◆No.3 目次
◆海原秀句 同人各集より
安西篤●抄出
胸に夏帽立ち尽くす摩文仁の礎 赤崎ゆういち
ルルルルル邯鄲君こそナルシスト 石橋いろり
父の手記折れた頁のあり曝書 伊藤雅彦
だめだべよこっちむげ溽暑の原子炉 大内冨美子
先生の裏山は夕かなかなかな 大髙洋子
鶯と三度の食事今日がある 大野美代子
風光る旧約聖書のうすぼこり 片町節子
手首より寝落つ子のいて青簾 加藤昭子
きょお!と喚ききょお!と消えゆく大花火 川崎益太郎
あれが両神山きっと朝霧は晴れる 河原珠美
九夏三伏他界にせんせいは元気 北上正枝
花言葉茄子の花なり二人膳 北原恵子
秩父万緑金子兜太の遺児われら 北村美都子
そんなはずがややつと卒寿雨蛙 木下ようこ
ふだん着に着替えると鳴く青葉木菟 こしのゆみこ
ほうたるの夜の火薬庫の匂ふなり 小西瞬夏
歯ぎれよき君と饒舌氷頭膾 小原恵子
広島忌ドロップ缶がさびている 清水茉紀
餡蜜屋男三人の謀議かな 白石司子
梅雨の星我も昭和の尋ね人 須藤火珠男
先生九十八歳は夭折です 蛍 芹沢愛子
瞑目の波は崩れて青すじ揚羽 田口満代子
青水無月ごりっと光る馬の臀部 中村晋
紫陽花の孵化とも違うあふれよう 丹生千賀
荒川細うなりゆく木天蓼白かさね 野田信章
約束というほどでなく海月みている 平田薫
明易やアサギマダラのやさしさで 堀真知子
山影に蜻蛉の大群兜太来る 水野真由美
おめかしでポックリ寺へ風薫る 諸寿子
こんな句では駄目だ玉虫睦む昼 柳生正名
山中葛子●抄出
素っ裸で両神山拝す嗚呼夏霧 石川青狼
蟻ガキテオロオロアルク賢治の碑 伊藤幸
出水跡侍七人い出ませり 上野昭子
秩父山塊おおかみ光となり疾ける 大西政司
青になる確率に賭け糸トンボ 奥山和子
完璧に無視されているトマトかな 小野裕三
七夕の前日オウム大量死 川崎益太郎
先生の句碑は青野の切手です 河原珠美
青鷺や見るべき闇は身の内に 黍野恵
「ないものあります」啓蟄の商品棚 黒岡洋子
駄犬が見送るデイサービスへの俺を 佐々木昇一
フクシマがこんなに重たい熱帯夜 清水茉紀
蛞蝓が溶けない平和な村である 白井重之
残鶯や退つ引きならぬ泥の里 すずき穂波
陰毛も白髪に 玉蜀黍に花 瀧春樹
鯵刺や糸口はマスカットジュース 田口満代子
溽暑なり水玉模様の心地して 竹田昭江
柿若葉共に秩父音頭を兜太師よ 谷口道子
はつなつの上澄みとして母眠る 月野ぽぽな
葭切りや天の静寂一人占め 豊山くに
緑陰や行きすぎて戻れない雲 西美惠子
亡師ひとり老師ひとりや遠霞 疋田美恵子
よく育つ夏蚕よ雲喰い風を喰い 藤野武
桷咲くよ父の貧しさのあたり 本田ひとみ
青梅やすくっとフェンシングの一瞬 宮崎斗士
燕の巣の下死刑執行ビラゆれる 村上豪
群れ立ちしブラシの花はフトモモ科 村上友子
お墓参りずっとお喋りさるすべり 室田洋子
微塵子と陽のはげしさの西ノ京 矢野千代子
兜太なき浮世の羅はりついて 若森京子
◆海原秀句鑑賞 安西篤
胸に夏帽立ち尽くす摩文仁の礎 赤崎ゆういち
摩文仁は、沖縄本島南西端にある太平洋戦争末期の沖縄戦最大最終の激戦地。日本軍の組織的抵抗が終わったのは、昭和二十年六月二十九日だった。今もその慰霊碑で、毎年祈りが捧げられている。この句はその場面を捉えたもの。上中の景は毎年のものだろうし、これまで書きつくされているのかも知れないが、「摩文仁の礎」と抑えた悲しみは、今なお生きている。胸に夏帽を抱いて、黙祷を捧げているのだろう。このような悲劇を二度と繰り返してはならないという誓いとともに。
