土がたわれは 金子兜太

土がたわれは 金子兜太

 「俳句は人間不在である」、あるいは、「現代俳句にいたって、ようやく人間が所在するようになった」――という言葉をよくきくが、この奇妙な断定が、私には最大の関心事なのである。私は、この「人間」にとりつかれて俳句を作るようになり、戦後は、ムキになって、とりついてきた。そして、今後も、この「人間」から離れることは絶対にできない。
 それにしても、人間不在とか人間所在とかいう言いかたは、まことに奇妙である。軽い受取り方で考えても、バカバカしいことなのである。たとえば、有季を約束とする伝承に従って作られた俳句が、有季に吸いよせられて人間が不在化した、などと言ったら、それは噴飯ものであろう。たしかに、有季の約束が、有季を金科玉条とし、季題描写に全力をかたむけてしまう結果、精力を傾けている御本人の影も形も、まことに薄曇りの日のようにかすかにしか見当らなくなることはある。しかし、それでも、やはり影も形もあるのだ。あるいは、約束のもとに相集り、楽しみつつ作り合ううちに、しだいに、風船のように、塵紙のように己れの影をまことにお粗末にしか止めることができなくなってしまったとしても、そこに人間がいないとは、誰にも言えないことなのである。
 だいいち、人間不在の文学、さては詩歌とは、それじたいが概念の矛盾だ。文学とは、すなわち人間の表現であり、その意味で、人間のものであるはずである。人間所在の俳句以外の俳句など、あるわけがない。
 にもかかわらず、依然として、人間不在の俳句、一方に、「人間のいる俳句」という受取り方を、一般にも、私のなかからも、消すことができないのは何故か。
 私は、少年期から青年期にかけて、水原秋桜子主宰の「馬酔木」誌を読んでいた。父の机の上に、あるいは、炬燵の上においてあるのを読んでいたのである。そして、加藤楸邨・石田波郷・高屋窓秋・石橋辰之助たちの俳句を知った。青年期には、全国学生俳誌と銘打って、福岡で発行されていた「成層圏」に参加したことから、竹下しづの女・中村草田男の俳句を知り、東京に出てからは、草田男を囲む句会に出席するかたわら、加藤楸邨の主宰する「寒雷」誌に投句しはじめた。
 そのまえ「成層圏」への参加を奨めてくれた、いや、私に俳句を作るきっかけ・・・・をつくってくれた――先輩の出沢珊太郎に連れられて、島田青峯の宅を訪れ、氏の主宰する「土上」誌に参加し投句した。そこで、東京三や古屋榧夫・島田洋一の俳句や文章を読み、しだいに、富沢赤黄男・西東三鬼・渡辺白泉・横山白虹・平畑静塔・篠原鳳作の作品に関心をもちはじめ、新興俳句運動というものに注目していったのである。間もなく、この人たちに弾圧があり、青峯師は獄に死んだ。私は、楸邨の「寒雷」誌以外に投句先を見出すことができなくなってしまったのだ。
 だから、もし弾圧がなかったら、自分の俳句もいまとは違ったものになっていたかもしれない、という気持はあるが、しかし、結局は、いまどおりであったろうともおもう。いずれにせよ、弾圧後の俳句界にあって、私は、楸邨・草田男の作品活動に接していたのであり、それがいちばん、自分にピッタリだとおもっていたのである。堀徹(一九四八年没)という貴重な先輩と接触できたのも、草田男を囲む句会のおかげである。
 ――つまり、裏がえしていえば、いま挙げたような作者と作品との出会いがなかったならば、私の俳句への傾斜も傾倒もなかったのではないか――いや、なかったということなのである。いま一度、私を俳句にむかって熱中させた事情が戦後にあるが、それは加速度であって、初動を決定した初期体験を無視することはできない。
 では、どういうところが、私を引きつけたのか。私は、すぐ、次のような俳句をおもいおこす。

  炎夏の扉街へひらきしが用あらず 楸邨
  その冬木誰もみつめては去りぬ 同
  会へば兄弟はらからひぐらしの声林立す 草田男
  冬空西透きそこを煙ののぼるかな 同
  百日紅ごくごく水を呑むばかり 波郷
  描きて赤き夏の巴里をかなしめる 同

