れた情景が浮ぶ。懐かしいふるさとよ。
 いずれも山国秩父の素朴な日常を詠む、澄んだ感性の句である。そこへ、国を挙げての戦争の現実が迫っていた。

 ②日日いらだたし炎天の一角に喇叭鳴る(昭15)
  富士を去る日焼けし腕の時計澄み(昭16)
  霧の夜のわが身に近く馬歩む(昭17)

 これらを作句した昭和十五(一九四〇)年には、戦争への国民総動員の体制がしかれ、翌十六(一九四一)年十二月には太平洋戦争が勃発する。そんな時代相が、これらの作品に滲んでいる。この時期、大学生で俳句に熱中していた兜太は、「自由人」でありたし、されど国民と秩父あげての好戦的雰囲気に、内面の苦悩と鬱屈感が続いていた。そうした青春の体感を詠んだのが、第二態といえる句群である。
 一句目。東京の本郷あたりでの作だろうか。そんな世相への青年の鬱々した多感な心情を、「日日いらだたし」とずばり表現する。「喇叭」はその頃よく耳にした、陸軍の行進ラッパか。しかも炎天下である。
 二句目。大学一年のとき、東富士の裾野で正科として軍事教練が行われた。ゲートルを巻き歩兵銃を持って十日間、軍隊さながらの演習で顔も腕も真っ黒に日焼けした。それが終了し、なじんできた富士よさらばの感懐を、「日焼けし腕の時計澄み」と具象している。しかし長く厳しかった教練に関しては一語もなく、ただ青年の健康で清潔な腕と時計をぐいと示すだけ。批評性を感じさせる。
 三句目。山国秩父での作。当時、秩父にも炭馬、耕馬がたくさん飼われ、道でよく出会った。ある霧ふかい夜、身近かに馬の体温を感じながら並ぶように歩いた。生きもの同士である。それに馬たちも、軍馬として戦場へ次々と動員されている時世、「わが身」と重ね、何とも言えぬ親しみをしみじみと感じるのだ。

 ③過去はなし秋の砂中に蹠埋め(昭18)
  秋幮の父子に日の出の栄満ち来(昭18)
  冬山を父母がそびらに置きて征く(昭19)

 これら三態目の句になると、過去は過去として、参戦への気持ちの上での割り切りが感じられる。山本五十六元帥の国葬(昭和十八年六月五日)の頃までは、「国の喪や身にまつわりて蠅ひとつ」という句でみるように、個人的には「先見の明」があった山本五十六に尊敬の念を持ちつつも、「身にまつわりて蠅ひとつ」と、戦争への不快感を隠していない。
 それが同年九月頃になると、「入隊を前に父と千葉県白浜にゆく・八句」(『少年』)「(同じく)南総に遊ぶ・十七句」(『生長』)でみるように、よほどの感の高揚があってか、二句目「父子に日の出の栄満ち来」を始め、計二十五句もの俳句を詠んでいる。幼少の頃、父と毎夏きていた南総への久方ぶりの、そしてそれが最後となるかも知れない二人旅であった。
 兜太が秩父のおおかたの好戦的気分を、すべて我がものとしたのは、一九四三(昭和十八)年六月から九月頃までの時期か。秩父人同士の父子の同体感は、いちだんと深まり合っていたようだ。
 その直後に、先に述べた奥秩父での父子もろともの秩父音頭裸踊りの壮行の宴となるわけである。
(つづく)

新シリーズ◆これからの掲載内容
 ㈢父・伊昔紅と俳人兜太の原質形成
  『俳句日記』にみる父子の肉体感/「風土は肉体なり」の実相
 ㈣山影情念と兜太の中の秩父事件
  秩父人兜太の人生課題/秩父事件研究史上の俳人兜太の存在
 ㈤産土から――「土の思想」の深化
  妻・皆子と秩父の「土」/土の自由人――俳人兜太の哲学考
 ㈥秩父に発した俳句と哲学
  兜太の思想体系とその俳句/「おおかみ俳句」の新考察

カルチャーセンターと金子兜太 齊藤しじみ

『海原』No.21(2020/9/1発行)誌面より

シリーズ:十七文字の水脈を辿って 第1回

カルチャーセンターと金子兜太 齊藤しじみ

 JR新宿駅西口の改札を出て西の方角の都庁方面につながる地下道。かつてはホームレスが寝場所として占有し、すえた臭いが日夜を通して漂い、太陽光が遮られた薄暗かった記憶がある。今は天井の照度が増して一定の明るさが保たれているが、かえって無機質な空気が充満している気分になる。
 金子兜太(敬称略・以下兜太)もかつてこの地下道を定期的に三十年余りにわたって歩き、「どこやらの都市の大下水道をゆく感じ」と比喩したことがある。
 改札から徒歩にして三、四分程度、距離にして四百メートルほどの長さの地下道を抜けると右側に五十二階建ての新宿住友ビルを右手に仰ぐことになる。昭和四九年の完成当時は高さ二百メートルを超える超高層ビルの草分けと呼ばれた。このビルの48階の朝日カルチャーセンターの教室で、兜太は90歳を超えるまで人生の約三分の一にあたる三十三年間の長きにわたり、俳句教室の講師を続けた。
 兜太の俳句教室が初めて開かれたのは昭和五三年四月七日(金)。日本銀行を退職してから四年目の五九歳の時である。
 『金子兜太戦後俳句日記第2巻』(白水社)には、兜太は講座初日のことを「何故十七文字か、何故季題か、と率直な質問あり」と淡々と書き留めている。
 後年、兜太はこの俳句教室から自分の運が開けたと後に述懐したと聞くが、朝日カルチャーセンター講師としての姿はほとんど知られていない。
 その教室の一期生が「海程」同人で平成四年に「海程賞」を受賞した伊藤淳子(敬称略・以下伊藤)だ。
 私が十六年前に「海程」に入会してから、そう遅くない時期には、女性のベテラン陣の一人として伊藤の存在感の大きさを感じていたが、カルチャーセンターの一期生であったことを知ったのは数年前のことだった。そのことに興味を持った私はカルチャーセンターの講師時代の兜太の思い出についていつかは話を聞いてみたいと思っていた。昨年五月三日、新宿住友ビルで待ち合わせた後、近くのレストランで二時間にわたって話を聞いた。街路樹の緑がまぶしい祝日の午後とあって、店内はおしゃべりに興じる人たちであふれていた。
 昭和七年生まれの伊藤は当時四六歳。それまで俳句を作ったこともない初心者で、都内に住む専業主婦だった。兜太の教室に通ったきっかけは偶然だった。一人娘が大学を卒業する年で、これから自分のために何か習おうとカルチャーセンターの広告に目を通したとき、当時朝日新聞の俳句欄の選者で名前だけは知っていた加藤楸邨の俳句教室がまず先に目に入り、特に深い考えはないまま申し込んだという。
 しかし、満員だったため、キャンセル待ちをしていたところ、カルチャーセンターの担当者から電話がかかってきて「金子兜太という俳人の俳句講座が始まる」と勧誘を受けた。兜太の名前を聞くのはこの時初めてだった伊藤は思わず「どのような方ですか」と尋ねると、「楸邨先生のお弟子さん。何よりも人柄がいい」との触れ込みだった。
 初回の講座が伊藤にとって写真でも見たことがなかった兜太との初対面だった。教室に現れたのが二人の男性。二人のうちスーツ姿で決めた案内役のカルチャーセンターの社員を元銀行マンの兜太と一瞬思い込んだ。当の兜太は腕まくりしたノーネクタイのワイシャツ姿で、豪放磊落な印象はその後も変わらなかった。
 兜太は『語る兜太』(岩波書店)の中で当時の教室の雰囲気を自ら語っている。

 「中流階級の主婦が多い。それぞれに知的好奇心が旺盛で、みんなきらきらしてましたよ。爽快でしたな。(略)ここで私が「感覚でやってください」と言ったものだから、女性には支持されたけれど、男性はみな面くらってしまった」

 伊藤の言葉を借りれば、「兜太はざっくばらんで真面目な性格。ざっくばらんでも不真面目な人は嫌いだった私の性格にぴったり合った」という。
 月に四回の講義では受講生が事前に提出した兼題二句がコピーされ、教材として無記名で配られた後、一句ずつ批評を受けた。受講生の中で最も若かった伊藤は兜太の講義の様子を次のように話す。

 「開講当初は男女が半々で受講生が十五人と少なかったので、ひとり一人の作品について丁寧に時間をかけて批評してくれました。受講生の多くが初心者だったせいか、辛辣なコメントは一切なく、その点、先生は割り切っていたのだと思います。講義は終始、冗談一つも出ない真面目な内容で、放談めいたところはありませんでしたが、その頃から話を聞く者を飽きさせない卓越した話術を持っていました」

 受講生が毎回提出した兼題二句と自由作一句については、兜太が赤ペンで添削して返却された。その紙を伊藤はすべてノートに張り付けて大事に保管してある。今となっては現代俳句史として貴重な兜太直筆の記録でもある。兜太は句の出来具合の優劣順に「◎⦿〇P✓」と評価を付けた上で、必要に応じて一口コメントを添えている。

 上の写真は、伊藤に見せてもらった兜太の添削である。その跡に伊藤は兜太の俳句指導の考え方を強く感じるという。決して自分好みの俳句に導くようなことはなく、その意味で受講生一人ひとりの感性を尊重する教師としての兜太。
 当初は毎週金曜日の午前十時半から二時間の講座で、前半の一時間は受講生が事前に提出した句の批評の後、後半は俳句にかかわるテーマに基づいた講義だった。
 講義をメモした伊藤のノートも見せてもらったが、そこには数々の俳人の名前、俳句作品、兜太が評したコメントが事細かに記載され、言葉を拾って見てもレベルの高さが伝わってくる。
 兜太は定例の教室や特別講座としてテーマを掲げた単発の講座も持った。数例のテーマを列挙すれば、「戦後の俳論」、子規「俳諧大要」、「虚実転変の妙」、楸邨句集「颱風眼」、「流れゆくものの俳諧」、「山頭火を読む」、「現代俳句の流れ」、「俳諧史・一茶」など多岐にわたり、講義内容がその後、本として出版されたケースも少なくない。
 昭和五四年六月十五日(金)の日付の兜太の日記(前掲)には次のような記述がある。

 「朝日CCへ。講義で「五七調形式」が俳句の俳句たるゆえん。いま一つ、〈俳句の哲学〉はなにかという求めがあるはずだが、自分はそれを〈俳諧〉から〈自然〉へのみちと考えている、と話す」

 一期生の三十二人の受講生たちが昭和五五年にまとめたアンソロジー「新遊羽しゆう」に兜太は一文を寄せている。兜太調を彷彿させるユニークな文章である。

 「この「朝カル」にて、俳句について駄弁をろうしてまいりました。われながら駄弁でありますが、不思議にも受講の人たちに恵まれて、大過なく打ち過ぎ、あまつさえ、おもいもかけぬ秀作、奇作、珍作の数数に包囲攻撃され、かつ護衛されて、今日にいたりました」

 伊藤は「特に俳句がうまくなろうとも思わなかったが、先生(兜太)の魅力に次第に引き込まれて毎週通うことがリズムになっていた」と振り返る。
 「海原」代表の安西篤は、その著作『金子兜太』(海程新社)の中で兜太とカルチャーセンターの受講生との関係を次のように評している。

 「受講生のふれ合いに、これまでの既成俳人とは異なる新鮮な反応を感じていたようである。(略)彼女らの取組み方は真面目であり、その感性は豊かで、知性も良質であった。なによりも初心者としての素直さがあり、兜太の言うことを「焼け砂に水が吸い込むように」わかってくれたという」

 講義が終わる時間帯は昼食時であったため、次第に一部の受講生たちは新宿住友ビルのレストラン街の店で、兜太と一緒にサンドウイッチや寿司(余談:痛風を患わってからはイクラと卵を抜いたという)をつまむことが多かったという。
 伊藤の話では、兜太が俳壇のエピソードを披露するなど、雑談が多かったという。
 また、俳句総合誌に掲載された兜太に関する記事も話のネタになり、あるときは兜太を批判する記事に触れると、「あの野郎!」と口にしたこともあったという。昼食の時の様子を兜太は「日記」(前掲)の中で時折綴っている。

 「昭和五十七年十月二十三日(金)昼食を婦人たちと。コーヒーも飲む。やはり、なぜ小生が朝日新聞選者になれないのか、という疑問が大きいようだ。林火さん亡きあと、稲畑さん(ホトトギス)がなったことが不満であり、不審ママらしい。そこで、れいのごとく、ジャーナリズム(特に三大新聞)と俳句認識、ジャーナリズムの安全主義などを話す」

 兜太が担当する講座は、三年目からは月三回の入門科のほか、三年目を迎えた受講生が通う月一回の研究科が設けられた。その後、兜太の人気に支えられて、伊藤の話では多い時には研究科は教室いっぱいの七、八十人の受講生が集まるまで膨れ上がったという。
 兜太自身の多忙の影響で平成に入ってからは徐々に講座数が減り、最終的に残ったのは伊藤の通う研究科だけだったという。その研究科も平成二三年九月に兜太の胆管がんの手術を理由に講座休止を知らせる封書が受講生に突然届いたまま二度と開かれることはなく、三十三年間に及ぶ俳句教室の歴史は幕を閉じた。
 一期生で最後まで通い続けた唯一の受講生になった伊藤は今あらためてカルチャーセンターで接した兜太の存在の大きさを思い出すという。

 「俳句の指導者という存在にとどまらず、みんなに平等で飾らないという自然体の人間性が魅力でした。途中で私が「海程」に入会した後も受講生出身であることから、いろいろと気を遣っていただいた優しさをお持ちでした」

 教える立場の兜太が伊藤たちの受講生たちをどう見ていたのか直接語った言葉を知ることができる。海程二十五周年記念の座談会(昭和六二年九月)での発言である。

 「受講者に接して驚いたんだが、海程の集まりで接しているひとたちのかなりの部分よりも知的水準が高いひとたちが結構いるんだな。中高、初老の女性方の中にね。それでおっと思った。(略)カルチャーに接していてやっと衆の姿が見えてきた。それも良質の衆だね。表現というものを正しく求めることが出来る衆というものがわかってきた」(「海程」昭和六二年十二月号)

 私はこの原稿を書き終えた後の八月に新宿住友ビルに足を運んだ。私も大学四年生の時に朝日カルチャーセンターの作文教室に通う受講生の一人だった。今からちょうど四十年前の昭和五五年のことだ。兜太の俳句教室が開かれていた同じ四十八階で、将来へのぼんやりした不安と夢を抱えながら青春時代の一コマを過ごした。当時、今の私と同じ年齢の兜太が「大下水道」と称した地下道を歩いていたことに思いを馳せると、勝手ながら奇縁を感じないではいられなかった。

《本シリーズは随時掲載します》

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察③ 岡崎万寿

『海原』No.19(2020/6/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿

《3回連載・その3》

㈤ 兜太は「煽られた」のか
  ――長谷川櫂「解説」への疑問

 『金子兜太戦後俳句日記』には、兜太と同じ朝日俳壇選者の長谷川櫂が「解説」を書いている。その労に感謝しながら、第一巻、二巻を通じて指摘されている、兜太の社会性俳句運動にかかわる問題点について、私の疑問を述べておきたい。
 長谷川櫂の俳論は、俳人には珍しいスケールの大きい視座を、特徴としている。かつて東日本大震災(3・11)のさいの発言も、そうだった。私は共感して、次の一文を引用したことがある。

 実際(新聞の俳壇や歌壇の投稿作にみられるように)、多くの一般の人たちが震災を作品にしている。天皇から民草まで、みなが歌を詠む万葉集以来の日本の伝統は今なお生きていると感じる。日本人の心の底で眠っていたものが今、掘り起こされているともいえる(「日経」二〇一一年4月28日付夕刊)。

 今回の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻の解説「社会性と前衛」の中でも、そんな卓見を発見した。

 俳句にかぎらず人類の詩歌はすべて社会性、政治性を備えている。社会性がないようにみえるのは自覚しないだけである。
 それは言葉自体が発生したときから社会性と政治性を備えていたからである。対象を把握するにしても意思疎通をはかるにしても、言葉には自己と他者の関係がすでに生じている。これこそ言葉が本然的にもつ無自覚な社会性であり政治性である。人類のすべての詩歌は言葉のDNAである社会性と政治性をそのまま受け継いだ。
 日本語の詩歌も『古事記』『万葉集』以来、社会性と政治性を一貫してもちつづけてきた。


 しかし、同『俳句日記』第一巻の解説「兜太の戦争体験」に書かれている次の一文は、残念ながら、こうした長谷川櫂の視座広く説得力のある論考とは、どうしても読めない。少し長いが、俳人兜太の人間考察の基本にかかわる、重要な問題提起であるので、そのまま引用したい。

 まず「昭和の兜太」は社会性俳句と前衛俳句の旗手であった。……どちらも戦後、解放されたマルキシズム(マルクス主義)に煽られて俳句の世界にたちまち燃え広がった。
 日記のはじまる一九五七年(昭和三十二年)といえば第二次世界大戦の終結から十二年、世界中が自由主義陣営と社会・共産主義陣営の東西冷戦の渦中にあった。日本国内ではそれを反映して、自民党と社会党を左右両極とした対決が思想・政治・経済だけでなくあらゆる分野で展開していた。いわゆる六〇年安保闘争が沸き起こるのはその三年後である。この左右対決の構図はすべての日本人を巻き込んだ。兜太も例外ではなかった。むしろもっとも強烈なあおりを受けた一人とみるべきだろう。


 ここで述べられている戦後世界の政治論、歴史論に立ち入ることは、兜太の人間考察の俳論の範囲を超えるので、あえて触れない。だが、超大国のアメリカとソ連の冷戦時代とはいえ、「世界中」、「すべての日本人を巻き込」み、まして自立、自由であるべき文化(俳句)まで、米・ソの二色で図式的に色分けしてしまう二極分化観は、当時の現実とも違うし、今日の国際政治学や近・現代史学の到達点からみても、かなり強引すぎるのではないか。
 長谷川櫂は現在、俳句界を代表するリーダーの一人である。この文面を読んで、首を傾げる人も少なくないと思う。まして「社会性は作者のの問題」と、どんなイデオロギーでも自らの生き方に溶かし込み、肉体化しない限り、頑固に動じない信条をもった、兜太のことである。「解説」で書いているような、「マルキシズム」の「もっとも強烈なあおりを受け」ることが、人間的にも、現実的にもあり得るだろうか。
 長谷川櫂の「煽られ」論のウィーク・ポイントは、こんな人間の尊厳にもかかわる問題を、何の実証も、論証もなしに一方的に断言していることだ。事実を見ても、兜太の社会性の俳句、俳論は、配転先の神戸から始まっている。日銀での労組活動を理由に、当時吹き荒れていたレッド(共産主義者・同調者)・パージの煽りを受け、十年間の地方勤務の冷や飯を食わされている最中だった。煽られたのは「マルキシズム」でなく、米占領下の不当なレッド・パージによるものだった。時代背景が、丸で違っているのである。
 したがってと言おうか、長谷川櫂「解説」は、第一巻の「兜太の戦争体験」では、引用した「煽られ」論をあれほど述べていたのに、第二巻の肝心の「社会性と前衛」では、その強調が消えている。
 そればかりか、先に書いた兜太の主張する「態度の問題」を評価し、「この点で兜太は社会性俳句運動の中では異端の存在だったといわなければならない」と、第一巻「解説」と正反対ともとれる結論となっている。重要なので全文を紹介する。

 ただし兜太自身はイデオロギー俳句、マルクス主義俳句に距離を置いていた。「社会性は作者のの問題」と書いていたとおり、兜太はイデオロギーに拠る拠らぬにかかわらず、社会に対する自覚と態度が俳句の社会性を生み出すと考えた。いわばイデオロギー以前の問題としてとらえていたのであり、この点で兜太は社会性俳句運動の中では異端の存在だったといわなければならない。

 見るとおり、社会性俳句運動の「煽られ」論は、兜太に関しては事実上、破綻している。だが、運動の「旗手」だった兜太を、その「異端者」に変えるだけでは、問題は片付かない。そんな「異端者」が、社会性俳句運動の旗手として、人望を集めることはあり得ないことだからである。
 また第二巻「解説」で、「その二つを過去の実績(筆者注・社会性俳句と前衛俳句運動の旗手だったこと)として今や称賛を浴び、公の社会に受け入れられてゆく兜太の姿である」と書いていることとも、矛盾してくる。その矛盾は、画一的な冷戦史観と、「社会性俳句はマルクス主義俳句」といった単純な断定の枠組みに、人間兜太をはめ込もうとする無理から生じたものだが、ここではそのことを指摘するにとどめる。
 その反面、第二巻「解説」が、こうした社会性俳句運動の積極面として、「社会性俳句運動は俳句の対象を広げるとともに、俳句の無自覚な社会性、政治性への自覚を促すことになった」と評価する着眼点を、大いに多としたいと思う。
 二つ目の問題点として、第二巻「解説」の次の文章も看過できない内容である。

 社会性俳句運動は政治的行動に直結していたこと。いいかえれば、兜太には文学と政治、俳句作品と政治的メッセージの明確な境界がなかった。この姿勢が晩年、安保法案反対運動のために肉太の書体で「アベ政治を許さない」と揮毫する、政治的行動へ兜太を駆りたてることになる。

 はたして、そうだろうか。私は、兜太くらい政治(思想)と文学(俳句)との境界線を、明確にし筋を通してきた俳人
(文化人)は少ないと思う。その実証として、三つを挙げる。
 一つは、先ほどまで述べ、長谷川「解説」も認めている「社会性は態度の問題だ」という信念である。これはもう文句の
ないところ。たとえば『証言・昭和の俳句』(上)でも、こう論じている。その俳句姿勢は、終生変わっていない。

 そうならないと文芸論にならないと思ったんですよ。……私の場合はそのままイデオロギーを持ち込むことを全く拒絶していたんです。

 二つは、自らの自由を確保しつづけるため、一定の制約を受ける政治組織には、決して参加しなかったことである。作家の半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』の中でも、自信をこめて、こう語っている。

 コレも私の自慢なんですが、私は党派には属さないで、一人でやった。これが唯一の自慢なんですよ。

 三つは、戦後の反戦平和の主張と行動が、あるイデオロギーに発したものでなく、トラック島での生死の戦場体験に発した、「非業の死者に報いたい」という一念によるものだったことである。

 私は反戦主義者ですから、戦争は悪と思っているわけです。これは体験から発してそう思うようになっているんです。自分が戦争をしてきた、その生な体験から(『人間・金子兜太のざっくばらん』)。

 以上、生の資料をもって、兜太がいかに俳人として、俳句と政治的行動を直結させることを、自ら拒絶し、明確すぎる境界線を示していたかについて述べた。先入観や実証性のない人間批評は、お互い避けたいものと思う。
 最後に残った問題は、先の安保法案反対の市民運動のかつてない広がりの中で、作家の澤地久枝の依頼で揮毫した「アベ政治を許さない」の書が、長谷川「解説」があえて挙げるほど、俳句と政治との境界線のない政治的行動であったか、どうかの評価である。
 その当時の兜太の内面については、近く刊行される『金子兜太戦後俳句日記』(第三巻)に、どう記されているか、興味のあるところだが、専門俳人といえども、自由と民主主義、平和を支える主権者の一人である。市民の権利としての表現の自由にかかわる問題で、そんな「境界線」をつけるべきことか、どうか。私は次に挙げる『俳句日記』(第二巻)「解説」の理解ある文面からみて、それは長谷川櫂のペンの走りすぎに思えてならない。

 なぜ兜太は社会性の自覚が必要と考えたか。俳人にかぎらず人々の社会性の無自覚こそが昭和の戦争を許したと考えていたからだろう。

 また『俳句日記』(第一巻)「解説」でも、肯定的にこう結んでいる。

 兜太は若い世代は戦争について大いに語り、行動すべきだと考えていた。地球上で起こっている戦争を自分のこととして考えることのできる「地球人としての想像力」に希望を託していたのではなかったか。

 全く同感である。その「地球人としての想像力」をもって最晩年にいたるまで兜太は、遺句集『百年』でみるようなスケールと批評性のある俳句を、詠み続けている。

 果てしなく枯草匂う祖国なり
 原爆忌被曝福島よ生きよ
 朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ


 そうした作品にも込められた、その若者はじめ市民へのが戦争につながる安保法案反対の市民運動の熱気と結んで、あの気迫と人間味あふれる兜太ならではの「アベ政治を許さない」の書となったものと思う。事実、この書(プラカード)は、市民運動の共同のシンボルとなって、全国いたるところで、長期間にわたって掲げられた。まさしく俳人兜太の、時代に記録される貴重な書となったのである。

 それは、「境界」うんぬんの次元のことではなく、もっぱら人間としての俳人兜太の見識の問題である。
(3回連載・了)

第1回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評〈各作家の心に響いた八句 茂里美絵〉

『海原』No.18(2020/5/1発行)誌面より

第1回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評
各作家の心に響いた八句 茂里美絵

 乾き 小西瞬夏

  秋蝶のかすかな脚がふれし母
  風が出て囮のこえの潤むとき
  ランボオや使いきれざる息白し
  雪聖夜汲みたる水の平らかに

 俳句は韻文詩型であり、季語の有する喚起力に加え、異次元の空間へ読み手を誘う。その一方で季語に頼りすぎない独特の世界をも構築する。透明な金平糖のようにキラキラして読む者の脳や皮膚を、ちくちく刺激する感触が、この作者の特質であるが、この四句は底知れず静かである。一句目は、上五中七の叙述によって、初老の母の嫋やかなイメージが浮かび上がる。二句目の囮。鳥か獣の不安が風、潤む、の表記でより鮮明になる。三句目。三十七歳の若さでこの世を駆け抜けたランボオ。激しくかつその無念さを、使いきれざる息白しと。「息白し」が特にいい。四句目。雪の降る聖夜の静けさを、雪と水があたかも呼応している景に結び付け、更に静寂が深まる。
  冬霞死者だんだんに進みつつ
  人形の眠る函の中 冬日

 五句目。人は誰しもこのような命終を迎えたいのではなかろうか。できれば苦しまず、冬霞の彼方へ、愛する者たちの待っているところへ。短詩型は、その余白に様々な想像をはたらかせる楽しみを含む。六句目の人形、日本であれば当然雛人形を想う。祭も終わり函へそっと仕舞う。春なのに、その陽射しが冬日のように指を刺す。一字明けが利いている。
  春の雷いきなり夜の匂ひかな
  耳を向けると春蝉の翅の乾き

 七句目も八句目も共に自然へ眼を向ける作者。ざわつき始める樹木。人間や動物たちの生命力を、その鼓動を見つめる。「夜の匂ひ」にそれらを集約している。そして、春蝉の翅の乾きを、眼ではなく耳で感じる鋭敏でかつ瑞々しい感性。自身の羽化登仙も夢見ているようで楽しい。

 白い地図帳 水野真由美

  約束を言葉にさるとりいばらの実
  食みをれば鹿となりけり霧の底
  男老ゆ木霊らの夢に見られつつ
  兜太亡き空の木目をなぞりゆく

 貴重な本、あるいは絶版になった蔵書も有する作者。従って知識も豊富になる反面知りすぎる苦しみもあるかとも想像する。土の匂いも漂う静かな句群。一句目。決意を必要とするとき、人はあえて声に出して自分に誓う。季語の斡旋も巧みである。二句目。自然界と融合することを表現するその抒情性。食事どき鹿と一体化してもぐもぐ食べる。それも霧の底で。三句目と四句目は、我々誰しもが感じる兜太思慕の想いであろう。そして老いてもなお、秩父に漂う精霊たちに見守られている師の姿を思い浮かべて安心する。すでに他界へ移られた金子兜太師。空の一点を見つめる作者。「空の木目」をどのように解釈するかは難しいが、作者の想いの深さを緻密に述べていると思いたい。
  冬麗の少し焦がしてパンの耳
  風花を老いたる猫と嗅ぎをりぬ

 五句目は良き日常性。暖かくさりげない。穏やかな冬の陽射しに目を奪われて朝食のパンを焦がすのは良くあること。静かに、遠い過去へ揺りもどされているひととき。六句目、風花を嗅いでいるのは長年共に暮らす猫と。そこが面白い。
  水を抱く手にかさなりて枯木星
  きさらぎの月のひかりに地図開く

 七句目。水を抱く、のは意識であり手ではない。平凡に書けば水仕事。だがその漣そのものが枯木星の光となる。八句目。きさらぎの中で地図を開く。並々ならぬ旅立ちの気配が見え隠れする。そして出発。一巡して一句目へ還る構図。

 留守にして 室田洋子

  さえずりや冷たい頬に触れながら
  空席がふたつ並んでクレマチス
  女郎蜘蛛さびしさは黄色が似合う
  愛よりもAI信じて心太

 悲しみの事実を、ひかりで濾過する表現力は天賦の才能と言うべきか。加えればそれらの叙述によって却って悲しみの底が深くなる。日常的次元の中で、その視線に入ってきたものを直感的に「詩」にしてしまう。ことさらに難しい言葉をあえて使わず、やわらかな風がふっと読み手の頬を撫でていくような情感。一句目と二句目。二年前に最愛の夫と、恩師でもある兜太師を亡くす。冷たい頬とふたつの空席。しかしクレマチスのきっぱりとした色彩に今後の作者の心根を思う。三句目もまず色彩で読み手の心に訴える効果。黄色はやはり淋しい色にも思える。ゴッホの「ひまわり」の絵も確かに孤独感を呼び覚ますし。四句目。正確無比な人工知能の方が感情である愛よりも信用できると。逆説であると信じたい。
  十六夜を猫に抱かれて泣いており
  たっぷりと行間あけて木の実降る

 五句目「猫に抱かれて」という心情。十六夜の細いひかり。涙腺を刺激するその弱弱しい針。六句目。文字から目を離し外を眺める。ときおり落ちる木の実。絶妙な隙間感。まるで地軸がゆったりと刻をきざむ音のように。
  秋の蝶ちょっとこの世を留守にして
  まがっても曲がってもまだ鰯雲

 七句目。すっと心が空っぽになる瞬間は誰でもある。秋の蝶の季語と中七下五言葉がぴったり読み手に伝わる。八句目の、深刻ぶらない、そして想いをつめ込みすぎない措辞が読む者の心を鷲掴みにする。明るさに包みこまれた悲しみとでも言おうか。だから結語が正に胸を衝く。

 水を汲む 三枝みずほ

  雨音の遠く花野にソルフェージュ
  ねこじゃらしどちらが先に泣くだろう
  秋星と触れ合いながら子の寝言
  身体しかなくて砂時計また返す

 幻視、幻聴に頼らず素直な写生句とも読めるから、大方の共感を得ることになる。抽象に凭れ過ぎない明るいひたむきさは、作者の特質であると同時に、若さの故とも思う。一句目のソルフェージュの軽やかな響き。雨音を音楽になぞらえ花野は更に広がる。ねこじゃらしの二句目。想像は読み手に任せられる。三句目は秋星の登場で、睦み合う母子の姿が影絵となる。四句目。破調の効果であろう。日常の中でふっと虚無の世界を覗く。無季であるが想いの強さの方が勝る。
  くしゃみひとつそれでも空のあかるい日
  並べられ体温よりもつめたい椅子
  残業のブルーライト冬の水飲み干す
  凍つる夜の羽音として終電車

 「俳句は一行の詩だが詩の一行ではない」伊丹三樹彦の言葉である。つまり詩の断片ではないから十七文字で完成させなければならない難しさがある。しかし考え方を変えれば、心に感じたことを俳句形式に乗せ、あとは読み手に任せるとなれば、作者と読者の共同作業となり、案外楽しい世界が広がるのでは。くしゃみの句は読み手を楽しくさせる。六句目。体温より椅子の方が冷たいという常識を飛び越え、オフィスの冷たい空気を椅子に託すのだ。七句目。仕事に疲れた人の姿が浮き彫りになる。「冬の水飲み干す」が抜群。最後の句はとても美しい。凍つる夜、羽音、終電車、言葉のつながりが自然でやわらかく、思わず作者を慈しむ気持ちになる。

 孵ろうか 望月士郎

  春の闇そっとたまごを渡される
  触りにくるさくらさくらと囁いて
  抱卵期握手にやわらかな隙間
  ヒロシマと記す卵の内壁に

 作品と向き合い読み手は勝手に会話を交わす。間違った会話でもいいのである。「ナゾ」という余韻をただ堪能すれば良いのだから。理知と理知がぶつかり合うと、思いがけない諧謔が生まれたりする。私の偏見かも知れないが、主に男性俳人にそれを感じる。二十句のうち十三句が「卵」。理屈ぬきに伝わってくるそのフシギ。卵はいのちの源の象徴であるから等とキザな解釈は、もっとも嫌う作者でもある。一句目と二句目。呆れるほど率直で何やら暖かい空気が漂ってくる。特に一句目は謎めいた大人の感想を読み手は感じる。俳句は絵画や音楽と違って言葉で表現するから、やはり「コトバ」が重要。三句目はその言葉の働きが最高の形を作っている。「抱卵期」と「握手」と「隙間」何やら微笑ましい。四句目
に突然現れる、ヒロシマ。卵の内壁にその都市の名前を刻むのだ。何となく分からないようで何となく分かる。
  ぼんやりとガーゼに滲み出す日の丸
  良夜かな妻とまあるいもの支え
  黄身白身かきまぜている雪女
  雪だるま溶けて帽子屋にひとり

 五句目は前句、ヒロシマと通底しているように思う。更に現在の日本への痛烈な皮肉とも。ガーゼ越しの日の丸。自国に対する想いの薄さを指摘している等という野暮な感想を許されよ。六句目と七句目。仲良しの夫婦。こうした生活の続くことを願うのみ。最後句は、ゆるやかな因果関係が自然で現代風なお洒落な作品。微妙な曲線や直線を図面に描くことを、なりわいとする作者ならではの、思いがけない結語に、ただただ脱帽。とにかく、「帽子屋」がいい。
 以上、各作家から心に響いた八句を選ばせていただいた。

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察② 岡崎万寿

『海原』No.18(2020/5/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿
《3回連載・その2》

 ㈢ 兜太の「戦争とトラック島」俳句の展開

 兜太は二十六歳のとき、トラック島で敗戦を迎えた。『わが戦後俳句史』(岩波新書・一九八五年刊)は、「八月十五日の朝焼け」から始まっている。

  椰子の丘朝焼しるき日日なりき
  海に青雲あおぐも生き死に言わず生きんとのみ

 敗戦の日から翌日にかけて、どうしようもない喪失感と、変な安堵感の入り交じった胸中を詠んだ、三句中の二句である。俳人兜太の「わが戦後」は、ここから始まっている。
  兜太のもつ抒情原質の生きた作品だが、私はとくに二句目に注目する。それまでの自然体のまま詠んできた「トラック島」俳句が、「少し変わって」(兜太)、「生きんとのみ」と、早くも戦後への出直しの意志を強烈に感じさせるからである。
 こうした生を見つめ何があろうと生きる、という自らの意志に裏打された俳句が、兜太の戦後俳句のスタートから、その形成、発展過程のポイントポイントで、肉体ごと雄々しく表現されているのである。兜太の生命力、俳句力というものか。

