『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 1 若手ライターの評論に導かれて 石川まゆみ

『海原』No.9(2019/6/1発行)誌面より抜粋。

『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』を読む 1
 若手ライターの評論に導かれて 石川まゆみ

 興味を引いたのは、「何が新しかったのか」というサブタイトル。この本は広告欄に記載のとおり、新興俳句に関わった四四名の俳人について、若手のライターが評論を書き、各百句を抄出している。合計四四〇〇句が一冊で読める。コラム一三篇も楽しいアクセントで、不勉強の私にはありがたい。早速いくつかを見てみたい。「」内はライターの文の引用です。

●石橋辰之助(一九〇九〜一九四八年)について、ライターは西村麒麟さん、一九八三年生まれ。
 「現代俳句において石橋辰之助における最も大きな功績は、山岳俳句の道を切り開いたこと(略)アルピニストとしての俳句は清新」と。抄出の〈ばらぬすと声かけられてほゝゑみぬ〉の、〈ばらぬすと〉が頭に渦まき続ける清新さ。
 「昭和一五年五月、「京大俳句」事件により、五年間の執筆禁止。山を攀じ登る勇気でもって、今度は社会、戦争という大きなものに向かって声を挙げる。〈饒舌の傷兵のうしろ闇ふかし〉(略)昭和二三年永眠。まだ四〇歳であった」
 「〈酔えど妻子に明日送る金離すまじ〉(略)辰之助の持つ人間愛が、不器用ながらも溢れている」ライターの西村さんは、あと数年で俳人の享年と同じになられる。家族に愛を注いだであろう夭折の俳人に対する同年代のライターの感情は……。行間を深読みしすぎか、感慨深い。

●桂信子(一九一四〜二〇〇四年)について、ライターは神野紗希さん、一九八三年生まれ。
 「桂七十七郎氏と結婚(略)しかし二年後の昭和一六年九月に夫が急逝。(略)俳号は生涯、夫の姓・桂で通した。〈夫逝きぬちちはは遠く知り給はず〉〈山を視る山に陽あたり夫あらず〉〈海を視る海は平らにたゞ青き〉夫を失った悲しみ、愕然とした絶望。それでも山に陽はあたり、海は平らで青く、悠然と変わらぬ姿で、ただそこにある。いずれも
無季の句だ。(略)〈私にとって俳句は残されたただ一つのものであった〉季語を必要としない、究極の真実もある」
 「今や、女性俳句、戦後俳句を語る際に、避けては通れない桂信子。その出自は、まぎれもなく、新興俳句のあの激動の時代にある」
 夫の死後を俳句によって立つ、強く柔軟な生き方の、一人の女性としても俳人を描き出す。

●加藤楸邨(一九〇五〜一九九三年)については、永山智郎さん、一九九七年生まれ。ライター中、最年少。
 「『俳句研究』昭和一〇年三月号に寄せた〈新興俳句批判〉を見てみよう。彼は運動の特質を生活の重視、個性の尊重、社会的・時代的関心の反映の三点に見、その進歩性に共感を示しつつも、〈新奇な事象の表面だけを一わたり描き出したにすぎぬ見せつけの作品を見せられると、作者の藝に対する良心をまことに淋しく思はずにはゐられない〉と述べて評価を保留している。楸邨の新興俳句批判は、そのまま彼自身の俳句的態度を導出する
理論でもあった」
 「彼(楸邨)の性には、旅に出て大自然や異邦の人の前に自己の密やかさを確認する方がずっと合っていた。だが、戦火の運命を生き延びることも、流離の一家を養うことも探究であることに変わりなく、それゆえに楸邨は〈新奇〉ではなく生涯〈真実〉を追求し続けることができたのだろう。かくなる視座を持って初めて、次のような特異な句を受容する可能性も開けるのではないか。〈天の川わたるお多福豆一列〉」
 十歳台の若者が着手した評論であることの驚き。読後、金子兜太の〈定住漂白〉を思った。

●芝不器男(一九〇三〜一九三〇年)について、ライターは森凜柚さん、一九九〇年生まれ。
 「新興俳句前夜。その始まりを予感させるように、俳壇を一筋の光が奔り去っていった。わずか二七歳の若さで亡くなった夭折の俳人・芝不器男である」
 「〈水流れきて流れゆく田打かな〉(略)最近では写真だけでなく、数秒の短い動画を撮影してソーシャルネットワークサービスで発信する人も増えているが、不器男の俳句はむしろこれに近い。大正から昭和初期を生きた不器男の作品は、時代を超えて現代の表現に達していたとさえ思えてくる」
 「〈館の外の二十本ばかりの桜花、盛んに散りつづけてゐる。実に美しい景色なのに、現代の詩なり、歌なり、句なりに何等之に対する新しい表現がないのが不思議な気がした〉(略)不器男の日記の一部だ。(略)桜が〈散る〉という静止画的表現ではなく、〈散りつづけてゐる〉動画的表現こそ、不器男が目指し、開拓した俳句の新しい形だった。まるで現代の数秒動画のようなこの表現方法こそ、不器男俳句の持つ光が、いまでも古びることなく輝き続ける理由の一つなのだ」
 当時の新しさを今のツールと結びつけた書きぶりが、読んでいて楽しい。