 私は、いまでも、これらを、ある感動をもって思いうかべる。これ以外にもまだあるが、一つ一つが、私の〈戦時下の青春〉の日日の記憶に――そのときどきの細かい襞をさするかのように――結びついているからである。結びつくことのできる、なまなましい膚接感をもっているからである。
 それらは、私とともに息づいてくれたし、いまでも息づいているのである。私の心理や感情とおなじように、なまなましく揺れ動いていた。
 楸邨の作品には、鋭い神経のひびきがあった。それが不安感と意思との乾いた交錯を呼び、この詩人は、その表出をためらわなかった。そして、それは、思想に集約されてゆくまえの、詠嘆の渦巻をくりかえした。
 草田男には、日常心理の正確な把握があり、それの生ま生ましい言葉があった。それがいくどとなく、さまざまな位相で提示された。つまり、結実してゆく思想ではなく、ひたすらたぐられ繰りかえされる思考として、それは提示されたのである。
 波郷の作品は、日常の心情を、あらあらしく、それでいて肌理きめこまかに、書きとめていた。どちらかといえば、外向感覚に恵まれていたこの詩人は、当時、都会俳句といわれた、生活環境への新鮮な視角を築いた。
 そういうぐあいであった。ほかの作者で、いまでも記憶されるものに、

  頭の中で白い夏野となっている 窓秋
  しんしんと肺碧きまで海のたび 鳳作

のような新鮮な感受があったが、私にとって、「人生派」と呼ばれた、前記三人の作品が最適であった。人生派という渾名じたいが、生き生きとした感銘にふさわしいものとさえおもえたのである。
 むろん、一方に、いまも著名な、次のような作品があった。

