『海原』No.10(2019/7/1発行)誌面より。
濤 声 独 語 〈8〉
絶えざる自己反省と自己励起 安西篤
前号の本欄でも紹介した『金子兜太戦後俳句日記』については、岡崎万寿、山中葛子両氏によってさらに詳細に論じて貰うことにしているが、私なりに感じている第一巻の見所を書いて、前座をつとめておきたい。
まず、絶えざる自己反省と自己励起があり、それを行動に移しているということだ。
例えば昭和四十二年四十七歳の三月十八日の記。「小生の目的は何か。〈人間〉を知ること。椎名麟三のいうような〈人間の自由〉の探求はまだ空々しい。そのためにいま虚偽と虚栄のベエルをひんめくること」。後年の「自由を求める」という生き方の、助走段階を思わせる。それは山頭火や一茶などの人間探求への道を用意することにつながる。
この考えに到る前の一月五日、友人から「金子さんは内向型で、組織の一コマとしては動けない人です。人の上に立つことは出来ても、人に仕えられないから―」と言われ、「(俳句を)書くしかない」と臍を固めている。そして一月八日、海程新春の顔合わせ会で、「①新旧の対立を自覚せよ。②海程の仕事を運動として認識せよ――以上のため①大同人誌活用の新プランを全同人が出してほしい。②句会中心主義。③評論活動を旺盛にするため評論賞設定。」という行動計画を打ち出している。
この頃、海程は創刊五年目に当たり、創業時の熱気が迸っていた。当時まだ三十代半ばの私は例会の司会を命ぜられ、今考えると若気のいたりとも思えるほど遠慮会釈のない進行の裁きに努めていたのだが、師からは「安西司会うまくはこぶ」と褒められていたことを知る。
また若者たちとの議論を深める中で、「平明と肉体を求めてきたが、これからは「自分の思想と姿勢を深める」の一本でよいのではないか」と答える。そして自らは「この充実のない〈白い〉安定ムードに挑戦して書け」と自己励起していたのである。絶えず時代の流れを、若い仲間たちとの交流の中で確かめ、自らを鍛え直していたともいえよう。