思いつきの文学 小松敦

(海程神奈川アンソロジー『碧9号』掲載・一部修正)


思いつきの文学               小松敦


Remember that the air shares its spirits with all the life it supports.
The wind that gave our grandfather his first breath also receives his last sigh.
– Chief Seattle –

大気はそれが育むあらゆる生命とその霊を共有していることを忘れないでほしい。
我々の祖父たちの最初の息を与えた風はまた彼の最期の息を受け取る。
– シアトルの酋長 –

(1)つながりあう世界

 右の言葉は、昨年没後二十年を迎えた写真家星野道夫の未完のエッセイ『森と氷河と鯨~ワタリガラスの伝説を求めて』の第一章「ワタリガラスの家系-クランの男」の扉にあるエピグラフで、もともとは『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ)からの参照・引用である。1852年ころ、合衆国政府が先住民族に彼らの土地を購入したいと持ち掛けた際のシアトル酋長の返事の一部だ。
 キャンベルが、星野道夫が、わざわざシアトル酋長の言葉を引いているのは先住民族がごく当たり前に感じていたこの感覚、大昔から知覚してきた「大気と人間の息は一体のもの」という感覚が、現代の私たちに薄れてきているという危機感からである。決して忘れてはならない感覚、その忘却は平和を危うくし破滅をもたらしかねないもの。神話で伝承してきた大切な記憶、これを喚起するためにである。
 シアトル酋長の話は、キャンベルとモイヤーズが神話とは何か、新しい物語、未来の神話とはどんなものかを語るところで登場する。キャンベルは、新しい神話がどんなものになるかは分からないがその神話が扱うであろうことは、あらゆる神話がこれまで扱ってきたものと全く同じだと断言する。〈個人の成長―依存から脱して、成人になり、成熟の域を通って出口に達する。そしてこの社会との関わり方、また、この社会の自然界や宇宙との関わり方。それをすべての神話は語ってきた〉のであり、新しい神話が語るのは〈この惑星の社会〉〈この惑星のための哲学〉だろうという。シアトル酋長の話はそのモラルを体現しているものとして引き合いに出されているわけだが、太古からの神話も未来の神話もその本質は変わらないのだ。つまり、キャンベルは、そして星野も、危機感を感じながらも、実は人間を信頼している。シアトル酋長の哲学と倫理を人間は決して忘れない。〈大地は人間のものではなく、人間が大地のもの。あらゆる物事は、われわれすべてを結びつけている血と同じように、つながり合っている(シアトル酋長)〉その感覚は薄れはしても失わないという確信が二人にはある。
 〈「追い詰められたカリブーが、もう逃げられないとわかった時、まるで死を受容するかのように諦めてしまうことがあるんだ。あいつらは自分の生命がひとつの繋ぎに過ぎないということを知っているような気がする」僕はそんなニックの話を面白く聞いていた。個の死が、淡々として、大げさではないということ。それは生命の軽さとは違うのだろう。きっと、それこそがより大地に根ざした存在の証なのかもしれない。〉『イニュニック〔生命〕』星野道夫・新潮文庫P174
 あらゆる物事がひとつながりであると感覚すること。山が海を育てると言って山の植林運動をする海の民や、輪廻転生を信ずるチベットの人々にとっては現在でも当たり前の世界認識だ。それは理性ではなく感覚的にありのままに世界を認識する方法による。
 しかし、普段の生活のなかで私たちは、ほとんど無意識に知覚している膨大な情報を無自覚に切り捨て、行動に有用な情報だけを見ている。安全に効率的に生きるための本能と生来記憶してきた社会と文化の制度に因って、実際には感じているはずのありのままの世界を、様々に修正し歪めてしまっている。あらゆる物事が豊かにつながりあった世界など全く知らずに生きそして死ぬ。本当にそうか。私たちは生きのびるためにだけ今を生きているのか。そうだとしたらなんと味気ない世界ではないか。
 そうではない、大丈夫、とキャンベルも星野も言うだろう。私たちはありのままの世界に日々触れているじゃないかと。何かを見たり聞いたりして感動したり、ふといいな、と思ったり、あらまあ、と驚いたりする瞬間にはありのままの世界に触れている。我を忘れて何かにのめり込んでいる時などは世界と私が一体となっている。あなたにもそのような瞬間は、心当たりがあるだろう。哲学ではこの瞬間についてのテーマをよく取り扱う。