 流れゆく大根の葉の早さかな 高浜虚子
 金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎

 虚子の作品には、無常観の底から見定めた流転の相が、素知らぬ顔で、しかし、じつに用意周到に書きとめられてあった。
 茅舎の作品は、意志的な生の受容が、みずみずしい充実感を形成していた。その充実ぶりは、個性というような個別性を超えて、普遍への充足ぶりを示すものでさえある。
 私は、こういう作品に引きつけられる面をもった。俳句というものは、結局、こういう姿に極まるのではないかと思うときもあった。しかし、すぐ、それではつまらない、という気持に支配された。いま、この文章を書きながらも、私は同じことを反復する。
 私なりの言葉を使ってくらべることができる。たとえば、状況・・境地・・という対照である。人生派三人の作品を状況の句・・・・といい、これら二人の作品を、境地の句・・・・という。状況の句・・・・は、自分の現在の状態に忠実に対応しつつ、その刻刻を、初い初いしく、揺れ動くままに、したがって、なまぐさく、表現してゆくのである。だから、繊細であり、不安定であり、いかにも素人くさいものなのである。
 それにくらべて、境地の句・・・・は、自分の現状ということに、それほどこだわることをしない。それは一つの現象であるという見方に傾くのである。だから、刻刻を生ま生ましく捉えることも、揺れ動く内心に追随することも
いさぎよ
潔しとしない。それよりも、充実した〈境地〉の形成を計るのである。円熟した、動かないものを築こうとするがゆえに、その表現は、一種の線の太さをもち、いかにも玄人のしぶとさを示す。
 別の説明もできる。状況の句・・・・は、生きているという今の事実(それを生活という言いかたもある)を、十分に書きとめようとし、喜怒哀楽のなまぐささや、意識や心理、感情の生きた屈折を主題とする。いわば、生に向うものなのである。それにくらべて、境地の句・・・・は、ゆるぎない、確固たるものに結実しないような、今の生の事実を、いたずらに書こうとはしない。むしろ、生まのものを剥ぎとる方向(それを、自己を切り捨ててゆく方向、という人もいる。この自己とは、生きている只今の生身の自己)にむかう。これを、死に向う、というのは誤りであろう。徒らに・・・せいに向わない、というべきなのだ。
 この対照を、生活・・伝統・・といういいかたでおこなうこともできる。状況は生活(日常と非日常の生活)のなかにあり、生活の現在に深く関わるところに表現の意義がある、と。伝承も――そして、それの精神史的結実としての伝統も――生活者に肉体化されて所在しないかぎり、今の意味をもたない。だから、むしろ、伝統を意識しない、〈伝統体感〉だけの生活表現のほうが、伝統を現在に生かして捉えていることになる、と。
 これに対して、境地に向うものは、その伝統という確実な所与――過去からの所与――を、現在において掌握してゆくことの意義を強く語るにちがいない。現在の生は不確実であり、流れてゆくものである(可能性という言葉じたいの不確実さ)から、過去の風雪に耐えて、一箇の普遍性をもって、精神的所与として現在にあるものを、探るしかない、と。
 そのほか、いろいろな対照ができるが、そうした状況の句・・・・にとって〈俳句〉は無葛藤の詩形ではない。人生派三人をみても、有季定型の約束を遊奉しつつ、その伝承内容(定型は伝統内容)を――意識的にせよ無意識的にせよ――、徐徐に変貌させていったことは、周知の事実である。草田男と楸邨が、当時、私たちに、季題は「手段」だと話してくれたことを、いまでも銘記しているし、じっさいにも、この人たちは、季題を季物として、いわば天然の物象として、ほとんど(ときには全く)季節感を無視して扱っていたのである。(戦後でも扱うことが多い)。また、定型式についても、これは草田男の場合にいちばん顕著だったが、字余り(破調といういいかたもある)にすることが多かった。しばしば「散文化」、あるいは難解という評語がきかれたのも、そういう〈長い俳句〉からくる面があったのである。もっとも、これには、現在の生きた屈折を現わそうとして、どうしても盛り沢山になり、多くを提示しようとすることになる面――そういう内容的な要請も大きく働いていたことは争いがたい。
 三人とも、有季定型と現在の生きた屈折との結合の結果えられる、ある詩的秩序の形成――それに引かれて俳句を作っていたようにおもえるし、私も、その〈奇しき詩美〉を好んでいたのである。拠点は有季定型なのだが、その拠点に持ちこんで結実させるものが、現在のもの(したがって、大いに個性的なもの)であったがために、拠点もその内容に引きずられて、徐徐ながらも、変ってゆかざるを得なかったのだ。結合といったが、双方の引き合いと和合のなかに得られる結合だから、葛藤的結合ということになる。三人にとって、俳句は、そういう状態で存在していたのであり、それが私を引きつけたともいえるのである。
 そのことは、境地の句・・・・にとっては、むしろ考えられないことなのである。有季定型の真髄に触れることが、伝統――その堅固な実質と接合することであるわけだから、有季定型がいつも優先し、いわば規範として、そこになければならない。現在の屈折の――その、あちこちに出しゃばった手や足を切りおとして、確実な胴体だけを掌握しようとするものにとって、有季定型は、揺ぎなき砦でなければならない。その堡塁に納まることによって、円熟した自己充足が得られるのだ。
 長くなったが、「人間の所在する俳句」ということの意味を、私は、そうした状況とか生活の句として受けとるのである。単純に言ってしまえば〈生きている人間の俳句〉ということだ。ぎらぎら、きょときょと、と私たちは現在を生き、未来に希望を、あるいは失望をもち、過去を誇り、あるいは大いに悔いて、いる。そのま身の人間の屈折を現わした俳句――それが「人間のいる俳句」なのである。それと対蹠的な俳句として、私は、境地とか伝統とか言ってみたが、それが比喩を多分に含んだ対照であることは、賢明の士のとくと御承知のこととおもう。
 波郷がかつて、「俳句は私小説」と言ったことがあり、戦時のふかまりのなかで、「俳句は文学ではない」といったことがある。先後関係は定かではないが、ともかく、彼が、俳句は私小説と言ったときには、市井に生きる人間の、なまなましい愛憎哀歓が主題として自覚されており、文学ではない、と言ったときには、そのなまなましさから離れて、〈境地〉の形成を望んでいたことがわかるのである。この推移は、表現者たちに、ときには周期的な繰りかえしのかたちで訪れ、おおかたは、中年から老年に向う時期のなかで、一度かぎりの曲り角として、はっきりと、訪れるものなのである。波郷の場合は早い年齢で、その転化を示したが、戦後、句集「惜命」のあたりで一度戻り、その後はっきりと〈境地〉にはいっていったようにおもう。楸邨や草田男の老年にも、その転化の兆し顕著だが、なお、それに逆らうものをみる。そこが、この詩人たちの、私にとっての魅力なのである。

