特別寄稿◆ナガサキの浦上天主堂を詠む―秋櫻子・伊昔紅・兜太・皆子― 石橋いろり

『海原』No.55(2024/1/1発行)誌面より

特別寄稿
ナガサキの浦上天主堂を詠む
―秋櫻子・伊昔紅・兜太・皆子― 石橋いろり

 長崎の浦上天主堂は、先の戦争で昭和二十年八月九日に瓦解した。同天主堂は昭和三十三年の三月から解体撤去され、翌年十月には再建されている。ゆえに、被爆当時の天主堂は十三年間だけしか見ることができなくなった。被爆当時のそのままの空間に、俳人たちは立ち尽くし何を感じたのか。秋櫻子・伊昔紅・兜太・皆子はどう感じたのか。

▲松山町の高台から浦上天主堂方面を望む【林重男氏撮影】(長崎原爆資料館所蔵)
▲現在の浦上天主堂(長崎市公式観光サイトのHPより)

 最近、高瀬毅の『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』(文春文庫)を読み衝撃と私の中で合点がいった。
 それは、半世紀程前(昭和50年10月)、長崎への高校の修学旅行の前に、班ごとの事前学習で、悲惨な被爆の様子やケロイド治療の様子、後遺症に悩む人々のことを知った。『地の群れ』という井上光晴の本が課題図書だった。長崎佐世保の被爆者への差別などを扱った読みごたえのある長編でリアルな表現は鮮烈だった。それだけに、爆心地から五百mの浦上天主堂は、建て替えられ、ステンドグラスの美しい鉄筋の瀟洒な佇まいだったので、拍子抜けしたような印象を持った記憶があった。

 浦上天主堂とは、長崎市本尾町。キリスト教弾圧の迫害に堪えた浦上地区の信者らが、自らの力で建てた煉瓦造のロマネスク式教会堂。明治二十八年に着工、幾多の年月と労苦ののち、大正末に完成した。昭和二十年の原爆投下では爆心地に近く多数の信徒がここで被災、また堂も完全に破壊されたが、昭和三十四年に鉄筋コンクリート造で再建、五十五年には赤煉瓦で改装して面目を一新した。「長崎の鐘」で知られるアンジェラスの鐘の片方は破壊されたが、残された一つはいまも厳粛な音を響かせている。
 (『地名俳句歳時記八巻』より)

