『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む:兜太という俳人の今日的人間考察② 岡崎万寿

『海原』No.18(2020/5/1発行)誌面より

『金子兜太戦後俳句日記第二巻』を読む
兜太という俳人の今日的人間考察  岡崎万寿
《3回連載・その2》

 ㈢ 兜太の「戦争とトラック島」俳句の展開

 兜太は二十六歳のとき、トラック島で敗戦を迎えた。『わが戦後俳句史』(岩波新書・一九八五年刊)は、「八月十五日の朝焼け」から始まっている。

  椰子の丘朝焼しるき日日なりき
  海に青雲あおぐも生き死に言わず生きんとのみ

 敗戦の日から翌日にかけて、どうしようもない喪失感と、変な安堵感の入り交じった胸中を詠んだ、三句中の二句である。俳人兜太の「わが戦後」は、ここから始まっている。
  兜太のもつ抒情原質の生きた作品だが、私はとくに二句目に注目する。それまでの自然体のまま詠んできた「トラック島」俳句が、「少し変わって」(兜太)、「生きんとのみ」と、早くも戦後への出直しの意志を強烈に感じさせるからである。
 こうした生を見つめ何があろうと生きる、という自らの意志に裏打された俳句が、兜太の戦後俳句のスタートから、その形成、発展過程のポイントポイントで、肉体ごと雄々しく表現されているのである。兜太の生命力、俳句力というものか。

  水脈みおの果て炎天の墓碑を置きて去る(『少年』)
  死にし骨は海に捨つべし沢庵たくあん噛む(同)
  朝はじまる海へ突込む鷗の死(『金子兜太句集』)
  わがうみあり日蔭真暗な虎があり(同)

 ここに一本の流れが見られる。トラック島で餓死した非業の死者たちに酬いたいという一念が、兜太の戦後の基本的な生き方となり、表現欲求となって、時どきの感動のモチーフで映像化されたものだ。一句一句に兜太がいる。
 一句目は、一九四六年十一月、帰国する引揚船上で作られた名句である。兜太の想いは篤い。「置きて去る」の語調に、並ならぬ意志がこめられている。
 二句目は、翌一九四七年五月の作。すでに日銀に復職し結婚していた。「死にし骨」とは自らの骨である。「なすべきことのためには、自分を捨てなければならない」という、切り立つ心情を詠んでいる。「日銀の近代化」を求める組合運動への志向も見え始める。
 三句目は、一九五六年七月に発表した神戸港での作。腹を決めて「俳句専念」を決意した、転機の名句である。その時期、兜太は献身した組合運動が、一九五〇年のレッドパージのあおりを受けて頓挫し、以後十年におよぶ地方支店生活(福島、神戸、長崎)を余儀なくされていた。「海へ突込む鷗の死」には、トラック島で海軍戦闘機・零戦ぜろせんが、米軍機に撃墜されて海へ突っ込む景のイメージと重なる。
 そして四句目は、兜太が社会性俳句の方法論として「造型俳句六章」を発表した一九六一年、山中湖畔での作。「わがうみ」は兜太の内面風景で、そこに黒々と伏せ待機している虎がいるのだ。六〇年安保後の文化反動の嵐の中、「やってやるぞ」という、御しがたい意欲が暗示されている。自画像でもあろう。
 さて、第十五句集『百年』の刊行によって、そうした兜太俳句の流れは、より総体的、俯瞰的に鑑賞し、考察することが可能となった。その中で、「戦争とトラック島」関連の俳句は、戦時のトラック島体験に発した、一条の水脈のように、反戦と平和、人間の自由への強烈な信条を胸に、えんえんと絶えることなく、むしろ最終章『百年』で開花、結実している感が強い。
 青年兜太が、戦地から石鹸に詰めて大事に持ち帰り、公表した俳句は、句集『少年』と未刊句集「生長」に載せた百二十四句だが、帰国後は、「戦争とトラック島」の視野を広げて、沖縄戦、ベトナム戦争、そしてヒロシマ・ナガサキの原爆と、忍び寄る戦争への危機感を詠んだ作品をふくめ、その数は百六十句。合わせて二百八十四句に及ぶ。
 帰国後のそうした俳句を句集別にみると、『少年』八句、『金子兜太句集』二十七句、『蜿蜿』一句、『暗緑地誌』二十四句、『狡童』一句、『旅次抄録』一句、『遊牧集』一句、『詩經國風』一句、『皆之』八句、『両神』三句、『東国抄』九句、『日常』十七句、そして『百年』三十六句と続く。
 途中、一句ずつ、あるいはゼロの句集が続いているが、その間、先に述べた散文表現の「トラック島戦記」に打ち込んでいた時期と重なる。興味のある数値だと思う。うち私の感銘する『日常』までの五句と、『百年』から五句を挙げる。

