俳人金子兜太の全人間論ノート① 岡崎万寿

『海原』No.53(2023/11/1発行)誌面より

新連載 第1回
俳人金子兜太の全人間論ノート 岡崎万寿

【連載にあたって】
 もう八年前になるが、金子兜太先生を俳人として初めて、「下町人間庶民文化賞」に推薦した経緯もあって、先生から「御大との手はつないだままでいたい」といった、長文のお手紙をいただいている。現在もなお、先生との「手はつないだまま」の気持ちで、引き続き「兜太研究」に打ち込んでいる。
 その流れで、「俳人兜太にとって秩父とは何か」という評論を、「海原」二〇二〇年九月号から六回連載してきた。だが、それに続く文章が、その対象とするはずだった『金子兜太戦後俳句日記』第三巻の出版が、半年毎に延期また延期となり、現時点では、早くて来年二月以降になる、との出版社の返事である。
 しかし今年に入り、私の年齢(次の正月で九十四歳)や体調を考え、ぎりぎりこれ以上は待てないと判断し、執筆を再開した。この三年、私なりに全力投球してきた俳人・金子兜太の、希有な人間論である。


(一)兜太の「老いと死」へのアプローチ
   ーオリジナルな「立禅」の新境地

 九十八歳で他界した金子兜太の遺句集『百年』には、八十八歳から大往生までの十年間の七百三十六句が収録されている。うち「老いと死」を直接のモチーフとした俳句は、十数句ほどで、意外と少ない。
 六句だけあげると。

  今を生きて老い思わずと去年今年(91歳)
  立待や自然死なら何時でも宜し(91歳)
  白寿過ぎねば長寿にあらず初山河(94歳)
  オリオン出づ百歳までは唯の歳(95歳)
  妻よまだ生きます武蔵野に稲妻(97歳)
  かくも細かく科の花咲きわれは老いず(97歳)

 見るとおり九十一歳にして「老いと思わず」、九十七歳つまり他界の一年前になっても、「まだ生きます」「われは老いず」である。
 そうした自分の老いも病も死さえも、楽天的にあるがままの自然体で乗り越える境地と人生について、その生の体験を、『わたしの骨格「自由人」』(二〇一二年刊)、『私はどうも死ぬ気がしない』(二〇一四年一〇月刊)、『他界』(同年一二月刊)などで公表している。私自身、自らの問題として熟読しながら、兜太という人間が到達した死生観の深遠さに、改めて驚いている。
 『人類哲学序説』(二〇一三年刊)を著した哲学者の梅原猛も、兜太の『他界』を読んで、その感想をユーモア交じりに「思うままに・『他界の住民』兜太」と、こう書いている(東京新聞二〇一五年二月十二日付文化欄)。少し長いが、兜太の人間考察として面白いので、初めに紹介しておきたい。

 俳人の金子兜太氏から『他界』と題する新著が送られてきた……この著書には老いの嘆きというものはまったく語られず、彼はすでに十年ほど前から他界の住民として楽しい人生を送っているというものである……。
 金子氏の創造した立禅は、立ったまま亡き友人、知人ら百名以上の名を唱えるといういささか浄土教的な行である。そこで彼はまさに他界の人たちと対話をするのである。もちろんトラック島で死に、青鮫の餌になった仲間たちの名をも唱える。このような他界の人たちとの毎朝の対話が彼の元気のもとであろう。
 この書によって私は金子氏の人生と俳句にいっそう親しみを覚えた。私は俳句をたしなまないものの、金子風の俳句なら私にも作れそうな気がして、金子氏に三句を捧げる次第である……。
  放屁一発あの世に響き春爛漫(以下略)