  水脈みおの果て炎天の墓碑を置きて去る(『少年』)
  死にし骨は海に捨つべし沢庵たくあん噛む(同)
  朝はじまる海へ突込む鷗の死(『金子兜太句集』)
  わがうみあり日蔭真暗な虎があり(同)

 ここに一本の流れが見られる。トラック島で餓死した非業の死者たちに酬いたいという一念が、兜太の戦後の基本的な生き方となり、表現欲求となって、時どきの感動のモチーフで映像化されたものだ。一句一句に兜太がいる。
 一句目は、一九四六年十一月、帰国する引揚船上で作られた名句である。兜太の想いは篤い。「置きて去る」の語調に、並ならぬ意志がこめられている。
 二句目は、翌一九四七年五月の作。すでに日銀に復職し結婚していた。「死にし骨」とは自らの骨である。「なすべきことのためには、自分を捨てなければならない」という、切り立つ心情を詠んでいる。「日銀の近代化」を求める組合運動への志向も見え始める。
 三句目は、一九五六年七月に発表した神戸港での作。腹を決めて「俳句専念」を決意した、転機の名句である。その時期、兜太は献身した組合運動が、一九五〇年のレッドパージのあおりを受けて頓挫し、以後十年におよぶ地方支店生活(福島、神戸、長崎)を余儀なくされていた。「海へ突込む鷗の死」には、トラック島で海軍戦闘機・零戦ぜろせんが、米軍機に撃墜されて海へ突っ込む景のイメージと重なる。
 そして四句目は、兜太が社会性俳句の方法論として「造型俳句六章」を発表した一九六一年、山中湖畔での作。「わがうみ」は兜太の内面風景で、そこに黒々と伏せ待機している虎がいるのだ。六〇年安保後の文化反動の嵐の中、「やってやるぞ」という、御しがたい意欲が暗示されている。自画像でもあろう。
 さて、第十五句集『百年』の刊行によって、そうした兜太俳句の流れは、より総体的、俯瞰的に鑑賞し、考察することが可能となった。その中で、「戦争とトラック島」関連の俳句は、戦時のトラック島体験に発した、一条の水脈のように、反戦と平和、人間の自由への強烈な信条を胸に、えんえんと絶えることなく、むしろ最終章『百年』で開花、結実している感が強い。
 青年兜太が、戦地から石鹸に詰めて大事に持ち帰り、公表した俳句は、句集『少年』と未刊句集「生長」に載せた百二十四句だが、帰国後は、「戦争とトラック島」の視野を広げて、沖縄戦、ベトナム戦争、そしてヒロシマ・ナガサキの原爆と、忍び寄る戦争への危機感を詠んだ作品をふくめ、その数は百六十句。合わせて二百八十四句に及ぶ。
 帰国後のそうした俳句を句集別にみると、『少年』八句、『金子兜太句集』二十七句、『蜿蜿』一句、『暗緑地誌』二十四句、『狡童』一句、『旅次抄録』一句、『遊牧集』一句、『詩經國風』一句、『皆之』八句、『両神』三句、『東国抄』九句、『日常』十七句、そして『百年』三十六句と続く。
 途中、一句ずつ、あるいはゼロの句集が続いているが、その間、先に述べた散文表現の「トラック島戦記」に打ち込んでいた時期と重なる。興味のある数値だと思う。うち私の感銘する『日常』までの五句と、『百年』から五句を挙げる。

  わが戦後終らず朝日影長しよ(『狡童』)
  麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな(『詩經國風』)
    紀州勝浦に、トラック島最終引揚げの戦友たち集る
  みな生きてた湾口に冬濤の白さ(『皆之』)
    悼 千葉玄白
  銃弾浴び薯をつくりて青春なりき(『東国抄』)
  飢えの語に身震いするよ春鴉(『日常』)
  戦争や蝙蝠こうもり食らいうえとありき(以下『百年』)
  青春の「十五年戦争」の狐火
  狂いもせず笑いもせずよ餓死の人よ
    朝日賞を受く
  炎天の墓碑まざとあり生きてきし
  戦さあるな人喰い鮫のうたげあるな

 最後の句の宴をする人喰い鮫は、兜太が好きな青鮫である。青鮫にちなんで、イメージによる兜太五十代の名句がある。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)

 白梅の咲く早春の朝。庭中が海底のような、まるで命を運んでくる感じの蒼い空気につつまれる中を、何匹もの精悍な青鮫が悠々と泳いでいるではないか。春が来た。いのち満つ、と兜太は咄嗟に感受し、この一句が生まれたそうだ。なぜ青鮫か、聞かれても自分でもよく分からなかったという。
 ところが後日、ニューヨークでのある賞の選考会で、アメリカ人の選考委員が、それは「トラック島で見た青鮫ではないか」と評した。それを聞いて兜太は、「あっ、そうか」と思わず納得したことを、自著『他界』(二〇一四年刊)で述べている。トラック島大環礁の外には青鮫がわんさといて、撃沈され海へ投げ出された日本兵の死体を、宴のように喰らいまくっていたと聞く。
 兜太の「トラック島戦場体験」は、無意識の深層心理のひだにまで、しっかり記録されていたのである。

 ㈣ 「なすべきは我にあり」の内面史

 これから特徴の第二に入る。その兜太の『戦後俳句日記』は、日記といいながら、人間にとって最も肝要な、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった基本テーマと体当りした、すさまじいばかりの自己(人間)探求の記録である。
 それが、まだ俳句人生の展望が見えにくい三十歳代にはじまる第一巻から、現代俳句協会会長、朝日俳壇選者となり俳句界の頂点に立った七十歳代前半までの第二巻を通じて、その「なすべきは我にあり」の自省と自己進化の姿勢は、変わっていない。兜太という人間の太さと人間臭さに感心しながら、簡潔にその特徴的な個所の紹介と解明を進めよう。

三月十八日(一九六七年・47歳)
 小生の目的は何か。〈人間〉を知ること。椎名麟三のいうような〈人間の自由〉探求はまだ空々しい。そのためにいまの虚偽と虚栄のベエルを、ひんめくること。

十一月二十五日
 車中、子規のことを読みながら、また何を目的に生きるか――と考えはじめ、やはり〈自由〉だ、自由に生きるということだ、と思い定める。これを妨げるもの〈非人間者〉と闘い、これによって人に迷惑をかけない、また物質だけでなく〈精神〉〈心奥〉の自由を第一としたい。

一月一日(一九六八年・48歳)
 考えていたことは〈自由〉ということ。この言葉がまだうとうとしている早朝に突然訪れ、そして離れない。人間を考えることは、それのエゴ(広く肉体的欲求まで含めて)の自由を考えることに等しい。人間はエゴイスティックで、従って、人間関係は〈不確実〉なものだ。その〈自由〉。

十二月二十三日
 現状をみると、雑文書き、小名誉欲、小権力、小思考――それにとりつかれていた自分が浅間しく思える。組合に踏みきったときのように、第二の踏みきりをやる時機にきているし、……必ず、やりとげる。

一月四日(一九七〇年・50歳)
  〈人間〉そのままのすがたか、エゴイズムとは別の面を示すことを知るべきである。迂闊に人間不信を語ることに恥しさをかんじる。

四月二十九日(一九七二年・52歳)
 何をやっているのか、何をやるか、――を問いなおす。〈寛厳〉を考え、いまの現象的な風潮を〈人間的に問いかえす〉こと(特に〈自由〉とは〈他を侵さざるものなること〉)を確認する。

五月五日
 自由のために、というが、自分だけの自由(個の道)と、他のための自由(革新への道)がある、と思い、その双方に足をかけているあいまいさが自分を辛くしていることを、あらためて知る。

一月一日(一九七六年・56歳)
 ここにあらためて決意す。こんどは〈大ぼらふき〉で終りたくない。それにしても、助平根性をおこすな。〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉。

四月十七日
 この頃思うことは、一切の経歴や過去の生き方を抜きにして、裸かの、今の一人の男として、はたして自分は〈立派〉といえるか、ということ。これをおもうとき、いちじるしく不安になり、妙に人の目が気になる。修業修業。自然自然。

十二月二十六日
 ①なぜ他人に拘泥するか。結局おのれの覇権意識とそれに伴う末梢的強気にすぎない。
 ②自分のやること、理論を一と筋にかためて、自らを恃すべし。
 ③自分に太く徹して、右顧左眄するな。

 ここで第一巻は終わっている。『俳句日記』ながら、ここまでで、兜太の「自由論」は、ほぼ定まってきたといえそうだ。一九七六年元旦の日記、「〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉」ということばで、その基本線が要約されていると思う。それは兜太の、波瀾万丈の時代を生き抜く生き方、人生哲学でもあるといえよう。
 この間の兜太の句集の中から、私なりに「人間の自由」のモチーフを感じさせる作品を、三つ挙げる。

  無神の旅あかつき岬をマッチで燃し(『蜿蜿』)
  林間を人ごうごうと過ぎゆけり(『暗緑地誌』)
  髭のびててっぺん薄き自然かな(『狡童』)

 この『狡童』という第六句集名は、「ずるい、美貌、剛情」という三意から、「煩悩具足の、まだまだ青くさい自分のことを言いたかった」と、「あとがき」で述べている。
 同じく第三句集『蜿蜿』の「後記兜太教訓集」では、自らの目標としている「人間の自由」について、その時点でのまとめとして、こう書き記している。

 私は、今までも、これからも、〈自由〉を求める。肉体の自由か精神の自由かと言った、小賢しい区別はしない。それらすべての自由を願う。そして、自分の自由が他から侵されるときは自由を守るために闘うことも辞さない。その代わり、他の自由を侵すことは絶対にない。本当の自由とは、自分が絶対に自由であるとともに、他の自由も絶対に侵してはならないものと思う。

 そしてトラック島戦場で見た、人間の赤裸々な「エゴの本能」についても、「自由論」との関係で、続けてこう考察を深めている。

 それだけに、自由の実現は、エゴを馴致することのできる精神の成熟を待つしかないと思う(中略)私は、エゴの赤裸々な振舞いを、人間臭くて美しいとさえ思いつづけてきた。

 こうして、第七句集『旅次抄録』(一九七七年刊)の「後記」では、「いつの日か、自信をこめて、〈自由人宣言〉をやってやろうとおもっている」と、あえて言明しているのである。まことに兜太である。

 さらに、『俳句日記』第二巻ではどうか。私は、兜太という俳人の、人間として、俳人としての一段の成熟過程を見るようで、感激しながらむさぼり読んだ。その到達点は、一九八九年七月十八日の『俳句日記』の、次のくだりである、と思う。

 芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間も含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。……存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を噛みつつ句を作れ。

 先に述べた、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった兜太の厳しい自己(人間)探求は、当然の流れとして、④自分の俳句、自分の存在、そしてそれを〈天然と一体化〉する、自らの思想・哲学をしかと確認するところまで発展している。自省と自己進化といった生き方の基本姿勢は、もちろん変わっていない。第二巻では、その心境を軽妙に記録している。

二月十六日(一九八二年・62歳)
 小倉八十の手紙で、ふと、〈ふたりごころ〉の第一は、自分を見るこころ〈自己客観化〉と気付く。この余裕のない現代人。

七月十二日
 寄居夏期大学での講演チラシに、「野太く素朴な庶民の精神を大事と見る」ということばを小生の紹介に付したという。それをおもいだす。ズケズケした存在感。ズバズバ吐きだす俳句。

三月二十二日(一九八四年・64歳)
 わが戦後俳句史に関連して、〈立身出世主義〉、〈利己と権力意識〉のことを話し合う。

七月三日(一九八九年・69歳)
 『雁』の一日一句に集中してゆく。これを軸に、自分の思想ということを詰めてゆきたい。承知しているつもりで、なこと多し。利己と権力、本能と自然じねん、土と存在、などなど。

七月六日
 冨士田元彦からいわれた一日一句を励行している。自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日
 哲学を繰りかえし噛み確かめる。(以下は67頁に引用)

七月十九日
 小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

一月二日(一九九〇年・70歳)
 俳壇覇権主義をおろかしく思いつつ、どこかでこだわっている我が身のばかばかしさ。よい仕事をせよ。

一月三日
 こころの持ち方がすこし崩れている。歳末多忙なせいか。現象的になっている。じっくりと取り戻せ。〈自由〉。〈こだわらない〉。〈旅の恥はかき捨て〉。〈霊力〉などと自分に言う。

三月二日
 何故俳句を、と問われて、〈笑いながらこころのことが話せるから。人間万事、色と欲のことも承知の上で〉と。

七月十七日
 朝、皆子と話しながらまとめる。人間の自由と純正を志向する姿勢こそ一流。それを達成し、あるいは達成せんとして姿勢を崩さぬ者は一流の人物。達成をもとめつつ迷いふかき者は二流。達成をもとめない者は三流。

七月十八日
 自由とは、本性のままにあり得ることで、善悪不問、価値多様でよいわけだが、しかし、性善に傾けて(志向して)、自分を置き他を見ることのほうが本当の自由と見る。純正であることが自由の第一義と見る。むろん、善悪両面を承知した「さめた目」に立ってのこと。

十二月二十七日
 「なすべきは我にあり」。この語、あれこれと俳壇思惑のあと、突如湧く。これなる哉。へたへたぐずぐずの対他意識を捨てよ。

十二月二十二日(一九九三年・73歳)
 そのとき、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」が出てくる。それも無人の秋暮の野の寂蓼として出てくる。〈わが俳道〉などという想念なしに景として。そして〈気力〉と〈目的〉を呼びおこして〈空しさ〉を抑え込む。〈気〉を呼び込むことは僅かながら出来てきた。〈目的〉は不熟。長く〈目的〉を見失っていた自分に気付く。

十二月二十九日
 朝、虚しい気分が湧いては消え、湧いては消えしていたが、朝食のあとにわかにシャンとして、〈超越〉の語が出てくる。俳壇風景など小さい、と思う。それより自分の目的を見定めよ、と。

 この『俳句日記』第二巻の時期の俳句も収めた、第十二句集『両神』の後記で、兜太は自らの俳句観について、こう述べている。

 俳句は、どどのつまりは自分そのもの、自分の有りていをそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。……同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鰯や、むろん人間やと、周囲の生きものとを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。……これからの自分の課題はこの「天人合一」にあり、と以来おもいつづけている。

 そうした、成熟しても人間臭く自在な兜太の俳句を、私なりに三つ挙げる。

  人間に狐ぶつかる春の谷(『詩經國風』)
  牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ(『皆之』)
  酒止めようかどの本能と遊ぼうか(『両神』)

 一句目は、郷里の秩父での作。あたかも春。人間も狐も一緒。アニミズムの親しみと交感がみられる。二句目は、熊谷の家の近くで鳴き続ける牛蛙ら。兜太も愉快に「ぐわぐわ」。オノマトペが生きている。三句目、痛風四回で酒を止める。しかし、ある程度は本能を自由にしておかないと、長つづきしない。余裕余裕と、にんまり。人間兜太の成熟感が、作品にもたっぷり表現されている、と思う。
(次号へつづく)

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察① 岡崎万寿

『海原』No.17(2020/4/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿
《3回連載・その1》

はじめに

 金子兜太生誕百年を記念して、二〇一九年九月、第十五句集『百年』が刊行された。帯文の、兜太のことば
 「俺は死なない。この世を去っても、俳句となって生き続ける」
が、なんとも嬉しい。燻し銀のような声で、じんわりと心へ伝わってくる。
 同じ頃、待望の『金子兜太戦後俳句日記』第二巻(一九七七〜九三年)も出版され、いよいよ兜太という俳人の全人間が、全作品・書籍とともに奥行をもって考察され、理解され親しまれる状況となってきた。兜太研究に関する基本文献が、ほぼ出揃ったといえる。
 そんななか、創刊されたブックレット『朔』一号の「特集金子兜太句集『百年』を読む」に載った、俳人、作家たちの数々のことばの中で、私は他界した兜太のこれから、に期待するといった少し奇妙な発言に、目を止めた。

 私は時折、令和時代の金子兜太、ということを考えます。……大きな足跡を残した金子兜太という存在は、令和の時代をさらに力強く生き抜いていくことができるでしょうか。金子兜太の俳句とその功績はこれからの俳人にどういった影響を与え、継承されていくのでしょうか。(宮崎斗士)

 そう、生身の人間だからこそ言葉が朽ちない。……死後、成長する俳人だろうと思います。優れた作家は死後も成長するんですね、存在していた時以上に。金子さんはそういう一人になるだろうと、そういう予感がいたします。(宇多喜代子)

 この「令和の時代に生きる兜太」「死んでも成長する兜太」といった、未来志向のことばが、光って見える。そうあってほしい。小論は、その未来志向で、『金子兜太戦後俳句日記』の解析を中心に、俳人兜太という人間そのもの、俳句と生き方そのものに肉迫したいと思う。
 六十一年間、全三巻に及ぶ同『俳句日記』は、そのための好個の基本データである。その第一巻、二巻を流れる特徴の第一は、小説「トラック島戦記」を書き上げたい、異常とも言える兜太の執念である。先の小論「俳人兜太のトラック島戦場体験の真実」(「海原」10・11・12号)で書いたように、その格闘は、第一巻(一九五七〜七六年)で十八年かけても終わっていない。では、第二巻ではどうなのか。
 特徴の第二は、人間の極限状態といえる「死の戦場」体験と、その深刻な自己検討に発した、戦後の俳人兜太の生き方である。それは、〈心奥〉の自由を求め、人間のもつ本能、欲望、エゴイズムを率直に見つめつつ、「なすべきは我にあり」と、透徹した自己省察と自己進化、成長を重ね、ダイナミックに時代を生き抜いた、俳人兜太の知られざる内面史である。
 俳人兜太とは何者か。興味津津、考察を深めてゆきたい。

㈠ 兜太の「トラック島戦記」追考

 『俳句日記』第二巻でも、俳人兜太の小説「トラック島戦記」を書く熱意は、依然続いている。その主な部分だけ、紹介することにしよう。それ自体、みごとな日記文学だと思う。

 二月二十八日(一九七七年)
 どうしても戦記を、の執念もえるばかり。怨念にちかい。……当面戦記に徹すべし。
 七月八日
 皆子曰く「戦記を書いているときがいちばん楽しそう」と。気分楽しく、文章苦渋。
 七月十四日
 戦記。……とにかくこれをやらなければ話にならない。朝から蒸し暑いが、気力をこめる。
 七月十六日
 俳諧と戦記。戦記完成まではこの二本に絞る。
 七月二十日
 戦記。どうも稚拙におもえて、途中直したりして、すすまない。かたくなっているせいだ。それと、新興俳句事件
など、新に加えたせいもある。
 八月十五日
 敗戦の日。わが戦記いつ成るや。焦らず、しかし持続的に書きつづけよ。願わくば、せめて成るまででも環境に変化なきことを、父母妻子孫、すべて健康であれかし。
 九月三十日(父死す)
 十二月三十一日
 しかし散漫。……以後「戦記」を主題として、集中方式をとらないと、まとまったことはできないとおもう。
 五月八日(一九七八年)
 はやく戦記に着手したい。なによりも私自身の〈人間のために〉、一刻も早く書きたい。
 八月三日
 朝焼。しきりに「椰子の丘朝焼しるき日日なりき」をおもいだしている。のってきた。この大朝焼は合図のごとし。戦記再開。
 九月十六日
 戦記。……かるい不安もわいたりするが、なんのなんの。戦記のあと、読売の選と一茶季語集の下書き。このほうはあまり気がのらない。
 十一月三十日
 戦記に戻る。まだ雑事はあるが、戦記に集中すれば余暇でやれるていどのこと。戦記と俳論(時評)、一茶(一茶季語集)だけをやること。
 四月四日(一九七九年)
 一茶、戦記、中山道、秩父事件、秩父路の線をやりぬけば、〈死者に酬いる〉自分なりの生きざまが見えてくる。
 九月六日(一九八〇年)
 さて、おれはなにをやるかと考えてしまう。中山道が終ったら、歳時記をやりながら、秩父の日常記録をやる。そして戦記をやり、秩父事件におよぶ。――そんな展望をおっかなびっくり固めながら、「国民文学」とは何かとおもっている。

 見るとおり、一九七九年、八〇年の『日記』では、「トラック島戦記」はいくつもの並立する当面の課題の一つとなっている。そして、事実上の終わりとなったのは、一九八〇年十月二十九日、筑摩書房の編集者から「戦記」の草稿を読んで、「先生らしくない文章」(ゆるい文章)と評されたことだったようだ。その後の『日記』で、兜太はこう書いている。

 十一月四日(一九八〇年)
 筑摩井崎氏より手紙。小生電話して、秩父事件を先にやることを伝える。戦記は〈方法〉をかためなければ繰りかえしになる。そのあと、軽い落胆、不安。戦記をやはりやるべきだったかなどと軽い惑い。

 こうして、一九五八年十一月以来、兜太三十九歳から六十一歳までの、丸二十二年間に及ぶ小説「トラック島戦記」(筆者注・『日記』では途中から「環礁戦記」と変わったが、小論では統一してそのままのタイトルを用いる)の執筆、取り組みは、強烈な書きたい意欲と予想外の難行との鬩ぎ合いの中で、ここで実際上の終末となっている。
 年譜を見ても、この当時、兜太は朝日カルチャーの講義開始(一九七八年)、「海程」秩父道場開始(一九七九年)、第一回俳人訪中団参加(一九八〇年)、現代俳句協会会長就任(一九八三年)、「わが戦後俳句史」海程連載開始(一九八四年)など、ますます多忙を極めている。それでも兜太の中では、トラック島は終わっていなかった。

 十月二十三日(一九八三年)
 そこで話した「戦後の試行錯誤は〈死者に酬いる〉ことを生き方の根柢にしたところからはじまる」という線にやはり執してゆかねば、とおもい、「わが戦後俳句史」とともに「環礁戦記」をと決める。自分で納得できる生き方を、と改めておもう。
 十二月二十五日(一九八五年)
 来年の計画を練る。……小生自身「環礁戦記」に未練もある。しかし、いまの時期、昭和三十六年以降十五年間の俳句と自分に取組むべきかもしれぬ。迷う。

 兜太にとって、「トラック島戦記」とは、なにより自分自身の〈人間のために〉、自らの〈生きざま〉として、精魂をこめた人生的なものだったのである。そのために、二十二年という膨大な時間とエネルギーが投入されている。
 したがってその草稿が未完成、未発表に終わっても、その過程での、生死の戦場体験にもとづく赤裸々な人間考察の反芻、深化は、それからの兜太独自の人間観、俳句観、世界観の展開に、色濃く反映されていることは間違いない。そのことは四章で述べる。

㈡ 人間の極限体験をした表現者

 ここで私は、「トラック島戦記」に執念を燃やし続けた兜太の生きざまを、さらに深く真っ当に理解するため、同じく、第二次世界大戦中、アウシュヴィッツで人間の極限状態を体験した、ユダヤ系イタリア人作家プリーモ・レーヴィの古典的名著『これが人間か』を、改めて読み返した。そして兜太との意外な共通項を発見して、驚いた。
 レーヴィの生まれは、兜太と同じ一九一九年。ナチス・ドイツの強制収容所に送られたのも、兜太のトラック島赴任と同じ一九四四年。そのトラック島戦場は、米軍の包囲作戦で補給路を断たれ、極端な飢餓状態に追い込まれ、軍人軍属四万人のうち八千人が、ほとんど餓死している。うち兜太率いる土建の民間部隊が、もっともひどかった。アウシュヴィッツではユダヤ人をはじめ百六十万人が、ガス室で、無惨に死んだ。
 レーヴィは化学技術者ということもあって、僥倖にも生還した一人である。『これが人間か』は、次の詩から始まっている。

 これが人間か、考えてほしい/泥にまみれて働き/平安を知らず/パンのかけらを争い/他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。
 考えてほしい、そうした事実があったことを。/……そして子供たちに話してやってほしい。

 兜太とレーヴィは、二十歳代中頃に、人間が人間でなくなる異常な極限状態を体験し、その生ま生ましい体感、記憶を自らの肉体に刻み込み生還した、数少なくない表現者である。生き残った自分はなにをなすべきか。生涯かけて自問自答し、それを自らの人生の課題としている。そこに共通する三つの特徴を挙げると――。
 一つは、戦争とファシズムによる、こうした超非人間性への体ごとの告発、警告である。

 兜太 戦争体験というものはフィクションじゃない。我々生き延びてきているものには、語り伝える義務がある。(『語る兜太』)

 レーヴィ 「他人」に語りたい、「他人」に知らせたいというこの欲求は、解放の前も、解放の後も、生きるための必要事項をないがしろにさせんばかりに激しく、私たちの心の中で燃えていた。(同著・序)

 二つは、生き残り生還した自己への、微妙なこだわりである。

 兜太 こちらは主計(筆者注・食糧調達の担当官)として、あと何人死んでくれたら、この芋で何人生きられるかとさいないう計算をしてしまう。自己嫌悪に苛まれました。(『のこす言葉 金子兜太』)

 レーヴィ この生き残りの問題は、アウシュヴィッツ強制収容所から解放された後も、レーヴィの心の中でわだかまりとして残った。……死ぬまでそうするのである。(訳者解説)

 三つは、戦後二人とも、表現者としての仕事と並行して、戦場及び強制収容所体験の語り部となって、広く訴え続けたことである。

 「戦争法案」反対で高揚した二〇一五年を頂点とする、兜太の語り部活動は周知のこと。『金子兜太戦後俳句日記』第二巻では、早くも一九八九年四月、国学院大学で自治会主催の講演「危機の時代に生きる学生に望むこと――私の戦争体験と俳句」について、話をしている。
 レーヴィも、「強制収容所について語るのを義務と考え、中学校、高校からの講演の依頼を受けると断らずに出かけ」たそうである。
 『これが人間か』の初版は一九四七年十月だが、強制収容所に関する考察の集大成ともいうべき評論集『溺れるものと救われるもの』の出版は、一九八六年四月。つまり、彼が自死する一年前まで書き綴っている。「若い読者に答える」で語る次のことばは、彼の信念でもあったろう。

 ファシズムは死んだどころではなかった。ただ身を隠し、ひそんでいただけだ。

 兜太とレーヴィの生涯と、その表現を見ると、普通では想像を絶する、人間破壊の悲劇を体験した人間でないと、本当には分からない、人間の尊厳をかけたあるものが確かに存在する。そこから湧き立つ表現意欲は、尋常ではない。兜太が二十二年間にわたり執念を燃やした、「トラック島戦記」が、その顕著な一例であろう。
 最終章の句集『百年』には、そうした惨い戦場体験を抱き、終生語り尽くしたい兜太の内面が、俳句作品として重く立ち並んでいる。

 昭和通りの梅雨を戦中派が歩く
 雨期の戦場雑踏の街旦暮かな
 戦さあるなと逃げ水を追い野を辿る
 南溟の非業の死者と寒九郎

 今日、金子兜太という表現者の人間と俳句、評論、エッセイを論じ、鑑賞する場合、この新しいデータにもとづく視点が、新鮮に求められていると、私は思う。
(次号へつづく)

《誌上シンポジウム》 金子兜太最後の句集『百年』を読む

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。

《誌上シンポジウム》 金子兜太最後の句集『百年』を読む

2019年9月28日、文京シビックセンター・小ホール(東京都文京区春日)において、「金子兜太最後の言葉、最後の句集」と題する催しが開かれた。内容は、次のとおりである。

◇第一部映画「天地悠々兜太・俳句の一本道」上映
◇第二部河邑厚徳監督スピーチ「最後の言葉について」
◇第三部最後の句集『百年』を読む
 ① 「海原」安西篤代表のスピーチ―宮崎斗士によるインタビュー形式
 ② 「海原」会員のパネリストによるシンポジウム
   司会:宮崎斗士
   パネリスト:小松敦/高木一惠/遠山郁好/柳生正名(五十音順)
 《発言内容》
  1 句集『百年』共鳴句(注目句)5句の鑑賞
  2「金子兜太最後の九句」に関してのコメントおよび鑑賞
  3 句集『百年』全体を通しての感想や総評

 今回は、4名のパネリストに当日の発言内容をコンパクトにまとめていただいた。名付けて《誌上シンポジウム》である。
 各パネリストが読み解く句集『百年』の魅力、多彩な世界の広がりと深さを味わっていただきたい。
<発言1> 「他界」としての『百年』  小松敦
<発言2> 新たに開かれた道で  高木一惠
<発言3> 韻律と映像、そして幻想  遠山郁好
<発言4> 「生きもの」としての尊厳  柳生正名

■金子兜太最後の九句(二○一八年一月二六日〜二月五日)
 雪晴れに一切が沈黙す
 雪晴れのあそこかしこの友黙まる
 友窓口にあり春の女性の友ありき
 犬も猫も雪に沈めりわれらもまた
 さすらいに雪ふる二日入浴す
 さすらいに入浴の日あり誰が決めた
 さすらいに入浴ありと親しみぬ
 河より掛け声さすらいの終るその日
 陽の柔わら歩ききれない遠い家

■金子兜太句集『百年』十五句抄
 昭和通りの梅雨を戦中派が歩く
 初富士と浅間山あさまの間青し両神山りょうがみ
 裸身の妻の局部まで画き戦死せり
 三月十日も十一日も鳥帰る
 被曝の人や牛や夏野をただ歩く
 雲は秋運命という雲も混じるよ
 白寿過ぎねば長寿にあらず初山河
 干柿に頭ぶつけてわれは生く
 オリオン出づ百歳までは唯の歳
 死と言わず他界と言いて初霞
 朝蟬よ若者逝きて何んの国ぞ
 戦さあるな人喰い鮫のうたげあるな
 妻の墓に顔近づけてわが足長蜂あしなが
 まず勢いを持てそのまま貫けと冬の花
 秩父の猪よ星影と冬を眠れ
(句集『百年』の帯に記された十五句をもとに、パネラーの選句と重ならないように選出/編集部)

​金子兜太第十五句集『百年』
出版社:朔出版
発行:2019年9月23日
編集:「海原」俳句会・句集『百年』刊行委員会

「他界」としての『百年』  小松敦

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

「他界」としての『百年』  小松敦

◆『百年』より五句鑑賞

 果てしなく枯草匂う祖国なり

 果てしなく枯れている。でも、果てしなく枯草のいい匂いがしている。むんむんと匂う枯れ草の匂い、土の匂い。その匂いをかぐ人間として、私はこの句の世界に引きずり込まれる。枯草は、また生えてくる。果てしなく青々とした大草原になる。そしてそんな土地が私の祖国なのだ。もしかすると、祖国であってほしいと願う希望かもしれないが、「なり」と断定し強く信じている。
 「祖国」という言葉には過去から現在まで連面と命をリレーしてきた歴史を感じる。たった十七音の韻律に、壮大なスケールの空間と時間が枯草の生命感とともに出現する。これが、兜太の「生きもの感覚」だ。産土秩父の猪や狼だけでなく。あらゆる命やものごと、自然やその上に構築された社会、過去・現在・未来も共存する、そういうパースペクティブの世界認識が、兜太の「生きもの感覚」であり、アニミズムである。だから、「生きもの感覚」でいると、「他界」も「この世界」も混然一体となる。
 兜太は「生きもの感覚」のことを近接した既成概念「アニミズム」とも称しているが、これは自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって、タイラーの定義や原始信仰を指しているものではなくむしろ〈アニミズムを生む人間の生な感覚『荒凡夫一茶』177頁〉のことを指す。
 また、「生きもの感覚」は、俳句の素材のことを言っているのではない。何を俳句に書くのかではなく、どう俳句を書くのか、という態度に必要な感覚である。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べていたのと同様に、俳句をつくる者の生き方そのものを指す。
 そしてくれぐれも誤解しないでほしいのは、兜太の「生きもの感覚(アニミズム)」や「他界」は、宗教とかスピリチュアルとかオカルトの話ではなく、リアルな世界と存在の話であるということだ。最近の人類学で主流の「多自然主義」を先取りしているし、この「生きもの感覚」や「他界」の思想を、リアルに哲学しているところがすごい。たとえば、95歳で出版したまさに『他界』という本で兜太はこんな考察を記している。
 〈ふと「今」を生きる人間にとって、他界は「未来」にあると閃きました。その未来は、わたしたちが予知できない手つかずの領域なはずです、本来は。だが、ちょっと待てよ、と青鮫を通して思えてきたのです。結局、わたしたちが想像している未来は、過去の経験や感情を通して思い描かれた、「時」の写し絵ではないのか。さらに言うなら、その過去とは、時の試練を経てもなお風化せず、わたしたちの心の奥底で静かにしぶとく棲息し続けてきた記憶です。『他界』199頁〉
 どうだろう。兜太のいのちは「他界」に行った。しかしその「他界」はどこにあるかというと、わたしたちの記憶にあるのだ。
 〈過去、現在、未来の「時」の同化。これこそいのちに段差のないアニミズムの世界ではないか。『他界』202頁〉
 「他界」とは過去、現在、未来の「時」の同化であり、記憶であり、「生きもの感覚(アニミズム)」の世界である。というのが兜太95歳に肉体化した思想であり、『百年』の世界である。

 散ることなし満開の桜樹に寝て

 「散ることなし」が力強い。寝て、まで読むと、散ることがないのは、寝ている者だとわかる。散ることのない花万朶。太平洋戦争のイメージが重なる。肉体は散ったかもしれない。現在と過去、桜木と人間、生と死が一体となって、魂は決して散ることがない、という安心感を覚える。

 山百合群落はげしく匂いわが軽薄

 山百合の横溢な生命力の中にあってはどんなに強い思いも軽々しく薄っぺらくなってしまうと自己を客観視する。客観視というのは自分ではない誰かの視線だ。誰だ。山百合の視線だ。山百合群落に心を寄せているうちに山百合になって己を見た。「人間中心」ではない。これも「生きもの感覚」に通じる。

 新聞紙夏の狐へとんでゆく

 新聞紙がとんでゆく。薄毛の夏の狐に対する愛情とも感じる。この時作者は「新聞紙」に「成っている」。「情(ふたりごころ)」が極まると対象に成りきり対象の視線を得る。誤解を恐れずに言えばそれはシャーマン的な技。アントナン・アルトーがタラウマラ族に触れて「器官なき身体」に覚醒したのと似ている。それは、「生きもの感覚(アニミズム)」と「情(ふたりごころ)」の実践であり、若き頃に理論付けようとした造型俳句論では未分化だった兜太作句の奥義である。
 積極的に対象に「成ってみよう」。違う世界が見えてくる。違う俳句が生まれるだろう。

 動きなし山人の晩夏の総て

 動きなし、が強く決まっている。せせこましく動くものはいない。晩夏の暗緑の森に暮らす山人はこの森と同化している。山人は晩夏の山そのものであり総てだ、という感覚。
 物や自然や動物や人間が分け隔てなく入れ替わったり同化したりする世界が、おとぎ話ではなく目の前の日常にある。

