現代俳句の本格 金子兜太

現代俳句の本格 金子兜太

  「第二芸術」をこえる二つの志向

 桑原武夫「第二芸術」(「世界」一九四六年十一月号)を読んだときの私の反応は、文学論としては無効、ただし、俳壇(俳句をめぐる人間関係)批判としてはかなり有効、ということであった。これはいまでも変っていない。
 文学論として無効なのは、韻文と散文の混同にある。俳句という日本語の音律形式(最短定型)がもつ特長を見失っているため、その特長が〈非散文効果〉(韻律と定型空間の象徴効果など)にあるのに、散文的な要求をつきつけるという愚行を演じてしまったのである。
 俳壇批判として有効と受けとったのは、私自身が、大方の結社俳句を第二芸術以下とみていたからで、俳壇の因循なセクト主義と第二芸術俳句とは、明らかに裏腹の関係にあった。
 現在のせいの有りていに立つ、その生ま生ましさを俳句に込める――という当然の志向を、戦後、意識して積極的に押しだすようにしたのは、その状況への反撥があったからで、伝統の名にもたれ、季題の既成情緒にもたれあっている俳句に、明確に対立しようとしたのである。その場合、桑原氏の評論が一つの刺激になっていたことは間違いない。
 むろん、そういう志向は私だけのものではなく、戦中世代を軸に広く自覚されていたわけで、一九五五年前後にみられた「社会性」論議と実作の盛り上りは、おおぜいの参加なしには考えられないことであった。そして、そのなかには、素材本位の社会風俗俳句におわったものも多多あるが、半面では、自分の内外両面の現実に深く立ち入ろうとしたものも少なくなかった。私は当時から〈本格〉という言葉を使っているが、そう言えるような詩の一義に執した営みが、その後、根強くつづけられているのである。
 その営みは二つの方向にむかっている。一つは、あくまでも現在の生の有り態に執着するもので、その表現の奥に、人間にとって普通なるものを獲得しようとする。私も含めて、社会性を尊重するものにこの志向が強いわけだが、はじめは、表現要求の過度優先から、詩形と言葉の虐使に陥る羽目となって、前衛俳句というニックネームを頂戴した。
 しかし、一九六〇年(昭和三十五年)ごろから、表現要求の十分な俳句的充足を考慮してこの詩形の特長を生かすようになった。俳句特有の〈像と韻律〉の構築に取り組み、季語以外の言葉からも、季語同様(それ以上)の象徴機能を開発しようと努めている。そして当然、その基礎に、現在に生きるものの自然観と言語観の成熟がある。ここ二、三年の作品成果を、私はかなり高く評価している。
 いま一つの方向は、有季定型を揺るぎなき伝統として、そこに不易の境地を定着させようとするものである。社会性に批判的だったもの、あるいは、現代批評を古道(そして蕉風)に立って行なおうとするものに多い志向だが、少数の作者を除いては、まだまだ古典追随であって、古典と競い立つ覚悟に欠けているし、自然観も言語観も甘い。現在執着者に風俗化の危険があるように、この不易探索者にはなま・・悟りの懸念がのこる。
 ともかく、俳句は最短定型詩としての特長発揮のなかで、これら本格の志向を生かしつつある。その点、第二芸術という評語も、しょせんは、作者たちのなかの戦後的状況の一コマにすぎなかったのである。

