わが追憶の満州、熊野そして広島〈前編〉〜俳人・安西篤の産土を辿る〜 齊藤しじみ

『海原』No.80(2026/7/1発行)誌面より

シリーズ 十七文字の水脈を辿って 第9回

わが追憶の満州、熊野そして広島〈前編〉
〜俳人・安西篤の産土を辿る〜 齊藤しじみ

 (一) 序章

 安西篤は今年の春で九四歳になった。今も現役で活躍中の作家・五木寛之や生涯現役を貫いた俳優・仲代達矢とは同じ生まれ年だ。「海程」の後継誌「海原」の初代代表を去年まで七年余り務めた後、今も句会の選者としての冷静で明晰な講評ぶりは健在である。
 かつて金子兜太は愛弟子の安西を次のように評したことがある。

 屈託のない秀才で、笑うが如く笑わざるが如く笑って(中略)得も言えぬ味わいの俳諧を熟成しつつある。(出典①)

 今年一月の「海原」の東京例会で、安西は「ヒロシマ」の地名が入った句の講評で「僕は高校が広島。自宅は川の近くで、庭を掘ると原爆で亡くなった人の骨が出てきた」と語った。その話に私はいささか驚きを感じた。というのも安西がこれまでに出した四冊の句集に記された略歴は左記の内容だった。
 昭和 七年 三重県生まれ
   一二年 満州にわたる
   二一年 満州より引き揚げ

 このため、安西ゆかりの地と言えば、満州と三重と思い込んでいたのだが、日本の近現代史で意味を持つ「満州」に加えて出てきた「広島」の地名。金子兜太が産土の秩父を生涯こだわり続けたことに比べ、安西は戦争を挟んで幼少年時代を過ごした彼の地のことを公の場で語ったことはない。それだけに私は俳人・安西の産土での追憶の日々を書き留めておきたい思いに駆られた。
 安西の自宅は東京・国分寺市の西恋ヶ窪という住所にある。話は冒頭から脱線するが、作家・大岡昇平の代表作「武蔵野夫人」で、道ならぬ恋に陥った人妻がお相手と散策の途上、「恋ヶ窪」の地名を聞いて全身から力が抜ける場面がある。私には力が抜ける理由もなく、JR西国分寺駅から徒歩一〇分ほどの閑静な住宅街にある自宅に足を運び、合計五回、延べ一四時間にわたって話を伺った。話の多くが八〇年以上も前のできごとである。安西が淡々と語る幼少年時代の数々の記憶はその一つひとつが連綿とした激動の昭和史を象徴する一コマだった。聞き手の私はその小片を拾い集めながら歴史を紡いでいく気持ちに包まれた。今回の連載では前編で満州時代、九月号の後編で熊野(三重)時代と広島時代と二回に分けて掲載する。

 (二) 追憶の満州

 中国の東北部に「満州国」が建国したのは今から九四年前の昭和七年三月。安西の生まれた年に重なる。前年には満州事変、一二年の日中戦争、一六年の日米開戦、二〇年の広島・長崎の原爆投下と敗戦、激動の時代は安西の幼少年時代とほぼ時を同じくする。

