新たな前線をめざして(『海程』126号・127号での座談会)

新たな前線をめざして(『海程』126号・127号での座談会)

森田緑郎
武田伸一
酒井弘司
谷佳紀
進行 阿部完市
大石雄介


■叩き台として

 阿部 さっそくだけど、この座談会の目的というか、主題というか、それを、大石さん、あんた説明してよ。
 大石 実は、名古屋で行われた二月(昭51)の同人会のすぐ後で、来年東京でやる十五周年記念大会をどういうものにするかという話が出たんです。とにかくお祭じゃあなくて、実のあるものにしようじゃないかと金子さんや編集部を中心にいろいろ案を練っているんですが、誌面の上でもそれに合わせて長期的な企画をすすめていこうということになりました。そこで、固まりつつある来年の大会の理念というか、基本的な志向あるいは認識というものをぼくなりに纏めてみると、こんな風になります。
 俳句形式とわれわれをめぐる、あるいはわれわれに関わる状況というものを考えてみると、これはひじょうに危険な、というよりむしろ末期的とさえ言えるんじゃないか。いわゆる俳壇では、伝承派はいまや季題趣味に居直ってしまったし、『俳句評論』系というか、たとえば『俳句研究』と高柳重信周辺のグループはことば遊びや観念遊戯に耽っている。そしてこの両者が退嬰の世相にのって、数やジャーナリズムをバックにこの形式を私物化しているというのが現状だと思うんです。そこではこの形式はもはや完全に遊具に堕しめられていて、人間を全面的に背負った感情や感受の直接性というものは喪失してるんですね。これはもう、言語表現の本質が失われているとさえ言えるんじゃないか、と。
 一方、われわれの方はどうかというと、海程の現段階は、いちおう阿部完市に象徴される個性多様化の路線にあると言えるんでしょうが、これを多様化と捉えうるのは、いわゆる社会性および造型という共通過程を踏んだ者たちまでで(『今日の俳句』段階)、それ以降の若手や新同人の大方には、共同の根をもっている多様性とは捉えられないんじゃなかろうか。むしろ、雑多なもの、評価基準の混乱としてしか作用していないふしがある。たがいの相対関係が見失われたばらばらな孤立状態で、せっかくの集団における場の力が有効に働いていないんじゃないか。編集者として毎月同人作品とつきあっていての印象論ですが、とにかく生きが悪いです。そこには、表現の本質とは無縁な、自己顕示のためのテクニックやスタンドプレーなどといった不毛な芽ばえさえ散見されはじめているわけで、先の高柳周辺からの悪影響を受けやすい体質さえあるんじゃないか。
 これらは結局、戦後俳句と、金子さんたちいわば海程第一世代が、この形式を人間の表現として十全に機能させようとした、社会性とか造型とかいう、あるいは近ごろの衆の詩といった努力の不当な無視や排斥、あるいは無知に由来しているというしかない。だから、この形式の現段階を正当に確認することが、この形式に生気をよみがえらせるための不可欠の要件じゃないかと思うわけです。そしてそれがまた、とりもなおさず海程という集団の立脚点を再認識することでもあり、そこからはじめて新たな前線の組み立てに向かうことができるんじゃないだろうか。なんていうかな、あらゆるエネルギーと可能性が相乗する前線というか、とにかくストレートな表現意欲に立った反遊具の前線ですね。細部には異論もあるかと思いますが、それはお話の中で示していただくとして、今日は、この来年の大会に向けての作業のかわきり・・・・として、海程というものが戦後俳句の流れの中でどのような過程を担ってきたか、そこから海程の現段階をいかに捉えるか、あるいは捉えるべきかということを、各人の体験に即して個性的に論じていただきたいわけです。結論を出すというんじゃなくて、叩き台としての問題提起という線で。それから、話が前後することにもなりますが、その上で、それを踏まえて、海外の状況への発言もお願いしたいんです。

■「社会性」との出会い

 阿部 とまあ、また大石流のえらくアクの強い言い方ですが、異論は異論として、大筋はそんなことでしょうね。で、どうでしょう海程創刊は三十七年四月ですが、戦後俳句の何かを海程が担いはじめたのは、そのずっと前に金子代表がいわゆる社会性俳句と呼ばれた一群の俳句の中に身をおいていた時、有名な「社会性は態度の問題である」という発言をした、あそこまで遡ると思うんですが。もしよかったらこのあたりから、海程の歩んだ道程といいますか、それぞれの受けとめ方を個性的に語っていただきたいんですが。
 武田 ぼくはあのころは「寒雷」の選でやっていたんですが、自分の書きたいことどっかズレがあって、いつも違う違うと思いながらやっていたわけなんです。人間探究派的な内面のパターンが肌に合わなかったんですね。だから金子さんのあの発言には注目してたんですが、まだどちらかというと、社会性推進というよりもいわゆる社会性俳句に対する批判としての面で受けとってました。あのあと、金子さんが『寒雷』の大会で「新しい俳句について」という講演をしたんですが、その時金子さんはじめて造型ということばを使ったんですね。草田男さんがただちに立って反論したりした。あの時、はっきりと新しい俳句というものの存在を実感できました。そういう時期に『寒雷』で楸邨の他に金子さんと森澄雄さんの選句欄ができたものですから金子さんの方にも投句したんですが、感覚がぴったりなんですね。それで俺の行く道はこれなんだと、眼の前が開けた感じでした。
 森田 ぼくの場合はね、そういう一つのテーゼみたいなものから海程に参加したというはっきりした気持がその当時はなかったですね。むしろ、とにかく自分の内側に閉じこもっていることができないっていうか、一種の青春感情みたいなものが鬱勃としていて、同時に安保前後ですからね、結局なんらかの意味で外側からの強い要請っていうか、そういうものへの動きと、自分の内部の動きっていうか、それとうまくリズム的にも噛みあう、そういうかたちで外へのひろがりというか、外への要求っていうものが、だんだん必然的に芽ばえてきたというかね、対現実、対社会というかたちで関わっていく、共鳴していく、そういう時には、いままでの写実的な書き方というのは、そういう自分の内面を引き出すには限界があった。なんていうか、無理があった。そういうことがあの当時見えてきた。で、自分を出すための方法としてなにか新しい表現を求めるという気持が強かったですね。そういう中で前衛俳句運動というものに傾いていったんです。そういう意味で、社会性俳句と前衛俳句がですね、自分の中ではっきり明確にしきれないままにその渦巻に入ってしまった。
 しかし、その渦巻の中で、なんらかの意味で、自分の考えているもの、あるいは内部のものを表現するにはふさわしい表現だと感じていましたね。そういう時期に、社会性俳句を脱皮したかたちで、あるいは収束の上に立ってさらに一つの発展として海程が創刊されたということだと思うんです。そういうところと自分の志向がうまくぶつかって海程へ入ったということなんです。で、入る時はね、だからもう社会性がどうとかいうよりも、いったいどんな方向に海程が動いていくのか、どういう表現を目ざしていくのか、まったく模索の段階だったわけですね。ただね、全体としてひじょうに熱っぽい勢いというものがあって、その勢いの中でなんか自分自身の動いているものがある、そういう感じでしたね。

■「社会性は作者の態度の問題である」

 阿部 谷さんももう俳句をつくってましたか。
 谷 つくってました。ぼくがはっきりおぼえているのは「造型俳句六章」ですね。これは最初から読んで、雑誌をばらばらにして一つに纏めましたからね。作りだしたのはおそらくその二、三年前だと思います。
 阿部 「造型俳句六章」を、雑誌をばらばらにして一冊にして、というようなまでの熱心な態度を示した谷さんなら、「社会性は態度の問題である」という発言というか立言というかな、そういうものに対してなんか感想があるんじゃないですか。資料で言いますと『定型の詩法』にも収っている例の『風』のアンケートですが、たとえば「(I)社会性は作者の態度の問題である。創作において作者は絶えず自分の生き方に対決しているが、この対決の仕方が作者の態度・・を決定する。社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している。」意識的・・・にというところに傍点がついてますね、あるいはですねえ、「(Ⅲ)従って、社会性は俳句性と少しもぶつからない。俳句性より根本の事柄である。ただこの態度はいずれは独自の方法を得ることとなるが、俳句性を抹殺するかたちでは行われ得ない。即物・・は重大なテーマである。」いずれ独自の方法を得ることとなる、あるいは俳句性を抹殺するかたちでは行われ得ないと、その当時まあ書かれたわけですけど。
 谷 ぼくが書きはじめたのはその発言のずっと後ですからね、社会性論議っていうものがどういうかたちで出てきたものかという歴史的な興味はなかったです、ともかく作るという興味しかなくって。しかし、態度という言葉だけは、俳句に関わったかたちではなく、むしろ自分の思想上の問題としてひどく魅力的でしたね。文学と思想、行動と態度ってのはどういう関係があるかっていう時点で考えてましたので。ところがやはり最近になってくるとね、必然的に考えざるを得ないっていう感じです。ですから、過去への新たなる問いかけとして考えますから、渦中の人たちとはちょっとずれますね。たとえば、社会性が一応前衛俳句という形で終息したような感じで、ひじょうに精算主義的に終わってしまったような感じがあるんですよ。金子さんのかたちで一応実ったにしろ、なにか俳句のその時代の徒花あだばなのような感じで扱われているでしょ。なぜそうなったかということについてはやはり疑問がありますね。ぼくにとっては、社会性というのは大きい問題と思ってますので。社会性俳句という間違いと社会性という大切なものの間で、やはり金子さんの態度っていうのはひじょうに大きな定義だった。一番自由な発言だったんじゃないかと思うんです。自分の書き方の問題として一番自由な発言だったという。
 阿部 自由の確保とでも言いますかね。
 谷 それ以外の言い方では、やはり、文学的なというよりも、むしろ政治的なことに関わりが強くなりすぎてくるんじゃないかって感じがありますね。ほかの言い方はないんじゃないかっていう。
 阿部 そうでしょうね。結果的にはというか、金子兜太の歴史を、あるいは俳句の歴史を見てみるとね、それが一番やはり妥当な言い方であったかもしれないなあって感じと、それからぼくは、これからに対する予感としての感じを持つわけだけども、大石さん、どう。
 大石 ぼくがはじめてその発言を知った時には、なにも魅力ある言葉じゃなかったですよ。社会性というのは、人間にとってあたりまえのことでしょ。その言葉がどの程度のことを指し示しているのか不明だったし。大事な意義を持っているんだと気づいたのはごくこのごろなんです。それも僕にとってというより、さっきも言ったように、毎月同人さんの作品を見ていてすごくこのごろね、生きが悪いなって感じがしだしたんです。
 阿部 誰の?
 大石 海程全体の印象。でね、社会なんて言い方ぼくは好きじゃないけど、金子さんがね「社会性は態度の問題」だと言ったその時点で指し示していた何かがね、いままたびじょうに有効ではないかという気がしだしたんです。社会ということが言われてからあの作品群が出来てきたんじゃなくって、当然ある種の作品群が自然発生的に生まれてきて、それを確認する段階で社会性なんていう言葉が出てきたんだと思うわけです。そういう作品が生まれてくる時には、それに対応したものが作者の側にあってはじめて生まれてくるんであって、そのへんを位置づける必要があったのだと思いますね。おそらくひじょうに生生しい感受とか表現意欲とかいうものが、それらの作品の一番もとにはあったと思うんです。ただそれがもとにはあっても結果的に社会性俳句と言われているものでは、ぼくの見る限りではかなり不毛なものだった。金子さんの発言は、社会性俳句と言われたものがその根に持っていた大事なものを指摘しつつ、不毛さですね、作品の上での不毛を完全に衝いている言葉だと思うわけです。当時一般にはやっぱり社会性というのは作品の上で求められたんでしょ。作者もそう思ったし受けとる側もそう思った上で社会性俳句はいいとか悪いとかいう言い方をした、それを金子さんの発言は衝いてると思うんですよ。

