『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む:「海程」は創刊された 山中葛子

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。

『金子兜太戦後俳句日記第一巻』を読む

「海程」は創刊された 山中葛子

 トラック島での戦争体験を抜きでは語れない「戦後の兜太」がさらに「存在者」という考え方にまで直結している、昭和三十二年から晩年までの長きにわたる六十一余年が綴られている、『金子兜太戦後俳句日記第一巻』(白水社)が刊行された。「第一巻」にあたる本書は、昭和三十二年から五十一年の、三十七歳から五十六歳。社会性俳句と前衛俳句の旗手として台頭してきた兜太師が、第一句集『少年』で現代俳句協会賞受賞した翌年から始まっている。
 三十二年、「俳句」に「俳句の造型について」書き始める。戦後俳句の中心にいた複雑な人間関係を明かす、赤裸々な壮年期が収録されている。ことに印象深いことは、「豪放磊落にして繊細」というこれまでの兜太像がさらに思慮深く、プレッシャーを生み続ける自問自答が尽くされている生々しさ。日記を書くという自伝の記憶を反応させた、「二度生きる」という精神性がうかがえよう。まだ知られていない兜太像の新しさが呼び覚まされてくる日記の公開なのだ。
 さて、ここでは、三十七年の「海程」創刊への活動拠点に目を向けてみると、〈銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく〉神戸支店時代から三十三年、長崎支店へ。〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉へと。原爆被災の浦上天主堂近くの山里町の行舎に住む。隈治人、前川弘明の名が親し。
 三十五年、四十歳。日本銀行本店に勤務(為替管理局統計課統計係長)。杉並区沓掛町の行舎に住む。「何としても東京へゆきたい。支店生活十年間、蓄積したものを、東京で打(ぶ)っつけてみたい。文化ジャーナリズムと積極的に接触し、また日銀本店の人達と能動的に話し合いたい、そこから何か開けよう。」と、期待そのもの。長崎からの転勤時の旅を詠んだ「海程百句」がある。
 さて、私的なことを記せば、この秋、私は兜太師に出会うことが出来たのだった。十月二十三日、「俳句評論大会。日本出版クラブ。「詩の時代」を喋る。」と記された兜太日記には、しかし、私の名は無く、がっかりしながらもその時の情景が鮮やかに蘇る。太っていて象のように大きくて優しい目の兜太師が、壇上の黒板に〈砂の川抜き抜き光る赤い杖葛子〉の拙句を書き示して講評されている光景は、まさに夢のような出会いが適えられた瞬間であった。兜太日記から初めて私の名を発見したのは、その暮れの十二月二十九日、「山中葛子君来て、俳句をみせてくれる。おもしろい二十三歳。感受性が純潔だ。文章も書けという。」とある。翌年の夏には、私が「関西前衛59俳句大会」へ出席する前日に、兜太師から「海程」の創刊を告げられていて、いよいよ創刊の時が来ていたのだ。
 そうしたこの年は、「造型俳句六章」を「俳句」一月号より。第二句集『金子兜太句集』刊行。十二月、現代俳句協会の分裂、俳人協会発足。という激動ぶりである。そうしたなかで書かれた、「海程」創刊の辞には「愛人について」という副題のロマンが満たされているのだ。
 三十七年四月一日、同人誌「海程」(隔月)創刊号を発送。創刊から五号までの主な同人に、原子公平、阿部完市、阪口涯子、林田紀音夫、和知喜八、堀葦男、鷲見流一、隈治人、前川弘明、安西篤。
 編輯グループを組むなど、同人も増えてゆき、「海程」の展開は、戦後俳壇を牽引する知的野生ともいえる詩形への展望を示していよう。目標は、若者、中堅を育てる編輯への強い思いが感じられ、酒井、大山、大井、喜多、細川、守屋、阿部、安西、森田、谷、大石、更に武田へと。ことに、日銀勤務の若き守屋との運命共同体のごとき日々の凄まじさが、「海程」への道のりを蘇らせる。
 また、思いのほか親しみ深いことといえば「海程東京例会」があげられよう。例えばその日の出席人数と感想と講評がコンスタントに記されている数行は、大草原のなかの道標のように感じられるのだ。道標が点となり線となっていく兜太師の洞察力が明るく活性化しているのだ。ここには、皆子夫人の常に寄り添う理解者の姿が思い浮かぶ。

三十八年十二月二十五日(水)曇
皆子と二人でしみじみ喋る。―皆子は、あなたは「砂山」のようだという。たよれば崩れそう、しかし、いっこうに消滅しない。ニヒルで精神的存在だと。適切なり。俳句に詩をかけ、大衆に接触しつつ自分をまとめる。小説も大衆との接触面で書きたい。純文学糞くらえ、大衆小説というのもキザだ。自分は、そうした大衆性(行動とニヒル)を生かさないといけない、と思う。

 四十二年七月、熊谷市上之に転居。熊谷からの通勤時間から生き方の変化もみられるなか、日記を通し「トイレ」での発想はゆたかに持続。また、執筆活動は、岡井隆と共著『短詩型文学論』、『今日の俳句』をはじめ、第二句集から第六句集。評論集、評伝、対談、座談会など膨大な表現活動を進行させている。
 そうしたなかで、四十五年一月、大山天津也死逝。随筆「梨の木」を書く(大山天津也は「海程」創刊翌年三十八年から五年間編集長をつとめる)。四十六年七月、守屋利死逝。と、告別多し。
 また特記すべきは四十九年五月十七日、長男の眞土、知佳子結婚式。九月三十日、日本銀行定年退職。十月七日、上武大学教授(経営学原理を担当)。
 五十一年、五十六歳。「海程」十五周年全国大会を経た、巻末日記を次に。

十二月三十一日(金)晴
おだやか、寒気「子規の病苦」がどうも不満だった理由がわかり、半分ほど書きなおす。夕方、郵便局へ。ついに駒走鷹司の句集序文と年賀状をのこしてしまったが、まあまあの出来。


 天象ゆたかに、兜太師を追う「第二巻」を待つばかりである。

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