  俳句と前衛

 俳誌「海程」が十周年をむかえ、先日、記念大会が催されたが、同じく前衛の仕事をすすめている「俳句評論」(高柳重信主宰)は、来年が十五周年になる。また、日野草城にはじまる「青玄」(伊丹三樹彦主宰)は、さらにそれ以上の歳月をもっている。
 主として、これら全国的規模をもつ三誌をめぐって「前衛俳句」の呼称が、俳壇内外のジャーナリズムに慣用されてきたわけだが、「海程」の創刊されたころから、とくにそれが、好悪両面を含んで喧伝されはじめ、一方、前衛活動のほうは、それとは逆に、地道な充実期の道を歩みはじめていたのである。
 いま私は、俳句前衛といって、前衛俳句という言いかたを避けるわけだが、それには十分な理由がある。というのは、俳句にかける前衛活動は前衛俳句といった一つの流派(エコール)にくくられるようなものではなくて、さまざまな流派の輩出を孕みつつ(現在でも、前記三誌のほか鈴木六林男主宰「頂点」、内藤吐天「早蕨」、赤尾兜子「渦」、永田耕衣「琴座」、八木三日女「花」、桂信子「草苑」、あるいは鹿児島で発刊されている口語活用の前原誠「形象」、北海道の「氷原帯」などが、すぐ挙げられる。「氷原帯」主宰細谷源二の死は、ついこのあいだのことである)、俳句そのものの蘇生――いわば現代的蘇生――に向う、大きな模索と創造の意欲動向として捉えられるべきものだからだ。伝統形式というものは、時代とともに、そういう蘇生作業を必要とするものであって、それがないと形式は腐朽し、表現者の関心を失う。
 この理解は、水原秋桜子と山口誓子にはじまる戦前の「新興俳句運動」にも当てはまる。中心にいて、すでに物故の日野草城、西東三鬼、富沢赤黄男、細谷源二、あるいは、現在活動中の三谷昭、高屋窓秋、平畑静塔、東京三(今の秋元不死男)たちは、たしかな俳句前衛であったし、その人たちと対立しつつ自らの句風を築いていった人間探求派の作者たち(加藤楸邨、中村草田男、石田波郷たち)もまた、当時においては前衛であった。遡れば、正岡子規にもいえ、一時期の河東碧梧桐にもいえよう。いや、松尾芭蕉もまた、したたかな前衛であった。
 ただ、戦後の前衛活動と新興俳句運動とのあいだにはいささか違いがある。前者が後者を明らかに継承しつつ、なお違うところは、新興俳句運動のなかでは割れていた人間探求派と新興俳句派の作業を、緊密に繋ごうとする点であって、俳句を人間の内ふかく捉えようとしていることである。これは、それら前衛が、戦後逸早く俳句界を被った「社会性」論議をくぐって現われてきたことを見てもわかる。それに肯定的か否定的かの別はあっても、彼らは、社会性を作者の内面の問題として捉えていて、そこから、主体を強調して社会性を肯定する者と、逆にひたすら個の深層に潜ろうとする者とにわかれていたのである。むろん、社会性肯定者のなかには、素材主義に傾き、あるいはスローガン俳句におちいったものも多いわけだが、その後の前衛活動にむかったものたちは、それとは厳格に一線を画していて、その人たちは、自らの態度と表現を「本格」の語によって自戒していたのである。
 つまり、前衛活動とは、本格第一線活動といってもよく、既成俳句の腐肉を切りとって、新しい生肉を加えるための、新へのトライアルに意欲的なのである。そして、そこに、自らのスタイルを獲得し、その、いわば現代的スタイルに、さらに普遍性を確保しようとする。この十年間、新人たちは、たとえば次のようなスタイルを表出した。

  しづかなうしろ紙の木紙の木の林 阿部完市
  機械休む農夫地に降りたきや 和田悟朗
  杉倒しきて森閑と兄の寝ざま 竹本健司
  繁栄の花火繚乱死人坊 喜多唯志
  青柿打ちつづければかがやく放蕩 大石雄介

 これら新人作品をみてもわかるとおり、二つの面で、前衛活動の成果が見受けられる。
 一つは、ことばの問題である。つまり、季語(俳句の約束とされる有季定型のなかの有季)を、約束の場からおろして、一般言語のなかに置きなおし、改めて詩語としての価値を確かめることである。これは、季語を安くみることでもなく、むろん否定することでもない。むしろ逆に、季語に、習慣的な季節感しか感ずることのできない有季俳人の感性を正すことであって、物象感(季節感もその一部である)を季語に期待することなのである。
 蝶は春の季節感を体現するだけではない。蝶そのものの翅態のおもしろさがあり、複雑さがあるがゆえに、ことばとなったとき、豊富な象徴機能を発揮することができる。つまり、蝶としての、真の自然なる現われかたを物象感といい、蝶ということばに、その多彩さを期待しようとする。したがって、季語とされているもの以外のことばでも(たとえば、火山、地球、夜、鼻、窓)、物象感に富むものは、詩語として象徴機能を――それこそ季語以上に――発揮できるということでもある。
  俳句形式(最短定型)のなかでは、それらのことばが鍛えられ、厳密化される度合いが高いから、季語と同じ洗練度を、それらのことばが得てゆくにちがいない。そして、現に、前衛の作品のなかに、徐徐ながらそれは実現しつつあるわけで、それによる、既成の季語による情趣とは異なった情趣の世界が出現しつつあることも事実である。その異なった情趣にむかって前衛俳句という流派付けをすることは、いささか性急、ということになろう。
 第二は、最短定型それじたいの特色が、これまで徐徐ながら究められつつあることである。最短定型の表記空間と韻律の絡みのなかに、現代自由詩と、よしんば同一発想に立とうとも、違った興趣と感銘が創出されつつあるわけなのだ。
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『定住漂泊』金子兜太/春秋社1972/P225
初出:第二芸術をこえる二つの志向『毎日新聞』1972・2、俳句と前衛『共同通信』1971・6

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