■現代を担う

 阿部 それぞれやはり少しづつ個性というレンズを通して「社会性は作者の態度の問題である」という言葉をみておられるように思えるんですけどね、今ぼく自身は、この社会性というのは、やっぱり一種の人と人との関わりというか、関係というか、そういうふうな関わりの中に人間が生きているという、あたりまえだということにもなりますけどね、そのことを本能的に嗅ぎとっていた、そういう言葉だとも受けとれますし、さっき谷さんが言ったように、やっぱり自由というものにひどく密接した言葉だろうとも思ってるわけなんですけどもね。で、もう少し具体的にその意義というのを掘り下げてもらいたいんだけど、まず歴史的にというか、戦後俳句史の中で、社会性俳句とか、この金子代表の発言とかはどういうところに位置してるんでしょうか。
 武田 あれじゃないかなあ、桑原の第二芸術論。
 阿部 うん。
 武田 あれに対して大方はあたふたしたり、感情的になったりしただけだったけれど、中で二つ、有効な反応というか行動があったと思うんですよ。一つは新興俳人のあらましが結集した『天狼』の創刊で、あれはやはり俳句性というものを厳格に提示しようとしたんじゃないかな。もう一つは『風』を中心に起こってきた社会性の問題。たしか二十八年ですね、角川の『俳句』で編集長の大野林火がとり上げたことで急に注目を集めたんですが、「俳句と社会性の吟味」という特集ね、そしそれが引き金を引いたんでしょうが、だいたいジャーナリズムがとり上げるのはかなり気運が熟しているときでしょ。あのときも朝鮮戦争やレッドパージによって戦後政治がまるで正反対に方向を変えた時期で、だれもが社会現象というものについてひじょうに敏感になっていた。当時作品もそれを反映していた。『風』のメンバーは、それをもっと意欲的にね、現代を盛るというか、自己の内面も含めてね、現代を書くということを積極的に展開したと思うんですね。
 阿部 まさしく新しいジャンルではあったんでしょうけどね。やっぱりぼくは、一種の政治の季節だったと思うんですよ。その中でね、金子さんだけが、「政治」って言葉を吹きとばしちゃって季節をね、人間の季節というふうに感じとれた人っていうふうに受けとれるんです、いま。
 武田 あのね、その政治っていうか、イデオロギーとか素材とかいうのは手法上の未熟さでしょ。これはハシカみたいなものでね、それよりも花鳥諷詠なんかとはちがって、この形式に現代を担わせようとした、すごく大意味があると思うんですよ。それをね、たとえば現在社会性っていうとひじょうにあの時のこと嫌がる人がいるでしょう。なんか自分の恥部に触れられるような感じで嫌がるっていうような。ほとんどみんなそうでしょ。なぜそんなに嫌がるのかしら、そこらへんがたいへん疑問なんですけどね。
 谷 その気持ち、わかるよ。ぼくが書きはじめたのはずっとおくれて造型俳句のころからなんだけど、なんかこうイメージづくりだけじゃ面白くないわけですよね。やっぱりね、サルトルあたりの「飢えた子を前にして文学はなにをなし得るか」という命題なんかにぶつかっちまうわけなんだ。そうすると社会性俳句がぼくにはひどく生生しく感じられてね、ただ、ああいう失敗はしないぞという思いはあったんだけど、やっぱりうまくいかない。二の舞なんだね。そうすると、態度でいいのか、行動までいかなくちゃだめなんじゃないかっていうところに行っちゃうんだ。そうするとね、文学の問題とズレてくるのはあきらかでね、当然に書くより旗を振っている方が正しいんで、書くなんてことはごまかしになってくるんだよ。やっぱしそこらへんのとこ通ってくると、ああいう俳句を書いていた時のことは触れられたくないっていう感じがあるんじゃないのかなあ。ただね、ぼくみたいに逆行してああいう俳句を書いてみると、むしろ態度の問題であるという正当さというものがより強く認識されてきますね。
 大石 うーん、棒ふりか、たしかにそこまでいってしまえばにがいだろうな、うん。しかそれは、谷さんだけとはいわないが、かなり特殊な例じゃないのかい。ぼくは武田さんの意見に賛成だな、やっぱり文学上の苦さでしょう。当時、大方は社会性というものを作品の上で、いわば作品に内容とか主張として受けとっていたからああいうふうな作品になったんで、これは文学的には破産するしかないですね。その苦さなんでしょう。さっきも言ったように「社会性は態度の問題」というのは、そこを正確に衝いてますね、「いずれ独自の方法を得る」だろうと、まさに用意にね。だからといってね、社会性という指摘の正当さには少しも変わりはないんで、武田さんも言ってましたけど、当時としてはああいうふうにしか書けなかったにしろ、ああいう作品を書かざるを得なかった作者の感受性とか意識とかいうものの存在を指摘したのは重大な意味を持ってますね。ところが一つなんとも解せないんだけど、同じアンケートで金子さん、「(Ⅱ)従って、作品は当初社会的事象と自己の接点に重心をかけたかたちで創作され、やがて社会的事象を通して社会機構そのものの批判に到ることになろう。ここで批判の質及び内容が問題となる。」と書いているでしょう。これ読むとまた複雑な気持になってね。それはね、表現というものが本来、己れ自身をも含めて体制というものを否定するところに成り立っているのだという意味では、社会機構の批判というのは何を言っていることにもならないわけなのに、それを改めてこう書いちまうと、これは作品の上でのことと受けとらざるをえないんで、やっぱりある内容限定をしてしまっただろうな、と思うわけです。

■作家の理論

 武田 だけどね、それが言われた当時の背景ということを考えると、対社会ということをやっぱり言わなくちゃだめなんじゃないかなあという気持が強いわけなんですよね、ほくも。
 谷 そう、金子さんだって、このころ社会性といったものを、いまは志向的日常性なんて言い方をしますけどね、やはりこの時代、社会性と言った時にはある傾向性を持った、やっぱり社会主義イデオロギーといったものにかなり傾いたものだったと思いますよ。「造型俳句六章」の中でね、たとえば〈華麗な墓原〉のパラフレーズというか、つくり方なんかを書いている、あれだってあきらかに、社会的事象に対する意識性っていう書き方でやってますから、「六章」のころにも金子さんの内部にある一つの傾向が強いんで。
 大石 そりゃぼくだって金子さんがああいうふうに書きたい気持ちはわかるよ、しかしそれはあくまで個性の問題であって、「社会性は態度の問題」というような普遍性は主張できないってこと。だからそういう意味じゃこの文章混乱してると思うんですよ。
 阿部 混乱してるというよりもね、当時、金子さんの意識にのぼっていたことは、混乱というものを含めてまさしくこのことだったわけですよ。ぼくがさっき予感と言ったのはね、この意識を支えていたものですよね。そのものが正しい方向を、金子さん自身だって気がつかないうちに指し示し得ていたと、こういうふうに結論していいんではないかというんです。
 谷 だから金子さんというのは面白いんですよね。その時の現象なんかにすごく敏感に反応しながら、自分の感性ってものをスーッと出せる人なんですね。たとえばこの社会性だって、自分の生き方に対決してるんだということを態度・・と言ってるわけでしょう。ところがそのつぎに、いま大石君があげた現象的なことを言ってしまうわけですよ。「六章」だってひじょうに意識の論理っていうか、意識のパラフレーズをしながら、一方では感覚、自分の感受性っていうものをいかに磨いていくかっていうことを書いているわけで、むしろぼくなんかこっちの方で読んだわけですよ。〈華麗な墓原〉のパラフレーズ自体はつまんないけど。
 大石 たしかに面白いなあ。金子さん、いま谷さんが言ったように、一つのことをなにか主張するでしょう、その時にその一つのことだけでなくって、その周辺のことを一緒にみんな書いちゃう。だから読み手がいいかげんなところを読むと全然逆のことになっちゃったりね、するわけで。これなんかもそういうところがあるんじゃないかな。
 阿部 ぼくはね、一人のね、少なくとも作家の書いた理論というものは、ただそれをそこに書かれた理論だけで読むっていうことはしたくないんです。そういう風な読み方をしたらひじょうに貧しいものしか書けてないですよ、作家の理論なんていうものは。その中にあとで含まれる、ふくらんでくる、あるいほふくらんできたものがどのくらい入ってきたかということが大切なことだと思うんですよね。
 森田 だからこの(Ⅱ)の社会的事象と自己の点に重心をかけたかたちで創作するっていう、金子兜太の作品ってのは、ほとんどが外と内側がはっきりとイメージとして対比されて出てくるわけでしょう。ところが不思議なことに、そういうふうにやっているうちにね、それがやがて本能的にそういうものを超えていっちゃうところがすごくあるわけですね。こういう風に文章化したものでもはみ出す部分をたえず含んでいるんで、いま読み返してみても本質的にまちがってないというところがありますね。
 阿部 金子兜太がね、そういうふうな現象にいわば振り回されながら、書きながら、しかもその根本に予感をしっかり持ちえたということですね。そのことがいまになってみれば、評価せざるを得ない、正しかったと言わざるを得ないんですね。森田さんの言うよう金子兜太という人の作品をみていると、これはいわゆる素材主義的といわれるような俳句がしぼんだあとにも逆にふくれてきている。これは私の目にははっきりと現象として見えていたと思うわけです。

