『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 2 何も新しくなかった 小松敦

『海原』No.9(2019/6/1発行)誌面より抜粋。

『新興俳句アンソロジー何が新しかったのか』を読む 2
 何も新しくなかった 小松敦


 この本の厚さ約3センチ。分厚い。けれども意外に読みやすい。新興俳句作家四四名別の文章も一三のコラムもそれぞれがコンパクトにまとめられており、色んな味を楽しめるお菓子の詰め合わせみたいで、暇をみてつまみ食いするうちに全部食べてしまった、の感がある。
 不勉強な筆者にとって「新興俳句」とは過去一時期の俳句文芸ムーブメント、くらいの理解しかなかったが、高野ムツオによる「序」、神野紗希による「はじめに」に記された明快な解説をもってその概要を知り、すっきりした。神野紗希曰く〈新興俳句とは、俳句は文学であるという意識のもとに、広く他ジャンルの表現に刺激を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた昭和初期の文学運動を指す言葉だ。〉
 新興俳句運動の契機や終息の経緯および時代背景などの詳細は本を読んでもらうこととして、ここでは、筆者が「食べ慣れないけど」美味しいと感じた好みの俳句を賞味したい。句そのものを味わう方針とし、作句当時の作者の状況がどうであるかなどは一切無視した。その上で「何が新しかったのか」というこの本の傍題について思うところを述べてみたい。
【阿部青鞋】
 人間を撲つ音だけが書いてある
 〈書いてある〉によって〈撲つ音〉が消音される代わりに〈撲つ〉映像が喚起され、凄惨な事態がより鮮明となる。
 半円をかきおそろしくなりぬ
 〈半円〉を描いたところで手が止まる。精一杯なのだ。何事かに苛まされる者の切迫した心理、決して閉じない円周。
 冬ぞらはすこしへりたるナフタリン
 〈ナフタリン〉の昇華した冷たい大気が鼻をつく。〈すこし〉に初冬を感じる。
 劇場のごとくしづかに牛蒡あり
 〈しづか〉なる〈牛蒡〉に凝縮された濃密なドラマ、生々しく泥臭い人間の。
 どきどきと大きくなりしかたつむり
 〈どきどきと〉否応なく大きくなってしまった軟弱なる者の不安と高揚。
【神生彩史】
 抽斗の國旗しづかにはためける
 畳まれて抽斗の中にあっても、国民の脳裏にオートマチックに〈はためける〉國旗。国家が国民に強いる無言の国威発揚を〈しづかに〉弾劾する。
 木枯や石觸れあうて水の中
 気体、固体、液体、いずれも冷たく無機質な構成要素に〈触れあうて〉の身体感覚を移植することで作り出される魅惑。言葉だからこそ生みだすことのできる美。
 貝のゆめわだなかあやにけむる夢
 呪文のような古の言葉の連なりに眩み、私は久遠なる夢にけむる貝となった。
【喜多青子】
 きざはしのしづかなるときかぎろへる

 この句には「夢殿」と前書がある。夢の収まる御堂を思う。そのきざはしに立ち騒ぐいにしえの夢とうつつの夢の静まるときに揺らめく時空。幽玄の美。
 地下歩廊ひそかに街の蟬きこゆ
 地上の街に残り僅かな命をふりしぼる蝉の声を、こっそりと耳にする受動的で消極的な身体。命から遠ざかるような残響感の中、生きることを羨望している。
 秋炎の空が蒼くて塔ありぬ
 〈塔ありぬ〉の確固たる物的存在感が、輝度のコントラストをきわだて、さわやかに覚醒した意志を形象する。
【篠原鳳作】
 カヌー皆雲の峯より帰りくる

