カルチャーセンターと金子兜太 齊藤しじみ

『海原』No.21(2020/9/1発行)誌面より

シリーズ:十七文字の水脈を辿って 第1回

カルチャーセンターと金子兜太 齊藤しじみ

 JR新宿駅西口の改札を出て西の方角の都庁方面につながる地下道。かつてはホームレスが寝場所として占有し、すえた臭いが日夜を通して漂い、太陽光が遮られた薄暗かった記憶がある。今は天井の照度が増して一定の明るさが保たれているが、かえって無機質な空気が充満している気分になる。
 金子兜太(敬称略・以下兜太)もかつてこの地下道を定期的に三十年余りにわたって歩き、「どこやらの都市の大下水道をゆく感じ」と比喩したことがある。
 改札から徒歩にして三、四分程度、距離にして四百メートルほどの長さの地下道を抜けると右側に五十二階建ての新宿住友ビルを右手に仰ぐことになる。昭和四九年の完成当時は高さ二百メートルを超える超高層ビルの草分けと呼ばれた。このビルの48階の朝日カルチャーセンターの教室で、兜太は90歳を超えるまで人生の約三分の一にあたる三十三年間の長きにわたり、俳句教室の講師を続けた。
 兜太の俳句教室が初めて開かれたのは昭和五三年四月七日(金)。日本銀行を退職してから四年目の五九歳の時である。
 『金子兜太戦後俳句日記第2巻』(白水社)には、兜太は講座初日のことを「何故十七文字か、何故季題か、と率直な質問あり」と淡々と書き留めている。
 後年、兜太はこの俳句教室から自分の運が開けたと後に述懐したと聞くが、朝日カルチャーセンター講師としての姿はほとんど知られていない。
 その教室の一期生が「海程」同人で平成四年に「海程賞」を受賞した伊藤淳子(敬称略・以下伊藤)だ。
 私が十六年前に「海程」に入会してから、そう遅くない時期には、女性のベテラン陣の一人として伊藤の存在感の大きさを感じていたが、カルチャーセンターの一期生であったことを知ったのは数年前のことだった。そのことに興味を持った私はカルチャーセンターの講師時代の兜太の思い出についていつかは話を聞いてみたいと思っていた。昨年五月三日、新宿住友ビルで待ち合わせた後、近くのレストランで二時間にわたって話を聞いた。街路樹の緑がまぶしい祝日の午後とあって、店内はおしゃべりに興じる人たちであふれていた。
 昭和七年生まれの伊藤は当時四六歳。それまで俳句を作ったこともない初心者で、都内に住む専業主婦だった。兜太の教室に通ったきっかけは偶然だった。一人娘が大学を卒業する年で、これから自分のために何か習おうとカルチャーセンターの広告に目を通したとき、当時朝日新聞の俳句欄の選者で名前だけは知っていた加藤楸邨の俳句教室がまず先に目に入り、特に深い考えはないまま申し込んだという。
 しかし、満員だったため、キャンセル待ちをしていたところ、カルチャーセンターの担当者から電話がかかってきて「金子兜太という俳人の俳句講座が始まる」と勧誘を受けた。兜太の名前を聞くのはこの時初めてだった伊藤は思わず「どのような方ですか」と尋ねると、「楸邨先生のお弟子さん。何よりも人柄がいい」との触れ込みだった。
 初回の講座が伊藤にとって写真でも見たことがなかった兜太との初対面だった。教室に現れたのが二人の男性。二人のうちスーツ姿で決めた案内役のカルチャーセンターの社員を元銀行マンの兜太と一瞬思い込んだ。当の兜太は腕まくりしたノーネクタイのワイシャツ姿で、豪放磊落な印象はその後も変わらなかった。
 兜太は『語る兜太』(岩波書店)の中で当時の教室の雰囲気を自ら語っている。

 「中流階級の主婦が多い。それぞれに知的好奇心が旺盛で、みんなきらきらしてましたよ。爽快でしたな。(略)ここで私が「感覚でやってください」と言ったものだから、女性には支持されたけれど、男性はみな面くらってしまった」

 伊藤の言葉を借りれば、「兜太はざっくばらんで真面目な性格。ざっくばらんでも不真面目な人は嫌いだった私の性格にぴったり合った」という。
 月に四回の講義では受講生が事前に提出した兼題二句がコピーされ、教材として無記名で配られた後、一句ずつ批評を受けた。受講生の中で最も若かった伊藤は兜太の講義の様子を次のように話す。

 「開講当初は男女が半々で受講生が十五人と少なかったので、ひとり一人の作品について丁寧に時間をかけて批評してくれました。受講生の多くが初心者だったせいか、辛辣なコメントは一切なく、その点、先生は割り切っていたのだと思います。講義は終始、冗談一つも出ない真面目な内容で、放談めいたところはありませんでしたが、その頃から話を聞く者を飽きさせない卓越した話術を持っていました」

 受講生が毎回提出した兼題二句と自由作一句については、兜太が赤ペンで添削して返却された。その紙を伊藤はすべてノートに張り付けて大事に保管してある。今となっては現代俳句史として貴重な兜太直筆の記録でもある。兜太は句の出来具合の優劣順に「◎⦿〇P✓」と評価を付けた上で、必要に応じて一口コメントを添えている。

