特別寄稿〈『成層圏』に内在する自由の扉(前編)―金子兜太を視軸にして―〉石橋いろり

『海原』No.82(2026/10/1発行)誌面より

特別寄稿

『成層圏』に内在する自由の扉(前編)
 ―金子兜太を視軸にして―  石橋いろり

 父の書斎を整理してでてきたのが、『文藝春秋特別版十一月臨時増刊号―一冊の本が人生を変える』という平成十七年発行のものだった。大特集として「私を変えた一冊、支えた一冊」。多岐にわたる分野の百人の著名人の見開き二ページずつの書下ろしエッセーが組まれていた。多彩な方たちの一冊はそれぞれに、興味深く、整理の手が止まり、読み耽ってしまった。そして、目に飛び込んできたのが、金子兜太「感性の硬直に逆らう―俳誌『成層圏』」。人生を変える一冊として、金子兜太は俳誌『成層圏』を選んでいたのだった。『成層圏』は俳誌であって、一冊の本ではない。しかしながら、この『成層圏』こそが、青年期の兜太にとって「私を変えた一冊、支えた一冊」に相応する読み物だったということなのだ。『成層圏』について兜太の解説を『文藝春秋』掲載の文からそのまま引用すると

『成層圏』は昭和十二年四月創刊、同十六年五月、通巻十五号で終刊した。在福岡の俳人竹下しづの女の長男龍骨の提唱によって結成された高等学校俳句連盟の機関誌として発刊されたもので、初めは隔月刊、途中から季刊となった。

 総巻数が第十五号までの刊行であった中、兜太は水戸高校の一年先輩だった出澤珊太郎の勧めで『成層圏』第六号から廃刊になる第十五号まで参加していた。同人制だったので、自由に自選の句を発表していた。
 昭和十二年四月の創刊号の一頁目には、龍骨としづの女の揺るぎない覚悟のこもったマニュフェストが掲げられている。

  刊行の辞

 詩は青年の特権!吾々は、斯かる詩を
 思ふ存分既成老朽俳壇に
 ホルモンとして注射したいのだ。
 吾々は學生の叡知と、純粋なる感激との堝るつぼとして、
 成層圏を全高校生に捧げる。
 吾々は、“青年よ!
 明朗たれ、
 飽くまで理知的たれ”。
 而して、“成層圏の一員として、
 其の完成、
 更に俳壇の掃海艇たるの任務に
 奮闘せよ”と叫ぶ。

 『成層圏』の構成として、概ね、成層圏作品(句数無制限)、宇宙線(論文)、放射線(俳文・随筆)、無風帯(短見)雑詠(しづの女選十句以内)となっていた。
 当時、出澤珊太郎の勧めるものを砂地に水を吸収するが如く、兜太は新しい俳句の世界に面白いように嵌っていった。
 兜太が『成層圏』に嵌った理由として、次の四点が挙げられるのではないかと推察してみた。
① 竹下しづの女の強烈なカリスマ性に惹かれた
② 自由に句作することの面白さ、認められることの快感
③ 竹下しづの女、そして中村草田男の選を受けられること
④ 同世代の日本各地の優秀な人達からの刺激・相互評など

◇しづの女の強烈なカリスマ性

 兜太が俳句の世界に邁進するきっかけの一つとなったのが、近代俳句の先駆けと言われている俳人竹下しづの女の句、
 「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」(『「ホトトギス』昭和一三年)
である。
 『鑑賞女性俳句の世界 第一巻』の付録(平成二〇年)の兜太の談話には、

「女人高邁」の句を見て、おどろいた。『ホトトギス』に加藤楸邨や中村草田男の掲載されることが多かったが、この作品ほどのパンチは受けなかった。どんな人かと思い、虚子主宰の『ホトトギス』の巻頭に推されたなかの、「短夜や乳ちぜり泣く児を須可捨爲乎すてっちまをか」を知り後「汗臭き鈍の男の群に伍す」を知る。端的に、男尊女卑の深い我が国の、しかも戦時の思想風土のなかで、果敢に(いや平然との感)こうした俳句をつくる女性におもいをいたし、敬意を覚えた次第だった。

 掲句に見られる女性特有の台所俳句(厨俳句)の枠に収まらないしづの女の句に、兜太は刮目し、しづの女のリードする『成層圏』という俳句誌に関わることとなった。

◇兜太と『成層圏』のしづの女との出会い

 いつ金子兜太は竹下しづの女に出会ったのか。実は直接会ったことはなかった。
 昭和十四年十二月の『成層圏』(通巻第十二号)の消息欄には
  竹下しづの女氏 上京の豫定なりしも
  中耳炎にて中止

