戦争が廊下の奥に立つてゐた〜戦後の渡邊白泉〜 齊藤しじみ

『海原』No.52(2023/10/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第6回

戦争が廊下の奥に立つてゐた
〜戦後の渡邊白泉〜   齊藤しじみ

 昭和三二年春の選抜高校野球大会は王貞治を投手として擁した早稲田実業高校が優勝したことで知られる。この大会に静岡県代表として出場したのは沼津市立沼津高校(現在の沼津市立沼津高等学校・中等部以下・沼津市立高校)だった。初戦で敗退したが、甲子園のアルプススタンドには沼津市立高校の応援歌が響き渡った。

  求道の勇魂 燃ゆるとき
  乾坤ふるひ 魔もなびく
  攻むるは不撓の鋼鉄の槌
  守りは不壊の金剛の壁
  沼津 沼津 沼津市立高校

 この応援歌を作詞したのは渡邊威徳。野球部顧問も務めた当時四四歳の社会科担当教師だった。この渡邊威徳こそ戦前、新興俳句の若き旗手として俳壇で注目された渡邊白泉(以下・白泉)である。
 人口に膾炙した白泉の句は昭和一〇年代に作られたが、戦争や軍隊に懐疑的な作品は八〇年余り経った今も引用される機会が多い。

  銃後と言ふ不思議な町を丘で見た(昭和一三年)
  繃帯を巻かれ巨大な兵となる(昭和一三年)
  戦争が廊下の奥に立つてゐた(昭和一四年)
  憲兵の前で滑つて転んぢやつた(昭和一四年)
  夏の海水兵ひとり紛失す(昭和一九年)

 白泉は静岡出身ではなく、大正二年に東京・青山の裕福な呉服商の長男として生まれ育った。慶応大学在学中から「馬酔木」などに投句し、戦後に名を成す西東三鬼や石田波郷とも親交が深かった。その時代には珍しかった白泉の口語調の作品は斬新な印象を与えた。

  街燈は夜霧にぬれるためにある(昭和一〇年)

 当時、俳人の山口誓子は「新人作家には飛び抜けて新鮮渡邊白泉がゐる」と評したと言われるほど才気あふれる若手俳人だった。
 白泉は大学卒業後の昭和一一年に出版社の三省堂に入社して編集者となり、仕事の傍ら俳句の創作活動を続けていたが、新興俳句との関わりから「京大俳句」弾圧事件に連座して昭和一五年に治安維持法違反の容疑(結果は起訴猶予)で京都府警に検挙された。四か月の勾留のあと、東京に戻ったが、その後、召集されて海軍の水兵として三三歳の時に終戦を迎えた。戦後しばらく職や住まいを転々としたが、最終的に妻と四人の子供とともに昭和二七年から暮らし始めたのが沼津市で、妻の実家が隣の三島市だったことが縁であった。時に白泉は三九歳で、中年の域に差しかかっていた。この沼津の地で、白泉は五五歳で急死するまで教師の傍ら、地道に句作を続けていたが、戦後の作品は二度と脚光を浴びることはなかった。戦後の自身の歩みを振り返って、白泉は「俳壇や文壇から絶縁された孤独の窖で無償の努力をつゞけることはわたしにとってさしたる苦しみではなかった」と心情を漏らしている(注①)。
 私事になるが、私は両親が沼津の出身で、白泉が存命であった小学生の頃、毎年夏休みになると沼津で過ごしたことから、白泉にちょっとした縁を感じていただけに、沼津時代の白泉の句と人間像を少しでも重ねて描いてみたかった。

 ㈠ 教師としての白泉

  稲妻に立つや石内直太郎(昭和三二年)

 この句には「慈愛と情熱の教師つひに逝く一句」という詞書が付いている。

▲写真1 石内直太郎胸像

 東京帝国大学大学院で植物学を専攻したという異色の学歴の石内直太郎は学力よりも人格教育に重きをおく考えの持ち主で、昭和二一年に新設された沼津市立高校の初代校長だったが、在任中の昭和三二年八月に五三歳の若さで急死した(写真1)。白泉が尊敬を止まない人物であり、沼津市立高校に職を得たのも石内を強く慕ってのことだった。白泉は「石内学校への入学」というエッセイでその思いを吐露している。

