俳人金子兜太の全人間論ノート② 岡崎万寿

『海原』No.54(2023/12/1発行)誌面より

連載 第2回
俳人金子兜太の全人間論ノート 岡崎万寿

(二)ジュゴンのごと現役大往生の実相

 それにしても俳人金子兜太の現役大往生は、希有とも言える、それは見事な他界であった。
 かつて超ベストセラーとなった放送作家の永六輔著『大往生』(岩波新書・一九九四年刊)の中に、心にしみる庶民のことばとして「死に方ってのは、生き方です」「当人が死んじゃったということに気がついていないのが、大往生だろうね」という寸言があるが、兜太の大往生は、まさにそうであった。一般の死にみられる、深刻さや暗い落差がなかった。
 実はその間のリアルな実相を、同じ熊谷市に住み兜太の身近なお世話もされていた海程同人の篠田悦子が、「金子先生の最後に寄り添って」という克明なレポートを、「海程」終刊号(二〇一八年八月号)に載せている。ありがたい生の資料である。こう結んでいる。

 いま冷静に思いますことは、再入院の前の十日余りのしゃきっとした時間は、先生ならではの、天からいただいた時間だったのだと思えてなりません。

 同感である。加えて私は、その「しゃきっとした時間」「天からいただいた時間」こそ、先に述べた兜太オリジナルの長年にわたる立禅の行のたまものの一つと思えてならない。

 (1)「天からいただいた十日間」

 まず、その十日間のいのちの光芒を概観してみよう。兜太は二〇一八年の一月七日、高熱をともなう肺炎で熊谷市内の病院に入院していたが、持ち前の生命力で冗談を口にするほど回復し、同月二十五日に退院、自宅に戻った。
 ただ足腰が弱くなっており、夜間の安全のため、以前から介護付高齢者施設「グリーンフォレストビレッジ熊谷」の一室を借り切っていて、毎日の朝夕、車で自宅と往復する日常である。
 それから丁度十日目。二月六日夕刻、車で施設に向かう途中、息遣いがおかしくなり、病状が急変されたようだ。運転する長男の眞土さんに「癖だから心配しなくていい」と言われたのが、振り返って最後の言葉となった。
 つまり急遽入院し、高熱が続き、意識はもどることなく二月二十日午後十一時四十七分、「急性呼吸促迫症候群」の病名で、安らかに他界された。それは兜太先生の意識の中では、息子さんの車に乗ったまま、魂はゆっくりと、懐かしい妻と父母の待つ他界へ向かったのであろうか。
 さて、そうした退院から再入院までの昼は自宅、夜は施設での十日間、兜太は取材を受けた映画監督の河邑厚徳が、いみじくも「いのちのしずくの最後の一滴」と言った、頭も冴え体調もかなり戻った貴重な時間に、まこと波乱万丈の俳句人生の終幕にふさわしい足跡を、確と残している。
 大きく三つ挙げると
 ① 『のこす言葉 金子兜太 私が俳句だ』(平凡社・二〇一八年八月刊)
    の最後の口述インタビュー(二月一日)
 ② 最後の九句(遺句集『百年』所収)の原稿を真土さんへ手渡す(二月五日)
 ③ 映画「天地悠々 兜太・俳句の一本道」の最後の撮影(二月六日午後)
 いずれも、仕上げて発表したかった俳人兜太の、後世に遺す俳業である。この間も、状況に見合った形で立禅を続け、毎日、他界の人びととの対話、交流の時間を大事にしていたに違いない。その「気」、そのエネルギーをたっぷり感応していたことだろう。それが「天からいただいた十日間」という強運を、こころと体で支えていたのではないか。それだけに、その三つの俳業の内容について、少し立ち入って解明しておきたい。
 ① 『のこす言葉』の本は、熊谷の自宅での口述によるもので、前年十二月十三日に続く、二月一日の談で終わっている。出だしから兜太流のユーモアと説得力たっぷりである。

 これからを生きていく人たちに手渡したい言葉は、いっぱいあるんだ。ありすぎるほどだね。来年で九十九歳、白寿だ。白寿はハクション。……(中略)
 (立禅を)唱えると非常に気持ちが通って言霊を噛みしめる感覚がある。……その命運の強い自分をこのまま保つにも、大いに役立っているのではないかと思います。

