シリーズ・海程の作家たち《第五回》八木三日女―『紅茸』から『私語』へ(上)~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より

『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より
~谷佳紀の個人俳句誌「しろ」より~ ご参考:2023/04/19お知らせ

シリーズ・海程の作家たち《第五回》

八木三日女―『紅茸』から『私語』へ(上) 谷佳紀

 一九五六年(昭和三十一年)に刊行された八木三日女の第一句集『紅茸』はいま読み直してみても新鮮だ。知性豊かで礼儀正しい進取の気概に溢れた女性が医師となり、結婚し、子を産み育てつつ、社会人として活躍するさまが気持ちよく響いている。
  濃き霧のぐんと迫りて呼吸苦し
  ねつとりと髪首筋に秋病
  鶯や疊冷たき着替への間

 女性の生活感覚や肉体を感じさせるこれらの表現は、すでに完成された文体を持っているが、あえて言うならばここから感じ取れる女性の情感は八木ならずとも書けるものであり書かれているとも思う。
  からびたる土の白さや手鞠つく
  きらめきて高きに迷ふ散りいてふ
  霊泉の道しるべあり秋の旅

 描写のうまさが際立つこれらの作品も多くの先人がいる。秀作であっても八木ならではと思わない。
  芋の軸捨てたるごとく干す如く
  歳の市の道まつくらで皆通る

 となるとどうだろう。八木の個性が垣間見えるこれらの作品を書くのは力量だけでは難しい。「芋の軸」の写生の見事さは「甘草の芽のとびとびのひとならび高野素十」を思い出すが、高野がこのように景を切り取るという構成意識に集中し他の一切を切り捨てたが故に生じた永遠に変化しない真空のような空間、そういう意味において不毛の空間を作り上げたのに対し、「捨てたるごとく干す如く」と八木が捉えた芋の軸は日の光の中でもぞもぞとうごめき、空気感をも捉えた熱い心、ヒューマニズムの精神さえ伝わってくる。「歳の市」も年の瀬のせわしさを描写しているだけのようだが、冷えた闇に漂うぬくもり、孤独ではない闇、人と人のつながりのある闇がある。
 大阪女子高等医学専門学校の学生であった八木は、昭和二十年二十一歳で鈴木野風呂の「京鹿子」に投句を開始したが、その年に精神科教授として赴任した平畑静塔にも師事、平畑の影響がその後の八木を決定した。前述の作品に平畑の影響があるのかわからないが、その後の
  海に向つて上げたし凧は丘に向く
  朧夜の襲ひごつこは止してをけ
  イースト菌生きてゐる穴ぶつぶつと
  地虫の窓覗く巨大な影となり

 から読み取れる社会意織や表現技法に見られる対象物の把握の仕方は平畑の影響によるものだろう。
  向日葵がのけぞりテリヤ通したり
  閻王の口のほとりの秋の蝿
  颱風裡馬の黄尿は地を流れ
  倒れたる生木が虹に縛さるゝ

 このような作品を書き出す頃から八木の個性がはっきりしてくる。対象物をそのまま捉え具体化しようとする観察力、曖昧なところをいささかも残さない、という意識を通して現れる情の具体感は、自立精神に富んだ女性の生き方そのままと思える明瞭さがある。平畑が指導できるのはここまで、この先は八木自身が切り開かねばならない。学びの時代は終わったことを告げている作品でもある。
  紅茸を蹴りて血統正しき身
  紅き茸禮讃しては蹴る女
  毒茸を踏むサンダルが燃ゆるかと
  毒茸を踏みての後を見ざりけり

 この尋常ならざる女性の雄雄しさ美しさは類を見ない。口紅は真っ赤、着物も真っ赤、と思えるほど毒々しい赤が渦巻いている。ところがこの狂乱の景を捉えている八木の意識は冷静である。あくまでも対象となっている女人の狂乱であり、感嘆しつつも写生の手を止めない画家、見落としの無いように観察を続ける科学者のように冷静である。ここまで対象の女人に心を燃やしつつ冷静でいられるという表現姿勢は、女性性に踏み込んだ表現となっても崩れることがない。
  初釜や友孕みわれ瀆れゐて
  例ふれば恥の赤色雛の段
  香水や姙むを怖れ死を怖れず
  蛸を揉む力は夫に見せまじもの