とあった。次の昭和十五年四月の『成層圏』(通巻第十三号)には、
  竹下しづの女氏 中耳炎にて御加療全快
  竹下龍骨氏 御病気入院のところ最近退院せられ自宅にて療養

とあった。上京する予定があったのだが、中耳炎に罹患したことで中止になった。時期を一にして、龍骨の入院。自宅での看病もあり、福岡から遠く東京に行ける状況ではなかっただろう。自身の中耳炎を理由としているが、看護する母の思いを優先した選択だったのではないだろうか。
 十三号の消息欄のしづの女の前項には
  竹下龍骨氏 九大農卒。九大研究室。
とあった。当時の消息欄は重要な交流の場であった。かなり具体的に個人情報を掲載し、また、掲載側も大いに奨励し、会の交流促進を促したようだ。

◇兜太と『成層圏』の架け橋となった出澤珊太郎

 兜太と『成層圏』の架け橋になったのは水戸高校の先輩、出澤珊太郎との出会いが、大きな起点となった。珊太郎に誘われ、第三回水高俳句会に昭和一三年一月二三日デビューし、あの名句「白梅や老子無心の旅に住む」を詠んだ。その珊太郎は、全国で高校生俳句聯盟という同世代の俳誌『成層圏』に第五号(昭和一三年一月号)から入会・掲載されていた。彼の薦めにより兜太も入会。次の第六号(四月)では正式に入会し作句が披露されていた。

 兜太の自己紹介文

 父が「馬酔木」に投稿してゐたので、自分も此れに興味を持ち専ら鑑賞のみに耽けつてゐました。作句を始めたのはつい最近です。現壇では、秋櫻子、誓子、林火の諸氏が好きです。その中でも林火の主観の強い緩みない句が好きです。自分もどうかして主觀のにぢみ出た句を作りたいと苦心してゐますがその時満足した句が案外浅薄な客観句であつたりして常に失望してゐます。
 このあと、無季容認論を徹底的に突込むべきものゝと言い、自分は「馬酔木」の有季説に傾いていたが、最近季感と詩との關係に對して有季論者のとる態度はあまりに狭く感ぜられ迷つてゐます、もつと詩そのものを考へる必要がある様です。又自由律句もありますがやはり定型十七字を認めて固守してゐます。

と入会の時点で既に問題意識を持ち、自分の方向性を決めていたことがわかる。その續きが、「要するに、自分は未だ定見なき初心者なので、今後の努力に御期待下さい」と、俳句に向き合っていく所信表明となっていた。
 「成層圏作品」には、出沢暁水(珊太郎)と隣合わせて掲載されている。
  ひたむきに往く爆機なり夕あかね 水戸 出沢曉水
  學童のざわめき過ぎて麥萌えぬ 水戸 金子兜太

◇しづの女・草田男体制になるまで

 創刊当初『成層圏』の俳句指導・監修はしづの女がひとりで担っていた。創刊前からしづの女以外にも指導者として横山白虹、日野草城、山口誓子、中村草田男の名が挙がっていたが、最終的に草田男になった。
 横山白虹は、ホトトギスの同人で、新興俳句運動を推進。九州の吉岡禅寺洞の「天の川」の編集長をしていて、同じ「天の川」に所属していたしづの女は信頼に足る人として、第一に白虹に依頼したのだろう。また、プライベートでは、昭和七年に長女澄子が白虹の媒酌で山藤一雄氏(九州大学農学部の生命科学の分野で活躍した人)と結婚している。白虹が九州大学医学部であったことが縁となったのだろう。しかしながら昭和十二年、白虹自身が「自鳴鐘」(とけい)を創刊するため実らなかった。
 山口誓子は、坂本宮尾著の『竹下しづの女』によると、
 
 つぎにしづの女が声を掛けたのは山口誓子である。このことについては、あまり知られていないが、誓子からしづの女に宛てた断りの手紙が福岡県立図書館に所蔵されている。

 この福岡県立図書館について余談になるが、少しふれておく。

◇福岡県立図書館としづの女

 しづの女は昭和九年から五年、児童室係の出納手として働いたという有縁があった。向学心あふれたしづの女にとっては、知識の宝庫である図書館勤務は願ったりというところもあっただろう。兎に角急逝した夫のあと大家族を養うため、選択の余地なく図書館司書ではなく資格不要の出納手として勤務したのだった。出納手は単純労働がメインで、給与体系も大きく差がついていた。最高学府で学び教壇にも立っていたしづの女にとっては、やる方ない職種であったろう。そういう逆境の中でも、図書館改革のための議案書を提出していた。体調不良もあっただろうが、しづの女の屈強な精神力実行力には感服する。
 しづの女に関連する資料が同図書館に保管されていることは自然の流れだったと言える。
 本流に戻すと、山口誓子の断りの対応については、多忙な誓子はまず電報で回答してから、改めて手紙を書いたものとわかる。