◆「金子兜太最後の九句」より一句

 さすらいに入浴ありと親しみぬ

 現在・過去・未来、記憶のさすらい。現実の中にいながらにして原郷を求める「定住漂泊」を最後まで実践している兜太。「入浴あり」がリアルである。
 我々も日々さすらっていると思う。昨日の失敗を後悔し、明日の試験を心配する今、気分はそんなにすぐれないかもしれない。過去や未来と繋がって、今がある。だからこそ、今のリアリティに、原郷に漂泊しよう。今この時の豊かさを知ろう。そうやって俳句が生まれることを兜太は他界してもなお教えてくれる。

◆「他界」としての『百年』

 この句集『百年』は、他界とこの世界、現在・過去・未来が混然一体となった句集だ。それはそのまま金子兜太晩年の日常であり「生きもの感覚(アニミズム)」そのものである。
 「生きもの感覚」は世界を慈しむ。記憶は語り継がれ、魂は連綿と滅びることなく、育まれる。だから兜太は「死なない」のである。

新たに開かれた道で  高木一惠

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

新たに開かれた道で  高木一惠

◆『百年』より五句鑑賞

 小学六年尿瓶とわれを見くらぶる
 津波のあとに老女生きてあり死なぬ
 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男
 雪の夜を平和一途の妻抱きいし
 河より掛け声さすらいの終るその日


 右(上)の五句は、『百年』より掲載順に抄出しました。次に拙き感想を述べます。

  秩父盆地皆野小学校はわが母校。そこを訪ねて尿瓶を語る 五句(内一句)
 小学六年尿瓶とわれを見くらぶる 〔二〇〇九年〕

 秩父俳句道場にゲスト参加された宇多喜代子先生や宮崎斗士ご夫妻達と奥秩父を訪ねた折に見かけた荒川東小学校の庭には、吊り輪のついた遊具などが沢山設置されていたのが印象的でした。
 掲句の眼目は「小学六年」だと思いますが、宇多先生は戦時下、まぎれもない「軍国少女」で、八月十五日は敗戦日としか言いようがないと話しておられます。
 兜太先生と同年同月秩父生まれの私の母は、六年生の学芸会で岡本綺堂『修善寺物語』の面作り夜叉王を演じ、白小袖に袴姿で鑿を振う写真が遺っています。
 大戦後の平和に馴れた子供と言えども六年生です。教科書で習った「俳句」の大先生が尿瓶を紹介する姿に戸惑ったり、可笑しく感じたかもしれませんが、いかにも兜太先生らしい、子供達への「命」の擦り込みと思われます。

  東日本大震災以後 十五句(内一句)
 津波のあとに老女生きてあり死なぬ 〔二〇一一年〕

 被災の老女と少女の生還は当時度々報道されて、掲句もそれを題材にしていると思います。「生きてあり」の感動をそのまま表出して、そこまでは誰でも言えますが、「死なぬ」と据えたところに、老女だけでなく、命あるもの同士としての強い交情が籠もりました。五七五の力、兜太俳句の面目躍如の句と思います。

  草田男頌 六句(内一句)
 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男 〔二〇一六年〕

 中村草田男創刊の「萬緑」が終刊、の報に接しての感慨とも思われます。
 『金子兜太戦後俳句日記第1巻』の一九五九年六月(39歳)に「草田男、朝のラジオでインタビュー。相変わらず。聞いていると、妙に詩的雰囲気を感じるから面白い存在だ」と記して、お若い頃から詩性を評価しておられました。
 草田男『来し方行方』所載〈鳴るや秋鋼鉄の書の蝶番)の前書に――十九歳よりの愛読書『ツアラツストラ』訳書にて、二十数回、原書にて四回通読、今又原書を、初めより一節づつ読み改め始む――とありますが、兜太先生の勉強ぶりも、俳句日記で偲ばれます。
 平成元年の朝日カルチャー特別講座、「気ままに読む俳句の古典」の芭蕉『野ざらし紀行』の講義で、先生は師の加藤楸邨について、実作者として芭蕉研究の第一人者であり、〈野ざらしを心に風のしむ身哉〉の旅立ちの句に感動し、芭蕉の不退転の心を真っ直ぐに受け取っていた、と紹介する一方で、芭蕉がすぐ後に箱根の関越えの句〈霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き〉を配した点に注目し、この中下句の見立ては芭蕉の独創で「滑稽」を意識した句であり、野ざらしの句の緊迫感から離れた余裕が感じられる、その二重性に留意したいと、楸邨とは異なる見解を披露しています。
 『百年』の〈脳天や雨がとび込む水の音 蕉翁に〉〈くちなしや蛙とび込む人の家〉などのもじりに芭蕉への親しみを感じますが、富士山が世界遺産に登録された頃の〈「大いなる俗物」富士よ霧の奥〉の霧の奥には、師と芭蕉、またご自身の姿を観ておられたでしょうか

  亡妻つまと平和 十二句(内一句)
 雪の夜を平和一途の妻抱きいし 〔二〇一六年〕

 前掲俳句日記・一九七五年(55歳)
 十月十一日(土)
皆子「あなたは俳句に徹底しなさい。富士30句はよかった。あのスケールはほかにはない。碧梧桐をまずやりなさい。その上に立って散文を書きなさい。スケールの大きい記録より畸人伝がむいています」――これは頂門の一針。いい意見だった。

 右のような皆子夫人の感想助言が日記第1巻の諸処に出て、夫人こそ最大の同士であったと知りました。皆子作品の魅力は「海程」誌連載の山中葛子エッセイ「花恋忌」が詳細に伝えています。

  「最後の九句」より
 河より掛け声さすらいの終るその日 〔二〇一八年〕

 河より掛け声――荒川の流れが、岸辺の緑泥片岩と共に先生に重なります。文明発祥の長江に因む名の御妹もいらして、先生の河は『狡童』の〈雁君に墜ちれば遠き大河かな〉にも繋がり、「掛け声」はまた、天地の声として響きます。
 映画『天地悠々』の監督に今後を問われ、「(一茶の)なんでもいいやい知らねえやい」だと応じた荒凡夫の先生。実は〈浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねえやい」草田男〉でしたが…。

◆定住漂泊――百年の営み

 俳句日記・第2巻の長谷川櫂解説に、「言葉には自己と他者の関係がすでに生じている。これこそ言葉が本然的にもつ無自覚な社会性であり、政治性である」、「(兜太先生が社会性の自覚を必要とされたのは)俳人にかぎらず人々の社会性の無自覚こそが昭和の戦争を許したと考えていたからであろう」とあり、先生の立ち位置の厳しさを改めて想いました。
 定住漂泊の兜太先生の百年の営みは、膨大な書、影像その他、そして人を遺しました。さすらいを終え、新たに開かれた道で、尿瓶の句の、かの子供達との再会も楽しまれるでしょう。

韻律と映像、そして幻想  遠山郁好

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

韻律と映像、そして幻想  遠山郁好

◆『百年』より五句鑑賞

 荒川で尿瓶洗えば白鳥来

 荒川は先生が幼少期から馴れ親しんだ特別な川。その川でこれまでの歳月を思い、尿瓶を洗う。今年も冬になり白鳥がやって来た。川も人も白鳥も、生きとし生けるもの健やかで美しいこのいのちのめでたさよ。と生を謳歌する。大らかで悠々と如何にも先生そのもの。

 しなの花かくも小さき寝息かな

 科の花は、先生と吟行で訪れた玉原高原で出合った。細かく黄味を帯びた白い花で、芳香があり愛らしく野趣もある。今、その科の花が咲いている。どこからか幽かな寝息が聞こえる。森に棲むものの寝息か。もしかして森そのものの寝息かも知れない。繊細で鋭敏な感性は澄み渡り、かくも小さき寝息を感受し、そっと掌の中で温めている。

 あおだもの白花しろはな秩父困民史

 他界される四年位前、小さな句会でこの句に出合った。お宅の庭のあおだもの花が余程気に入られ、いいんだよ、あおだもの花が。と何度もおっしゃった。奥様の皆子先生が秩父の山から移植された木で、清潔で白く細い花を付ける。先生はその花を目にされるにつけても、いのちの原郷である秩父の山河への思いを募らせる。そして、その思いは、さらに研究テーマの一つであった秩父困民史へと拡がっていった。

 妻よまだ生きます武蔵野に稲妻

 向日性の先生の明るさがよく顕れている句。気力十分に、まだまだ生きますよ、と一寸戯けて決意表明されている様子が、なんとも先生らしい。奥様には、未だそちらには行きませんが宜しく、と話し掛ける。折しも稲妻が走る。稲妻の霊性は、どこか皆子先生にも通う。妻よ、と呼びかけ稲妻で結んだ遊びごころが楽しい。

 炎天の墓碑朝日賞を受くまざとあり生きてきし

 想像を絶する戦争体験は、戦地から帰国されてからも脳裏を離れることはなかった。だから長い歳月を経てもこのように書く。書かなければならないという気持ちが強かった。そして、朝日賞を受賞したそのタイミングでこの句を発表した。そのことに意義がある。反戦を訴え、平和への思いを、終生心に深く刻み、決して忘れまいという覚悟があったからこそ、炎天の墓碑であり、と言い切ることが出来る。つくづくストイックで意思の人であった。

◆「最後の九句」より

 他界される二カ月程前に、先生の滞在先へ皆んなでお邪魔したのですが、いつも通りお元気で、やあやあと現れ、これからの海原のことなどに耳を傾けられ、終始にこやかでした。その時、今日は人に会うんだからと無理やり入浴させられたんだよ。と冗談めかしておっしゃったのを覚えていたのですが、最後の九句に入浴の句が三句あったことに驚いた。「さすらいに入浴の日あり」から「さすらいに入浴ありと」へ続く絶妙な心の動きがユーモアたっぷりに書かれている。

 河より掛け声さすらいの終るその日

 それにしても、最後にさすらいの句を四句も書かれたんですね。常々定住漂泊をおっしゃっていた先生は、最後まで毅然とそれを貫き通した。

◆句集『百年』とこれまでの作品から思うこと

 先生の作品を考えるとき、この『百年』に限らず、まずその独得の韻律に魅かれる。その韻律はたとえ卑近な題材で書かれていても、いつも凜として格調がある。次に映像化のこと。先生はの持つ力を信じ、それを提示し映像化することを一貫して述べて来た。この『百年』でも偶然のものとの出合いの句をいくつも目にする。偶然と言っても感性を働かせ、対象と生々しく交感し、想像力を羽ばたかせて自分の世界を創造し開示する。このことに関しては、詩人の宗左近さんが著書の中で、金子兜太は日本のランボーであり見者であると言っていたが、それは予め見えていない真実に向かって、直観に導かれ、ある方向に鑿岩機を突き入れる。その鑿岩機には目がついていて、闇の中を見通す視力を持つ。と評したが、そのことと通じる。例えば人口に膾炙する、

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている
 おおかみに螢が一つ付いていた


を考えてもそのことが解る。すでに、金子兜太そのものであり、金子兜太の世界だが、それにもう一つの魅力を言うなら、幻想の匂いがするということ。人に見えないものが見える見者だから当然かもしれないが、しかし幻想と言っても、頭の中で作られたものではなく、あくまでも体験に基づいた事実があり、自身の肉体を通して、そのリアリティーを突き詰め、そのリアリティーを突き抜けたところに現れる幻想だ。だからインパクトがあり、不可思議な魅力があり、人に感銘を与えるのだと思う。

「生きもの」としての尊厳  柳生正名

『海原』No.15(2020/1/1発行)誌面より。
《誌上シンポジウム》金子兜太最後の句集『百年』を読む

「生きもの」としての尊厳  柳生正名

◆『百年』より五句鑑賞

 津波のあとに老女生きてあり死なぬ
 山影に人住み狼もありき
 炎天の墓碑まざとあり生きてきし
 わが師楸邨わが詩萬緑の草田男
 さすらいに入浴の日あり誰が決めた


 映画「天地悠々」で最も印象的な場面は兜太が最期に倒れる直前の最後のインタビューでした。そこで自身の残る人生をどう生きるかという問いに、師は一茶の生きざまに託し「何でもいいやい、死なねえやい」という言葉で答えました。
 この言葉に込められた切実な思いは私の選句で1句目に掲げた「生きてあり死なぬ」とイコールでしょう。3・11直後の作ですが、ひらがなで記された「あと」は後・跡・痕のいずれとも読め、「老女」も「兜太」「わたし」「あなた」とどんどんずらして受けとめることができます。
 実は冒頭の兜太の言葉は間違いなく、中村草田男の「浮浪児昼寝す『なんでもいいやい知らねえやい』」の記憶が最期に一茶の生き様と一体化し、口を突いて出たものでしょう。私の挙げた4句目では、兜太自身が最短定型詩の「詩」の部分を草田男に負っていることを認めています。あれだけ、激しい論争を交わした論敵の詩想が師の記憶の深層に根を張っていた証であり、兜太俳句がよって立つ根源を垣間見せてくれます。
 兜太がこの言葉を語ったインタビューの約1か月前、筆者を含む「海程」の10人ほどと一時入所中の施設で懇談の場が設けられました。この時、兜太は施設職員の女性の介護で入浴した体験を楽し気に語りました。これが「た」止めの印象的な最後の句の「入浴」でしょう。
 兜太の代表作「おおかみに螢が一つ付いていた」は各俳句総合誌による「平成を代表する句」投票で一位を獲得しました。昨年、平成最後の蛇笏賞を受賞した大牧宏の句集『朝の森』の帯に記された一句も「敗戦の年に案山子は立つてゐたか」。「た」は自由律俳句で多用され、その影響で渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立っていた」など新興俳句にも登場しながら、戦後俳句に定着しませんでした。それが兜太の句をきっかけに平成の時代に強烈な存在感を示すようになった。私は文語の「けり」と同様、「た」は口語俳句における切れ字の位置を占めると考えています。兜太はこの切れ字「た」を俳句文体に定着させた存在として俳句史に位置づけられるでしょう。
 一方、今回、私が選んだ2句目は「き」止め。文法的には「た」も「き」も過去の助動詞ですが、一説によれば、後者は「過去に自分で直接経験したこと」を意味し、伝聞など間接的な経験は「けり」を使うのが「源氏物語」「枕草子」の時代には普通だったとされます。これに対し、明治になって生まれた「た」は直接、間接の両方を表現可能。直接経験か、間接経験か曖昧だった一句から10年以上を経て、狼の実像が兜太の直接的な記憶の中にしっかりと棲みついた「き」と受け止められます。実は『百年』には「き」やその連体形「し」が数多く見出され、特に追悼句に使われる例が目立ちます。兜太が日課にしていた毎朝の立禅で想起した人々や物事を偲ぶ句だからこそ「き」を使ったのではないでしょうか。
 そして3句目。終戦後、トラック島を去るときの「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」を踏まえ、そのほぼ70年後に詠んだ句です。この兜太の戦後の人生が圧縮されたともいえる作の最後は、やはり実体験を示す「き」の連体形「し」で締めくくられます。
 実は『百年』の後記で安西篤代表が非常に重い事実を記しています。「ご子息、眞土氏によると、すでに2年ほど前から認知症の初期症状が出ていた」。周囲にいたわれわれには年齢相応の記憶力低下という以上のものには感じられなかったのですが、確かに往年の兜太の野生的な記憶力はすさまじく、旺盛な作句や評論活動の源となっていました。それと比べ、晩年の兜太自身が自分の過去の記憶と必死に向き合い、懸命に手繰り寄せる場面がしばしばあったのではないか。だから『百年』の中に「き」「し」が多用されたのだろうと想像します。

◆「生きもの」としての尊厳をもって

 人が「私」と言うとき、自分が体験してきた記憶の総体が前提になります。私は私の記憶が形作っている存在と言ってよい。だから重度の記憶障害では自分が誰であるかも分からなくなります。そんな時でも、私は「生きもの」としての尊厳をもって確かに在る―それが晩年、兜太が語った「存在者」ではないか。「俺が俺自身か、それとも別人かなんて何でもいいやい、俺はここに確かに存在し、死なねえ」という思いこそが、『百年』に収められた700余りの俳句のひとつひとつ、中でも今回、私が掲げた5句の中に込められている―。今『百年』を改めて読むことで、改めてそう感じずにはいられません。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実③ 岡崎万寿

『海原』No.12(2019/10/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む
俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実 岡崎万寿

《3回連載・その3》

㈣ 俳句力と「トラック島句会」の特徴

 感動的なことは、述べてきたような心荒ぶ「死の戦場」にあっても、金子兜太はあくまで、いや自然体のまま俳人であり続けたことだ。そればかりか、トラック島での二年八ヵ月(後半、戦後一年三ヵ月は米軍捕虜として)の戦場体験は、俳人として、新しい素材、モチーフ、刺激に満ちた試練の機会ともなった。
 それは兜太もち前の感性に富む生命力の賜物であり、同時に俳句という最短詩形のもつ表現力、適応力のみごとな展開でもあったと思う。では俳人兜太は、そこでどんな日本語の詩の美を開花させているのか。
 すでに兜太句集などで、何回も読んできた作品でも、見てきたような想像を絶する生死の戦場体験を、改めてその背景におけば、新鮮な“読み”の感激が生まれるかも知れない。
  足につくいとど星座は島被う
 二十四歳の海軍中尉・兜太が、日本海軍の一大拠点であったトラック諸島へ着任したのは、敗色のただよう一九四四年三月五日だった。同句は、その初期の作品である。
 その当時の心意を、第一句集『少年』の後記で、兜太はこう振り返っている。「戦争に反駁しつつ戦闘を好み、血みどろな刺激に身を置くことを望んだ。トラック島は好むところであった。」
 しかし、すでにトラック島は、二月中旬、二日連続の米軍機動部隊の猛攻撃を受け、基地機能は壊滅的な打撃を被っていた。その生々しい光景を目にして、兜太は「これはダメだ」と感じた、そうである。だが同句からは、そうした青年特有の心意の浮沈は、全く感じられない。
 そこに佇つ兜太は、もはや兵士でなく、大自然の中の一つの存在、一人の詩人に成り切っている。トラック島のみごとな星空に、よほどの感の高揚を覚えてのことだろう。「これは自分でも好きな句です」と、こう語っている。

 甲板士官ですから、島中を一人で歩き回ることが多かった。星空はじつに見事で、本当に星の傘を被っているような感じなのです。赤道直下といっても少し北にありまして、そのために北斗七星の尻尾が見える。南には南十字星がいつも見える。それらにまたがる無数の星々が、音がするほどキラキラと輝いていて、あの美しさはどうにもしようがないほどでした。一度お目にかけたいという思いはありますなあ。(『悩むことはない』)

 同句の「星座は島被う」という、僅か六文字に、これだけの感慨が籠められているのである。足元でよく跳ねているいとどは、秩父にも居た。入隊前に、「征旗巻くわが裸か身へいとど跳ぶ」という句も作った。海を隔てても、懐かしい同じ生きものなんだ。

  魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ
 着任して三ヵ月ほどたった、艦上攻撃機の基地のある楓島での作。ジャングルの一角に隠し積まれた魚雷は、まだ反撃の機会をねらってよく磨かれ、鈍色に光っていた。一発で数百人のった艦船を撃沈できる能力をもっている。その魚雷を、兜太は「鉄の匂うような」生きもののように感受している。
 その矢先、一匹の蜥蜴が魚雷の丸い胴を、チョロチョロと這い廻り、すぐに草むらに姿を消した。蜥蜴は暗褐色の背なのうるおう爬虫類で、太古より地球に棲むいのちそのもの。そうしたてかてかの武器と、ぬれ色の小動物の触れ合いの瞬間の感覚を、兜太は「自作ノート」の自句自解で、こう書き記している。

 その一瞬のなまなましい膚触感に、しーんとした緊張があった。(『現代俳句案内』飯田龍太等編)

 これが、俳人兜太の戦場だった。生々しい肉体感覚である。この句は、最後となった軍事郵便で父・金子元春への手紙に記され、伝言で、その写しが師・加藤楸邨へも送られている。戦後帰国して挨拶へいった折、楸邨からまず「“魚雷の丸胴”は良かった。臨場感だなあ」と激賞されたそうだ。記念すべき名句である。

  古手拭蟹のほとりに置きて
  銃眼に母のごとくに海覗く

 極限の戦場トラック島にあって、兜太がふるさと秩父の父母への想いを表現した作品である。一句目。兜太は汗を拭く古手拭を腰にぶら下げ、島中を見回っている。大便をもよおし、椰子の木陰で浜に続く珊瑚礁の海を見ながら、ほっと用を足している所だ。秩父から持ってきた手拭も、これが最後の一本、大分黒ずんでいるが懐かしい。
 野糞には、父との想いが重なる。父は山村の医者で自転車で往診する途中、悠々やっていた。「あんないいものはねえ」と、息子たちにも野糞をススメたそうだ。当時の山村では、そうした野性が日常のことだった。
 トラック島で野糞をする兜太の脳裏には、きっとその父の言葉と面影が浮かんでいたに違いない。そこに一匹の島の蟹が現れた。自然児に還った兜太と、自然の生きものの蟹との出会い――。兜太はその「蟹のほとり」に古手拭を置き、「おい」と一声、きっとかけたのではないか。俳人兜太らしい戦場俳句である。盟友の牧ひでをは『金子兜太論』(一九七五年刊)で、この一句を挙げてこう書いている。

 島での生活と生き方が、戦争の中でそのまま描かれている。……私はこの作品こそ、平明ではあるが、貴重な戦争俳句だとおもう。

 二句目。ここでは、海岸線に造られた戦闘用のトーチカの銃眼を覗きながら、秩父の母の暮らしの所作を思い出している。銃眼は敵軍を監視・銃撃するための小さな穴である。島内見回りの際、そのトーチカに入り銃眼を覗いてみた。ブルーの海が美しい。とっさに兜太は、秩父の家の小窓から、よく天気や周辺の様子を覗いていた母の姿が、目に浮かんだ。だがここは戦場。その落差が、詩心を揺すったのだろう。

  犬は海を少年はマンゴの森を見る
  被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

 トラック島には、先住民のカナカ族が住んでいた。子どもはほとんど半裸で腹を出し、パン、マンゴ、ヤシなどの木の実を主要な食糧としていた。そこへ赴任してきた兜太が、現住民にたいして差別のない、ヒューマンな目で接していたことを物語る俳句である。
 一句目。顔見知りの犬と少年が、今日も浜へ駆けてきた。ここでは犬も少年も対等、それぞれである。と、少年は振り返って高木のマンゴの森をじっと見ている。連日の米軍機による爆撃で、あちこち、かなりやられているのだ。「カナカの少年にとって戦争は災害以外の何物でもない。それが腹立たしかった」(『自句自解99句』)と、兜太は言う。なんとも視線が明るい。
 二句目。この句も米軍機の攻撃で、主食であるパンの大木が被害を受けている。その近くで、カナカ族の赤児が、思い切り泣いているのだ。池田澄子はそこに着目して、兜太との対話集でこう話している。

 事実として泣いていたとしても、その、赤児を描くというところが、とっても人間。……そこに赤児が泣いてるということが大事なことになっているというのが、ここが即ち兜太俳句ですね。(『兜太百句を読む』)

 戦場の修羅場にいても、俳人兜太の目は、巻き添えで被害に曝されている、先住民のカナカ族の暮らしへ向けられている。その犬、少年、赤児、生きものみんな愛しいのだ。こんな戦場俳句が他にあるだろうか。
 さて兜太はこうしたトラック島作品二百句ほどを、戦後復員のさい、大事に持ち帰っている。うち、句集『少年』に四十四句、未完句集「生長」に八十句、計百二十四句が公表され、現代俳句史の貴重な財産となっている。
 いよいよ、トラック島戦場での、金子兜太の希有な句業として挙げられる、いわゆる「トラック島句会」の考察に入る。ただ、その興味ある内実は、先の『あの夏、兵士だった私』『語る兜太』その他で、ほとんど語り尽くされているので、ここでは、それらの文献資料を総まとめして、「トラック島句会」がどうして開かれ続いたのか。そこでの兜太の役割と、俳句そのもののもつ力をどう見るかなど、大きく三つの特徴について、簡潔に述べる。
 一つは、この「トラック島句会」が、今日の日本本土では想像も出来ない、生死の極限状況にある戦場で、「軍の士気を鼓舞」するためという名目で、軍隊内で開かれていることである。それは三人の陸海軍詩人が、偶然にもトラック島戦場で出会ったことから始まる。
 その一人、矢野兼武海軍中佐は、筆名西村皎三という、詩集『遺書』で知られる有名な海軍詩人だったが、たまたま第四海軍施設部に赴任した兜太にとっては、直属の上官にあたる総務部長であった。その矢野中佐が、兜太が俳句をやっていることを承知で、「金子中尉、これから食糧などの補給が途絶え、士気が沈滞していく。句会をやって空気を和らげてくれ」と言うのだ。
 軍隊の中では、それは命令に近いものだった。その矢野中佐は五月末、転勤命令で帰国途中、サイパンで戦死した。「句会をやってくれ」という言葉は、彼の遺言ともなった。
 もう一人の詩人とは、陸軍戦車隊長の西澤實少尉である。爽やかな詩才をもち、「椰子を守る人々」という詩を見せてくれた。気の合う人間だ。彼に、矢野中佐の「句会をやってくれ」という話をした。「それはいい」と即答。この兜太、西澤というコンビで、八月中旬から陸海軍合同の句会が開かれることとなったのである。
 二つ目の特徴は、俳句に明るい提唱者の兜太のやり方で、参加者みんな和気あいあいと、句会がもたれたことである。陸軍は四、五人、海軍は工員たち十数人が、月二回ほど各自三句ずつ出句し、夜、椰子油のランプの灯を囲んで車座でやった。南方の島でのこと、季語などこだわりなしである。
 不思議なことは、犬猿の仲といわれた陸軍と海軍、階級差別の厳しい将校と兵と工員たちが、ここ句会ではみんな同じ人間に還って、俳句仲間に上下なしで句座がもたれ、続いたことである。これも兜太の人柄とリーダーシップあってのことだ、と思う。戦後、「トラック島句会」の名コンビだった西澤實は、こう話している。

 奇跡のようなものです。何より兜太の人徳、その包容力があって可能になった。もうひとつは、俳句そのものがもっている力、汎人間的な文芸の魅力だと思います。(『悩むことはない』)

 三つ目の特徴として、「トラック島句会」には、いま西澤も言うとおり、兜太の魅力と合わせ、俳句そのものの力、句会自体のもつ人間的魅力があったことも事実である。あまりにも殺伐とした戦場の気分から逃れ、素顔の人間に還りたかった。憩いの雰囲気がほしかった。しかも俳句という日本語の美しさ、優しさに触れながらである。句会は評判をよび、多い時には三十人ほど集まったのも、そのためだろう。
 したがって、リーダーの兜太が一九四五年初の、食糧事情悪化のため部隊とともに秋島へ移り、相棒の西澤も前年九月つづきに水曜島へ配転しても、「句会」は、『築城』というガリ版刷の会報を出しながら、少なくとも四五年二月末まで続いている。その証拠を『語る兜太』で述べている。かつて「トラック島句会」の参加者だった一人の、古い句帳(手帳)が新たに見つかったのである。

 「金子中尉」と書かれた二句もあった。下手な句だが、私の句に間違いはない。日付も八月十九日から翌年の二月二十三日まで。……この句帳の持主だった神田さんは陸軍の人。ずっと夏島に残っていたのですね。

 もう一つ兜太は、トラック島で陸軍連隊での句会を立ち上げる力となっている。一九四四年十月、句会の評判を聞きつけた柴野為亥知(ためいち)連隊長が、金子大尉(夏に昇進)を訪れ、指導を乞うている。兜太は二回ほど出席したが、秋島へ転勤となる。しかしその句会は、敗戦直前まで続き、句集「芽たばこ」まで出している。(『悩むことはない』)
 こうした戦争末期、南海の孤島トラック島で花開いた「トラック島句会」について、たとえその花はハイビスカスのように儚くても、俳人兜太と俳句力の視点から、改めて光を当てる必要があるのではないか。
 ようやく、冒頭に挙げた名句へもどる。

  水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
 一九四六年十一月、最後の引揚船「柿」の甲板に立って、去りゆくトラック島を見ながら作った俳句。真っ青な海に長い水脈が伸びる。その先、夏島のトロモン山のふもとには、たくさんの死者の墓碑を残してきた。その死者たちが、いま、兜太たちを見送っているように感じられる。その映像は、「いつまでも消えない」ほど、兜太のこころに焼き付いているそうだ。
 この句には、述べてきた兜太のトラック島でのすべての体験と、その深い想いが凝縮している。そして「置きて去る」の強い語調に、「非業の死者たちに報いる」これからの人生への、並ならぬ決意が込められている。文字どおり兜太の戦後の俳句人生のスタートとなった名句である。

㈤ 兜太の「戦争加害者意識」は「希薄」か
 ―長谷川櫂の問題提起に寄せて―


 『金子兜太戦後俳句日記』第一巻で、長谷川櫂が書いた解説「兜太の戦争体験」は、新鮮な切り口と問題提起で、かなりの議論を呼びそうだ。そうあってほしい、と願っている。その一つ、兜太のトラック島戦場にかかわる次の文章を、読者はどう受けとるだろうか。

 さらに重要な問題は、戦争加害者としての意識が希薄であること。(中略)たしかに兜太のいうとおり海軍士官への志願、南方第一線への志望が「男気」であったにせよ、兜太は自分の意志で海軍に入り、戦場に赴いたのは紛れもない事実である。

 ここには二つの論点がある。①はたして兜太は、「戦争加害者としての意識が希薄」だったのか。②その前に、トラック島戦場での海軍中尉金子兜太に、はたして「戦争加害者」といわれるような事実があったのか。
 加えて重視したいのは、晩年、反戦平和の国民的シンボルとも目された俳人兜太が、他界して間もなく、自分の『俳句日記』出版の「解説」で、あえて、「さらに重大な問題」として「戦争加害者としての意識が希薄」だと、長年、朝日俳壇選者として席を同じくしてきた長谷川櫂から、指摘されていることである。これは誰しも意外に思うに違いない。
 長くなったが、むすびにかえて、この問題を明確にしておくのも、小論の役割だと考える。コンパクトに論じたい。
 まず、その長谷川「解説」は、「戦争加害者」の問題で、兜太批判を意図したものというより、もっとスケールの大きい、兜太に寄せて戦争の陰惨さと、それを防ぐ「地球人としての想像力」を、若い世代に希望を託したいものとなっている。それは俳句界を越えた、今日の時代への真摯な問題提起であって、私も大賛成である。こう書いている。

 いいかえれば、判断能力のない赤ん坊と子ども以外の日本人の多くは戦争加害者でもあったことを忘れてはならない。いったん戦争が起これば誰でも被害者になりうるのはもちろんだが、誰でも加害者になりうること。これを直視するところからしか戦争は阻めないだろう。

 そして私が、小論㈠㈡で、未完に終わった兜太の小説「トラック島戦記」の経過を追う形で、明白にしたかった想像を絶する、したがって言葉では語りづらい戦場の修羅についても、同様にこう述べている。

 『あの夏』は注意深く読めば、ここに語られていることがすべてではないこと……これが兜太にできる精一杯のことだったかも知れない。率直にすべてを語れないほど戦争は陰惨なのだ。

 ここから、事実を挙げて、兜太が戦争加害問題で「意識が希薄」だったという、長谷川「解説」の誤解を解きたい。資料二つを紹介する。
 一つは、戦後、引揚船で帰国途中、「私の青春は、戦争という船に乗せられて、船酔いの連続だった。しかし、いま船酔いはおわった。これからは、ぜったいに、船酔いなぞしないぞ」と、最終的に腹を固めたことである。(「峠について」『定住漂泊』)その「船酔い」とは、次の二つを、『わが戦後俳句史』で確認している。

 (反戦運動の学友たちと)私はほとんど無縁に、ただ俳句だけに頭をつっこんで、感性のばけものとして生きていたのだが、そうした自分の生き方も、また戦争を一面では帝国主義戦争と考えながら、半面では民族防衛戦争としてそれを肯定し、自分に戦争参加の口実をつくって、むしろあいまい積極的に戦争に参加していたという、そういう曖昧な生きざまも、その二つとも私にとっては「船酔い」だった。

 こうした「曖昧な生きざま」で、自ら進んで戦争へ参加したことへの、徹底した分析と反省の上に、戦後の兜太の俳句人生がある。それが兜太の戦後の原点だ。長谷川「解説」は、そこをよく見ていないと思う。
 資料二は、兜太が戦場体験の「語り部」活動のスタートとなった、先の土屋文明記念文学館での講演である。そこで兜太は、トラック島へ赴任するとき、正直「血湧き肉躍る気持ちがあった」ことを、はじめに反省しながら、謝罪の言葉をこう語っている。

 しかし、日本がこの同じアジアの連中と殺し合いをして、しかもこちらが大変な殺戮をしたという事実は、これは絶対に悔いるべきだと思います。謝るべきことだと思います。(「俳句界」二〇〇一年十一月号)

 見るとおり戦後の俳人兜太は、戦争加害問題で「意識が希薄」どころか、きわめて積極的で、それが多彩な反戦平和活動のバックボーンとなっていたことは間違いない。
 ところが、この長谷川「解説」は、戦争加害問題を当時の日本人の大方がそうだったという一般論だけでなく、海軍士官の兜太個人にも、なにか「語っていないことがあるのではないか」、といった文脈で書かれている。はっきり一般論に限定していない。
 しかし、戦時中の個人の戦争加害責任を問うものであれば、それは人権問題からも、より事実に即し厳密でなければならない。トラック島戦場で、戦争加害をいうなら、具体的には先住民カナカ族との関係が問われるものだ。
 トラック島のあるミクロネシアは、歴史的にスペイン領、ドイツ領、そして第一次大戦後は、日本が国際連盟による委任統治領としたもので、直接、侵略占領した中国、フィリピンなどとは事情が違うが、日本軍が絶対の支配者であったことは間違いない。そこで起こった戦時性暴力や食糧略奪などの加害責任は、兜太をふくむ日本軍全体が負わなければならない。その点は、だれも異論のないところだ。
 だが兜太を個人的に「戦争加害者」とするデータは、いくら調べても皆無である。かえってカナカ族との良好な関係を築こうとした、諸事実が出てくる。先に紹介したカナカ族の少年や赤児を詠んだ俳句なども、そうした兜太の心情を表現している。そして、次の発言にも注目したい。

 (兜太が責任をもつ)主計課の仕事の一つが部隊全体の風紀の取締りです。このことが結果的に自分の身を助けました。(中略)極限状況に置かれた戦地では、女性と食べ物はもっとも切実な問題でした。兵隊や工員はそれが手に入らずぐっと我慢しているのです。それならおれも我慢しないといけない、その気持ちから私は自分の精神でコントロールしました。おかげでなんとか信用を得、中には、戦後引き揚げる際、金子さんが残るなら私も残りたいと言ってくれた人までいました。(『二度生きる』)