父の手記折れた頁のあり曝書 伊藤雅彦
父はおそらく亡き父であろう。父の遺された手記を大切に保存するため、曝書している。ふと見ると、その中に父が心覚えに折り曲げた頁がある。そこに書かれている文章に、父はどのような感銘を受けたのだろうかと想像してみる。またその頃の父像に、今の自分自身を重ね合わせてみることもある。すでにその頃の父の齢を過ぎて久しいのだろうが、手記の手触りに生身の父への親しみを感じているのだろう。
鶯と三度の食事今日がある 大野美代子
作者は戦中戦後の食糧難時代を経験しているに違いない。あの頃の食料事情の苦難を思い返しているのだ。それに引き換え今は、庭には鶯が来て鳴き、三度の食事も有難く頂戴することが出来る。なんと幸せな有難いことか。戦中世代の慎ましやかな人生観というべきかもしれない。
風光る旧約聖書のうすぼこり 片町節子
風光る季節。戸外へ出て、思い切り心も体も開放したい気分。そんなとき、読みさしの旧約聖書はうすぼこりをかぶったままになっている。決してなおざりにしたわけでもなかろうが、今はこの季節の気分を満喫する方が、聖書の意にもかなうのではと思う。いやそう思いたい。
広島忌ドロップ缶がさびている 清水茉紀
広島忌は八月六日。原爆忌でもある。広島の原爆資料館へ行くと、被曝したドロップ缶が赤錆びたまま展示されている。被曝時のつい今しがたまで、一体どんな子供がそのドロップ缶を抱えていたのだろう。勿論遺体は影も形も無い。ただドロップの缶が転がっていただけ。戦後の長い歳月を経て、なお当時の惨禍を生なましく訴えている。
梅雨の星我も昭和の尋ね人 須藤火珠男
昭和という厳しい時代を潜り抜けて来た人々には、時代の荒波の中で自分自身を見失ってきた人が多い。自分にとって昭和とはなんだったのか。あるいは昭和時代の中での自分自身は、どんな存在だったのか。不思議に命長らえて今があるのだが、あの頃の自分自身には出会えそうもない。それは自分自身という取替えの利かないものが、どこかにあったはずだということを、尋ね人のように探し求めていることなのかもしれない。「梅雨の星」は、なかなか出会うことのないものだが、そんな当てのない星を求めるように、自分という昭和時代の尋ね人を探し求めている。
先生九十八歳は夭折です蛍 芹沢愛子
金子兜太先生九十八歳でのご逝去は、多くの人々に惜しまれ、もっと生きていて欲しかったとの声が満ち溢れていた。そんな人々の声を代弁するかのような一句である。普通に考えれば、九十八歳は天寿といっても差し支えないものだが、兜太先生の場合は特別で、九十八歳では夭折としか思えない。それほどまでに無くてはならない人だった。そして「蛍」。魂のように浮かんでいる「蛍」に、先生への呼びかけの対象としてのイメージを託しているのではないか。
青水無月ごりっと光る馬の臀部 中村晋
青水無月は陰暦六月の異称で、陽暦ではほぼ七月に当たる。炎暑のため水が無くなる月と解されている。そんなとき、たくましい馬の臀部が、ごりっと筋肉を盛り上がらせた。しかもその臀部は光り輝いているという。福島は競走馬の名産地でもある。「ごりっと」に、見事な馬体が言い当てられている。