 貴女様の御推頼は実に忝けないと存ずるのですが、「天の川」と対立するやうな姿勢は、出来たら、とらない方がいゝと考へます。(昭和十二年三月十五日付誓子からしづの女宛ての封書)

 昭和十年「ホトトギス」を誓子が離脱した際、禅寺洞が批判的であったことが影を落とす要因だったようだ。
 日野草城は明治三十四年に東京で生まれた。十七歳で『ホトトギス』に入選し、若くして巻頭を飾り、同人になる。昭和十年、『旗艦』を創刊主宰、無季新興俳句運動をすすめた事によって『ホトトギス』を除籍される。当時三六歳は徴兵年齢だが、元々虚弱体質だったため、従軍しなかった。昭和十三年発行の草城の句集『転轍手』の中には過去三年分が収容され、「赤き紙真夏の闇を来り」「斬髪して陸軍砲兵少尉なり」の戦争を思わせる句がある。これらは戦火相貌俳句と言える。新興俳句の旗手であった草城は『旗艦』を刊行したが、戦争の影が忍び寄る中、活動を縮減していた。あえて新分野に乗り出す余裕はなかっただろう。
 次いで、面識のない中村草田男に打診することとなった。草田男からの昭和十二年三月八日付の封書によると、

 福岡高等学校学生諸氏の真摯なるご計画の件、目下の俳壇の状勢に対して当然欺くなかるべからざることゝて満腔の賛意を表し微力ながら私で出来得る限りのことは致したいと存じます
 ただ私は母校松山高等学校の機関誌にも既に関係して居りますし懶惰[無精の意]の性、兎角、事務的なることに携はれば不都合を生じ易いことを省み、且つ其御計画の内容詳細を未だ存じないこととをあはせて考へますとき(中略)御地の目下の同士のみで先創刊の実現へまでつとめられてはいかがでございませうか
 責任の程度が解りませんので左様御返事するよりほか致し方ないのですが、同士の一人に加へていただいておたすけ致すことだけは、将来の固い御約束として喜んでこゝに申しあげることが出来ます

 この文面を見れば、懇請する側の龍骨をはじめとする学生たちは、草田男が許諾してくれたと解釈したであろう。彼らの理解では、創刊號は無理だが、続く第二號から指導いただけると期待した。この草田男の多忙であるという予防線というべきか弁解は中ほどに書かれていたにしても、前半の「満腔の賛意を表し微力ながら私で出来得る限りのことは致したい」、また末尾の「同士の一人に加へていただいておたすけ致すことだけは、将来の固い御約束として喜んでこゝに申しあげることが出来ます」とあったことは學生の期待値を極限まで引き上げたことは想像に容易い。
 創刊號の編集後記の部分に、「第二號では草田男先生選評」と広告が打たれているのだ。草田男としては、若い学生たちの芽を摘まないよう助けていきたいと純粋に願ったのだろう。しかし、諸事情を伝えた上で、今はできないと猶予を持つことで、やんわりと断ったつもりだったのかもしれない。一方、草田男の参加を聞いて入会した者もあっただろう。草田男からの音信はなく、じりじりと時間が過ぎていった。一年たった昭和十三年四月(通巻六號)の消息欄に、

 中村草田男先生 御多忙の先生に成層圏顧問として長らくお世話かけしも、今般都合により顧問を拝辭致しました

 学生たちの期待をよそに、辞めると一方的な報告だった。
 奇しくも同じ消息欄の筆頭に

 金子兜太君 水戸高校文化新會員として入會

 入れ違いというわけではなく、草田男は全く『成層圏』に関わってこなかったので、編集側で、顧問として長らくお世話かけしもの文言により諦念の意を表し終止符を打ったのだった。

 前編では、『成層圏』草創期のことから、兜太が『成層圏』に入会するまでについてふれてきたが、後編では、草田男が監修に携わる経緯と具体的な『成層圏』のコンテンツについて追っていきたい。
(次号につづく)

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