 あとは、人間とそのことばの信頼問題だと思う。  (了)

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実② 岡崎万寿

『海原』No.11(2019/9/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む
俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実 岡崎万寿

《3回連載・その2》

㈡ 兜太にとって「トラック島」とは何か

 見るとおり、俳句専念を誓い、すでに戦後俳句の風雲児と目され、縦横の活躍をしていた金子兜太が、その俳句とともに、小説「トラック島戦記」の執筆・発表を、二つの本命として、膨大な時間とエネルギーを投入していた事実は、知られざる、もう一面の兜太という人間像を知る思いである。
 その、最短詩型の俳句では、一般に表現しにくい、「戦争の現実、戦争のむごたらしさ、人間の欲望」(『語る兜太』)を、小説として書き残しておきたい、兜太の心情はよく理解できる。戦中戦後のトラック島で、心に刻んだ「非業の死者」に報いたいという、信念からだ。
 しかし、それにしても、と深く考えることが二つある。
 一つは、「トラック島戦場体験」の小説化に、かくも執念を燃やし続けた兜太の心奥に秘め、確かと肉体化し、表現への衝動を駆り立てる、何ものかがあるのではないか。それは戦場体験のない、私たちには判りにくい、あるものかも
知れない。
 それに関して、金子兜太と宇多喜代子との対談「平和への願いと俳句」での、二人の真剣で微妙なやりとりが、思い出される。角川「俳句」二〇一五年八月号の「戦後70年戦争と俳句」という、特別企画である。
 兜太はいうまでもなく南太平洋の激戦地トラック島で、一方、宇多は陸軍燃料廠のあった山口市で、B29百機により市街地全部が焼かれるという、戦争体験をもっている。そこで、こんな注目すべき対談がはずんだ。宇多が本土での竹槍演習などの話をすると、

 金子 トラック島にいた俺からすると、何か牧歌的な話だねえ。(中略)今のような牧歌的な話がつきまとう雰囲気ではダメなんだ。もっとリアルに、もっと厳しいもんだということを皆さんに伝えておきたい。
 宇多 でも国防婦人会を中心にした銃後の女性たちも悲惨なものだったんですよ。
 金子 同じ女性でも沖縄では住民の誰彼なく女学生までがどんどん殺されていますからね。そういう違いをちゃんと知っていないと。牧歌的な話だけじゃダメなんです。俺の使命はもうそれしかない。歳も九十五だしね。戦争のリアルな状態を語る。戦場のリアルだ。

 こんなやりとりが、四頁ほど続く。司会の高野ムツオが、「宇多さんの体験が金子先生から見ると牧歌的に感じられるということに驚きました。そのことさえも、私は今日まで考えもしませんでした」と、真をついた発言をするほどである。
 そこで兜太が言いたかったのは、戦争体験の質の違いである。トラック島戦場では、連日の米軍機による攻撃で生の人間が一方的に殺されていく戦闘とともに、生きている兵や軍属のこころまで歪め、破壊される飢餓という「死の現場」での、あまり語られざる真実ではなかったのか。
 兜太が『日記』で、「死に直面して生きる。故に人間のエゴのすべての醜悪面を笑いとばせ」「追いこまれてゆく人間の裸の世界(葛藤)を書こう」と記している、その戦場における人間のリアルこそ、俳人兜太を小説表現へ駆り立てた“あるもの”ではなかったのか。
 兜太『日記』を読んで考える、二つ目は、俳人で文章の達人でもある兜太にして、「トラック島戦記」がなぜ、これほどの歳月をかけても未完に終わったのか、という点である。
 そのネックを解くヒントの一つとして、私は最近読んだ『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著)に着目した。ベストセラーとなり、二〇一九年の新書大賞を受賞した本である。その、「はじめに」と末尾で、金子兜太著『あの夏、兵士だった私歳、戦争体験者からの警鐘』(二〇一六年刊)が、歴史学の立場から、積極的な評価を受けている。こう述べる。

 「兵士の目線」を重視し、「兵士の立ち位置」から、凄惨な戦場の現実、俳人であり、元兵士だった金子兜太のいう「死の現場」を再構成してみることである。
 そんな風潮(筆者注・旧日本軍を「礼賛」する戦争観が、一部に台頭していること)が根強く残っているからこそ、戦場の凄惨な現実を直視する必要があるのだと思う。トラック諸島で従軍した俳人の金子兜太氏が繰り返し強調する
「死の現場」が、それである。

 そして同書は、そうした「死の現場」では、兵士たちの精神状態に、「戦争神経症」という深刻なトラウマ反応が広がっていたという。ニューギニア戦線で連隊付き軍医だった、柳沢玄一郎の『軍医戦記』から、こう引用している。

 戦況が悲観的になるにつれて、突然に発狂した。被害強迫妄想、幻視、幻聴、錯視錯聴、注意の鈍麻、散乱、支離滅裂、尖鋭な恐怖、極度の不安、空想、憂愁、多弁、多食、拒食、自傷、大声で歌い回るもの、踊り回るもの、なにもかにも拒絶するものなど、叡知、感情、意志の障害があらわれた。すなわち、極限における人の姿であり、超極度の栄養失調症にともなう急性痴呆症の姿であった。

 だが、当時は海軍中央部から医学者まで、神経症をタブー視し、「疲労」という言葉で置き換える傾向が強かった、そうだ。
 こうした兵士・軍属たちの精神異常は、兜太の所属する第四海軍施設部でも、例外ではなかったと思う。補給を断たれ、逃げ場のない南海の孤島、トラック島では、島民を除く軍人軍属四万人のうち、八千人が死んだ。そのほとんどが、餓死である。その上、施設部とは要塞などをつくる土建部隊で、大部分が応募して集めた民間の労務者(工員と呼ぶ)が占めていた。彼らの特徴を、兜太は先の『あの夏…』で、思いを
こめてこう書いている。

 施設部の工員は総勢、一万二千人ほどおりました。その連中の風紀を取り締まるというのが、私の任務です。彼らは得てして喧嘩好き、酒好き、女好き。筋骨隆々のクリカラモンモン(入れ墨)のアンちゃんもいて、言い争いはしょっちゅう、刀傷沙汰もたまにあります。いわば、貧しさのために世間を狭くして、内地から押し出されてきたような連中です。

 当時、二十五、六歳の兜太は、主計中尉として、その食糧の調達・管理を、甲板士官としてその風紀の取り締まりという、最も苦労の多い二つの任務をもっていた。カルポスと称する小刑務所を作り、島民のカナカ族を強姦したり、食べ物を奪ったりした者などを、刑罰にした。
 サイパン島陥落(一九四四年七月)以降、極端な食糧不足が、軍隊という階級社会の、とりわけその最底辺にいる工員たちを襲った。戦争末期には、二百人ほどの兜太の部隊で、毎日、多いときには五、六人が餓死した。「死は日常にあふれていた」(『あの夏…』)、「飢餓とそれによる人心の荒廃が悲劇を生んだんです。私はさまざまな非業の死を見続けました」(『悩むことはない』)と、兜太は書いている。
 まさに「死の現場」、生きる意味すら失った「虚無の島」である。その中には、先にあげた海軍がタブー視した「戦争神経症」やそれに近い症状の人たちも、かなり混じって居たのではないか。兜太も正直に、「あまりに非日常的な世界が続くので、私自身が少しおかしくなりかけていました」(『あの夏…』)と、言うほどである。
 さて、こうした想像を絶する、超異常な極限状態にあった「死の戦場」体験である。しかも海軍施設部という特殊で奇妙な人間群像を、その縺れた内面にも立ち入って小説化することは、まことに至難なことだろう、と考える。
 兜太は『日記』にも書いたように、梅崎春生の「桜島」や大岡昇平の「野火」など、それぞれの極限の戦場体験にもとづく小説を読み返し、研究している。しかし小説は、人間の尊厳を見つめ、人間の真実を描く文学である。兜太は、結局のところ、次のように反芻しつつ、筆を収めたのである。

 結局私の場合、自分を責めて、人間の内面をどう表現すれば反戦に結びつくのかという方向に向かっていったんですね(共著『今、日本人に知ってもらいたいこと』二〇一一年刊)。
 自分でも企画意図だけが先行していて、読みごたえがない。これはダメだ、と見切りを付けて……(『語る兜太』)。

 だが、兜太のトラック島戦場への想いは、終わってはいない。このように小説「トラック島戦記」の構想は潰えたが、その執念の努力の蓄積は、後年、戦場体験の「語り部」として、貴重な花を咲かせることになった。金子兜太、九十代のいのちの輝きである。

㈢ 戦場での人間存在の明暗

 兜太の「語り部」活動は、折しも安保法制反対の市民運動が新たな高揚をみせた二〇一五年をピークに、全国各地で人気を呼んだ。私も翌十六年にかけて、日本芸術院会館、明大アカデミーホール、東大安田講堂などで、六回ほど聴いた。同じ、トラック島での戦場体験の話でも、毎回、どこか新しい話題や切り口があり、感動した。
 兜太の戦争「語り部」は、二〇〇一年六月、群馬県立土屋文明記念文学館での講演から始まっている(「俳句界」同年十一月号)。そこで兜太は、「実は私の戦争体験を語れと言われたことはないんです。初めての体験です」と語り出し、先に兜太『日記』で紹介した、小説「トラック島戦記」の原稿を想起させる、こんな話をしている。

 私は実は帰ってきて間もなく、トラック島をめぐる戦略についてかなり詳細に調べているんです。自分で書いたものをちゃんと持っていまして、それを全部読み直しました。そうしたら、我ながらよく調べて書いていまして……。

 そして、「語り部」の回を重ねる中で、戦場トラック島の臨場感ある話が工夫され、方言まじりの語り口のうまさ、体験者ならではの生々しい話題が、人びとのこころを捉えたのである。練り上げられた「語り部」のハイライトは、なんと言っても、手作りの手榴弾の実験に失敗した際の、工員たちの本能的な動きである。ずばり、兜太の文章で紹介しよう。

 武器不足を補うためにトラック島では手作りの手榴弾がつくられた。カラの薬莢を集めて火薬をつめて。それらがちゃんと爆発するかどうかの実験を、施設部がやらされることになった。そういう危ないことは軍人ではなく軍属にやらせろ、ということですわな。すると日本人というのは不思議なもので、見栄をはってか「自分が」と手を挙げるヤツがいるわけです。責任者として戦車壕の土手の上で見ていた私の目前で、手榴弾が実験者(筆者注・兜太はその名前まで、田辺と覚えている)の手元で爆発しちゃった。即死でした。
 するとそのとき一人の大男が走り寄って、やおら死んだ男を背負って走りだしたのです。我われ(筆者注・工員十人ほど)もすぐさま大男を囲んでワッショイ、ワッショイと声をかけながら一緒に走りました。すでに死んでいることはみんなわかっているんです。だから走る必要などなかった。にもかかわらず夢中で海軍病院へと走ったですなあ。病院まで三キロはあったと思いますよ。あとから考えれば、ということにはなりますが、そうせずにはいられなかったからでしょう。(『悩むことはない』)

 その光景を見て、一緒に走りながら兜太は、「ああ人間って、いいもんだな」と、しみじみ思ったそうである。ふだんはヤーサン風の身勝手な荒くれ男たちが、である。こんな美しい一面をもっていたのだ。これも人間の本能なんだ。そこから、兜太の人間認識が一段と深まった。同時に、その時、「人間がこんな惨い死に方をする戦争は、悪だ」と、初めて痛感したと語る。トラック島赴任から、三、四ヶ月後のことである。
 こうした戦場での人間のありのままの真実が、「語り部」兜太によって、戦争体験のない人たちにも、感銘を広げた。先の、兜太と、『昭和史』で知られる半藤一利との対談集『今、日本人に知ってもらいたいこと』(二〇一一年刊)で、半藤は、兜太の苦労に次のように共感している。

 戦争を語り継ぐと、簡単に言いますけど、非常に難しいなと思うわけなんです。やっぱり金子さんが今おっしゃったように、骨身にしみて自分の心の中にそれが入った人たちだけが戦争を語れるんだなというふうに時々思います。

 そうした戦争「語り部」活動の集大成が、すでに述べてきた『あの夏、兵士だった私』である、と思う。それはまた、兜太が執念を燃やしつつも、未完に終わった小説「トラック島戦記」への努力の、別の形での結実とも言えよう。そこでは、生死の体験からの自省のことばが、胸をうつ。

 やせ細って死んでいく。手足なんか枯れ木のようになる。食い物の調達は私の任務なんだけど、それがうまくいかなくて、部下を飢えで死なせてしまった。それはもう、つらかったなあ。いまでも申し訳けないという気持ちになりますよ。
 死んだ人間は、部隊の仲間が代わる代わる遺体を担ぎ上げて、山の上に掘っておいた大きな穴に放り込まれる。最後のころは「もうあと何人か死ねば食糧が全員に行き渡るので、これだけ生き残れるな」なんて、そんな計算もしていた自分が嫌になっていました。

 今なお、こうした身にしみる自省の話をするところが、兜太の「語り部」が感銘をよんだ所以だと思う。加えて、この『あの夏…』を繰り返し読む中で、私が目を開いたのは、戦場にあっての青年兜太の人間洞察の深さである。
 戦後、兜太は、生涯を貫く反戦志向とともに、それと一体のものとして、俳人自らの生き方、つまり小林一茶にならった「荒凡夫」、ついで「存在者」といった人間観を進化させてきたが、その原点の一つが、ここトラック島戦場で、本能丸だしで生きている部下の工員たちからの、強烈な体感だったのである。『あの夏…』で、こう述べる。

 彼らは、じつに人間くさい連中です。トラブル続きだけれども、しかしそういう世界はなじんでみると意外におもしろい。「こういう生な世界が、いわば人間世界のクライマックスなんだ」と思えるようになったのです。いい意味でも悪い意味でも「極端な世界」。「その現場に俺はいる。それは貴重な時間だ。俺が生きている間に、彼らの生き方を見届けてやろう」と思うようになっていった。彼らのような作為のない存在が好きになっていったんです。
 それはおそらく、私が秩父の山の中で、貧しいけれど精一杯生きる人たちと付き合ってきたからでしょう。下手に恰好をつけない、本能むき出しの「存在者」の世界は、私の性に合っていたようです。

 そして兜太は、こうした「欲望に忠実に生きている生の人間。そんな根源的な生命力を自分も身につけたい」と思うようになり、「私はそういう人のために俳句をつくっていく。存在者のために生きていこう」と、決意を新たにしたのである。『あの夏…』の帯文には、「いまこそ、伝えたいあの戦争体験!」と記している。
 なお兜太は、最晩年に、そのトラック島戦場での野性そのものの「存在者」たちを、アニミズムの視点で整理し、真摯に回顧している。それは「生きものとしての人間」という視点で、人間だけでなく、草木も動物も非生物も、すべてのものには、魂(アニマ)が宿っているという考え方である。「私は彼らと過ごす中で、本当のアニミズム体験というものを持ちました」「彼らはアニミズムの塊です」と、美術家・横尾
忠則との対談で、こう語っている。

 私は一生の間であのアニミズム体験というものが一番尊いと思っています。
 だから戦争から戻ってきて、しばらく勤めていた日本銀行なんですが、そういうところは秀才を誇る連中がいるわけですが、みんな馬鹿に見えました。トラック島で腹這いになって頑張っている人間がみな本物という気がします。(『創造&老年』横尾忠則対談集二〇一八年一月刊)

 兜太は、二〇一六年一月に朝日賞を受賞し、その折、「存在者」に徹した自らの俳句人生を総括し、「存在者として魅力のない者はダメだ――。これが人間観の基本です」と、述べた。張りのある名スピーチで、万場の感動をよんだ。その後、黒田杏子は、編著で『存在者金子兜太』を出版し、私も感動のまま「海程多摩」第十六集に、「安西篤の金子兜太論の新視点――「存在者」をめぐって――」を発表した。
 ところが、その朝日賞受賞の名スピーチの発想の裏に、述べてきたトラック島戦場でのアニミズム体験があったことを、この対談で知り、なるほどと身を熱くした。その部分を紹介しておこう。

 この前、朝日賞なんて賞をもらったときに、自分が今までずっとやってきたことはなんだったのかなと、初めて考えたんです。すると、自然と戦争中に体験したアニミズムの世界が浮んできました。
 私は、そのときに初めて、私の俳句は、あのアニミズムの世界のアニミストのためにやっていたんだと思いました。

(次号へつづく)

全舷半舷〈8〉狛狼に螢 柳生正名

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

全舷半舷〈8〉
狛狼に螢  柳生正名


 また映画「天地悠々」封切りイベントの際の話である。ゲストとして登場した嵐山光三郎氏がかつてNHKで放映した「辞世の句」特集収録時の、こんな裏話を語っていた。
 兜太さんが台本の裏に「おおかみに螢が一つ付いていた」と書いてよこした。昨日詠んだ句と言う。「狼が秩父にいるんですか」と問うと「いるんだよ。そこに螢が付いている」と言い張る。聞いてみると、螢が付いているのは「神社の狛犬だ」とのこと。「(本当の狼でなく)狛犬じゃないか」と混ぜ返しても「いいや、生きているようなんだ」。
 結構びっくりな話である。兜太の誕生前の1905年を最後にニホンオオカミは絶滅したというのが定説。この句のおおかみは兜太の詩的な幻視と解されてきた。しかし、本人の“証言”によれば、秩父の山犬を祭る神社で今も起こりうる実景を描いたことになる。
 兜太は自句自解で「私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる」とも言っている。ならば「狛狼」説は“伝統派”俳人が「頭で創った俳句」と難癖をつけてきた時に言い返
すための方便だったのかも、と思う。「ああ言えばこう言う」兜太の面目躍如である。
 最新の思想潮流として「実在論の復権」がある(グレアム・ハーマンら)。かみ砕けば「人間が見なくとも実在するものは実在する」という主張だ。当たり前のようだが、写生俳句は、龍のように「現実に見ないものは句にしない」が鉄則。俳句上、人が見ないものは存在しない扱いだ。これは一見リアルな自然を尊重するようで、実は見る人間が“所有”できない自然を否認する「人間中心主義」の現れ。哲学界では、従来こうしたエゴ丸出しの視線で自然を見下してきたことへの反省がいま顕在化しており、兜太が晩年「存在者」を語ったこととどこか通じる。
 人間中心のエゴから抜けきれない写生派からの論難の逆手を取るべく、「狛狼」説を仕組んだのだとしたら、いかにも兜太らしい。その老獪に何やら懐かしささえ感じる。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実① 岡崎万寿

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む
俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実  岡崎万寿
《3回連載・その1》

はじめに

 俳人兜太は、「私が俳句です」「私は反戦の塊です」といった、二つのことばを持ち、それを同化して自らの生き方とした、歴史的にも希有な人間である。その九十八年の波乱の人生そのものが、まさに、人間あるがままの存在者だった。
 二〇一八年二月二十日に他界し、その一年後から、『金子兜太戦後俳句日記』全三巻が刊行されはじめた。兜太の年齢でいえば、三十七歳(一九五七年)から、九十七歳(二〇一七年)まで、六十一年間という長い歳月、ほぼ毎日、その知られざる内面をも、克明に率直に書き綴っている。これもまた、日本古来からの日記文学には類をみない、希有な事象といえる。
 第一巻(一九五七〜七六年)の解説を書いた長谷川櫂は、「兜太の戦争体験」と題して、こういっている。生きた波乱万丈の時代と人生のなまなましい記録である。まぎれもなく戦後俳句の超一級の資料である。何よりも未来の兜太論の基礎資料、土台となるにちがいない。
 その第一巻の出版を、読売(二〇一九年二月一〇日付)、朝日(同年三月一七日付)など、写真入りで大きく取り上げている。そこで共通して注目しているのは、兜太が『日記』の中で、自分のトラック島(西太平洋・現チューク諸島)での戦場体験を、人間ドキュメントの小説として書き上げることに、「並々ならぬ意欲」を燃やし続けていた点である。
 私も、その兜太『日記』第一巻を夢中で読み、中でも、その「トラック島戦記」なる小説を書くための、異常ともいえる執念に、正直驚いた。その格闘は、第一巻で十八年かけても終わっていない。なぜ、それほどまでに、と深く感じ入った。
 そして、その解明が、戦後の金子兜太の反骨の俳句人生を明かす、もう一つの重要な鍵ではないか。兜太自身が、晩年、「この句は自分の生涯のなかの最高の一句だ」(『他界』)といった、名句の
  水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
の背後にある、想像を絶する、超異常な戦場体験の真実が、見えてくるのではないか、と思うに至った。
 そこを、探求してみたいと思う。

㈠『日記』にみる「トラック島戦記」へのこだわり

 そのアイディアは、三十九歳(一九五八年)の晩秋、ふーっと湧いたようだ。その頃、兜太は日本銀行の長崎支店へ転勤していた。『金子兜太戦後俳句日記』には、そこから自らの「トラック島戦記」への、精魂こめた記載がつづく。長いので、その主要な部分を紹介しよう。

十一月二十一日(一九五八年)
 臼井吉見は、中野重治の「梨の花」を強烈、潔癖な作として推賞していた。これを読みながら、自分のなかに湧いてくる衝動を愛した。トラック島を舞台とする大ロマン――強烈な人間群像を描きたい。その想念がいつとはなしに熟し、さらにかき立てられる。大事に、ロマンのイメージをのばしたい。強烈なものを。清潔なものを。
八月十二日(一九五九年)
 調査の連中に、ふと戦時中の話をしている内、「いも」という題の小説を思いつく。甘藷をめぐる人間の関係と餓死の様相。やっと一本、トラック島の構想にシンが入った感じ。
十月九日
 自叙伝の第一発として、トラック島のことを書こうと、またしきりに考える。当時の自分の感動範囲がひどく「人間的」であり、それも「あまりに人間的」であったことに、創作との結びつきの弱さを悟る。主題さえ明確でない。


 こうして、さまざまな構想をめぐらせ、実際に「トラック島戦記」なる小説を書き始めたのは、一九六〇年に東京の本店へもどり、六一年に「造型俳句六章」を総合俳誌「俳句」に連載した後、同年七月からのようだ。
 ところが、現代俳句の方法論を確立した、したがって、かなり難しくもある、その「六章」の場合は、「割合スラスラ書ける」「気持よく書けた」と記している兜太『日記』が、「トラック島戦記」になると、なぜか、難行を繰り返している様が、目に見える。

七月二十八日(一九六一年)
 午後、「トラック島」の第一回を書いてみるが、まず文体についての疑問が出、内容が不安になり、こんなに文章に自信が持てないことは珍しい。
七月三十一日
 「トラック島」は書くほどに自信がない。こんなはずはなかった、と思うほどだ。カミュを読んでみたい。何故だか分らないが――。
六月五日(一九六四年)
 オレには文学と政治しか向いていない。……行動的文学(ヘミングウェイや中野重治のような)を志したい。俳句はそれに合っているし、散文を書きたい。――以上、朝の会話。
四月四日(一九六七年)
 「トラック島戦記」、とりかかろうとノートは出すが、書き出せない。
五月三十日
 「トラック島戦記」を本命に決めて、今週からノートをとこころざしていたが、見事はずれる。雑事というものはおそろしいものだ。
八月十五日
 車中、「遥かなノートルダム」を読みつつ、ふと昨日日本読書新聞から「未だ書かれざる戦記」の依頼があったことを思い出し、従来の戦記が「倫理的」又は逆に、「非倫理的」であることが不服であると気付く。もっと冷静に(客観的に)人間の究極のエゴの動向を見定めるべし、ということ。煩悩を見てやろうということ。
九月予記
 トラック島戦記を必ずモノにする。九月十八日帰路、読書中、手帖にメモ。○死に直面して生きる。故に人間のエゴのすべての魂悪面を笑いとばせ(おそれず見定めよ)。
二月一日(一九六八年)
 昼、文春、西永氏来て、トラック島戦記三十枚を頼まれる。青春の日の記録ということで随筆風にと。戸惑う。
二月二十一日
 休んで「トラック島ノート」、ともかく午後から八時までに二十枚ほど書く。矢野さんの死のところまで。しかし、皆子に読ませると大悪評。戦争がない、という。シャクに障るが仕方ない。
四月十八日
 文芸春秋の「トラック島・沈黙の戦記」(先方でこう題をつけた)を校正しつつ修正する。終りに近づくにつれて、詠嘆的になるので、それを全部直したい。
(筆者注:この文章は「文春」一九六九年一月号に掲載)

 兜太が、「トラック島戦記」のアイディアを抱いてから、ここで、すでに約十年になる。そこで、この文春の随筆風「トラック島戦記」をもって、一応の締めくくりになるのでは、と思いきや、七〇年代に入ってからが、いよいよ本番となる。兜太の本気度が見えてくる。
 「トラック島戦記」という、小論のテーマそのものであっても、兜太『日記』からの長い引用は、独立した評論にとって、なるべく避けたいところだ。しかしなにせ、金子兜太のこと。日記文そのものが、トラック島戦場の真実に肉迫したい、兜太自らの内面を赤裸々に表現した、感動の人間文学となっている。
 この裏面史ともいえる兜太『日記』は、私にとっても興味の尽きない新鮮さがある。いま少し、紹介を続けたい。

八月十五日(一九七〇年)
 終戦の日。思わずトラック島の話がでる。机上に、五味川純平と安田武の対談「25年目」――「危機と破滅への予感」(週刊読書人)。同感。
十月六日
 戦争記の準備にかかり、気になっていた梅崎春生「桜島」を車中で読みなおす。刺激大。サイパン陥落後からはじめ、追いこまれてゆく人間の裸の世界(葛藤)を書こうとおも いはじめる。
十月七日
 「桜島」。終りあたり、〈死〉の感傷にだれこみすぎる印象。抒情体質が梅崎に似ているだけに、小生も要警戒。つづいて「日の果て」。おれのトラック島は、〈何んだったのか〉、その問いにとらわれる。
十一月四日
 車中で久しぶりに「野火」。再び、頭をトラック島で埋めようと努力する。
十一月十日
 「野火」を読みあげる。人肉を食うか食わぬかのところの描写はあれ以上はできまい。しかし、最終がいけない。大岡という人はすぐれた常識人だ。
十一月十二日
 トラック島、やっと一人、シンになる人物を見つけ出す。そして主調(底流)は、エゴと士官団の主導権交替、島の全体部分の階級分化におく。エゴと権力の問題。
一月一日(一九七一年)
 陽に当りながら文春に書いたトラック島の記録を読みかえし(まったく記録だ)。
一月二十三日
 一時から六時まで「環礁戦記」(筆者注:ここからタイトルがこう変わっているが、小論では引用文以外は「トラック島戦記」で統一して用いる)。出だしはまあまあとして、トラック島と施設部の記述がまったく事務的でイヤになる。
一月二十四日
 午前三時間、午後五時間、環礁戦記。桜井にひっかけてトラック島と施設部の状況と機構をトットコトットコ書いたが、夕食とともに、また不満。どうもこのところが鬼門だ。
二月九日
 環礁戦記の不満の実態が少しずつ見えてきた。自分に即していないからだ。事実ばかり書こうとしていたからだ。
五月二十一日
 戦記。「死」のことばかり多いが、落下傘部隊士官二人と自分の死への感応の差を書いてみる。うまくゆかないが、おもしろい。
六月十九日
 ついに、戦記を書きあげる。ペースがきまってからは日常のように書けたので、感動はないが、よくやった、という気持。
十月三日
 「文芸」に渡してある「環礁戦記」のような、主体的でロマンの筋のあるものは文芸に不向きと考え、とりさげて別のところに発表しようかと考える。
十一月二十九日(一九七二年)
 戦記をやろうかと思いはじめる。いつ死ぬかわからない。そのとき、一茶はやっていなくても悔は残らないが、戦記未完成は十分に悔をのこす。やはり、これを――とおもう。
五月三日(一九七三年)
 一日、戦記後半の生と死。自由(エゴ)と権力(エゴ)について、偶然ヒントを得。
八月二十八日
 戦記への気力集注意欲湧く。小説を読み、北一輝を研究し、太平洋関係ものを読み――。
九月十一日
 朝、寝床でにわかに戦記の構想がひろがり、結末の殺人の部分まで――ここを悩んでいた――決る。農園のおやじは生き残らせ、真面目な日本人工手が鮮人労務者に刺殺されること。その労務者を島民部落がかくまうこと。そこに神主がいること。夢中、にわかに霊感というべし。
六月二十八日(一九七四年)
 寝床のなかで、戦後三十年の仕事を虚妄と感じる。戦争体験が鮮明なためか、それから現在まで、三、四年の時間しか感じない。なにもない、感じなのだ。
十一月二十五日(一九七五年)
 戦記を書こうとして、徹しきれない自分に苛ら立つ。
三月二日(一九七六年)
 朝、「海程」と「戦記」に徹することを腹にいいきかせる。あっちこっちにいい顔をして雑事雑文にとらわれていることは、〈黒い奴等〉に真に対決する姿勢ではないということだ。
三月三十日
 戦記、どうも不満。観念的でいけない。戦争観と心情の関係、書き直しては捨てている。
四月二十二日
 戦記を書く。トラック大空襲のところにきて、太平洋がようやく、からだのなかで波打ってきた。夜、寝しなに、三年でも四年でもかけて、じっくり全部やりあげて、人に見せろ、と皆子。……戸惑う。
九月四日
 「戦記」清記にはいるが、トラック島についてからが平面的な、散漫な感じで、辛い。たんたんとやればよいのだとおもうが。「施設部」という特殊(軍隊のなかの民間部隊)な組織のなかの奇妙な人間たちと戦争の進行をからめて、和久(矢野中佐)の死に集約されればよいとおもうのだが。書きこめ、書きこめ。


 兜太『日記』第一巻に書かれている、「トラック島戦記」にかかわる主要な記録は、ここで終わっている。この執念ともいえる、トラック島戦場体験の小説化は、いずれ明らかになるが、残念ながら未完成、未発表に終わる。『語る兜太』(二〇一四年刊)で、こう述べる。

 戦争体験というものはフィクションじゃない。我々生き延びてきているものには、語り伝える義務がある。それには小説という形式が有効なんじゃないか、そう思って、今から考えればずい分昔に書いたものをふととり出してみた訳でした。結局のところお笑い草、永久封印です。

 言外に、兜太の複雑で辛い心境が伝わってくるようだ。  (次号へつづく)

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:「海程」は創刊された 山中葛子

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む

「海程」は創刊された 山中葛子

 トラック島での戦争体験を抜きでは語れない「戦後の兜太」がさらに「存在者」という考え方にまで直結している、昭和三十二年から晩年までの長きにわたる六十一余年が綴られている、『金子兜太戦後俳句日記第一巻』(白水社)が刊行された。「第一巻」にあたる本書は、昭和三十二年から五十一年の、三十七歳から五十六歳。社会性俳句と前衛俳句の旗手として台頭してきた兜太師が、第一句集『少年』で現代俳句協会賞受賞した翌年から始まっている。
 三十二年、「俳句」に「俳句の造型について」書き始める。戦後俳句の中心にいた複雑な人間関係を明かす、赤裸々な壮年期が収録されている。ことに印象深いことは、「豪放磊落にして繊細」というこれまでの兜太像がさらに思慮深く、プレッシャーを生み続ける自問自答が尽くされている生々しさ。日記を書くという自伝の記憶を反応させた、「二度生きる」という精神性がうかがえよう。まだ知られていない兜太像の新しさが呼び覚まされてくる日記の公開なのだ。
 さて、ここでは、三十七年の「海程」創刊への活動拠点に目を向けてみると、〈銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく〉神戸支店時代から三十三年、長崎支店へ。〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉へと。原爆被災の浦上天主堂近くの山里町の行舎に住む。隈治人、前川弘明の名が親し。
 三十五年、四十歳。日本銀行本店に勤務(為替管理局統計課統計係長)。杉並区沓掛町の行舎に住む。「何としても東京へゆきたい。支店生活十年間、蓄積したものを、東京で打(ぶ)っつけてみたい。文化ジャーナリズムと積極的に接触し、また日銀本店の人達と能動的に話し合いたい、そこから何か開けよう。」と、期待そのもの。長崎からの転勤時の旅を詠んだ「海程百句」がある。
 さて、私的なことを記せば、この秋、私は兜太師に出会うことが出来たのだった。十月二十三日、「俳句評論大会。日本出版クラブ。「詩の時代」を喋る。」と記された兜太日記には、しかし、私の名は無く、がっかりしながらもその時の情景が鮮やかに蘇る。太っていて象のように大きくて優しい目の兜太師が、壇上の黒板に〈砂の川抜き抜き光る赤い杖葛子〉の拙句を書き示して講評されている光景は、まさに夢のような出会いが適えられた瞬間であった。兜太日記から初めて私の名を発見したのは、その暮れの十二月二十九日、「山中葛子君来て、俳句をみせてくれる。おもしろい二十三歳。感受性が純潔だ。文章も書けという。」とある。翌年の夏には、私が「関西前衛59俳句大会」へ出席する前日に、兜太師から「海程」の創刊を告げられていて、いよいよ創刊の時が来ていたのだ。
 そうしたこの年は、「造型俳句六章」を「俳句」一月号より。第二句集『金子兜太句集』刊行。十二月、現代俳句協会の分裂、俳人協会発足。という激動ぶりである。そうしたなかで書かれた、「海程」創刊の辞には「愛人について」という副題のロマンが満たされているのだ。
 三十七年四月一日、同人誌「海程」(隔月)創刊号を発送。創刊から五号までの主な同人に、原子公平、阿部完市、阪口涯子、林田紀音夫、和知喜八、堀葦男、鷲見流一、隈治人、前川弘明、安西篤。
 編輯グループを組むなど、同人も増えてゆき、「海程」の展開は、戦後俳壇を牽引する知的野生ともいえる詩形への展望を示していよう。目標は、若者、中堅を育てる編輯への強い思いが感じられ、酒井、大山、大井、喜多、細川、守屋、阿部、安西、森田、谷、大石、更に武田へと。ことに、日銀勤務の若き守屋との運命共同体のごとき日々の凄まじさが、「海程」への道のりを蘇らせる。
 また、思いのほか親しみ深いことといえば「海程東京例会」があげられよう。例えばその日の出席人数と感想と講評がコンスタントに記されている数行は、大草原のなかの道標のように感じられるのだ。道標が点となり線となっていく兜太師の洞察力が明るく活性化しているのだ。ここには、皆子夫人の常に寄り添う理解者の姿が思い浮かぶ。

三十八年十二月二十五日(水)曇
皆子と二人でしみじみ喋る。―皆子は、あなたは「砂山」のようだという。たよれば崩れそう、しかし、いっこうに消滅しない。ニヒルで精神的存在だと。適切なり。俳句に詩をかけ、大衆に接触しつつ自分をまとめる。小説も大衆との接触面で書きたい。純文学糞くらえ、大衆小説というのもキザだ。自分は、そうした大衆性(行動とニヒル)を生かさないといけない、と思う。