●竹下しづの女(一八八七〜一九五一年)について、ライターは西山ゆりこさん、一九七七年生まれ。
 「〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)〉しづの女の不朽の代表作。(略)不変の心理を捉えている名句と言って間違いない。百年近く経った今でも、〈子供泣き止まないんだけどマジ捨てたい(笑)〉というメールが母親同士に飛びかっているのだから」
 「〈詩は青年の特権!吾々は斯かる詩を思ふ存分既成老朽俳壇にホルモンとして注射したいのだ〉という、挑発的なキャッチフレーズを掲げ、『成層圏』は始まった。(略)図書室の出納手として働きながらの活動であった。〈やすまざるべからざる風邪なり勤む〉〈日々の足袋の穢(ゑ)しるし書庫を守る〉」
 「書いて、育てて、働いて蒸気機関車のような生涯であった。しづの女は、新興俳句界の漁礁だった。金子兜太を始め、『成層圏』出身の多くの作家たちが戦後の俳句界を引っ張ってゆくことになったのだから」
 「しづの女の蒔いた種子達は多いに花開き、実を結んだのだった」という結語には、同性としての共感と畏敬の念とが凝縮されている。

●永田耕衣(一九〇〇年〜一九九七年)について、ライターは堀切克洋、一九八三年生まれ。
 「一九〇〇年という歴史の標識たる年に生まれたこの俳人は、阪神・淡路大震災の被災を経てほぼ一世紀を生き抜いたという点でまず俳句史において記憶されるべき(略)」「耕衣の思想の通奏低音となっているのは、いわば近代的なものへの嫌悪である。(略)俳句とは、耕衣の考えでは〈名もなき茶碗〉のようでなければならない」
 「耕衣は、自身の〈竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな〉という句について、〈竹の葉〉と〈涅槃〉がいかなる緊密な関係にあるかを理解できない読み手に対し、〈涅槃と竹の葉に緊密な関係など本来あらう筈もない。(中略)よさがあるかないか、判るか判らぬかは別としても、何かここに神秘な味があらうことだけは肯いてもらへると思ふ〉と書く」
 茶碗を手にして、いいね、と思うのと同じかも。まさに知りたかった壺!

●水原秋櫻子(一八九二〜一九八一年)について、ライターは高柳克弘さん、一九八〇年生まれ。
 「水原秋櫻子は、構成要素の明確な俳人であった。代表的な俳論〈自然の真〉と〈文芸上の真〉で、高野素十の〈甘草の芽のとびとびの一とならび〉を〈自然模倣主義〉と批判、〈鉱にすぎない『自然の真』が、芸術家の頭の溶鉱炉の中で溶解され、然る後鍛錬され、加工されて、出来上がったもの〉として〈文芸上の真〉の追求を提唱した」
 「秋櫻子の唱える〈文芸上の真〉への共感が、新興俳句運動の端緒となっていくわけだが、芸術一般における「美」の概念を俳句に持ち込んだことは、小説や絵画・彫刻などと同じ基準で俳句の価値を測ることと同義であり、この意義は大きい。新興俳句運動は、秋櫻子の個人的な作家性を超えて、連作や無季といった表現上の革新を呼び、戦争の現実(リアル)を捉えた俳句や社会性俳句にもつながっていった。俳句独自の価値観に偏った閉ざされた俳句の殻を、秋櫻子が破ったことで、他のジャンルの芸術とも比肩しうる俳句の在り方を、当時の青年層を中心にした新興俳句の俳人たちは考えざるを得なくなったのだ。むろん、同じ課題は、現在の若い俳人にも突きつけられている」
 異議あり。老俳人にも突きつけられている課題です。

●横山白虹(一八九九〜一九八三年)について、ライターは田中亜美さん、一九七〇年生まれ。
 「いわゆる文学青年らしからぬ、健やかさと明るさも合わせ持っていた」「〈ラガー等のそのかちうたのみじかけれ〉〈頼信紙ざらざらとせり蛾をつかむ〉(略)ラグビーや頼信紙といった当時の最先端の新しい素材の活用(略)」
 「(略)誓子は『海堡』の序で、〈自分の俳句が見えざる人々に依て支持されてゐることを知った(略)それを『詩性』のありなしだと説明したのは白虹君であった〉と書いていた。(略)『詩性』とは昭和初頭の白虹にとっても二歳年下の誓子にとっても、手探りの状態で探り当てられるものであったことに、あらためて気づいて驚愕した」との件には驚く。詩性は天性のものと、私は凹んでいた。俳人らの詩性がどう磨かれてきたのか、どう磨かれて行くのか、もっと知りたいと思った。
 内容の省略により、ライター達の意図と違ったかもしれない。ご容赦の上、ご自身でお確かめください。
 最後に、現代俳句協会副会長高野ムツオ氏による、この本の序文を引用させていただく。
 「今回のアンソロジーは新興俳句とは何であったかを、広角的にアプローチし検証することが目的である。担い手は新興俳句がそうであったように、二、三十代の若者が中心となった。既成の価値にとらわれない冒険や挑戦もまた新興俳句の精神を継ぐことにつながる。本書には俳句の未来をさぐる手がかりが無尽蔵であると信ずる。老若男女を問わず、一人でも多くの俳句愛好者が手にとり、それぞれが目指す俳句の道しるべの一端となれば、それに過ぎる喜びはない」

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