 〈カヌー皆〉で大海原の水平な広がりを、〈雲の峯より〉で垂直方向の威容を、〈帰りくる〉で奥行きのある躍動感を描き出す。十七音のスケーラビリティ。
 浪のりの白き疲れによこたはる
 〈浪のり〉によって喚起されるサーファーと海と太陽と砂浜の光景の中にあって〈白き疲れ〉は抽象的ではなく、ぎらつく太陽光に白飛びした写真のごとき具体的な心理として感知される。
 しんしんと肺碧きまで海のたび
 海中を〈しんしんと〉旅してもよいし、海上に大海原や空の碧さを〈しんしんと〉吸いこむ旅でもよいだろう。いずれにせよ〈肺〉の内臓感覚によって、海と身体が一体化してゆく恍惚感に導かれる。
【鈴木六林男】
 昼寢よりさめて寢ている者を見る

 寝ている者に見ているのはさっきまでの自分ではないか。
 深山に蕨とりつつ亡びるか
 自然の滋養を採取している側の自分が、実は自然の土に帰しつつあることに気づき驚く。
 暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり
 しっかりと見続けていなければならない。泳ぎ切るために、生き抜くために。
 花篝一人称の顔ばかり
 自分も一人称の顔の一つだろう。
 遺品あり岩波文庫「阿部一族」
 たったこの一冊だけなのだ、と他人事のように示す自分事の心理。
 遠くまで青信号の開戰日
 後に、信号機の色は変わった。令和の現在、信号機の色は何色だ。
 飄々としている様でいて己の生に対する固執の滲む理知的な句々。そんな句に惹かれてしまう自分を再発見した。
【高屋窓秋】
 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

 私は降りしきる雪とともに川の中に沈下してゆく。するとそこにも雪は降りしきり、私には成す術もなく次第に世界を失ってゆく、という異次元の耽美。
 ちるさくら海あをければ海へちる
 この句の眼目はラ音のリズムと〈ければ〉だろう。海の青さゆえにそこへ自ら吸い込まれてゆくさくらに命を感じる。
 木の家のさて木枯らしを聞きませう
〈木の家〉さんが、同族の〈木〉を枯らすと名乗るこがらしさんに、改まって耳をかたむけようという。冬の日の優しさ。
【東鷹女】
 ひるがほに電流かよひゐはせぬか

 ただでさえ大胆に繁茂するヒルガオにさらに電流を通わせる心理。激情。
 鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
 直情かつ激情。
 狂ひても女 茅花を髪に挿し
 一字空け、銀色の美しい穂を髪に挿したところで、なお激情。 
 うつうつと一個のれもん姙れり
 抑えきれない激情をついにれもんの塊として姙もってしまう。すごい。
【藤木清子】
 身体と世界が交わるときに生まれる詩。
 こめかみを機関車くろく突きぬける
 頭部を打撃するこめかみへの突入はカ音のリズムと相俟って鋭く劇的な破壊をもたらし、突きぬけてなお惨禍を残す。
 虫の音にまみれて脳が落ちてゐる
 普段は身体と接続して日常のあれこれを世話しているあの〈脳〉が単独で落ちている。もう何者にも煩わされないはずだったが、虫の音にまみれてやや困っているようだ。おや。私の脳じゃないか。 
 針葉樹ひかりわが四肢あたゝかき
 〈ひかり〉〈あたたかき〉の言葉の斡旋が絶妙。針葉樹のきらめきや独特の芳香に手足の末端までリラックスしている。
 厭世の柔かき軀をうらがへす
 こんな世の中でも生きていかねばならない。せめてうらがえしてみる〈軀〉は柔らかく重たい。倦怠感が匂い立つ。