 四十二年七月、熊谷市上之に転居。熊谷からの通勤時間から生き方の変化もみられるなか、日記を通し「トイレ」での発想はゆたかに持続。また、執筆活動は、岡井隆と共著『短詩型文学論』、『今日の俳句』をはじめ、第二句集から第六句集。評論集、評伝、対談、座談会など膨大な表現活動を進行させている。
 そうしたなかで、四十五年一月、大山天津也死逝。随筆「梨の木」を書く(大山天津也は「海程」創刊翌年三十八年から五年間編集長をつとめる)。四十六年七月、守屋利死逝。と、告別多し。
 また特記すべきは四十九年五月十七日、長男の眞土、知佳子結婚式。九月三十日、日本銀行定年退職。十月七日、上武大学教授(経営学原理を担当)。
 五十一年、五十六歳。「海程」十五周年全国大会を経た、巻末日記を次に。

十二月三十一日(金)晴
おだやか、寒気「子規の病苦」がどうも不満だった理由がわかり、半分ほど書きなおす。夕方、郵便局へ。ついに駒走鷹司の句集序文と年賀状をのこしてしまったが、まあまあの出来。


 天象ゆたかに、兜太師を追う「第二巻」を待つばかりである。

濤声独語〈8〉絶えざる自己反省と自己励起 安西篤

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

濤 声 独 語 〈8〉

絶えざる自己反省と自己励起  安西篤

 前号の本欄でも紹介した『金子兜太戦後俳句日記』については、岡崎万寿、山中葛子両氏によってさらに詳細に論じて貰うことにしているが、私なりに感じている第一巻の見所を書いて、前座をつとめておきたい。
 まず、絶えざる自己反省と自己励起があり、それを行動に移しているということだ。
 例えば昭和四十二年四十七歳の三月十八日の記。「小生の目的は何か。〈人間〉を知ること。椎名麟三のいうような〈人間の自由〉の探求はまだ空々しい。そのためにいま虚偽と虚栄のベエルをひんめくること」。後年の「自由を求める」という生き方の、助走段階を思わせる。それは山頭火や一茶などの人間探求への道を用意することにつながる。
 この考えに到る前の一月五日、友人から「金子さんは内向型で、組織の一コマとしては動けない人です。人の上に立つことは出来ても、人に仕えられないから―」と言われ、「(俳句を)書くしかない」と臍を固めている。そして一月八日、海程新春の顔合わせ会で、「①新旧の対立を自覚せよ。②海程の仕事を運動として認識せよ――以上のため①大同人誌活用の新プランを全同人が出してほしい。②句会中心主義。③評論活動を旺盛にするため評論賞設定。」という行動計画を打ち出している。
 この頃、海程は創刊五年目に当たり、創業時の熱気が迸っていた。当時まだ三十代半ばの私は例会の司会を命ぜられ、今考えると若気のいたりとも思えるほど遠慮会釈のない進行の裁きに努めていたのだが、師からは「安西司会うまくはこぶ」と褒められていたことを知る。
 また若者たちとの議論を深める中で、「平明と肉体を求めてきたが、これからは「自分の思想と姿勢を深める」の一本でよいのではないか」と答える。そして自らは「この充実のない〈白い〉安定ムードに挑戦して書け」と自己励起していたのである。絶えず時代の流れを、若い仲間たちとの交流の中で確かめ、自らを鍛え直していたともいえよう。

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 2 何も新しくなかった 小松敦

『海原』No.9(2019/6/1発行)誌面より抜粋。

『新興俳句アンソロジー何が新しかったのか』を読む 2
 何も新しくなかった 小松敦


 この本の厚さ約3センチ。分厚い。けれども意外に読みやすい。新興俳句作家四四名別の文章も一三のコラムもそれぞれがコンパクトにまとめられており、色んな味を楽しめるお菓子の詰め合わせみたいで、暇をみてつまみ食いするうちに全部食べてしまった、の感がある。
 不勉強な筆者にとって「新興俳句」とは過去一時期の俳句文芸ムーブメント、くらいの理解しかなかったが、高野ムツオによる「序」、神野紗希による「はじめに」に記された明快な解説をもってその概要を知り、すっきりした。神野紗希曰く〈新興俳句とは、俳句は文学であるという意識のもとに、広く他ジャンルの表現に刺激を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた昭和初期の文学運動を指す言葉だ。〉
 新興俳句運動の契機や終息の経緯および時代背景などの詳細は本を読んでもらうこととして、ここでは、筆者が「食べ慣れないけど」美味しいと感じた好みの俳句を賞味したい。句そのものを味わう方針とし、作句当時の作者の状況がどうであるかなどは一切無視した。その上で「何が新しかったのか」というこの本の傍題について思うところを述べてみたい。
【阿部青鞋】
 人間を撲つ音だけが書いてある
 〈書いてある〉によって〈撲つ音〉が消音される代わりに〈撲つ〉映像が喚起され、凄惨な事態がより鮮明となる。
 半円をかきおそろしくなりぬ
 〈半円〉を描いたところで手が止まる。精一杯なのだ。何事かに苛まされる者の切迫した心理、決して閉じない円周。
 冬ぞらはすこしへりたるナフタリン
 〈ナフタリン〉の昇華した冷たい大気が鼻をつく。〈すこし〉に初冬を感じる。
 劇場のごとくしづかに牛蒡あり
 〈しづか〉なる〈牛蒡〉に凝縮された濃密なドラマ、生々しく泥臭い人間の。
 どきどきと大きくなりしかたつむり
 〈どきどきと〉否応なく大きくなってしまった軟弱なる者の不安と高揚。
【神生彩史】
 抽斗の國旗しづかにはためける
 畳まれて抽斗の中にあっても、国民の脳裏にオートマチックに〈はためける〉國旗。国家が国民に強いる無言の国威発揚を〈しづかに〉弾劾する。
 木枯や石觸れあうて水の中
 気体、固体、液体、いずれも冷たく無機質な構成要素に〈触れあうて〉の身体感覚を移植することで作り出される魅惑。言葉だからこそ生みだすことのできる美。
 貝のゆめわだなかあやにけむる夢
 呪文のような古の言葉の連なりに眩み、私は久遠なる夢にけむる貝となった。
【喜多青子】
 きざはしのしづかなるときかぎろへる

 この句には「夢殿」と前書がある。夢の収まる御堂を思う。そのきざはしに立ち騒ぐいにしえの夢とうつつの夢の静まるときに揺らめく時空。幽玄の美。
 地下歩廊ひそかに街の蟬きこゆ
 地上の街に残り僅かな命をふりしぼる蝉の声を、こっそりと耳にする受動的で消極的な身体。命から遠ざかるような残響感の中、生きることを羨望している。
 秋炎の空が蒼くて塔ありぬ
 〈塔ありぬ〉の確固たる物的存在感が、輝度のコントラストをきわだて、さわやかに覚醒した意志を形象する。
【篠原鳳作】
 カヌー皆雲の峯より帰りくる

 〈カヌー皆〉で大海原の水平な広がりを、〈雲の峯より〉で垂直方向の威容を、〈帰りくる〉で奥行きのある躍動感を描き出す。十七音のスケーラビリティ。
 浪のりの白き疲れによこたはる
 〈浪のり〉によって喚起されるサーファーと海と太陽と砂浜の光景の中にあって〈白き疲れ〉は抽象的ではなく、ぎらつく太陽光に白飛びした写真のごとき具体的な心理として感知される。
 しんしんと肺碧きまで海のたび
 海中を〈しんしんと〉旅してもよいし、海上に大海原や空の碧さを〈しんしんと〉吸いこむ旅でもよいだろう。いずれにせよ〈肺〉の内臓感覚によって、海と身体が一体化してゆく恍惚感に導かれる。
【鈴木六林男】
 昼寢よりさめて寢ている者を見る

 寝ている者に見ているのはさっきまでの自分ではないか。
 深山に蕨とりつつ亡びるか
 自然の滋養を採取している側の自分が、実は自然の土に帰しつつあることに気づき驚く。
 暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり
 しっかりと見続けていなければならない。泳ぎ切るために、生き抜くために。
 花篝一人称の顔ばかり
 自分も一人称の顔の一つだろう。
 遺品あり岩波文庫「阿部一族」
 たったこの一冊だけなのだ、と他人事のように示す自分事の心理。
 遠くまで青信号の開戰日
 後に、信号機の色は変わった。令和の現在、信号機の色は何色だ。
 飄々としている様でいて己の生に対する固執の滲む理知的な句々。そんな句に惹かれてしまう自分を再発見した。
【高屋窓秋】
 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

 私は降りしきる雪とともに川の中に沈下してゆく。するとそこにも雪は降りしきり、私には成す術もなく次第に世界を失ってゆく、という異次元の耽美。
 ちるさくら海あをければ海へちる
 この句の眼目はラ音のリズムと〈ければ〉だろう。海の青さゆえにそこへ自ら吸い込まれてゆくさくらに命を感じる。
 木の家のさて木枯らしを聞きませう
〈木の家〉さんが、同族の〈木〉を枯らすと名乗るこがらしさんに、改まって耳をかたむけようという。冬の日の優しさ。
【東鷹女】
 ひるがほに電流かよひゐはせぬか

 ただでさえ大胆に繁茂するヒルガオにさらに電流を通わせる心理。激情。
 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
 直情かつ激情。
 狂ひても女 茅花を髪に挿し
 一字空け、銀色の美しい穂を髪に挿したところで、なお激情。 
 うつうつと一個のれもん姙れり
 抑えきれない激情をついにれもんの塊として姙もってしまう。すごい。
【藤木清子】
 身体と世界が交わるときに生まれる詩。
 こめかみを機関車くろく突きぬける
 頭部を打撃するこめかみへの突入はカ音のリズムと相俟って鋭く劇的な破壊をもたらし、突きぬけてなお惨禍を残す。
 虫の音にまみれて脳が落ちてゐる
 普段は身体と接続して日常のあれこれを世話しているあの〈脳〉が単独で落ちている。もう何者にも煩わされないはずだったが、虫の音にまみれてやや困っているようだ。おや。私の脳じゃないか。 
 針葉樹ひかりわが四肢あたゝかき
 〈ひかり〉〈あたたかき〉の言葉の斡旋が絶妙。針葉樹のきらめきや独特の芳香に手足の末端までリラックスしている。
 厭世の柔かき軀をうらがへす
 こんな世の中でも生きていかねばならない。せめてうらがえしてみる〈軀〉は柔らかく重たい。倦怠感が匂い立つ。

 以上、あくまでも筆者の味覚で鑑賞してみたが、他の読者にとってはどうであろう。筆者にとっては、太平洋戦争に触れた素材には時代を感じるものの、これらが今日の俳句であると言われても違和感はない。いずれの作品も、十七音の言葉を介して筆者に突き刺さり、筆者の世界を豊かにひろげてくれる愉悦であった。
 では、「何が新しかったのか」。議論を深耕すべく敢えて言う、「何も新しくなかった」。あるいは、色々新しかっただろうが、これまでだってそうだった。
 新興俳句運動は、当時たまたま目立った人々が花鳥諷詠や客観写生などに不自由を共鳴して盛り上がった「記録」にすぎない。従来とは異なる俳句表現の工夫は古今東西、俳人=アーティストなら誰もがいつもやっていることだと確信する。
 〈彼らは用意されていた俳句らしさ(花鳥諷詠、客観写生など)の枠にとらわれず、詩や短歌や映画など広い文学の沃野に刺激を受けながら、自らの主題と方法を探し求めた。〉と「はじめに」にあるが、既存の俳句らしさの〈枠〉に「捕らわれる」のはほかでもない作者あるいは読者自身である。〈枠〉とは、誰かに押しつけられた制約などではなく、作者あるいは読者自身が自ら学び育んできたものの見方や観念などの総体であって、無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)である。しかしそんなことはだいたいどの俳人も皆体験的に知っていて、日々、新しい俳句を詠もう(読もう)と、自分自身の既存の俳句らしさの〈枠〉=無自覚な不自由に向き合っているではないか。その点で、何も新しくはなかった。
 一方、この〈枠〉は、あまりにも当たり前に隣に居座っていてそれと気づかないことが多い。卑近な例で言えば、この本の冒頭から登場する「主観と客観」という考え方がそうだ。『自然の真』と『文芸上の真』、ロマン主義とリアリズム、などといった考え方そのものが既に〈枠〉だろう。〈枠〉を超えようとして〈枠〉に嵌まってはいないだろうか。
 阪西敦子のコラム「新興俳句のゆりかご 虚子と素十と客観写生」によると、虚子の認識は〈客観句といふと雖も矢張り主観の領域のものであり(中略)客観写生といふべきものは厳密に言って一句も無いと言ひ得るのである〉というものである。また、『自然の真』と『文芸上の真』の違いを主張した秋櫻子に対して素十は、そんなものどちらも〈知らない〉と述べ、〈私はただ自然の種々なる相を見ただけである。私の俳句といふものはただそれを写そうと試みただけである。〉と返答したという。虚子も素十も極めて真っ当な見解を述べていると筆者は思う。「客観写生」は「無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)」に陥りやすい人間の性を承知の上で、この不自由から自らを解放してゆくための方法論として教育的に宣伝したものであり、むしろ主客二元論を克服するための戦略であったと考える方が素直に理解できる。虚子も素十も、秋櫻子が『文芸上の真』を言い立て「文学」とはかくあるべしという「不自由」に自ら収まってゆく姿を見て、残念に思ったことだろう。漱石や子規も浮かばれない。
 ちなみにこの観点で金子兜太は〈作る自分が一元化されなければいけない。自分のなかに客観と主観があって、それを一緒にするか別々に扱うかガタガタして、おれは客観を中心に書くんだと言ってみたり、おれは主観が中心だという……。そういう客観だ、主観だという人間的な考え方は近代的な考え方で、古い。〉(『海程』500号記念座談会)と喝破している。「人間中心主義」ではダメだと。「生きもの感覚」である。人間の精神や人間的な意味の体系を超えた世界の中で俳句を捉える方が豊かであると筆者も思う。

 閑話休題、新興俳句運動の記録を今改めて一冊の本にまとめて吟味し、〈つまり、広義の新興俳句とは、現代俳句に他ならない(神野)〉という正鵠を得た認識の下に、自分自身の〈枠〉にどう向き合うかのヒントを探ることが、この本の意義の一つだろう。「何が新しかったのか」を知るよりも、お菓子の詰め合わせ一粒一粒を、それぞれに己の〈枠〉へ向き合った俳句そのものをこそ味わいたい。
 俳句を作るとは自分自身を作ることであり、俳句を読むとは自分自身を読むことではないだろうか。わずか十七音の言葉を介した、作者と世界と読者の交感。そこに生まれる豊かさを求めて、俳人は自分自身を更新してゆく。人によって更新のやり方も歩調もまちまちだろうが、そのみちのりは「いつも常に新しい」ものではないだろうか。
 最後に、各作家とその作品やコラムをこれほどまでに凝縮して論じた執筆者各位に敬意を表す。〈現代に生きる人々が、新興俳句運動やその作家について知り、考える手引きとなるような本を作りたい〉という現代俳句協会青年部の熱い思いが煌めいている本である。

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 1 若手ライターの評論に導かれて 石川まゆみ

『海原』No.9(2019/6/1発行)誌面より抜粋。

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 1
 若手ライターの評論に導かれて 石川まゆみ

 興味を引いたのは、「何が新しかったのか」というサブタイトル。この本は広告欄に記載のとおり、新興俳句に関わった四四名の俳人について、若手のライターが評論を書き、各百句を抄出している。合計四四〇〇句が一冊で読める。コラム一三篇も楽しいアクセントで、不勉強の私にはありがたい。早速いくつかを見てみたい。「」内はライターの文の引用です。

●石橋辰之助(一九〇九〜一九四八年)について、ライターは西村麒麟さん、一九八三年生まれ。
 「現代俳句において石橋辰之助における最も大きな功績は、山岳俳句の道を切り開いたこと(略)アルピニストとしての俳句は清新」と。抄出の〈ばらぬすと声かけられてほゝゑみぬ〉の、〈ばらぬすと〉が頭に渦まき続ける清新さ。
 「昭和一五年五月、「京大俳句」事件により、五年間の執筆禁止。山を攀じ登る勇気でもって、今度は社会、戦争という大きなものに向かって声を挙げる。〈饒舌の傷兵のうしろ闇ふかし〉(略)昭和二三年永眠。まだ四〇歳であった」
 「〈酔えど妻子に明日送る金離すまじ〉(略)辰之助の持つ人間愛が、不器用ながらも溢れている」ライターの西村さんは、あと数年で俳人の享年と同じになられる。家族に愛を注いだであろう夭折の俳人に対する同年代のライターの感情は……。行間を深読みしすぎか、感慨深い。

●桂信子(一九一四〜二〇〇四年)について、ライターは神野紗希さん、一九八三年生まれ。
 「桂七十七郎氏と結婚(略)しかし二年後の昭和一六年九月に夫が急逝。(略)俳号は生涯、夫の姓・桂で通した。〈夫逝きぬちちはは遠く知り給はず〉〈山を視る山に陽あたり夫あらず〉〈海を視る海は平らにたゞ青き〉夫を失った悲しみ、愕然とした絶望。それでも山に陽はあたり、海は平らで青く、悠然と変わらぬ姿で、ただそこにある。いずれも
無季の句だ。(略)〈私にとって俳句は残されたただ一つのものであった〉季語を必要としない、究極の真実もある」
 「今や、女性俳句、戦後俳句を語る際に、避けては通れない桂信子。その出自は、まぎれもなく、新興俳句のあの激動の時代にある」
 夫の死後を俳句によって立つ、強く柔軟な生き方の、一人の女性としても俳人を描き出す。

●加藤楸邨(一九〇五〜一九九三年)については、永山智郎さん、一九九七年生まれ。ライター中、最年少。
 「『俳句研究』昭和一〇年三月号に寄せた〈新興俳句批判〉を見てみよう。彼は運動の特質を生活の重視、個性の尊重、社会的・時代的関心の反映の三点に見、その進歩性に共感を示しつつも、〈新奇な事象の表面だけを一わたり描き出したにすぎぬ見せつけの作品を見せられると、作者の藝に対する良心をまことに淋しく思はずにはゐられない〉と述べて評価を保留している。楸邨の新興俳句批判は、そのまま彼自身の俳句的態度を導出する
理論でもあった」
 「彼(楸邨)の性には、旅に出て大自然や異邦の人の前に自己の密やかさを確認する方がずっと合っていた。だが、戦火の運命を生き延びることも、流離の一家を養うことも探究であることに変わりなく、それゆえに楸邨は〈新奇〉ではなく生涯〈真実〉を追求し続けることができたのだろう。かくなる視座を持って初めて、次のような特異な句を受容する可能性も開けるのではないか。〈天の川わたるお多福豆一列〉」
 十歳台の若者が着手した評論であることの驚き。読後、金子兜太の〈定住漂白〉を思った。

●芝不器男(一九〇三〜一九三〇年)について、ライターは森凜柚さん、一九九〇年生まれ。
 「新興俳句前夜。その始まりを予感させるように、俳壇を一筋の光が奔り去っていった。わずか二七歳の若さで亡くなった夭折の俳人・芝不器男である」
 「〈水流れきて流れゆく田打かな〉(略)最近では写真だけでなく、数秒の短い動画を撮影してソーシャルネットワークサービスで発信する人も増えているが、不器男の俳句はむしろこれに近い。大正から昭和初期を生きた不器男の作品は、時代を超えて現代の表現に達していたとさえ思えてくる」
 「〈館の外の二十本ばかりの桜花、盛んに散りつづけてゐる。実に美しい景色なのに、現代の詩なり、歌なり、句なりに何等之に対する新しい表現がないのが不思議な気がした〉(略)不器男の日記の一部だ。(略)桜が〈散る〉という静止画的表現ではなく、〈散りつづけてゐる〉動画的表現こそ、不器男が目指し、開拓した俳句の新しい形だった。まるで現代の数秒動画のようなこの表現方法こそ、不器男俳句の持つ光が、いまでも古びることなく輝き続ける理由の一つなのだ」
 当時の新しさを今のツールと結びつけた書きぶりが、読んでいて楽しい。

●竹下しづの女(一八八七〜一九五一年)について、ライターは西山ゆりこさん、一九七七年生まれ。
 「〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)〉しづの女の不朽の代表作。(略)不変の心理を捉えている名句と言って間違いない。百年近く経った今でも、〈子供泣き止まないんだけどマジ捨てたい(笑)〉というメールが母親同士に飛びかっているのだから」
 「〈詩は青年の特権!吾々は斯かる詩を思ふ存分既成老朽俳壇にホルモンとして注射したいのだ〉という、挑発的なキャッチフレーズを掲げ、『成層圏』は始まった。(略)図書室の出納手として働きながらの活動であった。〈やすまざるべからざる風邪なり勤む〉〈日々の足袋の穢(ゑ)しるし書庫を守る〉」
 「書いて、育てて、働いて蒸気機関車のような生涯であった。しづの女は、新興俳句界の漁礁だった。金子兜太を始め、『成層圏』出身の多くの作家たちが戦後の俳句界を引っ張ってゆくことになったのだから」
 「しづの女の蒔いた種子達は多いに花開き、実を結んだのだった」という結語には、同性としての共感と畏敬の念とが凝縮されている。

●永田耕衣(一九〇〇年〜一九九七年)について、ライターは堀切克洋、一九八三年生まれ。
 「一九〇〇年という歴史の標識たる年に生まれたこの俳人は、阪神・淡路大震災の被災を経てほぼ一世紀を生き抜いたという点でまず俳句史において記憶されるべき(略)」「耕衣の思想の通奏低音となっているのは、いわば近代的なものへの嫌悪である。(略)俳句とは、耕衣の考えでは〈名もなき茶碗〉のようでなければならない」
 「耕衣は、自身の〈竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな〉という句について、〈竹の葉〉と〈涅槃〉がいかなる緊密な関係にあるかを理解できない読み手に対し、〈涅槃と竹の葉に緊密な関係など本来あらう筈もない。(中略)よさがあるかないか、判るか判らぬかは別としても、何かここに神秘な味があらうことだけは肯いてもらへると思ふ〉と書く」
 茶碗を手にして、いいね、と思うのと同じかも。まさに知りたかった壺!

●水原秋櫻子(一八九二〜一九八一年)について、ライターは高柳克弘さん、一九八〇年生まれ。
 「水原秋櫻子は、構成要素の明確な俳人であった。代表的な俳論〈自然の真〉と〈文芸上の真〉で、高野素十の〈甘草の芽のとびとびの一とならび〉を〈自然模倣主義〉と批判、〈鉱にすぎない『自然の真』が、芸術家の頭の溶鉱炉の中で溶解され、然る後鍛錬され、加工されて、出来上がったもの〉として〈文芸上の真〉の追求を提唱した」
 「秋櫻子の唱える〈文芸上の真〉への共感が、新興俳句運動の端緒となっていくわけだが、芸術一般における「美」の概念を俳句に持ち込んだことは、小説や絵画・彫刻などと同じ基準で俳句の価値を測ることと同義であり、この意義は大きい。新興俳句運動は、秋櫻子の個人的な作家性を超えて、連作や無季といった表現上の革新を呼び、戦争の現実(リアル)を捉えた俳句や社会性俳句にもつながっていった。俳句独自の価値観に偏った閉ざされた俳句の殻を、秋櫻子が破ったことで、他のジャンルの芸術とも比肩しうる俳句の在り方を、当時の青年層を中心にした新興俳句の俳人たちは考えざるを得なくなったのだ。むろん、同じ課題は、現在の若い俳人にも突きつけられている」
 異議あり。老俳人にも突きつけられている課題です。

●横山白虹(一八九九〜一九八三年)について、ライターは田中亜美さん、一九七〇年生まれ。
 「いわゆる文学青年らしからぬ、健やかさと明るさも合わせ持っていた」「〈ラガー等のそのかちうたのみじかけれ〉〈頼信紙ざらざらとせり蛾をつかむ〉(略)ラグビーや頼信紙といった当時の最先端の新しい素材の活用(略)」
 「(略)誓子は『海堡』の序で、〈自分の俳句が見えざる人々に依て支持されてゐることを知った(略)それを『詩性』のありなしだと説明したのは白虹君であった〉と書いていた。(略)『詩性』とは昭和初頭の白虹にとっても二歳年下の誓子にとっても、手探りの状態で探り当てられるものであったことに、あらためて気づいて驚愕した」との件には驚く。詩性は天性のものと、私は凹んでいた。俳人らの詩性がどう磨かれてきたのか、どう磨かれて行くのか、もっと知りたいと思った。
 内容の省略により、ライター達の意図と違ったかもしれない。ご容赦の上、ご自身でお確かめください。
 最後に、現代俳句協会副会長高野ムツオ氏による、この本の序文を引用させていただく。
 「今回のアンソロジーは新興俳句とは何であったかを、広角的にアプローチし検証することが目的である。担い手は新興俳句がそうであったように、二、三十代の若者が中心となった。既成の価値にとらわれない冒険や挑戦もまた新興俳句の精神を継ぐことにつながる。本書には俳句の未来をさぐる手がかりが無尽蔵であると信ずる。老若男女を問わず、一人でも多くの俳句愛好者が手にとり、それぞれが目指す俳句の道しるべの一端となれば、それに過ぎる喜びはない」

金子兜太の源郷に呼ばれて 大高宏允

金子兜太の源郷に呼ばれて   大高宏允

 金子先生が他界されて、なぜあのような型破りの人物が生まれたのかを思うことが多くなった。それを知ることは、先生をもう一度学びなおすことのようにも思える。
 そんなことを、思い続けたのには理由がある。ひとつは、あの俳句へのほとばしるような情熱で、もうひとつは九十歳をこえても反戦・平和への執念のような取り組みを持続されていたこと、それが知りたかった。
 俳句への情熱を、個人的にもっとも感じさせられたのは、ある年の新年の東京例会でのことであった。先生は、みんなから来る投句を、恋人の手紙を読むような気持ちで見ている、とおっしゃった。
 その言葉に、驚きそして感動した。門外漢の私にとって、師と弟子の関係の見えない本当の姿をはじめて感じた一瞬であった。
 しかも、先生は投句作品を何度も読み、時に辞書で調べて確認までしているという。申し訳ないような、有難いような気持ちでいっぱいになった。そんなことを昨日の出来事のように思い出す。
 人間、齢九十ともなれば、日常の挙動さえ覚束なくなる。ましてや、世の中がどうなろうと、そのために時間とエネルギーを費やすなど、なかなか出来るものではなかろう。
 しかし、先生は、東京例会、秩父道場などの内輪の機会でも、反戦・平和をしばしば語られた。それ以外でも、雑誌、出版物等での対談をはじめ、乞われれば講演会などでも数多く反戦・平和を説かれてきた。
 金子先生をして、この俳句と反戦・平和へのいのち丸ごとこころ打ち込ませしめたものは、いったい何であろうか。
 さまざま思い巡らしている過程で、それは秩父という土だ、という先生の声が聞こえたような気がした。これから、その声の向こう側に分け入ってみたい。

 土と俳句の関係

 東京例会での先生の言葉で、いまでも耳に鮮やかに聞こえてくる言葉がある。
 「もっと、生々しい俳句を見せてほしい」
 「生きもの感覚で書いてほしい」
と言った言葉である。
 言うまでもなく先生ご自身が、それを体現していたからであり、句稿の作品の多くが観念に傾斜していたからでもあろう。
 よく、「頭で作っている句」という言葉を聞いたが、私などはただ訳もわからずその愚を繰り返していた。「生々しく」とか、「生き物感覚で」と言われても、どうすればそう出来るのかさえ分からなかった。
 それが少しずつ分りはじめたのは、先生の句や先生に採られた先輩たちの句を何度も詠み直すようになってからであった。
 ところで、金子先生と土について考えるにあたり、先生の次の一句から入ってみたい。

  無神の旅あかつき岬をマッチで燃し
 
 私にとって、秩父に生まれ育ち、アニミズムを信奉するという先生と、「無神」は結びつかない。先生は何を考えてこの一句をなしたのだろうか。先生の中で、秩父という風土はどのように作用していたのか。あの自然豊かな風土に育ってなお、無神論者であったのか。その辺のことを、先生ご自身の言葉で確認していこう。
 『金子兜太 自選自解99句』(角川学芸出版)に、この句について先生は次のように語っている。
 
 津軽半島の北端の竜飛岬に行き、(中略)タバコの火を点したとき、(中略)「無神の旅」の語がとび出す。私は、そのときも今も神・仏の存在を信じるが、特定宗教は信仰しない。その意味では、無神論者である。岩肌の焔明かりに、ふとそのことを思って、なんとなく可笑しかったのである。いやしみじみと神仏の存在を感じたのである。

 この先生の言葉で、既成宗教の神仏を信じることではなく、神仏そのものを直接に感じているということがわかる。
 タバコの火が岩肌を赤く染めているのを見て、既成宗教の脚色された神仏ではなく、眼の前の自然と触れ合って感じる神仏と出会って出来た句なのである。
 ところが、この一句を井口時男氏は、

 一読、端的に、「岬をマッチで燃し」という大胆きわまるイメージの暴力性に驚くのだ。(中略)
 ここに燃え上がる炎は、中央から遠く離れた辺陬の地に発する革命の先触れの烽火ともなるだろう。(以上、「兜太Vol.1 」三本のマッチ❘前衛・兜太 藤原書店)

との解釈をされている。
 解釈は自由である。また、井口氏の論考は想像力が豊かでたいへん興味深い内容ではあるが、私は誤解をも恐れず、浮かんだ言葉を即興的に採用した大胆さにこそ風土性を感じた。

 風土が体を作る

 ここで、われわれ日本人にとっての神とか仏とは、そもそも何であるのか、識者の声を聞いてみよう。まず、鎌田東二氏の言葉、
 
 五三八年に日本に伝来した仏教は、のちに「山川草木悉皆成仏」とか、「草木国土悉皆成仏」とかいう成仏観を掲げるようになったが、そこには「神ながらの道としての「神道」の神観や自然観や生命観が溶け込んでいると考えられる。山川草木や国土に至るまで皆ことごとく仏になるというのだから、それは「すべてが神であり、仏である」という理解であろう。(中略)
 遠藤周作のキリスト理解においては、神道の神も仏教の仏もキリスト教の神もその区別はさほど大きくはない。それは万物を包み込む「大きな命」という表現でとらえられている宇宙生命、すなわち「かみのいのち」なのである。

 さらに鎌田氏は、小泉八雲の著書「神々の国の首都」を引用して、われわれ日本人の神感覚に迫る。

 古風な迷信、素朴な神話、不思議な呪術—これら地表に現れ出た果実の遥か下で、民族の魂の命根は、生々と脈打っている。この民族の本能や活力直観も、またここに由来している。したがつて、神道が何であるのか知りたい者は、よろしくこの地下に隠れた魂の奥底へと踏み分け入らなければならない。この国の人々の美の感覚も、芸術の才も、剛勇の炎も、忠義の赤誠も、信仰の至情も、すべてはこの魂の父祖より伝わり、無意識の本能にまで育まれたものなのだから」(講談社学術文庫)と続ける。
 
 ハーンは神道には教祖も教団も教義も経典も仏教のような大哲学も大文学もないが、まさにそのないことによって西洋思想の侵略にも屈することのない独自の文化を保持しつづけたのだと主張している。キリスト教も仏教も偉大な神学・哲学を生み出した。しかし神道にはそのような偉大な神学も哲学も文学もない。けれども、そのないことがいろいろなものを包含し、包み込み、育み、変容させる母胎や触媒のような役目を果たしたのだと指摘するのである。(以上「日本人の宗教とは何か」第一章<神道とは何か>鎌田東二、山折哲雄編 太陽出版)
 
 この本の編者山折哲雄氏は、第七章の最後に次のように語っている。

 (前略)日本の豊かな森の中、自然の中に入っていくと、その森の中、自然の中から神の声がきこえてくる。仏の声がきこえてくる。そして人の声、ご先祖さまの声までがきこえてくるような気がする。自然そのものをこのように受けとめてきたのが、日本列島に住む人々の日常的な感覚だったのではないだろうか。神や仏の気配を感じて身を慎み、毎日の生活を送るようになったということだ。日本列島における「感じる宗教」が、このようにして誕生することになったといっていいだろう。

と述べ一神教のような「信じる宗教」に対して、風土によって育まれた「感じる宗教」であることを強調している。
 金子先生自身も、対談などで自分と源郷の関係をしばしば語ってきた。『語る 俳句・短歌』では、佐佐木幸綱氏との対談で、

 なんで私が俳句から離れられない状態になっていたか、私という一庶民が十分な俳句環境もないのに俳句という世界にのめり込んでいつたかということですが、その根っこに、いわば肉体的な条件があるわけです。私は肉体というのは風土が作ってくれるものだと思っていまして、今ではその風土のことを「産土」と呼んでいますが、その肉体的な条件があって、それが私を、私の俳句を支えたんだということです。

と自分の肉体が秩父という風土によってつくられ、それが俳句につながっていったことを率直に語っている。

 開く心から生まれる俳句

 また、平成十二年冬季号の「三田文学」では、田中和生氏との対談でこんなことも語っている。

 どうも秩父というところは、人間そのものがみんな俳諧みたいなんです。(中略)貧しい地帯の人たちというのはその行動様式が諧謔、俳諧なんですね。まともなのはいないんですよ。だから私のなかにある俳句の始まりはもともと諧謔、俳諧です。俳句がしみついていたということは、イコールそれがしみついていたということですね。(中略)私なんか単純な人間だから、幼少年期を育った産土、その地域の影響というのがすごくしみている。文化現象とか風俗とか、そういうもの。それがありまして、どうも現在でも、それを原点にいつも物を考えているようなところがある。

 先生のこうした言葉を聞いて、海程や海原に所属してきた人は、おそらくすぐいくつかの先生の俳句が浮かんでくるだろう。
 私も次のような作品が浮かんできた。

  きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中   
  銀行員ら朝より螢光す烏賊のごとく
  粉屋が哭く山を駆け下りてきた俺に
  二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり
  大頭の黒蟻西行の野糞
  犬の睾丸ぶらぶらとつやつやと金木犀

 これらの句の、汽車や、銀行員や粉屋ですら、またテレビに映る短距離競走の黒人たちや野糞、犬の睾丸などは風土に育まれた生き物感覚によってこそ共感されたものと思う。
 田中和生氏との対談で、生き物感覚について先生は次のように話している。

 そういう生き物感覚に恵まれている人の場合は、自ずと相手に向かって開く心が養われている。その相手に向かって開く心が「情(こころ)」である。それに対して自分に閉じていく心が「心(こころ)」である。こういう読み分けというか、使いわけをしようと考えるようになった。