■内面への歩み

 森田 それからね、金子さんの発言については、現象的なことなんですけども、海程創刊のころは「社会性は態度の問題である」という、きわめて外へむかって関わっていくという、そういう姿勢よりもね、むしろ前衛俳句運動のなんとも奇妙な熱気が残っていてね、それぞれの若さの感情をそういう表現に託していたという状態が残っていたような気がするんですよ。なんか前衛的な表現の動きの中で書かれ、あるいは考えていこうという、そういううねり・・・があったんじゃないか。そのうねり・・・が、手法として造型論のイメージにつながってしまって、社会に対する意識っていうか、表現を越えて外側へ突出していくというか、そういう意欲とか志向っていうものがあの当時見えなかったような気がするんですよ。そのかわりに、やがてイメージに意味的な過重をかけていくというようなことになっちゃったと思うんですね。あのころ「闘牛の会」っていう若い人達の会があって、そこで「造型六章」をテキストにして話し合いをしたんだけど、まちまちだったですよ。取り方によってさまざまな反応をみせてました。そういう意味でもいまあらためて「社会性は態度の問題」ってことを考えてみると、やはりもっと大きな意味を持っていたはずなんですがね。そのへんの対処の仕方がね、深部にまで浸透しないで、どっかで途中で方向が変わってきてしまってるんじゃないかということは考えますね。
 阿部 誰の方向。
 森田 全体の方向ね。イメージが意味の重さを抜けだせないとか、どうも内の存在に止まってしまって外側のエネルギーがとりこめないとか。
 阿部 いま森田さんが言われたとおりで、「社会性は態度の問題である」っていうこの言葉がね、当時私の頭からもほとんど消えていたということは事実なんですよ。それよりも「造型六章」の方がね、兜太の理論としては生生しかったわけですね。
 森田 その社会性って言った時の感じは、はじめはひじょうに漠然としてたんですよ、ぼく自身はね。概念的にとらえているというかね、そういう気持が強かったんですよ。しかしね、その後、そういうような海程全体のどろどろした経過の中でね、ぼくにその後だんだんわかってきた、固まってきたことはね、社会性ってことは、社会的関連の中で考えるとか、外側へ自分をつなげていくということはね、同時に自分自身の内側への眼っていいうか、内面というか、内部ってものを深く掘り下げていくってことになると思うんですね。そういう関連がじつはぼくの中ではひじょうに大事なんだって気がついたんですよ。自分自身を深めていくにはね。そういう態度が弱まってくると、どうも自分の中だけで作りがちである、突出していかない。そういう揺らぎの中で、やはりこの発言が外と内との関わりを強調しているような意味でね、ひじょうにぼくには強くわかってきたんだけどもね。
 阿部 私は関わりってことばをくり返すわけですけど、「社会性は態度の問題である」というのは、その関わりということを自覚するということですね。まさしく森田さんが言った自己の内面への歩み、そういうふうに私自身はとっているし、とったつもりなんですよ。外へ歩くということでは私の場合には少なくとも全然そうじゃなかったです。内面へ向かうことなんです。そうであればね、自分の内面を支えている、たとえば気分だとかあるいは自分の言葉だとかということにですね、眼が向いてくるのはあったりまえだろうと思うんですね。またたとえば、ある一定方向をその作品が持ちはじめた場合はね、まさしく関わりということを忘れたことになるんですよ。関わりってのは、いつでも関わっているわけだから。だからいまのぼくの言葉で言えば、たとえば現瞬間と言った場合には、その現在というか、うつつというかね、その時のこととりあえずうたいあげるんで、つぎの瞬間には別のものが出てこなければいけないと思う。だからこの言葉っていうのは、ぼくのいまの俳句に通用してると思うんですけどね。

■生き返ってきた言葉

 大石 とくにこのごろの阿部さんがさ、これはひじょうに重大な言葉なんだと、ぼくにもよくわかるって言うでしょ。するとただちに予想されることなんだが、なぜ阿部さんが社会性社会性って言うのか阿部作品では、あれは社会性なんてことは言えないもんだと、一番社会性というものから遠いものなんじゃないかっていう、そういう人達がいて当然だと思うし、げんにぼくにもどこかしっくりしないところがあるんですがね。けげんな顔をされたことも何度かあるんだけど。
 阿部 あのね、ようするに、社会性っていうのは、いわゆる社会性俳句とはちがうんだという、それはもういいでしょ。それから内面への歩みとかもね。だからそうい問にさらに答えるとすれば、さっき言ったようにですね、社会性というのは、人間が関わりという世界において生きている、ようするに人間の生きざまの問題なんですよ。誰だって生きざまは持ってるんだからあたりまえだと言われちゃうとそれっきりだけども。人間が自分の生きざまというものをようやく見つめはじめた時には、やっぱり違う人間になるわけですよ。ある程度俳句というものを個性的に書いてきた場合には、必ずこの問題にぶつかるはずなんです。俳句を作りながら、もしぶつからない人がいたら、それは俳句というものを単なる遊びとして作っているだけのことだろうと思うんです。少なくとも私はですね、遊びながら作っていてもいつのまにか、自分生きざまと自分の作っている俳句ということに思いたつ。そうなると、この社会性ということが、私にとってはひどく身近なものになってくるわけですね。で、なんか阿部完市というのは、夢俳句とかまぼろし俳句だとか、あるいは童話だとか、いろいろ言われますが、そのどれもが私は違っているとはとても言えないけども、ただ自分自身の覚悟としてはね、やっぱり人との関わりの中における阿部完市の生きざま、それに関わる俳句を書いているんだと、一種の結論づけをする。そうした場合、「社会性は作者の態度の問題である」といった言葉がね、ひどくズシンと感じるわけです。それでもうくやしいもんだから、自分なりにいろいろな言葉を考えるわですよ。だけど、金子さんの言葉の方にやっばりきちんと書かれていた。しかも俳句を毎日毎月見せつけられている人間としての金子兜太の言った言葉ですからね、ひどく重大なものになってきた。これは少し話が先走りますけどもね、その後の金子兜太の作り方、あるいは理論の立て方がね、それを追っかけているたとえば阿部完市個人なんかは、この路線の上を走っていると認めざるをえないわけです。くやしいけれどもこれからもこの外になかなか出られないんじゃないか、というひじょうな焦りを感じさせる、ことばだということですね。私にはひじょうに重大な発言です。ですから、あんな俳句を作っていていまさらなんだ、退行現象じゃないか、というようなことを言われるとするならば、私にとってはそうではない、まさしく現在の言葉、生き返ってきた言葉であるというべきなんです。

■全身性

 大石 阿部さんや森田さんの言われたことはそれぞれ個性的で、そのことはさすがと思うんですが、しかしね、まさにそれを態度の問題として考えている。作品上のこととしてではなく、社会性というものの認識そのものを語っていると思うんですよ。こういうと先ほどから言っていることに矛盾しているようだけど、そうじゃないんで、社会性を作品の上で主張するなとか、「社会性は態度の問題」とかいうのは、あのいわゆる社会性俳句についての発言なんで、それによって作品の上での社会のあり方が否定されたわけじゃないんです。
 だいたいもともと人間というのは社会的な存在なんで、社会性なんてことを指摘したって、それ自体は、詩論的にはなんの意味もありゃしない。問題は、この発言が俳句に対して持っている意味なんです。それを俳句の上で主張することがなぜ生産性を持ちえているのか、俳句の上で、ようするに詩論として主張されている社会性とはいったい何を指しているのか。変な言い方だけど、一番ざっくばらんな言い方をすれば、社会性なんていうのは、作品がいかに生き生きとしているかというだけの問題だと思うんです。社会性と言われたあの時点で、いままでの俳句の書き方では満足できない表現意欲の存在というのが確認されたというか、それが俳句形式の中に持ちこまれたと思うんですよ。それまでの俳句ってのは、少数の例外はありますが結局、書き手の分身を設定して、それに俳句を書かせたんですね。美意識という分身なんだけど。そこれがさらに昂じると、逆にその分身に生身の人間を合わせてしまってね、俳人格なんてのがそれでしょ。あらゆる季題派、新興俳句の大方、『天狼』の俳句性、結局みんなそういうもんでしょ。それに対してね、社会性というのは、こういった分身性を拒否した、生身の人間をまるごと背負った、いってみれば全身的な表現意欲だったと思うんですよ。だから、分身派というのは必然的にその感性が設定された分身のうちに閉ざされていることなる。これに対して、全身派というのは、そういった閉じられた感性を拒否して、ひたすら現実にむかって開いていると言えるんじゃないかな。もし「これが社会性だ」と言ってしまうと、その瞬間に感性を閉ざしてしまうことになるから、それは作品の上では永遠に規定されることなく、ただ作品に鮮度だけを保障するという、結局社会性というのは、そういう書く主体の感性のあり方についての確認、あるいは指摘なんであって、けっして感性限定じゃないわけです。だからこそ詩論として普遍性を主張できるわけ。
 ぼくはね、どんな理論であっても、俳句に関する理論が内容限定をしているものはいっさい間違いだと思うんですよ。それは作家の個性の問題であって、普遍性の問題じゃない。個性だから内容限定するのは勝手だが、普遍性は主張できない。金子さんのこの文章ってのは、一面ひどく個性的なわけですよ。でありながら一方ね、いい作品っていうものがどこに成り立っているかっていうレベルの、言ってみればそういう普遍的な意味での内容限定はしていると思うんです。このごろの海程の作品が生き生きしてないということを感じだした時ね、やっぱりぼくもここへ来たんです、この言葉に。金子さんの発言はひどくそこにつながっていると思いますね。いい作品、ばくらにとってのいい作品です、ほかの誰それ、たとえば高柳さんにとっちゃいい作品じゃないでしょう。ぼくらにとってのいい作品というもののね、共通基盤ってものをこの言葉が指摘しているんじゃないかっていう気がするんです。