  わが戦後終らず朝日影長しよ(『狡童』)
  麦秋の夜は黒焦げ黒焦げあるな(『詩經國風』)
    紀州勝浦に、トラック島最終引揚げの戦友たち集る
  みな生きてた湾口に冬濤の白さ(『皆之』)
    悼 千葉玄白
  銃弾浴び薯をつくりて青春なりき(『東国抄』)
  飢えの語に身震いするよ春鴉(『日常』)
  戦争や蝙蝠こうもり食らいうえとありき(以下『百年』)
  青春の「十五年戦争」の狐火
  狂いもせず笑いもせずよ餓死の人よ
    朝日賞を受く
  炎天の墓碑まざとあり生きてきし
  戦さあるな人喰い鮫のうたげあるな

 最後の句の宴をする人喰い鮫は、兜太が好きな青鮫である。青鮫にちなんで、イメージによる兜太五十代の名句がある。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』)

 白梅の咲く早春の朝。庭中が海底のような、まるで命を運んでくる感じの蒼い空気につつまれる中を、何匹もの精悍な青鮫が悠々と泳いでいるではないか。春が来た。いのち満つ、と兜太は咄嗟に感受し、この一句が生まれたそうだ。なぜ青鮫か、聞かれても自分でもよく分からなかったという。
 ところが後日、ニューヨークでのある賞の選考会で、アメリカ人の選考委員が、それは「トラック島で見た青鮫ではないか」と評した。それを聞いて兜太は、「あっ、そうか」と思わず納得したことを、自著『他界』(二〇一四年刊)で述べている。トラック島大環礁の外には青鮫がわんさといて、撃沈され海へ投げ出された日本兵の死体を、宴のように喰らいまくっていたと聞く。
 兜太の「トラック島戦場体験」は、無意識の深層心理のひだにまで、しっかり記録されていたのである。

 ㈣ 「なすべきは我にあり」の内面史

 これから特徴の第二に入る。その兜太の『戦後俳句日記』は、日記といいながら、人間にとって最も肝要な、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった基本テーマと体当りした、すさまじいばかりの自己(人間)探求の記録である。
 それが、まだ俳句人生の展望が見えにくい三十歳代にはじまる第一巻から、現代俳句協会会長、朝日俳壇選者となり俳句界の頂点に立った七十歳代前半までの第二巻を通じて、その「なすべきは我にあり」の自省と自己進化の姿勢は、変わっていない。兜太という人間の太さと人間臭さに感心しながら、簡潔にその特徴的な個所の紹介と解明を進めよう。

三月十八日(一九六七年・47歳)
 小生の目的は何か。〈人間〉を知ること。椎名麟三のいうような〈人間の自由〉探求はまだ空々しい。そのためにいまの虚偽と虚栄のベエルを、ひんめくること。

十一月二十五日
 車中、子規のことを読みながら、また何を目的に生きるか――と考えはじめ、やはり〈自由〉だ、自由に生きるということだ、と思い定める。これを妨げるもの〈非人間者〉と闘い、これによって人に迷惑をかけない、また物質だけでなく〈精神〉〈心奥〉の自由を第一としたい。

一月一日(一九六八年・48歳)
 考えていたことは〈自由〉ということ。この言葉がまだうとうとしている早朝に突然訪れ、そして離れない。人間を考えることは、それのエゴ(広く肉体的欲求まで含めて)の自由を考えることに等しい。人間はエゴイスティックで、従って、人間関係は〈不確実〉なものだ。その〈自由〉。

十二月二十三日
 現状をみると、雑文書き、小名誉欲、小権力、小思考――それにとりつかれていた自分が浅間しく思える。組合に踏みきったときのように、第二の踏みきりをやる時機にきているし、……必ず、やりとげる。

