俳誌「合歓」の終刊と手代木啞々子 植田郁一

俳誌「合歓」の終刊と手代木啞々子 植田郁一

 手代木啞々子が新抒情主義を提唱して東京で「合歓」を創刊したのは、昭和十五年一月。しかし、日中戦争の長期化と用紙統制法などにより、その翌年には休刊せざるを得なくなった。
 さらに、啞々子には持病の喘息があり、太平洋戦争下での東京でのサラリーマン生活を続けることの困難さから、秋田県仙北郡の原野を借り受け、開拓農として移住することを決断したが、農業体験皆無の啞々子にとって、収入が全く無く、雪が吹き込む掘建て小屋での生活は想像を絶するものがあったはずである。
 しかし、戦後新設された新制中学の教師に採用され、この難局をなんとか切り抜けて、開墾との二重生活を続けることが出来たことは闇の中の一筋の光であっただろうことは、想像に難くない。
 また、東京近辺の「合歓」創刊時の仲間の勧めもあり、「合歓」を東京で印刷、鉄道便で啞々子宅に最寄りの奥羽線羽後境駅まで送付、駅からは雪道を約二十キロ、橇で啞々子宅まで運び込んだという話が、今でも古い同人の間では語り種として残っている。昭和二十年代の「合歓」は、遅刊・休刊を繰り返しながらも細々と存続。その間、後に「海程」でも活躍する若手の鈴木鴻夫・武田伸一・武藤鉦二・竹貫稔也・加賀谷洋・川村三千夫などが育っていた。
 金子兜太と手代木啞々子が急接近するのは、昭和三十九年五月、武田が企画した「秋田県現代俳句大会」の講師として兜太が秋田に赴き(原子公平・沢野みち同道)、大会の後、男鹿半島への一泊旅行に啞々子も参加したことにある。この際の兜太の講演と選評の痛快さに啞々子は惚れ、土の上に立つ啞々子の作句姿勢に兜太が共感したのである。
 この間の二人の友情を越えた信頼関係は、昭和五十七年啞々子が亡くなったときの、兜太の弔辞によく現れている。
 「あなたは私たちの俳句同人誌『海程』を支える一本の太柱でした。あなたの土とともにある真摯な俳句は、都会風な根無し草俳句になりかねない傾きにいつも反省を加えてくれました」と、兜太はその逝去を惜しんだのだった。
 そんな啞々子を真ん中に結束してきた「合歓」は、「海程」とその後継誌「海原」に対して一種の重しの役割を果たすとともに、同人を多数供給もしてきた。その目に見える成果としては、平成二十三年の加藤昭子から、兜太没による三十年の廃刊までの「海程」最後の八年間に、三浦静佳、船越みよ、佐藤君子と実に四名の「合歓」同人が立て続けに「海程新人賞」を受賞していることでも、「合歓」の存在の大きさは実証されていよう。
 そんな、「海程」「海原」とともに大きな歩みを印してきた「合歓」が、令和三年十二月号(69巻・638号)をもって、発行を支える同人数の減少によって廃刊の止むなきに至ったという。
 抗し難い時代の流れとは言え、残念なことこの上ない。

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