■「造型俳句六章」の魅力

 阿部 例によって、えらく大石流で、ま、異論のある向きもあるでしょうが、問題提起という意味も含めて、そのへんを一種の小さいしめくくりとして次へ移ってもらいたいんですけど。要するにね、金子さんが態度といおおまかなものを打出して、いずれ独自の方法を得ることとなるといった、それが「造型俳句六章」ということなんですが、たしかに、あれしかなかったですね、あの社会性とか、前衛俳句とかの喧騒の中から、ぐいと一歩踏み出したのは。でまあ武田さんから、どんなでしたか、あれは。
 武田 それに関してはぼくはどっちかっていうと苦い思いの方が強いわけで。いわゆる造型、かたちをつくるとか、そういうところでしかとらえていなかったと思うんです。それが新しい俳句だと思い込んで、もっぱらそういうものばかり書いていたわけです。そうするとまわりがね、いわゆる伝統派ですが、そういうところから盛んに攻撃してくるわけなんですけども、それはそっちが悪いんで、こっちのやることが新しいんだと頭からきめこんじゃってね。
 森田 ぼくはね、読むたびにそれが自分のものにならないというおかしさがいつもあった。だけどたしかになんかそこにあるということがたえずあったですね。はっきり言ってね、たまらなく強要されてくるような感じがあってあまりにも明確に限定していくことがね、あるいはぼくがあいまいな部分で表出しようとしているところをなんか逆にとにかくきめつけていくってことがね、どっかでなんかを逃がしてるんじゃないかっていう感じがあったんですね。で、だから「見ることから感じることへ」なんて言ったんですよ。だけども、その感じるということね、「造型六章」の中でも〈華麗な墓原〉分析というかバラフレーズの終わりの方で、これはまったく感じであり虚無ですがと書いてあるんです。そういうところは実になんかわかるんですね。だから、ぼくには感じるってことはそういう風にきめつけておさえこむんじゃなくって、むしろ、そういう意識をとっぱずしたところにものがよく見えてくるんじゃないかという感じがしたんですね。ものが見えるっていうことは、ものとある一体感になるとか、うまく感応していくということね、そういうところがぼくにはあってね、だから感じるっていうことはもっともっと多くの何かを引き出し得る一つの方法論のような感じで受けとったんですけども、なんかそれをきめつけられてくる中でひじょうに反撥があった。だからそういう部分はたえず拒否していく、ところが拒否しながらもその中から浮き上ってくるなにか妙なところに魅かれたということですね。やっぱり金子さんの作品の方にひかれたんじゃないかなあ。
 谷 ぼくにとって俳句のテキストであり俳句の聖書でしたからね。
 阿部 それは「六章」がそうなんじゃなくって、あなたの対応の仕方がそうなっちゃってるのかもしれないね。
 谷 ええ。ともかくわからない部分というのは、自分の頭が悪いんだと思ってましたから。
 大石 はっはっは、こりゃたしかに聖書だ。
 谷 ぼくはともかくこれで書いてきてますからね。たださきほどね、〈華麗な墓原〉のパラフレーズ、こんなところつまんなかったと言いましたがね、しかし、こういうふうに分析して書いてくれてるってことは、俳句を書くときの手がかりになるわけです。それでいながら、こちらが結局やってきたことは、この感じるとか感受したものとかいう、金子さんがそこらへんのところ繰り返し繰り返し言ってるってことだけど、いうなれば感じたことをどう書くか、どう書くかということだけでずうっとやってきてますからね。果たしてこれが「造型俳句六章」の正当の読み方なのかどうかわかりませんけど。
 大石 ぼくはね、作品を書くうえでは、あまり交わるところがないんだけど、俳句形式って中でね、人間の全面的な表現というか、やっばり思想ですよね。金子さんは意識って言葉でそこんところを言っていると思うけど、自分の思想っていうものを作品に盛るというかな、いかに実現するかという、しかもエネルギッシュにね、そういう作業を進めた人がいたということには非常にうたれますね。意識と感覚との鬩ぎ合いの美というようなところにね。ただこの場合には、その思想、あるいは志向と言いますが、それが無い状態でそれを考えたら、これ全部が手法論になっちゃうわけですよ。谷さんがいま言ったようにどう書くかというね、谷さんにとって有効だったのは、いわば感じたものがあるからであってね、極端に言えば、感じたあるものがなんにも無い人間がどう書くかということばっかり考えてしまうような、そういう手法としての受け取り方がすぐされっちまうようなところがあり、現象的には非常にマイナスの面もあったと思ってるんですけど。

■ピリオドが打てる

 阿部 やっぱりこの論文はひじょうに欠陥の多い論文だと思ったですよ。それはどういうことかというと、一種の説明心理学なんですよね。説明はうまくできるんだけど本物じゃない。私が異常心理学というあの説明の学問にひじょうに反感を覚えている人間なもんだからよけいにその思いが強かったんで、カッカしたこと覚えてますよね。『未完現実』に、金子兜太への質問ってのを五、六枚書いたんです。要するにああいう分析の作業をいうのは、書かれ終わった時にすでに偽物である。これはなにも俳句だけじゃなくって、文学っていうものはそういうものなんですよ。そういう意識が非常に強かった。どうも、金子兜太っていう人のね文章ってのは理論化しすぎる嫌いがあるんだな。
 大石 図式化。
 阿部 まあねえ、ぼくもその頃ひじょうに若かったけれども、やっぱり意識の取り扱いっていうよりも、人間の心というものをね、いま大石さんが言ったように、図式的に書いちゃっていいはずないと。ところがね、少なくともね、人間の意識を俳句と関わらせてものを書いた人ってのは他にはぼくの目の中にはいなかったですね。だからね、たとえばこれはまあ話がおおげさになるけれども、フロイトという人が出てですね、人間の無意識ということをまさしく指摘したわけでしょ。フロイトの手柄ってのはね、見方によればそれだけなんですよ。あとはなんでもかんでもセックスで説明している汎性欲説なんて、これはねえ、少なくともバカバカしい話なんで。だけども無意識ってものをまさしく突いているんで、このことだけでやっぱり人間の精神を考える時に、コペルニクス的転換であると現在評価されてるわけですね。そうなると俳句と意識なんてものを、その頃持ち込んだ人他にいないんだからね、やっぱりこりゃパイオニアであっと思わざるを得ない。考えてみれば、僕がねひじょうに悪口を言った「造型六章」というもの、意識というところからもね、阿部完市には俳句の理論がその時出来はじめたとするならば、皮肉なことに一番はじめに言ったことは気分ていうことなんで、まさしく説明心理学の一部門なんですね。そしていまだにその答は消えてない。そうするとひじょうに残念だけども、一歩金子兜太に先んじられていることは確かなんで、悪口を言いながら買わざるを得ないんです。
 森田 その頃、抽象領域を書きとめるってことを考えてたんだけど、感じる快感っていうかね、抽象領域で書いているとなんかもやもやとしちゃって快感がないわけですよ。ところがね、金子さんの作品にそれがあるんだな。だからこの造型論の論理構造というのにはどこかなじめなかったけれど、イメージの定着のさせ方というか、もう一つなんていうか、抽象領域にあるそのものを見事に書きとめるという書き方の中に、ぼくは快感っていうものを、そういういままでの作品に無いものを感じてこれはうれしい、なかなかいいなあっていう感じがあったですね。
 谷 そうなんだ。いうなればこの「六章」のおかげでイメージづくりをやれたわけですよ。自分の実感というものをそれによって確かめることがずい分できているわけだよね。ともかく表現したい、いま感じている気分の世界、それを、受身からむしろ能動的な姿勢へ転換するっていうこと、こちらにとってはそれがよりどころになるわけだよね。大石君は害を受けた人間が多いんじゃないかっていうけど、ぼくにとっては武器なんだ。そのころは仲間からはずいぶん批難されたけど、自分の気持ちの中じゃこれでいいんだと確認ができるわけだよ。
 阿部 確かに意識なんて言葉があるとね、自分がつくり終えることができるわけですよ。いままでいわゆる花鳥風月みたいなね、イメーのつくり方でないといけないんじゃないかと思っていた人達もです。自分の気分でいまこう書いたんだから、これはいわゆる内部実感なんだというところで、ピリオド打てるわけですよね。「造型俳句六章」があったもんだから。ぼくなんかもふんぎりがひじょうにつきましてね、それでボコボコボコ、ばかみたいなものつくれたわけですよね。
 武田 ただね、それだから中途のところで自己満足しやすかったんじゃないかと、いま思うと。
 大石 そういうところがあるよ。
 武田 他の人がわからないと、なにを言ってんだ、てめえが程度が低いからなんだ、とね。
 阿部 本当はてめえの方がまちがってるのかもしれないけど、まちがいだって噛み切ってしまえば一種の精神安定剤みたいな作用さえあったねえ。だから危ない面は事実としてはあると思いますからね。
 大石 だからね、正当かどうかというんじゃなくて、大方は有効性のレベルで受けとっていたと思うんですよ。皆さんにはそれぞれ有効だったわけだけど、しかしマイナスの面もすごかったんじゃないですか。イメージづくという、その手法だけの悪影響っていうのは。自分があるイメージを書いたつもりになってね、これはこっちのこういう内面に対応したイメージだからということを作者が主張するわけだ、作品はなにもそんなことを主張しちゃいないのにね。たとえばいまでも「暗い海」というと、これは作者のなんとかの反映でしてというようなのが、あいかわらず海程の仲間にだっていっぱい行われてるんだから。これは主体の表現ということのはきちかえでね。
 谷 そりゃたしかにそうだが、それはやっばり読み手が悪いんでね。
 大石 そりゃそうだよ。