 おなじ「こころ」でも、相手に向かって開くか閉じるかで、違ってくることを一茶から学んだことを吐露している。先ほどの自由奔放な六句が、そのような微妙極まりない感覚から生まれているというのは驚きである。
 思うに、金子兜太という人を慕ってその門にはいって来た人は、自由奔放にして且つ微妙極まりない詩ごころの魅力に惹かれてはいってきたのではなかろうか。自由奔放且つ微妙こそ、このいのちの場である森羅万象の不思議の世界である。
 現代俳句協会に所属していない俳人の中にも、金子兜太の俳句や人間性に共感する人が多く見られることに、以前は不思議な思いをしていたが、海程の外側の人にも、「相手に向かって開く情(こころ)を持っている人がいると言われれば、素直に納得できる。
 そういう人で今すぐ思いつくお名前を挙げてみよう。
 長谷川櫂、有馬朗人、黒田杏子、深見けん二、大串章、西村和子、夏石番矢などなど。この人たちが金子兜太の句について書いているものを読むと、驚くほど先生の感性に共感している。
 畑は違っても、心を開いていさえいれば、国籍、宗派、階級、派閥などなにも理解の妨げとはならないということであろう。 
 ここで、夏石番矢氏が先に引用した三田文学平成十二年冬季号で、「身体のゲリラ❘金子兜太の句業」と題して、論じている考察の最後の言葉を見てみよう。

 このように金子兜太を見てきて、この俳人を、「身体のゲリラ」と呼んでみたくなった。
 自分の多感な感受性を武器として、本来はそれほどの破壊力を持たない武器をここまで使い込み、また活用し、ときには奇怪さも帯びる、独自の幅広く変化に富んだ世界を、身体俳句や動物俳句を中心に築き上げてきたのは、実に稀有なことがらである。金子兜太の句業によって、それまで狭く貧血気味だった俳句というジャンルが、より開かれ、より活気に満ちた分野になったことは言うまでもないだろう。
 身体のゲリラ、金子兜太が、これからもいのちあるかぎり、俳句という原野で闘いつづけることを祈るのみである。

 この夏石番矢氏の言葉は今は他界にいる金子兜太先生に対する賛辞といってよかろう。多くの俳句を愛する人々の心に影響を与え続けてきた「身体のゲリラ」こそは、まさに秩父という風土から生まれたものであることをわれわれは見てきた。
 夏石氏の文中に見られる、感受性、破壊力、奇怪さ、独自の変化などの言葉は、みごとに金子兜太の本質を捉えている。これらは、たまたまこの春、東京都美術館で開催されている「奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド」に出展されている伊藤若冲、曽我蕭白、狩野山雪、長沢芦雪、歌川国芳などの絵画表現とも共通するのではないか。彼らの絵画表現は、常識的美意識を抜け出し、自由奔放に生き物感覚を発散している。まさに、開かれた情(こころ)の産物と言えよう。
 金子兜太先生にとっての風土としての源郷から生まれる生き物感覚は、あまねく日本の自然に生きるわれわれのこころにも宿り、共有されているものだ。それ故にこそ源郷からの流れは、この豊かで変化に富んだ自然があるかぎりつづいていく。

 ユーラシアの果てから

 NHKBSテレビの「江戸アバンギャルド」に出演した山下祐二氏(明治学院大教授)はこんなことを語っていた。

 ユーラシアから争いを嫌う人々がこの国に流れ着き、変化に富んだ自然に刺激されて、独自の芸術を生むことになっていった。

 この指摘に私は、なるほどと感心したが、考えてみると、この島にやってきた渡来人はユーラシアからだけではない。東南アジアなど、さまざまな方向からやって来たことであろう。そういう人たちが、この豊かで変化に富んだ風土と出会い、繊細極まりない文化と神々の多様性を創り出したのであろう。その中には、土着の縄文人やアイヌの人々も加えなければならない。ユーラシアの果ての美しく豊かな自然の島国は、そこで生きる人々を、争わず和を尊ぶ心を宿す心と体に育てたのであろう。
 無論、長い時間で見れば、対立や争いはいくらでもある。しかし、世界的に見れば、この島国ほど平穏な時代の多いところはそう多くないはずだ。
 しかし戦後も七十年以上過ぎて、その日本のよさが失われようとしている。金子先生も先に引用した田中氏との三田文学の対談で、その点を指摘している。

金子  (前略)いまのアメリカナイズされている風俗というか、文化と言っていいでしょうか。これに対する抵抗感覚がかなりある。(中略)
田中 アメリカナイズされた文化が入ってきたところに対するカウンターカルチャー的なものとして。
金子 その一つの代表として、俳句をいたわっていきたい。むしろ振りかざしていきたいと思う。

 金子兜太という存在が、ある意味日本の辺境ともいえる秩父という風土で体をつくられその体から発散する型にはまらない自由奔放で生き物感覚に満ちた俳句を量産したことがどれほど多くの影響をいま放っているか、わたしたちはよく見届けておかなければならない。生涯秩父という源郷の火を心にともし続け、多くの弟子を育てた先生は、われわれにその源郷の種を残して逝った
 ところで、私は二月に入ってすぐ、金子先生の夢を見た。ソファーにゆったりと座り、リラックスして微笑をたたえながらお話をされていた。その内容は忘れてしまったが、穏やかな先生の声が聞こえてくる。

「大地に立っているということに気づくことだね。大地と空の間に生きていると気づけば自然と生かされているいのちを感じるんだ。そうすれば、そこが源郷だよ」
 
 ユーラシアの果ての島国のさらに辺境の地ばかりが源郷ではない。砂漠であろうと、極寒の地であろうと、そこでいのちが大地を感じさえすれば、そこが源郷なのではないか。
 金子先生の源郷に呼ばれて金子先生を師として仰いだと思ってきたが、どうやらそうではなかったようだ。むしろ、金子先生の源郷感に伝染し、自分のいのちの中の自分の源郷に気づかされたように思う。
 夏石番矢氏が俳句を世界に広める活動をされているが、われわれ海原の衆も生き物感覚の俳句を通じて次の世代に対して、先生と同じように源郷感を広く伝染させていきたいものである。
 それは多分、金子先生の第一句集「少年」の「あとがき」の、

「何よりも自分の俳句が、平和のために、よりよき明日のためにあることを願う」

という言葉に応えることにつながるように思う。

「衆の詩」ふたたび 金子 兜太

兜太44年前の思いに学ぶもの。独特の言葉使いに戸惑うかもしれない。しかし、脱近代的なその論旨を読んでみていただきたい。


(昭和50年/1975年 「海程」115号より)

「衆の詩」ふたたび  金子 兜太

 ■からだ――心と肉体の合一としての主体

 僕が「衆」ってことを言い出したのは、造型論で主体の表現を目的とすると言っておりますね、その主体の全身性の獲得というか、回復といってもいいんでしょうけど、全身性の獲得ということを考えてるからなんです。それからいま一つ、同時に言わなければならないことは、天然の問題です。だがこれは一応おいといてあとで申します。
 私が表現における思想的な主体という時、これはいつも言ってきましたことですし、自分でも自慢しておることで、現在ますます自慢してるんですけどね、心身全体を主体と言ってるわけです。心と肉体の弁証法としての主体(からだといってもよい)、そういう体という形で主体というものがあるわけです。このへんのところは復習になるんですが、たとえば、風土とは肉体であるともうすでに八年前に言ってます。徳才子(青良)君がこの言葉を多としておりましてね、その後「風土ってのは肉体なんですよね」と言ってくれるんです。よくわかってるんですわ。これを正確に言えば、心と肉体の弁証法としての主体、それがすなわち風土でもあるという見方でいいでしょう。生活の中で思想を肉体化するってこともたびたび言ってます。思想ってものはそれ自体が充足してあるんじゃない。一人一人の生活をへて肉体化されなければならないということなんです。そうでないと表現者のものになりませんね。人間のものにならんです。よく言われる思想と人間は別だというような詭弁が通用してしまいます。私は生活者の中の思想を肉体化するっていうことを盛んに言ってきたわけです。デカルトがやったように、近代思想のはじまりからそうであるように、物心というものを切り離した考え方を私はとってきておりません。これは私の得意なところでしてね、始めっから反対してるんです。そういう意味で私は近代に反逆し、心と物というかわりに、心と肉体の合一としての主体という言い方をしてきたわけです。これは全体的に主体をとらえるということです。
 最近じつは意を強くしてるんですが市川浩という人が『精神としての身体』という本を書きましてね、これは僕の思想にひじょうによく似てます。彼は現象学派だが、その立場から、心だけを切り離した近代思想に反逆する人がようやく出てきたのです。心と体をむすびつけた、いわゆる身体という考え方、これでとらえなければ人間の存在全体をとらえられないと言ってます。私はこれを心と肉体の弁証法による主体という言い方をしてきたわけです。からだという言い方もしました。体でとらえろとか、体を働かせろとかね。市川さんの本はなかなかいい本でわが意を得ておるんですが、ところが僕はそれをさらに一歩進めて、「衆」ということにつなげるんです。

 ■たとえ・・・の動脈硬化と言葉の記号化

 実際に俳句をつくってきて、みんなの俳句を拝見し、一九六〇年以後のいわゆる前衛の仕事を見て、自分もその中にいてですね、これはもう常識論になってますけど、一番端的に感じましたことは、たとえ・・・がひじょうに硬いということです。私は比喩と言いません。たとえ・・・と言います。たとえ・・・の中で部分的なたとえ・・・がおこなわれている時は比喩であり、一句全体がたとえ・・・を実現している時が、象徴である、シンボルであると考えますが、その両方を包括する概念としてたとえ・・・といいます。そのたとえ・・・がひじょうに硬い。いわばたとえ・・・の動脈硬化ってものを感じ続けてきましたね。とくに伝承派のまき返しがあってから前衛の人達が硬くなって、たとえ・・・について頭を使いすぎる。心を労しすぎる。そのくせ体を使ってないのですな。だからますます硬くなってくる。なかには、エロスとか言う人もいて、言葉を肉体の流れのままに使おうという言い方でもって、肉体面を重視する人達もおるわけだが、その場合でも公式化してるんです。そういう動脈硬化を痛感してきましたねえ。
 いまにして思うと〈銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく〉という僕の句も硬いです。批評性としてはそれほどのもんじゃない。普通なんだが句の中におくとひじょうに硬い批評性を感じさせてしまう。それは言葉が硬い、たとえ・・・が硬いからなんです。本当の意味の身心充足した状態がないということじゃないかと思う。主体的表現が十分におこなわれていないと自分なりに受けとってます。
 一方では動脈硬化への反省が強くこもっているんでしよう。いわゆる言葉というものヘの過度の依頼、言葉がオールマイティーである、すべて言葉といえば足りるという考え方がかなり強く若い人からでてきたわけです。そのくせ一方では言葉は全然信用できないという見方がありながらね。一方では過度に信頼してしまい、その結果、言葉は完全に記号化し、私からみるとくらげのような浮遊物になってきてるんです。特に一九七〇年代にはいってからですね。

 ■衆――ひろい意味の主体へ

 そこでこれは僕をふくめての反省なんだが、心と肉体の弁証法としての主体というものだけではなお足らんのじゃないだろうか、つくっている感じではどうも足りない。つまり、その場合の主体は孤立した状態、一人の人間の状態です。ところが社会性論議の時期を振り返ってみればわかるが、僕らは社会的存在なんだ。人間の中にいる存在です。ということは、人々との関係というものを、心プラス肉体の中にさらにとりいれなければならない、金子兜太という一人の俳句づくりが、自分の心と肉体をフルに活動させて俳句をつくるつくり方、それだけではまだ足りないということ、いま一つ自分の周辺におる人々というもののもっている思想とか肉体を総合した主体をとりいれていく必要があると考えたんです。そこから私はその人々ということを「衆」と言ったんです。
 大石雄介君に言われたんで『日本国語大辞典』で衆という言葉を調べてきたんですが、大勢という意味が基本にあるんですね。それから人々という意味です。それ以外の意味はありません。あとは旦那しゅう、とか衆工人のように接頭あるいは接尾に使われるのであって、基本の意味は大勢の人、人々ということです。みんなは衆というとすぐ、通俗的なもの、世間的なもの、いわゆる大衆という名の、文学にとっちゃある意味でプラスにならないもの、浮薄なものというものを頭にうかべるんですね。これは僕だってそういうふうに速断する時があります。ところが衆という言葉に一つ言葉をくっつけなければこういうものにならんのです。たとえば大衆と言った場合は大勢中の大勢の衆なんです。箸にも棒にもならんような衆が大衆なんですが、衆は違います。俗衆とも言いますね。通俗化された衆であってやはりたんなる衆ではありません。だからエリートのことを逆に優衆とでも言ったらいいんじゃないんですかね。秀才なんて言わないでね。
 そういうわけでね、衆という言葉には通俗性とか世間性とかは全然ないのです。そこんとこがずいぶん誤解されてます。衆という言葉についている垢をそのまま飲みこんでいるんだなあ、みんなは。ここらでいっぺん洗い直してもとの言葉にもどしてみなけりゃいけません。人々とか大勢の人とか言えばいいのかもしれませんがね。俳句の世界では衆という言葉が慣用されてきてます。ご承知の芭蕉の「許六離別ノ詞」に「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」と言った有名な言葉があります。自分は大勢の人のようにはいかないのだ。夏の炉冬の扇みたいなもので、季節はずれの役に立たないものだ。これが自分の風雅だから大勢の人々とはとても一緒にはできない。習慣には従っていけない。だから、自分だけの、異端だというわけです。この場合の衆には少しも俗衆とか大衆とかいう概念はありません。あくまでも大勢の人ということです。俳諧の世界では衆という言葉はかなり普通に使われてきたと思うんです。普通に使われなくたって芭蕉のこの言葉があればいいと思うんです。それを根拠において使ってゆきたい。
 それでね、このことからもっと具体的になにを考えるかというと、人々と自分の主体との合一ということです。二段構えです。自分の心と肉体の合一が最初の主体でした。それでは足らないと衆をプラスすること、つまり狭い意味の主体と衆の合一としてのひろい意味の主体をそこで考えたということです。それははしなくも、社会性という言葉で言われた、外に向かって自分の主体をひらいていくということを、もっと内在的にようやくとらええたという感じをもってます。あの時の社会性なんていうのは、主体と社会性の分離現象がやっぱりあったと思うんです。衆という言葉でようやくとらえました。
 衆ということ、つまり大勢の人、自分の外にいる大勢の人というのがなにを意味するのか、これは今後いろんな人からいろんな意見が出て議論になりましょうが、いま私の考えてる大勢の人とは最大公約数の人です。特別すぐれた人でもない。特別に駄目な人でもない。俗衆でもなければ優衆でもない。平均的な人達ですね。

 ■衆の日常

 その最大公約数の人にとっての存在状態というものをみてまず出てくるのは、その人達の「日常」ってことです。日常とはなにか。体が生活的に働いている場です。この場合の体とは狭い意味の主体でしたね。それが生活的に働いているんです。動いているんじゃありません。動くということに人間の意思がはいります。にんべん・・・・がつくんです。そしてその日常に湧いてくるものが僕の主体にとってひじょうに栄養になります。そのなり方が三つあります。
 まずその場面でいち早く感知できるものは、体のなまなましさです。二番目は言葉と交錯する体の働きの自然さを感じます。日常というのは体が生活的に働いている場だから当然そこでは言葉が語られています。言葉がない生活なんて考えられない。そうするとそこで語られている言葉と交錯している体、体が言葉を吐き、言葉が体にはねかえってくるそういう体の働き、これがいかにも自然だということですね。それから三番目は、本能あるいはそれの情念的発現としての欲望への受用と抵抗です。これを率直に受け入れるかあるいは反発するかという動きが生き生きとおこなわれているということ。この三つを衆の日常という存在状態の中でまず感じます。
 それがまた僕の主体にとっては栄養源になるんです。これはカンフル注射とかいったものとは違います。実際に生野菜を噛んでとったような体にしみる栄養になります。これを摂取していくという中に僕の主体はさらに深められていく。さらに立体的になり、さらに全身的になります。その場面で表現をおこなうことを考えるのです。

 ■純動物――衆の純質

 そしてここから一歩前へ進むわけです。衆の存在状態である日常は当然自分の中にもあります。それを僕は「内なる衆」と言うんです。自分の外にいて社会を形成している大勢の人達というのは「外なる衆」としてとらえられる。ここでまた内なる衆と外なる衆の二重構造として考えられ、ここにも弁証法があるわけです。僕は弁証法の徒ですからね。すべて相対的なとらえ方しかできませんし、相対的にしかとらえません。絶対化を避けて聞いてください。必ず相対化しています。内なる衆が絶対ではない。外なる衆が絶対でもない。両方の弁証法的関係という二重構造がそこに働きます。
 それではそういう衆の日常というものから自分が基本の栄養剤にするもの、エッセンスとする存在性とはなにかということが問題になってくるわけです。漠然ととらえ吸収する、あるいは生理的に利用するという状態だけですませるのではなく、基本的に栄養になるものをとらえなければならないのです。
 そういう存在の純質を僕は「純動物」という形でとらえているわけです。これは森田緑郎君の質問にあるように、「原郷」と純動物というのは緊密な関係にあります。つまり原郷を感じる能力をもったものが純動物ですから、原郷というイメージは当然基本の栄養になります。
 だからここでまとめてみますとね、衆というものの中には存在状態としての日常という形で、それこそ日常的にとらえうるものがある。同時にまことに非日常的にしかとらえられないような、もっとも本質的なもの、つまり純質がある。つまり、日常の中に自分達が日常的にとらえているものと、非日常性をもった純質の衆の内容というものとの二つがある。そして最後の目的は、非日常性をもった、日常の中の非日常的な部分であって、それが純動物だと言える。それが原郷という想念につながるものであるからそれをとらえたいということだな。

 ■子規の「土がた」

 前にも書いたことですが、正岡子規が「月並調」ということと「土がた」ということを言ってます。子規の月並調というのは概念があいまいで、直感的に掴んだものにちがいない。文化文政から天保以後の俳諧は、町民から農民にずうっと広がっていったんです。そして主導力という言い方はおかしいんですが、たとえば芭蕉時期の主導力はなんてったって芭蕉とか去来の類い、つまり武家の出です。だけども文化文政期から天保にはいりますと、町民あるいは一茶のように農民の出になります。こういう人たちの俳諧は、すぐ類型と惰性におちいりやすいから、これを子規がみた場合、ひじょうにもっともらしくみえたんですね。芭蕉などを崇拝してみせて、みょうに精神家ぶったことをいうけれども、それが全く受け売りで身についてない。ただ形だけを真似てみせたとか身振りが多くって中身がない。それにもっともらしい。口ではひじょうに美しいことを言うが、一皮剥けばひどく卑俗。上っ面では金もうけに関係のない顔をしているが裏ではなにやらうろん・・・なことをしていたりしてね。そういうふうに裏と表の違いを平気でやり、そういうものが句にぷんぷんと匂うんですよ。それから従来の俳句の惰性的表現にのっかって互いに褒めっこする。ちょうどいまの俳句の季題趣味と同じです。季題だけを便宜的に使ってそれを手がかりに褒めっこしたりけなしっこしたりという習慣。マナリズム。こういうもっともらしくって卑俗で陳腐な俳句の世界を、子規はひじょうにいやがってるんで、それが月並調です。
 だからこれは談林貞門俳諧への非難とはちょっと違うとこです。談林貞門にも卑俗さはあります。しかし、化政期から天保以後のもっともらしさや陳腐さとはすこし違うということです。談林貞門はかなり野放図な面とか助平、猥雑なものとかを句にしようとしてますから、ある意味じや新鮮なねらいがあったと思うんです。殿上文化に対する衆庶文化の爆発とでもいうかな。ただ両方に共通することは、風俗はふんだんにあったし、それにまつわる言葉もあふれていたが、詩が足りなかったということでしょうね。感動を与える力がなかった。体の芯にささってくるもの、体をふるえさせるもの、そういう詩質が足らなかったということははっきりしています。だから子規は月並とけなした。
 しかし一方では、「渾沌が二つに分れ天となり土となるその土がたわれは」という歌をつくり、自分は決して天の上の人間ではない、むしろ地下じげの人間だと言ってます。そこで言われている「土がた」とは月並というもっともらしいもの、卑俗なもの、陳腐なものを剥きとったあとのなまなましさです。それは武家であろうと町民であろうと農民であろうと、みんな人間に還元される、そんな階級性をなくして人間に還元された、その人間のもっている純質、それを「土がた」と言ったのです。
 そうすると子規の中には、伝来的な習慣と卑俗の状態における衆と、人間的純質をみせている衆という二つが考えられ、その陳腐な方、コンべンショナルな衆を月並調とけなし、人間の純質をしめしている衆を「土がた」ととらえ、自分もその仲間にはいりたいというわけなのです。二重構造です。
 いま私が言っている衆もそれです。ただ私の場合には二つあるんで、内なる衆と外なる衆という形で自分の内部に反映させている衆が一つ。それからそのなかにいまのように月並調と「土がた」的な衆というものが同時にあるということなんです。
 そして私は月並調的な衆をけっして嫌いません。そういう日常をどんどん摂取して、そういうものの中の生まな動きの中に自分を置きたい。しかし同時に「土がた」としての衆、私の言葉で言えば純動物としての衆に自分の基本の視点をおきたい。それを獲得したいと考えているわけです。

 ■天然と自然

 そしてそのことが最初にちょっと申し上げた天然と自然にかかわってくるのです。自分の主体というものをさらに拡げるためには、衆とならべて天然というものをはっきりとらえておきたい。天然は月並調の衆と同じです。僕は庭に樹をたくさん植えて生活しているからよくわかるが、植物ってのはひどく粗暴で冷酷な面があるんですね。植物だからいいもの、植物だから素直なものなんてことは絶対ありません。もういかにもずうずうしくって弱肉強食的なもんです。犬や猫とも一緒にいますが彼らにも当然あります。ひじょうにずるい面がある。そういう点でね、月並調の天然がありまた逆に「土がた」的な天然がある。その「土がた」的な天然というものを私は「自然」と言ってるわけです。だから私の場合はいつも、天然の本質としての自然という言い方をしているわけで、これはちょうど衆と純動物ということとぴったり照合します。衆はすなわち天然、天然の自然はすなわち衆の純動物です。
 だから僕のいまの詩作構造としては、心と肉体というものの全体としてのせまい意味の主体・・・・・・・・にくわえまして、衆と狭い意味の主体との合一によるひろい意味の主体・・・・・・・・に、さらに天然をくわえて、その全体によるよりひろい主体・・・・・・・というものを考えてるわけです。そういう主体が熟していけばいくほど自分の俳句はさらにみずみずしくなり、さらに本質的になってくる。こう期待してるわけですね。ただいまの僕はあくまでも人間に執着しているから、天然と自然ということについてはそれほど言わないわけです。むしろいま積極的に言うことは衆と純動物です。これをなんとか包摂していきたいですね。

 ■ふたたび純動物

 そこで純動物ってことになってくるんですが、私はよく男女の関係で説明するんです。当世流行のポルノ小説のような技巧をこらした関係は、それだけでは、月並調で、純動物に対して、動物的といえます。純動物はポルノ的性戯ではなく、生まな本能、愛欲といいますか、それが中心になっている関係、そのときの男女は純動物なんです。愛とは、そういう生まな本能の生粋な和解であり闘いだとおもいます。その愛のうえに築かれるものが責任。
 ポルノ的本能実現は、はからい・・・・をもって本能が実現された状態ともえます。はからいのない生粋の愛欲の姿が純動物の姿でです。そういうときの男女の交合の中には原郷が宿っている。エクスタシーのなかには原郷があるが、ポルノ小説の中に極楽が見えてくるなんて書いてあっても、それは極楽らしいもので、極楽でもない。だから地獄だってあらわれはしない。ポルノ小説的はからいは、本能的ではあるが本能そのものではないんですね。
 動物と純動物の区別はそこです。そして衆の日常というのはおおむね動物の面が強く、だけども同時にその中に純動物が必ずひそんでいる。僕の中でも同じです。その純度。それが究極において詩であり、感動の因です。

 ■物と言葉――相対あいたいなるもの

 そういう具合に僕は全部相対あいたい的な考え方でその合一をまとめますから絶対化しません。物と言葉です。言葉というのは必ず相対あいたいの物をもっているということです。そして人間が物に触れているとき、それは必ず言葉で表現されているということです。そういう意味でも、物もまた相対あいたいの言葉をもっているということです。だから武田伸一君が心配してくれたように、物の絶対化という考え方をもっておりません。「俳句もの説」とは違います。物と言葉の弁証法です。
 たとえばここにコーヒーという言葉があります。このコーヒーという言葉がコーヒーという物を失ったとき、おそらくコーヒーそのものの生地の味も香りも失うであろうし匂いもつやつやしいものも失うでしょう。だけども、コーヒーという物だけがあり言葉をもたなければ、それはあくまでも人間から孤立、いや疎化といってもよい状態にとどまるんです。人間の中にははいってこない。つまり人間に属さない。だからあくまでコーヒーという物はコーヒーという言葉をもたなければならない。言葉をもって人間の所有になるんです。しかし、人間の所有になったコーヒーという言葉が、コーヒーという物を失ったら、その言葉はたちまち色あせてしまって、こんどはその言葉が人間から孤立してしまいます。味も香りもない言葉のコーヒーなんか誰が相手にするもんか。当然、そうなればコーヒーという言葉をつかった俳句は人を感動させることがない。いかにうまいことを言っても、すでにマナリズムにおちいってます。言葉が惰性化しています。伝承俳句のつかっている季語なんてものはそうですね。
 たとえばトマトという物の輝き、新鮮さ、トマトという物そのものの物質感、その純質が自然ですが、トマトという天然物のもっている自然、その質をですね、トマトという言葉がとらえない限り、その中に包蔵しない限り、言葉はいろあせ、死んでしまいます。そして、夏の季語としてのトマトというとき、それは夏の季語としてのトマトという言葉の次元で受けとられていますから、すでに物から離れかけているんです。そして、言葉としてのマナリズム、惰性化するんです。トマトという言葉がいくらつかわれても一つもひからなくなり、作品の中に感動的な役割りをしめして来なくなります。
 私は季語は全部たとえ・・・だと思ってます。言葉と同時にたとえ・・・であるとなると、ますます物が大事になります。トマトという言葉がなにかをたとえようとしても、物ばなれした言葉ではたとえ・・・の効果をみせない。そこでたとえ・・・のみずみずしい機能を回復させるためには、トマトという物そのものの質感、つまり自然をとらえ直さなければならないのです。トマトの場合、質感からみて、冬の方がいいと思えば、どうどうと冬のものなりとして、冬のトマトとして、俳句を書けばいいのです。それが物から言葉をみてゆくという、質的な言葉の使い方であって、いつもそれが必要なんじゃないですか。それをやらないでいると、季語は全部陳腐化して、言葉の死骸になってしまう。くどいようですが、言葉の根、つまり物の裏づけの中で言葉を生かしていく、新鮮にしていくということです。
 それは季語以外の言葉でも同じことですね。私は詩につかわれる言葉は全部たとえ・・・だと思ってますから、つまり、詩語とはたとえ・・・の十分な言葉とおもっていますから、たとえ・・・としての季語といったわけですが、同時にコーヒーだって灰皿だってそうなんです。それを物である灰皿から離れたところで、灰皿という言葉だけの次元で使うから、生きたひかった言葉にならないんです。そのへんが「俳句評論」の人達と違います。「俳句評論」の人達の言葉が、説脂ミルクみたいなね、ありゃ病人食だと僕は思ってるんだが、ふやけているのは言葉の中に物をつかんでないからです。健康人は生まのミルクを飲もうとします。伝承派の人になると、置きっぱなしにして変質したミルクをミルクと思っているんですね。生まの、新鮮なミルクの味がわからない。いや、しだいにわからなくなってゆきます。
 私が物と言葉というときの物は、衆に重なります。天然を考えている時は、物すなわち天然です。そして物の質といえば、衆の場合は純動物であり、天然の場合は自然です。その物の質と自分の言葉の照合の中で言葉がひかることになる。

 ■七五調とかたち、そしてかた

 次に俳句をとらえるときも、「七五調」と「かたち」という相対あいたい関係で俳句をとらえられると思います。そして、七五調と形の合一のなかから決まってくるものが「かた」です。形と型は違います。形は、七五調が五、七、五の形という意味での形ですから、普通に定型といわれるものと受けとってください。私たちが俳句を作るとき、七五調のリズムを追いつつ、同時に五・七・五の形を描いています。その形。そして、そこに一つのリズムと形の融合した、一つの心的形象ができあがります。精神的形姿といってもよい。それが型です。その型の定着と継続変化のなかに伝統と現代の問題がある。
 では、その七五調とはどういうものかというと、これはきわめて土俗的なものです。日本人古来の言語習慣で、いわば私達の肉体です。肉体のリズムです。だから、地方に行けばいまだに七五調がなつかしまれているし、民謡のあらかたが七五調(五七調も含めて)です。東京のような都会人になると嫌いますが、七五調に反撥して自由詩を書きますが、これじたいが土俗性の証明のようなものです。それに対して形ってのは心理的なもの、あるいは精神的といってもよいものなんです。
 七五調といえば、それは五・七・五という形なんだから現象的には同じことなんです。だけどもわれわれはちゃんと分けて受けとっています。二重構造として、俳句を成りたたせる二重がらみの要素としてね。つまり、七五調一本だととらえておりません。俳句は定型としての形だけともとらえておりません。七五調と形の二重構造としてとらえてます。同じことのようですが違う次元からとらえてます。七五調のリズムにのせるという時の僕らはひじょうに肉体的で情念的になってます。だけれども形にはめる意思が同時に働いていて意志的になっています。意志的で心的です。そして両方がぴたっとうまくあった時に俳句は完成する。その時に心と肉体の合一としてのせまい意味の主体の形象がそこにできあがるともいえるわけです。七五調が肉体で形が心。俳句形式が体。そこにできあがったのが型です。そういうものが累積され伝統が形成されていくと考えます。

 ■俳諧

 それからここで考えておかなければならないものに俳諧があります。俳諧というのは俳句にもりこまれた衆の世界です。七五調の土俗性にひたり、形に衆の日常性(日常のこころ)をもりあげたものが俳諧という俳句内容と私は考えているから、それは生ま生ましく、諧謔と哀歓のあいだを、かなりわがままにいったりきたりしているものだとおもいます。だからそれだけでは詩にはならない。純動物がそこに姿をちらつかせ、それへの直観や志向に裏打ちされはじめると詩が宿ることになります。
 俳諧は、そういう、衆を不可欠の前提として形成されてきたものですから、それを内容として受けついでいる俳句も、俳諧と詩の相対あいたいで、いつも見ていないといけないわけですね。どうも皆さんの考えをみていると、詩に傾きすぎて俳諧を忘れているようにおもう。相対関係においていませんね。だから、衆というと、すぐ俗衆、大衆とイコールと受けとってしまう。これははきちがえというものです。
 それからいま一つの錯覚は衆の存在状態としての日常だけで衆を考えているということです。動物を忘れている。次は外なる衆だけを考え内なる衆を見ない。これをはっきり認識すれば衆という言葉は少しも軽蔑すべきもんじゃない。むしろ人間だとか社会だとかいう言葉より、こんな生硬な言葉より、もっとも俳句らしい熟した言葉じゃないかと自負してますがね。

 ■自作をふりかえって

 以上、るる・・申し上げたことをもとにしましてね、ここらで自分の句で具体的に辿ってみますと、さきほどの〈銀行員〉の句でも感じたんだが、ひろい意味の主体、つまり衆との合一を考えることが作句上大事だと気づいたのは〈人体冷えて東北白い花盛り〉 〈三日月がめそめそといる米の飯〉 〈霧の村石を投らば父母散らん〉というあたりの句を作ったときです。あのあたりで痛感しました。この三つの句のもっている妙に人間臭い生臭いもの、これはいったいなんだろうと考えたんですよ。そうするとこれは自分の中のこころからはみ出している部分、つまり肉体、いわば志向的日常に対する日常的日常といえる日常である。そして、日常的日常とはなんだろうと考えた場合、それは大勢の人のもっている日常、自分の中のだらだらした日常、つまり自分の衆としての存在状態だと気づくわけです。そういうものをしたたかに、ためらいなくとりいれていく営みがあって、はじめて志向的日常が艶をもってくる、生臭く息づいてくる。そして、言葉も輝いてくるとわかったんです。
 最近の「霧と繭」一連なんかはみんなから批判されてますが、せまい意味の主体、つまりからだが十分に働いてないということです。だから新鮮味がない。従来的なんです。したがってあれは、伝承俳句だといわれる面が出てくるんです。ひろい意味の主体への努力はあるが、衆の方に傾きすぎてるもんだから、日常性から十分に離れられず、伝承的な作法や言語感を脱却しそこなった面があるんだな。しかし、そういう時だってあるさ。 (「海程」一一五号)

衆の詩  金子 兜太

「海原」創刊号の編集後記の中で編集人の堀之内長一が次のように記しています。

■金子先生に「衆のうた」「『衆のうた』ふたたび」という一文がある(ぜひお読みください)。今後の海原の行方をあれこれ考えるときに、なぜかしら「衆」という言葉が迫ってきた。碇の衆、光の衆、風の衆、帆の衆。不思議な名称であるけれども、少しずつ愛していただければと願っている。連衆といえば連句の世界を思い浮かべる方も多いと思うのだが、「衆」は端的に仲間であり、人間がつくる場に集う人々の謂であると思う。

そこで、『三十周年・評論集成 海の道のり』海程会〈II金子兜太論稿〉より「衆のうた」と「『衆のうた』ふたたび」を二回に分けて転載します。昭和49年金子兜太55歳、日本銀行を定年退職したころの論稿です。


(昭和49年/1974年 「海程」106号より)