 戦後も、いまも、私は、以上述べた意味での〈人間のいる俳句〉に執着しつづけている。〈境地〉への志向は、まだ遠いもののようにもおもえるが、ときに、体の弱まりを感じるとき、自分を支えるものをたやすく求めるかたちで、その志向が湧き、うっかりすると、それにむかって、ひどく傾斜してしまうことがある。
しかし、私はあくまでも〈状況〉への積極姿勢に執してゆきたい。表現ということの意義を、そこにしかおきたくない。
 その〈状況〉だが、楸邨たちの作品に見、私自身もそうであったことは、内面・・の状況、つまり、個たる自分の心情反応にとどまるていどの、即自的なものであったことだ。しかし、戦争を経た戦後、私には、外部・・の状況もひらけてきた。ひらけたということは、自然発生的に、ということではない。意識して、外部を見はじめることによって、ひらけてきたのである。したがって、そのごの私にとっての〈状況〉は、内と外の渦巻き――その葛藤と調和である。それを〈現実〉といいなおして、現実という言葉で、外部だけしかいわない、素朴なリアリズムの不毛に抗してもきた。
 とにかく、戦後の私は、俳句のなかの人間――その生き身のものの表現に、ますます熱中し、それゆえに、俳句を本気で作ってみたいとおもった。一時、俳句を捨てようとおもった時期もあったが、〈人間の俳句〉の可能性に憑かれて、再び俳句に熱中したのである。
 それには、いくつかの刺激がある。一つには、戦中体験があり、二つには、戦後逸早く属した「風」誌グループと、戦時中から投句していた「寒雷」誌と、その双方にいた同世代の作者たちの意欲がある。それから、堀徹との接触がある。第四には、桑原武夫の「第二芸術」(一九四六年十一月)を挙げなければならない。
 堀徹は一九四八年(昭和二十三年)の五月二十日、清瀬国立療養所のベッドで、喉頭結核で死んだ。行年三十四歳。それから十四年経って、遺族と友人たちの手で、遺稿集「俳句と知性」が上梓された。
 そのなかに、私も追悼文をだしているので、堀との交友や、専ら彼から得ていた影響については、いまさら触れないが、要するに、私が彼から得た文学的、人間的影響は、日を経ても拡大こそすれ、決して忘れることができないものとなっている。彼の代表的評論である、「子規に於ける写生の意味」に貴重な指摘があり、これはいまでも、私の支えである。
 堀は、この評論の最後を、子規の次の歌で結んでいる。