荒川細うなりゆく木天蓼白かさね 野田信章
荒川の流れも、渇水と上流での取水の増加によって次第に細くなって来ている。作者は秩父に来るたびに、そのことを痛感しているのだろう。木天蓼の花は白い五弁花で夏梅とも呼ばれる。木天蓼は今年も白い花を咲かせ、独特の強い匂いを放っている。細りゆく荒川を励ますかのように。
山影に蜻蛉の大群兜太来る 水野真由美
秩父の山影に蜻蛉の大群が発生し、威勢良くワッショイワッショイと掛け声でもかけるかのように里山に押し寄せる。なぜかその中心に兜太先生の魂が在すかのようにも思えてくる。
◆海原秀句鑑賞 山中葛子
素っ裸で両神山拝す嗚呼夏霧 石川青狼
七月七日、「海程」最後の全国大会が秩父で開催され、翌日の有志吟行では、兜太先生の菩提寺・総持寺にて墓参のあと先生の生家(壺春堂)や各地の句碑めぐりが行われた折の一句である。「素っ裸で両神山拝す」の、まるはだかの我を存在させた、師への敬愛の念が艶やかに乗り移ってくる。そして、「嗚呼夏霧」の呼びかけへの呼応は、師弟ならではの気脈の通じるシャーマンのごとき恍惚感を導き出していよう。
蟻ガキテオロオロアルク賢治の碑 伊藤幸
カタカナ表記によって、あっという間に宮沢賢治の世界観にひたる挨拶句の気合だ。日常から非日常にすり替わるマジックのような絵画性ゆたかな感動と言い換えてもよい。目から鱗のごとき賢治のするどい自然観察眼が投影された「画中に詩あり」の鮮やかさ。
青になる確率に賭け糸トンボ 奥山和子
三原色の一つである「青」の存在。ここでは、運を天に任せている「賭け」の正体としての「糸トンボ」が配合されていよう。水辺にいる小形で、体は細く、静止時は翅を背上に合わせる青や緑の美しい形状を、燈心にたとえて燈心蜻蛉ともよぶ「糸トンボ」ならば、心理作戦の確率は、まさに予定調和そのもの。
完璧に無視されているトマトかな 小野裕三
孤立化した真っ赤な「トマト」が見えている。いわば、「無視」されるということへの生きる恐さが擬人化されている「トマト」なのだ。一読して、感想を述べた説明句かと思いきや、意外にも独自なメッセージが生まれている定形感にゆきつく妙味なのだ。つまりは「かな」のもつ詠嘆の意、不確かなこと、願望の意が、呼び覚まされた「トマトかな」が物を言う詩力なのだ。
七夕の前日オウム大量死 川崎益太郎
燕の巣の下死刑執行ビラゆれる 村上豪
九五年の地下鉄サリン事件をはじめ、数々の社会的事件を起こしたオウム真理教。その死刑が執行されたとなれば、「松本サリン忌ざりがにの忌なりけり」の小林貴子氏の句が思われてくる。一句目は、平成最後の「七夕の前日」という星祭りの行事が避けられている表現が印象深い。二句目は、燕が年々訪れるであろう「燕の巣の下」を占領した、ビラが揺れるざわめきの実景が、情景として描き出されている不穏のみごとさ。
残鶯や退つ引きならぬ泥の里 すずき穂波
言葉を失う、予測もつかない気象状況に襲われた今年の夏。「泥の里」と化した災害地を思うにつけ、自然の猛威に立ち向かうすべもない人であるゆえの、人にゆきつく存在感が乗り移ってくる。「残鶯や」の春以上によく鳴く美声のひびきが、明日に向かっている尊さ。
陰毛も白髪に 玉蜀黍に花 瀧春樹