 当時、八月九日の爆風に対し、浦上天主堂の煉瓦壁(最高点25m)が垂直に数カ所残った。その天主堂の廃墟を写真集が多くを語っている。

◆◇写真集『長崎 旧浦上天主堂1945―58――失われた被爆遺産』

 このようなタイトルのついた写真集がある(岩波書店)。平成22年に長崎のカメラマン高原至と長崎総合大学教授の横手一彦の文と同大の歴史社会学教授のブライアン・バークガフニというカナダ人の英訳が付記されている。英訳付きという点で、全世界の人に読んでもらいたいというコンセプトが伝わってくる。
 この写真集の表紙は、「被爆した天主堂の南側の残墟と聖像群。先生に引率され、輪になって元気に遊ぶ子供たち」というキャプションのついたものが使われている。まるで、廃墟の中の聖像たちが、被爆した長崎で育っている子供たちを見守るかのように。あえて、未来につながる写真を起用したのだろう。
 この写真集には、被爆前の天主堂と解体時の写真と元の赤煉瓦造りに改装された天主堂が収められている。昭和三十三年三月、天主堂入口のスロープに「旧聖堂廃墟の撤壊作業中 危険につき入場厳禁す浦上教会」の木札が立てられ、解体撤去の作業が始まった。その解体時の写真が、追い打ちをかけるように、痛々しかった。
 天主堂の外壁を飾っていた14体の聖者石像。天主堂のここかしこに鳶の作業員が登り、ロープをかけ、万力を使い、ハンマーを使い、破壊していく。堅牢な遺構は、容易に壊れなかったという。解体現場には、無造作に聖像の首などが転がっていて、運搬用ロープを首に巻かれた「使徒聖ヨハネ像」は二重の苦しみを与えられているかのように見えた。被爆後の天主堂の様子が、手にとるようにわかる。
 崩れ落ちた煉瓦の中、悲しみのマリアの右半分は黒く焼け焦げ。左額と左目を失った天使像。首のない聖マルコ立像。三分の二が黒く焼けたキリスト像。こうした天主堂の廃墟はその場にそのまま保存されず、負の遺産はそこから消されてしまった。
 長崎原爆資料館に被爆天主堂のコーナーがあり、再現造型の煉瓦側壁、被爆天使像頭部やロザリオなどが展示されている。原爆地公園には被爆壁の一部が移築されている。部分的に分散してしまった展示では、訴えかけるエネルギーが削がれてしまう。瓦解したありのままの発信力には到底及ばない。天主堂の被爆当時の状態をそのまま負の遺産として残すか残さないか、長崎の人たちで議論されて残す方向に進みそうになった時、どうもアメリカの意向が働き、解体が決定してしまったのだ。消された仔細は『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の中で具さに語られていた。
 米国爆撃調査団報告書(トルーマン指令のもと作成された)に写真なども掲載されており、公文書として公開され、HPでも閲覧できるものもあった。
 昭和二十年から三十三年の十三年間が、浦上天主堂の被爆当時の姿をそのままを見せているわけだ。
 この間、四人の俳人の浦上天主堂を訪れた時期は、次のとおりである。
  水原秋櫻子 昭和27年8月以前
  金子伊昔紅 昭和31年10月
  金子兜太 昭和33年1月〜35年4月
  金子皆子 昭和33年1月〜35年4月

◆◇水原秋櫻子 ナガサキを詠む――『馬酔木』

 金子伊昔紅の句をもとめて「馬酔木」を捲っていて、巻頭の白黒写真が目にとまった。昭和二十七年「馬酔木」八月号に数枚の写真入りで「輕衣旅情アルバム」という題の水原秋櫻子の長崎の旅吟が特別寄稿として掲載されていたのだ。浦上天主堂の写真が二枚。爆心側南入り口に立つ聖ヨハネ像と悲しみのマリア像の写真と、もう一枚は東側の外壁前に佇みメモをする秋櫻子の写真だ〈写真1〉。秋櫻子は、五月十九日に博多へ向かい、翌日博多に着き、大宰府をまわり、諫早・雲仙・ゴルフをして長崎入りをす。二十三日に市内見学をし、浦上天主堂で五句詠んでいる。

  浦上天主堂五句
 麥秋の中なるが悲し聖廃墟 水原秋櫻子
 堂崩れ麦秋の天蓋たゞよふ
 残る壁裂けて蒲公英の絮飛べる
 天使像くだけて初夏の蝶群れをり
 鐘樓落ち麥秋に鐘を残しける

◆◇金子伊昔紅 ナガサキを詠む――『馬酔木』

 昭和31年10月『馬酔木』十月号に掲載された。

  長崎浦上天主堂にて
 廢塔を旱の雀出で入れる 金子伊昔紅
 浦上は愛渇くごと地の旱

 伊昔紅が訪れたのは、昭和三十三年の解体の二年前。被爆当時の廃墟の遺構が残されていた。秋櫻子が昭和二十七年『馬酔木』八月号に掲載した浦上天主堂の写真や俳句を読んでいたことは間違いない。伊昔紅の目に焼き付いた瓦礫の山と残骸と焼土は「旱」という季語をおいて他に見当たらなかったのだろう。

  長崎
 息白くグラバー邸の坂登る 伊昔紅

 昭和42年4月号の『馬酔木』に掲載されていた。長崎に再訪したのだろうが、浦上天主堂の句は見られなかった。

◆◇金子兜太 ナガサキを詠む――『風』

 兜太の長崎の句と言えば、

  湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

 兜太の長崎着任が昭和三十三年の一月。掲句は着任後最初に詠んだ句で、同年の『風』四月号に掲載されている。印刷までの時間を考えると、着任してすぐの一月下旬か二月頭には投函していることになる。

