「俳諧ーー現代のために」金子兜太

俳諧ーー現代のために 金子兜太

 俳句の本質を「俳諧」とおもい、これこそ長い歴史を背負う貴重な文化資産とおもっている。さいきん、ますますそのおもいが深まっている、といってもよい。
 その俳諧を、私は〈情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざま〉と理解しているのだが、それでは〈情(ふたりごころ)〉とは何か、ということになる。〈ふたりごころ〉という読み方は、私が勝手に決めたことで、誰れ彼れの賛同を得ている、というものでもないので、まずこれについて書いておきたい。
 松尾芭蕉やその弟子たちが書いたものを読んでいて、「心」と「情」を同じように「こころ」と読ませながら、はっきり書き分けていることに気付いてから久しいのだが、万葉集でもその書き分けをしていることを、佐々木幸綱著『万葉へ』によって教わり、私の理解は一気に開けたのである。佐々木によれば、万葉集四五○○余首中、こころの語のはいっているものが三五〇余首あり、そのなかで、心と書くもの一三〇余、情と書くもの一二〇余、他は万葉仮名によって書かれている。そして佐々木はこう説明していた。「たとえば『思想』などをその典型として、それ自体自立しているものをわれわれは〈こころ〉に見ようとしているようである。それに比べると〈情〉は自から他へ働きかけようとする動きをおのずからはらんでいる。そこが〈情〉の特色といえる。」と。
 情ということばにこめられたこころの動きは、「自から他へ働きかけようとする動き」である、と佐々木が説明することに、私は教えられたのである。さっそく情の字のある歌を選びだして読んでみると、なるほどそうだった。相聞の歌の場合などは、まぎれもなく、こころは情の字だったのである。
 とすれば、心のほうは、どういうこころの状態だったのか。これも歌を読むことですぐにわかった。佐々木が「それ自体自立しているもの」というように、自分にむかってゆくこころ――よい意味でも悪しき意味でも自分に閉ぢてゆくこころの状態――のときは、心の字を当てはめていた。そして、そう理解したとき、たとえば芭蕉が弟子の許六に贈った文のなかの次のくだりなどの、なぜ情と心を書き分けるのかという疑問は、やわらかく解けてしまったのである。
 すなわち、「古へより風雅にこころある人々は、後に笈をかけ、草鞋に足をいため、破笠に露霜をいとふて、をのれが心をせめて、物のまことをしる事をよろこべり」と芭蕉が書くときの、「風雅に情ある人々」の「情」は、風雅ということにこころを開きかたむけ、積極的にそれを知ろうとしている人々ということであり、「をのれが心をせめて」の「心」は、いうまでもなく、自分自身にむかって、内深くこころに問い、その有り様までも追尋していることを含意していたのである。したがって「風雅に心ある人々」と書くのは、正確ではなく、風雅ということまでが狭くなるし、「をのれが」と書いたのでは甘くなるのだ。風雅の世界にひろびろとこころを向けつつ、風雅の真諦しんていを掴むために、おのがこころを労する、という思念を正確に伝えるためには、表記にも意を用いなければならなかったのである。
 こうした経緯があって私は、「心」を〈ひとりごころ〉と呼び、「情」を〈ふたりごころ〉と呼ぶことにした。私なりに言えば、〈ひとりごころ〉とは、自分の内ふかく閉ぢてゆくこころの有り様であり、〈ふたりごころ〉とは、他にむかって開いてゆくこころの有り様なのである。そして、「俳諧」は、この〈ふたりごころ〉から生れてきて、それを伝える工夫のさまざまをら しているもの、と考えるようになった。
 それでは俳諧をなぜそう考えるのか、という次の疑問に答えなければならないだろう。
 そこで端的に言えることは、〈ふたりごころ〉が伝えにくい・・・・・状態が生れたとき、なんとか伝えようとする工夫が必要とされるということである。また、よりいっそう潤沢に・・・・・・・・・滑らかに伝・・・・・えようとするときにも、さまざまな工夫が生れる。
 後の場合から言えば、万葉集からほぼ百年を経た頃から盛んになった和歌の時代に、「本歌取(ほんかどり、もとうたどり)」が大いにおこなわれるようになったことが、それの現われといえる。私はこれを〈もじり〉と俗な言いかたで呼ぶのだが、藤原定家などは、古今和歌集からの本歌取(もじり)を、作歌の第一歩として教えていたほどだ。言うまでもなく、和歌の復活は「歌合(うたあわせ)」を基本とした。これは歌を競い合うお遊びだから、勝っていい気持になりたい。人からほめられたいのである。となれば判者に自分の歌がすぐ通じないと、勝ち点がもらいにくい。判者が分りにくくて考えているようでは、とても勝ち点は貰えないのである。そこで、先人先輩の作った歌のいいところを借りてきて、それに自分のことばを付け加えるようになった。判者やそこにいる人たちが覚えているような先人先輩の歌の一部がでれば、おやッとおもい、ほほーとおもって、次のことばに耳をかたむけることになるのである。まことに通じやすくなるのだ。