 そして、『のこす言葉』のまとめで、こう結ぶ。

 人間が、戦場なんかで命を落とすようなことは絶対あってはならない。それを言葉だけで語り継ごうといっても無理なわけで、体から体へと伝えるという気持ちが大事なんだ。そのときに、五七五という短い詩が力を発揮するんです。俳句は、体から体へとつたわるからね。(中略)
 俳句という素晴らしい国民文芸を生かしながら、平和憲法を守り、心ゆたかに、おだやかに、みんなで仲良く生きていこうじゃないか。そう願います。…では、また。

 じーんとくる文章である。ここに「君たちはどう生きるか」、俳人兜太が若者にのこしたい言葉のすべてが凝縮されていると思う。
 ② 最後の九句には、「一月二十六日〜二月五日」という『百年』編集者の前書きがある。つまり「天からいただいた十日間」に詠んだ、絶筆ともいえる貴重な作品である。ここでは末尾に光る三句を挙げる。

  さすらいに入浴ありと親しみぬ
  河より掛け声さすらいの終るその日
  陽の柔わら歩ききれない遠い家

 一句目。「さすらいに入浴」の句は連作的に三句続くが、そのモチーフは介護施設での入浴サービスにあるようだ。「さすらい」はその施設と自宅との毎日の車での往復を、兜太持ち前の漂泊のこころで促えたもの。爽やかな日常句である。
 二句目は、その生活実感をさらに飛躍させ、内なるいのちの深みにある心理を形象化した秀句だと思う。
 兜太をよく知る俳人の黒田杏子は、この一句をまさに「本領発揮の一行」であり、「河というのは秩父を流れている荒川のこと」、「掛け声」といったら「この方にとっては秩父音頭しかありません」と、こう称賛している。

 金子さんは辞世の句としてではなく、あくまで俺の近作だよと、さりげなく息子に九句を手渡された。その中に金子兜太一代の圧巻のこの句がある。結果として、この一行を以て、彼の俳人としての百年に及ばんとする生涯を見事に締めくくられたということですね(『のこす言葉・解説』)。

 「いやいや」と、兜太のほころびた顔が見えるようだ。兜太に即しても少し敷延すると、その荒川は秩父山系を発して、現に兜太のいる介護施設のある熊谷市を流れている、青少年の頃、父も兜太も少し上流で泳ぎ親しんだ荒川である。また「掛け声」は「秩父音頭」のそれであることはもとより、それこそ父・伊昔紅のもっとも得意とするものであった。兜太自身、「秩父音頭再生由来」(『秩父学入門』一九八四年・清水武甲編・所収)というエッセイで、詳しくこう述べている。

 唄の合間に「コリャショッ」と掛け声をかける男が一人加わる。それを伊昔紅がやっていた。なかなかに腹に力のはいった声で景気付けには最適の感があり、本人も得意だった……父はこの掛け声役を死ぬまでやった。……コリャショッと大声を発するたびに顔に血がのぼって、じつに若々しい感じだったのだ。

 この亡き父と毎日の立禅で向き合い、対話しているのである。ある日、その父の「掛け声」が荒川土手の方から聞こえてきても、不思議ではないと思う。
 問題は、「さすらいの終わるその日」をどう読むかだろう。作品として「虚実皮膜」の言葉にも解釈できる。作意もそうであったかも知れない。しかしあまりにも実際に近い。九句を手渡たされた、その翌二月六日が、まさに「その日」となった。
 三句目の「歩ききれない遠い家」とあわせ、なにか他界への旅立ちの予感を感じさせるものがある。日常の立禅で他界と同化していた兜太らしく従容とした死生観を滲ませている。
 ③ 「天地悠々」の最後の撮影
 NHK「シルクロード」などを制作した映画監督の河邑厚徳は、兜太の意欲的な協力のもと二〇一三年八月からその撮影に取り組み、すでに⑴トラック島戦場体験の話、⑵信州湯田中での小林一茶とアニミズムの話、⑶朝日新聞社での「朝日俳壇」の選句や戦後俳句の話、⑷折にふれての自分の話など、撮影は終了に近づいていた。
 そして二〇一八年二月六日の午後、約一時間半かけて兜太最後のメッセージが映像として記録されたのである。長男の眞土さんが父の体調を勘案しつつ、そのチャンスを作ってくださった。偶然とは言え、まこといのちの最後の一瞬であった。映画にも、その感じが映っている。
 河邑監督は「現代俳句」二〇一九年二月号で、カメラの眼で見た兜太について、感銘をこめてこう語っている。