(2)見えないものの諸力

 〈観えないものを観るのではない、もともと観えているものを、さらにはっきり観ようとするだけでいい。もともと経験されている実在の時間を、もっとはっきりと経験し直すだけでいい。ベルクソンの言う「直観」は、哲学の方法であるより前に、この努力である。また、哲学の方法は、徹頭徹尾この努力であるよりほかはない。〉『ベルクソン哲学の遺言』前田英樹・岩波現代全書P97
 〈哲学することは、在るものに触れる喜びを、いつもはっきりとわがものにする努力をつづけることである。〉同P100
 〈直観とはまず意識を意味するが、それは直接的意識であり、みられる対象と分かちがたいヴィジョンであり、接合であり合一でさえある認識である(ベルクソン)。〉『ベルクソン=時間と空間の哲学』中村昇・講談社選書メチエP44
 ところで、我を忘れて感激するような時は、たいてい言葉をも忘れている。「先ほどあなたが感激したその瞬間の経験に言葉で表現を与えてください」、と頼まれたらどうするだろうか。もちろんあなたは表現しようと努力するだろう。あなたの言葉を聴く人や読む人はあなたと同様に感激してくれるだろうか、あなたの言葉に。
 世界を見えずらくしている障碍のひとつが言葉である。言葉にしようとすればするほど、見えなくなる。言葉の束縛が知覚を邪魔する。それなのに、その言葉で見えていなかったものを見えるようにしようとするのだから、努力が必要なのだ。
 まず見えなくてはならない。そして、見えて直観した元来の感覚を他の人に呼び起こすに足る最も適切な表象を与えたい。古来人間は、ありのままの世界に触れる感激を積極的に分かち合うための技術を研いてきた。既にお気づきの通り、この営みを、アートと言う。ベルクソンを探求の出発点とした別の哲学者ドゥルーズによると、芸術とは見えないものの諸力を見えるようにすることだと言う。「諸力」とは直観された感動や驚きまたは感覚のインパクトのことだと理解しておけばよいだろう。
 〈芸術にとっては、音楽であれ絵画であれ、もろもろの形式を再現したり発明したりすることではなく、力を捉えることが問題なのだ。まさにこの点において、どんな芸術も具象的なものではない。クレーの名高い表現「見えるものを再現するのではなく、見えるようにすること」は他でもなくこのことを意味している。〉『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』ジル・ドゥルーズ・宇野邦一訳・河出書房新社P79
 見えるものをただなぞって示すのではなく、そこにある感動の力を、見えるようにすることだとクレー=ドゥルーズは言うのである。例えばムンクはそれを実践している。画家の有元利夫曰く〈ムンクは、イメージや感覚に図象を与えた。人は初め、強いドラマ性にひかれる。が、それを本来的に強めるのは、色や型であることに気付く。そのうち、内にあるドラマや創造性は弱まり、色や型の強さが残る。〉『日経ポケット・ギャラリー・有元利夫』(35.神話) ムンクの絵はありきたりの物語や概念を以って説明されてしまうことに抗う力を備えている。元来の直観を呼び起こすに足る表象としての強度を備えている。

  鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規

 子規の「写生」も見えるものをただなぞって示すだけのものではなかった。意味解釈の後に表象としての強さが残る。
 ピアニストのケリー・ヨストは同じことを “Not perform but reveal” と述べている(『地球交響曲第六番』龍村仁監督)。演奏するのではなく既に在って見えていない大切なものを明らかにすること。自ずと然ること。

(3)態度論=ふたりごころ

 ”Not perform but reveal” この本質はしかし、既に三百年以上も前から日本では言い尽くされているものだ。
 〈物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし〉、〈松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞のありしも私意をはなれよといふ事也。此習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云ふは、物に入りてその微の顕れて情感ずるや、句となる所也。たとへ物あらはに云ひ出でても、そのものより自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也。(松尾芭蕉)〉『三冊子』
 あなたをとりまくあらゆるもの、いま、ここで、そこで、刻々と変化し続けている一瞬の姿を、しかし、ほとんどそれと気づかずにいる物の光を驚きと共に観ること=直観すること。物は自然だけとは限らない。ありとあらゆるものが相手だ。人のしぐさ、誰かの言葉、政治や経済、戦争も。日常の些細な出来事、テレビで流れるニュース、りんごの手触りと匂い、町の喧騒の中に、太陽に、あなたの影に、ありとあらゆる物事に見えたる光。物と一体化して自然に顕れる感覚を言い留めたい。

