『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実 岡崎万寿

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む
俳人兜太の「トラック島戦場体験」の真実  岡崎万寿
《3回連載・その1》

はじめに

 俳人兜太は、「私が俳句です」「私は反戦の塊です」といった、二つのことばを持ち、それを同化して自らの生き方とした、歴史的にも希有な人間である。その九十八年の波乱の人生そのものが、まさに、人間あるがままの存在者だった。
 二〇一八年二月二十日に他界し、その一年後から、『金子兜太戦後俳句日記』全三巻が刊行されはじめた。兜太の年齢でいえば、三十七歳(一九五七年)から、九十七歳(二〇一七年)まで、六十一年間という長い歳月、ほぼ毎日、その知られざる内面をも、克明に率直に書き綴っている。これもまた、日本古来からの日記文学には類をみない、希有な事象といえる。
 第一巻(一九五七〜七六年)の解説を書いた長谷川櫂は、「兜太の戦争体験」と題して、こういっている。生きた波乱万丈の時代と人生のなまなましい記録である。まぎれもなく戦後俳句の超一級の資料である。何よりも未来の兜太論の基礎資料、土台となるにちがいない。
 その第一巻の出版を、読売(二〇一九年二月一〇日付)、朝日(同年三月一七日付)など、写真入りで大きく取り上げている。そこで共通して注目しているのは、兜太が『日記』の中で、自分のトラック島(西太平洋・現チューク諸島)での戦場体験を、人間ドキュメントの小説として書き上げることに、「並々ならぬ意欲」を燃やし続けていた点である。
 私も、その兜太『日記』第一巻を夢中で読み、中でも、その「トラック島戦記」なる小説を書くための、異常ともいえる執念に、正直驚いた。その格闘は、第一巻で十八年かけても終わっていない。なぜ、それほどまでに、と深く感じ入った。
 そして、その解明が、戦後の金子兜太の反骨の俳句人生を明かす、もう一つの重要な鍵ではないか。兜太自身が、晩年、「この句は自分の生涯のなかの最高の一句だ」(『他界』)といった、名句の
  水脈の果炎天の墓碑を置きて去る
の背後にある、想像を絶する、超異常な戦場体験の真実が、見えてくるのではないか、と思うに至った。
 そこを、探求してみたいと思う。

㈠『日記』にみる「トラック島戦記」へのこだわり

 そのアイディアは、三十九歳(一九五八年)の晩秋、ふーっと湧いたようだ。その頃、兜太は日本銀行の長崎支店へ転勤していた。『金子兜太戦後俳句日記』には、そこから自らの「トラック島戦記」への、精魂こめた記載がつづく。長いので、その主要な部分を紹介しよう。

十一月二十一日(一九五八年)
 臼井吉見は、中野重治の「梨の花」を強烈、潔癖な作として推賞していた。これを読みながら、自分のなかに湧いてくる衝動を愛した。トラック島を舞台とする大ロマン――強烈な人間群像を描きたい。その想念がいつとはなしに熟し、さらにかき立てられる。大事に、ロマンのイメージをのばしたい。強烈なものを。清潔なものを。
八月十二日(一九五九年)
 調査の連中に、ふと戦時中の話をしている内、「いも」という題の小説を思いつく。甘藷をめぐる人間の関係と餓死の様相。やっと一本、トラック島の構想にシンが入った感じ。
十月九日
 自叙伝の第一発として、トラック島のことを書こうと、またしきりに考える。当時の自分の感動範囲がひどく「人間的」であり、それも「あまりに人間的」であったことに、創作との結びつきの弱さを悟る。主題さえ明確でない。


 こうして、さまざまな構想をめぐらせ、実際に「トラック島戦記」なる小説を書き始めたのは、一九六〇年に東京の本店へもどり、六一年に「造型俳句六章」を総合俳誌「俳句」に連載した後、同年七月からのようだ。
 ところが、現代俳句の方法論を確立した、したがって、かなり難しくもある、その「六章」の場合は、「割合スラスラ書ける」「気持よく書けた」と記している兜太『日記』が、「トラック島戦記」になると、なぜか、難行を繰り返している様が、目に見える。