 以上、あくまでも筆者の味覚で鑑賞してみたが、他の読者にとってはどうであろう。筆者にとっては、太平洋戦争に触れた素材には時代を感じるものの、これらが今日の俳句であると言われても違和感はない。いずれの作品も、十七音の言葉を介して筆者に突き刺さり、筆者の世界を豊かにひろげてくれる愉悦であった。
 では、「何が新しかったのか」。議論を深耕すべく敢えて言う、「何も新しくなかった」。あるいは、色々新しかっただろうが、これまでだってそうだった。
 新興俳句運動は、当時たまたま目立った人々が花鳥諷詠や客観写生などに不自由を共鳴して盛り上がった「記録」にすぎない。従来とは異なる俳句表現の工夫は古今東西、俳人=アーティストなら誰もがいつもやっていることだと確信する。
 〈彼らは用意されていた俳句らしさ(花鳥諷詠、客観写生など)の枠にとらわれず、詩や短歌や映画など広い文学の沃野に刺激を受けながら、自らの主題と方法を探し求めた。〉と「はじめに」にあるが、既存の俳句らしさの〈枠〉に「捕らわれる」のはほかでもない作者あるいは読者自身である。〈枠〉とは、誰かに押しつけられた制約などではなく、作者あるいは読者自身が自ら学び育んできたものの見方や観念などの総体であって、無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)である。しかしそんなことはだいたいどの俳人も皆体験的に知っていて、日々、新しい俳句を詠もう(読もう)と、自分自身の既存の俳句らしさの〈枠〉=無自覚な不自由に向き合っているではないか。その点で、何も新しくはなかった。
 一方、この〈枠〉は、あまりにも当たり前に隣に居座っていてそれと気づかないことが多い。卑近な例で言えば、この本の冒頭から登場する「主観と客観」という考え方がそうだ。『自然の真』と『文芸上の真』、ロマン主義とリアリズム、などといった考え方そのものが既に〈枠〉だろう。〈枠〉を超えようとして〈枠〉に嵌まってはいないだろうか。
 阪西敦子のコラム「新興俳句のゆりかご 虚子と素十と客観写生」によると、虚子の認識は〈客観句といふと雖も矢張り主観の領域のものであり(中略)客観写生といふべきものは厳密に言って一句も無いと言ひ得るのである〉というものである。また、『自然の真』と『文芸上の真』の違いを主張した秋櫻子に対して素十は、そんなものどちらも〈知らない〉と述べ、〈私はただ自然の種々なる相を見ただけである。私の俳句といふものはただそれを写そうと試みただけである。〉と返答したという。虚子も素十も極めて真っ当な見解を述べていると筆者は思う。「客観写生」は「無意識な思い込みやバイアス、無自覚な不自由(または自由という錯覚)」に陥りやすい人間の性を承知の上で、この不自由から自らを解放してゆくための方法論として教育的に宣伝したものであり、むしろ主客二元論を克服するための戦略であったと考える方が素直に理解できる。虚子も素十も、秋櫻子が『文芸上の真』を言い立て「文学」とはかくあるべしという「不自由」に自ら収まってゆく姿を見て、残念に思ったことだろう。漱石や子規も浮かばれない。
 ちなみにこの観点で金子兜太は〈作る自分が一元化されなければいけない。自分のなかに客観と主観があって、それを一緒にするか別々に扱うかガタガタして、おれは客観を中心に書くんだと言ってみたり、おれは主観が中心だという……。そういう客観だ、主観だという人間的な考え方は近代的な考え方で、古い。〉(『海程』500号記念座談会)と喝破している。「人間中心主義」ではダメだと。「生きもの感覚」である。人間の精神や人間的な意味の体系を超えた世界の中で俳句を捉える方が豊かであると筆者も思う。

 閑話休題、新興俳句運動の記録を今改めて一冊の本にまとめて吟味し、〈つまり、広義の新興俳句とは、現代俳句に他ならない(神野)〉という正鵠を得た認識の下に、自分自身の〈枠〉にどう向き合うかのヒントを探ることが、この本の意義の一つだろう。「何が新しかったのか」を知るよりも、お菓子の詰め合わせ一粒一粒を、それぞれに己の〈枠〉へ向き合った俳句そのものをこそ味わいたい。
 俳句を作るとは自分自身を作ることであり、俳句を読むとは自分自身を読むことではないだろうか。わずか十七音の言葉を介した、作者と世界と読者の交感。そこに生まれる豊かさを求めて、俳人は自分自身を更新してゆく。人によって更新のやり方も歩調もまちまちだろうが、そのみちのりは「いつも常に新しい」ものではないだろうか。
 最後に、各作家とその作品やコラムをこれほどまでに凝縮して論じた執筆者各位に敬意を表す。〈現代に生きる人々が、新興俳句運動やその作家について知り、考える手引きとなるような本を作りたい〉という現代俳句協会青年部の熱い思いが煌めいている本である。

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