「陰毛も白髪に」の老化しつつある肉体の自然。比べて、玉蜀黍に花の咲く今年だけの夏が来ているのだ。開花期には、苞の先から長い鬚状の赤い花柱を垂らし、雄花から風で飛んでくる花粉を受け、甘い玉蜀黍の実りが始まる。ここでは、二つの命の形が、それぞれに可笑しみを誘ってくる軽妙さがあろう。「陰毛も白髪に玉蜀黍に花」の、「に」のリズム感が抜群にみごとであるだけに、一字空けの表記法がむしろ気になる。
緑陰や行きすぎて戻れない雲 西美惠子
緑陰は、癒しの場でもあるはず。その当然な思いが、無念の情景として描きだされている日常感。ふと見上げる空模様に気付かされる「行きすぎて戻れない雲」の遥けさ。作者には「一番に水水欲する水害地」の句もあり、平成は天災の時代といえる生死観が直視されている。
青梅やすくっとフェンシングの一瞬 宮崎斗士
「青梅や」の切字による二物配合の句。ここでは、フェンシングの一瞬の勝敗を決めたであろう「すくっと」という素早く刺さるような感触。繊細な微音が生み出さすれているみごとさ。青梅の果肉を感知する香りの酢さが漂う、えも言えぬ勝敗の美学がドラマチック。
群れ立ちしブラシの花はフトモモ科 村上友子
濃い赤色で花序全体が瓶洗いのブラシのように見える花を見かけたことがある。しかし、「フトモモ科」と知ることで、おもわず「本当?」と辞書を開く。本当だった。その由来を知りたくなる植物への関心は、しぼんでいく老化に対する思いの、理屈抜きの憧れそのもの。
兜太なき浮世の羅はりついて 若森京子
羅は、紗、絽の類。透き目のある絹織物の軽さは、いかにも身体に張りつきやすい夏の衣服なのだ。和服姿の美しい作者を思うにつけ、兜太師の亡き浮世は、平成の終わりが新しい時代に移り変わる時のエネルギッシュな浮世心を象徴しているようでもある。「俳諧自由」の汲めども尽きない俳句詩形への理念が眩しいばかり。
◆金子兜太 私の一句
鶴の本読むヒマラヤ杉にシヤツを干し 兜太
この句に対し「腕力で詩を創るのは叡知で田を作るよりもむづかしい《百句燦燦》」と書いたのは塚本邦雄である。しかし兜太はその並はずれた膂力によって俳句に鮮烈な詩を出現せしめた。鶴の本を読むというナイーブな感性の持主と、丈高いヒマラヤ杉の下枝にシャツを干す男臭い人が同一人物であることはいうまでもないが、その対照するがごとき存在感こそ詩の存在理由といえよう。句集『蜿蜿』(昭和43年)より。白井重之
小鳥来る全力疾走の小鳥も 兜太
平成十六年、海程新人賞の授賞式に金子先生から「軽やかな句を」と戴いた色紙。爽やかな秋の空、透明な空気感、自由に飛ぶ生命感あふれる小鳥。中には全力疾走の小鳥も。生きとし生けるものへのアニミズム。「小鳥も」という下語の四音が疾走感とエネルギーを強調している。この句は先生からの温かく大きな励ましと思う。私の作句信条でもある大切な一句。句集『両神』(平成7年)より。室田洋子
◆共鳴20句〈9月号同人作品より〉〇印は2選者の共選句
江良修 選
○曼珠沙華いつかわたしを灼く原野 阿木よう子
人間が天敵の歴史ホモサピエンス 石川修治
コンセントかくされて点く花あかり 市原正直
抗えるか抗ってみよう無季句でも 稲葉千尋
○昭和の日裏返しして干す魚 大沢輝一
いっせいに植田生まれて村となる 大西宣子