 このことは、和歌を、五・七・五字と七・七字に分けて、別々に作って「付合つけあう」ようになってからも、ますますおこなわれるようになった。連歌(れんが)の時代では、五・七・五が相手にすぐ通じたほうがよく、それに付けた七・七についても同様である。その七・七にさらに五・七・五を付け、またそれに七・七を付けと、延々と付合いがつづくようになる(長連歌といった)と、ますます通じやすくし、相手を笑わせたり、喜ばせたりすることが大事となる。そこで本歌取(もじり)が多用されるのである。
 このことは、この連歌が庶民のなかにはいって、大いにおこなわれるようになると、いっそう多用された。先人先輩の和歌の一句ばかりでなく、俚語、俗言、猥語のたぐいまで、誰れでも知っていて、その一部を詠いこめばたちどころに相手に伝わるようなことばは、なににかぎらず自由自在に活用されたのである。そのように庶民にひろがった状態の連歌が、「俳諧の連歌」と呼ばれて、「和歌の連歌」と区別されたわけだが、「俳諧」といわれた理由は、殿上人よりもはるかに気まま自由な暮らしをしていた庶民は、それだけに、まことにさまざまな気まま自由な〈ふたりごころ〉の伝え方を工夫したからである。まことに多様な俳諧のていが開花したから、その状態の連歌を、「俳諧の連歌」と呼んだのである。そしてむろん、猥雑や卑俗が平気で多用されることともなって、俳諧という俗なもの、という受けとりかたも生れるようになったのだとおもう。もともとは俗とはかぎらなかったのである。
 述べれば際限がないが、要するに、連歌が庶民のなかにひろまることによって俳諧が多様に開花したから、俳諧と庶民がイコールに受けとられるようになったのである。そして、〈ふたりごころ〉はまことにさまざまに伝えられるようになった。したがって、挨拶、滑稽、即興だけを俳諧とすることは狭い。利口を加える人もいるが、これも俳諧の一たいである。掛語、縁語の活用から助平語(猥語)まで、俳諧に役立ったし、笑い、機知、意外性、そして、しだいに〈ひとりごころ〉が膨んでくるにつれて、皮肉や警喩までが俳諧の一態になってきたのである。
 現代は、先ほど俳請が必要とされるいま一つの事情としてあげた、〈ふたりごころ〉の伝えにくい・・・・・状態にあるとおもう。〈ひとりごころ〉が膨れあがり、増長してきて、その極限にきている印象すらある。〈ふたりごころ〉はこころの隅に押しやられて、小さくなっている。
 しかし、〈ひとりごころ〉の膨満のゆえに、人々のこころが乾いてしまった現代という状況のなかで、そのこころを救う手だての一つとして、〈ふたりごころ〉の意識的な活性化が求められていることも事実である。都市から村落共同体への回帰希求もその現われの一つだが、すでに村落共同体すら利益共同体の色合いを濃くしていて、回帰希求者はふたたび都市に押しもどされてしまいかねない。相互に助け合うことを目的にした組織においても、〈ふたりごころ〉の潤沢な交流は薄らいで、〈ひとりごころ〉の孤独な営みが隠微に嘆き合い、多くの場合他に対して排除的に働く場になっていはしまいか。
 俳諧ということを、仇やおろそかに見すごしてもらいたくないと私がおもうのは、そうした状況のゆえでもある。それでは、俳諧の現代の態は(現代にふさわしい俳諧は)、どんな姿なのか。私のささやかな経験のなかで考えられることにすぎないのだが、〈映像〉と〈諧謔〉の二つのことが、私のまえにしだいに姿を大きく現わしつつある。哲学者の中村雄二郎が、「ことばにおいてイメージ性を回復するとは、ことばを分析的理性のロゴスから、共通感覚的なロゴスへと取り戻すことである」と書いていたことが印象に残るのだが、ここでいう「共通感覚的なロゴス」は、〈ふたりごころ〉とさわやかに重なる。〈ふたりごころ〉の働きなしに、「共通感覚」は考えられないとおもうのである。ことばによる〈映像〉を、そうした内容で理解し、活用することが、現代俳諧といえまいか。
 そして、さらに〈諧謔〉の広さ深さ滑らかさを、とおもう。〈諧謔のあふれた映像〉を、俳句に書きとめ、日常生活にも活用することの楽しさをおもっているのだが――。


金子兜太『俳句の本質』永田書房/1984年/37頁~/初出:「全逓の文化活動」第29号1982年5月

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