 こうした校長のもとで教育される生徒たちは、どんなに幸福であろうかという想念が、わたくしを捉えて放さなかった。即座に、この学校の教師になろうという決心が定まった(注②)(写真2)。

▲写真2 沼津市立高校校舎

  眼の凍てし教師と我もなりゆくや(昭和三六年)
  秋まぶし赤い帽子をまづお脱ぎ(昭和四〇年)

 いずれも教師を題材にした作品である。「秋まぶし……」の句は成人になった教え子が学校にやってきた場面だという。白泉はどのような教師だったのだろうか。白泉が三年間、クラスの担任だったという教え子の思い出話を紹介したい。

 かなり自由な校風でしたが、中でも一風変わった先生が白泉先生でした。(略)「勉強は教科書を読めば良い。俺の話の方が大事だ」と授業は一時間ほぼ雑談。映画や本の話を熱く語り、私はこの授業が面白くて、白泉の感動したという本や映画を見ていました(注③)。

 また、学校の同僚は大勢の教え子たちも参列した白泉の葬儀の様子を回想しながら人物像を綴っている。
 小辺さん(小柄だった白泉のあだ名)が渡辺白泉という俳号を持つ高名な俳人であり、かつては、西東三鬼達とともに新興俳句の担い手として活躍していた事実を。おそらくはよく知らないままに、親しみを寄せていたのではあるまいか……。

 わたしにしても、(略)酒好きで。しかも、パチンコよし。麻雀よしというギャンブル好きな教師としてとらえていたのであった。俳人というイメージを、小辺さんに重ねることは難しく感じられた(注④)。

 葬儀に参列した俳句仲間の一人は次のように語っている。

 白泉は雑談がうまい男で、ところどころ嘘を交えながら面白おかしく話をした。(略)告別式のときの生徒代表の弔詞に、渡辺先生が授業中によく戦争の話をしてくれて、それが面白くて皆熱心に聞いていたとあったが、生徒たちが真偽をとりまぜた白泉節を聞かされて興じている様子が想像され、苦笑したことだった(注⑤)。

 生徒には人気の心優しい教師像が目に浮かんでくる。白泉は自らの過去をまわりに語ることはなかったものの、俳句の創作活動は地道に続け、校内で句会を開いたり、学校の新聞や文芸誌に俳句に関する評論や作品をしばしば寄稿したりすることもあった。

  おらは此のしつぽのとれた蜥蜴づら(昭和四二年)

 白泉は昭和四二年に沼津市立駿河図書館(現在の沼津市立図書館)の初心者向けの俳句講座である「香陵俳句会」に講師として招かれていた。白泉は句会の会報(第一九号)で自分の句について意味深げな解説文を寄稿している。

 誰しも、自分の人生にはいろいろな疑問や、不満をもっているものです。中には、それがこうじて、さまざまの間違いを犯す人も沢山あります。作者は、この句によって、自分自身の拙い生き方を自嘲するかたわら、それらの心貧しい人たち全体に訴えかけようとしているのです。悲しいけれど、せめて懸命にいきましょう(注⑥)。

 一方、近代俳句の研究者で俳人の川名大氏は次のように評している。

 この句は方言による自己諧謔表現によって、しっぽの切れた蜥蜴への憐憫と共に、「京大俳句」弾圧事件により暗転した人生など拙い生き方しかできなかった自分自身への憐憫、自嘲を表現したものといえよう(注⑦)。

  一平に燈の入るころやさゝめ雪(昭和四〇年頃)

 白泉は勤務が終わるとしばしば沼津駅前の居酒屋に立ち寄って飲んでいたという。「一平」とはおそらく行きつけの店と思われる。
 地元の新聞記者だった鈴木蚊都夫氏は、昭和四一年に取材で初めて会った白泉に誘われて飲みに出かけた場面を回想している。

 東海道線の通称、中央ガードをくぐり駅北地区に入った。氏は高校の方角へ急ぐ。歓楽街とは反対である。数軒しか飲み屋はない。その一軒は私もときおり一杯やる店である(前掲注⑥)。

 私は左記の店が「一平」ではないかと見立てて、沼津市立図書館で昭和四十年代前半の住宅地図から「一平」という屋号の店を探したところ、書かれた方角の交差点の角に「お好焼一平」という表示を見つけた。市立沼津高校が現在地に移転する前の場所にも近い。足を運んでみると今は住宅関連会社の三階建の事務所ビルが建っていて、店の面影のようなものは全く感じなかった。