一月四日(一九七〇年・50歳)
  〈人間〉そのままのすがたか、エゴイズムとは別の面を示すことを知るべきである。迂闊に人間不信を語ることに恥しさをかんじる。

四月二十九日(一九七二年・52歳)
 何をやっているのか、何をやるか、――を問いなおす。〈寛厳〉を考え、いまの現象的な風潮を〈人間的に問いかえす〉こと(特に〈自由〉とは〈他を侵さざるものなること〉)を確認する。

五月五日
 自由のために、というが、自分だけの自由(個の道)と、他のための自由(革新への道)がある、と思い、その双方に足をかけているあいまいさが自分を辛くしていることを、あらためて知る。

一月一日(一九七六年・56歳)
 ここにあらためて決意す。こんどは〈大ぼらふき〉で終りたくない。それにしても、助平根性をおこすな。〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉。

四月十七日
 この頃思うことは、一切の経歴や過去の生き方を抜きにして、裸かの、今の一人の男として、はたして自分は〈立派〉といえるか、ということ。これをおもうとき、いちじるしく不安になり、妙に人の目が気になる。修業修業。自然自然。

十二月二十六日
 ①なぜ他人に拘泥するか。結局おのれの覇権意識とそれに伴う末梢的強気にすぎない。
 ②自分のやること、理論を一と筋にかためて、自らを恃すべし。
 ③自分に太く徹して、右顧左眄するな。

 ここで第一巻は終わっている。『俳句日記』ながら、ここまでで、兜太の「自由論」は、ほぼ定まってきたといえそうだ。一九七六年元旦の日記、「〈俳句をつうじて生きてみせる〉。なんのために。〈自分という人間の自由のために〉。そして、出来得れば〈人間そのものの自由のために〉」ということばで、その基本線が要約されていると思う。それは兜太の、波瀾万丈の時代を生き抜く生き方、人生哲学でもあるといえよう。
 この間の兜太の句集の中から、私なりに「人間の自由」のモチーフを感じさせる作品を、三つ挙げる。

  無神の旅あかつき岬をマッチで燃し(『蜿蜿』)
  林間を人ごうごうと過ぎゆけり(『暗緑地誌』)
  髭のびててっぺん薄き自然かな(『狡童』)

 この『狡童』という第六句集名は、「ずるい、美貌、剛情」という三意から、「煩悩具足の、まだまだ青くさい自分のことを言いたかった」と、「あとがき」で述べている。
 同じく第三句集『蜿蜿』の「後記兜太教訓集」では、自らの目標としている「人間の自由」について、その時点でのまとめとして、こう書き記している。

 私は、今までも、これからも、〈自由〉を求める。肉体の自由か精神の自由かと言った、小賢しい区別はしない。それらすべての自由を願う。そして、自分の自由が他から侵されるときは自由を守るために闘うことも辞さない。その代わり、他の自由を侵すことは絶対にない。本当の自由とは、自分が絶対に自由であるとともに、他の自由も絶対に侵してはならないものと思う。

 そしてトラック島戦場で見た、人間の赤裸々な「エゴの本能」についても、「自由論」との関係で、続けてこう考察を深めている。

 それだけに、自由の実現は、エゴを馴致することのできる精神の成熟を待つしかないと思う(中略)私は、エゴの赤裸々な振舞いを、人間臭くて美しいとさえ思いつづけてきた。

 こうして、第七句集『旅次抄録』(一九七七年刊)の「後記」では、「いつの日か、自信をこめて、〈自由人宣言〉をやってやろうとおもっている」と、あえて言明しているのである。まことに兜太である。

 さらに、『俳句日記』第二巻ではどうか。私は、兜太という俳人の、人間として、俳人としての一段の成熟過程を見るようで、感激しながらむさぼり読んだ。その到達点は、一九八九年七月十八日の『俳句日記』の、次のくだりである、と思う。

 芭蕉を語る昨今、小生のうちに固まってきた世界は、天然(人間も含む)との共存(ともに流れる、ともに交響する)ということ。……存在ということも体感できてきた。句作り専念ということ。この哲学を噛みつつ句を作れ。

 先に述べた、①自由とは何か、②人間とは何か、③いのちとは何か、といった兜太の厳しい自己(人間)探求は、当然の流れとして、④自分の俳句、自分の存在、そしてそれを〈天然と一体化〉する、自らの思想・哲学をしかと確認するところまで発展している。自省と自己進化といった生き方の基本姿勢は、もちろん変わっていない。第二巻では、その心境を軽妙に記録している。