  渾沌が二つに分れ天となり土となるその土がたわれは

 そして、その「土がたわれは」を確認し、解示する文章を、そのまえのほうに書いていた。
 「庶民的人間性・・・・・・――全く無文化のままの肉体的・・・人間性――の唐突至極な文化への現出――俳諧――をかしみ・・・・の正体であらう。それは云ふならば、雅致・・に対する野致・・である。その時、野致・・とはあるひは非文化の同義語であるにもひとしいかも知れない。そして、同時にそれが子規の俳句の基盤にあつた。(以下略)」(傍点はすべて堀)。
 私もまた、堀から教えられつつ「庶民的人間性」、その「肉体的人間性」を、その「野致」を、子規とともに、自分のなかに確認していった。自分は「土がた」であり、終生そうありたい、とおもい、それゆえに、俳句という〈庶民〉詩の肉体をえぐりだしてみたいとおもったのである。私にとって、有季になずんできた庶民の趣味(さては日常情感)よりは、むしろ定型形成の韻律と空間がもつ肉体(ここ五年ほど、それを〈自然〉と言ったりもする)に興味がむくのは、そのためでもある。
 堀に、いま一つ貴重な言葉があった。
 「(前略)作品の全一体、その生命を生き生きと支え切る詩精神の清新さ・・・・・・・こそ問題なのだ。言ひかへるならば、それは知性の問題である。そして、知性・・とはつねにイデアの光を身にうけ、はじめて自らを成長せしめる――いはばたえざる自己救出、そのきびしいいとなみ・・・・――批評精神・・・・の謂であるにほかならない。この批評精神・・・・の裏づけを欠いたあらゆる新しさ・・・はすべて偽物だ。(以下略)」(「不器用句集覚え」傍点堀)。
 古くして、つねに新しい指摘である。私は、このみずみずしい意見を、「土がたわれ」の自覚の上に重ねて読むのである。「土がたわれ」の「知性」、すなわち「批評精神」として受けとりつつ、自らの清新な生の現在を俳句のなかにも築こうと願ったのである。
 次に、桑原武夫「第二芸術」の場合は、そうした教示ではない。一箇の刺激にとどまる。
 この啓蒙的な散文は、日本語の音律形式(とくに短定型)のもつ〈非散文効果〉(韻律と定型空間の効果ともいえる)を見事に見失っている点で、文学論としては下の下のものだが、俳句をとりまく人間関係の批判としては、まことに時宜を得たものであった。私は、ちょうど戦地から帰国した翌月に読んだわけだが、ただちに、結社組織をおもい、このなかで育まれている俳句作品の低俗さが、逆にその人間関係を温存させる因ともなっている、とおもった。純粋すぎる考えかたであって、それほどお安いものでないことは、それから二十五年にちかい体験のなかでよくわかったが、しかし、そのときは、だからこそ〈人間〉を叩き込め、その生き生きとした息ぶきで、人間関係の停滞を吹きとばせ、とおもったのである。
 そのころから〈本格俳句〉という言葉が浮かぶようになったのだが、遊技・遊芸化した俳句が露呈する低俗な生き身のすがたではなく、同じ生き身ではあるが、それの本質的な形象を打ちだしたい、というおもいに、私ははっきり向っていたのだった。
 〈境地〉に自己充足せず、さりとて、生き身の皮相に自慰せず――ということであるが、私は、この念願を、一九五三年ごろから活溌化した「社会性」論議と実作の渦中で、さらに明確にしていった。
 私はそのとき、「社会性は態度の問題」として、イズムべた付き、あるいは社会素材的考えかたによる皮相化を拒絶した。そして、態度を支えとして、内部と外部(社会)の葛藤と調和をはたすもの――その内面的営為をおこなうものを〈主体〉(社会的主体ともいった)と名付けてみた。この主体というとらえかたには、先述の、〈状況〉についての認識のひろがりが具現している。
 そして、その主体の活動――まさに、これが人間の〈状況〉といえるもの――を、いかに俳句に実現するか、その方法を求めて、私は、一九五七年(昭和三十二年)に「俳句の造型について」を、一九六一年に「造型俳句六章」を、ともに「俳句」誌上に書いた。そして、そのまえの一九五六年に「本格俳句・その序論」を「俳句研究」誌に書いて、その基礎打ちをした。
 ともかく、ここにきて、どうやら私は、状況の句・・・・本格・・的に打ちだすべく、その方法をかためることになったのである。それから、かれこれ十年経っている。
 そのあいだ、依然として、私は自分の意欲を優先させ、この詩形の特性に従うよりも、むしろ自分の意欲に従うように詩形を馴致することに専念してきた。ただ、そうは言っても、定型式の伝統は堅く、それと自分の表現内容との均衡を計るためには、さまざまな譲歩をしなければならなかったし、当然そこでは、その特性を探求し、確実に掌握することを考えなければならなかった。
 加えて、一九六〇年(昭和三十五年)あたりを境にして、有季定型への回帰(私は、伝承回帰の時期と言っている)が目立ちはじめ、その人たちや同じ関心に立つ自由詩の人たちからの批判を浴びることになった。私は、ますます詩形の特性探求に向うことになり、焦点を言葉と形式の問題にしぼってゆくことになる。
 いま、私の得ている結論は、三句体、十七拍の文語定型は、有季の約束をはずしても、独立詩形として成立可能(現在の表現要求に耐え得る)ということである。そして、将来のすがたとしては、現代書き言葉による変容を経て、新たな最短定型が展望されるわけだが、それがいかなる形をとるかは、まだわからない。わからないけれど、すくなくとも、次の一線を崩すことはできない。それは、韻律と定型空間(言葉のイメージ)の〈奇しき諧和〉を保って、〈非散文効果〉(韻文の魅力といった、韻律に傾きすぎた考えでなく、定型空間の魅力も同等に、ときには同等以上に重くみる)を十分に発揮してゆくこと――そのために最適な定型式でなければならない、ということである。そして、むろん、その場合に、和歌から連歌・連句を経て発句の独立、俳句という子規の命名にいたる、いわば詩形の伝統を、定かに見ていなければならない。その上で、長い実作努力がつづき、やがて、現代の〈主体〉にふさわしい定型詩形が構成されてゆくことになるはずである。
 そうしたかたちで、伝統詩形の現代にたいする耐久力(適応力)を信頼するについては、当然、言葉の問題が前提になる。
 それは、季語を含む広範な語群が象徴機能を開現し、獲得することである、と私はおもっている。季語を約束とする――そうした言葉への狭い配慮を捨てて、一度、季語を他の語群のなかにおいてみることなのだ。
 季語をも含む広範な語群の象徴機能――これを言うためには、季語の象徴機能じたいの変化(私は深化という)を語らなければならないが、これはすでに、楸邨や草田男の作品について書いたとき触れていることなのである。そこで私は、これらの詩人が、季語を季節感以上のものを期待しつつ使っていた、それは〈物象感〉とでもいうべきものだ、と書いた。機能として、季感よりも、もっと広く深いものを、彼らは感得していたのである。季感も、その物象感の中の一部。
 私の作品で、