衆の詩  金子 兜太

 全国高校野球大会が終わって、優勝校と凖優勝校の選手たちが、晩夏のひかりのなかを歩いていた。そして、もう秋だ。
 この九月末には、私はいまの勤め先をやめることになっているが、正味二十七年勤めて、不思議に感慨らしいものがない。周囲の人のほうが感慨ぶかそうで、戸感うことしばしばである。
 専念してきた俳句についても、いまここでどうという特別の感想はない。ただ、なにかといえば思いだしていた、正岡子規「俳諧大要」のなかの次のことばが、またぞろ思いだされるのである。
 「佐藤一斎にかありけん、聖人は赤合羽の如し、胸に一つのしまりだにあれば全體は只ふはふはとしながら終に體を離れずと申せしとか(後略)」
 私にとっては気軽な箴言になっているわけだが、これを子規自身に当てはめれば、すぐ、
  鶏頭の十四五本もありぬべし
に結びつく。この句の示す客観の眼・・・・が「胸に一つのしまり」であり、「十四五本もありぬべし」の無造作・・・ぶりが、「只ふはふは」の正体である。子規の「写生」は、この両方が並存し、やがて不思議なく彼の体内で融合してゆく状態であって、晩年の句になると、無造作というより、むしろ自然さといいたいものを感じさせ、「自然」こそ「只ふはふは」の究極とおもったりする。
 これを「写生」の範型とみている。ところで、私は日常・・ということについて、こう書いたことがある。「日常は、喜怒哀楽、愛憎哀歓の生臭さにみちた〈即物的(フィジカル) な日日〉の刻み(そして繰りかえし)だが、態度を持するものには〈志向の日日〉でもある」――この即物的な日日とは、とりもなおさず熕悩具足の、虚仮こけ不実の、軽賤の日常であって、それは生ぐささにみちている。しかし、志向はそこにしみてゆくから、煩悩のままにすませるものではない。といっても、煩悩の日常によって、志向が歪められないといった保証はどこにもない。だから、二つの日常は重なり合い影響しあってすぎてはゆくが、それはむしろ葛藤の日日というべきだろう。それだけに、志向は鍛えられ、日常は振幅をふかめるのだ。
 子規の客観の眼・・・・に、この志向を加え、無造作に代えて、即物的日常を置くのが、私の「胸に一つのしまり」と「只ふはふは」である。そしてここ数年、この意味の日常と俳句の結びつきを、とくに即物的日常を大きく受けいれる方向で、私はかんがえてきた。だから、こういう素朴な句にぶつかると、すぐまいってしまう。
  初豌豆味増汁の香り天までも  小笠原正雄
  とびのりたい夏の雲よ麻痺の足  沢田好見
  夜道までぬーと突きだす鍵の穴  市原正直
  爆心地土地の老女とよその人  奥山東風
 これらには、日常実感を抜きにしては受けとることのできない、ういうい・・・・しい弾みがある。
 日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺戟した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省である。
 その成果は、手っ取り早くいえばマンネリズムを打破して、この伝統詩形を戦後の現実に投じたことにある。前衛といっても、俳句の場合は第一線的模索ていどのことだが、はっきりしていることは、伝統詩形を徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところにあった。だから、古典についてもこれを相対化して、現在の場から取捨する。伝統の公理を信じないで、自分の体感自体から抽出しようとする。現代自由詩の技法や流行の風俗にたいしても、その意味で積極的だった。
 しかしその反面、最短定型にとっては過度な詩法を求め、ピントのずれた散文的要求を課したことも事実で、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎたきらいもある。だから、日常総体はもちろん、即物的日常などはまったく軽視されて、そこから汲みとりうる豊かな実感と言葉を、地下に埋もれさせる状態になっていたのである。それへの反省があった。
 いま一つの別の事情は、前衛のそうした営為に対する反作用のなかにあった。つまり、伝統回復のリゴリズムを正の作用とすれば、伝承追随とマンネリズムの再版、正当化といった負の面を一方にひろげる結果になったのである。この場合は、古典と竸い立つの気概はなくて、ただいたずらな模写をこととするわけだから、日常からの生きた汲みあげがおろそかになることは当然でである。
 それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。ことに、一茶の句は晩年になるほどよい。その事情にもひかれた。
 むろん、日常、とくに即物的日常からの汲みあげが、そのまま「詩」にならないで、「声」にとどまることは、「地下じげ連歌」以来、ことに、談林、貞門の徒の大方においても、あきらかである。だから芭蕉は「高悟帰俗」の心意を留め金とした。一茶の、煩悩まみれの日常詠が「詩」になりえたのは、彼の農民的感性の柔軟もさることながら、都会にもなじめず、土着者にもなれなかった――そういう個(孤)化衆庶の孤独の心底がかみしめられていたからである。
 一茶の句、
  山畠やそばの白さもぞっとする
  秋風にふいとむせたる峠かな
  芥子提げて喧嘩のなかを通りけり
  うつくしや年暮れきりし夜の空
などなど。
 一茶「おらが春」にある惺庵西馬の跋に、「ざれ言に淋しみをふくみ、おかしみにあはれを尽して」とあるが、ざれ言のなまなまさしさ・・・・・・・が淋しみをふくみ、それと、おかしみ・・・・とが、これらの作品の資質を決定しているのである。なまなましさもおかしみも、単なる形容ではない。美というより存在感といえるものだが、これらが、即物的日常から汲みあげられて、句の資質として定着していたのである。〈衆の詩〉としての俳句は、ここに顕著な特徴を発揮すべきものなのだ。
 むろん、現代俳句がこの点ですべて不毛なわけではない。たとえば、
  ローソクもってみんなはなれてゆきむほん  阿部完市
のおかしげなリズム、
  春夏秋冬魂くいちらかすは何  和田魚里
の妙な生理。そしてまた、
  夏が寒いA埋立地水流る  小原洋一
のなまな違和感。
(「海程」一〇六号 昭和49年9月6日付「朝日新聞」夕刊より転載)

金子兜太の「平和への願い」に呼ばれて 大高宏允

金子兜太の「平和への願い」に呼ばれて
――難民問題と政治パラダイム転換の提言  大髙宏允

俳人金子兜太の原点は反戦平和

 金子兜太は、なぜ死の直前まで戦争の恐ろしさと平和への願いを語り続けたのだろうか。彼は戦場で非業の死を遂げた人々を見た。戦場からの復員船で作った一句、「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」について、のちに「私は島を去りゆく水脈の果てにいつまでも墓碑の姿を見つめていた。反戦への意思高まる」と自句自解している。その金子兜太が平成三十年二月に他界してから今に至るまで、私は先生が、「おまえは平和の問題をどう考え、どう行動するんだ」と、毎日のように呼んでいる気がしてならない。弟子のひとりとして、平和への師の願いを、どのように受け止めていけばよいのかを考えることは、目前の課題となってしまった。戦中生まれの私も以前は戦争や難民のことは、遠い国のことという思いであったのが正直なところである。しかし、師が晩年になるほどに句会などで反戦と平和への思いを語るのを思い出すとき、やっと私にも師の「本気が」伝わってくるのを感じる。さらに、「あの夏、兵士だった私」(清流出版)や「「金子兜太のことば」(毎日新聞出版)などの本でも、あの十五年戦争の時代と同じようになってしまいかねないこと、戦後七十年積み重ねてきた平和の尊さは守るべきもの、という考えを繰り返し強調してきたことを思い出し、師の思いは私の思いともなった。平和ボケしていた私の頭でも、ベトナム、アフガニスタン、イラクなどで戦争があり、この瞬間も世界各地で人種紛争や宗教の対立などによる市民の犠牲が絶えず、難民の発生が続いていることをリアルに感じるようになった。そこで私は、俳句作りと並行して、たまたま難民になってしまった人々を、どうすれば自分と同じような平和な暮らしが得られるかという切実なテーマに立ち向かうことにした。

 私の考えを述べる前に、まず晩年の金子兜太が、なぜ平和への思いを弟子たちばかりでなく、古くからの師の理解者黒田杏子氏とともに、他界までの三年間、全国各地で戦争体験の語り部として、多くの人々に語りかけてきたのか、その著作から先生の思いを紹介しておきたい。

 戦時中、戦死者が八千人を超えたトラック島で、海軍主計中尉として従軍していた先生は、著書「あの夏、兵士だった私」の冒頭で、次のように語っている。

 「トラック島で命を落とした部下たちには墓碑銘さえなかった。個人が生き延びるだけで精一杯の毎日で、膨大な亡骸を小高い丘の穴に埋めるのがやっと。それを思うと、国のために働かされ、当たり前のように死んでいくというような制度や秩序を許しておくわけにはいかない、そんな義憤にかられます。強制されて生きる必要のない、自由な社会を作っていく――それが私の思いです。(中略)日本社会に戦争の記憶が薄れる中で、私のような戦争体験者が果たせる役割、いや生き残りだからこそ、果たすべき役割はたくさんあるはずです。戦争体験者、しかも死線をさまよった経験を持つ人で、憲法九条を破棄しようとする人は少ないのではないか。でもそんな人間がだんだん減っていく。だから私は命ある限り、戦争の本当の姿を語り続け、護憲精神を貫きたいと思っています。」

 先生の危機意識は、自らの戦争体験から来る体制への危機意識だが、それにとどまらず、国民の側の意識の中にも危機意識を感じていたことは注目すべきところだと思う。先に引用した著作の第一章では、国民の意識にある差別心についても次のように述べている。

 「そもそも、人間の知性とは、あらゆるものに差別感を持たないということです。それを私は自由人と呼ぶんですが、世界にはいろいろな人間がいて、そのいろいろな人間が、お互いを認め合うからいいんです。だから世界は発展していくし、人類は豊かになっていくはず。それなのにどうも、社会全体が同じ方向を向かないと気がすまないという人が増えてきて、そんな人が率先して自粛し、お互いを縛っていく。そしてみんなで監視し合う。このムードは戦前そのものです。」

とさえ語っているのには緊迫感を感じないではおれない。戦後続いてきた平和日本は、いま明らかに変わりつつある。先生は太平の世に慣れきってきた心に警鐘を鳴らすかのように、さらに語りかける。

 「もちろん、いまはまだそんなひどい状況ではない。でも、じつは十五年戦争のときだって、そんな雰囲気になってから、ほんの数年で戦争に突入してしまった。俳句弾圧が始まったのは昭和十五年。日米戦争はその翌年の暮れですね。(中略)トラック島を去るとき、私は多くの部下の死を決して無駄にしないことを誓いました。自分の体験したことを語ることが、私に与えられた仕事だと思ったからです。」

 この出版を遡ること六十一年前、先生は初めての句集の後記のいちばん最後に、次のような言葉を残している。この初句集に、平和への思いの原点があった。

 「最後に、そして何よりも、自分の俳句が、より良き明日のためにあることを願う。」

 先生は二十七歳のときから他界されるまで、一貫した信念を持ち続けてきた。戦争のない平和な社会になるためには、国民ひとりひとりが、金子兜太という人の仕事を引き継いでいくことに目を向けることが求められるのではなかろうか。そこで、いま私にできる平和の在り方の一つの考えを以下に示させていただきたい。

1.   世界から難民という人間をなくす道を考える

 近年、私たちはメディアを通じて、アフリカからヨーロッパへ逃れる難民の姿を、しばしば目にするようになった。国連高等弁務官事務所のデータによれば、過去10年間の難民は世界で、25,400,000人といわれている。アフリカやシリアの人々は、紛争などにより混乱する母国を捨て、豊かで、より安全なヨーロッパへの移動を命がけでめざす。紛争に加えて、近年の気候変動がもたらす作物の収穫不安定による難民発生も大きな問題であり、環境対策と難民対策は、人類が取り組まなければならない喫緊の課題となっている。この流れを止めることは、欧州各国の国内事情もあるので、難民問題は冷戦後の最大の問題となって、これからも政治経済人道問題など広範囲に影響を及ぼしつづけることは間違いない。

 難民問題のルーツは、人類が社会的生活をするようになって以来のものらしい。作物の不作などによる部落や種族の移動、大規模な飢饉による種族の移動など。また近代においても、新大陸の発見以来、ヨーロッパから南北アメリカ大陸への移民が発生した。かつて大量の移民を発生させたヨーロッパが、いまアフリカからの難民受け入れに困惑し、拒否する動きさえ出ている。むろん際限なく難民がやってこれば、その国は経済的にあるいは治安のうえで、大きな問題を抱えることになる。
 従って、この難民問題は、人類史における最大の問題の一つとして、取り組むことが求められる。この解決不能状況にある難問題は、我々の最も内なる部分にこそ解決の糸口があることを思い出すときではなかろうか。それは、キリスト教、イスラム教、仏教などのすべての宗教の根底に流れている利他の精神である。他者への愛、旅人への食べ物寝場所などの施し、あるいは慈悲や布施の心といった利他の心は、人間という生き物に遺伝子として組み込まれたものではないか。最近の研究によれば、人類は74,000年前のインドネシア、トバ山の超巨大噴火により全地球の人口100,000人がわずか10,000人に減少したそうだ。この研究によれば、それ以前の共食いさえする攻撃的性格が、食糧を共有し、あるいは贈り物をしあうような、互いに助け合う性格へと変化したという。絶滅の危機に直面し、私たちの先祖は利他の精神を獲得する英知をもったのである。こうした世界史的視野のもとに、現代の私たちも、その先祖の英知を今まさに取り入れるときに来ているのではないか。その利他の精神の草の根的エネルギーを、インターネット文化によってつなげ、組織化するとき、難民問題の永続的解決策が機能し始める可能性が生まれる。では、その流れをどのように作りだし、どういう仕組みで問題解決に結びつけるか、もうすこし考えをすすめてみたい。

 今回、難民支援活動の組織化を考えるにあたり、「グローバル・ボイス」のウェッブサイトで拝見した情報が大いに参考になった。その情報によれば、ウガンダではすでに、「ナキヴァレ難民キャンプ」という支援組織があり、成果を上げている。首都カンパラから車で6時間のところに、184平方メートルの農地を所有し、トウモロコシ、豆などを生産し、難民の食糧にするとともに、タンザニア、南スーダンへの輸出ができるほどの成果をあげている。ウガンダ政府は、この難民キャンプによる農業生産を自国の開発計画に組み込んでいるという。キャンプでは、協同組合まででき、組織的に計画、生産、出荷のできる体制となっている。しかも、キャンプ内には、市場や映画館さえあるそうだ。この成功モデルこそは、これからの難民問題解決の最有力の候補になるだろう。
 日本には、すでにNGO難民を助ける会という活動実績のある団体が存在する。従って、ここが中心になってウガンダ方式の難民キャンプを可能にして必要な地域に設置していくという構想が一番の近道になると思う。それを実現するためには、資金確保、運営及び人材確保、さらには相手国、JIKA、国連難民弁務官事務所などとのすり合わせ等々、さまざまな問題をクリアーしなければならない。これは、NGO難民を助ける会だけでは、とうていフォローしきれない。それぞれの分野の精通したおおくの人の協力が必要となる。
 「よりよき明日のために」他界直前まで平和のために働いた金子兜太の遺志に賛同する人々の協力が必要となる。そこで、NGO難民を助ける会の中に、「兜太平和基金」といった募金受け入れサイトを開設するとともに、サイト運営と支援組織「兜太ピーススタッフ」といった体制が、NGO難民を助ける会のようなところに置かれることが求められる。そのうえで、次のような点に留意する必要があろう。

(ア) 武器につぎ込んできたお金を、格差によって教育の機会を失い、健康で心豊かな暮らしを失っている人々の助けに使う世界を作ることである。その最終目標が実現するまで段階的なステップを踏んで続けていかなければならない。
(イ)  この最終目標が恙無く実行されるためには、多くの人の善意が結集しなければならない。とくに、募金で集まったお金は特別な監査委員会によって常に不正の発生を防止する体制が必要なる。
(ウ) 同時に監査委員会は、あらゆる政治的、宗教的団体等からの偏った影響を防止するよう努める。活動員は、一定の生活保障を受けることができるが、どんな高位の役職者でも、ボランティア精神に則り、一定の生活保障の範囲とする。
(エ) この事業は、難民の発生を防止するためとはいえ、個人的に先進国での学問や労働の機会を求めることを妨げるものではない。
(オ) 活動計画や組織などは、今後さまざまな人によって修正を加え、より充実した、より実現可能なものにさせ、数年後のスタートを目標にする。

2.   世界の政治パラダイム転換をめざす

(ア) 最終目標は国家権力の解消

 この活動組織の最終目標は、人間にとって不本意に機能する国家権力をこの世界から解消することである。政治は、この活動と同様に本来ボランティア精神によって行われるべきものである。過去および現状は、ほとんどの場合、権力はある階層の利益代弁者であることが多い。これを解消するには、政治が政治家という職業によって行われないことである。そのためには、将来的に政治を女性だけに任せるという実験を試みることを考えるときが来たと思う。男性から政治と武器を奪い取ったとき、はじめて難民も格差も戦争もない世界が、この地球に生まれるだろう。人類は女性によって、ゆるやかな政治環境を構築するという試みに挑戦することを本気で考える価値があるのではなかろうか。それこそが、環境問題や政治的権力闘争、宗教対立、人権問題などの真の解決への一歩となるであろう。生命を自ら生み出し、無償の愛によってその生命を育てる母性こそ、今世界に圧し掛かっている諸問題を解決する唯一残された道ではなかろうか。このような考えを、非現実的だとして葬り去る前に、欲望の無限膨張によって滅亡に向かっている現実を直視しなければならないと思う。
 金子兜太先生は、2017年8月発行の「短歌」(角川出版)別冊付録掲載、「緊急寄稿 歌人著名人に問う、なぜ戦争はなくならないのか」で、次のような言葉を寄せている。

 「なぜ戦争がなくならないのか。一言で答えさせてください。物欲の逞しさです。あらゆる欲のうちで最低最強の欲ですが、それだけにもっとも制御不可能、且つ付和雷同を生みやすい欲と見ています。そこに人間の暮らしが、武力依存を募らせる因もある。」

 20世紀以降の我々の追及してきたものが、我々自身の終焉をもたらしつつあることが明らかなのに、われわれはそれを改めようとしない。それと同じことが、政治の在り方にも言えないだろうか。人間を幸せにすると信じられてきた民主主義は、その欠陥をさらけ出している。極右やポピュリズムが台頭してきたのも、制度疲労した資本主義・民主主義体制から多くの人々が落ちこぼれたためではないのか。これらすべてのことを、今こそ追検証して、大きく思い切って舵を切り替える時ではないか。このまま行くなら、その先にあるものは我々が築きあげてきたものの終焉であり、それは明らかに他の生きとし生きる者たちをも巻き込んでしまうことは間違いない。

(イ)  インターネットからインナーネットへ

 以上述べてきたパラダイム転換のための考察は、あくまで一個人の思いつきにすぎない。これを仮に「母性主導によるパラダイム転換実現のための構想会議」のようなものを別途立ち上げてみてはどうであろうか。それをベースに、インターネットという現代のツールを活用し、理想の世界実現のために多くの人々による試案の書き換えを期待したい。それこそが、インターネットの限界を超える、世界的なインナーネット(内なるつながり)の第一歩ではなかろうか。
 このようなことは、誰でも言う事ができる。いろいろの国のいろいろな層から寄せられた考えを、一つの方向に集約し、コンセンサスを得て何らかの組織を立ち上げることは、それこそ至難の業であろう。それゆえに、すぐれた構想力、指導力、組織力などを備えた有能な人たちが、地球生命存続と平和確立のパラダイムのために力を合わせることが求められる。今これを書いているものは、単にそのための極めてラフな見取り図を提示しているにすぎない。私たち人間の先輩の中には、すでに多くの見取り図を詩や童話、小説、啓蒙思想書などを通じて提示してきた。その中で今思い出されるひとつの詩の一節を、取り上げてみよう。
 ◍ 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な一節である。

    東ニ病気ノコドモアレバ
    行ッテ看病シテヤリ
    西ニツカレタ母アレバ
    行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
    南ニ死ニサウナ人アレバ
    行ッテコハガラナクテモイイトイヒ

 この賢治の利他の精神を以って人類発祥の地アフリカに目を向けようではないか。

 そして、金子兜太という、生涯戦争のない平和な世界をめざしていた俳人の遺志を継いで、パラダイム転換のための運動を考え始めようではないか。

  左義長や武器という武器焼いてしまえ  金子兜太
  長寿の母うんこのようにわれを産みぬ  金子兜太

 この二つの俳句は、金子兜太という俳人に内在する本能的感性、あるいは存在の純粋衝動から生まれものと思う。すべての人に平和を呼び掛けないではいられない衝動、そして女性の母性という天から与えられたものを賛美し、生まれてきたいのちに限りなく感謝する衝動……。私は、この二つの先生の衝動に呼ばれている気がした。そうした切っ掛けに突き動かされ、この提言を書いたように思う。

 1932年、あるチベット僧が、「密教入門」という本を英語で出版した。その中で彼は、「マスコミがこれから発達するのは、神の声を届けるためである」と、予言のような言葉をしるしている。その後、世界はどうなったであろうか。第二次世界大戦を経て、現在に至るまで、世界各地でさまざまな紛争が絶え間なく続いている。われわれは、これからいつまで神の声を待てばいいのか。私は、その声を待つより、世界中の人々が、金子兜太のいう平和の願いを日常の意識に持ち、願いを共有する者同士がつながることに一歩踏み出すことだと思う。

 次の世代のために、利他と母性の世を!

(了)

「生きもの感覚」と未来 小松敦

(アンソロジー『海程多摩』第十七集2018 掲載 )


「生きもの感覚」と未来  小松敦
 追悼金子兜太先生

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 〈ふと「今」を生きる人間にとって、他界は「未来」にあると閃きました。その未来は、わたしたちが予知できない手つかずの領域なはずです、本来は。だが、ちょっと待てよ、と青鮫を通して思えてきたのです。結局、わたしたちが想像している未来は、過去の経験や感情を通して思い描かれた、「時」の写し絵ではないのか。さらに言うなら、その過去とは、時の試練を経てもなお風化せず、わたしたちの心の奥底で静かにしぶとく棲息し続けてきた記憶です。『他界』199頁〉
 どうだろう。兜太のいのちは「他界」に行った。しかしその「他界」はどこにあるかと言うと、わたしたちの記憶にあるのだ。
 〈過去、現在、未来の「時」の同化。これこそいのちに段差のないアニミズムの世界ではないか。『他界』202頁〉
 兜太も私たちもそして世界も時も超えて一体のものであるということ。兜太の言葉で言えば「生きもの感覚」。この「生きもの感覚」こそ、私にとって兜太から学んだ、いや生涯学び続けるべきと教えられた最も大きなものである。
 兜太の「生きもの感覚」は、俳句の素材のことを言っているのではない。何を俳句に書くのかではなく、どう俳句を書くのか、という態度に必要な感覚である。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べていたのと同様に、俳句をつくる者の生き方そのものを指す。

  涙なし蝶かんかんと触れ合いて 兜太

  花げしのふはつくやうな前歯哉 一茶

 兜太の「生きもの感覚」では、人間も生き物として、蟻や蝶と同じ、老いた前歯と芥子の花、手を擦る蝿と自分は同じとする。その対象は所謂自然に限らない。社会も土の上に生きる人間が作り出したものであって、ほかの生きものと同列にあり、分けて考えるものではない。
 ちなみに、兜太は「生きもの感覚」のことを近接した既成概念「アニミズム」とも称しているが、これは自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって、タイラーの定義や原始信仰を指しているものではなくむしろ〈アニミズムを生む人間の生な感覚『荒凡夫一茶』177頁〉のことを指す。

  海とどまりわれら流れてゆきしかな 兜太

 あらゆる命や物事が対等でひと繋がりであるという世界感覚は、望ましい原始の記憶として人間の本能の中に刻まれていることを兜太は秩父の産土で実感してこれを「原郷」と呼び、原郷指向と定住しながら世間を生きていく苦労のからみあいに漂泊する人間の生きざまを「定住漂泊」と呼んだ。兜太が邂逅した煩悩具足の自由人「荒凡夫」一茶は、実に「定住漂泊」をバランスよく生きた。まさにその秘訣こそ「生きもの感覚」なのである。
 〈詩は存在感の純粋衝動である〉、〈存在感の純粋衝動は、もっともうぶな感官―その意味でもっとも人間的な心的機能―の働きを必要とする。言うなれば、肉体そのままの、うぶな衝動こそ、もっとも鋭い反応である〉、〈詩は肉体である『今日の俳句』264頁〉
 肉体が感受する世界を「創る自分」が俳句の言葉にする。兜太が「造型俳句」の方法論を述べ『今日の俳句』で「詩は肉体である」と言った時からして既に、いや実はそれ以前からずっと兜太は「生きもの感覚」を体現してきた。約一世紀も俳句を続けているからその中で兜太の語る言葉には変遷もあるが、後年、熊谷に引っ越して産土を感じ、これまでの自分を貫く生き物感覚を確信したのだ。

  人体冷えて東北白い花盛り 兜太

 私にとって、俳句を読んで気持ちが動くとき、自分の肉体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生され、つながり合い、動き出す、そのざわめきに驚く。北国生まれの私の中に東北の早春の空は薄く明るく、頬に冷たい大気の匂い、大人たちの笑顔には、未だ白い息の訛りが響く。私の「生きもの感覚」がざわめく。この時、「生きもの感覚」の世界とはまさに兜太が『他界』で言う通り、記憶の連鎖ではあるまいか。読む時も書く時も、言葉以前の記憶が手を取り合い立ち騒ぐその「質感」に震える時、「生きもの感覚」が私の中に無意識な記憶の連鎖反応を起動する。

  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

 その俳句の言葉は誰かにとっては意味を結ばないかもしれない。あるいは人それぞれの意味を結ぶ。それらの言葉が読者の断片的な記憶表象を喚起し、新たな記憶回路をリンクする時、「いいなあ」といった質感や「わかる」といった好意を感じる。言葉を通じて刺激を受けた記憶回路の興奮は、途中経過が意識されることなく理解に至るという。直感的にわかった、悟った、ひらめいた、というのと一緒だ。その「いいなあ」という質感は、まぎれもなく読者が自分で導いた「リアリティ」である。「生きもの感覚」は、だれもが既に持ち合わせている大切なものなのだ。それはまた、岡本太郎が言う「感性」にも似ている。〈感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というものは、誰にでも、瞬間的にわき起こるものだ。〉〈自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体の中に燃え上がり、広がるものが感性だよ。『強く生きる言葉』24頁〉
 俳句を読む時とは逆につくる時、「生きもの感覚」は対象を(相手を)思いやり、それと交わり向かうこころ=「ふたりごころ」で繋がりあおうとする。それは〈自分自身をいろいろな条件にぶっつける〉ことかもしれない。そうして私たちは「生きもの感覚」を以って、時空を超えて繋がり合い、そこに「衆の詩」が出現する。

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

 最後に、「生きもの感覚」は、世界の調和と共存を志向する。それは端的に「平和」に直結する叡智である。兜太がトラック島から帰還以来、生涯をかけて、いや他界してなお我々の記憶を通じて、実現を志す未来である。 了

兜太ナイト#2レジュメ 小松敦

2018年10月20日(土)に開催された現代俳句協会青年部主催の勉強会「兜太ナイト#2」のレジュメを公開しています。ご関心のある方はご覧ください。
兜太ナイト#2レジュメ


~以下現代俳句協会青年部WEBより~
第157回勉強会「兜太ナイト2」ご案内
7月に田中亜美氏をお招きした「兜太ナイト」第一夜では、多くの方の参加をいただき、兜太のまさに少年、青年期を見つめる機会を得た。
今回は第二夜として、濃密な時代に著された濃密な句集、『蜿蜿』と『暗緑地誌』を読む。そこから兜太をアップデートしたい。
現代俳句協会青年部第157回勉強会 「兜太ナイト2」
日時:2018年10月20日(土)18時〜20時30分
場所:現代俳句協会事務所
ゲスト:小松敦氏(「海原」〈「海程」後継誌〉所属)
聞き手:黒岩徳将
定員:20名
参加費:500円
テキスト:主に第三句集『蜿蜿』第四句集『暗緑地誌』を取り扱います
参考資料:角川「俳句」5月号別冊「金子兜太読本」、本阿弥書店「俳壇」6月号
会の目的:下記アップデートモジュールの例に記載したようなテーマに接続して、兜太の理解と世界を拡張したいと思います。
〈アップデートモジュールの例〉
兜太×生きもの感覚(アニミズム)、兜太×詩は肉体、兜太×定住漂泊、兜太×社会性、兜太×造型俳句論、兜太×ふたりごころ、兜太×岡本太郎、兜太×チーフ・シアトル、兜太×プルースト効果、兜太×この世界の片隅で、兜太×世界神話学、兜太×ビートジェネレーション、兜太×いとうせいこう、兜太×マインドフルネス、兜太×認知科学、兜太×クオリア、兜太×心身問題、兜太×ディープラーニング、兜太×デジタルネイチャー、兜太×ミシェル・セール、兜太×ベルクソン、兜太×パウル・クレー、兜太×ドゥルーズ、兜太×オブジェクト指向存在論、兜太×中動態

以上

金子兜太 試論 ~ Reality of the world ~ 小松敦

(アンソロジー『海程多摩』第十六集 2017掲載・一部修正)


金子兜太 試論 ~ Reality of the world ~   小松敦
Essay on the way of Tohta

◆はじめに

 金子兜太はいつも言う。俳句は「生きもの感覚」を以って「日常からつくれ」と。約一世紀を生きてきた俳人の揺るぎない確信であり核心。これは時代と共に言葉が変わってゆこうとも、俳句がますますグローバル化しようとも変わらない俳句の本質である。本稿では、兜太のこの核心を「生きもの」の「本能」に根差した俳句の本質として再確認することで、抽象的な俳句論から解放されて、俳句を、日常を、よりいっそう豊かに楽しめるようにすることが目的である。なお、本稿の中で参照する論考や仮説の出典は末尾に参考文献として纏めて記す。

◆「最短定型詩形」=俳句のとりこ

 兜太は俳句の形式上の本質を、五七五の十七音からなる最短定型詩形と規定する。季語・俳諧はその属性と位置付ける(季語は世界に冠たる詩語だが必須とはしない)。気候や文化の地域性を鑑みて「俳句を世界的視野で語る場合には、季語というルールを強制することは無理があるかもしれない。」と「松山宣言」にもある通り、俳句をグローバルにとらえる時にはなおさら、その本質は最短定型詩に集約される。
 俳句という形式が数百年にわたって詠まれ、読まれ続けてきた背景には、この最短定型詩形ゆえの理由がある。それは親近性と新奇性、反復と差異に対する人間の本能的な選好だ。短くなじみ易いたった十七音の定型(親近性・反復)の中に、新たなイメージ(新奇性・差異)を創り出すことが、人間の情動を喚起する。
 動物が生き延びるために、安全な環境や獲物を獲得しやすい場所は反復的に選ばれ、なじみ深い環境として記憶される。一方で、なじみ深い反復的な環境の中に発生する差異=変化は命を脅かす危険かもしれない。あるいは新たな獲物かもしれない。敵につかまる前に、獲物を逃がす前に反応しなくてはならない。親近性と新奇性が好まれる起源は進化の過程に備わった生存と繁殖のための選好、行動パターンだと言われる(下條信輔2008)。もちろんこれは俳句に限った話ではない。短歌しかり、音楽におけるフーガやカノンの反復形式など、例を挙げれば枚挙にいとまがない。このように、俳句のとりこになってしまうのは、生命の誕生から約40億年の時の中に醸成されてきた人間の性である。なお、なぜ例えば十八音ではなく十七音か、という議論はまた別の論点だ。一字一音、等時的拍音形式の言語である日本語に四拍子七五調の奇数音組合わせのリズムがフィットしてきた歴史は千年以上昔の記紀万葉の時代、あるいはもっと前、文字以前の歌謡から反復されてきたものとも言われ定かでないが、日本語に生きる上で快をもたらす様式であるからこそ続いてきたと考えられる。

◆「生きもの感覚」=つながりあう世界

〈人間は世界の中にいる(in the world)のではなく、人間は世界の一部(of the world)である。〉(A.Clark 2011)
 これは自然擁護団体の宣伝文句ではない。最近の認知科学(※)における人間と世界の捉え方である。
 デカルトの「我思う故に我あり」はやはり間違っていた。そもそも自己意識は錯覚なのである。人間の「意識」とは、無意識のうちに脳機能の情報処理結果を追認し、あたかも自分の意志でやったことであるかのような勘違いをするシステムであった。「意識」とは脳のプロセスの重要な極一部分をダイジェストにモニタリングする、ただの傍観者である、この見解は、様々な実験結果から現在の神経科学や認知科学の常識となっている。
 生理学者ベンジャミン・リベットは、人間が指を動かそうと意図し指が動くまでの過程を電気的に測定した。脳に電極を取り付けた被験者に「指を動かしたい」という気持ちになった時に動かしてもらい「意識」が「動かそう」と「意図」する指令と、「無意識」に指の筋肉を動かそうとする電気信号「運動準備電位」発生のタイミングを比べたのである。その結果、「無意識」下の「運動準備電位」が生じた時刻は、「意図」した時刻よりも約0・35秒早く、実際に指が動いたのは、「意図」した時刻の約0・2秒後だった。すなわち、「動かそう」と「意図」するよりも前に「無意識」のスイッチが入り、脳内の活動が始まっているということが証明されたのだ。その後多くの追試が世界中で行われ同様の結果が出ている。あるいは、衝突の危険をはっきりと認識する前に、足は車のブレーキを踏んでいる。このように、脳はたいてい自動操縦で動いており、意識はその傍観者である(D.Eagleman 2011)。「からだが裏切る」、「習うより慣れろ」と言うのも脳の自動操縦の一端である。
 人間だけの自由意志などは幻想であり、人間もほかの動物と同様に、自然法則に則って生かされているにすぎない。一方で、人間は世界の一部である、との考え方も古くからある。デカルトに対してスピノザやライプニッツの思想、それより太古から各地の神話で語り継がれてきた世界観であり、兜太の俳句の世界観でもある。

  花げしのふはつくやうな前歯かな 一茶

 一茶の俳句から感受してわかったという兜太の「生きもの感覚」(アニミズム)は、人間も自然の一部であり、人間の社会も花や蝶で構成されている自然と一緒だという感覚である。
  谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな 兜太
 日常の一挙手一投足は、脳の自動操縦によってほぼ無意識的に実行されている。脳は身体の感覚器官を通じて世界を知覚し、複雑で膨大な情報処理を行い、環境に最も適した活動を出力して人間を生かしている。そんな脳にとって世界とは、脳を包む身体や身体を囲む自然や社会、更に身体が摑む道具にまで拡張して、相互につながりあう世界だ。つまり、兜太の「生きもの感覚」は、いわば「脳」感覚だ。つながりあう、生きもの本来の世界観だ。
 ところで、そんなおめでたい「傍観者」なる「意識」は一体何のためにできてしまったのだろうか。
 「意識」は「エピソード記憶」をするためにできたという(受動意識仮説・前野隆司2004)。人間の生存を支える記憶は感覚記憶、短期記憶、長期記憶の三つに大きく分類されるが、「エピソード記憶」とは長期記憶のひとつで「経験した出来事に関する記憶」であり、時間的・空間的な情報を伴う。判断や予測など人間の高度な認知活動を支える機能である。脳内の千数百億個という神経細胞が毎秒数十兆のパルスで繋がりあって計算し自動操縦している超並列情報処理機構の膨大な情報の中から、生存に有用な活動を「エピソード記憶」として記銘または想起するために、「意識」という機能が発達したという。「意識」は無意識な脳の自動操縦の結果をまとめた受動的経験をあたかも主体的な経験であるかのように錯覚するシステムとして、進化的に生じた。さらに、その「エピソード記憶」の中でも特に大切な経験にマークを付け強調し、その経験を未来の判断や予測に活用しやすくするための索引機能として、感情を伴う「質感」(直観、クオリア、リアリティ、も本稿では同義とする)が生まれたと言われる。
 生存本能として環境適応のために進化的に生じた「意識」、感情を伴ういきいきとした「質感」は、生存に必要な時局をより鮮明に記憶しておくために生じた進化の産物である。その詳細仕様の全容は未だ解明されていないが、システムのデザイン・コンセプトは合理的だ。これまでの哲学で議論されてきた事柄と照らし合わせてみると視界が開けて面白いが、そのいちいちをここで解説することが目的ではない。主題は、兜太である。兜太の「生きもの感覚」の鋭さは、哲学や心理学の文脈に照らしても説得力を持つが、最新の認知科学の文脈においてもその本能的な洞察力に驚かされる。