■方向を決める

 森田 だからね、前衛俳句が出てきたでしょ、ぼくもその中にいたんだけど、とにかくどうやって書いたかも、どんなふうに表現したかも定かでない中でできたという気があるね。でね。詩的リアリティーとか言葉としてのリアリティーがね、ひじょうに書けたっていうか、そういう感じはあったんですよ。あったとは思うけどね、金子兜太が考えていたのは、根無し草というか、いわゆる詩的な言葉が並んでいるということだけじゃない、もっとそういうものを主体の言葉として表現に定着させたいという要求があって「造型俳句六章」を書かざるを得なかったということはあるんじゃないですか。
 阿部 前衛俳句というのは、なんでもある俳句だし、なんでもない俳句なんだなあ。ようするに方向がないわけですよ。「造型俳句六章」ってのはね、まさしく一つの志向を書いてるんですね。だから、方向を決めろと言ってるわけです。しかもその方向はかなり無限定ですね。無方向じゃないんだな。広い方向と言っていいですね。そしてまさしく一種の反省であったわけですね、奇妙な書き手なんですね、あの人は。
 大石 アジテーターのような顔をしていて、しかし実際に書かれているものは現象批判であるようなところがね。
 森田 だから前衛俳句では見えなかったものが「造型俳句六章」から、なんか見えてきたという感じがあるね。
 阿部 そうね。ブルトンだっけ、自動記述っていうやつ。あれなんかの書き方で書けばいいんだ、阿部完市の作品はそうなんだと一時言われたわけです。ところがね、意識というものに、方向のない意識なんて本当はないと思う。少なくとも意識が清明なときには。混濁してるときは違いますよ。だけどもそれを言われた時、ぼくはその時点ではなんの反論もできないでニヤニヤしていただけの話なんで、いまになってみると「造型六章」でいいわけ。まああれを読んで下さい。というようなことになる面があるわけですよね。
 大石 あのね、造型論に納得できる大きな要素は、森田さんが言ったように、金子さんの作品があるからでしょ。さっき正当性って言ったけど、意識と感受の鬩ぎあいというところまでは正当性を主張できると思うんだ。だけどそこからイメージを、という段階は作家の力量というか言葉の力の問題で、論の正当性の問題じゃあない。金子さんの作品の場合は納得いく面が多いと言うだけなんだ。それを一般論として採用したら、混乱というかマイナス面が生じるのはあたりまえで、金子さんもそこのところを、あとになっていっしょうけんめい補っているでしょ。たとえば自然だとか、ことばのエロスだとか、喩の柔軟さだとか。だからこの造型論が有効に働く時には、そういうものが語られ、確保された時だけなんだよね。だから無条件に正当性を主張できるのは金子兜太一人だけさ。
 谷 だけど、社会性俳句の素材主義におちいって困っていた人間なんか、「造型俳句六章」をみて、ひじょうに助かったんじゃないですか。
 阿部 助かったと思ったかもしれないが、意識の澄みみたいなものね。透明みたいなものをあの論文からつかんでいないと、ただごたごたすることを正当づけるだけになってしまうではないですか。
 大石 意識の澄みか。それよりさっき阿部さんが言った、方向のない意識なんてないという、そのことね。
 阿部 まあそうね。造型論というのは一種の構造論でしょ。そうなると、それまでに出できた俳句の構造論ってものがあったとすれば、一番はじめはてにをは・・・・問題がありますね。それから季語、定型の問題もぼくに言わせれば同じレベルで言われていたと思うんですね。新興俳句というのも結局そのレベルじゃないですか。この造型論でやっと次のレベルに移り得たんではないかという感じがしたわけですね。これもくやしいけど認めざるを得ない。

■『海程』初期

 阿部 この俳句史的な事件だったとも言える「造型俳句六章」(昭和三十六年)はいろいろな受けとり方があったと思うんですが、その中でいちばんこれをまともに受けとめて突き進んでいったのは、なんといったって『海程』(昭和三十七年創刊)ですね。まともにというより、夢中で、と言った方がいいですかね。そして、その後で、「平明で重いものを」という金子さんの立言があるわけですが。
 大石 海程創刊から「平明で重いものを」という発言までの、その過程はどうなってるんですか、どういう問を孕んでいたんですか。今、阿部さん夢中って言ったけど、例の前衛俳句のやみくもの夢中でなくってさ、なにか方向をもった夢中なんでしょ。
 阿部 そりゃ結果的にはそんなこと言えるかもしれないけど。
 森田 そういう中で定かでないっていう感じはあったけど、存在についての志向とか考え方ってのがだんだん強まってきましたね。
 大石 海程の初期の方をみると、最初はとにかくひじょうに新鮮ですね。それがいつか、どっか海程調ってことで括られるイメージ造りや、腸詰俳句という現象や、そういう過程があるように思えるんですが。
 森田 腸結なんかも一種の存在志向なんだけども、ひじょうに現象的ですよ。社会全体にかかわっていく思いがあるんだが、それが現象的になりすぎるから、結局ああいった腸結になってくると思うんですよ。もっと単純に言えば、さっき内面といった、存在の根に深く刺さるっていうか、そういう志向を強めていく中でね、腸結俳句は解消されてくるんじゃないかっていう気があったんですよ。だけども外側への関わりを強く主張するっていうか、そういうことを強く考えていたから、それに、三十年代後半から四十年代にかかってくると、社会そのものが、現象的なものが多様化してくるしね、それをそのまま抱えこんで、存在みたいなものへ志向する、そうすれば当然腸結になってくるということが言えると思うんですよ。そういうことでは本当の存在の根がみえない、どうにかしなければいけないという気持がみんなに動きはじめてきたと思うんですね。ぼく自身はね、いま立っている位置をうたいたいとかね、自分の揺れ動いている状態みたいなものをうたいたいとか、そういうことは感じてましたよ。腸結俳句の場合には、むしろ存在の付属的な部分というか、やや解釈しきれるような部分を出してきてるっていうかね、そういうところがあって、それを消化するというのは大変な作業だと思うんだけど、あのころの海程はそういうものがごったに入ってきてるような感じがあったですね。
 大石 その腸結というやつ、森田さんの『花冠』でいうと、〈深井戸消えさかしまに見し嬰児の空〉とか〈十重の塀崩れ彼方に塀の教祖〉のあたりですか。
 森田 そうね、だけどそれは海程に入る前だった。海程に入ってからは、揺れ動いているままに自分を出したいっていうようなね、そういうことを考えていた。
 阿部 前衛俳句は海程の場合はしっぽが残っていたような感じですね。ぼくはね、前衛俳句と呼ばれた個々の作品は認めたくないわけですよ。だけどね、前衛作家グループという、一つの歴史の必然性みたいなものがある。これはね、やっぱり無きゃ駄目だったんだろうなあと思いますね。その中から海程が引き継いだというか、引き受けたものは、やっぱりその中から出てきた一種の澄みみたいなもんだと思いますね、個への澄みとでも言いますか。

(酒井弘司出席)