 安西の生まれ故郷は現在の三重県南部の紀北町になる。熊野灘に面し、町の面積の多くが森林で占められ、雨の多い湿潤温暖な熊野地方の一角である。自宅は地元で紡績工場を営む家に生まれた母・とよ子の実家でもあった。父・栄は母より二歳上の明治三六年生まれで、今の大成建設の前身「大倉土木」に勤務する北海道帝国大学出の土木技師だった。栄は福島県出身だが、紀勢線のトンネル工事で三重県に来ていた縁で知り合い結婚した。
 昭和一三年に母と長男の安西それに二つ下の長女の昭子の母子三人は、幼い弟一人を祖母に預けて父の単身赴任先の満州に渡った。日本から満州開拓の本格的な移民が始まった時期にもあたり、後に開拓民の間には多大な犠牲者が出ることになる。
 安西は昭和一四年に、当時は奉天と呼ばれた今の瀋陽の小学校に入学した。奉天は清朝興亡の歴史を刻む都市で、近代になって明治三八年の日露戦争最大の戦いの地、昭和六年の満州事変の舞台にもなった。
 満州国の政治・経済・文化の中心地だった奉天について、少女時代に住んだ「李香蘭」こと大正九年生まれの山口淑子は「憧れの大都会。中国人街、日本人街、ヨーロッパの都市を思わせる街があり、一大国際都市、夢の城」と称したことがある。(出典②)
 安西は自宅が中心部から離れ、幼かったせいもあり、華やかな街の印象は記憶に残っていないという。その安西が三年生になって、一家は奉天の南隣の遼陽に引っ越した。蒲柳の質だった安西の身体を気遣う両親が自然環境の豊かな遼陽で育てたいという思いからだった。遼陽は街が城壁で隔てられ、内側はおよそ四〇万人の中国人、外側ではおよそ一万五〇〇〇人の日本人が南満州鉄道(以下・満鉄)の遼陽駅周辺に日本人街を作って住んでいた。安西は「遼陽の街は春には白い花が咲き、秋には黄色の実がつく杏の木が多い美しい街だった」と振り返る。
 通った小学校は全校児童六〜八〇〇人程度で、ほとんどが日本人の子弟。授業では北京語も習ったという。安西が自虐的に語るには運動が苦手で引っ込み思案、級長や卒業式の総代まで務めた割には友達が少なく、級友からはいじめられ、楽しい学校生活ではなかったという。思い出と言えば、好きな詩吟にあわせて刀や扇を持って舞う剣舞を校内で披露したこと、氷点下二〇度程度まで冷える冬場は校庭に水を撒いた即席リンクでスケートを楽しんだことくらいだという。

 自宅では野菜などを売りに来た中国人と母が日本語訛りの中国語でおしゃべりに興じたり、父が仕事で苦力(クーリー)と呼ばれる労働者を大勢雇っていたことからその棟梁になる中国人も頻繁に出入りし、酒食でもてなしたりしていたという。両親とも開放的な明るい性格で、そのことが敗戦後の混乱の中を一家そろって無事に乗り越えることができた一因につながったようだ。
 昭和一九年四月に国民学校(旧小学校)を卒業した安西は満州で最も伝統のある名門奉天第一中学(旧制)に受験して入学した。学校は一学年二〇〇人ほど、遼陽からは通えない距離のため、安西は奉天の知り合いの家に寄宿した。
 しかし、戦時色は日増しに色濃くなり、物資不足で教科書は支給されず、一年生の後半からは勤労動員で軍事関連の工場での作業などに駆り出され、二年生に進級してからは授業も次第に行われなくなっていった。戦況の悪化に伴ってソ連軍の侵攻が噂され、息子の身を案じる父の計らいで、安西は寄宿先を離れて同じ奉天の大倉土木の支社の隣の三階建ての独身寮の一室に移り住んだ。
 昭和二〇年八月一五日。戦争に敗けたことは寮に住む大人から伝え聞いたという。正式に満州国が崩壊したのは、皇帝・溥儀が退位宣言をした三日後の一八日になる。
 奉天第一中学の安西の同期生は、敗戦翌日一六日の奉天の様子について綴っていた。

 ほとんど人影のない寂しい真空地帯の市街であった。(中略)日本人の家は例外なく掠奪され、これまでの腹いせとばかり日本人は殴り倒されたり、掠奪、強姦、殺人がしばらく続いた。(出典③)