◆「創る自分」=「意識」と言語

 兜太の「造型俳句論」に登場する「創る自分」とはこの傍観者たる「意識」のことである、と言えばわかりやすいだろう。「意識」は脳がせっせと活動する脇でその活動を眺めてエピソードをまとめ質感をマークする係りだが、外部記憶装置に書き出してもよいことになっている。この外部記憶装置の一つが「言語」である。兜太は、言語を使ってエピソード記憶から「質感」をアウトプットする時の「意識」に対して「創る自分」と名付けたのである。
 兜太が『今日の俳句』で解説する〈存在感の純粋衝動〉つまり〈肉体そのままの、うぶな衝動〉とは、身体が経験するエピソード記憶の堆積の中の「質感」だ。この「質感」を「創る自分」と名付けられた「意識」が〈詩の核〉として捉え、〈その上に理知の構築〉=言語表現への変換が可能となる。〈詩は肉体である〉は単なる比喩ではなく、認知プロセスのアナロジーになっている。
 ところで理知を構築し詩を作り出すこの言語とは何か。動物から人間への進化の過程に言語が発生したことは想像に難くないだろう。認知科学の世界的第一人者であるアンディ・クラークによれば言語とは、ほかの動物たちと同様に生存に必要な脳内プロセス(ほとんどが自動操縦)を、「補足」するためにデザインされた「外的人工物」、いわば操作可能な外部装置である。指で切れない紙を切るために「はさみ」があるのと同じだ。その起源は、リズム・韻律を兼ね備えた音楽と同根であり、動物が繁殖してゆくための求愛・連帯・子育ての機能を持ったしぐさと発声(コミュニケーション)から発達したという(下條信輔2008)。
 言語の機能は、伝える・聞く・問うといったコミュニケーション機能だけではなく、外部記憶装置としてもはたらく。例えば日記や予定表、買い物のメモ、などだ。また、感じたことや考えたことを、言語形式にコード化することで、コンパクトで伝達容易なシグナル(記号・文字・音声)にフォーマット(構成・書式化・外部出力)できる。フォーマットされた内容は、自分自身で再度脳内に取り込み、内言し、修正して書き出したり、書き出した記号を操作して新たな構成を発見したりできる。さらに違う人同士で交換し合い、相互に共有・改良・活用ができる。詩や小説といったフォーマットでは、知らない世界を見たり、未経験の美しさや新たな驚きの「質感」に涙を流すこともできる。
 こうして、言語を使うことで世界を拡張するという人間独自のメカニズムが構成される。「言語はわれわれの直観的知識の単なる不完全な鏡映ではない。むしろ、言語は理性そのもののメカニズムにとって必要不可欠なのだ。」(A.Clark)
 正に俳句は超コンパクトなシグナルにフォーマットされた「言語チップ」のようなものだ。
 あなたは俳句と呼ばれる十七音の「言語チップ」に視覚または聴覚を通じて接続する。脳内にそのシグナルが瞬時にインストールされる。そのシグナルに刺激された神経回路網の興奮パターンや結合強度の変化に伴い、あなたの身体と世界の記憶が呼び覚まされ、繋がりあい、時に「質感」が発生し、情動が発動する。

  鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

 鶏頭が十四五本ほど咲いているにちがいない、との句意。鶏頭の鮮烈な映像が頭に浮かぶ。と同時に「ありぬべし」と言い切る人の身体環境を思い浮かべる。競い合うようにして背を伸ばし咲いているたくさんの鶏頭の美しさ、力強い生命力をその人は知っている。しかし、確述と推量の助動詞を下五に構成したその人は、今、それを見て確認することができない。でも信じる、そうあってほしい、という強い思いの「質感」が発生し、胸を打つ。
 筆者の目の前に実際の鶏頭はない。この「言語チップ」に接続して筆者の世界が拡張したのである。俳句は、世界と身体を疎結合で繋ぐ世界拡張「言語チップ」だ。
 この「言語チップ」は、できるだけ人間の「エピソード記憶」を刺激・想起しやすいシグナルでフォーマットすることが理想的だが、使えるリソースはたったの十七音という超コンパクト設計のため、「季語(歳時記)」と言われる外部データベースとのインタフェースや「切れ」などのコーディング・テクニックが研究されてきた。本稿ではその詳細には立ち入らないが、「造型俳句論」のキーワードについては諸所で触れる。
 さて、鶏頭句に戻る。兜太はこの句について、「海程」創刊500号の記念座談会で次のように述べている。〈鶏頭の存在感をとらえている。鶏頭と正岡子規との取り組み。―中略― 子規の中に生まれている鶏頭の映像。その中には命ということも含めて、鶏頭の映像というものが書かれているという、そういう意味の映像だと言いたい。〉そしてさらに〈客観も主観もない、自分という主体のなかにできあがってくる映像世界というものを書けばいい。〉と言っている。映像世界とは何か。どうやって書けばいいのか。

◆映像と言語

 サヴァン症候群のナディアは三歳の時、ほとんど言葉を発することができなかったが、驚くほど美しく正確な絵を描いた。ところが言語力の発達とともに、十歳になるころにはその天才的な描画能力は消えてしまったという。また、健常者を対象にした人間の顔を記憶する実験においては、特徴を言葉にして記憶すると、記憶成績が下がってしまうという事例がある。進化学者のニコラス・K・ハンフリーは、優れた映像記憶の背後には言語の欠如があると主張している。我々の映像記憶が貧弱なのは言語を獲得したせいだというものだ。言語能力が発達することで、非言語的な映像認知能力が抑制されてしまう。言語は視覚イメージを言葉に置き換え、分析や外部記録を可能にする反面、現実世界の豊かな差異を抽象化し、忘却させてしまう。同様の現象は映像認識だけでなく、味覚や嗅覚における他の実験でも認められ、「言語隠蔽効果」と言われる。犯罪捜査における目撃証言に関連して研究が盛んだ。
 さて、俳人は十七音の言葉を紡ぎ出す生きものだというのに、しかも兜太は「映像」を書けというのに、言葉が映像を消すという「言語隠蔽効果」とはなんという障壁であろうか、と一瞬思う。しかし、思い出してほしい。俳人は、犯人を特定するために書くのではない。見たものを忠実に言葉に描き出すことを求めているわけでもない。何を言葉にするのか。〈存在感の純粋衝動〉を、感情を揺さぶる「質感」をこそ言葉にするのだ。
 兜太は「映像」を書けとは言うが、「目で見る」ことには固執していない。兜太が「映像」という時、それは「視覚」イメージだけではないのだ。「造型俳句論」発表当時に「イメージを暗喩せよ」と言っていたように、兜太の「映像」とは「質感」を伴ったマルチモダールな(全感覚的)イメージのことを指している。人間は日常生活で一つのモダリティ(感覚タイプ)だけによる経験はしていない(できない)。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、等同時に複数の感覚に基づくマルチモダールな経験をしている。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを飲むとき、肉体を通じて感じとるすべての感覚を動員してお母さんを知る。この「お母さん」を書けというのだ。

◆ほとんど見ていない

 では、そもそも「見る」とはどういうことなのか。生来目が見えている人にとって「視覚が解釈である」ということを理解するのは難しい。脳は目に流れ込んでくる膨大な光情報を無意識下で処理している。結果我々は目に入るもののほとんどを認識していない。知る必要があることだけを認識し、必要に応じて注目すればよいその他の情報は通常無視している。要するにほとんど「見ていない」。「間違い探し」に時間がかかったり、錯覚画像やマジシャンに騙されたりするのはそのせいだ。一方、三歳の時に事故で視力を失ったマイク・メイが四十三年後に視力を取り戻した事例がある。彼にとって手術直後の世界は混沌を極めた。彼の脳は目に入ってくる大量の情報を処理できず、息子の顔は解釈できない輪郭と色と光だったし、頭を左に動かすと場面が右に動く、という事態も予想できなかった。目は機能しても「視覚」がなかったのだ。その後数週間の生活を経てようやく彼は視覚を得たのだった。あるいは十六歳まで地下牢に幽閉されて育ったカスパー・ハウザー。彼は外を見たことがなかった。初めて見た窓の外は、彼にとっては壁の上にごちゃごちゃした色を塗り込めた四角い枠だった。彼の脳は未だ遠近感を学習できていなかったのだ。「視覚」は人間が安全に生存するために脳が学習した解釈の世界なのである。一端学習したら最後、二度とマイクやカスパーのように見ることはできない。
 言語隠蔽効果の前に、そもそも「視覚」は世界を「ほとんど見ていない」のである。だから巷の俳句入門書には「よく見ろ」と書いてある。俳句で「写生」を重んじる人たちは、経験的にこの脳の解釈の困難に気づいている。脳の解釈を経て繰り出される言葉は更に「認知バイアス」にまみれている。ろくに見もせずその代わり対象に対するステロタイプや、先入観、思い込み、誰もが偏る視点などを被せて、オリジナルだと差出してしまう。それらをまとめて「主観」と称し、これを排除せよと教える。対象に対して自覚的にいつもと違う視点を向けることで新たな発見を期待し、けっして下手に喩えるなと教える。俳句入門書にある「よく見ること」と「写生」とは、この認知バイアスの「克服」を説くものである。よく見てそのままに書きなさい、と言われると簡単そうに聞こえるが、俳句の「写生」とは認知科学的には極めて難しいチャレンジだ。本能的な認知バイアスを克服しろと言うのだから。
 それに対して「造型俳句論」は、本能的な認知バイアスを「克服」しようとはしない、むしろ本能に従う。兜太は経験的に、認知バイアスを「避けて通ることなどほぼ不可能」だと気づいているのだ。だからそもそも「見ること」にも固執しない。大切なのは肉体全身が日常の中で感じとる感覚=「質感」の方なのだ。そしてこの気づきは「生きもの感覚」に通底している。兜太が一茶の「荒凡夫」、愚直に本能に従う姿を美しいとして憧れるのも然り。身体と世界に抗うのではなく、人間も世界の一部であるとする「生きもの感覚」は認知科学的にも合理的な態度なのである。

◆「造型俳句論」=「創る自分」の見る「現実」

 兜太「造型俳句論」はいったい、本能的な認知バイアスを「克服」しないで、どうしようと言うのか。再び兜太曰く、〈今のように鶏頭を見て一つのことを考えるでしょう。何か考える。その一つのことだけを鶏頭に託して書くというのが、いわば客観写生の段階〉〈鶏頭を見ていろいろなことを思うわけでしょう。いろいろなことを感じている。その思ったり感じたりしていることが全部ひとまとめになって、書けたと思う瞬間があると思うんだ。それが映像で書けたということだと思います。〉つまり、先ず「感覚」は大事なのだが、最初に「感覚」したものだけで書くな、というのだ。初めの「感覚」はきっかけにすぎない。その「感覚」から様々に連想される「エピソード記憶」を掘り起こすのだ。
 例えば兜太は、尾道の水族館で見た青白く発光する烏賊の印象的な「感覚」に刺激されて「日常」の記憶を発掘する。出勤先の銀行の風景、薄暗い朝の店内、机に背を丸める行員達、高い天井、デスクの蛍光灯、深海魚、そこに居る人々の生態、群れる銀行員、等々。そうした記憶のアマルガムを精錬して得た結果の「質感」とは、魚族特有の生々した肢体で薄暗い朝の店内に一人ひとりわびしく蛍光灯を抱く人達と蛍光する烏賊のイメージ、だったという。

  銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太

 その「質感」を「創る自分」が「映像」化した。そうして造型される表現こそが「現実」であると言う。もはやこの時、視覚的に「見ること」は必須ではない。「創る自分」の見る「現実」こそが必須なのだ。〈造型とは、まさしく「現実」の表現のための方法である。〉と「造型俳句論」で言っているのは、人間の意識が本能的に感得するこの「質感」こそが「現実」=「リアリティ」であるとの表明だ。本稿の冒頭で、「質感」を「直観」「クオリア」「リアリティ」と同義と述べたのはこのことである。これも「生きもの感覚」に通底している。

◆「詩は肉体」=「日常」からつくれ

 いとうせいこうとの共著『他流試合』文庫本収録の最近の対談で兜太は、〈俳句は練らなくていい、修行などいらない、ラップみたいにどんどんつくれ〉と言って、いとうせいこうを驚かしている。誤解を恐れずに言えば、テクニックは必要ないと言っている。その代わりに兜太は一貫して「日常」からつくれという。
 〈詩の核〉となるいきいきした「質感」は「日常」からしか生まれないからである。前述の通り、情動を喚起する「質感」は「エピソード記憶」と共にあり、「エピソード記憶」とはすなわち「日常」の出来事の記憶、マルチモダールな経験の堆積である。神経科学において記憶の想起とは、当初経験した際にスパークした神経細胞群の化学的・物理的変化の痕跡(エングラム細胞)をもとに、再び同じ神経回路が活性する現象である(利根川進2012)。しかも記憶表象は一塊の実体としてあるのではなく、各モダリティ(感覚)ごとに分散した神経状態のパターンとして存在し、ある感覚の刺激によって、再びそのエピソードにかかわる神経細胞が繫がり合い「思い出した」と認識される「プロセス」である(Barsalou1999)。こうして、紅茶に浸したマドレーヌの匂いから幼い記憶が呼び起こされる(プルースト効果)のだが、これらの記憶は身体内外状況の変化によって、置き換えられ、組替えられ、新たな記憶が常に創り出される(鈴木宏昭2016)。時に忘れ得ず、時に儚い、思い込み、朧で、勘違いもする記憶。さらに、様々な「エピソード記憶」を連続して思い出すことによって、個々の記憶同士が相互作用し合い、記憶間で新たな連合が生まれ、新たなエピソードと「質感」の創出につながる。(それぞれの記憶に対応するエングラム細胞の間のシナプス強化が起こり記憶痕跡を部分的に共有するため・井ノ口馨2017)
 だから、初めの感覚、きっかけを得たら、そこから連想する自分のエピソードを思い浮かべては、思いつくままに言葉をどんどん吐き出してみればよいのである、囀るように、吼えるように、本能のままに。
 〈おれは紙を持っていて、メモをどんどん書いています。みんなまとまっていないけど、自分の中でワーッと出てきたものを書く。これが大事です。〉(兜太『海程』500号)
 吐き出した言葉を契機にして脳はまた別のエピソードを揺り起こす、脳内装置と外部言語装置との相互作用による創発プロセス「二次的認知ダイナミクス(A.Clark))」も駆動する。身体内外の記憶を連合した(of the world)新たな「質感」(reality)を創り出すのだ。その時「詩」を創るには、書かれた言葉から「言葉」を想起するのではなく、書かれた言葉から「記憶」を想起することが肝要だ。想起とは失語体験である。読む時も書く時も、言葉以前の記憶が手を取り合い立ち騒ぐその「質感」に震える時、既に言葉はそこに無い。兜太が「詩は肉体」と示す通り、詩の言葉の源は言葉ではなく肉体(エピソード記憶、マルチモダールな経験の堆積)にある。
 〈あなたがたは頭で考えるよりもとにかく自分の暮らしの中からどんどん絞り出すようにつくりなさい、それが実は一番新しい俳句なのですよ。〉(兜太)

◆おわりに

 海程多摩では平成二十九年初春より、安西篤『金子兜太』をテキストに読書会形式をとった「金子兜太研究会」を実施している。この研究会が目指す成果について安西篤は、兜太を知るというだけではなく、「現代の視点で兜太をどう見るか」、「兜太に触発された論、接続する論、新たな光を与えること」だと発言している。本稿は同研究会を契機として、兜太に触発され兜太に接続する試論として思うところを述べたものである。この機会を創ってくれた安西篤と研究会メンバー、そして金子兜太に感謝申し上げたい。 了

※ 認知科学とは知的システムの構造、機能、発生における情報の流れを科学的に探る学問(鈴木2016)であり、心理学、言語学、哲学、神経科学、人工知能、ロボティクス等の研究者たちによる諸学横断的な学際領域である。

◎参考文献
『現れる存在』アンディ・クラーク・NTT出版
『あなたの知らない脳』デイヴィッド・イーグルマン・ハヤカワ書房
『教養としての認知科学』鈴木宏昭・東京大学出版会
『マインド―心の哲学』ジョン・R・サール・朝日出版社
『物質と意識』ポール・チャーランド・森北出版
『心はどこにあるのか』ダニエル・C・デネット・ちくま学芸文庫
『脳はなぜ「心」を作ったのか』前野隆司・筑摩書房
『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?』前野隆司・技術評論社
『〈意識〉とはなんだろうか』下條信輔・中公新書
『サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代』下條信輔・ちくま新書
『脳はなぜ都合よく記憶するのか』ジュリア・ショウ・講談社
『言葉と脳と心―失語症とは何か』山鳥重・講談社現代新書
『つながる脳科学』理化学研究所脳科学総合センター・講談社BB
『談』2014.No.99「社会脳、脳科学の人間学的転回」・TASC
『談』2013.No.97「〈快〉のモダリティ」・TASC
『早稲田文学』2017年初夏号◎作られゆく現実の先で
『〈こころ〉はどこから来て,どこへ行くのか』中沢新一ほか・岩波書店
『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー/HNKブックス
『思考する言語』スティーブン・ピンカー/HNKブックス
『行動経済学』友野典男・光文社新書
『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』川添愛・朝日出版社
『認知言語学』谷口一美・ひつじ書房
『魂と体、脳』西川アサキ・講談社選書メチエ
『七五調の謎をとく―日本語リズム原論』坂野信彦・大修館書店
『日本語のリズム 四拍子文化論』別宮貞徳・講談社現代新書
『森と氷河と鯨』星野道夫・世界文化社
『俳諧史』栗山理一・埴書房
『海程』創刊500号特別記念企画
『金子兜太』安西篤・海程新社
『現代俳句の断想』安西篤・海程社
『小林一茶』金子兜太・講談社現代新書
『今日の俳句』金子兜太・光文社
『金子兜太の俳句入門』金子兜太・角川ソフィア文庫
『感性時代の俳句塾』金子兜太・集英社文庫
『他流試合』金子兜太・いとうせいこう・講談社+α文庫
『存在者』金子兜太・黒田杏子編・藤原書店
『いま、兜太は』金子兜太・青木健編・岩波書店、
『熊猫荘俳話』金子兜太・飯塚書店、ほか


姉妹編 :「思いつきの文学」

思いつきの文学 小松敦

(海程神奈川アンソロジー『碧9号』掲載・一部修正)


思いつきの文学               小松敦


Remember that the air shares its spirits with all the life it supports.
The wind that gave our grandfather his first breath also receives his last sigh.
– Chief Seattle –

大気はそれが育むあらゆる生命とその霊を共有していることを忘れないでほしい。
我々の祖父たちの最初の息を与えた風はまた彼の最期の息を受け取る。
– シアトルの酋長 –

(1)つながりあう世界

 右の言葉は、昨年没後二十年を迎えた写真家星野道夫の未完のエッセイ『森と氷河と鯨~ワタリガラスの伝説を求めて』の第一章「ワタリガラスの家系-クランの男」の扉にあるエピグラフで、もともとは『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ)からの参照・引用である。1852年ころ、合衆国政府が先住民族に彼らの土地を購入したいと持ち掛けた際のシアトル酋長の返事の一部だ。
 キャンベルが、星野道夫が、わざわざシアトル酋長の言葉を引いているのは先住民族がごく当たり前に感じていたこの感覚、大昔から知覚してきた「大気と人間の息は一体のもの」という感覚が、現代の私たちに薄れてきているという危機感からである。決して忘れてはならない感覚、その忘却は平和を危うくし破滅をもたらしかねないもの。神話で伝承してきた大切な記憶、これを喚起するためにである。
 シアトル酋長の話は、キャンベルとモイヤーズが神話とは何か、新しい物語、未来の神話とはどんなものかを語るところで登場する。キャンベルは、新しい神話がどんなものになるかは分からないがその神話が扱うであろうことは、あらゆる神話がこれまで扱ってきたものと全く同じだと断言する。〈個人の成長―依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そしてこの社会との関わり方、また、この社会の自然界や宇宙との関わり方。それをすべての神話は語ってきた〉のであり、新しい神話が語るのは〈この惑星の社会〉〈この惑星のための哲学〉だろうという。シアトル酋長の話はそのモラルを体現しているものとして引き合いに出されているわけだが、太古からの神話も未来の神話もその本質は変わらないのだ。つまり、キャンベルは、そして星野も、危機感を感じながらも、実は人間を信頼している。シアトル酋長の哲学と倫理を人間は決して忘れない。〈大地は人間のものではなく、人間が大地のもの。あらゆる物事は、われわれすべてを結びつけている血と同じように、つながり合っている(シアトル酋長)〉その感覚は薄れはしても失わないという確信が二人にはある。
 〈「追い詰められたカリブーが、もう逃げられないとわかった時、まるで死を受容するかのように諦めてしまうことがあるんだ。あいつらは自分の生命がひとつの繋ぎに過ぎないということを知っているような気がする」僕はそんなニックの話を面白く聞いていた。個の死が、淡々として、大げさではないということ。それは生命の軽さとは違うのだろう。きっと、それこそがより大地に根ざした存在の証なのかもしれない。〉『イニュニック〔生命〕』星野道夫・新潮文庫P174
 あらゆる物事がひとつながりであると感覚すること。山が海を育てると言って山の植林運動をする海の民や、輪廻転生を信ずるチベットの人々にとっては現在でも当たり前の世界認識だ。それは理性ではなく感覚的にありのままに世界を認識する方法による。
 しかし、普段の生活のなかで私たちは、ほとんど無意識に知覚している膨大な情報を無自覚に切り捨て、行動に有用な情報だけを見ている。安全に効率的に生きるための本能と生来記憶してきた社会と文化の制度に因って、実際には感じているはずのありのままの世界を、様々に修正し歪めてしまっている。あらゆる物事が豊かにつながりあった世界など全く知らずに生きそして死ぬ。本当にそうか。私たちは生きのびるためにだけ今を生きているのか。そうだとしたらなんと味気ない世界ではないか。
 そうではない、大丈夫、とキャンベルも星野も言うだろう。私たちはありのままの世界に日々触れているじゃないかと。何かを見たり聞いたりして感動したり、ふといいな、と思ったり、あらまあ、と驚いたりする瞬間にはありのままの世界に触れている。我を忘れて何かにのめり込んでいる時などは世界と私が一体となっている。あなたにもそのような瞬間は、心当たりがあるだろう。哲学ではこの瞬間についてのテーマをよく取り扱う。

(2)見えないものの諸力

 〈観えないものを観るのではない、もともと観えているものを、さらにはっきり観ようとするだけでいい。もともと経験されている実在の時間を、もっとはっきりと経験し直すだけでいい。ベルクソンの言う「直観」は、哲学の方法であるより前に、この努力である。また、哲学の方法は、徹頭徹尾この努力であるよりほかはない。〉『ベルクソン哲学の遺言』前田英樹・岩波現代全書P97
 〈哲学することは、在るものに触れる喜びを、いつもはっきりとわがものにする努力をつづけることである。〉同P100
 〈直観とはまず意識を意味するが、それは直接的意識であり、みられる対象と分かちがたいヴィジョンであり、接合であり合一でさえある認識である(ベルクソン)。〉『ベルクソン=時間と空間の哲学』中村昇・講談社選書メチエP44
 ところで、我を忘れて感激するような時は、たいてい言葉をも忘れている。「先ほどあなたが感激したその瞬間の経験に言葉で表現を与えてください」、と頼まれたらどうするだろうか。もちろんあなたは表現しようと努力するだろう。あなたの言葉を聴く人や読む人はあなたと同様に感激してくれるだろうか、あなたの言葉に。
 世界を見えずらくしている障碍のひとつが言葉である。言葉にしようとすればするほど、見えなくなる。言葉の束縛が知覚を邪魔する。それなのに、その言葉で見えていなかったものを見えるようにしようとするのだから、努力が必要なのだ。
 まず見えなくてはならない。そして、見えて直観した元来の感覚を他の人に呼び起こすに足る最も適切な表象を与えたい。古来人間は、ありのままの世界に触れる感激を積極的に分かち合うための技術を研いてきた。既にお気づきの通り、この営みを、アートと言う。ベルクソンを探求の出発点とした別の哲学者ドゥルーズによると、芸術とは見えないものの諸力を見えるようにすることだと言う。「諸力」とは直観された感動や驚きまたは感覚のインパクトのことだと理解しておけばよいだろう。
 〈芸術にとっては、音楽であれ絵画であれ、もろもろの形式を再現したり発明したりすることではなく、力を捉えることが問題なのだ。まさにこの点において、どんな芸術も具象的なものではない。クレーの名高い表現「見えるものを再現するのではなく、見えるようにすること」は他でもなくこのことを意味している。〉『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』ジル・ドゥルーズ・宇野邦一訳・河出書房新社P79
 見えるものをただなぞって示すのではなく、そこにある感動の力を、見えるようにすることだとクレー=ドゥルーズは言うのである。例えばムンクはそれを実践している。画家の有元利夫曰く〈ムンクは、イメージや感覚に図象を与えた。人は初め、強いドラマ性にひかれる。が、それを本来的に強めるのは、色や型であることに気付く。そのうち、内にあるドラマや創造性は弱まり、色や型の強さが残る。〉『日経ポケット・ギャラリー・有元利夫』(35.神話) ムンクの絵はありきたりの物語や概念を以って説明されてしまうことに抗う力を備えている。元来の直観を呼び起こすに足る表象としての強度を備えている。

  鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規

 子規の「写生」も見えるものをただなぞって示すだけのものではなかった。意味解釈の後に表象としての強さが残る。
 ピアニストのケリー・ヨストは同じことを “Not perform but reveal” と述べている(『地球交響曲第六番』龍村仁監督)。演奏するのではなく既に在って見えていない大切なものを明らかにすること。自ずと然ること。

(3)態度論=ふたりごころ

 ”Not perform but reveal” この本質はしかし、既に三百年以上も前から日本では言い尽くされているものだ。
 〈物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし〉、〈松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云ふは、物に入りてその微の顕れて情感ずるや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出でても、そのものより自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也。(松尾芭蕉)〉『三冊子』
 あなたをとりまくあらゆるもの、いま、ここで、そこで、刻々と変化し続けている一瞬の姿を、しかし、ほとんどそれと気づかずにいる物の光を驚きと共に観ること=直観すること。物は自然だけとは限らない。ありとあらゆるものが相手だ。人のしぐさ、誰かの言葉、政治や経済、戦争も。日常の些細な出来事、テレビで流れるニュース、りんごの手触りと匂い、町の喧騒の中に、太陽に、あなたの影に、ありとあらゆる物事に見えたる光。物と一体化して自然に顕れる感覚を言い留めたい。

 〈まず俳句を創るとき、感覚が先行する〉『俳句』金子兜太・角川S32年2-3月号

 シアトル酋長と同様の世界認識を以ってありのままの世界と一体化し、見えないものの諸力を見えるようにと実践・指導している日本の芸術家がある。俳人、金子兜太である。兜太が句集『両神』の後記に記した自らの境地「天人合一」を知るべし。安西篤による解説が分かりやすい。〈これはすでに一茶に学んだ「自然(じねん)なる姿」やアニミズムにも通ずるものだが、兜太にすればそのさらなる徹底した世界をみていた。そこでは、人間と自然を平等の立場に置き、物本来のもっている魂とともに、人間の魂をも存分に発揮させる世界、人間と自然の合成する世界がある。それはアニミズムの世界に似ているようだが、アニミズムよりももっとスピリチュアルな、より根源にあるものであり、そこに「ふたりごころ」の初な形をみている。〉『金子兜太』安西篤・海程新社P502
 「ふたりごころ」とは、対象を(相手を)思いやり、それと交わり向かうこころ、物の光を見るときの態度だ。左記は文学の森「月刊俳句界」2011/9月号・金子兜太×対馬康子インタビューより。

金子:『俳諧史』という本の最後でほめてくれたんです。栗山先生は、造型俳句論は芭蕉の表現論を現代の俳人が一歩深めてくれた。「物の美」に「情の誠」が触れるという芭蕉の表現論の基本を更に具体化しているとね。
対馬:「習へといふは、物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句の成る所なり」。「たとへば、物あらはにいひ出でても、その物より自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情誠に至らず」という考えですね。
金子:おっしゃるとおり。三冊子ですね。「情」という字を書いて「じょう」と読むばかりじゃなくて「こころ」とも読みたい。それも「ふたりごころ」と。この「ふたりごころ」というのは、相手に向かって開いていくこころだと思っています。
 兜太は「ふたりごころ」の態度で世界をあるがままに直観する。直観して得た感覚に対して「創る自分」が表象を与える。その表象は読者に対して映像的なイメージを喚起する十七音の言葉として結晶し、新たな直観を呼び起こす(兜太「造型俳句論」骨子)。このとき「ふたりごころ」は、対象に対する思いやりであると同時に、来るべき読者に対する信頼でもある。「ふたりごころ」で詠んだ句は「ふたりごころ」で読まれたい。一句は読者にとって新たな「物」として存在し「物に入りて、その微の顕れて情感ずる」対象となる。読者の「ふたりごころ」を信頼しないでは詠めない。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  金子兜太

 〈俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。―中略―これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである、否、実際は直観そのものである。〉『禅と日本文化』鈴木大拙・北川桃雄訳・岩波新書P170 

  少年来る無心に充分に刺すために  阿部完市

 梅咲いての句も少年来るの句も知的解釈は無用である。読むとき、今度は自分を信頼する。
 〈君は書いてないことを読みすぎる。―中略―書かれている映像をそのまま素直に受け取らなければいかん。その映像から何も受け取れなければこの句は捨てるしかない。〉『熊猫荘俳話』金子兜太・飯塚書店P131
 頭で考えるのではなく、言葉に身を委ねる。「天人合一」の世界にリラックスして、書かれた言葉たちがあなたの中の記憶を揺り起こすに任せることだ。そのとき、あなたの風が吹いている。あなたに最初の息を与えた風でありあなたの最期の息を受け取るだろう風が。あなたの梅は今年はどんな具合に咲いているだろうか。庭中に来ているあなたの青鮫はどのような姿で泳いでいるのだろう。大気を深呼吸してみよう。ほら、あなたをめがけて、向こうから少年が来る、どんな顔つきで来るのか。無心に、充分に、刺すために、どんな姿で来るのか。俳句を読んで気持ちが動くとき、自分の肉体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生されつながり合い動き出す、そのざわめきに驚く。

(4)方法論=思いつくこと

 さて、たとえばとっておきの一句ができたとしよう。あなたは「ふたりごころ」で物の見えたる光を捉え、読者の直観し得るだろう映像的な十七音の表象を書き留めた。しかし、残念ながら、あなたの俳句は時に既視感があると言われ、類想類句、只事、マンネリと評される。言われてみればその通り、似たような感動を似たような映像で詠んでしまうことがある。同じような国土の上で同じような時代の中に、しかも同じような言葉を使って生きる人間が感動したり感激したりする局面の似通ってしまうのは無理からぬことかもしれない。だからこそ、未だかつて誰も出会ったことのない俳句を創りたい。
 そこでアーティストとしては、いろいろ工夫してみたくなり、自身の凡庸さを克服する手段やコツを日々探求することになる。頭で考えても新しい感動や映像はやっぱり見えてこないと悟れば、他人と違う物の光を探しうろつき回る。あるいは、物の見えたる光など見ないでよし、俳句なぞ所詮は言葉の組み合わせだと高を括って机の上で悩んだり、中にはランダムアートに走ってみたり。
 画家のジャクソン・ポロックはキャンバスの上から筆や棒で絵の具を飛散させて画面中を線で埋め尽くす。一見偶然に任せたカオスのようだが、絵の具はうねり、跳ね、網目のようになってキャンバスから溢れそうだ。饒舌、過剰、鼓動、あるいは躁鬱すら感じる。その手法は百パーセント偶然に頼るわけではなく、作家の今この瞬間の感覚が彼の肉体を通じて逐一飛び散り、露呈され、充溢して作品となっている。俳句においても同様に、どんな方法で作ろうとも、作家の今の感覚がその肉体を通過して露呈せざるを得ない。
 〈詩は存在感の純粋衝動である〉、〈存在感の純粋衝動は、もっともうぶな感官―その意味でもっとも人間的な心的機能―の働きを必要とする。言うなれば、肉体そのままの、うぶな衝動こそ、もっとも鋭い反応である、ということである。それが土台にあって、詩の核が純潔に得られ、その上に理知の構築が可能となる。詩は肉体である〉『今日の俳句』金子兜太・光文社P264
 兜太が「肉体」と言う時は、知性よりも感覚を動かせと言うのである。理性的な思考ではなく肉体に備わった五感の記憶を動員しろと。抽象的な思考制度の罠に嵌まってマンネリズムやありふれたドラマ、独りよがりや予定調和に陥らないための秘訣は、持続=日常の中の具体的で生々しい肉体経験を「土台」にして作品を創ることだ。ポロックの場合は、体で覚えて体を動かすが、俳句の場合は体で覚えて言葉を使う。ポロックが道具を操るように、俳人には言葉を操る技が要る。肉体が経験した五感の記憶を「口ごもりつつ、思いつくこと」。言葉として上手に思い起こすこと。
 〈存在感の純粋衝動〉は、同じ本の別のところでそれはつまり「思いつき」だと説明されている。〈一定した持続=日常性〉のなかにふと泉のように湧いた「思いつき」。ただしそれは出まかせでは困る。〈その泉の噴出は、持続のなかで思考と感覚が累積してゆき、ある爆発点にきて、感情を刺激したときに行われる。刺激による感情の純粋反応が、いままでたまってきたものに、急に新しい組合せを与えたり、隠れていたものをダイナマイトのように露見させる〉そして、〈口ごもりつつ、ほんものの思いつきが誕生する。〉同P257
 ここで登場する「持続」がベルクソンの重要概念である「持続」とある種の一致を見る点に驚愕するのだが詳説する時間はもうない。ベルクソンにおいての「持続」とは自ずと体験する無意識も含めた「記憶」である。そして「直観」は〈増殖する持続に密着しそこに予見不能な新しさの不断の連続を知覚する。(ベルクソン)〉同前・前田P112 このベルクソン自身による「直観」の定義を、兜太が実践を以って解説している。曰く〈あなたがたは頭で考えるよりもとにかく自分の暮らしの中からどんどん絞り出すようにつくりなさい、それが実は一番新しい俳句なのですよ〉『熊猫荘俳話』兜太P201

  おおかみに螢が一つ付いていた  金子兜太

 見えないものを見えるようにすることが、俳句に限らず古来アートの本質であった。「ふたりごころ」で詠んだ句は「ふたりごころ」で読まれたい。かくして、対象を思いやり、それと交わり向かう「ふたりごころ」の態度は、対象についての記憶を具体的によく思い出すことで示される。それは、積極的に「思いつくこと」でもあった。そうやって創られた「一番新しい俳句」に出会う喜びは、あらゆる物事が豊かにつながりあう世界を直観することに等しい。 了


姉妹編:金子兜太試論 ~ Reality of the world ~