七月二十八日(一九六一年)
 午後、「トラック島」の第一回を書いてみるが、まず文体についての疑問が出、内容が不安になり、こんなに文章に自信が持てないことは珍しい。
七月三十一日
 「トラック島」は書くほどに自信がない。こんなはずはなかった、と思うほどだ。カミュを読んでみたい。何故だか分らないが――。
六月五日(一九六四年)
 オレには文学と政治しか向いていない。……行動的文学(ヘミングウェイや中野重治のような)を志したい。俳句はそれに合っているし、散文を書きたい。――以上、朝の会話。
四月四日(一九六七年)
 「トラック島戦記」、とりかかろうとノートは出すが、書き出せない。
五月三十日
 「トラック島戦記」を本命に決めて、今週からノートをとこころざしていたが、見事はずれる。雑事というものはおそろしいものだ。
八月十五日
 車中、「遥かなノートルダム」を読みつつ、ふと昨日日本読書新聞から「未だ書かれざる戦記」の依頼があったことを思い出し、従来の戦記が「倫理的」又は逆に、「非倫理的」であることが不服であると気付く。もっと冷静に(客観的に)人間の究極のエゴの動向を見定めるべし、ということ。煩悩を見てやろうということ。
九月予記
 トラック島戦記を必ずモノにする。九月十八日帰路、読書中、手帖にメモ。○死に直面して生きる。故に人間のエゴのすべての魂悪面を笑いとばせ(おそれず見定めよ)。
二月一日(一九六八年)
 昼、文春、西永氏来て、トラック島戦記三十枚を頼まれる。青春の日の記録ということで随筆風にと。戸惑う。
二月二十一日
 休んで「トラック島ノート」、ともかく午後から八時までに二十枚ほど書く。矢野さんの死のところまで。しかし、皆子に読ませると大悪評。戦争がない、という。シャクに障るが仕方ない。
四月十八日
 文芸春秋の「トラック島・沈黙の戦記」(先方でこう題をつけた)を校正しつつ修正する。終りに近づくにつれて、詠嘆的になるので、それを全部直したい。
(筆者注:この文章は「文春」一九六九年一月号に掲載)

 兜太が、「トラック島戦記」のアイディアを抱いてから、ここで、すでに約十年になる。そこで、この文春の随筆風「トラック島戦記」をもって、一応の締めくくりになるのでは、と思いきや、七〇年代に入ってからが、いよいよ本番となる。兜太の本気度が見えてくる。
 「トラック島戦記」という、小論のテーマそのものであっても、兜太『日記』からの長い引用は、独立した評論にとって、なるべく避けたいところだ。しかしなにせ、金子兜太のこと。日記文そのものが、トラック島戦場の真実に肉迫したい、兜太自らの内面を赤裸々に表現した、感動の人間文学となっている。
 この裏面史ともいえる兜太『日記』は、私にとっても興味の尽きない新鮮さがある。いま少し、紹介を続けたい。