 当時、奉天には後に漫画家になる赤塚不二夫(昭和一〇年生まれ)とちばてつや(昭和一四年生まれ)も住んでいた。敗戦後の混乱について、赤塚は「道ばたに殺された多くの死体がころがっていた」、ちばは「日本人は家の中に隠れて震え上がっていた」とそれぞれ証言している。
 安西の場合、大倉土木の支社の建物がソ連軍の現地司令部として接収されたことでかえって周辺地域の治安が保たれ、身の安全につながったようだ。
 九月に入って、安西は父の命を受けた社員と一緒に、奉天を出て家族の待つ遼陽に避難することになった。その頃、南に向けて避難する日本人が満州各地で満鉄の各駅に押しかけ、汽車の切符を買うことさえままならない混乱状況だった。リュックサックを背負い、偽装のための満鉄社員の腕章を付けた安西は、奉天駅に着くと、引率の社員がソ連の警備兵に大量の菓子を渡して懐柔し、石炭を運ぶソ連の貨車に乗り込むことに成功した。列車が動き出すと、飛び乗ろうとする日本人が群がり、前方の車両の警備兵が屋根のない貨車の方角に向けてマンドリン型の機関銃で威嚇発砲し、安西は思わず身を伏せたという。
 三時間に及ぶ鉄路による避難をへて遼陽で家族と再会できた安西だったが、自宅は略奪に遭って家財道具はもとより畳や床板まで持ち去られた廃屋状態で、寝泊まりすらできなかった。母からは「自宅は八回にわたり暴徒に押し入られ、そのたび父が『何でも持って行っていいが、乱暴はやめてくれ』と体を張って家族を守った」と聞かされたという。
 その後の安西一家は満州で生まれた弟を含めて安全な場所を求めて、空き家や閉鎖されたホテルなどを転々としながら他の日本人家族と共同生活を送った。
 混乱の中で、日ごろ中国人から恨みをかっていた日本人が殺害・暴行された話は数多いが、逆に助けられたケースも赤塚やちばの例を含めて少なくない。安西一家も父の元部下の中国人の援助を受けて食べ物に不自由することはなかったという。情勢が落ち着くと日本人同士でサイダーや甘酒を作って中国人に売る商売も始めたという。
 安西は引揚げまでの一年間、学校に通うこともなく、「居留民会」という日本人の地元組織の指示で、共産党軍の様々な使役に駆り出される日々が続いた。主な作業の一つには街角に転がった死体を袋に入れて鉄道の貨車まで運ぶことがあった。理由はわからないが、四肢がバラバラな状態の死体が多く、日本人か兵士かどうかもわからなかったという。
 また、郊外の作業現場に向かう途中に列車が突然砲撃を受け、あわてて列車から飛び降りて身を隠したこともあったという。
 日常生活にも危険が潜んでいた。街角で中国人の兵士から誰何された場合には両手を挙げて即答しないと、その場で射殺されるケースも珍しくなかった。実際、安西の英語の家庭教師だった四〇代の日本人男性は帰宅途中に撃たれて亡くなり、安西が身元確認のために現場に呼び出され、背中の銃痕を目にしたこともあったという。
 当時に満州にいた安西と同年代の少年・少女の中には戦後に創作の分野で活躍した有名人が少なくない。いずれも住む家を追われて学校も通わず、日々の生活を送るのに精一杯の境遇だった。

 その一人で、安西より一つ上の映画監督の山田洋次(昭和六年生まれ)は中学生で、他の日本人家族と一緒に古い病院の一室に移り住み、家族の衣服を売ったりソ連軍の雑役のアルバイトをしたりしたという。中学の友人には一家全員が冬を越せずに飢え死にしたケースもあったと振り返る。
 二つ上の作家の澤地久枝(昭和五年生まれ)は高等女学校の生徒だったが、太鼓焼き(いわゆる今川焼き)の店で働き始め、日本人の三家族が共同生活を送ったという。
 まだ小学校低学年の年齢だった作詞家のなかにし礼(昭和一三年生まれ)は安普請のアパートに移り住み、父親が亡くなる中で大福や煙草をソ連兵に売る生活を送り、引揚げ体験を題材に書いたベストセラー小説「赤い月」は平成になって映画やテレビドラマにもなった。
 作家の安部公房(大正一三年生まれ)は東京帝国大学の医学生で、奉天で開業医の父の手伝いをしていたが、敗戦後は自家製のサイダーを売って日銭を稼いだという。引揚げの体験は小説「けものたちは故郷をめざす」のモチーフになった。 敗戦時に満州にいた日本人は民間人だけでおよそ一五〇〜一六〇万人、出典や把握の仕方によって数字の違いがあるが、日本に引揚げるまでに、このうちおよそ一八万人が命を落としたといわれている。