 昭和三十三年一月、私は長崎に転勤しました。……支店の行舎も独身寮も山里町の平和会館(爆心地)のそばにあって、私はいきなり原爆の被害を諸に受けた地帯に住んだわけですが、そのときでも、行舎の庭から人骨がでることがあるといわれていました。
  (兜太『わが戦後俳句史』)

 被爆当時の日銀長崎支店は、もと横浜正金銀行長崎支店(渋沢栄一が株主の一人)内部に併設されていたという。その営業開始年月日を知り驚いた。なんと、昭和二十年四月に開業し、四カ月もしない八月九日被爆したのだ。それから四年後、場所を旧長崎博物館に移動し、増改築して現在の炉粕町に移転再開したのだそうだ。

 ここよりすこし高い山寄りのところに、全壊の浦上天主堂があり、顔だけの天使像が瓦礫のなかで空を見ていました。そして、一人息子の眞土が通学した山里小学校が、その山際から海に向かって傾斜した土気色のまさに焼土の感の丘陵の重なりのなかに、汚れに汚れて建っていました。
  (『わが戦後俳句史』より)

 山里小学校は橋口町20番56号、爆心地から北へ約六百m。当時、千四百名の命が失われたそうだ。ちなみに『風』昭和
35年2月号の同人住所録には兜太の住所も掲載してあった。
 長崎市山里町130。

  山上の墓原越える天を誹り (『風』S334月)
  広場一面火を焚き牙むく空を殺す (S 335月)
  軋み発つ被爆地の駅君等も軋み (S336月)
  青天へ歪み刻まれ西指す婆 (S336月)
  妻子黄となる被爆の爪痕残る山に (S338月)
  海辺に死者焼きわれ等酔い渇く (S338月)
  灯でふくらむ遠い爆心部の透明ビル (S3310月)
  夜夜俺のドア叩くケロイドの枯木 (『金子兜太句集』)

 『少年』が出てから六年後の『金子兜太句集』の四部長崎(昭和三三年二月〜三五年五月)にも所収されているが、『風』と表記を微妙に変えている箇所が見られた。

 私は爆心地を毎日歩きました。そして、荒廃の丘陵にはすでに人々の暮しの営みが旺盛な勢いで始まっていることを承知しました。私は、荒廃とこの生ま生ましい生命力の蠢きとの溶け合った地帯に、しだいに親しみを覚えていったことを忘れません。
  (『わが戦後俳句史』)

湾曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太

 爆心地をマラソンの列が若やいだリズム感で走っていたのですが、にわかにランナーたちは、体を歪め、火傷して、崩れてゆく。私の頭の中にその映像が焼きついてしまい、いくどでも繰り返しあらわれてきます。…倒れもせず走ってゆくのです。喘ぎ喘ぎ、ひん曲がって皮膚を垂らして走ってゆく。
  (『わが戦後俳句史』)

 実は、私にはこの句の〈マラソン〉が唐突に思えて、どこか理解し得なかったのだが、兜太のこの爆心地を毎日歩いている時、降りてきたイメージだということがわかりすっと腑に落ちた。
 『金子兜太戦後俳句日記第一巻』に兜太の当時の動向からその視線を感じる記述が見つけられた。

 昭和34年4月21日
 グビロケ丘の慰霊のあたり歩く。碑の横に刻まれている。「一九四五年八月九日十一時〇五分八五〇余命のわが師わが友平和の先駆者としてこの丘に散りたまひぬ。長崎医科大学職員学生一同」また、後には「傷つける友をさがして火の中へとび入りしまゝ帰らざりけり 永井隆」とある。浦上の夕焼の空を雁が大きな鉤形で帰って行った。八時すぎまで草に坐り夜の街を見る。俳句、中途半端にしかならない。

