英国Haiku便り[in Japan]〈78〉特別版〈元EU大統領ファンロンパイ氏と過ごした五日間の印象〉小野裕三

『海原』No.82(2026/10/1発行)誌面より

英国Haiku便り[in Japan]〈78〉特別版

元EU大統領ファンロンパイ氏
と過ごした五日間の印象 小野裕三

◇俳句や詩を哲学的に考える
 昨年夏に、haikuの愛好家として知られる元EU大統領のヘルマン・ファンロンパイ氏の一日同行通訳を勤めたが、今年は、空港出迎えから見送りまでの計五日間での多くの行事に同行することとなった。立て込んだスケジュールの中での通訳兼アテンドの任務は、なかなか荷が重かったが、得難い貴重な体験でもあった。そこで、氏の公式行事での発言、そして合間での雑談や同席した夜の会食などを通して、氏の人物像について僕が抱いた印象を本稿では記したい。
 今回、氏が自身の俳句観を記した長文の文書が、国際俳句協会のシンポジウムで配布された。以前に書いたものに追記を重ねてきた内容、と氏は言っていたが、とても哲学的な内容だったことが印象的だった。しかも、来日直前の段階でさらに推敲したらしく、「その推敲でさらに哲学的になったんだ」とはご本人の弁。氏の中にhaikuや詩を哲学的に思索したいという思いが強いように感じた。
 僕の個人的な見立てだが、氏は政治家というよりも哲学者であり、さらには社会慈善家、という印象が強い人だ。それは詩人というのとも少し肌触りが違う。哲学者的な性向と、社会慈善家的な性向が交わったところに、俳句といういささか特殊な詩形式への愛が芽生えた、ということかも知れない。そんな氏が、今回の訪問でも「俳句は、人々にエゴの心を捨てさせ、世界平和を実現する」という主張を繰り返したのは、納得がいく。
 と言って僕のその見立ては、氏が政治家に向かないという意味ではもちろんない。どんな出来事でも柔軟に対応する姿や、さまざまな政治課題を鋭く分析する姿を幾度も目にしたし、それは政治実務の能力の高さを感じさせた。そう思えば、政治的駆け引きに長けたいかにも政治家的な資質の人物が政治家を務めるよりも、哲学者であり社会慈善家である側面を持つ実務的な人物が政治家を務めることは、社会にとっては幸せなことだ。そのような高次の意味で、氏は政治家に最適任の人でもあった。

◇弱者に寄り添う気持ちを実践する
 今回の滞在に同行しながら、特に印象的だったことを挙げてみる。
 ひとつは、御宿にあるメキシコ記念塔を訪れたときのことだ。今から四百年以上も前、メキシコに向かう途中に座礁したスペイン船の乗員を、当時の御宿の人たちが救助した。その逸話は以前から氏も繰り返し触れてきたことで、それを記念する御宿のメキシコ記念塔には以前も訪れたと氏は言った。今回訪れた当日は天候もよく、塔の先の岬からは晴れ渡る絶景の海が見えた。なので、同行の日本人たちの多くは海を眺めようと歩いていく。だが、氏はそんな人々を見送るように立ち止まり、塔の傍に設置された説明板の前で長らく立ち止まっていた(写真1)。あまりにその立ち止まる時間が長かったので、僕もその後ろに立って見守った。景色よりも説明板の歴史記述に強く関心を向けるその姿が、いかにも氏らしいと思った。

 ふたつめは、前記のこととも通じるのだが、日程内の行事のさまざまな場面で、氏のやさしい目線とそれを実践する気配りを目撃した。個々の具体的な出来事を記すのは各人のプライバシーにも関わるので伏せるが、ある組織やグループで必ずしも立場は高くないが、しかしながら現場を支えて頑張る人が、これはどこの世界でもいる。そういう人も見落とさずに目を配り、具体的な形で氏からの謝意を伝えようとする姿を、何度も目にした。端的に言えば、弱者に寄り添い、その気持ちを実際の行動に表す姿だ。
 率直なところ、EU大統領までを務めた人物がそこまでの気配りをしなくても、と感じることもあった。しかし考えてみると、氏の出身国であるベルギーはEUの中では小国だ。氏の職務では、大国の思惑に翻弄されたことも多かったのでは、と推察する。そんな経験も、弱者に寄り添う心情の根底にあるのかも知れない。