 引揚げに向けた動きは共産党軍と国民党軍の各勢力が各地で戦闘状態で入り乱れて、なかなか進まなかったが、ソ連軍が撤退した後の昭和二一年五月に国民党軍支配下の渤海に面した葫蘆コロ島(参照:64頁満州国の地図)からようやく第一陣の引揚げ船が出港した。その年の一〇月までの半年間に一〇〇万人余りが満州から帰国し、その中には安西一家五人もいた。一家が引揚げ船「興安丸」に乗り込んだのは九月のことだった。広島の宇品港で下船した際には頭から消毒用のDDTの白い粉を浴びる洗礼を受けた。
  もう来ないまた逢う日あり八月は 安西篤 (句集『秋の道』)
 安西と同じ時期の葫蘆島からの引揚げ者には作家の宮尾登美子(大正一五年生まれ)がいる。開拓民だった宮尾は幼子を連れての過酷な引揚げ体験が「朱夏」や「仁淀川」などの宮尾文学の代表作に昇華した。宮尾は「満州体験は私の小説の原点、かつ命題であって、もしこれがなかったとしたら(中略)その後の運命の変転にも決して耐え得られなかっただろう」と述懐した。(出典④)
 安西は「少年だったせいか、自分の将来や日本に帰れるのかという不安は強く感じなかった」と話す一方で、「多くの親しい人や知人が不条理な死に追いやられ、家族にとって辛いことも沢山あり、満州での日々をこれまで語りたいとは思わなかった」という。
 その言葉通り、安西が満州を詠んだ句は極めて少ない。
  自分史の冬の部にあり満州は 安西篤 (句集『秋の道』)

(次号に続く)

※文中は敬称略。
※満州は「洲」ではなく、略字体に統一。

【出典】
①句集『秋の道』(安西篤・角川書店)
②李香蘭『私の半生』(山口淑子・藤原作弥・朝日文庫)
③楡の実―奉天一中創立七五周年記念文集
④『手とぼしの記』(宮尾登美子・朝日文庫)
【参考文献】
安西篤の各句集
『多摩蘭坂』(平成一三年・海程新社)
『秋情』(平成一九年・角川書店)
『秋の道』(前掲)
『素秋』(平成二九年・東京四季出版)
『現代俳句の断想』(安西篤・海程社)
『アジア・太平洋戦争』(ポプラ社)
『移民たちの満州』(二松啓紀・平凡社新書)
『引き揚げを語 子供たちの戦争体験』(読売新聞生活部編・岩波ブックレット)
『満洲国グランドホテル』(平山周吉・芸術新聞社)
『昭和二〇年八月一五日』(中川右介・NHK出版新書)
『キメラ―満洲国の肖像 増補版』(山室信一・中公新書)
『いま来たこの道帰りゃんせ』(赤塚不二夫・東京新聞出版局)
『ちばあきおを憶えていますか』(千葉一郎・集英社)
『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』(亜紀書房)
『わが人生に悔いなし:時代の証言者として』(なかにし礼・河出書房新社)
『おとなになる旅』(澤地久枝・ポプラ社)
「日本経済新聞」(二〇二五年八月一四日電子版)
『援護50年史』(厚生省社会・援護局援護50年史編纂委員会監修・ぎょうせい)
『戦後引揚げの記録』(若槻泰雄・時事通信社)
『海外引揚の研究―忘却された「大日本帝国」』(加藤聖文・岩波書店)
『なぜコロ島を開いたか 在満邦人の引揚げ記録』(丸山邦雄・永田書房)
『満州 奇跡の脱出』(ポール・邦昭・マルヤマ・柏艪舎)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です