 このグビロケ丘とは、爆心地から東南東へ五百mの長崎醫科大学の構内にあり、虞美人草の咲く丘から命名された丘だったが、被爆の象徴として知られた場所。被爆当時、本来なら八月は夏季休暇期間中だったのだが、戦時下の非常短期速成で休暇を返上して講義が行われていたため、被害は九百名近くに及んだとのこと。原爆の炸裂と同時に本館と校舎等の76棟のうち65棟は倒壊、そして火災が発生し全焼したと言う。

◆◇金子皆子 ナガサキを詠む――『風』

 家族で長崎に移り住み、金子皆子にとっても、人間として子の母として、衝撃は大きかったろう。昭和35年1月に『風』に発表されていたのが、

  浦上天主堂にて一句
 ミサの日のベールに沈みみどり児咲き 金子皆子

 あと、三句ナガサキのことを詠んだ句だと思うが、

 放たれぬ鳩人臭く西あかし 皆子
 灯灯れば病める石壁乳房癒え
 遠に白鳥きしとか無用の母となる日

 この無用の母となる日とは。子を失い、母としての役目を果たせない母の慟哭・嘆きを秘めていながら、淡々と詠んでいる。遠くには白鳥が来たというに。この白鳥の白さが句の悲しさを増幅させている。

 『風』の十五周年記念号(昭和35年5月)の巻頭に各地区同人の写真が掲載された。その最終ページに長崎同人として兜太・皆子の二人のショットが〈写真2〉。冬のいでたちで、皆子は優しい表情で凜としており、兜太はふさふさとした髪で堂々と収まっていた。
 この撮影された日のことが、兜太の『金子兜太戦後俳句日記第一巻』にあった。

 二月二十一日(日)曇 時々雨
 浦上天主堂から如己堂を歩き、平和公園で「風」に出す写真を撮ってもらう。皆子と二人で撮るのは久しぶり。

 三月十一日(金)曇 晴
 俳句、皆子との写真を送る

▲〈写真2〉『風』(昭和35年5月号・15周年記念号)より
金子兜太先生ご夫妻

◆◇歴史を刻みこんだ一句の永遠性

 被爆の浦上天主堂の取り壊される前の状態を、秋櫻子、伊昔紅、兜太そして皆子が、実際に見て句作していたということは、とても意義深いことだと思う。特に『馬酔木』の浦上天主堂の二枚の写真は、歴史的観点からみても希少である。
 キリスト教は世界で最大の信者を有する宗教で、三人に一人はキリスト教ということになるという(令和五年七月、ウィキペディア調べによる)。もし天主堂の廃墟が、原爆ドームのように遺産として残っていたら……。マリア像の痛ましさを世界中の人々が、特にキリスト教徒が目にしていたら……。

◆◇浦上天主堂を詠んだ句――『地名俳句歳時記 八巻』

 先人たちも浦上天主堂を詠んでいる。天主堂解体前に詠んだ句なのか、後に解体前の天主堂を想像して詠んだ句なのか、解体後再建された天主堂を詠んだ句なのか。検証する必要があるのだが、いずれにしても多くの俳人が浦上天主堂を思い、平和を希求し句に残していた。

  石柱のいくつにも折れたたんぽぽ黄 山口青邨
  浦上や水舐めてゆく黒揚羽 加藤かけい
  原爆の地に直立のアマリリス 横山白虹
  被爆像仰ぎ現し身灼かせをり 中島斌雄
  崩れ残る高きパウロが日に歩む 多田裕計
  爆心地サルビアは朱地より噴く 野間郁史
  焼土の辺晩涼は胸のあたりに来 森澄雄
  わが灼くる影をちぢめて爆心地 佐野美智
  ケロイド無く聖母美し冬薔薇に 阿波野青畝
  北かぜが駆け過ぎ跪座の聖家族 山口誓子
  雪の鳶破羽をおろす聖廃墟 秋元不死男
  風花に鼻もぎとられ天主像 有馬朗人
  冬の鳩駆け平和像など形成れど 加藤楸邨
  夜々俺のドア叩くケロイドの枯木 金子兜太

 いつか『長崎旧浦上天主堂』の写真集を携え、先人たちの俳句を胸に抱いて、天主堂で祈りを捧げたい。世界終末時計を気にしながら。

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