全舷半舷〈8〉狛狼に螢 柳生正名

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

全舷半舷〈8〉
狛狼に螢  柳生正名


 また映画「天地悠々」封切りイベントの際の話である。ゲストとして登場した嵐山光三郎氏がかつてNHKで放映した「辞世の句」特集収録時の、こんな裏話を語っていた。
 兜太さんが台本の裏に「おおかみに螢が一つ付いていた」と書いてよこした。昨日詠んだ句と言う。「狼が秩父にいるんですか」と問うと「いるんだよ。そこに螢が付いている」と言い張る。聞いてみると、螢が付いているのは「神社の狛犬だ」とのこと。「(本当の狼でなく)狛犬じゃないか」と混ぜ返しても「いいや、生きているようなんだ」。
 結構びっくりな話である。兜太の誕生前の1905年を最後にニホンオオカミは絶滅したというのが定説。この句のおおかみは兜太の詩的な幻視と解されてきた。しかし、本人の“証言”によれば、秩父の山犬を祭る神社で今も起こりうる実景を描いたことになる。
 兜太は自句自解で「私も産土を思うとき、かならず狼が現れてくる」とも言っている。ならば「狛狼」説は“伝統派”俳人が「頭で創った俳句」と難癖をつけてきた時に言い返
すための方便だったのかも、と思う。「ああ言えばこう言う」兜太の面目躍如である。
 最新の思想潮流として「実在論の復権」がある(グレアム・ハーマンら)。かみ砕けば「人間が見なくとも実在するものは実在する」という主張だ。当たり前のようだが、写生俳句は、龍のように「現実に見ないものは句にしない」が鉄則。俳句上、人が見ないものは存在しない扱いだ。これは一見リアルな自然を尊重するようで、実は見る人間が“所有”できない自然を否認する「人間中心主義」の現れ。哲学界では、従来こうしたエゴ丸出しの視線で自然を見下してきたことへの反省がいま顕在化しており、兜太が晩年「存在者」を語ったこととどこか通じる。
 人間中心のエゴから抜けきれない写生派からの論難の逆手を取るべく、「狛狼」説を仕組んだのだとしたら、いかにも兜太らしい。その老獪に何やら懐かしささえ感じる。

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