 ここで注目したいのは、梅原猛が哲学者の目で、俳人兜太が我流に創造し二十数年来、毎朝続けている、親しかった死者たちの名前を称える「立禅」と、それを通じて信じるようになった、「いのちは死なず」他の世界に移っていくという「他界説」を、楽しく共感していることである。その懐かしい死者たちとの日々の対話と、いのちの交流こそ、兜太の「元気のもと」であり、晩年になっても「老いの嘆き」を全く語らない証左であると言うのである。
 兜太にとって、この「立禅」のもつ人生的な意義は、想像以上に重いようだ。そこで、兜太晩年の死生観の柱の一つとなった「他界説」については、アニミズムとも関連して四章で詳しく論考することにして、ここではその「立禅」について、兜太の俳句人生とのかかわりで、興味ある独自の発想とその深化の過程から探索していこう。
 ここで言う「立禅」とは、一般の座って行う「座禅」との関係で思いついた、兜太の造語である。兜太は旧制水戸高校に入学し、寮生活の中で柔道部とともに、すこし遅れて座禅会に入っていた。
 しかし、「座ると、直ちに女性幻想にとりつかれ、それが消えたかとおもうときは居眠りをしていて、警策をくらった。一年ももたないで退会した」(『俳句専念』(一九九九年刊・所収「私の履歴書」)そうだ。偶然だが、その直後に畏友となる出沢珊太郎との運命的な出会いがあり、俳人兜太の本格的スタートとなった。
 さて時が流れ、兜太がふたたび禅、それも立禅に関心をもつようになったのは、七十歳前後からのようだ。『金子兜太戦後俳句日記』第二巻によると、痛風で右足親指の疼きを「痛風は青梅雨に棲む悪党なり」と詠みながら、立禅について、こんな記述をしている。

 一九八九年(十一月二日・70歳)
  東の窓際に坐り、立禅の前のお茶を飲んでいると、……。
 一九九〇年(四月二十八日・70歳)
  五時半に起き、立禅のあと「遠い句近い句」を書きつぎ、……。

 以来、大往生までの二十八年余、兜太は自ら考案した立禅を毎日ほぼ欠かすことなく、オリジナルな養生法の柱としている。その実感を、親友の歌人・佐佐木幸綱との対談で「転機といえば、立禅の影響が大きいですよ。ありのままでいるということが体に沁みてきた」(『語る俳句短歌』二〇二〇年刊)と語るほど、わがものとしていたようだ。
 その道のりを、兜太の言葉で三段階に分けてコンパクトに確認しておこう。
 ① まず七十代に入ると、四回目の痛風に続き、歯槽膿漏、ぎっくり腰など体が急にがたつき出した。その養生のために、ある日思い立ったのが立禅である。

 二階の私の部屋の横にある神棚の前に立って、じっとしている時間を持ちます。…もろもろの神仏に感謝しながら静かな時間を持つのです。普通だと三十分、……深呼吸をしながら、ただじっと立っています。要するに、深呼吸を加えた瞑想とでも言ったらいいでしょうか。
(中略)
 立禅はストレス解消法としても最高です。立禅をしていると、心が神仏とつながっている気がします。体中に植物のそよぎが聞こえてきます(『二度生きる』一九九四年刊)。

 つまり立禅の始まりは、自分の健康のため、集中して神仏に感謝しながら、両手を丹田の前に組んで深呼吸をする、「瞑想」法であったようだ。
 ② 七十代から八十代にかけて、戦後俳句をともにしてきた俳句仲間や先輩、知人らが次々と亡くなった。その人たちを悼む気持ちで、兜太はある日から立禅の中で、その死者たちの名前をごく自然に小声で称え始めている。
 その時期も意外に早く、具体的には同じ七十歳のとき、秩父・皆野の菩提寺、円明寺の住職で、兜太とは「肝担相照らす仲」だった倉持好憲和尚が他界し、「この男の名前は言い続けたいという気持ち」から、称名による立禅へと変わっている(前掲『語る俳句短歌』)。
 それも二十名くらいから始まって百数十名に及んでいる。そうした体験を、白寿ドクター日野原重明との対談集『たっぷり生きる』(二〇一〇年刊)で、こう語り合っている。

 金子 俳句をやっている人間なので感受性が強いものですから、自分が大切だと思ったり、懐かしいと思う人が死ぬと、思わず二、三日、その人の名前を毎日繰り返すんです。それも、おのずから。
 日野原 何歳くらいからですか。
 金子 これも戦争へ行ってからです。大事な戦友が目の前で爆弾にすっ飛ばされたものだから、そういう人間の名前が頭に刻まれるんです。その名前を寝る前に言う。そういう習慣が積もってきたのです。