 法律上は男女平等であっても男性社会での女性差別はなくならない。女性は性の奉仕者であり色々な禁忌に閉じ込められ、女性であるということだけで瀆れとされる場合さえある。そういった誰もが知っているが語ろうとしない禁忌を明るみにし、女性性の自立宣言の如く書き切ることにより、生命の継続を女性が担っていることや、感受性の豊かさ細やかさを謳い上げている表現は、女性を性の対象としか見ない社会に対する抗議でもあり、一方では性を大切にし、誇りとしている二重の表現になっている。ではこれらの表現を促したのは女性解放運動という社会思想の観点からなのかと言えば、与謝野晶子を崇敬している八木に無縁の思想であるはずはなく、戦後の民主主義思想も影響を与えているだろうが、思想というより、戦後社会の民主主義という熱気を受けた表現姿勢が書かせたように思われる。「蛸を揉む力は夫に見せまじもの」という恥じらいには「初釜や友孕みわれ瀆れゐて」と傲然と言い切る挑戦的強さがない。主婦の生活を守るという従来の女性意識とも違う。社会によって形成された女性意識がおのずとこのように書かせているのであり、その上で妻の立場を楽しんでいるおおらかさと、何事にも積極的な女性賛歌というものを感じるのである。

  股の間の産声芽木の闇へ伸び

 には出産した瞬間を表現するという表現意識の激しさと女性の喜びが伝わってくるが、ここにも事物を観察して把握するという姿勢があり、情に入り込み情そのものを書こうという姿勢は見受けられない。
 このように社会意識を持ちつつも個の感性を表現の基礎に置き、女性であることを意識しつつも、(それ故にと言うべきなのだろう)情にのめりこまない表現姿勢は、女性が社会に積極的に進出した戦後という時代を象徴するような女性俳句であり、俳句の新たな展開に無縁であるはずがない。八木が前衛俳句の旗手となるのは必然であると言えるような印象である。
 一九六三年(昭和三十八年)に刊行された『赤い地図』はその成果だ。
 『紅茸』において八木の社会的意識が濃厚な作品を見てきたが、それらは八木が社会を把握する意識、自己確認をしているかのような、社会における女性の位置が反映している社会意識であった。『赤い地図』ではそのような自己確認の作業は終えたあとの、社会における自己という姿勢を明確にした表現になる。その象徴とも思える作品が句集冒頭に掲げられる。

  なめくじに塩ふるわざを祖先より

 なめくじに塩をふるという行為を従来の女性俳人が書いたなら台所仕事の描写になるか、嫌悪感をあらわにした感情のほとばしりとして表現されるだろう。それを八木は女性史の一齣として提示する。また次のような作品はどうであろう。

  ビキニ遠方二児が二児共反抗期

 子育てに頭を悩ませている光景だが、ビキニは日本の遠方であり、そこで行われた水爆実験は日本人には直接的な危険はない、しかし第五福竜丸事件を引き起こしたように遠方であってもよそ事ではありえないし、しかも実験そのものが人類の危機でもあるという認識の中で捉えた二児の反抗期は、社会意識そのものを語るモンタージュとなっている。このように八木の表現は日常そのものが社会と直結しているのであることを示す表現へと転換する。ただここで八木は大きな困難に直面した。
 前衛俳句にもいろいろあるが、八木は社会そのものをイメージとして表現しようと試みる。それは私ではなく私たち、我ではなく我々という位置に立とうというものであった。女性という個の位置からの表現がすでに社会批判にまで達していた八木の表現の延長上にあるこの方向は自然なものであったが、いざ表現に向かおうとすると簡単でない。
 女性という立場で表現をしていたときは、意識しようとしまいと自己の日常や家庭の日常からの表現が可能であった。しかしそれは私であり我からの表現であり、私たちや我々でない。日常そのままは個に立脚しているが、社会は個そのものでない。個を私たちという立場で捉えかえしをした上でなければ表現できなくなるのだ。社会意識の観点から見ればそれほどに違いがないように思える私と私たちであるが、表現においてまるで違ってくる。個を抹消し女性を抹消し私たちとか社会とかという新しい人格を作るようなものである。八木の表現から女性性は急速に失われる。
  あざらしの悲鳴に似たる声を真似
  あざらしの愛咬鈍い太陽よ
  あざらしの気むづかしきは仰向けに
  あざらしの沈思黙考型もある