熊谷はこれで見納め花恋忌 大西政司
雨音に少し昔の歌ひろう 奥山和子
旧道へ曲ろう初夏が待っている 柏原喜久恵
泥でも絵が描ける水でも句が書ける 河西志帆
鳥雲に数え白寿の句が遺言 北村美都子
膝抱けば胎児になるよ水芭蕉 佐藤君子
誰かハグしてる菜の花の長い土手 篠田悦子
葉桜や人生のせて行く自転車 鈴木修一
霞む首都眼下のビルは人の業 鈴木康之
群衆に溶ける孤独や桜道 滝澤泰斗
なんども改行やがて詩になる春の波 鳥山由貴子
安全ピン核の袋を閉じましょう 舛田傜子
○さびしさに睡くなりけりたんぽぽ黄 水野真由美
春濤や流木は悲哀が浮力 横山隆
鈴木修一 選
○曼珠沙華いつかわたしを灼く原野 阿木よう子
わが出来ることの多さよ鯉のぼり 東祐子
愛すべき母似の猫背春キャベツ 安藤和子
○巨岩この魂の冷え春逝くなり 伊藤淳子
麦青む未来を覗く測量士 梅川寧江
風ひかる旧交というまわり道 河原珠美
百年を動かぬ樟の若葉かな 篠田悦子
躑躅燃えルオーのような昼下り 白井重之
鮭の顎曲がる愚直なる我ら 白石司子
おぼろ夜の大河の鉄橋渡りけり 竪阿彌放心
はつなつの聖堂静脈の昏さ 月野ぽぽな
雪濁りなんでも生まれのせいにして 遠山恵子
海賊の打ち上げられし夏コイン 豊原清明
水温む襁褓のお尻はしゃぐかな 平田恒子
花祭り人々ちょうど好い密度 藤野武
田を植えて遠流のごとく青むかな 松本勇二
おろおろと男老いゆく春彼岸 村井隆行
夕燕畝ほっこりとととのいぬ 村本なずな
山法師目閉じて見えるもの多し 森武晴美
○夕雲雀声を上げねば空の塵 諸寿子
鳥山由貴子 選
遙けさはまだ音のあるぶらんこ 伊藤淳子
先生の杖が麦秋なでてゆく 大髙洋子
卯の花の駅に十六輌連結の貨車 大西健司
○八十八夜のかるいブリキの音だ父 木下ようこ
燕来るそこには誰も住んでません 木村和彦
本ひらく車窓ふたたび青葉闇 こしのゆみこ
人にそう呼ばれてへくそかずらなり 柴田美代子
よく眠るまぶた冷たし白木蓮 芹沢愛子
文庫本ひらく陰影つばくらめ 田口満代子
ピンホール・カメラ若葉の日の光 田中亜美
○無聊この標的のごと白い鳥 遠山郁好
さびしさの底に熱あり春の宵 ナカムラ薫
○さびしさに睡くなりけりたんぽぽ黄 水野真由美
朝から朝へぎゅーんと夏ツバメ 三世川浩司
しーんとす人も白梅も濡れており 三井絹枝
蛇足だな著莪咲き切って咲き切って 村上友子
先生は別館におります春夕焼 室田洋子
曇天に影あり白花はなみずき 茂里美絵
○夕雲雀声を上げねば空の塵 諸寿子
大宮に雨何故か優しい春禽も 六本木いつき
水野真由美 選
蝉の木の下手な奴いる未帰還兵 有村王志
○巨岩この魂の冷え春逝くなり 伊藤淳子
○昭和の日裏返しして干す魚 大沢輝一
とんぼ追う少年水の匂いせる 大西健司
春灯明るうせよ産土明るうせよ 金子斐子
海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
青嵐小窓のような家族かな 川田由美子
○八十八夜のかるいブリキの音だ父 木下ようこ
靴下は立って履けよと鳥帰る 木村和彦
筍茹でる誰彼逝きしことばかり 小池弘子
青簾越しのいもうと家族かな こしのゆみこ
台所とう機関車や夫の忌なり 篠田悦子
流星群も羊の群れも杖で追う 芹沢愛子