 〈まず俳句を創るとき、感覚が先行する〉『俳句』金子兜太・角川S32年2-3月号

 シアトル酋長と同様の世界認識を以ってありのままの世界と一体化し、見えないものの諸力を見えるようにと実践・指導している日本の芸術家がある。俳人、金子兜太である。兜太が句集『両神』の後記に記した自らの境地「天人合一」を知るべし。安西篤による解説が分かりやすい。〈これはすでに一茶に学んだ「自然(じねん)なる姿」やアニミズムにも通ずるものだが、兜太にすればそのさらなる徹底した世界をみていた。そこでは、人間と自然を平等の立場に置き、物本来のもっている魂とともに、人間の魂をも存分に発揮させる世界、人間と自然の合成する世界がある。それはアニミズムの世界に似ているようだが、アニミズムよりももっとスピリチュアルな、より根源にあるものであり、そこに「ふたりごころ」の初な形をみている。〉『金子兜太』安西篤・海程新社P502
 「ふたりごころ」とは、対象を(相手を)思いやり、それと交わり向かうこころ、物の光を見るときの態度だ。左記は文学の森「月刊俳句界」2011/9月号・金子兜太×対馬康子インタビューより。

金子:『俳諧史』という本の最後でほめてくれたんです。栗山先生は、造型俳句論は芭蕉の表現論を現代の俳人が一歩深めてくれた。「物の美」に「情の誠」が触れるという芭蕉の表現論の基本を更に具体化しているとね。
対馬:「習へといふは、物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句の成る所なり」。「たとへば、物あらはにいひ出でても、その物より自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情誠に至らず」という考えですね。
金子:おっしゃるとおり。三冊子ですね。「情」という字を書いて「じょう」と読むばかりじゃなくて「こころ」とも読みたい。それも「ふたりごころ」と。この「ふたりごころ」というのは、相手に向かって開いていくこころだと思っています。
 兜太は「ふたりごころ」の態度で世界をあるがままに直観する。直観して得た感覚に対して「創る自分」が表象を与える。その表象は読者に対して映像的なイメージを喚起する十七音の言葉として結晶し、新たな直観を呼び起こす(兜太「造型俳句論」骨子)。このとき「ふたりごころ」は、対象に対する思いやりであると同時に、来るべき読者に対する信頼でもある。「ふたりごころ」で詠んだ句は「ふたりごころ」で読まれたい。一句は読者にとって新たな「物」として存在し「物に入りて、その微の顕れて情感ずる」対象となる。読者の「ふたりごころ」を信頼しないでは詠めない。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  金子兜太

 〈俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。―中略―これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである、否、実際は直観そのものである。〉『禅と日本文化』鈴木大拙・北川桃雄訳・岩波新書P170 

  少年来る無心に充分に刺すために  阿部完市

 梅咲いての句も少年来るの句も知的解釈は無用である。読むとき、今度は自分を信頼する。
 〈君は書いてないことを読みすぎる。―中略―書かれている映像をそのまま素直に受け取らなければいかん。その映像から何も受け取れなければこの句は捨てるしかない。〉『熊猫荘俳話』金子兜太・飯塚書店P131
 頭で考えるのではなく、言葉に身を委ねる。「天人合一」の世界にリラックスして、書かれた言葉たちがあなたの中の記憶を揺り起こすに任せることだ。そのとき、あなたの風が吹いている。あなたに最初の息を与えた風でありあなたの最期の息を受け取るだろう風が。あなたの梅は今年はどんな具合に咲いているだろうか。庭中に来ているあなたの青鮫はどのような姿で泳いでいるのだろう。大気を深呼吸してみよう。ほら、あなたをめがけて、向こうから少年が来る、どんな顔つきで来るのか。無心に、充分に、刺すために、どんな姿で来るのか。俳句を読んで気持ちが動くとき、自分の肉体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生されつながり合い動き出す、そのざわめきに驚く。

