「生きもの感覚」と未来

(アンソロジー『海程多摩』第十七集2018 掲載 )


「生きもの感覚」と未来  小松敦
 追悼金子兜太先生

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 〈ふと「今」を生きる人間にとって、他界は「未来」にあると閃きました。その未来は、わたしたちが予知できない手つかずの領域なはずです、本来は。だが、ちょっと待てよ、と青鮫を通して思えてきたのです。結局、わたしたちが想像している未来は、過去の経験や感情を通して思い描かれた、「時」の写し絵ではないのか。さらに言うなら、その過去とは、時の試練を経てもなお風化せず、わたしたちの心の奥底で静かにしぶとく棲息し続けてきた記憶です。『他界』199頁〉
 どうだろう。兜太のいのちは「他界」に行った。しかしその「他界」はどこにあるかと言うと、わたしたちの記憶にあるのだ。
 〈過去、現在、未来の「時」の同化。これこそいのちに段差のないアニミズムの世界ではないか。『他界』202頁〉
 兜太も私たちもそして世界も時も超えて一体のものであるということ。兜太の言葉で言えば「生きもの感覚」。この「生きもの感覚」こそ、私にとって兜太から学んだ、いや生涯学び続けるべきと教えられた最も大きなものである。
 兜太の「生きもの感覚」は、俳句の素材のことを言っているのではない。何を俳句に書くのかではなく、どう俳句を書くのか、という態度に必要な感覚である。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べていたのと同様に、俳句をつくる者の生き方そのものを指す。

  涙なし蝶かんかんと触れ合いて 兜太

  花げしのふはつくやうな前歯哉 一茶

 兜太の「生きもの感覚」では、人間も生き物として、蟻や蝶と同じ、老いた前歯と芥子の花、手を擦る蝿と自分は同じとする。その対象は所謂自然に限らない。社会も土の上に生きる人間が作り出したものであって、ほかの生きものと同列にあり、分けて考えるものではない。
 ちなみに、兜太は「生きもの感覚」のことを近接した既成概念「アニミズム」とも称しているが、これは自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって、タイラーの定義や原始信仰を指しているものではなくむしろ〈アニミズムを生む人間の生な感覚『荒凡夫一茶』177頁〉のことを指す。

  海とどまりわれら流れてゆきしかな 兜太

 あらゆる命や物事が対等でひと繋がりであるという世界感覚は、望ましい原始の記憶として人間の本能の中に刻まれていることを兜太は秩父の産土で実感してこれを「原郷」と呼び、原郷指向と定住しながら世間を生きていく苦労のからみあいに漂泊する人間の生きざまを「定住漂泊」と呼んだ。兜太が邂逅した煩悩具足の自由人「荒凡夫」一茶は、実に「定住漂泊」をバランスよく生きた。まさにその秘訣こそ「生きもの感覚」なのである。
 〈詩は存在感の純粋衝動である〉、〈存在感の純粋衝動は、もっともうぶな感官―その意味でもっとも人間的な心的機能―の働きを必要とする。言うなれば、肉体そのままの、うぶな衝動こそ、もっとも鋭い反応である〉、〈詩は肉体である『今日の俳句』264頁〉
 肉体が感受する世界を「創る自分」が俳句の言葉にする。兜太が「造型俳句」の方法論を述べ『今日の俳句』で「詩は肉体である」と言った時からして既に、いや実はそれ以前からずっと兜太は「生きもの感覚」を体現してきた。約一世紀も俳句を続けているからその中で兜太の語る言葉には変遷もあるが、後年、熊谷に引っ越して産土を感じ、これまでの自分を貫く生き物感覚を確信したのだ。

  人体冷えて東北白い花盛り 兜太

 私にとって、俳句を読んで気持ちが動くとき、自分の肉体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生され、つながり合い、動き出す、そのざわめきに驚く。北国生まれの私の中に東北の早春の空は薄く明るく、頬に冷たい大気の匂い、大人たちの笑顔には、未だ白い息の訛りが響く。私の「生きもの感覚」がざわめく。この時、「生きもの感覚」の世界とはまさに兜太が『他界』で言う通り、記憶の連鎖ではあるまいか。読む時も書く時も、言葉以前の記憶が手を取り合い立ち騒ぐその「質感」に震える時、「生きもの感覚」が私の中に無意識な記憶の連鎖反応を起動する。

  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

 その俳句の言葉は誰かにとっては意味を結ばないかもしれない。あるいは人それぞれの意味を結ぶ。それらの言葉が読者の断片的な記憶表象を喚起し、新たな記憶回路をリンクする時、「いいなあ」といった質感や「わかる」といった好意を感じる。言葉を通じて刺激を受けた記憶回路の興奮は、途中経過が意識されることなく理解に至るという。直感的にわかった、悟った、ひらめいた、というのと一緒だ。その「いいなあ」という質感は、まぎれもなく読者が自分で導いた「リアリティ」である。「生きもの感覚」は、だれもが既に持ち合わせている大切なものなのだ。それはまた、岡本太郎が言う「感性」にも似ている。〈感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というものは、誰にでも、瞬間的にわき起こるものだ。〉〈自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体の中に燃え上がり、広がるものが感性だよ。『強く生きる言葉』24頁〉
 俳句を読む時とは逆につくる時、「生きもの感覚」は対象を(相手を)思いやり、それと交わり向かうこころ=「ふたりごころ」で繋がりあおうとする。それは〈自分自身をいろいろな条件にぶっつける〉ことかもしれない。そうして私たちは「生きもの感覚」を以って、時空を超えて繋がり合い、そこに「衆の詩」が出現する。

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

 最後に、「生きもの感覚」は、世界の調和と共存を志向する。それは端的に「平和」に直結する叡智である。兜太がトラック島から帰還以来、生涯をかけて、いや他界してなお我々の記憶を通じて、実現を志す未来である。 了

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