『俳諧有情 金子兜太対談集』(三一書房1988)
「肉体を賭けた季節感ー佐佐木幸綱」より一部抜粋
俳句の本質はアニミズム
佐佐木 ただ、まあ古今以来、俳句の季語の世界も含めて、部分的には能因とか西行とか、旅をして、旅における、好きな言葉じゃないけど実感というやつで、季節みたいなものを歌おうとした何人かはいたわけですけど、しかし、彼らは異端という形でどうしても見られるのは、伝統的に日本人は季節感を中央集権でとらえていたからでしょうね。自然ではなかったわけです。
金子 そうだと思うな。それがたいへん毒していたと思うなあ。そのラウンドの中でただ現象だけの季節が定義された。それでこういうこと考えるんですけどね。小林一茶、農民出の俳諧師の誰でもが知っている「やれ打つな蠅が手をすり足をする」というのがある。この蠅は、夏の季語としての蠅ということでなくて、蠅そのものの姿ですよ。それを彼は見ていて作った。そうすると、いきなり季節感といわないで物象感というもの、物そのものの感じというか、そういうものも一ぺん考えておきたくなる。物そのものの、つまり物の自然をとらえることによって、季節感もまた痛切によみがえってくるということで、この蠅なんかには、夏の季節というよりは、季節そのものの実感があるくらいです。その物象感をとらえる場合、一茶でいえば農民特有のアニミズムが見受けられます。日本人には、農耕民族の歴史もあるから、アニミズムに恵まれている民族だともいえる。
佐佐木 俳句は本質はアニミズムなんではないですか。
金子 そうなんだよ。そのこともいいたいんだ。アニミズムを無視して俳句を作るなといいたいくらいです。アニミズムによって物に触れていける、季節にも触れていける人間でなきゃ、こんなに短い形式の中では言葉も物も生かされないと思う。
佐佐木 アニミズムにおける言葉というのはどうなんですか。
金子 言葉の質をとらえる能力の一番芯にあるものがアニミズムだと思うくらいなんです。これがあると、物の自然にも触れてゆきやすい。肉体の中の本能といったけど、この本能とアニミズムが重なるのかな。
佐佐木 つまり、言葉のない世界、反論理の世界ですね。そのとき言葉ってどうなっていくんですか。
金子 物の反映としての発声。せいぜい発語。とにかく、あくまでも言葉プロパーではなくて、 物が先行すると思う。
佐佐木 そうすると、金子さんがお作りになる歳時記というのは、言葉の歳時記ではなくて、物の歳時記ですね。
金子 そうです。それが初原の言葉。そして、物に思いがこもった言葉。発声や発語の段階の物をそのまま映した状態に、思いをこめて言葉を完成する。それが普遍性が持てたらすばらしいが、これは保証しがたい。しかし自然をとらえ得ていれば可能になる。自然が閉ざされている現代人にとっても、可能性はあると思う。
日本人の気候風土と文学
金子 「海程」をはじめた一九六○年代、あのころには反季節ということを考えた。だから、社会生活における現実感か季節感かという二元の対応をさせていた。林田紀音夫などは、そう割りきって、無季句に徹したものだった。いまの私は現実感の中に季節感を含めるが、林田は変っていないようだ。
佐佐木 五七五七七の三句目、腰句ですね、短歌はそこが駄目になると腰折れになっちゃう。第三句に苦労することが多いんですけれども、そういうときに一番無難に抜けていくのは、浮きそうな第三句に時間を表す語、季節とか、真昼とか、朝とか夕べとか、特に最近はタベブームが起こっていますけれど、そういう言葉を入れると、虫ピンで一点を押すように、時間という一点にピンが押せるわけで、うまくゆく場合が多いですね。何となく歌が安定するような感じを持つ。 短詩型というのは、一つは署名で現実の人間にピンを押して、もう一つは時間にピンを押すということでうまくいくなというところがある。金子さんがいわれた二元論に、じつは両足をかけているのかなと反省します。日本だと四季がはっきりしていますもので、しかも四季の中で早春から晩春までいろいろあるわけで、そこで保証される時間にわれわれの詩は甘えているかも知らんという気はある。