■疾走感

 大石 七五号で海程二千句というのをやったでしょう。あの時、出生調べみたいなことを沢山やらされたんですよ。何年の作品かわからないものをね、海程ひっくり返してはこれ何年のものだということを、谷さんと二人でね。あれやってね、海程初期の作品はものすごく傷ついてますね、のたうちまわってるって感じ。このごろの作品にはああいう感じないですね。ひどくおざなりな感じがあるわけですよ。それがあそこを抜けてきた人達、もちろん抜けられなかった人も沢山いると思うけど、抜けてきた人達はやはり何かを体験してきたと思うんです。
 阿部 やはりね、時代の必然性というものがあの時にはあったと思うんですね。いくら混沌を作り出そうとしたって、作ったってしょうがないんでね。あの時はかなり必然性をもった混沌だったと思うんですよ。だからみんなが納得してごたごたしていましたね。
 大石 ここに三周年の合同句集があってね、金子さん序を書いているけど、結局のところ「意欲――『海程』は素朴簡明な意欲のもとに創刊された。それは、いま表現したいものを、可能なかぎり俳句として書き現わしてゆきたいということ、つまり、思い切って俳句の内容を拡充してゆきたい、ということであった。」
 森田 そう、そういうこと。まさに今の自分ということだね。既成の花鳥諷詠はもちろんだが、人間探究派も前衛俳句運動も、みんな拒否したいっていう。それじゃあ何を書くのかっていうと、それがわかんねえんだよ。けども何かね。
 阿部 まさしくね、何を書くつもりだったかというようなことをみんなが模索してたわけですよ。ともかくね何でも書いちゃった。結果的に何かが書けたように思ったんだね。
 森田 自分の思いがね、そのまま躍動してゆくようなかたちで書けないかなあというよなね、生命の躍動感ですよね。とにかくいままでの書き方では、自分の持っているものが消えちゃうと、だからもっと全身で拡がっていくという。
 阿部 疾走感というかな、みんなが走り出したという感じがある。
 武田 ああ、ありましたね。創刊から一、二年はやっぱり疾走感というのがいちばんいいかもしれないなあ。とにかくいままでにないものを目指したという気持だった。
 大石 ひじょうな勢いがあっただけだというけど、方向性は持ってたわけでしょ。
 阿部 それがね、ぼくに言わせれば「造型俳句六章」ですよ。
 武田 それを各人がばらばらに受けとっていたということ。
 阿部 それでさっき言ったように、自分の意識が書けたなんていうとおかしいな、自分なりになんか自分が書けたと思うと、そこでぽんととめられたわけですよ。ピリオドが打てた。造型論のおかげでね。
 森田 そう、ぼくの例をあげるとね、〈霧の中の縄寒村の眠り病〉。初めて海程の例会に出した句で、金子さんが取ったんですよ。どうしてもこれを出してみたいっていう、そういう勢いみたいなものがあったんですね。
 阿部 そうなんだよ、やっぱり勢いにのったという感じがあるんで、ぼくはあれですよ、〈少年くる無心に充分に刺すために〉。自分でいいのか悪いのか、とにかくわからなかったんだ。あのころはね、〈先行の不安の鼡
軍歌の律〉とか〈暗い駅被弾内蔵かたまるベンチ〉なんてのを書いてたんだけど、そういうときこれがぽんと出来ちゃった。
 大石 谷さんどう。
 谷 うーん、ちょっと待って。そのころのことかなあ、鷲見流一さんのこんな句があった。〈聖書分厚く肩たたかるる熊のよう〉とか〈争議いつしか浮木のようにダム眠る〉。句会でも評判がよかったし、金子さんがほめるんだ。ところが俺にはまるでわかんないんだなあ、なにが書けてんのか。みんなの討論の内容もまるでわかんないんだ。いまから思えば、感受したものの新鮮さをすごく求めていたんだね。それがひじょうに素朴に、まじりっ気なしのものを金子さんはすぐに見つけ出していたんだ。そのころ、ぼくはまだそんな段階じゃなくて、造型論をぼくなりに理解して、イメージの造型をしていたんだ。いるつもりだったのかな。ところが金子さんは、類型感がある、こんな句をつくっちゃ駄目だ、なんてずいぶん手厳しかった。

■「平明で重いものを」

 大石 その疾走感というあたり、話を聞いているといい状態だったと思うんだが、それに対して、なんで「平明で重いもの」と言わなけりゃならなかったんですか。あのひっく返しは早すぎたんじゃないか。
 阿部 少なくとも現象的には必要だったんですよ。
 大石 現象にひきずられてはいなかったか。
 阿部 だから、それがしばらく続いてね、やっぱり一種の類型感が出てきたんですよ。
 森田 初期のころ、少年だとか湖・森・海とか、類想語っていうの、そういう時代がありましたね。それを経てですか、さっきの腸結ってかたちになったのは。
 阿部 同時かその前でしょ。ようするにあこれは一種の濾過現象だったと思いますよ。腸結を濾過していた段階でいわば透明な言葉がざーっと出始めたと思うんだなあ。
 大石 そうすると平明でなんでもない状態が現れはじめていたわけですか。
 阿部 そういうことです。それでまた例え阿部完市の俳句なんてのが出てさ、わたしゃ別に自分じゃちっとも平明だとなんか思ったことないけど。それに対する反省もあったでしょうね。それでね、この重いという言葉の中に存在という言葉が入ってくるんですね。俳句にとって詩にとって、絶対に必要な混沌さえもね、なんか振り捨てちゃって糸一筋みたいなものにみんながめがけはじめたっていうような認識が、金子さんの中にあったんじゃないですか。
 森田 初期の時代ってのはいわば青春期だから、ひじょうに浮力のある自由なことばで書いていればよかったかもしれないですよ。しかしそれがね、海程調って言われだして、やっぱりというか、いよいよ実質的な表現というか、そういうものが要求されてこなければならないという背景が当然おきてきたんじゃないかって気がするわけだ。
 大石 あそこでは(海程49号「平明で重いものを」)阿部さんの〈少年来る無心に充分に刺すために〉、森田さんの〈悲鳴に似し魚を吊りあげ揺れる男〉、九月隆世〈抱きたい夜樹かげは美しい火柱〉などが取り上げられたんだけど、あれは、新しいものに注目しろよ、ここに新しいものが生まれつつあるんだぞということを言ったわけでしょ。
 阿部 だけども注意しろよっということです。平明というだけでは駄目だよという。
 武田 四十四年というと、阿部さんが第二回の海程賞をとってから四年ぐらい経っているでしょ。阿部さんの亜流も大分出てきたころじゃない。ふわふわしたムード的な俳句が多くなったんですよ。
 阿部 もっと言っちゃえばうわついてたっていうことですよ。それとね、感覚のもつ狭さみたいなもの、感覚っていうのはひじょうに直接的でしょ、それだけしか言えなくなっちゃうわけですよ。感覚でなく存在へっていう言い方だとぼくは受けとりましたね。
 大石 谷さんはどうだった。
 谷 今聞いていると、阿部さんや森田さんとはあのころの状況の捉え方がちがうんだな。あのころやっぱり、創刊時の傾向はマンネリとして主流をなしてはいるんだが、初期の熱気がうすれちゃってさ、たんにある類型のイメージ造りをするだけでね。それにかわる新たなる目立つ傾向としては、阿部さんのように、俺の目からみると脱け殻だけになってゆくような俳句が多かったんだよ。俺はどちらにも不満なもんだから、さっきも言ったけど、なんで社会性俳句が抹殺されたんだという感じで、積極的にそっちへ動いていた時期だった。阿部さんの俳句はたしかに新しい傾向だっだけど、森田さんが言うように海程の何かを止揚して出てきたもんだなんて、とてもじゃないが思えなかった。事実、阿部さんに対する反撥が強くなっていたと思うんだ。だからあれは、俺の大嫌いな阿部完市の俳句を認めるために書いたんだろうとしか思えなかった。金子さんは阿部さんの平明さは大切なんだ、決して軽いものじゃないんだと言ったと思う。しかし俺はね、重いものなんてのは金子さん一流の付け足しでしかないと思っていたから、あんな平明なんてとんでもないことだと思ってた。それと俺はね、あそこであげられていた阿部さんと、森田さん九月さんの作品は別だと思っていた。それを一緒くたにしてるところも不満だった。

■存在など

 酒井 ぼくはね、谷さんとはちょっとちがってね、阿部さんの作品はやっぱり金子さんと臍の緒がつながっていると思うんですよ。それはね、金子さんというのは状況における主体の表現というのをずっと進めてきているでしょう。阿部さんはそれとは一見ちがった、何か体の全体で感じる実存というか、阿部さんは気分とも言っていますが、あれがやっぱ広い意味での主体の現れだったと思うんですよ。だから金子さんは阿部さんを認めることができたんじゃないですかねえ。
 武田 ぼくはね自分に即して言うと、あのころは喩えが硬いというか、どこか頭脳操作でイメージ造りをしていたきらいがあると思うんです。海程全体にもどこかそういう感じがあったんじゃないですか。だから金子さんあの発言にはがーんとやられたですね。生粋の感性というか、人間本来の存在感の純粋衝動に立てということだと思ったですね。だからほんと目が覚めた感じだった。当時、森さんの作品はどこか不可解だったし、阿部さんはものたりないし、だからあの発言が海程にとってどういう意味をもっているかということはどうでもよかった。ともかく自分に即して受けとったですね。
 大石 そうすると受けとり方にはいろいろ幅があったわけですね。ぼくはね、やっぱり新しい感性の存在に光があてられて、あそこで海程が柔軟なふくらみを持ったっていう印象だった。ただね、さっきもちょっと言ったけど、あのスローガンみたいなやつ、とくに「平明であれよ」なんていう言い方はしちゃいけないと思うんだ。それぞれが自分に対して真っすぐであればいいんであって、なんにも平明である必要はないんだから。
 阿部 だけどそれは大石個人の読みであって、ぼくの読みは先ほど申し上げましたようなことなんで、ぼくに対するまさしく忠告としてとってるわけ。それでひどく胸に応えたもんだから、存在ということを自分なりに考えはじめて、それをなんとか盛りこんでいかないと重くならないぞと思ったわけですよ。そのことからね、言葉の自然だとか精神の季節だとか、そういうふうなことがぼくの中から出てきたんですよ。その根本はやっぱりあの時言われた存在ということでね、自分の存在とはなんなのかということから出始めたのが、ああいう一連のぼく流の存在論なんですよ。
 森田 ぼくはね、現実の中におかれている自分の生き様とか様体ね、それにかかわる意識とか、そういうものをもう少し深く書きたいということね。
 阿部 個人の個の極化。それを具体的な自分の存在の姿かもしれないと思っているから、そっちの方へ動いちゃうんですよ。
 大石 いままでの発言を聞いていると、阿部さんは自分にひきつけてるからね、平明であって軽くちゃいかんぞ、重くなくちゃいかんぞと受けとった。
 阿部 うん受けとった。
 大石 海程全体では逆に平明でない状態をね、平明にしろっていうふうに受けとった。そういう発言として働いたんじゃないかという。
 谷 俺はそう思う。
 阿部 両方あったでしょうね。
 酒井 それとあのころ、金子さんには伝統見直しの姿勢が加わりはじめていたと思うんですよ。伝承派には決して伝統は見えないんだという、それは俺たちの領分なんだというようなね。それがどこか気分としてこの平明
ということにつながってるんじゃないですか。