(4)方法論=思いつくこと

 さて、たとえばとっておきの一句ができたとしよう。あなたは「ふたりごころ」で物の見えたる光を捉え、読者の直観し得るだろう映像的な十七音の表象を書き留めた。しかし、残念ながら、あなたの俳句は時に既視感があると言われ、類想類句、只事、マンネリと評される。言われてみればその通り、似たような感動を似たような映像で詠んでしまうことがある。同じような国土の上で同じような時代の中に、しかも同じような言葉を使って生きる人間が感動したり感激したりする局面の似通ってしまうのは無理からぬことかもしれない。だからこそ、未だかつて誰も出会ったことのない俳句を創りたい。
 そこでアーティストとしては、いろいろ工夫してみたくなり、自身の凡庸さを克服する手段やコツを日々探求することになる。頭で考えても新しい感動や映像はやっぱり見えてこないと悟れば、他人と違う物の光を探しうろつき回る。あるいは、物の見えたる光など見ないでよし、俳句なぞ所詮は言葉の組み合わせだと高を括って机の上で悩んだり、中にはランダムアートに走ってみたり。
 画家のジャクソン・ポロックはキャンバスの上から筆や棒で絵の具を飛散させて画面中を線で埋め尽くす。一見偶然に任せたカオスのようだが、絵の具はうねり、跳ね、網目のようになってキャンバスから溢れそうだ。饒舌、過剰、鼓動、あるいは躁鬱すら感じる。その手法は百パーセント偶然に頼るわけではなく、作家の今この瞬間の感覚が彼の肉体を通じて逐一飛び散り、露呈され、充溢して作品となっている。俳句においても同様に、どんな方法で作ろうとも、作家の今の感覚がその肉体を通過して露呈せざるを得ない。
 〈詩は存在感の純粋衝動である〉、〈存在感の純粋衝動は、もっともうぶな感官―その意味でもっとも人間的な心的機能―の働きを必要とする。言うなれば、肉体そのままの、うぶな衝動こそ、もっとも鋭い反応である、ということである。それが土台にあって、詩の核が純潔に得られ、その上に理知の構築が可能となる。詩は肉体である〉『今日の俳句』金子兜太・光文社P264
 兜太が「肉体」と言う時は、知性よりも感覚を動かせと言うのである。理性的な思考ではなく肉体に備わった五感の記憶を動員しろと。抽象的な思考制度の罠に嵌まってマンネリズムやありふれたドラマ、独りよがりや予定調和に陥らないための秘訣は、持続=日常の中の具体的で生々しい肉体経験を「土台」にして作品を創ることだ。ポロックの場合は、体で覚えて体を動かすが、俳句の場合は体で覚えて言葉を使う。ポロックが道具を操るように、俳人には言葉を操る技が要る。肉体が経験した五感の記憶を「口ごもりつつ、思いつくこと」。言葉として上手に思い起こすこと。
 〈存在感の純粋衝動〉は、同じ本の別のところでそれはつまり「思いつき」だと説明されている。〈一定した持続=日常性〉のなかにふと泉のように湧いた「思いつき」。ただしそれは出まかせでは困る。〈その泉の噴出は、持続のなかで思考と感覚が累積してゆき、ある爆発点にきて、感情を刺激したときに行われる。刺激による感情の純粋反応が、いままでたまってきたものに、急に新しい組合せを与えたり、隠れていたものをダイナマイトのように露見させる〉そして、〈口ごもりつつ、ほんものの思いつきが誕生する。〉同P257
 ここで登場する「持続」がベルクソンの重要概念である「持続」とある種の一致を見る点に驚愕するのだが詳説する時間はもうない。ベルクソンにおいての「持続」とは自ずと体験する無意識も含めた「記憶」である。そして「直観」は〈増殖する持続に密着しそこに予見不能な新しさの不断の連続を知覚する。(ベルクソン)〉同前・前田P112 このベルクソン自身による「直観」の定義を、兜太が実践を以って解説している。曰く〈あなたがたは頭で考えるよりもとにかく自分の暮らしの中からどんどん絞り出すようにつくりなさい、それが実は一番新しい俳句なのですよ〉『熊猫荘俳話』兜太P201

  おおかみに螢が一つ付いていた  金子兜太

 見えないものを見えるようにすることが、俳句に限らず古来アートの本質であった。「ふたりごころ」で詠んだ句は「ふたりごころ」で読まれたい。かくして、対象を思いやり、それと交わり向かう「ふたりごころ」の態度は、対象についての記憶を具体的によく思い出すことで示される。それは、積極的に「思いつくこと」でもあった。そうやって創られた「一番新しい俳句」に出会う喜びは、あらゆる物事が豊かにつながりあう世界を直観することに等しい。 了


姉妹編:金子兜太試論 ~ Reality of the world ~

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