八月十五日(一九七〇年)
 終戦の日。思わずトラック島の話がでる。机上に、五味川純平と安田武の対談「25年目」――「危機と破滅への予感」(週刊読書人)。同感。
十月六日
 戦争記の準備にかかり、気になっていた梅崎春生「桜島」を車中で読みなおす。刺激大。サイパン陥落後からはじめ、追いこまれてゆく人間の裸の世界(葛藤)を書こうとおも いはじめる。
十月七日
 「桜島」。終りあたり、〈死〉の感傷にだれこみすぎる印象。抒情体質が梅崎に似ているだけに、小生も要警戒。つづいて「日の果て」。おれのトラック島は、〈何んだったのか〉、その問いにとらわれる。
十一月四日
 車中で久しぶりに「野火」。再び、頭をトラック島で埋めようと努力する。
十一月十日
 「野火」を読みあげる。人肉を食うか食わぬかのところの描写はあれ以上はできまい。しかし、最終がいけない。大岡という人はすぐれた常識人だ。
十一月十二日
 トラック島、やっと一人、シンになる人物を見つけ出す。そして主調(底流)は、エゴと士官団の主導権交替、島の全体部分の階級分化におく。エゴと権力の問題。
一月一日(一九七一年)
 陽に当りながら文春に書いたトラック島の記録を読みかえし(まったく記録だ)。
一月二十三日
 一時から六時まで「環礁戦記」(筆者注:ここからタイトルがこう変わっているが、小論では引用文以外は「トラック島戦記」で統一して用いる)。出だしはまあまあとして、トラック島と施設部の記述がまったく事務的でイヤになる。
一月二十四日
 午前三時間、午後五時間、環礁戦記。桜井にひっかけてトラック島と施設部の状況と機構をトットコトットコ書いたが、夕食とともに、また不満。どうもこのところが鬼門だ。
二月九日
 環礁戦記の不満の実態が少しずつ見えてきた。自分に即していないからだ。事実ばかり書こうとしていたからだ。
五月二十一日
 戦記。「死」のことばかり多いが、落下傘部隊士官二人と自分の死への感応の差を書いてみる。うまくゆかないが、おもしろい。
六月十九日
 ついに、戦記を書きあげる。ペースがきまってからは日常のように書けたので、感動はないが、よくやった、という気持。
十月三日
 「文芸」に渡してある「環礁戦記」のような、主体的でロマンの筋のあるものは文芸に不向きと考え、とりさげて別のところに発表しようかと考える。
十一月二十九日(一九七二年)
 戦記をやろうかと思いはじめる。いつ死ぬかわからない。そのとき、一茶はやっていなくても悔は残らないが、戦記未完成は十分に悔をのこす。やはり、これを――とおもう。
五月三日(一九七三年)
 一日、戦記後半の生と死。自由(エゴ)と権力(エゴ)について、偶然ヒントを得。
八月二十八日
 戦記への気力集注意欲湧く。小説を読み、北一輝を研究し、太平洋関係ものを読み――。
九月十一日
 朝、寝床でにわかに戦記の構想がひろがり、結末の殺人の部分まで――ここを悩んでいた――決る。農園のおやじは生き残らせ、真面目な日本人工手が鮮人労務者に刺殺されること。その労務者を島民部落がかくまうこと。そこに神主がいること。夢中、にわかに霊感というべし。
六月二十八日(一九七四年)
 寝床のなかで、戦後三十年の仕事を虚妄と感じる。戦争体験が鮮明なためか、それから現在まで、三、四年の時間しか感じない。なにもない、感じなのだ。
十一月二十五日(一九七五年)
 戦記を書こうとして、徹しきれない自分に苛ら立つ。
三月二日(一九七六年)
 朝、「海程」と「戦記」に徹することを腹にいいきかせる。あっちこっちにいい顔をして雑事雑文にとらわれていることは、〈黒い奴等〉に真に対決する姿勢ではないということだ。
三月三十日
 戦記、どうも不満。観念的でいけない。戦争観と心情の関係、書き直しては捨てている。
四月二十二日
 戦記を書く。トラック大空襲のところにきて、太平洋がようやく、からだのなかで波打ってきた。夜、寝しなに、三年でも四年でもかけて、じっくり全部やりあげて、人に見せろ、と皆子。……戸惑う。
九月四日
 「戦記」清記にはいるが、トラック島についてからが平面的な、散漫な感じで、辛い。たんたんとやればよいのだとおもうが。「施設部」という特殊(軍隊のなかの民間部隊)な組織のなかの奇妙な人間たちと戦争の進行をからめて、和久(矢野中佐)の死に集約されればよいとおもうのだが。書きこめ、書きこめ。


 兜太『日記』第一巻に書かれている、「トラック島戦記」にかかわる主要な記録は、ここで終わっている。この執念ともいえる、トラック島戦場体験の小説化は、いずれ明らかになるが、残念ながら未完成、未発表に終わる。『語る兜太』(二〇一四年刊)で、こう述べる。

 戦争体験というものはフィクションじゃない。我々生き延びてきているものには、語り伝える義務がある。それには小説という形式が有効なんじゃないか、そう思って、今から考えればずい分昔に書いたものをふととり出してみた訳でした。結局のところお笑い草、永久封印です。

 言外に、兜太の複雑で辛い心境が伝わってくるようだ。  (次号へつづく)

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