 という、あざらしを人間に置き換えればよい単純なカリカチュア、
  ソプラノと稲妻型の痛覚と
 という、感覚だけに頼る、今までの八木にはなかった表現方法で書かれた作品が現れる。
  木犀のにおう祈りにつぶれる胎児
  憩いおれば奴隷の踊星汲むよ
  肌で嗅ぐ薔薇かぼそく長いセレナーデ
  ウランを平和へ河鹿死んでも合掌する
  あくびを殺すそこに任務の鳩仕舞われ
  多面鏡の祭囃子に溺れいる
  機械眠れば海が泣きおり足うらに

 このような作品を見せられても八木が言いたいことはわかるが表現として受け入れられない。
  ぬっぺらぼうの顔顔顔とゆがむ化石
  贋桜かむりパチンコ・ランデブー
  山頂に喫泉よじれ日本海
  橋立や日矢の扇を股の間に
  犬も鶏も汚れ雪にもならぬ雨
  馬煤け傍の貨車より濃くなれず
  足踏みの洗濯岩がいとしくなる
  銀座明るし針の踵で歩かねば

 これぐらいに書かれれば納得できるが、しかしこれらのほとんどは『紅茸』で見てきた表現方法を踏襲し、個の抵抗意識を一般化した社会意識である。表現態度は変わったが方法に変化がない。

  満開の森の陰部の鰓呼吸

 この作品をめぐる読者の読み方と八木が説明する、作品が生まれる過程の乖離は象徴的な出来事であった。この作品を支持した読者は、女性器をイメージし、女性の性そのものを語った大胆な作品と受け止めたのだが、八木は作品の背景について次のように説明した。

 私が近郊の水族館にいつたのは随分以前のことだつた。水族館は小高い丘にその背後と側面をすつかり覆われていた。丘には満開の桜の花がこんもりと森をかたちづくつていた。(中略)私はそれから再び、彼の魚達の前に佇つて、鰭の奥にひそむその呼吸を眼をみはつて長い長い間みつめていたのである。(雑誌「俳句」昭和三十六年八月号・俳句誕生)

 桜の丘の水族館を見物したときのイメージがこのような作品になったというのである。この自句自解は作品の支持者をがっかりさせたが、発想の動機はどうであれ女性の性を表現したと受け止めたければそのように受け止めればよい。女性の性そのものを書いたという理解は成り立つのだから。しかし八木にとって思いもしなかった読み方であることも理解できる。桜の美しさに秘められている隠微な姿を鰓呼吸というモンタージュによって比喩し、イメージ俳句風に書いた写生俳句なのだ。
 八木は情感そのものをイメージにしようとしない。ところが「満開の」作品は、「満開の森」とか「鰓呼吸」という、八木の目と、八木とは無関係に言葉そのものに備わった情感が分かちがたいもののように重なってしまった。そこに作者と読者の乖離が生まれる原因になったが、これは特殊な例である。桜に過剰に反応する日本人という感じもする。
 八木は景と社会のつながりを意識しデフォルメするという、眼の働きと意識でイメージを生み出す。その最もよい例が次の作品である。