■誤解された〈平明〉

 大石 ところでどうですかね、この発言がその後の海程にどのように作用していったか。
 武田 ぼくはね、存在を重いものをというのがこの発言の実質だったと思うけど、それを離れて大勢たいせいはただ平明へという方向へ行っちゃったんじゃないかなあ。平明ということが、ものすごく類型的に受けとられちゃってね。
 谷 そう、わからないという言い方があるでしょ。平明っていうことをね、わからねえという俳句を駄目な俳句なんだって切っちゃう、そういう方向でもって捉えてしまった人がいると思う。わからないけどいい俳句だという、そういう言い方を許さなくなってしまうんだ。
 阿部 平明っていうのはひじょうに本物の感じがあるんだなあ。本物っていうのは平明なものなんだという感じがありますよ。
 谷 そういうね、すぐ正当論的な言い方をされるわけですよ。しかしね、平明なら本物という保証はどこにもないでしょ。難解で重くたっていいんじゃないかということが、ぼなんか反射的に出てくるんで。
 大石 俺だってそうだよ、自分の作品を平明になんていう気持はまったくないからな。ただね、あの時金子さんは言葉をよく煮つめよということを言っていたと思うけど、そのことは身にしみて受けとめてもらわなければこまるタイプが、たしかに海程には多いと思うんだ。ところが大勢は武田さんのいう通りだった。だからぼくはね、海程の現在の生き生きしてない状態がどこかこの平明というこそばに根ざしているようなところがありはしないかと思ってるんだけどね。
 阿部 あるかもしれないなあ。「平明で重いもの」っていうと、たとえば存在へっていう言い方の時、ひじょうに抽象的な感じがするわけでしょ。一種の抽象感があるもんだからね、たしかにあれ以降海程の俳句自体がひじょうに抽象的になっていったかもしれませんね。
 森田 存在へと言ったとき、阿部さんの方向が一つの路線を作ったでしょう。ところがその路線がすべてじゃないはずなのに、もう一つごちゃごちゃした部分が一向に出てこないんだよね。その部分への問いかけが一向にないまま現在になだれこんできちゃった感じがあるんですよ。だから平明というこれ、収束してないね。ずうっと続いてる感じだね。
 大石 社会性から造型論といい、それから創刊時の疾走感といい、結局、何を書くのか、何を書きたいのかという点で一貫していたと思うんだ。ところがこの平明に来てね、ひょこっと方向がひっくり返っちゃった、どう書くか、どういう書き上がり様か、ようするにスタイルだけに意識が奪われてしまったって感じなんだな。もちろんスタイルが、作者の個性に応じて多様であることは望ましいことさ。だけどね、スタイルそのものが表現意欲の対象になっちゃったんじゃこまるんだな。本末転倒さ。最初に言った、スタンドプレーやテクニック傾斜というのもこれに関わっているはずなんだ。だから、とくに若い人たちそこのところで踏み外してもらいたくないんだな。スタイルなんてのに取り憑かれたら作品は必ず腐っていくからね。
 谷 だからね、そういう意味でも社会性ということ、もちろん社会性は態度の問題だけれどね、あそこに立ち返ってね、もう一度あれをじっくり消化しなおすべき時期が来てると思うんだよ。
 大石 俺もそう思うんだ。そうでもしなきゃあの生きの悪さは脱け出せないんじゃないかとね。金子さん「衆の詩」なんて言ったのも同じ思いじゃないのかな。

■「衆の詩」

 大石 平明はこのくらいでいいですね。まあこの平明ともいくらか関係するんでしょうが、金子さん数年前に「ものと言葉」という発言をしてますね。あれはものべったりの伝承派と、ことばがクラゲのようにものから遊離している一派とを切るかたちで、ものとことばの豊かな関係に立てということだった。だからあれはそういう状況の中で論として広く一般性を主張できるものだったと思うわけです。ところが今度の「衆の詩」は、あの上に金子兜太という個性が、論としてではなくいわば肉として加わっているから、受け取る側の資質や能力に応じてその理解や評価もいろいろ違ってくると思いますね。まあ海程人は内容はもう十分承知しているわけですから、これはざっくばらんにお願いしたいんですが。
 武田 あれは初め秋田の勉強会で言われたんですね。それからこのあいだの「衆の時たたび」で敷衍拡大されたんだけど、ぼくは秋田で言われた時、ナマナマしさということだけを頭に入れてきてね、いわばその感激がずうっと続いてきてるんです。作品を作る上でもそこんとこがひじょうに有効ですね。
 大石 ぼくもね、それが本筋だと思ってるんです。こんなたるんだ作品ばかりみてるのは、俺はいやだっていう気持ちがね、金子さんの中にもあると思うんだ。
 阿部 ぼくはね、ここ三年ばかりのあいだの金子兜太という人の作品をね、特にそのことぼという点から書かされたことがあるんだけど、そうすると金子さんのことばに対する姿勢は言ってしまえばナマでなけりゃいけない、ナマナマしくなければいけないということですね。そのことが、この「衆の詩」ということばの中に書きこまれていると思うんだな。だからぼくはね、海程は現在、抽象的なことば、あるいは抽象志向の勝った作品がふえてきていると思いますから、それに対するかなり有効な発言である、少なくともぼくの場合打ちすえられる力がある、海程にとっても頂門の一針だと思うんですよ。なによりもことばのナマという言い方で言いあらわされるものを見ろと。〈夜は朝日の光り消えがち山の酒〉という句について書きながらね、こりゅやっぱり一本とられたっていう感じがしました。やっぱり一つの論としてね、海程はきちんと受けとっておかなければいけないんじゃないですか。
 森田 「衆の詩ふたたび」で喩えの動脈硬化というでしょう。喩えということは、ある意味では現実から疎外されているものをもう一度現実に返す橋渡しだと言っていいと思うんですよ。そういう喩えが動脈硬化してるっていうことは、外のものがみえなくなっている、あるいは外への働きかけが弱まっているということですね。だから、抽象的なもの観念的なものをね、日常の中へおろしていく、ことばをその中で捉え返すということがいま必要じゃないかと警告してるわけでしょ。だからね、いまの海程の置かれている状況に対する発言とも思えるんだけど、金子さん自身のね動きの中で出されてきてるんじゃないかという気もする。

■螺旋状の発展

 大石 ぼくも初めはそう思ったんだ。金子さんは一茶とひじょうに深く関わってきたでしょ、そしてとくにここ数年はその中でね、自分の創作活動をふくらませてきた。だからね、この「衆の詩」っていうのは一茶にみられる作家エネルギーのあり方というのを踏まえてることはたしかだと思うんだ。いままでのものは社会性にしろ造型論にしろ、いわば論ですね。しかしね、これだけは論じゃないと思う。金子兜太という作家体験。いわばこれが作品なわけです。ほくには金子さんの発言の中でこれが一番ぴったりくるんですよ。だから金子兜太における必然性はよくわかるんだが、はたして海程の路線に関わる問題として受けとる必要があるのか、それがはっきしなかった。しかしね、こうして座談会がここまで進んでみると、これはたしかに海程の流れに関わっているんだね。
 阿部 しかし同時にね、この「衆の詩」ってのは、金子さんの覚悟みたいなものが言われていると思いますね。それだもんだからぼくなんかは「社会性は態度の問題である」とすうっと結びつくんですよ。それでね、やっぱり来たなって思う。螺旋状の発展と言いますか、弁証法的な必然性というものを感じるんですね。
 大石 そう、ここにきてまたね、何を書くかっていう、いわば海程の本流に立ちかえった。しかもこんどはどこからという視点がえられて、いかに書くかということとも融合されている意味合いがありますね。酒井さんいかがですか。
 酒井 衆ということばはいかにも金子さんらしいですね。金子さんという人は一貫してそういうところに基本姿勢を据えてきた。決して体制的というか、貴族的な発想はしない人ですから。ぼくはね、この「衆の詩」で金子さんの論はひとまわり豊かになったと思うんですよ。以前は社会性とか主体とか言いながらも、造型論の段階では、どこかこの生身の自分というものは分離していた感じがありますね。いままでは謂うところの志向的日常にウェイトがかかっていたでしょ。それがここでは即物的日常の価値を認めることによって、いわば俳諧ということばによってその分離現象を埋めえたと思うんですよ。