◇エゴの思考を止めるために
 ところで、先述した、自身の俳句観を記した文章の中で氏が、俳句と瞑想は多くの点で似ている、と書いていたのが印象的だったので、あるときタクシーに同乗した際にそのことを質問してみた。いわく、瞑想は六年前からやっているのだ、と言う。一回が十分とか十五分といった程度らしいが、それでも毎日だとか。
 haikuに関心のある氏だから、仏教瞑想への関心なのかと思ったらそうでもなく、それはキリスト教の瞑想らしい。そう思うと、氏のhaikuへの関心も、一般にありがちな東洋趣味の産物でもないのだな、とも思った。僕は言った。
「僕の理解では、瞑想というのは、日常的な思考、あるいは論理的な思考、というものを止めるのが主眼だと思います。そして俳句もまた、その短さによってそのような思考を止めるものです。だから、その二つが似ているというあなたの説には同意します」
 すると氏も頷き、こう言った。
「そうだ。両方とも、エゴの思考(ego thinking)を止めて、自分が受信者になるというものだからね」
 そんな氏の発言にはやはり、haikuを哲学的な視点から見ようとする姿勢が滲み出る。

◇haikuが作り出すよりよい世界
 一方で、社会慈善家の側面が発揮された俳句観も随所で散見できた。氏が日本の国会議員など十数名と会合を持つ機会があり、そこではこんなことを語った。
「私の政治的なキャリアからするとナイーブな発言と受け止められるかも知れないが、それでも私は俳句が世界平和に貢献すると信じている。今の世界は争いや暴力に満ちているが、俳句はそんな世界とは真逆にある。だからこそ俳句は、今のこの困難な世界への対抗手段(antidote)になりうる。もちろん、平和な世界やよりよい世界への俳句の貢献(contribution)が小さなものだとは知っている。しかし、たとえどれだけ小さなものでも、それが貢献であることに変わりはない。私たちは、俳句という十七文字に宿されたその哲学を保つべきなのだ」
 俳句を生み出した国である日本の政治家たちが、その言葉をどんなふうに受け止めたのか、と興味深く感じた。その発言は滞在二日目の昼食会のもので、同日午後には元駐日スウェーデン大使のラーシュ・ヴァリエ氏とも合流して国際俳句協会のシンポジウムに参加、三日目には御宿で氏の句碑の除幕式(写真2)、と日程は進行した。句碑になった氏のそのhaikuを引用する。

 two shores of the Pacific
 joined by generosity
 ocean of peace
 寛容の繋ぐ浜辺や平和の海

 それから四日目には千葉大学で講演を行った(写真3)。そこまでは俳句漬けだった氏も、千葉での講演では俳句はほとんど話題にせず、政治や経済のことを、さまざまな論点や統計を具体的に挙げながら熱く語った。
「危機の多い変化の時代を今、私たちは生きている」
 そんなことを氏は聴衆に訴えた。そんな氏の話を聴きながら、僕がふと思ったことがある。もしも仮に今の世界の課題が解決されて憂いの少ない世の中が実現されたら、きっと氏は毎日、哲学や詩のことを語って日々を過ごしたいのだろうなあ、と。けれども、過酷な世界の現実がそれを氏に許さないのだ。

◇混迷する世界への強い思いとやさしさ
 ちなみに、今回の滞在に前後するように、ふたつの政治的な出来事があった。ひとつは、天皇皇后両陛下のベルギー訪問。現地の日本大使館で開催された歓迎会に、氏も参加して会話をしたという。一人三分間と制限された時間の中で、氏は自作のhaikuを紙に書いて両陛下に示した。もうひとつは、サッカーのワールドカップ。氏も飛行機の機中やホテルの部屋で、インターネットを使って熱心に中継を聞いていたようだ。ちょうど、米国のトランプ大統領が審判の判定に干渉するという事件が発生し、その米国チームに対してベルギーチームが勝利した。
「あれは、ベルギーチームが米国チームに勝ったんじゃない。トランプに勝ったんだ」
 氏は、言葉に力を込めてそう繰り返した。それらの氏の姿にも、詩やhaikuと、一方で混迷する世界への、氏の交錯する思いを見ることができそうだ。
 最後に、氏のやさしさを感じさせる挿話をひとつ。最終日に成田空港に向かうタクシーに同乗し、僕は最前の助手席に座った。鞄から氏の句集を取り出して手に持ちながら、サインしてもらえると嬉しいけどそんな声をかける時間もないかな、とぼんやりと思っていた。すると後部座席にいた氏が不意に声を発した。
「ユウゾウ。ひょっとして、その句集に私のサインがほしいのか?」
 僕が手に句集を持っているのに気づいて声をかけてくれたのだ、と嬉しく思いつつ、句集を渡した。氏はさらさらと、こう書いてくれた。
《ユウゾウへ。
 2026年7月の、私たちの滞在とすてきな日々の思い出として。ありがとう。
                        ヘルマン・ファンロンパイ》

※ 写真の一部は、当日を取材した日経新聞の記事から引用。

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