 こうした兜太の毎日の立禅の習慣は、深呼吸を加えた瞑想で神仏に感謝する時間から、他界した親しい人たちの名前を百数十名、その映像とともに称え、死者たちとの対話、交流する時間へと深化してきている。しかもその習慣が、俳人の感受性としてトラック島戦場体験から始まっていることは、兜太ならではのポイントだと思う。それが晩年、立禅として甦ってきたのであろう。対談した日野原重明が、その立禅について「たいへんなものだねえ。驚くべきことですよ」と相槌を打ち、「それは脳のトレーニングに非常に効果があります。……金子さんのやり方は、中でもいちばん優れた、レベルの高い鍛練法です」と、医者の立場から感心、評価するほど科学性を持ったものであった。
 ③ 兜太は八十五歳(二〇〇四年)で母・はる(一〇四歳で没)を、八十七歳(二〇〇六年)で妻・皆子(八十一歳で没)を、続けて亡くした。兜太にとって、母も妻もとりわけ大切な存在だった。その他界の哀しみを、句集『日常』(二〇〇九年刊)で詠んでいる。

  母逝きて与太な倅の鼻光る
  合歓の花君と別れてうろつくよ

 句に込めた兜太の心情の深さを、対談した俳人池田澄子は『兜太百句を読む』(二〇一一年刊)で、しみじみ語っている。

 泣くのを我慢すると鼻が赤くなりますよね。……私死んだらね。倅が「鼻光る」って、こんなことを言ってくれたら本望だなあ。
(次の句)これはね、私『日常』を最初に一読したときに、泣きたいほどじんときました。よく男がここまで素直に書いて下さったと、主婦を代表して御礼が言いたいくらいです。

 当然のこと、兜太の毎朝の立禅に母・はる、妻・皆子の名前が加わった。そして九十代前後になると、立禅で次々と称え浮かんでくる死者たちと、ぴったり呼吸があい、より身近に感じられ、同じ世界で対話・交流している感にまで至った。立禅の習慣が、おのずと死者たちの「他界」のイメージを呼び起こしたのである。
 そこでは立禅する兜太と、他界の人たちとの楽しいドラマさえ感じたりしている。『悩むことはない』(二〇一一年刊)で、こう話す。

 名前を言う順番は決まってます。全部で百三十人ほど。たいがい滑らかにいくが、それでもたまに忘れる人もあるんです。そういうときは、ひと通り終えてから、さらに心を静めて、じっと構える。すると不思議や不思議、例外なく忘れていた名前が出てくるんです。忘れっぱなしということはない。人間の記憶力というのはおもしろいもんです。
 そういうとき、私はもっともらしくこう思うわけです。他界して、命は別のところにいる。その名を思い出したのは、命が俺を呼んでくれたからだと。まあこんなドラマをつくって楽しんでいます。

 以上、オリジナルな兜太の立禅が二十八年余の間、三つの段階で進化し、その抜群の集中力、記憶力、想像力、そして何より生命力を養い、稀にみる長寿の秘訣となっていたことは間違いない。「私のいのちを支えてくれている柱のひとつは、やっぱり『立禅』ですなあ」(『語る兜太』〈聞き手・黒田杏子〉二〇一四年刊)と、兜太はしみじみ言っている。
 さらに兜太は、俳人としてリズム感のあるその立禅を、俳句と言霊との関係で、体感的に次のように位置付けている。

 なぜ私が立禅をやるかというと、言霊に関係してくるんです。……これは俳句のおかげですが、五七五の俳句をやっていると、言霊というものを感ずるのです。あれは定型に感ずるんでしょうな。定型から言霊を教わる。日本語の韻文はすごい力をもっているんだ。そのことを年とともに痛感しています。その言霊の力というものを……。この身にしみこませる、それが立禅なんです(黒田杏子『金子兜太養生訓』二〇〇五年刊)。

 こう見てくると、兜太という俳人が、人間いかに生き、いかに死ぬかという根本的なテーマで、立禅をもってすでに悟りを拓いた高僧のようでもある。だがそれを聞けば、兜太は即座に「とんでもねえ。おれは荒凡夫だ」と言うだろう。「荒凡夫」とは、小林一茶の言葉で、兜太は「自由で平凡な男」と提えていた。人間は本来、複雑で揺れ流れる存在だからである。
 そのとおり、兜太も普通の凡人がもつ煩悩を隠していない。先に述べてきた心安らぐ立禅と他界の話をまとめた『他界』(前掲)という本の末尾で、「他界への思いは、日替わり弁当のごとく」と、最晩年の死への不安感を正直に、次のように書いている。

 はい、迷ってます。割り切れていません。今、わたしは本音を吐いています。……仮に今、死ぬのは怖くないと言っても、明日の朝になれば、死はやっぱり怖いと言う可能性は十分ありうるわけです。人間の心というのはそういうもんです。

 これも、人間兜太の本音の一つであると思う。

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