無季の句二つ 金子兜太

無季の句二つ 金子兜太

 近世の俳人がものにした無季の句のなかで、次の二つが殊に好きだ。

  海に降る雨や恋しき浮身宿 芭蕉
  晴天の真昼にひとり出づるかな 一茶

 芭蕉の句は「おくのほそ道」の途上、新潟での作と伝えられるが、その文中には収載されていない。しかし、芭蕉吟には間違いはない。一茶の句は「享和句帖」(一八〇三年)のなかの一句で、そのとき一茶四十一歳。父の死後二年目にあたり、遺産相続のことも未解決のままに、江戸で借家住まいのひとり暮らしをしていた。父の死の前年には、恩人の大川立砂が他界しているし、自分は中年にはいる。行末定まらず、いたずらに人の死が身にしみる時期で、しばらく放浪状態にあったときもあるようだ。ほかにも「日の暮の背中淋しき紅葉かな」「海音は塀の北なり夜の雪」のようなものがある。感性の繊細な生地がよくわかる。
 両句に共通するものは「昼」だ。芭蕉句の雨ふる海はあかるく(小暗い家のなかから、ふいと外の海をみたときのようにあかるく)、そして物語めいている。昼の雨だ。「浮身宿」は、越前越後の海ぞいに、長期間行商する人が、その期間だけ身のまわりの世話をしてもらうためにもうけた女性のいる家で、むろん夫婦のようにしていた。芭蕉句にくらべて、一茶の句の「真昼」はさらにあかるく、なまなましい。芭蕉句に想念の陰影を見る人は、一茶句に、むきだしの、それこそ肉のような感性を見るだろう。初(うぶ)で、悲哀のかげを帯びた。そしてあるいは、芭蕉句の無季は、想念のあまり季を越えてしまったものとみる人があり、季を加えれば、また別の、同等の味わいがでるとみる人がいるかもしれないが、一茶句の場合には、それはいえまい。季を加えた途端、この真昼は濁ってしまう。
 いずれにせよ、両句が示すものは、物の芯(物のひかり)を確実に看取する感性の働きであって、それは、とりもなおさず、ことばの質を的確に感知する能力でもある。二人は、その感性を鈍らせまいとする用意のもとに俳諧をなしていたにちがいない。私なりにいえば、それは物の〈物象感〉を掌握しうる資質であって、季感は物象感の一部だから、発句の約束以外、有季無季にこだわる必要はなかったのだ。
 ちなみに、一茶の俳風は、この句の時期の沈潜を土台として形成されたものと私は見ているが、その基本は、物に対して感性の全身をけれん・・・なく立ちむかわせる態度であった。繊細さもなまぐささ・・・・・もすべてをもって対象にむかう、そのありのまま・・・・・への覚悟だった。その点、いわゆる一茶調だけで、一茶俳諧を割切ることに、私は賛成しない。
 ともあれ、芭蕉流にいえば、〈無季の句一ッも作り出したらんは後世によき賜(たまもの)〉ということになる。

『詩形一本』/永田書房/P44 初出:「毎日新聞」昭和48年1月21日

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