  三日月がめそめそといる米の飯

というのがあるが、これができたとき、自分ではっきりと、その物象感を知ったわけだが、ここにある三日月という言葉は、三日月という物象そのものの感受によって象徴機能を得ている。よく読むと、なんとない季感があるが、それは、歳時記できめた秋ともいえるし、そうでないともいえる。夏ともいえ、冬ともいえよう。作ったときは早春の三月だ、といえば、ああなるほど、これは早春の感じだよ、という人が多いかもしれない。そのていどにしか特定季を受けとることはできないにもかかわらず、なんとない季感を感じるのは、いわば、天然の時間と人間の生活の摩擦感とでもいうべき、季感そのものが感じられているからなのではないか。どうも私はそうおもう。
 そういう例は多い。ことに、トマトや草花などのように、四季いつでも栽培されるものが増加してくると――ことに都会生活者の場合などは尚更――、そういう広いかたちの物象感以外には、あまり感応できなくなるにちがいない。また、現代生活者の天然への対応が、アルピニストや宇宙ロケットの操縦士を引きあいにだすまでもなく、一個の物体、あるいは現象として行なわれることが多くなっているとすれば、ここでも、その言葉は、物象感を象徴機能の軸とするようになろう。
 季語という呼称がもつ文化視角をないがしろにするものではなく、むしろ、その伝承を貴重とおもうものだが、さりとて、それをこの時形の約束として固定化してしまうことは、すでに狭いのである。むしろ、湖も森も、父も母も、朝も昼も夜も、そして、ビルディングもロケットも電話器も鼻も耳も――その象徴機能の開現の可能性を信じて、自由に、この詩形に参加させるべきなのだ。むろん、季語と競合させるかたちで――
 私の実作体験では、残念ながら、まだ季語の象徴機能のほうが高い場合が多いが、そのことをトクと承知の上で、私は広範な語群にいどみたいとおもっている。
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『定型の詩法』金子兜太/海程社1970/P389
『定住漂泊』金子兜太/春秋社1972/P232
初出:土がたわれは『俳句』1970・8

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