 偉い人はたくさんいるが、兜太さんほど多くの人から愛されている日本人を私は知らない。足かけ七年の取材では、会うたびに目が離せなかった。大俳人には失礼だがカメラの前の一拳手一投足が愛らしくほほえましい。知性も情も桁はずれだけど、何しろ温かい。(中略)
 二月六日、熊谷の自宅を訪問した。お話は、多岐にわたり、情熱的で、兜太さんまだまだ健在なりと確信した。しかし、兜太さんはいのちの瀬戸際に立たされていた。
 「平和」は、すべての基礎で腹を据えびくともしない事が必要と語り、ゆでたてのジャガイモのように若々しい平和をイメージされた。いざとなると自分の死の覚悟は難しいとも話された。

 この言葉が、俳人兜太の最後の社会的メッセージとなったのである。「ゆでたてのジャガイモのような若々しい平和を」とは―次代にのこす兜太の言葉として、ねんごろに胸に迫る。

 以上、「天からいただいた十日間」の三つの俳業について、分析的に紹介してきたが、もう一つ新たに俳句会を立ち上げることを、先の篠田悦子に頼んでいた事実にも、一言ふれておきたい。
 篠田レポートによると、二月四日午前十一時頃、「フォレストの生活にも慣れてきたので句会をしたい。句会を立ち上げてくれないか」と、晴れ晴れとした声で篠田に電話をしている。それを具体化する余裕はなかったが、他界直前まで俳句にかけるその意欲と情熱には頭が下がる。
 毎日、車で父を送り迎えしていた眞土さんも、「父はまだみずから死に向かっているという意識は全くなく、ですから、辞世の句もなく突然逝った」(「兜太TOTA」一号・二〇一八年九月刊)と話されているが、句会立ち上げの話など、その面の裏付けであろう。

  誕生も死も区切りではないジユゴン泳ぐ 『日常』(二〇〇九年刊・90歳)

 兜太は『私はどうも死ぬ気がしない』(前掲)という本の末尾で、この句を挙げ、こう書いている。

 ジュゴンは広い海をゆったりと泳ぎます。その悠々とした泳ぎを、いのちの移ろいと重ね合わせてみました。私もいつかは死んでいきますが、私のいのちがこの世からあの世へと移行するだけのことです。自然に看取られ、ジュゴンのように悠々と、あの世へと泳いでいきたいものだと思っています。

 その四年後、兜太はまさしくジュゴンのように、悠々と穏やかにゆっくりとこの世からあの世へと移行、つまり他界したのである。見事と言うほかはない。
 しかし兜太も人並みに、晩年になるにつれてさまざまな病気で苦労している。九十歳のとき顔面神経痛。翌年には類天疱瘡という皮膚病、そして九十二歳のとき、初期であったが胆管癌となり、その手術で二〇一一年秋、慶応大学病院に二か月半ほど入院した。また家族の話によると、最後の二年近くは初期の認知症が一進一退していたそうである。
 そういう体調の中で、毎日立禅をやり日記を書き、俳人として九十代の目を見張るような社会参加(アンガージュマン)を果たして、希有な現役大往生をとげられた。そのエネルギーと意欲、強運をどう見るか、人間兜太への問題意識はふくれるばかりである。

 たとえば、俳人・長谷川櫂著『俳句と人間』(岩波新書・二〇二二年刊)をみると、第一章の冒頭から、兜太のその「類天疱瘡」の治療についての強運ぶりが、リアルに記述されている。

 朝日俳壇の選考会にゆくと、金子さんの左手首から甲にかけて皮膚が赤く爛れている。……痛々しい。金子さんは「知り合いの医者に診てもらっているんだが、病名もはっきりしない。お手上げの状態だ」と寂しげにいう。

 そこで長谷川櫂は、故郷・熊本の「皮膚科の名医」小野友道先生に手紙を書いて電話で相談すると、先生は「私が診てさしあげてもいいが、熊本まで来られるのは大変でしょう。慶應病院に名医がおられるので紹介状を書いておきます」ということだった。この「慶應病院の名医」があま谷雅行教授だった。金子さんの皮膚病は「類天疱瘡」という病気だった。放っておくと、皮膚が崩れ、悪くすれば死に至る難病だったという。

 こんな人の運、不思議なご縁が、兜太の人生ではしばしば見受けられる。

(本章つづく)

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