  黄蝶の危機ノキ・ダム創ル鉄帽ノ黄

 句集の中ごろにあるこの作品はダム工事現場を高いところから俯瞰した光景だと思える。
 ふらふらと頼りなげにダム工事現場の上空を飛ぶ蝶、私たちが高いところから下を眺めたときに感じる引きずり込まれるような危機感と蝶の飛び方の危うさが重なって、落ちはしないかと思う危機感、はるか下に小さく動く現場の労働者とそれにもかかわらず鮮やかに映えている黄色の鉄帽、これら幾つもの視点を同時に提示し、読み手を混乱させ、読み手が混乱を整理し描かれている画像を読み取った結果、そこに映し出された景は、これぞ写生の極致と思えるような立体的な像を結び、点々と散らばる黄色が戦慄的な美しさで迫ってくる。カタカナ表記も画像の静けさや黄色の景を鮮やかにする効果をもたらす。この作品をもって八木の前衛俳句は完成したとさえ私には思える。ただこの作品は光景を再構成して切り取るという、八木が初心者時代に習得した写生の前衛俳句への応用の完成であり、表現の重要な要素として追求していた批評性は薄い。「危機ノキ」は批評性を担う重要な語なのだが、感覚的であり批評性という内実は薄い。見下ろしている遠方の蝶を視覚的にも感覚的にも抽象化し、蝶の形を「キ」と書いた言葉遊びの面白さと批評性の薄さがつり合ってこの表現は成立した。
 この薄さを埋めるように批評性の強い作品、また感覚の面白さや言葉の連環の面白さを求めて八木はさまざまな表現を試みる。
  融け合う蛸一つ買いたし顔探す
  漏電する旅人ネオンら遥か下界
  君のメガネ野獣を写しやさしく曇る
  爆音に鳩はひろげる火傷の軍手
  えんえんと鎖引きずり草花摘み
  さすらいのさまよいの匙豆腐すべる
  ドライアイスけむるよ消された者たちよ

 このように表現は自在に活動するが、これらの作品を書きつつ八木の意識は一つの方向を目指していた。

  マラソンの足扇形に滝の使徒か

 であり、「北海道行」という前書きのある旅行吟である。
  霧の空港ボスも黄色い傘さすよ
  もろこし棲む大きな牛小屋小さな家
  ツンドラゆく鶴より細く首延べて
  菱ぎちぎちと星つぶす夜をこめて
  涙より透明な湖沈むトルソー
  湖はデスマスク原生林を熱い鋸
  古鏡火事は牡鹿の瞳の奥に
  いらだちの種牛のそこのいらくさ

 「紅き茸禮讃しては蹴る女」を書いた頃は写生が抵抗精神と一体化していたが、「マラソンの足扇形に滝の使徒か」はマラソンランナーの精神性と八木の精神性を一体化し具象化したような激しいが静かな光景となり、「北海道行」はその精神性がさらに深められた作品になった。八木の目は外部と内部、景と心を同時に見るようになったのである。
 句集『赤い地図』はここで終わる。次の句集、一九七四年(昭和四十九年)に刊行した『落葉期』は「連作篇」と「単作篇」に分かれた句集になる。
(次号の最終回へつづく)

《八木三日女略歴》ーーーーーー
 一九二四〜二○一四。大阪府堺市生まれ、本名ミチ子。大阪女子高等医学専門学校卒、眼科医。同医専に精神科教授として在任していた平畑静塔に師事。関西前衛俳句を代表する女性俳人として活躍した。一九六五年「海程」同人。「海程」23号の同人スケッチに「インドシナ系の美人。小粒ながらピリリと辛い。『紅茸』『赤い地図』の二句集、戦後俳句に鋭く影響す」とある。前年の一九六四年、同人誌「花」を創刊、発行人を務める。句集『紅茸』『赤い地図』『八木三日女句集』『落葉期』『石柱の賦』『私語』『八木三日女全句集』。
 次号は「八木三日女論」の後半を紹介(最終回)。
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