二月十六日(一九八二年・62歳)
 小倉八十の手紙で、ふと、〈ふたりごころ〉の第一は、自分を見るこころ〈自己客観化〉と気付く。この余裕のない現代人。

七月十二日
 寄居夏期大学での講演チラシに、「野太く素朴な庶民の精神を大事と見る」ということばを小生の紹介に付したという。それをおもいだす。ズケズケした存在感。ズバズバ吐きだす俳句。

三月二十二日(一九八四年・64歳)
 わが戦後俳句史に関連して、〈立身出世主義〉、〈利己と権力意識〉のことを話し合う。

七月三日(一九八九年・69歳)
 『雁』の一日一句に集中してゆく。これを軸に、自分の思想ということを詰めてゆきたい。承知しているつもりで、なこと多し。利己と権力、本能と自然じねん、土と存在、などなど。

七月六日
 冨士田元彦からいわれた一日一句を励行している。自己の哲学を確認し、そして句。すると充実して物が見えてくる。

七月十八日
 哲学を繰りかえし噛み確かめる。(以下は67頁に引用)

七月十九日
 小生のなかに、〈天然と一体化〉の思想がますます熟している。

一月二日(一九九〇年・70歳)
 俳壇覇権主義をおろかしく思いつつ、どこかでこだわっている我が身のばかばかしさ。よい仕事をせよ。

一月三日
 こころの持ち方がすこし崩れている。歳末多忙なせいか。現象的になっている。じっくりと取り戻せ。〈自由〉。〈こだわらない〉。〈旅の恥はかき捨て〉。〈霊力〉などと自分に言う。

三月二日
 何故俳句を、と問われて、〈笑いながらこころのことが話せるから。人間万事、色と欲のことも承知の上で〉と。

七月十七日
 朝、皆子と話しながらまとめる。人間の自由と純正を志向する姿勢こそ一流。それを達成し、あるいは達成せんとして姿勢を崩さぬ者は一流の人物。達成をもとめつつ迷いふかき者は二流。達成をもとめない者は三流。

七月十八日
 自由とは、本性のままにあり得ることで、善悪不問、価値多様でよいわけだが、しかし、性善に傾けて(志向して)、自分を置き他を見ることのほうが本当の自由と見る。純正であることが自由の第一義と見る。むろん、善悪両面を承知した「さめた目」に立ってのこと。

十二月二十七日
 「なすべきは我にあり」。この語、あれこれと俳壇思惑のあと、突如湧く。これなる哉。へたへたぐずぐずの対他意識を捨てよ。

十二月二十二日(一九九三年・73歳)
 そのとき、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」が出てくる。それも無人の秋暮の野の寂蓼として出てくる。〈わが俳道〉などという想念なしに景として。そして〈気力〉と〈目的〉を呼びおこして〈空しさ〉を抑え込む。〈気〉を呼び込むことは僅かながら出来てきた。〈目的〉は不熟。長く〈目的〉を見失っていた自分に気付く。

十二月二十九日
 朝、虚しい気分が湧いては消え、湧いては消えしていたが、朝食のあとにわかにシャンとして、〈超越〉の語が出てくる。俳壇風景など小さい、と思う。それより自分の目的を見定めよ、と。

 この『俳句日記』第二巻の時期の俳句も収めた、第十二句集『両神』の後記で、兜太は自らの俳句観について、こう述べている。

 俳句は、どどのつまりは自分そのもの、自分の有りていをそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。……同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鰯や、むろん人間やと、周囲の生きものとを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。……これからの自分の課題はこの「天人合一」にあり、と以来おもいつづけている。

 そうした、成熟しても人間臭く自在な兜太の俳句を、私なりに三つ挙げる。

  人間に狐ぶつかる春の谷(『詩經國風』)
  牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ(『皆之』)
  酒止めようかどの本能と遊ぼうか(『両神』)

 一句目は、郷里の秩父での作。あたかも春。人間も狐も一緒。アニミズムの親しみと交感がみられる。二句目は、熊谷の家の近くで鳴き続ける牛蛙ら。兜太も愉快に「ぐわぐわ」。オノマトペが生きている。三句目、痛風四回で酒を止める。しかし、ある程度は本能を自由にしておかないと、長つづきしない。余裕余裕と、にんまり。人間兜太の成熟感が、作品にもたっぷり表現されている、と思う。
(次号へつづく)

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