話は少しそれますが、テルアビブで岡本という青年が乱射事件をやったでしょう。あのときいろんな論評が出たわけですけどね、一番ショッキングだったのは、日本人はついにアラブとイスラエルの争いはわからんだろう、なぜかというと気候風土が違うという説です。ああいう砂漠地帯での天気は、日本のように晴のち曇時々雨みたいに絶対ならない。きょうが晴だったらあしたも必ず晴れる。向こうの天気予報は最高気温、最低気温だけだそうです。そういうところで生きている人にはあしたはあしたの風は吹かない。きょう憎むということはあしたも憎むということで、向こうも同じにこちらを憎んでいる、というわけです。ショッキングだったですね。われわれの詩は晴のち曇時々雨みたいなところに支えられているのではないか、そう思いました。春という言葉を一首の中に入れるとそういうニュアンスまで詠み込めるので、そこで自分の心の問題を支えようとしがちです。これは、逆に、風土の特色を味方につけていることでもあるけれど、 それに甘えてシビアに心の問題を洗えないでいる原因にもなっているのではないかという気もするんです。
魂の感応と表現定着の場
金子 きょうは季節感という設問だけど、ほんとうは季節感なんて口にしないほうがいいと思っているくらいなんですよ(笑)。さっきいったとおり、物象感をほんとうに自然に感ずる習慣を身につければそれでいいんじゃないか、これが一番の基本であってね、たとえば「冬のトマト」が一番美しいんだと感じているときには冬のトマトに物象感があるわけですね。物をほんとうにつかめればいい。現代にとって必要なのはそのことで、物が自然につかめるということになれば、 テルアビブの経験、つまり中近東人だってですよ、日本人の俳句、日本人のつかみ方がわかると思う。違いがなくなってくると思うんですけど。
佐佐木 物は、いま見れば物そのものだけど、実は物というのは一方からいえば時間でしょう。
金子 時間を含みますね。
佐佐木 天の川はいつだってあるわけですが、しかし一つの季節の天の川をとらえることによって、空間だけではなしに時間をそこに見るということができる、万葉以来、少なくとも短歌は物の中に時間をみるという視点で成り立ってきた詩だと思う。それをいっさい切るというのは面白いと思う。
金子 さっき思いといったのはそこのところだけどね。物をナチュラルにとらえる、そこに自分の思いをこめるといったときに、すぐれて時間をこめる。もちろん空間も入ってくるけど、時間というものの思いが入ってくる。そのとき古典とか伝統とかが、外在的な形ではなくて、自分の肉体の中から湧き出てくる形で、こめられてくる。それがほんものの伝統ではないかと思う。つまりあくまでも同時的にではなくて、時間はあとから、思いの中で満たされてゆく。自分の句のことをいうのもおかしいが、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」これもそれなんです。青鮫の自然をとらえてみたかった。とらえたときに、自分の魂がそこに移っていると感じました。その移っているという思いをかみしめて青鮫の語を定着させました。
佐佐木 青鮫はどこかで実際に見られたんですか。心の中に浮いてきたんですか。
金子 鮫というのを字引で調べていたら、鮫の種類が書いてあってその中に青鮫という言葉があった。それを見たとたんにビビビビーッとエレキみたいに響いた。この感応とその後の思いをどういう場面に置いたら定着するものかと考えて、梅の咲く庭に行き当ったのです。そこに時間を感じています。
佐佐木 それはアニミズムですか。
金子 自分の中にアニミズムといえるものが働いていたのかもしれない。だから、青鮫を、こだわりなく自分の魂と思うことができたのかもしれない、と思っています。あの体験は大事だと思っています。佐佐木幸綱だって、日本海をとらえたものとか、反り姿のあしかとかね、さまざまな秀歌の中の物、そして言葉についてはそういう体験があるんではないのかな。いや、幸綱短歌の魅力は、基本的にはその魅力だと思っているくらいなんですよ。
『俳諧有情 金子兜太対談集』(三一書房1988)P169~/初出:『短歌現代』昭和五十五年三月号

