第1回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評〈各作家の心に響いた八句 茂里美絵〉

『海原』No.18(2020/5/1発行)誌面より

第1回海原賞・海原新人賞受賞作家の特別作品評
各作家の心に響いた八句 茂里美絵

 乾き 小西瞬夏

  秋蝶のかすかな脚がふれし母
  風が出て囮のこえの潤むとき
  ランボオや使いきれざる息白し
  雪聖夜汲みたる水の平らかに

 俳句は韻文詩型であり、季語の有する喚起力に加え、異次元の空間へ読み手を誘う。その一方で季語に頼りすぎない独特の世界をも構築する。透明な金平糖のようにキラキラして読む者の脳や皮膚を、ちくちく刺激する感触が、この作者の特質であるが、この四句は底知れず静かである。一句目は、上五中七の叙述によって、初老の母の嫋やかなイメージが浮かび上がる。二句目の囮。鳥か獣の不安が風、潤む、の表記でより鮮明になる。三句目。三十七歳の若さでこの世を駆け抜けたランボオ。激しくかつその無念さを、使いきれざる息白しと。「息白し」が特にいい。四句目。雪の降る聖夜の静けさを、雪と水があたかも呼応している景に結び付け、更に静寂が深まる。
  冬霞死者だんだんに進みつつ
  人形の眠る函の中 冬日

 五句目。人は誰しもこのような命終を迎えたいのではなかろうか。できれば苦しまず、冬霞の彼方へ、愛する者たちの待っているところへ。短詩型は、その余白に様々な想像をはたらかせる楽しみを含む。六句目の人形、日本であれば当然雛人形を想う。祭も終わり函へそっと仕舞う。春なのに、その陽射しが冬日のように指を刺す。一字明けが利いている。
  春の雷いきなり夜の匂ひかな
  耳を向けると春蝉の翅の乾き

 七句目も八句目も共に自然へ眼を向ける作者。ざわつき始める樹木。人間や動物たちの生命力を、その鼓動を見つめる。「夜の匂ひ」にそれらを集約している。そして、春蝉の翅の乾きを、眼ではなく耳で感じる鋭敏でかつ瑞々しい感性。自身の羽化登仙も夢見ているようで楽しい。

 白い地図帳 水野真由美

  約束を言葉にさるとりいばらの実
  食みをれば鹿となりけり霧の底
  男老ゆ木霊らの夢に見られつつ
  兜太亡き空の木目をなぞりゆく

 貴重な本、あるいは絶版になった蔵書も有する作者。従って知識も豊富になる反面知りすぎる苦しみもあるかとも想像する。土の匂いも漂う静かな句群。一句目。決意を必要とするとき、人はあえて声に出して自分に誓う。季語の斡旋も巧みである。二句目。自然界と融合することを表現するその抒情性。食事どき鹿と一体化してもぐもぐ食べる。それも霧の底で。三句目と四句目は、我々誰しもが感じる兜太思慕の想いであろう。そして老いてもなお、秩父に漂う精霊たちに見守られている師の姿を思い浮かべて安心する。すでに他界へ移られた金子兜太師。空の一点を見つめる作者。「空の木目」をどのように解釈するかは難しいが、作者の想いの深さを緻密に述べていると思いたい。
  冬麗の少し焦がしてパンの耳
  風花を老いたる猫と嗅ぎをりぬ

 五句目は良き日常性。暖かくさりげない。穏やかな冬の陽射しに目を奪われて朝食のパンを焦がすのは良くあること。静かに、遠い過去へ揺りもどされているひととき。六句目、風花を嗅いでいるのは長年共に暮らす猫と。そこが面白い。
  水を抱く手にかさなりて枯木星
  きさらぎの月のひかりに地図開く

 七句目。水を抱く、のは意識であり手ではない。平凡に書けば水仕事。だがその漣そのものが枯木星の光となる。八句目。きさらぎの中で地図を開く。並々ならぬ旅立ちの気配が見え隠れする。そして出発。一巡して一句目へ還る構図。

 留守にして 室田洋子

  さえずりや冷たい頬に触れながら
  空席がふたつ並んでクレマチス
  女郎蜘蛛さびしさは黄色が似合う
  愛よりもAI信じて心太

 悲しみの事実を、ひかりで濾過する表現力は天賦の才能と言うべきか。加えればそれらの叙述によって却って悲しみの底が深くなる。日常的次元の中で、その視線に入ってきたものを直感的に「詩」にしてしまう。ことさらに難しい言葉をあえて使わず、やわらかな風がふっと読み手の頬を撫でていくような情感。一句目と二句目。二年前に最愛の夫と、恩師でもある兜太師を亡くす。冷たい頬とふたつの空席。しかしクレマチスのきっぱりとした色彩に今後の作者の心根を思う。三句目もまず色彩で読み手の心に訴える効果。黄色はやはり淋しい色にも思える。ゴッホの「ひまわり」の絵も確かに孤独感を呼び覚ますし。四句目。正確無比な人工知能の方が感情である愛よりも信用できると。逆説であると信じたい。
  十六夜を猫に抱かれて泣いており
  たっぷりと行間あけて木の実降る