 ㈡ 父親としての白泉

 白泉は四人の男の子がいるが、次男の勝さんは昭和一九年生まれで父の跡を継ぐように慶応大学を卒業後に沼津市立高校の教師になって定年まで勤めた。
 今は沼津市の隣の伊豆の国市で、狩野川を遠くに見下ろす高台の住宅街に奥様と愛猫と一緒に住んでいる。今年六月にご自宅で三時間にわたって話を伺う機会を頂いた。
 勝さんの話では白泉から偉そうなことや勉強をしろとは一度も言われたことはなく、自己主張も頑固なところも父親らしいところもまったくなかったという。ただ、中学生時代に小説「大菩薩峠」や「モンテ・クリスト伯」など白泉が勤務先の学校図書館から借りてきた本を「これ読め、あれ読め」と勧められたほか、よく映画館に連れていってもらい、一緒に「モダンタイムズ」やディズニーの映画を観た思い出があるという。
 勝さんはそれでも父親には文化的な香りよりもむしろ酒と麻雀とパチンコが好きなイメージが強かったという。学校近くの教職員住宅に住んでいたときは、放課後に白泉は教師仲間と自宅で雀卓を囲むことが多く、高校生の勝さんも面子に駆り出されたほか、休みの日には大学浪人中の兄を含め父子三人連れ立って駅前のパチンコ店に出かけることもしばしばあったという。
 また、勝さんは高校生になるまで父が戦前の著名な俳人だったことは知らず、ある日訪ねた父親の同僚から、その家の書棚の「現代日本文学全集」の中に名前のあった渡邊白泉という俳人が父であることを教えられたという。
 また、勝さんが市販の日記帳をめくっていると「街燈は夜霧にぬれるためにある」の句が白泉の俳号とともに掲載されているのを偶然見つけ、父の句が載っていると気づいたこともあったという。
 俳句についてはほとんど家族にも語らなかったという白泉だが、勝さんは白泉の句の誕生の瞬間に立ち会ったことがあるという。
 教員住宅で突然「できたぞ!どうだ」と言わんとばかりに白泉が高校生だった自分に見せてくれた句。

  極月の夜の風鈴責めさいなむ(昭和三九年)

 駆け出しの教師の頃、御殿場線の列車に一緒に乗った時に車窓を眺めるうちにメモしたという句。

  初富士の縞美しや恐ろしや(昭和四〇年頃)

 勝さんの自宅の応接間には白泉の直筆の三句が額縁の中に黒紙に飾られていた。教師になったばかりの頃、勝さんが白泉に「何か句を書いてほしい」と言ったところ、一気に書きあげたという。そのうちの一句である。

  手製のジャム汽笛のポオや田舎菊(昭和二五年)

 「田舎菊」の季語ついて、勝さんが「もっと気の利いた言葉がいいのではないか」と問いかけると、即座に白泉は「これでいいんだ」と答えたという。「ジャム」はフランスの詩人のフランシス・ジャム、「ポオ」はアメリカの小説家で詩人のエドガー・アラン・ポーのことで、いずれも白泉が好きな作家だという。ちなみに勝さんの大学の卒業論文のテーマが「ポー」だったという。
 川名大氏は「田舎菊」とは白泉自身のことで、近代の日本文学にも影響を与えた二人の大物の作家と対比することで自虐的な自己諧謔を込めたのではないかと分析している(前掲注⑦)。
 この句を見るたびに勝さんは詩人で英文学者の西脇順三郎の大学での講義を思い出すという。それは「詩の面白さは日常性の破壊」という趣旨の言葉で、白泉にもその話をしたことがあり、白泉の句にも共通点を感じるという。
 父親の思い出話を聞くうちに私は勝さんと白泉の関係は友人同士という思いがしてきたが、勝さんは「白泉は幼少時代にその父親と接する機会が少なかったので、子どもとの付き合い方がわからなかったのではないか」とふと漏らしたことが印象に残った。

 ㈢ 戦争が廊下の奥に立つてゐた

 白泉が勤めていた市立沼津高校は沼津駅から歩いて十五分ほどの距離にある。歩道に面した敷地の一角には、生前の白泉を知る教職員や卒業生などが中心なって十年余りに前に建立した句碑がある。句碑には白泉の代表句「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の文字が刻まれている(写真3)。