亡き夫の碁盤朧に置いておく 武田美代
○無聊この標的のごと白い鳥 遠山郁好
花馬酔木みつめ三日後髪白し 成井惠子
ホトトギス旅寝の底にふらっと父 松本勇二
たたむべき空しさに一礼麦の秋 深山未遊
悼みには触れず薄氷踏み行けり 武藤鉦二
田水張る亡父の脛には火傷痕 村松喜代
◆三句鑑賞
抗えるか抗ってみよう無季句でも 稲葉千尋
作者の今回の作品は、酸葉は春の季語、麦は夏の季語、他は無季の句。以前の句を読み返してみると、季語としっかり向き合って作句されていたように思われる。この句の、有季定型句への戦闘態勢のような、あるいは自分自身への挑戦状のようにも思える表現が、「海原」創刊号で示されたことに、海程以後の俳句人生に対する新たな意欲と確固たる決意のように感じた。
いっせいに植田生まれて村となる 大西宣子
過疎化により人影まばらとなった村だが、田植えが始まると、一時的にも人が増え、声があふれる。そして、青々とした植田が一面に広がって呼吸を始めると、本来の「村」らしい活気が生まれる。植田は村の象徴であり生命そのもの。生きもの感覚でとらえた村の姿。
熊谷はこれで見納め花恋忌 大西政司
三年前の全国大会の時、大西さんと一緒に金子先生のご自宅を探し、勝手ながらお留守の家の前で記念写真を撮った。昨年は熊谷にある金子先生の句碑巡りをした。私の中ではこれで熊谷の見納めと思っていた。「花恋」は故金子皆子先生の句集名。もはや「金子兜太」は歴史上の人物になったのだなあという感慨がある。
(鑑賞・江良修)
わが出来ることの多さよ鯉のぼり 東祐子
八十歳を超えた義母が、鬱の症状を妻に訴えてくる。「何も出来なくなった…」と。実際には家事を自力でこなし、九十に近い義父を養っているにも関わらず……。晩年の義母を「いろんなことがまだできている私、まんざら悪くないわね」と微笑ませたいと願う私に届いた、福音のような俳句。鯉のぼりよ義母の心の空を泳げ!
風ひかる旧交というまわり道 河原珠美
最近、大学の同級生のグループラインなるものに加わった。東京での飲み会の誘いにおいそれとは出かけられないが、旧交を温める喜びを味わっている。それも、互いの子育てが一段落してから再燃したつき合いだった。「ひかる」の仮名表記に懐かしさと温もりを感じた。まわり道で見つけた宝物を伝え合い流れる豊かな時間。
鮭の顎曲がる愚直なる我ら 白石司子
甲子園の夏「雑草軍団」が旋風を巻き起こした。わが郷土秋田金足農業高校準優勝の活躍!踏んでも立ち上がり倒れるまで闘う「愚直さ」こそ、旋風の原動力なのだった。生殖期に向かい曲がる鮭の顎。生命のひたむきさが描くカーブは、どこか無理している嘘っぽいポーズとは別物なのだ。鮭の顎の如き俳句の希少価値を思う。
(鑑賞・鈴木修一)
本ひらく車窓ふたたび青葉闇 こしのゆみこ
旅の途上。ありふれた車窓の連続。退屈しのぎに本をひらく。すると、たちまち鬱蒼とした木立の中に入った。そういえば、さっきもそうだった。本をひらいたり閉じたりして確かめてみる。この不思議な連動。これは作者の心象なのだろう。やがて作者を乗せた列車は、物語の深い森の中を加速していく。
人にそう呼ばれてへくそかずらなり 柴田美代子