 五句目「猫に抱かれて」という心情。十六夜の細いひかり。涙腺を刺激するその弱弱しい針。六句目。文字から目を離し外を眺める。ときおり落ちる木の実。絶妙な隙間感。まるで地軸がゆったりと刻をきざむ音のように。
  秋の蝶ちょっとこの世を留守にして
  まがっても曲がってもまだ鰯雲

 七句目。すっと心が空っぽになる瞬間は誰でもある。秋の蝶の季語と中七下五言葉がぴったり読み手に伝わる。八句目の、深刻ぶらない、そして想いをつめ込みすぎない措辞が読む者の心を鷲掴みにする。明るさに包みこまれた悲しみとでも言おうか。だから結語が正に胸を衝く。

 水を汲む 三枝みずほ

  雨音の遠く花野にソルフェージュ
  ねこじゃらしどちらが先に泣くだろう
  秋星と触れ合いながら子の寝言
  身体しかなくて砂時計また返す

 幻視、幻聴に頼らず素直な写生句とも読めるから、大方の共感を得ることになる。抽象に凭れ過ぎない明るいひたむきさは、作者の特質であると同時に、若さの故とも思う。一句目のソルフェージュの軽やかな響き。雨音を音楽になぞらえ花野は更に広がる。ねこじゃらしの二句目。想像は読み手に任せられる。三句目は秋星の登場で、睦み合う母子の姿が影絵となる。四句目。破調の効果であろう。日常の中でふっと虚無の世界を覗く。無季であるが想いの強さの方が勝る。
  くしゃみひとつそれでも空のあかるい日
  並べられ体温よりもつめたい椅子
  残業のブルーライト冬の水飲み干す
  凍つる夜の羽音として終電車

 「俳句は一行の詩だが詩の一行ではない」伊丹三樹彦の言葉である。つまり詩の断片ではないから十七文字で完成させなければならない難しさがある。しかし考え方を変えれば、心に感じたことを俳句形式に乗せ、あとは読み手に任せるとなれば、作者と読者の共同作業となり、案外楽しい世界が広がるのでは。くしゃみの句は読み手を楽しくさせる。六句目。体温より椅子の方が冷たいという常識を飛び越え、オフィスの冷たい空気を椅子に託すのだ。七句目。仕事に疲れた人の姿が浮き彫りになる。「冬の水飲み干す」が抜群。最後の句はとても美しい。凍つる夜、羽音、終電車、言葉のつながりが自然でやわらかく、思わず作者を慈しむ気持ちになる。

 孵ろうか 望月士郎

  春の闇そっとたまごを渡される
  触りにくるさくらさくらと囁いて
  抱卵期握手にやわらかな隙間
  ヒロシマと記す卵の内壁に

 作品と向き合い読み手は勝手に会話を交わす。間違った会話でもいいのである。「ナゾ」という余韻をただ堪能すれば良いのだから。理知と理知がぶつかり合うと、思いがけない諧謔が生まれたりする。私の偏見かも知れないが、主に男性俳人にそれを感じる。二十句のうち十三句が「卵」。理屈ぬきに伝わってくるそのフシギ。卵はいのちの源の象徴であるから等とキザな解釈は、もっとも嫌う作者でもある。一句目と二句目。呆れるほど率直で何やら暖かい空気が漂ってくる。特に一句目は謎めいた大人の感想を読み手は感じる。俳句は絵画や音楽と違って言葉で表現するから、やはり「コトバ」が重要。三句目はその言葉の働きが最高の形を作っている。「抱卵期」と「握手」と「隙間」何やら微笑ましい。四句目
に突然現れる、ヒロシマ。卵の内壁にその都市の名前を刻むのだ。何となく分からないようで何となく分かる。
  ぼんやりとガーゼに滲み出す日の丸
  良夜かな妻とまあるいもの支え
  黄身白身かきまぜている雪女
  雪だるま溶けて帽子屋にひとり

 五句目は前句、ヒロシマと通底しているように思う。更に現在の日本への痛烈な皮肉とも。ガーゼ越しの日の丸。自国に対する想いの薄さを指摘している等という野暮な感想を許されよ。六句目と七句目。仲良しの夫婦。こうした生活の続くことを願うのみ。最後句は、ゆるやかな因果関係が自然で現代風なお洒落な作品。微妙な曲線や直線を図面に描くことを、なりわいとする作者ならではの、思いがけない結語に、ただただ脱帽。とにかく、「帽子屋」がいい。
 以上、各作家から心に響いた八句を選ばせていただいた。

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