 上の写真は、伊藤に見せてもらった兜太の添削である。その跡に伊藤は兜太の俳句指導の考え方を強く感じるという。決して自分好みの俳句に導くようなことはなく、その意味で受講生一人ひとりの感性を尊重する教師としての兜太。
 当初は毎週金曜日の午前十時半から二時間の講座で、前半の一時間は受講生が事前に提出した句の批評の後、後半は俳句にかかわるテーマに基づいた講義だった。
 講義をメモした伊藤のノートも見せてもらったが、そこには数々の俳人の名前、俳句作品、兜太が評したコメントが事細かに記載され、言葉を拾って見てもレベルの高さが伝わってくる。
 兜太は定例の教室や特別講座としてテーマを掲げた単発の講座も持った。数例のテーマを列挙すれば、「戦後の俳論」、子規「俳諧大要」、「虚実転変の妙」、楸邨句集「颱風眼」、「流れゆくものの俳諧」、「山頭火を読む」、「現代俳句の流れ」、「俳諧史・一茶」など多岐にわたり、講義内容がその後、本として出版されたケースも少なくない。
 昭和五四年六月十五日(金)の日付の兜太の日記(前掲)には次のような記述がある。

 「朝日CCへ。講義で「五七調形式」が俳句の俳句たるゆえん。いま一つ、〈俳句の哲学〉はなにかという求めがあるはずだが、自分はそれを〈俳諧〉から〈自然〉へのみちと考えている、と話す」

 一期生の三十二人の受講生たちが昭和五五年にまとめたアンソロジー「新遊羽しゆう」に兜太は一文を寄せている。兜太調を彷彿させるユニークな文章である。

 「この「朝カル」にて、俳句について駄弁をろうしてまいりました。われながら駄弁でありますが、不思議にも受講の人たちに恵まれて、大過なく打ち過ぎ、あまつさえ、おもいもかけぬ秀作、奇作、珍作の数数に包囲攻撃され、かつ護衛されて、今日にいたりました」

 伊藤は「特に俳句がうまくなろうとも思わなかったが、先生(兜太)の魅力に次第に引き込まれて毎週通うことがリズムになっていた」と振り返る。
 「海原」代表の安西篤は、その著作『金子兜太』(海程新社)の中で兜太とカルチャーセンターの受講生との関係を次のように評している。

 「受講生のふれ合いに、これまでの既成俳人とは異なる新鮮な反応を感じていたようである。(略)彼女らの取組み方は真面目であり、その感性は豊かで、知性も良質であった。なによりも初心者としての素直さがあり、兜太の言うことを「焼け砂に水が吸い込むように」わかってくれたという」

 講義が終わる時間帯は昼食時であったため、次第に一部の受講生たちは新宿住友ビルのレストラン街の店で、兜太と一緒にサンドウイッチや寿司(余談:痛風を患わってからはイクラと卵を抜いたという)をつまむことが多かったという。
 伊藤の話では、兜太が俳壇のエピソードを披露するなど、雑談が多かったという。
 また、俳句総合誌に掲載された兜太に関する記事も話のネタになり、あるときは兜太を批判する記事に触れると、「あの野郎!」と口にしたこともあったという。昼食の時の様子を兜太は「日記」(前掲)の中で時折綴っている。

 「昭和五十七年十月二十三日(金)昼食を婦人たちと。コーヒーも飲む。やはり、なぜ小生が朝日新聞選者になれないのか、という疑問が大きいようだ。林火さん亡きあと、稲畑さん(ホトトギス)がなったことが不満であり、不審ママらしい。そこで、れいのごとく、ジャーナリズム(特に三大新聞)と俳句認識、ジャーナリズムの安全主義などを話す」

 兜太が担当する講座は、三年目からは月三回の入門科のほか、三年目を迎えた受講生が通う月一回の研究科が設けられた。その後、兜太の人気に支えられて、伊藤の話では多い時には研究科は教室いっぱいの七、八十人の受講生が集まるまで膨れ上がったという。
 兜太自身の多忙の影響で平成に入ってからは徐々に講座数が減り、最終的に残ったのは伊藤の通う研究科だけだったという。その研究科も平成二三年九月に兜太の胆管がんの手術を理由に講座休止を知らせる封書が受講生に突然届いたまま二度と開かれることはなく、三十三年間に及ぶ俳句教室の歴史は幕を閉じた。
 一期生で最後まで通い続けた唯一の受講生になった伊藤は今あらためてカルチャーセンターで接した兜太の存在の大きさを思い出すという。

 「俳句の指導者という存在にとどまらず、みんなに平等で飾らないという自然体の人間性が魅力でした。途中で私が「海程」に入会した後も受講生出身であることから、いろいろと気を遣っていただいた優しさをお持ちでした」

 教える立場の兜太が伊藤たちの受講生たちをどう見ていたのか直接語った言葉を知ることができる。海程二十五周年記念の座談会(昭和六二年九月)での発言である。

 「受講者に接して驚いたんだが、海程の集まりで接しているひとたちのかなりの部分よりも知的水準が高いひとたちが結構いるんだな。中高、初老の女性方の中にね。それでおっと思った。(略)カルチャーに接していてやっと衆の姿が見えてきた。それも良質の衆だね。表現というものを正しく求めることが出来る衆というものがわかってきた」(「海程」昭和六二年十二月号)

 私はこの原稿を書き終えた後の八月に新宿住友ビルに足を運んだ。私も大学四年生の時に朝日カルチャーセンターの作文教室に通う受講生の一人だった。今からちょうど四十年前の昭和五五年のことだ。兜太の俳句教室が開かれていた同じ四十八階で、将来へのぼんやりした不安と夢を抱えながら青春時代の一コマを過ごした。当時、今の私と同じ年齢の兜太が「大下水道」と称した地下道を歩いていたことに思いを馳せると、勝手ながら奇縁を感じないではいられなかった。

《本シリーズは随時掲載します》

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