蔓植物には手こずらされる。引くとズルズルととめどない。まるで反撃するように放たれる臭気。へくそかずら。憎々し気に、吐き捨てるように誰かが言う。そうだそうだという同調。可憐な花のことなど、ひと言も触れられないままだ。多分ものの名前は、こんなふうに決められてきたのだろう。そこにある哀しみ。
朝から朝へぎゅーんと夏ツバメ 三世川浩司
朝から朝へがいい。ぎゅーんの平仮名、ツバメの片仮名表記の対照も。光あふれる朝。まだきのうの疲れを抱えたままの人間たちを掠めて飛ぶツバメ。その形、そのスピード、シャープな軌跡…。朝からまたつぎの朝へ、まるで時空を超えてゆくよう。なんどでも再生出来そうな気がしてくる。
(鑑賞・鳥山由貴子)
蝉の木の下手な奴いる未帰還兵 有村王志
「蝉の木」は蝉が大量発生する木だろう。「木の」は軽い切れとして視線を堰き止めているらしい。堰き止められた視線は「下手な奴」から「上手な奴」―即ち戦後を声高にうまく立ち回った人々を連想する。「未帰還兵」とは彼らを取材し番組を制作したNHKによれば、第二次世界大戦が終わっても現地に居残った元日本兵をいう。
海鞘を割くまだ人間でいるつもり 狩野康子
かつて「海鞘」の調理法を教えてもらったことがある。突起している部分の+と-のそれぞれから排泄物と体内の水を出して殻を剥くのだ。やってみれば案外、簡単だが、あの外見ゆえ立ち向かうような気持ちで刃を入れた。そこから「いるつもり?」ではなく「いるつもりだ」、それゆえ食べるのだという覚悟として読みたい。
たたむべき空しさに一礼麦の秋 深山未遊
この「むなしさ」は何だろう。「たたむべき」であり「一礼」をうながすのだ。取り留めなく広がる喪失感のようでもある。だがこのままにしてはおけない。「麦の秋」の光と風は「空しさ」の広大さと「一礼」の後に歩き出す姿を浮かび上がらせる。人にはこんな時があるぜと共感しつつ、今は金子兜太の不在を思ってしまう。
(鑑賞・水野真由美)
◆海原集〈好作三十句〉武田伸一・抄出
あきらめは効率的に山滴る 泉陽太郎
ほうたるほたる真水の子の言葉 伊藤清雄
こきゅうのたび毛布が動く父の肉体 伊藤優子
無自覚に声をとがらす溽暑かな 荻谷修
イギリス海岸の化石漆黒青胡桃 河田清峰
未明に蟬鳴き始め詩を書き始める 川嶋安起夫
キョウチクトウ嫌いな人の名が綺麗 木村リュウジ
夏の雲子供でいられる時僅か 日下若名
萍や角の取れゆく言葉たち 黒済泰子
黒揚羽文学館に入りけり 小林育子
婆バクハツ半世紀ぶりの水着 小林ろば
心音の窪地を螢埋めつくす 小松敦
虹のほうへ少女ふっと出る旋律 三枝みずほ
見え透いた嘘ばかり聞き青葉闇 鈴木栄司
師よこちらいまアカシアが咲いてます 立川由紀
またひとつ七月六日のヒロシマ 立川瑠璃
夏山のごはんの白さを知っている 舘林史蝶
末期の水に焼酎二滴魂に翼 たなべきよみ
ガリ版のザラ紙詩集をも曝書 中神祐正
モフモフのきりん夏バテの匂い立つ 中野佑海
朝凪の誰もが欠伸して裸 野村だ骨
祭笛聞こえると言い母の逝く 原美智子
ふたり展の初日筍飯を炊く 前田恵
蜘蛛の囲や魔性の瞳光らせる 増田天志
娘に負けぬ髪型の妻夏はじめ 松尾信太郎
なにかが遠くなる7月のトースト 松﨑あきら
夏は夜ニュースに夫の副音声 松本千花
父の日やポロシャツなんか欲しくない 武藤幹
柩を運ぶ内の一人は蟹を見る 望月士郎
裸で打つボンゴ広場の少年 森本由美子