▲写真3 白泉の句碑

 去年一月に亡くなった私の父の墓がある寺に向かうには、句碑の前の歩道を必ず通るが、これもささやかな縁であろう。
 三島市出身で旧制沼津中学(現在の県立沼津東高校)時代に若き石内直太郎の教え子だった詩人で作家の大岡信(一九三一〜二〇一七)は「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の句についてかつて朝日新聞に連載した「折々のうた」の中で次のように紹介している。

 わが家の薄暗い廊下の奥に、戦争がとつぜん立っていたという。ささやかな日常への凶悪な現実の侵入、その不安をブラック・ユーモア威風にとらえ、言いとめた。

 また、大岡は当時、多くの人々がこの句を記憶していたことにも驚いたとした上で、俳人(詩人)としての白泉の立ち位置にも言及している。

 ほかの俳人には書けなかった句だし、これはいま書かれても意味がない。昭和十三、四年に出たから素晴らしいんでね。それは詩人という宿命を示している。つまり遅れて来た詩人というのはダメなんだよね(注⑧)。

 白泉は昭和四四年一月二九日の午後八時頃に帰宅のためにバスに乗ろうとした際にバス停で脳溢血のために倒れ、搬送先の病院で翌日亡くなった。五五歳であった。先の居酒屋「一平」で飲んだ帰りだという話もある。
 亡くなる二年前から白泉は職員室で約五〇〇句を毛筆で一句ずつ清書する自筆の句集をまとめる作業を続けていた。倒れた当日に丁度その作業を終えていたという同僚の証言もある。後に自筆の句集は学校のロッカーの中から発見されたというドラマのような逸話も残している。
 後にまとめられた「白泉句集」のあとがきの次の一文は今となっては遺書のようだ。

 わたくしは、焦ることなく、恐れることなく、ひとり閑々として俳句を作りつゞけて来た。俳壇というところにとゞまっていたら、このような創作のありかたは、とうてい実現することはなかったであろう。わたくしはこの境を何よりも貴重なものとして守り通さねばなるまい。

 戦前から白泉と交友関係があった俳人の一人は「五十過ぎても遠い所を見ている眼つきで話している白泉。私は、彼が今でも天才的詩人だと思っている。が、白泉の心の中に何があったのだろうかと考えると、解らないものが次々と湧いてくる」と語っている(注⑨)。
 白泉は沼津の地で俳人として再起をめざしていたと思うが、五〇代半ばで亡くなることがなければ大岡信が言う「詩人(俳人)としての宿命」を乗り越えることができただろうか。亡くなる前年の作に次のような句がある。

  秋の日やまなこ閉づれば紅蓮の國

 「紅蓮」とは紅色の蓮の花のことだが、猛火の炎の色に例えられ、仏教でいう血に染まる地獄の世界を意味するという。戦後二〇年余り経っても、俳壇とは一線を画していても、白泉の心の中は戦争体験を引きずっていたことは確かであろう。

(あとがき)
「海原」同人で沼津市在住の石川義倫さんと現在の市立沼津高校の芹沢秀巳教頭先生には大変お世話になりました。

【参考文献】
「渡邊白泉の句と真実」(大風呂敷出版局 今泉康弘)
「俳句に新風が吹くとき」(文學の森 川名大)
「疾走する俳句」(春陽堂 中村裕)
「沼津市立沼津高等学校50周年記念誌1996」

【引用】
 白泉の句は「渡邊白泉句集」(書肆林檎屋)、「渡邊白泉全句集」(沖積舎)から引用させていただいた。
注① 白泉句集のあとがき
注② 沼津市立高等学校創立20周年記念誌(昭和四一年発行)
注③ 季刊俳句誌「潮音第56号」掲載の「素顔の渡邊白泉」畠山トミ
注④ 「第20回静岡県芸術祭文学作品集」掲載の「夜の風鈴鳴りやまず」渡辺妙子
注⑤ 「俳句研究」(昭和四四年三月号)掲載の「渡辺白泉という人」稲垣宏
注⑥ 「現代俳句の流域」(至芸出版社 鈴木蚊都夫より抜粋)
注⑦ 「渡邊白泉の一〇〇句を読む」(飯塚書店 川名大)
注⑧ 「俳句研究」(昭和六二年六月号)
注⑨ 「俳句研究」(昭和四四年三月号)掲載の「私説・渡辺白泉」湊楊一郎

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