■作家エネルギーの溶鉱炉

 阿部 大石さん、あんたさっきこれが一番ぴったりくるって言ったでしょ。それから酒井さんともちょっと違ってね、わたしゃあ「社会性は態度の問題」だなあ、これが原体験。その中に「衆の詩」という言い方を含められる。
 大石 そうかなあ、「社会性は態度の問題」っていうときね、やっぱりどっかに対社会というところがある。
 阿部 「衆の詩」ってのは対社会でしょ?
 大石 いや、こんどのはちょっと異質なんですよ。金子さんいままでの発言はね、とくに造型論はね、いつも図式が書いてあるわけです。こんどのやつだけはね、不思議に図式がないんですよ。もちろんひどく図式らしく書いてあるんだけど、あれはこの発言の本質じゃない。ぼくはね、どうにも図式ができないで、純動物、衆の純質としての純動物と書いてあるとこ、これはね図式化できない領域だったと思うんですよ。はじめて金子さんの中でそれが出てきたと思うんだ。
 阿部 それだったらね、あなたは純動物という言葉に惚れるべきであって、「衆の詩」っていう言葉じゃないんだよ。
 大石 題じゃなくってね、その純動物っていうところがこの発言の含んでいるエッセンスだと思ってるから。
 阿部 そうするとね、この発言によれば純動物というのは日常の非日常的な部分でしょ。ぼくはそうじゃなくてね、非日常というものを大きく包んでいる日常というもの。ぼくはね、「衆」っていうことばにそれを一番感じますね。だから日常とか衆はこわい。純動物という言い方になると、感覚的でせせこましくって、みみっちくなっちゃうんだなあ、
 谷 ぼくもね、純動物ということばは存在と同じでね、抽象的感覚的すぎるんだ。それよりも、志向的日常性ということばが具体的でわかりいい。「社会性は態度の問題である」ということにつながり、しかも社会性ということばの狭さを抜けだしたことばだと思うんだ。
 大石 純動物ってことばは、これから先はもう発言できないというところでの発言なんだがね。その言葉がきらいならね、「だからここでまとめてみますとね、衆というものの中には存在状態としての日常という形で、それこそ日常的にとらえうるものがある。同時にまことに非日常的にしかとらえられないような、もっとも本質的なもの、つまり純質がある。つまり、日常の中に自分達が日常的にとらえているものと、非日常をもった純質のの衆の内容というものとの二つがある。そして最後の目的は、非日常性をもった、日常の中の非日常的な部分であって、それが純動物だと言える。」ぼくはこれでいいと思うんだけね、それがいやなら純動物なんて言わなくともいいんですよ。日常の本質と言えばいいんです。
 阿部 結局ね、いままでは、構造的な俳句の見方をすれば、意識というものを根本においてね、それから「平明で重いもの」という、抽象っていうか、濾過作用といってしまうかね、そういうふうな動きがあったんだけど、それに対して、「衆の詩」という言い方の中には、言い方はうまくないと思いますよ正直ね、しかしひじょうに大切なことが言われてるんですよ。それはね、純動物ということばで言いあらわされるドロドロさですね。純動物なんていうとドロドロでないというふうに受けとられがちなんだけど、そうじゃなくって、純動物ということばで言われているドロドロさをね、海程の俳句というものはもう見直してみろ、忘れてはいませんか、ということなんです。まさにわたしなんかにはまたまたグサッときたんですよね。だからわたしゃあ俳句ができなくなったんです。はたして海程の中で自分のこととして、自分の肉に突き刺さった矢としてどれだけの人達が受けとめているだろうかということね。
 大石 そう、これは言ってみれば作家エネルギーの溶鉱炉の問題ですからね。これが貧弱だったりインチキもんだったりしたら、いくら作品の体裁をつくろったって駄目ですからね。だからぼくは、これ読んで中国の文化大革命を思い出したりしてね、これまともに受けとめると海程の中はごちゃごちゃになるぞと。まさに毛沢東から一番若い紅衛兵までがさ、全部を総点検してこの尺度ではかり直さなけりゃならないようなものがね、ここにはあるんですよ。ものすごく恐いものがね。
 谷 うん、もう出来上がっちゃってる年配者はしょうがないとしても、少なくとも最近出てきているような若手のね、自己閉鎖的な方向とか技術の、それも底の知れている技術に傾いた連中に対してはひじょうにきびしいだろうな。
 武田 そのへんは海程全体を包括するテーとしてよりも、作家集団ですから個人個人が受けとめるよりしかたがないでしょうね。ただぼく自身は、これ、まっとうに受けとめられないやつはおしまいだな、って感じ。
 森田 ぼくはたとえば抽象的な部分とか観念的な部分という半分はいままでの論でよくわかったんですよ。ここへきてあと半分のね、日常の中へことばをどう下ろしてゆくか、どう作用させてゆくかという部分があるんで、よくわかる。だから「衆の詩」という発言全体は新鮮な感じがするけども、この題はどうなんだろう。
 大石 はじめて金子さんの本心が出たという感じ。いままでは啓蒙の姿勢がいつもあったと思うけど、これにはそれがない。金子さんね、衆なんて言わなくても本当は人間でいいんだ、しかし「人間の詩」じゃサマにならんからって言ってたけど、この内容は日常の復権というニュアンスが強いね。
 谷 だから俺には、『現代詩手帖』のね、「日常で書く」という方がぴったりくる。
 阿部 でもそういう風に言われるとなんだなあ。衆ってのは広がりがあるわけですよ。立体的なんだ。あんたがさっき言った志向的日常性なんていうのもやっぱりだよ。
 酒井 ぼくはね、作品を書いていく上で自分に即して言えば、やっぱりその志向的日常と即物的日常のせめぎ合い、ということを大事にしていかなければと思ってるんですよ。
 谷 これは俳句だけじゃなくってさ、今日の芸術一般に目立っている、観念の自己遊離、どんどんどんどん痩せてゆく方向に対して、いかにして太るかという体験を語ってくれていると思うね。
 阿部 ぼくらはこれを踏み台にさせてもらってなんとか金子兜太という人を乗りこえたいですねえ。
 大石 ただね、この「衆の詩」を平明というところにつなげてきたら危ないと思いますね。
 阿部 平明ということはいいことだよ。
 大石 阿部さんはそうでしょうけどね、平明というのはいわば作品の到着点を語ってるんであって、経過を拒否しちゃうことになりかねないんですよ。だから平明なものなんて書くな、人にわかられる作品なんで書くなってぐらいのね、経過の重視がなけりゃいけないと思うんだけど。
 阿部 だけどあんた、経過ばっかりで終わっちゃうのが多いんだからさ、とりあえず出来てなくっちゃ、駄目だね。それでまあ「衆の詩」というのはそのへんのところで各自がそれぞれに思いをこめてもういっぺん考え直してほしいということなんですね。
 これに対する批判みたいなものももちろんあるわけですが、大方はこの内容を読まないで、あるいは読めないで、ただ衆ということばだけみて、人集め政策だとか、俺は衆じゃないぞ、エリートなんだ、とかいうひじょうに俗なレベルのことなんで、これはもう省きます。以上だいたい金子さんの発言を手がかりにして、俳壇状況というものを睨みながら海程の流れとかぼくらの体験を検討してきたわけだけど、どうですかねえ。これで最初に大石さんが言った海程集団の現段階を超えるための叩き台になってますかねえ。海程はひじょうに多士済々で、堀さんには「かたち」の論がありますし、林田先輩の、何を書かないか、反有季など、しっかり聞き学ばなければならないものが多いし、また各人の体験や受けとり方も千差万別でしょうから、それは今後の宿題にさせてもらうしかないですね。ということで、ぼくちょっとこれで失礼しますので、大石さんあと頼みます。(阿部完市退場)

■力を養う

 大石 いままでは流れというものに焦点をあててきたんだけど、角度を変えてわれわれも含めて海程の仲間たちの、いわば作り手の側のあり方といったものを、時間もないんで話題をしぼって。酒井さんどうですか。
 酒井 やっぱり海程は、とくにここで育ってきた人達には、兜太氏の影響がひじょうに強いですね。これはもちろん恵まれたことですし学ぶべきを学ぶのは当然だけど、もうひとつ、それぞれの持ちものというものを自覚して大切にしておかないと、いつまでも一人立ちできないんじゃないでしょうか。
 谷 作者生来のナチュラルな良さっていうのはたしかに大きな財産だけど、海程初期にそれだけに寄りかかったかたちで青春性の表現といったものをしていた人達は、もちろんその時点ではいい仕事をしたわけですが、大方はそこで動けなくなっちゃってますね。
 森田 心情的鮮度だけじゃ駄目だってことだね。
 大石 うん、なんて言ったらいいかな、つねに過程であるというか、つねに次を目ざすといった方法に立っている人なら、そういうことはないはずなんだがな。阿部完市とか崎原風子なんかがその典型でしょう。そういった、どこかに立とうというんじゃなくて、そのどこかを突き抜けていこうという。ここに家を建てよう、じゃなくて、ここに家を建てないぞという、志向というかそういう方法を貫いてきた人たちが、だんだんはっきり見えてきましたね。家を建てちゃうと、そこで終わっちゃってる印象。
 武田 ぼくはね、その家を建てるという、まあ一つの作風に立つということはね、それ自体は一つの成果だと思うんですよ。ただそれがね、その作者本来のものを限定しすぎてはいけないってことでしょう。その点、このあいだの新鋭特集ね、二回続いたけど、あれうますぎないかね。
 森田 うますぎる。けっこうベテランもいるようだから一概には言えないけど、あのころは表現意欲が表現に納まりきらなくて、それが作品の上に特有の軋みとかざらつきとし現れてくるものなんだが、どうもそういった印象が稀薄ですね。すっぽり納まっているて感じ。これは、俳句とはこういうもの、こう書けばいいものといった先入観があって、それが肝心の表現意欲と入れ替っちゃってるんじゃなかろうか。だから表現は多彩でも、別に個性として熟してはいないんだね。
 谷 自分をあらかじめ限定しないところで、自分をたしかめながら書いていくことが大事なんだよ。限定しちゃうとね、表現じゃあなくて、その限定したところでの報告になっちゃう。
 大石 きびしいね。まあわが身にも振りかかってくるんだからいいだろう。もうひとつ、残念かつ残酷な言い方だが、ここ数年、海程でいちばんいい仕事をしているのは、肝心の若手じゃあなくて、家木さんとか阪口さん、鷲見さんといった大先輩だと思うんだ。
 谷 いちばんおどろいたのは鷲見さんだよ。復活したと思ったら、失礼な言い方だけど、人が変わったようにすばらしい。
 大石 そう、〈河見ておれば河は確かに岸を打つ〉〈妖気なし日日パンに生き葬にも行く〉なんてね。この人たちにはね、ただ自分の気持ちというのをストレートに書いてみたい、ともかく書いてかたちを与えてみたい、それだけなんだ、というひじょうに強い意志を感じるんだ。他人を意識した見てくれなんてのは、最初からないんだろうが、作品の上にけっしてそんなものは残さないぞというね。ぼくはね、これはこの形式の根本性格だと思ってるんだ。
 谷 そういうストレートさが若手にないんだよ。人に見せるという意識に縛られているんじゃないのかな。
 大石 もちろんね、年齢というもの、とくに鍛えあげられた年齢というものの、装置としての力はひじょうに大きいと思うんだ。しかしね、ぼくらは指をくわえて見ていちゃあいけないんでね。いま現在あの人たちがああいう作品を生み出している、その力に拮抗できる力というものを、どうしたら自分の中に養うことができるかということだと思うんだ。
 その点「衆の詩」なんてのは、かっこうのヒントを与えてくれているんじゃなかろうかと思うんだけどね。
 どうもきょうは、進行の不手際で、海外への関心などをうかがうことができなかったんですが、長々とごくろう様でした。(一二六号・一二七号)


『海のみちのり 三十周年・評論集成』/海程会1992/P157
初出:『海程』126号・127号

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